『太平記』(65)

9月27日(日)曇り後晴れ

 鎌倉幕府によって退位させられ、隠岐に配流された後醍醐天皇は、脱出に成功して土地の有力者である名和長年の力を借り、伯耆の国(鳥取県西部)の船上山に御所を構え、幕府に不満をもつ中国地方の武士たちを集め、さらには京都の攻略のために大軍を派遣するまでに勢力を拡大させる。京都を守る2人の六波羅探題は頭中将千種忠顕の率いる大軍を退けたものの、さらなる攻撃を予想して、鎌倉に援軍の派遣を要請する。得宗の北条高時は情勢の変化に大いに驚き、名越尾張守(高家)を大将とする大軍の派遣を決める。この遠征への参加を求められた足利尊氏(当時は高氏)は、服喪中であり、健康もすぐれないので気が進まなかったが、高時から再三の催促を受けてやむなく承諾の意思を伝えたものの、憤懣やるかたなく、幕府を裏切って宮方に味方する決意を固める。彼が妻子を伴って入洛するという噂を聞いた高時は長崎入道円喜(高綱)の入れ知恵を受けて、高氏に妻子を鎌倉に置き、幕府への忠誠を誓う起請文を書くように言い渡す。高氏は弟の直義(この当時は高国)と相談し、「大儀の前の小事」、「大行は細謹を顧みず」との弟の助言に従い、これらの条件を受け入れて京都に向かう。尊氏、直義兄弟を始め、足利一族の吉良、仁木、細川、今川、荒川、足利家譜代の家臣で兄弟の母の実家である上杉、同じく執事を務めてきた高一族を集めて3,000余騎が元弘3年(1333年)3月7日に鎌倉を出発、4月16日に京都に到着した。(前回も書いたが、鎌倉から京都に向かうのに、1か月以上を費やすのは時間の掛け過ぎである。尊氏の健康状態が好転するのを待っていたか、あるいは別の事情があったのか、気になるところである。)

 京都の治安維持や裁判のために鎌倉幕府が鴨川の東側の六波羅に設置した役職である探題の地位にあったのは、南探題が北条時益、北探題が北条仲時であった。「両六波羅は、度々(どど)の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足りずと欺(あざむ)きながら、宗徒の勇士と慿(たの)まれたりける結城九郎左衛門尉、敵になつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外国々の勢ども五騎、十騎、あるいは転漕に疲れて国々に帰り、あるいは時の運を謀つて敵に属(しょく)しける間、宮方は負くれども勢いよいよ重なり、武家は勝つと雖(いえど)も兵日々に減ぜり」(40-41ページ、六波羅の2人の探題は、何度かの合戦に勝利して、播磨の赤松軍や千種忠顕の率いる山陰・山陽勢はひどく恐れるほどの力はないと侮ってはいたが、主力の勇将とあてにしていた勇気九郎左衛門尉(結城親光。のちの建武政権の「三木一草」の一人)は、敵になって山崎に陣を構える赤松軍に加わり、またその他の国々の武士たちも5騎、10騎と、あるいは兵糧の運送に疲れ手故郷に帰り、またあるいは時代の趨勢を窺って敵方に鞍替えをしたりしたので、宮方は負けてはいるけれどもその勢いは増す一方であり、武家方は合戦に勝利を収めているとはいっても、その兵力は日々減少していた)。このような状況では先行きが危ういと思う人々が多かったところに、足利、名越の2人の大将の率いる雲霞のような大軍が上洛してきたので、いつの間にか人々の心が変わって、もう大丈夫だろうと気を取り直して勇気を奮い起こしたことであった。

 そのような状況であったが、足利殿(尊氏)は、京都に到着した次の日から、伯耆船上へと密使を送って宮方に味方するとの意思を伝えたので、後醍醐帝はことにお喜びになって、諸国の官軍を結集して、朝敵を追罰すべきであるという綸旨を下された。
 森茂暁『太平記の群像』によれば尊氏がいつ頃後醍醐方に転じたかは明らかではないという。すでにみたように『太平記』では、京都に到着した翌日に後醍醐のもとに密使を送ったとされるが、『梅松論』ではもっと早い時期に後醍醐帝のもとに細川和氏と上杉重能を遣わして綸旨を得て、近江国鏡駅でそれを重臣たちに披露したと書かれている。いずれにせよ、彼が本当に決断を迫られるのはその後の場面においてである。

 六波羅の2人の探題も名越高家も尊氏が寝返りを企てているなどとは思っていなかったから、毎日作戦会議を開き、赤松軍が陣地を築いている八幡、山崎をどうやって攻略するかという内密の相談を何度も行って詳しく打ち合わせたのは、世の移り変わりのはかなさを物語る出来事であった。足利家は代々北条氏と婚姻を結び、尊氏(当時高氏)は得宗の高時から偏諱を受けているだけでなく、多くの褒賞も得ており、また執権であった赤橋盛時の妹を妻にしているなど、身内同然であると信じて疑わなかった。

 4月27日には、八幡、山崎の合戦とかねてから決められていたので、名越高家が大手の大将として7,600余騎を率いて、朱雀大路の南端から鳥羽へと一直線に南下する道である鳥羽の作道を進んだ。足利尊氏は敵の背後を攻める搦手(からめて)の大将として5,000余騎を率い、京都府の向日市一帯である西岡(にしのおか)へと兵を進めた。(尊氏がもともと率いていた兵力は3,000余騎だったので、2,000騎ほどを加勢として付け加えられたことになる。)

 八幡、山崎に陣を構える赤松軍は、これを聞いて、往来の困難な場所に兵を伏せて、敵の不意を襲おうと準備をする。千種忠顕は500余騎で桂川・宇治川・木津川が合流するあたりの橋である大渡の橋を渡り、赤井河原(京都市伏見区淀から羽束師(はつかし)の桂川西岸の地)に控えていた。結城親光は300余騎を率いて、山崎と八幡の間の渡しである狐川のあたりで敵を迎えようとする。赤松円心は3,000余騎を率いて、淀の古川(伏見区羽束師古川町)、久我縄手(こがなわて)の南北に3カ所の陣を張った。「これ皆、強敵(ごうてき)を拉(とりひし)ぐ気、天を廻(めぐ)らし地を傾(かたぶ)くと云ふとも、機をとぎ勢ひを呑める今上(いまのぼ)りの東国勢一万余騎に対して戦ふべしとは見えざりけり」(43ページ、これらは皆、強敵の勢いを挫こうとする心が、天を回転させ地を傾けるほどといっても、英気を養い気勢の盛んな上洛したばかりの東国勢1万余騎に対して戦うことができるようには見えなかった)。『太平記』の作者は赤松軍が数の上でも勢いについてみても劣勢であることを強調しているが、赤松勢の戦い方は、その劣勢を承知して、劣勢なりにどのように戦うかを兵法に基づいて考えているようである。「負けて覚える相撲かな」という言葉を聞いたことがあるが、何度も六波羅との戦いに敗れた経験が、生かされているのである。

 搦手の大将である足利尊氏からは内通の連絡があったが、万一欺きなさることもあろうかと、坊門雅忠が、寺戸(京都府向日市寺戸町)、西岡の野伏(農民・漂泊民などの武装集団)たちを5~600人ほど動員して岩蔵(西京区大原野石作町)のあたりに向かった。
 後醍醐陣営の慎重さが窺われる個所ではあるが、この程度の兵力では尊氏の軍勢がまともに攻めてきたらひとたまりもない。の武士を動員しているということは、ゲリラ戦に持ち込むつもりであったかもしれないが、坊門雅忠(この人については詳しいことはわからないそうであるが、公家であり武士ではないことは間違いない)がどの程度軍事的な才幹を備えていたかは不明である。いずれにせよ、この方面での衝突は起きなかったことが、この続きで明らかになる。
 表面だけ見ると、新たな援軍を得た六波羅方が優勢に思われるが、実際にはそうではない。赤松方は既に紹介した「負くれども勢いよいよ重なり」という上昇基調がまだまだ続いている。武家方から宮方へと転じる機会を窺う尊氏の本心は直義と主だった家臣たちにしか明かされていない。内通の意思が既に赤松勢には伝わっているのに対し、六波羅の方では尊氏を疑っていないのは、足利一族の結束の固さ、大将である尊氏の人望の高さを物語るものである。尊氏の人望と統率力こそが時代の望むものであった――というのはまだ早いか。
 なお、尊氏の上洛に時間がかかった理由の一つとして、細川氏が三河の国の細川(現在の愛知県岡崎市の一部)を地盤とするというように、東海道一帯に一族が勢力を伸ばしていたことも挙げられるのではないか。今川氏も吉良氏もその後東海地方に勢力を築くことになる。 
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