今野真二『常用漢字の歴史』(4)

11月15日(日)雨が降ったりやんだり、その後晴れ間が広がる

 この書物では、昭和56年(1981年)に制定され、その後2010年(平成22年)に改定された「常用漢字表」だけでなく、日本語の読み書きにおいて日常使用されている漢字の使い方について、歴史的に検討を加え、そこから日本における言語政策の一部である漢字の使い方について国が定めた規則について論評を加えている。序章でこの書物の趣旨「常用漢字とは何か」とこの書物の問題意識を紹介した後、第1章では幕末以後の近代日本における「漢字制限の歴史」をローマ字論や仮名文字論を含めて辿り、第2章「さまざまな常用漢字表」は明治以後の漢字整理案と漢字表について概観している。第2章が主に字種を問題にしているのに対し、第3章「字体をめぐる問題」では標準的なものであるとして示された字体、第4章「音と訓とはどのように決められたか」では同じく漢字の音と訓をめぐる問題が検討されている。
 今回は第5章「常用漢字は常用されてきたか」の前半部分について検討を加える。前回、今回でこの書評を完結させるつもりであると書いたのだが、扱われている問題が現在の問題であること、著者の意見が、政府の言語→国語政策に対してかなり批判的であり、そのためにごくごく慎重に取り扱う必要があると判断したために、完結をさらに先延ばしすることにした。

 第5章では昭和56年(1981年)に制定された「常用漢字表」が、平成17年(2005年)の文部科学大臣諮問に基づいて改定された経緯について触れ、「情報機器の広範な普及」によって漢字の使用をめぐる環境が大きく変化したことを踏まえて、改定の諮問がなされている一方で、「手書自体が大切な文化である」(188ページ)と、あまり実証的な根拠もなしに論じられていることへの違和感が述べられている。「『手書自体が大切な文化』であるならば、これまで手書されてきた膨大な文書、文献を保存し、読める人を増やすなどということがあってもよいはずだが、そのような話は聞いたことがない。いわゆる「変体仮名」を読むことができる人の数はどんどん減り、『康煕字典体』も教育されることはない」(189ページ)という状況が、大臣の諮問の文言と対比的に紹介される。「筆者が大臣諮問や右の言説から感じるのは、過去の文化、過去の言語生活との連続性を大切にするということが明確には述べられていないことだ」(同上)とさらに危惧の念が表明される。

 「当用漢字表」を受けて、昭和31年(1956年)の国語審議会では「同音の漢字による書き換え」というきわめて大胆な提言がなされた。この提言に基づいて「決潰」は「決壊」、「焦躁」は「焦燥」、「悖徳」は「背徳」、「曝露」は「暴露」、「繃帯」は「包帯」と書かれるようになったという。ここではできるだけ字の意味の近い感じを選ぶ配慮がなされており、まずまずの案となっているとはいえるが、制限される漢字に出入りがあるために問題が生じている。「腎臓」の「腎」は当用漢字にも常用漢字にも入っていなかったので、「肝腎」は「肝心」と書くように提言されていたのが、「改定常用漢字表」に「腎」の字が入ったために、「肝心」と「肝腎」が併用されることになった。このように「唯一表記」が施行されてきたのが、「改定常用漢字表」以後、それが揺らいできているように思える。

 もう1つ揺らいでいるのは、「振り仮名の使用」をめぐる問題である。昭和21年(1946年)の「当用漢字表」の「使用上の注意」には「ふりがなは、原則として使わない」とあって、これが原則として働いてきたはずである。ところが「改定常用漢字表」では「ルビ使用」も許容できるとしている。
 これらのことから、著者は「当用漢字表」と「改定常用漢字表」とでは「『理念』として異なることが少なくない」(200ページ)という観察結果を述べる。言語は時代につれて変化するものであるから、これは当然のことかもしれないが、言語→国語政策にはある程度の連続性があってよいのではないかというのが著者の見解である。

 一時期はローマ字論者であり、その後もかなタイプを使用するなど、漢字の使用を極力抑えて、わかりやすい日本語を描くことを主張してきた梅棹忠夫が、ワープロの普及に対して、若干の不満があると述べていたことを思い出す。つまり、難しい漢字を簡単に入力できる技術が開発されたことにより、漢字を制限して分かりやすい日本語を書くという方向への深化にブレーキがかかるのではないかということである。今野さんはそこまでの議論を展開してはいないが、政府の言語政策の推移を注意深く分析していくと、技術の開発に対処すべき理念が欠如しているように思われる(あるいは、「当用漢字」が掲げていた理念を全面的に変更するということであるのかもしれないが、それならばそれを明言すべきである)。そして、「手書」の重視という発言がその教育上の効果についての実証的なデータもないままに、ただ文言としてだけ記されているのも大いに気にかかることである。

 「手書き」ということをいうのであれば、変体仮名について教育の中でどのように扱うかをはっきりすべきであるという今野さんの意見に賛成である。さらに言えば、草書、草かなについても取り上げることが必要ではないか。私の高校時代、というのは昭和30年代の後半、1960年代の初めであるが、私の友人が東京の蕎麦屋に出かけて「かの丼」を注文した。実は「かつ丼」のことだったのだが、変体仮名を知らなかったので、「かの丼」と注文してしまったのである。私にしても、当時も今も「生そば」と「しるこ」くらいは読めるけれども、変体仮名というとお手上げなのである。今では、だいたいの品書きに「かつ丼」と書いてあるのではないか。このように変体仮名を使用しないことで、活字文書も手書文書もわかりやすくなるという側面はあるだろうが、過去の文書とは縁が遠くなっていくという側面もあって、そのあたりを総合的にどのように評価するかが政策の課題となるはずである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR