『太平記』(60)

8月28日(金)曇り、一時雨

 カオリ丸さんのブログ「南北朝についての日記?」によると8月24日には大塔宮祭が行われたそうだ。このブログでは、ほかにも品川神社が二階堂道蘊と縁があることなど多くのことを教えられた。

 さて、元弘3年(1333年)3月に赤松円心の率いる軍勢は京都に迫り、何度も攻撃を試み、3月28日には比叡山の衆徒たちが六波羅を攻撃しようとしたが、失敗に終わった。4月3日、京の南部一帯で戦闘があり、赤松方の妻鹿孫三郎の大力が見るものを驚嘆させたが、赤松勢はまた敗退した。

 京都に迫っている赤松勢が、攻撃を試みるたびに失敗し、八幡、山崎に陣取っている人数も少なくなってきているということをお聞き及びになった後醍醐天皇は伯耆国(鳥取県)船上山に皇居を設けて滞在されていたが、そこに修法の祭壇をお立てになって、帝自ら一字金輪法という大日如来の真言を唱える除災の法を行われた。修法を始めて7日目の満願の夜に、日天子、月天子、明星天子の三光天子が光を連ねて壇上に出現したので、願いが成就することを確信されたのである。

 そこで誰かを大将に任命して、赤松と力を合わせ六波羅を攻撃させようというので、側近の六条少将忠顕朝臣を頭中将に任命され山陽、山陰両道の軍勢の大将として京都に派遣されることとした。その軍勢は蜂起を出発するまではわずかに1,000余騎ということであったが、因幡、伯耆、美作、丹後、丹波、若狭の武士たちが加わって、間もなく20万7千余騎となった。

 元弘の乱の際に、幕府によってとらえられ、但馬の国に流されていた聖護院宮静尊法親王を、但馬の守護である太田三郎左衛門尉が取り立て奉って、近国の軍勢を集め、丹波の篠村(京都府亀岡篠町)で忠顕の率いる軍勢と合流した。大将である頭中将は大いに喜んで、錦の御旗を立て、この宮を上将軍と仰ぎ奉り、さらに近隣の武士たちに軍勢の催促の令旨を発行した。
 頭中将というのは蔵人所の頭と近衛中将を兼ねた人物の通称で、後醍醐天皇のもとに蔵人所のようなものが組織されていたかどうかは疑問だが、本来武官である近衛中将は、名門貴族の子弟が上位に昇進していくための通り道の1つとなっていた。そういう例を考えると、後醍醐天皇がなぜ忠顕を頭中将に任じて六波羅攻撃の大任を託したのか疑問に思われる。

 4月2日、静尊法親王を戴く軍勢は篠村を出発、西山の峯堂(みねのどう=京都市西京区御陵峰ケ堂町にあった法花山寺に陣営を構えられた。これに従う軍勢は20万余騎、峯堂の近くにあった谷堂(たにのどう、西京区松室地家山にあった最福寺)、峯堂、葉室(西京区山田葉室町)、衣笠(北区と右京区の間の衣笠山)、万石大路(西京区松尾万石町)、松尾(西京区松尾)、桂に宿をとったが、人数が多すぎて、半分ほどの者は野宿しなければならなかった。この時点で殿法印良忠は京の南の八幡に、赤松円心は西南の山崎に陣を張っており、忠顕の陣営との距離はそれほどなかったのに、連絡を取り合おうとはしなかった。忠顕は自分の率いる軍勢が大きいことを頼りとしたのであろうか、あるいは手柄を自分一人のものとしようと思ったのであろうか、ひそかに日を決めて、4月8日の早朝に攻撃を開始した。よりにもよって、仏生会の行われる日に合戦を始めるというのは「天魔波旬の道」(421ページ)を歩むものだと、『太平記』の作者は忠顕を非難している。

 源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げて戦う習いであるが、この戦いについてみると、攻めるほうも守る方も源平が入り乱れているので、同士討ちの恐れがあり、それを避けるために白い絹を切って、風という文字を書いて鎧の袖につけて目印とした。これは孔子の言葉に「君子の徳は風なり」(同上)とあるのによったものである。草は風になびく。諸国の武士たちは、宮方の風になびいて、さらに見方が増える――ということになるだろうか。

 一方、六波羅側は西から大軍が攻め寄せてきたというので、東大宮大路の三条から五条までの通りに面したところに兵を設け、またやぐらを築いて防備を固めた。櫓には弓の射手を登らせ、都のそれぞれの小路には千騎、二千騎の武士を置いて、相手の出方によって自在に軍を展開できるようにしていた。「寄せ手の大将を誰ぞ」という問いに対して、「先帝第六の若宮、副将軍千種頭中将忠顕朝臣」という答えが返ってきたので、「さては、軍(いくさ)の成敗心にくからず。源は同じ流れなりと云ふとも、『江南の橘を江北に移されては枳(からたち)と成る』習ひなり。弓馬の道を守る武家の輩(ともがら)と風月の才を事とする朝廷の臣と、闘ひを決せんに、武家勝たずと云ふ事あるべからず」(422ページ、それではいくさのやり方はたかが知れている。千種(六条)忠顕は村上源氏なので、武家の家である清和源氏と同じ源氏の流れであるとはいっても、「長江の南の橘を北方に移すと枳殻になってしまうように人は育つ環境によって性質が変わるものである」。弓馬の道を守る武家と詩歌など文才を専門とする朝廷の臣とが、戦うというのだから、武家が勝たないというわけがない)と意気盛んに700余騎が大宮大路で待ち構えた。

 次第に数的に劣勢になっている六波羅方であるが、経験豊富な武士が揃っていて、まだまだ士気は高い。これに対して宮方は特に中国地方の多数の武士を集めることができたが、指揮官と作戦の面で優位に立つことができそうにない。千種(六条)忠顕軍と赤松軍との連携が試みられていないというのも気になるところである。この戦いの帰趨はどのようなことになるか。
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