父の思い出を辿る

10月26日(月)晴れ

 私の父は、もう亡くなってから久しいが、1915年10月26日生まれなので、生きていれば100歳になる。

 「父の思い出を辿る」という表題はあいまいで、さまざまに受け取られそうであるが、ここでは父が私に語った思い出話の中で、父の周辺にいた有名人についての思い出を、辿ってみようと思う。思い出話というのは不正確なものだが、有名人についてはある程度の正確さをもってその言動を確認できる。有名人にこだわるのはそういうわけからである。

 小学校時代に関東大震災に出会い、家が焼失して三井財閥の誰かの邸宅の植木小屋に住んでいたことがあるらしい。三井家というのはいろいろ分家があったようだが、とにかくその中のどこかに私の祖父が世話になっていたようである。この時、ごみを捨てに出かけたら、タヌキを見かけて大騒ぎになったという話をよくしていた。近頃、東京のかなり都心の方でもタヌキが出るという話を聞くが、大正時代からしぶとく生き延びてきたようである。
 父は次男であった。その兄である私の伯父がなかなかの秀才で、府立四中(現在の東京都立戸山高校)に入学したが、その厳しい校風についていけず、立教中学にかわり、一時期体調を悪くしたりしたが、東京商大(現在の一橋大学)に進学して、外務省に入省したが、やめて満州にわたり、終戦直後に没した。父は、その伯父の跡をなぞって立教中学に進んだ。そこでエドワード・ガントレット(Edward Gauntlett, 1868-1956)に英語を学んだという話をよくしていた。ガントレットの妻は山田耕筰の姉ガントレット恒である。また英語の先生の中に千葉周作の孫がいたという話も聞いたことがあるが、これは確かではない。

 その後、慶應義塾大学に進んだ。慶応閥の大企業に入社しようという計画を持っていたためであると生前よく話していた。計画性があるといえばあるが、あまり大した計画性ではないと、父親に似ずまったく計画性がない息子は思う。食堂で帽子をかぶったまま食事をしていて、小泉信三に「帽子をとりたまえ」と注意されたのが、小泉と口をきいた唯一の機会であると話していた。あまり自慢できる話ではない。
 大学ではマンドリン・クラブに入部して活動した。クラブで一緒だったのが後にフルート奏者として有名になる吉田雅夫(1915-2003)でその後も連絡は保っていたらしい。また作家の堀田善衛(1918-1998)もマンドリン・クラブの部員で面識があったようである。
 そのほか、箱根駅伝に出場するという話もあったらしい。とにかく現在と違って陸上競技経験者でなくても20キロほどの距離を走れる学生ならば誰でもよいと、かり集めて出場するという時代であったのだが、走ってみるとほかの学生が自分よりも速く走るので、劣等感を感じていたところ、慶應が関東学連を脱退したため、走らずに済んだという。調べてみると、父が在学していたのは昭和8年(1933年)から14年(1939年)までの間であるが、13年と14年は確かに慶応は箱根駅伝に出場していない。なお、1934年に慶応は総合3位、35年も3位、36年は4位と上位の成績を収めているが、この時期には菅沼俊哉とか竹中正一郎のような名選手がいた。なお、この時期の早稲田には後に早稲田大学、SB食品の監督として瀬古俊彦らの選手を指導した中村清がいた。
 それで思い出すのは、俳優として、また競歩の選手として活躍した細川俊夫(1916-1985)と面識があったらしいことで、都電に乗っていたら、細川が明治神宮外苑で競歩の練習をしている姿を見たと話していたことがある。細川はもともと陸上長距離の選手だったのだが、あるマラソン大会で走っていて腹が減ってどうにも我慢ができなくなり、競歩の方が腹が減らないだろうと競歩に転校したという話を読んだことがある。何年か前に国立近代美術館フィルムセンターで石井輝男監督の『黒線地帯』を見ていたら、主人公の天地茂のライバルとなる新聞記者役で細川俊夫が出ていて、物語の進行とは全く別に、懐かしく思ったりした。(私の子どものころの横浜の町の様子が出てくるので、懐かしかったという部分もある。)
 これもスポーツと関連するが、大学時代の親友の1人がベルリン・オリンピックの棒高跳びで3位になった大江季雄(1914-1941)であったという話も聞いた。

 慶応出身の作家の1人である柴田錬三郎(1917-1978)によると、この頃、慶應の学生は田町の駅を降りてからまっすぐに大学に向かわずに、筑前琵琶の大家であった高峰筑風の家の前を通って登校するものが多かった。筑風の令嬢の高峰三枝子(1918-1990)が家の前で掃除をしている姿を見たいからであったという。父はこの話を否定して、自分の学生時代には、すでに高峰は女優になっていて、時々慶応にも遊びに来ていた、その頃の大学は男ばかりだったからよく目立ったというのだが、どちらが正しいかすぐには決めがたい。
 高峰三枝子というと、私の大学時代の恩師の1人が学生とのコンパの際に、この歌はあまり歌わないのだがと言われながら、高峰の戦時下のヒット曲「湖畔の宿」を歌われたことがあるのを思い出す。その先生と高峰三枝子は8歳ほどの年齢差があったが、戦時下の厭戦気分を共有したという点では同じ世代を生きたといえるのであろう。それと対比してみると、私と松坂慶子さんの年齢差は7歳であるが、別に何かの気分を共有するという感じがまったくないのは、いいことか悪いことかわからない。
 その先生や私の父親、伯父たちの世代は働き盛りに戦争に巻き込まれて、本来ならばできるはずの社会的な活動ができなかったし、人生の楽しさを十分に享受できなかったのだが、ひるがえって戦後の平和の中で生きてきた自分はどうだったか、全力を尽くして生きてきたかと思うと内心、忸怩たるものがないわけではない。
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