ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(13‐1)

9月8日(火)雨

私達は、登るものの罪悪を祓う山の
二番目に切り開かれた場所、
つまり階段を登りきった頂にいた。

ここでも一番目のものと同様に
一つの枠が丘の周囲を取り囲む。
ただしその曲線はさらにきつい。

その場所には何かの影も形も見えない。
ただ崖が見え、そして岩石の鉛色をした
まっ平らな道が見えていた。
(188ページ) 第10歌から第12歌にかけて、煉獄の第一環道で高慢の罪を浄めたダンテはウェルギリウスとともに第二環道へとやってきた。彼の目に見えるのは鉛色をした崖と道だけである。翻訳者の解説によると、これは『新約聖書』の「ヨハネの手紙」の中の、憎しみと闇のイメージを受け継いだ描写で、「この『鉛色』とは嫉妬に焼け焦げた血液の色、つまり憎しみの色であり、この闇のように理性の視界を閉ざす」(543ページ)と、さらに解説はつづく。あたりに誰がいるかはわからないので、ウェルギリウスは闇を照らす、太陽の導きを祈る。

 二人は道を急ぐ。
私達は思いがはやり、その場所で
ここ現世では一里(ミッリア)と数えられる距離を
すでにわずかな時間のうちに進んでいた。
(190ページ) ミッリアというのがどのくらいの距離かはわからないが、ローマ時代の1マイルが1.5キロ弱、ヤード・ポンド法の1マイルは1.6キロ強であるから、そのくらいの距離と考えてよいだろう。と、彼らを教え さとすような声が聞こえる。最初の声は、「葡萄酒がなくなりました」と繰り返し、次の声は「我こそがオレステース」と叫んでいた。ダンテはこの声は何かとウェルギリウスに質問したが、それと同時に「あなた方を迫害するものを愛しなさい」という声が聞こえた。ウェルギリウスはダンテに、この第二環道で浄められるのは嫉妬の罪であり、これらの声は嫉妬を抑え、人間を正しい道へと導くための例となる者であり、やがてダンテは嫉妬の罪が罰せられる例も目にするだろうという。
 「葡萄酒がなくなりました」というのは『新約』の「ヨハネによる福音書」に出てくるカナの婚礼で聖母マリアが「葡萄酒がなくなりました」というと、イエスが水をぶどう酒に変えたという説話、「我こそはオレステース」というのは説明が長くなるが、アイスキュロスの悲劇『オレスティア三部作』で知られるギリシア神話の英雄オレステースの物語で、母と叔父の裏切りにより父アガメムノンを殺されたオレステースは、従兄弟ピュラデースの助けを得て仇の2人を殺すが母殺しの罪を負った。この罪を浄めるため、2人はトアース王の治めるタウリス国のアルテミス像を盗んでアポロン神に捧げようとして捕まり、トアース王はオレステースを殺そうとした。ピュラデースは身代わりに自分がオレステースだと名乗り、オレステースも友のために名乗り出た。
 翻訳者の傍注はここまでで終わっているが、物語の続きを書いておくと、アルテミス像のある神殿の巫女をしていたのが数奇な運命を経てこの神殿で暮らしているオレステースの姉のイフィゲネイアで、殺されようとしているのが自分の実の弟だということを知って、計略を設けて神像を盗み出し2人とともに逃げる。エウリピデスの『タウリスのイフィゲネイア』は彼らがアテーナ女神の助けで無事に逃げたところまでを描く。ダンテがこの神話をどのように把握していたかは、『神曲』の展開とは別に興味のある問題ではある。
 第三の声はイエスの「山上の説教」の中の言葉である。これらの声が嫉妬を戒めるよい教訓となるかどうかは疑問であるが、聖書とギリシア神話の両方から教訓が選ばれているのが、すでに何度か繰り返されているやり方であるとはいえ、やはり興味深い。
 そして
「だが、しっかりと視線を定めてこの大気を見通すがよい。
さすれば我らの前に座っている人々が見えるであろう。
その人々は皆、この断崖に沿って坐っている」
(192ページ)と示唆する。この言葉を受けてダンテは
そこで私は前よりもさらに大きく目を見開き、
前方を凝視した。すると岩と違わぬ色の
マントを着ている影の群れが見えた。
(同上) 彼らは馬の毛でおられた繊維で作られごつごつしている悔悛布を身につけ、お互いに支え合いながら、聖母や聖人たちの名を叫んでいた。

憐れみがすぐにも他人の中に沸くように、
言葉で頼むだけではなく、
同じだけものを言う、見た目にも訴えるためだ。

そして目の見える者たちには太陽が届かぬように、
この場所の影たち、私が今話している彼らに、
空の光は自身を与えることを望んではいない。

というのも全員の両瞼の上下を一本の鉄の糸が貫き、
縫いつけていたからだ。・・・
(194ページ) 第二環道に座りこんでいる魂たちの姿は誰にとっても同情の心を呼び覚まさせるようなものであった。ダンテは彼らにどのように話しかければよいのか迷って、黙ったままでいたが、ウェルギリウスは「話すがよい。短く的確に」(195ページ)と指示する。

 第一環道においては教訓が視覚を通して与えられていたのに対し、第二環道では聴覚を通して与えられている。ダンテが「嫉妬」と考えているものが何か、そしてそれがなぜ罪なのかについての説明はまだ十分に与えられているようには思えないが、だんだん明らかになっていくだろうと思う。
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