『太平記』の周辺(2)

9月20日(日)晴れ

 『太平記』は鎌倉時代の終わり、文保2年(1318年)に後醍醐天皇が即位されてから、貞治6年(1367年)に室町幕府の二代将軍足利義詮が病没し、その遺言で後事を託された一族の細川頼之が管領に就任して太平の時代が到来するというところまで約50年間の全国的な争乱を描く。ホメーロスの叙事詩『イーリアス』がトロイア戦争の全体を描かず、ギリシア軍の大将であるアガメムノンとアキレスの反目から始めて、トロイア軍の指導者であった王子ヘクトルの葬儀をもって終わっているのと同様に、南北朝の争乱は細川頼之の管領就任によっては終わらずに、元中9年(1392年)に南朝の後亀山天皇が京都に戻ることで一応の結末を迎えるのである(一応と書いたのは、結果的に騙された形になった南朝の皇族・貴族たちはまた京都から離れていわゆる後南朝として抵抗を続けることになるからである)。

 この時代の戦乱は既に書いたように全国的な規模にわたり、日本国内のいたるところに、探してみるとこの時代の歴史の痕跡が見つかるはずである。とはいうものの、その中で、主な舞台となっているのは京都と鎌倉である。私は大学・大学院時代の11年間を京都で過ごし、それ以前の学校時代は横浜で過ごしたので鎌倉には何度も出かけたので、両方ともおなじみの町である。この2つの都市に次いで、顔を出す南都=奈良も大学院時代によく出かけたので、多少の知識はある。歴史散歩とか、近くの山をハイキングするとかいう趣味はないので、知識といっても限られてはいるが、自分なりにこれらの都市についての印象は持っている。その1つは京都に比べると鎌倉は都市として小さいということである。宮部みゆきさんのエッセーに旧平安京をぐるっと回ってみた経験をつづったものがあったと記憶するが、1日で歩き切れなかったはずである。しかし、面積が広いか狭いかというのはそれほど重要な問題ではない。京都育ちの歴史学者で、横浜市大で教えていたことのある今谷明さんが京都の緑のほうが、鎌倉の緑よりも鮮やかだということを書かれているが、私は逆の印象を持っている。『太平記』を読む際に、こういった京都や鎌倉についての個人的な印象を持っていることが大事なのではないかと思う。よく、鎌倉は武士の都といわれるが、職人の都でもある。京都にしても、奈良にしても、職人が集まっていた。都市の顔は多面的である。その多面性を見落とすべきではない。

 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の対立に至る一連の出来事の背景をなすのは、皇室が後深草天皇の子孫である持明院統と、亀山天皇の子孫である大覚寺統とに分裂し、それぞれが自分の血統から天皇を出そうとして争っていたことである。小うるさいことをいうと、この時代は、院政が機能していたので、最高権力者は治天の君=政治を司る上皇であった。そうはいっても、この地位につくにはまず自分が天皇になり、自分の子どもか弟を天皇にする必要があった。この皇位継承をめぐる争いに鎌倉幕府が介入したので、話がややこしくなった。だいたいにおいて持明院統は鎌倉幕府よりで、幕府の親王将軍も持明院統から出ていた。これに対して大覚寺統は鎌倉幕府には距離を置き、しかもその中から、倒幕の意図を明らかにした後醍醐天皇が即位されたことで、事態が急転していくのである。
 歴史的には、皇室だけでなく、主だった大名や武士たちの間でも一族の間で、また相互の間で所領やその継承をめぐる争いが絶えなかったとされる。まさに骨肉の争いの時代であったことは、『太平記』の本文に照らして明らかである。

 『太平記』と同じ時代の出来事を語る書物として、『増鏡』と『梅松論』がある。『増鏡』も『梅松論』も、鎌倉幕府の最初の方から書いていて、この点では『太平記』よりも古い時代を取り上げているが、『増鏡』は後醍醐天皇が隠岐から船上山を経て、京都に戻られたところで終わり、『梅松論』は光明天皇の即位で終わっていて、ともに幕引きは『太平記』よりも早い。要するに、この時代の人は、早く戦乱の世が終わって、太平の世が到来することを熱心に願っていて、物語を早く終わらせたがっていたものと考えられる。実際には戦乱の世がずっと続くのではあるが…。『増鏡』は時代を宮廷の側から記し、『梅松論』は武士の立場に立って室町幕府の正統性を論じている。『太平記』はいろいろな資料を寄せ集めて成立しているので、その立場は必ずしも一貫しているわけではないし、ある時代には宮方を擁護する書物とみなされていたが、基本的には室町幕府の正統性を主張する書物である。ただ、『梅松論』ほどには、その論旨が一貫していないところがあるわけである。いずれにせよ、『太平記』について論じるときには、『増鏡』や『梅松論』を参照する必要がある。歴史学の立場からいえば、この時代の公家や寺社が残した日記類や、その他の一次資料をあたって記述を確認していくべきではあるが、私の場合は『太平記』を読むということに関心があって、この時代についての歴史学研究を展開するつもりはないので、できるだけ実証的な研究成果を利用しながら、本文を読み進んでいくというところで満足している。

 それから他の軍記物語、とくに『平家物語』(『源平盛衰記』)と『太平記』を対照してみることが重要である。なお、『平家物語』には異本が多くあり、『源平盛衰記』はそのような異本の一種である。『平家物語』は驕る平家は久しからずとして平家の末路を描くことに強調点があるが、『源平盛衰記』では源氏と平家が交代して朝廷の兵権を握るというところに強調点がある。そして、この『源平盛衰記』の考え方は『太平記』に引き継がれていて、鎌倉の源家将軍が3代で滅びた後、平氏出身の北条氏が執権として幕府の実権を握り、それを源氏の流れである足利氏・新田氏が滅ぼす(まだ、当ブログの連載はそこまでいっていないが)というのが当然のように語られている。(室町幕府を滅ぼした織田信長は平家の末裔を自称し、豊臣秀吉を挟んで、その後に江戸幕府を開いた徳川家康は新田氏につながる家系の出身であると自称した。)

 9月20日は久しぶりに横浜FCが勝利したので、少し気が緩んで、ブログに何を書こうかと思案しているうちに寝てしまった。このところ勉強不足で、本日(9月21日)中に9月21日分の原稿が書けるかどうか心もとない。 
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