『太平記』(68)

10月10日(土)曇り後雨、一時激しく降る。

 元弘3年(1333年)4月に上洛した名越高家と足利高氏の幕府軍は27日に、八幡・山崎の後醍醐方の軍勢の討伐に向かったが、大手の大将名越は久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将であった足利高氏は、北条家得宗である高時の出兵への例を失した催促に怒り、また源家再興の志を秘めていたので、船上山の後醍醐天皇と連絡をとって内通の意思を伝え、綸旨を得ていた。そのため、搦手の大将であったにもかかわらず、名越と赤松の戦いには加わらず、大江山を越えて、丹波の篠村に入り、ここで倒幕の意思を明らかにして近国の兵たちを集めた。名越高家の戦死と足利高氏が倒幕の意思を明らかにしたことは、六波羅に衝撃を与え、都は上を下への大騒ぎとなった。

 後醍醐方の軍勢は5月7日を期して京都に攻め入るとの協定を結んだ。4月8日に千種忠顕が京都に迫った時は、多勢を恃んで赤松勢と連絡をとらずに京都を攻撃して失敗したが、今回は篠村、八幡、山崎の討幕軍には意思統一ができている。先陣の兵士たちは京都の西と、南の方に陣営を構えて、かがり火をたく。山陰、山陽道は後醍醐方の兵士でふさがれている。また若さの国、現在の福井県小浜市から琵琶湖の西岸を経由して京都の八瀬・大原を通り抜けて京都に向かう若狭路から、あるいは別の道を通って、京都の北の方から、丹波の武士たちや児島高徳が率いる一党が攻め入ろうとしているという噂も聞こえてきた。都は3方から包囲された形となり、わずかに東山道(とうせんどう=近江・美濃から木曽路を経て東国に至る道)だけが空いていたが、比叡山には反幕府の勢力も少なからず存在しているので、琵琶湖南端の勢多川にかかる勢多の橋の周辺に兵を構える可能性もないわけではない。こうして六波羅の軍勢は四方を包囲された状態になっており、表面上は意気盛んではあったが、内心ではかなりうろたえていた。

 それにしても幕府軍にとって悔やまれるのは、楠正成の立て籠もる千剣破(ちはや)の城に大量の兵力を投入していたことである。このため、危機に陥った六波羅を防ぐ軍勢は不足している。まさか、京都が危機に陥るとは思っていなかったための不測の事態である。

 六波羅方がかねてから相談のうえ決めていたことは、平場での野戦になると数の少ない幕府軍は不利である。そこで六波羅の館の西側の濠に鴨川の水を引き入れて、残り三方を囲む塀を高くし、櫓を構えて、六波羅を要害の地として守り抜こうという構えである。「誠に城の構へは謀(はかりごと)あるに似たれども、智は長きにあらず。剣閣嶛(たか)しと雖も、これに憑(よ)る者は蹶(つまず)く。根を深くし臍(ほぞ)を固くする所以に非ざるなり。洞庭深しと雖も、これを負(たの)む者は北(ほろ)ぶ。人を愛し国を治むる所以に非ざるなり。今、天下二つに分かれて、安危この一挙に懸けたる合戦なれば、粮を捨て舟を沈むるはかりごとをこそ致さるべきに、今よりやがて後ろ足を踏んで、わづかの小城に籠もらんとかねて心を使はれける、武略の程こそうたてけれ」(第2分冊、55-56ページ、まことに城塞の構えは謀があるように思われるが、長期的な戦略をもって備えているわけではない。高い城壁をきずいたとはいっても、これだけを頼りにしては失敗する。しっかりとした構えをしているとは言えないからである。深い濠を構えても、それだけを頼りにするものは滅びる。城塞の防備よりも大事な人心の支持を得ていないからである。今、天下は2つに分かれて、天下分け目の決戦が行われようとしているので、決死の戦いを挑む作戦を立てるべきであるのに、すでに初めから踵を返して逃げようとして時間稼ぎに小規模な城砦に立て籠もろうとしているその心がけと武略とはなさけないことであった。)

 六波羅の作戦は中途半端で後手に回っている。京都を防衛するのであれば、盆地の出入り口である各要所に兵を配備して防ぐべきであるのに、すでに盆地の内部に敵が入り込んでいる。現在ならば、千剣破やその他に派遣されている味方の兵を集め直すこともできたであろうが、この時代の交通と通信の技術ではそれはかなり困難である。さらに鎌倉幕府と六波羅探題は京都の人々の支持も失っているようである。そうこういっているうちにも倒幕を目指す兵力は京都へと近づいてくる。
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