『太平記』(69)

10月13日(火)晴れ

 元弘3年(1333年)4月16日に京都に到着した足利高氏は鎌倉幕府から、京都の防御を固め、後醍醐天皇を奉じて伯耆の国の船上山に立てこもっている軍勢を討伐するように指示されていたが、得宗である北条高時の礼を失した催促に腹を立て、後醍醐天皇と連絡をとって内通の意思を固めていた。4月27日に北条一族の名越高家を大手の大将とし、高氏を搦手の大将とする軍勢が八幡・山崎の赤松勢の討伐に向かったが、大手の大将である名越は、久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将高氏はこの戦闘に加わらず大江山を越えて、丹波国篠村で倒幕の意思を明らかにしたところ、近隣の武士たちがこぞって参集し、その軍勢は2万騎を超えた。

 「さる程に、明くれば5月7日寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、2万5千余騎を率して、篠村の宿を立ち給ふ」(第2分冊、56ページ、寅刻は午前4時ごろである)。まだ夜は明けていないが、東西を見渡すと林の中に神社が見える。由緒がありそうな社なので、馬を降りて戦勝を祈り、いかなる神社かと居合わせた巫女に聞くと、「これは八幡を移しまゐらせて候ふ間、篠村の新八幡宮と申し候ふ也「(第2分冊、56-57ページ)という答えが帰ってくる。八幡神は源氏の守り神である。高氏はそこで祈願の文書を奉納しようとする。
 実際に篠村八幡宮にはこの時の高氏の願文が保存されていて、それは『太平記』に記されているものよりも短く、また日付が異なっている。『太平記』では5月7日に出陣の際にこの文書を書いて奉納することになっているが、篠村八幡宮に現存する文書の日付は4月29日である。この文書の真贋をめぐっては論争があるようだが、高氏が篠村八幡宮に倒幕の祈願をしたことは歴史的な事実であろう。ただ、それがいつのことであるかが問題になる。『太平記』では、出陣の際に祈願を行ったと劇的に描かれているが、願文が本物だとすると祈願をしてから高氏は10日近く様子を見ていたことになる。
 そもそも、この篠村八幡宮はこの神社の所伝では尊氏の先祖でもある源頼義が延久3年(1071年)に勅宣(天皇の仰せ)によって誉田(こんだ)八幡宮(大阪府羽曳野市)を勧請して創建したものだそうである。頼義の子が八幡太郎義家、その子義国の子義康が足利氏の祖である。なお八幡太郎義家というのは、石清水八幡宮で元服したからこの名があるので、上賀茂神社で元服した彼の弟は賀茂次郎義綱、新羅神社で元服した弟は新羅三郎義光を名乗った。誉田八幡宮は応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳のすぐ南にある神社で、八幡神は応神天皇と同一視されているから、きわめて由緒のある神社である。なお、岩波文庫の脚注では誉田八幡宮ではなく、石清水八幡宮を勧請したとされている。

 尊氏はおそらく篠村が先祖の時代から源氏に縁の深い土地であることは知っていて、そのことを挙兵のきっかけとして利用しようとしたのである。篠村八幡に願文を収めたのもそのためである。高氏の祐筆である疋檀妙玄(ひきだみょうげん)が筆をとって起草した願文は、八幡神が源氏の守り神であることを述べてその徳を称え、鎌倉幕府の実権を握った北条氏の悪政が人々を苦しめていること、さらには後醍醐天皇を隠岐の島に流罪にしたことを告発し、このような北条氏を討伐することは天の道に適うことなので、加護を給わりたいと理路整然と述べるものであった。そして、儀礼用の鏑矢を1筋納め、続く将兵もこれに倣ったので、「その矢社壇に積もつて塚の如し」(第2分冊、59ページ)という有様であった。

 そうこうしているうちに夜が明けたので、軍勢を進め、大将である高氏が大江山を越えようとするときに、「山鳩一番(ひとつが)ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻(へんぽん)す」(第2分冊、59ページ)。鳩は八幡神の使い。岩波文庫版では石清水八幡宮の使いと特定されているが、鶴岡八幡宮の社号の八がつがいの鳩に象られていることをみても、特定する必要はないのである。とにかく、八幡神の使いが源氏の白旗の上にとまったのは吉兆である。鳩は神祇官の跡地の樗(栴檀)の木に飛び移った。平安京の内裏があった場所を高氏の軍勢が進むと、敵は続々と降参し、篠村を出発したときは2万5千余騎であった軍勢が、右近の馬場(現在の北野神社の東南)に達したときは5万騎に倍増していた。

 一族郎党を引き連れて高氏が鎌倉を出発したときは3千余騎であった軍勢が5万余騎に膨れ上がっている。岩波文庫版の校訂者である兵藤裕己さんが「解説2」で指摘しているように、「裏切り、向背つねない人間が描かれるのは『太平記』の作品的本性とさえいえる」(536ページ)。足利高氏が大軍を率いるに至ったのは、六波羅方の武士たちが続々と裏切って味方について来たからであり、それらの武士たちが大義名分よりも、自分たちの利害を優先させためであろう。大将の高氏自身が鎌倉幕府から見れば裏切り者である。しかも、後醍醐天皇支持の旗幟を明らかにする前にだいぶ迷っていた様子も見て取れる。ただ、そうやって迷っているところが高氏の人間性であり、新しいこと、これまでになかったことをしようとする際のためらいのようなものも、高氏の迷いの中には見いだせるのである。高氏は優柔不断なところがあるが、それを弱点として切り捨ててしまうと、彼の人間性は理解できなくなるだろう。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR