『太平記』(67)

10月4日(日)晴れ

 元弘3年(1333年)4月27日、名越高家を大手、足利高氏を搦手の大将とする幕府軍が八幡・山崎に陣を構える赤松勢の討伐に向かったが、大手の大将である名越は功を焦り、前線で戦ううちに、久我縄手で赤松一族の佐用範家に射られて戦死した。搦手の大将である高氏は、すでに船上山の後醍醐帝から倒幕の綸旨を受けており、戦いに加わることなく京都を離れ、大江山を越えて丹波の国の篠村(京都府亀岡市篠町)に向かった。

 篠村に到着した高氏はいよいよ倒幕の兵をあげることを宣言して、在地の武士たちを招集した。その時に真っ先に駆けつけたのが丹波の武士久下(くげ)弥三郎時重で140騎から150騎の軍勢を率いてやってきたが、その旗の紋、笠符(かさじるし)にみな「一番」という文字を書き記していた。これを見て高氏は不思議に思い、執事である高師直を呼んで、「久下の配下の武士たちは、笠符に一番という文字を書いているが、これは久下家の門であるのか、われわれのもとに一番にはせ参じたという記号であるのか」と尋ねた。師直が畏まっていうことには「これは由緒ある紋でございます。彼の先祖である武蔵の国の住人久下次郎重光は、頼朝大将殿が(石橋山の合戦に敗れた後)土肥の杉山で再起を図られたときに、一番に駆けつけたので、大将殿が大いに感激されて、もし自分が天下を保つことができれば、おまえに一番に褒美を与えようとおっしゃって、自ら「一番」という文字を書き与えられました。それを家の門としているのでございます」。この答えを聞いた高氏は、久下の一団がまず最初に駆けつけたことは源氏嫡流たる足利家にとっても吉例であると大いに喜んだ。師直が武士の故実について詳しい知識を持った武士であることが窺われるやり取りである。その師直の知識を高氏が重んじていることから、この主従の息が合っていることも推し量ることができる。

 4月に千種忠顕が京都を攻めて敗れたときに、別行動をとって丹波の高山寺に立てこもっていた足立、荻野、児島、位田(いんでん)、本庄、平庄の一党は、いまさら足利の指揮下には入れないと、丹後、若狭方面に向かい、京都を北方から攻撃しようと企てた。そのほかの丹波の武士たち、久下、中沢、志宇知、山内、葦田、金田、酒井、波賀野(はがの)、小山、波々伯部(ほうかべ)、このあたりの武士たちは一人も残らず参集し、そのため篠村の軍勢はほどなく2万余騎となった。もともと高氏・高国(直義)兄弟が率いていたのは3,000余騎で、六波羅を出発したときは他の武士たちが加わって5千余騎になっていた。そのうち、前回に登場した中吉(なかぎり)十郎と奴可(ぬか)四郎のように高氏の叛意を見抜いて脱落した武士もいただろうが、幕府に対する不満を抱きながら、倒幕に踏み切れなかった武士たちが、高氏という大将を得て、ここで立ち上がったことの意味の方が大きかったということである。

 六波羅はこの情報を得て、今回の合戦は天下の分け目になるだろうと予測する。4月に10万の大軍で京都に迫った千種忠顕は公家で武略には疎かったが、今回の高氏は幕府の有力な武将であり、しかも源氏再興の一念をとうとう顕わにしてきたことも見逃せない。議論の結果、万が一にも負けることがあれば、光厳天皇と後伏見・花園の両上皇をお連れして関東に下り、鎌倉を都としてあらためて大軍を組織し、反乱軍を鎮圧しようとの結論がまとまる。治承・寿永の戦乱の際に平家は安徳天皇を奉じて西国に脱出したが、今回は鎌倉幕府の本拠地である東国に脱出しようというのである。そこで六波羅の北の館を御所として、天皇と2人の上皇をお迎えした。この年の3月12日に赤松勢が京都を攻めたときも、光厳天皇と後伏見上皇は六波羅に避難されたと第8巻にあるが、その後、また御所に戻られていたのであろうか。3月に天皇と上皇を六波羅に入れたのは日野資名、資明兄弟であったが、今回は資名は天皇の近くにいるようであるが、資明の名前が見えない。『太平記』の作者は光厳天皇の弟である尊胤法親王について記す。法親王は天台座主という身分であるから世の中が変わっても恐れることはないはずであるが、進んで六波羅に入られた。兄である天皇のご無事を近くからお祈りしようという心から出たことらしい。

 さらに国母(光厳帝の母)である広義門院(西園寺)寧子、皇后である寿子内親王、その他の高貴な女性たちと摂関家、大臣家の公家たち、朝廷の官吏、尊胤法親王の弟子たち、公家たちに仕える武士たち、その他大勢が我も我もと押しかけ、京都の市中はすっかりさびれた様子を見せ、その一方で鴨川の東の一帯は人々であふれかえった。

 「『それ天子は四海を以て家とす』と云へり。そのうえ、六波羅も都近き所なれば、東洛渭川(いせん)の行宮(あんぐう)、さまで御心を傷ましめらるべきにはあらざれども、この君御治天の後、天下つひに未だ静まらず。剰(あまつさ)へ百寮忽(たちま)ちに外都の塵にまみれぬれば、これひとへに帝徳の天に背きぬるゆゑなりと、罪一人に帰して、主上殊に歎き思し召されければ、常は五更の天に至るまで、夜の御殿(おとど)にも入らせ給はず、元老、智化の賢臣どもを召されて、ただ堯舜、湯武の跡をのみ御尋ねあつて、更に怪力乱神の徒(いたず)らなることをば聞し召さず」(第2分冊、52‐53ページ、「そもそも天子は四海をもって家とする=至るところすべてが住処である」と言われる。そのうえ、六波羅も都の近くであるから(現在は京都市の一部であるが、この時代はまだ鴨川の東は京都市内とはみなされていなかった)、鴨川の東に仮の御所を設けられたことは、それほど気に病むようなことではなかったのだが、光厳天皇が即位された後は、天下はいつまでたっても不安定なままであり、それだけでなく宮廷の役所も都を離れてい舞った。これはひとえに天皇としての徳が天の意思に背いているためであると、光厳天皇は自分をお責めになって、嘆かれていた。そのために明け方の五更(午前4時から6時まで)までご寝所にもお入りにならず、官位の高い老臣や知恵のある賢臣たちをおめしになって、中国古代の伝説的な聖天子である堯舜、殷の湯王や周の武王のことだけを御尋ねになり、神頼みのようなことはなされなかった。) ここに書かれていることがどこまで事実かはわからないが、『太平記』の作者が光厳天皇について同情的に記していることは注目しておいてよいだろう。

 都は後醍醐天皇に心を寄せる諸国の兵の攻撃を受けて、人心が安定せず、4月16日は4月の2度目の申の日で、延暦寺の鎮守である日吉神社の祭礼が行われるはずなのが取りやめになり、4月の2度目の酉の日である17日に行われるはずの葵祭の前の神事も行われず、はたして何が起こるのかと人々は世の中の行く末を不安に思ったのであった。

 都の西南の八幡・山崎には赤松一族と千種忠顕が陣を構え、西北からは足利高氏の軍勢が侵攻しようとし、北からは荻野彦六、児島高徳らが攻め入ろうとしている。比叡山の動き、奈良の僧兵たちの動きも不気味である。六波羅の2人の探題はこの危機にどのように対処しようとするか。それはまた次回。 
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