『太平記』(59)

8月21日(金)晴れたり曇ったり、一時小雨

 元弘3年(1333年)、宮方に呼応して摩耶城に立て籠もっていた赤松円心の軍勢は、六波羅方の攻勢を退けた後、兵力が十分とは言い難かったのだが、京都へと攻め寄せる。3月12日に桂川を渡り、軍勢の一部は六波羅の門前にまで押し寄せたが、結局は撃退される。その後、3月15日には六波羅勢が都を出て西岡で赤松勢と戦った。28日には比叡山の衆徒が六波羅を攻略しようとしたが敗退した。4月3日、またも赤松勢は京都に攻め寄せたが、六波羅方も十分に準備をしていたので、戦況は赤松勢にとって思わしいものではない。

 現在の岡山県北東部に相当する美作国にいた菅原氏族の武士団は四条猪熊あたりまで攻め寄せ、六波羅方の武田兵庫助、糟谷、高橋たちの1,000余騎の軍勢と長時間にわたって戦っていたが、後から続いてくる味方の軍勢がいるどころか、退却していった様子などを認めて、元より後に引く気はないということであっただろうか、あるいは敵に後ろを見せて敗走するのはみっともないと思ったのであろうか、子の一段の有力な武士であり、現在の岡山県美作市に住んでいた有元菅四郎佐弘(すけひろ)、同じく五郎佐光(すけみつ)、また三郎佐吉(すけよし)の3兄弟はそれぞれ近づく相手に組み付いて、戦いを挑む。佐弘は朝の戦いで膝にけがを負うたのが影響して、力をふるうことができず、武田七郎に組み押さえられて頸をとられる。佐光は逆に武田次郎の首をとる。佐吉は武田の郎等と刺し違えて命を落とす。
 有元3兄弟と武田兄弟の死闘の中で生き残った佐光と武田七郎は、「死に残ってもなにもすることはない。イザ、勝負をしよう」と、それぞれが手にしていた大刀を捨ててお互いに組み合って、刺し違えて死ぬ。これを見た菅家の一族である福見彦次郎佐長、殖月彦五郎重佐、原田彦三郎佐秀、鷹取八次郎種佐のそれぞれも今はこれまでと、味方同士でお互いに組み付いて刺し違えて死に、この方面での赤松勢は壊滅したのであった。

 また播磨の国、今の兵庫県姫路市飾磨区妻鹿(めが)に住んでいた武士である妻鹿孫三郎長時は9世紀(平安時代初期)の歴史的な記録である『日本三代実録』に登場し、『今昔物語』にもその逸話が語られている薩摩氏長という力士の子孫であり、「力人に越え、器量世に勝れたり」(417ページ、力は人並み以上で、度量は世に抜きんでていた)。12歳のころから相撲をとっていたが、日本60余州の中で、彼が片手で相手をしてもかなう相手はいなかった。類は友を呼ぶというが、彼の引き連れている17人は皆たいへんな力持ち揃いであった。そういうわけでこの一隊は他の軍勢の助けを借りることなくやすやすと前進、六条大宮まで進出したが、東寺、竹田の戦闘で勝利を収めて引き揚げる途中の六波羅勢に取り囲まれ、妻鹿を除く17人はすべて討ち死にした。

 妻鹿は心の中で考える:「生きて甲斐なき命なれども、君の御大事、これに限るまじ。一人なりとも生き残つて、後のご用にこそ立ため」(417-418ページ、長生きしたところで意味のある命ではないとはいうものの、後醍醐帝の命運を分かつ一大事はこの合戦に限るまい。一人だけでも生き残って、今後の御用に役立とう)。こうしてただ1騎になって、西の朱雀を目指して落ち延びていこうとすると、北条一族の印具駿河守時高の軍勢が50余騎で後を追ってきた。その中で年の程20歳ばかりの20歳ばかりの若武者が功名心にはやって妻鹿の馬に追いすがる。そして妻鹿孫三郎に組み合おうと、鎧の袖に手を伸ばしたところ、妻鹿は長い腕を伸ばして、鎧の背中につける揚巻結びの飾り紐をつかんでその若武者をぶら下げ、3町(300メートル強)の距離を走る(妻鹿の大力も相当なものだが、乗せて走っている馬も大変だろう)。この若武者は相当な身分のものであったのか、「討たすな」と50余騎が後を追い続けてくるのを、妻鹿は横目で後ろをにらんで、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて、われに近づいてあやまちをすな。欲しくばこれ取らせん。請け取れ」(418ページ、敵といってもいろいろあるぞ。1騎だけだからといって(軽く見て)、わしに近づいてけがをするな。欲しければこれをやろう、受け取れ)といって、左手でぶら下げていた鎧武者を右手に持ち替えて、えいやと投げつけたところ、跡を追いかけてきた6騎の武者たちの上を飛んで、近くの田んぼの中に投げ込まれ、その深い田んぼの泥に吸い込まれて姿が見えなくなってしまった。これを見た50余騎の軍勢は、すぐさま全力で逃げ出したのであった。

 赤松入道はこの度の合戦で、自分が最も信頼していた一族の武士たちがあちこちで奮戦虚しく敗退し、800人ほどが討たれたというのを知って、すっかり気力をなくし、力を落として、八幡、山崎に軍を退却させた。

 有元一族と妻鹿を比べてみると、有元が死を選んでいるのに対し、妻鹿は生き延びて再起を期すという道を選ぶ。『太平記』の作者は妻鹿の剛勇ぶりを描くことで、彼の生き方を承認しているように思われる。彼の剛力は超人的に誇張されているが、実際はどのようなものであったのだろうか。赤松入道には都を包囲してじりじりと六波羅の勢いを弱まらせるという戦術を選ぶこともできたはずで、このあたりは大塔宮の思惑も絡んでいて、どこまでが彼の判断であったのかは判断しがたい。しかし、有力な援軍なしに六波羅を陥落させることは不可能なのは明らかになってきたはずである。
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