『太平記』(73)

11月3日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)、5月7日、丹波国篠村で挙兵した足利高氏の軍勢は都の西南に陣営を構えた千種忠顕、赤松円心の軍勢と呼応して都に攻め入り、六波羅探題方の河野通治は、内野で足利軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でも、六波羅方は数的には優勢であったにもかかわらず、士気振るわず離脱者が相次いで敗退した。

 六波羅の南探題であった北条時益の被官である糟屋三郎宗秋が北探題北条仲時と南探題北条時益の前に出て次のように述べた。「味方の軍勢の中から離脱するものが次第に多くなって、今は六波羅の城塞の中に立てこもっているものが千騎に足りない有様である。これだけの軍勢で敵の大軍を防ぐことは、もはや不可能に思われる。東の方面を敵兵は明けているので、天皇、上皇をお連れして、関東に下り、あらためて大軍を率いて京都を攻めるべきである。近江の守護である佐々木(六角)時信が勢多橋を警固しているのを軍勢に引き入れれば、なんとか数も揃うであろう。また時信が軍勢に加わっていることを知れば、近江の国では手向かってくるものはないはずである。美濃、尾張、三河、遠江には幕府に反抗するものがあるという噂を聞いていないので、道中はきっと安全であろう。鎌倉に到着されれば、すぐに逆徒を退治する兵を組織され、反攻されるべきです。早く決心してください。『これ程の浅まなる平城に、主上、上皇をこめまゐらせて、名将、匹夫の鋒(きつさき)に名を失はせ給はん事、口惜しかるべきことにて候はずや』」(第2分冊70-71ページ、このように防御の弱い平地の城で、天皇、上皇を滞在させ、名のある武将がつまらない兵に討たれて名を失うことは、悔しいことではないでしょうか。)

 このように糟屋が強く申し上げたので、両探題もその通りだと思ったのか、それではまず身分のある女性、それからその他の女性を城から落ち延びさせようと話しをまとめ、その由を天皇、上皇の方に伝えた。そこで国母である西園寺寧子をはじめ、皇后、女院、摂関家の奥方たち、天皇に仕える女官たちが慌てて逃げ出していく。「ただ金谷園(きんこくえん)の春の花、一朝の嵐に誘はれて、四方の霞に散り行きし、昔の夢に異ならず」(71ページ。中国の西晋時代の富豪石崇は洛陽の郊外に金谷園という別荘を営んで豪奢な生活を送っていたが、やがてほろんだという故事を思わせる。春の花が朝の嵐に出会って、春霞の中に散っていった昔の物語を再現するものである。)

 既に述べたように討幕軍が東の方を包囲していなかったのは、それなりの計略を胸に秘めてのことである。孫子の兵法に一方向だけ逃げ道を作っておけば、包囲されている軍勢はそちらの方に気が散って、防御に全力を尽くすことはできないとある。六波羅方にしても兵法の知識はあっただろうが、大軍に包囲されてしまうとなかなか冷静な判断はしにくくなる。必死で交戦したうえで、政治的な妥協に持ち込むという戦法もあったはずである。
 糟屋は第3巻に六波羅探題の検断の1人として名が出てきた。現在の神奈川県伊勢原市粕屋の武士である。この段階で既に糟屋の発言も手遅れになっていることが、この後の展開で分る。武士の家族である女性たちが六波羅の城塞の中にいるのは理解できるが、非戦闘員である公家たちやその家族が入っているのはどうかと思う。もちろん、後醍醐天皇に気脈を通じる公家たちは城塞の中に入っていなかったのだろうが、持明院統に近い公家たちや大覚寺統出身の東宮である康仁親王やその側近の人たちは独自の動きをしてもよかったのではないかという気がする。

 北探題である越後守北条仲時は北の方を落ち延びさせる。子どもの松寿を同行させ、若し関東に無事に到着すれば迎えをよこすが、途中で戦死すれば、出家させて自分の後生を弔わせてほしいなどと泣きながら言い渡す。北の方は、頼りにする人もいないこの世に、ほんの少しの間でもあなたに棄てられて、生きて生ける心地はしませんと嘆き悲しむ。 
 ここで『太平記』の作者は自分の学識をひけらかしたいのか、漢の劉邦の大軍に包囲された楚の項羽が「力は山を抜き、気は世を蓋ふ」という詩を詠んだ故事を引き合いに出す。先の金谷園についてもそうだが、どうも場違いという感じがしてならない。どう考えても、仲時は項羽を引き合いに出すほどの豪傑ではなさそうである。

 北探題である仲時が奥方と別れを惜しんでいるうちに、南探題である左近将監時益は天皇の関東への下向の先導役として馬を進めていたが、仲時にもはや猶予はならないと急き立てる。馬を進める道すがら、妻子の泣き叫ぶ声がいつまでも仲時の耳に残る。これが最後の別れになるとは、お互いに知る由もなかった。そして、あとを振り向くと六波羅の城館は火の海になっていた。

 講釈師、見てきたような嘘をつきという川柳があるが、糟屋が関東に下向することを進言する場面は誰が目撃し、その発言を誰が記録したのであろうか。あるいは『太平記』の作者が、想像で描いたのであろうか。それとも、その場面を目撃した誰かが、生き延びて何がしかの記録を残したのであろうか。『太平記』は歴史的な事実をもとにした軍記物語ではあるが、ところどころに想像を交えた虚構や、事実の誤認がみられ、慎重に見ていく必要がある。『太平記』の作者が和漢の故事をやたら持ち出す癖にも気をつけるべきではないかと思う。
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