『太平記』(58)

8月13日(木)曇り、時々雨

 元弘3年(1333年)3月、六波羅から派遣された軍勢を撃退した赤松円心率いる軍勢は、逆に京都に攻め寄せ、3月12日には桂川を渡り、一部が六波羅の門前まで達する猛攻を見せたが、六波羅側の河野・陶山を中心とする武士たちの反撃にあって退却した。その後も両軍の攻防が続き、さらに3月28日には比叡山の衆徒たちが六波羅を攻撃しようとしたが、敗退した。赤松勢はその兵力が1万騎足らずに減ってしまったが、なお、その士気は衰えず、4月3日に京都をまたも攻撃した。これに対して六波羅方は十分に準備をして臨み、両者の激戦が続く中、次第に六波羅方が優勢になってきた。

 「ここに、赤松勢の中より、ただ二人進み出でて、敵の数千騎ひかへたる中へ、是非なく打つて懸かる兵あり。その勢ひ決然として恰(あた)か樊噲(はんかい)、項羽が怒れるその勢ひ、形にも過ぎたり」。(411ページ、ここに赤松勢の中から、2人だけ進み出て、敵の数千騎が待ち受けるなかへ、やみくもに、討ってかかろうとする兵がいた。その勢いは思い切った様子で、あたかもむかしの漢楚の戦いの際の漢の樊噲と、楚の項羽が怒りながら戦ったその勢い、姿を思わせ、それを越えるようであった。) 2人が近づくにつれてその姿がはっきりしてきたのを見ると、身長2メートルを超す男がひげを顔の左右に伸ばし、目をかっと見開き、楔帷子の上に鎧を重ねて着、大立挙(おおたてあげ)の臑当(すねあて=膝頭から大腿部の外側を防御する大きな臑当て)に膝鎧(=腿、膝を防御する防具。佩楯(はいだて)ともいう)をつけて、龍の頭の前立物(まえだてもの=兜の前の飾り)をつけた兜を深くかぶり、約1,5メートル余りの大太刀(おおだち)を身につけ、約2,4メートル余りの金(かな)さい棒(いぼの付いた鉄棒)の八角形なのを手にもつ所を60センチほど短くして、実に軽々とひっさげていた。六波羅勢は数千人が控えていたが、彼ら2人の様子を見て恐れをなして後ずさりを始める。

 勝負を挑むように敵を招き、2人は名乗りを上げる。「備前の国の住人、頓宮(はやみ)又次郎入道が子息孫三郎、田中藤九郎盛兼が舎弟孫九郎盛泰と云ふ者なり。われら父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身となつて、山賊海賊を業として一生を楽しめり。しかるに今、幸ひにこの乱出で来たり。忝くも万乗の君の御方に参ず。しかるを、先度の合戦にさしたる軍(いくさ)もせで、御方の負けをしたりし事、我らが恥と存ずる間、今日においては、たとひ負けて引くとも引くまじ。敵強(こわ)くともそれに依るまじ。敵の中を分けて通り、六波羅殿に対面申さんと存ずるなり」(412-413ページ、頓宮は、備前国邑久郡福岡=岡山県瀬戸内市長船町福岡の武士。田中は赤松一族だそうである。勅勘武敵は帝のおとがめを受け幕府の敵の身の上となってということ。本来、宮方でも、武家方でもないという。「幸ひにこの乱出で来たり」というのは物騒な発言である。それで畏れ多くの帝のお味方に参った。しかしこれまでは負け戦で、自分も大した功名を立てていない。そこで、今回は頑張るぞというのである)と大口をたたいて、仁王のように猛々しく突っ立った。

 六波羅方の島津安芸前司父子3人、これを聞いて部下のものに向かって次のように述べた。これまでうわさに聞いていた。西国一の力持ちというのはこの連中のことだと思われる。大勢で立ち向かっても、彼らを討ち果たすことはできそうもない。部下の者はむしろしばらくほかの場所で、その他の敵と戦うべきである。我々3人が近づいて、馬を走らせて駆けたり引いたりして相手を悩ませれば、どうにか勝ち目が出てくるのではなかろうか。彼らの力がどれだけ強くても、身に矢が立たないことはないだろう。いくら足が速くても馬に追いつくことはないだろう。長年犬追物(=犬を馬で追って射る)と笠懸(馬上から遠くの的を射る)で鍛えた腕前をここで役立てなければ、いつ役に立つのだろうか。さあ変わった一合戦をして人々に見せてやろう」と、5人の敵に近づく(さっきまで2人と書いてあったのが、いつの間にか5人になっている。これは写本によって人数が違っているようである)。

 田中はこれを見てよい敵に出会ったと喜び、生け捕りにして味方に引き入れようなどと相手を呑んでかかり、例の金さい棒をふりまわしながら静かに近づく。島津も馬をゆっくりと進めて、矢の届く距離に近づいたので、まず安芸前司が3人で弦を張る強い弓に、十三束三伏という長い矢をつがえ、しばらく矢を引き絞り、ぴしりと放った。その矢は過たず田中の右の頬先を射通したので、いかに力自慢とはいえ、その痛みをこらえることができず、進むことができなくなる。

 舎弟の孫九郎が走り寄って、その矢を引き抜いて捨て、兄の仇を討つぞと金さい棒をとって、これまた打ち振って襲い掛かろうとすると、さらに頓宮三郎入道、その子の孫三郎もそれぞれ約1.6メートルの太刀を引っ提げて、小躍りして続いた。島津はもともといくさ慣れしているうえに、騎馬に上達し、矢継ぎ早に矢を射る名手なので、落ち着いて、田中が追ってくると、間合いをとって馬に鞭打って、体をねじらせて矢をはたと射る。右手に回ると、弓を右手に向けてぴしりと射る。西国に名高い打物(刀・槍などの打ち鍛えた武器)の名手と、北国に並ぶ者ない騎馬の名手との攻防は前代未聞の見物となった。

 そのうち、島津の矢が尽きてしまい、打物による対決になろうという様相を見せ始めたので、是では島津が危ないと、それまで様子を見守っていた小早川が150騎を率いて大声を上げて襲い掛かってきたので、田中の後ろにいた兵たちがパッと引き退き、その間に田中、頓宮、父子兄弟4人は鎧の隙間や兜の内側に、それぞれ矢を2,30筋も射立てられて、太刀を地面につきたて、皆、立ったまま死んでしまった。見る人聞く人、後々までも惜しまないものはいなかったという。

 これまでも六波羅勢は騎馬の武者が中心、赤松勢は歩兵が中心ということを書いてきたが、その両者の特色がよく出た対決の様子が描かれている。島津、小早川の六波羅勢がいくさに経験を積み、武技に練達しているのに対して、頓宮、田中の赤松勢はもっぱら剛勇に頼っている。田中がその強靭な肉体のために重装備で向かってくるのを、島津が走らせて疲れさせようと策を講じるところに両者の経験の違いが現われているようである。田中、頓宮が山賊、海賊あがりだと自称しているところも注目すべきで、赤松が集めた軍勢の性格がよくあらわれている。

 『太平記』の戦闘の記述はそれぞれに参加した武士たちの記憶に基づいて構成されているのだろうが、かなりいい加減な部分もあり、調子に乗って前後のつじつまが合わないような描写をしている個所もあるので、注意を要する。 
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