ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(17-2)

11月5日(木)晴れ

 ウェルギリウスに導かれて、煉獄の第3環道の闇の中で、魂たちが憤怒の罪を浄めているのに出逢ったダンテは、闇を通り抜けたところで天使に示された階段を登って第4環道に達する。既に日は暮れて、階段を登ってきたダンテは疲れて足を動かすことができない。休息しながら、ダンテは、この環道ではどのような罪が清められているのかをウェルギリウスに問う。

 ウェルギリウスは、
・・・「善への愛である。しかしあるべきほどには
至らぬため、それがここ、この場所で償われている。
ここではかつての悪しき緩慢の櫂が激しく漕がれるのだ。」
(256ページ) 第4環道では前への愛の不足、すなわち怠惰が償われているという。そして、ここまでの旅路で旅の全貌を理解する能力が備わってきたダンテに向かい、ウェルギリウスは煉獄全体の構造をそれぞれの環道がどのように人間の罪と関連しているかを説明する。

創造主も、被造物も決して、
・・・、愛なしであった例(ためし)はない。
それが本性のものであれ、心が選んだものであれ。…
(同上) 創造主と被造物とをつなぐものは愛である。「本性の」とは本能として備わっているもの。「心が選んだ」とは人間の魂に備わる自由意志と理性・知性による選択を示す。また被造物の中で自由意志の備わった魂をもつのは人間だけである。

 ウェルギリウスはさらに説明を続ける。
本性のものはいつでも誤ることはない。
だがもう一方は、悪しき対象ゆえに、
あるいは程度の過剰ゆえ、または程度の不足ゆえに誤る可能性がある。
(256-257ページ) 「本性の」愛も、「心が選んだ」愛も本来的な対象は神のもとにある至福であるが、<理性が選ぶ>愛が対象を誤る可能性はある。

その愛は、正しく第一の善に向き、
そして種々の二次的な善において節度を保っている限り、
悪しき悦びの原因になりようはない。
(257ページ) 愛が「第一の善」である神に向いていれば、「二次的な善」である地上的な福(善、富、悦び)にも節度を保って向く分には問題ないという。特に禁欲的な生き方を勧めていないことが注目される。

しかし悪へと逸れる場合、あるいは度を越して過剰な場合、
または不足な熱意で第一の善へと走る場合には、
被造物は創造主に対する離反を犯している。
(同上) 愛が「二次的な善」である地上的な福(善、富、悦び)ゆえに、悪へと向かう場合は、<高慢><嫉妬><憤怒>の罪が生まれる。<高慢>が第1環道で、<嫉妬>が第2環道で、<憤怒>が第3環道でそれぞれ償われているのをダンテは目にしてきた。また愛が地上的な福に過剰に傾倒する場合には、<貪欲><飽食><淫乱>の罪が生まれるという。これらについては、煉獄のさらに上の方で償われているのを見ることになるだろう。さらに「不足な熱意」を抱いて善を行おうとする場合は、<怠惰>の罪を犯したものとして、この第4環道で罪を償うことになる。

このことからおまえにも理解できるであろう。
おまえ達の中で愛はあらゆる徳の、
そして罰に値するあらゆる行いの種に、必然的になるのである。
(258ページ)

 第17歌は100歌からなる『神曲』の51歌目、また33歌からなる『煉獄篇』のちょうど真ん中の篇であり、またここでダンテが目撃している第4環道は煉獄の7つある環道の真ん中にあたる。ここで『神曲』の軸となる原理「愛」について歌われているのは意味のあることのはずである。(もちろん、「愛」と言っても、創造主=神への愛であって、世俗的な愛ではない。) それで、この17歌は丁寧に読んでいく必要があると思い、残る部分は、次回に残して、この17歌は3回に分けて取り組んでいくことにしたい。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR