『太平記』(70)

10月17日(土)曇り、朝のうちは雨が降っていたかもしれない。

 元弘3年(1333年)、北条高時から上洛の命を受けた足利高氏は、その催促が礼を失したものであることに怒り、幕府への謀叛の決意を固めた。京についた高氏は伯耆の船上山の後醍醐天皇に使いを送り、朝敵追討の綸旨を得た。4月27日、名越高家と足利高氏の幕府軍は、八幡・山崎の後醍醐方の討伐に向かったが、大手の大将であった名越は、久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将高氏はこの戦闘に加わらず、大江山を越え、丹波の篠村に入り、倒幕の意思を明らかにすると、近国の兵が集まってみる見る軍勢は膨れ上がった。5月7日に篠村を出発、篠村八幡に願文を納め、戦勝を祈ると、大江山を越える際に白旗の上につがいのハトが飛んできて道を案内するかのごとくに飛び、神祇官の跡地にあった樗の木にとまったので、一行はこれを吉兆としてますます戦意を高めた。(欧米ではハトは平和の象徴とされるが、日本では弓矢の神である八幡神の使いとされる。)

 一方、六波羅では味方の兵力6万余騎を3つに分けて、そのうちの1つを都の北の方の神祇官の跡地のあたりに控えさせ、足利高氏の軍勢に備えた。またもう1つを南の方の東寺のあたりに差し向けて、千種忠顕の率いる軍勢が竹田、伏見の方面から攻めてくるのに備えた。巳の刻(午前10時頃)から大手、搦手ともに戦闘が始められ、市中が戦塵に包まれ、鬨の声があちこちに聞こえ渡った。

 北の方面の旧大内裏の一帯にはこれまでも都の防衛戦で活躍してきた陶山次郎と河野九郎左衛門通治を始め、選りすぐりの勇士2万余騎を派遣した。足利方も彼らの武勇を承知しているため、そう簡単には攻撃を仕掛けられず、両陣営ともにらみ合いながら、しばらくは矢軍(やいくさ)が続いた。足利方は5万余騎、六波羅方は2万余騎なので、両者が正面衝突すれば勝敗は明らかであるが、これまでの経過からもわかるように、京都は家が建てこんで道が狭いため、前線で戦う兵力は限られ、それぞれの陣営が前線の兵力を入れ替えながら戦うことになる。したがって、必ずしも兵力が少ないからと言って不利にはならなかったのである。

 そのうち、足利側から一人の武者が出て一騎打ちの勝負を挑む。尊氏の領地である三河国設楽郡(愛知県北設楽郡設楽町)の武士設楽五郎左衛門尉である。すると、六波羅方の方からも一人の老いた武者が進み出る。藤原利仁の末孫で斎藤伊予房玄基であると名乗る。(藤原利仁は芥川の「芋粥」の原作となった『今昔物語』の説話の主人公の1人で、『平家物語』に登場する斎藤実盛も彼の子孫である。) 設楽は斎藤を組み伏せるその首をとろうとするが、斎藤も設楽をしたから突き刺し、二人は相打ちになる。(老いた武者である斎藤の姿は、『平家』の斎藤実盛の姿を思い出させるものであるが、実盛の死に方が劇的に描かれているのに対し、玄基の方はリアルに描かれている。)

 また、足利方から大高次郎重成という武士が現われて、「先日度々(どど)の合戦に高名したりと聞こえたる陶山備中守、河野対馬守はおはせぬか。出で合ひ給へ」(第2分冊、62ページ)と陶山、河野を名指して戦いを挑む。陶山は南の方面からの敵勢が手ごわいというので、東寺の方に赴いていて、その場にいたのは河野だけであったが、もともと血気にはやって突進する武者なので、ここで躊躇するわけがなく、進んで挑戦に応じようとした。
 これを見て河野の甥でその養子になっていた七郎通遠という今年16歳になる若武者が、父を討たせまいと思ったのであろうか、真っ先に大高の前に出て組み付こうとする。大高は河野七郎の鎧の上巻(あげまき=飾り紐)をつかんでその体を持ち上げ、こんな小者とは勝負するまいと押しのけようとしたが、鎧の笠じるしには傍折敷(そばおしき)に三という文字が書かれている(河野の紋である)。これも河野一族のものかと、片手で持った刀を振り下ろして両膝をすっぱりと切って落とし、そのまま投げ飛ばした。(誇張があるにしても、力の差が歴然としている。) 養子であるとはいえ、自分がかわいがっていた若者を殺されて怒った河野は、自分の率いる武士たちとともに大高に襲い掛かる。これを見て足利方の武士たちも戦闘に加わる。両者ともに不利になると後退し、後に控えている別の軍勢と後退して戦闘を続ける。「一条、二条を東西へ追つつ返しつ、七、八度が程ぞ揉(も)うだりける」(第2分冊、64ページ、一条通、二条通を東西に一進一退の攻防が続き、7,8度ほど激しく戦った。) どちらが豪胆で、どちらが臆病ということで優劣はつけがたかったが、源氏(足利方)の方が兵力が多かったので、次第に平氏(六波羅方)は後退し、六波羅の方に戻ってゆく。

 こうして都の北の方面の戦闘は高氏の率いる討幕軍が勝利を収めたが、南の方面での戦闘はどうなったか。それはまた次回。
 北の方面での戦闘を見ると、設楽、大高という尊氏の家臣たちが前線に出て戦っており、高氏麾下の将兵たちの士気の高さがうかがわれる。これまで六波羅を攻撃してきたのは主に西国の武士たちで、東国の武士を多く集め、騎馬戦に長じている六波羅方はその特色を生かして防戦してきたのが、足利方は東国の武士が多く含まれているので、これまで以上に手ごわい相手となっていることが分かる。
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