土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』

9月19日(土)晴れ

 土岐健治『死海写本 「最古の聖書」を読む』(講談社学術文庫)を読み終える。2003年に講談社現代新書の1冊として公刊された『はじめての死海写本』を文庫版として刊行したものである。あとがきによると、新書版にほとんど手を加えていないそうである。

 1946年から1947年にかけての冬に、死海の北西岸にあるクムラン丘陵に点在する洞窟の1つから、瓶(かめ)に入った7つの古い写本が発見された。これが「死海写本」である。
 これらの写本は今から2000年以上も前のもので、従来、旧約聖書の最も古い写本とされてきたナッシュ・パピルスと同時代、あるいはさらに古い時代に書かれたものであることが明らかになると、欧米で大きな反響が巻き起こった。これらの写本によって、イエスと新約聖書を含む初期キリスト教の背景が解明されるのではないかという期待が膨らんだこともこの反響の一部であった。
 写本が発見された当時のパレスティナ一帯は、「イスラエル」建国をめぐる争乱状態にあったため、最初に発見された写本、さらにその後続々と発見された写本はその所属や整理・研究をめぐって数奇な運命を辿ることになった。写本の整理・復元は専門家にとっても容易なことではなく、予想をはるかに超える長い年月がかかることになった。
 この間、写本の内容とはほとんど無縁の空想の産物としか言いようがない所説を盛り込んだ少なからぬ本が出版された。それらに共通するのは、死海写本にはイエスや初期キリスト教の実態が記されているという妄想である。多くの人々の関心を集めながら、研究が進まず、その成果の公表が遅れたことがこのような結果を生み出した。それでも1991年頃から、「死海写本」の内容の公開が進み、それとともに多くの研究成果が明らかにされてきた。この書物は最新の研究成果を踏まえて、死海写本の内容を旧約・新約聖書などと関連付けながら紹介しようとするものである。

 第1章「写本発見と公刊への数奇な道」は写本発見の経緯と激動するパレスティナ情勢に影響されて、また写本の解読と「構成要素の書けているジグソーパズルの組み立て」(36ページ)という困難な作業のために、写本の全容の公開が遅れたが、1991年以降急速に進んできていることを論じている。これらの写本を残した人々について、著者は「クムラン宗団」との名前を仮に与え、ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の主要な宗派の1つであったエッセネ派の少なくとも一流、それも中核的な一部であり、クムラン遺跡はおそらくエッセネ派の中核的な施設であったとの考えを抱いていると断っている。これは多くの人々が支持している考えであるが、まだまだ謎は残されているようである。

 第2章「死海写本の背景――ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ」はアレクサンドロス大王の時代からローマ時代にかけてのパレスティナを中心としたユダヤ民族の歴史を簡単にまとめている。ユダヤ民族はアレクサンドロスの遠征の結果として、ヘレニズム文化の渦の中に巻き込まれていくが、アレクサンドロスの死後はエジプトとシリアの間でこの地の争奪戦が続いた。その中で独立の機運が高まり、紀元前167年から142年にかけて、マカベア戦争という独立を目指す反乱が続き、その指導者であったハスモン家が王位を世襲するハスモン王朝が独立を回復する。しかし、その支配に対する反発も根強く、クムラン宗団もそのような動きの中で創設されたのではないかと考えられている。やがてローマの勢力がパレスティナの地に及んでくると、ローマに巧みに接近したヘロデが政治の実権を握り、ヘロデ王朝を樹立する。その死後、ユダヤ州はローマの属州となった。
 初代総督コポニウスの後3,4人の総督を経て、紀元後26年にポンティウス・ピラトゥスが総督に就任し、36年まで在位した。
『新約聖書からは、彼の優柔不断あるいはユダヤ人への迎合的な姿勢を印象づけられるが、他の資料はおおむね彼を典型的な悪代官として描いている」(72ページ)そうである(本題とはあまり関係ないのだが、興味深い個所なので、引用しておいた)。
 その後、またローマに取り入って王になったヘロデの孫アグリッパⅠ世のもとで、ユダヤは王国に戻るが、その死(紀元44年)後、再びローマの属州とされる。反ローマ感情の高まりの中で、66年に第1次ユダヤ戦争が勃発、ローマはこの鎮圧に手間取るが、70年に皇帝となったウェスパシアヌスによって鎮圧される。この時に、クムランの遺跡も破壊されたと考えられる。
 「ユダヤ人は、それまでエルサレム神殿に納めていた「半シケル(2ドラクマ)」を、ローマのユピテル・カピトリヌスの神殿に献げることを強制され、これと引き替えに、かろうじてユダヤ教信仰の自由が認められた。こうして、後66年から70(74)年の戦乱・破局は、ユダヤ教とユダヤ民族の歴史を大きく二分する転換点となった」(77ページ)。
 第一次ユダヤ戦争の後、115年~117年に、エジプトなど各地に離散したユダヤ民族の間で、ローマ支配に対する反抗が広がった。やがて、132年~135年の第二次ユダヤ戦争において、半世紀を越えて抑圧され蓄積されてきた反ローマ勧請が、再び爆発する。この反乱を指導した人物の名により、「バル・コクバの乱」とも呼ばれる。この反乱の敗北により、パレスティナのユダヤ民族は壊滅的な被害を受ける。

 第3章「写本には何が書かれているか」はクムラン写本の内容を概観している。クムラン宗団の残した写本はおおよそ次のように大別されるという。
①エステル記を除く、旧約聖書のヘブル語原点の写本と旧約聖書のアラム語訳(レビ記とヨブ記)およびギリシア語訳の写本。
②旧約聖書外典・偽典の一部の、ヘブル語やアラム語の本文。
③これらのいずれにも属さない、これまで知られていなかった文書。宗団独自の文献が多いが、中にはこの宗団の人々と何らかの親しい関係にあったグループのまとめたものと考え得るものも含まれる。(82ページ)
 この章では③に属する5つの文書を中心にその内容が紹介されている。これらの文書には宗団への入会の手続き、集団生活の規則、彼らの持っている神学や神に感謝する詩篇などが記されているが、その中には旧約聖書の知恵文学、新約聖書の中の手紙などと共通する内容を持つものが認められる。それらからは、この時代、ユダヤ教徒たちが聖書を自由な解釈をしながら読んでいたことが分かる。

 第4章「クムラン宗団の思想」、第5章「考古学から見たクムラン遺跡」、第6章「死海写本と旧約聖書の関係」、第7章「死海写本と新約聖書の関係」、補遺「エッセネ派に関する古代史料」については、またの機会に取り上げることにする。きわめて興味深い存在ではあるが、その実際の内容がどのようなものであるかについて知ることの少ない「死海写本」について、包括的に概観し長良、あらためて様々な問題提起をしている読み応えのある書物である。
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