松尾義之『日本語の科学が世界を変える』

10月24日(土)晴れ

 10月23日、松尾義之『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)を読み終える。今年の初めに刊行された書物で、私が買ったのは第4刷である。そのくらい反響の大きかった書物を読まずに見過ごしていたというのは、われながらみっともないと思う。よく読まれ、大きな反響を読んだ書物を読まずにいるというのは、読書人にありがちなことではあるが、自分の専門に関係する領域の書物ならば、のんきなことをいってはいられないのである。

 この書物の主題は、(英語ではなく)日本語で考えた科学者たちの研究が、世界を変えるような多くの研究成果を生み出しているということである。著者の主張は書物の表題にほぼ要約されており、書物を構成するそれぞれの章の内容も見出しの通りで、きわめてわかりやすい。この書物よりも出版されたのは後になるが、私が読んだのは先になる施光恒『英語化は愚民化』(集英社新書)もこの書物と重なる部分が大きく、(台湾で生まれて日本語で高等教育を受けた著者の発言として)日本語の科学研究における適切性(といっていいのかどうかはわからないが)を実証することで、この書物の主張を補強しているといえるだろう。

 この書物の重要性は、科学研究における言語の問題を様々な角度から考察していることにある。著者は理科系の大学の卒業者で、長年科学ジャーナリストとして活躍してきた経験を踏まえて議論を展開している。
 第1章「西欧文明を母国語で取り込んだ日本」では日本人が欧米の科学の成果を日本語に翻訳して科学研究を行ったことが日本における科学研究の隆盛を招いたと論じている。(数学や理科の授業は英語で行っている国が少なくないが、そのような国々では、すぐれた科学研究が展開されているとは言えないというのである。)
 第2章「日本人の科学は言葉から」では欧米の科学用語が日本語に翻訳され、その苦労を通じて日本人が科学的な概念を自分のものとしてきたことが述べられている。ここでは幕末維新期の日本の知識人たちが、漢語を用いて欧米の科学用語を日本語化したことの意義が強調されている。
 第3章「日本語への翻訳は永遠に続く」では著者の経験を踏まえて、日本人の科学研究は日本語によって行われており、そのために海外の成果が常に日本語に翻訳されなければならないが、そのことが新たな研究の可能性を開拓していることが論じられている。
 第4章「英国文化とネイチャー誌」は、著者と英国の「科学論文誌」である『ネイチャー』誌との関係を紹介しながら、日本には日本語の科学体系があり、英語では説明しきれない部分もあることなどが主張されている。
 第5章「日本語は非論理的か?」では非論理的であるどころか、独特の論理を持ち、科学研究を進めていくうえでその独自性を役立てることができると論じられている。ここは科学の哲学と方法論を踏まえながら、もう少し立ち入った議論を展開してほしい個所であり、日本語の構造と日本の伝統的な文化のどちらがこの際重要かについての考察も必要であろうと思う。
 第6章「日本語の感覚は世界的発見を導く」では「日本語でなされた思考作業によって、世界的な成果がなされた」事例として、中間子論と中立説を取り上げ、日本語による研究の意義を強調している。
 第7章「非キリスト教文化や東洋というメリット」では日本人が欧米とは全く異なる視点を持つことによって、科学の世界でも独自の着眼点をもって研究を進めていることの利点を論じている。
 第8章「西澤潤一博士と東北大学」では、東北大学の西澤潤一教授の多岐にわたる業績を紹介し、「日本語は、工学や技術を進めるうえで、メリットを持った言語かもしれない」(183ページ)という仮説を展開している。
 第9章「ノーベル・アシスト賞」では、日本ではノーベル賞受賞に至る研究をアシストするような研究が多く行われてきたという事実が、列挙されている。
 第10章「だから日本語の科学はおもしろい」では日本語によって表現された科学的な概念が新しい科学の展開の可能性を秘めているということが列挙されている。それは日本だけでなく、世界の科学の発展に役立つものではないかと論じられている。

 以上、かなり羅列的ではあるが、日本の科学者たちが日本語で思考することによって積み重ねてきた科学的成果の世界的な意義について論じている。注目すべき点は、日本語の表記が(そしてそれに引きずられた日本人の思考が)表意文字である漢字の長所に影響されて直観力に優れているという指摘ではなかろうか。他のところでも論じたが、日本語の表記上の特徴は表音文字であるかなと、表意文字である(とも言い切れないが)漢字とをそれぞれの特徴を生かしながら巧みに使いこなしていることであり、これは実は古代のメソポタミア文明やエジプト文明の表記法にもみられる特徴なのである。表音文字であるアルファベットのみを使用して、ギリシア・ローマ以後の文明は発展したのだが、その結果として忘れられたものもあるのではないだろうか。日本語がかなと漢字を併用しているのは、それなりの歴史的な背景があるのだが、その意義を改めて見直してみる必要があるのではないかと思っている。もちろん、松尾さんが指摘するような「実学」に代表される日本の学問的な伝統や、もっと広い文化、生活の中で生かされてきた技術に目を向ける必要もあるだろう。
 著者の主張のすべてに賛同することはできないけれども、大いに示唆に富む書物である。 
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