『太平記』(75)

11月13日(金)晴れたり曇ったり

 足利高氏、千種忠顕、赤松円心らが率いる軍勢が西と南から京に攻め寄せ、六波羅方も防戦に努めたが敗退した。六波羅方には裏切りが相次ぎ、関東へ落ちる決意をした北探題の北条仲時は、北の方と最後の別れを惜しんだ。光厳天皇・東宮(康仁親王)・後伏見院・花園院の両上皇を伴い京を脱出した六波羅探題一行は、六波羅から山科へと抜ける苦集滅道(くずめじ)で野伏に襲われ、南探題の北条時益が命を落とした。逢坂の関の手前でも一行は野伏の攻撃を受けたが、中吉弥八の機転で窮地を脱し、近江の国に入った。

 六波羅探題一行はその日(元弘3年5月8日)、江州篠原の宿にたどりついた。現在の滋賀県野洲市大篠原である。岩波文庫版の第2分冊83ページに近江の国の略図が掲載されているので、それを見るとわかるが草津から東山道を少し東北に行ったところで、1日の行程としてはあまりにも短い。野伏たちの攻撃が激しかったこと、武士たちだけでなく、移動に慣れない貴人たちを伴っての逃避行であることが影響しているのであろう。草津は言うまでもなく東山道(後の中山道)と東海道の分岐点であるが、六波羅探題の一行は東海道ではなく、東山道を東に向かっている。平治の乱で敗れた源義朝が同じ道を通って東国で再起を図ろうとしたことが一行の念頭にあったかどうか。
 「ここにてぞ、あやしげなる網代輿を尋ね出だして、歩立(かちだち)なる武士ども、俄かに駕輿丁の如くになつて、御輿の前後を仕(つかまつ)りける」(第2分冊80ページ、ここで粗末な網代輿=薄い板や竹で編んだ網代で屋形を張った輿を見つけ出して、徒歩の武士たちが、急ごしらえで駕輿丁=貴人の輿を舁(か)く下級役人のようになって、輿の前後でお仕えした)。

 光厳天皇の弟で、天台座主である梶井二品親王(尊胤法親王)は、これまで兄である天皇のお供をされてきたが、道中の行く末が心細く思われたので、一行を離れてどこかに身を隠した方がよさそうだと考えられて、そばに仕える弟子の僧たちに、一行の中に有力な僧侶としては誰がいるかと尋ねられた。すると5月7日の合戦でけがをしたためにお供せずに京に残ったり、あるいは心変わりして一行を去っていったりして、中納言僧都経超(きょうちょう)、二位寺主浄勝(にいのてらじじょうしょう)の2人以外はお供している出世(門跡寺に仕える清僧)、房(坊とも)官(門跡寺の雑務を差配する妻帯僧)は残っていないという。それではなおのこと、長い道のりの旅はできそうもないと考えて、ここから一行と別れて(東海道を)伊勢の方に向かわれることになった。
 ただでさえ山賊の多い鈴香山(現在は鈴鹿山と書く)を、手入れの行き届いた馬に銀で飾った高価な鞍を置いてお乗りになったのでは、山賊に狙われてかえって道中の妨げとなるだろうと、それまで乗っていた馬をみな宿の主人にお与えになった。とはいうものの、法親王は長く裾を引いた長絹の衣に檳榔の葉を裂いた糸で編んだ、裏をつけない草履をお召しになっているし、経超は肌着の上に着る裏付きの黒い着物に、水晶の念珠を手にもち、いかにも高貴な身なりである。そして普段は歩いたことがない貴人が歩こうというのだから見るからに危うい。これではだれが見ても、都を脱出してきた落人だと思わないわけがない。

 ところが比叡山延暦寺の守護神である日吉山王権現のご加護があったのであろうか、道で行き合った山路の木こりや、野辺の草刈りたちが、法親王のお手を引き、お腰を押して、鈴香山をお越えになるのをお助け申し上げた。そして法親王は伊勢の神官であった人を頼られたのであるが、神官は忠義心があり、身に危険が及ぶことも顧みずに、あれこれと梶井宮を隠し置いたので、ここで30日余りを隠れて過ごされ、京都の様子が少し収まったのを見て、都に戻られて、3,4年間は白毫院というところに世を避けた形でお住まいになっていた。岩波文庫版の脚注によると、白毫院は京都市北区紫野の大徳寺総見院のあたりにあった寺ということである。余計な話だが、大徳寺総見院は織田信長の菩提寺である。

 六波羅探題一行は光厳天皇を始めとする貴人たちを警固する形で東に向かっているのだが、『太平記』では一行が篠原にとまったと書かれているのに対して、『梅松論』では観音寺を一夜の皇居としたと書かれていて、一致しない。皇族や貴族たちが六波羅の城館の中に入った際に、西園寺公宗とか、柳原資明はどうしたのかというようなことを以前書いたが、それらのことは『増鏡』に詳しく書かれていることを発見した(発見したというのは表現としてはオーバーだが、蔵書の整理をしていて、ようやく『増鏡』を見つけたのである)。『増鏡』は宮廷に仕える貴族の誰かが書いたものと考えられ、その名前のわからない著者は、あるいはやはり六波羅の城館の中にいたのか、さらには六波羅探題の一行とともに東に向かったのかと想像力を廻らすほどに、慌てふためく貴族たちの様子は『増鏡』に詳しく描きだされている。
 補足的に書いておくと、『増鏡』によれば西園寺公宗は六波羅が陥落した際に天皇に同行せずに北山の自邸(今の金閣寺のあるところ)へと戻り、日野(柳原)資明は兄である資名とともに、天皇に同行した。なお、『増鏡』は資名が足を痛めて東山のあたりにとどまったという説も記しているが、『太平記』と同じく、その後出家したという記事も載せていて、記述の一貫性がない。

 とにかく、六波羅の陥落から、探題一行の逃避行がかなり混乱した状況で行われたことは前後の情報が錯綜していることでも推測できるのである。尊胤法親王の逸話は『増鏡』にも『梅松論』にも取り上げられておらず、『太平記』独自のものであり、そのことがこの物語の性格を考えるうえで一つの手がかりとなるのではないかという気がする。『梅松論』が武士の立場から、『増鏡』が宮廷貴族の立場から書かれているのに対し、『太平記』はよく言えば総合的、悪く言えばごちゃまぜの感じで、その中で宗教色が強いのも特徴と言えるのではなかろうか。その宗教性というのが、神仏が混淆したものであったことも見落とすべきではなかろう。 
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