ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(17‐1)

10月30日(金)曇り

思い出してみてほしい、読者よ、山々の中で、
もぐらのまぶたと同然に物を見えなくする霧に
思いがけず包まれたことがあるならば、

重く湿った蒸気が散りはじめた時に、
太陽の円い光がどれほど
弱々しくその中に射し込んでくるのかを。

そうすれば君の想像力は、いかにして私が
太陽を再び目にしはじめたかを見ることに
軽々と成功するであろう。それはすでに沈みつつあった。
(248ページ) 第15歌でダンテとウェルギリウスは煉獄の第3環道にたどりつく。1300年4月11日の午後のことである。第3環道では魂たちが憤怒の罪を贖っている。第16歌に描かれているように、そこでは知性を象徴する光が奪われ、ダンテたちは闇の中を進まなければならなかった。しかし、その闇が次第に薄れて、太陽の光が届くようになるが、すでに日没に近づいていたことを第17歌の歌いだしの部分は述べている。闇の中のダンテを導くのは理性の象徴であるウェルギリウスであり、太陽は神の真理を表すものである。また、中世にはもぐらの目は皮膚に覆われているとされていた。実際にはそうではない。ダンテは読者が自分の経験から詩人の経験を想像するように歌いながら、近代の経験科学者のようには自分の身の回りの事物を観察していないのである。

 この後、神はダンテに「怒り」の罪を解き明かすため日の光を与えた。それはダンテの知性に触れて、その中で予言の夢のように像を結び、その幻像の中にギリシャ神話のプロクネー、聖書の義人モルデカイ、ローマ建国神話のラウィーニアが現われた。それぞれ怒りに任せた行為が本人と周囲の人物に不幸をもたらすことを示す物語である。ダンテが幻視の意味を考えていると、強い光が差してきて、彼の考えを遮る。

 ようやく闇から脱したダンテは、自分がどこにいるのかを見極めようとあたりを窺うが、その時「ここから登るがよい」(252ページ)という声が聞こえる。
その声は私から他への注目を一切奪うと、

話している方をよく見るように
私の欲望を激しく掻き立てた。
それはかの方と直に対面しない限り鎮まることはないが。
(252ページ) 声の主は2人にこれから進むべき道を指し示そうとする天使であった。ダンテはその天使の姿を見ようとする。『神曲』の旅も半分を越えて、多くの罪を浄めたダンテには神と直接に対話しようとする気持ちが大きくなってきている。しかし、ダンテの視力ではまだ天使の姿を見ることはできない。ウェルギリウスは天使の言葉に従って、まだ太陽の光が残っているうちにできるだけ前に進むことを勧める。

我が導き手はこうおっしゃり、私は彼とともに
私たちの歩を階段に向けて進めた。
すると、私が一段登ったそのとたん、

私のすぐそばで翼が一打ちされたのを感じた。
そして私の顔に風をそよがせながら、おっしゃるのを聞いた、「幸いなるかな、
平和な人々は。悪しき怒りなしにある」。

すでに、後ろには夜が続く最後の光線が
私達のはるか上の高みに届き、
星々はあちこちに現れていた。(254ページ) 

 「幸いなるかな、…」は新約聖書の「マタイによる福音書」(5.9)<山上の説教>からの引用である。登るにつれて、ダンテは自分の足取りが重くなってくるのを感じ、それでも階段がこれ以上は登っていないと思われる場所までたどり着いた。そこが第4環道の一部であるかどうかを確信できず、不安に駆られる。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR