土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』(4)

9月28日(月)晴れ

 この書物の表題には「「最古の聖書」を読む」という字句が含まれている。死海写本が今日旧約聖書を構成するとされている多数の文書の写本を含んでいることは既に述べたとおりである。そして旧約聖書の研究に死海写本が大きな役割を果たすことは容易に理解できる。これに対して、新約聖書と死海写本の関係はかなり微妙な問題を含んでいる。死海写本の中にはイエスと初期キリスト教の活動について言及したものはないし、逆に新約聖書の中にクムラン宗団あるいはエッセネ派についての言及もない。ただし、福音書の中でその活動が極めて重要なものと記されている洗礼者ヨハネがクムラン宗団あるいはエッセネ派と何らかの関係をもっていた可能性は否定できない。それから著者は第3章で、大量の写本を洞窟に隠したのちに、宗団の一部の人々が原始キリスト教に合流した可能性もあると述べている(81-82ページ参照)。クムラン宗団と原始キリスト教は地理的にも時代的にも近いところにあったし、両者の思想にも共通点がみられる。ただし、そこでどのような共通性を強調するかが問題になりそうである。

 第7章「死海写本と新約聖書の関係」は「神の王国とメシア」、「復活」、「知恵とやがて現れるべき秘密」、「ミュステーリオン」という各項目に分けて、この両者の関係を論じている。著者は原始キリスト教の持っていた終末論的な性格を強調する(現在のキリスト教は一部の宗派を除いて、終末論的な傾向はもっていない。それどころか聖書に帰ることを主張した宗教改革においても、終末論的な傾向は一部には見られたものの支配的にはならなかった。ただキリスト教原理主義と呼ばれる傾向の中には、終末論的な性格が濃厚であり、これはあまり歓迎すべきことではないと私は個人的に思っている)。著者が原始キリスト教における終末論的な傾向を強調するのは実証的な研究の成果である限り、尊重されるべきであるが、だからキリスト教はむかしに戻って終末論的な傾向を強めるべきだ…と主張するのであれば、それは研究ではなく宗教城の問題であり、その現実の社会に及ぼす影響に即して論じられる必要があるだろう。

 著者は「新約聖書の特色ある概念として、まず「神の王国」(あるいは神の王的支配・王権)と「メシア」が挙げられる」(209ページ)と論じている。そして「これらは、初期ユダヤ教の黙示的終末論にその背景を持つ」(同上)と続けている。初期ユダヤ教についての説明が書けているのは不親切である。私の知る限りの旧約聖書の成立史のなかで、黙示的終末論が現われるのは比較的新しい時期においてであることを注記しておこう。
 世界の終わりにやってくる「神の王国の出現は、悪人の断罪と義人の永遠の至福をともなう」(210ページ)、そして神の王国への期待はメシアへの期待と結びつく。メシアとは、基本的には「神から特別な使命を受けて派遣される人物」(同上)を意味する。時がたつにつれてメシアはダビデの子孫の中から現れると思われるようになった。「ダビデの末裔であるメシアは、平和的な支配者であり、神の王国は、ただ神自身の力によって出現する。ダビデの子なる王的メシアの力の源は、軍事力や財力にではなく、神と、神から与えられる聖霊にある」(212ページ)。「神の王国」の出現だけでなく終末における義人の復活も信じられるようになる。

 クムラン文書においても神の王国(王権)は語られている。世界の終末における善と悪の戦いについて述べた文書も見いだされるが、それはローマの支配への反抗⇒武装闘争を意味するものではない。概してクムラン宗団は平和的なグループであったと考えられる。またメシアについて言及している写本は少ないという。他方新約聖書はイエスをダビデの子孫としてのメシアと考えている。

 クムラン写本の中には、義人の復活に触れているとみられる断片があるが、永遠の生命への言及が一般的な反面で、「肉体のよみがえり」の信仰は一般的ではないという指摘もある。著者はクムラン宗団が重視した旧約の各篇において述べられている復活信仰が「『少数派』の意のものであったとは考え難い」(225ページ)と説くが、さらなる実証の積み重ねが必要であろう。また著者は義人の復活について触れた文献がさらに貧者への福音の伝達に言及している文脈が新約聖書と共通していることも指摘している。
 またクムラン文書の知恵文学的な写本の中には「やがて現れるべき秘密」という言葉が頻出すると著者は述べる。この「やがて現れるべき秘密」を新約聖書の「神の王国」の共通性を強調する意見もあるが、「神の将来の計画を知ることとかかわりつつ、それを知り学ぶことは現在の生を知恵と幸福に満ちたものとする」(233ページ)という個所は、著者の意見なの方の学者の意見なのかわかりづらく、おそらく著者は終末論と知恵文学の両立を図り、そのような両立がクムラン宗団においても、原始キリスト教においても実現していたと信じたいのであろうが、クムラン写本のさらなる解読作業の結果をみずに結論を急ぐことはできないだろう。
 この「神の王国の奥義」はイエスの教えの中核・核心を示す言葉である。「新約聖書の福音書において、イエスは、終末的預言者、カリスマ的治癒者であると同時に知恵の教師として現れる」(235ページ)という要約的な指摘が唐突にさしはさまれており、これがクムラン宗団とどのように関係するかはあいまいなままである。

 「最初期のキリスト教は、ユダヤ教の1グループとして出発したことを考えれば、旧約聖書を始めとする共通の先祖の遺産を受け継ぎつつ、共通の文化的宗教的な土壌に生まれ育った2つのグループが類似していることは、むしろ当然であり、類似点の中には他のユダヤ教グループ(文献)と共通するものも少なくなく、より広い視野のもとに、両派の関係は研究され論じ続けられている。
 虚心坦懐にイエスの言葉に耳を傾け、新約聖書の告知を真摯に受け止め、この世界の罪過の共同性を深刻に感じ取り、知的誠実を貫こうとする人々にとって、クムラン文書から学ぶべきものは決して少なくない」(236ページ)と著者は結ぶ。おおむね妥当な議論ではあるが、「新約聖書の告知を真摯に受け止め」ることが、その終末論的な性格の強調と、現代社会についての原理主義的な解釈・適用に結びつかないように配慮すべきであろう。

 この後、この書物には「補遺」として、ユダヤ教の中のエッセネ派について論じた古代の主要な文献の翻訳が付け加えられている。一方で彼らの信仰や暮らしぶりを理想化しすぎているものがあるかと思うと、その一方で誤伝や誤聞に基づいていたり、悪意に基づいていると思われる記述もある。本文の特に4章、5章と比べながら読むと興味が増す内容であるが、この補遺をつけるくらいであれば、もっとユダヤ教の成り立ちについて、またクムラン宗団とエッセネ派の関係について、詳しく論じてほしかったという印象を持つ。

 この本を読んで、クムラン宗団と原始キリスト教がそれぞれ終末論的な信仰を持っている点が共通していることは理解できたが、著者がさまざまに引用している文献の整理の仕方は十分に理解できなかった。そのため、今一つ著者の展開する議論には承服しがたいものを感じている。両者には共通性もあるが異質性もあり、共通性を生み出しているのは(著者も最後に述べているように)その時代のユダヤ民族を取り巻く環境や彼らのになってきた文化的伝統に由来する側面が多く、宗教的な関心からはむしろ異質性の方に目を向けるべきではないか、そうすることによってクムラン宗団と原始キリスト教、さらにはユダヤ教のその他の宗派(サドカイ派、パリサイ派)のそれぞれの特色を明らかにすることの方が重要ではないかと私は考えるのである。

付記:生来の粗忽さでこの書物の表題のうち「死海写本」とあるべきところを「死海文書」だと思い込んで、そのようにずっと書いてきて、最後になって自分の間違いに気付いて、あわてて訂正する仕儀となった。著者である土岐健治さんと出版社の方々、またこのブログの読者の方々に深くお詫びする次第である。
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