白上謙一『ほんの話――青春に贈る挑発的読書論』

10月11日(日)午前中雨、その後曇り

  白上謙一『ほんの話――青春に贈る挑発的読書論』は著者の死後、1976年に『現代の青春におくる挑発的読書論』として昭和出版から刊行されたものを、1980年に現代教養文庫の1冊として編集しなおして、社会思想社から刊行された書物である。昭和出版から出版されたものは、私の最初の職場の校費で購入したので、手元にはない。多分、そこの図書館に収蔵されているのだろうが、どんな学生に読まれたのか、あるいはすでに廃棄されてしまっているのか、その運命が気になる。とにかく、私の手元にあるのは現代教養文庫版である。

 白上謙一(1913-1974)は動物学者で発生細胞学という領域の開拓者であり、山梨医専、その廃校後は20年以上にわたり山梨大学で生物学を教え、京都大学に転出したが間もなく没した。この書物は、その間1962年から1971年まで『山梨大学学生新聞』に連載した記事をまとめたものであり、碓井益雄による解説に引用された八杉龍一の言葉によれば「一人の際立った発生生物学者、理論生物学者、そして科学哲学者でもあった」(304ページ)のさらにもう一つの顔――読書人としての顔を描きだすものである。そして、学生に向けて語るというスタイルから、彼の教育者としての姿も明らかになる。
 すでに絶版になって久しい書物であるが(社会思想社自体が解散してしまった)、今年のノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智さんが山梨大学(学芸学部)を卒業されたと知って、あらためて読み直してみた。大村さんの伝記的な記事を読んでも白上の名前は出てこないし、この書物の中にも大村さんのことは出てこないが、大村さんが白上の授業を聴講していた可能性はあるし、そうでなくてもどこかですれ違っていたと想像することはできる。

 山梨医専は1944年に開校し、1947年に廃校となった。1945年7月の甲府空襲で校舎・附属医院が全焼したこと、設置者である山梨県の財政状況が厳しかったことのためである。ただし在学生のための救済措置として(旧制)山梨高校が設置され、1951年まで存続したそうである。ただし、この書物には山梨医専のことは出ていても、山梨高校のことは出ていない。山梨医専の図書館の蔵書について、白上は次のように語っている:
「戦争の末期、私が山梨医専にやってくる少し前、私はモノスゴイ『見えざる敵』とたたかったことがある。善い本の少ない時であったが、私が目をつけていた大半の本があっという間に消え失せてしまったのにはおどろいた。もっとおどろいたことにその本の大部分が私が着任した山梨医専の書庫におさまっていたのである。
 見えざる敵は今は学芸学部におられる長谷川八郎教授(昭和53年逝去)であった。二人は今でも戦火にやかれてしまった当時のことを語りあう。かつて甲府の町に存在したことのある山梨医専の蔵書のすばらしさは吾々の胸の中にしか残っていない」(33-34ページ)。

 甲府空襲の際に白上は応召していて中国の北部にいた。その間のことはこの書物の最初のエッセーである「絶海の孤島に携える『たった一冊の本』」で、またその他のエッセーの中でも折に触れて語られている。この時、白上が選んだ1冊の本は岩波文庫の『ソクラテスの弁明、クリトン』であった。「この本の中でソクラテースは『ただ生きることではなく、よく生きることが問題にされねばならない』と云っているが、当時の私にはよくどころか生きること自体が見込うすであった」(23-24ページ)。
 「戦争がすんで、今は体育学教室におられる長谷川さんと二人で『今ひとたびの』という映画を甲府で見た… 当時吾々は、戦時中甲府に創立された山梨県立医学専門学校を、なんとかして存続させようとして、つらい努力を重ねていた。/岐阜とか松本とか、甲府と同じ時期に、方々でできた医専の多くは今では医科大学にもりたてられている。そして山梨県は、このような医専を見殺しにした日本でたった2つの県の内の1つであったのである。/挫折した努力の空しさを、それぞれにかみしめながら2人は映画を見た。…この映画は戦争の向うに埋もれてしまった…私たちの青春時代をよく描いていたように思う」(168-169ページ)。

 この戦地での、また戦後の経験から、彼は研究と教育に取り組む一方で同時代の出来事について常に目を向け、発言を続けた。医専がつぶれたようにはならなかったが、学芸学部は教育学部になり、数物・文芸・商経という(教員養成を目指さない)専門コースの3学科は必要ではないとされるなど、彼の勤務先自体にも変化があった。この書物の内容をなす学生新聞への連載の後半の時期は私が大学・大学院に在学した時代に重なり、学芸学部から教育学部への変化は私の学生時代の出来事であった。過去と現在とを重ね合わせながら、日韓条約(1965年)について、羽田闘争(1967年)について、三島由紀夫の自決(1970年)について、それぞれ白上は自分の意見を学生たちに語りかけようとしているのだが、まさに語りかけられた相手の世代であったのである。

 大村さんのノーベル賞受賞を受けて日本の地方国立大学の存在意義を再評価することを訴えるつもりで書きはじめた(私は15年余り地方国立大学に在任していたし、その後も教えに出かけたことがあるので、その行く末が気になって仕方がないのである)のだが、どうもそこまでいきそうもない。この書物の魅力について、また地方国立大学の存在意義については、また機会を改めて書き続けていきたいが、この書物の中でここで特に詳しく紹介しておきたいのは次の箇所である:
 国民の広い階層が漠然とした「住みにくさ」を感じはじめ、それが侵略的な強大な隣国のイメージに転化される。これに対抗するものははげしい軍備拡張をおいて他にはない。これに反する一切の行動は利敵行為である。このような思想が吾々日本人の最も美しい諸点、最後には「愛国心」までをまきこんで濁流の中におしながしてしまった。
 1961年1月、アイゼンハウアー大統領はその告別演説の内で、国民に対して軍部と産業の結合体(ミリタリー・インダストリアル・コムプレックス)の動きについて警告を発している。かつてはノルマンディーにおける”最も永き日”の立役者であったこの政治家とおなじく『戦争国家』(みすず・ぶっくす46)を書いたフレッド・クックは現代アメリカにおいて、地下の不気味な流れに耳をかたむけている一人であるらしい。(38-39ページ)。
 産軍の結合体が学術研究まで巻き込むことについて、学生時代に反対していたつもりなのだが、どうもそれは言葉だけで実感の伴わないものであったことを、その後、研究者の端くれになって研究には金がかかることを実感するようになって気づいた。研究には金がかかるからこそ、研究の社会的な責任に対して厳しくなければならないのである。
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