『太平記』(74)

11月6日(金)晴れ

 元弘3年(1333年)5月、足利高氏と千種忠顕・赤松円心らは西と南から京都に攻め寄せ、六波羅探題方の河野通治は、内野で足利軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でも赤松軍が勝利した。六波羅方には裏切りが相次ぎ、関東へ落ちる決心をした北探題の北条仲時は、北の方と最後の別れを惜しんだ。六波羅探題一行は、持明院統の主上(光厳天皇)、東宮(大覚寺統の康仁親王)、後伏見・花園の両上皇を伴って鎌倉へと向かった。

 当時の暦で5月というのは梅雨の季節であり、夜空は雨雲に閉ざされて「五月闇」と呼ばれる暗がりの中を一行は東に向かおうとしたが、六波羅から清水寺の南、小松谷を通り山科へと抜ける苦集滅道(くずめじ)の周りに農民・浮浪民などの武装集団である野伏たちが集まっていて、あちこちから一向に矢を射掛ける。南探題である北条時益はその矢に首の骨を射られて落馬する。探題に六波羅を去って鎌倉で再起を図ることを勧めた糟屋三郎の一族で、同じく時益の家臣であった糟屋七郎が馬から降りて、矢を抜き、助け起こそうとしたのだが、傷は重く、そのまま息を引き取ってしまった。どこに敵がいるかもわからない状況で、主人の仇を討つこともかなわず、人目を忍んでの逃避行なので、仲間たちに知らせて反撃戦をくわだてるわけにもいかない。主従の義を貫くには、自分も主人に殉じるしかないと思い、糟屋は泣く泣く時益の頸を掻き落とし、鎧直垂の袖に包んで、道のかたわらの田の中に深くこれを隠し、腹十文字に掻き切って、主人の死骸の上に覆いかぶさって最期を遂げた。

 天皇の乗り物が山科の四宮河原を通り過ぎようとするところに、「落人の通るぞ。打ち留めて物具剥げ」(第2分冊、76ページ)という声があちこちから聞こえ、矢が雨のように降ってくる。この様子では行く先が思いやられると、東宮である康仁親王を始めとして天皇に従っていた殿上人と公卿たちの多くがあちこちに離散していき、あくまで天皇に随行するのは大納言日野資名(すけな)、中納言勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)、中納言綾小路重賢、参議禅林寺有光だけとなった。「都を一片の暁の雲に隔てて、思ひを万里の東の道に傾けさせ給へば、剣閣の遠き昔も思し召し合はせられ、寿永の秋の比、平家都を落ちて西国の方へ行幸成し奉りしもかくこそと、、叡襟断(た)えて、主上も上皇も御涙更にせきあへ給はす」(第2分冊76-77ページ、都を暁の一片の雲のかなたにしのび、思いを万里の東路にはせると、唐の玄宗皇帝が安禄山の変(755年)を逃れ、長安から蜀へと赴く途中で越えた険難な山である剣閣の道のりが思い合わされ、また寿永2年(1183年)7月に平家が都を落ちて西国の方に行幸したのもまさにこのようだったのと望みも絶えて、天皇も上皇も涙をとどめることがおできにならなかった。)

 梅雨時の五月を迎え、短くなっているはずの夜は明けきらず、逢坂の関(大津市逢坂)のこちら側はまだ暗かったので、杉の木陰に馬をとめて、一行はしばし休息をとった。ところがどこからともなく流れ矢が飛んできて、光厳天皇の肘に命中した。陶山備中守が急いで馬から降りて、矢を抜いて傷の手当てをしたが、流れる血が天皇の白い肌を染めてみるに堪えない様子である。「忝くも万乗の主(あるじ)、いやしき匹夫の矢先に傷められて、神龍忽ちに釣者(ちょうしゃ)の苦(あみ)にかかれること、あさましかりし世の中なり」(第2分冊、77ページ、忝くも天皇が、身分の低いつまらぬものの放った矢に傷ついて、尊貴な人=龍が卑しい者≂釣り人の手にかかるなどということが起きたのは、あさましい世の中になったものである)。

 そうこうするうちに、東の空がようやく明るくなって、朝霧がわずかに残っているとはいうものの、視界が開けてきた。ところが、見渡すと野伏と思しき500~600人ほどの集団が楯を構え、鏃(やじり)をそろえて待ち受けているのが見えた。一行の戦闘にいた中吉(なかぎり)弥八という武士が天皇が鎌倉に向かわれるのであるから、攻撃を控えて通すように言うと、野伏たちはせせら笑って、随行する武士たちが物の具をよこせば通してやらないでもないという。そこで中吉が取れるものならとってみろと馬を進めると野伏たちは逃げて行った。

 いったんは逃げたものの、自分たちのほうが数が多いことに気付いた20人ほどの野伏たちが中吉とその配下の武士6人を取り囲む。中吉は少しもひるむ様子を見せず、野伏たちの棟梁と思しき男と組討ちをしたが、あいにく刀が手元になく危地に陥ったのを、六波羅に宝物を埋めてきたとだまして、一行とともに六波羅に引き返す。戻ってみたものの、六波羅の焼け跡には宝物があるはずもなく、もう誰かが掘り出してしまったといって、野伏たちをごまかした。

 東宮である康仁親王が一行を離れたのは、もともと持明院統と対立する大覚寺統のご出身であり、後醍醐天皇は親王の大叔父にあたられるということで、一縷の望みをかけたのではないかとも思われる。あくまで鎌倉に向かおうとする一行の中では、光厳天皇が矢傷を負われるなど、道のりは多難である。天皇や上皇たちは平家の都落ちの歴史を思い出すのだが、随行する武士たちにはまた別の思いがある。野伏たちを欺いて一行の道を開く中吉の行動は、どことなくユーモラスで、このような狡猾さと笑いの要素は『平家物語』よりも『太平記』に多く見られるものではないかと思う。『平家』と『太平記』の都落ちの場面を対照的にしているのは、「野伏」という新しい存在の登場である。さらにまた木曽義仲の攻撃を受けた平家は都から西に逃げたが、同じ平家の血を引く北条氏は都から東に逃げて、勢力を挽回しようとする。平家は西国に落ち延びて勢力を挽回するのだが、北条氏も同じように勢力を挽回できるだろうか。
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