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2020年の2020を目指して(4)

4月30日(木)晴れ、気温上昇
 3月に続き、コロナウイルスの蔓延の中で外出の自粛を続けたため、数字の伸びが鈍っている。
 足跡を記したのは1県(神奈川)、1都(東京)、1市(横浜)、4特別区(渋谷、新宿、文京、港)のままである。
 利用した鉄道は4社(東急、東京都営、東京メトロ、横浜市営)、7路線(東急大井町線・東横線・目黒線;東京メトロ南北線・半蔵門線;東京都営三田線;横浜市営ブルーライン)、関内駅を利用したので乗り降りしたのが8駅に増え、乗り換えに利用した駅は4駅のままである。
 利用したバスは2社(相鉄、横浜市営)、14路線、9停留所と変わらず。〔55〕

 この原稿を含めて31件をブログに投稿した。内訳は日記(2020)が6件、読書が4件、読書(歴史)が8件、梅棹忠夫が5件、『太平記』が4件、ジェイン・オースティンが4件ということである。1月からの通算では123件で、日記が1件、日記(2020)が23件、読書が23件、読書(歴史)が27件、梅棹忠夫が14件、『太平記』が17件、ジェイン・オースティンが17件、詩が1件ということである。
 頂いたコメントはなし、1月からの通算では9件、4月中に頂いた拍手は615ということである。〔132〕

 いつも利用している書店が休業しているので、伊勢佐木町の有隣堂本店に出かけて本を買うことになった。それで本を購入した書店が2軒に増えた。4月は、6冊の本を買って5冊を読んでいる。読んだのは:東川篤哉『探偵が多すぎる』(光文社文庫)、ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(岩波文庫)、吉田類『酒場詩人の流儀』(中公新書)、工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』(幻冬舎新書)、及川智早『変貌する古事記・日本書紀――いかに読まれ、語られたのか』(ちくま新書)である。
 1月からの通算では36冊の本を買って、29冊を読んでいることになる。
 こういう時こそ、じっくり腰を据えて名著、大著を読むべきであるのに、比較的軽い本ばかり読んでいる(ルーカーヌスを読み終えたのは、ウイルス騒ぎが始まる前からの努力の積み重ねの結果であることを肝に銘じる必要がある)。
 志村けんさんの訃報に接して、喜劇の歴史について勉強し直そうと思い、Four Great Comediansという本を読み始めたが、果たして最後までたどり着くことができるだろうか。〔四大喜劇人というのは無声映画時代に活躍したチャップリン、ロイド、キートン、ハリー・ランドンの4人である。〕〔31〕

 『ラジオ英会話』を18回、『遠山顕の英会話楽習』を10回、『入門ビジネス英語』を6回、『入門ビジネス英語』特別編を3回(1回聴き逃した)、『高校生からはじめる現代英語』を6回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』を80回、『遠山顕の英会話楽習』を46回、『入門ビジネス英語』を32回、『入門ビジネス英語』特別編を3回、『高校生からはじめる現代英語』を30回、『実践ビジネス英語』を48回聴いていることになる。
 このほか、『英会話タイムトライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『ボキャブライダー』、『世界へ発信 ニュースで英語術』も聴いているが、聞いた数を数えていないのはこれまでと同様である。
 『まいにちフランス語』入門編を10回、応用編を8回聴いている。『まいにちスペイン語』の入門編も10回、応用編を8回聴いている。さらに『まいにちイタリア語』の入門編を10回、応用編を8回聴いている。また『ポルトガル語入門』を4回聴いている。1月からの通算では、『まいにちフランス語』入門編が47回、応用編が32回、『まいにちスペイン語』の入門編が47回、応用編が32回、『まいにちイタリア語』の入門編が47回、応用編が31回、さらに『ポルトガル語入門』が4回ということになる。〔479〕
 このほか、ドイツ語、ハングル、中国語、ロシア語の時間も聞き流していることが多い。

 このほか、『NHKラジオ高校講座』の中の、『現代文』、『古典』、『国語総合』、『英語表現Ⅰ』、『コミュニケーション英語Ⅱ』、『コミュニケーション英語Ⅲ』、『倫理』、『政治経済』、『現代社会』、『音楽Ⅰ』を聴いているのは以前の通りである。
 『朗読の時間』は漱石の『三四郎』を取り上げているので、聞きながら、ときどき、文庫本の『三四郎』にも目を通している。『私の日本語辞典』は「外国人と話す際のとっさの日本語」でいろいろと興味深い内容であった。

 映画館が休業を余儀なくされているために、1月に『台湾、街角の人形劇』を見て以来、映画は見ていない。早く、休業が終わることを望むものである。〔2〕
 1月に別府葉子さんのライヴを見に出かけたが、それ以後は、音楽関係の行事には出かけていない。美術展もご無沙汰している。〔1〕
 サッカーも、1月に全国高校サッカー選手権の2回戦を見て以来、ずっとご無沙汰している。これまた早くシーズンが再開してほしいと思っている。〔5〕

 1,2,4月はずっと酒を飲んでいるが、3月は酒類を飲まない日が3日あった。陽気も温暖になるし、これから、少しずつでも禁酒日を増やしていこうと思う。〔3〕

 1年の3分の1が終わったところで、読書、映画、サッカー観戦など数字が例年と比べて数字が伸びていない。これは必ずしもコロナ禍の影響というだけではなく、私の心身の衰えも反映しているところがあるように思われるが、2020という数字の3分の1を超えるだけの積み重ねはしているので、慌てす、騒がず、落ち着いて毎日を過ごしていくつもりである。 
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梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(20)

4月29日(水/休日)晴れ

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、5人の隊員とともに東南アジアを訪問、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査を行った。この旅行の後半、1958年2月から3月にかけて、彼は隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオス3カ国を自動車旅行した。外務省留学生としてバンコクに滞在していた石井米雄(1928‐2010)が通訳を兼ねて同行した。この書物の下巻の大部分は、この旅行の個人的な記録である。
 一行は2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、農村やゴムのプランテーション、バッタンバン、プノムペン、カムポットのような都会を訪問し、トン・レ・サップ湖の周囲を回っただけでなく、湖上の部落を訪問したりした。2月21日にプノムペンを出発し、その日のうちに、(南)ベトナムのサイゴンに到着、コーチシナの文化と歴史を実地に見聞した。28日にサイゴンを出発、サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳・案内係として(フエまで)同行した。ベトナムの中圻(アンナン)地方ではベトナム民族とチャム(パ)民族との抗争の歴史をたどり、アンナン帝国の首都であったフエでは、ベトナム文明が中国から受けた影響と、独自のものをめぐり日本との比較を試みたりした。
 3月7日、フエを出発、西に進んで、ラオスに入国する。アンナン山脈の東側=ベトナム領内では雨季で青々としていた森林が、西側=ラオス領内では乾季で、森の木が黄葉し、落葉しているのを見る。途中で一泊し、8日、ようやくメコン河岸の都市サワナケートに到着する。ここで態勢を整えて、ターケックを経て、ヴィエンチャンに向かう。ヴィエンチャンへは大森林のなかの道なき道を進まなければならない。

第17章 大森林をゆく(続き)
 輸送特攻隊
 「道はいよいよものすごい。ほんとにこれは、道路といえるしろものではない。森林の中の、地表のこまかな波を、一つ一つ、そのまま上ったり下ったりして越えてゆくのである。一ばん閉口するのは、谷を越えるときだ。まるで、ひよどり越えの逆おとしだ。急転直下で谷底まで下りて、そしてまた、むこう側は40度くらいの傾斜をかけのぼる。こんなことを、なんべんくりかえしたことだろう。ギヤはそのたびに、前輪・低速である」(175ページ)。

 自分たちがジープを使用しているのは正解であったと梅棹は思う。しかし、この道を普通の乗用車で通る人々もいるという。何台もの自動車が隊列を組んで出かけるというのが秘訣だそうである。「まったくいい度胸である。まるで輸送特攻隊だな」(175ページ)。谷底には丸太を何本か並べただけの橋がかかっている。たよりないが、その橋を渡る以外に手段はない。3人のうち2人が車を降りて、橋脚など調べてから車を誘導する。こういう状態では、たしかに雨季の旅行は無理である。

 おとし穴からの脱出
 日が暮れてから差し掛かった丸太橋は、これまでの橋よりもさらに頼りなかった。案の定車を乗せると、丸太の一本が折れて、跳ね上がり、ジープの後輪が丸太の間に落ち込んで、車体が傾いた。なんとか後退しようとするが、うまくいかない。野営することも考えられるが、吉川も石井も反対する。喉が渇いていては、野営どころではない。やってみれば何とかなるという石井の言葉を受けて、丸太を何本も車体の下に突っ込み、全速でバックしたところうまく脱出できた。辺りはもう真っ暗闇である。

 経済飯店
 橋を渡らずに、横を迂回する。暗闇の中をゆっくり前進する。道ばたの森の中で野獣の眼がきらりと光るのが見えた。やがて人家の明かりが見えた。それは渡し場だった。ホーンを鳴らすと、対岸から丸木舟がやってきた。車は翌日に渡すというので、そのままにして、丸木舟で対岸に渡る。この渡し場はナム・カディンと言い、いくらか人家もあり、めし屋もあった。そのめし屋で泊まることにする。経済飯店というのが若い中国人が経営するその店の名前である。

 主人は、一行が日本人だと知ると、急に態度を改めて好意的になった。戦争中、日本軍の兵士たちに世話になり、いろいろなことを教えてもらったことが忘れられないらしい。主人は一行の遭遇した災難に同情し、一行が難渋した丸太橋の辺りは、トラや狼が出る恐ろしい場所だと言った。〔トラというのはインドシナトラで、ミャンマーからマレー半島にかけて生息する。近年は絶滅危惧種になっているようである。オオカミについては、どうもよくわからない。〕
 一行はやたらとジュースを飲み、こんなに飲んでおかしいだろうというと、主人は、もっとすごいのが来たことがあると答える。
 二人連れの白人で、それぞれがオレンジジュース4本とビール2本を飲み、うどん2杯を平らげて、それから「さあ、めしだ」と叫んだそうだ。2日間、飲まず食わずで森林を走り抜けてきたのである。〔それよりも、ラオスにうどんがあるということの方が気になる。〕
 この経済飯店には相客がいた。こちらはアメリカ人3人とラーオ人1人のグループで、USOMの職員で農業顧問だという。かれらはラオスの南部の町パークセーまで行くことになっている(つまりこれから森林に突入するのである)。〔USOMはthe United States Operations Missionの略称で、これはUSAID(United States Agency for International Development)の前身となる機関らしい。アメリカの対外援助のための機関である。パークセーはサワナケートと並んで、ラオス第2の都市とされ、人口は87,000人ほどである。サワナケートよりも、さらに南の方にある。〕

 ヴィエンチャンへ
 翌朝、一行は6時に起きる〔梅棹は朝に弱いから、たいへんだったろう〕。渡し舟はUSOMの車を対岸に渡し、その帰りに一行の車を運んできた。
 ナム・カディンからの道はよく整備されていた。やがてはこのような道がターケークまで通じることになり、梅棹一行の苦闘は昔語りとなるであろうと彼は予想する(その通りになった
 
 もう一つ渡し場を渡り、パークサンの町に入る〔同じような名前の町が多くて大変である〕。「ターケーク以来最初の町である」(179ページ)と梅棹は書いているが、パークサンは現在でも人口3万に満たないようので、日本の基準に照らしても「町」である〕。
 「パークサンはお寺のお祭りでにぎわっていた。ラーオ人の娘たちが、片肌脱ぎのきらびやかな盛装で、通りを歩いていた。わたしたちは、目をみはってながめた」(179ページ)。

 街道から少し離れて、メコン川の本流を身に出かけたところ、この土地で37年間、教育事業を続けているフランス人の神父から話しかけられる。先生が11人、生徒が120人ほどだというが、立派な建物の学校である。〔ほかにもこのような学校があるのかどうか、気になるところではある。ラオスの人と何度か話したことがあるが、この種の学校の卒業生である可能性もある。〕 

 ラオスの首都であるヴィエンチャンまでの最後の行程に入る。「しだいに平野がひらけ、村があらわれてくる。文明に近づいてきたようだ」(180ページ。梅棹は文化と文明を独特のやり方で区別しており、ここで「文明」と言っていることに注意が必要である)。梅棹、吉川、石井の3人が3人とも、ヴィエンチャンにたどりついたらライス・カレーを食べようなどと言いながら、車を走らせる。昼過ぎにヴィエンチャン市街に入る〔次回に詳しい話を読んでいくことになるが、この当時のヴィエンチャンの人口について、梅棹は5万人くらいではないかと書いている。現在は80万人を超える人口があるから、この60年ほどの間に急速に人口が増加したのである。〕

 第22章でふれられることになるが、梅棹が通過したサワナケートや、ナム・カディンの渡し場はその後のラオス内戦で激戦地となる。ラオス国内で対立していた勢力の間で和平が成立していた時期に旅行したのは幸運であったということである。この時代、ラオスはまだ王制を敷いていて、政府はヴィエンチャンにあるが、国王はルアンパバーン(当時はルアンプラバンという呼び方が一般的だった)にいた。梅棹はルアンプラバンも訪問することになるが、それは第18章に入ってのことである。次回はまだ第17章の残りを見ていくことになる。
 昨夜は、夕食後眠ってしまい、皆様のブログを訪問できませんでした。あしからず、ご了承ください。

日記抄(4月22日~28日)

4月28日(火)晴れたり曇ったり

 4月22日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:

4月22日
 『朝日』朝刊の「専門誌に聞け」というコーナーで、『大学への数学』の編集長である横戸宏紀さんがこんなことを語っている:
数学の一番いい勉強法は、少し難しい問題を、解答を見ないでひたすら考えることだといわれています。
 読書の場合でも、自分には少し難しいかなと思う本を考えながら読み進めることは貴重な体験となる。ただ、それだけでなく、やさしい本をどんどん読んで量をこなすことも併せてした方がいいと思う。

 『日経』朝刊に、文部科学省が教師による「対面指導」という原則を崩さないことが、高校でのオンライン授業の推進の壁になっているという記事が出ていた。米欧のようにもっと柔軟に対処する必要があるのではないかというのが記者の意見である。
 一方、『朝日』の朝刊は文部科学省の調査によると、休校中の家庭学習でデジタル技術を活用しているのは全体の29%であるという事実を報道していた。オンライン学習の推進と、「対面指導」原則の見直しは切り離すことができず、コロナウイルスの蔓延による休校が続く中、議論を進めるべき問題である。

4月23日
 『朝日』朝刊の「天声人語」は、東京や滋賀で図書館長で活躍した前川恒雄さんの仕事と、その著書『移動図書館ひまわり号』について紹介していた。日本の図書館は上から目線で「良書」を押し付けたがるので、どうも敬遠されがちであるという。「この本を読め、あの本の感想文を書けと言われたら、だれでも本が嫌いになる」という。ごもっとも、ごもっとも。
 ただ、読書指導の歴史をたどると、「良書主義」(この主張を展開しているのが小泉信三の『読書論』)と「適書主義」の対立があって、どちらが正しいというのではなく、両者の配合を工夫すること、それからどんな本が「良書』であるかと問い続けていくことの2点が必要なのではないかと思うのである。

4月24日
 1952年のヘルシンキ五輪の日本代表、1953年のボストンマラソン優勝など、マラソン・ランナーとして活躍された山田敬蔵さんが4月2日に亡くなられていたことが分かった。92歳。

 山田さんの訃報の近くの紙面に、俳優・声優の久米明さんが23日に亡くなられたことが報じられていた。96歳。一時、私が身を寄せていた東京の家の近くに、昔々山本安英さんが住んでいて、久米さんはその山本さんと木下順二さんが率いていたぶどうの会の主要メンバーだったことを思い出す。今、山本さんの住まいはまったく姿を消してしまって、記憶の中にあるだけである。

 『NHK高校講座 国語総合』では唐詩の学習の一環として、王翰の「涼州詞」を取り上げた。高校時代に漢文で習ったし、大学時代に中国語を習った折に、最初の授業で尾崎雄二郎先生が中国の音の美しさを実感してもらうためとおっしゃって、この詩を現代中国語の発音で朗誦されたことなど、思い出の多い詩である。
 起句の「葡萄の美酒 夜光杯」とある「夜光杯」について、西域伝来のガラスのコップだとか、特別な石を削って作ったものだとか、いろいろな説があるようである。陳舜臣の短編集『景徳鎮からの贈り物――中国工匠伝――』のなかに、「挙げよ夜光杯」という、夜光杯をつくり続けていた職人の数奇な運命を描く作品が収められている。そこでは、夜光杯が甘粛省の土産物になっていると記されているが、実際のところはどうなのだろうか。

4月25日
 「朝日川柳」に掲載された
二週間 いつまでたっても 二週間
という東京都の新井文夫さんの句が印象に残る。

 吉田類『酒場詩人の流儀』(中公新書)を読む。BS-TBSの『酒場放浪記』で知られる著者の紀行エッセー集。酒場をめぐって酒を飲むだけでなく、旅をして、山に登り、俳句を作る(だから「酒場詩人」というよりも「酒場俳人」なのだが、「廃人」と言われたくないのであろう)。ヒグマ、エゾシカ、タヌキ、イワナ、ウツボ、リュウキュウアユなど、山や川、海のさまざまな動物の話が織り込まれているが、その中で、17年間一緒に暮らし、旅にも連れて行ったという猫の思い出が印象を残す(40ページ)。

4月26日
 『朝日』朝刊の国際面に「中国、北朝鮮に軍医師団」という見出しを見つけて、中国はなんと軍医の師団をもっているのか!と驚いたのだが、軍医師・団ということであった。同じ紙面の別の記事にロンドン大学衛生熱帯医学大学院の先生のコメントが掲載されていたが、ロンドンに滞在した折、ロンドン大学のブルームズベリー地区にある研究・教育機関の食堂のなかで、ここの食堂がいちばんいいという話を留学生仲間から聞いたことを思い出した(そんなことしか覚えていないのである)。

4月27日
 各紙朝刊の1面のコラムの比較:
 『朝日』の「天声人語」はコロナ禍のなかで、ハンコを押すために出勤しなければならない人がいるという状況を指摘して、日本のハンコ文化を見直そうと主張、そのハンコ文化は必ずしも古来からの伝統ではなく、花押が用いられた時代もあると裏付けとなる歴史的事実を持ち出している。
 『産経』の「産経抄」は「慣れてなんぼの”テレ”と”リモート”」と、外出自粛の定着ぶりを語っている。
 『東京』の「筆洗」はノーベル賞受賞者の本庶佑さんの幸福感を紹介し、我々はときどき不自由を味わないと、日常的なありがたみを理解できなくなると説いている。だから外出自粛もしばらくの我慢だという。そう言えば、「ドラえもん」にも同じような話が出てきた。
 『日経』の「春秋」は経済学者トーマス・シェリングの「顔が見える命」と「統計上の命」の対比、彼の議論を発展させ、さらに動機付けの重要性を強調したリチャード・セイラーの議論を紹介し、コロナ化のなかの政策の方向性を示唆している。
 『毎日』の「余録」は映画産業が崩壊したスーダンで、映画監督ら4人が映画館をとり戻そうと奮闘するドキュメンタリー『ようこそ、革命シネマへ』(英語題名は”Talking about Trees”)の公開予定がコロナ禍のために取りやめられたという話から、わが国の映画の危機、特にミニシアターの危機を乗り切るための援助を呼び掛けている。
 『読売』の「編集手帳」は太宰治の「津軽」から書き起こして、クラスター発生への警戒を呼び掛けているが、どうも話がつながっていない。

4月28日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」で<惻隠>子が「教育機関のデジタル落差」について指摘し、文部科学省が対面指導の過度の重視を改めること、各教育機関への教育機器の配備を急ぐべきことを説いている。傾聴すべき意見である。

 『読売』の「文芸時評」欄で、待田晋哉記者が会田誠の小説「げいさい」を、漱石の『三四郎』以来の状況・青春小説の伝統の文脈で論評しているのが興味深かった。東京芸大入学を目指して浪人中の主人公が1986年11月に多摩美術大学の「芸祭」を身に出かける2日間の体験をそれ以前の回想を交えながら描いたものだという。以前、吉田修一さんの『横道世之介』が映画化されたのを見た時に、私は『三四郎』との対比で、主人公が伝統的な文学系の大学(東大とか早稲田とか)ではなく、法政に学んでおり、しかも学部は経営学部で、大学の講義の場面がなくて、サークルの描写だけであることなどを指摘して論評したことがある。この作品も『横道世之介』とほぼ同時代の学生生活を描いており、1960年代の半ばくらいから進んだ日本の高等教育の大衆化がどのように青年の生活水準の向上とか、教養の拡大というようなプラスの側面をもたらしたかという観点から見ていくと面白いのではないかと、読まない前から考えているところである。

 『朝日』、『読売』両紙に掲載された『婦人公論』の広告によると、司葉子さんが亡夫で衆議院議員だった相澤英之氏の数万冊の本、資料の山をどうすればよいのか、途方に暮れているということである。現代史の貴重な史料として、どこかの大学か史料館に寄贈することにして、生理も手伝ってもらうのがいいだろうと思う。
 

『太平記』(312)

4月27日(月)曇り、午後になって雨が降り出す。

 観応元年(南朝正平5年、西暦1350年)12月、足利直冬討伐のために西国へ向かった足利尊氏は、直義と南朝の合体を知って、備前から引き返した。翌年正月、直義は石清水八幡宮に陣を置き、これに呼応して足利一族で直義に味方する桃井直常(もものい・ただつね)が上洛した。尊氏の留守を、その嫡子である義詮が守っていたが、形勢不利と見て京を退き、西へと向かった。

 義詮は一族の仁木・細川らの武士たちを率いて、心細い思いで都を離れて桂川を渡り、向日明神(むこうみょうじん:京都府向日市向町にある向日神社)の南方を通っていたところ、物集女(もずめ:向日市物集女町)の前、西岡(にしのおか:向日市・長岡京市一体の丘陵地帯)の東西に馬が蹴立てる土ぼこりがおびただしく上がり、そのために多数少数は分らなかったが、2・30本余りの旗を立てて軍勢が進んでくるのが見えた。
 義詮はこれを見て、八幡の直義軍が搦手に回って自分たちを攻撃しようとしているのではないかと思い、斥候を出して様子を探らせたところ、直義軍ではなくて、尊氏と高師直が山陽道の武士たちを集め、2万余騎を率いて上洛してきたのであった。義詮の一行は、法華経に出て来る窮子(ぐうじ)が他国から帰って、父の長者にあったのと同じような心持で、大喜びしたのであった。
 かくなる上はすぐに都へと取って返し、桃井の軍勢を打ち破ろうと、尊氏・義詮父子の軍勢合せて2万余騎が東に向かい、桂川を渡ったところで、その軍勢を3つにわけた。

 大手の軍勢は高師直を大将とし、これに丹波の守護であった仁木頼章が加わり、四条大路を東へと進む。その南の道を進むのは佐々木道誉で、手勢700余騎を率い、東寺(京都市南区九条町の教王護国寺)の東を進み、今比叡(京都市東山区妙法院前側町の新日吉神社の辺りに控え、大手の合戦が本格的になった時に、思いがけない方角から敵の背後を衝こうと旗竿を側において隠し、敵味方を区別する笠符(かさじるし)を巻き隠して、東山に上った。〔楠正行との四条畷の戦いでも、道誉は生駒山に上って敵の背後をついて、正行軍の退路を断つことに成功した。なお、第21巻には、道誉が妙法院を焼き払うという狼藉を働いた話が出ている。〕

 尊氏と義詮は1万余騎を1つの部隊にまとめ、東寺の横の東大宮通りを北へ上り、二条通りを東に進んで岡崎の法勝寺の前に出ようと合図を決めて待機していた。これは桃井が東山に陣をかまえたという情報を得て、四条を進む高師直・仁木頼章の軍とは鴨川の河原で対決することになるだろう、その時に味方が敗けたふりをして退却すれば、桃井軍は勝ちに乗じて前進するだろうから、そこを佐々木道誉の軍勢が背後から襲う。桃井は前後に敵を受けて慌てる。その時に尊氏・義詮の大軍が北白川方面に出て、敵の退路を塞ごうとする。そうなれば桃井がいかに勇猛でも、退却しないではいられなくなるだろうという作戦である。

 予定の作戦通り、尊氏・義詮軍と佐々木道誉軍の中間を行く高師直・仁木頼章の大手の軍は大宮通りに出ると旗を降ろして戦闘態勢に入り、四条河原をめがけて駆けだしてきた。桃井は東山を背後に、鴨川を前に赤旗一揆、扇一揆、鈴付け一揆、3千騎ずつ3か所に待機させて、射手を前陣に進ませ、畳楯(じょうだて=折り畳みができる面が広く大きい楯)を並べて、敵が攻めてくれば受けて立ち、河原という広い場所で勝負を決しようと、静まり返って戦闘開始を待ち受けていた。

 両陣ともに旗を進め、鬨の声を挙げていたが、足利方は搦手の軍勢の合図を待っていて、戦闘を開始しようとはせず、桃井軍は石清水八幡宮の直義の軍勢の到着を待っていて、これまた戦闘を開始する気はない。お互いに味方の士気を鼓舞しようとして、馬を走らせて陣営の前に出て、曲乗りをして見せるものが出たりするが、戦闘開始には至らない。

 すると、桃井に従っていた扇一揆のなかから秋山九郎(光政)という大男の武士があらわれ、自分が甲斐源氏に属する代々の武士であり、兵法に通じていると誇って、自分に一騎打ちを挑むものがいないかと挑発する。
 すると、高師直の重臣で武蔵七党の一つ、丹党に属する阿保忠実(あぶただざね)という武士があらわれ、自分は兵法などは知らないが、実践経験は豊富だと一騎打ちに応じる。両者は白熱した戦いを続け、それぞれの武器を失う。師直は忠実が武器をとらせたら強いが、秋山の方が力は強そうで、武器をなくしてしまったら、秋山の方が有利と見て、秋山に矢を射かけるように命じる。しかし、忠実は秋山の武勇を惜しんで、自分が楯になって秋山を矢から守り、結局二人は生き残る。
 この戦いは京都の人々の間で評判となり、神仏に供える絵馬の類、扇や団扇に描くバサラ絵に、阿保・秋山の河原での戦いの絵を描かない人はいないという人気を集めた

 この後、両軍の本格的戦闘が始まり、この衝突の辺りから、観応の擾乱が本格的に始まる。亀田敏和さんの『観応の擾乱』(中公新書)はこの戦乱が全国規模のものであったことを強調し、各地の武士たちの動きを詳しく述べているが、『太平記』の作者は戦乱の推移を主要な武将の動きに限定して、表面的にしか描いていないように思われる。亀田さんが当時の記録をもとに京都での市街戦を再現しているところによると、四条を進んだのは義詮、二条を進んだのが尊氏で、いったんは本拠の北近江に戻ろうとしたが、三井寺の僧兵にさえぎられて引き返してきた佐々木道誉と三方面から桃井直常の軍隊を包囲して攻める形になったというのが真相らしい。
 亀田さんは多くの武士たちが、尊氏を離れて直義の方に味方するようになった理由として、尊氏の庶子で直義の養子となった直冬が優れた武将としての器量をもちながら、尊氏に冷遇されていることに反感をもった武士が多かったのではないかと論じている。それだけでもないだろうが、一考に値する見解である。

 本文の「窮子の他国より返つて、父の長者に逢へるが如く」(第4分冊、388ページ)というのは、法華経の信解品(しんげほん)の比喩を踏まえたものだと岩波文庫版の脚注に記されている。長者の息子が家出して流浪し、50年後に偶然長者の邸を訪れたのを、長者は下男として召し使い、後に親子の名乗りをして財産を譲ったという説話である。仏を長者、仏道修行者を子、仏法を財宝に譬えた譬喩であるという。この話、新約聖書に出て来る「放蕩者の息子」の帰還の話によく似ている。両者の関係について論じた研究があるかも知れないので、気長に探すことにしよう。
 華々しい一騎打ちを演じた2人の武者のうち、秋山は現在の山梨県南アルプス市秋山に住んだ武士、阿保忠実は現在の埼玉県児玉郡神河町に住んだ武士だと岩波文庫版の脚注にある。安田元久『武蔵の武士団』(有隣新書)は最後の方で丹党と阿保氏に触れているが、忠実についてはその名を挙げていない。なお、党というのは中小武士団の同族的結合であり、「武蔵七党」について安田は野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西とするのが一般的だが、私市(きさい)・続(つづき)を加える見解もあると述べている。また、一揆というのも武士集団であり、その欠号の目印を名前として白旗一揆とか、扇一揆とか言ったようである。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(41)

4月26日(日)晴れ、午後、雲が多くなる

 ベネット家の5人姉妹の末娘であるリディアが、メリトンに駐在していた義勇軍(当時=19世紀初めのイングランドはナポレオンのフランスと交戦状態にあったので、正規軍のほかに義勇軍を組織していたのである)のブライトン移動のさいに、フォースター大佐夫人の招待で同行していたのが、この舞台の中尉であるウィッカムと駆け落ち、行方不明になるという事件が起きた。ブライトンは、イングランド南東部の保養地で、後に国王ジョージⅣ世となった当時の王太子がこの地を愛し、建築家ジョン・ナッシュの設計による離宮を建てるなど、当時の風俗文化の中心地であった。2人の行方を追って、ベネット氏はフォースター大佐とともにロンドンに向かったが、大佐は軍務があるのでいつまでも捜索を続けるわけにはゆかず、あまり実際的な能力のないベネット氏に2人の消息を突き止めることができるとは、思われなかった。ベネット夫人の実の弟であるガードナー氏は、その妻、それにこの物語の主人公であるベネット家の次女エリザベスとともに旅行中であったが、急遽予定を変更してベネット家の住むハートフォードシャーのロングボーンに駆けつけたのであった。
(以上、第3巻第5章までのあらすじ)

 今回は、第3巻第6章=第48章に入る。
 ベネット家の一同、そしてガードナー夫妻は、ロンドンのベネット氏から何か便りが届くことを期待していたが、その期待は空しかった。もともとベネット氏は筆不精なたちであったし、便りがないのは事態が進展していないことを示すことはわかっていたが、何も朗報がないということだけでも知らせてくれてもよいのにというのが、人々の気持ちであった。便りをまって出発を遅らせていたガードナー氏は、やむを得ずそのまま出発した。〔21世紀の初めまで、英国の郵便物は朝、届いていた。ハートフォードシャーはロンドンから近いので、朝、早くロングボーンを出発すれば、その日のうちにロンドンでかなりの作業に取り組むことができたのである。〕

 ガードナー氏は、ロンドンに到着したら、ベネット氏を説得してロングボーンに戻らせると請け合った。彼の姉であるベネット夫人は、夫がウィッカムに会ったら、娘の結婚をかけて彼と決闘するに違いないと心配していたから、その気持ちを安らげようと意図もあった。
 ガードナー夫人は、子どもたちとともにまだしばらくはロングボーンに留まることにした。姪たち(ジェインとエリザベス)がベネット夫人の付き添いをする負担を軽くしようと考えたのである。また、時間の余裕がある時には、彼女たちのしっかりした話し相手となった。
 ベネット夫人の姉である(メリトンに住む)フィリップス夫人も皆を励まさなければという名目で、しばしばロングボーンを訪問したが、彼女が来るたびに、メリトンに残したウィッカムの悪い噂を口にするので、一家の人々は気が滅入る一方であった。
 ウィッカムがメリトンに滞在していた時は、彼は人気のある将校であったが、いったん彼が去ってしまうと、彼があちこちで借金を重ねていただけでなく、借金をしていた商人の娘たちに言い寄って、なんとか借金を帳消しにしようとしていたことまでが表ざたにされ、噂の相当部分が作り話だとしても、妹のリディアの身の破滅は避けられないと、エリザベスの気持ちは重くなる一方であった。
ジェインの方はリディアとウィッカムが結婚するという望みを捨てていなかったが、その知らせが届かないことが彼女にも不安な気持ちを呼び起こしていた。

 日曜日にロンドンに出発したガードナー氏は、火曜日にすぐに便りをよこした。ロンドンに到着してすぐにベネット氏を探し出し、グレイスチャーチ街(シティーにある実在の地名)の自宅に来てもらったこと、ベネット氏は馬車の乗り換え場所であるエプソムとクラッパムで調査をしたが、なんの手がかりも得られず、今度はロンドンじゅうのホテルを探してみるつもりでいて、ロングボーンには帰るつもりがないことなどを知らせてきた。〔エプソムEpsomもクラッパムClaphamも実在の地名。エプソムはサリーSurrey州の町で、ロンドンの南西に位置している。郊外にDerby及びOaksが行われる競馬場があることで知られる。クラッパムClaphamはテームズ川のすぐ南の一帯で現在はロンドンの市内になっているが、当時は田舎町であった。〕 ベネット氏のやり方で2人が探し出せるとは思わなかったので、ガードナー氏はフォースター大佐にウィッカムの縁戚のものがロンドンにいないかどうか尋ねたし、あるいは(ウィッカムと一時期親しかった)エリザベスがなにか手掛かりになることを知っていないか、いたら知らせてほしいと結んでいた。

 そういわれても、何も知らせるようなことはないとエリザベスはすこしくすぐったいような感想をもった〔実際は、彼女は手掛かりになる情報をもっていないわけではなかったのだが、それが手掛かりになるとは思っていなかった、あるいは思っていても話すわけにはいかなかったということであろう――ここは、読み手によって解釈の分かれるところである。つまり、ミス・ダーシーがウィッカムと駆け落ちをしようとしたという事件の際に、手引きをした女性がいたことをエリザベスは知っていたが、話すわけにはいかないという事情もあったのである。〕

 ロングボーンではガードナー氏からのさらなる便りを不安と期待を抱きながら待っていたが、彼からの第2信が届く前に、思いがけないところから便りがあった。それはケントのコリンズ氏からのものであった。〔ルーカス夫人から自分の娘のシャーロット=コリンズ夫人に向けて今回のスキャンダルを知らせる便りが届いたらしい。〕 コリンズ氏の手紙は、リディアの不行跡を責め、それがベネット夫人の彼女への出来合いの結果であることを指摘し、このスキャンダルが他の4人の姉妹の不幸を招くだろうと予測し、もし、エリザベスと結婚すれば自分もこのスキャンダルにまきこまれていたが、そうならなかったことを幸運だと思い(もちろん、エリザベスの名前は出していないが、暗にそのことを指摘しており、ものすごく嫌味)、「不肖の子とはこの際潔く親子の縁を切られ、自ら犯せし大罪の報いはこれを本人自ら刈取らしむるよう、衷心から御忠言申し上げる」(大島訳、502ページ)と述べるものであった。言っていることの大部分は、いちいちその通りなのだが、余計なお世話だと言いたくもなる内容である。

 フォースター大佐からの返信を受け取ってからやっとガードナー氏は第2信を送ってきたが、2人の居場所についてはなんの手がかりも得られないままであった。フォースター大佐からの手紙では、ウィッカムはブライトンでも賭博の結果、1,000ポンドをくだらない借金を重ねていて、それも彼が身を隠している理由だろうとのことであった。また、なんの手がかりも得られなかったことからベネット氏は意気消沈し、ロングボーンに帰ることを承知したと記されていた。
 「ところがベネット夫人はこの話を聞いても、夫の命をあれほど心配していた割には、娘たちが期待したほど満足の意を示さなかった。/『なんですって! 一人でお帰りですって、可哀そうなリディアを見捨てたまま!』とベネット夫人は叫んだ。『いいえ、お父様は二人が見つかるまでは絶対にロンドンを離れたりはしません。だってお父様がお帰りになったら、一体誰がウィッカムと決闘して、二人を結婚させるんです?』」(大島訳、503ページ) 〔他人には多大の労苦を期待するくせに、ご本人は寝室にこもりきりで何もしないのだから、いい気なものである。そして自分が周囲の人々の足を引っ張っているとは全く気付いていない。自分の言うとおりにふるまわないものだから、うまくいかないと信じ込んでいる。〕

 ガードナー夫人はそろそろロンドンに戻りたくなっていたので、ベネット氏と入れ替わることにした。それで途中の宿場までベネット家の馬車で出かけ、そこでロンドンから戻ってきたベネット氏と馬車を取り替え、ベネット氏はそこから自分の馬車で戻ってきた。
 ガードナー夫人はエリザベスとダーシーの間に何があるのか、また何か起きるのかと気に懸けていたが、なんの気配も感じることができなかった。エリベスは、たしかにダーシーの方に気持ちが向かっていたし、そのためにこの度の不祥事で彼との結婚の可能性がついえたと思われることに消沈していたが、家族全体が不幸な状態にあることが隠れ蓑になって自分の気持ちを問いただされることはなかった。

 一方、ベネット氏は落ちついた様子を見せていたが、今回のことについては一言も話そうとしなかった。そこで娘たち(前後の文脈から考えて、エリザベスだけでなく、メアリーとキティーも加わっていると考えられる。ジェインは母親に付き添っている)の方から思い切って聞いてみたところ、今回のことは自分の身から出た錆だ、自分で自分を責めるだけだとの答えが返ってきた。ベネット氏は持前の辛辣なユーモアを失ってはいなかったが、心に大きな傷を受けたことは隠せなかった。

 家族にとって重大な局面に差し掛かっているのだが、コリンズ氏の言っていることの大部分はもっともなのだが、自分とはいちおう無関係な家庭の私事に首を突っ込むいささか礼を失したお節介な手紙や、夫が決闘で死ぬことを心配(あるいは期待?)するベネット夫人の態度など、滑稽である(しかも、2人のしていることはそれぞれの個性を反映している)。娘たちに答えるベネット氏の態度からもユーモアは失われていない。このあたりにオースティンという作家の面目が現われているように思う。さて、2人の行方は分かるのだろうか。逃避行の結末はどうなるか。それはまた次回に。
 鈴木博之『ロンドン』(ちくま新書)によると、この物語から少し後の時代、1821年2月16日にクリスティという人物とジョン・スコットという人物とがロンドンの北の方のプリムローズ・ヒルで決闘をしてスコットの方が死んだという記録があるそうで、ベネット夫人が騒ぐのは決して根拠のないことではなかったのである。フローベールの『感情教育』は1840年代のフランスの青年たちの群像を描いているが、主人公のフレデリックは決闘をしている(ピストルを発砲する前に事態は収まっている)し、ベル・エポックになってもイタリアでは決闘騒ぎがよくあったと野上素一先生(野上弥生子の子息)のイタリア文学の授業で聴いた記憶がある。
 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(23)

4月25日(土)晴れ

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人であるマルクス・アンナエウス・ルーカーヌス(39‐65)の、作者の死により未完に終わったこの長編叙事詩は、ローマ共和政末期(紀元前2世紀末から紀元前43年まで)に起きた(というよりも、ローマ共和政を終らせた)内乱、ポンペイウスとその一党(共和派)と、民衆の支持を背景に独裁政権を築こうとするカエサルとその一党(民衆派)との戦いを描くものである。
 この時代、ローマの政治は閥族派(共和派)と民衆派の対立の中で混乱を続けていたが、紀元前60年に閥族派のポンペイウス、同じくクラッスス、民衆派のカエサルの3人の間で密約が成立し(第一次三頭政治)、いったんは安定を取り戻したかに見えた。しかし、前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、両雄並び立たず、残された2人の間の対立が激しくなる。
 詩人が「樫の古木」に譬える過去の英雄ポンペイウスは、ローマ元老院と結んで、当時ガリア総督であり、詩人が「雷電」に譬える昇竜の勢いのカエサルの職を解き、彼の率いる軍.隊の解散を命じるが、カエサルはこれを無視、紀元前49年1月(ユリウス暦では紀元前50年11月)にガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡る。(この時カエサルは、「賽は投げられた」Iacta alea est. = The die is cast.と言ったとスエトニウスは記す。) カエサル軍はポンペイウスと元老院の軍勢とを破竹の勢いで撃破し、ポンペイウスたちはイタリアを追われてギリシアへと去る(第1-3巻)。カエサルはポンペイウス派の軍隊を追ってヒスパニアのイレルダの戦いで勝利するが、彼の同盟者の1人であったクリオは、北アフリカでポンペイウス派に味方するユバ王の作戦にはまって敗死する(第4巻)。ポンペイウスはギリシアで反撃の準備と整えるが、その彼を追ってカエサルはギリシア西北部(現在の地理ではアルバニアにもまたがっている)エペイロス地方に上陸した。しかし、陸でも海でもポンペイウス派の優勢が続き、自派の有力な将軍であるアントニウスの来援を待ちかねたカエサルは、小舟でイタリアに戻って来援を促そうとする。

 戦いに疲れた兵士たちにとって、戦闘が終わった後の夜の束の間の休息のなか、カエサルの率いていた将兵たちも眠ろう説いていたが、カエサルは従卒をすべて残し、フォルトゥナ(運命の女神)だけを供としてイタリアへと舟で戻ろうと決心した。彼は、海岸で平和に暮らしていた若い漁師のアミュクラス(おそらく詩人が創作した人物)をその眠りから起こし、自分をイタリアまで運ぶように依頼する。不穏な雲行きを心配するアミュクラスではあったが、
「・・・一大事の危急が求めるというのであれば、手を貸すのを
毛頭躊躇わぬ。行けと言われた岸辺に、わしがたどり着くか、
それとも海と風とがこれを拒むかだ」。
(第5巻、570‐572行、263ページ)と、この冒険を引き受け、舟を海に出し、帆を張る。

 舟は悪天候のために揺れ動き、進むことができない。アミュクラスはカエサルに、もはや引き返すよりほかに道はないという。しかし自分はどのような危難であっても斥けることができると信じているカエサルは、アミュクラスのこの申し出をはねのける。
「・・・雲行きに
威(おど)されてイタリアに行くのを拒んでいるのなら、私に命じられて
イタリアを目指すのだ。・・・
(第5巻、590‐592行、264ページ) さらに、
・・・この海と空との争乱で図られているのは、
フォルトゥナが私のために成就したまう天啓なのだ」
(第5巻604‐605行、265ページ)と、不遜な言葉を吐く。カエサルの言葉にもかかわらず、舟はますます激しくなる旋風に、帆を奪い去られ、船体そのものも波に揺られてきしむのであった。

 それから、四海の至る所から、猛り狂う危難が次々と襲いかかった。
(第5巻、609行、265ページ) 舟は風と波に翻弄されるが、カエサルはそのような防風にもその気持ちを動揺させることはなかった。
・・・今やカエサルはこの危難が自分の偉大な定めに相応しい
大難と信じた。・・・
(第5巻、667‐668行、269ページ) 
 その高言にもかかわらず、暴風はカエサルの舟を翻弄し続けたが、幸いにも彼は、陸地に戻ることができた。 
 無事に海岸に戻ってきたカエサルであったが、彼の不在中にその行方を心配していた彼の麾下の将兵たちの目を欺くことはできなかった。かれらの非難の声が続く中、海はしだいに穏やかになっていった。

 この暴風に神々がすべての力を使い果してしまったかのように、海は静かになった。それを見定めて、イタリア半島に留まっていたカエサル派の軍隊は舟を出し、ギリシアへと向かった。この船旅も全く安全なものとは言えなかったが、船団はイッリュリアの港町ニュンパイオンの海岸に錨を下ろした。

 各地からカエサル派の大軍が終結し、両派の戦いが避けられなくなる見通しとなって、ポンペイウスは彼の妻であるコルネリアを安全な場所であるレスボス島へと移すことに決めた。ポンペイウスは妻にその理由を語り、コルネリアは夫と離れたくない思いを切々と語った。しかし、情勢を考えると、別離は避けられなかった。
あれほど長い愛の、これを最後の果実は失われ、二人は
急くように嘆きを終らせたが、別れ際、どちらも別れの言葉を
口にすることができなかった。二人が共にした生涯で、
これほど悲しい日はなかった。いかにも、ほかの喪失は、種々(くさぐさ)の
不幸を経て、すでに強靭、堅牢になった心で、二人は耐えてきたのだ。
(第5巻、816‐820行、279ページ) こうして2人は離れ離れとなり、二度と一緒になることはなかった。

 最期の方は、急ぎ足になってしまったが、ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』をこれで終わる。しばらく休んで、下巻にとりかかることにしたい。すでに何度か触れたが、カエサル自身が残した『内乱記』も同じ出来事を扱っている。カエサルは自分に都合の悪いことは書かず、ルーカーヌスの方は100年ほど後の時代を生きているうえに、カエサルに反感をもっていて、想像を交えて事件を叙述しているので、もっと公正な第三者の目から書かれた史料を探さないと、真相がわからないところがある。
 ポンペイウスはアンティスティア(離婚)、アエミリア(スッラの遠縁)、ムキア(離婚)、ユリア(カエサルの娘、死別)、コルネリア(メテッルス・スキピオの娘)と5人の女性と結婚している。それぞれ上流に属する女性であったが、それでも彼女たちが政略の道具と考えられていたことが推測できる。なお、レスボス島はエーゲ海の北東部、トルコ沿岸に位置する島で(しかしギリシア領である)、古代ギリシアの女流詩人サッポー(サッフォーとも)が住んでいたことで有名であり、レスビアンの語源ともなっている。

細川重男『執権』(18)

4月24日(金)晴れ

 最初の武士政権である鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き、維持しようとした試行錯誤(または悪戦苦闘)の歴史、著者の言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。
 この書物はそのような悪戦苦闘の中心であった北条氏がどのようにして権力を掌握し、政治的な課題に対処したか、さらにその権力支配の正当性を主張するためにどのような論拠を用いたかを、承久の乱に勝利して幕府とその中での北条氏の地位を固めた北条義時と、元寇に対処した北条時宗の2人の得宗・執権を取り上げ、かれらの生涯と事績、後世への影響を考えながら、あきらかにしようとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことを明らかにする。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、時政の次男で、もともと北条氏の庶流である江間氏を嗣ぐことになっていた義時が、どのようにして頼朝死後の幕府の権力争いに勝利し、最高指導者の地位に就き、さらには朝廷との戦い(承久の乱)に勝利するに至ったかをたどる。そして彼が八幡神の命令によって再誕した、古代の神話的賢臣である武内宿禰であったという伝説に言及し、これが幕府における北条氏の権力を支える論拠となったという。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、北条時宗が権力を確立した「二月騒動」の再検討を通じて、時宗とその政権についての考察する。「二月騒動」は文永7年(1272)に起きた謎の多い事件である(それ以前の文永3年≂1266年7月をもって『吾妻鏡』の記述は終了している)が、著者は時宗が北条一門のなかの実力者であった名越時章・教時兄弟、六波羅南方探題であった異母兄・時輔を取り除いて独裁的な権力を固めた事件であると評価する。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、鎌倉七代将軍維康親王が時宗時代のほとんどを源維康として将軍の地位にあったことをめぐり、時宗が自らを義時、維康を源頼朝に擬することによって蒙古襲来という事態に対処しようとしていたと論じている。蒙古襲来を退けた後の時宗は幕府の御家人以外の武士たちを含む、全国の武士たちの支配を目指し、その意図は彼の死後幕府の中心人物となった安達泰盛によって継承され、「弘安の徳政」として実施されようとするが、平頼綱を中心とする守旧派との衝突=「霜月騒動」で、頼綱派が勝利したことにより改革は失敗する。(以上前回まで)

第5章 カリスマ去って後
 平頼綱の政治
 「弘安7年(1284)7月7日、時宗卒去の4カ月後、弘安徳政の開始の1か月半後、時宗の嫡子貞時は14歳で即座に執権に就任した。時宗が14歳でまず連署に就任し、18歳で執権に昇ったことと比べると、その形式主義・家格偏重主義がよくわかる。しかし、絶対的な権力者であった時宗の急逝に直面した幕府は、それによる動揺を抑えるため、取り敢えず形だけでも整えようとしたと考えられる」(225ページ)。
 しかし14歳の貞時が34歳で死んだ時宗と同じ実力を備えているわけはない。それで、時宗時代からの寄合が、執権の権力を代行することになった。寄合のなかの実力者である安達泰盛と平頼綱は仲が悪く、お互いを貞時に讒言しあったという。最終的に貞時は、頼綱に泰盛討伐を命じることになった(「霜月騒動)。

 頼綱は泰盛が時宗の意志をゆがめた形で実行しているとして、泰盛を倒したのであり、その後、彼なりの幕政改革を行っている。そのことは維康を右大将に任官させた(頼朝の再現)ことにあらわれている。
 「しかし、頼綱には時宗や泰盛のような幕府の未来についてのビジョンがなかった」(226ページ)。彼を支持した人々も、泰盛に反発しただけで、共通する理念のようなものは持ち合わせていなかったのである。
 頼綱はその後、自身の権力基盤の強化のみを考えるようになる。右大将に任官した4か月足らず後に、維康はその職を辞任し、親王に復する。臣籍降下した皇孫への親王宣下は前例のない事態であった。
 さらにその直後、かつて時宗の尽力により皇太子となった後深草の皇子煕仁親王が即位した(→伏見天皇)。これも頼綱の強制によるものであったが、このために皇統は後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統に完全に分裂するのである。
 「頼綱は、自身の権力基盤強化という矮小な目的のために皇統への介入という伝家の宝刀まで振り回したのであった。」(226ページ)。
 そして正応2年(1289)には維康が将軍を辞して上洛、替わって、後深草の皇子(伏見の弟)久明親王が将軍となる。頼綱は大覚寺統に比して劣勢であった持明院統を露骨にバックアップしたのである。
 また頼綱の下で、同じ正応2年に北条時村(時宗時代のナンバー・ツーであった政村の嫡子)が寄合衆に任命されている。つまりこれまでは非制度的な存在だった寄合衆が、幕府の正式な役職となり、それだけでなく、評定に替わって幕府の最高議決機関となったのである。

 貞時の幕政改革
 永仁元年(1293)に今度は平頼綱が、北条貞時の命によって討たれる(平禅門の乱)。かつて父親時宗の補佐役であり、自らにとっても最も身近な存在であった2人を殺害して、貞時は権力を手中にした。この時、貞時は23歳、「二月騒動」の時の時宗は22歳であったから、ほぼ同年齢である。
 「頼綱を滅ぼした貞時は猛然と幕政改革に乗り出す」(227ページ)。乱の半年後には、引付を廃止し、幕府に持ち込まれた訴訟をすべて自身で裁決することとした〔寄合をどうしたのかは、語られていない〕。しかし、これは個人的な事務処理能力を超えており、1年後の永仁元年には引付が復活している。それでもなお、貞時は、得宗専制政治への意欲を失わなかった。

 独裁者の挫折とその後
 「幕府の政治制度改革においては、貞時は時宗よりもむしろ多くのことをおこなっている。貞時期を得宗専制の最盛期とする評価があるゆえんである。しかし、貞時の独裁は表面的なことであった。実は改革は幕府支配層の抵抗によって順調には進まなかったのである」(228ページ)。
 引付衆・評定衆などの鎌倉幕府の中枢の役職に就任できる家柄が、時宗時代ごろから決まってきたという事情があった。幕府を支える各家の間には、就任できる役職をめぐっての家格秩序が生まれていたのである〔これは朝廷・貴族社会においても同じことであった。また、その後の室町幕府・江戸幕府の場合にも家格と役職との関係は初めから決められていた部分が少なくないことを見落としてはならない〕。

 貞時の幕政改革は守旧派と対立しながら進められたが、それはいわば「コップの中の嵐」に過ぎなかった。貞時は、父親・時宗が猶子とした従兄弟の師時・宗方の助けを借りながら、さらなる改革に取り組み、嘉元3年(1305)には宗方に命じて、守旧派の総帥と目された連署・時村を滅ぼさせた(嘉元の乱)。しかし、この事件に対する守旧派の反発は強く、ついに宗方討伐を切り捨てざるをえなくなる。この事件により、貞時の努力は水泡に帰し、彼は応長元年(1311)に41歳で卒去するまで、酒浸りの生活を送ることになる。

 そしてその貞時の後を継いだのは、貞時卒去の時たった9歳、「物心ついた時にはすでに自暴自棄だった父だけを見て育った最後の得宗、高時である」(230ページ)。高時には何の実権もなく、彼の政権期の鎌倉幕府支配層は、時宗時代をまねた構造をもちながら、それとは似ても似つかぬものとなった。
 「時宗没後の半世紀、鎌倉幕府は迷走と混乱の果てに停滞に至った」(231ページ)。高時政権は「不徳」の政権として、先祖たちがそれぞれの人生を懸けて築いた論理も理想も見失い、日本中の武士たちの総攻撃を受けて滅亡するのである。

 今回で、この書物の論評を終えるつもりだったのだが、記述の量が少ない割に、書かれている内容が重大なので、意外に手間取り、結論部分である「おわりに」まで進むことができなかった。その内容については、次回に紹介することとしたい。
 これまでに書き落としたことを2件ほど付け加えておく。
 第1章「北条氏という家」で、著者は北条時政が清盛流平氏の近臣である牧氏に接近していた(結果的に、牧宗親の娘、藤原宗兼の孫である牧方を妻に迎えることになった)と書いているが、平忠盛の後妻で、清盛の継母にあたり、源頼朝の助命を清盛に乞うたとされる池禅尼は宗親の妹であり、この一族は藤原道長との政争に敗れて失意の人生を送った藤原伊周の弟・隆家の子孫である。時政と牧方の間に生まれた北条政範は時政により後継者と考えられていたが、16歳で夭折し、その子孫を残していない。刀伊の入寇に際し、太宰府の権帥として九州の武士たちを率いて撃退に貢献した藤原隆家のDNAが北条氏に伝わっていれば、元寇への対応も違っていたかもしれないなどと思ってしまう。
 なお、池禅尼と平忠盛の間に生まれた頼盛は、大納言に至り、母親の遺産を継承して六波羅の池殿に住んだため、池大納言と呼ばれたが、平家一門の都落ちに同行せず、生き延びた。新潟県には池という姓の人がいるが、頼盛の子孫だと称しているそうである。
 頼山陽の『日本外史』の中に、時宗の幼年時代、将軍・宗尊親王の前で「小笠懸」を試みて成功する場面を描いた箇所があると書いたが、山陽の漢文が優れている中で、この個所には難があるということを吉川幸次郎が『漢文の話』(ちくま学芸文庫)の中に書いている。関心のある方は、読んでいただきたい。

細川重男『執権』(17)

4月23日(木)晴れているが、雲も少なくない。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権をつくり、維持しようとした試行錯誤(言い方を変えれば悪戦苦闘)の歴史、著者の言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。鎌倉幕府の特徴は、将軍ではなくて執権が前面に出ているところである〔考えてみると、室町幕府も初期には将軍ではなくて、執事の高師直や、管領の細川頼之が前面に出ていた時代があった…〕。
 この書物は、最初の武士政権であった〔平氏政権を最初の武士政権と見なす見方もある〕鎌倉幕府の悪戦苦闘ぶりを、その中心的な存在であった北条氏の得宗であり、幕府の執権をつとめた人々のなかから、承久の乱に勝利した義時、元寇を切り抜けた時宗の2人に焦点を当てて、2人がどのように自分の権力を確立し、幕府の直面している問題と取り組んだかをたどり、その後世への影響、歴史的な意義について考える。
 第1章「北条氏という家」では、幕府成立以前の北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの――」では、もともと北条氏の庶流である江間氏を継ぐはずだった次男・義時が幕府内の権力闘争を生き延びただけでなく、幕府の最高指導者となり、承久の乱にも勝利した軌跡、さらに、後世彼が八幡神の命令によって再誕した神話的賢臣である武内宿禰であるという伝説が生じたことが語られている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗が一族の有力者である名越流の人々や異母兄である時輔を除いて、独裁的な権力を確立したことが記されている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、鎌倉幕府7代将軍である維康親王が長期にわたり源氏を称したことの意味を、時宗が自らを義時、維康を頼朝になぞらえて、元寇という国難を乗り切ろうとしていたためであると説明している。

第4章 辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの(続き)
  代償と最期
 すべてを捨てた理由は
 現代では「出家」と「遁世」は混同されることが多いが、中世においてその意味は違っていたと著者は論じる。すなわち、「出家」とは真言宗・天台宗など古代以来の既成仏教の宗派の僧となることであり、遁世は念仏宗・禅宗・時宗など当時の新興宗派の僧となることであったという。〔例えば、天台座主など高僧の地位が皇族や貴族たちによる争奪戦の対象となったことに示されるように〕既成仏教は第二の俗界というべき状態にあったから、そこからも離れた遁世者は、文字通りの世捨て人であった。〔既成宗派の寺院は荘園領主でもあったけれども、新興宗派の方はそういうことがなかったということも影響しているのかもしれない。〕 「遁世とは、それまで築いたキャリアをすべて捨てることを意味したのである」(215ページ)。

 そのように「遁世」した例として、時宗の義理の兄であった安達時盛が、出家後も幕府の評定衆を務めていたのが、建治2年(1276)に突然、亀谷山寿福寺(栄西が開基となった禅寺で、現存)に入ったため、所帯没収処分を受けた事例、また時宗の(母方の)叔父で幕府の連署であった塩田義政が建治3年(1277)、信濃の定額山善光寺(日本の仏教が宗派に分かれる前から存在してきた寺院なので、無宗派である)に入り、時宗が使者を派遣して思いとどまらせようとしたが本意せず、やはり所帯没収処分となった事例が挙げられる。

 偽文書の伝えた恐怖
 弘安8年(1285)に「霜月騒動」に縁座して配流処分を受けた金沢顕時が金沢山稱名寺の住職に宛てて出したとされる書状は今日では、14世紀後半に作成された偽文書であるとされているが、時宗の下での十余年間は「薄氷を踏むがごときにさうらひき」と記している。これは100年ほどの年月を経ても、時宗の政権下での強権的な政治姿勢への恐怖が記憶されていたことを示すのではないかと著者は推測する。
 時盛・義政の遁世は時宗への消極的な抵抗、あるいは時宗からの逃避であったと考えられるというのである。

 誠実な独裁者
 「義政の遁世以後、時宗は弘安6年(1283)4月16日に義政の弟普恩寺(北条)業時(なりとき)を任命するまで連署を置かず、6年にわたって執権単独の体制を敷く。
 兄すらも容赦なく殺す権力者を恐れ、へつらう者はあっても、誰が彼を心から信頼しようか――誰よりも時宗自身がそう思っていたのではないか。独裁者は孤独であった。」(219ページ)

 彼が最後にすがり、信じ、将来を託そうとしたのは、息子=貞時と、甥=(弟・宗政の子)師時と、(もう1人の弟・宗頼の子)兼時と宗方、それに姪=宗政の娘であった。彼は師時、兼時、宗方を自分の猶子とし、貞時の正室に宗政の娘を選んでいる。

 「弘安の役を退けた3年後、弘安7年4月4日、時宗は34歳で卒した。蒙古帝国との戦いに生命を燃焼させた過労死とも戦死ともいうべき最期であった。
 『誠実な独裁者』は戦うべき戦いを戦い終えると、足早に去って行ったのである」(219‐220ページ)。

  やり残したこと
 すべての武士を幕府の下へ
 時宗の没後、彼の権力を代行することになったのは、時宗の諮問機関であった寄合(既に述べたように安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連の5名から構成されていたが、太田・佐藤は書記役であったと考えられる)であった。特に安達泰盛と平頼綱が二大実力者となったが、まず主導権を握ったのは泰盛である。

 時宗の死後に、現在「弘安新御式目」とよばれている38か条からなる法令群が発布された。この発布から、弘安8年11月の霜月騒動までの1年半の間行なわれたのが「弘安徳政」と呼ばれる一大幕政改革である。その内容は多岐にわたるが、究極の目標はそれまで正式には幕府の支配下になかった本所一円地住人(非御家人)を新たに御家人として幕府に取り込むことであった。つまり「全武士階級を幕府の支配下に組み入れ、もって幕府を真の全国政権へと成長させようとしたのである」(221 ページ)。
 この方向性はまず蒙古との戦いに動員された鎮西(九州)の武士たちを対象として法文化されたが、さらには西国、そして全国へと拡大されることは目に見えていた。
 このような非御家人の御家人化は鎌倉幕府の根幹にかかわるきわめて過激な政策であった。そのため、既得権の侵害を恐れた守旧派は平頼綱を中心に結集し、泰盛ら改革派に対抗した。
 両派の対立は、弘安8年11月17日、全面的な軍事衝突となる。「霜月騒動」である。

 潰えた遺志
 「霜月騒動」については直接史料が極めて少なく、詳しいことが分からない(書中、出典として『保暦間記』が挙げられているが、これは14世紀の半ばに成立したと考えられているので、直接史料とはいいがたい。なお、「保暦」というのは元から後醍醐帝が亡くなられた応までの歴史を記すという意味だそうである)。残されたわずかな手掛かりをたぐると、和田合戦、宝治合戦と同じく、正規軍同士が正面衝突した内戦であったとしか考えられないと著者は論じる。そして頼綱一派が勝利したことにより、安達泰盛と弘安徳政は葬られることとなった。

 徳政を推進した中心人物は安達泰盛であったが、時宗死後の早い時期にこの改革が実施されたことから考えて、もともと時宗の在世中に企画・準備され、実行に移されようとしていたと考えるほうが妥当である。だからこそ、改革の当初において頼綱らも泰盛の動きを承認したのであり、かれらの反対の理由は、改革の方向性がねじ曲げられたという点にあったと考えられる。実際に、頼綱らも、「霜月騒動」の後、彼らなりの改革を試みているのである。この頼綱の政権下で、源維康は(頼朝と同じ)右大将に就任し、時宗の思い描いていた「源頼朝の後継者たる鎌倉将軍と北条義時の後継者たる北条氏得宗が全武士階級の上に君臨する」(223ページ)という構想が、彼の死後に実現したのである。しかし、間もなくこの路線は放棄され、維康は親王に復帰し、鎌倉幕府は親王将軍を戴いたまま、終わりを迎える。そもそも、頼朝の下では義時は執権ではなかったことを考えると、歴史の皮肉を感じざるを得ない。

 今回で第4章を終り、次回は第5章「カリスマ去って後」で、貞時による幕政改革の試みと挫折、そして高時と幕府の滅亡を見ていくことになる(たぶん、その後の「おわりに」も取り上げて、この論考を締めくくることになるだろうと思う)。
 幾つか、思いついたことを書き添えておくと、伊藤整の小説『鳴海仙吉』の中に仙吉が書いたことになっている「出家遁世の志」という評論文が含まれているという。実は私もこの小説はよんだ(岩波文庫に入っている)が、そんな箇所があったということをすっかり忘れていた。
 今回紹介した部分に登場する寺院のうち、寿福寺は何度も前を通ったことがある(中に入ったことはない)、善光寺は数回参拝したことがある。寺そのものよりも、門前町をうろうろするのが好きである。
 また稱名寺は横浜市内の寺なので、何度も出かけた。庭を楽しんだり、金沢文庫の展示を見たりしたのである。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(19)

4月22日(水)曇り、夕方一時雨

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は、当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊を率いて、東南アジア諸国で熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。その後半、梅棹と隊員の吉川公雄(医師・昆虫学)は、それまで主な調査を行ったタイを離れて、インドシナ諸国を自動車に乗って歴訪した。外務省の留学生であった石井米雄(1928‐2010)が通訳として同行した。
 3人は1958年2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入り、カンボジアの農村部やプランテーションのほか、バッタンバン、(首都)プノムペン、カムポットなどの都市、トンレ・サップ湖の周囲と湖上の集落を訪問した。農村部ではクメール人の姿をよく見かけたが、都市では中国人の姿が目につき、クメール人はほとんど見かけなかった。
 2月21日、プノムペンを出発して、その日のうちに南ベトナム(当時)の首都であったサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。2月28日にサイゴンを出発、北ベトナムとの境界近くのフエを目指して北上した。北に進むにつれてフランス植民地時代の影響が薄れ、伝統的なベトナムの特徴があらわれてきた。また、この国では東南アジアのほかの国々とちがって華僑の影響力が強くないことも目についた。かつてベトナム民族と激しく対立・抗争したチャム(パ)族や、ベトナムの独立王朝であったアンナン帝国(阮朝)の遺跡を見て、3月7日に国境を越えてラオスに入った。

 今回から、ラオスを舞台とする第17章「大森林をゆく」に入る。

第17章 大森林をゆく
 国境守備の屯田兵
 「まったく、こんなへんてこな国境越えは、はじめてである。わたしたちは、知らぬまによその国に入ってしまったのだ。」(166ページ) 一行の到着を知って、はだしの兵士たちが大勢集まってきた。その中から将校らしいのが出てきて、旅券を見せろという。ラオスでは石井のタイ語が通じるので、お互いの話は分かる。正式の入国手続きは、サワナケートでしなければならない。しかし、その前にいちおう旅券のチェックをしておくというのである。しかし、本当のところ、かれらには手続きのことはわからず、「小学生の雑記帳みたいなノートに、ゆっくりゆっくり名まえを書きうつすだけである。」(166ページ)

 彼らはラオス国軍の兵士であるが、国境警備の屯田兵である。家族とともに、その辺で田んぼをつくり、川で魚を取って自給生活をしている。なかなか親切で、かれらのアンペラ小屋に連れて行って、いろいろともてなしてくれた。
 旅券の検査が終わり、旅券を一行に返してから、将校はあなた方はどこの国の人ですかとたずねた。一行のジープには日章旗が取り付けてあるし、旅券は日本政府の発行したものである。が、日本の国旗がどのようなものかも知らないし、旅券の字が読めないのである。
 「しかし、かれらの無知を笑うことはない。かれらは、忠実にラオス王国の国境守備の任務を遂行した。しかも旅行者には親切で、善意にみちていた。そして、これからの道を、ていねいにおしえてくれた。」(167ページ)

 雨季から乾季への一時間
 ラオス国内に入ってから、道は格段に悪くなった。自動車1台がやっと通るだけの幅しかない、叢林の中のただの小道が続く。「まるで、自動車にのってヤブくぐりをしているようだ」(167ページ)。フランス領時代につくられて以来、補修されなかったらしく、荒れ放題である。
 ベトナム領内を走っていた時には、雨の中を走っていたのが、ラオスに入ってからは空はからりと晴れている。ベトナム領内のアンナン山脈の東斜面は雨季で、常緑の森におおわれていたのが、山を越えたラオス領内の西斜面は、乾季で、森の木は黄葉し、落葉している。「わたしたちは、雨季から乾季へ、わずか1時間ばかりでとび移ったのである。」(168ページ)

 チェポンの村では、黄色い衣の坊さんがあらわれてきた。一行は小乗仏教の世界に戻ってきたことを実感する。
 6時過ぎ、パラーンという村に着いた。少し大きな村で、時間的にサワナケートまで行きつくことは、とうてい無理だと判断してこの村で泊まることにする。村の駐在所の巡査に相談すると、雑貨屋ならばとめてくれるかもしれないといわれる。
 雑貨屋の主人である太った老人によると、戦争中は日本人の兵隊がここまでよく来たという。日本兵のくれた薬は、とてもよく効いたという。そして、一行を2回に泊めてくれた。
 一行は巡査と一緒に雑貨屋の向かいの中国人の店で食事をした。彼はいろいろと料理を注文してくれ、先に帰っていった。勘定はこっちもちで、石井によると、これはラオスでは普通の習慣だという。

 メコン河岸に達す
 翌朝早く、起きてみると、一行が泊まっていた2階は、清潔できちんとした部屋だった。さらに、主人である老人の言いつけで、子どもたちがジープをきれいに洗っておいてくれた。新設に感謝し、お礼にキニーネの小瓶を進呈して出発する。
 はじめのうちは乾燥した落葉樹林を走っていたのが、山を下ると緑の木立がふえてくる。雨緑林から常緑広葉樹林に変わってきたようである。ということは、メコンの河谷に近づいてきたということでもある。

 サワナケートに向かう途中のセノにはフランスの駐留軍基地があった。ラオス独立の際のジュネーブ協定によってラオスにはまだフランス軍が駐留していることは承知していたが、それでもぎょっとしたと梅棹は記している。〔この当時、日本国内には現在よりもはるかに多い米軍の基地があったことについて、何も言及していないのは、どういうことであろうか。〕

11時前、メコン河ぞいの都会、サワナケートに着いた。梅棹が「都会」と書いているように、ラオスでは現在第2の人口(ウィキペディアによると12万人)を有し、町の中心部の写真を見ても都市としての風格を備えている。なお、この都市は2005年にラオス人民民主共和国(1975年に王国から移行)初代首相であったカイソーン・ポムウイハーン(1920‐92)の生誕85年を記念してカイソーン・ポムウィハーンと改称された。彼がここで生まれたのを記念した命名であるが、依然としてサワナケートの方が通りがいいようである。
 到着すると、すぐにバンガロウを訪れる。汗を流すと、すぐに市内に散歩に出かけた。バンガロウの裏はすぐにメコン河が流れている。おそらく、戦後、日本人として初めてのベトナムからラオスへの山越えに成功したという実感を噛み締める。乾季で水量が少ないといわれていても、メコン河は満々と水を湛えてゆったりと流れ、対岸のタイの国土もかすかに見えた。

 厚生大臣候補
 大阪市大の調査団に先立って東南アジアを訪問した稲作調査団もサワナケートを訪問していたので、その際に通訳として同行していた石井は、バンガロウのおやじと顔なじみである。バンガロウのおやじさんは一行のためにいろいろと奔走してくれた。
 入国手続きは警察で簡単に済んだ。いちばんの問題はガソリンの入手である。(南)ベトナムではガソリンは自由に買えたので、フエで予備タンクにまでいっぱいに詰めて、ここまで走ってきたのである。ラオスでは油は統制されている。役所でクーポンをもらわなければ買えないのである。クーポンをもらうのはかなり難しいという。
 バンガロウのおやじに連れられて役所に出かけ、心配しながら待っていたが、役人は一行が日本人だというのでヴィエンチャンまでの分として100リットルくれるという。一行は大型のジープに乗っているので、本当は120リットルくれるとありがたいと言ったところ、そういう半端なクーポンは出せないといって、200リットル分のクーポンを出してくれた。
 早速ガソリン配給所に出かけ、予備タンクまでいっぱいにして、まだ足りないので、空き缶を2缶買って詰め込んだ。

 バンガロウに戻って昼食を食べながら雑談していると、吉川が医学博士だということを聞いたバンガロウのおやじがぜひラオスに残ってほしいと言い出す。フランス人の医者はラオス人を診察してくれない。サワナケートからヴィエンチャンの間には1人も医者がいない。ラオスには1人しか医学博士はおらず、その1人は現在の厚生大臣だという。吉川がラオスに残れば厚生大臣になれる。とはいえ、一行は先を急いでいる。この日のうちにメコンのさらに上流にあるターケークまで行きたいと考えている。
 ターケークまでは約100キロ。5時に到着。バンガロウに入る。久しぶりに洋食を食べ、ぶどう酒を飲んだ。〔ターケークも一応都市としての体裁をもつ町のようであるが、サワナケートよりも人口は少なく、ウィキペディアによれば85,000人ほどである。〕

 大森林をゆく
 3月9日、ターケークの郵便局に行って、サイゴンの日本大使館あてに、無事国境を通過したという電報を打つ。
 ターケークからヴィエンチャンの間は音に聞こえた悪路である――というよりも、道路に予定されているところを強引に車で通過しているというだけのことである。稲作調査団の一行はやむなく、タイ領内に入って北上したということである。その時は雨季で、その時よりも乾いているから何とかなるだろうけれども、途中何が起きるかわからないということで、キャンプを覚悟してクラッカーと清涼飲料水を買い込んだ。

 バーン・ポーンという村まではまずまずの道だったが、それから先はすごいことになってきた。「大森林のなかを、ほそぼそとわだちがつづいている、という感じだ。」(173ページ) 
 しかし、「ほんとうの原始林のなかを走っている」(174ページ)ということで、一行の心は楽しい。黄褐色の落葉樹林と巨大な常緑樹林とが交互に現れ、ときどき小さな村や、小さな流れに出会う。車をとめて昼食をとると、一面にたくさんの蝶が舞っている。一行の昆虫採集箱はたちまちいっぱいになる。

 フランス人とインド人を乗せたジープと、その後、ラオス人を乗せた車に出会った。その後は何にも出あわず、森のなかをよたよたと走り続ける。
 「まったく、ラオスという国は立派な国だ。パテト・ラオのゲリラ戦は、ラオス全土を戦いにまきこんだというが、こんなところで、一たいどういう戦争をしたのだろうか。森を相手に戦争したのだろうか。」(174ページ) 梅棹が東南アジアでの戦争体験をしていたならば、別の感想があったかもしれない。

 梅棹一行のラオス旅行は今から60年以上も昔の話であり、今ではヴィエンチャンとサワナケートの間には立派な道路ができて、バスも通っている(サワナケートには空港もある)ということである。それだけに、この旅行の価値は計り知れないものがあるともいえよう。一行はヴィエンチャンを目指して森の中を進むが、この後どういう事件が起きるかというのはまた次回に。

日記抄(4月15日~21日)

4月21日(火)曇り

 4月15日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

4月15日
 ベネッセの調査によると、コロナウイルス流行による小学校の休校中、多くの子どもたち(特に小学校4~6年生)の勉強時間が減っていることに、保護者からの不安が広がっているという。問題点は2つあって、本来的に言えば保護者ではなくて、子ども自身がこれでいいのかと思わなければならないというのが一つ(年齢的にまだ無理だということかもしれないが、PISAなどの国際学習到達度調査で、日本の子どもの学習意欲が低いとされてきたことがここで現れているということだったら先行き不安である)、子どもたちに対して、学校側がどのように働きかけているかというのがもう一つである。

4月16日
 『朝日』の「天声人語」で、デフォー(1660‐1731)の『ペスト』(A Journal of the Plague Year)について取り上げている。「読み進めると、貧富の差が感染の格差につながっていることが分かる」と書き手は記しているが、これは「天声人語」子の解釈であって、デフォー自身はその当時起きた事実を克明に記しているだけである(少なくともそういうふりをしている)。平井正穂はこの作品について「徹頭徹尾、数字の文学、統計の文学であると言えよう」(筑摩書房『世界文学大系 15 デフォー スウィフト』、497ページ)と書いているが、まさにその通りである。医師であり、数学的・統計学的な手法によって社会現象の解明と社会政策の策定に取り組んだウィリアム・ペティ(1623‐87)がデフォーよりも1世代半くらい前の人であることを考えると、デフォーのこのような記述のスタイルは、時代の精神を体現したものであると言えよう。〔この作品に描かれている1665年のペストの流行の際に、ケンブリッジ大学を離れて故郷に帰っていたニュートンが「万有引力の法則」の発想を得たというのはすでに書いた。〕

4月17日
 『読売』に外務省の通訳担当官のことが紹介されていた。現在、28言語110人の職員がいるという話である。中川浩一さんの『総理通訳の外国語学習法』(講談社現代新書)の売れ行きがよかったために企画された報道だと思うが、、その数がいちばん多いのがアラビア語で12人、次が韓国語の10人、英語が9人、ロシア語が7人、インドネシア語とスペイン語、ポルトガル語が5人というのはなんとなくわかる順位である。ただ、ドイツ語(4人)が主要言語の中に入れられていて、ポルトガル語が欧州の言語に分類されているのは、逆だろうという気がした。

 大学時代の知り合いの1人のことが気になって検索してみたところ、今年の3月に亡くなられていたことが分かった。彼がある県の県庁に勤めていて、私がその県にある学校に勤めていた時に、ばったり出会って、私がこれこれの学校に勤めていると言ったら、意外だという顔をされ、しばらくしてようやく、私が教師をしていると気付いたという経緯があった。そのとき以来、電話で話をしたり、年賀状のやりとりをしたりはしたが、一度も会うことがなかったのは残念である。なお、彼は僧侶でもあったので、私が冥福を祈らなくても大丈夫だろうと思う。

 『NHK高校講座 倫理』は日本思想の「西洋思想との出会い」を取り上げたが、「福沢諭吉と自由民権思想」、「キリスト教と社会思想」、「森鷗外と夏目漱石に見る近代」という内容で、15分でかたづけるのはもったいないという感じがした。それぞれが1年間かけても語り尽くせないような内容であるだけに、もう少し時間をかけられないものかと思ったのである。

4月18日
 『NHK高校講座 国語総合』は李白の「蛾眉山月歌」を取り上げた。
 * * * * *
 蛾眉山月半輪の秋
 影は平羌江水に入りて流る
 夜清渓を発して三峡に向ふ
 君を思へども見えず渝州に下る
 * * * * *
 この詩のすごいところは、固有名詞(地名)が、峨眉山、平羌江、清渓、三峡、渝州と5つも織り込まれている(28言中12言)が、それが詩情を損なっていないばかりでなく、意味を帯びて読者に迫ってくるところである。最後の「君」は月を指すという解釈と、故郷に残した私人の恋人を指すという解釈があるが、番組では表面的には月を指しているが、より深く読めば詩人の恋人であろうという解釈であった。
 この詩は井伏鱒二流の定型詩には翻訳できそうもないと思い、自由詩にしてみた:
 蛾眉山の上 半月が照る 時は秋
 平羌江の川面を 月影が流れて行く
 いまは夜だが 清渓を発ち 三峡に向かう
 姿の見えない君を思いながら渝州に下る
どうも面白くないね。原作のまま味わう方が趣深いようだ。

4月19日
 NHKラジオ『宗教の時間』はバングラデシュで母子保健啓発活動に従事してきた柳沢美登利さんの「バングラデシュの30年~イスラーム社会の変化を見つめて」という話を放送した。番組の中で柳沢さんはイスラームというのは信者たちにとって生活の一部だというようなことをいわれていたが、伝統的なキリスト教社会でも同じようなことが言えたのではないかと思う。私の知っている中国人で、毎日、道教の神様に香を備えたりしてお祈りを欠かさない人がいるが、伝統的な社会では多かれ少なかれ、(キリスト教やイスラーム教のような一神教であれ、道教のような多神教であれ)宗教は生活の中に溶け込んでいたのだと思う。

 『朝日』の朝刊にコロナウイルス禍の中での大学の遠隔授業の試みをめぐり、PCをもっていない学生がまだ相当数いるという事実が指摘されていた。7,8年前まで都内のある工業系の大学で教えていた時、手書きのレポートを出してきた学生が少なくなかったことを思い出す。

4月20日
 『朝日』の「天声人語」はコロナ禍のなかで生花店や花農家が陥っている苦境について触れ、『東京』の「筆洗」は、小津安二郎の『彼岸花』の家族旅行の場面のなかで戦争中は家族の気持ちが一つになっていたと語る田中絹代のセリフを思い出しながら、今回のコロナ禍もそのような思い出になるだろうかと語りかけ、『日経』の「春秋」は緊急事態宣言が発せられて2週間を経過したこと、これからの我慢が重要な意味をもつだろうということを呼びかけ、『毎日』の「余録」は「幻獣」アマビエがちょっとしたブームになっていることに触れている。各紙の特色が現われている――とも思えないが、それぞれに面白かった。(この日の『読売』「編集手帳」が読めなかったのが残念である。)

 『日経』のスポーツ欄に浜田昭八さんが、9日に93歳で亡くなられた関根潤三さんを悼む文章を書いていたのが印象に残った。関根さんは日大三中(現在の日大三高)、法政大学でバッテリーを組んだ根本陸夫さん(1926‐99)からよく相談を持ち掛けられたという。「相談にくるときには、本人の気持ちはすでに決まっている。それでいいと後押しをしてほしいだけなのだ」と語っていたそうだ。よくできた発言で、たしかにそういうことが多いなぁと思う。私もそういうたぐいの相談を持ち掛けられたことがあったが、後押しをする気持ちになれないことが多かったのはどういうことだろうか。
 日本の野球の歴史のなかで投手・捕手ともに名を成したバッテリーというと、関根+根本のほかに、秋山登(1934‐2000)+土井淳(1933‐)[岡山東→明治大学→大洋ホエールズ]、村山実(1936‐98)+上田利治(1937‐2017)〔関西大学〕が挙げられるだろうか。牛島和彦(1961‐)+香川伸行(1961‐2014)〔浪商〕は、香川が太りすぎて大成しなかったのが残念な感じである。

4月21日
 『朝日』の朝刊に「いつ決まる? 大学入試改革」という記事が出ていた。自民党のワーキング・ティームは国主導をやめて、大学主体にした方がいいという提言をしたそうだが、はじめからそうしたほうがよかったのではないかと思う。それ以上に(繰り返しになるが)入試改革よりも、教育改革、その前提となる経営・財政の改革を行う方が先決である。

 政府は昨日の臨時閣議(持ち回りで実施したらしい)で全国民への10万円給付を決定した。ただし自己申告制とし、閣僚全員が受け取りを辞退する方針としたそうである。吉村大阪府知事が言うように、これでは生ぬるい。与党の議員全員が受け取りを辞退し、一定額を給付の財源として寄付するというくらいの姿勢を見せるべきであろう。

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『太平記』(311)

4月20日(月)雨、肌寒い。

 貞和6年(南朝正平5年、西暦1350年)2月、改元して観応となった。三条殿(足利直義)の失脚後、鎌倉から尊氏の嫡男義詮が上洛して、政務をとることになったが、これは高師直・師泰兄弟の思惑によるものであった。前年9月、備後(広島県東部)から九州に落ちた直義方の足利直冬(尊氏の庶子、義詮の異母兄で、直義の養子になっていた)は、九州の有力武士たちを味方として力をつけ、天下は宮方、将軍方、直冬という三分の形勢となった。
 10月、高師直の進言により、直冬の父尊氏が自ら直冬の討伐に向かうことになったが、その前夜直義は蟄居していた錦小路の邸を脱出して大和へ落ちた。11月、九州へ向かう尊氏と高師直の軍は、悪天候のため備前に留まった。大和へ落ちた直義は、越智氏の加勢を得て、まず北朝の光厳上皇から鎮守府将軍の院宣を受け(これは歴史的な事実ではないようである)、次に南朝に書状を送り、吉野殿(後村上帝)に勅免を乞うた。
 南朝では公卿僉議が行われ、洞院実世が、直義を討つべきだと主張したのに対して、二条師基は、直義を味方として召し使うべきだと主張した。意見が割れる中で、北畠親房は、高祖(劉邦、沛公)と項羽との漢楚合戦の故事を語り、漢が勝利したのは、陳平、張良の謀によって、高祖が偽って項羽と和睦したからだと説いた。この意見に諸卿は同意し、12月、後村上帝から直義に勅免の宣旨が下された。

 北畠親房の一時しのぎの提案が実行に移され、吉野の後村上帝と足利直義の間の和睦が成立した。直義は、大和の高市郡越智郷を本拠とする越智伊賀守のもとに留まっていたので、東条(現在の大阪府富田林市の一部)の和田・楠の一党をはじめとして、大和、河内、和泉、紀伊の宮方の武士たちが次々に直義のもとにはせ参じた。それだけでなく、都の周辺の武士たちもひとり、一人と抜け出して、直義に合流した。その噂を聞いて、これまでは一貫して将軍方であり、楠(正儀)に対抗して石川河原(富田林市の東側を流れている石川の河原)に向かい城を築いて退陣していた足利一族の畠山国清も配下の千余騎を率いて加わったのである。

 宮方の軍勢が都を奪回しようと押し寄せてくるという噂が大きくなり、尊氏と師直が都を離れた留守を預かっていた足利義詮は早馬を仕立てて、九州に向かう途中、備前の国の福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に留まっていた足利尊氏のところに、都に戻るようにとしきりに促した。この知らせを受けて、尊氏は石見の三角城に立てこもる三角兼連を攻略しようと包囲戦を展開していた師直の弟の師泰に石見の平定よりも都の危急の方が重大であるから昼夜兼行で上洛せよと飛脚を差し向ける。飛脚の往復に時間がかかるので、師泰が上洛できるかどうかの返答を待つまでもないと、尊氏は急いで福岡を発ち、2千余騎を率いて都に向かった。
 直義は、尊氏が都に向かうと聞いて、尊氏の軍が京都に到着する前に義詮を打ち破ろうと、観応2(1351)年正月7日、7千余騎を率いて八幡山(石清水八幡宮のある京都府八幡市男山)に陣を敷く。

 越中の守護であった足利一族の桃井直常はかねてから直義に心を寄せていたので、直義の進撃に呼応すべく、同じ年の正月8日に越中を発って、能登、加賀、越前の武士たちを加え、昼夜兼行で都に向かっていたが、折あしく大雪に見舞われ、馬を進めるのが困難になった。そこで、兵を皆馬から降ろさせて、橇(かんじき)を履かせて、2万余人の人を先に行かせ、その後から馬を通行させたところ、山の雪が凍って鏡のようになったので、馬も楽に進めるようになった(凍ったら、滑って危ないのではないかと思うのだが、そうではなかったようである)。こうして7里半の西近江路(越前=福井県の敦賀から愛発山を越えて、近江海津=滋賀県高島市マキノ町海津へと至る)を容易に超えることができ、比叡山の麓の東坂本(現在の大津市坂本)に到着した。

 都を守っていた義詮は、南方の八幡と、東北の比叡、坂本に敵の大軍がやってきていると聞き、これは油断ができない、着到(軍勢の来着を記す名簿)をつけて、自分の陣営の軍勢の数を調べようと、正月8日から点検を始めたが、最初は3万余騎と記されていたのが、次の日には1万騎に減り、さらに翌日には3千騎に減ってしまった。これはきっと、これまで味方であった武士たちが、敵方に寝返っているに違いない、道ごとに関所を設けて阻止せよと、淀(京都市伏見区淀)、赤井(京都市伏見区羽束師から淀の桂川西岸の地)、今路(いまみち、左京区修学院から延暦寺東塔を経て坂本へ至る比叡山越えの道)、関山(逢坂山、大津市逢坂)に関所を設けたのだが、その関所の役人も含めて敵方に寝返っていく始末である。とうとう、正月12日の暮れ方には、名簿に載っているのは足利一族、外様の大名を含めて500余騎にまで減っていた。 

 そうこうするうちに、13日の夜、桃井は比叡山の山上に登ったと見えて、大篝の火が燃えているのが見えた。そして八幡山でもこれに呼応して合図の篝火をたいているのがわかった。これを見て義詮の周辺にいた足利一族の仁木・細川の面々は評定を催し、合戦は初めと終わりが大事である。敵は大勢、味方は小勢、千に一つも勝ち目はないと思われる。その上、将軍尊氏は西国から上洛の途中であり、すでに摂津国の辺りに到着していると聞く。ここは軍勢を損なうことなしに都を離れて、尊氏の軍と合流し、その上で京都に攻め上るのがよいのではなかろうか。不本意な戦いを避けて、思い通りの合戦の機会を俟つほうがよかろうという結論になった。義詮は時宜に従うのがよいだろうと答え、正月15日の早朝に都を離れ、西国を目指して軍勢を動かしたのであった。すると、同じ日の午の刻(正午ごろ)に入れ替わって桃井が都に入った。

 かつて寿永2年(1183)に平家一門が都落ちした際に、源義仲は比叡山に陣をとったまま11日になるまで軍勢を動かさなかった。これはまったく入洛を急がないわけではなく、一つには敵の力を侮らずに警戒したこと、もう一つは自軍が狼藉を働こうとするのを鎮めるためであった。武略に長じた人々は慎重をむねとすべきであるのに、軽率にもすぐに入れ替わって都に入るのは不必要な行動である。もし、義詮軍の退却が偽りのもので、反転して都を襲ってきたならば、直常は必ずや敗北するであると都の人々は口々に噂したのであった。

 すでに尊氏軍は都の近くまで戻って来ている。父子で力を合わせて都を奪回する戦が間もなく始まろうとしているが、それについてはまた次回に。桃井直常は、暦応元年(1338)正月、青野原で土岐頼遠とともに北畠顕家の大軍と戦い、『太平記』では敗れたと記されているが、本郷和人さんの説では勝ったのではないかといわれる。それはともかく、弟の直信とともに驍将として知られる。直常は自分の軍功を高師直に無視されたことから直義方につき、その際に直義の偏諱を受けて、直常(ただつね)と名乗ったといわれる。
 青野原の戦いの前に、まだ11歳で鎌倉を守っていた足利義詮は北畠顕家の大軍が迫る中、衆議が退却に決しようとする時に、一戦も交えずに退却すべきではないと主張した(第19巻)ことがあったが、今回は家臣たちの意見に従っている。そのあたりに武将としての成長ぶりを読み取ることができる。影の薄い二代目という印象の強い義詮であるが、森茂暁さんが説くように、彼の代で幕府内における将軍の権力が強大になっている事実を見落とすことはできないだろう。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(40)

4月19日(日/穀雨)晴れ:外出自粛がもったいない好天である。しかし、夕方になると、雲が多くなってきた。

 18世紀の末か19世紀の初めのイングランド。南東部(ロンドンの北)ハートフォードシャーの小地主ベネット氏の次女エリザベスは、近くの町で開かれた舞踏会で、中北部ダービーシャーの大地主であるダーシーと出会う。友人から彼女と踊るように勧められたダーシーは、彼女が自分と踊るだけの美貌を備えた女性ではないと拒否し、エリザベスはその言葉を後々まで引きずることになる。男の側の「高慢」と女の側の「偏見」が物語の縦糸となる。
 いったんは彼女の魅力を否定したダーシーであったが、後になって彼女の明るい性格や機知に富んだ振舞いに魅力を感じ、ついに結婚を申し込むに至る。しかし、初対面の時の印象を引きずるエリザベスは、それを拒否する。その後、彼女は叔父夫婦と一緒に中北部までの旅行に出かけ、ダーシーのペムバリー邸を訪問、思いがけず彼と再会してしまう。二人の間の空気が変化し、高慢と偏見が解消したかに思われたその時、エリザベスの姉のジェインから、5人姉妹の末娘であるリディアがメリトンに駐屯していた(ブライトンに移動した)義勇軍の中尉である(ダーシーの執事の息子で、子どものころからお互いによく知りあっていた)ウィッカムと駆け落ちしたという知らせが届く。エリザベスは急遽、叔父夫婦とともにハートフォードシャーへと向かうことになる。(第3巻第4章=第46章までのあらすじ) 今回は第3巻第5章=第47章に入る。)

 エリザベスの父親の邸のあるロングボーンまで帰る道すがら、彼女の叔父であるガードナー氏は、ウィッカムとリディアが真剣に結婚を考えているのではないかという楽観的な見通しを述べ、ガードナー夫人もそれに同意するが、エリザベスには「見栄を張って背伸びすることしか眼中に」(大島訳、479ページ)ないリディアと、外見だけは取り繕っているものの本質は放蕩者のウィッカムが真面目に結婚を考えているとは思えない。一度はウィッカムに魅力を感じていたエリザベスではあったが、ダーシーの秘密の打ち明け話を聞いて彼に対する評価を変えたのである。そしてリディアがブライトンに出発する際に、彼女とウィッカムとの間に恋を予感させるような兆候が感じられなかったからではあったが、彼がどんなに危険な人物であるかをリディアに伝えておかなかったことを今は後悔している。

 3人は先を急いで、夜も馬車の中で過し、翌日の正餐前にロングボーンに到着した。到着したかれらを表に出て真っ先に迎えたのは、ベネット家に預けられていたガードナー夫妻の子どもたちで、両親とエリザべスの急な帰宅に驚きながらも、心からそれを喜んでいた。そして母親の部屋から、ジェインが階段を駆け下りて彼女を迎えた。すでに父親はロンドンに発ち、1度だけ便りをよこしてロンドンの連絡先を教えてきたものの、後はめぼしい知らせがない限り、こちらから便りはしないと伝えてきたという(ベネット氏は筆不精な人物=イングランド人としては例外的な存在として描かれている)。

 エリザベスとガードナー夫妻とは、ジェインとともに母親=ベネット夫人の部屋に赴いたが、彼女の様子は予想した通りで、ウィッカムや周囲の人々の行動を責めながら、自分が主張したとおりに、一家全員でブライトンに赴いていれば、リディアはこんなことをしなかっただろうという自分に都合のいい意見を述べ、4人、特にベネット夫人の実の弟であるガードナー氏はそれをなだめて、自分もロンドンに戻ってベネット氏に協力するから大丈夫だと、彼女をなだめたのである。(ロンドンの多忙な商人であるガードナー氏にとっては、そうとうな犠牲を払うことを余儀なくされる申し出であったのだが、)ベネット夫人はそれを当然のことと受け取り、自分の一番お気に入りの娘であるリディアとウィッカムを何とか結婚させてほしいとガードナー氏に頼むのである。

 正餐の時間となり、エリザベスは他の2人の妹、メアリーとキャサリン(キティー)にも会うことができた。キティーは今回の件で(リディアの秘密を知りながら黙っていたことで)、少しイライラした表情ではあったが、メアリーは例によってもったいぶって今回の件についての(自己満足的な)教訓を述べて、それぞれのやり方で落ち着いた様子であった。
 食事の後、エリザベスは今回の件についてジェインと2人きりでゆっくりと話し合うことになった。ウィッカムの上官であるフォースター大佐(その夫人の招待で、リディアはブライトンに赴いた)は、2人が行方不明になってすぐにロングボーンへと向かおうとしたのだが、ウィッカムの友人であるデニーを問いただしたところでは、ウィッカムの方に結婚する意志がなさそうだという印象をうけたので、慌ててロングボーンにやってきたのだという。リディアがブライトンからキティーに出した手紙には、彼女がウィッカムと結婚することになるかもしれないと仄めかす内容が記されていた(それを黙っていたために、彼女は父親から叱られたのである)。一家のものは2人が結婚するだろうと(それはそれとして先行き心配なことではあるが)、ウィッカムに結婚する意志がなさそうだという知らせは大変な衝撃であった(19世紀の初め=日本では江戸時代の話である)。

 ジェインの話ではフォースター大佐は、ウィッカムが軽率で金遣いの荒い男だとは思っていたが、このような事件を起こすとは思っていなかったという。大佐は、その夫人に宛てたリディアの駆け落ち(本人は結婚の予備段階だと信じている)を予告する能天気な(thoughtlessという形容詞が2度繰り返されている。大島訳ではこのようになっているが、小尾訳では「愚かな、愚かな」と原文に忠実に訳している)手紙をわざわざロングボーンまで持参してくれた。
 この知らせを受けてベネット氏はそれまでに見せたことのない打ちひしがれた様子を見せ、ベネット夫人は半狂乱になった。ジェインとエリザベスはこの事件が召使たち、また近隣に知れわたって一家のスキャンダルにならないかということを心配する(19世紀初めのイングランドが舞台になっていることを念頭においてほしい)。
 それから、エリザベスは父親がどのようにしてロンドンで2人を探すつもりなのかを尋ねる。父親はいろいろと手段を講じているようだが、2人を探し出せるとは思えない。

 ウィッカムと駆け落ちしたリディアの未来も心配であるが、このスキャンダルの波及効果でジェインとエリザベスの未来にも暗い影が差すことは目に見えている。エリザベスのペムバリーでのダーシーとの再会で、彼女とダーシーとの将来はさておいても、ジェインとビングリーの結婚の実現性に希望が持てるようになったのに、たいへんな事態である。こと、ここに及んでも自分勝手な不満を述べているベネット夫人のthoughtlessな姿がこの悲劇的に見える状況にむしろ笑いを混ぜる結果になっているのは、さすがにオースティンである。実際的な問題解決能力のあまりないベネット氏を助けるべく、若く、実際的な手腕にも富んだガードナー氏がロンドンに戻ることになるが、その首尾はどのようなものとなるか、それはまた次回に。
 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(22)

4月18日(土)雨、午後になって晴れ間が広がったかと思ったら、夕方になってまた雲が多くなってきた。

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の未完に終わったこの叙事詩は、紀元前1世紀の中ごろ、ローマ共和政の末期に起きた内乱を題材とするものである。
 紀元前60年に、東方における軍事作戦の成功によって地位を固めたポンペイウス、スパルタクスの反乱を鎮圧したクラッスス、ヒスパニア(スペイン)総督として地位を築いたカエサルの三者の間で密約が結ばれ、第一次三頭政治が成立、それまで混乱していたローマの政治に安定をもたらす。しかし紀元前53年にクラッススがパルティアに敗死すると、残った2人の間の対立が激しくなる。
 ローマにいたポンペイウスはカエサルのガリア総督の地位を奪い、彼の率いる軍隊の解散を命じるが、カエサルはこれに応じず、軍隊を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、さらに大軍を率いてローマに迫る。ポンペイウスはローマを捨てて、カプアを拠点として反攻を試みるが、彼の軍隊は各地で敗れ、ついにブルンディシウムからギリシアに逃れて、再起を期す。そして大軍を集めてカエサルに対抗しようとする。
 一方カエサルは、ヒスパニアのポンペイウス派の軍隊に勝利した後、軍隊の内部で起きた反乱を鎮圧し、ローマに戻って選挙を主宰、執政官の地位を得ると、ブルンディシウムからギリシアに渡ってポンペイウスと対決しようとする。

 ブルンディシウムに到着したカエサルは、「海が冬季の烈風に閉ざされ、船団が、星またたく/冬店の気候に脅かされている状況を知った。」(第5巻、420‐421行) 戦いを急ぐ彼にとって、これは耐え難いことであった。冬の北風さえ吹いてくれれば、春の気紛れな風を待つよりもはるかに確実に目的地に到着できると、彼は部下たちを鼓舞し、船を出航させようとする。
 もともと、ポンペイウス派の軍隊は、櫂で漕ぐ軍船を地中海の各地に持っていたのに対し、カエサル派は帆船しかもっていなかった。このため移動にはポンペイウス派の方が有利であった。カエサル自身の『内乱記』によれば、紀元前48年1月4日に船団はブルンディシウムを出航したが、なかなか順風を得ることができなかった。しかし、夜が明けると風向きが変わり、5日のうちに船団はギリシア・エペイロス地方のパライステに到着し、錨を下ろした。『内乱記』には、海岸の大部分をポンペイウス派の軍勢が占拠していたので、上陸地を選んだと記されている。

 二人の将が旗鼓(きこ)の間に陣を敷くのを最初に目にしたのは、
流れ速きゲヌソスと流れ緩やかなハプソスが河岸で囲む地であった。
(第5巻、473‐474行、256ページ)
 ゲヌソス、ハプソスについては、訳注に「マケドニアの川」とあるが、ここでいうマケドニアはローマの行政区分としてのマケドニアである。マケドニアはギリシア半島の東北部にあるが、ゲヌソス、ハプソスの両川は半島の西北部にある。訳注ではパライステがギリシアの西部であるエペイロス地方の町と記されている。エペイロスは現在のギリシアのイピロス地方を中心とするかなり広い地域(どうやらアルバニアにもまたがっているらしい)を指す言い方のようで、調べに調べた末に、ゲヌソス川は、現在アルバニアを流れているShkumbin川であることが分かった。ハプソスの方はまだわからないが、講談社学術文庫版の『内乱記』の301ページの地図に記載がある。

 以前は同盟者であり、またカエサルの娘で、いまは亡きユリアをポンペイウスが妻としていたという舅と婿の関係にある2人ではあったが、カエサルはもはや戦い以外のものを望まなかったと詩人は歌う(カエサルの『内乱記』を読むと、ここで、ポンペイウスとの間に和平交渉があったことが記されている)。
 しかし、カエサルには気になることがあった。ローマに残してきた軍隊を率いている「不敵なアントニウス」(マルクス・アントニウス)がなかなか、合流してこないことであった。〔このアントニウスは、後に第2次三頭政治を担う1人となり、さらにクレオパトラとの情事で知られる人物である。彼はカエサルに『内乱』をそそのかし、その後北アフリカで戦死したクリオの友人であり、ガリア総督であったカエサルの副官をつとめたこともあった。〕 ルーカーヌスはアントニウスが「内乱に乗じてレウカスでの事態を目論んでいた」(第5巻、492行、258ページ)と、不穏な動きを見せていたと歌うが、これは彼の創作ではないだろうか。要するに、困難な事態に直面して動きが鈍くなっていたというだけのことであると思われる。なお、岩波文庫版巻末の「地名・部族名等一覧」によると、「レフカス島、その対岸のアンブラキア湾の出口にある岬「アクティウム」、また「アクティウムの海戦」の換喩としても用いられる」(44ページ)とあり、ルーカーヌスが、アントニウスのその後の運命、紀元前31年のアクティウムの海戦(ローマのオクタウィアヌス軍と、エジプトのクレオパトラ・アントニウス同盟軍の間の海戦)を念頭に置いていたことは確かである。

 カエサルは三度、四度とアントニウスに来援を促すが、アントニウスは動こうとしない。ここに至って、彼は
自分が神の期待に添わぬことはあれども、神々が自分の期待に
添わぬことはないと信じ、自ら、大胆にも、不用心な闇の中、
命を受けたものでも恐れる海原に乗り出そうとした。経験から、神が
嘉したまえば、無謀ではあれ、果敢さが功を奏するのを学んでいた
カエサルは、艦隊さえ恐れる激浪を小舟で制覇できると信じた。
(第5巻、514‐518行、259ページ) 無謀にもイタリア半島まで小舟で戻ることを企てるのである。

 カエサルの企てがどのような展開となったかは、また次回に語ることにしよう。この時点で、ギリシアの西北部からイッリュリアにかけての海岸はポンペイウス方の海軍が支配していた(だけでなく、すでに述べたように、海軍力はポンペイウス軍の方がまさっていた)ので、カエサル派は援軍を送り込むことができなかったのであると、カエサルの『内乱記』は記しており、こちらの方が真相に近いと思われる。『内乱記』には海軍力にまさるポンペイウス軍がブルンディシウムを攻撃したと記されており、これらのことから、カエサルが小舟でアドリア海を渡ろうとしたというのも(話としては面白いが)、おそらくは詩人の創作であり、その間、カエサルはポンペイウス派との外交交渉を続けて、時間を稼いでいたという『内乱記』の記述の方が信ぴょう性がある。 

細川重男『執権』(16)

4月17日(金)晴れのち曇り

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが(前例がないままに)自分たちの政権を築き、維持しようとした試行錯誤の歴史であり、著者の言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。そもそも、将軍ではなくて、北条氏出身の「執権」が幕府の政治の前面に出ているところが、室町幕府、江戸幕府とちがう。この書物は、最初の(本格的な)武士政権である鎌倉幕府の悪戦苦闘ぶりを北条家の当主であり、執権であった、そして世間的な評価に大きな違いがある2人、承久の乱に勝利した北条義時と、元寇を切り抜けた北条時宗に焦点を当てて、その政治と、幕府の支配において掲げた論理とを明らかにしようとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、もともと北条氏の庶流である江間家を継ぐはずだった時政の次男・義時が鎌倉幕府初期の政争を生き抜き、幕府の実権を握っただけでなく、朝廷に対する戦いにも勝利した過程をたどっている。そして、彼が八幡神の命を受けて生まれ変わった神話的な賢臣・武内宿禰であるという伝説について触れている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では時宗が一門の中の有力者である名越家の人々や、異母兄の時輔を覗いて、独裁的な権力を固めたことが語られている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、強大な権力を握るに至った時宗が、その権力をもとに蒙古の来襲に対処し、さらに、皇位継承にまで介入するに至ったこと、その過程で多くの(潜在的な)敵と問題を抱え込むことになったことを明らかにしてきた。
 時宗の独裁を支えた論理は、「得宗は、武内宿禰の再誕である北条義時の直系なるがゆえに、鎌倉将軍の『御後見』として、鎌倉幕府と天下を統治する」(208ページ)ということであった。(続く)。
 すでに、ここまで読んでこられた方はお気づきだろうと思うが、細川さんは、これまであまり芳しくなかった義時の評価を引き上げ、救国の英雄視されたこともある時宗の評価をより現実的なものとしようとしていると思われる。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  得宗と将軍
 得宗たる資格、将軍たる資格
 武内宿禰の再誕である北条義時は、有徳の人であるがゆえに承久の乱に勝利し、天下を手中にした。しかし、その義時の子孫であるだけでは得宗としてふさわしいとは言えない。時宗の後継者である貞時への諌言文であるとされる『平政連諌草』は、義時の子・泰時の「道理」、さらに時宗の父である時頼が「撫民」を政治の骨子としたことについて触れ、統治者は有徳の人でなければならないと述べている。このことからも導かれるように、得宗の資格は、義時の直系の子孫であることと、有徳の人であることであった(「直系」というところに多少の難があって、それがもとで北条一族内での内紛がしばしば起きていたことはすでに述べたとおりである)。

 では鎌倉将軍の資格は何であろうか。細川さんは鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての将軍の資格は、清和源氏の血統ではなくて(既に摂家将軍、親王将軍が出現している)、源頼朝と同様に、源氏・正二位・右近衛大将であることだと考えられたのではないかと論じる。〔足利尊氏が征夷大将軍に任じられたときに、同時に正二位に叙せられているから、南北朝時代まで含めてのこの議論にはある程度の説得力があるが、尊氏は右近衛大将にはなっていない。〕 こうして親王宣下を受けていなかった維康王は、源氏賜姓を受け、正二位に昇り、(時宗死後にではあるが)右近衛大将となった。
 得宗が将軍権力を後見として代行するという政治体制は、このようにして正当化されたのである。(ただし、時宗の死後、維康は親王宣下を受けて、再び皇族となっている。)

  北条時宗にとっての「得宗専制」
 頼朝と義時の復活
 弘安3年(1280)は源頼朝挙兵から100年にあたり、しかも蒙古との緊張関係のさなかでもあった。このような事態は鎌倉幕府に自己認識の再確認を迫るものであったと細川さんは論じる。そのような再確認の作業の1つが幕府の歴史である『吾妻鏡』の編纂である。最近の研究では『吾妻鏡』の編纂は永仁年間(1293~99)とする見解が有力であるが、その原型となる歴史書が1280年ごろから書きはじめられていたという推測も成り立つ。

 蒙古からの国書が到来した年に時宗は執権に就任し、2年後に源氏将軍を復活させた。時宗が徳崇すなわち義時の号を、みずからの号としていたとする史料もある。「頼朝の再来維康を擁する時宗は義時の再誕、第二の関東の武内宿禰である。源頼朝と北条義時という二人の鎌倉幕府の「建国神」は、ここに復活した」(213ページ)。つまり、危機的な状況に直面した時宗は自らを義時になぞらえることによって、細川さんの言い方を借りれば、「神懸かる」ことによって、難局を切り抜けようとしたのである。時宗は自らを鋼鉄の人であろうとし、そのための心のよりどころとしたのが、高祖父義時の神話であったという。

 神懸かりの時宗の政治が一種の恐怖政治であったことは容易に想像できることである。蒙古襲来という危機は切り抜けた(実際問題として、3度目の襲来の可能性もあった)ものの、鎌倉幕府の危機が続く中で、時宗は34歳で卒することになる。時宗の「晩年」とその後の鎌倉幕府がどうなったかはまた次回に。

 細川さんは積極的に答えを出そうとはしていないが、北条義時が八幡神(=応神天皇)の命を受けて再誕した武内宿禰であるという伝説が、鎌倉幕府滅亡以後に継承されなかったことの意味も考えるべきではなかったかと思う。宋の仁宗皇帝が天上の赤脚大仙の生まれ変わりであるという中国の伝説のように、この種の生まれ変わりの伝説は少なくないのだが、それがどのように継承され、伝播していったかということに目を向ける必要もあるのではないかと思う。 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(16)

4月16日(木)晴れのち曇り
 
 承平5年(935)から天慶3年(940)にかけて起きた平将門の乱は、武士のはじめての反乱と言われる。この書物は、将門の乱のもつ意義を、単に東国で起きた反乱、武士の反乱というだけでなく、もっと大きな意味をもつものと考え、その意味を探ろうとするものである。将門が「新皇」即位を宣言した際に、新興の神であった八幡神や菅原道真の霊を持ち出していること、また朝廷の側が「王土王民思想」を持ち出して、この反乱を鎮圧しようとしていることに着目しながら、この反乱が政治・社会秩序の変革期に起きた重大な出来事であったことが明らかにされた。また、将門自身についての「冥界消息」、将門の子孫の冥界譚・蘇生譚を通じて、反乱に同情する民衆の声が決して小さいものではないことも明らかとなった。

「新皇」将門の国家構想――エピローグ
 将門の国家構想
 著者はこの書物の締めくくりとして、将門が東国に建設しようとした国家の構想について検討し、それを通じて「平将門の乱」のもつ歴史的な意義について考察しようとする。
 天慶2年(939)に神がかった巫女の託宣によって「新皇」を名乗ることになった将門は、東国国家樹立に向けての政策を展開する。その手始めは坂東8か国の国司の任命である:
 下野守に弟の平将頼、上野守に常羽御厩(いくはのみまや)別当の多治経明(たじのつねあき)、常陸介に藤原玄茂(はるもち)、上総介に武蔵権守興世王、安房守に文屋好立(ふんやのよしたつ)、相模守に平将文、伊豆守に平将武、下総守に平将為が任命された。将門の子や、同盟者の興世王などが任命されている。ただ、ここで武蔵守が任命されていない理由はわからないという。〔ついでに書いておくと、常陸と上総については、これらの国が親王任国とされていたので、「守」ではなく、「介」を置くということにしたのだろうが、反乱の趣旨からすれば「守」を任命してもよかったはずである。同じ親王任国でも上野については、「守」を任命しているので、不徹底であるという印象を抱く。伊豆は関東に含まれない場合が多いのに、ここでは伊豆が含まれているのも不思議である。〕

 さらに彼は「下総国亭南』に王城を建設することを命じている。その場所は不明であるが、彼が平安京に似せて「王城」を建設しようとしていたことが推測できる。さらに政権を構成する官僚の任命や官印の寸法・文字などの確定を行った。
 このように『将門記』には記されているが、その真偽を含めて、将門の国家構想をめぐっては様々な見解が述べられてきた。

 「みじめな構想」という評価
 日本の古代・中世史研究家で戦後の歴史学研究に大きな影響を与えた石母田正(1912‐86)は論文「古代末期の叛乱」(1950、『古代末期の政治過程および政治形態』、『石母田正著作集』第6巻所収)の中で、将門の王城建設以下の計画が実現されたかどうかは疑わしいとしつつも、彼の建設しようとした国家が「京都の天皇制国家」の模倣に過ぎなかった、「みじめな構想」であるという厳しい評価を行っている。
 この評価は、将門の国家構想を頼朝の鎌倉幕府と比較してくだされたもので、その間における領主としての武士の発展を考えると、両者を同じレベルで比較できないという問題点がある。

 同時代的な評価の必要性
 これに対し、高橋昌明は「将門の乱の評価をめぐって」(1971)の中で、彼が辺境の軍事貴族であったという側面を強調し、それが「独立国家」の構想につながったと論じている〔中国の歴史を見れば、地方の軍閥が独立政権をつくることはよく見られた現象である〕。

 石母田の議論にせよ、高橋の議論にせよ、その後に活発な議論を呼び起こすものではなかった。全体としては、将門の国家構想の現実性を疑いながら、もしそれが現実であったとしても辺境の地に律令国家のミニチュア版をつくろうとする「みじめな構想」であったと評価するのが一般的な傾向であったと著者はまとめている。

 しかし、新しい国家構想は急に生まれるものではないし、実際に10世紀の初めに延喜新制を生み出した藤原時平・忠平(兄弟である)の場合も、それまでの律令制を踏まえながら、それに現実に必要とされた修正を加え、そのことによって律令制から王朝政治への転換の道を開いたことを見逃すべきではない。
 それで、高橋の研究に学びながら、将門が同時代のどのような現実を踏まえて国家構想を抱いたのかについて著者は自分の見解を述べようとする。

 将門の政治基盤
 将門をはじめとする東国の平氏一門は、律令官制の中で役割を与えられた軍事貴族であり、その反乱も律令国家の枠を出るものではないという評価もできる。しかし、その一方で第2章に述べたように、準公的な性格をもつ「営所」を拠点とするなど、独自の政治基盤・勢力基盤を持っていたことを見逃してはならない。また、一族が京都と東北地方を結ぶ交通の要路を押さえ、奥羽地方の富をその経済基盤として利用できる地位にあったことも重要である。

 『将門記』作者の画期性
 著者は竹内光浩が「天神信仰の原初的形態」(1993)で示した見解を援用しながら、将門が「新皇」に即位するに際して、それまでの神祇体系に則った神々ではなく、新興の八幡神と道真の霊を根拠にして、画期的な皇位継承の論理を展開しようとしたことを評価する。また、反乱の背景には、それを支えるだけの東国の武士たちの実力の蓄積とそれゆえの反乱の「質の高まり」があったことも評価すべきだという。
 著者は、この反乱が起きた当時の朝廷の側に「王権の揺らぎ」があったこと、そして、反乱に直面した朝廷の側が「王土王民思想」を振りかざしたことに、この反乱の実現可能性を読み取っている〔異論は当然あるだろう〕。

 国家構想の主体性 → 将門と頼朝の境界認識 
 将門は「新皇」を称した後、弟である将平がそれを諫めたのに対して、朝廷の軍が攻めてくれば、足柄、碓氷の2つの関を固めて守るだけだと言っている〔実際には「官軍」ではなく、坂東の武士たち=藤原秀郷、平貞盛に討伐されたのである〕。つまり彼は自分の支配する領域についての自覚を持っていたことになる。著者はさらに、将門が関八州に加えて東北地方も自分の来たるべき支配領域と考えていたように思われることを付記している。〔この点は、後に東北地方の北部を拠点として奥州藤原氏の地方政権が樹立されたことを考えると重要である。〕

 著者は、将門が自分の支配地域と考えた領域が、その後、源頼朝が直接支配下に収めようとした地域と重なることを強調する。「関東に限って言えば、頼朝の境界認識は将門の国家構想を踏襲していたということもできる」(243ページ)。〔これは鋭い洞察である。〕」

 将門の国家構想の意義
 著者は将門の国家構想の特徴として:
 ①坂東平氏一門が築いた筑波山西麓の独自の政治基盤を前提とした国家構想であった;
 ②律令に則った神ではなく、八幡神と道真の霊という新たな神を根拠としており、律令制度を相対化しようとする意識が存在した;
 ③王城を築くだけでなく、独自の支配領域を設定し、その掌握の方法をさまざまに考えていたこと
の3点を挙げている。これらの特徴から、将門の新国家の構想は、それなりの現実性をもったものであり、それゆえに王朝にとって無視しがたいものであったと著者は結論している。

 平将門の乱の歴史的意義 →  同時代の視点から読み解いた「平将門の乱」
 著者は、高橋昌明の将門の国家構想を「可能性に終わった分権的封建国家の一構成部分をなすものであったともいえるのではないか」(244ページに引用)とする評価に魅力を感じながらも、将門と彼と同盟したり、彼に従ったりした人々との関係が封建的な
性格をもっていなかったことをもって、同意しない。〔つまり、高橋が将門の乱を中世的な文脈で評価しようとしているのに対し、著者は、将門の乱はまだ古代の反乱であると考えているということである。〕
 「平将門の乱は、政治的・社会的・思想的にも日本古代の国家・王権が大きな転換を迎えていた時期に起こった点にこそ意義があるのであって、武士成立史、武家政権成立の前史という狭い枠からの評価ではその全体的な意義を評価したことにならない」(245ページ)というのが著者の見解である。

 この反乱をきっかけとして、日本の国家は律令制国家から王朝国家(体制)〔著者はこの言い方をしているが、摂関政治といってもいいだろう〕への転換を遂げた。武士の側では、これによって「イエ」が形成された「棟梁を中心とする武士団が形成されるようになったということだろう〕。また皇統意識や、神祇観にも変化が生まれる。そしてこれらの変化は東アジアにおける地図の変化というより大きな変化に対応するものでもあったのである。

 思ったより長い時間をかけることになったが、どうやらこの書物についての論評を終えることができた。著者の見解に賛同できる部分、できない部分はあるが、とりあえず、興味深く読み終えることができた。
 この書物の主題と関連はするが、少し離れた問題:例えば、中国では軍閥が跋扈することになったが、〔武士〕という社会階層が生まれなかったのはなぜかというような問題も、これから膨らませて考えていきたいと思う(それだけの時間的余裕があるかどうかは疑問であるが)。

 一昨日の「日記抄(4月8日~14日)で「布マスク 届いたころに 終わってる」という川柳を載せたのですが、昨日(4月15日)付けの『日刊スポーツ』によると、すでに施設等を優先して布マスクが届いているそうです。ただ、マスクが市販の「使い捨てマスク」よりも小さくて、実際にこのマスクを着用している安倍首相の映像を見れば分かるようにマスクをしても、あごが出ているようなので、前句に替えて
コロナとの 戦い疲れて あごを出し
などというのはどうでしょうか。一方、昭恵夫人は3月にマスクもせずに大分県の宇佐八幡宮を参拝したそうで、安倍首相の先祖は、八幡太郎義家に討伐された奥州安倍氏の子孫だと自称している歴史をどのように認識しているのか、気になるところです。〔さらにいうと、宇佐八幡宮の宮司職をめぐる紛争があるという事態の中で、いくら「私人」とはいえ、首相の妻という一定の社会的影響力を有する人が、その一方に加担するような行動をすることが良識にかなったことかどうかは問題があるところです。〕

 あるいは、わが国の将来をめぐって気になることがあったのけれども、
 神託は聞かずに帰る安倍夫人
(実際には聞いたけれども、あまりにも恐ろしかったので、何も語らないということかも知れません。宇佐八幡は歴史に残る、さまざまな神託をしています。斎戒沐浴もせずに、ふらっと出かけただけの人間に神託を与えるほど神様は甘くはないということも言えます)。 

 メディアで報道される首相の日々の動静を見ていると、コロナウィルスの蔓延を食い止めることと、食い止めたあとの経済の振興のどちらに重点を置いているのか全く見当がつきません。4月15日の『朝日』朝刊のコラム「多事奏論」の筆者が言うように、ここは経済を犠牲にしても、感染を抑制するのが先決ではないでしょうか。
 さて、インターネット上のニュースを追っていると、どうやら私の手許にも10万円が届きそうです。この10万円、自分には必要がないという人は、辞退するということにすれば、とりあえずの不公平感というのはなくなるのではないかと思うのですが、自分勝手で生ぬるい考えでしょうか。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(18)

4月15日(水)晴れのち曇り

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年から1958年にかけて、当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。旅の後半、彼は隊員の吉川公雄(医師で昆虫学者)とともにカンボジア、(南)ベトナム、ラオスの3カ国を探訪する自動車旅行を試みた。当時外務省留学生としてバンコクに滞在していた石井米雄(1928‐2010)が通訳を兼ねて同行した。
 一行は1958年2月12日にバンコクを出発、2月13日にカンボジアに入国、内陸部のバッタンバン、首都プノムペン、海岸部のカムポットなどの都市のほか、トン・レ・サップ湖周辺の農村、湖上の集落などを訪問した。21日にプノムペンを出発して、(南)ベトナムに入国、コーチシナ地方の中心であり、当時のベトナム共和国の首都であったサイゴンに到着した。サイゴン大学の協力を得て滞在期間の延長に成功した一行は、サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックの通訳としての動向を得て、フエまで北上、南ベトナムを縦断した後に、西へと進路を変えてラオスにむかおうとする。各地でベトナム族と抗争したチャム族の遺跡に出会ったほか、ホイ・アンでは17世紀の初めに日本人が貿易にこの港までやってきた痕跡を訪ねることができた。一行は「雲の峠」(コル・デ・ニュアージュ」という難所を越えて、旧アンナン帝国の首都であったフエに到着した。

第16章 大官道路
 ベトナム人の悪口をいうやつに、のろいあれ!
 3月6日、フエの町の中をドライブしようとしていたところ、モーターバイクとの衝突事故が起きた。巡査がやってきた取り調べが始まった。被害者は、そばにいた爺さんと口論を始め、何が起きているのか全く分からない(ディックは知り合いの家にとまっていたので、この場にいなかった)一同は不安になる。
 そこへ巡査を従えて中年の恰幅のいい紳士がやってきた。警察のえらい人らしいと思った梅棹は、フランス語で話しかけるが、彼は鈴木という日本人であった。この地で警察に勤めているという。彼のおかげで事態を掌握することができた。被害者は自己は自分の落ち度であることを認めているのだが、そのわりに態度が横柄だと目撃していた爺さんにいわれて口論になったのだという。  梅棹は胸をなでおろす。ベトナム人は反日的で向うが悪くても日本人に罪を着せると聞いていたが、まるで反対である。「かれらは公平で善意にみちている。ベトナム人の悪口を言うやつに、のろいあれ!」(157ページ)

 脱走兵鈴木曹長
 聞くところによると鈴木は保安局で柔道を教えている。終戦の時に脱走してこの地にたどりつき、もう17年になるという〔終戦は1945年で、この時点で1958年であるから数が合わない〕。ベトナムの夫人と結婚して子どもも3人でき、すっかりこの土地になじんでもう日本に帰るつもりはないようである。北部管区の警察官は皆、彼に柔道を教わっているので、何かあったら、警察で彼の名前を出せば役に立てるだろうという。
 一行は前日にコル・デ・ニュアージュで出会った陸軍大尉に昼食に招待されていたが、鈴木はその人物も知っているという。大尉の家でベトナム料理のもてなしを受ける。「出されたヌォック・マムは、今まで経験したうちで、いちばん上等だと思った」(159ページ)。〔ヌォック・マムは東南アジア諸国で調味料として用いられている魚醤で、梅棹は「しょっつる」と同系統のものとしている。後に一時期梅棹の助手をつとめ、学術調査において「料理長」として才能を発揮した石毛直道に魚醤についての研究がある。〕

 フエの宮城
 フエはフランスふうにユエと発音されることもある(ベトナム戦争が盛んだったころはユエの方が通りがよかった)が、アンナン帝国の首都であった。「静かな、落ち着きのある、北京や京都とどこか一脈通ずるところをもった、いかにも旧都らしい都市である」(159ページ)。市の中央部を流れる川は、「香河」(香江、梅棹はよみ方が分からないと記しているが、フオン川である)と言い、その名にふさわしい清らかな流れだが、水量が多く、ゆったりと流れている。川には屋形船が浮かんでいて、そういう情緒のある流れである。〔北京や京都というのが梅棹らしい感想である。貝塚茂樹は、京都と西安(昔の長安)が似ていると書いていたと記憶する。屋形船というのは、梅棹の短絡的な観察で、この川には船上生活をしている人々がいるのである――屋形船は彼らの金を稼ぐための手段なのである。〕

 ここにはグェン(阮)朝150年〔正確には1802年から1945年まで〕の宮城と歴代皇帝の陵墓がある。宮城内に入るには、政府の観光局の許可がいるが、その許可は簡単に下りた。一行は鈴木に案内されて中を見て回った。宮城は内戦でだいぶ破壊されたというが、それでもまだ多くの建物が残っていて、昔のアンナン帝国の栄華をしのばせるのに十分である〔現在ではユネスコの世界遺産に指定されている〕。
 「宮城の建物は、どれを見ても美しく、芸術的にほんものである。・・・それはアンナン帝国の歴代皇帝たちの芸術的なセンスの高さと、帝国そのものの充実した文明をものがたっているようである。」(160ページ)

 梅棹はこれらの建物を見て、惹きつけられるのは、日本の文化もベトナム同様に中国の影響を受けてきたからであり、中国の影響という点で日本とベトナムには共通するものがあると考える。それだけではない。「古代以来、両者とも、中国文明圏の縁辺部に位置して、政治的には強く中華帝国に反発を示しながらも、文化的にはその深刻な影響をうけざるをえなかった、一種の周辺国家なのである。しかし、全体としていえば、日本よりこの国の方がはるかに強く中国的である」(160‐161ページ)というのが彼の下した結論である。

 皇帝の陵墓
 一行は郊外に車を走らせて、歴代皇帝の陵墓を訪問した。最初に見たのは、第11代カイ・ディン(啓定)帝(在位1916‐1925)の陵墓である。基本的には中国ふうであるが、洋風の部分もある。陵墓に飾られていた皇帝の写真を見て、(切手収集家でもある)梅棹はその肖像を昔のインドシナの切手で見たことを思い出す。カイ・ディン帝の時代、ベトナムはフランスの保護領だったのだが、このように壮大な陵墓が建造されていたことは、文化的に見てなかなか面白いことだと思う。次にトゥー・ドック(嗣徳)帝(在位1847‐83)の陵墓を見るが、こちらはまったく東洋風であった。
 夕暮れが迫ってきたので、一行は他の陵墓を見学するのをあきらめて宿舎に引き上げる。

 ささげ、銃!
 3月7日、いよいよラオスに入国する予定の日である。
 朝食後、一行の案内役として多くの情報を与えてくれたディックと別れる。彼は飛行機でサイゴンに戻ることになる。
 9時半出発。一路北へ走る。11時、クヮン・チー(廣治)着。11時半にドン・ハー(東河)に着く。(ベトナムが南北に分断されていた時代には、このあたりが南ベトナムの最北端であった。ドン・ハーには米軍基地がおかれていた。)
 「北へゆくほど次第に緊張した空気が感ぜられる。監視哨があちこちに立ち、兵隊が右往左往する。北ベトナムの境界線、17度線はもうすぐである。
 道は、ドン・ハーでわかれる。まっすぐゆけば北ベトナムだ。わたしたちは左へ折れて、山越えにかかる」(162ページ)。

 舗装はされていなかったが、道路はよく手入れの行き届いたラテライト道で、運転に支障はない。行く手に監視哨があって、遮断機が下りている。哨兵にとまれと合図されるのを予期して車を進めていくと、意外にも遮断機がするすると上がった。堂々たるジープに乗っていたので、国連の監視委員会か何かの一行と勘違いしたらしい。こういう時は落ちついてそのまま車を勧めるほうがいいという石井の意見に従って、そのまま進む。
 また、監視哨があり、今度はだめかなと思ったら、兵隊が整列して「ささげ、銃」をやった。
 監視哨はいくつもあったが、そんな調子でどんどん進んだ。

 国境
 人気のない山の中の道が続き、小さな橋を渡ると、その左手に何だか大きな白い道標が経っていた。気になって、戻ってたしかめてみると、左側にはVIET NAM、右側にはLAOと書いてあった。「どう考えても、これは国境である。税関も、移民局も、監視哨も、なにもない。・・・わたしたちは、本当に国境を越えたのだろうか。そうだとすれば、わたしたちは手続きもしないで、不法出国をしたことになるのだろうか。」(165ページ)

 しばらくいくと広場があって、「大きなアンペラ小屋が立っていた。竹の棒が道路を遮断していた。見すぼらしい歩哨小屋から、はだしの兵隊がとび出してきて、銃剣をかまえながら、大声でわめいた」。(165ページ)
 「ラーオか」と、ラーオ語ができる石井が尋ねた。「ラーオだ」と兵隊が答えた。一行は本当に国境を越えたのである。

 こうして第16章は終わり、次回からラオスでの経験を記す第17章「大森林をゆく」に入る。国境を越える道のりでの描写の中で、その当時の(南)ベトナムと、ラオスの経済格差のようなものがしっかりとらえられているところが今回は特に興味深かった。たとえば、遮断機と竹の棒も(おそらくは梅棹の)印象そのままの、それ故に強く記憶に残る対比であるが、ベトナムの兵士は靴を履いているのであろうが、ラオスの兵士ははだしである。フエの文化遺産については、インターネットで検索を掛ければその姿を知ることができるので、興味のある方は試してみてください。

日記抄(4月8日~14日)

4月14日(火)晴れ

 4月8日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 ブログ訪問をしていて、「小池さん」という言葉に出会うことがよくある。小池さんというのは、小池百合子東京都知事のことなのだが、私はどうも『オバQ』に出て来る小池さんを思い出してしまうところがある。小池さんのモデルと言われるアニメーターの鈴木伸一さんに会ったことがあるからかもしれない。

4月7日
 NHKラジオ第二放送『遠山顕の英会話楽習』にこんなことわざが取り上げられていた:
Two heads are better than one.
(1人より2人で考えた方がうまくいく。)
 日本では「三人寄れば文殊の知恵」というが、英語では1人より2人という表現になっている。同じことをスペイン語では
Más ven cuatro ojos que dos.
「四つの眼は二つの眼に勝る」という。考えることよりも、見ることの方を重視しているところが興味深い。

 井上岳久『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)を読み終える。

4月8日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』は、「英会話リテラシー」の一環として、ネズミ(mouse, rat)にまつわる様々な表現を取り上げた。「世界で最も長い連続公演記録を持つ劇と言えば、アガサ・クリスティのThe Mousetrap「ねずみとり」(1952年初演)で、the longest-running play in the world として現在も上演中です。」という。若い夫婦が叔母から相続した邸をゲストハウスにして営業を始め、多くの客が集まるが、殺人事件が起き…。この作品で私が面白いと思うのは、第二次世界大戦中の学童疎開の経験が展開する事件の伏線になっていることである。学童疎開は日本と英国が戦争中、共通に経験したことの一つである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
The wise are instructed by reason, averabe minds by experience, the stupid by necessity and the brute by instinct.
   ―― Marcus Tullius Cicero
(Roman statesman, orator and philosopher, 106-43 B.C.)
(賢明な人は理性に従い、平均的な人は経験に従い、愚かな人は必要性に従い、理性のない人は本能に従う。)
 わたしを含め、たいていの人間は「愚かな人」に分類されるようである。
 キケロについて大西英文さんは「彼の思想、言動をつらぬくもっとも重要なファクターは、「バランス」あるいは「中庸」であろう。それは「諸階級の共和」や、王・貴族・民主制の混合政体を理想の国家像とする彼の政治思想に、また、アカーデメイア・ストア・懐疑派のそれぞれの長所を折衷的、選択的に取り入れた彼の政治思想に、また、平明体・中間体・荘重体の三種の弁論法の使い分けを理想とする彼の修辞学思想に、典型的に見て取れるものである」(松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶために』、47ページ)と述べている。とにかく、彼の暗殺をもって、ローマ共和政を死守しようとする文人政治家はいなくなり、ローマ共和政末期は終わったと考えられている。(共和政時代は、初期と末期とに分けられているのである。)

4月9日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」に取り上げられていた岡本太郎の「無名の運命の中で、自分の筋を貫き通して、歴史にも残らないで死んでいったものの生き方に、僕は加担したいんだよ」という言葉が印象に残った。1970年の大阪万博をめぐる小松左京さんの回想を読んでいると、あそこで太郎さんを担ぎ出したことの意味の大きさを感じる。太陽の像にはいろいろな人々の想いが籠っているのである。
 瀬戸内晴美(寂聴)の『かの子繚乱』に詳しいが、太郎の父方は、もともと津藩の儒者の家柄で、太郎の父岡本可亭は書家(北大路魯山人の師である)、母親のかの子は川崎の大地主大貫家の出身で、その兄(大貫晶川)は谷崎潤一郎の親友であったが、ツルゲーネフの小説『煙』の翻訳を残しただけで、若くして没した。必ずしも無名人というわけではないが、いろいろな思いの籠もった人々が太郎の周辺にいたことが分かる。

 同じく、『朝日』朝刊の第2神奈川欄に注目されるニュースが2件出ていた。一つは金沢文庫文書がネット公開されるという記事である。神奈川県立金沢文庫はその所蔵する文書のデジタルアーカイブ化に取り組んできたが、この度そのうちの500点をオンラインで提供することになったという。古文書を読むための訓練を受けてきたわけではないから、文書を実際に見ても、見るだけに終わりそうだが、時代の雰囲気を感じるためにアクセスしてみようかと思う。
 もう一つは、今年J1に昇格した横浜FCが若手教育に力を入れているという記事で、奥寺さん、三浦のカズさん、中村俊輔さん、南さん、松井大輔さんなどなど、講師陣がかなり充実しているから若手選手にとっても学びがいがあるだろうと思われる。

 広告の見出しを読んだだけだが、『週刊新潮』4月16日号の「不要不急の逮捕は控えよ」に「警視庁困惑」というのは身の毛がよだつほど怖い情報ではないかと思う。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで取り上げられた言葉:
Great works are performed not by strength but by perseverance.
    ―― Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709- 84)
(優れた仕事は、力によってではなく忍耐によって成し遂げられる。)
 『英語辞典』(1755)の編纂で知られる18世紀英国「文壇の大御所」の言葉。

4月10日
  『NHK高校講座 倫理』は「儒教の日本的展開」として、伊藤仁斎・荻生徂徠から庶民への儒教(その変形である心学なども含める)の浸透までを駆け足でたどった。もう少し時間をかけた方がいいのではないかと思う。例えば、二宮尊徳の思想などを考えると、彼に先行する様々な思想家の思想が入り込んでていて、そう簡単に彼はこうだったと決めつけられないものを感じるのである。

 東川篤哉『探偵さえいなければ』(光文社文庫)を読み終える。

4月11日
 NHKラジオ『朗読の時間』は夏目漱石の『三四郎』の続き。この作品にはいろいろな内容が含まれているが、与次郎に連れられて三四郎が寄席に出かけ、(三代目)柳家小さんの落語を聞く箇所が印象に残った。明治の終り頃の落語界は人情噺などを中心的に語る三遊派と、滑稽な話を主体とする柳派(および三遊別派)が対立していたが、漱石は後者の方が好きだったようである。実は私も、滑稽な話の方が好きである。

4月12日
 昨日、『ポルトガル語入門』の時間を聴き逃してしまい、本日になってやっと第2回目の放送を聴く。
Eu falo português e inglês. 
(私はポルトガル語と英語を話します。)
 ポルトガル語はスペイン語、フランス語、イタリア語、ルーマニア語などと同じくインド=ヨーロッパ語族のロマンス語派に属しているとされるが、それらとは違う、やはり独自の言葉であることがこの文だけでもわかる。

4月13日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』入門編「エミの小さな旅」では日本人学生エミがスペインの首都マドリードにあるプラド美術館を訊ね、画家ベラスケスや、彼が描いた「ラス・メニーナス」の中の人物と会話するという話が展開されていたが、ベラスケスがソフィア王妃芸術センター(Museo Reina Sofía)に出かけようと提案する。ソフィア王妃芸術センターは世界でも有数の近・現代美術館であり、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、近・現代の多くの美術作品が収蔵されている。ソフィア王妃というのは、スペインの現国王であるフェリペⅥ世の母后であり、美術館は1992年に開館した。調べてみたところ、コロナ・ウイルスの影響で美術館は現在閉館中とのことである。

4月14日
 『朝日』の朝刊に載っていた『週刊朝日』の広告によると、私の母校は医学部入学者が多いことで有数の存在らしい。そういえば、私の同期生も医者が少なくない。
 わたしが間違えられる職業で多いのが医者と画家で、医者になるほど学校の成績は良くなかったし、画家になるほど絵はうまくない。医者になりたいとは思わないが、もっと絵がうまかったらよかったと思うことが時々ある。

 『読売』は「コロナと大学 遠隔授業を有効に活用したい」という社説を掲げ、同紙への投書を掲載する「気流」欄には「オンライン学習普及を」という千葉県柏市の小川正巳さんの意見が掲載されていた。『朝日』(神奈川)は相模原市が「小中学生にFM放送」という記事を掲載している。小学校から大学まで、さまざまなメディアを利用しての遠隔学習の活用が望まれる。しかし、『朝日』が急行を一つの機会として、自分の意見をまとめたり、希望をはっきりしたものにする努力をすべきだという議論を紹介しているように、自発的な学習や思索も必要であろう。それで思い出すのは(レベルが違いすぎるかもしれないが)、ニュートンの話である。

 カミュの『ペスト』がひそかなベストセラーになっているという記事を見かけるが、デフォーの『ペスト(疫病年代記)』も新しい翻訳が出たりして、読みなおす人を集めているようである。
 気になって調べてみたのだが、デフォーの『ペスト』は1665年にイングランドを実際に襲ったペストの流行を描く作品である。この年、ケンブリッジ大学が休校になったので、故郷に戻っていた一人の学生が実家の庭でリンゴの実が枝から落ちるのを見て、それまで考えていたことが急に形をとって現れたと思った。彼の名はアイザック・ニュートン(1642‐1727)である。目下のところ、こういうふうに文学と科学を結びつけて、外出自粛の無聊を慰めているのである。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』に、”Third time's the charm."(三度目の正直)ということわざが取り上げられていた。charmには「魅力」という意味のほかに、「呪文」という意味がある。魔法の言葉を3度唱えると、効き目が表れるということらしい。
 この番組の締めくくりの”In Another Situation!”では”Dorothy has lent the Cowardly Lion her ruby slippers."という会話が演じられたが、これはフランク・L,・ボームの原作よりも、1939年のファンタジー・ミュージカル映画『オズの魔法使』(MGM、ヴィクター・フレミング監督)に基づいたものである。というのは、原作でドロシーが履くのは銀色の靴であって、ルビー(色)の靴というのは映画における脚色である。
 この映画の撮影途中で、監督であったヴィクター・フレミングは『風と共に去りぬ』の撮影のためにいなくなってしまったという話で、おそらく、その後は、製作者として名前を出しているマーヴィン・ルロイが監督したのであろうと思う。この映画の中で西の悪い魔女(オズの世界)と、ドロシーの愛犬トトを目の敵にしている地主のミス・ガウチの2役を演じているマーガレット・ハミルトンは(この悪役を引き受ける位に)『オズの魔法使い』という物語に入れ込んでいたので、ルロイに向かってなぜ、原作の銀色の靴をルビーの靴にしたのかと聞いたところ、ルロイがその方が見栄えがするじゃないかと答えたという話を読んだことがある。なお、原作者のボームは、19世紀末に米国の政治の中で有力な勢力であった人民党(People's Party)の支持者で、銀色の靴というのは、この政党が銀本位制を通貨政策として掲げていたからだと主張する人がいる。

 布マスク 届くころには 終わってる
 大騒ぎしている割には、なかなか届かない。「終わってる」のがコロナウィルスの蔓延であればよいのだが、それでも「夏炉冬扇」、「六日のアヤメ、十日の菊」と言われるのは仕方のないところである。また、その場合は、マスクにかかった費用をだれが負担するかというのが問題になるだろう。税金の無駄遣いの責任をだれがとるか。さらに安倍内閣が「終わってる」という可能性もあるし、もっと怖い可能性もある。
 

『太平記』(310)

4月13日(月)雨

 貞和6年(南朝正平5年、西暦1350年)2月、改元して観応となった。足利直義の失脚後、尊氏の嫡男義詮が鎌倉から上洛して政務をとることになったが、その背後にいたのは高師直・師泰兄弟だった。前年9月、備後から九州に落ちた直義方の足利直冬は、肥後の川尻幸俊の加勢を受け、また筑前の少弐頼尚の婿に迎えられ、天下は宮方、将軍方、西国の直冬方という三分の形勢となった。石見では直冬に呼応して三角兼連が挙兵した。高師泰が石見に下り、まず三角方の佐波善四郎の籠もる鼓崎城を落としたが、その間、九州では、足利直冬の軍が西国の有力武士を味方としていよいよ強大となった。
 10月、高師直の進言により直冬の実父尊氏が自ら直冬討伐に向かうことになったが、その前夜、足利直義は錦小路邸を脱出して行方をくらました。11月、九州へ向かう尊氏と高師直の軍は、悪天候のため備後に留まった。

 さて、出家して錦小路堀川に蟄居していた直義は、師直が彼をひそかに殺そうとしているという噂を聞いて、石塔頼房だけを連れて姿をくらまし、まず大和国に落ち延びた。大和の武士である越智家澄を頼ったのである。越智は奈良県高市郡高取町に住んだ南朝方の武士である。越智氏は同じ高市郡越智荘を支配し、その出自については諸説あるが、源満仲の次男(、頼光の弟、頼信の兄)である頼親の子孫である大和源氏に属するという説が有力である。家澄は源太を仮名としていたらしいので、少なくともご本人は大和源氏を自認していたようである。越智の支配する村の村民たちは、直義を守るための防御を固め、領主と直義に対し反旗を翻すようなそぶりは見せなかった。暫くして、石塔頼房をはじめ、直義に心を寄せる武士たちがはせ参じ、直義が大和に滞在していることは天下に隠れのない事実となった。

 何としても朝廷の同意がなくては、高兄弟討伐の宿意は達しがたいと考えて、直義は京都に使いを送り、(北朝の)光厳上皇の院宣を頂こうとした。すると、すぐに院宣を頂くことができただけでなく、自分では望んでいなかったのに鎮守府将軍という職までも与えられた。こうして院宣を得て上洛の大義名分はできたものの、都は足利一族の仁木、細川、それに将軍家の執事である高の一族が支配しており、大和、和泉、河内、紀伊の4カ国は南朝の力が強く、直義が自力で京都に進出して高一族を滅ぼすことは困難に思われた。〔なお、直義が鎮守府将軍に補せられたというのは『太平記』の作者の創作で、あるいは直冬が鎮守府将軍に補せられた(かも知れない)のを直義と取り違えたものだといわれる。〕

 直義が京都を脱出したものの、進退窮まった状態になっているのを見た越智伊賀守はこのままでいてはさらなる困難に見舞われるだろう、かくなる上は(南朝の)後村上帝のもとに参じて、これまでの行状を改め、今後の繁栄を図る策をめぐらすのがよいだろうと助言する。この意見には直義も異存はなく、特別の使者を吉野に遣わすことになった。
 使者の持参した書状は、南朝の重臣の一人である四条隆資に宛てたもので、後醍醐帝に協力して鎌倉幕府を倒す事業に参加したものの、その後新田義貞の讒言によって逆臣とされてしまった。いつまでもこの汚名を引きずるのは忍び難いので勅免の綸言(帝のお言葉)を頂きたいとお願いする次第であるというものである。そして南朝に降参したいと申し出た。

 書状を受け取った南朝の朝廷では、すぐに公卿たちが集まって僉議を行った。
 まず口を開いたのは洞院左大将実世、この時代の動きを知るために最も確かな史料とされる日記『園太暦』を書いた洞院公賢の子である。父親は北朝の光厳院の執事をしていたのだが、息子は南朝の朝廷にいる(彼の兄弟の実夏は北朝に仕えていた)。直義のいうことはまったくのウソである。足利家に代々仕えてきた家臣である高家の師直・師泰兄弟に都を追い出されて、どこにも行き場がなくなったので、帝の御威光を借りて、高兄弟に対する自分の個人的な恨みを晴らそうとするために、帝の耳を偽ろうとするものである。20年以上にわたり(本当は1336年から1350年までだから15年間である)我々が吉野の山奥で苦しい生活を続けてきたのは、直義のために都を追われたからではなかったか。彼が降伏を申し出てきたのは幸いなことであり、この際、すぐに討手を差し向けて打ち取り、その首を御所の前にさらすのが適当である。

 これに対して二条関白左大臣殿(師基)がしばらく考えた後に口を開いた。師基は摂政・関白二条兼基の子、関白・左大臣道平の弟(道平の子であるという説もある)、北朝で摂政・関白・太政大臣となった二条良基の従兄である(ここでも骨肉の戦いが起きている。なお、史実としてはこの時点で師基は左大臣ではあったが、関白にはなっていない)。漢の高祖に仕えて天下統一の事業を助けた張良という知将がいるが、彼が黄石公から授かったとされる『三略』という兵書の中に「恵を恩を施す則(とき)は、士の力日に新たにして、戦ふこと風の発するが如し」(第4分冊、348ページ、恩恵を与えれば、兵士の力は日々に新しく、風が自然に起こるように戦う)と記されている。自分の罪を認めて帰服してきたものは、忠節をつくすことを怠らず、二心を抱かず誠心誠意仕えようとするものである。であるからして秦の将軍であった章邯が趙高と対立して楚の項羽に下ったために、秦が敗れたという例がある。またもっと古い例としては、斉の桓公(小白)と王位を争った異母兄糾の家臣であった菅仲(名は夷吾)が罪を許されて桓公に仕え、宰相として斉を強国にした(春秋五覇の一つ)例も参考になるだろう。直義が味方になるというならば、後村上帝の治世の繁栄は長く続くことになるだろう。直義が鎌倉幕府を倒した功績を忘れずに、官職を旧に復して、召し使うのが上策であろうと思う。 

 洞院実世、二条師基、それぞれ南朝の中では重きをなしている公卿であり、また両者の言い分はそれぞれ筋が通っている。〔洞院実世の意見は正論であるし、二条師基の意見の方が現実的である。南朝方には有力な武将はほとんどいなくなってしまっているから、直義が欲得ずくで南朝に降伏してきたのが分かっていても、受け入れざるを得ないところがある。〕 それで後村上帝も考えこんでしまわれ、末座の諸卿たちも口を開くことをためらっていると、准后禅閤北畠親房がようやく発言した。准后というのは三后(太皇太后・皇太后・皇后)に準ずる待遇を受ける位。禅閤は摂政・関白だった人が仏門に入った時の呼び方。〔ただし、この時点で親房は准后の宣下を受けていない。〕 北畠親房は、東北地方から2度にわたって大軍を率いて遠征し、将軍方を脅かした北畠顕家の父親であり、『神皇正統記』の著者として知られている。
 親房は漢の高祖と楚の項羽との合戦の故事を長々と語り(岩波文庫版で349ページから378ページまであり、読むだけでも骨が折れるし、おおよそのところはみなさんご存知かと思うので、省略)、漢が勝利したのは、陳平、張良の謀によって、高祖が偽って項羽と和睦したからだと説いた。
 この親房の意見に公卿たちは同意し、直義に対して勅免の宣旨を下すこととなり、正平5年(北朝の観応元年)12月13日付で文書が発給された。

 こうして直義が南朝と和睦し、勅免の宣旨を得たところで第28巻は終わる。親房が本当に長々と漢楚の戦いについての公爵をしたかどうかは定かではないが、直義の降伏を無条件に信じるなという洞院実世の意見、直義を味方につけようという二条師基の意見の両方を取り入れて妥協を図った、直義を信用しないが、利用できるだけ利用しようというきわめて現実的な意見で、これまで辛酸をなめてきた南朝の公卿たちには受け入れやすい内容になっている。北畠親房というと、南朝の忠臣・理想主義者というイメージが強いが、彼が前面に出て活躍するようになったのは、後醍醐帝の崩御後、後村上帝の時代になってからのことであり、南朝の劣勢が続く中で何とか立て直そうとした、学識に加えて現実的な見通しを持った政治家であったのではないかと思う。
 なお、NHKラジオ第2放送で金曜日・土曜日の23:40から放送されている『NHK高校講座 古典』では、ちょうどこの漢楚の攻防のところをやっている(「鴻門の会」のくだりが終わった)ので、興味のある方はお聞きください。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(39)

4月12日(日)曇り

 物語は第3巻第4章(46章/61章)に入る。
 エリザベスは旅行中、姉であるジェインとのやりとりを続けていたが、ラムトンに到着してから彼女の手紙は途絶えていたので、ひどく落胆していた。ところが、3日目の朝になってやっと彼女からの手紙が2通同時に届き、姉が手紙を書くのを怠っていないことが分かって安心した。2通のうちの1通は、ひどい走り書きで宛名が記されていたので、別の場所に誤配されていたらしかった。だから、手紙が届くのが遅れたのである(なぜ、そうなったのか心配してもいいのではないか)。〔この時代、まだローランド・ヒルによる近代郵便制度は成立しておらず(切手も使われず)、郵便物のやりとりには多額の金がかかったが、この小説の登場人物はそういうことにあまり気を使わなくてもいい社会階層に属していた。なお、21世紀の初めまで、英国では郵便は、朝に配達されていた。〕

 叔父と叔母は、エリザベスには手紙を読ませておくことにして、予定通り散歩に出かけた。エリザベスは誤配されていた手紙の方が、古い日付になっていたので、そちらから読むことにした。手紙は初めのうち、一家の人々がいつも過ごしているような毎日の様子を記していたが、途中から内容ががらりと変わっていた。
 前夜おそく、ブライトンのフォースター大佐から至急便があって、末の妹であるリディアが士官の1人=ウィッカムと駆け落ちしたという。行き先はスコットランドらしい(当時、スコットランドでは男性が14歳、女性が12歳になっていれば、親の同意なしに結婚することができた。そこで国境の村であるグレトナ・グリーン(Gretna Green)にイングランドから駆け込む若者が多かったという)。リディアが相続する財産がわずかなものだから(これはジェインやエリザベスも同様)、結婚の目的が金目当てでないことははっきりしているが、一家にとって大きなスキャンダルとなることは否定できない。2人の失踪を知った母親は半狂乱になり、父親は必死に耐えている様子だという。

 エリザベスはさらに2通目の手紙の封を切った。最初の手紙をジェインが書いた後、フォースター大佐が到着し、リディアの書置きにはグレトナ・グリーンに向かうと書いてあったが、ウィッカムには結婚する意志はないかもしれないという証言もあると記されていた。(彼はかけ事で借金を重ね、首が回らなくなって駆け落ちに至ったということらしいのである。) 父親はフォースター大佐とともにロンドンに出かけて、2人を探すつもりだというが、フォースター大佐は任務ですぐにブライトンに戻らなければならず、憔悴した父親にどれだけのことができるかどうかはわからない。ガードナー叔父の助言と助力が必要だというのである。

 読み終えたエリザベスは、急いでガードナー叔父を探す。すると、戸口のところで調度彼女を訪問にやって来たダーシーとであった。「ダーシーはいきなりエリザベスの蒼褪めた顔とひどく取乱した様子を目にして意表を衝かれた格好であった」(大島訳、465ページ)。普段は明るく、元気でお茶目なエリザベスが取り乱した様子でいるのだから、ダーシーとしてもびっくりするのは当然である。気がせいていたエリザベスは非礼を詫びながら、これからすぐに叔父を探しに行かなければならないという。ダーシーは、彼女の様子では叔父を探しに行くのは無理なので、自分が探しに行こうと言って、エリザベスを落ち着かせようとする。少し落ち着きを取り戻したエリザベスは召使を呼び戻して、叔父夫婦を探しに行かせる。

 見るからに具合が悪そうなエリザベスをそのままにして戻るわけにはいかず、ダーシーは彼女への気遣いを見せる。エリザベスは彼女のもとに届いた悪い知らせについて彼に語る。リディアがウィッカムと駆け落ちした。ウィッカムがどのような人物かということを彼女は知っていたので、それを家族に話していれば、今回のことは防げたかもしれない。しかし、いまとなっては手遅れである。自分を責める彼女の言葉をダーシーはほとんど聞いていないように見えた。彼は、考え込んだ様子で部屋の中を歩き回っていた。それを見たエリザベスはにわかに悟るところがあった。「自分はもうこの人にとって魅力的な女ではなくなりつつあるのだ。家族がこうも情ない弱点を曝し、醜態の極みを演じたからには、魅力だろうとなんだろうと色褪せて当然だ」(大島訳、469ページ)。以前、ダーシーはエリザベスへの手紙で、(ジェインとエリザベス以外の)彼女の家族の行状の下品さを指摘されていたが、それを裏書きするような出来事がまた起きたのである。(これでジェインとビングリーだけでなく、彼女自身とダーシーとの恋愛も終わりを告げることになると、彼女は思った。) ペンバリー訪問を通じてダーシーに対する誤解が解け、彼の人間性を理解しただけでなく、その妹に紹介され、彼女と近づきになることによって、新しい、より親密な関係に入ろうとしていた矢先の出来事である。「いくら愛しても報いられないことが分かった今になって初めて、自分はこの人を愛することができると痛切に感じたのである」(大島訳、469ページ)。

 エリザベスは、ダーシーに対して、その日、すぐに帰宅しなければならなくなったので、彼の妹と会うことはできないと告げ、さらにその原因となった出来事については秘密を守ってほしいと頼む。ダーシーは秘密を守ることを誓い、エリザベスの一家が直面している事態がより幸せな結末を迎えることを願い、それからガードナー夫妻によろしくとの伝言を残し、彼女をじっと見つめてから去っていった。

 エリザベスは彼を見送った後、運命の皮肉を感じない訳にはいかなかった。そしてリディアの無分別な行動が自分の身の上にまで影響を及ぼすようになったことを嘆いた。とにかく、彼女の浮ついた、わがままな振舞をそのままにしておいた報いが来たのだと思った。

 彼女は、とにかく、何としてでも家に帰りたかった。父母があまり頼りにならないので、姉を助けて家の中の混乱を何とかしなければならないと思った。ガードナー夫妻が戻って来て、エリザベスの様子に驚き、やがて真相を知ると、すぐにロングボーンに向かうことになった。夫妻の留守中にダーシーが訪ねてきたことを知らされたガードナー夫人は、ペムバリー訪問の予定はどうなったのかとたずねる。エリザベスがそちらの方は話がついていると答えたので、今回の(一家にとっては恥となるような)出来事を話してしまうほど、2人の中は親密なのかと疑った。
 それはさておき、3人はラムトンを急に去ることの言い訳を添えた手紙をあちこちに発送し、宿の払いを染ませて、ロングボーンへと急いだのである。

 エリザベスとダーシーの3度目の出会いにより、2人の中は急接近したと思われた矢先のスキャンダルの到来である。エリザベスはやっとその人間性を理解することになったダーシーともう二度と会うことはないだろうという思いを抱いて、ラムトンを去り、ロングボーンに向かうことになる。しかし、その一方で、彼女の叔母はエリザベスとダーシーが家族の秘密事まで話し合うほどの深い信頼関係になっているのではないかと疑う。3人はロングボーンへと急ぎ、その道中でどのような会話が交わされたか、またロングボーンではどのような事態が待ち受けていたかについては、また次回に。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(21)

4月11日(土)晴れ

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の未完に終わったこの叙事詩『内乱――パルサリア――』は、紀元前1世紀の半ば・ローマ共和政の末期に、ローマの版図を東方に拡大した過去の英雄ポンペイウスと西方のヒスパニア、ガリアで勢力を築いた昇竜の勢いのカエサルとの間で戦われた内乱を描くものである。
 「賽は投げられた」(これはスエトニウスの『ローマ皇帝伝』に出てくる言葉で、この叙事詩には現れない)と叫んでガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、自分を敵視するローマ元老院とポンペイウスに対し、軍事行動を起こすことを明らかにしたカエサルは、各地でポンペイウス派の軍勢を破り、ついにポンペイウスをイタリア半島から駆逐して、ギリシア西部のエペイロスへと追いやる。
 エペイロスに上陸したポンペイウス方の2人の執政官は、各地に将軍として散っていた元老院議員を招集して議会を開き(歴史的な事実であったかどうかは不明)、ポンペイウスを将帥とする決議、参集した諸国、諸王の名誉決議などを行う(この名誉を与えられた一人として、詩人はクレオパトラの弟であるプトレマイオスXⅢ世の名を挙げているが、これまた歴史的な事実であるかどうかは不明。プトレマイオスXⅢ世は後に、ポンペイウスを暗殺することになる)。
 参集した元老院議員の一人で、戦に不安を覚えるアッピウスは、一人アポロンの託宣所であるデルポイに赴き、アポロンの神託をうかがう。アポロンの巫女であるペモノエは気が狂ったふりをして神託を下すのを拒むが、やがて神霊にとりつかれ、アッピウスは戦には与らず、エウボイアで死ぬ定めだという神託を下す。その真意を悟らぬまま、アッピウスはエウボイアに向かう。

 一方、ヒスパニアでポンペイウス方のアフラニウスとペトロニウスの軍勢に対して勝利を収めたカエサルは、ポンペイウスの本隊との対決を目指して、ローマへと戻っていた。
 こうする間にも、カエサルは、ヒベリ人を征服したあと、
勝利の鷲旗を世界の別の地へ移そうと、帰国の途に就いたが、
折しもこれほどの利運に恵まれた定めが、神々の計らいから、
あわやその進路をそらすところであった。
(第5巻、232‐235行、240ページ) というのは、ローマにもどる彼の軍勢の中で、兵士たちの反乱がおきたからである。「己が、いかに脆くも動揺する土台の上に立っているかを、/この時の危機ほど痛切に思い知らされた危機はかつてなかった。」(第5巻、245‐246行、241ページ)。

 多くの士卒を率いてきたカエサルも、自分とその剣しか頼るもののない状況に置かれ、
・・・ひとたび抜き放たれた
剣の権利は、将ならぬ、兵士のものである事実を、改めて思い知らされた。
つぶやきはもはや恐る恐るのそれではなく、怒りは、閉ざされた
胸に蟠(わだかま)るそれではなかった。
(第5巻、249‐252行、243‐244ページ)

 ガリアでの戦いに続いて、ポンペイウスとの内乱に動員されることになった兵士たちは、戦に疲れ、軍役からの解放を求めていた。騒ぎ立てる兵士たちの中に、カエサルは恐れることなく姿を現した。
・・・カエサルは、
臆する風もなく、芝土を重ねて固めた土塁の上に立った。
毫も恐れぬその様と不敵なその面貌はかえって兵らを
恐怖させたが、怒りの命じるままに、彼は兵らをこう大喝した。
(第5巻、321‐324行、246ページ) 去りたければ、去っていくがよい。あとの兵たちはいくらでも補充できる。敗走したポンペイウスの軍勢には多くのものが参加しているのに、勝った自分たちの側から兵が去っていくのは理にかなわない。自分たちには運命が味方している。去っていきたいものは去れ。しかし、反乱を企てたものはここに残って、首を差し出せ。
 カエサルの主張の筋が通っているとは思われないが、このような緊迫した場面では、気合いがものをいうことも確かである。カエサルの気合いあるいは気勢に押されて、兵士たちは反旗を収め、首謀者たちの処刑をもって事態は収拾した。
 なお、岩波文庫版の訳注によると、この兵士たちの反乱はディオ・カッシウス『ローマ史』には記されているが、カエサル自身の『内乱記』には記されていない(私も確認した、カエサルは自分に都合の悪いことは書かないことはすでに言及済みである)。

 カエサルは軍隊をブルンディシウム(現在のブルンディジ)に送って、大軍をギリシアへと運ぶために船を集めさせた。その一方で彼自身はローマに入城し、
・・・独裁官として、名誉ある公職の最高位を手にし、
彼が執政官になることで、ローマの暦に吉祥を与えたという。
(第5巻、395‐396ページ、251ページ) こちらの方は、カエサルの『内乱記』に対応する記述がある。「カエサルが独裁官として管理した選挙会で、ユリウス・カエサルとプブリウス・セルウィリウスが執政官に選ばれた。法律の上からも、この年、カエサルが執政官になってもよかったのである」(國原吉之助訳、138ページ)。独裁官(dictator)は国家的な危機や執政官(consul)が自己で任務を遂行できないとき選ばれる一時的な役職で、選挙や祭典の執行など些細な仕事を任せられる。カエサルは紀元前49年の12月2日から11日間、ローマに滞在した。すでに述べたようにローマの執政官は2人いるが、その2人が両方ともイタリアを離れているので、独裁官が選挙を行う理由はあるのである。そして紀元前48年の執政官などの政務官や属州総督を選挙した。〔同じ時期に、ギリシアでは元老院議員たちが集会を開いたと、ルーカーヌスは述べている。〕 またラティウム祭を司った。「彼が執政官になることで、…吉祥を与えた」というのはルーカーヌスの皮肉で、これも既に述べたが、ローマの暦では1年はその年の執政官の名を冠して呼ばれる(「元号」と言ってもよい)。ローマの共和政を終わらせようとしているカエサルの名前が元号となったということをルーカーヌスは非難している。一方、当時のローマの法律では一度、執政官に就任すると、その後10年たたなければ執政官に立候補できないことになっていた。カエサルは紀元前59年に執政官になったから、紀元前48年の執政官になることには問題はなかったのである。これに対しポンペイウスは紀元前70年に執政官になった後、紀元前55年と52年に執政官となっている。カエサルはポンペイウスが10年の間隔を置かずに執政官になったことを非難する書きぶりであるが、その後自分自身も紀元前46年、45年、44年と3年連続して執政官に就任しているから、勝手なものである。

 カエサルによる権力の掌握により、
・・・我らが久しくその名で阿(おもね)り、君主を偽装してきた
あらゆる呼称がこの時代に編み出されたのだ。
(第5巻、397‐398行、251ページ)と、詩人はこの時をもって共和政が終わったと嘆く。内乱の年の年号にその名を残す執政官としてカエサルほどふさわしい人物はいないとも歌い、彼の元で「儀式と銘打つ茶番劇が繰り広げられ」(第5巻、404行、252ページ)とも記す。もはやラティウムの祭もその意義を失ったとも書いている。〔もっとも、血筋をたどっていくと、カエサルはローマの遠祖であるアエネアスの子孫という家系の出身である。〕 

 こうしてローマにおける自分の地位を築いたカエサルは、ポンペイウスとの対決を目指してギリシアへと海を渡ろうとするが、その成り行きについてはまた次回に。

細川重男『執権』(15)

4月10日(金)晴れのち曇り

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き、維持しようとした試行錯誤の迷走と混乱の、著者の言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物はそのような悪戦苦闘の中心にいた北条氏の、世間一般の評価に極端な隔たりのある2人の執権・得宗である北条義時と時宗とを取り上げ、北条氏による鎌倉幕府支配の実際の過程と、それを支えた論理を探ろうとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、時政のあとをうけて北条氏の当主・執権となった北条義時が、本来は家督を相続する可能性のない存在であったが、頼朝の信頼を得たうえに、頼朝死後の幕府内の権力争いの中で、「何もしない」ことでその地位を向上させ、最後には承久の乱にも勝利して強力な権力を握るに至ったこと、その彼が神話的な存在である武内宿禰の生まれ変わりとして、八幡神の命を受けて誕生したという伝説が生まれたことを記している。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗が北条一門の中の有力者である名越一族や、異母兄の時輔を倒して(二月騒動)、独裁的な権力を固めたことが記されている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、独裁的な権力をもつに至った時宗が、その強力な権力を持って蒙古からの来襲に対処し方、国内に多くの反発と困難を抱えるに至ったことが語られている。

第4章 辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの(続き)
  皇位介入
 それでも必要だった王朝
 「幕府の内外に絶対的な権力を確立した時宗は、攻囲の行方まで左右するに至る。と言っても、時宗としては親切から動いただけなのであるが。」(193ページ)

 承久の乱後、皇位は後鳥羽上皇の血統につながらない、甥にあたる後堀河天皇に移る。当時の日本は天皇や上皇を頭に頂く王朝の支配組織によって動かされていたので、天皇家や王朝を滅ぼすという発想を幕府は持たなかったのである。「だからこそ、幕府は承久の乱後、苦しいツジツマ合わせをしたのである。」(195ページ)

 突然即位した後嵯峨天皇
 御堀河天皇の次に即位した四条天皇が12歳で急死したため、幕府は貴族たちの意見を無視して、後鳥羽上皇の倒幕計画に反対していた土御門上皇の皇子邦仁王を即位させる。後嵯峨天皇である。
 後嵯峨天皇はその後、後深草天皇に皇位を譲ったが、後深草よりもその弟の恒仁親王を愛し、次に即位させる。亀山天皇である。後嵯峨の没後は、亀山天皇が親政を行い、その後、その王子である世仁が即位した。後宇多天皇である。亀山天皇が治天の君となって院政を行ったので、政治の表舞台から遠ざけられた後深草上皇は世をはかなんで出家の意向を示した。

 超越者の哀れみ
 ここで時宗が介入する。後深草上皇の方が年長で特に過ちも犯したのではないのに、治天の君にならないのはおかしいと主張して、後深草の皇子煕仁が亀山の皇太子になるように決めさせた。煕仁は後の伏見天皇である。
 これは後深草→伏見→後伏見→(花園)→と続く持明院統と、亀山→後宇多→後二条→(後醍醐)と続く大覚寺統の2つの皇統の対立をもたらすことになる〔花園、後醍醐両天皇をカッコで囲んだのは、ともに嫡流ではなく、中継ぎの天皇として即位されたからである〕。そしてそれはさらに南北朝の対立と内乱とを招くことになる。
 王朝の身分秩序の中ではその他大勢の下っ端貴族と同等の従五位上・相模守という地位の北条時宗が皇位継承に介入するのは(いくら実力者だといっても)僭越至極であると細川さんは論じる。しかも、このことによって事態は余計にややこしくなったのである。「にもかかわらず、時宗は介入し、思い通りに決定した。時宗は自分が皇統にも口出しできる存在であると考えており、本当に皇位の行方を決めたのである。いわば、時宗は皇位をも意のままにする日本国の最高実力者であり、帝王にすら憐れみを寄せる超越者であった。」(199ページ)
 その時宗が、義時の時代に朝廷から拒否され、その後、時頼の代になって実現した親王将軍を否定して、維康王を源維康として(形式的にせよ)源氏の将軍を頂く形に戻したのはどういうことであろうか。

  北条義時の武内宿禰再誕伝説と「得宗専制」の思想的背景
 八幡神の加護を受けし者
 源頼朝が、武家政権の創始者として前近代においてほとんど神格化される取り扱いを受けていたことは今さら言うまでもないが、鎌倉・南北朝期にあっては、北条義時も頼朝と並ぶ存在として高く評価されていた。
 そしてその高い評価の理由となったのは、彼が承久の乱に勝利したことである。そこで問題になるのは、義時が承久の乱勝利者として、具体的にどのような評価を受けており、それが北条時宗の独裁にどのように影響したかということである。

 ここで思い出す必要があるのは、義時が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説であるが、その再誕が八幡神の神命によるものだということも注目する必要がある。承久の乱における義時の勝利が八幡神の加護によるものだという考えは、『明恵上人伝記』の中にも見られ、また日蓮も義時は頼朝と並んで「不妄語の人」(嘘をつかない人)であったために天照大神と八幡大菩薩の加護を受けて、承久の乱に勝利したと述べているという。つまり鎌倉時代の少なからぬ文書が義時は、統治者たるべき徳を備えた人物であり、そのため八幡神の加護を得て承久の乱に勝利したという認識を共有していたことが示されるのである。

 八幡神=皇祖神=阿弥陀如来=源氏の氏神
 「八幡神は、清和源氏の氏神・関東(鎌倉幕府)の守護神であることは言うまでもないが、鎌倉時代には天照大神と並ぶ皇祖神・国家守護神とされていた。」(203ページ)
 八幡神は、本地垂迹説によれば、阿弥陀如来を本地としており、また日本神話と合体して、応神天皇であるということにもなっている。「ようするに八幡神は、応神天皇で、皇祖神で、国家守護神で、武神で、八幡大菩薩で、阿弥陀如来で、源氏の氏神なのである。」(205ページ)

 人間側にとって極めて都合のいいことに、日本の神様には分霊ということがある。八幡神で言えば、九州の宇佐八幡宮は都に住む皇族・貴族たちにとって、あまりにも遠いので、神様の方に分霊していただいて京都に勧請して建てられたのが石清水八幡宮である。その石清水八幡宮の社頭で元服して仮名(けみょう=通称、なお、彼の弟たちも元服した神社により、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と名乗った)を八幡太郎とした源義家が、父・頼義が相模国鎌倉郡由比郷に勧請していた八幡神を同じ鎌倉郡の小林郷に移していたのを、頼朝が現在地に移して成立したのが鶴岡八幡宮である。〔細川さんは書いていないが、ついでにいうと、鎌倉の大仏は阿弥陀仏であって(与謝野晶子が歌ったように、釈迦牟尼ではない)、鶴岡八幡宮と対になって幕府を守っていると見るべきである。〕 

 鎌倉将軍の「御後見」
 宇佐・石清水・鶴岡に限らず全国の八幡宮では(八幡神に加えて)神功皇后とともに武内宿禰を祀っているところが数多い。これは神功皇后が応神の母であり、武内宿禰が応神に仕えたというだけでなく、2人が応神の治世と深くかかわるエピソードをもつ日本神話上の偉人だからである。それどころか、政子は神功皇后の「再生」、義時は武内宿禰の「再誕」とされたのである。
 『愚管抄』には武内宿禰を応神天皇の「貢献」と記している個所があり、義時をその武内宿禰の「再誕」とすることは、得宗の専制政治を支える思想的な背景をなし得た。『吾妻鏡』では執権・連署を「御後見」、得宗を「正統(しょうとう)」と記した箇所があり、執権・連署は鎌倉将軍の「御後見」、得宗はその「正統」と考られていたことが分かる。これは王朝政治における摂関の役割に相当するものである。
 北条氏得宗の鎌倉幕府支配の正統性は、得宗が義時以来の鎌倉将軍の「御後見」であることにあるのであり、このような得宗の政治的・思想的な立場からすれば、得宗自身が将軍になるなどという発想が生まれるはずはなかった。得宗は将軍になりたくもなければ、なる必要もなかったのである。

 北条氏はなぜ、将軍を自分の意のままに操る権力者となりながら、自分自身が将軍になることはなかったのかというこの書物のはじめに掲げられた問いはここで答えを得た。この書物は、そのような独裁的な権力を得た時宗とその後継者たちの政治の行く末を更にたどることになるが、それはまた次回以降に。 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(15)

4月9日(木)晴れたり曇ったり

 承平5年(935)に始まり、天慶3年(940)に終息した平将門の乱は、東国で起きた反乱、あるいは武士の発生を示す反乱というだけでは片づけられない意味をもった出来事であった。この書物は、反乱の歴史的な意義を、将門の「新皇」即位における八幡神と菅原道真の霊の登場、反乱に対処して朝廷の側が王土王民思想を持ち出したこと、乱後に関係者をめぐって伝えられた冥界譚、蘇生譚などを手掛かりとして考えていくものである。
 これらの冥界譚、蘇生譚の一つである『僧妙達蘇生注記』では当時の権力者や宗教界の大物が来世で悪報を受けているのに対し、将門は天王に生まれ変わっているとされ、『道賢上人冥途記』では醍醐帝が地獄で苦しんでいる様子を描いており、作者の批判精神の表れであると推測される。

「冥界消息」と蘇生譚の世界(続き)
 「冥界消息」中の識語と構成
  「天慶3年6月中記文」について
 『将門記』の終りの方には、乱の平定後、冥界に堕ちた将門の霊から「中有の使」の手によって「田舎人」に伝えられた手紙とされるものが付け加えられている。その中に「天慶3年(940)6月中記文」という識語が記されていることがこれまでもさまざまに議論されてきた。著者は、『将門記』の最後に記された将門の評価と、「冥界消息」の内容がそうとう隔たっていることから、この消息は死後の将門を救済するために付け加えられたものではないかと考えている。

 「中有」とは死者の霊が死後、49日間さまよっている場所であり、将門は、死後地獄へ行くのか極楽へ行くのか、それとも蘇生するのか決まっていない状態で消息を出していることになる。「識語」の「六月中記文」を「六月十五日に文を記す」と読むと、6月15日の49日前は4月25日となり、天慶3年4月25日は、将門の首が京都に届いた日であることに気づかされる。

  起点としての「四月廿五日」
  「中有」に意味を認めるとすれば、将門が敗死したとされる同年2月14日を起点とすべきではないかという議論もあるだろうが、この2月14日という日付が出てくるのは、後世の編纂物である『扶桑略記』、『日本紀略』においてであって、将門と同時代の記録である『貞信公記抄』(一時、将門の主人でもあった関白太政大臣藤原忠平の日記で、その長男である実頼の抄出し抄本によって今日に伝わっている)には、確実な死亡日は記されていない。その代わり、首の上洛については4月25日のことと記されている。大分後の時代に成立した歴史書であるが、朝廷の外記(文書の作成や記録を職務とした官人)の記録をもとに編纂された『本朝世紀』も同様に、死亡日は記さず、首が4月25日に上洛したことだけを記している。
 もちろん『将門記』にもこれらのことは記されていて、2月14日に平貞盛と最後の合戦があったと述べられているが、それが彼の死亡日であるかどうかは判然としない。ここでもやはり4月25日に彼の首が都に届いたことに関心が向けられている。
 このようなことから、はっきりとした日にちが分かっており、しかも当時の人々にとって印象の強い4月25日が49日の基準として選ばれたこと、また「六月中」が「冥界消息」が書かれた日付を示していることが推測できる。

  「或本に云く」以下について
  「或本に云く」の範囲
  「或本に云く」の後半部の評価
  「冥界消息」「或本に云く」以下の成立時期
 『将門記』に付け加えられた「消息」とその最後に記された識語=年紀は、そのあとに続く「或本に云く」と連続しているとは考えられない。「或本に云く」以下の部分は解釈が難しいが、武力による戦の愚かしさを説き、将門の行動から引き出せる訓戒・教訓を述べたものではないかと思われる。
 「冥界消息」は『将門記』本文が書かれた後の、10世紀末から11世紀前半、「或本に云く」は日本で末法に入るといわれていた永承7年(1052)ごろに書き足されたものと著者は考えている。

 将門の子孫の冥界譚と伝説
  娘如蔵の冥界譚
 将門の「冥界消息」を問題にする場合、将門の子孫にも冥界に堕ちた伝説を持つものが多いことに目を向ける必要があることをすでに指摘したが、その中でもとくに有名なのが、『今昔物語集』、『元亨釈書』などに取り上げられた将門の娘如蔵の説話である。
 将門の三女である如蔵は将門が誅伐されたため、奥州に逃れ慧日寺(恵日寺)の傍らに廬を結んで住んでいたが、突然病気となり、気を失って炎宮=地獄に堕ちた。
 すると地獄で、地蔵菩薩があらわれ、閻魔王に向かって、彼女が生前真面目な生活を送っていたことを述べて現世に送り返すべきだと主張したので、生き返ることができた。生き返った彼女はいっそう地蔵菩薩への帰依を深め、人々から「地蔵尼」と呼ばれ、80余歳の長寿を保って静かに入滅したという。
 『今昔物語集』では彼女の父親は平ノ将行となっていて、これが平将門の誤記であることも考えられるが、将門伝説との結びつきが薄れて、ただの地蔵信仰説話になってしまっているともいえる。

  如蔵冥界譚の役割
 梶原正昭・矢代和夫(1975)『将門伝説』では、罪がないのに地獄へ堕ちた如蔵が地蔵菩薩によって救われるという説話の展開が、じつは父親の罪を背負って地獄に落とされた娘の救済を通じて、地獄堕ちの原因をつくった父親である将門の救済も示しているのではないかと論じる。将門の乱後、彼の兄弟妻子のほとんどが誅殺されてしまった(歴史的な事実である)ことから、将門の救済を引き受ける人物がいないので、如蔵尼という人物が作り出されたものだと考えられるという。ここでは将門の罪業の深さと、にもかかわらずその救済を求める〔何者かの〕感情が働きかけていると考えるべきである。

  将門の子 壬生良門の伝説
 如蔵尼に関わる説話で注目されるのは、この説話が会津の慧日寺(恵日寺)に関わるものだということである。慧日寺は、平安時代のはじめに、最澄との論争で名高い法相宗の僧・徳一によって開かれた寺で、そのご隆盛を誇ったが、時代の流れの中で衰微し、明治の廃仏毀釈によっていったん廃寺となったが、多くの人々の復興運動が実を結んで1904(明治37)年に恵日寺として復興した。〔ここでは説話が陸奥の国(特に徳一を開山とする会津の恵日寺)と関連付けられているところが気になるのである。〕

 壬生良門であるが、彼は将門の子の良門に子どもがいて、蔵念という僧侶となり、陸奥の国の国府の小松寺という寺院に住していたという説話が、やはり『今昔物語集』と『元享釈書』、さらに『法華験記』などに収録されている。すでにこの書物で取り上げた『蘇生注記』の中に良門が登場し、陸奥の国の大目(さかん=四等官)であった時に、法華経1,000部の書写を行い、その功徳によって末には仏になるに違いないと記されている。〔法華経を書写したのは、自分自身のためだけではなく、父親の罪業を償うためであったことが暗示されている。〕

  将門子孫の伝説と陸奥国
 良門が法華経を書写したといわれる陸奥国国分寺は現在の仙台市若林区木下の護国山医王院国分寺に比定されており、寺院跡は国の史跡に、現存の薬師堂は重要文化財に指定されている。また小松寺は宮城県大崎市田尻町北小松の小松観音堂に比定されている。この寺に住していた玄海という僧が、昼は法華経を読み、夜は大仏頂真言を誦していたために蘇生できたという説話が『日本往生極楽記』、『法華験記』、『今昔物語集』に収められているので、平安時代の前期から中期にかけて陸奥の国では有名な寺であったようである。このように将門の子孫に関わる説話が、東北地方のその当時は有力であった寺院と関連して形成されていたことは興味深い。
 このように将門の乱が終わったから時間が経たないうちに、東北地方に将門の伝説が広がっていったことが、この後、東国において将門をめぐる様々な伝説が形成されていったことの一つの要因ではないかと思われる。

 将門の「冥界消息」と将門の乱
  将門の「冥界消息」の特徴
 将門の「冥界消息」の特徴は、それまでの蘇生記とちがって、本人が生き返って冥途の話をしないところにある。つまり、それほど本人の罪業が大きかったということである。だから第三者に手紙を託して、兄弟・妻子に自分の罪業を償うべく功徳を積むことを養成するという形をとることになった。〔そのような伝説・説話が形成される背景として、内心では将門の乱に対し同情・共感を持っていた同時代、あるいは後世の人々の心情を認めることができる。〕

  冥界譚・蘇生譚の特徴
 この時代の冥界譚・蘇生譚にはそれまでの説話に見られなかった社会や権力者に対する批判精神がみられる。これは将門の乱を契機に、あるいはそれと関連して登場した新しい政治・宗教思想と呼応するものであったと考えられる。

 『将門記』の成立時期
 『将門記』は乱の直後に書かれたという体裁をとっているが、実際の成立はもっと遅く(『原将門記』のようなものが存在したかもしれないが)、10世紀後半中ごろ位に成立したのではないかと著者は論じている。

 次回は「新皇将門の国家構想――エピローグ」を取り上げることになる。昨年来、ずっと取り組んできたこの書物の紹介も、どうやらあと1回で終わりそうである。内容の紹介とそれについての意見のほかに、紙面が許せば、私なりの武士政権論についても論じるつもりである。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(17)

4月8日(水/花まつり))晴れ

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は当時彼が在職していた大阪市立大学の学術調査隊を率いて、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査を行った。調査の後半、1958年2月から梅棹は、隊員の吉川公雄(医師で昆虫学者)とともにカンボジア、(南)ベトナム(当時)、ラオスの3カ国の自動車旅行を行った。この旅行には当時外務省の留学生で、後に東南アジア研究家として活躍する石井米雄(1928‐2010)が同行した。『東南アジア紀行』の下巻は、主としてこの3カ国歴訪について記している。
 一行は2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入国、内陸部のバッタンバン、首都プノムペン、海岸部のカムポットなどの都市や、トン・レ・サップ湖の水上部落などを訪問、21日に(南)ベトナムに入国し、その日のうちにサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。
 サイゴンを含むコーチシナ地方では、民族宗教であるカオダイ教の本部を訪問したり、コーチシナにおける華僑の足跡などを調査した。サイゴン大学の協力を得て、ビザの延長に成功し、また通訳としてサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックの参加を得て、一行は北方に向かう。むかし栄えたチャム(パ)王国の遺跡を探訪し、チャム族とベトナム族の抗争の歴史をたどる。その一方で、他の東南アジア諸国とちがって、ベトナムでは経済の主導権を華僑ではなくベトナム人が握っていること、戦争の傷跡がこの国になお強く残っていることなどを観察する。

【補足】一行が、前年にアンコール・ワットを訪問した際に、ウィーン大学のハイネ=ゲルデルン博士の一行と遭遇したことについてはすでに触れたが、ウィーン大学は日本における民族学の先駆者である岡正雄(1898‐1982)や石田英一郎(1903‐68)が学んだ大学であり、ハイネ=ゲルデルンはその時のスタッフの1人であった。梅棹は1944年から1945年にかけて中国・張家口の蒙古善隣協会西北研究所に勤務していたが、この研究所の次長が石田であった。
 一行のカンボジア滞在中、カムポットの近くのコンポン・ソムにシハヌーク(シアヌーク)港の建設作業が進んでいるということが触れられていたが、4月3日の『朝日』に「カンボジア 消えた『黄金の街』」という記事が出ていた。コンポン・ソムはシアヌークビルと改名してカジノ、特に「オンラインカジノ」でにぎわっていたのが、規制が強化されたため、衰退しているという内容である。

第16章 大官道路(続き)
 ホイアンの迎賓館
 一行はミ・ソンにあるチャムの遺跡を訪問しようとするが、道がよくわからず断念する。そして7時ごろホイ・アン(會安)に到着し、ここで一泊することにする。ディックの提案で警察署に行くと、署長は市の迎賓館を開けてくれた。
 「しかし、まさか迎賓館に泊めてくれるとは思わなかった。きのうは郡役所にとまり、きょうは市の迎賓館にとまる。まったく奇妙な旅行である。ベトナムは、対日感情がひどく悪いなどというが、とんでもない話だ。みんな好意にあふれている」(150ページ)。

 翌日、警察署長のところにお礼に行った。彼はクアラルンプールの警察学校の出身者だといい、一行の市内見物のために2人の部下を案内としてつけてくれた。
 「ホイ・アンは、静かな、古典的な味わいをもった町だった。通りはせまく、家々は古めかしかったが、ここには、いままで見たベトナムのどの町よりも好ましい落ち着きと美しさがあった。その美しさは、たしかにあたらしい色彩ゆたかな美しさではない。いわば、静かに暮れてゆくたそがれの美しさである。それは、近代以前の美しさである。わたしはしかし、ここに来てはじめて、本来のベトナムの都市を見たと思った」(150ページ)。〔1999年に「ホイアンの古い町並み」はユネスコの世界遺産に登録された。〕

 御朱印船の港
 ホイ・アンは、外国ではファイフォとして知られている。現在は小さな港町に過ぎないが、昔は盛んな貿易港であった。また、もう少し北に、ダ・ナンという港があり、これも外国ではむしろツーランという名で通っている。ここもやはり昔の貿易港であった。ホイアンとダ・ナンは16世紀末から17世紀前半にかけて、日本の対安南貿易の主要な目的港であった。日本の商人たちは、ここに上陸して、日本人町をつくった。
 この時代のベトナムは北部にチン(鄭)氏、中部にグェン(阮)氏が勢力を張り、南北朝対立の時代であった。日本の商人たちは、彼ら(もっぱら鄭氏を相手にしていたという説もある)に武器を売る「死の商人」であった。

 梅棹は、次のような感慨にふける。当時の安南貿易の中心だったのは、京都の角倉家と茶屋家である。「海外貿易によって蓄積されたかれらの富が、寛永以降の京都のブルジョワ文化の発展の基礎になったとすれば、その余波は、20世紀の京都文化の中で育ったわたしのところまで、確実に及んでいるのである」(151‐152ページ)と梅棹は記す。〔梅棹は京都西陣の履物屋の子として生まれ・育ち、みずから町衆をもって任じていたが、先祖は琵琶湖の北の湖畔にある菅浦村の住人で、天保年間に京都に移ってきたのだということで、近江の人だという人もいる。(ちなみに、私も滋賀県の生まれである。) 梅棹がここで感想として述べていることは、経済史的な観点からすると問題があるかも知れない。〕

 弥次郎兵衛と潘二郎
 日本が鎖国したため、ホイ・アンの日本人町は消滅した〔梅棹は書いていないが、中国人街は残っている〕。しかし、タイのアユタヤの場合とは違って、日本人が残した遺跡はすこしは残っている。例えば市のまんなかに「日本橋」という橋が残っている。また「日本寺」というのが残っていて、いまは学校になっているが、梅棹はどうもこれは日本のものではないのではないかと思う。また日本人の覇かというのも残っていて、一方は「日本平戸、弥次郎兵衛谷公之墓」、もう一つは「潘二郎字日純信神墓」と刻まれていた。後者については、黒板勝美(1874‐1946、日本史学者)が1928(昭和3)年にインドシナ在留邦人の援助を得て修築したとの碑文が添えられていた。

 雲の峠
 ホイ・アンでもっとゆっくりしていけと言われたが、ビザの期限切れが迫っているので先を急ぐ。
 ダ・ナンには昼過ぎに到着した。ディックの知り合いが空港の管制課長をしているというので訪問する。彼はチャムの彫刻専門の博物館に案内してくれた。「チャㇺの彫刻は、クメールのものと、やや似た点もあるが、もっと力強く、そしてどこかとぼけたユーモアがあって、たいへんよい」(152ページ)と梅棹は感想を記している。

 ダ・ナンからいよいよ、旧アンナン帝国の首都であったフエ(化)に向かう。ダ・ナンの北では山が海岸に迫っていて、道は険しい峠越えになっている。雲嶺(コル・デ・ニュアージュ)は大官道路(マンダリン・ロード)における最大の難所であった。今では立派な舗装がされているが、危険防止のため時間決めで一方通行になっている。「道は、大きなジグザグをくりかえして、急斜面をのぼった。たちまち、はるか下になぎさの線が見えた。海が銀色に光った。「雲の峠」とはうまい名である。わたしたちは、ほんとに雲の中に突入していくようだった。峠の上は、霧とともに、強い北風がふいていた。ひどく寒かった。ここでまた、一方交通の待ち合わせをした」(152‐153ページ)。
 その間、日本に行ったことがあるというベトナム陸軍の大尉が話しかけてきた。彼の案内でフエの唯一のホテルであるグランド・ホテルに7時15分ごろたどり着く。ディックは知り合いの家に泊まることになった。

 フエでアンナン帝国の宮城や皇帝たちの陵墓を見て、いよいよ一行はラオスへと国境を越えることになる。その展開についてはまた次回に。梅棹の先祖が滋賀県の湖北地方の出身であると書いたが、彼は自分の姓に「棹」の字が含まれていることから、先祖は琵琶湖水軍の一員であったのではないかと想像したりしていたそうである。水上勉の小説『湖笛』は戦国末から関ケ原の戦いまでを生き延びて大名となった京極高次を主人公としているが、そのなかに琵琶湖水軍の話が出てきたような記憶がある。
 
 

日記抄(4月1日~7日)

4月7日(火)晴れのち曇り

 4月1日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

4月1日
 エイプリルフール サザエとカツオ 思いだし
 『サザエさん』の中には長谷川町子の家庭での日常を反映したと思われる部分があって、例えば、サザエさんとカツオ君がお互いに騙し合いの真剣勝負を続ける。その描写には、たぶん、作者は実際に家でこんなことをしてたんだろうなぁと思う時があった。実在の長谷川家の三人姉妹が『サザエさん』一家の姉、弟、妹になっているという風に現実そのままではないけれども、現実が踏まえられているところに面白さの原因があったのではないかと思うのである。

4月2日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編は清岡智比古さん、フロランス・メルメ・オガワさんを講師とする「フランスで『世界』と出会う~France : carrefour du monde 」で2019年の10月から今年の3月まで放送された番組の再放送である。清岡さんの『エキゾチック・パリ案内』(平凡社新書)の書評を当ブログの2012年12月14日の項に書いて、清岡さんご本人からコメントを頂いたことがある。
 『まいにちスペイン語』応用編は福嶌教隆さんを講師、長谷川ニナさんをパートナーとする「”もっとニッポン!” ¡ Japón por dentro ! 」でこちらは2018年10月から2019年3月まで放送されたものの再放送である。
 『まいにちイタリア語』応用編は石川若枝さん、カルラ・フォルミサーノさんを講師とする「イタリアで劇場に行こう?Andiamo a teatro in Italia!」で2018年10月から12月まで放送された内容の再放送である(ということは、この放送は6月までで7月から新しい放送になるということである)。
 スペイン語は応用編がちょうどよく、フランス語はついていくのが少し難しいかな、イタリア語はかなり難しいというのが現状で、これが6月・7月あるいは9月・10月にはどうなっているかというのは今後の努力にかかっていると思われる。

 同じく『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』は今年は「世界の国からこんにちは(Hello from around the world)」で、すでに聞いた記憶がある(再放送らしい)。今回はラオスで、ラオスにもタイと同じように「水祭り」があるということを知った。ラオスはもともと、タイの一部だったので、当然と言えば当然の話である。

4月3日
 『NHK高校講座 倫理』は日本における「仏教の受容と発展」で、①仏教の受容と聖徳太子、②平安仏教 最澄と空海、③日本的仏教の誕生 鎌倉仏教という内容であったが、あまりにも急ぎすぎではないかという印象をうけた。奈良時代における仏教と大仏造立とか、平安時代における浄土思想の浸透というような事柄についてももっと時間を割いて論じるべきではないかと思う。

4月4日
 『朝日』の「オピニオン&フォーラム」欄の「耕論:『国語を学ぶ』とは」は、問題提起が大きすぎて、「書くためには『読む』習慣」とい渡邊駿さん、「意見 論理的に伝える力を」という根本彰さん、「『日本語』として客観的に」というロバート・キャンベルさん3人の意見が全くかみ合っていない。3人ともそれぞれ重要なことを言っているだけに、国語教育はなにを目指詩、どうあるべきかについてもっと論点を明確にして議論を組織すべきではなかったかと思う。

 前衛美術家の秋山祐徳太子さんが3日に亡くなられたことが報じられた。『映画評論』の佐藤重臣が誌上でよく話題に取り上げていたことで他人という感じがしない(などと書いているが、重臣とは一度しかあったことがないのである)。ただ、美術家としての作品に接する機会がなかったことが残念である。

 『NHKポルトガル語講座』の第1回を聴く。ポルトガル語はローマ字で書かれた通りには発音しないところがあって、そこがかえって面白く感じられる。今後、どのような場面に出会うのかが楽しみである。

 NHKラジオ『朗読の時間』で夏目漱石の『三四郎』の朗読が始まった。この小説は1908(明治41)年9月1日から12月29日まで『朝日新聞』に連載されたもので、熊本の(旧制)第五高等学校を出て東大に入った小川三四郎という青年の経験を描いている。森鷗外の『青年』が、この作品に対抗して執筆されたことはよく知られているが、小説としての完成度において比較にならないほど『三四郎』の方が優れている。結局『青年』は未完に終わっている。ただ両作品とも、『三四郎』の野々宮宗八のモデルが寺田寅彦だとか、里見美禰子のモデルが平塚らいてふだとか、『青年』の大村荘之助のモデルが木下杢太郎だとかいう登場人物のモデル問題を含めて文化史的な価値は大きいところは共通している)。『青年』の平田拊石が夏目漱石をモデルにしているというのを嫌味だと思うか、鷗外の漱石に対する敬意の表明だと思うのかは、読者の自由である。〔漱石というのは漱石枕流という成語から出た号で、負け惜しみのこじつけのひどいことをいう(晋の孫楚という人が、本来「枕石漱流」というべきところを間違えて、「漱石枕流」と言ったのを言いとがめられて、漱石は歯を磨くこと、枕流は耳を洗うことだといったという故事から出た)。「拊」は軽くたたくとか、なでるとかいう意味なので、「拊石」は石を愛玩するという意味になるはずである〕。
 
4月5日
 『朝日』朝刊で橋場弦東大大学院教授が、古代五輪について語っている。ほとんど神話的な第1回のオリンピックは紀元前776年におこなわれ、第293回(紀元393年)まで続いたという。そのうち、第211回(紀元65年)は、当時ギリシアを支配していたローマ帝国の皇帝ネロが、自分が出場したいものだから、開始年度を遅らせて実施したという。実施年度が動かされたのはこの1回きりらしい。このブログで取り上げているルーカーヌスの『内乱――パルサリア――』でも、ネロが自分に都合の悪い託宣が下るのを恐れて、神託をうかがうのを禁止したという話を紹介したばかりである。

 NHKラジオ『私の日本語辞典』では日本語教育に携わってきた高島幸太さんが「外国人と話す『とっさ』の日本語」という興味深い話題で話している。外国人が日本語で話しかけてきたときは、相手が日本語で話したがっているという気持ちを汲んで、日本語で対応したほうがよく、その際、できるだけ短文で答えるようにした方がいいという。これは『英会話タイムトライアル』でスティーヴ・ソレーシーさんができるだけ2文以上話すようにした方がいいと言っているのを裏側から補強する意見だと思った。こちらが(英語など母語以外の言語の)学習者の場合は、2文以上話せるように努力すべきだが、相手が(こちらの母語の)学習初心者の場合はその学習程度に合わせて短文を使用するようにした方がいいということである。

4月6日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』入門編「マナと暮らすカンパーニュ Vivons le français !」はマナという日本女性がフランス南東部ローヌ=アルプ地方、オート≂サヴォア県の小さな民宿で暮らすことになるという話。講師は大塚陽子さん、パートナーはトリスタン・ブリュネさん。
 『まいにちスペイン語』入門編は「エミの小さな旅 Encuentros con la España antigua」で日本人学生エミがスペインの名所を訪れ、そこで歴史上の有名な人物と架空の出会いを繰り広げながら旅を続けるというストーリーで、4月はマドリードのプラド美術館を訪問している。案内をするのがディエゴ(・ベラスケス)で、7日の放送では彼の名作「ラス・メニーナス」に描かれた人物たちと出会っている。講師は齋藤華子さん、パートナーはフアン・カルロス・モヤノさんで、モヤノさんの自己紹介:“Soy español, de la Mancha"(ぼくはスペイン人で、ラ・マンチャ出身です)というのが耳に残る。ラ・マンチャと言えばドン・キホーテである。
 『まいにちイタリア語』入門編は「ゆっくりじっくりイタリア語 Benvenuti in Giappone!」と題し、来日したイタリア人のカルラを、イタリア留学経験のある女性会社員・美紀と留学希望の大学生健太が迎え入れるという話である(フランス語、スペイン語とは逆の展開である)。4回目の放送で、まだ健太は登場していない。講師は高田和文さん、パートナーはコスタンツァ・ルーフォさんとリヴィオ・トゥッチさんである。

 雑誌『東京人』5月号が長谷川町子特集を企画しているので、買って読んでみた。いろいろな角度から『サザエさん』の魅力をとらえていて、見逃せない特集であると思う。私の好きな漫画家というと、杉浦茂と赤塚不二夫ということになるが、杉浦は田河水泡の一番弟子で長谷川町子は三番弟子、長谷川町子は赤塚不二夫の才能を高く評価していたということで、やはり私としても長谷川町子のことを高く評価せざるを得ないのである。
 
 実は、同じ号に芳賀徹先生の追悼記事が載っていたというのもこの号を買う後押しになったのである。芳賀先生は東大で教えられていたのだが、1度だけ(ではなかったかもしれないが)、京大で集中講義をされたことがあり、その際に、講莚に連なっていた1人が私である。先生の講義はその時点では好評で延長して大学近くの進々堂で話し合いの会を持ったほどだったが、その後、先生が講義にいらっしゃらなかったところから推測して、京都大学はどうもろくなところではないという結論を下されたのかもしれないと今にして思う。先生がドナルド・キーンと白山近辺の飲み屋を歩き回っていたと書かれている文章を拝読して、しまった、一度くらい末席をけがしてもよかったかもしれないなどと、勝手なことを考えているのである。
 芳賀先生はドイツ文学者であった芳賀檀(1903‐1991)の子息だと間違えられることが多かった(実は私もそう思っていた)が、まったく無関係だそうである。この種の誤解はよくあるので、噂を単純に信じずに、裏をとることをしないといけないと改めて思っているところである。

 家に帰って、食事を済ませて、パソコンに向かったとたんに寝てしまい、皆様のブログを訪問できなかった。どうもすみません。

4月7日
 『朝日』朝刊に中学校の新しい英語教科書がこれまでよりも難しくなったという記事が出ていた。難しくなった教科書を使って先生方が教室でどのように授業を行うかというのが今後の問題となるだろう。
 今回の学習指導要領改訂→新教科書をめぐって、この動きに批判的な大津由紀夫さんの「格差広げかねない」という意見と、推進する側の松元茂さんの「英語『使えるように』」という2つの意見が掲載されていた。問題は、英語を使いこなすといっても、国際機関で同時通訳をするというようなレベルから、店に買い物をしに来た人に対応するというようなレベルまでかなりの幅があるということである。「格差」と「使える」はこの幅をどのように認識して対処するかにかかっている。

 『遠山顕の英会話楽習』の中で登場人物が交わした会話の一部:
I don't want to do my taxes! (納税手続き、やりたくない!)
That makes two of us. (こちらも同じ。)
 3月16日だった確定申告の期限が1か月延び、さらに、もっと遅れて申告してもいいことになった。とはいうものの、いつまでも引きずってはいけないから、そろそろ申告に出かけようと思う。ただ、足腰が痛んで、税務署まで歩いていけるかどうかが問題なのである。
 番組の最後の”IN Another Situation!"のコーナーで、本日の対話を”I've Been Working on the Railroad."(線路を続くよどこまでも)の旋律に合わせて歌った。この歌は、いろいろな映画の中で使われているが、一番印象に残るのはエリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェイムズ・ディーンの『ジャイアンツ』であろうか。

 本日は、この原稿を書くのに時間がかかり、皆様のブログを訪問する時間的余裕がなくなりました。2日間連続となりますが、あしからずご了承ください。

『太平記』(309)

4月6日(月)晴れ

 貞和6年(南朝正平5年、西暦1350年)2月、改元して観応(かんのう)となった。足利直義の失脚後、直義の嫡男義詮が鎌倉から上洛して政務をとることになったが、これは高師直・師泰兄弟の仕向けたことであった。前年の9月に備後から九州に落ちた直義方の直冬(尊氏の庶子で、直義の養子。義詮の異母兄である)は、肥後の川尻幸俊の加勢を受け、また筑前の少弐頼尚の婿に迎えられ(史実かどうか不詳)、天下は、宮方、将軍方、西国の直冬方という三分の形勢となった。石見では、直冬に呼応して三角兼連が挙兵した。高師泰が石見に下り、三角方の佐波善四郎の籠もる鼓崎城を落した。

 前回述べたように、中国地方の情勢はおおよそのところ(将軍方有利に)安定したが、九州でまた幕府に反旗を翻す動きが起きた。このため、9月29日に肥後の国から都に早馬を立てての報告があった。その言うところでは、足利直冬が、昨年の9月13日に庇護の国に落ち延びて来て、川尻幸俊の館に滞在していたのだが、肥後の国詫間郡の武士である宅間宗直(大友一族)が川尻に同心して加勢し、国中の武士たちを動員しようとしたために、将軍方に志を寄せる武士たちもいたのだが、詫間の催促の仕方が厳しいのでやむを得ず従い、肥後の国の武士たちの大半が宮方となった。こうして大軍を集めた川尻たちは、豊前宇都宮氏の宇都宮三河守の城を囲み、一日一夜の合戦でこれを破った。敗れた宇都宮三河守は、生死も所在もわからないという有様である。
 宅間、川尻の軍勢はますます強大になり、鹿子木大炊助(かのこぎおおいのすけ、現在の熊本市北区鹿子木町に住んだ武士。大友一族)の城を取り巻いた。少弐の代官である宗刑部丞利重が後攻め(城攻めの敵を背後から攻めること)のための武士を集めようとしたのだが、九国二島(九州と壱岐・対馬)の武士たちは、大半が直冬方に心を寄せていて、催促に従うものが多くはない。事態は極めて難しいことになっている。急いで援軍を派遣してほしい。
 前の方で直冬は少弐頼尚の婿になったと書いていたのに、ここでは少弐が九州における将軍方の中心になっている。宗利重という武士については詳しいことはわからないが、惟宗氏の一族で惟をとって宗を称した流れの一人であろう。宗氏はこの後、対馬を本拠として活躍することになる。なお、南九州の島津氏も惟宗氏の末裔であるといわれる。

 この知らせを受けて驚いた将軍・尊氏は高師直に誰を派遣して討伐にあたらせるべきかと相談した。すると師直は、遠国で起きた反乱を討伐するというだけのことであれば、足利一族の誰か、あるいはこの師直を派遣すべきであろうが、今回の事態には、将軍・尊氏自らが出陣するよりほかないという。その理由は、九州の武士たちが直冬に付き従っているのは彼が尊氏の子息だからである。直冬と尊氏は親子だから、表面的に反目していても、内々のところでは通じ合っているのかと考えるのは普通のことである。そこで、尊氏が直冬の討伐の大将として遠征すれば、武士たちも父親と子どもが対立しており、子どもが父親の命令に背いているのだということが分かり、直冬への加勢をやめるだろうというのである。
 これはもっともな主張だと尊氏も認めて、都の防御のために宰相中将(足利義詮)を残し、自分は師直を従え、7千余騎を率いて九州へと向かおうとしたのである。
 前回、書き落としたのだがこの時点で義詮は宰相(参議)中将であった。普通、宰相というとドイツのビスマルク(鉄血宰相)、イタリアのカヴール(憂国宰相)、あるいはわが国の原敬(平民宰相)などのように、首相のことをいうが、王朝貴族の官職を中国風に呼ぶ際には公卿の最下位である参議がこのように呼ばれる。参議の上が中納言、その上が大納言、大納言の中でも大将を兼ねる者が上位に位置し、その上が内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣ということになる。中将は左右2人いるが、そのうちの1人が蔵人どころの頭(とう)を兼ねることが多かった。これを頭中将といい、公卿に直近の地位である。ところが義詮は公卿であり、かつ中将ということで、このあたりしだいに制度が変化していることが分かる。なお、本文を読めばわかるが、この時点で尊氏は朝廷の官職としては大納言である。

 尊氏が明日は西国に出発するだろうと噂されているその夜、尊氏の弟で失脚して錦小路堀川に蟄居していた直義が足利一族の石塔頼房ただ一人を供として、姿をくらました。これを聞いて、世の中の安危を懸念する人は、それ、天下が乱れることになりそうだ。(直義と反目してきた)高家の人々が近いうちに滅びるに違いないなどと囁き合い、詳しい事情を知らない人々や、女性などは、どうもあさましいことだ、音ももつれず、乗馬も厩につながれたままである。徒歩でどこまで行くことができるのだろうか。真相は、師直のはかりごとで今晩こっそり殺害されたということではないだろうかなどと嘆き悲しんでいた。

 足利一族の中でも高師直・師泰兄弟に近い仁木・細川の人々は直義出奔の報せを聞いて師直の邸に急いで駆け付け、直義さまが姿をくらましたとのこと、後の禍いとなるような気がしてならない。師直殿はしばらく都に留まられて、(直義の)居場所を十分に時間をかけて探してみてはどうかというと、師直はそれは大げさだと申し出を却下した。直義が吉野、十津川(奈良県吉野郡十津川村)の奥、鬼界島(現在の鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島)、高麗の方に逃げたとしても、師直がここにいるかぎり、だれがその味方をするだろうか。3日も経たないうちに首を河原にさらされるか、名もない兵士の手にかかって命を落とすかの運命をたどるだろう。そのうえ、将軍が出発されることはすでに周知の事実である。ここで予定を変更しては煩わしいことが多くなるだけである。すぐに出発すべきであるという。〔師直が実際にそんなことを言ったのかどうかは明らかではないが、自信過剰気味の発言である。〕

 こうして師直は将軍を奉じて予定通り10月13日に京都を進発し、途中で兵を集めながら、11月19日に備前の福岡(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に到着した。ここで四国、中国の武士たちが参集するのを待っていたが、(陰暦の11月は真冬なので)海は荒れて船も進まず、山陰道は積雪に見舞われ、馬を進ませることが困難になり、思うように軍勢が集まらなかった。こうなったら年が改まるのを待って、九州にむかおうと将軍は備前の福岡でいたずらに時間を過ごすのであった。

 10月13日に京都を出発して、11月19日に備前の福岡というのは途中で兵を集めるといっても、時間をかけすぎている。しかも季節は真冬になっている。戦上手の師直にしては、納得のいかない行動が目につく。その一方で都を離れて行方をくらました直義はどうしたのか、というのはまた次回。いよいよ観応の擾乱と呼ばれる足利幕府の内紛が本格化してゆく。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(38)

4月5日(日)曇り、夕方になって晴れ間が広がる。
 
 叔父であるガードナー氏、信頼できる話し相手であるその妻ガードナー夫人とともに夏の旅行に出かけたエリザベスは、ダービーシャーのペムバリーにあるダーシーの邸宅を見学することになった。ダーシーの求婚を断ったことがあるエリザベスにとって気の進むことではなかったが、彼の不在を確認できたので同行することにしたのである。
 邸内を見学した彼女は、この邸の当主の趣味の良さを実感し、彼の人間性に対する認識を改める。邸外に出て、庭園を見ようとしたときに、彼女は用事があって早めに帰館したダーシーと鉢合わせをする。当惑を隠せない2人であったが、気を取り直して彼女に話しかけた彼の鄭重な態度は彼の中で何かが変化していることを示すものであった。翌日、彼はペムバリーに到着したばかりの妹ジョージアナとともに、エリザベスを訪問する。遅れてエリザベスの姉ジェインが思いを寄せていたビングリー(チャールズ)も訪問に加わり、エリザベスは姉の恋の行方に対する希望をとり戻す。ダーシーは、妹にエリザベスとその伯母をペムバリーに招待するように言う。(以上、第3巻第2章=第44章までの大ざっぱなあらすじ。今回は第3巻第3章に入る。)

 「エリザベスは今ではもう、ミス・ビングリーが自分を毛嫌いするのは嫉妬心のせいだと確信していたので、自分がペムバリーへ顔を出すことをあの人は決して歓迎してはいないはずだと思わずにはいられなかった。そこで先方がどのような顔を見せて旧交を温めようとするか、ぜひとも確かめてみたかった。」(大島訳、451ページ)
 このように第3巻第3章は書きはじめられている。大島訳は、少し生硬だと思うので、小尾訳を参照してみると:
 「ミス・ビングリーが自分を嫌うのはそもそもが嫉妬のゆえだと、今はエリザベスにもよくわかっていたので、そうなると自分がペンバリーに現われるのは、ミス・ビングリーにとってはさだめし不快であろうと察しないわけにはいかなかった。そして先方がどれだけ平静に振る舞えるのか、二人の交友関係がこの先どうなっていくのかと大いに興味をそそられた」(小尾訳、下巻、106ページ)。
 ビングリーには2人の姉妹がいて、1人(姉のルイーザ)はすでに結婚してハースト夫人となっており、もう1人がここで問題になっているミス・ビングリー(キャロライン)で、ビングリーがハートフォードシャーのネザーフィールド邸を借りていた時に、エリザベスとジェインの姉妹と交際があった。ダーシーとの結婚を夢見ているミス・ビングリーは、ダーシーがエリザベスに関心を抱いていると知って嫉妬心を抱きつづけているのである。

 邸に到着すると、エリザベスと叔母は北向きの大広間に通された。これは一家が夏を快適に過ごすために設計された部屋である。この部屋で2人はミス・ダーシーに迎えられた。この部屋には他に、ロンドンでミス・ダーシーと一緒に生活しているアンズリー夫人、それにハースト夫人とミス・ビングリーがいた。ミス・ダーシーはその内気な性格(と客を迎えることに不慣れなこと)から鄭重ではあるが戸惑った様子を見せたが、エリザベスと叔母にはその様子がむしろいじらしく感じられた。
 一同は会話の糸口がなかなかつかめなかったが、アンズリー夫人が世慣れた様子で会話を進め、やがてうちとけて話すようになった。しかし、エリザベスとミス・ビングリーの間には冷たい火花が散っていた。

 やがて召使たちが冷肉やケーキやいろいろな旬の果物(a variety of all the finest fruits in season)を運んできた。これはアンズリー夫人が幾度となくミス・ダーシーを促した結果であったが、このことで一座の雰囲気が変わった(話すよりは、食べるほうが楽である)。「食卓の上には葡萄やネクタリンや桃がそれぞれ山のように盛られていたから、皆はすぐにそのまわりに集まった」(大島訳、453ページ)。
 さりげなく書いてあるが、この個所は邸の主人の富の豊かさを示している。沢山の果物をテーブルの上に並べることは、19世紀の初めごろのイングランドでは一部の金持ちにしかできないことであった。ペムバリーの邸には温室があって、そこで葡萄やネクタリンや桃を栽培、それを客に提供しているということである。〔イングランドは寒いので、これらの果物は温室でないと育たなかった。最近は地球温暖化の影響で、イングランドでもブドウを栽培して、ワインをつくるようになったという話である。〕

 こうして一同が口を動かしているところに、ダーシーが入ってきた。エリザベスは彼に対する気持ちを整理できない状態だったので、彼が現われた時の気持ちを判断材料にしようと思っていたのだが、彼の姿を見てうれしく思ったので、それが自分の本心だと考えた。しかし、間もなく彼が来ないほうがよかったのではないかと思った。
 ダーシーはガードナー氏と釣りをしていたが、彼から2人がこの日の午前中に訪問すると聞いて釣りを切り上げて姿を現したのである。一座の人々の視線と好奇心が、ダーシーとエリザベスの2人に向けられることになると、エリザベスは気づいたが、ここは落ちついて切り抜けようと決心した。

 人々のなかでもっとも好奇心(とそれ以外の感情、つまり嫉妬心)を募らせていたのがミス・ビングリーであった。兄があらわれたことから、ミス・ダーシーがエリザベスにできるだけ話しかけようとするようになったこと、ダーシーが2人の会話を進めようと助け船を出していたことが、ミス・ビングリーに我を忘れさせた。ミス・ビングリーは思わず、ハートフォードシャーに駐留していた義勇軍がメリトンからブライトンに移動したので、ベネット家(エリザベスの家族)の人々が痛手を受けたのではないかと嘲笑的な言葉を発する。メリトンの部隊の士官となっていたウィッカムがミス・ビングリーとあわや駆け落ちしようとしたという過去を彼女は知らなかったのである。彼女としてみれば、エリザベスを攻撃したつもりだったのだが、ダーシーとその妹に忘れたい過去を思い出させる結果となってしまった。しかし、エリザベスが冷静にふるまったおかげで、ダーシー兄妹も落ち着きを取り戻すことができた。

 エリザベスと叔母はまもなく辞去した。ダーシーが2人を馬車まで見送りに行っている間に、ミス・ビングリーはエリザベスの悪口を盛んに言いたてて憂さを晴らした。しかし、ミス・ダーシーは彼女の言うことよりも、兄の言葉を信頼していたし、その気持ちは変わらなかった。ダーシーが戻って来てからも彼女はエリザベスの悪口を言い続けた。それは必ずしも賢明な態度ではなかったのだが、彼女は嫉妬と怒りで自制心を失っていたのである。その結果として彼女は最終的に、ダーシーから自分の知っている女性の中で彼女がいちばんの美人だという彼女がもっとも聞きたくない言葉を引き出してしまった。
 一方、エリザベスと彼女の叔母は馬車の中でいろいろと訪問の感想を語り合ったが、ダーシーのことは話題にしなかった。

 エリザベスがダーシーの変化に気づいたことで物語は別の方向に向かい始めるか…と思っていると、第4章で予期しない出来事が起きて、物語は別の展開をたどることになる。どんな事件が起きるかについては次回に。
 ダーシーはペムバリーの邸(カントリー・ハウス)のほかに、ロンドンに社交シーズン用に住まい(タウン・ハウス)をもっているが、ロンドンには第2巻第12章に記されているように妹のために別の住まい(establishment)を用意している。19世紀の初め(日本では江戸時代の終り頃)は、成人と見なされる年齢がかなり早かったことを考えても、その時点で15歳という妹の年齢で、(後見人がいるとはいえ)なかば独立させたのが賢明な判断であったのか、疑問に思われるところである。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(20)

4月4日(土/清明)晴れ

 エペイロス(ギリシア西部)の地に上陸したポンペイウス方の2人の執政官は、各地に将軍として散っていた元老院議員たちを招集して議会を開き(これが歴史的な事実であったかは定かではない)、ポンペイウスを将帥とする決議、参集した諸国、諸王の名誉決議などを行った。〔ローマの執政官は2人という決まりであった。非常時には独裁官が任命されることもあった。〕

 集会が終わって、元老院議員たちは彼らがもといた地方へと散っていった。
諸国民や将軍らが、事の向背も定かならず、戦の命運も
明らかならぬまま、兵戈を求めている間、ただ一人アッピウスは、
勝劣定まらぬ軍神(マルス)の与える帰趨に一身を賭するのを恐れ、神々に
事の成り行きを明かしてくれるよう責付(せっつ)き、長年閉ざされていた、
定めを告げるポイボスの、デルポイなる秘奥(ひおう)の御社(みやしろ)の扉を開けた。
(第5巻、66‐70行、229ページ)
 アッピウス・クラウディウス・プルケルはアッピア街道にその名を残した大政治家アッピウス・クラウディウス・クラッスス・カエクスの子孫で、彼の属するクラウディウス家はローマ屈指の名門に数えられていた。前50年の監察官で、前49年、カエサル進軍の後、ポンペイウスに従ってギリシアに渡り、ポンペイウスからギリシアの支配を委ねられていた。ポイボスはアポロン神の異称。デルポイはパルナソス山南麓にあったアポロンの神域(神託所)である。ソクラテスの友人がここで「ソクラテスほど賢い人間はいない」という神託を得て、その哲学的な解明をソクラテスに促した話は有名である。

 パルナソス(パルナッソス)山はアテネの西北に位置し、標高2457メートル、古代ギリシアでは様々な神の聖地とされたが、特にアポロンの聖地として知られる。ルーカーヌスも歌っているように、ギリシア神話の洪水伝説では、洪水が地上を覆ったときに、この山の山頂だけが水没を免れたという。『旧約聖書』のノアの箱舟がたどり着いたアララト山は5137メートルであるから、だいぶ違う。もともとこの地は大地の女神ガイアの託宣所があり、その女神を守っていたピュトンという龍をアポロンが倒して、この地を自分自身のものとした。その際、大地の裂け目から噴き出している噴気が神の予言を帯びていることに気づき、この地を自分の託宣所としたというのである。

 デルポイにはピュティアと呼ばれる巫女がいて、この噴気を吸うと予言を行う。その予言を行うさまは、火山が爆発をするようであるという。
もっとも、この神霊は万人に開かれ誰をも拒まず、しかもなお、
唯一、人間の狂気の穢れに染まることなく、聖性を保つ。
その謳い明かすは、何人も変え得ぬ天命の定め。何事もあれ、
祈願することを人間に許さぬのだ。
(第5巻、104‐107行、300ページ)

 かくしてデルポイの神託は古代ギリシアでもっとも権威のあるものとされたが、その託宣は時としてあいまいで、どのようにも受け取れるものであった。その一方で賄賂を使ってデルポイの神託を左右する一種の情報戦も行われたという。ギリシアの政治的・文化的な地位の低下に伴って、デルポイの権威も低下していった。さらにこの時代、予言は禁じられていたという。
王たちが未来を恐れ、神託を語るのを神々に禁じてこのかた、
神々の授けたまう賜物で、デルポイの聖地が黙(もだ)して語らぬ神託ほどに、
我らの時代が惜しみ、希(こいねが)う大きな賜物はない。
(第5巻、112‐114行、300ページ)
 実は、デルポイの神託が禁じられたのは、この時代≂共和政末期の内乱時代ではなくて、詩人がこの叙事詩を書いていた皇帝ネロの時代のことである(この個所は間接的にネロを批判したものである)という説もある。ネロが神託をうかがったところ、神は「親殺しには答えぬ」と答えた。ネロが母親を殺していたからである。この言葉に動揺したネロは、以後一切、神託をうかがうことを禁止した。これにより誰も、皇帝の運命を訊ねたり、陰謀を企てたりすることができなくするためである。これに対し、詩人は神託が語られないことを惜しんでいる(ネロの運命を知りたがっている)のである。

 しかし、噴気を吸って自分の体内に神霊を宿した巫女は、時ならぬ死を迎えることになったので、彼女たちにとってみれば、神託をうかがうことが禁じられているのはありがたいことであった。そこへ、アッピウスが現われたのである。
 託宣所の祭司は、アッピウスの命令を受けて、ペモノエという巫女を捕まえて、神託をうかがうように言う。彼女は狂気を装ってその命令を拒もうとするが、それが偽りの狂気であることは明らかであった。彼女の様子から容易にうかがうことができる彼女の恐怖が、神託が下ろうとしていることを物語っていると祭司は思った。
 彼女はなおも、躊躇し、抵抗しようとしたが、その言葉が偽りのものであることは、彼女の声調からも明らかであった。祭司に強要され、アッピウスに脅かされて巫女は鼎に近づき、「慣れぬ胸裏に神霊を迎え入れた」(第5巻、158行、235ページ)。鼎というのは三本足の容器であるが、一説には巫女は三本足の椅子の上に座って神託を述べたともいわれる。ここでは噴気を入れた容れ物のように受け取れるが、あるいは鼎の上に座るということなのかもしれない。

 アポロンの霊にとりつかれた巫女は、憑依状態になる。
己のものならぬ首をもたげ、乙女は狂気の裡に洞中を乱舞した。
神のリボンと月桂の葉冠を逆立つ髪から振り落とし、
首を左右に振りつつ、社の虚ろな空間をぐるぐる巡り、
彷徨いながら、足取り妨げる鼎を蹴散らし、ポイボスよ、怒れる
あなたに耐えつつ、激しい狂熱に駆られて、乙女は舞い狂う。
(第5巻、164‐168行、236ページ) あらゆる事柄についての予言がペモノエの胸の中に流れ込んだが、彼女が人々にすべてを語ることをアポロンは許さなかった。巫女は、膨大な予言の中からローマに関するものを選び出し、大声で叫んだ。
「汝は、ローマ人よ、これほど甚大な争いに与ることなく、
ただ一人、戦の大きな脅威を免れて、エウボイアの岸辺の
広やかな谷間(たにあい)で静寂の時を持ちつづけよう」。
(第5巻、189‐191行、237ページ)

 アッピウスはパルサリアの決戦には加わらず、前48年にギリシアのエウボイア島で没することになる。アポロンは巫女に、アッピウスの運命について語ることだけを許し、ローマ共和政の終焉、将軍たちの死、ポンペイウスの運命、ブルートゥスによるカエサルへの復讐などについては語らせなかった。そしてアッピウスの運命を語った巫女は洞窟からはじき出されるように飛び出してきた。彼女の託宣はアッピウスがまもなく死を迎えることを予言していたのだが、その表現があいまいなので、アッピウスはそのことを自覚しなかった。そしてエウボイア島に向かったのである。

 第5巻はこれまでポンペイウス側の動きを追ってきたが、この後はカエサル側の動きについて述べることになる。イベリア半島遠征に勝利したカエサルとその軍隊がどのような行動をとったかはまた次回に。

細川重男『執権』(14)

4月3日(金)晴れ

 鎌倉幕府の歴史は(主として東国の)武士たちが自らの政権を築き上げ、維持しようとした試行錯誤の、あるいは迷走と混乱の時代であり、著者によれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、そのような悪戦苦闘の中心にいた北条氏代々の得宗のうち、承久の乱に勝利した北条義時と、元寇に対処した時宗の2人の得宗(であり執権でもあった)を取り上げて、その政権と政治の本質に迫ろうとするものである。
 第1章「北条氏という家』では鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことを明らかにしている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では、時政のあとをうけて北条氏の当主・執権となった義時が、本来は家督を相続するはずのない存在であったこと、しかし頼朝の信任を得たうえに、頼朝死後の幕府の権力争いを乗り切り、最後は承久の乱に勝利して幕府の支配を固めるに至った経緯が辿られ、義時の人物像と、彼が神話的な人物である武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が生まれ、それが北条氏の鎌倉幕府支配の理論的な根拠となったことを論じている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」では時宗が異母兄である時輔や、北条氏一門の有力者である名越氏を排除して独裁的な権力を確立したことが語られている。
 第4章「辺境の独裁者」(前回まで)では北条得宗家の嫡子として周囲からの期待の中で育った時宗が、幕府における将軍の影響力を取り除き、その権力基盤を固めた時に、蒙古の国書が到来したこと、この時点で時宗が将軍権力代行者としての地位を固め、少数の側近との「寄合」によって幕府の意志を決定していたことが明らかにされている。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  対蒙古政策
 追加法に見る防衛体制の構築
 ここでは、幕府がどのように蒙古に対する防衛体制を構築したかを幕府追加法を手掛かりにして検討している。
 「鎌倉幕府追加法」とは、いわゆる「貞永式目」以後に鎌倉幕府の出した法律をいう。基本的に鎌倉幕府は追加法をつくって出したら、そのまま放置して、自分で作った法律を蓄積して法典化することをしなかった。それで訴訟の場合はそれぞれが自分に都合のいい法律を探して自己の主張を裏付けて争論し、幕府は自分で過去の法令を調査せず、双方の主張をそれぞれが提出した証拠だけに基づいて審理した。

 さて、蒙古の国書が鎌倉に届けられた翌月の文永5年(1268)2月、幕府は早くも西国の守護たちに管国御家人に対し蒙古軍襲来に対し警戒するように通達するよう命令した。翌3月に18歳の時宗が政村と交代して執権に就任した(既に述べられたことであるが、執権と連署が入れ替わったのは、この1回だけだそうである)。
 さらに文永8年9月には、鎮西(九州)に所領をもつ東国御家人に現地へ下向し、守護の指揮下で異国警護に当たるように命じた。
 二月騒動(北条一門の名越時章・教時兄弟が何者かによって討たれた事件。さらに六波羅南方探題であった時宗の異母兄・時輔が北方探題であった赤橋義時に討たれた。これらの事件の黒幕はおそらく時宗であった)直前の文永9年初頭、時宗の御代官(おそらく御内人)を現地に派遣した。この時点で幕府は蒙古軍が筑前(福岡県北西部)あるいは肥前(佐賀・長崎県)と予想し、御家人に輪番制で筑前・肥前の要害地点の防衛にあたらせる異国警固番役をすでに開始していた。
 強敵が、どこから襲来するかもわからないのに、輪番制で警固を行うというのは理に合わないけれども、当時の幕府としてはこの方法しか対処の仕方はなかったのである。御家人たちの士気は決して高いとは言えず、相手がどの程度の強敵であるかもわかっていなかった。しかし、輪番制をとる以上、各防衛地点に投入されるのは全兵力のごく一部であり、いったん侵攻が起きたら緒戦はその兵力で敵にあたるしかない。そしてその緒戦の勝敗が戦闘の全局面に大きな影響を及ぼすことになる。

 文永11年(1274)10月、蒙古はついに襲来した。文永の役である。日本側は苦戦したものの、蒙古軍の九州本土上陸を許さず、蒙古軍は撤退した。いったんは敵を撃退したものの、再襲来は確実であるから、喜んではいられない。
 同11月1日、蒙古軍の対馬・壱岐襲来の報を受けた幕府は西国守護に対し、「本所一円地住人」と呼ばれた非御家人の動員を命じている。幕府はこれによってすべての武士に対し、支配を及ぼすことになった。

 再侵攻に備えて
 文永の役の4か月後、建治元年2月に異国警固番役を整備し、鎮西9カ国を4つに分けて、各3か月ごとに春は筑前・肥後、夏は肥前・豊前、安芸は豊後・筑後、冬は日向・大隅・薩摩が防衛にあたることになった。
 その2か月後の4月15日、長門国(山口県北西部)室津(むろのつ:山口県上関町室津)に杜畝忠を正使とする蒙古の使者一行が来着した。彼らが長門に来たのは、以前の使者(潘阜ら)が大宰府で止め置かれた末に追い返されたことから、大宰府を通さずに直接京都に行こうとしたためらしい。しかし、彼らは幕府の指示で大宰府に送られ、幽閉された。
 「杜世忠らが長門にあらわれたことに幕府は驚愕した。どうも、幕府は蒙古の使者や軍勢は北九州に来るものだと思い込んでいたフシがある。日本はまわり中、海なのであるから、来ようと思えば、どこの海岸にも来られることくらいわかりそうなものにもかかわらず、マヌケな話であるが、中世人の感覚とは、このようなものである。」(189ページ) 〔戦前の日本には山口県の下関と韓国の釜山を結ぶ関釜連絡船というのが通航していた。東京から列車に乗って、下関からこの連絡船に乗り、朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道・シベリア鉄道を乗り継いでヨーロッパに行くという経路があったのである。〕

 慌てた幕府はすぐに長門にも鎮西と同様の防衛体制を敷くことにした。5月には長門の軍勢の不足を補うため、周防(山口県南東部)・安芸(広島県西部)・備後(広島県東部)も長門防衛に参加することに決定し、長門を含めた4カ国の輪番で防衛にあたることとなった。
 「蒙古使一行は7月21日に大宰府を発って鎌倉に護送され、9月7日、杜世忠以下5名が当時処刑場とされていた龍ノ口で斬首された。外交使節を罪人として処刑する。交戦した直後とはいえ、国際常識もヘッタクレもない蛮行である。」(190ページ)
 この時の蒙古の使節の辞世の詩が残されているので興味のある方は調べてみてください。彼らにはその程度の教養があったのだが、相手が悪かったということがよくわかるはずである。
 刀伊の入寇の際に太宰府の権帥であった藤原隆家が九州の武士たちを良く統率してこれを撃退しただけでなく、その後の戦後処理も新羅との外交交渉で巧みに解決したというのと、だいぶ違う。確かに刀伊の入寇は国家による侵略ではないし、戦闘の規模も違うのであるし、隆家は賢右府と言われた小野宮(藤原)実資と連絡を取って事態を処理したのではあったが、平安貴族と鎌倉武士とではこのくらい(政治的な)実力の違いがあったということはもっと考えられてよいことである。

 そして12月には翌年3月ごろの実行を予定して山陰・山陽・南海道の軍勢による異国征伐計画が決定された。〔これは日本史では習わなかった。〕「誇大妄想的な作戦であるが、時宗率いる幕府はもちろん本気で、実行予定だったよく建治2年3月には動員予定の御家人に対し、各人の兵力・船員数・領内の船の数を20日までに守護に報告することを命じている。しかし、実行に移されることはなかった。」(190ページ、実行しなくて本当に良かった)。
 一方、幕府は異国征伐計画と同時進行で、建治2年3月以前に博多湾沿岸での石築地(いしついじ)築造を命じている。今に残る「元寇防塁」である。これはその後の弘安の役で大いに効果を発揮することになるが、九州各国は地域別に割り当てを受け、築造・修理を担当させられた。そのため、出来具合には地域によるかなりの違いがあるという。異国征伐を命じられたものは、石築地築造の免除を受けたとはいえ、その負担はあまりにも重く、異国征伐が不発に終わったのも当然のことである。

 田舎の独裁者
 公安2年(1279)6月25日、周福ら蒙古使がまたも対馬に到着したことが太宰府に伝えられた。しかし、幕府は今度は彼らを鎌倉まで連行させることすらなく、博多で斬首してしまった。
 翌弘安3年12月、翌年4月に再襲来があるとの情報を得た幕府は、守護・御家人に防衛に努めるよう厳命した。そして、翌弘安4年5月、蒙古軍再襲来。弘安の役である。戦闘2か月の後、閏7月1日、博多湾を台風が襲い、蒙古軍は大打撃を受け撤退した。
 激闘の末に再襲来を退けた幕府は、翌8月、またしても異国征伐(高麗征伐)を計画している。しかし、今回も延期の末に実行には至らずに終わった。
 こうして2度にわたる侵略は防がれたが、蒙古の脅威が去ったわけではない。御家人、本所一円住人を動員しての対蒙古防衛は考案の役後、そして時宗の没後も継続されてゆく〔そしてそれが鎌倉幕府の滅亡の原因の一つともなっていく〕。
 元寇の時代は時宗の独裁期とほぼ重なる。そこから、「この時代の幕府の対蒙古政策には、時宗の政治方針、そして人格までもあらわれていると言うことができる。・・・そこにみえるのは、時宗の国際認識の欠如と野蛮なまでの武力偏重である」(192ページ)。

 蒙古からの国書・使者の来朝に際し、王朝は返事をするかどうかの検討をおこなっている。〔根拠となる史料を示してほしかった。とにかく、王朝=朝廷の方が鎌倉幕府よりも優れた国際交渉の文化をもっていたことは言うまでもない。〕 しかし、時宗は一切無視した。それどころではなく、使者を二度斬首し、ひたすら戦闘態勢の構築に邁進した。「時宗は外交交渉という発想を持たなかった。国際常識をまったく欠いていたといってよい」(192ページ。藤原隆家とは大違いである)。実施に至らなかったとはいえ、異国征伐計画に至っては常軌を逸している。しかし、時宗が真剣であったことは様々な資料によって裏付けられるという〔もし、実施していれば、日本の歴史はかなり変わっていたし、歴史記述も変わらざるをえなかったはずである〕。

 「王朝には、古代以来蓄積してきた外交のノウ・ハウとこれを実行する能力を持った人材があった。しかし、時宗を含めた鎌倉幕府には、外交の知識も能力もなかった。幕府は、たしかに王朝の対蒙古方針に大きな影響力を発揮したが、それは横ヤリ以上のものではなかった。鎌倉幕府は国際社会で通じるような成熟した政権ではなかったのである」(192ページ、藤原道長時代の脇役であり、刀伊の入寇の際に隆家を支えた実資の『小右記』などはこの時代に、よく読まれていたはずである。ところが、鎌倉幕府の人々がそういう王朝の知恵と経験の蓄積を重んじた形跡はない。それは必ずしも公家と武士の対立によるものではないはずである。というのは、その後の足利幕府になると、そうとうしたたかな外交を演じることになるからである。武士も成熟したのである)。

 「東アジアの辺境の島国の、そのまた東の辺境に生まれ育った独裁者は、誇大妄想気味の野蛮な田舎者であった。井の中の蛙であったとはいえ、時宗は、なぜここまで強気だったのだろうか。」(193ページ) その理由は次回以降に追究される。

 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(14)

4月2日(木)晴れのち曇り

 承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いた平将門の乱は武士最初の反乱といわれる。この書物はこの反乱の経緯を詳しく述べることではなくて、それが日本の歴史上に及ぼした意義について論じようとするものである。特に将門が「新皇」に即位して、坂東8か国の国司を任命したこと、その際に彼の行動を正当化する根拠として八幡神と菅原道真の霊の託宣を根拠としたこと、これに対して朝廷と都の貴族の側が、「王土王民思想」をもって自分たちの支配を正当化しようとしたことに注目した。
 さて、反乱の鎮圧後、敗れた将門の魂の行方をめぐって、いくつかの説話が生まれた。それは、いったん死んだ後、生き返った人物の冥界についての報告=冥界譚・蘇生譚として伝えられている。そのなかの一つ、『僧妙達蘇生注記』では将門が生前の罪業にもかかわらず、それ以前におこなった善業のために天王に生まれ変わったとされ、その一方で同時代の貴人や高僧が悪報を得たという説話が書きとめられている。

「冥界消息」と「蘇生譚」の世界(続き)
 『将門記』の冥界消息
  『道賢上人冥途記』について
 『蘇生注記』では当時の権力者や宗教界の中心人物への厳しい批判が展開されている一方で、将門については反乱に至ったことを否定されながら功徳によりそれが救済された存在として描かれている。ここには時代のありように対する書き手の批判をみることができるが、その姿勢を「よりいっそうイデオロギー的で批判的」(194ページ)にしているのが『道賢上人冥途記』である。延喜(醍醐)帝が地獄に堕ちたという説話はすでに紹介済みであるが、吉野で修行していた僧・道賢が天慶4(941)年中に冥界に堕ち、蘇生後にそこで見たことを語ったという説話である〔この書物の前の方の「王権認識の揺らぎ」の箇所で紹介したほか、『太平記』第26巻末尾の「吉野炎上の事」=高師直が吉野の南朝の御所や金峰山寺を焼き払ったことを述べた際にも触れた〕。

 この『冥途記』は蘇生譚・冥界譚として、また菅原道真の神格化=天神信仰の典拠として有名な史料であるが、それはさておき、ここでは『蘇生注記』との比較の方に主眼を置く。

  『道賢上人冥途記』の概要と特徴
 『冥途記』の概要は次のようなものである。
 道賢は長年にわたり金峰山にこもり修行をしていたが、天慶4年になって急に仮死状態に陥り、冥界に堕ちてしまった。冥界で蔵王菩薩に会い、菩薩の案内で浄土=極楽を見せてもらった。さらに「日本太政威徳天」(=菅原道真)に出会い、彼の住む光り輝く大威徳天城に案内される。彼は以前には生前の恨みを晴らすために様々な災いを下したが、今後は善神となろうと思うといい、自分を祀るものは利益を得るだろうと告げる。
 さらに地獄に案内してもらうと、醍醐天皇が真赤に焼けた鉄灰の上で黒焦げになっている姿に出会った。醍醐天皇は道真を左遷したためにこのような責め苦を受けているのだといい、道賢が娑婆に帰ったら、朱雀天皇にこの苦しみから自分を救い出すように申し伝えよという。〔朱雀天皇は醍醐天皇の第11皇子であったが、兄弟の夭折によって帝位についたが、みずからも病弱で弟の村上天皇に譲位した。その後で譲位を後悔したと伝えられる。〕

 『蘇生注記』で、冥途の様子を語るだことになる僧妙達が冥界で会った人物が大勢いるのに対し、『冥途記』で道賢が出会ったのは、菅原道真と醍醐天皇だけであり、それだけでこの『冥途記』がそうとう意図的に作成された書物であることが分かるという。道真は怨霊となって社会を不安に陥れた罪からは免れていないが、それは彼を信じる人びとの祈りに答えることによって克服され、本格的に神仏となることができる存在として描かれているのに対し、醍醐天皇は彼を左遷した罪により、地獄で苦しみ、救済を求める存在として描かれているのである。
 『冥途記』を『蘇生注記』と同一視はできないが、両者ともに、非業の死を遂げた人間の救済、権力者の断罪という描き方になっているところに、この時代の信仰的・思想的な状況を読み取ることができるのではないかと著者は言う。

  「冥界消息」の特徴
 それでは、『将門記』に付録のように付け加えられている、将門の「冥界消息」はどのように考えられるべきであろうか。すでに述べてきたことと関連して、著者は10世紀前半~中葉が皇統意識、神祇体系における転換期であったこととの関連を重視する。『蘇生注記』、『冥途記』における「とくに、醍醐天皇や藤原忠平など当時の最高権力者が悪報を受けて地獄に堕ちるという話は、この時期に成立した他の往生譚などにはみられない内容だけに、この時代の思想状況を先鋭的に反映している」(199‐200ページ)というのが著者の見解である。
 ところが「冥界消息」にはそのような批判精神は見られない。「ただ、国家に対して謀叛を起こした大罪人であっても、兄弟・妻子の功徳によって彼の救済が準備されている点は、当時の支配体制に対する批判を含んでいると読むべきなのかもしれない」(200ページ)と彼は言う。この後、将門の霊が救済される冥界譚が作られたり、将門の子孫をめぐる伝説が作られるのもこのことと関連する。
 とはいっても、これら3つの冥界譚の批判精神に違いがあることは否定できないし、それがどのような原因に基づくものであるかは、今後の研究課題となるだろう。

  源融の亡霊譚
 嵯峨天皇の皇子で臣下となり、左大臣にまで上がった源融は生前豪華な暮らしをしたことで知られるが、死後、殺生を好んだために地獄に堕ち、その魂が宮人にとりついて、自分が罪業に苦しんでいることを伝え、宇多院を含めた貴族たちに自分の救済を頼むという説話があり(『古事談』など)、その構造が将門の「冥界消息」と似ていることに著者は注意を喚起する。

  「冥界消息」との共通性
 木村さんは、源融の亡霊譚をここで取り上げた理由として、この説話が『日本霊異記』における冥界譚とも、『蘇生注記』、『冥途記』とも違うタイプの説話であり、それが『本朝文粋』に収録されるほどに、当時の貴族社会で流布していたということである。
 『将門記』の著者が、源融の亡霊譚と類似する説話を付録したのは、彼が『本朝文粋』の編纂者と同じような社会集団に属していたからではないかというのが著者の推測である。
 著者が名著と評価する『平将門の乱』の著者・福田豊彦は『将門記』の作者として藤原氏式家の藤原敦信とその子・明衡、さらにその子・敦基に至る文人貴族の一門を想定しているが、傾聴すべき見解であると評価している。
 この個所で、著者は源融の風諭文の筆者が紀在昌であることに触れているが、唐木順三が『あづまみちのく』の中に、『将門記』をめぐるフィクションを書いていて、作者が紀氏の出身であるとしていることが思い出される。

 次回は、「冥界消息」について著者がさらに詳しく分析している個所を検討する。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(16)

4月1日(水)雨

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、当時彼が在籍していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を歴訪、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。この旅行記は、その際の梅棹の私的な記録である。この活動の後半で、彼は隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスの3カ国を歴訪した。後に、東南アジア研究家として知られることになる石井米雄は、このとき外務省の留学生であったが、彼もまた通訳として同行した。
 一行は1958年2月12日にバンコクを自動車で出発、13日にカンボジアに入国し、トン・レ・サップ湖の西南岸を南下、プノムペンに達した。カンボジアでは海岸部の港町カムポットを訪問したり、トン・レ・サップ湖の周辺を旅行したりして、2月21日にプノムペンを出発、その日のうちに(南)ベトナムに入国し、サイゴンに到着した。
 サイゴンでは民族的な宗教であるカオダイ教の本部を訪問したり、コーチシナ(ベトナム南部)における華僑の活動のあとを見たりしたが、サイゴン大学の協力を取り付けて、学生のグエン・ニュン・ディックを通訳として一行に加え、さらに北に向かうことになった。コーチシナから(中部の)アンナンに入ると、昔この地で栄えたチャム族の文化の遺跡に出会い、ベトナムの歴史に思いをはせることになる一方で、他の東南アジア諸国とちがってベトナムでは華僑ではなく、ベトナム人が経済の主導権を握っていることに気づかされる。チャム族の国チャムパ王国の中心地であったクィ・ニョン(歸仁)をすぎて、さらに北上する。

第16章 大官道路
 夜の芝居見物
 今回から第16章に入る。
 一行は大きな川を渡る。橋は落ちていて、たよりなさそうな仮橋が架かっていた。対岸にボン・ソンという小さな田舎町があり、そこで一泊することになる。〔このボン・ソンというのがいくら探しても見つからない。あとで分かるように郡庁所在地らしいのであるが、まったく手掛かりがつかめないのである。〕
 警察に行って巡査に宿屋がないかとたずねると、宿屋に連れて行ってくれたが、あまりにも粗末な宿屋でしかも宿賃は高い。そこでもっと別の宿泊先はないかというと、郡役所に行って御覧なさいという答えが返ってきた。ディック君の交渉よろしきを得て、郡役所に泊めてもらうことになった。
 その夜、郡長は一行をベトナムの伝統的な演劇を興行してまわっている旅役者たちの一座の上演に招待した。郡長が大きな太鼓をたたいてみせると、客席はどっと沸いた。「わたしたちも、ことばはわからないけれど、ふんい気は、十分にたのしむことができた」。(141ページ)

 郡長の三原則
 翌日、朝早く出発しようとしていた一行は、郡長に引きとめらられ、役所の裏にある彼の家で朝食をごちそうになる。「食事は、ギョウザに似たベトナム料理で、中にエビの粉がはいっている。たいへんおいしいものだった」(142ページ)。
 食後、郡長、副郡長といろいろな話をした。郡長は、①反共主義、②反物質主義、③精神的なもの・道徳的なものの重視という3原則に従って行動しているという。梅棹は、精神的・道徳的なものの重視がベトナム文化の中に流れているとすると、この国はむしろ東南アジアというよりも、極東(東アジア)に近いのではないかと考えたりする。郡長は英語とフランス語を少し話したが、それは生活のために習い覚えたのであるとはっきり言った。

 「天皇猶在位?」
 郡長も副郡長も日本のことを知りたがった。梅棹一行は、戦後この町に来た最初の日本人であるという。副郡長は英語もフランス語も話さなかったが漢文を書くことができたので、筆談で日本について説明した。彼は「天皇猶在位?」などと質問してきた。
 郡長の事務室には、壁いっぱいに掛物が飾られていた。それらは郡長の徳を讃える内容であった。それは伝統的な中国の役所においても見られるようなものであったが、中国ではこのような掛物が多ければ多いほど、その地方官は腐敗が激しいのだという話を聞いたことがある。それがベトナムにおいてもあてはまるかどうかはわからない。ただ、掛物の中に描かれているパルミラ・ヤシと水田の中の道という風景は、あきらかにベトナムのものであることが分かっただけである。

 大官道路 
 その日の12時半ごろにクヮン・ガイ(廣義)に到着。昼食をとり、1時半ごろに出発した。
 ボン・ソンからクヮン・ガイの間、一行は悪路に悩まされた。〔どうもクィ・ニョンとクヮン・ガイのあいだが、ベトナムで一万大きい切れ目になっているような気がする。交通事情がひどく悪いのである」(145ページ)と彼は感じる。
 東には海、西にはすぐ山というベトナムの、細長さがよくわかる。平地の幅はごく狭い。表街道が1本あるだけで、裏街道はないのだという。この南北をつなぐ表街道は、昔から大官道路(マンダリン・ロード)として知られてきたものである。アンナン帝国の役人たちはかごに乗ってこの道を往来したのだという。しかし、その時代、この道路はそれほど立派なものではなかった。
 中国江西省との境の鎮南関からベトナムを縦断して、サイゴンからプノムペンを経て、タイ国境に達する約2600キロの道路=植民道路1号線を完成させたのはフランスの植民地政府で、1913年のことであった。

 橋のない街道
 しかし、実際に道路を通ってみると、この道路がひどいものであると思わない訳にはいかなかった。道そのものはおおむね舗装されていて、必ずしも悪くはない。しかし、橋がない。発動機付きの渡しならばそんなに悪くはないが、鉄船を連ねて、その上に板を並べただけのものもある。なかには動力がなくて、渡る人が力を合わせて綱を引っ張って進むものもある。
 対日戦争、抗仏戦争、そしてその後の反政府ゲリラとの戦い、橋がどの戦いの中で爆破されたか、特定することは難しいようである。 

 縦貫鉄道には線路がない
 大官道路とならんでベトナムをつらぬく大動脈は、ハノイ・サイゴンを結ぶインドシナ縦貫鉄道で、フランス植民地政府が苦心を重ねて1938年に完成させたのだが、その後の戦争でずたずたに寸断され、部分的にディーゼル・カーが走っているにすぎない。
 アン・タンというところで渡しを渡った際に気づいたのだが、インドシナ縦貫鉄道には線路さえ残っていない部分があるのである。ベトナムでは戦後の復興が進んでいないことを、梅棹は痛感させられる。ベトナムは、戦後、独立したものの、フランスの建設した遺産を大部分破壊された形で引き継いでしまったのである。そのため、ベトナム民衆の生活は大きな後退・停滞を余儀なくされた。これは悲痛な現実である。「破壊ということが、人類にとってどんなにおそろしいことか、わたしは、いままでとはちがった実感をもって感じるようになった」(149ページ)。
 この感想には、梅棹の思考の特徴の1つである「物質主義」がよく出ている。物質的な生活の充実は、人類にとっては欠かせないものである。ボン・ソンの郡長は南ベトナムの人々は反物質主義を原則として行動すると言っていたが、それには限界があるということかもしれない。 

 この後、一行はホイアン(會安)まで出ることになり、そこで印象に残る体験をする。それがどのようなものであるかはまた次回に。なお、南北ベトナム統一後の1976年にハノイ・ホーチミン間を結ぶベトナム統一鉄道が開通しているが、依然としていろいろと問題を抱えているようである。 
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