『太平記』(77)

11月23日(月)曇り、時々小雨

 元弘3年(1333年)5月7日の夜に、討幕軍の攻勢を受けて六波羅の2人の探題は、光厳天皇と東宮、2人の上皇を奉じて、六波羅を脱出、関東に落ち延びて再起を図ろうとした。しかしいたるところで野伏たちの襲撃を受け、南探題の北条時益が命を落とし、北探題の北条仲時らは、いったんは窮地を脱したものの、5月9日、近江国番場の峠で亀山院の五宮を大将に担ぐ数千の野伏に行く手を阻まれた。すでに味方の軍勢は500余騎に減っており、一行の後からついてくるはずの近江守護佐々木時信の到着を待って、どこかの城塞に立てこもり、鎌倉からの応援を待とうということになったが、その時信は北探題一行が全滅したという噂を信じて後醍醐天皇方に降伏していた。

 仲時は時信の到着をまだかまだかと待ち受けていたが、その姿を見ることはなく、「さては、時信も早や敵になつてけり。今はいづくへ引つ返し、いづくまでか落つべきなれば、さはやかに腹を切らんずるものを」(第2分冊87-88ページ、さては時信もすでに敵になったか。今はどこへ引き返し、どこまで落ちのびることもできないので、いさぎよく腹を切るほかなさそうだ)と、かえって気持ちが落ち着いて決心を固めたのであった。

 仲時は従ってきた武士たちに、武運が傾いて北条氏の滅亡が近づいていることが分かっていても、武士としての名を重んじ、これまでの幕府からうけた恩義を忘れずに、ついてきてくれたことを感謝し、もはやそれにこたえることはできないのが残念だという。そして自分は平氏(北条)一門の列に連なるものであるので、敵は自分の首を取った手柄として莫大な恩賞をくれるだろう。自分の首を敵に渡し、幕府に仕えていたというこれまでの過去を、あたらしい主君への忠義で補うようにせよという言葉も終わらぬうちに、鎧を脱ぎ、上半身の着衣を脱いで肌を出し、腹をかき切って倒れ伏す。

 これを見て糟屋三郎は、自分のほうが先に自害して、あの世での先払いを務めるべきであると思っていたのに、先に行かれたのは残念である、この世では殿の御最期をお見届しましたが、またあの世で殿をお見捨てするはずはありませんと、仲時が腹を切った時に使った刀をとって自分も腹を切り、仲時の膝に抱き着いてうつぶせに倒れ込む。これに続いて合計で432人のものが同時に腹を切った。
 『太平記』本文には近江番場で自害した六波羅方の武士たちの名が列挙されており、これは岩波文庫版の脚注によると彼らの墓所のある番場蓮花寺の過去帳(陸波羅南北過去帳)の記載とほぼ重なるという。この過去帳は番場の時衆同阿が記したもので、『梅松論』に「彼時同腹切者の名字共を番場の道場に記し置ければ。世のしる所なり」(第20輯、159ページ、岩波文庫版の脚注では「この時の腹切りは、名字等馬場道場に注し置く。世の知る所なり」となっている)とあって、早くからその存在が知られていた。人命列挙は『太平記』の作者が過去帳を見て書き写しているものではないかと推測されている。

 あたりは血の海となり、まるで屠畜場を見るような有様であった。光厳天皇、後伏見・花園の両上皇はこれらの死人たちの有様をご覧になり、「御肝心(おんきもこころ)も御身に添はず、ただあきれてぞ御座(ぎょざ)ありける」(第2分冊、92ページ、気を失わんばかりで、ただ呆然とされていた)。

 そうこうするうちに、五宮の官軍の軍勢が光厳天皇、両上皇を確保し、その日は長光寺(近江八幡市長光寺町にある真言宗寺院)に宿泊させた。三種の神器(皇位継承のしるしである鏡・剣・玉の3種の宝器)、琵琶の名器である玄象(げんじょう)、下濃(すそご)、清涼殿の二間(夜の御殿の東隣りで夜居(よい)の護持僧が伺候する)に安置されていた本尊の観音像まで自ら五宮に渡された。『太平記』の作者は秦の三世皇帝子嬰が漢の高祖(劉邦)に降伏したときの様子にこの有様をなぞらえている。
 玄象は絃上とも書くという説と、玄象と絃上は別物であるという説とがあるらしい。この琵琶は三種の神器に次ぐ宝器とされてきた。『今昔物語集』第24巻第24(玄象の琵琶、鬼の為に取らるる語)に何者かが玄象を盗み出したのを、醍醐天皇の孫で音楽の名手として知られた源博雅が取り戻す話が出てくる(本文にははっきりと「鬼」とは書かれていないで、暗示する形になっている)。三世皇帝子嬰はその後で項羽によって殺されるが、光厳天皇はその後また政治の表舞台に復活する機会を得る。一方、五宮のその後の運命についてはあまりよく知られていない。

 番場宿は東山道の宿場で、江戸時代には中山道の宿場町として栄える。長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公である番場忠太郎はここの出身者ということになっている。私の母は、滋賀県彦根市の出身であったが、かなりの年配になるまで番場に行ったことはなかったようである(実は私も彦根で生まれたのだが、番場には一度も行ったことがない)。彦根と番場は近いようで遠い。母の実家は琵琶湖のすぐ近くにあり、かつての東山道⇒中山道は琵琶湖から離れた所を走っていた。
 長谷川伸は横浜の日ノ出町の近くで育ったと記憶するが、実際に生母と生き別れになり、その体験が『瞼の母』の背景をなしている。別の家に嫁いだ長谷川の母が暮らしていた場所というのが、今、私が住んでいるところの比較的近くらしい。この件については稿を改めて書くつもりである。北条仲時一行の惨劇よりも、『瞼の母』のほうが多くの人々に知られているらしい――ということをどのように考えればよいのだろうか。
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