『太平記』(66)

10月3日(土)晴れ

 北条高時から上洛の命を受けた足利高氏(後の尊氏)は、非礼の催促に怒り、幕府を裏切って後醍醐天皇に味方しようとする決意を固める。弟の高国(後の直義)、重臣たちも同意して、上洛する。京都に到着した高氏は、ひそかに後醍醐天皇に使いを送り、朝敵追討の綸旨を得た。元弘3年(1333年)4月27日、名越高家を大将とする7,600余騎が大手の軍として鳥羽の作道から<南下、足利高氏が率いる5,000余騎が搦手の軍として、西岡を経由して、八幡、山崎に陣を構える赤松勢を討伐に向かった。赤松勢は交通の難所に精鋭を送り込み、内応の連絡のあった高氏の軍に対しては用心のために野伏を潜ませて、攻撃に備えていた。

 岩波文庫版の『太平記(一)』の381ページに京都周辺図が掲載されているのを眺めるとわかるが、赤松勢は鴨川、桂川、宇治川、木津川などの河川が合流して淀川になるあたりで、その川を挟んで陣営を構えている。湿地帯なので騎馬軍にとっては不利で山の上から矢を射掛ける先方が効果的である。八幡は源氏の守護神である石清水八幡宮のある土地であり、山崎は後の時代に羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の合戦を展開した場所である。

 大手の大将である名越高家は、搦手の大将である高氏が夜が明けないうちに京都を出発したとの知らせを受けて、高氏に先駆けされたかと気が気ではなく、鳥羽の作道から久我縄手に出て、馬を急がせる。既に述べたようにこのあたりは湿地帯で、馬が足をとられやすいのに、無理な強行軍を続ける。高家は血気にはやった若武者であり、今度の合戦では人々が驚くような活躍を見せて、その名声を増そうと、かねてから期待していたので、馬、鎧兜などの物の具、敵味方を区別するための笠符(かさじるし)に至るまで美々しく飾り立てていた。

 その美々しい出立を朝日の光に輝かせて軍勢の戦闘に立つだけでなく、ややもすれば軍勢よりも先に飛び出してしまいがちな姿を見れば、これが今日の合戦の大将であると誰の目にも明らかである。そこで赤松勢もそのほか大勢の雑兵たちには目もくれず、この武者一人をめがけて、ある時は散開し、ある時は密集して襲い掛かるが、高家の着ている鎧は丈夫で矢を通さない、しかも彼は剣のなかなかの使い手であったので、近づく敵は切って捨てられてしまう。「その勢ひの参然たるに辟易して、官軍数万の兵、すでに開き靡くぞと見えたりける」(第2分冊45ページ、その勢いの盛んなさまにしり込みを始め、官軍数万の兵が退却しそうな様子を見せていた)。

 その中で赤松一族の佐用左衛門三郎範家という強い弓で矢を次々に射る弓矢の名手がいた。彼はまた山野に隠れ伏しての戦いの巧者であり、兵法にも通じていた。彼はある心積りがあって鎧兜を脱ぎ捨てて身軽になると、弓矢をもってたのあぜ道伝いに歩き、藪をくぐって、隠れるのに都合のいい場所を見つけると大将に一矢射かけようと待ち構える。
 時家は三方の敵を追いまくって、名越家に伝わる名刀である鬼丸に一日を押し拭い、扇子を開いて、一休みしているところを、範家が近寄っていって狙いを定め、弓をよくひきしぼって「ひやうど射る」(第2分冊46ページ)。その矢は高家の眉間に命中し、さしもの猛将も落馬して命を落とす。範家が敵の大将名越高家を打ち取ったと矢叫びの声をあげると、形勢は逆転、赤松勢は勢いを盛り返し、高家の率いていた軍勢は壊滅状態になる。

 大手の合戦は、4月27日の午前8時ごろから始まり、その間戦塵が舞い上がり、鬨の声が遠くからも聞こえたはずであるが、搦手の大将である足利高氏は味方に駆けつける様子もなく、桂川の西岸で軍勢を休ませ、酒盛をしていた。何時間かたって、大手の合戦で寄せ手が敗北し、大将である名越高家も戦死したという通報があったので、
「足利殿、「さらばいざや山を越えん」とて、おのおの馬に打ち乗って、山崎の方(かた)をば遥かの他所(よそ)に見捨てて、丹波路を西へ、篠村へとぞ馬を速められける」(47ページ、足利殿(=高氏)は『そういうことならば、さぁ山を越えよう』と云って、めいめいが馬に乗り、山崎の方から遠ざかって、丹波路を西に、篠村へと馬を進められた)。丹波路は山陰道の一部で、京都市西京区大枝の老いの坂から篠村(京都府亀岡市篠町)を経て丹波に至る道筋である。

 尊氏に従っていた武士たちの中で備前の国の住人中吉(なかぎりの)十郎と摂津の国の住人奴可(ぬかの)四郎とはこの高氏の行動を怪しみ、大江山の麓で隊伍を離れて相談し、高氏に叛意があることを六波羅に告げようと軍勢から離脱する。この報告を受けた六波羅の2人の探題は、頼りにしていた名越高氏は戦死し、血縁の仲なので裏切ることはないだろうと思っていた足利高氏は敵になり、今やだれを頼りにすればよいのかと、家臣の者たちさえ信じられない気持ちに襲われるのであった。

 北条方にとっては名越高家の戦死は痛い打撃であった。単に勇猛なだけの武将では、このような事態を打開するのには適任とは言えない。高家が血気にはやって先を急ぐのを諌めるような智略に優れた家臣がいなかった、あるいは随行していなかったことが北条氏にとっては惜しまれる。この時、まだ千剣破城を包囲している幕府方の将兵もいて、その中には二階堂道蘊のような有能な武将もいたのだから、呼び戻していれば事態は変っていたかもしれない。後醍醐天皇方は時に失敗することがあっても先手・先手と仕掛けているのに対し、幕府の対応は遅れがちである。篠村に向かった高氏はどのような行動をとるか。それはまた次回。
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