『太平記』(76)

11月22日(日)曇り

 元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏と千種忠顕・赤松円心らが西と南から京に攻め寄せ、六波羅方の武士たちの中には降参したり逃亡したりするものが相次ぎ、六波羅の二人の探題は糟屋三郎宗秋の進言を受けて光厳天皇、後伏見・花園両上皇、東宮の康仁親王を伴い、関東に落ち延びて再起を図ろうとする。しかし、この一行は六波羅から山科に抜ける苦集滅道(くずめじ)で野伏たちの攻撃を受け、南探題の北条時益が命を落とした。北探題である北条仲時を始めとする一行は野伏の大軍に包囲されて窮地に陥ったが、中吉(なかぎり)弥八の計略で切り抜けることができ、近江の国の篠原の宿にたどりつくことができた。

 そうこうするうちに、六波羅の2人の探題が京都での合戦に負けて、関東へと落ち延びていくことが知れ渡ったので、三宅(滋賀県守山市三宅町)、篠原(野洲市大篠原)、日夏(彦根市日夏町)、大所(おいそ、近江八幡市安土町老蘇)、愛智川(えちがわ、愛知郡愛荘町)、四十九院(犬上郡豊郷町四十九院)、摺針(すりはり、彦根市中山町摺針峠)、番場(米原市番場)、佐目井(さめがい、米原市醒井)、柏原(米原市柏原)、鈴香山の山立(やまだち=山賊)、強盗、あぶれ者(=ならず者)たちが2~3,000人ほど一晩のうちに急ぎ集まって、五辻宮守良(いつつじのみやもりよし)親王が世を捨てられて伊吹山の麓に隠棲されていたのを大将として推戴し、官軍の旗である錦の旗を差し上げて、東山道第一の難所といわれる番場の宿の東の小山の峯一面に群がって、崖の下を通っている細い道に六波羅探題の一行が差し掛かるのを待ち受けていた。

 夜が明けて5月9日、北探題の北条仲時は篠原の宿を出発して、天皇の行幸を山々の重なる奥へとお進めした。都を出てから前日までは2,000余騎の軍勢がつき従っていたが、道中が進む中で離脱するものが少なくなかったためであろうか、この日は700騎に満たない数が従うのみであった。もし後ろから追撃してくるものがいればその攻撃を食い止めるようにと、近江の守護である佐々木(六角)時信とその配下を後ろに残し、賊徒が道を塞ぐことがあれば追い散らすようにと糟屋宗秋に先陣を命じた。

 天子の乗る輿に続いて、糟屋が番場の峠を越えようとすると、数千人の敵が道を中に挟んで、楯を一面につき並べ、矢先をそろえて待ち構えているのが見える。糟屋はその様子を遠くから眺めて、これは近江の国と近国の悪党たちが落人の武器を剥ぎ取ろうとして集まっているのであろう。こちらが手ひどく攻めたてるならば、命を捨ててまで戦うことはよもあるまいと36騎の武士たちを率いて、騎馬で敵を蹴散らそうとする。一番手前で待ち構えていた野伏たち500人余りが、峯の上の方に追い立てられて、次に控えていた軍勢に逃げ加わった。

 糟屋は敵の第一陣をうち破ったことで、今はまさか行く手を遮るものはあるまいと安心して、朝霧が晴れてゆく中、行く手のやあっ道を見渡すというと、錦の旗が強風の中にはためき、5~6,000人の兵が要害を恃んで待ち構えている。糟屋は二陣で待ち構えている敵が予想していたよりもはるかに多かったために圧倒されて、思案に暮れる。第一陣と同じように騎馬で蹴散らそうにも、六波羅方の人馬は最初の戦いで疲れているうえに、敵は険しい坂の上に構えているので、困難に見える。近づいて矢軍(いくさ)にしようと思っても、矢を使い果たしていているうえに、敵は味方の何倍もの大軍である。とにもかくにも通過することはできないと判断して、峠の麓の道端の堂があったので、そこでみな馬を下りて、後続の軍勢を待つことにした。

 仲時は前方で戦闘が起きていると聞いて、馬を急がせてやってきた。糟屋が仲時にいうには、「弓矢取る身の死すべき処にて死なねば、恥を見る事ありと申し習はしたるは理にて候ひけり。われら都にて討死すべう候ひし者が、一日の命を惜しみ、これまで落ちもて来て、今、云ひ甲斐なき田夫野人の手に懸かつて、尸(かばね)を路径の露には曝さん事こそ口惜しく候へ」(第2分冊、86ページ、武士として弓矢を取る身であってみれば、資すべきところで死なずにいると、恥を見ることがあるといわれてきたのはまことに理であった。我々は都において討ち死にすべきであったのが、一日の命を惜しみ、ここまで落ちのびてきて、今、取るに足らない田舎者たちの手に懸かり、死骸を道端の露にさらすことになるのはくやしいかぎりである。) もともと六波羅から関東に落ち延びることを進言したのは糟屋であったので、この言葉には彼の後悔の気持ちが現われている。そして、必死になって戦えばこの弓馬を切り抜けることができるだろうが、敵はここ一カ所だけにいるわけではなく、この後美濃の国では土岐一族が攻撃を仕掛けてくるかもしれず、遠江でも反乱を起こそうとするという噂がある。ここは後からやってくる佐々木時信の軍勢を待って、(佐々木は近江の守護であり、湖南に地盤を持っているので)どこか適当な城を見つけて、籠城して時間を稼ぎ、幕府の軍が上洛してくる時まで待ってはどうかと進言する。仲時もその意見はもっともだといいながら、これまでの事態を見ていると、佐々木も心変わりをするかもしれない。とにかく、彼がやってくるのを待って、決断しようと500余騎の兵が堂の庭で馬を下りて待機することになった。

 佐々木時信は本隊から一里ほど後を500余騎で馬を走らせていたが、どうしたわけであろうか、あるいは悪魔の仕業であったのか、六波羅探題は番場の辻堂で野伏に襲われて、軍勢は全滅したという連絡が入る。そのため時信は、もはやどうしようもなくなって、愛智川から引き返し、後醍醐帝の命令に従って降人となり、京都へ上がってしまった。

 なお、『太平記』の作者は五辻宮守良親王を「先帝(=後醍醐天皇)第五宮」(第2分冊、82ページ)と記しているが、正しくは亀山院の第五皇子だそうである(岩波文庫版の脚注による)。『増鏡』には「伊吹といふほとりにて、なにがしの宮とかや、法師にていましけるが」(講談社学術文庫版『増鏡 下』、365ページ)と記されている。この皇族のことについては『梅松論』は触れておらず、その一方で野伏・悪党の結集については『増鏡』は触れず、『梅松論』は「同国(=近江国)番場の宿の山に先帝の御方と号して近江美濃伊賀伊勢の悪党共旗を上。楯をつきならべて海道をさしふさぎ責戦」(群書類従、第20輯、159ページ)と『太平記』ほど詳しくはないが、彼らの果たした役割について記している。このあたり、それぞれの書物の書き手の意識のありかがよく分かる。

 短期間のうちに野伏たちが結集したのは、自然発生的な動きであったとも考えられるが、誰か背後で彼らを組織する人物がいたと考える見方もある。彼らが伊吹山の麓に集まったことから、この一帯を本拠地とする佐々木(京極)導誉が黒幕だったと推測する意見もあり、吉川英治の『私本太平記』はこの意見をとっていたと記憶する。しかし、野伏・悪党の結集に努めたといえば、大塔宮護良親王の働きも思い浮かぶ。どちらにしても確証は得られそうもない。近江源氏佐々木氏は北に京極、南に六角の2つの家系が勢力を張って、戦国時代まで続くことになる。源氏といっても、この流れは清和天皇にさかのぼるものではなく、宇多天皇を祖とし、一族の中にはこれまでみてきたところでも、鎌倉幕府に忠実な人々と、反旗を翻そうとする人々とがみられる。この点では源氏といっても、清和源氏である足利氏、この後の部分から活躍する同じく新田氏とは大きく異なる。もっとも武家の系図というのは案外あてにできないものであることも付け加えておく必要があるだろう。
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