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『太平記』(315)

5月18日(月)曇り、雨が降りそうで、降らない。

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬(尊氏の庶子で、直義の養子。直義の命で九州に赴き、勢力を拡大していた)討伐のために西国へ向かった尊氏は、都を脱出した直義が南朝と手を結んだことを知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は、石清水八幡宮に陣を置き、それに呼応して、越中守護で足利一族の桃井直常(もものいただつね)が上洛した。尊氏の留守中、都を預かっていた足利義詮(尊氏の嫡子、直冬の弟)は形勢不利と見て、京を退いた。正月15日、尊氏と高師直は義詮と合流し、京一帯で直常軍と戦った。この時、師直の家臣の阿保忠実と桃井軍の秋山光政が四条河原で華やかな一騎打ちを演じ、人々が絵に描いてもてあそぶほどの評判となった。
 桃井との合戦に勝利したにもかかわらず、離反者が続出した将軍方は、丹波路を西へ落ち、義詮は丹波井原の石龕寺に留まった。石見の三角兼連の三角城を攻めていた高師泰(師直の弟)は、知らせを受けて京へ向かう途中、備中で上杉朝定の軍を破り、高師夏(師直の子)とともに、播磨の書写坂本で尊氏、師直の軍と合流した。

 『観応の擾乱』(中公新書)の中で亀田俊和さんが書いているが、尊氏が戦闘に勝ったにもかかわらず離反者が続出したのは、それまでの戦いの戦功に対する恩賞が少ないことに不満をもった武士が多かったことが影響しているようである。ところが、味方に加わるものが多かったにもかかわらず、直義が積極的に動こうとしていないことも気になるところである。

 さて、石清水八幡宮に陣を構える直義は、足利一族の石塔頼房を大将とし、愛曽伊賀守(三重県度会郡大紀町阿曽に住んだ武田一族の武士)、矢野遠江守(三重県一志郡矢野の武士)以下5千余騎を書写坂本の尊氏・師直攻略のために派遣したが、書写坂本には師泰が多数の軍勢を率いて合流したという情報を得て、播磨国光明寺(兵庫県加東市光明寺にある真言宗寺院)に陣をとり、八幡へ増援を要請した。

 尊氏の方ではこの情報を聞いて、増援の兵が光明寺に到着しないうちに、まずこれを攻め落としてしまえと考え、観応2年2月3日、書写坂本を出発し、1万余騎の兵で光明寺の四方を包囲した。石塔は城を固め、山に籠ったので、尊氏は曳尾(ひきお=引尾。光明寺の西、加西市方面への道)に陣をとり、師直は啼尾(なきお=鳴尾。小明時の北、西脇市方面への道)に陣を構えた。仏教の言葉で名詮自性(みょうせんじしょう、物の名はその本性を表わす)というが、尊氏も師直も実に縁起の悪い地名の場所に陣を構えたものである。

 2月4日に戦闘開始の儀礼である矢合わせ(双方が鏑矢を射合わす)が行われ、寄せ手は高倉の尾から攻め寄せたが、愛曽は仁王堂(寺の仁王門)の前で待ち構えて戦う。城内で守っていたのは命知らずの無頼の武士たちであり、この戦いが勝敗の分かれ目になると決死の覚悟を決めて戦いに臨んでいる。これに対して、寄せ手の方は名を知られ、大禄の大名たちがそろっていたが、味方が多数であることだけをあてにして、この戦いに勝って自分の未来を切り開こうなどという意気込みはまったくもってなかったから、いざ戦闘ということになると守る側の方が優勢になるのは当然のことであった。

 寄せ手に加わっていた赤松円心の三男の則祐は700余騎を率いていたが、遠くから城の様子をうかがって、「敵は無勢なりけるぞ。一攻め攻めて見よ」(第4分冊、408ページ)と下知を下した。そこで配下の浦上行景と五郎兵衛(ともに揖保郡浦上郷=たつの市に住んだ武士)、吉田盛清、長田資真(加古川市に住んだ武士)、菅野五郎左衛門(相生市に住んだ武士)らが急な啼尾の坂を攻め上って、城の垣のように並べた楯の下にまで到着した。この時に、他の道を包囲していた武士たちもこれに呼応して攻め上れば白を一気に攻め落とすことができたかも知れなかったのに、ほかの武士たちは何をしなくても、今晩か明日のうちには城内の武士たちは戦意をなくして落城するだろう、そんな城をむりに骨を折って攻めても何になるだろうと傍観していた。そのため、浦上以下の武士たちは掻楯の上から矢を射かけられて進むことができなくなり、もとの陣へと戻ったのであった。

 城内の兵たちは手合わせの合戦で寄せ手を退け、多少明るい気分になったとはいうものの、寄せ手は大軍であり、城内の防御の構えは十分に整っておらず、最後にはどんな結果が待ち構えているのかと、石塔頼房、それに備後から師泰軍に追われて逃げてきた上杉朝定らは安心できない様子であった。
 そんな時に、伊勢からやってきた愛曽の召し使っている童が神がかりをして、和が軍には二所大神宮(伊勢神宮の内宮と外宮)の神々がついており、この城の三本杉の上に鎮座されている。寄せ手がいかに大勢でも、この城が落城することはない。それだけではなく、高兄弟はその悪行の報いで七日以内に滅亡するだろうと言い、竜神が苦しめられている熱を冷ますと言って寺の中の閼伽井に飛び込んだところ、井戸の水が熱湯になるという出来事が起きた。城内のひとびとは、自分たちには神のご加護があると確信して、勇気を得たのである。

 この奇瑞の噂は寄せ手の赤松則祐のところにまで伝わってきて、どうもこの様子ではこの戦いははかばかしいことになりそうもないなと気にしはじめていた。そこへ、彼の兄範資の子で、則祐の猶子になっていた朝範が、兜を枕にして転寝をしていた時の夢で、寄せ手1万余騎が同時に掻楯の真下に攻め寄せ、同時に火をつけたところ、石清水八幡宮のある男山(京都府八幡市)、金峯山寺のある吉野の山々の方から数千羽の山鳩(鳩は八幡神の使いである)が飛んできて、翼を水に浸し、櫓、掻楯に燃えついた火を消してしまった。朝範はこの夢を則祐に語り、則祐は、これを聞いて、思っていた通りだ、この城を攻め落とすことは難しいのはなぜかと思っていたが、果たして神明のご加護があったのだ。これは事態が難しくなる前に、自分たちの本拠に帰った方がよさそうだなどと思い始めた。ちょうどそこへ、美作から敵が攻めてきて、一族の本拠地である赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)に来襲したという情報が入ったので、則祐は光明寺の麓に構えていた陣を解いて、白旗城(赤穂郡上郡町の白旗山に城址がある。赤松氏の本城であったが、1441年に嘉吉の乱の際に落城した)へと帰っていった。

 赤松が本拠へ帰っていったことで戦いの様相はますます不透明になった。どうもやる気のなさそうな直義ではあるが、それでも石塔・上杉に援軍を送るくらいのことはするだろう。この先、何が起きるか、特に童子の予言のように師直・師泰兄弟が滅びるかどうか、気になるところではあるが、それはまた次回以降に。
 光明寺という寺は鎌倉をはじめ、あちこちにあるようであるが、ここに出てくる光明寺は播磨の真言宗の寺だということで、私の知り合いの1人がやはり兵庫県(播磨)の真言宗の寺の住職をしているので、気になって調べてみたところである。光明寺ではないが、やはり由緒ある名刹のようで、大学時代に勝手なことを言って揶揄ったりしてどうも済まないことをしたと反省しているところである。
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ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(44)

5月17日(日)晴れ、気温上昇

 ベネット家の住むロングボーン(架空の地名)一帯の中心的な町であるメリトン(架空の地名)に駐在していた義勇軍の連隊がブライトン(イングランド南東部の海岸に面したリゾート地で、18世紀の終りから19世紀の初めにかけて後にジョージⅣ世となる王太子が離宮を建てるなど、この地を愛したこともあり、当時の文化の中心の1つであった)に移動するのに伴い、義勇軍のフォースター大佐の夫人の招待でブライトンに赴いた末娘のリディアが、連隊の中尉であるウィッカムと駆け落ちをするという事件が起きた。しばらく行方の分からなかったリディアとウィッカムであったが、ベネット夫人の弟であるガードナー氏から、ウィッカムの失踪の原因となった賭博による多額の借金返済の見通しが付けば、2人を結婚させることができるとの連絡があった。ベネット氏は急いで2人の結婚に同意する手紙を書いたが、義弟に思わぬ負担を強いてしまったことを気に病むのだった。その一方で、5人の娘の誰か1人でもいいから、金持の紳士と結婚させることを夢見ていたベネット夫人は、お気に入りの末娘が結婚するという知らせに舞い上がり、それまで臥せっていた病の床から跳ね起きて、ウィッカムが借金に追われている身であることも気にせずに、2人の結婚式と新生活について夢想を繰り広げるのであった。 

 今回は、第3巻第8章(第50章)の後半を取り上げる。
 ベネット氏は、正餐の席でベネット夫人があれこれとしゃべるのを聞き、召使たちがいる間は黙っていたが、彼らが引き下がると、彼女には同意しないという自分の意見を述べはじめた。先ずロングボーンの近くに2人を住まわせるつもりはないし、この邸内に2人を迎え入れることはしないつもりだということ。さらに、ベネット氏が娘の結婚を祝福せず、結婚衣装に1銭も出そうとしないことをめぐっても夫妻の間で口論がつづいた。「ベネット夫人にしてみれば、娘がウィッカムと駈落して、結婚する2週間も前から同棲していたことよりも、娘が婚礼衣装も新調せずに結婚式に臨むことの方が、遥かに恥しいことだったのである」(大島訳、524ページ)。

 エリザベスはダービーシャーのラムトン(架空の地名)で、ダーシーに動顛のあまり妹についての心配事を話してしまったことを後悔していた。2人の結婚という形で駈落ち事件が解決することが分かっていたら、駆落ちという家族の秘密を打ち明けないほうがよかったと思ったのである。彼がこの事件のことを黙っていて、誰にも漏らさないだろうということは信じることができたが、その一方で、このようなスキャンダルを起こした妹をもつ姉と結婚しようとは思わないだろうとも考えたのである。そして、彼とは二度と会うことがないだろうと思う一方で、彼に会いたいという気持ちが募るのを押さえられなかった。

 「エリザベスは今になって、ミスター・ダーシーが気質的にも能力的にも自分にぴったり合った人だということが分り始めた。頭の働きも気性も、自分とは違っているが、自分の望みには充分叶っていそうであった。2人が結ばれていればどちらのためにもなったにちがいない。自分の気さくで陽気な性質によって、あの人の生真面目な性分は多少和らぎ、堅苦しい態度も少しは柔軟な、愛想のよいものになったかも知れない。そしてあの人の判断力と知識と幅広い世間智から、自分はそれ以上の大事な恩恵を受けたに違いない」(大島訳、526ページ。「気質的にも能力的にも」と訳されている個所は、原文ではin disposition and talents、「頭の働き」はunderstanding、気性はtemper、「気さくで陽気な性質」というのはher ease and liveliness、「判断力と知識と幅広い世間智」はhis judgment, information, and knowledge of the worldである。光文社古典新訳文庫の小尾訳では「性格といい、頭脳といい彼こそが自分にもっともふさわしいひとだということが、エリザベスにもようやくわかってきた。彼の知性も性格も、自分とは性質の違うものだが、自分の望みにすべて叶っていたと思う。これはふたりを引き立て合うむすびつきだったはずである。エリザベスの気どらず、活発なところは彼の心を和ませ、態度を改めさせていただろう。そして彼の判断力や該博な知識や人生経験などによって、エリザベスは多大な恩恵を受けていただろう」(小尾訳、下巻、186ページ)となっている)。〔正確さという点では大島訳の方に軍配が上がるが、読みやすさという点では小尾訳の方がまさると思う。〕

 彼女がようやく理想的な組み合わせだと信じることができるようになった結婚の可能性が、それとは全く異質なリディアとウィッカムとの縁組によって絶たれようとしているのだと彼女は思った。そして、一時的な情熱が、2人で自立して生計を立てていく見通しに勝って成立した妹たちの結婚生活がこの先どうなるのかを予測することはできないものの、永続的な幸福とは無縁なものになりそうだと思ったのである。

 ガードナー氏から、ベネット氏に宛てて折り返し返信があり、自分の金銭的な尽力をめぐる貸し借りについては気にしなくてもいいという文面が記され、それよりもウィッカムが今後どうすることになるかということの方が詳しく記されていた。
 結婚式が済み次第、ウィッカムは義勇軍ではなく正規軍の北部に駐屯している連隊に入り、連隊旗手(ensigncy)を務める話がまとまっているという。〔東南部にいたのでは悪い友だちとの縁が切れないということであろう。なお、ensigncyは歩兵連隊の最下級の士官で少尉second lieutenantということになるが、この時代にはまだsecond lieutenantという階級はなかったようである。〕 新しい環境をえれば、ウィッカムも気分を一新して生活態度も変えるのではないかというのである。彼がブライトンで作った借金についてはガードナー氏がフォースター氏に事情を説明して、返済の手はずを整えたので、メリトンで作った借金についての事情説明はベネット氏にお願いしたいとのことである。返済の手続きは、ハガーストン弁護士(事務弁護士)の手を煩わすことになっている〔原文には弁護士にあたる語はなく、大島さんが補って入れている。ガードナー氏(とベネット夫人)の姉の夫のフィリップス氏も事務弁護士なのだが、遠くの親戚よりも近くの他人ということであろうか〕。結婚式後、もしロングボーンから招待があれば、新婚夫婦は花嫁の実家を訪問することになるが、そうでなければすぐに北部に旅立つことになるだろう。リディアは両親に会っておきたいという気持ちが強いようである。

 ベネット氏と娘たち(とオースティンは書いているが、ジェインとエリザベスであろう)は、ウィッカムが義勇軍の連隊を離れることに賛成であったが、ベネット夫人はお気に入りのリディアが遠く離れたところに行ってしまうことに不満であった。彼女はフォースター大佐の夫人と仲が良かったし、義勇軍のなかには彼女と仲のいい士官たちが大勢いたというのである〔そういう環境から引き離したほうが、本人たちのためだということが、ベネット夫人には理解できない〕。 

 ベネット氏は、結婚式のあと実家を訪問したいというリディアの要求を受け入れるつもりはなかったが、世間体を考えれば、この結婚に両親が同意していることを示すためにも、訪問を認めた方がいいというジェインとエリザベスの説得に渋々応じることになった。とはいうものの、エリザベスは本心では、自分がかつて結婚の相手と考えたこともあるウィッカムと顔を合わせたくはなかった。

 こうして第3巻第8章は終り、第9章では結婚したリディアとウィッカムがベネット家を訪問する。果たしてどんな人間模様が展開されるかは、また次回に。今回の個所では、エリザベスの心理の描写を通して、作者であるジェイン・オースティンの結婚観、一時的な情熱よりも、経済的な基盤を考えた縁組が必要であるが、そうだとしても男女の性格的な適合性と、両者がお互いに敬愛できるような関係が望ましいということが語られているのが注目される。リディアとウィッカムは一時的な情熱による縁組であり、シャーロットとコリンズ牧師の場合は経済的な条件だけが考えられている。ジェインとビングリー、そしてエリザベスとダーシーの恋の行方はどうなるのであろうか。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(下)』(3)

5月16日(土)雨

 紀元1世紀、ローマ皇帝ネロに気に入られて厚遇を受けるが、やがて生じた確執のために執筆活動を禁じられ、皇帝暗殺を企てたピーソの陰謀(65)に加わったことにより、自殺を命じられたルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品であるこの叙事詩:『内乱』は紀元前1世紀、ローマが共和政から帝政へと移り変わる大きな節目となった、ポンペイウスとカエサルの間の戦い<内乱>を題材とするものである。この内乱は紀元前49年にカエサルがガリアからイタリアに侵攻して始まり、紀元前46年のアフリカでの小カトーの死をもって終わるが、叙事詩『内乱』は作者の死によりそこまでを語ることなく、紀元前48年にエジプトでポンペイウスが暗殺されるまでで終わっている。
 カエサル軍の侵攻に対抗できずにイタリアを追われたポンペイウスは、ギリシア西部のエペイロスに渡り、そこで東方の諸勢力から援軍を募り、カエサルに対する反撃を試みようとする。紀元前48年にカエサルもエペイロスに渡り、遅れて到着したアントニウスと合流、要衝デュラッキウムに本拠を置くポンペイウス軍を包囲する。しかし、ポンペイウスはその包囲を突破、さらに攻撃してきたカエサル軍を破る。カエサル軍はテッサリアに移動、ポンペイウスもまたカエサル軍を追ってテッサリアへと進軍する。テッサリア(パルサリア)での決戦が近づいてきた。

 運命に呪われたこの地に二人の将が陣を構えた時、来たるべき
戦を予見する心は、誰しもを動揺させた。雌雄を決する存亡の
秋(とき)が近づき、定めがすでに間近に迫るのは明らかであった。
惰弱な心の持主は怯え、巡らす思いはますます暗くなっていった。
予め心を強く持ち、定かならぬ成り行きに、恐れともども
希望をも抱いたものはわずか。
(第6巻、405‐410行、44ページ) 決戦の行方に不安を抱き、恐れていた大多数の人々の中に、ポンペイウスの次男であるセクストゥスがいた。ルーカーヌスは、彼が不肖の息子であり、この後、海賊にまで身を落としたことを附け加えている。

 セクストゥスは恐怖のあまり、戦の帰趨をあらかじめ知ろうと、未来の予言に頼ろうとした。彼が予言を聞こうとしたのは「デロスの鼎」(第6巻、417行、45ページ:アポロンの生地とされるデロス島のアポロンの神託所を指す)、「ピュトの洞」(同上:デルポイのアポロンの神託所、第5巻でポンペイウス派のアッピウスがここで神託を聞こうとしている)、「樫の実みのるドドネなるユピテルの銅釜が/響かせる音」(第6巻、418‐419行、45ページ:エペイロスにあるゼウス=ユピテルの神託所)、「内臓で定めを占える者」(第6巻、419行、45ページ:第1巻でエトルリア人の占い師アッルンスがこの占いをしている)、「鳥の兆しを解き明かせる者」(第6巻、420行、45ページ:ホメロスの『イーリアス』にこの例がある)、「アッシュリアの(天文の)知識で星の動きを究める者」(第6巻、421行、45ページ)でもなかった。〔ここに列挙されているのは、神々による予言を知る手だてであり、セクストゥスがもっと邪なやり方によって未来を知ろうとしたことが示されている。〕

彼には、天上の神々に忌み嫌われる、残酷な魔術師の秘術と、
死の儀式で陰鬱な祭壇の知識があり、霊たちと冥府の王
ディスの真実を、また、天上の神々の無知を、哀れにも、固く
信じていたのだ。空しく凶悪なその狂熱を、陣営に間近い、
ハイモニアの魔女らの住む集落と土地そのものが助長した。
(第6巻、423‐427行、45ページ) ディスはギリシア神話のプルートーにあたる、ローマ神話の冥府の主神である。セクストゥスは天上の神託ではなく、地下の死者の世界の声を聞いて、未来を知ろうとし、その術を知っている魔女たちに頼ろうとした。テッサリアの地にはそのような魔女たちが住んでいたのである。ハイモニアと呼ばれるこの土地で、魔女たちは毒草や魔草を育てていた。コルキスの王女で魔女でもあり、イアーソンとともにギリシアにやってきたメデイアがこの土地で草を集めたともいわれる。この魔女たちの威力は大変なもので、気象を意のままに操り、天体の運行さえも左右したという〔いくらなんでも大げさすぎる〕。

 エリクトという名の魔女は、このような魔術に飽き足らず、さらに禍々しい世界に踏み込もうとして、「亡霊たちを追い払って墓地を占拠し、人気ない墓場を/住処としていた」(第6巻、501‐502行、50ページ)。天上の神々でさえ、その魔術を恐れ、彼女の非道な行為を容認していた。彼女は人々の生死を支配し、死者の体の一部を集め、冥界と連絡を取りながら、秘儀を行っていた。

 土地の人々の噂で彼女のことを知ったセクストゥスは夜の闇に紛れ、わずかな従者たちとともに、エリクトの住処を探した。エリクトは、ポンペイウスとカエサルの戦いによって、新たに多くの死者が出ることを予見して、将来の計画に耽っていた。
 エリクトを見つけたセクストゥスは、自分がポンペイウスの息子であることを告げ、来るべき戦いで、だれが死すべき運命にあるのか、死の神に打ち明けさせてほしいと頼む。
 自分の名が噂となって広がっているのを喜んだエリクトは、セクストゥスの申し出を承諾する。魔女たちには人間の生死を動かすことはできるが、人類の大事をめぐっては運命(フォルトゥナ)にその力は及ばない。「だが、禍を予め知ることで/満足というのであれば、真実に近づく数多の容易な道が/開かれていよう」(第6巻、601‐603行、57ページ)という。そして、戦場に転がっている死体の1つを選んで蘇らせ、今後のことを予言させようという。

 おそらくどちらも歴史的な事実ではなく、ルーカーヌスの創作であろうが、第5巻に登場したアッピウスがデルポイの予言に頼ったのに対し、こちらは魔女の魔術に頼っている(『旧約』に出て来るヘブライ人たちの王サウル、あるいは『マクベス』を思い出すかもしれない)。臆病というだけではなく、邪悪なものの力を信じているというように、その人間性が描き出されている。それにしても、どうも気味の悪い話であるが、セクストゥスはどのような予言を聞くことになるのであろうか。それはまた次回に。

本郷和人/門井慶喜『日本を変えた八人の将軍』

5月15日(金)晴れたり曇ったり

 3月30日、本郷和人/門井慶喜『日本史を変えた八人の将軍』(祥伝社新書)を読み終える。中世政治史の専門家で東京大学史料編纂所の教授である本郷和人さんと、推理小説を書く一方で歴史小説も手掛け、『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞した門井慶喜さんによる歴史対話。坂上田村麻呂、源頼朝、足利尊氏、足利義満、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜、西郷隆盛という8人の将軍と、将軍にならなかった2人の英傑=織田信長、豊臣秀吉を取り上げ、対談者2人のそれぞれの知識と想像力を傾け、最前線の研究成果から楽屋話まで出て縦横に語っている。
 面白くない訳がない書物であるが、ブログで取り上げることは遠慮してきた。日本史をめぐる啓蒙活動に尽力するという志はわからないわけではないが、本郷さんは少し本を書きすぎている(門井さんも同様)という印象があるので、自重を促したい気分もあるからである。

 この書物の「はじめに」で門井さんはこんなことを書いている。(推理作家であり、歴史にも豊かな知見をもっていたという点で、門井さんの先輩筋の)松本清張が、歴史学者(日本史学者)には読ませるような文章を書く人がいないと言っていたが、最近では小和田哲男さんをはじめ、専門研究家としても、啓蒙的な解説書の書き手としても、一流の書き手であるような歴史学者が見られるようになった。そしてそのような人物の代表的な存在が、本郷さんであるという。そして、その本郷さんと語る機会を得たのは、じつに楽しい経験であったと記す。

 文学(あるいは文章)と歴史とをどのように関連付けて考えるかというのは難しい問題である。夏目漱石は『文学論』の「序」において、「余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短きにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり」(岩波文庫版、上巻、18ページ)と書いている。「左」は『左伝』(『春秋左氏伝』)、「国」は『国語』、「史」は『史記』、「漢」は『漢書』のことで、それぞれ中国の歴史書である。
 よく言われることであるが、歴史は過去の戦いの勝者の記録であり、文学にはその戦いの敗者の気持ちが述べられているものが多い。だから、漱石が中国の歴史書を読んで、文学についての漠然とした定義を感じ取ったというのはどういうことか、考えてみる必要がある。
 漱石は彼が漠然と考えていた「文学」と、英国で言われている<文学>の違いに苦しんだというのだが、彼の留学先であった英国には、『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンとか、「イングランド史」を書いたマコーリーのように、歴史家であり名文家といわれた人がいるし、サッカリーのような歴史小説の名手もいた。考えるべきことはますます、たくさんあるのである。

序 将軍とは何か
 地位か人か
 ここでは「地位」と「人」をめぐる日本的な伝統を踏まえて「将軍」の性格が論じられる。ヨーロッパでは国王が生前退位することはごく普通に行われており〔2013年にオランダのベアトリクス女王がウィレム・アレクサンダーに、ベルギーのアルベールⅡ世がフィリップに、2014年にスペイン国王ファン・カルロスⅠ世がフェリペⅥ世に譲位している〕が、それぞれ退位後は普通の人になる。ところが、日本では歴史的に天皇が退位すると上皇となり、天皇以上の権力をふるうことが少なくなかった。
 門井さんは、将軍についても同じことで、足利義満や徳川家康はその職を退いても「大御所」として権力をふるった、平清盛も〔豊臣秀吉も〕将軍にはならなかったが、同じように職を退いてからも権力を維持したという。「将軍という地位に価値がないわけでは」ないが「人間に箔をつける装置」(17ページ)だったのではないかといい、本郷さんもその認識で間違っていない、少なくとも初期においてはそうだったのではないかと同意している。

 将軍は征夷大将軍だけではない
 前項の門井さんの発言に続ける形で、本郷さんは将軍は征夷大将軍だけではない、鎮東将軍、征西将軍など、いろいろある〔なぜか鎮守府将軍を取り上げていない〕、「実はその地位に実態があるわけではない、むしろ、その人物の実力を表わすために名称をつけている節があ」(17ページ)るという。
 門井さんは、源頼朝が征夷大将軍と右近衛大将に任じられているが、征夷大将軍の方が上位の地位かと尋ねたのに対し、本郷さんは、どちらが上位とは言えないと答える。近衛大将は常置の職であるが、征夷大将軍はそうではない。大将は大納言のうち2人が兼ねる職で、大臣に欠員ができた場合、大臣に昇任するという重要な地位である。征夷大将軍は別立ての職と考えるほうがいいという。門井さんは、とすると、貴族の側では近衛大将の方が上位だと考えただろうと納得する。
 平清盛は太政大臣になったが、(源頼朝は征夷大将軍と近衛大将)、足利尊氏と義詮は大納言で征夷大将軍、頼朝はなろうと思えば大臣になれたけれども、なろうとしなかったのではないかというのが本郷さんの推測である。これを受けて、門井さんが大臣をとったのが清盛、将軍をとったのが頼朝、尊氏、義詮、それに対し大臣と将軍という両方をとったのが義詮の子の義満という分類ができるという。

 言葉の意味から探る
 「将軍」の「将」は、「ひきいる」、「もちいる」という意味であるが、同じ意味の語として「帥」もある。中国では「将」も「帥」も同じくらいに使われているが、日本では「将」の方が圧倒的に多い。これは「将」が「勝」に通じると受け取られたからである。武家政治を否定した明治維新後は、「帥」を使い、天皇を「大元帥」とした。
 国土の広い中国では、将軍にもさまざまな格があり、それが重要な意味をもったが、日本では地位より人が優先されるので、そんな名称の格式にこだわる必要がなかった。
 最初に征夷大将軍になった坂上田村麻呂の場合は、まさに「将軍」であり、日露戦争の乃木将軍と同じように軍を率いて敵を倒すというイメージで考えていい存在であった。それが、源頼朝に始まる将軍との違いであった。

 将軍の権限
 坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北に遠征した際に、蝦夷の軍事指導者アテルイ(阿弖流為)を捕虜として連れてくる。田村麻呂は朝廷に彼の助命を願い出るが、聞き入れられずにアテルイは処刑される。軍事常識として、処刑するにしても、助命するにしてもわざわざ都に連れてくる必要はない。それなのに連れてきたのは、田村麻呂にはそれだけの権限が与えられていなかったのではないかと門井さんが問う。
 7世紀の後半、天武天皇の時代に日本全国に「国」が置かれた。その後、都の東側に北陸道の愛発関(あらちのせき、越前、現在の敦賀市内にあったと考えられている)、東山道の不破関(美濃、現在の岐阜県関ケ原町にあったことが確認されている)、東海道の鈴鹿関(伊勢、現在の三重県亀山市内か)が置かれた。ということは、そこから東(関東)は中央政府の支配の及ばない、未開の地と考えられていたということである。そういう場所に遠征するのだから、指揮官の権限等も詳しく定められていなかったと考えるべきであると本郷さんは答えている。

 将軍に求められたもの
 将軍は多数の兵士を率いて軍事行動をとり、勝利を収めなければならない。兵士たちの規律を守り、かれらが脱走するのを防がなければならない。兵士たちの先頭に立って戦う必要はないが、かといって後ろで兵士たちの戦いぶりを眺めているだけでもいけない。「将軍には何よりも、兵士たちを戦う気にさせる、かれらの士気を上げることが求められた」(25ページ)と本郷さんは言う。

 幕府とは何か
 将軍の居所を「幕府」とよぶが、これはどういう言葉なのかと門井さんが問う。
 鎌倉幕府の御家人たち、あるいは江戸幕府の幕閣にとって、「幕府」は聞きなれない言葉であった。江戸時代の幕閣であれば、「柳営」という言葉を使ったであろうと本郷さんが答える。〔余計な話だが、徳川幕府の幕臣で構成する「柳営会」という親睦団体がある。小和田哲男さんがゲストとして出かけたところ、三河譜代ではなくて、もともと今川、武田の家臣だったという人の子孫が多かったので驚いたと、そのブログに書かれている。〕
 「幕府」は明治時代に学者たちが考えた学術用語だという。この言葉はもともと中国で、将軍が出征中に幕を張って軍務を執り行った陣営のことを呼ぶものであった。この場合、皇帝に伺いをたてなくても、一切を自分で決裁することができた。明治時代の学者はこの例を想起して、「幕府」という言葉を使ったのだろうと本郷さんは言う。

 門井さんの次の発言が面白いので全文引用する:
 「確かに、江戸時代の史料に眼を通していて、幕府という言葉は見たことがありません。「公儀」という言葉はけっこう出てきます。公儀は江戸幕府を指す固有名詞のようになりましたが、もともとは普通名詞でオフィスぐらいの意味ですね。
 幕府という語は、言葉としては矛盾を孕んでいます。本郷さんが述べたように、幕府の「幕」はいわゆる陣幕を指します。そして統率機能を持ち、移動性が高いという特徴があります。いっぽう、幕府の「府」は役所ですから、固定されて移動性がない。この矛盾した語がピタッとくっついているところにおもしろさがあると同時に、日本史における幕府の本質と変遷を表わしているように思います」(27ページ)。

 このあと、本郷さんが自著『承久の乱』(文春新書)とほぼ同時期に出版された、坂井孝一『承久の乱』(中公新書)が「後鳥羽上皇には幕府を倒す意思がなく、義時あるいは北条一族を倒すことを命じた」(28ページ)と論じていることについて文句を言っているが、これは本筋とは別に議論されるべき問題であろう。

 「序」で将軍とか、幕府とかいう言葉についての理解を整理したので、次回は第1章「坂上田村麻呂――すべてはここから始まった」に入る。すでに述べたように、同じ征夷大将軍でも田村麻呂の場合と、源頼朝の場合ではその性格はかなり違っている。その違いを明らかにするためにも、田村麻呂についてもっと詳しく知ることは必要であろう。 

 もう50年くらい昔になるが、大学の図書館で中国の歴史書(の和訳)に読みふけっていたことがあり、その時、『後漢書』の中に大樹将軍(馮異)とか、伏波将軍(後漢の水軍の将軍であるが、特に馬援を指す)とか、跋扈将軍(梁冀)とか、やたら「将軍」という言葉が出てきたことを思い出す。  

黒田俊雄『王法と仏法 中世史の構図』

5月14日(木)晴れたり曇ったり

 今年3月に法蔵館文庫の1冊として刊行されたこの書物は、黒田俊雄(1926‐93)が1983年にまとめた論文集の増補新版(2001)に基づくものであり、実はまだ読み終えていないのだが、2001年版は読み終えたはずであり、著者による『太平記』論など見逃しがたい内容が含まれているので、改めて読み進めながら論評していくことにする。

 全体は4部に分けられ、13編の論文が収められている。それぞれの表題を紹介すると、次のようなものである:
  Ⅰ
顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点
王法と仏法
愚管抄における政治と歴史認識
日本宗教史上の「神道」
  Ⅱ
「院政期」の表象
軍記物語と武士団
太平記の人間形象
  Ⅲ
楠木正成の死
歴史への悪党の登場
変革期の意識と思想
中世における武勇と安穏
  Ⅳ
「中世」の意味――社会構成史的考察を中心に
思想史の方法――研究史から何を学ぶか

 それでは巻頭の論文である「顕密体制論の立場――中世思想史研究の一視点」から見ていくことにしよう。黒田は、1975年に発表された『日本中世の国家と宗教』のなかの論文「中世における顕密体制の展開」において、彼自身も含めてそれまでの中世史研究を支配していた武士中心主義、鎌倉仏教重視の考え方に異論を唱え、武士だけでなく公家や寺社の活動についても重視すべきこと、また天台・真言や南都の諸宗からなる顕密仏教こそが中世において支配的な仏教であったことを強調した。これには当然、異論や反論が寄せられ、それらの論評に対してこたえていくものとして、改めて書かれたのがこの論稿である。1977年に刊行された『現実のなかの歴史学』に収められたものであり、『王法と仏法』の1983年には収められていなかったが、黒田の死後、2001年の増補新版で付け加えられた。黒田の業績の特徴を理解するために、最も適した論文であると編集者が判断したためであろう。

 黒田は自説が思想史研究において従来見逃されてきた視点から中世の思想状況を見直すべく問題提起を行うものであるという。そして、宗教思想が中世思想のすべてではないとはいうものの、中世の日本において仏教と儒教〔儒教が宗教であるとする意見に対し疑問がないわけではない〕以外には体系化された思想がなかったことも無視すべきではないと主張する。そして中世の日本の社会と思想を見ていくうえで、宗教を中心に考えていくことは有効な方法であると論じるのである。

  1 中世顕密仏教研究の意味
 高校の『日本史』や『倫理』の授業を思い出してみればわかることであるが、中世日本の仏教は法然・親鸞・道元・日蓮らの新宗教を中心として論じられ、「顕密仏教は中世思想史ではむしろその旧時代性について指摘されるのが常である」(11ページ)。〔旧仏教の僧侶で言及されるのは明恵くらいであろうか。〕

 しかしながら、中世では顕密仏教こそが時代を通じて宗教の世界における支配的地位を保持していたことは疑いのないことであると黒田は指摘する。「鎌倉時代に新仏教が起こって宗教が一変したようにいうのはある程度は当たっているが、『旧仏教』なる顕密仏教の影が薄れたかのような理解があるとすれば、それは一面的に単純化され定式化された教科書によって普及された虚像でしかない。」(11‐12ページ) 
 黒田は、この時代の史料の多くが公武支配層や顕密仏教の僧侶によって残されたものであるという事実を指摘し、だから彼らに有利な記録が多いことは否定できないが、人々の生活の大半を支配していたのがこれらの人々の影響力であったことも確かだと論じている。思いだしていいのは、呉座勇一さんの『応仁の乱』が同時代の興福寺の高僧の日記を史料として書かれていることである。興福寺が顕密仏教の寺院であることは言うまでもない。また細川重男さんの『執権』には、「出家」と「遁世」は中世では意味が違っていて、「出家」というのは顕密仏教の僧侶になること、「遁世」は新仏教の教団の構成員になることであると記されていた〔つまり、佐々木四郎高綱は「出家」し、熊谷次郎直実は「遁世」したということである〕。

 また、顕密仏教は国家権力と緊密に結びつき、というよりもその一翼を形成するものですらあった。この後、この書物に登場する『愚管抄』の著者慈円は何度も天台座主になった高僧であるが、関白にもなった九条兼実の弟である。また『太平記』を読めばわかるが、持明院統と大覚寺統の両方の皇統がそれぞれ自分たちの陣営から法親王を送り込んで、天台座主に就任させていたこともこのことを裏書きするものである。
 したがって顕密仏教の内容と性格を明らかにすることは、中世の国家の特質とその支配イデオロギーを知るうえで不可欠であり、顕密仏教についての理解なしには公武支配層の思想を理解することは難しい。新仏教の祖師たちの教説はこの点をめぐってはほとんど必要ない(黒田は「禅宗を除いては」と書いているが、禅宗でも夢窓疎石のように権力と結びついた僧もいるし、道元のように権力や金持ちに近づいてはならないといった僧もいる)。

 顕密仏教の教理は精巧で難解なものであり、当時の民衆の生活とは無縁なものであるという議論もある。また思想史は民衆の思想史でなければならないという主張もある。しかし、当時の民衆の思考や論理だけを辿ろうとしても、わかることは少ない。「民衆にとっての思想史の真実は、むしろその上におおいかぶさっていた壮大な思想体系の重圧とのたたかいであったはずである」(13ページ)。その戦いの過程の全容を理解することなしに、中世の思想史を理解することはできないと黒田は考えている。

 顕密仏教の中世宗教史における中心的な役割を認めないのは、新仏教系の思想にこそ「中世的なもの」が典型的に見られるという判断があるからであろう。たしかに、新仏教系に「中世的なもの」が見られることは認められるが、同時代の顕密仏教がなおも「古代的」であったという論証はなされてきただろうか、また「中世的なもの」の発現を新仏教系の枠内にのみ留める論拠はどこにあるのだろうかと黒田は問う。

 顕密仏教体制が中世においてきわめて重要な支配的地位を占めていた事実を無視して、中世思想史を研究することはできないというのがこの書物の出発点である。

 今回は、最初の論文のそのまた最初の部分しか紹介できなかったが、次回以降できるだけ速度を上げて内容の紹介と論評に取り組んでいきたいと思う。 次回は、そもそも「顕密」というのはどういうことかをはじめ、より具体的な内容に入っていく。
  

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(22)

5月13日(水)晴れ、気温上昇

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊を率いて、東南アジア諸国を歴訪、熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。この旅行の後半、1958年2月から3月にかけて、梅棹は隊員である吉川公雄(医師・昆虫学者)とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスのインドシナ3国を訪問した。通訳を兼ねて、当時外務省留学生としてタイの日本大使館にいた石井米雄(1928‐2010)が同行した。
 3人は2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、農村やゴムのプランテーション、バッタンバン、首都プノムペン、港町カムポットなどの都市を訪れ、前年のアンコール・ワット訪問の旅と合わせて、トンレ・サップ湖の一周を完成させ、湖上の集落を訪問したりした。
 2月21日にプノムペンを出発し、その日のうちに(南)ベトナム(当時)の首都であったサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。28日にサイゴンを出発、3月5日にアンナン帝国の首都であったフエに到着した。7日にフエを出発、国境を越えてラオスに入国した。
 3月8日にラオス第2の都市であるサワナケートに到着、その日のうちにターケークにたどりつき、一泊、3月9日に大森林の中の道なき道を進み、ナム・カディンという渡し場に到着して一泊、3月10日に首都ヴィエンチャンに到着した。

 今回から第18章「高原の朝」に入る。ラオスはASEAN加盟国の中で唯一の内陸国、つまり海に面する部分がない国である。国土の70%が高原や山岳地帯だという。なお、ASEANが結成されたのは1961年、ラオスがASEANに加盟したのは1997年のことである。

第18章 高原の朝
 旅行許可証
 ヴィエンチャンはラオスを北部、中部、南部にわけると中部に属する〔この旅行では、梅棹たちはなぜかラオスの南部を旅行していない〕。ヴィエンチャンから北への旅行は困難であることが予想された。北部にある王都ルアン・プラバンならジープで行けないこともない。しかし、時間がかかりそうである。そこで飛行機で旅行することになった。ウェーハー・アカートという北ラオス専門の航空会社があるということなので、さっそく様子を聞きに出かけた。
 前回も触れたように、ラオスはこの時期、中央政府とパテト・ラオの間に協定が結ばれ、国内に平和が戻り、自由に旅行することができた。それでパテト・ラオの拠点となっているサムヌア、ポーンサリーの2州にもいくことができたが、時間と費用を考えて行き先を、シエン・クワーン(ポーン・サワン)、ルアンプラバン、ナム・ターの3か所に絞った。〔いずれも北部の都市である。〕 飛行機代は格安であったが、それでも払ってしまうと、一行の手許に残る金はほとんどなくなってしまった。
 3月11日の午前中をかけて、北部への旅行の準備をした。北部に旅行するためには政府発行の旅行許可証が必要であるが、これは日本大使館の尽力で簡単に取得できた。さらにジープを整備に出した。

 小さな飛行機
 3月12日の朝10時、飛行場に出かけた。〔現在のワットタイ国際空港とは別の空港のようである。〕 「簡素なあけっぴろげの待合室があった」(189ページ)。眼に入ったのはタイ航空の双発機、ラーオ航空の20人乗りくらいの双発機であるが、3人が搭乗するのはそれらではない。「ひとつ、格納庫の前に、豆飛行機がいた。タイ航空の双発機に比べると、大型バスの前の自転車みたいだった。それが、わたしたちの乗るシェン・クワーン行きの飛行機だった」(190ページ) これは相当なものだと、3人は覚悟を決めて飛行機に乗り込む。
 
 10時35分に飛行機は飛び立った。お客は3人だけで、そもそも座席が3人分しかなく、3人のうち1人は操縦士の隣に座るのである。操縦士はフランス人で、パイプをくわえたまま、気軽な調子で機械を操っている。目の前でたった一つしかないプロペラが回っている。下を見ると、脚の大きなゴム・タイヤが、ニョッキリつき出している。引き込み脚などという上等なものではないのである。〔この時代は、プロペラ機が一般的で、ジェット機はまれであった。現在のラオスでは、近距離の航行にはヘリコプターが使われているらしい。〕

 梅棹が、もし墜落しても新聞に載らないだろうというと、石井がそもそも載るべき新聞がないと答える。「まもなく、ヴィエンチャン平原の水田地帯は終り、山の中に入った。村も、町も、なにも見えなかった。深い森林の連続だった。ところどころ、山陵に森を切りひらいて集落が見え、森の中のひびわれのように、細い小道が見えた。メオ族の住まいであろうか」(190ページ)。
 メオ族と梅棹は書いているが、ミャオ族という方が一般的のようである。中国の少数民族である苗族で、東南アジアへと南下してきた人々も少なくなく、すでにこの書物のタイの部分にも登場した。

 飛行機は文明の第一歩である
 ちょうど1時間でシェン・クワーンの飛行場に到着した。
 飛行機はいろいろな荷物を下ろす。何のことはない、一行は雑貨運搬用の飛行機に便乗させてもらったというだけのことだったのである。
 「アマゾンの奥地あたりでも、テコテコという小型飛行機が、唯一の交通機関になっているということである。ここも同じだ。世界中どこでも、一番不便な未開発地域というものは、鉄道や自動車の段階をとびこえて、まず飛行機から交通がはじまるのである」(181ページ)。「ここでは飛行機は文明の第一歩であり、自動車が未来の目標なのである」(191‐192ページ)。
 飛行場には6,7人のメオ族が来ていた。男も女も盛装していたが、ハダシだった。「きっと山の部落から盛装で出てきて、飛行機を見に来たのだろう」(192ページ)。

 ジャール平原
 シェン・クワーン飛行場というが、ここはポンサワンというところだった。「見すぼらしいわら屋根の店が並んだ、ほこりっぽい田舎町だった。航空会社の事務所というのは、タバコ屋の店先みたいなところだったが、そこで事務員にきくと、シェン・クワーンまでは20キロ以上もあるという。バスはない」(192ページ)。その辺にいるジープを捕まえて乗ってくれというのである。
 ジープは乗り合いで、メオ族の若い夫婦が乗っていた。乳飲み子を抱えた妻の方は梅棹の家の近所に住んでいる若い女性にそっくりだと彼は思う。「まったく、メオは顔だけからいえば、日本人とそっくりだ」(192ページ)。

 道は素晴らしく、高原の眺めも晴れやかだった。地図を見ると、このあたりはチャンニン高原(Plateau du Tran Ninh)というのだが、これはベトナム語による呼び方である。「また、この附近には、先史時代の巨石文化といわれる石のカメがごろごろ転がっているところがあって、ジャール平原Plaine des Jarresなどとよばれているのであるが、これもフランス語である。ラーオ人は高原などというものには名をつけないのかもしれない」(193ページ)。〔高原に住んでいるラーオ人にとっては、高原は当たり前すぎるから名前を付けないということらしい。ジャール平原の巨石文化は、2019年にユネスコの世界文化遺産に指定された。日本からもツアーが組まれているようである。なお、1961年に、元陸軍大佐で戦後は政治家になっていた辻政信がジャール平原で謎の失踪を遂げるという事件があった。〕

 「やがて、高原の中心『都市』、シェン・クワーンについた」(193ページ)。 この後再開され、1970年代に激しくなったラオス内戦で、シエン・クワーンの町は徹底的に破壊され、ポンサワンの方がこの県の県庁所在地(郡)となったのだから、先のことを予見するのは難しいものである。

 総督閣下
 シェン・クワーンの町はずれの丘に登って町を一望する。真ん中に1本通りがあって、その両側に建物が散在しているだけで終わりである。歴史的に名高い(といっても、私は知らない)待ちにしてはあまりにもあっけない眺めである。
 シェン・クワーンは、ラーオ族がタイ族から分かれるよりずっと前からの、広い意味でのタイ族の、もっとも古い拠点の1つである。8世紀にタイ族が雲南でナンチャオ(南詔)王国を称していたころから、シェン・クワーンは伝説的なタイ族の七侯国の1つであったと考えられている。〔梅棹は「七侯国」と書いているが、どことどこがその中に数えられていたかは記していない。〕

 メコン河谷を中心に展開したラーオ系諸侯国は、チャオプラヤー川流域に進出したタイと密接な関係をもち続けるが、その中でシェン・クワーンはトンキン地方に近いという地理的な位置から、しばしばベトナムの方に密接な関係を結んでいた。タイとベトナムという、二大勢力にはさまれてしばしば紛争の地にもなった。
 1826年、ヴィエンチャン侯アーヌは、宗主国のタイに対して反乱を企てるが失敗し、ベトナムに逃げ込む。フエのミン・マン(明命)帝の支援を得て再挙を図るが成功せず、シェン・クワーンに逃げ込む。シェン・クワーン侯国のチャオ・ノーイはつらい立場に置かれるが、結局アーヌをタイに引き渡してしまう。その結果はたちまちシェン・クワーンにはねかえり、ベトナム軍の来襲を受けてシェン・クワーン侯国は滅亡、アンナン帝国に併合される。〔ヴィエンチャン侯国も滅びていたので、残るラオスの侯国はルアン・プラバンとチャムパ―サックの2つになった。〕

 インドシナを支配するようになったフランスも、この地方をアンナンと結びつけようとしてヴィン(永)からソン・カ川に沿って、バルテルミー峠を越え、シェン・クワーンに達する険しい道路を開いた。アストリッド女王道路といわれる。〔ベトナムにおける交通の要衝の1つであるヴィンは当時(北)ベトナムに属していたので、梅棹はこの道路を通ることができなかった。〕

 一行は総督閣下に会いに出かけた〔県の代表者だったら、知事のはずだが、「総督」と書いているのは、当時のラオスは現在と地方行政制度が違っていたのであろうか〕。総督は、一行のために宿舎を手配するように取り計らってくれた。
 「シェン・クワーンの町は、役所と、学校と、警察と、要するに公共施設を除くと何もないような町だった。それでも、ほんの少しばかり店があって、かごを下げた黒タイ族の娘が買物に来ている姿も見られた」(195ページ)。

 ラオスの北部に到着して、一行はこの国の少数民族を目にすることになった。新興国ラオスの直面し、解決すべき多様性を見ることになるのであるが、詳しいことはまた次回に。
 

日記抄(5月6日~12日)

5月12日(火)晴か曇りか判断に迷う空模様である。次第に雲が広がる。その中で気温上昇。

 5月6日から本日の間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

 以前にも書いたつもりであるが、パンデミック(pandemic)という言葉の語源は、ミルトンの『失楽園』のなかのPandaimoniumという言葉に起源をもつ。「万魔殿」と訳される。この場合のpanは「あらゆる」という意味のギリシア語である。神に反逆したルシファーは自分に同調して神のもとを追われた堕天使たちとともに自分たちの本拠地を築く。それが「万魔殿」である。
 ミルトン(John Milton, 1608-74) 、『天路歴程』の作者ジョン・バニヤン(John Bunyan、1628‐88)、『ロビンソン・クルーソー』、『ペスト』、『モール・フランダース』の作者であるダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660-1731)はイングランドのピューリタンに属する文学者であり、それぞれの作品は、作者が生きた時代のピューリタンが辿った運命を反映しているところがある。

 カミュの『ペスト』よりもデフォーの『ペスト』(または『疫病年代記』)の方が古いという話を書いたし、それよりも古く、ボッカッチョの『デカメロン』はペストの禍を避けて山中の別荘に潜む男女の語る話という形式をとっているということもご存知であろうが、もっと古く、ギリシアの歴史家トゥキュディデスの『歴史』の中に、アテナイを襲った疫病についての記述がある。ペロポネソス戦争が始まって2年目の夏に、アテナイでは疫病が発生しはじめる(第2巻47節:小西晴雄訳、ちくま学芸文庫版では161ページ以下)。トゥキュディデースは彼自身もその疫病にかかった経験を踏まえて「その実際の経過を述べよう」(162ページ)と書いているが、小西さんの訳注によると、「この疫病の病名は判然としない。チブス、はしか等が考えられるが、いずれもトゥキュディデスの描写に必ずしも一致しない場合がある。疫病はその発生のたびに形体の変ることがあるので、病名の決定はトゥキュディデスの描写からのみでは不可能のように思われる」(457ページ)そうである。

5月6日
 『朝日』朝刊のコラム「後藤正文の朝からロック」で、後藤さんは矢内東紀さんが『しょぼい生活革命』という対談本の中で語っている「想像もつかないようなことを包摂していくのが多様性ではないか」、「自分の想像で多様性を設計すると危ない」という言葉に強い印象をうけたと語っている。この矢内さんの言葉に続けて、対談者の内田樹さんが「共感を過剰に強制する社会の危険性」を指摘していることについても触れている。「共感者の多い集団では、少ない語彙で打てば響くようなコミュニケ-ションが行えるが、異論や違和感を表明する人は妨害者として排除される」ことになるという。
 谷沢永一が親友であった開高健について、彼が他人に自分の心中を「忖度」されることを極度に嫌ったと書いていたことを思い出した。世の中には、心中を忖度されることを嫌う人間がいるのだということが理解できない人間がいるというのは困ったことである。わたしも、どちらかというと、嫌いな方で、付き合いにくい人間だと思われているところがあるかも知れない。

 『東京』は「忘れない 映画が消えた日」と、緊急事態宣言発令の翌日である4月8日に、映画監督の泉原航一さんと写真家の橋立拓也さんが都内の映画街や撮影所などを回って、その様子を写真に収めたことを紹介している。撮影した写真は映画関連以外も含め4,000枚に及ぶという。
 昨年、見た映画が10本に満たず、今年こそは2桁を回復しようと考えていた矢先のコロナ禍である。いつになったら映画を見に出かけられるのだろうか。

5月7日
 下川裕治『12万円で世界を歩くリターンズ タイ・北極圏・長江・サハリン編』(朝日文庫)を読み終える。この中で「タイ編」は、このブログで取り上げている梅棹忠夫『東南アジア紀行』と重なるところがあって、特に興味深かった。
 ラオスとの国境となるメコン川の河岸をトゥクトゥク(三輪タクシー)で走っていると、ラオス側にはこんな国境地帯に…と首をかしげたくなるような大型ビルが建設されている。
 「中国が建設を進める経済特区だった。ここにホテルやカジノをつくり、一大観光リゾートをつくるという構想らしい。やってくるのは中国人観光客だろうか」(75ページ)。
 横浜にIRを建設しても、ほかのリゾート地との競争を勝ち抜けるかどうか、はなはだ疑問であると思う。だから、IRには反対で、4月に有隣堂本店に出かけた際に、近くでやっていた署名活動に協力してきた。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語」の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
We are full of weakness and errors; let us mutually pardon each other our follies. It is the first law of nature.
---- Voltaire (French philosopher and writer, 1694- 1778)
(私たちは皆、欠点だらけで、過ちを犯してばかりいる。ゆえに、お互いの愚行は許し合おうではないか。それが自然の第1法則だ。)
 ヴォルテールは(デカルトも同様であるが)、イエズス会の学校で教育を受けたが、その人文主義的な伝統を身に付けた一方で、護教的な精神の方は身に付けなかった。私にとっての生きる支えのようなものは、デカルトとヴォルテールの知的伝統の流れの中で自分がものを考えているということである。

5月8日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
If a man does not make new azquaintances as he advances through life, he will soon find himself left alone. A man, sir, should keep his freindship in a constant repair.
  ―― Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709 - 84)
(人は、人生を歩む中で新しい知人を作らなければ、自分が一人ぼっちであることにほどなく気づくだろう。人は、友情を絶えず修復していかなければならない。)
 昨日取り上げたヴォルテールの『カンディード』と、このジョンソンの『ラセラス』(『幸福の探求』という訳題で岩波文庫に入っている)は、主人公があちこちを遍歴しながら幸福を探求するということなど共通点の多い作品としてしばしば論じられる。『ラセラス』は文学的な完成度において『カンディード』に劣るが、登場する人物たちの気立てが優しく描かれているので、読んでいて気持ちが和むところがあって捨てがたい。

 NHK高校講座『古典』は、『宇治拾遺物語』のなかの「亀を買ひて放つこと」という説話を取り上げて読んだ。ある人が50貫という銅銭を出して亀の命を助けたが、その売った人の乗った舟が転覆して沈み、亀が人間の姿になってやってきて、50貫の金がもとの持主のところに戻ったという話である。この話は他の説話集にも出て来るが、『宇治拾遺物語』の作者は、それらとは別の語り方をしているという。
 この放送は昨年度も聴いたような記憶があるが、その時には気づかなかったことで、今回気づいたことがある。それは『宇治拾遺物語』の成立は鎌倉時代の初期ということであるが、この説話のなかには銅銭が登場している。たしかに平安時代の終りに、平清盛が日宋貿易で宋から銅銭を輸入したということはあったけれども、どの程度、銅銭は流通していたのだろうかということに物語の筋とは別の興味をもった。考えてみれば、鎌倉の大仏は中国から輸入した銅銭をとかして鋳造されたといわれるから、かなりの量の銅銭が流通していたことは間違いないのだろう。

5月9日
 『朝日』の朝刊にコロナ禍のなかでの政府の「経済支援策 足りぬ『スピード感』」という見出しの記事が出ていたが、足りないのは「スピード感」ではなくて、スピードそのものだろう。「やってる感」でお茶を濁してきた政府のペースに、ジャーナリズムも乗せられているということだろうか。

 同じく『朝日』にオンライン学習の推進によって生じる「学校PC特需」をめぐり、ウィンドウズ、アップル、グーグル(クロームブック)3者による争奪戦が展開されているという記事があった。値下げの余波がこちらにも及んでくれば、それはそれでいいことである。

5月10日
 『朝日』朝刊は、「9月入学」の是非をめぐり、慎重派の前川喜平さんと推進派の藤川大祐さんの談話を掲載している。将来的には9月入学を考えてもいいとは思うが、コロナ禍がいつ終息するかわからない中で、9月入学への移行を考えるのはいかがなものか。この問題については少し時間をかけて考えていきたい。

5月11日
 「9月入学」をめぐって『読売』が実施した世論調査では回答者の54%が賛成したという。その一方で同紙は、この改革が直面するであろう難問も列挙している。『日経』には早稲田大学の田中愛治総長の論説が掲載されていて、これも現場の意見をよく聞いて慎重に進めるべきだという議論である(『日経』自体は、財界の意向を反映して「9月入学」に前向きの報道が多いが、このように慎重論を掲載しているのも注目していい)。

 恒例によって各紙の1面コラムの紹介。『朝日』の「天声人語」はクリミア戦争で看護にあたったフロレンス・ナイチンゲールがその後、統計的手法を用いて、兵士の多くが戦闘ではなく感染症で命を落としたことを示し、軍隊のなかでの衛生状態の改善を訴えたことを述べている(5月12日はナイチンゲールの誕生日で、今年は彼女の生誕200年にあたるそうである)。以前にこのブログで触れたが、英国ではすでに17世紀に医師であったウィリアム・ペティーが統計による社会現象の分析を行っている。この時代の英国で、すでに社会統計は少なからず行われていたが、ペティーの場合はそれを通じてより一般的な原理を探求しようとしたところに特徴があるとシュンペーターは評している。なお、クリミア戦争に砲兵将校として参加したレフ・トルストイはその後、生涯にわたって反戦を訴えた。ナイチンゲールの業績を否定するものではないが、私はトルストイの方をもっと高く評価する。
 「産経抄」は、コロナウイルスの蔓延によって「国権の最高機関」である衆議院の審議が危機に瀕していることを強調し、緊急事態に対応する条項を盛り込んだ改憲の必要性を論じる。国会法の見直しで対処できる問題だろう。論理が飛躍している。確認したわけではないが、千風さんのブログ「老婆は一日にしてならず」によると、首相官邸ホームページでは国民の上に行政があると主張しているそうである。もし本当のことだとすると、そちらの方が問題だ。
 『東京』の「筆洗」は外出自粛の中で酒で憂さを紛らわす人が多くなっていることを踏まえて、燗の種類について述べた後、飲みすぎに気をつけようと訴えている。
 『日経』の「春秋」はニューヨークの近代美術館がデザインを収集してきたこと、その中には懸け橋の象徴であるレインボー・フラッグも含まれていることを述べ、コロナ禍を乗り越える新しいデザインの誕生への期待も述べている。『毎日』の「余録」はこのコロナ禍の中でラジオやタイプライターのような「手作り感とぬくもり」のあるものの人気が高まっていることを語る。『読売』の「編集手帳」はコロナ対策における国際的な協調と思いやりの必要性を訴えている。

 『朝日』に「小松左京 現実が後追い」として、彼の作品に描かれた世界がその後、つぎつぎと現実のものとなっていると指摘されている。以前にも書いたように、私は小松さんの周辺にいた時期があるが、その時点ではどうも反発するというか、あまり親しめなかったという記憶がある。もう少し、謙虚に学んでいく姿勢をもって接すればよかったと思うが後の祭りである。

5月12日
 『朝日』朝刊に解剖学者の養老孟司さんが「新型コロナ 人生は本来 不要不急」という文章を寄稿されている。養老さんは私の中学・高校の8年先輩にあたるのだが、読んでいて、同じ学校を出ていると、考えることが似て来るのかなあという感想をもった。私を含めて、同期生にはお役人や大学の先生になった人が少なくないが、立身出世よりも、世の中の縁の下の力持ち的な存在として生涯を送り、社会と経済と文化とを支えてきたのだと言いうるような人物が少なくない(私はその中に入らないかもしれない)。とにかくある程度の含羞(私の同期生のK君に言わせると「羞恥心」)と謙虚さをもって世の中の荒波を渡ってきた人物が多いように思う。
 中卒、高卒、短大卒、大卒、院卒…というのを学歴と言い、東大卒、慶大卒、早大卒…というのを学校歴という。人生に対する影響力はもちろん、学歴>学校歴である。しかし、学校歴というのも多少は人間の生活や思考様式に影響するものである。
 何が言いたいかというと、現在首相補佐官を務めている和泉洋人氏は小生の(そして養老さんの)後輩であるが、どう考えても我が母校の含羞の文化を継承しているとはいいがたい、恥さらしの人物であるということである。

 「9月入学」をめぐり日本教育学会が懸念を表明する声明を発表したと『読売』が報道し、『朝日』も「課題山積」と慎重な姿勢を見せている一方で、『日経』は「G20 4月入学は日印のみ」と前向きの報道姿勢を見せている。他のことでは意見が違う『朝日』と『読売』がこの点をめぐっては同調しているように思われるのは、「9月入学」が高校野球を取り上げてもわかるように、大きな社会的変化を伴うことだからであろう。
 高校野球は現在のところ、春(4月・5月)に休日を利用して大会が開かれ、地方レベルでのトーナメント戦が行われ、夏(6月・7月)にまた大会が開かれて、それが甲子園での全国大会の予選となっている。夏の大会を区切りとして、3年生が退部して1年生と2年生での新チームが結成されて、秋の大会があり、これも地方レベルのトーナメント戦を経て、明治神宮大会があって、ここでの成績を考えながら、次の年の春の選抜の代表校が選ばれるというスケジュールになっている(間違いがあったら、ごめんなさい)。もし9月入学制になると、夏の甲子園は現在の選抜大会と同様に新3年生と新2年生だけで戦われるということになる。あるいは春の大会の上に明治神宮大会をもってきて、それを高校選手権として、夏の甲子園を現在の選抜大会と同じようなものに位置づけるという考えもあるだろう。とにかく、現状を維持することはできそうもないので、今後の方向性については議論百出になるのではないか。だから、この問題一つをとっても、そう簡単に移行に踏み切るわけにはいかないと思われるのである。

 どうも書くことが多くて、疲れてしまい、皆様のブログを訪問する余裕がなくなりました。ご容赦ください。 
 

『太平記』(314)

5月11日(月)曇りのち晴れ

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬討伐のため西国へ向かった尊氏は、直義と南朝の合体を知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は、石清水八幡宮に陣を構え、それに呼応して越中守護の桃井直常(もものいただつね)が上洛した。形勢不利と見た足利義詮は京を退いた。正月15日、尊氏と高師直は、義詮と合流し、京一帯で桃井軍と戦った。この時、師直の家臣である阿保と桃井軍の秋山とのはなやかな一騎打ちは、人々が絵に描いてもてあそぶほど評判となった。桃井との合戦に勝利したにもかかわらず、離反者が続出した将軍方は、丹波路を西へ落ち、義詮は、丹波井原の石龕寺に留まった。

 高師直の弟である師泰は、この時まで、石見の国の直冬方である三角兼連(みすみ・かねつら)が籠っている三角城を攻略しようと、石見に留まっていたのであるが、師直から飛脚による連絡があり、「摂津の国、播磨の間の合戦の状況が切迫している。早く石見での合戦を切り上げて、将軍の陣営に加わってほしい。中国地方の武士たちのなかには、将軍方の勢力の弱体化に付け込んで、師泰軍の合流を邪魔するものが出てこないとも限らないので、高師直の子である師夏を備後に派遣して中国地方の反将軍方の武士たちの動きを示して待っていることにする」と伝達された。師泰はこれにより事態の急変を知って驚き、急いで石見を出発し、約束通り師夏が播磨を出発して備後の石崎(いわさき=広島県福山市駅家町)に到着した。

 尊氏は八幡に陣を張る直義、比叡山の桃井直常の軍に押されて、播磨の書写(兵庫県姫路市西北の書写山、天台宗寺院である円教寺がある)の坂本(麓)に落ち延び、師泰は三角城を攻めあぐんだ末に東へと引き返してくるという情報を得て、直義方の上杉朝定(扇谷上杉氏の重顕の子、尊氏・直義兄弟の従兄弟である)は八幡から船に乗って西にむかい、備後の鞆(広島県福山市鞆町)に上陸した。これを聞いて備後、備中、安芸、周防の武士たちはわれもわれもと上杉の陣営に駆けつけ、「その勢雲霞の如く似て、靡かぬ草木もなかりけり」(第4分冊、402ページ)という勢いであった。

 このような情勢の中で、高師夏は師泰が戻って来るのを待たないで、中国地方には滞在せず、すぐに上洛する(というよりも、播磨の尊氏のところに戻る)という噂が伝わってきたので、上杉はとるものもとりあえず、後を追いかけて攻め滅ぼそうと3千余騎を率いて、草井地(福山市草戸町)を出発し、師夏軍を追跡する。
 師泰はこのような動きを夢にも知らず、先を急ぐ旅であるから馬を急がせて、西山(せいやま、岡山県倉敷市真備町妹=せにある山)を越えた。小籏一揆、伊豆の武士である河津氏明、遠江の武士である高橋英光(河津、高橋はともに師直兄弟麾下の大旗一揆に属していた)、備中の武士である陶山(すやま)高尚・師高兄弟らは、この軍勢の後陣としてはるか後方を進んでいた。

 状況を整理すると、武蔵五郎こと高師夏は、師直の子で母親が摂関家の娘であり、この時点ではかなりの年少(10代前半)であったと思われるので、お飾りの大将であって実際に指揮を執っていたのは、『太平記』に名を記されていない何者かであったと思われる。〔石見の師泰が再三の連絡にもかかわらず戻ってこない(師泰の判断ミス。関ケ原の戦いの際の徳川秀忠のミスと重なる)ので、尊氏・師直は師夏を催促の武将として派遣し(つまり、それだけ師夏が一門の中で重んじられていたということである)、それでやっと師泰も事態の深刻さを知ったということだが、師夏を派遣したことが果たして的確な判断であったかどうかということが今後の展開で問われることになる〕。その師夏を追って、直義方の上杉朝定が軍を進めるが、実は高師泰の軍勢はすでに朝定の前を急行していた。〕

 上杉朝定の軍勢の先陣と、高師泰の軍勢の後陣の距離は狭まっていたのだが、お互いにお互いの軍勢の多少が見定められるということはなかったので、上杉の先陣の500騎余りの兵が、師泰軍の最後尾の陶山の軍を見つけ、楯の端をたたいて鬨を作って戦闘を徴発する。〔上杉の先陣が500余騎、陶山が100余騎だから本来ならば勝負にならないのである。〕 陶山は敵に後ろを見せたことのない剛勇の武士だったので、この挑戦を受けて立ち、縦横に自軍を展開させて戦闘を継続させる。両軍の間に華々しい戦闘が展開される。

 とはいうものの、陶山軍は師泰軍の本隊から離れてしまっているので、本隊からの応援は期待できない。とうとう大将である陶山高直が体中に傷を受けて討死してしまう。それを見た舎弟の陶山師高も死を覚悟して、こうなったら自分の最期に相応しい相手を見つけて死のうと考え、土屋平三(現在の神奈川県平塚市に住んだ武士)と組打ちをして、討死する。大将たちの死を目の当たりにした陶山の一党は、自分たちの命を惜しまず必死になって戦い、そのため上杉の先陣は相当な損害を被ったのだが、とにかくこの戦闘に勝利を収めることができた。

 宮兼信(備後の国一宮である吉備津神社/広島県福山市新市町の社家)は初めのうち70騎ほどを率いて師泰軍の中盤(ということは陶山軍の前方)を進軍していたのだが、後陣の戦闘で味方が負けたといううわさが広がって、配下の武士たちがいつの間にか戦線を脱落し、数えてみると自分に従うものは6騎だけになってしまった。しかし、臆病な連中がいなくなったのは自分にとって好都合だ、敵が勝ちを収めて油断しているすきに急襲してやろうと、6騎で攻めかかる。
 これを見て、小旗一揆、河津、高橋の500余騎が続き、上杉方はすっかり浮足立ってしまい、反撃を試みることもなく退却し、それだけでなく大将である上杉朝定も重傷を負い、多数の死傷者を出して惨敗する結果となった。

 このようにして、備中の国の合戦には高師泰はたやすく(と『太平記』の作者は書いているが、これまで見てきたように、それほどたやすい勝利ではなかった)勝利を収めることができた。ここから尊氏と師直のいる播磨までは、特に大きな敵に出会うこともなく進軍できると思っていたところ、美作の武士である垪和(はが)、角田が700人ほどを集めて、美作と播磨の境にある山陰道の要所・杉坂(岡山県美作市と兵庫県佐用郡佐用町の間にある杉坂峠)をふさいで師泰軍の進路を阻もうとした。しかし、備中の戦勝で勢いに乗る河津、高橋の軍勢は相手を圧倒してしまい、美作の武士たちは戦うこともせずに逃走し、全滅したのであった(実際はほとんどが逃走したのだろうと思う)。
 備中・美作での戦いに無事に(とも言えないのであるが)勝利したので、師泰軍と、それに合流した師夏軍は喜び勇み、2月1日に播磨の国の尊氏・高師直の陣営に到着したのであった。

 都での合戦に勝利したにもかかわらず、尊氏と高師直の陣営から離反する武士が相次いだことについては、『観応の擾乱』(中公新書)における亀田敏和さんの分析を踏まえて、次回以降考えていくつもりである。備中は高一族の南宗継が長年守護をつとめ、一族にとっては本拠地の一つに数えられる土地であったので、『太平記』に記されているような個別の戦闘の結果はさておいても、師泰・師夏軍の優位は動かなかったのであろう。とにかく、これまであまりいいことがなかった尊氏・師直にとっては師泰・師直の合流が久々の朗報であったことは否定できない。しかし、事態はさらに深刻さを増していく。それがどういうことかは、また次回に。

 観応の擾乱は尊氏・直義兄弟の骨肉の争いであるけれども、その一方で、尊氏の子である直冬・義詮の骨肉の戦いでもあって、さらに言えば、尊氏・直義の世代から、ともに尊氏の子である直冬・義詮の世代への世代交代を促した戦乱であったともいえるのではないか。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(43)

5月10日(日/母の日)曇り、朝、雨が降っていたらしいが、その時分にはまだ寝ていた。

 ダービーシャーのペムバリー(架空の地名)のダーシーの邸宅を訪問し、彼に対する認識を改めただけでなく、思いがけず手厚いもてなしを受けたエリザベスであったが、ブライトン(イングランド南東部の保養地で、当時の軽佻浮薄な流行の中心地の一つであった)に出かけていた5人姉妹の末の妹であるリディアが、ダーシーにとって忌まわしい存在である義勇軍の中尉ウィッカムと駆け落ちしたという知らせを受けて急遽、ハートフォードシャー(ロンドンのすぐ北に位置する)ロングボーン(架空の地名)の自宅に戻ったのであった。あまり頼りにならない、父親のベネット氏に代わり、母親の実弟でそれまでエリザベスと一緒に旅行していたガードナー氏がロンドンに向かい(彼はロンドンのシティに本拠を構える商人である)、ウィッカムとリディアを然るべき条件の下で結婚させることになったので承認してほしいと連絡してくる。ベネット氏はそれを受諾するが、義弟に負担を強いてしまったことを後悔している様子である。

 今回は第3巻第8章(第50章)に入る。前半部分だけの紹介になる。
 少しおさらいをしておくと、ベネット家では男系の限嗣相続制をとっていたので、ベネット氏の財産の主要部分は一番身近な親族の男子であるコリンズ氏に継承されることになっていた。財産の主要部分を特定の個人が相続するというやり方は、財産を分割しないことで、ある家系の経済的な地位を保つことを目的とするものである。ここで注意を喚起しておきたいことは、イングランドには養子という制度はないということである。だからベネット家の5人姉妹は、ベネット夫妻の結婚の際に取決められた贈与分以外には父親の財産を相続できず、そのことがベネット夫人の不満の種であり、彼女が娘たちの誰か1人でもいいから裕福な紳士との結婚してほしいと願う理由でもあったのである。しかし、リディアの場合は賭博の借金で首が回らなくなったウィッカムが、姿をくらますついでに駆け落ちの相手として選ばれたという事情があって、そう喜んでもいられないはずだが、結婚と聞いただけで舞い上がってしまうところがベネット夫人の困ったところである。

 「ベネット氏は、子供達と自分よりも長生きした場合の妻の将来に備えて、収入を全部費(つか)ってしまわずに、毎年一定額を貯蓄に廻せばよかったと、しばらく前からしばしば思わないではなかったが、今ほど痛切にそう思ったことはなかった」(大島訳、519ページ)。ベネット夫人の父親は、メリトンの町の裕福な事務弁護士で、夫人に4000ポンドの遺産を残していたと第7章で語られているから、ベネット夫人についてはそれほど心配する必要はないと思われるが、問題は娘達である。リディアの結婚に際しては、ウィッカムが踏み倒しかけた借金の返済の問題と、新婚夫妻の今後の生活資金の問題が絡んでいるから、ベネット家の財産の問題は深刻なのである。義弟のガードナー氏はかなりの金持ちで、今回の経済的な負担を肩代わりするだけの余裕があるが(もっとも彼にも2人の女児と2人の男児がいる)、年齢的にも社会階層の面でも上位にいるベネット氏にとって彼に負担をかけることは心苦しいことなのである。ところが、ベネット夫人はまったく経済感覚がなくて、実弟の経済的な負担の肩代わりに感謝するどころか、それが当然だと考えている。〔こういう金勘定の問題が物語の展開に大きくかかわっているのもオースティンの小説の特徴の一つである。〕

 もし夫婦の間に男の子が生まれていて、その子が成年に達すれば、限嗣相続を解除できるはずだったから、ベネット氏はそれほど悩んでいなかった。しかし、実際には生まれてきた5人の子どもはすべて女性だったのである。とにかく、リディアの結婚をめぐっての経済的な負担が彼の心配事であったが、ガードナー氏の手紙で、それほど大きな犠牲を払わずに問題を解決できそうだと知って安心するとともに、義弟に対する感謝の気持ちが大きくなった。それにリディアに対する怒りもあって、この問題を早く片付けようと思っていたから、彼はすぐにガードナー氏から書き送られた条件を受諾するという返信を書いた。

 「リディア結婚の朗報はたちまち家中に知れわたり、やがて瞬く間に近隣に弘まった。近隣の人々は一応品よく冷静にこれを伝え、受取った。仮にこれが、ミス・リディア・ベネットはロンドンで身を持ち崩したとか、さもなくばせめて、どこか遠くの人里離れた農家に隔離されたというような話であったら、たしかに人々の会話はもっと弾んだことであろう。だが、結局ミス・リディアは結婚することになったというだけでも、話の種には事欠かなかった。メリトンの意地悪婆さん達は、ミス・リディアも身を誤らなければよいがと、これまで口をそろえてお為ごかしを云っていたが、こんなふうに事情が変って正式な結婚ということになっても、そのお為ごかし根性はほとんど衰えなかった。結婚といってもあんな夫ではどうせ不幸になるに決まっていると見ていたからである」(大島訳、532ページ)
 他人の「不幸」について偽善的に噂することの楽しさがここで語られている。ここは、光文社古典新訳文庫の小尾芙佐さんの訳文の方が原文の雰囲気を伝えていると思うので、小尾訳と、原文とを紹介しておく:
 「吉報はたちまち家中にひろまり、近隣にも同じような勢いでひろまった。近隣のひとびとは仕方なくこれを受け入れた。ミス・リディア・ベネットが娼婦に身を堕としたとか、さもなければせめてどこか遠方の農家に逼塞することになったというならば、噂にもさだめし花が咲いたことだろう。ともあれリディアが結婚するというだけでも、おおいに噂話の種にはなった。身を誤らねばよいがとしきりにお気遣いくださったメリトンの意地悪な老婦人たちの口の勢いは、このように状況が変わっても、ほとんど衰えることはなかった。相手がああいうご亭主では、惨めな行く末が見えているというのである」(小尾訳、下巻、182ページ)。
 The good news quickly spread through the house; and with proportionate speed with neighbourhood. It was borne in the latter with decent philosophy. To be sure it would have been more for the advantage of conversation, had Miss Lydia Bennet come upon the town; or, the happiest alternative, been secluded from the world, in some distant farm house. But there was much to be talked of, in marrying her; and the good-natured wishes for her well-doing, which had proceeded before, from all the spiteful old ladies in Meryton, lost but little of their spirit in this change of circumstances, because such an husband, her misery was considered certain. (Vivien Jones (ed.), Pride and Prejudice, p.293)

 第3巻第5章と第6章で、ウィッカムがメリトン(架空の地名)に多額の借金を残していて、それが明るみに出たために彼の評判がガタ落ちになったという話が出てきたが、義勇軍の士官のことばかり追いかけていたリディアも近隣の女性たちからの評判は悪かったことが、ここで(婉曲な言い方ではあるが)明らかにされる。It was borne in the latter with decent philosophy.という文が訳しにくい。borneはbearの過去分詞であるが、bearを大島さんは「運ぶ」(この意味では通常受動態)、小尾さんは「我慢する」と解釈しているようである。どちらの受け取り方もできる。decebt philosophyはうわべを取り繕った正論くらいの意味だろう。come upon the townはペンギン・クラシックス版の注によると「娼婦に身を堕とす」ということの婉曲な言い方。大島さんは婉曲に訳し、小尾さんはズバリと訳している。an husbandとあるが、たぶん、オースティンはhusbandのhを落として発音していたのであろう。
 オースティンがこの作品の次に書いた『マンスフィールド・パーク』では、ヒロインであるファニーの従姉のマライアが駈落ちをして、その不始末の結果、家族から離れた遠い場所で暮らすという結末になっている。「意地悪婆さん」あるいは「意地悪な老婦人」たちの噂話が書き連ねられているが、その背後には作者であるオースティンがいる。書いたオースティンがそれほど年を取っていたわけではない――というのが興味深いところである。

 しかし、世間の悪い評判など全く耳に入っていないのがベネット夫人と、リディアご本人である〔リディアは次の第3巻第9章=第51章になって姿を現す〕。まずベネット夫人であるが、それまで寝室にこもりきりだったのが、いっぺんに元気を取り戻して階下に降りてくる。そして食卓上座の主婦の席に座る。「娘の駈落を恥じる気持など微塵もなかったから、夫人の得意満面の表情には些かの翳りもなかった」(大島訳、522ページ)。娘のなかのだれでもいい、誰か1人が結婚することが彼女の夢であり、それがかなったので、結婚式のこと、結婚後の2人の住まいのこと、雇い入れる召使のことなど、新婚夫婦の経済事情など一切考えない、ベネット夫人の妄想とも言っていい思い付きがどんどんと繰り広げられる。
 ところがベネット氏はまさに駈落ちというスキャンダルが結婚によって帳消しにされたとは思っていない(その解決のために義弟に負担を強いたことが気になっている)し、ジェインとエリザベスもスキャンダルが自分の将来の運命に及ぼす影響を懸念しているから、母親には同調できない。メアリーについては、何も触れられていないが、第5章での発言から推測してやはり母親には同調していないと思われる(姉2人は、意中の男性がいるから、真剣なのだが、メアリーにはそういう男性がいないということが、相違点である)。キティーについても何も触れられていないが、彼女は動揺しているところではないかと推測できる。だから、ベネット夫人は家庭内でまったく孤立しているのだが、それが見えてこないというところがいかにも彼女らしい。
 ベネット夫妻が、ご本人たちにとっては真剣な、しかし傍から見れば喜劇的なやりとりを続けている中で、エリザベスは物思いにふける。リディアが起こした事件が彼女にどのような影響を及ぼすことになると考えているのか…ということはまた次回に。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(下)』(2)

5月9日(土)曇り

 『神曲』の語り手としてのダンテは、ローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスを導き手として、異界へと旅立ち、『地獄篇』第4歌で前地獄に到着し、古代の偉大な4人の詩人に出会う。ギリシアのホメーロス、ローマ黄金時代のホラーティウス、オウィディウス、そしてこの叙事詩『内乱――パルサリア――』の作者である白銀時代のルーカーヌス(39‐65)である。

 『内乱――パルサリア――』で描かれているのは、紀元1世紀の半ばごろに、ローマの覇権をめぐってポンペイウスとカエサルの間で展開された内乱であり、この内乱で輝かしい伝統を誇ったローマ共和政が事実上崩壊したことを哀惜する作者の気持ちが満ちた作品である。紀元前60年に成立した第一次三頭政治は、それまで混乱が続いていたローマ共和政に一応の安定をもたらしたが、紀元前53年に三頭の一角であるクラッススがパルティアで敗死すると、残された2人、ローマの東方進出において輝かしい戦果を挙げたが、すでに過去の英雄となりかけていた閥族派のポンペイウスと、ガリア(フランス)、ヒスパニア(スペイン)、ブリタニア(イングランド)など西方で勢力を築いてきたカエサルとの対立が激しくなった。カエサルは女神ウェーヌス、英雄アエネアスを祖とするといわれる王統の末裔ではあったが、義理の叔父であるマリウスの後継者として、終始民衆派の立場をとっていた。閥族派は特権的な人々の利害を代表し、共和政を守ろうとしたのに対し、民衆派は民衆の支持を背景に独裁制を実現しようとしていた。

 ポンペイウスは元老院と結んで、ガリア総督であったカエサルをその職務から解任し、軍隊を解散してローマに帰るように命じるが、紀元前49年にカエサルは軍隊を率いたまま、ガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り(このとき「賽は投げられた」(Ālea iacta est.)といったとスエトニウスは記している)、各地でポンペイウス派の軍隊を撃破、ついにポンペイウスはイタリア半島を脱出してギリシアの西北部エペイロス地方(ギリシアだけでなく、現在のアルバニアも含まれている)に渡る。海軍力において劣るカエサルは、イタリア半島からギリシアへと軍隊を動かすことがなかなかできなかったが、紀元前48年にイタリアに渡り、なかなか続くことができなかったアントニウスとも合流、やがてデュッラキウム(現在のアルバニアの要港デュレス)に立てこもるポンペイウス軍に対し堡塁を築いて、包囲戦を展開した。対抗してポンペイウスも堡塁を築く包囲されたポンペイウス軍は秣の欠乏、馬匹の死、悪疫による兵らの死で苦しみ、補給が思い通りにならないカエサル軍も飢餓で苦しめられる。ポンペイウスは包囲網突破を試みるが、カエサル方の百人隊長スカエウァ1人の奮闘によって最初の試みは失敗に終わる。

 戦線のこの地点で撃退されたものの、マグヌスは、包囲されたまま、
戦を先送りし、なす術(すべ)もなく、手を拱(こまね)くようなことはしなかった。
その意気込みは、さながら、東風が頭をもたげて吹きつけて、大波が
己を砕く巌を撃ち、あるいは怒涛が高い山の山腹を噛み、やがて己に落ち込む
崩落の因をなす時、消耗しながら、なおも荒れ狂う海原のよう。
(第6歌、257‐261行、34ページ) マグヌスはグナエウス・ポンペイウス・マグヌス、すなわちポンペイウスのことで、ルーカーヌスは、マグヌスという呼び方の方を好んで使っている。彼は、カエサル方の海に近い要塞を、海陸両方から攻撃して奪取し、そこから脱出に成功した。

 不覚にも、この脱出を許したカエサルは怒り狂い、ポンペイウス方の将軍の1人であるトルクアトゥスの陣営を強襲した。この動きを察知したトルクアトゥスは自軍をいったん退却させて、カエサル軍が侵入してきた段階でそれ以上の兵員を動員して敵軍を包囲しようとした。カエサル軍はトルクアトゥスの陣営に攻め込んだが、その時、ポンペイウスの軍隊が引き返してきて、丘の上からカエサル軍に攻め寄せた。カエサル軍は怯え切ってしまい、戦意を失ったままエマティア(マケドニアの一地方、ギリシアの東北の方であり、この後の両雄の対決の場であるパルサリアを含むテッサリアもこの地方に属する)を目指して逃走していく。ルーカーヌスは、この戦いでポンペイウス軍がカエサル軍の息の根を絶たなかったのを残念そうに歌っている。
 大西英文さんによる訳注には「ポンペイウスがこの時カエサル軍を壊滅させなかったことについて、プルタルコスは『ポンペイウスが何か警戒したのか、それとも偶然か、折角見事な戦果を完成させるところまで行かず」(『英雄伝』「カエサル」39節)と言い、カエサルは、ちょっとした偶然が重なった「些細なきっかけ」ゆえ(『内乱記』第3巻68節)と言っており、偶然が大きく左右したのであろう」(313ページ)と記されている。折角だから、『内乱記』(國原吉之助訳)の当該箇所を見ると、「けれども運命はあらゆる領域で、とりわけ戦争で絶大な威力をふるい、些細な契機から決定的な局面の変化をもたらすものである。その時がそうであった」(國原訳、192ページ)と記されている。

 なお、カエサルは『内乱記』第3巻70節で次のように書いている:
「このような惨敗のどん底に陥って、しかも全軍が壊滅から救われたのは、次のような事情に助けられたからである。ポンペイユスは、要撃を警戒して――と私は信じるのだ、というのも、局面が彼の期待以上にうまく展開していたからだ。実際ほんの少し前まで、彼の陣営から部下の脱走を見ていたのだ――暫くの間、冒険を犯してまで堡塁へ近づこうとしなかった。そして彼の騎兵も狭い通路にいて、これがカエサルの兵士に占拠されていたので、追跡に手間どっていた。
 こうして些細な事情が、両軍に対し重大な転機をもたらしたのである」(國原訳、193ページ)と、ここでも「些細な事情」が登場する。カエサルは「些細な事情」によって惨敗したものの、「些細な事情」によって壊滅を免れたことになる。〔カエサルの文章には多少の負け惜しみが含まれているような気もするが、戦場が広いか、狭いかというような事情も戦局を左右したのではないかという印象もある。〕

 ポンペイウスはカエサル軍を追撃しようとしたが、彼の参謀たちはもはや敵の有力な軍隊がいなくなったアウソニア(イタリア)へ戻るべきだと主張した。ポンペイウスは平和が実現しなければローマにもどることはしないと言ってその主張を退け、カエサルを追撃してテッサリアにその軍を向かわせる。こうして彼は、
・・・陽の昇る東に向けて進軍を指令し、
カンダウイアの広大な森林地帯が広がる、道なき行路を辿り、
定めが戦のために用意したエマティアの地に足を踏み入れた。
(第6歌、325‐327行、38‐39ページ)
 この後、ルーカーヌスはテッサリアの歴史、地形と地勢、故事などについて事細かに歌いあげる。 

 第7歌では、いよいよテッサリア地方のパルサリアの平原で、ポンペイウスとカエサルが対決することになるが、ルーカーヌスは、まだ第6歌を歌い続け、ポンペイウスの「不肖の」子であるセクストゥスが行った、ある行為について語る。それがどのようなものであるかはまた次回に。なお、國原は「ポンペイウス」ではなく「ポンペイウス」と表記しており、ラテン語の読み方としてはたぶん、その方が正しいのだが、日本では「ポンペイウス」の方が定着しているので、このブログでは「ポンペイウス」としている。「カイサル」ではなく、「カエサル」と表記しているのも同様な理由からである。

 カエサルの「賽は投げられた」(Ālea iacta est. Iacta alea est.ということもある。ラテン語の語順は自由なので、好きな方を使えばよい)を、ほかの言語で何というかを調べてみた。
 まず、イタリア語では Il dado è tratto.
 フランス語では    Le sorte en este jeté.
 スペイン語では    La suerte está echada.
 英語では        The die is cast. (The die has been cast.ということもある。)
 ドイツ語では Der Würfel ist geworfen worden.
 ヨーロッパの言語はみな似たようなものだと思っている人は、これを見て考えを改めていただきたい。

日記(5月8日)

5月8日(金)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。気温、上昇。

 薬が無くなってきたので、クリニックに出かける。それも掛け持ち、いったん帰宅してから、また出かけるという掛け持ちである。薬局のお姉さんに大変でしょうといわれるが、大変なのはお姉さんの方ではないかと思う。

 バスの中で、スマホのゲームに夢中になって下りる停留所を通り越しそうになり、慌てて降車ボタンを押したが、運転手に無視されてしまった人がいた。私はゲームをしないし、本を読んでいても2つ前の停留所でやめることにしているが、それでも乗り越すことが年に1・2回はある。失敗は誰にでもある。乗り越しても、数百メートル歩けばいいだけだ。

 クリニックに外国人の患者さんが来ていて、どうも深刻な病気らしく、当人はかなり日本語ができる様子なのだが、受付の人がもっと日本語がよくできる人を連れて出直してほしいと一生懸命説明していた。医療通訳センターのようなものがあればいいのになと思いながら、話を聞いていた。

 その後、薬局に寄ったら、ただいま60分以上待たないと薬は出ないと掲示が出ていた。それを読まないで、自分はもう1時間以上待っていると文句を言っている人がいた。

 待っているあいだ、『日経』に連載中の岸恵子さんの「私の履歴書」を読んでいた。岸さんと、同級生だった小園蓉子さんが松竹大船撮影所を見学に出かけて、吉村公三郎監督に見いだされたという話は有名だが、今回はそのいきさつが語られている。
 撮影所では李香蘭(=山口淑子)主演の映画を撮影していたというのだが、これは『わが生涯のかがやける日』(1948)であろう。それから俳優養成所で「新人女優よりもずっとすてき」な女性がダンスの先生をしていたが、それが津島恵子だったという。気になるのは、津島恵子が吉村監督の『安城家の舞踏会』でデビューしたのは1947年のことであるから、その後も養成所でおしえていたのであろうか。記憶というのは不正確なものなので、担当記者が事前に情報を整理して確認しておく必要がありそうだ。
 それはそうと、『安城家の舞踏会』の津島恵子は魅力的であった。私が見た限りで、デビュー作の印象が強い女優というと、津島恵子と、芦川いづみ(川島雄三監督の『東京マダムと大阪夫人』)さんだろうか。川島監督と言えば、松竹時代の『とんかつ大将』(1952)で津島恵子が、傲慢な美人女医(主人公である同じく医者の佐野周二と接しているうちに、だんだん変わってくる)を演じていたのも思いだされる。そして、この作品には小園蓉子さんが出演していたのである。

 有隣堂本店で『遠山顕の英会話楽習』、『実践ビジネス英語』、『まいにちフランス語』の各5月号、シュムペーター『経済学史』(岩波文庫)、平松洋子『すき焼きを浅草で』(文春文庫)を購入する。語学テキストは4月末に来店した時には、売り切れていたらしく店頭に並んでなかったのをようやく入手したのである。
 19世紀英国の経済学者であるナッソー・シーニア(1790‐1864)という人物(の社会的な影響)について調べている。ある本にはJ.S.ミル(1806‐73)の友人だと書かれていたので、杉原四郎先生の『J.S.ミルと現代』(岩波新書)を読んでみたが、彼のことには触れられていない様子である。そのため、別のところから探そうと思い、シュムペーターの本を立ち読みしてみたら、彼についてかなり詳しく書かれているようなので、さっそく買ってみたということである。

 別のクリニックに出かける。体重も減ってきているし、体調はいいのではないかと言われるが、個人的に問題なのは、睡眠時間が十分ではないことである。昼寝ができれば、した方がいいといわれる。

 適度な睡眠

 適度な睡眠――と
 お医者さんは言う
 その、適度というのが
 難しい

 夢を見る
 夢は制御不能だ
 楽しい夢を見るかもしれないし
 怖い夢を見るかもしれない

 昼寝をして
 とても楽しい夢を見たことが
 あった

 もう一度見たいと思っても
 見ることはできないような
 夢であった

 その後、前に描いたのとは違う薬局で薬をもらい、薬剤師さんにいたわりの言葉を掛けられたのは、すでに書いたとおりである。

 平松洋子『すき焼きを浅草で』(文春文庫)を読む。
 難しい、すぐにはよめないような本を買うときには、すぐに読めそうな本を合わせて買うのが、私の読書哲学である。今回は、シュムペーターと、平松さんの本をあわせて買い、目算通り、平松さんの本をすぐに読み終えた。

 難しい本もちゃんと読み進めてはいるのだという証拠に、そういう本からの抜き書きをしておこう:
 「誰もがおかしいほど安易に、古き自由主義を槍玉にあげ、罵ることでは一致してきた。でもなんとなくうさん臭い話ではある。なぜなら普通、人は少々いかがわしく、あるいは少々愚かしいことでもなければ、意見の一致を見ることなどないからだ」(オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』、岩波文庫版、27ページ)。 

高適「田家春望」戯訳

5月7日(木)晴れ

田家春望   高適

出門何所見 (門を出でて何の見るところぞ)
春色満平蕪 (春色 平蕪に満つ)
可歎無知己 (歎ず可し 知己無きを)
高陵一酒徒 (高陵の一酒徒)

春の眺め   高適

春景色 なんの見どころ あるのやら
野原の雑草 元気はよいが ただそれだけで終わってる
腕と度胸は負けないつもり 誰かこの俺買わないか
今はただただ 酒を飲む

付記:
 木村茂光『平将門の乱を読み解く』と、細川重男『執権』の連載が終り、何となく気が抜けた感じで、新しく取り上げる題材を探すまでのつなぎとして、井伏鱒二の『厄除け詩集』に取り上げられている唐詩のうちから、この作品を選んで、自己流に翻訳してみた。
 盛唐の詩人高適(702‐765)がまだ世に出ず、鬱々としていたころの作品。「腕と度胸」としたところ、「手腕と野望」の方がこの詩人に相応しいかもしれないが、こうする方が分りやすいと思って、こちらを選んでみた。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(21)

5月6日(水/振替休日)曇り、11時ごろから雨が降り出し、降ったりやんだりの空模様が続く。雨が降るだけならいいが、雷雨になる時があった。

 1958年の2月から3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊による東南アジアの学術調査の一環として、吉川公雄(医師・昆虫学者)とともにカンボジア・(南)ベトナム(当時)・ラオス3カ国を歴訪した。通訳として、外務省留学生(当時)の石井米雄(1928‐2010)が同行した。『東南アジア紀行』下巻の大部分はこの旅行の(私的な)記録である。
 一行は2月12日、ワゴン型のジープでバンコクを出発、13日にカンボジアに入国、農村やゴムのプランテーション、バッタンバン、首都プノムペン、カムポットなどの都会を訪れた。また前年のアンコール・ワット旅行と合わせ、トン・レ・サップ湖の周囲を回りきり、湖上の集落に出かけたりした。コンポン・チュナンという町では夕方の国旗掲揚式に出会い、独立国家であることの意義について考えさせられた。しかし、都市では華僑が前面に出ていて、経済活動も彼らに握られているようであった。
 2月21日にプノムペンを出発、その日のうちに(南)ベトナムの首都であったサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。東寺の(南)ベトナムは北に対抗し、アメリカに支援されたゴ・ディン・ジェム政権が支配していた。一行はサイゴン大学の協力を得て、海岸沿いに北上、かつてアンナン地方を支配していたチャム(パ)族の遺跡、16世紀末・17世紀初めに日本との貿易交流でにぎわったホイ・アンの町や、ベトナム人の阮朝の首都であったフエの宮城と皇帝の陵墓を見たりした。ベトナムの文化が中国の影響をうけながら、政治的には独立性を保とうとしてきたこと、経済活動においては他の東南アジア諸国とちがって華僑ではなく、ベトナム人が前面に出ていることに強い印象をうけた。また第二次世界大戦、インドシナ内戦の影響が各地に残っていることも感じられた。
 3月7日にフエを出発、国境を越えてラオスに入国、この日はパラーンという村で一泊、8日にラオス第2の都会であるサワナケートに到着して、入国手続きをした。この日のうちにターケークに到着。9日にターケークを出発して密林の中の道なき道を進み、11日に首都ヴィエンチャンに到着した。この時期のラオスは中央政府とパテト・ラオとの協定が結ばれて政治的な小康状態にあったのは一行にとって幸運であった。

第17章 大森林をゆく(続き)
 新聞のない都
 ヴィエンチャンではまず大使館と日ラオ商会に出かけた。駐ラオス大使は、バンコクの駐タイ大使が兼任している〔1955年から1959年までのことで、その後は現在に至るまで専任の駐ラオス大使が赴任している。歴代の駐ラオス大使の顔ぶれを眺めていたら、私の中・高校の2年後輩の名があった〕。
 日ラオ商会というのは、日本の商社がいくつか合同して作った貿易会社である。ヴィエンチャンの中央市場の前に店と宿舎があり、商会側の好意で空き部屋に宿泊させてもらうことになった。

 「ヴィエンチャンは小ぢんまりした町である。人口はどれくらいあるだろうか。どんどんふえているらしいが、5万くらいではないかしら。アジア諸国のなかでも、一国の首都としては、最小の部類に属するであろう」(180ページ)。〔ヴィエンチャンの人口は2005年の推計で70万人くらいということであるから、梅棹の訪問後50年ほどで10倍以上に膨れ上がったことになるが、それでも「一国の首都」としては大きいとは言えない。ある観光案内に「世界一何もない首都などと言われる、ゆるさが魅力」とあるほどである。〕

 ヴィエンチャンは街路は整然としているし、外見的にはいい町だが、都市として不足しているものがかなりある。上水道がなく、水売りが水を売って歩いている。電話がない。サワナケートの役所には電話があったのに、首都にはないとはどういうことかと思う。それから新聞がない。少なくとも日刊紙がない。英語やフランス語の新聞がないだけでなく、ラーオ語の新聞もない。電灯はあるが、夜はあまり明るくならず、役に立たないという代物である〔これらの「不足」は現在では解消されている。現在ではラオス政府発行の英語とフランス語の新聞があり、ラーオ語の新聞も発行されている〕。

 さらに、ラオスには鉄道がない。アジアの国々で、鉄道がないのは他にアフガニスタンとブータンくらいである。〔ラオスにはフランス植民地時代に鉄道が敷設されたが、第二次世界大戦中に廃止されたのである。その後、2009年にタイのノーンカーイとラオスのターナレーンを結ぶ鉄道が開通、その後ヴィエンチャンまでの延伸も計画されたが、今のところ実現していないようである。この書物の215ページの地図を見たところでは、ノーンカーイとヴィエンチャンは間にメコン川が流れているだけで、きわめて近いはずだが、実現していないのはどういうことであろうか。なお、この東南アジア旅行に先立って1955年に梅棹は京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の一員としてアフガニスタンを訪問している〕。

 それでも、街を歩いているうちに、ちょっと気の利いたレストランを見つけた。フランス料理店だが、一行が食べたいのは(前回述べたように)カレー・ライスである。その日はできないというので、翌日に予約を入れて、ようやく食べることができた。なかなかうまいカレー・ライスで、吉川がおかわりをしたほどである。

 まんなか通行
 自動車はあまり多くないが、市内には一方通行の標識が多い。これはフランスの影響らしい。タイは日本と同じように左側通行、ベトナムはフランスと同様に右側通行であるが、ラオスはまんなか通行だという冗談がある。向こう側から車が来ることはほとんどないからだというのである。
 ラオスではガソリンは統制になっているが、闇で手に入れることもできる。しかしひじょうに高い。
 ラオスの経済はどうも奇妙なことになっているらしい。東南アジアで唯一の内陸国なので物資の大部分はタイから入ってくるのだが、密輸も相当盛んなようである。何しろ、メコン川は小舟でも渡れるのである。自動車などもカンボジアから運んでくればそうとうに儲かるという。なぜかラオスにはベンツが多く、特にヴィエンチャンの街で見かけるタクシーはやたらにベンツが多い。

 「通貨の単位はキップという。ドルに対して35キップというのが公定レートだが、実際ははるかに弱い。3分の1くらいではないだろうか。要するに、この国の経済はめちゃくちゃな状態に陥りつつあって、もしアメリカの経済援助がなければ、どうにもならぬというのが実情のようだ」(183ページ)。〔現在でもラオスの通貨はキップであり、100キップが約1.3円、1ドルが8571キップというのだから、梅棹が訪問した時期よりもさらに弱くなっているようだ。この後、ラオスは米国の影響下から旧ソ連の影響下に移り、現在では中国との関係が強くなっているようである。〕

 「政府」という名の建物
 「新生ラオス王国は、大急ぎで国家の体裁をととのえつつあるようだ。あちこちに、新しい建物をたてている」(183ページ)。国会議事堂もできた。中央政府とパテト・ラオの間に休戦協定が成立して、補欠選挙が行われるという。国会議員の「定員がふえて、このかわいらしい議事堂に入りきれるだろうか」(183ページ)。 
 議事堂の向かい側には「政府」という名の建物が建っている。たいして大きくもない2階建ての建物であるが、この中に政府諸機関がすべて収まっているのだという。この国では、何かというとすぐに大臣が出て来る。まだ訓練のできた官僚が少ないのである。

 「この国は、まったく小国の代表みたいなものである」(184ページ)と梅棹は観察する〔老子は「小国寡民」を理想としたが、そういう発想は梅棹にはない〕。ハンディキャップは多いが、それでも国連に加盟し、国際社会の一員として活動している。梅棹はベトナムで、通訳を務めてくれたディック君がラオスが国連に加盟しているのに、どうして(南)ベトナムが加盟できないのかと悔しがっていたのを思い出す〔ベトナムは当時、分断国家で両者の合意が成立しなかったから加盟できなかったのである。現在はもちろん、加盟国になっている〕。

 日本人は東南アジアの国々を、いわばドングリの背比べくらいに思っている人が多いが、たいへんな間違いである。国力に大変な差があると梅棹は観察する。国力を何で測定するのかは意見が分かれるところであろうが、この一帯でもっとも強大なのはタイである。「これは、ひじょうに内容の充実した近代国家である」(184ページ)と梅棹は評価している〔現在の眼で見ると、やや過大評価の感がある〕。「ベトナムは、もし南北が一体となれば、あるいはタイ以上に実力をもつようになるかもしれない」(同上)。カンボジアは1ケタ下がり、ラオスはさらに低いところにある。「小国をあなどるわけでは決してないが、現実の力と比重とは、つねに正確に知っておく必要がある」(同上)という。

 ラオス王国の紋章は傘の下に3頭の象を配したものである。国旗もこれを白抜きにしたもので、「白傘万象の国」というのがラオスの愛称である。一行はサワナケートでラオスの国旗を買って、ジープに取り付けてここまでやってきた。「かわいい図案である」(同上)と梅棹は思う〔『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた』(勉誠出版、2011)の73ページにこの紋章の写真が掲載されている。1975年に王政が廃止され、人民民主共和国になった現在では紋章も国旗も変わっている〕。

 ラオス国家
 メコンの岸を歩いていると、黒帯を締めたフランス人の先生が柔道を教えているのが見えた。梅棹はプノムペンでも柔道教室の看板を見たことを思い出す。「柔道は、いまや完全に国際スポーツである」(185ページ)。〔前掲『世界のあるきかた』の74‐75ページにこの場面の記事が写真とともに掲載されている。梅棹は別のところで、「柔道の起源は日本に発するが、今や世界人類の共有するスポーツであって、日本人の独占物ではない」(『実戦・世界言語紀行』、217ページ)と書いている。〕。

 柔道の広場の近くに、オーギュスト・パヴィの銅像が立っていた。「ラオス強奪の張本人である」(185ページ)。
 ラオスはもともと一つのまとまりのある国ではなく、ルアン・プラバン、ヴィエンチャン、チャムパ―サックとそれぞれ別の3つの王国であった。そして、それぞれがタイの従属国だったのである。

 フランス人は、コーチシナ(ベトナムの南圻地方)を手に入れると、メコン流域において活発な探検活動を開始する。1866年に始まるドゥダール・ド・ラグレーの探検隊は、メコンをさかのぼって中国の雲南省に達した。フランスが目指していたのは、コーチシナから中国奥地に至る水路を発見することであった。しかし、メコン川には滝や急流がいくつもあって、船で遡上することは不可能であることが分かった。
 オーギュスト・パヴィのラオス探検はこのラグレーの探検のあとをうけて、1879年から15年間にわたりつづけられたものであり、ラオスが植民地として有望であることが分かると、フランス政府はタイ政府に向けて軍事的な圧力をかけて、ラオスの3王国の支配に成功するのである。

 フランス領となってからも、なおラオスがまとまった一単位となったわけではなく、ルアン・プラバン国王領は保護領で、ほかの地域は植民地であった(らしい)。ルアン・プラバン王国のシーサワンウォン王(1885‐1959)を、ラオス国王として扱ったのは、実は1945年の日本軍にýる「仏印処理」が初めてのことであったと梅棹は記す。戦後、フランスもそれに倣って、ルアン・プラバン国王の下に統一ラオス国家の成立を認めたのであった。〔ヴィエンチャン王国の王統は途絶えていたが、チャンパーサック王国の継承者=ブン・ウム殿下がいたので、その処遇が問題となった。〕

 「ラオスは、フランスがタイからいわば強奪して、むりやりインドシナ連邦に編入した地域である。そもそもインドシナという概念が、フランス製なのだ。もともとそういう実体があったわけではない。フランスは、領有時代にその実体を作りあげようと努力したが、成功したとはいえない。ラオスはもともと、ベトナムやカンボジアとよりも、タイとこそむすびついているのである。メコンの流れは、ラオスとタイをへだてるよりも、むしろ両者をむすびつける役割りを果たして来たのであった」(187ページ)。

 これで第17章「大森林をゆく」は終わり、次回から第18章「高原の朝」に入る。一行は、首都ヴィエンチャンからかつて半独立王国の首都であったシエンクワーン、王都ルアン・プラバン、雲南国境に近いナム・ターの3都市に足を延ばす(飛行機での旅行となる)。「高原の朝」という章題は牧歌的に聞こえるが、シエンクワーンの周囲のジャール平原はラオス内戦の主戦場の一つであり、内戦休止期間の貴重な探訪であった。
 私の中学・高校時代はベトナムよりもラオスの内戦の方が世界の注目を集めているところがあった。梅棹の訪問の直前である1957年7月に中立派のスワンナ・プーマ殿下(1901‐1984、シーサワン・ウォン王の一族で、ルアン・プラバン副王の家系の出身)が首相に復帰、異母弟であるスパーヌウォン殿下(1909‐1995)の率いるパテト・ラオとの和平が成立、11月に「国民連合政府」が成立した。梅棹の訪問はラオスがこの政権の下にあった時代のことである。ところが、この旅行記でも触れられているように1958年の5月に行われた補欠選挙で左派が躍進、これに危機感を抱いた右派と中立派の一部の動きにより、6月に「国民連合政府」は解体して、ラオスはまた内戦状態となる。右派の指導者であったブン・ウム殿下(1911‐1980)は旧チャンパーサック王家の末裔であり、このあたりなかなか複雑である。このあたりのことは、またさらに詳しく触れることになるかもしれない。 

 私の友人・知人、あるいはそのまた友人・知人でラオスに出かけたという人は少なくないし、ラオス人の知り合いもいないわけではない。ということで、私の後輩が駐ラオス大使だった時に、ラオスに出かけておかなかったのは失敗だったと思っても、今となっては遅い。そんなことも考えながら、書き進めていたので、少し冗長になったかもしれない。以上述べたような書き手の都合をご理解の上、ご容赦ください。

日記抄(4月29日~5月5日)

5月5日(火/こどもの日・休日)午前中は晴れのような、薄曇りのような空模様であったが、午後になってすっかり曇り空となる。

 4月29日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
 外出自粛の籠城生活も楽ではない。そこで思い出したのは、明治の終りから大正の初めにかけて活躍し、特に上方落語「貧乏花見」を東京に移し替えて「長屋の花見」に改作したことで知られる3代目蝶花楼馬楽の逸話である:
 いつも赤貧の中にいたから、家賃は溜りっぱなしである。いよいよ大家の矢の催促に言い訳できなくなると、「加藤清正蔚山に籠る」「谷干城熊本城へ籠る」「本間弥太郎当家の二階に籠る」と大書して玄関に張り出し、大家の催促に対抗したりした(祖田浩一『寄席行燈』、81ページ)
 大家さんは字が読めたけれども、コロナ・ウイルスは字が読めないらしいからねえ。早くウイルス禍も終息して、馬楽の句にあるように「五月雨やようやく湯銭 酒の銭」ということになればいいのだが。

4月29日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」(1801回)で鷲田清一さんが、「記憶をもたない民族には未来もない」という中国の陸秋槎さんの言葉を取り上げている。鷲田さんはこの言葉を中国の現在の社会体制や価値観に対する異議申し立てとして理解しているのだが、その一方で、「記憶」とか「未来」とかいう言葉には泰平と乱世とが交錯してきた中国の歴史重視の文化的な伝統が感じられることも否定できない。
 もし人々が生活の現状に満足し、それが長く続いたのであれば、過去を思い出すことも、未来に思いをはせることもあまりないはずで、歴史についての見方が大きく変わって来る。石澤良昭さんは『東南アジア 多文明世界の発見」(講談社学術文庫)の中で『東南アジアの歴史は必ずしも進歩と発展を伴う歴史展開ではなかったかもしれない」(29ページ)と説き、さらに東南アジアの歴史の本質は「時間軸文化史ではなく、自然環境とともに営まれる長い生活誌物語ではないか」(31ページ)とも論じている。中国と東南アジアの歴史のどちらに魅力を感じるかは、各人の自由である。

4月30日
 工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』(幻冬舎新書)を読む。戦後・昭和20年代を代表する新聞マンガというと、『サザエさん』と、南部正太郎(1918-76)の『ヤネウラ3ちゃん』(大阪新聞連載)というのが一般的な評価だと思うが、その両者を取り上げた雑誌記事を紹介しているなど、よく調べているなぁと思う。

 さらに及川智早『変貌する古事記・日本書紀』(ちくま新書)を読む。明治以後の社会の中で、『古事記』『日本書紀』の説話がどのように受容され、変容したかをたどる書物で、例えば垂仁天皇の命令で常世の国に橘の実を求めに出かけた田道間守が、お菓子の神様になっていった過程などが描かれている。

5月1日
 『東京』に小池東京都知事と吉村大阪府知事が「9月入学制度」の実施を含む「共同メッセージ」を発表したという記事が出ていた。むかし、英国で研修していたころ、9月の下旬に学生が入学手続きをしにやってきているのを見ながら、アイルランドに旅立ち、アイルランドの大学を10月に訪問したところ、まだ授業は始まっていないということで、国や大学によって9月入学といってもその運用の実態に相当な違いがあるのを実感したことがある。性急な導入よりも、まず慎重な調査を行うべきである。

 『日経』の「私の履歴書」は女優の岸恵子さんの連載が始まった。一昨年だったか、このコーナーには、岸さんの横浜平沼高校(←県立第一高女)の1年後輩の草笛光子さんが登場していたので、順序が逆だなと思うが、どんな話が展開されるのか、楽しみに読み進みたいと思っている。

5月2日
 『朝日』朝刊読書欄の「著者に会いたい」のコーナーでタレントの壇蜜さんが自著『結婚してみることにした。壇蜜ダイアリー2」について、というよりご自分と日記との「つかず離れずの関係」について語っているのが興味深かった。

 評伝『吉田健一』で大佛次郎賞を受賞された文芸編集者で小澤書店創業者・長谷川郁夫さんが1日、食道がんで亡くなられたことが報じられた。72歳。わたしよりも若かったのかと、ちょっと意外である。小澤書店は独自の審美眼をつらぬく出版社として知られていたが、2000年に惜しくも倒産した。新潟に住んでいた時に、紀伊国屋の新潟店で小川国夫の全集を予約したところ、それがきっかけになって小澤書店の方から新潟まであいさつに来たと店員から聞いたことがあった。謹んでご冥福をお祈りします。

 NHKラジオ『朗読の時間』では漱石の『三四郎』を読んできたが、25回まで読んだところで中断して、またしばらくしてから放送するということになった。ところで、今回読んだ箇所で、三四郎が廣田先生、野々宮宗八、よし子、里見美禰子とともに本郷団子坂で行われている菊人形を見に出かける場面がある。漱石の小説にはこのようにな実在の行事や祭典を作中に織り込むことがよくみられる(前期の作品に多いようである)。この団子坂の菊人形は明治42(1909)年に本所の両国国技館(当時)で菊人形が行われるようになって、人気を奪われて衰微したという。『三四郎』は明治41年に『朝日』に連載されたので、ギリギリのところの風俗が描かれていることになる。その国技館の菊人形であるが、大正6(1917)年に火災を出した後どうなったのかは定かではない。
 ところで菊人形というと、福島県二本松市、福井県(武生市→)越前市、大阪府枚方市のひらかたパークのものが日本三大菊人形と言われてきたが、ひらかたパークでの開催は2005年限りで中止になったそうである。実は私は越前市がまだ武生市と言っていた時代に住んでいたことがあって、菊人形のことは知っているのだが、実際に見に出かけたかどうか、どうも記憶が定かではない。菊人形のようなものは1人で見に出かけてもつまらないし、(異性と)2人連れで出かければ余計な噂が立つし、数人で出かけるほどの知り合いもいなかったし…ということで、記憶が定かではないのは、見に行かなかったということのようである。」

5月3日
 NHKラジオ『私の日本語辞典』は長く創元社に勤務されていたフリー編集者の高橋輝次さんが「タイトルを生み出す”ことば力”」という「タイトル」で、5回にわたり書物のタイトルをめぐる様々な話をされる中での第1回。松本清張の『眼の壁』が「眼」と「壁」という異質なものを組み合わせていて、俳句的な興味を掻き立てているという指摘が面白かった。『眼の壁』は1957年に『週刊読売』に連載された小説で、1958年に松竹で大庭秀雄監督によって映画化されている。連載当時、まだ小学生だった私であるが、ぼんやりと筋を追って読んでいた記憶がある。今、読みなおしたら、まったく別の感想が出て来るのではないか。〔それよりも映画化作品の方が見てみたい。一度、ラピュタ阿佐ヶ谷で上映されたことがあるが、また上映されることがあるだろうか。〕

5月4日
 『朝日』の「天声人語」はNHKの大河ドラマと歴史的な人物のイメージの変遷について、斎藤道三を例に取り上げて論じている。「長らく狡猾な「国盗り」の悪漢と目されてきたが、将来は、「国造り」に燃える主役として、語り継がれていく予感がする」。この予感は当たるだろうか。『産経』の「産経抄」はTVの連続ドラマの「神回」を話題として取り上げている。『東京』の「筆洗」は試験官を騙して旧制三高を卒業した梶井基次郎と、東大の卒業試験で試験官の名前を1人でも言えれば卒業させてやると言われて、1人も答えずに除籍処分を受けた太宰治の逸話を引用し、コロナウイルス禍からは何としてでも「卒業」しなければならないと語る。『日経』の「春秋」は最近、企業では内部でのコミュニケーション重視の風潮が高まっていることに注目する。「『3密』は厳禁だが、対話は密に願う」。『毎日』の「余録」はコロナ禍のなかでも、桜前線の北上が続いていることに触れる。『読売』の「編集手帳」は会員限定のために読めなかった。

 NHKラジオ『文化講演会』の再放送:長井伸仁さん(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)の「フランス革命はどのように想起されてきたか」は、明治時代にフランス革命を概観する『仏蘭西大革命史』をまとめた箕作源八の業績を掘り起こしながら、フランス革命がその後のフランスの歴史のなかでどのように評価されてきたかを論じた内容で、聞きごたえがあった。フランス革命の原因が国家の財政危機にあり、その解決策としての税の負担の公平を求める声が革命に至った。その財政危機の原因となったのはフランスが各国と展開した戦争である(王侯貴族の贅沢がもとになっていたわけではない)というのは、私もかねがね思っていた点である。ただ、その財政危機を打開すべくルイXⅥ世がテュルゴー、ネッケル、カロンヌと財務総監を入れ替えながら、対策を講じようとしたという点に議論が及ばなかったのは残念である。わたしは経済学史に興味があるので、重農学派の代表的な経済学者の1人であるテュルゴーとその政策の位置づけなど、長井さんの意見を聞きたいと思った。1889年のフランス革命100年の際には、パンテオンにカルノーのような軍人の遺骸が収められたのに対し、1989年の200年に際してはコンドルセのような文化人の遺骸が収められ、フランス革命の評価が政治的なものから、社会的・文化的な側面の評価へと変わってきているという指摘はその通りだと思った。長井さんは触れていなかったが、メートル法も、長ズボンもフランス革命の遺産で、我々はその恩恵に浴しているのである。

5月5日
 再放送の再放送の再放送くらいになるが、NHKラジオ『まいにちフランス語』の「Tristanに聞いてみよう! コミュニケーションの鍵」で番組パートナーのトリスタン・ブルネさんが
La place de l'église est traditionnellement le centre des villages français. (「教会広場」は伝統的にフランスの村の中心です。)と話していた。大抵の場合、そこに(曜日を決めて)市が立つし、地元の小さな商店などもあったりする。もともと、フランスのいなかにある小さな村のほとんどが中世のころ、教会と墓地の周りにつくられていったからであるという。
 これはフランスに限らず、ヨーロッパの国々で一般に見られることではないかと思うが、確信を持って言えるほど、ヨーロッパの国々をあちこち見て回ったわけではないのが残念である。
 以前、キリスト教世界でもイスラーム教世界と同じように宗教は生活の一部だ(少なくとも最近まではそうだった)と書いたが、要するに、日曜日に教会に出かけた後、知り合い同士が集まって、近くのたまり場でコーヒーか紅茶を飲みながら世間話をする。それが習わしになっているというような意味で、生活の一部だということである。

『太平記』(313)

5月4日(月/みどりの日/休日)朝のうちは雨が降っていたが、その後は曇り空が続く。

 観応元年南朝正平5年、西暦1350年)12月、九州で勢力を伸ばしている足利直冬(ただふゆ、尊氏の庶子で、直義の養子)討伐のために西国へ下った足利尊氏は、直義の南朝との合体を知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は石清水八幡宮に陣を置き、これに呼応して足利一族で越中守護であった桃井直常(もものい・ただつね)が北陸道から上洛してきた。尊氏の留守を守っていた、彼の嫡子・義詮は形勢不利と見て京を退いた。
 正月15日、山陽道を東上してきた尊氏と高師直は義詮と合流し、京一帯で桃井軍と戦った。この時、高師直の家臣で武蔵七党の一党である丹党の阿保忠実(あぶ・ただざね)と桃井軍の武士で甲斐源氏の秋山光政が四条河原で一騎打ちを演じたが、両者の武勇は人々が絵に描いてもてあそぶほどの評判となった。

 この一騎打ちを皮切りとして、両軍入り乱れての合戦が始まった。桃井が率いてきた7千余騎と、仁木・細川が率いる1万余騎とが鴨川の東側(現在の左京区、東山区)のあたりで一進一退の攻防を展開した。7・8度にわたり両軍が激突し、戦死者が両軍合わせて300人余り、戦傷を負ったものは数え切れなかった。
 両軍が戦いに疲れて、しばし休息の状態にあった時に、あらかじめ示し合わせていた通り、東山の山腹に700騎ほどの兵を待機させていた佐々木道誉が東山中霊山(ひがしやまなかりょうぜん=京都市東山区清閑寺霊山町の霊山)の南からどっと鬨をつくって、桃井軍の後ろから攻めかかった。不意を衝かれた桃井軍は、散開して二手に分かれ、前後の敵と戦った。
 西南の敵(仁木・細川であろう)に攻め立てられて、桃井軍の兵たちが引き気味になったので、桃井直常と直信の兄弟は馬から下り、敷皮の上に座って、「運は天にあり。一歩も退却してはならない。(逃げる位なら)討死せよ」と下知した。

 そうこうするうちに日はすでに傾いて夕刻を迎えたが、八幡に陣をとっている直義(と南朝)の軍勢はとうとう姿を現さなかった。合流を期待していた直義軍が到着しないこともあって、桃井軍は戦いの疲れが激しくなり、東山をのぼって戦線から離脱しようとしたときに、それまで待機していた尊氏と義詮の5千騎の兵が二条通を東に進んで、桃井軍が東山に登るのを阻止しようとする。この強襲を受けて桃井もたまらず、それまでの戦いの疲れも加わって、交代する人員はおらず、三方に敵を受けて、劣勢となったのは明らかであり、粟田口(京都市左京区粟田口)を東に抜けて山科へと逃れていった。しかし、東坂本まで戻ることなく、関山(逢坂山、滋賀県大津市逢坂)に陣を張り、かがり火をたいて留まっていた。

 尊氏が京に戻ってきたうえに、桃井との戦いにも一応勝利したので、現在のところでは直義に従って八幡にいる武士たちも、おおよそは尊氏の元に戻って来るのではないかと思われ、多くの人々が、これで都は平静になると安心したのであったが、案に相違して、15日の夜半ばかりから尊氏方の将兵で、京を抜け出して八幡に向かうものが後を絶たなかった。
 そこで尊氏は側近の者に対して次のように心中を吐露した。戦が有利になったなら、(味方の兵が増えるはずなのに、かえって)味方の兵が敵方に走っている。、尊氏を裏切るものが多いことだ。この状態では京の洛中で合戦を続けるなどは思いもよらないことである。しばらくは西国へ退いて、中国地方の武士たちの加勢を得て、また東国の武士たちにも挙兵を促して反攻を組織することにしよう。尊氏がこの意見をしきりに述べたので、周囲の武士たちも同意して、正月16日の早朝に丹波路(京都市西京区大枝=おおえの老の坂から亀岡を経て播磨へと至る道を)西へと落ちていった。〔亀田敏和『観応の擾乱』(中公新書)によると、この時、尊氏は天龍寺で兵馬を休ませようとしたが、夢窓国師に拒絶されたという(亀田、103ページ参照)。夢窓国師までが直義に味方していたのである。〕

 桃井軍の来襲で不利を悟った義詮が都を退去して、桃井直常が都にに入り、義詮と合流した尊氏が上洛して直常を破ったかと思うと、全体の情勢の不利を悟って、また都を去ってゆく、「吉凶糾(あざな)へる縄の如く、哀楽地を易(か)へたり。何を喜び、何事を嘆くべしとも定まらず」(第4分冊、20ページ)と都の人々は感じたと、『太平記』の作者は記している。

 〔この時の尊氏は「征夷大将軍というよりは敗軍の落ち武者である」(亀田、103ページ)とまで評する人もいる。『太平記』には記されていないが、18年前の元弘3年(1333)に鎌倉幕府討幕の旗を挙げた丹波の篠村八幡宮に赴こうとしたのに敵兵や野伏の妨害に遭って果たせなかった。この前後の尊氏と師直の動静は亀田によって詳しくたどられている。〕

 尊氏の一行は、前日の早朝東山の朝霧を背に京を後にし、この日の朝はというと西の方の山陰の山を見るという旅の途中であったが、将軍たちが一箇所に集まっているというのは戦略上よろしくないという意見から、義詮に仁木頼章、その弟の義長をつけて、丹波国井原の石龕寺(せきがんじ、兵庫県丹波市山南町岩屋)に2千余騎の兵とともに止め置くことにした。この寺の衆徒(僧兵)たちは将軍方に忠誠を誓っており、要害の地である上に、糧食も十分に備えていた。
  さらに近隣の武士たち、荻野、波々伯部(ほうかべ)、久下、長沢ら将軍方の者たちが一人残らずこの地に集まり、警戒に加わったので、義詮に従う将兵は、これまでの苦戦を忘れて、しばし安心することができたのである。
 石龕寺は現在でも紅葉の名所として知られる真言宗高野山派の名刹であり、義詮を迎えた僧侶たちは、勝軍毘沙門の法を行って、義詮の武運を祈った。義詮はその志に感じて、この寺に丹波の国の小川の庄を寄進したのであった。
荻野、波々伯部、久下、長沢はいずれも丹波の武士で、荻野、久下は兵庫県丹波市、波々伯部、長沢(中沢)は篠山市に住んだと脚注にあるが、これらの武士はすでに何度も『太平記』に登場している。特に久下は、第9巻で尊氏が篠村八幡宮で挙兵した際に、時重が郎等を従えて参加し、その際に笠に「一番」という文字を記しているのを尊氏が不思議に思って師直にたずねると、その昔、頼朝が石橋山の合戦に敗れた後、しばらく土肥の杉山(現在の湯河原市の一部)に身を隠していた際に、久下重光が一番に駆けつけた功を賞せられ、以来「一番」を紋としているのだという答えを得る場面がある。この久下氏は、武蔵七党(に数える人もいる)の私市(きさい)党に属する武士で、直光の代の建久3年(1192)年に縁戚でもあった熊谷次郎直実と領地争いの争論を起こし、頼朝の前で対決、口下手な直実が怒って座を去り、そのまま遁世したという事件の一方の当事者であった。だからもともとは坂東武士なのであるが、いつの間にか丹波に土着していたのである。
 なお、尊氏・直義兄弟の母親である上杉清子は、丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町付近)を領した藤原氏勧修寺系の下級貴族上杉氏の出身であり、彼女もこの地の生まれだという(本郷和人・門井慶喜『日本を変えた8人の将軍』、113ページ参照)。上杉氏は宗尊親王が将軍になった際にそれに従って下向し、武士化した一族である。だから足利一族は丹波とのつながりは浅くないが、それは尊氏に限ったことではないのである。

 四面楚歌の状況に陥りかけた尊氏・師直であるが、果たして西国での勢力の挽回はなるだろうか。また石見から引き返してくるはずの高師泰の軍はどのような行動を展開するのか、それはまた次回に。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(42)

5月3日(日/憲法記念日/休日)晴れのち曇り

 叔父・叔母であるガードナー夫妻とダービーシャーを旅行し、思いがけずダーシーのペムバリーの邸で彼と再会し、その妹に紹介されるなど手厚いもてなしを受けていたエリザベスであったが、姉のジェインから末の妹であるリディアが、滞在先のブライトンから義勇軍の士官でダーシーにとっては忌まわしい存在であるウィッカムと駆け落ちして行方をくらましたという知らせが届き、家族の住むハートフォードシャーロングボーンの邸に慌てて帰宅したのであった。
 リディアとウィッカムは、当時自由に結婚できたスコットランドに向かった様子もなく、ロンドンに潜伏中のようで、エリザベスの父親のベネット氏が探しに向かったものの手掛かりがなく、もともとロンドンの住民であるガードナー氏が応援に出かけ、結局、ベネット氏はリディアを見つけることができないまま、ロングボーンに戻ってきた。リディアがウィッカムに首ったけな様子であるのに対し、ウィッカムはメリトンとブライトンとでこしらえた相当額の借金から逃げ出すための口実として駆け落ちをしたらしかった。そして末妹のスキャンダルが、姉たちの結婚話の障害となることも明らかであった。

 今回は第3巻第7章=第49章を取り上げる。
 ジェインとエリザベスの姉妹が家の裏手の灌木林を散歩していると、女中頭(the housekeeper)のヒル夫人がやって来るのに気づいた。おそらく母親からの用事を伝えに来たのだろうと思ったが、彼女はジェインに向かって、どうも何か良い知らせがあったようだという。ロンドンのガードナー叔父から至急便(an express)が届いたばかりなのだという。
 2人はすぐさま駆け出した。しかし、家にたどりついて玄関広間(vestibule)を通り抜け、朝食室(breakfast room)を探し、さらにそこから書斎(library)を探しても、父親の姿は見えなかった。執事(butler)によると、小さな雑木林(the little copse)のほうに歩いて行ったという。2人はまた玄関広間を走り抜け、芝生を横切り、父親の後を追った。ベネット氏は落ちついた足取りで、放牧地に隣接する雑木林の方に向かっていた。〔ベネット家はそれほど裕福な地主ではないのだが、それでも邸内にはいくつも部屋があるし、庭園には芝生も、放牧地も、散歩用の灌木林があるかと思うと、薪炭用の木材を伐採するための雑木林もある。〕
 父親に先に追いついたエリザベス(彼女の方が身が軽いのである)が、手紙の内容について質問をした。ベネット氏にはまだ手紙の内容が呑み込めていない様子である。ジェインが追いついてきたので、ベネット氏はエリザベスに手紙をわたし、読み上げるように言った。

 ガードナー氏の手紙によると、ロンドンで2人を無事に発見した。かれらは結婚しておらず、結婚する気持ちもなかった様子であるが、もし彼らの直面している経済状態が解決されれば結婚したいという意思を表明した。そこで、こちらで費用を負担してウィッカムの負債を支払い、また今後の生活を援助すると約束すれば、2人は結婚するだろうというのである。事務的な問題はガードナー氏が事務弁護士(attorney, solicitorと呼ばれるようになるのは1873年の裁判所法以後のことである)のハガーストンと相談して片付けるので、諸事万端、こちらにお任せ願いたい。リディアはガードナー家から嫁がせるのがよいだろうと思うと記されていた。〔ガードナー氏の義兄=姉の弟であるフィリップス氏もメリトンに事務所を構える事務弁護士であるが、どうも頼りにされていないようである。〕
 読み終えて、エリザベスはそんなことがあるはずがないと驚き、ジェインは2人が結婚する見通しとなったことを喜んで、父親にお祝いをいう。そして、返事をすぐに書いて、2人の結婚を承認するようにと説く。これまでの経緯や、今後の見通しを考えればあまり賛成したくない結婚ではあるが、世間体を考えると認めないわけにはいかない。ベネット氏はしぶしぶではあるが、2人の娘に急き立てられて、書斎に向かう(2人の娘もベネット氏の気持ちは理解しているが、世間体の方を重視しているのである)。
 さらにベネット氏には気になることがあった。ウィッカムのような計算高い男が書面中に記されているような条件で結婚に同意したとは思えず、ガードナー氏がもっと大きな犠牲を払ったのではないかという推測と、そのためにこれから彼に莫大な額を支払わなければならないのではないかという懸念にとらわれていた。
 とにかくベネット氏は書斎で手紙を書きはじめ(彼が筆不精であることは、これまでの物語の展開で明らかである)、2人きりになったジェインとエリザベスの姉妹は、この問題に対しての自分たちの意見を述べ合う。ジェインが楽観的であるのに対し、エリザベスは批判的である。そして2人はこのことを母に知らせてるべきだということに気づき、父親の意見を尋ねる。ベネット氏は勝手にするさというので、2人はガードナー氏の手紙をもって母親のところに出かける。

 母親の部屋にはちょうどメアリーとキティーが来ていたので、家族への伝達はこれで済むことになった。ジェインが手紙を読み上げるのを聞いたベネット夫人は、「娘が結婚すると聞いただけですっかり有頂天になり、娘の行く末を案じて心を乱すとか、その不品行を思い出して恐縮するとか、その種のことは一切なかった」(大島訳、516ページ)。ベネット夫人の有頂天ぶりは、周囲の者がハラハラするほどのもので、すぐに結婚衣装やその他の事柄の心配をはじめ、ジェインがこの結婚についてはガードナー叔父の一方ならぬ尽力があったと注意しても、そんなことは当たり前だと言って取り合わなかった。

 ベネット夫人はヒル夫人を呼んで、召使一同にもこの吉報を伝えたが、エリザベスはその喜びの輪から離れて、自分の部屋に引きこもって物思いにふけるのであった。
 「可哀そうに、リディアの置かれた立場はどう贔屓目に見ても情ないとしか云いようがないけれど、でもこれ以上悪くならなかったことを感謝しなければならない。エリザベスは事態をそんなふうに感じた。妹の将来を思うと、まともな幸福も豊かな暮らしも到底期待はできなかったが、つい2時間ほど前に自分達が恐れていたことを思えば、とにかくこのような結果が得られただけでも不幸中の幸いと思わなければならなかった」⦅大島訳、519ージ)。

 リディアのウィッカムとの駆け落ちは、最悪の事態を迎えることなく、2人の結婚という結末を迎えることになった。実はこの結婚をめぐっては、ガードナー氏の手紙には触れられていない第三者の働きが大きかったのだが、それは物語のこれからの展開で明らかになる。結婚したとはいうものの、何をやっても長続きしないウィッカムの性格を考えると、新婚夫婦の将来はあまり明るいものではない。そのことをエリザベスは理解しているが、娘たちを結婚させることが夢だったベネット夫人は「結婚」ということだけで有頂天になっている。そのあたりも喜劇的な筆致をもって描かれ、暗い影が薄められているのもオースティンらしい。一家、特にエリザベスとジェインの運命はこの後どのように展開するか、それはまた次回以降に。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(下)』(1)

5月2日(土)晴れ

 紀元1世紀、ローマの皇帝皇帝ネロに仕えたものの、暴君と化した彼を取り除こうととするピーソーの陰謀に加担したことにより死を命じられた詩人ルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品であるこの長編叙事詩は、彼の1世紀前であるローマ共和政末期に起きたポンペイウスとカエサルの間の<内乱>を題材とするものである。
 戦を、私は歌おう、エマティアの野に繰り広げられた、
内乱にもましておぞましい戦を、正義の名を冠された犯罪を
(第1巻、1-2行、上巻5ページ)とうたいだされるこの叙事詩は、英雄たちの武勲・功業を歌う他の古代の叙事詩とは違い、戦争の悲惨さや非道さが前面に出されている。その理由はおそらく、
①作者の戦争そのものに対する批判
②しかも、その戦争がローマ人同士が闘う内乱であったこと
③この内乱によってローマ共和政が終割、独裁制→帝政への道が開けたこと
の3点に求められるだろう。

 紀元前60年にローマの版図の東方拡大に貢献したポンペイウス、スパルタクスの反乱を鎮圧したクラッスス、イスパニア総督として勢力を伸ばしてきたカエサルの3者による密約が結ばれ、それまで動揺を続けてきたローマ共和政は安定を迎えたかに見えた(第一次三頭政治)。しかし、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残る2人の間の関係が険悪化し、ポンペイウスは元老院と結んで、当時ガリア総督であったカエサルの職務を解き、軍隊を解散してローマにもどるように命令する。
 カエサルは迷ったが、結局この命令に従わずに、紀元前49年に当時ガリアとイタリアの境界とされていたルビコン川を渡り、大軍を率いてローマを攻略しようとする。ポンペイウスと元老院の軍隊は各地でカエサル派に敗れ、ポンペイウスはブルンディシウム(今日のブルンディジ)からギリシアへと海路逃亡し、大軍を集めて反攻を図る。一方、カエサルはヒスパニアのポンペイウス派を破った後、ローマにもどり、ローマでの試合態勢を固めた後、紀元前48年の1月にギリシアへと渡る。しかし、彼の後でギリシアに渡り、合流するはずだったアントニウスの動きは遅く、この年の3月になってようやくカエサルと合流したのであった。

 叙事詩は第6巻に入り、両雄は相手から遠くないところに陣地をかまえ、いつ、戦闘が始まってもおかしくない状態となる。
  二人の将が、すでに干戈を交える臍(ほぞ)を固めて、互いにほど近い
山の背に陣を構え、両軍が指呼の間に対峙して、自ら計らう伯仲の
両雄を神々が目にしたあとのこと、カエサルは、ことごとく
攻略するまでもないと、ギリシア人の都城の攻撃を軽視し、今や
婿を破って破ってあげる凱歌以外、些かの借りも運命に負うまいと
心に決めた。
(第6巻、1-6行、下巻17ページ) ここで「婿」というのはポンペイウスのことで、彼は第一次三頭政治が結ばれた折に、カエサルの娘ユリアと結婚したのである。ユリアはその後、産後の肥立ちが悪く死んで、そのこともカエサルとポンペイウスのなかを悪くする理由となった。この叙事詩の第3巻の最初の部分では、ブルンディシウムを船出して、ギリシアの西海岸にむかおうとするポンペイウスの前にユリアの亡霊があらわれ、彼にどこまでも付きまとい、悩ませることを告げるという場面がある。(もちろん、ルーカーヌスの創作である。)

 カエサルは3度にわたって自陣の中で戦旗を翻し、戦闘を辞さない姿勢を見せつけた。しかし、ポンペイウスは軍を動かすとはしなかった。ここでもルーカーヌスはポンペイウスがカエサルの「婿」であることを強調しているが、ポンペイウス(前106‐48)の方がカエサル(前100‐44)よりも年長であること、ユリアの死後、コルネリアと結婚していることを忘れてはならない。
 そこでカエサルはポンペイウス派が占拠している要衝デュッラキウムの攻略を企てた。デュッラキウムはイッリュリアの海港で、古くはエピダムノスと呼ばれた。現在はアルバニア領内でドゥレス(Durres)と呼ばれている。アルバニアでは首都ティラナに次ぐ第2の都市で、ローマ時代の円形劇場の遺跡が残っているそうである(写真で見たが、あまり保存状態は良くない)。
 一方、ポンペイウスはこの意図を読み取って、先回りをしてペトラと呼ばれるデュッラキウム近くの丘に要塞をきずいて、カエサル軍を食い止めようとした。デュッラキウムはもともと、コリントス市の植民市であったが、要害の地にあって、そう簡単に落城はしないものと思われていた。

 そこで、法外な企てが、貪欲に戦を渇望するカエサルの
心を捉えた。広大な丘陵地に散開する敵に気づかれずに、
遠く距離を置いて堡塁をめぐらし、敵を包囲しようというのである。
(第6巻、27‐29行、19ページ) 
この狭い戦の庭で、骨肉相食む内乱の狂気は荒れ狂った。
(第6巻、60行、21ページ)

 デュッラキウムを包囲しようとするカエサルの企てに、最初のうちはポンペイウスは気づかなかったが、やがて対抗して堡塁を築く。また各地に自軍の兵を散開させて配置し、敵襲に供えた。しかし、ポンペイウス軍は自軍領内での軍馬の飼料が不足しはじめていることに悩まされていた。しかし、海上の補給路から運ばれる物資がポンペイウス軍を助けていた。一方、カエサル軍は凶作による食料の不足に悩まされ始めていた。

 ついにポンペイウスは包囲網突破を決意して、脱出点を探り、カエサル軍のミニキウスが守っているところが手薄であると判断した。ポンペイウスは包囲を破って脱出できそうに見えたが、カエサルの配下のスカエファという荒武者が踏みとどまって、脱出を阻止しようとした。「葡萄樹の職杖を携える」(第6巻、141行、26ページ、「葡萄樹の職杖」筆頭百人隊長の徴である。なお、この人物は、ルーカーヌスが創作した人物と考えられる)彼は、「味方の将兵が逃げていく中、「いかなる非道の罪でも/やってのける猛者で、同胞相食む内乱では、武勇が/どれほど大きな犯罪であるかを知らぬ蛮夫であった」(第6巻、141‐143行、26ページ)。彼は全軍に対するに/荒武者一人という、前代未聞の対戦」(第6巻、187‐187行、下巻29ページ)を戦う。救援に駆けつけた大隊の前で彼は戦死するが、ポンペイウス軍の脱出は阻止される。

 いったんは脱出を阻止されたポンペイウスであったが、やがて包囲を破ってこの地を離れ、両雄の対決は別の場所(すなわち、パルサリア)へと移されることになるが、それは今後のお楽しみということで、今回はここまで。カエサルの『内乱記』にはもっと詳しく軍事行動やポンペイウス派との交渉の内容が記されていて、ルーカーヌスが大ざっぱな流れだけを叙述していることが分かる。
 前回、「少し休んで」から下巻(第6章以下)に取り組むつもりだと書いたが、うまい具合に岩波文庫版の下巻が手に入ったので、上巻に続いて取り上げていくことにした。ご了承ください。

細川重男『執権』(19)

5月1日(金/メーデー)晴れ

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き、維持しようとした試行錯誤の(それゆえ悪戦苦闘の)歴史であり、著者の言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。
 「北条氏と鎌倉幕府」という副題をもつこの書物はそのような悪戦苦闘の中心にいた(鎌倉)北条氏がどのようにして権力を掌握し、直面せざるをえなかった政治課題に対処したか、その権力支配を正当化するためにどのような論拠を用いたかを、頼朝死後の権力闘争を勝ち抜いて幕府の最大の実力者になっただけでなく、承久の乱に勝利して、幕府の基礎をさらに固めることになった北条義時と、蒙古帝国という外敵との戦いを切り抜けた北条時宗という2人の得宗=執権の生涯と事績、その後世への影響を取り上げて分析しながら、解き明かそうとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府誕生前の北条氏が伊豆の平凡な一土豪に過ぎなかったことが明らかにされている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、北条氏の事実上の初代・時政の次男で、北条氏の庶流である江間氏を継ぐはずであった義時が、幕府の成立と頼朝死後の権力闘争で勝ち抜いて、最高指導者の地位に就き、さらに朝廷との戦い(承久の乱)にも勝利して支配体制を固める過程をたどる。そして、彼が八幡神の命を受けて再誕した、神話的な賢臣である武内宿禰であったという伝説を掘り起こし、これが鎌倉幕府における北条氏の地位を支える論拠となったと考えている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では時宗がその権力を確立した「二月騒動」の分析を通じて、時宗の政権の性格を検討する。幕府内のこの謎の多い内紛を通じて、時宗は一門の有力者であった名越時章・教時兄弟と、自身の異母兄である時輔を取り除き、独裁的な権力を手中にした。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍の意味するもの」では、鎌倉七代将軍維康がその将軍在任期間のほとんどを源維康として過ごしていたことをめぐり、将軍の下で執権であった時宗が自らを義時、維康を頼朝に擬し(そのために王であった維康に源氏姓を名乗らせ)、蒙古帝国の来襲という危機を乗り切るための精神的支柱としていたと論じている。時宗の政権はごく少数の側近だけを集めて開かれる秘密の寄合によってすべてが決定される独裁的な恐怖政権であったというのが著者の見解である。
 第5章「カリスマ去って後」では、時宗死後の鎌倉幕府の政治の混乱とその中での権力争いをたどり、「先祖たちがそれぞれの人生を懸けて築いた論理も理想も見失い」(231ページ)、元弘3年(1333)に滅亡に至ったことが記されている。

おわりに――胎蔵せしもの
 「おわりに」はこれまでの内容のまとめである(したがって、これまで書いてきた要約の繰り返しになるかもしれない)。
 伊豆の小土豪であった北条氏は、当主である時政の娘・政子の婿源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いたことにより、武家政権の権力の座を目指すレースへの参加資格を得た。
 もともと時政の庶子であった義時は頼朝没後の権力闘争の中、身に降りかかる危難を振り払うために戦い続け、結果的に最終的な勝利者となり、それだけでなく、承久の乱にも勝利した。その結果、彼は後鳥羽上皇以下3上皇を配流し、天皇を廃位するという空前絶後の処置を断行する。このことによって彼は、頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を与えられ、武内宿禰の再誕であるという伝説が生まれることとなった。「そして、この神話は、義時の直系である北条氏得宗を鎌倉幕府の支配者たらしむる正統性の源泉となった」(232ページ)。

 また、頼朝没後の幕府内の内部抗争は、源氏将軍家断絶という結果も生み出した。この結果、鎌倉将軍は摂関家藤原氏(現実には九条家、いわゆる摂家将軍)、さらに皇族(親王将軍)から迎えられることになったが、それは将軍に替わって幕府の政務をとる執権という役職の比重を重くし、また将軍と執権との幕府の権力をめぐる対立を生むことになった(藤原頼経については寛元4年≂1246の「宮騒動」、宗尊親王については文永3年≂1266の突然の解任・上洛など)。やがて執権を世襲する北条氏の家督=「得宗」が将軍を装飾的存在に祭り上げ、幕府の実権を握るに至る。将軍が存在しながら、北条氏得宗が実権を握っているという分かりにくい政治構造は、頼朝没後の幕府内の混乱と迷走の中で、なし崩し的に出来上ったものである。

 この奇妙な政治体制が論理化され、正統性を付与されたのは義時の玄孫時宗の時代の事であった。時宗は蒙古帝国との対決という難局に際して、自らの独裁体制を固めながら、
 ①鎌倉将軍は、武家政権創始者源頼朝の後継者である。
 ②北条氏得宗は、八幡神の加護を受けし武内宿禰の再誕北条義時の子孫である。
 ③義時の後継者である北条氏得宗は、鎌倉将軍の「御後見」として鎌倉幕府と天下を支配する。
という論理を固めた。「この論理によって、北条氏得宗は、将軍支配の下での鎌倉幕府支配の正統性を獲得したのであった。」(233ページ)
 「北条氏はなぜ将軍にならなかったのか?」という問いに対する答えは、北条氏得宗は将軍の「御後見」であるから、将軍になる必要がないというものであったと、著者は理解している。

 「だが、時宗において完成され頂点に達した得宗権力は、時宗自身の卒去と同時に形骸化の道を歩みだし、以後の鎌倉幕府は迷走と混乱の果てに沈滞に陥り、瓦解の時を迎えた」(234ページ)。

 ある政治権力を打倒しようとする場合、反対勢力は、その政治権力がよって立つ正統性の論理そのものを否定するか、政治権力が変質し、正統性の論理から逸脱した存在となった点を攻撃する。鎌倉幕府と得宗権力に対し、後醍醐天皇や護良親王は得宗権力の論理そのものを否定し、足利尊氏・直義たちは、得宗を「先代」とよび、鎌倉幕府がその末期に至って変質した点を攻撃し、あるべき鎌倉幕府の復活を標榜した(『建武式目』)。
 このあたりは相対的に理解していいと著者は論じ、私も同感である(ただ、どっちかというと、尊氏・直義の方に共感を寄せるところがあり、あるいは石母田正以来の武士を新興勢力と見なす歴史観が私にも継承されているということかもしれない)。

 「八幡神・応神天皇・武内宿禰など、日本神話に起源を求める得宗権力の論理は、しょせん王朝の論理の亜流に過ぎない」(235ページ)。実際問題として足利幕府は、自らが執権ではなく将軍に就任し(ただし、高師直や細川頼之が政権の中心にいた時期はある)、鎌倉ではなく京都に幕府を置いた(ただし、鎌倉に副将府を置いた。やはり足利政権にも手探りの部分はある)。「しかし、頼朝と義時、特に帝王を倒した義時に、神格化ともいうべき権威を付与した得宗権力の論理は、王朝からの思想的自立の方向性をたしかに胎蔵していたとうことができる」(235ページ)。

 足利幕府の『建武式目』では義時を、武家政治の創始者として頼朝と並べて讃えている。将軍としての足利尊氏の下で、同母弟の直義が政務をとった足利幕府初期の「二頭政治」は、頼朝と義時(これは歴史的な事実ではなく、理念的なものである)、維康と時宗の関係をなぞったものであり、鎌倉幕府の理念の復活であったと考えられなくもない〔ちょっと無理があると感じる人もいるのではないかと思われる〕。著者は、頼朝と義時が義理の兄弟であり、尊氏・直義が「紛れもなく義時の子孫であった」(235‐236ページ)ことに、読者の注意を向けさせる(尊氏と直義がどのように北条家の血筋を継承しているかをめぐっては、この書物の122ページ、123ページに掲載されている系図が参考になる。なお、『太平記』で書いてきたように、尊氏の妻は北条氏庶流の赤橋家の出身であり、北条氏と足利氏の間には、幾重にも婚姻関係が結ばれていたのであった)。

 「鎌倉幕府の歴史は、迷走と混乱の連続であった。政権運営の知識も経験もなかった東国武士たちが作った鎌倉幕府は、王朝以外に手本らしい手本も持たず、試行錯誤を繰り返した。その手探りの中で、あきれるほど多くの血が無駄に流されていった」(236ページ)。その歴史をどのように評価するかは読者の自由であるが、その時代を生きた武士たちが、「それでも今日よりよい明日を築こうと、文字通りの悪戦苦闘を続けた」(236ページ)ことを忘れてはならないと、著者はこの書物を結んでいる。

 北条氏の得宗2人に焦点を絞っているために、鎌倉幕府の血みどろの歴史の流血のすごさが、多少割引されているという感じはあるが、それでも泰時・時頼の代における「道理」や「撫民」を前面に出す政治ではなく、時宗の独裁・恐怖政治が強調されているために、読者にとっての鎌倉時代のイメージはかなり変わってくるはずである。将軍の「御後見」としての執権という考えは、摂関政治における摂関の天皇に対する態度に似ているところもあるが、摂関政治が貴族の外戚としての立場に基礎をおいていたのに対し、執権の場合は武力が前面に出ているところが違う。武家政治の歴史を考えていくうえで重要な問題提起をしている書物であるが、著者の議論をめぐってはさらに論証が積み重ねられる必要があるだろう。
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