野火

8月14日(金)晴れたり曇ったり、一時雨

 横浜シネマ・ジャックで塚本晋也監督の『野火』を見る。フィリピンのレイテ島における戦争体験を記した大岡昇平の同名小説の映画化。1959年に市川崑監督によって映画化され、日本映画史に残る名作に数えられているが、私は見たことがない。今回は2度目の映画化で、塚本監督が同時に主人公である田村一等兵に扮して主演者も兼ねているところに特徴がある。

 大岡は京都大学の卒業生だというだけでなく、南関東の育ちであるのに京都大学に進学したという点でも私の先輩である。吉田健一が書いているところでは、京大在学中であっても、東京の酒場で飲んでいたというところは、私にはまねができなかった。語り継がれているところによると、大岡は京大在学中既に作家を志していたのでジイドの『贋金つくり』1作のみを研究して、ほかには目もくれなかったという。彼は実験的な作風を事とし、リアリズムとは無縁な作家であろうとしていたようである。

 映画の中で、大岡の分身と思しき主人公の田村一等兵は、召集前に何をしていたかと聞かれて、小説家を目指して原稿を書いたり本を読んだりしていましたと答える。敗色が濃いなどというものではない、軍隊がとっくの昔にその統制と規律とを失って、ただひたすらに逃げることだけを目指している、士官たちはどこかに消えてしまって、下士官がかろうじて少数のグループのまとまりを維持しているという状況の中で、主人公が高学歴の持ち主だということは意味を持たないように見える。しかし、なぜか、彼は米軍の空爆と、ゲリラの襲撃、陸軍の下士官・兵士間でのいじめの中で生き延びるのである。

 この映画で描かれているフィリピンのレイテ島における日本陸軍の敗走は、軍の上層部のどのような判断ミスに起因するのかとか、軍隊の内部に巣食っている官僚制の弊害によるものかというような問題はあまり触れられていない。多分、原作者にとってそれはどうでもいい問題であったのである(あえてそこを問わないというのが大岡昇平と、例えば野間宏の違いであろう)。映画の初めの部分で結核を病んでいる田村一等兵は自分の所属する部隊と野戦病院との間を何度も往復させられる。日本陸軍が陥ってしまった非人間的な体質が描かれていないわけではないが、大岡が訴えたかったのはおそらく別の問題である。

 田村一等兵が出会う敗残兵たちは、ニューギニアやその他の戦地での戦闘も体験し、敗戦を重ねてさらに逃亡を続けている人々である。田村一等兵と、彼が同行することになる兵士たちの辿る道は、日本兵たちの死体が折り重なり、死臭が立ち込めている。現地の住民たちにとって、彼らは得体のしれない敵である。だから現地の言葉でいくら自分たちが殺意がないことを説明しても、その言葉は通じない。これまでの幾つもの独善的な行為の結果として、今度はこちらがいくら善意を強調しても、コミュニケーションが成立しなくなっているのである。

 その一方でフィリピンの自然の美しさ、豊かさも確かに描かれている。だからこそ敗亡の兵士たちの惨めさ、死屍が重なる戦場の悲惨さが強調されることにもなる。その中で大岡が問うているのは秩序を失い、人間が本能だけで生きているような極限状況の中で、人間はどこまで人間らしく生きられるのかということではないだろうか。映画の中で繰り返される問答は、人間の肉が食えるかということである。しかし、魯迅の『狂人日記』は、ごく普通の村落の生活の中でも人間が人間を食べて社会の秩序を維持しているということを告発しているのではなかったか。

 1959年の市川監督による「映像」を強調したといわれる映画化作品は見ていないので、何とも言えないのだが、戦争と戦闘の悲惨さをリアリスティックに描こうとする塚本監督の映画化は、半ば成功し、半ば失敗しているように思われる。成功しているのは、極限状況の現実を観客に生々しく訴えることにおいてであり、失敗していると思われるのは、そのような現実にこだわりすぎて、原作者が発しているより大きな問い、人間はどこまで人間らしく生きられるのだろうか――について、中途半端な答え方しかしていないように思われることにおいてである。戦争時における個人的な体験を越えて、人類に普遍的な問題を問いかけようとしている大岡の原作の映画化には能舞台のような抽象性が求められるのではないかというのは暴論であろうか。
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こんにちは。

コメントありがとうございました。
高田に住んでおられたことがあったのですね。
直江津の「平和記念公園」が出来て20年ですから
住んでおられた頃は、まだ出来ていなかったと思います。
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