『太平記』(61)

9月5日(土)晴れたり曇ったり、一時雨が降ったかもしれない

 元弘3年(1333年)4月、赤松円心の率いる軍勢が京都近郊にまで迫りながら、六波羅を攻略できない状態が続いていることを知り、後醍醐天皇は船上山(ふねのうえやま)の皇居に壇を立てて金剛の法を行い、六条(千種)忠顕を大将として、山陽・山陰道の軍勢を京都に送った。西山に陣をとった忠顕は4月8日、山崎・八幡に陣を構える赤松勢と連絡を取らずに京都へと攻め寄せたが、六波羅側も準備を整えて待ち受けていた。

 千種忠顕は、かつて神祇官の役所があった場所(東大宮大路の近く)まで来ると、その軍勢を分けて上は大舎人寮(神祇官の南西にあった舎人の役所)から続く通り、下は七条まで小路ごとに千余騎ずつの兵力を差し向けて攻撃した。六波羅方は防御壁を築き、前面に弓の射手を配置して、騎馬武者を後に置き、一斉射撃によって敵がひるんだところを騎馬武者が駆け出して追い散らそうとする戦術をとった。官軍は攻め寄せた兵力が蹴散らされると、今度は新しい兵力が入れ替わって攻撃を試み、それも追い散らされるとまた新手を繰り出し、土煙を天に巻き上げるような勢いで攻め立てる。「官軍も武士ももろともに命を軽んじ、名を惜しんで死を争ひしかば、御方助けて進むはあれども、敵に逢うて退くはなかりけり」(423ページ、官軍も六波羅方もともに自らの命を軽んじ、名誉を重んじて競って命を捨てて戦ったので、味方を助けて進むことはあっても、敵に逢って退くものはいなかった)。

 こうしてどちらが勝つか勝負の行方がわからないうちに、後醍醐方の但馬、丹後の軍勢の中で、かねてから京都市中に忍び込ませておいた者たちが市内のあちこちに火をつけた。このため、第一陣として応戦していた六波羅方の武士たちは東大宮大路のもといた位置に戻ったが、依然として市中にとどまっていた。これを知った六波羅の2人の探題は弱い方面への加勢として残しておいた佐々木判官時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早川(こばいかわ)の5,000余騎の軍勢を一条大路、二条大路の西の端に差し向けた。北野方面から後醍醐方の側面を攻撃したことになる。この新しく加わった軍勢のために後醍醐方の有力な武士であった但馬の守護太田三郎左衛門が戦死したことで、二条方面の攻略軍は壊滅した。

 丹波の国の住人、荻野彦六と足立三郎は500余騎を率いて四条油小路あたりまで攻め込んだが、二条方面の見方の軍勢が敗走したことを知って、自分たちも引き返す。金持(かねじ)三郎は七条東洞院まで攻め込んだが、負傷して退却もできなくなり、六波羅方の捕虜になった。丹波国神池(みいけ)寺の衆徒たちは五条西洞院まで攻め込んだが、味方が退却しているのを知らないまま奮戦して、全滅した。

 こうして後醍醐方の軍勢は多くの戦死者を出して、生き残ったものも退却し、桂川の西岸に引き上げたが、名和小次郎と児島備後三郎が率いる一条の寄せ手は一歩も引かず、すでにこの物語に何度も登場して武勲を挙げている六波羅方の陶山と河野の率いる防御軍と激戦を続けていた。攻める方と守る方は平素お互いに付き合いがあり、それだけにここで恥をさらすことはできないと必死の戦いを繰り広げていた。
 既に退却していた忠顕は一条の攻略軍がまだ戦いを続けていると聞いて、神祇官の跡地まで引き返し、児島と名和を呼び戻そうとしたので、彼ら2人は陶山、河野に向かってまた後日お目にかかろうと挨拶をして、引き返すことになった。

 日が暮れだしたので、千種忠顕はもとの陣地である峯堂に戻り、戦死者、負傷者を数えると7,000人に及んだ。その中には太田、金持の一族など彼が頼りにしていた主要な武士たちもいたので、すっかり気を落として、児島備後三郎高徳を呼び寄せ、「敗軍の士、力疲れて再び戦ひ難し。都近き陣は悪しかりぬと覚ゆれば、少し堺を隔てて陣を取り、重ねて近国の勢を集めて後、また京都を攻めばやと思ひ候ふ。いかが計らふ」(426ページ、敗軍の士卒たちは、その力もつかれてまた戦うこともおぼつかない。都の近くに陣を構えるのはよくないと思うので、少し距離を置いて陣を構え、もう一度近国の軍勢を詰めて後、また京都を攻めようと思うのだが、どう考えるか)と相談を持ち掛ける。あまりにも弱気な発言に児島のほうが怒り心頭に発し、言い返す。「軍の勝負は時の運に依る事にて候へば、負くるも必ずしも恥ならず。ただ引くまじき所を引かせ、懸くまじき所を懸けたるを以て、大将の不覚とは申すなり」(同上、戦闘の勝敗は時の運によることなので、負けることは必ずしも恥ではない。ただ、退却すべきでないところで兵を退却させ、進むべきでないところで進むのは、大将の不名誉な過ちというべきである)と非難の言葉をにじませながら返答する。
 彼はさらに、言葉をつないで、赤松円心はわずかに1,000余騎の兵で3度まで京都市中に攻め入り、成功しなかったので、八幡、山崎に陣を構えて、それよりも後ろに退こうとしない。この戦いで多くの戦死者を出したとはいっても、まだ残る兵力を集めれば、六波羅に集まっている軍勢を上回っているはずである。この峯堂の陣地は後ろが深い山で、前には桂川という水量の多い川が流れている(兵法にかなった陣地である)。ここから退却しようなどという考えを絶対に起こされるべきではない。あるいはこちら側が負けて疲れているところに付け込んで、敵が夜襲を掛けてくるかもしれないので、高徳は七条の大橋のたもとに兵を率いて待ち受けるつもりである。あなたは頼りになる兵を4~500騎ほど桂川の主な渡りである梅津と法輪の辺りにおいて、そなえているのがよかろう。そのように言いおいて、七条の橋の西側に向かい、そこで夜襲に備えていた。

 千種忠顕は高徳にたしなめられて、しばらくは峯堂に腰を据えていたが、敵がもし夜襲を仕掛けてきたらという高徳の言葉が悪い方に影響して、すっかり臆病風に吹かれ、夜半過ぎのころに、静尊法親王を御馬に載せ奉って、口を引かせて、八幡の方角へと落ちのびていった。
 備後三郎はそういうこととは思いもよらず、夜更けになってから峯堂を見やると、陣地に星のように輝いて見えた篝火の数が次第に減って、あちこちで消えかかっている。これは大将が逃げ出したのではないかと思って、葉室大路から峯堂に昇ろうとすると、荻野彦六朝忠と浄住寺(葉室=京都市西京区山田開キ町にある真言律宗の寺院)で出逢った。荻野が言うには、大将は深夜子の刻(午前零時ごろ)に落ち延びてしまったので、われわれも仕方なく、丹波の方に落ち延びようと思う。一緒に行きましょう。これを聞いて備後三郎は大いに怒り、このように臆病な人を大将にしたのがそもそもの間違いであるといい放つ(これは誰が考えてもその通りである)。そうではあっても自分の目で様子を確かめなければ後日非難を受けることもあるだろうと考えて、荻野には先に行くように勧め、自分は峯堂に登って、宮様の所在を確認したうえで、あとから追いつくという。引き連れていた兵士たちをそこにおいて、一人で落ち延びようとして峯堂から下ってくる兵士たちをかき分けて峯堂へと登った。

 たどりついてみると、よほど慌てて逃げ出したものだと見えて、官軍の錦の御旗や、鎧の下に着る装束まで捨てられていた。備後三郎はまたもや腹を立て、「あはれ、この大将のいかなる堀か崖へも落ち入つて死に給へかし」(428ページ)と独り言をいい、憤懣やるかたなく、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 とはいえ、自分の手のものを浄住寺に残してきているので、錦の御旗だけをついて来た下人にもたせ、急いで浄住寺に戻って自分の家来たちと合流し、少し馬を急がせて進んだので、追分の宿(京都府亀岡市追分)のあたりで荻野孫六に追いついた。荻野は丹後、丹波、出雲、伯耆に落ち延びようとしていた武士たちが篠村、稗田(亀岡市稗田野)のあたりに3,000余騎ほど集まっていたのを加え、道中を待ち受けている野伏たちを追い払い、丹波の国高山寺(こうせんじ、兵庫県丹波市氷上町の弘浪山上にあった寺)に立て籠もった。

 今回で、第8巻を終えるつもりだったが、京都市中での戦闘、後醍醐軍の敗北と千種忠顕の臆病ぶり、児島高徳の憤慨と紹介すべき内容が多く、あと1回分を残すことになった。ご存知の方も多いと思うが、この臆病な千種忠顕が、建武の新政のもとでは後醍醐天皇の朝恩によって成り上がり、三木一草(三木は楠(正成)、伯耆=名和長年、結城(親光)、一草は千種)と呼ばれた人々の1人となった。その一方、必死になって京都攻略の戦いを続けた赤松円心にはほとんど恩賞が与えられなかった。そういう武士は赤松に限らず、他にもいたわけで、それが新政崩壊の一因ともなるという経緯はまたその時に述べることになるだろう。一つだけ書いておくと、児島高徳=『太平記』の作者だともいわれる小島法師という説があって、そういう目で今回紹介した部分を読むと、ますます興味がわくはずである。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR