『太平記』(72)

10月27日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏と千種忠顕、赤松円心らは西と南から京都に攻め寄せ、六波羅探題方の河野通治は京都の北の旧内裏の一帯で足利勢を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でも妻鹿孫三郎の活躍で赤松軍が勝利した。

 前線での戦いに敗れ、味方の被害が大きいということで幕府軍は六波羅の城に立て籠もろうとする。討幕軍は勝ちに乗じて六波羅勢を追い、5万余騎が六波羅を五条の橋爪から七条河原まで密集して、ほとんど隙間なく包囲したが、東の方角だけはわざとあけて、敵の逃げ道を作っていた。こうすれば容易に六波羅の城を陥落させられるだろうという謀略のためである。

 寄せ手の指揮をとっている千種頭中将忠顕は、城塞の一般的な攻防戦のように六波羅をゆっくりと攻めていると、千剣刃城の楠正成を包囲している幕府方の軍勢が戻ってきて、われわれの背後をつくかもしれない。ここは気持ちを一つにして、一気に攻め落とせと下知する。これはまったく正しい戦法で、第8巻で児島高徳にその臆病さを非難された忠顕であるが、味方に勢いが出てくると、いうことが違ってくるようである。この指示を受けて忠顕に従って出雲、伯耆からやってきた兵士たちが荷運びの車を200台、300台と集めて、その轅(車を引くために、車軸から伸ばした2本の棒)を結び付けてさらにその上に民家を壊して載せ、城塞の櫓の下に材木を山と積んで火をつけて、六波羅の城の木戸の1つを焼き破った。

 このように包囲された六波羅勢の中で、光厳天皇の弟君である天台座主梶井宮尊胤法親王の配下の僧兵たち300人余りが、鎧兜を身につけて(六波羅蜜寺の)地蔵堂の北の門から五条の橋爪へと攻撃を仕掛けた。後醍醐天皇の側近である坊門雅忠、大塔宮の執事である二条良忠の率いる3,000騎を超す軍勢を押しまくり、鴨川の河原を3町(約300メートル)ほど追い回したが、御方の小勢を自覚して深追いはせずに、六波羅の城塞の中に戻っていった。

 包囲する側に比べて、六波羅に立てこもる軍勢は少なくなっているとはいうもののまだその数は5万騎を越えていた。若し籠城軍が足並みをそろえて反撃すれば、まだ形勢を逆転する機会はあったはずであるが、「武家の滅ぶべき運の極みにてやありけん」(第2分冊、69ページ)、日ごろ武勇に名をはせた武士たちもなぜかただ茫然として、あちこちに群がり立ち、逃げ支度をするばかりで、気勢も上がらなかった。

 「名を惜しみ、家を重んずる武士どもだにもかくの如し」(同上)。武士たちが浮足立って、逃げ支度をしているのだから、光厳天皇と、後伏見、花園の両上皇を始めとして、女院、摂関家の女性たち、貴族たちやその侍者たちまで、これまで先頭を見聞したことはない人々なので、武士たちの鬨の声や、矢叫びの声を聞いて、おびえきってしまい、どうすればいいのだろうと消え入るばかりの様子であった。その様子を見て、彼らが頼りにすべき六波羅の2人の探題は、ますます士気を衰えさせるのであった。このように城中が浮足立ってしまったので、夜になると、閉ざされていた木戸を開き、敵から城砦を守るために組んでいた逆茂木を乗り越えて、逃げ出すものが後を絶たなかった。自らの武名を重んじ、あくまで幕府のために戦おうと城塞の中に残る武士は1,000騎にも満たない様子であった。

 六波羅に天皇や両上皇を迎えるというのは最初は日野資名・(柳原)資明兄弟の考えであったのだが、これが必ずしも安全な策ではなくなってきた。資名は光厳天皇に近侍しつづけているが、『太平記』のこのあたりの部分には資明は出てこない。あるいは別の場所で、新たな策を練っていたのかもしれない。吉川英治が『私本太平記』で示唆しているように、六波羅をめぐる動きとは別に西園寺家のような鎌倉幕府に近い貴族は独自に自衛体制を築いていたと考えるべきで、光厳天皇や両上皇も、もう少し別の動き方を考えてもよかったのではないかと思われる。いずれにせよ、六波羅の滅亡は旦夕に迫っている。
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