『太平記』(62)

9月6日(日)曇り後雨、夜になって一時激しく降る

 元弘3年(1333年)4月、後醍醐天皇の命を受けた千種忠顕を大将として、山陽・山陰道の軍勢が京都に向かった。西山に陣をとった忠顕は、4月8日、山崎・八幡の赤松勢と連絡を取らずに京都へ攻め寄せて大敗し、忠顕軍に従軍した児島高徳(備後三郎)は大将の臆病ぶりに憤慨した。

 千種忠顕が西山の陣から落ち延びたという噂を聞いて、4月9日に六波羅方の軍勢が、後醍醐軍が宿所としていた谷堂(最福寺)、峯堂(法花山寺)、浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠に乱入し、仏閣神殿を破壊し、僧坊や周辺の民家から略奪を行い、財宝を全て運び去って後、あたり一帯に火をつけた。折悪く強い風が吹いていたので、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、さらには二尊院(嵯峨にあり、釈迦・阿弥陀の二尊を祭る。嵯峨天皇の勅願で円仁が建立し、法然が再興した)、これらの寺院の堂舎300余宇、民家が5,000件余り、一時に灰燼となって、仏像も経巻も煙となって消えてしまった。
 『太平記』の作者は忠顕が4月8日=仏生会に戦闘を起こしたことを非難したが、今度は六波羅の軍が西山の仏事に略奪・放火を働いたことを非難している。被害を受けた中には神社もあったはずであるが、そのことについてはほとんど触れていないのも注目してよい。敵軍が退散した後に、無関係な寺院や民家を襲い、略奪するのは無法極まりない。

 この谷堂(最福寺)というのは源義家の孫(源義親の子)伊予守義信の嫡子であったが、出家した延朗上人が造立した霊地である。この上人は、武士の家柄に生まれたが、若いころに出家して、すぐれた学識を現した。上人が法華経を読む窓の前には松尾大社の主神である松尾明神がやってきて耳を傾け、真言の秘法を行う時には総角髪(あげまき)の護法童子が手を合わせて乙返したといわれる(総角髪の護法童子というのは、「信貴山縁起絵巻」に描かれた姿を思い出してほしい)。「かかる有智高行の上人の草創せられし砌(みぎり)なれば、五百余歳を経て今に至るまで、智水の流清く、法燈の光明らかなり」(430ページ、このような知恵があり業を積んだ高僧が草創された霊場であるから、500年以上を経て現在に至るまで、すぐれた学問の伝統を伝え、絶えず仏法の光で夜の中を照らし続けてきた。脚注でも指摘されているように、延朗上人は源頼朝の同時代人であるから、500年というのは大げさで、150年の間違いではないかと思われる。200年と書く写本もあるそうである。) さらに焼け落ちた最福寺がいかに見事な大伽藍であったかが強調されている。京都観光Naviによると、『太平記』に描かれた兵火による焼失以後、再建がかなわず、現在は延朗上人の坐像を安置した延朗堂だけが残っているそうである。

 また浄住寺について、戒律の法が広く行われている土地で、律宗修行の場所であると記されている。そしてこの寺には釈尊の肉体の一部が伝えられているとして、その伝説を語る。釈尊が入滅された折に、まだ棺の蓋が閉じる前に捷疾神鬼(しょうしつじんぎ)という名の鬼神が、釈尊がその下で涅槃に入られた沙羅双樹の木陰に近づき、仏の犬歯を1つ引き抜いてこれをとった。そばにいた比丘(びく=男性の僧侶)、比丘尼(びくに=女性の僧侶)、優婆塞(うばそく=男性の在家信者)、優婆夷(うばい=女性の在家信者)という4種類の仏弟子たちは驚いて、これを止めようとしたが、この鬼神はその名の通り足が速く、瞬くうちに4万由旬(由旬は古代インドの距離の単位で、牛の引く車が1日にたどることのできる距離をいう)を飛び越えて、須弥山の中腹にある四天王の宮殿に逃げ込もうとしたところ(四天王は仏法の守護神であるので、なんでわざわざそんなところに逃げ込もうとしたのか、理解に苦しむ)、増長天に仕える仏法の守護神で足が速い韋駄天が追いかけて奪い返し、それを中国の唐代の高僧で南山律宗の祖である道宣律師に与えた。脚注によると、この説話は『宋高僧伝』の中の道宣伝に出てくるらしい。この仏歯がその後、日本にわたってきて浄住寺にあったのだという。「大いなるかな、大聖世尊、滅度二千三百余歳の後、仏肉なほ留まつて、分布天下に普(あまね)し」(431ページ、偉大なことではないか、釈尊が入滅されて2,300年の後、その肉体の一部がなおとどまり、釈迦の教えが広く天下に流布していることは。岩波文庫版の脚注でも指摘しているが、ここでも年代の計算が間違っている)。
 『太平記』の作者は浄住寺が嵯峨天皇の時代に建てられたと書いているが、この寺を真言律宗の道場としたのは鎌倉前期の叡尊である。また、調べたところでは、この寺は葉室家の菩提寺であり、この後も応仁の乱、さらに永禄10年(1567年)にも火災にあったそうであるが、江戸時代の初めに黄檗宗の僧鉄牛道機によって再興され、現在では黄檗宗の寺となっているようである。

 「異瑞奇特の大伽藍を、故なくして滅ぼされければ、ひとへに武運の尽くべき前相なりと、人皆唇を翻しけるが、はたして幾程もあらざるに、両六波羅、都を攻め落とされて、近江国番場にて亡びにけり」(431-432ページ、格別にめでたいしるしを現した大寺院を、理由もなく滅ぼしてしまったのは、まったく幕府の運命が尽きる前兆だと、人々は非難したが、果たしてそれほど時間がたたないうちに、六波羅の2人の探題は、都を攻め落とされて、近江国の番場(滋賀県米原市番場)で最後を迎えることになってしまった。) ここでも仏教的な世界観が述べられているのが興味深い。
 こうして第8巻は終わる。最後の下りは、第9巻における番場での惨劇を予告する形になっている。これで岩波文庫版の第1分冊掲載分が終わり、第2分冊に進むことになる。第2分冊は第9巻から第15巻までで、この間、世の中はめまぐるしく変転することになる。どのように変転するかは、実際にお読みください。
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