ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(17-3)

11月12日(木)晴れ後曇り

 ウェルギリウスとともにダンテは煉獄の第4環道に達した。そこでは魂たちが怠惰の罪をつぐなっている。ダンテの問いに答えて、ウェルギリウスは創造主と被造物をつなぐものは愛であり、創造主の愛にどのような愛をもって応えるかは人間の自由意思にゆだねられている。ここでは神に向かう愛の熱意が足りないことが罰せられているのだという。さらに言葉を続けて、
さて、愛はその主体の幸いから
目を背けることが決して出来ぬゆえ、
万物は自身を憎悪することからは守られている。
(258ページ)という。人間は自分自身を憎悪することはないという。例えば、自殺者たちも自分を取り巻く周囲の状況が耐え難いから、自身の救いとして自殺したのだと考えられているのである。

そして、第一者から切り離され、かつ自身だけで己をあらしめる
何らかの存在など、思惟することさえ不可能であるがゆえ、
あらゆる被造物はその方を憎むことからも遠ざけられている。
(同上) 人間は神を憎むことはないという。

残る選択肢だが、私が適切に整理しているならば、
人が愛しうる悪とは隣人に対するそれである。そしてこの
愛は、おまえ達の塵の中で三様に生まれる。
(同上) 「塵」というのは「主なる神は、土の塵で人を形づくり」(「創世記」2.7)という聖書の言葉を受けて、人間の肉体のことをさし、人間の卑小さともろさとを表現している。

 人が愛しうる悪はそれぞれ隣人へと向かう。その第一は高慢である。
隣人が踏みつぶされることにより
自己の優越を望み、ただそのためだけに、
相手がその地位から転落することを熱望する者がいる。
(258-259ページ)
 第二の悪は妬みである。
他人の上昇によって、
権力、恩寵、栄誉、名声を失うことを恐れ、
それを憂えるあまり、逆に相手の失脚を愛する者がいる。
(259ページ)
 第三の悪は怒りである。
また、不正義な仕打ちゆえに激怒した姿を見せ、
その結果として復讐に飢えるあまり、
ついに他人への害悪を企まざるを得なくなる者がいる。
(同上)
 既に、ダンテは煉獄の第一環道で高慢が、第二環道で嫉妬が、第三環道で憤怒がそれぞれ清められていることを見てきた。
この三様の愛が、ここより下方で
涙により贖われている。ここからは、おまえに別の愛を理解してもらいたい。
それは過てる順序であの善へと向かうものだ。
(260ページ)

 人間は神と、神とともにあることの至福を漠然と理解し、それを欲し、その至福にたどりつこうとする。神を愛する熱意に不足があった場合は、ダンテたちがたどりついたばかりの、この第四環道で怠惰の罪を贖うのである。
 そして神のもとにある究極の善である至福以外の、地上の福(善、富、悦び)を過剰に愛した場合、それは<貪欲>、<飽食>、淫乱>の罪となり、ここから上の第五、第六、第七環道で贖われることになるという。
その他の福は人間を幸福にはせぬ。
それは幸福とは違う。それは善の
本質、すなわちあらゆる福の根と実になるものではない。
(260ページ) そしてウェルギリウスは、ダンテが自分の目で見て考えることにより、これらのことを真に理解するように勧める。

 神が善であるのならば、なぜ人間は悪を犯すのかという問いに、ダンテは神の愛と、人間の自由意志の問題を取り上げてこたえようとしている。不完全な人間が自由意志をもって生きていく場合に、さまざまな過誤が生まれる。人間は自分自身と神を愛しているが、それ以外の人間に対しては誤った気持ちを持つことがありうるという。さらに至福とともにある神ではなく、地上の幸福を過剰に愛する場合にも罪が生じるという。
 自由意志の問題は、例えば宗教改革の際に、エラスムスとルターの対立点となったし、その他に様々なところで議論の分岐点となった。その問題を、ダンテが詳しく、また詩的にまとめて取り上げていることは、『神曲』の価値を思想史的に見ても高めるものであろう。
 さて、ダンテとウェルギリウスは第四環道に達したが、まだそこで罪を償っている魂には出逢っていない。第四環道ではどのような出逢いがあるのだろうか。
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