逢侠者

8月27日(木)晴れ

 河上肇の『第二貧乏物語』は社会問題としての貧乏の解決をマルクス主義に求める趣旨から、この思想体系について解説を試みた書物であり、思想史あるいは文学史的に見て気になる点がいくつかあって何度か読み返してきた。気になっているのがどのような個所かについては、そのうち機会を見て書くことにして、この書物の本題とはあまり関係ないが、河上の人柄を考えるうえで興味のある個所を取り上げる。それはこの書物の最後の部分(このあたりは対話体で書かれている)で、「古詩にいふ、『燕趙悲歌の士、相逢ふ劇蒙の家、寸志言盡きず、前路日将に斜めならんとす』。僕は今この詩を思ひ出す」(角川文庫版、262ページ)と結んでいることである。

 ここに引用されているのは唐の詩人銭起の「逢侠者」という詩で(なお、3行目の「寸志言盡着ず」というのはおそらく河上の記憶違いがそのままになっていて、「寸心言い尽くさず」が正しいのではないかと思う)、井伏鱒二の『厄除け詩集』の中にも取り上げられている(講談社文芸文庫版、46ページを参照のこと)。この詩について、河上は「社会についての批判を十分に語らないうちに、紙数が尽きてしまった」という気持ちから引用しているのだろうが、井伏が訳しているように遊侠の徒が「ダテナハナシ」に興じているうちに、日が暮れてしまったというのが本当のところではあるまいか。河上の解釈にはこじつけのようなところがあるが、それでも、何かの折に、こうした漢詩が口をついて出てくるのは悪いことではないと思うのである。

 井伏のように鮮やかに4行にまとめ切るということはできないが、自分なりに訳詩を試みた:
強きをくじき 弱きを助ける 男伊達
運よく出逢った 親分の家で
そんなこんなの 話が尽きず
いつかあたりは 夕紅(ゆうくれない)に
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR