『太平記』(64)

9月18日(金)曇り、夕方になって雨が降りだす

 元弘3年(1333年)、復位を目指す後醍醐天皇は隠岐を脱出、伯耆の船上山に御所を構え、六波羅攻略を目指して大軍を派遣した。大将である千種忠顕の失策と、六波羅方の奮戦で攻略軍はいったん敗退するが、なお京都近郊にとどまって攻撃の機会を窺う状態が続いている。六波羅は鎌倉に援軍を要請し、鎌倉では一門の名越高家と、外様の有力大名である足利高氏を大将といて大軍を派遣することを決める。高氏は健康がすぐれず、父の喪に服している時でもあり、気が進まなかったが、再三の催促に仕方なく、上京すると返答する。しかし、心中では、宮方に寝返る決心を固めていた。

 高氏が上洛の準備をする中で、一族郎党はもちろんのこと、女性や小さな子どもたちまで引き連れて出かけるという噂が伝わり、それを聞きつけた北条得宗家の執事(家老)で、得宗北条高時のもとで内管領を務めている長崎高資の父、長崎高綱が高時のもとに急いで出かけて進言する。嘘か本当か知りませんが、足利殿は奥方や若殿まで同行させて、上洛するという話です。どうもあやしく思われます。このような危急の事態にあっては、北条一門の主だった方にさえ用心なさるべきです。まして足利殿は源氏の嫡流を自認され、源家将軍の時代が終わってから長い時間がたっておりますので、なにかたくらみごとをなさっているかもしれません。異国でもわが国でも、世の中が乱れたときは天下の覇者が諸侯を集めて盟約をさせるのが習いです。その場合、起請文を書かせるか、諸侯の子どもを人質として留めさせてきました。源義仲がその子義高を頼朝のもとに送った例もあります。これらの例を見ても、足利殿の子息と奥方を鎌倉にとどめ置かれ、足利殿には起請文を書かせるべきでしょうという。

 高時は高綱の意見をもっともだと思い、すぐさま高氏のもとに使者を遣わして次のように伝える。東国はまだ平和な状態が続いているので、幼いご子息は皆鎌倉にとどめ置かれるのがよかろう。足利殿は赤橋相模守盛時の妹を奥方に迎えており、北条家と縁の深い方であり、疑うつもりはないが、世間では疑いの目を向ける人もいるので、一筆、誓いの言葉を残して出発していただきたい。これを聞いて高氏はますます不快な思いを強くする。しかし、その思いを表情には出さず、少し時間がたってから回答しますと述べて、使者を返す。

 その後、一歳年下の弟である高国(後の直義)を呼んで、どうすればよいだろうと相談する。信頼できる弟がいるのが高氏の強みである。高国はしばらく考えていたが、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道(ぶとう)を誅(ちゅう)して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言は神も受けずとこそ申し習はして候へ」(第2分冊38-39ページ、このような重大な決心をされたのは、まったく兄上自身のためのことではありません。ただ天に代わって人臣の道に反するものを罰し、天皇のために不義を退けるためです。そのうえで高時に誓言をされても、神はそれを受納はされないといわれています)と、大義のためには偽りの誓いもやむを得ないという。高時への誓いよりも、天皇への忠義のほうが大事である。子どもと奥方を鎌倉にとどめ置くことは、「大儀の前の小事」(同上39ページ、大事業の前の小さな事柄)である。子どもたちについてはそのために家臣たちを残しておけば、なんとか取り計らって逃げ出すことができるだろう。奥方は幕府の執権である赤橋盛時の妹だから、その縁で何とか命は助かるだろう。とにかく、小さなことにくよくよせずに、大事業の計画を進めるべきである。
 この言葉に高氏は納得して、嫡男の千寿王(後の義詮)と夫人である赤橋登子を鎌倉に残して京都へと出発することとなった。そして起請文を書いて高時のもとに届けたので、高時は不審の思いをなくし、大いに喜んでよく手入れをした馬を乗り換え用にと10頭、銀で飾った鞍をつけ、同じく銀で飾った鎧を10両引き出物として贈った。

 「足利殿御兄弟、吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川以下の御一族32人、高家の一類43人、都合その勢3千余騎、3月7日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に3日先立つて、4月16日には、京都にこそ着き給ひにけれ」(40ページ)。「足利殿御兄弟」と尊氏、直義に敬語が使われていることが注目される。吉良、仁木、細川、今川、荒川は足利氏の一族。上杉は尊氏・直義兄弟の母の実家の一族で、代々足利氏に仕えてきた。高氏は足利氏の執事の家柄である。尊氏・直義には父・貞氏が北条家から迎えた正室との間に儲けた高義という兄がいたのだが、若くして死んだために高氏が家を継ぐことになった。高義、高氏、高国と兄弟3人が北条高時から高の字を貰っている(偏諱を受けている)。すでにふれたが、高氏の正室は鎌倉幕府最後の執権である赤橋盛時の妹・登子で、高氏との間に義詮、基氏らの子どもを儲けている。尊氏と登子の結婚の理由をめぐっては大衆小説家がいろいろと(登子がすごい美人で尊氏の目がくらんだのだとか、かわいかったからだとか、尊氏の母・上杉清子の計らいだとか)、想像を膨らませているが、足利氏は代々北条氏との間に婚姻を結んでおり、それだけ鎌倉幕府の中で重んじられていたと考えるべきである。頼朝と政子の間の子どもが頼家、実朝…と出来があまりよくないのに対し、義詮、基氏は二代目としては無難な存在であった。これは本人の資質というよりも、足利氏が本家を盛り立てる一族、家臣に恵まれていたからだと考えられる。猜疑心の強い頼朝に比べて、尊氏は人を信頼することのできる人であった。また信頼しなければやっていけないところがあったのかもしれない。優柔不断なところのある尊氏にとって、剛毅果断な直義はよい協力者であった。この2人が反目することになる未来を誰が想像しただろうか。それから、3月7日に鎌倉を出発して、4月16日に京都に到着したというのはむかしの話だとしても、少し時間がかかりすぎているのではないか。もう1人の大将名越高家よりも先着したとはいえ、高氏が時間稼ぎをしていたと想像することもできよう。このあたり、気になるので、『梅松論』も読んでみたが、『太平記』のような詳しい記述はないので、何とも云いかねるのである。 
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