益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』

8月30日(日)小雨が降りつづく

 益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』(集英社新書)を読み終える。

 理論物理学者・素粒子論の研究家で、2008年度のノーベル物理学賞受賞者である著者は、その師である坂田昌一の「科学者は科学者として学問を愛するより以前に、まず人間として人類を愛さなければならない」(19ページ)という言葉を胸に刻んできたという。ここで著者が論じていることは科学が戦争に利用されないためにはどうすればよいかということである。

 第1章 「諸刃の科学――「ノーベル賞技術」は世界を破滅させるか?」では科学には「いいも悪いもない。ただ新しい物質や事象が発見されたり、それを応用する技術が進化していくだけのことです。ただし、それを人間がどう使うか、社会に対する役割を考えたときに、裏と表の顔が生じてくる」(25ページ)と主張される。ノーベルは自分の開発したダイナマイトが平和目的だけでなく戦争目的にも利用されていることに悩み、それがノーベル賞の創設の背景となった。科学は人類に役立つかもしれないし、悪用されて人類を危険にさらすことになるかもしれない。科学者にはその両方の面を社会に知らせていく義務がある。世の中のことは考えずに研究に没頭するというのではなく、社会に生きる人間として思考を停止させるべきではないのである。
 そして著者は放射能の発見でノーベル物理学賞を受賞したピエール・キュリーがその悪用について警告した例、アンモニアの合成法を発見したことでノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーが戦場で使われる塩素ガスの開発者でもあったという例(彼は第一次世界大戦におけるドイツの勝利のために毒ガスの開発に取り組んだのだが、ユダヤ人であったためにその後英国に亡命するという皮肉な運命を辿る)を紹介する。このように、科学の悪用の実例を挙げた後に、最近のノーベル物理学賞が「実用的な物理学を評価する傾向がある」(33ページ)と指摘している。これは科学が人間の社会の中での影響力を持ってきたということであるが、その分軍事目的に使われる可能性も高くなってきたということであるという。そして無線技術や核兵器の事例を挙げて、ノーベル賞技術が軍事目的に使用されてきたと述べている。

 第2章「戦時中、科学者は何をしたか?」ではマンハッタン計画に集約されるアメリカの原子爆弾製造を目指す強力な科学者動員や、日本における戦時中の科学者動員の事例が触れられているが、著者が直接かかわった事柄ではないので、当事者の1人であったファインマンの回想や、当事者たちからの聞きとりが主な情報源になっている保阪正康『日本原爆開発秘録』に比べると、証言としての重さに欠けるように思われる。この章ではむしろ、第2次世界大戦後における科学者たちの平和と核廃絶の訴え:「ラッセル・アインシュタイン宣言」やパグウォッシュ会議の活動の方に重点が置かれ、それが政治家たちによって無視されてきたことへの怒りが表明されている。

 第3章「『選択と集中』に翻弄される現代の科学」では、学問研究が巨大化の一途をたどり、人手も金も多くかかるようになってきたことで、科学者でさえ、自分の従事している研究の全貌が見えない、研究に参加している研究者同士が顔を知らなかったりするという事態が生まれてきたことがもたらす問題点が論じられている。選択と集中というのは有望な研究に集中的に予算を割り当てるという研究への市場原理の導入であるが、科学の分野でどの研究が成功して、大きな利益を生むかはそもそも予測困難であり、このようなやり方は科学本来の姿から遠ざかるものではないかと著者は危惧している。
 STAP細胞問題の根底には科学研究には巨額の金が必要とされるという現在の研究システムそのものの問題がある。『科学研究が市場原理に巻き込まれ、利益追求の『成果』だけに人々の関心が集中する現代社会――そうした現状のシステムにこそ根深い問題がある」(84ページ)という。さらに研究の成果の公開はオープンにすべきだという主張が添えられているが、これはこれで1冊の書物のテーマとなりうる問題であろう。

 第4章「軍事研究の現在――日本でも進む軍学協同」は戦後日本学術会議が発足した際に「軍事目的のために科学研究を行わない」ことが表明された(必ずしも参加者の一致した意見の結果ではなかった)が、科学が巨大化し、個々の研究の全貌が見えにくくなっていく過程の中で、多額の資金をばらまく軍事研究に取り込まれていく研究機関や研究者が少なくないことが指摘されている。科学の軍事利用を考えるときに、問題になるのは「民生にも軍事にも使用可能な『デュアルユース』という問題」(98ページ)である。日本のビル街でテレビの電波がビルに反射し、画像がぶれるというゴースト現象が発生、ある塗装会社に勤める科学者がビルの壁面に塗ると電波を吸収してゴースト現象が起きにくくなるという塗料開発した。ところが、その10年後、その塗料が米軍のステルス戦闘機に使われたことが判明した。「もはやデュアルユースの問題は、私たちの生活と密接につながっていて、単純には切り離せない、非常に複雑な様相を呈してきている」(100-101ページ)のである。このような状況だからこそ、ますます科学者の想像力、人間としての生き方が問われるのだと著者は結んでいる(10ページほど、内容の紹介を飛ばしているが、飛ばした部分にかなりの読み応えがあるので、そこをしっかり読んでください)。

 第5章「暴走する政治と『歯止め』の消滅」では、安倍首相が強引に進めようとしている政治体制の変革、それに反対する勢力の弱体化をめぐる危機感が表明されている。それでも「物理の研究と平和運動は2つとも同じ価値がある」という信念をもっていた坂田昌一の信念を継承して、「日本を戦争のできる国にしては絶対にいけません」(146ページ)と著者は言い切る。
 第6章「『原子力』はあらゆる問題の縮図」では原発事故が原子力発電の技術が未熟であることと、それを隠蔽して発電所の設置と発電を進めた電力会社の営利主義にあることを述べ、原子力発電の未来について独自の提言をしている。
 第7章「地球上から戦争をなくすには」では、物事を数百年という長期的なスパンで考えることの重要性、不満を力で押さえ込むのではなくどこかで埋めていくような取り組みを進めるべきであること、戦争をなくすために発言しつづけるべきであることが説かれている。

 著者は自然科学者が社会の問題に関心を持つことの重要性を繰り返し語っているが、人文学、社会科学の研究者も社会の問題に関心を持ち、科学技術の発展にも目を向けることが重要ではないかと思った。このように社会問題への関心を植え付けられた背景として、名古屋大学理学部で坂田昌一のもとで素粒子論を研究したことを語っているが、私の学生時代の同期生に坂田の子息がいたこと、大学に務めるようになってからの同僚に坂田の研究室の出身者がいたことなど、坂田とはちょっとした結びつきがあることも手伝って興味深く読んだ。「議論は自由に、研究室では平等だ」(106ページ)というのが言葉だけでなく、研究室内にそのまま実践されていたというくだりなどは、いろいろ考えさせられるものがあった。
 私は著者よりも5歳年下であるが、基本的に同じようなものの見方・考え方をしていると思う点が多かった。それは世代的なものもあるし、その時代の大学の雰囲気の影響もあるのだろう。著者同様に私も在職中はずっと組合員であったが、二足の草鞋をしっかりと履いたという自覚はなく、その点では著者に引け目を感じてしまう。平和の願いや、研究の自由を大事にするということに加えて、できるだけ広い目で物事を見るということの重要性がこの書物の中で説かれているように思われる。

 8月30日に、作業中に眠り込んでしまい、また投稿が1日遅れた。不測の事態に備えて、できるだけ、原稿を書き溜めておくようにしているのだが、なかなかうまくいかない。涼しくなって、暑い時期の疲れが出てきたのか、あるいは別の理由があるのかはわからないが、まだまだこういうことはありそうなので、ご寛恕の程をお願いしておく。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR