『太平記』(63)

9月13日(日)晴れたり曇ったり、一時雨(傘をどこかに置き忘れて、あらためて買い直す)

 今回から『太平記』第9巻の内容の紹介を始める。岩波文庫版では第2分冊に取り掛かる。そして、足利尊氏(まだこの頃は高氏)が本格的に登場する。

 これは、吉川英治の『私本太平記』がはじめから高氏を登場させているのとは対照的である。『太平記』は「覆って外なきは天の徳なり。明君これに体して国家を保つ。載せて棄つることなきは地の道なり。良臣これに則って社稷を守る。若しその徳欠くる則は、位ありと雖も持(たも)たず」(第1分冊、33ページ、天は万物に慈愛を垂れる。すぐれた君主はこの道理を実現して国家を保つ。地は万物を育み載せる。すぐれた臣下(武士)はこのことを肝に銘じて政治を行い、朝廷を支える。若しこのような徳が不足しているような場合は、国家社会における高い地位を得ていても、それを保つことができない)という考えをその冒頭に掲げている。第1分冊で「地の道」から外れた北条高時の治政と、それを打倒して朝廷による政治を取り戻そうとする後醍醐天皇の戦いが描かれていた。しかし、『太平記』の作者は無条件に後醍醐を賞賛しているわけではないようである。高時、後醍醐帝、この2人とは違った人間の登場が待ち望まれる状況を長々と描いておいて(実際のところ、高氏は第3巻に元弘元年(1331年)鎌倉幕府が笠置山に立てこもる後醍醐天皇の討伐のために派遣した大軍の『大将軍』の1人として名前を挙げられている)、大将軍としての実力を持ち、人物的にも優れた存在として高氏を登場させている。文学的にはあまり巧みではないが、政論としては見るべきもののある展開である。

 前巻に引き続き、元弘3年(1333年)のことである。「先朝船上に御座あつて、討手を指し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名20人催さる」(第2分冊、35ページ、先帝(後醍醐天皇、『太平記』がこの呼び方をしていることに注目すべきである)が(流刑地である隠岐を脱出されて)鳥取県の船上山に皇居を構えて(勤王の兵を集められ)、京都へと討伐軍を贈られたという事情について、六波羅から早馬による至急の連絡が頻繁に到着し、事態が深刻であるという評判が鎌倉にも伝わったので、北条高時は大いに驚いて、「そういうことであれば、もう1度大軍を差し向け、その半分は京都を防衛し、その他の軍は船上を攻撃することにしよう」と評定の結果が出て、北条一族の名越尾張守高家を大将として、北条一門以外の大名20人が召集された)。

 召集された外様の大名の中に足利高氏がいた。彼は体調を崩していたのだが、20人の外様大名の数の中に入れられて、西に向かうようにと度々の催促を受ける。「足利殿、この事によつて心中に憤り思はれけるは、われ父の喪に居して未だ三月を過ぎざれば、悲嘆の涙乾かず、また病気身を侵して負薪の愁へ未だ止まざる処に、征罰の役に<随へて相催す事こそ遺恨なれ」(第2分冊、31-36ページ、足利殿は、このことのために心の中で憤り思われたことは、自分は父の喪についてまだ3か月もたっていないので、悲しみの涙が渇いていない、また病気に見舞われて体調が思わしくないのに、討伐軍に参加させられるのは納得できない)と云うのが高氏の心情である。高氏の父である貞氏が死んだのは元弘元年(1331年)9月のことであり、服喪中というのはおかしいという説もあるが、『梅松論』も「今度は當将軍の父浄妙寺殿御逝去一両月の中也」(『群書類従、第20輯、157ページ)と記している。察するに、高氏はどうも気が進まなかったのである。個人的な経験に即してもこういうことはないわけではない。いやだいやだといっている人に仕事を押し付けるとロクな結果にならない。

 高氏は心の中で考える:
時代の変化とともに身分の上下が変動するのは世の習いではあるけれども、高時は北条四郎時政の子孫である。北条氏は桓武平氏の流れであり、皇族の血を引くとはいっても、時代の経過とともにその血縁は薄くなっている。自分は源氏代々の高貴な家柄である。清和天皇から数えて16代目にあたる。本来ならば、家柄を重んじて無理な命令はしないはずなのに、このような命令を受けるのは自分が未熟だからである。
 足利氏の祖である義康は八幡太郎義家の孫であり、保元の乱で源義朝とともに戦い、義康の子義兼は頼朝の妻政子の妹の時子と結婚するなど、足利氏は義朝、頼朝流に協力し、北条氏と姻戚関係を結んで、鎌倉幕府の中で重要な位置を占めてきた。将軍家の血筋が絶えた後は、足利氏が武家源氏の嫡流と一般に思われていたが、足利氏は北条氏との協調関係を崩さなかった。しかし、そこにはかなり屈折した思いがあったと考えられている。高氏自身も北条一族の有力者で16代=最後の執権となった赤橋盛時の妹=登子を正室としている。
 高氏の派遣をめぐる事情は、どの程度まで歴史的に信頼できる史料があるかという問題にもなるが、京都や西国における情勢が急を告げており、有能な武将の派遣が望まれるという点から高氏が選ばれたという見方もできる。そのあたり、幕府中枢と尊氏との間でどうも意思の疎通が十分になされていなかったという解釈も成り立つ。

 とにかく高氏は当世風に言えば、ブチ切れたのである。これ以上、上洛せよという命令が重ねられるのであれば、一家を挙げて上洛し、先帝(後醍醐天皇)の味方をして六波羅を攻め落とし、足利の家の命運を立て直そうとまで思いはじめる。後でまた紹介することがると思うが、『梅松論』は夢窓疎石による高氏の人物評として、勇猛で危機にあっても笑みを絶やさず、仁慈の心に富み、寛大かつ公平であると論じている。あるいはこのような性格のために高氏は周囲の人々から甘くみられるところがあったかもしれない。

 相模入道=北条高時はそんな高時の心中を想像できるほどの能力はなく、幕府の有力御家人である工藤左衛門尉高景を使いとして、「ご上洛が遅れるのは理解できない」と何度も催促する。ひどいときには1日に2回も催促されるほどである。高氏は、かくなるうえはと幕府に反旗を翻す覚悟を決めて、とくに反論はせずに、直ちに上洛いたしますと回答した。

 このあたり、北条高時とその周辺の拙劣な政治的手腕がよくわかる場面である。高時が高氏の心情をもう少し斟酌する度量があれば…とも思うが、その一方でこの時代の武士が源氏の次は平氏が天下の兵権を握るのだというものの見方をしていたことを考えると、両者が腹を割って話して、あたらしい政治のあり方を探るなどということは不可能だったのだろうなぁとも思う。
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