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日記抄(3月26日~3月31日)

3月31日(火)曇り

 3月26日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月25日
 NHK『ラジオ英会話』で
Rome wasn't built in a day. (ローマは一日にして成らず)
ということわざが取り上げられていた。他の言語でどのようにいうかというのを調べられた限りで書いておくと:
Roma uno die non est condita. (ラテン語)
Roma ne s'est pas faite en un jour. (フランス語)
Roma non è stata fatta in un giorno. (イタリア語)

 光瀬憲子『台湾一周‼ 途中下車 美味しい旅』(双葉文庫)を読み終える。7泊8日というタイトな日程で高雄から時計回りに台湾を一周する。通訳・翻訳の経験を積んで中国語には慣れ親しんでいるはずの著者だが、結構ドジを踏む。しかし、そのドジがかえって忘れられない思い出となる。わたしも台湾に一度出かけた見たいと思っているのだが、コロナウイルスが蔓延している現在の状況では実現の可能性はなく、こういう本を読んで想像をめぐらせているのである。

3月26日
 『日経』朝刊1面のコラム「春秋」は、太平洋戦争中にハワイの捕虜収容所に勤務していたころのドナルド・キーンさんのベートーヴェンが好きな日本人捕虜のためにレコードの音を大きくして聞こえるようにしたというエピソードを紹介していた。1827年のこの日、ベートーヴェンが死んだそうだ。

 同じく『日経』に社会人が小学校の先生になるのを容易にしようと、来年度から体育や音楽の実技試験をなくすなど、小学校の教員採用選考を見直すことが報じられていた。これらの試みがわが国の小学校教育をどのような方向に変えていくのかは即断できない。できるだけ中立的な目で見守りたいと思う。

 安倍昭恵女史がコロナウイルス流行の中で、花見を行ったというニュースを聞いて:
国会より 野党が恐い 家庭内(首相の心境)
今回も 私人と閣議で 決定か(などということは起こらないだろうが…)

3月27日
 『朝日』朝刊の「しつもん! ドラえもん」で、「1964年の東京五輪で使われた聖火台は日本のどこで作られたかな?」という問いの答えは、埼玉県川口市であった。鋳物の街として知られている。映画『キューポラのある街』(1962、日活、浦山桐郎監督)はその川口市を舞台にした作品であったが、オリンピックの話が出てこない。この作品の試写を見た浦山の師匠格の映画作家である川島雄三が、よくできた写真だとほめたという話があるが、その川島は『縞の背広の親分衆』(1961、東京映画)の中で、オリンピックを目指した東京の都市開発の様子を喜劇風に描いている。世相というものは1つや2つの情報源で知ることができるものではない。
 『キューポラ』の中で、東野英治郎扮するヒロイン(吉永小百合)の父親がまた戦争が起きれば景気がよくなって、自分たちの生活も上向くと言っているのは、昭和10年代の軍需景気で生活が潤った職人の生活実感に基づいているのだろうが、もっと大きな目で見れば、戦争というのは決して景気をよくするものではないのである。戦争は国の借金を増やして、国民の生活を圧迫するというのが歴史的な事実であって、そのなかで一部の社会集団が利益を得たとしても、それを全体のものと考えてはならないのである。
 
3月28日
 『朝日』朝刊1面のコラム「天声人語」に徳島県鳴門市の鳴門市ドイツ館のことが紹介されていた。第一次世界大戦の際のドイツ人捕虜を収容した「坂東俘虜収容所」を記念して、その跡地の近くに設けられた施設である。坂東俘虜収容所は、捕虜に対する人道的で公正な扱いを行い、ドイツ人捕虜と日本人の交流が両国の文化的な発展に寄与したといわれる。特にベートーヴェンの第九交響曲が初めて全曲演奏されたのがこの地においてであったことはよく知られている。

 もう10年以上昔になるが、「鳴門市ドイツ館」を訪問したことがあり、ついでに隣接する賀川豊彦記念館も見学した。数年前に死んだ私の伯母が、若いころ霊南坂教会に通っていて、小崎弘道から洗礼を受けたというのを、賀川豊彦と間違えて、何かの縁だと思って見学したのである。つまり、小崎弘道より、賀川豊彦の方が有名だから間違えたということである。若き日の大宅壮一が賀川豊彦の社会活動に参加し、その後、別の社会運動に参加して彼から離れたあとも、また戦後「あやしげな評論家」になった後も、香川を尊敬し続けたというのは、香川の偉大さを物語るものだと思っている。

 伊藤邦武/山内志朗/中島隆博/納富信留(編)『世界哲学史3-―中世Ⅰ 超越と普遍に向けて』(ちくま新書)を読み終える。グローバルな視野から、「哲学」の歴史を見直そうという企画に基づく書物であるが、西欧とアラブ世界の「中世」の思想について触れた部分が一番興味深かった。

 『NHK高校講座 古典』は『平家物語』の第2回で、「忠度卿都落ち」の段を読み終えた。木曽義仲の軍勢が都に迫り、平家一門は都を捨てて西国に落ち延びていく中で、忠度は途中からわずかな郎等を従えて引き返し、和歌の師匠であった藤原俊成の邸を訪れて、自分の歌を書き記した巻物を託す。勅撰和歌集が編纂されることになったらこの中から一首なりとも自分の歌を載せてほしいというのである。忠度の歌の技量を知っている忠度が請け合うと、もう思い残すことはないと言いおいて忠度は去ってゆく。
 その後、戦乱が収まった後、『千載和歌集』が編纂されたとき、撰者であった俊成は忠度の歌を一首採用したが、朝敵として討伐の対象となった人物の作品なので、詠み人知らずとして載せた。
 俊成が選んだ「さゞ波や志賀の都は荒れにしをむかしながらの山ざくらかな」は、たしかに〔当時の貴族風に技巧を凝らした〕うまい歌ではあるが、それよりも、『平家物語』に紹介された一の谷の合戦で忠度が岡部六弥太に打ち取られた際に、彼は名を明かさなかったのだが、残された箙に書き付けられた歌によって忠度であることが分かったというその歌「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし」の方が〔武士としての実感の籠もった〕いい歌だと思うのだが、いかがだろうか。

 東海林さだお『ひとりメシ超入門』(朝日新書)を読み終える。『週刊朝日』に連載された食べ物エッセーをまとめたもの。書中に掲げられている「ひとりメシ十則」というのがなかなか面白い。「五、常在戦場 逆上、アセリを最高の友とする」などというあたりが、いかにも東海林さんらしいと思う。

3月29日
 『日経』のコラム「春秋」に永井荷風が(特に太平洋戦争中)市井の噂に聞き耳を立てて、日記『断腸的日乗』に書き留めていたことが記されている。NHKラジオ第二放送『朗読の時間』で荷風の『ふらんす物語』の朗読を聞いていたのが、昨夜で(再)放送が終わったところなので、外界の事物への彼の興味のもち方、描き方についていろいろと考えるところがあった。何より、荷風が多くの本を読み、また演劇を見たり、さまざまな経験を求めて探索を重ね、その結果についての詳しい記録を残そうとしているところに、文学者としての彼の出発点を見るのである。

 川平敏文『徒然草』(中公新書)を読み終える。書き手である兼好法師の伝記をめぐり、通説を修正して小川剛生さんの説に従っている点も特色の一つではあるが、それ以上に、この作品の受容のされ方の変容と、「つれづれ」という言葉の意味の変化(あるいは揺れ)について詳しく追いかけているところが興味深い。〔機会を見つけて、この書物については詳しい分析を試みるつもりである。〕
 教科書によく採用される「ねこまた」の章段をめぐり兼好は連歌というものにいい感情をもっていなかったのではないかという解釈が述べられていたのが特に面白かった。晩年(おそらく『徒然草』執筆後)の兼好は連歌の大成者として知られる二条良基とも交流があったからである。そう言えば、小川剛生さんが『二条良基』(吉川弘文館人物叢書)という本を出しているので、これも読んでみなければならないだろう。
 兼好法師のことを小説に書きたいと思っているのだが、なかなか構想がまとまらない。二条良基のような伝統文化を守っているという自負のある人たちからは適当に利用され、高師直のような現実主義者からは役立たずといわれながら、自分なりのものの考え方の道筋をつらぬこうとする兼好を描こうと思うのだが、なかなか着想の火花が現れない。

3月30日
 まだ新年度になっていないのだが、NHK,ラジオ第二放送の語学番組は新年度の番組の放送を始めた。昨年度に引き続き、『ラジオ英会話』、『入門ビジネス英語』、『遠山顕の英会話楽習』、『高校生からはじめる「現代英語」』、『実践ビジネス英語』、(『ボキャブライダー』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『英会話タイムトライアル』、『世界へ発信 ニュースで英語術』)、『まいにちフランス語』、『まいにちスペイン語』、『まいにちイタリア語』を聴き、今年度は『ポルトガル語入門』も聴いてみようと思っている。

 『朝日』朝刊の「しつもん ドラえもん」で、世界の「標準時」の基準となっている英国のグリニッジ天文台のことが取り上げられていた。この天文台の初代の台長がティコ・ブラーエを尊敬していて、天体についての詳細な観察を行ったジョン・フラムスティードで、グリニッジが世界の時間の標準になったのも彼の功績によるところが多いという。二代目の台長がニュートンの友人で科学の多くの領域にわたって業績を残した(ハレー彗星にその名を残している)エドモンド・ハレーである。3代目以下の台長も有名な天文学者らしいのだが、私が知っているのは最初の2人だけである。

 本郷和人・門井慶喜『日本史を変えた八人の将軍』(祥伝社新書)を読む。本屋で見かけて面白そうな本だと思って、その期待を裏切られなかった。プロのプロに対する批評の本、しかも異種目のプロ同士による多次元的なやりとり、具体的には、気鋭の歴史学者と直木賞作家との対談である。坂上田村麻呂、源頼朝、足利尊氏、足利義満、(将軍になったかもしれないが、ならなかった)織田信長&豊臣秀吉、徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜、西郷隆盛を取り上げて縦横に論じている。〔どういうふうに勘定すると8人になるのか難しいところがある。〕

 ブログ訪問をしていたら、「しん」さんの「『しん』の思考亭」のなかの「今回も支給対象者とならない公算大…」という記事に出会って、同じことを考えている人がいるなぁと思った。〔3月31日の『東京』は「社説」で「現金給付 全世帯を対象に素早く」と主張しているが、金額を想定して、買い物リストをつくって待ち受けている私としては、まったく賛成である。〕

3月31日
 『東京』朝刊によるとコミュニケーション能力を一番試されるのが「断り方」だそうだ。頼まれた仕事を「気持ちよく断れる人」は能力が高いという。いちばん能力が低いのは、なんだかんだ言っても、断れずに仕事を押し付けられてしまい、その仕事をきちんとこなすことができずに、まわりに迷惑ばかりまき散らして終わる人ということになる。今、いろいろと話題の主になっている森法務大臣も、自分は断ることが下手だとどこかで言明しているらしい。しかし、考えてみれば、その人の能力をしっかりと見極めずに、仕事を押し付けるほうにも問題があると思うのは、私もどちらかというと「断るのが下手」な人間であるからかもしれない。
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『太平記』(308)

3月30日(月)曇り

 貞和6年(南朝正平5年、西暦1350年)2月、改元して観応となった。足利直義の失脚後、尊氏の嫡男義詮が鎌倉から上洛して政務をとることになったが、その背後にいたのは高師直・師泰兄弟だった。〔義詮と入れ違いに、彼の同母弟基氏が鎌倉に下るが、そのことに『太平記』は触れていない。〕 前年の9月に、備後から九州に落ちた足利直冬(尊氏の庶子、義詮の異母兄で、直義の養子になっていた)は、肥後の川尻幸俊の加勢を受け、また筑前の少弐頼尚の婿に迎えられ(歴史的な事実であるかどうか不明)、天下は宮方、将軍方、西国の直冬方という三分の形勢となった。石見(現在の島根県の西部)では、直冬に呼応して三角兼連(みすみ・かねつら)が挙兵した。高師泰が石見へ下り、まず三角方の佐波(さわ)善四郎の籠もる鼓崎(つづみがさき)城を攻めた。

 江の川の激流を前に、将軍方の軍は渡河をためらったが、毛利小太郎(師親、後に元春と改名、戦国大名毛利氏の先祖)らが馬筏を組んで渡河に成功、川岸で守りを固めていた佐波の軍勢を打ち破った。
 寄せ手は、いよいよ勢いに任せて、鼓崎城を攻め落とそうとするが、鼓崎に加えて、すぐ近くの青杉城、丸屋城からも城門を開いて、同時に打って出て、前後左右から将軍方の軍勢を取り囲んで、盛んに矢を射かける。毛利、高橋(高梁)、三善(三次)の100騎ほどの軍勢は、これに痛手を負い、さらに城から落とされてくる石に行く手を阻まれて、苦戦に陥っているのを見て、大将の師泰は、「三善を戦死させるな、続け」と、命令を下す。そこで、高一族の山口七郎右衛門(遠江の山口郷=現在の静岡県湖西市山口)、赤旗・小旗・大旗の一揆の1,000余騎の兵が一せいに刀を抜いて、攻め寄せる。

 新たに加わってきた多数の軍勢に攻め立てられ、佐波の軍勢は皆自分たちがもといた城に逃げ帰ってしまった。そこで寄せ手は城を囲む逆茂木(棘のある木の枝で作った防御の柵)のところまで攻め寄せ、楯を垣根のように並べて身を守りながら包囲した。初戦には勝利して敵を城内に追い込んだが、城の守りは堅固で、切り立った崖の上にあり、攻め込む手だてもなく、攻め落とすことは難しい。攻めあぐねた将軍方の軍勢は、方策もないままに城柵を囲んで盾で身を守りながら、城内の軍勢との矢軍(矢戦)で時を過ごしていた。

 ある時、寄せ手の中に三文字(みつもんじ)一揆{「三」の文字を旗印とした一揆(心を一つにして行動することであるが、そのような盟約を結んだ武士集団である)}の中に、日ごろから武勇で知られた武士が3,4人で集まって話し合ったことには、「城の構えを見ていると、今のような攻め方をしていると、城内の兵は兵糧が不足して持ちこたえられなくなることがあるかも知れないが、それでもこちらの軍勢に負けて落城するということはありそうもない。さらに、備中、備後、安芸、周防の間にも、内心では直冬に心を寄せる武士たちが多いと聞いているので、こうして我々が城を包囲しているうしろから攻めかかってくるものが出ないとも限らない。前方のある数か所(ここでは3か所)の城を1か所も落とすことなく、後から敵が攻めてきて道をふさぐということになると、こちらがどのように勇猛であろうと、ながく持ちこたえることはできないだろう。事態が困難になるまえに、この城に夜襲を掛け、落城させて中国地方の敵の士気をくじき、宰相中将殿(足利義詮)を元気づけようではないか」との結論に達する。

 この意見は大将である師泰の同意を得て、夜襲に加わる武勇に優れた武士たちを選び抜こうということになる。高一族の山口七郎右衛門と同族の山口新左衛門尉のような武士もいたが、大半は中国地方の中小武士たちで、源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫である(安芸熊谷氏の)熊井五郎左衛門尉のほか、足立、松田、後藤、城所、金子、村上、神田、赤木、安芸、田久、織田、奴可、小原、井上、瓜生、富田、大庭、山田、甕、那河といった27人が選りすぐられた。
 この27人は、それぞれ武勇に秀で、才覚のある、また夜襲になれたも武士たちであったが、数千人(これは誇張)が立てこもって厳しく警戒を固めている城を落すほどの力をもっているとは思われなかった。

 8月25日の夜、夜襲のために選抜された武士たちは筒(とう=炭を竹筒に入れて火をつけたもの)を目印として、鼓崎城の裏山を匍匐前進、薄、刈茅、篠竹などのそのあたりの植物を切り取って鎧兜に隙間なく差し込んで自分たちの身を隠し、城の周囲の切り立った崖の下の岩かげに潜んで襲撃の機会をうかがう。
 ところが枯草の中で寝ていたイノシシや、朽ちた木の空洞の中で眠っていたクマが人間の気配に気づいて驚き逃げ出した。そして2,30頭の群れをなしてがさごそと音を立てながら逃げていった。

 物音を聞きつけた城内の兵たちは、さては夜襲かと武装して各所のやぐらに集まり、塀から松明を何本も投げて息を殺して様子をうかがっていたが、何者かが「夜討ちではなくて、後の山からクマが逃げていったのだ。捕まえよ、殿原」と叫んだ。城内の武士たちは〔よせばいいのに〕、我先にクマを射止めようと弓矢を手にしてクマ ちのあとを追いかける。こうして300余騎の武士たちが、城から出て麓まで下って行ってしまったので、城内に残るのは50騎ほどになってしまった。

 夜が明けて、城の木戸は開いたままである。こうなったら躊躇することはない。27騎は一斉に抜刀し、鬨の声を上げて城内に乱入した。城主である佐波善四郎とその郎等3人は、腹巻(はらに幕略式の鎧)をとって肩に投げかけ、一の関口(きどぐち)まで降りて一歩も退くことなしに戦ったが、善四郎は膝がしらを切られて四つん這いの姿になってしまったので、郎等3人がその前に立ちふさがって、時間を稼いだが、とうとう討死する。その間に、佐波善四郎は自分の陣屋に走り入り、火を放って逃げた。そのほか、40余人の兵が残っていたが、一防ぎも防がずに青杉の城へ落ちていった。

 クマ狩に出かけて行った兵たちは、そのままクマを追いかけることもせず、もといた城にも戻らず、ちりぢりになって落ちていった。防御の要であった鼓崎の城を落されただけでなく、善四郎は逃げる初めに討ち取られてしまったので、残る2つの城も、その後11日ばかりで落城してしまった。むかしの兵法の本に「兵が野に潜んでいる時は、飛ぶ雁の列が乱れる」と書いてあったのを知らなかったので、クマのために城を落すことになったと世の中の笑いものになった。

 その後、師泰は石見の武士たちを従えて、国内の敵を打ち従えようとしたが、攻められて逃げられなくなると思ったのであろうか、石見の国中に32か所あった城の軍勢は、皆噂を聞いただけで逃げ出してしまい、今はただ三角入道の籠もっている三角城だけが残った。この城は、険しい山の中につくられ、城内の警戒も厳重であったので、兵力を恃んで強引に攻めることは難しかったが、援軍が近くからやって来るということもなく、三角が支配する領地もその近くにあるというわけではなく、どこまで持ちこたえることができるのかわからないという状況であった。寄せ手の方は城を囲む四方の山々に向かい城を築き、2年でも3年でもかけて攻め落とすという姿勢を見せたので、城中の兵は気勢が衰えて、しだいにたよりない気持ちになっていった。

 こうして中国地方における反将軍の動きは抑えられたが、九州で新たな動きが始まる。それはまた次回に。「兵が野に潜んでいる時は…」というのは、岩波文庫版の脚注によると、『孫子』に「鳥起(た)てば伏せるなり。獣驚けば覆ふなり」(行軍編)という個所があるのを踏まえたものだという。『古今著聞集』巻9に、大江匡房が源義家に向かい、「軍野に伏す時は飛鴈つらをやぶる」と教え、義家がその言葉を覚えていて敵の伏兵に気づいてこれを破ったという説話が出てくる由である。この義家の話は、子どものころに何かの本で読んで知っていたが、出典が『古今著聞集』であったとは今の今まで知らなかった。そんなものである。
 クマを追いかけることに気をとられて、落城のきっかけを作ったというのはいかにも間抜けであるが、『太平記』にはこれまでもこの種の間抜けな話が出てきて、武勇だの忠義だのという武士の価値観を相対化しているようにみえる。確かに『太平記』には一方ではそういう価値観を賛美する箇所もあるのだが、他方で懐疑的になったり、相対化している。そういう部分にこそ『太平記』の魅力があるのではないかと私は思う。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(37)

3月29日(日)雪

 叔父であるガードナー氏と、その妻とともに旅行に出かけたエリザベスは、叔母が昔住んでいたダービーシャーに滞在することになり、その間、この地方の名所であるペムバリー邸を訪問することになった。ペムバリー邸の当主は、少し前にエリザベスが結婚の申し出を断ったダーシーだったので、彼女は彼との鉢合わせを恐れて訪問したくなかったのだが、彼が不在であることを確認して出かけることにした。実際に邸を訪問してみると、その広壮な様子や家具・調度の趣味の良さなど当主の性格についての彼女の認識を改めさせるようなものであった上に、女中頭がダーシーの人となりを褒めちぎっていたので、ますます彼女の考えは変わり始めた。
 一行が邸内の見学を終え、庭園を見て回ろうとしたとき、エリザベスは予定を早めて帰館したダーシーに出会ってしまった。ダーシーは彼女と丁重に言葉を交わして別れたが、その後、再び彼女と会って、次の日に彼の妹(ミス・ダーシー、ジョージアナ)が戻って来るので、ぜひ、彼女と会ってほしいという。エリザベスは彼がなぜそんなことを言い出したのか思案する。〔ダーシーとその妹は12歳あまりの年齢差があり、兄妹といっても気持ちの通じないところがある。しかも、ジョージアナはすこし前に、スキャンダルになりかねない事件を起こしたことがあり、そのことをダーシーはエリザベスに打ち明けていた。そのことも含めて、ダーシーが兄妹の中間位の年齢のエリザベスを頼ろうとするところがあったと考えるべきであろう。〕

 第3巻第2章に入り、いよいよ、エリザベスとミス・ダーシー(ジョージアナ)が対面することになる。ミス・ダーシーはこれまでその人物像をめぐっていろいろと噂されてきたが、エリザベス(と読者)はここでようやくその実像に触れることになる。
 「エリザベスは、ミスター・ダーシーが妹を連れて訪ねて来るのは明後日だろう、妹のペムバリー到着が明日だから当然そうなるだろうと決込んでいた。それで明後日の昼間はずっと宿を離れずにいるつもりであった。しかしその思い込みはどうやら誤算であった。自分達がラムトンの宿に着いた翌日に、つまりミス・ダーシーがペムバリーに着いたその日のうちに二人は早速やって来たからである。」(大島訳、439ページ)
 エリザベスはその日の午前中、新たに知り合いになった人たちとラムトンの町を散歩して、彼らとの昼食のために宿に戻って着替えようとしていたのだが、ダーシー兄妹が馬車でやって来るのに気づいた。そして、叔父夫婦は、突然の来訪とエリザベスの落ち着かない様子とから、これはただならないことが起き始めていると察したのであった。
 一方、エリザベスはダーシーが自分の妹に、彼女のことをよく言いすぎているのではないかと思い、自分が彼女の予想を裏切ることが心配になりはじめていた。

 いよいよ、ダーシー兄妹が現われて「恐るべき初対面の挨拶が取交された」(大島訳、441ページ)。自分と同じように、ミス・ダーシーの方も戸惑っていることにエリザベスは気づいた。事前に思っていたのとは違って、ミス・ダーシーは内気なはにかみ屋であることがわかった。ミス・ダーシーは大柄で、身長はエリザベスよりも高く(第1巻第8章で、ダーシーは自分の妹の背丈がエリザベスと同じくらいか、それよりも少し高いくらいだと言っている。ダーシー自身もかなり背が高い男性として描かれている)、16歳という年齢のわりに体つきも大人びていたが、おっとりとして気取りのない態度に好感が持てた。兄のように他人を鋭く観察するというタイプではないらしいということが分かって、エリザベスはかなり気持ちが楽になった。

 一同が席について間もなく、ダーシーは、ビングリーも間もなくやって来ると告げた。エリザベスはこの知らせに喜んで、彼の訪問に備える準備をしていたが、十分な心の準備をする前に、ビングリーがやってきてしまった。ビングリーは以前と変わらぬ調子で、エリザベスの家族の安否を尋ねた。
 ガードナー夫妻にとってもビングリーは興味ある人物であった(ビングリーは、エリザベスの姉のジェインが慕っている男性であり、ジェインは少し前までガードナー夫妻のもとに滞在し、現在はベネット家に預けられている夫妻の子どもたちの面倒を見ているからである)。そして夫妻は、ダーシーとエリザベスの間の感情の動きにも注意を払う。そしてエリザベスの気持ちはわからないが、ダーシーが彼女に関心を寄せていることは確かだと観察する。

 一方エリザベスの方は、自分が相手をしている3人が自分にどんな気持ちをもっているのかが不安で仕方がなかったが、3人が三様のやり方で、彼女に好意をもっていることは明らかに思われた。ビングリーは以前ほど喋らないように思ったが、しかし彼が彼女を見て、彼女の姉を思いだそうとしているのではないかと思ったりする一方で、ミス・ビングリー(ビングリーの妹)が言うように、彼がミス・ダーシーと結婚しようと思っているというようなそぶりはまったく感じられなかったので、その点では安心した。ビングリーはジェインのことを話さなかったが、彼のネザーフィールドの邸で前年の11月26日に開いた舞踏会のことを口にした。日付をきちんと覚えているのは、ジェインのことを忘れていない証拠だとエリザベスは思った。
 エリザベスはミスター・ダーシーの方にはなかなか目が向けられなかったが、ときどき彼の方を見ると、彼が以前と比べて愛想のよい態度をとっていることに気づき、驚いた。そしてその変化が何を意味するのかを不思議に思いながら考えていた。

 一行は30分ほど話していたが、辞去するときにダーシーが妹に声をかけて、エリザベスと叔父夫婦を翌々日に招待したいが、お前の方からも招待するようにといい、ミス・ダーシーはそういうことには不慣れな様子であったが、兄の言葉に従った。そしてガードナー夫妻はこの招待を受け入れた。
 ビングリーはエリザベスとまた会えることを喜び、今度会うときはハートフォードシャーの人たちのことをもっとよく聞きたいといったが、これは自分の姉のことを意味しているのだとエリザベスは受けとめた。

 その夜、エリザベスはなかなか寝付くことができないまま、自分の気持ちをはっきりさせようとした。彼女が、求婚された際に、自分が持っていた偏見も手伝って厳しい態度で拒絶したにもかかわらず、ダーシーが偶然にあった後で、これからも交際を続ける意思を示し、しかも彼女に直接そう伝えるのではなく、叔父夫婦の好意をえようとしたり、自分の妹に彼女とその身内を招待させようとしているのはどういうことかと考えたのである。彼女のダーシーを嫌悪する気持ちは消えて、それは好意にかわっていたが、彼と結婚することが自分の幸福につながるかどうかに確信が持てなかったのである。
 その前に、彼女は叔母と話し合って、ダーシーが妹の到着の直後に自分たちを訪問した好意に答えるために、自分たちも1日訪問を早めることを決めていた。そして翌日の午前中に、ペムバリーを訪問することになった。

 ペムバリーへの訪問はどのようなことになるか、それはまた次回に。
 英国の推理作家で、ダルグリッシュ・シリーズで知られるP.D.(フィリス・ドロシー)ジェイムズ(1920‐2014)の『高慢と偏見、そして殺人』(Death Comes to Pemberley, 2011)はこの、『高慢と偏見』のパスティーシュであり、2012年にハヤカワ・ミステリーから羽田詩津子訳で翻訳・出版されている。この本を書架の整理をしていて見つけ出したので、読み返しているところである。「訳者あとがき」で羽田さんが述べているように、P.D.ジェイムズはオースティンを長年敬慕していたのではないか、そして晩年を迎えて「彼女なりの決着」(同書、345ページ)をつけたいと思ってこの小説を書いたのではないかと思われる。ジェイムズの『高慢と偏見』への解釈と、自分自身の解釈とを較べながら読むと、一層興趣が増すと思う。物語は、『高慢と偏見』の6年後の出来事ということになっており、ペムバリー邸の敷地内で殺人事件が起こる。その真相の解明とともに、今回、紹介した箇所との関連でいうと、成人年齢に達したミス・ダーシーの結婚問題が物語の進行に絡む。興味のある方はご一読ください。 
 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(19)

3月28日(土)曇り、午前中、一時小雨

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人ルーカーヌス(39‐65)の『内乱――パルサリア――』は、作者が皇帝ネロの暗殺の陰謀に加わって自殺を命じられたために、未完に終わったが、紀元前1世紀にローマの支配権をめぐってポンペイウスとカエサルの間で戦われた内乱を描いた長編叙事詩である。
 紀元前60年にローマの3人の実力者、ポンペイウス、クラッスス、カエサルの間で結ばれた密約(第一次三頭政治)は混乱していたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残った2人の間の対立が激しくなる。ポンペイウスはローマの元老院と結び、ガリア総督であったカエサルの職務を解き、軍隊の解散とローマへの帰還を命じるが、カエサルはこれに応じず、軍を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、合流してきた元老院の大立者クリオの教唆もあってローマ進軍を企てる。カエサル進撃の報を聞いたローマは大混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、多くの元老院議員が脱出していく。(第1巻)
 ローマを脱出したポンペイウスは反撃を試みるが、彼を支持する軍勢は各地でカエサル軍に敗れ、ついに、イタリア半島南東のブルンディシウム(ブルンディジ)からギリシアの西の地方に向けて脱出していく。(第2巻)
 ローマに入城したカエサルは自分の立場を正当化したうえで、国庫から軍資金を略奪し、イベリア半島のポンペイウス派の軍勢の掃討に出発する。一方、ギリシアに逃れたポンペイウスは東方諸国から大軍を集め、反撃を企てる。カエサルは遠征の途中、両派の和睦を求めるマッシリア(マルセイユ)の抵抗を受けるが、一部の軍隊を残したままイベリア半島に向かう。マッシリアは海戦の末にカエサル派に降伏する。(第3巻)
 イベリア半島に進んだカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが指揮し、イレルダを拠点とするポンペイウス軍を最終的に山間に封じ込め、降伏させる。その一方、イッリュリア(アドリア海東岸地域)の海戦ではカエサル派のアントニウス(第二次三頭政治家の弟)がポンペイウス派に包囲されて敗れ、またシキリアからリビュエ(北アフリカ)に渡ったクリオは、ヌミディア王ユバの軍勢の策略にはまって敗死する。(第4巻)

 今回から第5巻に入る(岩波文庫版の上巻に収められた最後の巻である)。
 かくして運命は、禍福ない交ぜ、二人の将に交々(こもごも)
戦の痛手を負わせて、なお伯仲する両雄として
マケドニア人の地まで温存した。すでに季節は、ハイモスが
雪を敷き、アトラスの娘たちが凍てつくオリュンポスを戴く空から
降ろうとする真冬。暦年に新たな元号を与え、日月を導く先駆けの
ヤヌスを祀る門出となる日が近づいていた。
(第5巻、1-6行、225ページ) 時は紀元前49年の暮れ、二人の将=ポンペイウスとカエサルの両雄がテッサリアのパルサルス(パルサリア)で対決することになるのは、紀元前48年の8月のことである。オリンピックというと思いだされるオリュンポスの山はギリシアの最高峰(2917メートル)であり、その北側がマケドニアであるが、テッサリアはアレクサンドロス大王の父ピリッポスⅡ世の時代からマケドニアに服属していた。ルーカーヌスがパルサルスがマケドニアの土地だとしているのは、このためであろう。ハイモスはバルカン山脈のこと。ギリシア最北東部から黒海まで連なる山脈である。「アトラスの娘たち」はプレイアデスのこと。ここでは彼女たちが変身したとされるおうし座の散開星団=プレイアデス星団のことを言う。日本ではスバルというが、冬の星座である。ローマの暦では各年は1年任期で交代する執政官の名前で呼ばれた。ここで「元号」というのはそのことを踏まえたものである。ヤヌスは前と後ろに2つの顔をもつ神で、行く年、来る年を見つめる。1年最初の月の神(英語のJanuaryの語源)である。その神殿の門扉は、戦時には開かれ、平時には閉ざされた(大体、いつも開かれていた)。まもなく新しい年が始まるが、ローマの公職は原則任期1年で、1月1日に任期が切れる。したがって、新しい人事を決めなければならないのである。

 そこで、執政官2人は元老院議員たちをエペイロス(ギリシア西部)へと招集した(岩波文庫版の注によると、これが歴史的な事実であるかどうかは不明だそうである)。執政官2人とローマの元老院議員の多くがポンペイウスと行動をともにしている、とはいうもののここで新しい人事を行わないと、政権の正統性が疑わしくなると考えたのである。
 多数の元老院議員が集まり、この集まりがポンペイウス派の集まりというよりも、ポンペイウスが元老院と共和政派の一員であることを示していたが、一同の表情は暗かった。
 (同じころローマでは、執政官2人が不在という事態の中、独裁官となったカエサルが選挙会を開き、彼自身とプブリウス・セルウィニウスが(紀元前48年の)執政官に選ばれた。)

 執政官である(ルキウス・コルネリウス・)レントゥルスが立ち上がり、語りかけた。自分たちはローマを追われ、異郷をさまよっているが、「国政の枢機は我らに付き従い、最高指揮権は我らとともにあろう。」(第5巻、27行、227ページ)。ローマを占拠しているカエサルの政権には正統性はなく、彼らの軍勢はイッリュリアの海戦で敗れ、リビュエでクリオは戦死した。大義に基づく反撃のために、ポンペイウスを将帥に選出しようと彼は提案する。この提案は可決され、次に参集した諸国、諸王を賞賛する名誉決議が採択される。
 例えば、ギリシア人の植民都市であるマッシリアがカエサル軍と戦った武勇を賞賛され、その母市であるポキスには自由が与えられ、クリオを敗死させたヌミディア王ユバはリュビエの支配権を認められた。問題は、その次に登場する人物である。
…ああ、定めの何という無情。汝にも、
プトレマイオス、背信の民の王国にこの上なく似つかわしい者よ、
フォルトゥナの恥辱、神々の咎よ、汝にもその髪を絞める、ペッラの
王冠をかむることが許された。少年の彼は、民に向かって振るう狂暴な
刃を受け取った――望むらくはその刃が偏に民に向かっていたなら――。
かくして少年にラグスの王宮が授けられ、マグヌスの喉頸(のどくび)が
これに加わることになった。姉からは王権が、舅からは(婿殺しの)
非道の罪の機会が奪われたのだ。
(第5巻、57‐64行、229ページ) ここでプトレマイオスとよばれているのは、クレオパトラ(Ⅶ世)の弟のプトレマイオスXⅢ世である。ここで記されているのは一種の事後予言であるが、パルサリアの戦いで敗北したポンペイウス(マグヌス)はエジプトに逃れ、プトレマイオスを頼るが、彼に暗殺されてしまう。ペッラはマケドニアの古都でアレクサンドロス大王の誕生の地であるが、ここで「ペッラの王冠」はアエギュプトス(エジプト)の王冠を指している。「ラグスの王宮」のラグスはプトレマイオス王家の先祖の名であるが、「ラグスの王宮」はエジプトの王宮を指している。「姉」はクレオパトラ(Ⅶ世)で、(王家のしきたりにより)弟と姉弟婚をして王位にあったが、仲たがいをしていた。ここでルーカーヌスが書いていることがすべて史実に即しているとはいいがたいのであるが、彼はプトレマイオスがエジプト王になった後に、ポンペイウスを殺し、カエサルが自分の婿(娘の夫)であるポンペイウスを殺す機会が失われたことを憤っているのである。

・・・やがて集会は解かれ、
一群の元老院議員たちは兵戈を目指して散っていった。
(第5巻、64‐65行、229ページ) 彼らのだれも、自分の今後の運命はわからなかったが、それでも戦地に赴いていったのであるが、名門クラウディウス家の血を引くアッピウス(・クラウディウス・プルケル)は今後のなりゆきに対する不安から、将来の運命を知ろうとしていた。彼が知ることになる運命とは…それはまた次回に。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(13)

3月27日(金)曇り

 承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いた平将門の乱は、武士最初の乱とされる。この書物は乱の経緯ではなく、その歴史的な意義を読み解こうとするものである。特に将門が「新皇」即位を宣言して、坂東8か国の国司を任命したこと、その際に彼の即位を正当化する存在として八幡神と菅原道真の霊が持ち出されたこと、また朝廷がこの乱を鎮圧するために王土王民思想を持ち出したことなどが、書物の主題とかかわって掘り下げられてきた。

「冥界消息」と蘇生譚の世界
 『将門記』の「冥界消息」
  「冥界消息」と蘇生譚
 『将門記』の本文は、平将門の敗北と首の入京とを記した後、将門一代の評価、将門の残党の追捕、そして乱後の源経基・藤原秀郷・平貞盛らの賞罰を記して終わる。しかし、それだけでなく、その後に冥界に堕ちた将門からの手紙「冥界消息」が載せられている。
 木村さんは、この将門の乱の直後に、将門がらみでは『僧妙達蘇生注記』、天神信仰とのかかわりでは『道賢上人冥途記』(『日蔵夢記』と、複数の冥界譚、蘇生譚が残されていることに注目する。将門の「冥界消息」は冥界からの手紙であるが、妙達と道賢の場合は一度冥界に堕ちたものの、その後蘇生して冥界の様子を語っているというところに特徴がある。さらに将門の子孫の中に、冥界に堕ちた後に蘇生したという伝説や、救済されて極楽に赴いたという伝説をもつものがいることも注目される。したがって『将門記』における将門の「冥界消息」は、これらの性格の共通性のある文献との関係において考察されるべきだという。

  『日本霊異記』の冥界譚
 冥界譚・蘇生譚とは、さまざまな要因によって冥界、多くは地獄に堕ちた後、生前に仏や経典を供養した功徳によって数日後に蘇生し、冥界での経験を語って周囲の人々に信仰を勧めるとともに、本人もいっそう仏や仏教に帰依して供養した、という内容の仏教説話の一種である。
 中国の仏教説話集の影響を受けて、日本でも奈良時代になるとこの種の説話集があらわされるようになった。その代表が9世紀の前半に薬師寺の僧景戒によって、編纂された『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)である。
 この書物には116話の仏教説話が掲載されているが、そのなかの14話が冥界譚に分類できる。とはいうものの、その内容は多様であった。このような冥界譚が10世紀に入り、浄土教が普及するようになった時期につくられたのが『将門記』における「冥界消息」である。

  平将門の「冥界消息」
  将門の「冥界消息」は2つの部分から構成されている。前半は「田舎人」が「中有(ちゅうう)の使」の便りとして伝えた冥界における平将門の消息であり、後半ではこの消息の異本などが紹介されているという。
 前半に記されているところでは、将門は前世に犯した悪行のおかげでその身を剣の林の中に置かれたり、鉄の囲いの中で肝を焼かれたりする責め苦にあっているが、生前に金光明経1部を誓願したおかげで、一時的に苦しみを逃れる時間があるという。
 『日本霊異記』に出てくる冥界譚の人物は、蘇生して冥界の様子を語るのだが、将門の場合には蘇生しない。これは、彼が実際に誅殺されたという事実によるだけでなく、犯した罪が重いということによると考えられる。
 しかし、彼は生前に金光明経を書写したことがあり、また兄弟妻子に善行を積むように勧めることによって彼らだけでなく、自分自身の救済の可能性を探っているようにも思われる。

  『僧妙達蘇生注記』の特徴
 これは出羽の国の龍華(りゅうげ)寺に住む法華経の侍者僧妙達が天暦5(9)年に突然入滅して閻魔庁に至り、閻魔王から日本国中の人々の善報と悪報を聞いて7日後に蘇生し、現世の人々にそのことを詳しく話して多くの信徒を得て、多大な善業を施した、という話である。
 この書物の特徴は、妙達が閻魔王から聞いた善報と悪報を受けた多くの人々(80~90人)の話が記載されているところにあるが、大石直正によると、善報を得た人物は俗人が多く、悪報を受けた人物には僧侶が多いこと、そのなかでも天台寺院の別当や座主という高い地位にある僧の行状が痛烈に批判され厳しい悪報を受けていることから、「既成の天台宗の教団の在り方をつよく批判し、法華経の信仰を広めようとしている」(190ページ)のだと考えられる。

  『僧妙達蘇生注記』の具体例
 具体例を見ていくと、上野の国の三村正則という人物は『大般若経』の書写、橋の架橋、井戸の開削などの善業によって、天帝釈の宮に生まれ変わったという。これに対し、信濃の国のある僧侶は、寺物である米やもち、油を私用に用いたため、悪報を受けて顔八面の大蛇に生まれ変わったという。

  藤原忠平・平将門・天台座主尊意
 『僧妙達蘇生注記」に登場する人物は出所不明な例が多いが、歴史上知られた人物も登場する。
 まず、太政大臣忠平(菅原道真を失脚させた時平の弟で、将門の主人でもある)は人事を勝手に行った罪により頭九の龍になってしまったという。「何を根拠にしているかは不明だが、当時の最高権力者に対する厳しい批判といえよう。」(182ページ)
 次に将門であるが、彼は東国の「悪人之王」であったが、前世に功徳を積んだ善報により天王となったという。ここでは将門は救済される対象になっている。
 最後に天台座主である尊意は天皇の命によって「悪法」を修して、将門を死に至らしめた報いによって「十一劫」というきわめて長い時間、人間の身に戻ることができず、将門とずっと合戦をし続けなければならないという。
 当時の権力者たちが強い批判の対象となっている一方で、その権力者たちに対して戦いを起こした将門は「悪しき人間」と認識されながらも、救済の対象とされる存在だったのである。木村さんは「ここに『将門伝説』の端緒を見出すこともできよう」(194ページ)と論じている。

 「平将門の乱」の歴史的な意義ということになると、同時代および後世の人々がどのように将門と彼の行為を評価したかということが問題になるが、ここで木村さんは冥界譚・蘇生譚という仏教説話の世界における将門の消息を探り当てながら、彼を「悪人」歳ながらも、当時の権力者に対して反抗したことの意義を評価する人々がいて、それが後世における将門伝説の形成・伝播へとつながっているとの見解を展開している。では『道賢上人冥途記』の場合はどうか。この史料については、『太平記』の中でも触れたことがあるが、次回、また取り上げることとしよう。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(15)

3月26日(木)晴れ

 1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけて梅棹忠夫(1920‐2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。この旅行記はその際の、彼の個人的な記録をまとめたものであり、下巻で彼は主としてカンボジア、(南)ベトナム、ラオス3カ国の旅行の際の見聞を記している。
 1958年2月12日、梅棹は隊員の吉川公雄(昆虫学者で医師)とともにバンコクを出発した。外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家として京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)が通訳として随行、13日にカンボジアに入国し、バッタンバン、プノムペン、海岸の都市カムポットを訪問し、トン・レ・サップ湖の周辺を踏査した。2月21日にはプノムペンを出発して、ベトナムに入国、当時の南ベトナムの首都であったサイゴンに到着した。サイゴンではベトナムの民族宗教の1つであるカオダイ教の本部(タイ・ニン)を訪問したり、コーチシナにおける華僑の進出と開拓の歴史をたどったりした。
 2月28日にサイゴンを出発して北上、このときからサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として参加。海岸の町ファン・ランに到着したあたりから、ベトナム族と激しい対立・抗争を続けた歴史を持つチャム(パ)の遺跡に何度も遭遇することになる。北上を続けて、ニャチャンを経て、3月2日にトゥイ・ホア(綏和)に到着した。

 ゴ総統万歳!
 3月3日にトゥイ・ホアを出発。トゥイ・ホアは地図で見たところでは小さな町であるが、実際には大きく、新興都市という感じであると梅棹は観察した。これに対して農村は日本のいなかに似ているというのが彼の感想である。とりいれの季節で、脱穀作業をしているのが見える。タイやカンボジアでは二輪車を使って収穫物を運ぶのだが、ここでは全部人力で運んでいる。
 「小さな峠を越え、川をいくつも渡る。川は、橋がない。渡し船で渡るのである。海が見える。景色は美しい。」(132ページ)
 途中の海中に軍艦が沈んでいるのを見かける。かなり古いもののようで、ディックによると日露戦争の時のロシアの軍艦だというが、真偽のほどは定かではない。「いずれにせよ、戦争のあとを見るのは、いたましいものである。」(132ページ) この発言は戦争体験のある梅棹らしいものだと言えよう(戦争中、梅棹は戦車隊の小隊長として軍務につくはずだった=司馬遼太郎と同僚になるはずだったが、免除されてモンゴルに渡ったという経歴の持ち主である)。

 通りすぎる村の様子は平和だが、あちこちに煉瓦づみのツイタテのようなものがあって、そこに「ベトナム共和国万歳!」とか、「ゴ総統万歳!」というような標語が書かれている。戦時中の日本の標語政治を思い出して、梅棹は空しさを感じるのだが、南ベトナムの政府としてはやはり必要を感じているのだろうと気を取り直す。

 ベトナム料理
 この日の2時半、クイニョン(歸仁)に到着する。クイニョンは小ざっぱりした、いい町であるという感想を梅棹は述べている。しかし、この町はインドシナ戦争で破壊され、その後復興したのだという。〔クイニョンを省都とするビンディン省は、かつてはチャムパ王国の首都であったことがある。現在のクイニョン市は人口50万人近くなっており、小ざっぱりした街だという感想があてはまるかどうかは疑問である。〕

 クイニョンの町の男子は兵隊として強いという評判があり、女子は賢くてしっかりしているという。町を一通り走って、満足できそうな料理店を見つけて昼食をとる。
 梅棹はベトナム料理が好きだという。中国料理ほど油こくないし、良質の魚醤を使えば大変においしいという。〔私は渋谷にあるベトナム料理店で一度か二度、ベトナム料理を食べただけだから、この感想については何とも言えない。〕
 ディックの言うところだと、ベトナムでは人生の理想として「日本人の妻、フランス風の家、そしてベトナム料理」と言われているそうだ。似たような言葉は、あちこちで聞かれるが、国がちがっていたような気がすると梅棹は記す。
 同じような国民性を示す小話で、こんなのもあるそうである。ある学校で中国人と日本人とベトナム人が一緒に勉強をした。成績は中国人が「算数」で、日本人が「科学」で、ベトナム人は「文学」でトップをとったという。ベトナム人が、自分たち、それから中国人や日本人についてそういうことを考えているというのが興味深いと梅棹は記す。〔読者の皆様も、私同様に、異論を唱えたいところだと思うが、それはご自分でご自由におっしゃってください。〕

 ベトナムの国民性
 食事をしながら石井が、ベトナム人はえらいものだと賞賛の言葉を口にする。梅棹も同感である。タイやカンボジアでは食堂は皆中国人の経営である。ところがベトナムではベトナム人がベトナム料理の店を出している。旅館にしても経営者はベトナム人である。東南アジアのほかの国では、経済を中国系の人々に握られている例が大半であるのに対し、ベトナムではベトナム人が商業の主導権を握っている。一行が見たところでは、ベトナム人はきわめて勤勉である。現在のところは南北の分断が、国民のエネルギーを吸い取っているが、もし、南北が統一されれば、南の農産物、北の鉱産資源、それに水力、石炭などにもめぐまれたベトナムは大いに発展するだろうと、一行は思ったのである。

 風俗ノート
 クイニョンの周辺は昔のチャムパ王国の中心地であったので、多くの遺跡が残っている。どれがどれだかわからないほどである。
 生産力が高いらしく、村が多く、人口も稠密である。一行は雨に出会う。これまで雨に会うことが少なかったので、気持が一新する。北からの避難民であるディックによると、このあたりはトンキン・デルタと同様、一年中雨季なのだという。
 この一帯では男女を問わず、腰まで切れ上がった長い上衣とゆったりしたズボンからなるアンナン服を着ている。男女ともに同じ笠をかぶっているから、ちょっと見ただけでは見分けがつかない。
 農民は襟なしの短いシャツを着て、前のまんなかで合わせてきちんとボタンで留めている。ズボンは緩やかで足首の上の辺りまである。この労働服がまた男女同一である。こういう例はあまりよそでは見かけられないと梅棹は言う。頭に被っているのは菅笠が多いが、男性の中には昔のアンナン帽(幅の狭い角帯をターバン風に巻き付けたようなもの)を被っている人も見られる。
 タイではどんな田舎に行ってもパーマ屋があったが、ベトナムの女性はほとんどパーマをかけず、長い髪のはしを切りそろえて、さらりととき流している。
 若い女性は伝統的な衣装に固執しているが、男性の方はズボンにカッター・シャツという姿が多い。またヘルメットがはやっていて、小学生はほとんどヘルメットをかぶっている。

 まだ北への旅は続くが、ここで第15章は終わり、次回から第16章「大官道路」に入る。「大官道路」(Mandarin Road)はアンナン帝国の官吏たちが駕籠に乗って旅行するために設けられた道路である。そして第16章の最後のところで、ディックと別れた梅棹たちはラオスに入国する。 

日記抄(3月22日~25日)

3月25日(水)晴れ

 3月22日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月17日
 この日の参院予算委員会の出来事:
「検察官逃げた」 ゆう子が雅子を問い詰める
(両方とも森という姓である。)

3月19日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編「フランスで『世界と出会う』」の19日、20日の放送では、人手不足に悩むフランスの教会で、更新可能な3年契約で司祭をしている西アフリカのベナン出身の黒人神父のことが取り上げられていた。番組の終りの方の「Florenceに訊いてみよう」のコーナーでは、講師の1人であるフロランス・メルメ・オガワさんが番組の内容と関連した話をしているが、今回は、フランスにおけるカトリック信仰をめぐり、
Environ 65% des français sont catholiques, mais les pratiquants qui vont à l'eglise rélgulièment ne seraient plus que 7%.
(約65%のフランス人がカトリック信者ですが、実践している人、つまり規則的に教会に通っている人は、もう7%程度しかいないでしょう。)
と語っていた。

3月20日
 『朝日』朝刊に「高級食材 コロナ余波で値崩れ」という記事が出ていた。「大トロ在庫の山、越前ガニ半額」 だからと言って、こちらの食卓まで回ってくるわけでもなさそうだ。

3月22日
 『朝日』の朝刊に3月20日から公開されている映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が紹介されている。1969年5月13日に東大の駒場キャンパスで行われた討論会の様子は、これまでもテープや本では知られてきたが、TBSだけが映像として収録していた。その75分の映像に新たに関係者へのインタビュー映像を加えて制作された映画だという。監督である豊島圭介さんは、この討論会の後に生まれた世代だそうだが、「体温や汗を感じる対話 重要だと感じる」と語っている。
 それはそうかもしれないが、一つ気になるのは、三島が自分の母校である東大の全共闘とは話し合ったけれども、他の大学の全共闘の学生とか、あるいはその他の学生と話し合おうとはしなかったのではないかということである。私の知人に(三島のもう1つの母校である)学習院の元全共闘というのがいるので、余計そのことが気になるのである。

 対話と言えば、同じ『朝日』の「社説余滴」で藤生京子記者が「『対話のレッスン』始めては」と書いているのも印象に残った。特に言葉のキャッチボールによって対話が必ずしも深まらなくてもいいという平田オリザさんの言葉、また「たとえ共感できなくても、相手の存在を認めあう関係こそが対話」というロバート・キャンベルさんの言葉を噛み締めるべきではないかと思った。無理に話し相手と同化する必要はないのである。

3月23日
 歌手・女優で肢体不自由児の療護施設「ねむの木学園」の創設者として知られる宮城まり子さんが3月21日に亡くなられたことが分かった。宮城さんというと、思いだされるのは1955(昭和30)年に大ヒットした「ガード下の靴みがき」である(ということで、弔意を表してこの歌をYouTubeで検索して、聴いた。西田佐知子さんの「アカシアの雨が止む時」、三池炭鉱労組の「炭掘る仲間」とならんで、私の好きな歌である)。それから1974(昭和49)年に公開された映画『ねむの木の詩』も思いだされる。大学院生だった私はまだまだ生意気盛りを脱していなかったので、「美しい映画であることに限界がある」などという批評を書いた記憶がある。そのくせ非常勤講師として教えに行った学校で、最近見た映画でよかったのはと質問されて、この映画を挙げたりした。もう一つ思いだされるのは、川島雄三監督の映画『グラマ島の誘惑』で森繁久彌と共演していることで、両者ともに即興的な演技が得意だったので、なかなか面白い組み合わせであったと思う。もう一度機会あがったら見てみたいと思っている。謹んでご冥福をお祈りします。

 本日の朝刊に載っていた週刊誌の広告の中の気になる記事:
『週刊現代』3月21日/28日号
 「医者がためらいながらも出している薬」として列挙されているなかで、降圧剤のアムロジピンをわたしも服用している。今度、医者と相談してみよう。
『週刊ポスト』4月3日号
 作家の百田尚樹氏が「安倍さんには失望したわ」と激白しているそうである。今年の正月休みに、安倍首相は百田氏の著書を読んだはずだが、あるいは著者の意図を読み違えているようなことがあったのかもしれない。

 わたしの社会科学の知識がその程度のものだと言ってしまえばそれで終わりになるが、『NHK高校講座』の『政治経済』、『現代社会』の放送はいろいろと参考になる。とはいうものの、気になるような内容の授業がないわけではない。
 本日の『現代社会』で、講師がアダム・スミスは経済を自由に放任していても、神の見えざる手が働いて、市場原理によって経済活動はうまくいくと説いたと語っていたが、これはかなり乱暴な解釈である。根井雅弘さんの『英語原典で読む 経済学史」に次のような指摘がある:
 スミスの『道徳感情論』や『国富論』を精読したことがなくても、「見えざる手」という言葉だけは知っている人が世の中に多いようです。高校の政治経済の教科書や、大学でも経済学入門のような教科書では、「見えざる手」という言葉を使って自由放任主義や予定調和論を正当化した「経済学の父」としてスミスは登場します。このような理解の問題点は、すでに何人ものスミス研究者たちが指摘してきましたが、ここでは、次の点を指摘するにとどめます。――スミスは確かに人々の「利己心」を肯定したが、市民社会のルールを平気で破るような勝手な行動を容認したわけでは決してなく、その行動は「公平な観察者」の「同感」が得られる範囲内でなければならないと考えていた。それゆえ、「見えざる手」という言葉を自由放任主義と結びつけて理解するのは問題を含んでいると。(根井、56‐57ページ) そもそも、この言葉の起こりとなった旧約聖書の『ダニエル書』を読んで、「見えざる手」(実は見えている)がどこで登場するかを考えればわかることではないかと思う。
 それから、「自由放任」(レッセ・フェール)ということを初めて唱えたのは、スミスではなく、この言葉がフランス語であることから分かるように、同時代のフランス重農学派のテュルゴーである。

3月24日
 『朝日』の朝刊に掲載されていた「Youth川柳」の中で「6年にさよならいえずはるやすみ」という神奈川県の藤川竜樹くん(7歳)の句が子どもらしくてよかった。

 『日経』朝刊1面のコラム「春秋」で、1940年に開催予定だった東京五輪を1938年になって返上した時の木戸幸一厚相の「挙国一致、物心両方面の総動員を行ひ」などという「ずいぶん物々しい」声明が引用されていた。木戸幸一(1889-1977)は昭和天皇の側近の1人で、日米開戦の前後には内大臣を務めていた。映画『トラ・トラ・トラ』で芥川比呂志が扮する木戸内大臣が山村聰の扮する山本五十六海軍大将に話しかける場面が印象に残っていて、後で『木戸幸一日記』を読んで調べてみたところ、この会話がおそらくは(もともとの脚本を書いた黒澤明の)作り話であったと気付いたことを思い出す。今、思うと、この映画が上映されたときにはまだ木戸は生きていたのである。

 週刊誌の広告で見かけた気になる見出し:
女性自身 4月7日号
 コロナ不況 株価暴落で年金支給月額 4割減も
週刊女性 4月7日号
 テレワークもマスク支給も 社員だけ! 非正規いじめの悲鳴

3月25日
 「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」を推進しようということで、新しい学習指導要領に基づく中学校教科書の検定結果が発表された。学校現場がどのように変わっていくのか、あるいはあまり変わらないのか、あるいはただ混乱するだけなのか、慎重に見守ることにしたい。というのも、「アクティブ・ラーニング」と「主体的・対話的で深い学び」がどのようにかかわるのか、理論的に整理することはかなり難しいのではないかと思われるからである。

 東京オリンピック2020の開催が1年延期されることになった。各紙の紙面に載っていた「東京オリンピックまであと〇〇日」、「パラリンピックまであと〇〇日」という数字が、だんだん消えていたので、それほど強い衝撃を受けたというわけではない(『日経』は昨日までこの数字を示していた)。それよりも、『毎日』に掲載されたバッハIOC会長との会見に臨む安倍首相と小池都知事の今にも泣きだしそうな表情の方が心配だ。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』の”A Song 4(for) u(you)"のコーナーでは、”You'll Never Walk Alone"を取り上げた。もともとはミュージカル『回転木馬』の中で歌われたというで、アメリカの歌なのだが、英国のマージー川を航行する船を歌った歌として、また英国プレミア・リーグの強豪として知られるリヴァプールFCのアンセムとして英国で親しまれることになった。もう20年以上前になるが、リヴァプールで生活したときに、向こう岸がかすかに見えるくらいに広いマージー川の流れを時々眺めていたことが思い出される。私はこの歌は、ジュディ・ガーランドの歌唱で親しんでいて、『ジュディ 虹のかなたに』を見に出かけようかと思っているところなのである。 

日記抄(3月18日~21日)

3月24日(火)晴れ、日差しは暖かかったが、風は冷たかった。

 3月18日から21日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月13日
 3月12日、13日とNHKラジオ『まいにちフランス語』応用編:「フランスで『世界と出会う』」では、パリで「非正規滞在外国人」として生活しているアフガニスタンからの難民を取り上げた。その中にprécieux sésameという語が出てくる。そのまま訳せば「高価なゴマ」であるが、『アラビアン・ナイト』の中の「アリババと40人の盗賊」に出てくる「開け、ゴマ」(Sésame, ouvre toi !)という語を踏まえて、「成功のための魔法のことば、成功の鍵」という比喩的な意味も持つという。調べてみたところ、この「開け、ゴマ」という言葉は、『アラビアン・ナイト』を西欧にはじめて紹介したアントワーヌ・ガラン(1646‐1715)の翻訳(いわゆる「ガラン版」)の中にすでに見られるそうである。

3月17日
 本日は、アイルランド(とマン島)にキリスト教を広めたとされる聖パトリックの日(Saint Patrick's Day)である。もう四半世紀ほど昔になるが、英国のコヴェントリーを訪問した際に、アイルランド系の人たちがこの日を盛大に祝っているのに出会ったことがある。聖パトリックのおかげで、アイルランド(とマン島)にはヘビがいないという話もある。

 『読売』の朝刊に「世界を塗り替える日の丸文具」という記事が出ていた。日本の文具、特に筆記具は少子化と紙削減の傾向の中で、機能性を追求しており、その点で欧米の主流とは違った進化を遂げてきたが、そのためにユニークでカラフルな特色を獲得し、海外市場での競争力を発揮、「『ガラパゴス化』の勝利」とでもいうべき現象が起きているという。
 そういえば最近、コクヨのぺんてる買収が失敗したというニュースがあったが、紙製品における有力な企業であるコクヨが国際的な市場に進出しようとすれば、筆記具における技術開発力で注目されるぺんてるに魅力を感じるのは当然のことであろう。何となく悪役にされたコクヨであるが、三笠書房の「知的生き方文庫」に入っている『コクヨの結果を出すノート術』は、自分なりのノート術を工夫したいと思っている人には参考になる書物なので、立ち読みでもいいから目を通すことをお勧めする。

3月18日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Start by doing what’s necessary; then do what's possible;
and suddenly you are doing the impossible.
---- Saint Francis of Assisi
(Italian Catholic friar and preacher, 1181 - 1226)
必要なことからし始めなさい。次に、可能なことをしなさい。すると突然、不可能だったことをしているものだ。
 アシジの聖フランシスコはキリスト教の世界においては大きな影響力を持つ仕事をした人物であるが、同じことをして同じような影響力を持つようになれるかどうかは、考えてみる必要がある。

3月19日
 新聞報道によると昨日の国会での質疑の中で、麻生太郎副首相兼財務相が40年ごとに「呪われた五輪」が起きるという趣旨の発言をしたとのことであるが、「呪われて」いるのは、五輪かどうかは考えてみる必要がある(案外、ご自分だったりして…)。

3月20日
 『朝日』朝刊の「天声人語」で落語の「長屋の花見」を話題として取り上げていた。貧乏長屋の面々が大家さんの発議で花見に出かける。毛氈はござ、卵焼きに見立てたのは沢庵、お酒ではなくて「お茶け」という準備で出かける…上野の山に到着して「茶かもり」がはじまり・・・誰かが云う。「長屋に近々いいことがありますぜ。ごらんなさい、酒柱がたっている」。「縁起物の茶柱をそう表現した落語のオチは、何度聞いてもほおが緩む」とコラム子は書いているが、じつはこの噺、もともとは「貧乏花見」という上方落語を、2代目蝶花楼馬楽という落語家が東京に移したもので、その際に、長屋の人々が相談して花見に出かける→大家さんの発議、男女混合で出かける→男だけで出かけるというような改変が行われた。そんな事情があって、演者によって結構展開は違うし、オチも違うのである。コラム子は「何度聞いても」と書いているが、あまり何度も聞いていないのではないかと疑われるような文章であった。故人となった桂米朝も書いていたが、「貧乏花見」と「長屋の花見」を聴き比べると、上方と東京(江戸)の文化の違いが分かるところがあるので、ぜひ試してみてください。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」に登場する佐藤夫妻は、ラテンアメリカ旅行の最期に、アルゼンチンに到着し、アルゼンチン人の友人フリオさん、ルシアさん夫妻の大草原パンパにある別荘に到着した。1816年に独立した後、アルゼンチンは「ヨーロッパの穀倉」と呼ばれるほど豊かな、世界有数の農牧国に発展する。辺りの様子に感動した佐藤夫人は
No cabe duda de que la vida campestre es encantadora.
(田園生活は間違いなく素敵ですわ。)というが、これに答えて、フリオさんは
Mi padre disfrutaba mucho este ambiente, ideal para leer el poema épico El Gaucho Martín Fierro.
(私の父はこの環境を満喫していました。叙事詩『エル・ガウチョ・マルティン・フィエロ』を読むのに最適です。)
という。ガウチョは、パンパでの放牧に関わった牧夫たちで、『エル・ガウチョ・マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの作家ホセ・エルナンデス(1834‐86)が1872年に発表した(続編が1879年に出版された)ガウチョ文学の傑作であり、アルゼンチンの国民文学とされている。主人公マルティン・フィエロとその友人のタデオ・イシドーロ・クルスの数奇な運命が描かれ、2人はインディオの世界へと去っていく(続編で、クルスは死に、フィエロはまた白人たちの世界に戻ってくる)。
 この作品はアルゼンチンの映画作家レオポルド・トーレ・ニルソンによって1968年に映画化され、1970年に大阪万博の際に開かれた日本国際映画祭で上映されたのを見たことがある。一般公開はされなかったが、アルゼンチン映画の傑作の1つに数えられている。また1972年にはフェルナンド・ソラナスによって続編の映画化『フィエロの息子たち』が製作された。

3月21日
 『東京』連載の漫画『ねえ、ぴよちゃん』。ぴよちゃんの友だちのひみこちゃんの家では、猫のポールが食卓の上に並べられた料理に手を出さないようにひみこちゃんが見張る役を仰せつかる。一方、ぴよちゃんの家では、猫の又吉がぴよちゃんがつまみ食いをしようとするのを阻止している。かたや、子どもが猫の番をし、こちらでは猫が子どもの番をしているということである。現実には猫が人間の番をすることはないだろうが、その奇抜な発想と絵の可愛さで見せている。 

 本日は、また居眠りをしたり、原稿が2度もうまく投稿できなかったために、完成が遅れました。皆様のブログへの訪問もこのために、かないませんが、あしからずご了承ください。  

『太平記』(307)

3月23日(月)小雨が降ったりやんだり、肌寒い。

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1348年)2月、清水寺が炎上、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死傷者が出たが、それらは天狗の仕業であると噂された。足利直義は信頼する僧侶の妙吉侍者や側近の上杉重能、畠山直宗らの言葉を信じて、将軍の執事である高師直の謀殺を企てたが失敗し、逆に師直・師泰兄弟をはじめとする大名たちの「御所巻」に会い、出家して錦小路堀川に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。
 事変に先立って羽黒山伏の雲景は、愛宕山の天狗太郎坊から直義と高兄弟の間で抗争が起きるという予言を受け未来記を記していた。その頃、天に電光が走るなどの怪異があった。

 今回から第28巻に入る(『太平記』は全体で40巻からなるが、古本系の写本では第22巻が欠けている)。全体の3分の2を読み終えたことになる。足利直義と高師直の争いが、尊氏と直義との間の争乱=観応の擾乱に発展していく。
 6月の四条河原の出来事は、第27巻の「田楽の事」では天狗の仕業として描かれているが、「雲景未来記の事」に登場する天狗太郎坊は、天狗の仕業だといううわさを否定している。妙吉侍者(同時代史料で確認できる実在の人物である)は事変後、逐電して行方不明となるが、太郎坊は、天狗の一味であると語っている。作者が物語の前後のつじつまを合わせている部分と、そうでない部分があるのはどういうことであろうか。

 貞和6年2月27日に、改元が行われ、年号は観応となった。前年の8月に高師直・師泰兄弟を首謀者とする一種のクーデター=御所巻が起きて、それまで政治の実権を握っていた三条殿=直義が失脚した。そしてそれまで鎌倉にいた尊氏の嫡子・義詮が上京して天下の政治をとることとなった。〔入れ替わりに、義詮の弟の基氏が、まだこの時点では元服していなかったのだが、鎌倉に向かうことになるが、そのことを『太平記』の作者は書いていない。〕 しかし、義詮の陰で、師直・師泰兄弟が実権を握り、政権を動かしていることは明らかであった。

 さて、その義詮・基氏兄弟の異母兄である足利直冬は、貞和4年に直義によって中国地方の探題として備後に派遣されていたが、貞和5年9月、師直の命を受けた武士たちの攻撃を受けて、備後を脱出、肥後の川尻幸俊のもとに身を寄せていた。九州の武士たちにも、直冬を討ち取るべしという将軍の御教書が届けられていたが、これは将軍の本意ではあるまい、師直が勝手に出した命令であろうと推し量るものが多く、後の禍を避けるために、だれも直冬を攻撃しようとする者はいなかった。
 そんな時に、何を思ったのであろうか、九州の有力な豪族の1人である少弐頼尚が、この直冬を婿にとった〔岩波文庫版の脚注によると、これが史実かどうかは不明だそうである〕。そして、その居館に直冬を住まわせたので、その催促(軍勢の招集)に従う者が、九州以外からも現れるほどの勢いとなった。
 これによって、天下は宮方、将軍方、直冬方に三分され、争乱は止まず、ますますその行方は混沌としてきた。あたかも中国で後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の3国が鼎立したのを想起させるような様子である。

 中国地方では、石見の国の武士三角(三隅)兼連が直冬の呼びかけに呼応して国内で勢力を伸ばし、幕府に反抗する姿勢を見せているという情報が入り、反乱が大規模なものになる前に鎮圧しようと、高師泰が6月20日に京都を出発、途中から軍勢に加わるものも多く、2万余騎の大軍を率いて石見の国へと向かった。〔三角兼連は現在の島根県浜田市三隅町を本拠とした武士だそうである。三隅町の正法寺と三角神社に墓所があるという。〕
 7月27日に石見の国を流れる江の川の中流域の川岸に到着し、敵陣を眺めると、青杉、丸屋、鼓崎と3つの城塞が4、5町置きに丘の上に築かれていて、その麓を川が流れ、三鈷のように見える。この城塞は石見の国にその人ありと知られる佐波(さわ)善四郎が立てこもっている場所と見受けられた。〔沢善四郎は、邑智郡佐波郷、現在の島根県邑智郡美郷町の武士である。〕
 城から下りてきた敵兵300余騎が対岸に待ち構えて、ここを渡って来いと招き寄せる。
 寄せ手の2万余騎は、川岸に立ち止まり、どこを渡ればよいのかと川の流れに眼をやるが、水量の多い急流でなかなか思案が浮かばない。

 どこを渡ればよいのかわからない急流を、血気にはやって渡ろうとすると、水に溺れて死ぬものが出るかもしれず、それでは全く意味がない。もう日が暮れようとしている。夜になったら、泳ぎの達者なものをたくさん川の中に入れて、川の深さをしっかり測って、明日川を渡ることにしようと軍議は一決し、静かに馬を休ませていた。
 ところが、毛利師親(後に、元春と改名、安芸の武士)と高橋(高梁)九郎左衛門が300余騎を率いて、前陣にやってきて次のように述べた。源三位頼政が宇治の平等院に立てこもった時に、足利又太郎忠綱が宇治川を渡り、承久の乱の時に柴田兼義(能)が佐々木信綱と先陣争いをして瀬田川の浅瀬を渡った時も、どちらも瀬踏み(川の深さを測ること)をしてから馬を乗り入れたのであろうか。思うに、渡河が容易な場所だからこそ、敵はその地に兵を置いて防ごうとしているのではないか。この川の道案内は我々を置いて他にはいない。御一同、お続きください。
 こう言って2騎が川に馬を乗り入れ、彼らの郎等300余騎がそれに続き、安芸の三次の武士である三善が200余騎を率いてさらに続いて、馬筏を組んで川を渡り、対岸へと駆け上がった。佐波の軍勢はしばらく支えていたが、こらえきれず、敗走して背後の城の中に逃げ込んだ。

 毛利師親(→元春)は、吉川英治の『私本太平記』に登場する毛利時親の曽孫で、祖父・父が南朝方に味方したのに対し、曽祖父の意向を受けて足利方に加わり、後の大名・毛利家の基礎を築いた。この個所では知勇兼備の武将としての片鱗を見せている。彼の曽祖父である時親は、鎌倉幕府創設に貢献した大江広元の曽孫で、楠正成に兵法を教えたという伝承もある。吉川英治は『私本太平記』の中で、この人物をもっと活躍させたかったのだろうが、健康上の理由で十分に描き切れなかったのではないかと私は勝手に想像している。大江→毛利氏は鎌倉幕府にとっていわば元勲と言える存在の家柄であり、だからこそ北条氏に目の敵にされて、宝治合戦でほぼ壊滅状態になったのだが、一族の経光はしぶとく生き延び、その子、時親がさらにしぶとく幕府滅亡後も家系を継承させた。毛利家は隔世遺伝的にすぐれた武将の出る家系ではないかと、これも私の勝手な想像である。
 足利忠綱は藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の武士であり、治承寿永の乱において平家方で戦った猛将である。足利氏には、尊氏・直義に代表される清和源氏流足利氏もあるので、混同しないように気をつける必要がある。佐々木信綱は頼朝挙兵に従った佐々木4兄弟の長兄定綱の四男で、普通宇治川の先陣争いというと思いだされる佐々木四郎高綱の甥にあたる。実は、この二人の四郎の渡河における先陣争いの説話は混同されたところがあるのかもしれないと思われる。佐々木氏の高島、六角、京極などの流れは信綱の子孫であり、ということは『太平記』の主人公の一人といってもよい、佐々木(京極)道譽も信綱の子孫である。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(36)

3月22日(日)晴れのち曇り

 母親の弟であるガードナー氏とその夫人とともに旅行に出かけたエリザベスは、叔母が昔住んでいたダービーシャーに滞在することになり、その間、この地方の名所であるペムバリー邸を訪問することになったが、この邸の当主は、彼女が結婚の申込を断ったダーシーであった。彼との鉢合わせを避けたい彼女は、訪問する日に、まだ彼が帰館していないことを確認したうえで、叔父夫婦とともに邸を見学する。邸を案内しながら、女中頭は当主が地主として、またこの邸の主人として立派な人物であり、妹にとってよい兄であることを誇らしげに語る。その一方でウィッカムについては、先代に眼を掛けられたものの、現在は軍隊に入り、だいぶ生活が乱れているようだともいう。邸の中を見ながら、エリザベスは、ダーシーの趣味の良さに感嘆し、彼に対する認識を改めることになる。

 「館内の一般に公開されている所を全部見おえたので、皆は階段を下りて一階の玄関広間に戻った。そこで女中頭にお礼の心附を渡して別れを告げると、あとは玄関の出口で待っていた庭師が庭園の案内を引継いだ。」(大島訳、425ページ)
 エリザベスは芝生を横切って邸内を流れる川の方に向かいながら、もう一度邸を眺めた。この邸はいつ頃建てられたのかと考えていると、突然、この邸の当主が建物の裏手の厩に続いている道から姿を現した。
 二人(エリザベスとダーシー)の間は20ヤード(約18メートル)と離れておらず、それも彼が不意に現れたので、エリザベスは自分の姿を隠すことができなかった。「すぐに二人の眼が合い、見る見るうちに二人の頬が真赧になった。」(大島訳、425ページ、何も「赧」などという難しい字を使う必要はないだろう。なお、原文ではTheir eyes instantly met, and the cheeks of each were overspread with the deepest blush. Austen, Pride and Prejudice, p.241) それでもダーシーの方は一瞬、その場に立ちすくんだけれども、すぐに気を落ち着かせて、エリザベスに近づき、丁重な言葉で彼女に話しかけた。

 エリザベスはその場から逃げ出したかったけれども、相手が丁重に話しかけてきたのでそうするわけにもいかず、戸惑いを抑えきれないまま彼の挨拶を受けた。叔父夫妻は、ダーシーの姿を見るのは初めてであったが、彼の姿を見た庭師の驚いた様子でそれと察した様子である。エリザベスは自分がここに来たことが露見してしまった恥しさと戸惑いで、上の空になっていたが、ダーシーの方も同じ質問を繰り返すなど、思いが乱れていることは明らかであった。そして話すことが無くなったので、気を取り直すと、一礼して去っていった。

 ガードナー夫妻、つまりエリザベスの叔父と叔母はダーシーの様子が立派なことを褒めていたが、エリザベスには叔父夫婦の会話は耳に入らず、とにかくここで彼と会ってしまったことが恥しく、腹立たしかった。そしてダーシーが予定よりも1日早く帰還した不運を嘆いた。しかも彼の方から彼女に、それも鄭重な言葉づかいで話しかけてきたことが驚きであった。
 一行は川沿いの美しい遊歩道を進んで行ったが、その見事な景観もエリザベスにはほとんど眼に入らず、彼女の視線はペムバリー・ハウスの一箇所、ダーシーがいる場所に向けられていた。彼女が知りたかったのは、彼が彼女のことをどのように考えているのか、そしてどうしてあのような態度をとったのかということであった。エリザベスが上の空の状態であることに、叔父夫婦も気づいて、どうしたのかとたずね、彼女は我に返って、もっと普段の自分らしい態度をとらなければならないと思った。

 広壮な庭園の全部を回ることは無理だとわかったので、一行は一般観光用に指定された順路をたどることにして、先へ進んだ。そしていよいよ先に進むことが難しくなったところで、邸の方に引き返した。ところが釣り好きなガードナー氏が、邸内を流れる川がよい釣場だということに気づき、あちこちで立ち止まったので、なかなか先へ進まなかったのである。
 そうやって一行がのろのろと歩いていたところに、ダーシーまた現れた。エリザベスは、彼が自分たちに用があるとは思っていなかったが、それでも心の準備をする余裕があったので、彼にまた丁重に話しかけられたときに、自分も礼儀正しく答えることができた。ただ、多少のぎこちなさは残っていた。

 ダーシーがエリザベスに彼女の連れを紹介してほしいと頼むので、エリザベスは2人が自分の叔父夫婦であることを話す。上流階級の人士であるダーシーにとって、ロンドンのシティーで実業にたずさわっている商人のガードナー夫妻は彼の自尊心からいって付き合いかねると言っていたはずの人種なのだが(そして、ダーシーがエリザベスの姉のジェインと、自分の友人のビングリーの間の交際に水を差したのも、もともと中流階級出身のジェインとエリザベスの母の下品な言動がもとになっていたのだが)、ガードナー氏の趣味の良さや礼儀正しさに、ダーシーはすっかり感服した様子であった。
 そして彼は叔父を滞在中はいつでも釣りにおいでください、道具はお貸ししますと釣に招待する。エリザベスはダーシーのこのような変化に目を見張るのである。エリザベスは、このような彼の変化が自分のために起きたことが内心、得意であったが、彼がまだ彼女を愛しているとはどうしても思えなかった。

 二人で並んで歩くことになった時に、エリザベスはダーシーに予定では翌日に戻る予定だったのにと問うと、その予定だったが、執事に用があったので、予定を早めて戻ってきた、ビングリーとその姉妹も翌日に戻る仲間の中に入っているので会えば喜ぶだろう(喜ぶとは限らない)、さらにもう一人、自分の妹のジョージアナがいるので、ぜひ会ってほしいという。
 叔父夫婦がゆっくりと歩いてきたので、二人はエリザベスの旅行の経験などをしばらく話し合った。そして叔父夫婦が戻ってくると、エリザベスと叔母が馬車に乗るのを助け、そして邸の方に去っていった。
 帰りの馬車の中でエリザベスは叔母とダーシーのこと、ウィッカムのことを話し合い、これまでの彼らに対する認識に誤解があったことを認める。その日の残り、エリザベスはダーシーが自分に丁重な態度をとり続けたこと、また妹を彼女に紹介したがっているのはどういうことかを考え続けていた。

 法善寺一皮むけてめぐりあい(桑原狂雨)という川柳が好きである(私自身はあいにくとそういう経験はなかった)。まだ両者ともに、それほど気持ちの整理がついていないときに、再会してしまった。それでも、第2巻第11章で、無思慮かつ唐突にエリザベスに求婚して拒絶された時に比べて、ダーシーが思慮深くなってきていることは、再会後の彼の態度で分かる。なお、ここでダーシーはかなり唐突に出現するが、執事に用があったので、仲間の一行と離れて急いでやってきた、つまり馬を走らせてやってきたので、その馬を厩につないで、他の人から見れば思いがけない場所から姿を現したということである。

 これで第3巻第1章(第43章)を終り、次回はいよいよエリザベスがダーシーの妹のジョージアナと対面することになる。彼女が才芸をことごとく身に付けた完璧な令嬢なのか、高慢な存在なのかなど、これまで噂だけでしか登場してこなかった人物がいよいよその姿を現すのである。
 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(18)

3月21日(日)晴れ

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の未完に終わったこの叙事詩は、紀元前1世紀の中ごろ、ローマ共和政末期における内乱を題材としている。
 紀元前60年にポンペイウス、クラッスス、カエサルの3者の間で成立した第一次三頭政治は、混乱の続いたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアで敗死してその一角が崩れると、残った2人の間の対立が激しくなった。詩人は過去の英雄ポンペイウスを「樫の古木」、昇竜の勢いのカエサルを「雷電」に譬えている。
 紀元前59年、ローマのポンペイウスは元老院と結び、カエサルのガリア総督の職を解き、軍隊を解散することを命じたが、カエサルは軍を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、護民官の職を解かれてローマを追放されたクリオの教唆もあって、ローマへと進軍することを決心する。カエサル襲来の噂にローマは混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、ローマの高官たちの多くが脱出していく。(第1巻)
 ポンペイウスは反撃を試みるが、彼の軍隊は各地でカエサル派の軍隊に敗れ、最後に残ったブルンディシウム(現在のブルンディジ)も支えきれず、ギリシゃの西の方へと船で逃れていく。(第2巻)
 カエサルはローマに入城するが、彼を支持するものはわずかである。この後の戦いに備えて彼はサトゥルヌス神殿の予備金庫の中の財貨を略奪する。ポンペイウスは東方の各地から大軍を集めて反撃を準備する。カエサルはローマを発って、イベリア半島のポンペイウス派を掃討するために西進するが、ギリシャ人たちの植民地であるマッシリア(現在のマルセイユ)がポンペイウスとの講和を主張してそれを阻もうとする。カエサルは一部の兵を残してイベリア半島へと向かい、残った兵は陸では苦戦したものの、海戦でマッシリアを攻略する。(第3巻)
 イベリア半島に進軍したカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが率いるポンペイウス派の軍隊を破るが、イッリュリアのクリクタ島ではアントニウス(後の三頭政治家の弟)がポンペイウス派に包囲され、脱出に失敗して敗れる。(第4巻のこれまで)

 ところで、この戦にまさるとも劣らず熾烈だったのは、その後、
リビュエの野で燃え上がった戦である。
(第4巻、574‐575行、207ページ) リビュエは「現在のリビアを中心とするアフリカ北西部地方、アエギュプトゥス(エジプト)を含む東北アフリカの総称として用いられる」(「地名・部族名等一覧」43ページ)と注記されている。リビアがアフリカ北西部にあるといっていいかどうかは疑問であるが、これからの戦闘が展開されるのは、現在のチュニジアの辺りなので、北西部と言ってよい。

 カエサルに内乱をそそのかしたクリオは、その後シキリア(シチリア)の総督であった小カトーを追い払って、この島に軍隊を駐屯させていた(カエサル『内乱記』41‐42ページ参照。ルーカーヌスは小カトーをストア的聖人として理想化して描いているが、政敵であったカエサルは、厳しい評価をしている。とにかく両者とも自分に都合の悪いことは触れていないので注意を要する)。
 クリオはシキリアの西端にある港町リリュバエウム(現在のリリベオLilibeoのことだろうと思われる。シチリア州トラパニ県マルサーラの一部になっているが、ポエニ戦争の時は重要な役割を演じた古代都市らしい)を出発し、アフリカ大陸北岸の(かつてローマと地中海の覇権を争った)カルタゴの遺跡と、その西にあるクリペアの間に上陸した。『内乱記』によるとカエサルはクリオに4軍団を与えたが、クリオは敵の力を見くびって2個軍団と騎兵500騎だけで渡ったという。カエサルはクリオの上陸地をアンクィッラリアと記している。

 海岸の近くにある高台とその周辺は「アンタイオスの領地」とよばれていたが、それは古代ギリシャの英雄ヘラクレスが、この地に住んでいた狂暴な怪人アンタイオスと戦い、苦戦の末やっと退治したという神話に基づく命名である。アンタイオスは大地の女神の子どもであったので、その体が大地に触れるたびに力をとり戻すことを見抜いたヘラクレスはアンタイオスの体を持ち上げたままその命を絶ったといわれる。
 また、海岸近くの高台は第二次ポエニ戦争(紀元前218‐201)の際に、シキリアから渡ってきたスキピオ(プブリウス・コルネリウス・~・アフリカヌス)が陣営を構えた場所であり、その遺跡がまだ残っているという。「ローマが初めて勝利を収め、占拠した野がここなのだ」。(第4巻、651行、212ページ)

 この前例が、自分の場合にも当てはまると思って、浅はかにもクリオはこの高台に陣地を張った。しかし、彼に対抗するプブリウス・アッティウス・ウァルスは大軍を擁し、しかもヌミディア王で、北アフリカでもっとも勢力をもっていたユバⅠ世の軍勢が家政として加わり、他にもアフリカの部族の支援を受けていた。
 ユバはローマの元老院からヌミディア王としてリビュエの支配権を与えられていたのだが、クリオはカエサルと結託してその王位と支配権を奪おうとした過去のいきさつがあり、ユバはクリオに対し敵意を燃やしていた。
 またクリオにしてみると、彼の率いている軍勢は、もともとコルフィニウムでカエサル軍に降伏した(第2巻)軍で、戦局によって有利な方に寝返ろうという危うい兵たちからなっていたことが、心配の種であった。
 しかし、緒戦では、クリオの軍勢はウァルスを破り、敗走させた。

 だが、ウァルスが戦闘で敗れ、撃破、掃滅されたとの悲報を耳にするや、
ユバは、戦の誉れが自分の軍勢のために取っておかれたと喜び、
急遽、密かに隊伍を率いて進軍したが、厳に緘口令を敷き、
自分の進軍が飛語となって広まらぬよう、極秘裏に事を運んだ。
(第4巻、705‐708行、216ページ) 彼は王に次ぐ地位にあるサップラを先発させ、自分たちの軍勢を実際よりも少なく見せかけたうえで、大軍を窪地の谷間に温存し、毒蛇をマングースが退治するやり方をまねて、クリオの軍勢を罠にかけようとした。
 クリオは「リュビエの陥穽に気をつけろ、奸策で常に血ぬられた/ポエニ戦役の例を忘れなという、再三再四受けた忠言を/徒にして」(第4巻、725‐727行、217ページ)朝早くから高台の崖の上を進軍した。

 サップラの率いる軍勢が事前の取り決め通り後退するのを、退却と判断したクリオは軍勢を平原へと向かわせるが、それまで隠れていたヌミディアの騎兵たちに包囲される。呆然自失として戦意を失ったクリオの軍勢は、ユバ王の軍勢のなすがままになる。包囲の輪はしだいに狭まり、最後の時を知ったクリオは、自刃して、その死骸を戦死者の中に交える。
 詩人は、クリオがカエサルに内乱をそそのかしたことを糾弾し、内乱の結末を見ずに非業の死を遂げたことを当然の報いだとするが、その一方で、彼の変節前の功績についても言及する:
ローマが生んだ市民で、これほどの俊才は他に類を見ず、正道を
辿っている時の彼ほどに法が多を負う市民は他に類がなかった。
(第4巻、810‐811行、223ページ)
 しかし、莫大な負債を抱えて窮地にあったところをカエサルから提供された金銭で救われ、閥族派からカエサル派に寝返った。彼の変心がローマの運命を大きく変えることになったと詩人は言う。スッラ、マリウス、キンナ、カエサル、彼らはローマを買ったのだが、クリオはローマを売ったのだと歌って、詩人は第4巻を終える。
 クリオがユバ王の軍勢に敗北する場面は、『内乱記』にも描かれているが、カエサルは軍人であるだけに戦闘の過程の描写はまさっているように思われる。ルーカーヌスの描写ではクリオが戦死したのか、自刃したのか分かりにくいが、カエサルは戦死したと記している。同じ出来事でも、描き方が微妙に違っている部分があり、関心のある方は、両者を読み比べてください。

 ポンペイウスはイタリア半島を追われ、またイベリア半島でも自派の敗戦を経験し、カエサルはイッリュリアとリビュエでの敗戦を経験し、それぞれに犠牲を出したが、主力を温存したまま、決戦の機会をうかがっている。第5巻ではまだ両雄の対決の場面は到来しないが、パルサリアの戦いに向けて、刻々と時間は過ぎていく。

 昨晩は居眠りをしてしまい、皆様のブログを訪問することができませんでした。失礼の段をお詫びいたします。

細川重男『執権』(13)

3月20日(金/春分/休日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。気温上昇。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんの言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。通説では、鎌倉幕府の政治体制は「将軍独裁」、「執権政治」、「得宗専制」の3つの段階に分けている。その一方で、将軍の座も「源氏将軍」、「摂家将軍」、「親王将軍」と変遷する。しかし、執権の座には一貫して北条一族の誰かが座っていた。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏代々の得宗たちが、どのように権力を把握・保持し、どのような政治的な成果を残し、そして後世にどのような影響を及ぼしたかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗=執権を取り上げて掘り下げていくものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府創設以前の北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことが明らかにされる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、北条氏の事実上の初代:北条時政の庶子に生まれた義時が、頼朝死後の権力闘争の中で幸運にも生き延び、しだいに権力を握るに至った過程をたどっている。そして、『古今著聞集』に記されている、彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説と、それが後代に及ぼした意義が考察される。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗が異母兄である時輔や、名越氏など一族・一門の有力者を排除してその独裁的な権力を固めた過程が辿られている。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、時宗が将軍として頂いていた惟康親王が、じつは源維康と名乗っていた時期がいちばん長いこと、これがきわめて異例であることが記される〔それがこの書物の趣旨とどのようにかかわるのか、いまひとつ腑に落ちないところがある。〕 
 文永5年(1268)に蒙古からもとらされた通交を求める国書が、幕府によって侵攻の予告と受け取られ、臨戦態勢の中で独裁政治が強化された。

 第4章 辺境の独裁者(続き)
  将軍権力代行者
 「内々御計ひ」
 時宗がその権力を絶対的なものにした「二月騒動」(文永9年、西暦1272)後の、彼の政治活動をもっともよく知らせてくれる史料は、問注所執事太田康有の日記『建治三年記』である。〔鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』は文永3年(1266)に将軍であった宗尊親王が上洛し、六波羅探題邸に入るところで終わっている。その後は、確実な記録が乏しくなるので、1年分しか残っていないこの記録『建治三年記』や、康有の子である時連の書いた『永仁三年記』が貴重な史料となるそうである。)

 建治3年、27歳の時宗は、ほとんど鎌倉郊外の別荘である山内殿(現在の北鎌倉の一部)で生活しており、そこで重要な政務の決定を行い、指示を出している。鎌倉と六波羅における人事のすべてが時宗によって決定され、事細かな指示まで時宗が主催する山内殿での寄合(秘密会議)で決定されている。
 朝廷との交渉も時宗が直接行っており、院宣(上皇の命令書)への返事の執筆者まで時宗が指定している。
 鎌倉幕府では頼朝以来、御家人の位階・官職への叙位・任官はすべて幕府が王朝に推挙することになっていた。この場合、推挙するのは将軍であったのを、時宗は執権が行うことに改めた。つまり時宗は将軍ではないのに、本来将軍に属する権力を手に入れてしまったのである。
 「時宗は執権であるが、将軍権力を行使する彼は、もはや執権の職権を越えた何者かである。…一言で言えば、「将軍権力代行者」ということになるだろう。そしてこの「将軍権力代行者」の権力こそ、これまで「得宗権力」とよばれてきたものの正体であると私は思うのである。」(177ページ) この権力は、時宗の死後、貞時・高時に引き継がれる。それが「得宗専制」とよばれてきた後期鎌倉幕府の政治体制となるのだという。
 「時政・義時以来、営々と幕府で権力の階段を上ってきた北条氏家督は、時宗に至って頂点と言うべき「将軍権力代行者」、すなわち鎌倉幕府の独裁者の地位に至ったのである。」(177ページ)

 秘密会議のメンバーと機能
 それでは時宗はどのようにして意思決定を行っていたのか。彼が大小事を決める際に催していたのが、「寄合」と呼ばれる秘密会議である。このメンバーを「寄合衆」というが、そのなかに選ばれたのはわずか5人、安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連(なりつら)である。
 〇安達泰盛
 時宗の妻の兄で養父、さらに時宗の外祖母である(『徒然草』に登場する)松下禅尼の甥でもある。五番引付頭人。評定衆。泰盛以外の1~4番引付頭人は全員北条氏であり、したがって、泰盛は当時の幕閣において非北条氏の最高位であった。
 〇平頼綱
 身内人(得宗の家臣となった御家人)。得宗家の家政機関である得宗家公文所の執事。一般には「内管領」と呼ばれる(私も、高校の日本史でそう習った)。時宗の最側近という立場にあり、彼の家柄は得宗家累代の家人である。
 〇諏訪盛経
 身内人。得宗家公文所の執事として頼綱の前任者。身内人諏訪氏は信濃の諏訪大社大祝(おおほうり)家である諏訪市の分家である〔全国に諏訪神社が散在しているのは、このようにして鎌倉幕府の中で諏訪氏の力が大きくなったためであるという説がある。また、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の次男・時行を諏訪氏が擁して短期間だが、鎌倉を回復した=中先代の乱も重要な事件である〕。
 〇太田康有
 文士(法曹官僚)。第6代問注所執事。評定衆。源頼朝の乳母の妹の子で初代問注所執事となった三善康信の孫。〔すでに出てきた『建治三年記』の筆者である。問注所の執事は、三善→太田氏が大体世襲していたようである。太田氏にはいくつかの流れがあり、源三位頼政の子孫と称し太田道灌や徳川家康の側室・英勝院を出して江戸時代には大名となった太田氏が有名であるが、ここで出て来る太田氏は、三善氏の子孫であるのは、すぐにわかることである。〕
 〇佐藤業連
 文士。評定衆。引付衆を経ず評定衆に補任されるという異例の登用をされた人物で、一族でも突出した出世を遂げた。時宗の恣意的な人事で登用されたと考えられるが、そのような先例や家格秩序を超えた人事がなされているところに時宗の政治の専断的な性格がうかがわれるという。

 「このように、外戚や累代の家臣、秘書ともいうべき実務官僚をメンバーとしておこなわれる寄合は、独裁者時宗の執政を円滑ならしめるための補助機関、強いて言えば諮問機関であるが、ようするに五人の寄合衆は時宗の手足であった。」(180ページ)
 もともと「寄合」は北条氏家督の私的会議であったが、時頼時代には北条氏一門の大物が顔を出しているのに対し、時宗の時代になると、一人もいなくなって、わずかな側近たちだけが話し相手というように変化している。〔重臣との打ち合わせから、側近との会合に変化しているということである。〕

 時宗の個人独裁
 『建治三年記』に記された以外の出来事を拾い上げても、幕府が寺社に依頼した異国降伏祈祷実施の手続きもすべて時宗が行っており、将軍維康には形式的に巻数(かんず=読誦した教典の明細書)が上呈されるにすぎない。さらに弘安年間に起きた興福寺と石清水八幡宮の荘園の境争論(境界争い)の過程をたどると、最終的な意思決定者がやはり時宗だったことがわかるという。それは評定―引付という実務的な政治制度に支えられた個人独裁制であったと考えられるのである。

  太守・副将軍
 「ただ者ではない」という認識
 時宗・貞時・高時という後期得宗三代が単なる執権ではなく、何か特別な存在であるという認識は当時の人々にもあり、それは彼らに対する呼称にあらわれているという。
 そうした呼称のひとつが「大守」(「太守」とも書く)である。
 「大守」を国守の唐名(中国風の呼び方)とすれば、相模守を「相大守」といっても問題はなさそうだが、王朝官制では「大守」は親王任国(親王だけが国守に任命される国)である上総(千葉県南部)・常陸(茨城県)・上野(群馬県)3か国の国守の称号で、しかもこの3か国はすべて大国(国の最高等級。国には大国・上国・中国・下国の4等級があった)である。だから、得宗が「大守」を名乗るのは僭上の沙汰であるが、そこに「ただ者ではないのだ」という認識が表れているという。

 もう一つは「副将軍」。鎌倉末の資料には貞時や高時を「副将軍」と記した例がみられるという。時宗についてはこの種の資料はまだ見つかっていないが、あっても不思議はないと木村さんは論じている。
 時宗政権期は、幕府は蒙古との戦闘を理由にして御家人ではない武士までも動員することになり、その権力が絶頂に達した時期であったともいえるのである。この絶大な権力を行使して、時宗は蒙古との戦いを続けることになるが、それはまた次回以降に。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(12)

3月19日(木)晴れ

 武士最初の反乱と言われる平将門の乱は承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いたが、その間の天慶2(939)年に将門が「新皇」を宣言したことが、前例のない事件として注目される。この乱は、9世紀の後半から続いていた王権の動揺と対外政策の変化の中に位置づけられるべきものであり、そのような動揺を背景として将門が天命による新しい皇統の成立を宣言したのに対し、朝廷の側が王土王民思想をもって対抗している点が重要である。

「新皇」即位と王土王民思想(続き)
 「朱雀院平賊後秘修法会願文」の王土王民思想
 王土王民思想は国家の重大な転換期にあたって表明されたものであるが、土地制度を軸とした支配体制の転換・強化を意図した「延喜新制」「保元新制」の場合はそれまでの法令を根拠として主張されているのとはちがって、平将門の乱の場合は、「皇天」・「神明」と王権を超越した絶対的な意志が根拠とされており、それだけに支配層の強い危機意識を読み取ることができるという。
 ところで、平将門の乱と藤原純友の乱が終息した天慶10年には別の形で王土王民思想が表明された例があって、注目される。

 それは天慶10年に朱雀院が延暦寺で行った「東西凶乱」によって命を落とした法会の際のことで、ここでの王土王民思想の意味するところは、これまでの「延喜新制」、「保元新制」あるいは「将門追討の官符」の場合とは大きな隔たりを見せている。「追討官符では、「王土」に住む「王民」なのだから「憂国の士」だけでなく「田夫野叟」(庶民の意)まで将門を討滅するために決起すべきであると、人民を動員=使役する根拠として使用されていたが、この天慶10年の供養願文では、官軍であっても逆賊であってもみな「率土」に住む「王民」なのだから、平等に救済されなければならないという救済の根拠として使用されている。」(171ページ)

 さらに注目すべきことは、このような平等な救済を主張する根拠として、隋の高祖や唐の太宗が死亡した兵士たちを供養し救済した事績を引用していることである。木村さんは、「延喜新制」、「保元新制」、「将門追討官符」は日本的な王土王民思想の発現、この「巌門」の方は中国的な王土王民思想の発現であるといえるかもしれないと書いているが、そこまで結論を急ぐこともなかろう。むしろ、短期間のうちにまったく別の意味をもつ王土王民思想の発現がなされているところに、平将門の乱の衝撃の大きさを見るべきであるとも論じていて、こちらの方が説得力がある。

 源頼朝追討官符の王土王民思想
 実は、これまでそれほど注目されてこなかったが、将門の乱のような軍事的・国家的な危機に際して王土王民思想が発現されたもう一つの事例があると木村さんは言う。それは治承4(1180)年の源頼朝の挙兵である。平安時代末期の公家・吉田恒房(1142‐1200)の日記『吉記』には源頼朝「追討宣旨」が記されている。そこには「率土は皆皇民也、普天は悉く王の者也、絲綸(いりん・天皇のご命令)の旨誰か随順せざらんや」(174ページ)として、やや文意の通りにくい部分はあるにしても、王土王民思想に基づく武士たちへの動員令が発せられていると考えられる。「支配層は頼朝の挙兵を平将門の挙兵に匹敵する大事件である、と認識していたに違いないのである。将門の乱は、それほど平安時代後期の貴族社会に刻印された大事件であった。」(175ページ、それをいうならば、頼朝の挙兵は将門の乱以上の社会の変革をもたらした大事件であったということも書き落とすべきではないだろう。)

「新皇」即位の歴史的意義
 「中世皇統譜」の形成
 中央政権の動揺の中で、将門は「天命」思想を掲げて「新皇」を自称し、新政権を樹立しようとしたが、これに対応して貴族層は「王土王民思想」を持ち出して、乱の鎮圧への協力を呼び掛け、平貞盛や藤原秀郷の協力を得て、乱を平定できた。とはいうものの、将門の提起した「天命」思想は、貴族層に国王支配の新たな根拠を求めさせることになったと主張したのが、上島享(2010)『日本中世社会の形成と王権』である。その結果、考え出されたのが中世的な神祇秩序の形成と「中世皇統譜」の形成である。

 二十二社体制と中世的な『国内神名帳』に代表される中世的な神祇秩序については、すでに述べたので、ここでは上島による「中世皇統譜」をめぐる議論を検討する。上島によれば、「中世皇統譜」の形成にとって『先代旧事本紀』が果たした役割が大きいという。『先代旧事本紀』は平安時代の初期に成立したと考えられている史書で、天地開闢から推古天皇までの歴史が記されている。序文に聖徳太子・蘇我馬子らが書いた歴史であると記されていることから、偽書だと考えられた時代もあったが、序文だけが後世に付け足された偽作であり、物部氏に関する情報を多く載せているところから、それなりに価値をもつ書物であると考えられるようになっている。
 とにかく、偽書説が出てくるのは江戸時代の話であり、それまでは最古の史書として重んじられていたのである。ここでは、神話のスサノオの子孫が「地祇」とされ、降臨した天神のうち饒速日の子孫は「天孫」、ニニギの子孫は「皇孫」とされて、三者が明確に区別され、「皇孫」だけが王家の正統な系譜であることが示されている。

 「新皇」即位の歴史的意義
 将門が「新皇」即位を宣言したのは、彼が「皇孫」であることと、天命を受けたことの2つが根拠となっていた。この主張は京都の朝廷の人々にとって極めて衝撃的なものであった。将門の主張を論駁するために持ち出されたのが「王土王民思想」であり、そこに将門とは別の意味で中国の歴史思想を取り入れて、自分たちの立場を正当化しようとする意図があったのではないかというのが著者の主張らしい。著者自身もあまりはっきりした見解を記していないのだが、興味深い議論であり、今後の研究の発展が期待される。

 さて、将門の乱の経緯を記した『将門記』は乱の終息後、関係者の賞罰について触れて終わるが、その後さらに冥界に堕ちた将門からの手紙が付録されている。この奇怪な手紙は、後世の人々による将門と将門の乱の評価とかかわるものであり、次回に詳しく取り上げてみることにしたい。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(14)

3月18日(水)晴れ

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年から1958年にかけて大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジアを自動車で回り、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。『東南アジア紀行』はその際の彼による私的な旅行記であり、この下巻ではタイを出発して、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪した旅の様子が記されている。
 梅棹は1958年2月12日に、隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、外務省留学生の石井米雄(1928‐2010、後に東南アジア研究家、京都大学・上智大学教授、神田外語大学学長)とともに、タイのバンコクを出発、2月13日にカンボジアに入国し、2月21日にはベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。サイゴンからタイ・ニンに出かけてベトナムの民族的な宗教であるカオダイ教の本部を訪問したり、華僑によるコーチシナ開発の歴史をたどったりする。2月28日に、サイゴンを出発、北ベトナムとの国境付近まで北上し、そこからラオスへと越境する計画をもっている。サイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックが通訳として同行した。各地に残っているチャムパの遺跡に、チャム族とベトナム族の長い戦いの歴史の跡を見たりした。

第15章 チャムの塔(続き)
 日本人はベトナム語を習うべし
 梅棹はこの旅行のために買い集めた東南アジア関係の書籍を「移動図書室」と称して自動車の後部座席で読んでいる。D.G.E.Hall, A History of South-East Asiaはなんでも書いてあるが、平板で、R.L.May, The Culture of South-East Asiaの方が面白い。分らないことがあると、通訳として同行しているディックに質問する。彼は歴史学専攻の学生なので、こういう時に便利である。
 それにしても日本人はベトナムの歴史について知らなさすぎる。〔梅棹がこのように書いてから60年以上たった今日でも事情はそれほど変わっていない。また東南アジアのほかの国にしても似たようなものである。〕
 ディックはベトナムの学校でもっと日本語と日本について教える必要があるという。そしてまた、日本でもベトナム語とベトナムについて教える必要があるともいう。
 その主張はもっともなことだと、梅棹は思う。

 ヴィェット・ナムとニュッ・バン
 梅棹も吉川もベトナム語はできない。勉強してみる気はあるのだが、日本で買った入門書が訳が分からなくて、投げ出してしまった。今回は、石井という言語研究の専門家が同行しているので、サイゴンでフランス語で書かれたベトナム語文典を見つけ、2人で研究した。サイゴンの日本大使館のベトナム人職員から繰り返し発音を教えてもらった。

 ベトナム語はどの言語系統に属するかをめぐっては定説がない。モン・クメール語の系統だという説と、タイ語に近いという説がある(梅棹が1992年に出した『実戦・世界言語紀行』では「クメール語と同じくオーストロアジア語族」(110ページ)と書いている。近年の研究ではオーストロアジア語族説が有力になっているようである。)。中国語やタイ語と同じく孤立語で、複雑な声の上げ下げ――声調がある。(中国標準語は四声)、タイ語は五声であったが、ベトナム語は六声ある。
 本来の言語系統がどのようなものであれ、ベトナム語には多くの漢語が流入していること、日本語(および韓国語)と同様である。だからベトナム語の中には、日本人が意味を判断できるものが少なくない。例えば、街角に《Quõc gia kiên thiêt》とあるのは、「国家建設」にちがいない。また道ばたの交通標識で、《Chú-ý>とあるのは「注意」である。サイゴンで公演していた日本歌舞団は、
Doan Ca Vu Nhât Ban (団・歌・舞・日・本)である。ベトナム語では修飾語は後からくる。
 日本はNhât Banである。ベトナムはViêt Namで漢字に直すと「越南」である。共に漢字による表記がもとになっている。

 表記法は今ではすべてローマ字である。昔は日本や朝鮮と同じく漢文が用いられた。そのほかに、「漢字かな交じり」ふうのベトナム語の文献もある。「かな」にあたるのは、チュー・ノム(字喃)といって、漢字を変形して作られた特殊な文字である。
 「ローマ字書きベトナム語の綴字は、フランス式というよりはポルトガル式である。16世紀以後、宣教師たちがこの国にやってきて、つくりあげた方式である。この書き方を、quôc nguつまり、「国語」とよんでいる。複雑な母音の区別のために、数種類の字母符号を用い、さらに5種類の声調符号をつけるので、印刷面はひじょうに複雑に見える。」(125ページ)

 ローマ字化を推進したのは植民者であるフランスの文化政策であり、その結果としてベトナム人は彼らの歴史と民族の伝統精神を失ったという説があるが、逆にローマ字化によって教育が著しく普及し、ナショナリズムが盛んになったという説もある。一行に同行しているディックにきいても、ローマ字の方が便利だから普及したのだという。〔梅棹がここで、ローマ字化によってタイプライターが使えるようになったという事情を見落としているのが、気になるところである。昔々、対フランス独立戦争を戦っていたベトミン軍の幹部がタイプライターで文章を起草していた場面を見ているので、フィールドでの観察をローマ字タイプで記録していた梅棹がそのことに共感しなかったわけではないと思うのである。〕 ベトナム語のローマ字化は、近代における文字改革の優れた成功例の一つだろうと梅棹は評価する。今後、ベトナムのナショナリズムがどんなに強くなろうとも、もとの漢字・字喃に戻そうという動きは起こらないだろうという(しかし、字喃が読めない歴史研究者ばかりになって、日本から応援に出かけているという話も聞いたことがある)。〔ベトナムの例と対比して検討する必要があるのは、モンゴルとトルコにおける文字改革であろう。〕
 日本語の表記をできるだけやさしいものにしようという意見の持主であった梅棹は、ベトナムにおける文字改革が日本にとっても有益な参考例となるであろうと論じている。もっとも、日本の現実を踏まえて、日本語のローマ字化や、かな文字化がそう簡単に成功しないだろうという見通しも述べているのである。

 ベトナム語の表記については、表記不可能な文字もあるので、できるだけ原文に近づけることにした。興味のある方は、図書館か古本屋で、梅棹のこの本を探し出して、もともとの表記を突き止めてください。そういう努力を通じて、ベトナム語を勉強しようという方が現われてくれれば、あの世の梅棹も喜ぶだろうし、また私にとってもうれしいことです。

 ヴェリ・ヴェリ・ヴェリ・ビューティフル
 一行は海岸の道を走っていくが、目のまえに拡がる景色は、大陸の赤褐色の道路を走ってきた人間にとっては美しく見える。しかし、そんな美意識を信用しすぎてはならない。風景に感動して写真を撮っても、その写真を日本に帰ってから見れば、ありふれた海岸の景色に過ぎない――と思うかもしれない(というほどに、梅棹の精神は覚めている。) ディックがヴェリ・ヴェリ・ヴェリ・ビューティフルという海岸の風景にしても、その言葉を信じない方がいいようである。

 生きている女神
 一行はニャチャンの近くにある、チャムの聖地ポー・ナガルの遺跡に到着する。ボー・ナガルは天に生まれた女神で97人の夫を持っていたという。(このような例を梅棹は何度か経験しているはずだが)その遺跡は過去のものではなく、信仰の場としてまだ生きているのである。「なかには、供えものがあり、線香がもえている。」(129ページ) それどころではない、奥から出てきた老婆に、一行は出て行けと追い払われる。チャム族に代わって、ベトナム族がこの地を聖地として維持している。実際、見ていると参詣客が絶えない様子である。境内には占いの店がいくつも出ていて、ひげを伸ばした老人が参拝客たちの運勢を占っている。

 自動式無料脱穀機
 「アンナン山脈の支脈が、海岸近くまでせまってきている。山と海とのあいだの、せまい平野に、美しい水田がつづく。あるものは青く、あるものはすでに黄金色である。」(129ページ)
 一行は、道路の上に稲束がならべてあるのに気づく。踏まないで通りすぎようとするが、上を通らずに通り抜けるのは難しい。ところが、サイゴンのロータリー・クラブで発行している観光案内書によると、道路に稲束を並べておき、自動車に踏ませて、脱穀作業にするのはこのあたりの習慣なのだそうである。
 梅棹は、この奇妙な習慣とともに、こんなことを観光案内書に書くことにも感心する。よほど書くことがないのだなという思いからである。

 永東亜旅店
 ヴァレラ岬の峠を越え、夕暮れにトゥイ・ホアの手前の川〔ダーラン川=沱浪江〕の岸に出た。橋はなかったが、渡し船で川を渡る。舟の中で一緒になったトゥイ・ホアの教会のアメリカ人の宣教師に教えられて、永東亜旅店というはたご屋に泊まることにする。
 はたご屋の中庭で、娘たちの歌を聞く。「甘い発声法、哀調をたたえたメロディー。わたしは、そのいくつかを録音する。なかに、「チャムは亡んだ」というのがある。チャムのことは、ベトナム人にとってはすでに現実の問題ではない。彼らは、亡んでいった民族の運命を歌いあげるだけの余裕をもっている。」(131ページ) この観察が正しいかどうかは議論の余地があるだろう。この後のベトナム戦争の中で、アメリカはチャム人たちを解放戦線に敵対する勢力として利用しようとしたからである。
 同じ宿に泊まっていたアメリカの若い軍人が話しかけていた。山岳地帯で軍事顧問をしているらしい若い少尉である。一人ぼっちで寂しそうであると、梅棹は観察している。

 近代における文字改革という大きな枠組みの中でのベトナムの文字改革と、その日本との関連性というような梅棹にとって(私にとっても)重大な問題が語られたかと思うと、旅行の現実の進行に話題が戻る。チャムの文明は過去のものか、なおも生き続けているのか、この問題は、梅棹がうすうすと感じているベトナム戦争の深刻化と結びついてそう簡単には片づけられそうもない。

 トゥイホアは北緯13度あたりに位置する都市〔現在の人口は20万人程度で、フ―イェン州の州都である〕なので、一行はまだかなりの道を北上しなければならない。その旅程でどのような出来事に遭遇することになるかはまた次回に。 

日記抄(3月11日~17日) その2

3月17日(火)晴れ

 3月11日から17日までのあいだに経験したこと、考えたことの続き。ならびにこれまでの記事の補遺・訂正等:

3月11日
 横浜駅西口のJOINUSの地下道にホワイト・デーの売店がならんでいた。バレンタイン・デーの時は出店が控えられていたが、もう我慢できないということだろうか。かなりのお客の列ができていた。

3月12日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編:「すばらしきラテンアメリカ」はウルグアイのラプラタ川の岸辺にあるこの国で2番目に古い都市コロニア・デル・サクラメントの様子、特にスペインとポルトガルの両方の影響が残る旧市街の町の様子が紹介された。ウルグアイがスペインとポルトガルの間で争奪が繰り返された歴史があることを初めて知った。コロニア・デル・サクラメントのラプラタ川をはさんだ対岸はブエノスアイレスなのだそうだ。

3月13日
 『朝日』朝刊の「天声人語」で、大正7年(1918)の米騒動のために「高校野球」大会が中止になったことが取り上げられているが、この時代はまだ、中学校や実業学校のチームが参加する「中等学校野球」である。ついでにいえば、この時代には甲子園はまだできていなかった。「甲子」の年、すなわち大正13年(1924)にできたから甲子園というのである。甲陽学院の卒業生である知り合いに、大正時代に甲子園で優勝した学校かと言ったら、その頃はまだ甲子園はできていなかったと訂正されたことがある。甲陽学院の前身である甲陽中学が中等野球大会で優勝したのは、甲子園ができる前年の大正12(1923)年で、初出場での優勝であった。このときは2回戦で、愛媛県の強豪・松山商業に3‐2で逆転勝利して波に乗ったのであるが、その時の松山商業の投手が藤本定義だったというから古い話である。なお、愛媛県の代表が中等学校野球大会に初めて出場するはずだったのが、大正7年のことで、その時の代表校は今治中学(現在の今治西高校)であった。

 『朝日』朝刊の連載エッセー「オトナになった女子たちへ」の中で益田ミリさんが「先生にほめられなくても好き、というのが本当の好き」と書き、「それを知るのはずいぶん後になってからである」と続けているのが、共感できた。「下手の横好き」ということわざもあるし、「好きこそものの上手なれ」ということわざもある。どっちにしても、好きなものがあることは楽しい。

3月14日
 『朝日』朝刊の「天声人語」では琵琶湖で続けられてきた真珠の養殖について取り上げているが、「万葉の昔から淡水の湖に真珠が存在したことに驚く」という一文にはカチンときた。むかしの方が自然は破壊されず、水がきれいだったから、淡水貝が真珠を生み出す可能性は大きかったはずである。時がたつにつれて、文明が発展し、暮らしが楽になってきたことは否定できないが、そのために失ったものがあるという視点を持ち続けることも必要である。

3月15日
 紀元前44年のこの日、ユリウス・カエサル暗殺。Beware the ides of March.(3月15日を警戒せよ)というのはシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に由来する凶事の警告である。(実は私はカエサルと誕生日が同じなので、少し、気になるのである。)

 『朝日』朝刊の「社説 余滴」で高木智子記者が「『わからない』を思う」という文章を書き、自分が理解できない感情を抱いている人がいるということを自覚することの大事さを説いているが、まったくその通りだと思う。他人に共感し、寄り添うことは大事だが、それには限界があることも知る必要がある。知らないこと、わからないことがある、それでもその相手と共存していく覚悟を固めておかなければならないという自覚は人間にとって大切なことではないかと思うのである。

 同じく『朝日』の歌壇で永田和宏・佐々木幸綱の2人の撰者が「若き日の君のアルバムめくるよう三月書房の引き戸はありき」(西宮市・佐竹由利子)という歌を選んでいた。京都の三月書房が閉店すると佐々木さんが書いている。この店では、単行本よりも、他では手に入らない雑誌やパンフレットの類をよく買ったし、そのとき短歌の雑誌もよく見かけたことを思い出す。なお、当ブログで取り上げたカンパネッラの『太陽の都』は、三月書房のカバーがかけられているので、この書店で買ったはずである。

 京浜急行の6つの駅で新名称がスタートした。わたしに関係のあるところでは、仲木戸駅が京急・東神奈川駅になった。JRの東神奈川と、仲木戸は100メートルほどの距離にある(陸橋で結ばれている)ので、この改名は当然だと思う。なお、東急の東白楽駅も近いと言えば、近い。

 新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』(講談社学術文庫)を読み終える。 

3月16日
 NHKラジオ『入門ビジネス英語』で
Because of its neutral taste, tofu has an amazing ability to work in almost all types of dishes. To demonstrate this, I'm making a three course meal consisting entirely or tofu recipes. (豆腐は癖がないので、ほぼどんなタイプの料理にでも使える、万能な食材です。それをお見せするために、豆腐を使った3品からなるコース料理(前菜・メイン・デザート)をつくります。)
という発言があった。すでに江戸時代に『豆腐百珍』という書物が出されていたことを思い出した。

 この日から、しばらく放送を休んでいた『NHK高校講座』の23:40~0:40の放送が再開された。

3月17日
 本日の各紙朝刊の漫画は作者の持ち味がよく出ていたように思う。『読売』の『コボちゃん』は、ウイルスが長引いているので、夏休みが短くなるかもしれないと思ったコボちゃんが、つまらない、つまらないと言いながら、夏休みの工作を作り上げてしまうというもの。計画性があって、まめに作業をこなすコボちゃんは、作者である植田まさしさんの性格が反映しているのではないかと思った。『東京』の『ねえ、ぴよちゃん』は、ぴよちゃんに呼ばれた猫の又吉が急いでやって来るのだが、じつは猫同士の喧嘩の最中で、喧嘩を中断された野良猫のボスのニャブーがいつまで待たせるんだと怒っている。弟分のアッシュが「劣勢のポーズのままで待たなくても」と、地面に横になっているボスにむかって言うというものである。相撲の水入りのように、中断されたときの態勢のままでいようとするニャブーの律義さがおかしい。どちらも作者の個性が出ているが、登場人物がニコニコした表情をしている『ねえ、ぴよちゃん』の方が朝刊の漫画らしいと思う。
 この2つに比べると、『朝日』の『ののちゃん』の卒業する6年生のタイムカプセルを埋めないで、使っていないロッカーに保存してはどうか――「そんなお墓があったね」というのは、面白いことは面白いが、朝刊には似つかわしくないような気がする。

 『東京』に青梅赤塚不二夫会館が今月末で閉館するという記事が出ていた。建物の老朽化によるもので、展示物はフジオ・プロダクションに返却するという。また、どこかで同じような試みがなされるかもしれないし、それを期待したいと思う。

 最近、池波正太郎の『食卓の情景』を読み返したが、面白かった。池波の書いたものでは、旅と食べ歩き、それに映画について触れたものが好きである。

 少し古い話になるが、2月29日の『NHK高校講座 政治経済』で、資本主義を唱えたのはアダム・スミスだと講師の先生が解説していたが、これはやや適切性を欠く言い方である。根井雅弘『英語原典で読む 経済学史」(白水社)に「『国富論』には「商業社会」という言葉は出てきますが、「資本主義」という言葉は見当たりません。実は、「資本主義」という言葉は、後に社会主義者たちが自分たちの批判する体制を表わす言葉として使い始めたものでした。」(31ページ)とある。この少し前に根井さんが書いているように、スミスは、当時勃興しつつあった資本主義的な生産体制を擁護し、それを当時の政府の重商主義的な政策から守ろうとして『国富論』を書いたのであって、彼が何もないところから資本主義的な生産体制を構想し、実現させたわけではない。そのあたりのところは、表現に気をつけないといけないと思ったのである。 

日記抄(3月11日~17日) その1

3月17日(火)晴れ、昼頃から雲が多くなってきた。

 3月11日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月11日
 東日本大震災から9年がたったが、『朝日』朝刊の「天声人語」は、この震災で卒業式を終えたばかりの若者たちの中から少なからぬ犠牲者を出した福島県立新地高校が少子化のために近くの高校に統合されるかもしれないことを取り上げ、学校の存続を訴える昨年12月の投書を紹介していた。そのなかで、「拍車のかかる少子化により、明治時代から続く学校史が幕を閉じる日が来るかもしれない」という個所が気になって調べてみた。明治時代から6‐3‐3の学校制度(最近は6‐6も増えてきた)が続いていると思っている人は少ないとは思うのだが、やはり気になったのである。その結果、こんな詩を書くことになった:

 邑に不学の戸なく

学ぶのは
よりよく生きるため
よりよくの意味を探り当て
生きるための知恵と手だてとを身に付けるため

必ず邑に不学の戸なく
家に不学の人なからしめん――と
明治政府は宣言した
そして各地に小学校が建てられ
中学校や高等女学校や実業学校や
もっと上の学校も作られて
新時代の学びの場が
少しずつ、少しずつ、ひろがっていった

明治の末にできた実業補習学校が
大正には農業補習学校となり
昭和には青年学校となり
戦後の学制改革で高等学校になった
学校は形を変えながら、若者たちを受け入れ
彼らはよりよく生きるために
ここから巣立っていった

平成になるころから
生涯学習の時代だと
よりよく生きるためには
学び続けることが必要だといわれた
中学校も高等学校も大学も
卒業すればそれで終わりではない
就職しても働きながら学ぶことはある
生きているかぎり、よりよく生きることを求め
学ぶのだといわれるようになった

だが大震災は 卒業生の命を奪い
学ぶ機会も可能性も奪った
それでも学校は残り
敷地には 彼らを悼んで
記念樹が植えられた
彼らの志をつなぎ
学びをつなげていくために

地方の人々が減り、若者が減り、生徒が減り
学校は他の学校と統合するという
もしこの土地から 学ぶ若者たちの姿が消えたら
明治から伝えられた学びのつながりは
どこへと結び目を求めていくのだろうか
令和とはそんな時代なのか

『太平記』(306)

3月16日(月)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から頂上に雲を被った富士山が見えた。午後になって一時曇り。空模様はまずまずだが、風が冷たい。

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月、清水寺が炎上、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は信頼を寄せる禅僧の妙吉侍者や、近臣の上杉重能、畠山直宗らの讒言を真に受けて、執事である高師直の暗殺を企てたが失敗し、逆に師直・師泰兄弟をはじめとする大名たちの「御所巻」に会い、三条の館を出て出家して錦小路堀川に蟄居することになった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。
 事変に先立って羽黒山伏の雲景が愛宕山で不思議な経験をして、未来記を記していた。

 雲景が愛宕山で出会った不思議な山伏=おそらくは、天狗は、王法は平家の時代に滅びて、今は武力でしか天下を制することはできないのに、権力欲だけに駆られて後醍醐院は鎌倉幕府を倒すことを企てられ、幕府の運が尽きていたので企ては成功したが、すでに武士の世の中になっているという流れを理解されなかったために、その後の親政は一時で失敗した。
 皇位継承の徴である三種の神器は、国を守り治めるための宝器であるが、平家滅亡に際して安徳帝が入水された際にそのなかの剣が失われてしまった。これもまた武士が天下を支配するという流れの一つのあらわれであったなどと語る。

 今や「三種の神器、徒(いたず)らに微運の君に随(したが)つて、空しく辺鄙外土(へんぴがいど)に交はり給ふ」(第4分冊、321ページ、三種の神器は神威を発揮することなく南朝の帝に従って、空しく都の外の地=吉野に留まっている)。これは神々がわが国を見捨てられ、帝のご威勢がまったくなくなったことの徴である。「国を受け給ふ主(あるじ)に随ひ給はぬは、国を守らざる験(しるし)なり。」(第4分冊、321ページ、北朝の帝に三種の神器が従っていないのは、国を守らないという証拠である)。それは三種の神器をもたずに即位した後鳥羽院が勝利し、持っていた安徳帝が敗北した例を思いだせばいい。今の世の中は王法が行われなくなっているので、神のご加護もないのであるという。

 雲景はこれは大変な世の中に生きているものだと思いながら、世間では尊氏と直義が高師直のことをめぐって対立するようなことを言っているが、この先はどうなるだろうか、仏神のお計らいはどのようなものかと問う。
 山伏は、自分は仏神ではないから未来のことを知るはずもないが、妙吉侍者のことは、事が差し迫っていることを言っていたので、必ず、目を驚かすほどの不思議な事件が起こるだろうと予想できる。どちらに道理があり非があるかは、先に言ったとおり、今は末世で、道理にはずれた邪な振舞があふれているので、どちらが正しく、どちらが間違っているとはいいがたい。というのは、武家が帝王を軽んじており、その武家の大将たちを執事やその他の家来がないがしろに扱う、末代においては同じことである。こういうことはあり得ないことではない。とはいうものの、今時は大地が天を飲みこむような大変事が起きる、いかにも下克上(下位の者が上位の者を倒して権力を握ること)の時勢であるので、下のほうが勝つだろうという。

 それでは下の者が上の者を倒して、勝手気ままにふるまうことになるのかと雲景が問うと、いや、そういうことにはならない。末世乱悪の時勢なので、下の者が上の者を倒すが、上下の秩序を破壊するしたという罪を逃れがたいので、今度はそのことを問われることになる。これからしばらく公家と武家の立場はにわかに異変があって、大きな逆乱があるだろうという。
 それでは武家の時代が終わって、再び帝が天下を治める時代が来るのかと問うと、山伏は、それはどうもわからない。今日か明日のうちに武運が尽きてしまうという時勢でもないとはいえ、南朝の治世はどうなることやらわからない(どうにもならないだろう)。天がもたらす異変はまさしく近いうちに起きるだろうという。

 雲景がさらに未来のことを聞こうとすると、客来だと周囲があわただしくなり、雲景も辞去したほうがいい雲行きになってきた。それで立ち去ろうとして、自分をここまで連れてきた山伏に「これまで、あのように未来のことを鏡で見るように予言された方はどなたでしょうか」と当た。すると「もう隠しておけないから話すが、あれは人々が噂している愛宕山の太郎坊という天狗である。上座に席を占めている高僧たちは、諸宗の方々が混じっておいでで、奈良時代の玄昉、平安時代に入ってからの真済、寛朝、慈恵、頼豪、仁海、尊雲(護良親王)らの方々である」(恨みをもって憤死した高僧が多い)、その上に玉座を並べてお座りになっていらっしゃるのは淡路の廃帝(奈良時代に恵美押勝に擁立されて帝位についたが、孝謙上皇によって廃位された、後に淳仁天皇と諡された)、後鳥羽院、後醍醐院、それぞれが次第の昇進を遂げられて悪魔王の棟梁におなりになった。やんごとなき賢帝たちである」と説明したので、雲景はそれを聞いただけでも身の毛がよだってしまい、恐る恐るいとまごいをして、寺の門を出たと思ったら、夢からさめたような気分になり、もといた平安京の大内裏の跡の、椋木の巨木の下に立っているのに気づいた。

 雲景はぼんやりとした気分のまま、宿坊にたどりついて〔大内裏の跡は都の北西部にあり、彼の宿舎の今熊野は南東部にあるので、そうとうな距離を歩いたことになる〕、どうも自分は天狗たちの世界に迷いこんだらしい、不思議なことを聞いたので、それを思い出せる限り書き留めておこうと、一部始終をまとめて、その裏に貞和5年閏6月3日と記した。
 天狗が云ったように、神が恵みを垂れたのであろうか、6月11日に四条河原の桟敷が崩れて死傷者が出たが、次の日に激しい大雨が降り、河原の地や穢れを洗い流して、6月14日の山鉾巡幸の道を清めたのは不思議なことであった。末世とはいっても、やはり仏神のご加護・ご利益はあるのだと思わない人はいなかった。〔河原の死体や残骸が流されたのが、幸運であったかどうかは疑問である。〕 『太平記』は南朝びいきの書物と言われるが、今回紹介した箇所を詳しく読んでいけば、そうでもないという印象が強くなるはずである。

 〔前後がまったく混乱した描き方になっているが〕これらに加えて、同じ年の6月3日に石清水八幡宮(京都府八幡市)の宝殿が辰野国から酉の刻(午前8時ごろから午後6時ごろ)まで鳴動しつづけた。留まることなくなり続けたうえに、(神が放つ)鏑矢が都の方角へと飛んでいく音も聞こえたので、これは前例のないことであると社務が注進した。さらに6月10日から太白(金星)、辰星(水星)、歳星(木星)という季節の運行を司る3つの星が1列に並んだので、「間もなく、大きな争乱が起き、天子が位を失い、大臣が災いを受け、子どもが父親を殺し、臣下が主君を殺し、飢饉、疫病、兵乱の禍が襲いかかるだろう。これは重大な予兆である」と、陰陽師と宿曜師たちが密奏した。
 不吉な前兆が続いて、(北朝の)帝はお心を悩まされ、大臣たちは肝を冷やしていたところ、さらに6月5日には、空に電光が走るという怪異があった。人々は、このようなことが続くのは、これから大きな返事が起きる予兆だろうと恐れおののいたのであった。

 こうして第27巻は終わる。大乱≃観応の擾乱の予兆が描かれてきた。前々回に、「三条殿(直義)と執事(師直)との不快は、一両月を過ぐべからず」(第4分冊、314ページ)とあるのを、「直義と師直の不和は、一、二か月も続かないだろう」と解釈したと記憶するが、これは「一、二か月も経たないうちに本格的なものになるだろう」と解釈すべきであった。ここに訂正する。金星、水星、木星が一直線に並ぶ現象が実際に起きたかどうかは、おそらく天文学者による研究があるはずで、どなたかご存知の方がいらっしゃればご教示ください。3月13日のこのブログでは付記するのを忘れましたが、安倍首相は北条歴代のだれに似ていると思うかというアンケートにご協力いただければ幸いです(答えにくければ、好きとか、興味あるとかいう回答でも構いません)。〔コメントとしてお寄せください。〕
北条歴代:①時政、②義時、③泰時、④時頼、⑤時宗、⑥貞時、⑦高時、⑧時行

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(35)

3月15日(日)朝のうちはまだ雲が多かったが、次第に晴れ間が広がる。

 今回から第3巻に入る。いよいよ物語の展開から目が離せなくなるので、これまでのあらすじを簡単にまとめておこう。
 19世紀初頭のイングランド。フランスとの間に軍事的な緊張が続いていたために、正規軍のほかに義勇軍が組織され、それが各地に駐在していた。その一方で国王(ジョージⅢ世)や王太子(後のジョージⅣ世)は贅沢で派手な暮らしぶりで、そのことが社会・文化に影響力を及ぼしていた。
 物語はロンドンの北にあるハートフォードシャーのロングボーン*という村の地主であるベネット氏の次女・エリザベスを中心に展開される。美しさでは姉のジェインに劣るとはいうものの、頭がよく、機知に富み、明るい性格の彼女は、近くの町メリトン*で開かれた舞踏会でダービーシャーの大地主であるダーシーという青年と出会う。ロングボーンの近くの邸を借りた友人ビングリーから、エリザベスと踊るように勧められたダーシーは、「まあまあってとこだな。だがこの僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね。」(大島訳、31ページ)と言って、断る。エリザベスは深く傷ついたわけではなかったが、ダーシーにいい印象も持たない。「高慢」と「偏見」の出会いである。
 財産相続をめぐる取決めのために、ベネット家の家屋敷を相続することになっているコリンズという青年が、ケントのハンズフォード*の教区牧師の職を得たことから、ベネット家の5人の娘たちのうちの1人と結婚しようと考えて、一家を訪問する。そしてエリザベスに求婚するが、彼の尊大さと卑屈さが混ざり合った性格を嫌ったエリザベスは拒否する。コリンズはベネット家の隣家のルーカス家の長女シャーロットに慰められ、そして結局、彼女と結婚することになった。
 エリザベスはダーシーを子どものころから知っているというウィッカムという義勇軍の士官と知り合いになり、惹かれあう。しかし、彼は別の女性に興味を移し、2人は別れる。シャーロットの招待を受けて、エリザベスはハンズフォードを訪問し、コリンズのパトロンであるキャサリン・ド・バーグ夫人の邸で、ダーシーと再会する。キャサリン・ド・バーグ夫人はダーシーの叔母であり、自分の娘と彼を結婚させたがっている。
 いったんはエリザベスに魅力を感じないと言い放ったダーシーであったが、その後次第に彼女の魅力を認識しはじめていた。そして、ケントを間もなく離れるというときに、彼はエリザベスにぎこちなく求婚するが、エリザベスは彼女を取り巻く様々な事情を理由として、それを断る。ダーシーは、エリザベスから受けた非難への弁明の手紙を残してロンドンへと去っていく。
 ダーシーの手紙により、エリザベスは彼(と、ウィッカムと)を誤解していたことを知る。ロングボーンに帰った彼女は、ウィッカムからよりを戻そうと働きかけられるが、もはや彼を相手にしようとはしない。ウィッカムたちの連隊は、当時の王太子が休暇を過ごしていた保養地であり、港町であるブライトンへと移動していくが、ベネット家の5番目の娘であるリディアも招待を受けて、彼らに同行する。
 エリザベスは叔父であるガードナー氏夫妻(ガードナー氏はベネット夫人の弟である)とともに、イングランド北部への旅行を計画していたが、その日程が短縮されて、ダービーシャーまでの旅行となった。ダービーシャーにあるダーシーのペムバリー*邸も訪問先に含まれることになり、これまでの経緯から彼と顔を合わせたくない彼女は躊躇するが、ダーシーが不在だということを確認して、訪問に参加することにした。

 「馬車が進むにつれて、エリザベスはペムバリーの森が見えて来るのを軽い胸騒ぎを覚えながら待ち構えていたが、やがて門衛小屋の脇を通っていよいよ敷地内に入ったときは、昂奮に胸をときめかせていた。
 庭園(パーク)は実に宏大で、地形もさまざまな変化に富んでいた。馬車は敷地の最も低まった所から入り、左右に拡がる美しい森が延延と続く中を暫く走っていった。」(大島訳、415ページ) エリザベスは庭園の様子に感心していたが、やがて視界の中にペムバリー・ハウスが入ってきた。大きな石造りの建物であったが、自然が損なわれていない周囲の景観と調和した安定した様子を見せていた。「そのときエリザベスはふと、ペムバリーの女主人になるのは悪くないかも知れない、という気がした。」(大島訳、416ページ、一瞬、そう思ったということであろう。エリザベスの一瞬の心理の動きをとらえた描写と見るべきである。)

 「馬車は丘を下り、橋を渡って、館の玄関口を目指して進んだ。」(同上) 近づくにつれて、エリザベスはまたもやこの家の当主と顔を合わせるのではないかと心配になりはじめた。玄関先で、邸内を拝見したいと申し出ると、玄関広間(hall)に通された。女中頭(housekeeper)を待っているあいだ、エリザベスはなぜ自分がここにいるのだろうと不思議な気分がしていた。
 女中頭がやってきたが、彼女は気品のある年輩の夫人で、服装は思っていたよりも地味であり、応対も同様に丁重であった。彼女に案内されて邸内の部屋を見て回ったが、部屋の様子や家具調度など立派なものであったが、必要以上に華美なものではなく、当主の趣味の良さが現われていた。エリザベスもその趣味の良さには感心しない訳にはいかなかったが、自分がもしダーシーと結婚してこの邸の女主人になったら、商人である叔父夫妻を招くなどということはできなくなるだろうとも考えて、気を取り直した。

 エリザベスは、当主がいつ戻って来るかを尋ねたくて仕方がなかったが、聞くわけにもいかず、幸いに叔父がその質問をしたところ、今は留守にしているが、明日になったら大勢の友人たちを連れて戻ってくるはずだとの答えが返ってきた。エリザベスは、一日違いで鉢合わせを免れたことを喜んだ。
 その時、部屋に飾られている肖像画の一枚を見つけた叔母が、エリザベスに話しかけた。その肖像画はウィッカムのものであった。女中頭の話では、彼は先代の当主の執事の息子で、先代が自ら費用を出して養育されたのだという。「今は軍隊に入っていますが・・・生活が大分乱れておいでのご様子です。」(大島訳、418ページ)
 それを聞いた叔母はエリザベスに向かってほほ笑んだが、エリザベスは微笑み返す気にはなれなかった。

 女中頭は、一同の注意を別に肖像画に向けさせる。それはダーシーの肖像画で、8年ほど前に描かれたという。説明を聞いた叔母は、この邸の当主が美男だという噂は聞いているが、肖像画がどのくらい本人に似ているかは実際に会ったことがあるエリザベスならばよく知っているだろうと、彼女に水を向ける〔これはダーシーから求婚されたことがあるエリザベスにとってつらい質問である。〕 女中頭は、彼女が当主と知り合いだということを知って、認識を改めた様子である。そして、2階の画廊に行けばもっと立派な肖像画が見られるという。今、彼らがいる部屋は先代の当主が好んだ部屋で、先代の在世当時のままにしてあるのだというのである。 

 それから彼女はミス・ダーシー(ジョージアナ、ダーシーの年の離れた妹)の肖像画に目を向けさせる。彼女が8歳のころ(ということは、ダーシーやウィッカムの肖像画と同じく8年前)に描かれたものだという。(やはり、ダーシー兄妹の父親の生前に描かれたものだが、その絵から、現在の彼女の姿を想像するのは少し難しいかもしれない。多分、そのために)叔父がミス・ダーシーも兄と同じように美しい(handsome)かと聞くと、「あんなにお美しくて、しかもあれほどの才藝を身に附けたお嬢様はまたと見られません!」(大島訳、420ページ)という答えが返ってくる(なぜか大島さんは、「才藝」と「藝」の字を旧字体にしている。「身に附けた」というのも「身に付けた」とするほうがふつうではないか)。ミス・ダーシーは特に音楽が好きで一日中ピアノを弾いているという。隣の部屋にダーシーが妹のために求め入れた新しいピアノが置いてある、ミス・ダーシーも次の日に戻ってくる予定だという。

 ガードナー氏は持前の気さくで愛想のよい態度で、話好きらしい女中頭からいろいろな話を聞き出した。ダーシーは1年のうち半分ほどしかこの邸には滞在せず、ミス・ダーシーも同様だが、夏になると決まってペムバリーにやって来るという。「但し、ラムズゲイトにへ行く時を除いてね」(大島訳、420ページ)とエリザベスは内心で付け加える。
 ラムズゲイトはケントの南海岸にある保養地で、ミス・ダーシーは1年ほど前にここに滞在している時に、ウィッカムと駆け落ち未遂をしたことが第2巻第12章(第35章)で語られていた。ダーシーに対する印象を改めかけていたエリザベスであるが、ミス・ダーシーの方には会ったことがないし、高慢な令嬢ではないかという予測が付きまとっている。それで、彼女のことをダーシーをあきらめる理由にしようとしているのではないかと思われる。小姑の存在は結婚の障害となりうるというのは、イングランドでもいえることかもしれない。

 ところがエリザベスのそんな心の中の動きをよそに、ガードナー氏はこんなことをいう。
「御主人も結婚なされば、こちらにおられることが多くなるでしょう。」
「たしかに。でもいつのことになりますやら。うちのご主人に相応しい女性がそうはいるとも思えませんので。」(大島訳、420ページ)
 自分の主人を誇りに思う気持ち=少し後で出て来る言葉を使えば、family prejudice (主家贔屓)だと思ったガードナー夫妻は微笑したが、利害関係のあるエリザベスにとっては聴き逃せない言葉である。「あなたのようなかたからそんな風に思われているなんて、ご主人にとっては大変な名誉ですね」(大島訳、420‐421ページ)。これに対して女中頭は、自分は嘘偽りのないことを言っているだけだという。エリザベスは褒め方が少し大げさではないかと思ったが、女中頭は、ご主人には彼が4歳の時から知っているが、不機嫌で気難しいことを言われたことはないという。

 これはエリザベスが、これまで抱いていたダーシーについての見方とまったく反対の観察であった。彼女はダーシーが気難しい人間だと思っていたからである。〔つまり、ダーシーが身内には優しいが、外の人間には気難しいというタイプの人間だということではないか。もっとも、エリザベス自身が、外の人間にどう思われているかというのも問題である。彼女は、気難しいとは思われていないけれども、ミス・ビングリー(ジェインの愛するビングリーの妹)が言うように、油断のならない存在であるのかもしれない。ただしミス・ビングリーはダーシーと結婚したがっている女性だから、彼女の意見からその点を割引する必要はある。〕 もっと話を聞いてみたいと思っていたところ、叔父がさらに話を進めた。そこまで褒めてもらえる主人というのはなかなかいないものだ、あなたはそのような主人をもって幸福ではないかという。女中頭は、その通りだ、彼は子どものころから気立てがよかったし、大人になってもそのことは変らないという。

 これを聞いていよいよエリザベスは、信じられない気持ちでいっぱいになる。女中頭は家の中のことをいろいろと説明するのだが、エリザベスはそんなことは頭にはいらなかったし、ガードナー氏も女中頭の言っていることは一種の主家贔屓だろうと思ったので、もっと彼女の主人に対する論評を聞きたがった。女中頭は、自分の主人が小作人たちや召使から慕われている立派な地主であるという。それが本当のことであればと、叔母はエリザベスに囁いた。ウィッカムの言っていることは嘘だったということになる。エリザベスは彼女特有の機知でそれにこたえる。

 それからたいそうきれいな居間(sitting-room)に案内される。それはミス・ダーシーの部屋で、妹が気に入るようにとダーシーが最近、改装させたのだという。ダーシーは本当に妹思いだとエリザベスは言い、女中頭は彼が妹のためならばどんなことでもすると付け足す。それから画廊を見せてもらうが、エリザベスは絵が分からないので、ミス・ダーシーが描いたという何枚かのクレヨン画を見て、こちらの方が分かりやすいと喜んで眺めた。〔ミス・ダーシーに対する気持ちが少し変わったということかもしれない。〕
 それからダーシー家の一族の肖像を見たが、彼女が興味をもつことができたのは自分が知っている、ただ一人の人物の肖像だけであった。そして、その肖像を見ているうちに、彼女には何やらやさしい感情がこみあげてきた。自分は実は、彼に対して誤解を抱いていたのではないか、彼から愛の告白を受けたことを懐かしく思いだし、彼が彼女に対して向けた愛情に感謝し、そのときの不躾な言い方を許せるような気持ちになった。

 こうして一同は、建物のなかの見学を済ませ、今度は庭を見せてもらうことになる。そこではエリザベスが予期していなかった出来事が起こるのだが、それがどのようなものであったかはまた次回に。
 第3巻第1章(第43章)は中公文庫版の大島利光訳で24ページという長さであるし、物語の展開にとっても重要な部分なので、3回に分けて紹介する。エリザベスには叔父夫妻にも、案内をしてくれている女中頭にも隠しておかなければならない秘密があり、そのため、ペムバリー訪問は彼女だけでなく、読者にとってもスリルに富んだものになっている。彼女の気持ちはしだいにダーシーへの思慕へと傾いているが、そのたびに、いろいろな障害を思い浮かべてあきらめようとする。特にまだ会っていない、ダーシーの妹、もし結婚すれば小姑になる女性の存在が重要である。そのあたりの心理描写がなかなか手が込んでいる。
 女中頭はレノルズ夫人(Mrs. Reynolds)というが、これは18世紀の有名な肖像画家にヒントを得た命名(この前後でダーシー一家の肖像画が紹介されるところから思いついた、作者の遊び)であろう。*をつけてあるのは、架空の地名で、ついていないのは実在している場所だとご理解ください。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(17)

3月14日(土)雨、また寒さが戻ってきた

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品であるこの叙事詩は、作者の死によって未完に終わったが、ローマ共和政末期・紀元前1世紀の半ば、グナエウス・ポンペイウス・マグヌスとガイウス・ユリウス・カエサルの間で戦われた内乱を描き、「敬虔、正義、法、平和の支配するローマの永遠の統治の到来を予告した建国叙事詩『アエネーイス』への文字どおりのアンチ・テーゼ――亡国叙事詩――であった」(大西英文「ルーカーヌス」、松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ』、Ⅳ‐2‐A、203ページ)といわれる。
 紀元前50年11月、ローマのポンペイウスと元老院によってガリア総督の地位を解かれたカエサルは、イタリアとガリアの境界であるルビコン川を軍隊を率いて渡り、ポンペイウス派に対する内乱を企て、ローマに迫ろうとする。ポンペイウスや元老院議員の多くがローマから逃亡し、市内は混乱に陥る。(第1巻)
 ポンペイウスは反撃を図るが、彼の派遣した軍隊は各地でカエサル軍に敗れ、ついにギリシア西部を目指して、イタリアから脱出していく。(第2巻)
 ローマに入城したカエサルは、サトゥルヌス神殿の予備金庫を開けて国庫から略奪を行う。一方、東方に逃れたポンペイウスは各地から味方の兵力を集める。カエサルはイベリア半島のポンペイウス派の軍隊を討伐しようとローマを離れるが、途中、ギリシア人の植民地であるマッシリアが、カエサル軍に抵抗する。カエサルは、軍の一部を残してイベリア半島へと向かい、海戦に敗れたマッシリアはカエサル軍に降伏する。(第3巻)
 イベリア半島のイレルダに本拠を置き、アフラニウスとペトレイウスが指揮するポンペイウス派の軍勢を、カエサルは山間部に追いつめ、降伏させる。(第4巻の前回まで)

 これまでカエサル軍が、ポンペイウス軍を各地で破ってきた様子を紹介してきたが、
 だが、世界じゅうで繰り広げられた戦の帰趨は一様ではなかった。
運命は、あえて、いささかの痛手をカエサルの党派にも与えた。
(第4巻、399‐400行、195ページ)
 イッリュリア(現在のクロアチア)のアドリア海上に浮かぶクリクタ島(クルク島)の好戦的な住民たちを頼りに、陣営を構えていたカエサル派のガイウス・アントニウスは、付近の海域をポンペイウス派に封鎖されて食糧の補給を阻まれた。〔このガイウス・アントニウスは、カエサルの暗殺後に、オクタウィアヌス(アウグストゥス)、レピドゥスとともに三頭政治を行ったマルクス・アントニウスの弟である。〕 

 しかし、対岸の本土の海岸にカエサル派のバシリスと彼が率いる軍勢とが進出してきたのを見て、島からの脱出を図ることになる。彼らは「巨大な荷に耐える頑丈な木を、/常ならぬ並びで組み合わせた筏」(第4巻、415‐416行、196ページ)をつくった。この筏を漕ぎ進める漕手たちは、木材の壁に囲まれているために、敵からその姿が見えないという奇妙なものである。アントニウス軍は、干潮になるのを待って筏を砂浜に運び、そして海へと漕ぎだした。

 イッリュリアの海の守備にあたっていたポンペイウス派の艦隊司令官オクタウィウスは最初に漕ぎだした3隻の筏をそのまま見過ごし、そのあとに続く軍勢を襲おうとした。彼らは昔からの戦法を用い、海面には細工をせずに、海中に綱を宙づりに渡し、綱は緩めたままにしていたが、その端を海岸の崖の岩に結びつけた。
 最初の筏も、二番目の筏もこの罠には引っかからなかったが、3番目の筏が捕らえられ、岩の方に引き寄せられていった。捕らえられた筏を、ポンペイウス派の艦船が取り囲み、また陸地にもポンペイウス派の別の軍勢が待ち構えていた。筏の指揮官であったウルティウスは刀で綱を切ろうとしたが、切り離すことができず、ついに勝ち目のない、戦いを決意することになった。
 包囲する軍勢は数千、筏の上の兵士たちは600人足らず、激しい戦闘が始められたが、すぐに日没で戦闘は停止となった。
 
 その夜、ウルティウスは部下たちに、後世の語り草になるような戦いをして自分たちの命を終わらせようと檄を飛ばす。
・・・私には、差し迫る
定めを避ける気など微塵(みじん)もない。たとえ運命が退却を許し、
この危地から解放してくれようともだ。
(第4巻、505‐507行、202‐203ページ)

 翌日、ポンペイウス派の軍勢は筏の上の軍勢に降伏した上での和睦を持ち掛けるが、すでに死を決意している兵士たちはこれを拒否、ついに戦闘が再開される。筏の上の兵士たちはわずかな兵力でよく戦い、「海と陸、同時に持ちこたえた。死を恃む/心はそれほど大きな力を与えた。」(第4巻、529‐530行、204ページ) しかし、衆寡敵せず、指揮官であるウルティウスも多くの敵兵を倒した末に、命を失う。全滅したとはいえ、彼らの勇武は敵によっても賞賛されたのであった。

 詩人はウルティウスとその部下たちの壮絶な戦いと最期を描き出すが、(どうも彼は敗者に対して熱心に感情移入するところがあるようである)、この軍勢の指揮官であったガイウス・アントニウスの身の上については語っていない。アントニウスは結局、生き残った部下とともに降伏し、赦免を受ける。
 次回は、カエサル派にとってもう一つの痛手であったガイウス・スクリボニウス・クリオの敗死を取り上げることになる。クリオは、すでに紹介したように、ルビコンを渡ったカエサルに合流し、彼に内乱をそそのかした人物である。 

細川重男『執権』(12)

3月13日(金)曇り

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが、自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんの言葉を借りれば、「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏の代々の得宗がどのように生き、どのように戦い、後世に何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時と、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗・執権に焦点を当てて考察するものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、伊豆の小土豪に過ぎなかったことが論じられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では、もともと北条時政の嫡男ではなかった義時が、頼朝死後の鎌倉幕府の権力闘争の中で運に恵まれて勝ち残り、権力を固めていった過程が辿られる。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」では、蒙古襲来という危機的な状況の中で、時宗が異母兄の時輔や一門の中の有力者である名越氏を取り除いて、その独裁的な権力を固めていった過程が辿られている。そして義時が、景行から仁徳までの5代の天皇に仕えたという神話的な賢臣である武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が、当時、かなりの範囲で信じられていたことに触れる(この伝説は、もう少し後で、意味をもつことになる)。
 第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」では、執権時宗が頂いていた将軍・維康の変則的な経歴をたどり、維康の父・宗尊親王の京都送還をもって幕府の権力が執権に一元化したことが明らかにされている。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  蒙古国書の到来
 使者到来、戦時体制へ
 文永5年(1268)閏正月8日、当時、事実上唯一の対外窓口であった大宰府を管轄する筑前(福岡県北西部)守護少弐資能(すけよし)によって、蒙古の国書が鎌倉にもたらされた。
 この国書は1か月後の翌2月7日、幕府より正式に朝廷に奏上される。京都の方が鎌倉よりも大宰府から見れば近いのに、こういうことになった理由を細川さんは次のように説明している。古代から日本の海外通交の窓口であった大宰府は、鎌倉時代になると、その次官である太宰少弐の官職を世襲し、それを苗字とすることになった九州有数の御家人少弐氏(もともとは武藤氏)を通じて幕府の支配下にあったので、国書はこのようなルートをたどって伝達されることになったのである。
 〔もう少し説明しておくと、大宰府の長官(かみ)は帥(そち)であり、9世紀以降は親王任官が通例(例外もある)となったが、現地に赴くことはなく、実権は権帥(ごんのそち)および次官(すけ)の大弐・少弐に移った。さらに権帥や大弐に任じられた都の貴族も現地に行かなくなったために、現地にいる少弐氏が実際の仕事を取り仕切るようになったということである。少弐氏とならぶ九州の有力御家人としては、大友氏と島津氏があげられる。〕

 国書をもたらしたのは高麗の人潘阜であったが、前年11月に対馬に到着、この年の正月に大宰府に至っている。国書が大宰府から鎌倉に届けられるまで約1か月、それから京都に送られるまでまた約1か月かかっているが、これは事態の重大性のために少弐氏および幕府が苦慮した結果であろうと思われる。
 国書は表面的には平和的な通交を求めるものであったが、「軍事力を行使するのは、だれが望むところだろうか」などと、脅すような文面もあり、日本側には蒙古の侵攻必至と受け取られた。

 2月から3月にかけて、京都では連日のように会議が開かれ、返事を出すかどうかが議論されたが、結局無視することに決まった。大宰府に留まっていた蒙古・高麗の使者たちは、要領を得ないまま7月に帰国した。その間、日本側は未知の外国との戦闘にすでに突入していたのである。
 もちろん、国書到来時点で日本側が蒙古についての情報をもっていなかったわけではない。商船や渡来禅僧などを通じて海外情報は伝えられていた。〔1279年に来日した禅僧無学祖元は鎌倉の建長寺の住持、また円覚寺の開山となったことで知られる。〕しかし、日本に伝えられていた情報は限られていたし、「さらに辺境の東国」(173ページ)にあった鎌倉幕府の対外認識はきわめて貧しく、「蒙古国書の到来は強敵襲来の予兆としか認識されなかったであろう」(同上)という。
 〔細川さんは触れていないが、当時の日本の主要な交易の相手は南宋であり、南宋軍が蒙古を苦しめていた火薬の原料となる硫黄が主に九州から産出・輸出されていたという事情もある。また渡来禅僧のほとんどが元の圧迫を逃れてきたということも視野に入れるべきであろう。〕

 潘阜らの使節一行がまだ滞在中の2月25日に、朝廷は二十二社への奉幣を行い、蒙古の難を報告、併せて祈願を行った。当時の朝廷は承久の乱以来、独自の軍事力を持っていなかったので、蒙古に対してはもっぱら寺社への「異国降伏」の祈願を繰り返すことになる。
 一方、実際の戦闘を担当する幕府は2月27日に、西国各国の守護に対し管国御家人を動員して侵攻に備えることを命じ、戦闘態勢の構築に入る。このような戦時体制下にあっては、権力が一点に集中し、強力な指導力が発揮されることが望ましい。〔もっともその権力が正常な判断ができることが前提になっている。〕

 蒙古国書の鎌倉到来から2か月たった3月5日、それまで連署だった時宗が執権に、執権だった政村が連署になるという前例のない執権・連署の交替が行われた。「幕政中枢は大切にその成長を見守ってきた時宗を、未曽有の国難に際し、ついに幕府政治の頂点に正式に位置づけたのであった。時宗、時に18歳。」(174ページ) 〔18歳というが、数え年で、満年齢では16歳である。今でいえば高校生に日本の政治の最高決定権を委ねているわけで、それが権力の実態であったのか、あるいは別に黒幕がいたのかなどと想像力を働かせてもいい場面ではないかと思う。なお、執権と連署の交替をめぐってはプーチン氏とメドヴェージェフ氏の例が参考になるかとも思ったのだが、ロシアの最近の政局は別の方向に進み始めたらしい。〕
 そして4年後に、すでに触れた二月騒動が起きる。これによって時宗は、彼に対抗する力をもった、あるいは持つ可能性のあった潜在的な勢力を一掃し、独裁的な権力を固めた。

 「時宗10歳の文応元年(1260)7月16日、北条時頼に上呈された『立正安国論』に日蓮が記した2つの予言のうち「自界叛逆難(じかいはんぎゃくのなん)」(=内乱)は12年後、果たして現実のものとなった。そして、いま一つの予言「他国侵逼難(たこくしんぴつのなん)」(=外冦)は、わずか2年後に迫っていた。蒙古帝国と対峙しなければならない時宗への権力集中は、ギリギリのところで間にあったと言えよう。実兄と一家一門、そして家臣たちの犠牲のうえに確立された絶対的な権力をもって、時宗はその生涯を賭して蒙古との戦いを続けることになる」(174ページ)。〔戦いを回避する方策がなかったのかという問題は残る。この点は次回以降に持ち越すが、細川さんも問題にしている。日蓮上人が独自の情報網をもっていたことについてはすでにいくつかの研究がある。上人が持っていた情報網を、幕府が共有できなかったことも問題ではある。すでに述べたように、時宗にも無学祖元のような情報網があったわけで、それらを総合してより賢明な判断ができなかったかという問題は残るのである。〕

 では、このような事態に直面して、幕府における意志決定がどのようになされていたのかというのは、次回に持ち越すことにする。 
 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(11)

3月12日(木)晴れたり曇ったり

 武士最初の反乱とされる平将門の乱は承平5(935)年から天慶3(940)年まで続いたが、そのなかで天慶2(939)年に将門が「新皇」即位を宣言したことが注目される。この乱の起きた10世紀前半は、9世紀後半から続く政治体制・対外関係の動揺の時代であり、それまでの天皇が皇統の論理だけを根拠としてその位を継承してきたのに対し、将門の宣言はそれだけでなく、天命思想をも根拠としているという点で、新しさと危険性をもつものであった。

「新皇」即位と王土王民思想
 平将門追討官符以前の対応
 では、新しい論理をもって「新皇」への即位を宣言した将門に対し、京都の支配層の側はどのような論理をもって対応したか。9世紀後半から10世紀前半にかけての王権の揺らぎがこの乱によって決定的なものとなっただけに、支配層の危機感は並大抵のものではなかったことは十分想像できる。
 そのような危機に対応するために、朝廷がとった積極策が天慶3(940)年正月11日の太政官符の発布である。その内容については、後で詳しく取り上げるが、王土王民思想に基づいて、武士や民衆に対し将門追討に参加することを要請するものであった。
 この官符の意義を明らかにするためには、将門の乱に対する朝廷のそれまでの対応について検討しておく必要があると木村さんは言う。

 天慶2年、源経基によって将門の反乱の情報がもたらされたときに、朝廷がとった対策は大きく分けて2つあり、1つは乱鎮圧のための諸社への祈祷命令で、もう一つは東国の治安維持である。これらの方策は軍事力によって反乱を鎮圧するというような強硬な性格をもつものではなく、いわば「神仏頼み」をしながら、反乱についての情報を収集するというような対応であった。

 将門追討官符の発布
 しかし、天慶3年正月からその対応は一変し、強硬策が採用される。
 先ず正月6日に「五畿七道の各社」に乱平定の祈祷に対し神位一階を授けることが命じられた。また伊勢神宮にも奉幣が異例の形で行われた。
 将門の追討官符は、このように朝廷が危機感を募らせている中で、東海・東山道の諸国司に宛てて発布された。

 官符はまず、将門の反乱行為を指摘したうえで、「開闢(かいびゃく)以来、本朝の間、叛逆の甚だしきこと、いまだこの比にあらず」(163ページ)とその重大性を指摘する。そして、その重大さゆえに「皇天自ら天誅を施すべし、神明なんぞ神兵を秘(かく)すことあらんや」(同上)と、将門を討つことが「皇天」=天帝や「神明」≂神の意志であることを確認したうえで、次のように主張する。
 抑(そもそ)も一天下の下、寧(いずく)んぞ王土に非ざらん。九州のうち、誰か公民に非ざらん。官軍黠虜(かつりょ)の間、豈(あ)に憂国の士無からんや。田夫(でんふ)野叟(やそう)の中、豈に忘身の民無からんや。(同上、「天下の下」は「王土」であり、「九州=ここでは日本全土という意味」のうちに住むものはすべて「公民」なのだから、官軍が平定に苦慮している時に、「憂国の士」や「田夫野叟(庶民)」までもが将門討滅に決起するのは当然である)。明らかに王土王民思想に基づいた動員命令であると木村さんは論じる。

 これまでの研究では、左大臣藤原仲平(時平の弟、忠平の兄)が勅を受けて作成した反乱者を討伐したものに対しては恩賞を与えるという文言が、平貞盛や藤原秀郷の参加の誘因となり、彼らがその勲功に応じて受けた恩賞が武士として発展するもととなったことに注目してきた。しかし、ここでは、王土王民思想が持ち出されていることの意義の方に注目するという。朝廷が明確な形で王土王民思想を述べたのは、この官符を除くと、延喜荘園整理令と保元荘園整理令の2例があるだけであり、この思想が強調されるのが政治的な変革期であったことを物語ると、著者は論じている。それではこの2つの事例において、王土王民思想はどのように述べられているのであろうか。

 延喜新制・保元新制の王土王民思想
 延喜荘園整理令(延喜2=902年)の4月に発布された太政官符は、様々な理由をつけて国家的な公役(力役)に従わない人々に、従うよう命じたものである。そこでは天下の国土はすべて王土であるから、そこに住む民は王民であり、公役=国家が賦課する課役を拒むことはできないということで、強い意志をもって王土王民思想を述べ、政治体制の一新を宣言している。
 保元新制は保元の乱(保元元≂1156年)の3か月後に後白河天皇が発したもので、後白河の即位(久寿2=1155年)以後に宣旨による承認のないまま立てられた荘園はすべて停止することを命じたものであり、ここでも朝廷の強い意志が発現されている。
 これら2例はともに、時代の転換点を迎えて朝廷や院の強い意志に基づいて発令されたものであり、将門の乱の場合にも同じような意識が働いていたが、2例が土地制度に焦点を当てて支配体制の転換・強化を図る意図をこめていたのに対し、政治的・軍事的な危機意識に基づいていた点が異なるという。

 将門追討官符の意義
 これらのことから王土王民思想は国家や王権に関わる重大事件に際して発現されていたことがわかる。将門の乱はそのような国家や王権に関わる重大な事件であった。では、王土王民思想は何を根拠にして主張されているのであろうか。
 先ず延喜新制の場合は、「貞観以来の諸国の例」であり、保元新制の場合は「朝章に論ずるに」とあるようにわが国の法令であった。つまりわが国のこれまでの法令や制度を根拠として王土王民思想が発現されたといえる。
 ところが将門の乱の場合は、「皇天」(=天を主宰する神)と「神明」(=超自然的な神の意志)に基づいて王土王民思想が発現されていた。しかも王土王民思想の単なる根拠としてではなく、「皇天が自ら」将門に「天誅」を下し、「神明が神兵を隠さずに派遣して」将門を討つと、「皇天」と「神明」の将門追討への主体的な行動が前提として語られていることが注目される。それらは、具体性のない観念的な根拠であるように見えるが、現実の国家を越えたより高度な見地から発想されているところに、将門の乱への貴族層・支配層の強い危機感を読み取ることができるのではないかと著者は論じる。「まさに将門の乱は王権を覆すような重大な危機であったのである。」(169‐170ページ)

 王土王民思想は国家や王権の危機に際して発現されるが、その根拠に着目すると、土地所有・荘園に関わって発現された場合がそれまでの法制を根拠としているのに対し、将門の乱の場合には天や神々の意志が根拠となっており、より深刻な危機意識の表れではないかというのが著者の考えである。王土王民思想にはもう少し別の発現の例もあり、また将門の乱と同じような危機意識をもって現れた例もあるが、それらについては次回とりあげることにする。もっと後の時代になってもこの問題は続くが、古代の社会にあっては政治と宗教とが結びつき、我々の常識では考えられないような行動を呼び起こすところがある。そんな点に注意しながら、さらに読み進めていきたい。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(13)

3月11日(水)晴れ、気温上昇

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を実地調査した。旅行の後半、1958年2月から3月にかけては、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスの3カ国を旅行した。
 梅棹は、隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、外務省留学生の石井米雄(後に東南アジア研究者、1929‐2010)とともに、2月12日にバンコクを出発、13日にカンボジアに入国し、バッタンバンを経てプノムペンに到着、これらの都市のほか、海岸部やトン・レ・サップ湖の周辺を探索、21日にベトナムに入国し、サイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)に到着した。サイゴンから足を延ばして、タイ・ニンにあるカオダイ教(ベトナムの民族的宗教)の本部や、華僑によるコーチシナ開拓の中心地であったミートー、ベトナムにおける華僑の中心地であるチョーロン(現在はホーチミン市の一部)を訪問した。サイゴン大学関係者の協力を得て、ビザを延長し、またサイゴン大学の学生であるグェン・ニュン・ディックに通訳として同行してもらうことになった。28日、サイゴンを出発し、高原の避暑地であるダラットに向かうが、到着できず、途中の小さな町ジリンで一泊、3月1日にダラットに到着、特に見るべきものもないのですぐに退散して海岸のファンランの町に入る。

第15章 チャムの塔(続き)
 チャムの塔
 3月2日にファンランを出発して、さらに北に向かうが、その前に町の近くにあるチャムの遺跡らしい塔を見に出かけた。
 「わたしたちはいよいよ、チャムパの地域に入ってきたようだ。チャムパというのは、チャム族の国の名である。むかし、ベトナム族がトンキン・デルタの本拠から南下してくる前は、アンナン地方一帯には、チャム族がいて、チャムパという王国をつくっていたのである。」(119ページ)
 このチャンパ王国はインド文明の影響を強く受けた高度の文明国家であった。同じようにインド文明の影響を受けたクメールやモンの文明と姉妹関係になるといってもよいと梅棹は記す。彼らの宗教はバラモン教であった。そして、シヴァ神を信仰して、国内各地にその神殿をつくった。一行が訪問したのは、そのような神殿の一つの遺跡である。
 チャムパは、むしろ「チャンパ」と表記されることのほうが多いようである。占婆とか、占城と漢字で表記されることもある(林邑という呼び方がされることもある。バラモン教というのは、ヒンズー教の原型である。

 チャムパの建国は3世紀の末といわれる。当時北部のトンキン・デルタを本拠とするベトナム族は中国の支配下にあったが、中部のアンナン地方のチャム族は中国軍との間に何度も交戦を繰り返していた。その後チャムパはますます国力を蓄え、6~10世紀には最盛期を迎える。一方、ベトナムは10世紀以降、中国の支配を脱し、独立王朝〔1009~1225、リー(李)朝;1225~1400、チャン(陳)朝;1428~1527、レー(黎)朝(大越国)以下略〕の時代となるが、ベトナムとチャムパとの間に支配領域の争奪をめぐって激しい戦いが続いたのである。

 15世紀に入り、当時のレー(黎)朝の王タントン(聖宗)はチャムパ追討の大遠征軍を組織し、1471年にクヮン・ガイにおいてチャム軍を破った。続いてチャムパの首都チャバンが陥落する。〔チャムパの首都をヴィジャヤとする文献もある。〕 この敗戦で、チャム軍は6万が戦死し、王族以下3万が捕虜となって北方へ連れ去られた。この後、チャムパは衰亡の一途をたどることとなるが、その遺跡は南ベトナムのほとんど全域にわたって発見され、彼らの高度の文明生活を物語っているのである。

 チャムの末路
 「チャㇺとの闘争は、ながいベトナムの歴史をつらぬく、一本の太い糸である。世界の歴史のなかには、しばしば、となり同士でありながら、ついに一方が亡び去るまで相い争わなければならなかった民族の運命が語られているが、ベトナムとチャムパとはまさにそれであった。」(120‐121ページ)
 それから梅棹は、大和民族と蝦夷の例を引き合いに出して対比を試みているが、このあたりの歴史認識には問題が多いと思うので、省略する。
 むしろ「ベトナムとチャムパとの戦いは、ある意味では、中国文明とインド文明という、アジアにおける二大文明の、その接壌地帯インドシナ半島における決戦であったとも見ることができる」(121ページ)という指摘の方が的を射ているのではないかと思われる。

 1471年の敗戦の結果、チャムパの領土は、ヴァレラ岬以南に限定され、数世紀のあいだは、小王国として存続を許された。1720年、チャムの最後の王は、ベトナム人の圧力に耐えかねて、カンボジア領内に逃げ込んだ。その王統の子孫は、今世紀に至るまで続いていたという。「げんに、いまなおカンボジア領内には、そうとう多数のチャム族が住んでいるのである。かれらは、どういうわけかイスラム教徒になってしまっている。」(122ページ)〔このあたりの記述については、ベトナムおよびインドシナ半島の歴史についての最新の研究を参照して、点検する必要がありそうである。なおWikipediaで調べたところでは、カンボジア国内に317,000人、ベトナムに100,000人程度のチャム族が住んでいるようである。〕

 「ベトナム領にのこったものは、依然としてバラモン教を奉じているという。このファンランから南へ、ファンリ、ファンチェトとつづく海岸地方の3州には、かれらの部落がある。わたしははじめ、生きているチャム族を見るために、海岸ルートをとりたいと思ったのだが、歴史学研究所の人たちは、この道は橋がおちていて通れるかどうか疑問だといった。それで、ダラットまわりにしたのだった。」(122ページ) 〔歴史学研究所の人たちは、外国人が少数民族と接触するのを好まなかったために、嘘をついたのかもしれないという気もする。〕

 ベトナムとチャムパとの抗争をめぐる記述はここで終わり、次はベトナムの文化や言語をめぐる考察が展開される。それはまた次回に。
 この旅行に同行した石井は東南アジア、特にタイの言語、文化の専門家であったが、京都大学の東南アジア研究センター(現在は東南アジア研究所)に長く務めたのち、上智大学を経て、神田外語大学の学長を務めた。その神田外語大学に勤めていた友人・知人が少なからずいて、先日その1人の夢を見たその日に、書店で石井の『語源の楽しみ』(角川ソフィア文庫から『英語の語源』として再刊)を見かけたので、偶然とはいえ面白いと思った(こじつけっぽいかもしれない)。

日記抄(3月4日~10日)

3月10日(火)雨

 3月4日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月4日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』の「英会話リテラシー」(English Conversation Literacy)のコーナーでは、「pieと英会話」という話題を取り上げた。Johnny Appleseedはアメリカ開拓初期に多くの土地をめぐりリンゴの栽培を広めた人物であるが、その甲斐あってか、20世紀前半には
as American as apple pie
という表現が生まれた。愛国的な表現として、今でも使われているという。放送の中でも話題になったが、as Japanese as・・・ということになると、何がふさわしいのだろうか。

3月5日
 同じくNHKラジオ『世界へ発信 ニュースで英語術』では、「豪 森林火災で特別調査委を設置」(Prime Minister Announces National Commission)というニュースを取り上げた。番組中で”National"を「国家的」と訳していたが、「全国的」と訳すほうが適切ではないだろうか。オーストラリアは連邦制で、多くの事柄が州レベルで決定されるが、森林火災は州を超える規模で起きているために、全国(連邦)レベルでの取り組みが必要だということではないかと思う。

3月6日
 『日経』の「ニュースな科学」欄にインド洋熱帯域の海水温の差によって起きる「ダイポールモード現象」が世界に影響を与えており、オーストラリアにおける大規模な森林火災もその為に起きたものだが、日本も影響を受けていると解説されていた。未解明の部分が多く、研究が進んで発生予測の精度が高まれば、経済被害も抑えられる、国際的な協力が必要であると結ばれている。

 椎名誠・目黒考二『本人に訊く <弐> お待たせ激突編』を読み終える。

3月7日
 『東京』1面のコラム「筆洗」では、先月奄美大島で開かれた危機言語・方言サミットについて取り上げ、2009年のユネスコの報告書では世界で2500言語が消滅の危機に瀕しているとの情報を伝えている。2500ということは、半数近くということである。このことの意味を考えてほしいものである。

 同じく『東京』に「難読字 AIにお任せ」という記事が出ていた。古文書を読むのに便利だろうと思うが、私の場合はそうやって解読された文書を読むだけになりそうだ。
 
3月8日
 「国際女性デー」である。むかしは「国際婦人デー」といっていたはずだが、いつの間にか「婦人」が「女性」になったのか、それは言語使用の変遷という点で興味深い問題ではないかと思う(この日の『日経』のコラム「遊遊漢字学」で阿辻哲次さんは依然として「国際婦人デー」という言い方を用い、「『婦』にこめられた高貴」という一文を書いていた。これもまた見識ではないかと思う)。
 1904年3月8日、アメリカのニューヨーク市で婦人参政権を目指すデモが行われた。これを受けて、1910年にドイツの女性社会主義者であったクララ・ツェトキンがデンマークのコペンハーゲンで開かれた国際社会主義者会議(第二インターナショナル)で「女性の政治的自由と平等のために」記念日とするようにと提案したことが起こりだという。その後、幾星霜、国際婦人年であった1975年に国連はこの日を「国際婦人デー」と制定したというのが経緯である。もっと詳しいことが知りたい方は、ご自分でお調べください。

 『日経』の「美の粋」のコーナーでは日本の寺院の塔の来歴を取り上げている。今回は白鳳時代の法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔、奈良時代の薬師寺の三重塔が写真で紹介されている。これらの塔は中国や朝鮮半島にあった木造の塔を模して建てられたものであるが、中国や朝鮮半島では現存せず、残っているのが日本だけというのは興味深いことである。
 
3月9日
 『毎日』に東京学芸大学付属大泉小学校が従来の小学校の教科の枠組みにあてはまらない「探究科」の開発に取り組んでいるという記事が出ていた。これからどんな展開が待っているのか注目しながら見守ることにしようと思う。

 『日経』のコラム「経営の視点」に、小平龍四郎記者が「『脱奴隷チョコ』が問うもの」という文章を書き、生産者から製品を安く買いたたいたり、児童に長時間労働を強制したりする企業活動を国際的に監視し、労働環境の改善に取り組むことの意義を訴えている。傾聴に値する意見である。

3月10日
 『日経』の「バンコク、各地に副都心」という記事が興味深かった。鉄道網を拡大することで、都市機能を分散させ、より快適な都会生活を送れるようにする意図だそうだが、障害もないわけではないらしい。

 『朝日』にスウェーデンの名優マックス・フォン・シドーさんの訃報が掲載されていた。『エクソシスト』に出演したことが記されていたが、シドーさんといえば、まずイングマル・ベルイマン映画への出演を書くべきではなかったかと思う。

 病院に出かける。検査と診察、それに栄養相談が長引いて帰るのが遅くなった。それでこの原稿を書きはじめるのも遅くなり、本日は皆さまのブログへの訪問を休ませていただくが、あしからずご了承ください。
 

『太平記』(305)

3月9日(月)晴れ、午後になって雲が多くなる。温暖

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月に清水寺が炎上し、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業だと噂された。足利直義は、重用する僧侶の妙吉侍者や、側近の上杉重能・畠山直宗の言葉を信じて、執事である高師直の謀殺を企てたが、逆に高師直・師泰兄弟らの軍に三条の邸を包囲され、出家して錦小路堀川の邸に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。事変に先立ち、羽黒山の雲景という山伏が愛宕山で不思議な体験をして、未来の出来事について聞いていた。

 どうやら天狗らしい、不思議な山伏は雲景に対して、これまでの出来事の原因を説き聞かせる。頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、武家が天下の政治を動かすようになった。その間、承久の乱で北条義時が三上皇を流罪にするなどのあさましい行いがあったが、北条氏の運が尽きていないので、そのまま政治がつづいた。しかし、高時の時代になって、その運が尽きたので、後醍醐帝の親政が実現したのだというのである。
 では、そうして実現した先朝(後醍醐帝)の政治が長続きしなかったのはなぜかという雲景の問いに対し、山伏は「随分賢王の行ひを学びしかども、真実の仁徳、撫育の叡慮は惣じてなし」(第4分冊、317ページ、「撫育の叡慮」は民を憐れむ帝の心である)と切り捨てる。また後醍醐帝は神仏に帰依されているような言動もされたが、じつはうわべだけでそうしていたので、「実儀(じつぎ)ましまさず」(同上、318ページ、真心がともなっていなかった)となおも厳しい評価を下す。それでも、昔のよい政治の真似をされたので、高時を倒し、しばらくの間政治を動かすことが出来た。しかし、昔の聖天子に比べれば、徳に欠けるところがあったので、高時に劣る足利に天下を奪われることになったのである。

 現在、持明院殿(北朝の帝)は、後醍醐帝とは違って、武力で政治の実権を握っている武家の意向に従って、赤ん坊が乳母を頼むような有様なので、政道の良しあしに関係なく、そのときの運に従って、位を保っておられる。おそらくは望んでそうされているのではあるまいが、今は末法の、邪悪な世界なので、理想や権勢慾を捨ててしまったことにより、かえって運が開けたのであろう。
 ともあれ王法は、平家の世の終りから日本では行われなくなってしまっていて、武家の覇道でなければ立ち行かないのに、そのことを悟り知られることもなく、昔の帝王のような聖徳もないのに、国を動かそうという権勢慾だけに駆られて、公家中心の世に戻そうと、当代が末世であるという時代の機運を悟られることなく、武士に敗北するなどということを想定されていなかったために、後鳥羽院は承久の乱を起こされたのである。しかし、この戦いに敗北し、公家はきわめて厳しい環境の下に置かれることとなった。後鳥羽院の無念を晴らそうと、後醍醐院は高時を滅ぼされたのであるが、公家の世を再興することはできなかった。

 さて本朝の宝というのは三種の神器=鏡・剣・玉の神代から受け継がれてきた宝器であり、国を治めるための守りとなるものでもある。この神器は代々継承していくことが大事なのである。ところが、現在の王者(帝王・帝)はこの明器を伝えることなく即位されているので、本物の王位に就かれているとはいいがたいのである。
 とはいうものの帝位に就くために、三箇の重事(さんこのちょうじ=三つの重要な儀式:即位式、御禊、大嘗会)を執り行われているので、天照大神も守護されるのだろうと頼もしく思われるところもある。この三種の神器は、我が朝の宝として、神代のはじめから人皇の今に至るまで、ずっと伝えてきたので、まことにありがたいことである。わが国は小国ではあるけれども、三国(インド・中国・日本)の中では最も優れた神の国であって、これはまことに不思議なことである。だから、この三種の神器が無くなって(かけてしまった)時代は、月が沈んでまだ陽が登らない残夜のようなものである。だから末代の証として、神が王の治世を見捨てたと悟るべきなのだ。

 この三種の神器は、平家が滅亡した時に、一門に同行されて西海に渡られた安徳天皇が、入水されて海底に沈まれたときに、勾玉と神鏡は取り返したのだけれども、宝剣は沈んだままになった。従って王法は、悪王〔といってはあまりにも可哀そうである〕安徳天皇までで終わってしまったという証拠がこの事実である。
 というのは後鳥羽院は始めて三種の神器なしに元暦年間(実際には寿永2=1183年)に践祚されたのであるが、その後も皇統が継承者によってずっと続いているのだから、(神器なしの践祚は)めでたい先例というべきであるかもしれない。とはいうものの、今、考えてみると、この後鳥羽院が践祚されたのとほぼ同じ時代に武家が幕府を開いている。剣が失われたというのは、朝廷の武威が失われたことを示す兆候であった。このために武家の力が強くなって、国家を支配するようになった。そして上級の変の後武家が我意に任せて天下を支配したとはいっても、天皇もいらっしゃったし、学芸の道も残っていたので、鎌倉幕府が政事を支配する一方で、天皇を尊重し、そのため各国に守護を置いたが、国司の所有する土地とその財政、公の租税、寺社の領地や公家が相伝する荘園には支配の手を伸ばそうとせず、公武が共存してうまくいっていたのだが、時勢や良い機会を得るのは前世の果報によることなので、後醍醐院が武家を滅ぼしたために、それがかえってあだになって、ますます王道が衰え、公家はことごとく廃れてしまったのである。

 天狗と思しき山伏の口を借りて、武家が台頭してからの世の中の変遷についての『太平記』の作者の意見が述べられていると思われる。この『太平記』の語りはじめでは、天子が天の徳に従って仁政を施し、臣下が地の道に従って君主を守れば天下は太平だと書いているが、ここでは、そのような政治の実現はおぼつかず、もはや世も末だという嘆きが前面に出ている。仏教でいう末法の世であるだけでなく、そのなかでわが国を守っているはずの三種の神器(のなかの剣)が源平の争乱で失われてしまったことが、武家の台頭を招き、しかも公武の強調による安定が今度は後醍醐帝の倒幕によって、さらなる混乱を引き起こしてしまったというのである。

 天狗(山伏)の話はなおも続く。話の続きはまた次回に。
 物語中で天狗が述べているのは、一種の事後予言であるが、この時点では観応の擾乱の結末は、作者には見えていなかったこともわかるのである。深く詮索しても仕方がないことであるが、三種の神器のうちの剣は本来、熱田神宮に納められているから、失われてはいないのではないかと思う。とすると、ここで問題になっている三種の神器というのは一体なんであるのかというのは、どうも容易には解けそうもない謎である。
 
 安倍晋三現首相が、北条歴代のだれに似ているのかというアンケートに回答を頂いた方はまだ1人にとどまっているので、これからでもご意見をお寄せください。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(34)

3月8日(日)雨

 エリザベスはガードナー夫妻とともに、夏のあいだ、イングランド北部へと旅行するのを楽しみにしていたが、あと2週間で出発というときになって、ガードナー夫人から手紙があり、出発が延期になり、旅の日程も縮小されたと連絡してきた。ガードナー氏が仕事の都合で出発を2週間先に延ばさなければならなくなったのだという。そのため出発は7月に入ってからのことになり、また1か月以内にロンドンに戻らなければならないので、旅行期間は当初予定していたよりも短くなってしまった。それで、ゆっくり旅を楽しむために湖水地方まで出かけるのをあきらめて、もっと切り詰めた日程に変更せざるを得ない。そのため今回の旅行はダービーシャーから北にはいかないことにした。ダービーシャーには観光地が多いから、自分たちの全日程3週間のうちの大部分はそこで過ごすことになるだろうというのである。
 第2巻第2章(25章)に出てきたが、ガードナー夫人はダービーシャーのウィッカムの生まれ故郷の近くに長く住んでいたことがあった。だからこの地は、彼女にとって特別な思いのある州であった。それで「今回はその町に数日間滞在することになっていた。多分夫人にしてみれば、マトロック温泉地やチャッツワーツ屋敷、或はダヴデイル渓谷やピーク丘陵地帯などの有名な景勝地に劣らず、好奇心をそそってやまない町なのであろう。」(大島訳、407ページ)
 マトロック温泉地(Matlock)、チャッツワース屋敷(Chatsworth)、ダヴデイル渓谷(Dovedale)、ピーク丘陵地帯(the Peak)はオースティンが愛読したGilpin, Observations, Relative Chiefly to Picturesque Beautyという書物に取り上げられたダービーシャーの景勝地である。Chatsworth Houseはこの後登場するダーシーのペムバリー邸のモデルとされ、この小説の映画化である『プライドと偏見』のロケ地ともなった。詳しいことはまた、そのときに。

 エリザベスはこれを知った時はがっかりしたが、こういう時の気持ちの切り替えが早い彼女のことなので、間もなくそれもいいだろうと受け入れる気持ちになった。しかし、ダービーシャーと聞くと、思いだされるのはそこにダーシーのペムバリーの邸があるということであった。彼からの求婚を拒否したこと、その際彼女が彼を非難した内容についてダーシーから弁明の手紙をもらったことなど、生々しい記憶であった。しかし、彼の邸の近くに行ったところで、別にとがめだてをされるいわれはないし、埋もれ木のかけらを拾ってきても、それを彼に見とがめられることはないだろうと考えた。
 原文でa few petrified sparsとあるのを大島さんは「蛍石を2つか3つ」と訳しているが、ペンギン・クラシックス版の注では「化石になった樹木」となっているので、「埋もれ木のかけら」と訳しておいた。

 出発が延期されたといっても、やがて時間は過ぎて、ガードナー夫妻は4人の子どもたちを連れてロングボーンにやってきた。子どもたちは8歳と6歳の女の子、それよりも年少の2人の男の子であったが、彼らをロングボーンに残して旅行に出かけるのである。子どもたちの面倒は主に長姉のジェインが見ることになっていた。エリザベスがケントに旅立つ以前から、ジェインはロンドンのガードナー夫妻のところに滞在していたし、それ以前にも何度か訪問・滞在していたので、子どもたちとはなじんでいたし、それに彼女の堅実な良識とやさしい性格も子どもたちの面倒を見るのに適していた。

 ガードナー夫妻はロングボーンに一泊しただけで、エリザベスとともに北の地方への旅行へと旅立った。気の合った3人旅であったと作者は記している。彼らはオックスフォード大学、ブレナム宮殿、ウォリック城、ケニルワース城、バーミンガムなどを訪問した後、ダービーシャーのラムトン(Lambton)という、ガードナー夫人が以前暮らしていた町にたどりついた。彼女の昔の知り合いが今もこの町で暮らしていることが最近になって分かったのだという。一行は州内の主な名所を訪問した後に、この町に向かった。ガードナー夫人の話だと、ラムトンから5マイルも離れていないところにダーシーのペムバリーの邸があるという。ガードナー夫人は以前に邸を訪問したことがあったが、もう一度訪問したいと言い出し、ガードナー氏もぜひ行ってみたいという。ガードナー夫人はエリザベスにも同意を求めたので、彼女は困惑した。
 「オックスフォード大学、…バーミンガム」というのも、前記Gilpinの書物で紹介された旅行のルートをたどっているのだそうである。ラムトンは架空の地名である。

 ペムバリー邸は有名な場所であり、エリザベスの何人かの知り合いにゆかりの場所であるからぜひ行ってみようといわれて、エリザベスは、苦境に立たされた。なんとか自分が行きたくない理由を作って、断ろうとしたのだが、ガードナー夫人に一蹴された。ペムバリーの庭園を見ないで帰ろうということがあっていいのだろうかというのである。
 エリザベスが行きたくなかったのは、訪問している際に、ダーシーにばったり出会うことを恐れたからであった。もしそんなことになったら、恥しくていたたまれないような気持ちになると思ったのである。それで、窮余の一策として、宿屋の女中にペムバリー邸の主人は今、在宅中かどうかを訪ねて、在宅であることが分かったら、叔母にこれまでのことを打ち明けてしまおうと決心した。それで部屋係の女中にそれとなく様子を訪ね、ペムバリー邸の主人がまだ帰館していないと分かったので、安心して出かけることにした。こうして、一行はペムバリーに出かけることになった。

 ここで第2巻第19章と、第2巻全体が終り、第3巻に入ることになる。ペムバリーでどのような出来事が待ち受けているかは、また次回以降に。今回出てきた名所のうち、バーミンガム(イングランド第2の都市である)と、チャッツワースには出かけたことがある。この物語の時代、人々の移動は主に馬車によるものだったから、時間がかかったのである。チャッツワース・ハウスのあるベークウェルから、隣のヨークシャーのシェフィールドまで霧の中を自動車で移動したときのことが忘れられない(タクシー代が随分かかったけれども…)。自動車の運転をされる方は、英国を旅行するのであれば、自動車で移動することをお勧めしたい。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(16)

3月7日(土)曇り

 紀元前50年の11月、ローマのガリア総督であったカエサルは、ガリアとイタリアの境界を流れるルビコン川を軍隊を率いて渡り、ローマを支配していたポンペイウスと元老院との戦い、内乱の開始の意志を示した。カエサル進軍の風説に混乱したローマから、ポンペイウスや元老院議員の大半が逃亡、人々は来たるべき内乱の予感に恐れおののくのであった。(第1巻)
 ローマを離れたポンペイウスは、カプア(現在のカンパニア州に位置する)に拠点を構えてカエサル軍を迎撃しようとするが、各地でポンペイウス軍は敗北、カプアから退却してたどりついたブルンディシウム(現在のブリンディジ、イタリア半島の東南部プリア州)も支えきれず、ギリシアのエペイロス(西の部分)を目指して逃げてゆく。(第2巻)
 ローマに進軍したカエサルは、サトゥルヌス神殿の予備金庫を開けて、国庫を略奪する。ギリシアに逃れたポンペイウスは東方の各地から軍勢を集めて反撃の準備をする。ローマを離れたカエサルは、スペインのポンペイウス派の軍隊の討伐に向かうが、途中で両派の停戦を主張して籠城するマッシリア(現在のマルセイユ)の抵抗に出会い、軍の一部を残して、スペインに向かう。カエサル軍は陸では苦戦したが、海戦でマッシリア軍に勝利し、マッシリアは降伏する。(第3巻)
 スペインに転進したカエサルは、アフラニウスとペトレイウスが指揮し、拠点イレルダ(現在のレリダ)を守るポンペイウス軍と対峙する。カエサルの陣営は洪水で壊滅するが、態勢を立て直すと、ポンペイウス軍は形勢不利と見て、内陸への逃走を図る。追撃するカエサル軍が至近の距離に陣を構えた時、両軍の兵らは互いに旧知の間柄であったことを認め、勝手に停戦して交歓しあう。(以上、第4巻の前回紹介部分)

 両軍の兵士は、敵も味方もまじりあい、食事の卓を囲み、神を祀り、夜遅くまで昔話に興じた。
 しかし、ポンペイウス派の指揮官であるペトレイウスは、兵士たちが自分の指揮に従わず、戦いをやめたことを喜ばなかった。一時の停戦は破られた。
ペトレイウスは、一党の手に武器を持たせて罪深い戦闘へと駆り立て、
手勢を従えて、丸腰の敵兵を陣から追い立て、結ばれた抱擁を
剣で引き裂き、大量の血を流して停戦を打ち壊したからである。
(第4巻、207‐209行、183ページ)
 ペトレイウスは、さらに兵士たちに向かい、
・・・我らは生き延びようとしてこの内乱を
戦っているのではない。平和の美名のもと、我らが
隷属へと引かれ行こうとしているのが分からぬか。
(第4巻、220‐222行、183‐184ページ)と、独裁者の地位を目指すカエサルの手から、共和政を守るべきことを説く。この演説が奏功して、兵士たちは再び残虐な戦いへと進むことになる。

 ところが、このようにして再開された戦闘はカエサル軍の圧勝に終わる。
 このあたりの経緯については、ルーカーヌスを読んだだけではよくわからないが、イベリア半島の各部族の支持を得るために、カエサル軍とポンペイウス軍の双方が工作を続けた挙句、カエサル軍を支持する部族の方が多くなったことが、カエサルの『内乱記』(国原吉之助訳、講談社学術文庫)には記されている。ルーカーヌスは、両軍の兵士がお互いが身近な存在であることに気づいて停戦したのだと書いているが、カエサルによれば、カエサル軍が兵力において勝ってきただけでなく、ポンペイウス軍の食料や水の調達の手段を奪ったことにより、ポンペイウス軍の相当部分がカエサル軍に投降したことが記されている。

 ポンペイウス軍は再び逃走しなければならず、その軍勢をカエサルは山中にとじこめ、水源地を確保して、ポンペイウス軍が水に欠乏するよう計略をめぐらした。ポンペイウス軍は必死になってカエサル軍に戦闘を挑むが、カエサル軍は正面から戦おうとせずに、ポンペイウス軍の疲れを待つ。水と食料の欠乏に苦しむポンペイウス軍の兵士たちは、地面を掘り返して水を求めるが、それもむなしい試みに終わる。
 こうしてしだいしだいに追いつめられるなかで、アフラニウスは降伏を決意する。
 ついに、指揮官たちは屈し、敗北した。アフラニウスは、
武力での抵抗を断念し、和睦を乞うことを皆に提案した上で、
歎願者として、半死の軍勢を率いて敵陣に赴き、
勝利者の足の前に佇んだ。
(第4巻、331‐334行、191ページ) 『内乱記』の方がこのあたりの経緯は詳しく記しているが、カエサル軍は戦闘よりも、ポンペイウス軍の水・食料・糧秣の補給を断つことによって次第に敵を追い詰めていったのである。

 アフラニウスの降伏の言葉を聞いたカエサルは、意外にも彼の願いを受け入れ、兵の徴用も、軍の懲罰も行わず、アフラニウスとペトレイウスの命も助けた。正式に和睦が結ばれるや否や、今や自由の身となったポンペイウス軍の兵士たちは、カエサル軍の歩哨の消えた川辺に走って行って、川の水を心行くまで(中には慌てて飲んで、むせぶものもいたが)飲むのであった。「命は/一掬の清水で蘇るのだ。」(第4巻、376‐377行、194ページ)
 ああ、不幸なるかな、戦いを行う者は――。そのあと、兵士らは、
武器を勝利者に引き渡し、胸から鎧をはずして、心安らかに、
罪を犯す虞(おそれ)もなく、憂いから解き放たれて、おのがじし、
故郷の都へと散っていった。
(第4巻、378‐381行、194ページ)
幸いなるかな、世界が崩壊して揺らぐとき、己の置かれた境遇が、いかに
平安なものかを知りえたものは。疲れた彼を、戦闘が駆り出すこともない。
喇叭の合図が安眠を破ることもない。
(第4巻、390‐392行、195ページ)
 ここでポンペイウス派の軍隊の兵士たちを、そのまま故郷に帰らせたことで、カエサルの声望は一気に上がることになる。彼らにとってポンペイウスはもはや、かつての将であり、カエサルこそ、自分たちの生活を元に戻してくれた恩人である。
 ただし、大将2人、アフラニウスとペトレイウスはこれからもカエサルに刃向かい続ける。その結末までは、まだまだ時間がかかりそうである。

 この『内乱――パルサリア――』という叙事詩は、紀元前1世紀の中ごろに起きたローマの内乱を題材としているが、ギリシアのホメーロスとか、同じローマのウェルギリウスの叙事詩と比べて、戦争を正当化せず、その残虐さとか、平和の尊さとかを強く訴えているところが特徴となるのではないか。叙事詩の一方の主人公であるカエサルが出馬した戦いを描いているにもかかわらず、戦いそのものは詳しく描写せず、むしろ兵士たちの平和への想いを強調している今回は、そういう特色がよく出た個所ではないかと思う。当事者であり、軍人であるカエサル自身の記録『内乱記』と読み比べてみると、そのことが余計はっきりするのである。マッシリアに続いて、イベリア半島でも勝利を収めたカエサルであったが、運命は必ずしも彼に微笑み続けていたわけではない。詩人は、その視線を、カエサル派の軍隊が敗れた2つの戦いへと向ける。その詳細は、また次回以降に。

 昨夜は居眠りのため、皆様のブログのうち訪問できなかったものが少なくありませんでした。お詫びします。 

細川重男『執権』(11)

3月6日(金)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き上げ、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、この書物の著者である細川さんの言葉を借りれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その悪戦苦闘の中心にいた北条氏の代々の得宗がどのように生き、どのように戦い、後世に何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗の2人の得宗・執権に焦点を当てて考察するものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が伊豆の、小土豪に過ぎなかったことが記されている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では北条氏の初代とされる時政の嫡男ではなかった義時が、頼朝死後激しさを加えた鎌倉幕府内の権力闘争の中で運に恵まれて勝ち残り、権力を固めていった過程が辿られ、『古今著聞集』に掲載された義時が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が、当時かなりの広がりをもって信じられていたことが語られる。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」では、蒙古襲来という危機的な状況の中で、時宗が異母兄である時輔や、北条氏の中の有力な一族である名越氏を取り除いて、その独裁的な権力を固めていったことが記されている。
 第4章「辺境の独裁者」では、時宗政権の権力の構造を他の執権時代と区別するために、鎌倉幕府における将軍の地位の継承が、室町幕府や徳川幕府とちがっていたことなどが考察されている。

第4章 辺境の独裁者(続き)
  後嵯峨源氏源惟康
 語られぬ将軍
 前回、鎌倉幕府における将軍が1つの家の世襲とならず、源氏将軍・摂家将軍・親王将軍とそのときの政治情勢を反映しながら変遷してきたこと、氏と苗字の関係などについて語られたが、その内容を予備知識として、いよいよ鎌倉幕府7代将軍「惟康親王」の履歴をたどることになる。
 ところが、維康がどんな人物かを知る手掛かりになる史料はまったくないという。彼については「その官職歴を羅列した史料や公式行事への参加の様子をたんたんと記した史料しか残されていない。」(157ページ) 〔「惟康親王」の父親である宗尊親王が歌人として、また名筆家として知られているのとはだいぶ違うということである。〕

 これは『吾妻鏡』のような詳細な記録が後期鎌倉幕府には存在しないことがその第一の理由である。ちなみに、『吾妻鏡』は治承4(1180)年に以仁王の令旨が北条館に届いたところから始まり、文永3(1266)年に第6代将軍宗尊親王が京都に到着して将軍を辞官するところで終わる。だから宗尊親王の次の将軍である「惟康親王」の動静については記されていないのである。〔なお、後の時代、徳川幕府によって足利幕府の正史である『後鑑』が編纂されるが、そこでは鎌倉幕府の滅亡前夜の元弘元(1331)年から足利幕府最後の将軍である足利義昭が没した慶長2年(1597)までの歴史を取り上げている。〕
 それにしても、維康が何らかの政治的な行動をしていれば、それがまったく記録として残らないということはあり得ず、彼についての記録の欠如は、彼が「完全に装飾的存在、お飾りの将軍であったことを示している」(157ページ)と細川さんは言う。
 しかし、維康の履歴を子細に見ていくと、どうも彼の履歴には皇族・貴族として異様に感じられるところがある。

 源氏将軍と時宗
 とくに目につくのは、維康が将軍就任後4年目、7歳になった時に源氏の姓を与えられていることである。これによって彼は源朝臣維康となった。だから彼は4人目の源氏将軍ということになる。ところが、もっと異様なことに、彼は24歳で親王宣下を受ける。賜姓を受けて臣下になった皇孫が親王宣下をうけたのは空前の事態である。もちろん、光孝天皇の皇子で賜姓を受けて源定省(さだみ)を称していた宇多天皇が、親王宣下を経て即位したという例はあるが、400年以上も前の話で、しかもこの場合は皇子である。

 維康は文永3(1266)年から正応2(1289)年まで23年余の間将軍であったが、そのうち4年5か月を維康王、16年10か月を源維康、1年11か月を維康親王として過ごしたことになる。その一方で時宗は文永5(1268)年から弘安7(1289)年まで執権であったから、彼が執権であった時期のほとんど、源維康を将軍として頂いていたわけである。〔これまであまり注目されてこなかった歴史的事実であるが、それが、時宗政権の性質を明らかにすることに、どのようにかかわるのかが、いま一つ納得できない。〕 では、時宗は鎌倉幕府、そして当時の日本にとってどんな存在であったのか?

  北条時宗の幼・少年時代
 時宗誕生
 北条時宗は生まれながらの北条家督であった。彼の誕生前後の大騒ぎについては『吾妻鏡』に詳しい。加持祈祷など誕生に際して大きくかかわったのが鶴岡八幡の別当隆弁(1208‐83)である。彼は天台宗寺門派の僧侶で、北条得宗家と結びついて三井寺の勢力伸長のために活躍した。そして、誕生以前から時宗にかける北条一門の期待が大きかったことが、この騒ぎについての記述の中から読み取れる。

 時宗6歳の康元元(1256)年、父時頼は重病のため執権職を赤橋長時に譲り、翌日出家した。いずれにせよ、長時は時宗が成長するまでのつなぎという位置づけであったが、時頼はまもなく病気から回復、連署を辞して出家していた母方の祖父(父方の大叔父)重時とともに、僧形で幕政を主導することとなる。それまでは一体のものであった北条氏の家督と、執権職の分離が起きたが、そのことによって時宗の位置が揺らぐことはなかった。

 正嘉元(1257)年に7歳で将軍宗尊親王を得帽子親として元服、「相模太郎時宗」と号する。〔弘長元(1261)年に時宗の異母兄である時輔が元服した際に「相模三郎」として、兄弟の序列第3位とされたことはすでに見た。〕 文応元(1260)年10歳で小侍所別当に就任、これが幕府役職就任の最初である。11歳の弘長元(1261)年には公式に時頼の子息第1位とされ、この年の4月に祖母(『徒然草』でその質素倹約ぶりを賞賛された松下禅尼)の姪である安達義景の娘と結婚した。
 その直後、重時の極楽寺山荘で将軍御覧の笠懸が行われた。ついでにその当時はあまり誰も顧みなくなっていた小笠懸も行うことになったが、やるものが見当たらない。そこで時頼は、自分の息子の時宗がうまいのでやらせてみようと言い出し、鎌倉から呼び出した。馬場に入った時宗は一度は失敗したものの、2度目に成功し、そのまま鎌倉まで馬でかけて戻るという見せ場を作った。〔頼山陽の『日本外史』のこの場面の描写が有名なので、興味があったら読んでみてください。〕

 こうして時頼は息子の才能を示す演出を心がけ、時宗はそのような期待に応えていたのであった。この年の末に、左馬権頭(さまごんのかみ)に任官し叙爵する。〔余計なことを書くと、源頼朝の父・義朝が左馬頭であった。横浜市の西の方の境川流域には義朝を祭神とする左馬神社が多いのが一つの特徴である。〕

 突然の将軍交替
 弘長3(1263)年に時宗の父・時頼が死去。しかし執権・赤橋長時、連署・北条政村を中心とする幕府首脳部は、来たるべき時宗体制に向けて着々と基盤を固める。
 翌文永元(1264)年、執権・長時が重病のために辞職、連署の政村が執権に昇進し、まだ若年の時宗は政村の後の連署に就任する(が、まだ実際に仕事はせず、名目的にその任に着いただけである)。
 文永2(1265)年、15歳になった時宗は、父の極官であった相模守に就任、翌、文永3年の6月に時宗帝に、連署時宗・執権北条政村・金沢(北条)実時・安達泰盛(時宗の妻の兄で養父)が集合して秘密会議が開催される。
 その結果を受けてのことかどうかは不明だが、7月に将軍、宗尊は上洛の途に就く。25歳、将軍在職14年であった。騒然としたなか、京都に向かう宗尊一行を北条一族の名越教時が帰京に抗議するかのように武装した武士たちを率いて見送っていたが、時宗に制止されて撤退された。彼は6年後の「二月騒動」で粛清されることになる。7月20日に、宗尊親王は京都に到着、六波羅北方探題常葉(北条)時茂(重時の子、長時の弟)の邸に入る。この記事をもって『吾妻鏡』は筆を擱いているのである。

 この事件をめぐり『増鏡』は和歌の名手であった宗尊親王のもとに、同好の武士たちが集まり、そのことが時宗に対抗する勢力の中心として親王が担がれる恐れを生み出したのだろうが、親王にはそのような野心はまったくなかったと記す。
 とにかく、将軍はともいうべき政治勢力は、宗尊親王の京都送還によって完全に粉砕され、以後、鎌倉滅亡の日までに度と復活することはなかった。将軍はこれ以後、完全にお飾りの存在となったのである。
 こうして「時宗の周囲の人々、幕府首脳部が目指してきた時宗への権力集中は、文永3年7月4日、すべての準備が整えられた。あとは時宗が成長し、実際に幕政を指導する日を待つばかりということであったろう。政村らは、やっと安堵の気持ちを抱くことが出来たかもしれない。
 文永5年(1268)閏正月8日までは。」(171ページ)
 鎌倉幕府を次に襲った事態が何だったかは、ご存知だと思うが、それについては次回に触れることにする。

 3月2日の『太平記』(304)でも書きましたが、『太平記』300回越えと、『執権』10回越えを記念して、アンケートを実施しております。安倍晋三首相は、北条氏歴代のだれに一番似ているか、1人を選んでください(2人以上でも結構です)。
(1)時政、(2)義時、(3)泰時、(4)時頼、(5)時宗、(6)貞時、(7)高時、(8)時行
 
 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(10)

3月5日(木/啓蟄)曇りのち晴れ

 武士最初の反乱とされる平将門の乱は、承平5年(935)から天慶3年(940)まで続いたが、そのなかで天慶2年(939)に将門が「新皇」に即位した出来事の意義を、すでに宗教的な文脈から問題にしたが、今度は政治的な文脈から明らかにしようとする。
 この時期は皇統が文徳‐清和‐陽成から文徳の弟である光孝‐宇多‐醍醐へと移行し、そのなかで皇位についた宇多帝と政界の実力者である藤原基経のあいだの確執、宇多帝によって登用された菅原道真が基経の後継者である藤原時平によって左遷されたこと、その時平と醍醐帝が道真の怨霊によって(と当時は信じられた)死亡したことなど国家の動揺・危機的な状況が続いた。
 このような動揺は対外関係にも表れ、対新羅関係が悪化し、遣唐使が中止された。そのような対外危機の中で、日本は孤立的・排外主義的な外交政策に転換することになる。また、道真を左遷した醍醐帝が死後、本来ならば神聖な存在であったはずなのに、地獄に堕ちたという伝説が生まれるなど、天皇の権威とその「継承」を相対化する認識が生まれていたことが注目される。

「新皇」即位と天命思想・皇統意識
 「新皇」即位の根拠
 上島享(2010)『日本中世社会の形成と王権』はこのような9世紀後半から10世紀前半の国家・王権の揺らぎを東アジア全体の対外的緊張と影響の中で考え、その対応の中で中世王権の成立を考えようとする研究であった。
 上島はまず、日本の古代国家が規範としてきた唐帝国の衰退と滅亡(907)が日本の国家・王権のあり方を問い直す契機となったとする。さらに『将門記』の中で将門が渤海国の滅亡と東丹国への解消について言及している事実に注目する。これらの事実は当時の貴族社会では周知の事実であり、だからこそ、将門の「新皇」即位が貴族層にとって現実的な危機として受け止められていたことを物語るものであるとする。〔暑中で触れられている渤海国の滅亡→東丹国だけではなく、韓半島では後三国時代が始まり、907年には唐が滅び、五代十国の時代が始まり、916年には遼が建国するなど、東アジア世界では激変がつづいた。〕

 さらに将門は、「新皇」即位後にもともとの主人であった藤原忠平(時平の弟)に宛てた(『扶桑略記』にも収録されているので、信頼性の高い)書簡において、中国の易姓革命の論理を援用して自らの立場を正当化している。さらにまた、彼は自らが桓武天皇の子孫という皇統につながる存在であることを主張する。上島によれば、「将門の『新皇』宣言は皇統の論理と天命思想とによって正当化された」というのである。

 桓武天皇の天命思想
 上島の上記の説と関連して注目されるのは、将門が彼の皇統の論理の源として(自分の先祖として)挙げた桓武帝もまた天命思想を権力掌握の根拠としていたことに注目すべきであると木村さんは論じている。桓武帝は中国の皇帝が冬至の日に都の郊外に設けた天壇で天帝を祀る儀式にならって、天神を祀っている(この場合の「天神」は字義通りに、「天の神様」である)。〔現在の皇室行事としては継承されていない。〕
 〔桓武帝の父である光仁帝の即位によって、皇統はそれまでの天武系から天智系へと移った。〕 その桓武帝も天命思想と皇統の論理とを採用していたのであったと木村さんは論じる。将門が桓武帝の「五代の孫」を主張したのは、みずからを桓武帝に重ね合わせたのかもしれない。
 
 また桓武帝が即位した天応元年(781)は、辛酉(シンユウ、かのととり)の年でこの年は元日に(宝亀から天応に)改元されたが、この日も「辛酉」であった。「周知のように中国の革命思想では辛酉年には天命が革(あらた)まって王朝が交代すると信じられていたのである。〔江戸時代の学者伊藤東涯の『制度通』で、「本朝には辛酉・甲子の年、必ず改元あり。これを革令・革命という。この年に改元あることは、中国にはこの例なし。」(平凡社:東洋文庫版、17ページ)とある。神武天皇の即位が紀元前660年に相当するといわれている辛酉年の元日であったというのもこの考え方に基づく。その後、わが国で辛酉・甲子に改元してきたのは、革命を避け、「万世一系」を守るためであったと考えられる〔もっとも、年号を定めていない時代の方が、定めている時代よりも長いのである〕。ところが、明治以後、明朝以後の中国の「一世一元」の制を取り入れたので、話がちがってきた。その結果どうなるかは、まだ見えていないので、成り行きを見守ることにしよう。〕

 木村さんは、それまでの天皇が皇統の論理だけを根拠にその位を継承してきたのに対し、それとは違った天命思想を持ち出して将門がその「新皇」即位を正当化したことに注目する。これは皇統の分裂というだけでなく、これまでの皇統継承の論理と根拠までも揺るがしかねない主張であったというのである。それでは、京都の中央政府の側がこの挑戦に対して、どのように回答したかという話は、また次回に。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(12)

3月4日(水)雨が降ったりやんだり

 1957年11月から1958年3月にかけて、著者・梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌の実地調査を行った。この書物はその際の梅棹による個人的な記録である。この下巻では、まず、彼が隊員の吉川公雄(医師・昆虫学者)、通訳して同行した石井米雄(外務省留学生、後に東南アジア研究家)とともに、インドシナ3国(カンボジア、ベトナム、ラオス)を歴訪した次第が記されている。
 一行は1958年2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入国し、バッタンバンを経てプノムペンに到着、海岸部やトン・レ・サップ湖の周辺の地域も探索して、2月21日にベトナムに入国、サイゴンに到着した。「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴン(現在のホーチミン市の主要部分)には植民地時代の残影を感じて、もっとベトナムの本来の姿を見たいと思った梅棹は、民族主義的な傾向の強い宗教であるカオダイ教の本部を訪たりする。その一方で、コーチシナにおける華僑の活動の歴史をたどったりもする。

 今回から第15章に入る。「チャㇺの塔」の「チャㇺ」は、アンナン地方(ベトナム中部)の先住民族であるチャム族を指している。

第15章 チャムの塔
 「やってみることだ」
 梅棹一行は、サイゴンまでやってきたが、これからどうやって旅を続けてラオスに入国するかということについての目算は立っていなかった。「一ばん望ましいのは、南ベトナムを縦断してフエまで行き、17度線の近くでアンナン山脈を西に越えてラオスに入ることである。」(109ページ) しかし、そのルートをたどってラオスまで行けるかどうかは不確実である。北ベトナムとの国境地帯の治安は、道路の良しあしとともに、旅の行く末を左右する問題である。ゲリラが出没するという噂もある。
 大使館の人々もそれを心配したが、小川大使(当時)はゲリラにつかまればそれも一つの経験だと笑っていい、梅棹の企図を後押しした。とにかく、やってみることだ。となると、問題は、ベトナム滞在のビザを延長することである。

 サイゴン大学総長
 彼らの旅行の意義を理解し、ビザ延長に力を貸してくれそうな人物というと学術関係者であり、そのなかでも影響力のありそうな人物ということになれば、サイゴン大学の総長ということになる。梅棹はこの旅行のためにバンコクに向かう途中、サイゴンまで大阪商船のしどにい丸で旅行していたが、その際にサイゴン大学のグェン・クァン・チン総長にあっていた。さらにその後、バンコクのチュラーロンコーン大学で開かれた太平洋学術会議の際にもあっていた。それでこの地球物理学者とは3度目の対面ということになり、そのためできるだけの支援を約束しただけでなく、旅行の便宜のためにサイゴン大学の学生を1人同行させることも約束した。

 それから、文部省の文化局長にあった。この人はひじょうな親日家だということだった。それから歴史学研究所を訪れた。まだ若い感じの所長は、梅棹の顔に見覚えがあるという。昨年、アンコール・トムにジープ3台で来ていたのを見かけたというのである。「乗用車で、白人の老人と少女を案内している若い人がいた。わたしたちは名乗り合わなかったけれど、あいさつは交した。あれがこの人だったのだ。そして、驚いたことには、あの年とった白人は、ウィーンのハイネ・ゲルデルン博士だったのだ。東南アジアの民族学では、最高の権威といわれている人である。」(112ページ)
 世の中には、こういう出会いが起きるものである。ハイネ・ゲルデルン(Robert von Heine-Geldern, 1885‐1968)は、民族学、古代史、考古学者としてインドおよび東南アジアについての研究を行ったが、彼の祖父であるグスタフの兄が有名な詩人のハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797 - 1856)である。そういえば、ハイネの作品の中にはアジア・東方への関心をうかがわせるものがあったような記憶がある。

 「歴史学研究所では、特にチャムの文化について語り合った。チャムの遺跡の詳しい分布図を見せてもらった。北へ旅行するなら、途中でぜひミ・ソンの遺跡を見るようにアドヴァイスを受けた。」(112ページ)

 阮?笛
 2月26日、総長に指名されたサイゴン大学文学部歴史学科の学生グェン・ニェン・ディックが一行に同行するためにやってきた。彼はフランス語を話すが、英語もよくわかるという。ベトナム人の名には、それぞれに対応する漢字がある。例えば、ゴ・ディン・ジェムは呉廷琰であり、ホー・チ・ミンは胡志明である。ところがローマ字化の浸透した世代であるディック君はグエン=阮、ディック=笛は思いだせたが、ニェンにあたる漢字はとうとう思い出せなかった。
 ラオス大使館で、山越えルートの情報が分かる。半月ほど前に、30台ほどの自動車の編隊がヴィエンチャンまで行ったという。それからビザの延長も認められた。ベトナム旅行も、ラオス行きも準備が整ったのである。

 北からの避難民
 2月28日、10時、一行はサイゴンを出発してダラットに向かう。ディック君が加わったので、総勢は4人になった。
 ディック君はハノイで生まれ、そこで育ったが、停戦協定によりベトナムが南北に分離されたときに、船に乗ってサイゴンに移ってきた。多くの人々が北から南に移ったのだが、特に知識層が多かったようであるという。ベトナムでは南ベトナムにおいてさえ、ゴ・ディン・ジェムよりもホー・チ・ミンの方が人気があるという。では、なぜ北から南に逃げてくる人が多いのだろうか。
 ビエン・ホアで昼食をとる。前回に触れたように、アンナン帝国によってコーチ・シナに土地を与えられ、その開拓に従事した明の遺臣たちが作り上げた都市の1つである。ただ、そのことについてはここでは触れられておらず、一行がこの町の郊外で見かけた北からの避難民たちの部落のことが記されている。避難民たちの住まいのみすぼらしさと対照的に、立派なカトリックの教会が見える。避難民たちは、主として宗教的な理由によって南に逃げてきたのである。梅棹はカトリックと共産主義との相容れなさに、改めて感嘆する。フランス統治下において、カトリック教会がいかに成功を収めていたかを実感する。「ベトナムの宗教事情は、日本にやや似た点もあって、ひじょうにおもしろいのだが、カトリックの浸透という点では、まるでちがっている。その点ではむしろ、朝鮮に似ている。」(115ページ)

 日本には王様がいるか?
 ビエン・ホアからダラットに向かう道はよく舗装されていた。しかし、交通量は少ない。
 途中、ディン・クァンというところで、一休みしたが、そのちかくにモイ族の部落があった。「モイ族というのは、カンボジアでプノム族とよばれ、ラオスでカー族とよばれているのと同じ民族だが、インドシナ半島における古い住民である。言語の系統からいえば、モンやクメールとともに、南アジア語族に属している。かれらの家は、ベトナム式の土間ではなくて、高床である。村には、傾斜の強い草ぶきの屋根の、小さな家がたてこんでいた。」(116ページ) 彼らの様子は「不気味な野性味をもっている」(同上)と書く一方で、彼らが「車の中のわれわれに、機嫌よく微笑んでみせる」ことも書き留めている。

 その日のうちにダラットに着くつもりだったが、その見込みがないことが分かったので、ジリンで泊まることにする。ジリンは小さな町で、付近には茶畑が多い。その外側は深い密林で、ベトナムにおける狩猟の本場だということであった。フランス人の狩猟客を対象にしていたらしい、小さなフランス宿があり、そこで「日本には王様がいるのか」、「タイは共産国ではないのか」という一種の宿泊試験を受ける。植民地の独立と共産主義の浸透の中で、旧支配国の庶民がどのように生き延びていくかの智慧のようなものを彼は感じ取る。

 高原の避暑地
 翌朝、9時に出発、ダラットには11時に着いた。ダラットはもともとサイゴンの避暑地として発達した街で、1600メートルの標高の場所にある。熱帯アジアの国々を植民地化した白人たちは、それぞれの国に経営拠点としての都市を建設するとともに、それに付属する避暑都市を、その比較的近いところの高地につくった。インドのカルカッタに対してはダージリン、ビルマのラングーンに対してはメイミョウ、インドネシアのバタビアに対してはボゴール、そしてインドシナのサイゴンに対してはダラットがそれにあたるという。「日本は植民地ではないけれど、軽井沢は、その起源においては、やはり同じように、東京在住の白人たちによって開かれたものであると聞いている。」(118ページ) 植民地であるかどうかよりも、東京は熱帯の都市ではないというところのほうが問題ではないかと思う。〔ダラットはラムドン省の省都であり、人口20万人あまりというから、軽井沢と比較するのは少し無理がありそうである。〕 
 ダラットを「発見」したのは、スイス人の医師で、フランスの植民地軍の軍医として東洋にやってきたイェルサンだといわれる。彼は有名な細菌学者であり、モイ族の調査をしたり、インドシナにゴムの栽培を導入したり、いろいろの功績を残したという。イェルサン(Alexandre Yelsin, 1863 -1943)はもともとパストゥール研究所に勤め、北里柴三郎とほぼ同時にペスト菌を発見した人物である。

 ダラットの町は、建物と道路はヨーロッパ風であるが、自然はむしろ日本に似ていて、一行は「日本に帰ったみたいだな」と言い合った。しかし、体を休めるのにはよくても、精神を刺激するようなもののないこの地には退屈さを感じ、昼食後、3時に車を出発させる。東からは鉄道が入ってきている。線路はアプト式である。「小さな汽車が、急坂をあえぎあえぎのぼってくる。1600メートルを一気にかけおりて、6時半、海岸のファンランの町に入る。明珠旅飯店というのに泊まる。」(119ぺージ)
 
 

日記抄(2月26日~3月3日)

3月3日(火/上巳)晴れ、温暖

 2月26日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
2月26日
 1936(昭和11)年のこの日、陸軍の一部の将校がクーデターを起こす。当時大学生であった私の父親が間近で起きた事件として語っていた。その際に、手に入れたという「下士官、兵に告ぐ」というビラは、長いこと我が家に保存されていた。父の生前にもう少し詳しい思い出を聞いておけばよかったと今になってみると思う。わたしの父親は1915(大正4)年生まれだが、同じ年の生まれ(ただし早生まれ)である5代目柳家小さんが反乱軍の中に兵卒として加わっていたことはかなり有名な話である。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Go west, young man.
  ―― Horace Greeley (American author, statesman and editor, 1811 - 72)
若者よ、西部へ向かえ。
 マルクス兄弟の1940年の映画『マルクスの二挺拳銃』(Go West、MGM、トゥリー・マーシャル監督)の冒頭、この言葉が引用され、しかし、この男たち(=マルクス兄弟)のことを知っていたら、そう言ったことを後悔しただろうというテロップが流れる。

 呉座勇一『日本中世への招待』(朝日新書)を読み終える。日本中世=平安末期から戦国時代までの人々がどんな暮らしをしていたかを、家族、教育、生病老死、交流(宴会、旅行など)などの項目を立てて面白く説明している。とくにおもしろかったのは、天正3年(1575)に薩摩の島津家の当主・義久の弟家久が京都、さらに伊勢まで旅行した際の記録である『家久君上京日記』の紹介である。また最近、『太平記』の中で出会った貞和5年(1349)の四条河原における田楽の興行(この際に桟敷が倒壊して死傷者が出て、天狗の仕業と噂された)のことに触れられている(210ページ)のも興味深かった。

2月27日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」はチリが舞台で、この国を代表するフォルクローレ歌手であったビオレタ・パラ(Violeta Parra, 1917 - 1967)の名が出てきた。代表作はGracias a la vida (人生よありがとう)で、検索したが、どんな歌かわからなかったのが残念である。
 また、イースター島をスペイン語ではla isla de Pascuaという(ということは、イースターはスペイン語ではpascuaである)ことを知った。

2月28日
 『NHK高校講座 倫理』で「日本人のものの考え方」について取り上げていた。日本文化や日本思想の特質についてはいろいろな人がいろいろなことを言っていて、そのなかのごく一部を抜き出して紹介していただけなのだが、和辻哲郎の「牧場、砂漠、モンスーン」という風土の分類が取り上げられたので、梅棹忠夫が第一地域・第二地域という彼独自のユーラシア世界区分に基づいて、この見解を強く批判していたことを思い出した。和辻について述べるのならば、梅棹の批判も取り上げるべきだし、他の意見も紹介して、学習者が自分で考えるようにした方がいいと思う。

2月29日
 『朝日』の「多事奏論」のコーナーの議論には首をかしげることが少なくないのだが、本日の山脇岳志記者による「シンガポールの教育」について取り上げた論考は大いに考えさせる内容を含むものであった。国際的な大学のランキングでの順位を気にしすぎると、大学の個性が失われる、個々の大学がどのような個性を伸ばすかを優先して研究・教育に取り組むべきだというシンガポールの大学関係者の意見が紹介されている。日本の高等教育改革は、どうしても欧米のほうに目を向けがちではあるが、20世紀の第4四半期に創設された「新構想大学」が(もちろん例外はあるが)アジアの同種の高等教育機関に比べて伸び悩んでいるのはなぜかということをもっと真剣に考えるべきであると思っていたので、大いに我が意を得た論説であった。

 倉本一宏『藤原氏』(中公新書)を読み終える。源平藤橘というが、そのなかで藤原氏の系譜につながる家名をもつ人々がいちばん多いといわれる。ちなみに倉本というのも藤原氏に連なる苗字だそうである。この書物は藤原(中臣)鎌足以来の公家・武家の藤原氏の系譜をたどるものである(公家の方が詳しい)。

 さらに大津透『律令国家と隋唐文明』(岩波新書)を読み終える。

 NHKラジオ『朗読の時間』は永井荷風の『ふらんす物語』から「放蕩」の放送を始めた。時代は違うのだが、以前このブログで紹介していた(現在中断中)フローベールの『感情教育』のパリの描写につながる部分があり、興味深く聞いた。

3月1日
 1919年、ソウルを中心に朝鮮の独立の示威運動が展開され、独立宣言書が発表された(3・1独立運動)。私の母方の祖父が朝鮮総督府の役人だったので、当時の日本人側の反応がかすかに我が家の語り草として残っている。

 1954年のこの日、漁船・第五福竜丸が、米のビキニ環礁における水爆実験で被災(9月23日に乗員の1人であった久保山愛吉さんが亡くなられた)。小学生だったので、こちらの方は自分自身の記憶として残っている。

 『朝日』の朝刊に「東大『2割の壁』を破れるか」という記事が出ていた。東大の学部学生における女子の比率は、2割を超えたことがないという記事であるが、他の大学ではどうなのかということも視野に入れて論じてほしいという気がした。

 松井大輔『サッカー・J2論』(ワニブックスPLUS新書)を読む。2000年に京都パープル・サンガに加入後、フランス、ロシア、ブルガリア、ポーランド、また日本ではジュビロ磐田、横浜FCでプレーして20年間に各国の1部リーグと2部リーグでの経験をちょうど10年ぐらいずつ積んできたという松井選手がJ2と海外の2部リーグでの経験を中心に、サッカーの見どころをまとめた書物である。松井選手というと、昨年の天皇杯の2回戦で、横浜FCが仙台大学に0‐1とリードされて、あわやという試合展開の中で、同点のシュートを決めた場面がいちばん印象に残っている。今年J1でどんなプレーを見せてくれるのか、それが楽しみでもある。

3月2日
 『朝日』の「声」欄に「短大 凝縮した学びの場だ」という短大の先生をしている方からの投書が掲載されていた。短大の学生は「すぐ社会人になるためか、緊張感があり学ぶ意欲も決して低くない」というのは、10年以上短大の非常勤講師をした経験からうなずける観察である。その10年以上のあいだに、2年制の短大、3年制の短大、それから短大卒の資格の取れる専門学校、また高等専門学校という4種類の学校で教えた。地方と大都会とでは違うかもしれないが、投書子と同じように学生たちの意欲ある学習態度に接した経験から、短大の意義について掘り下げて考えることをせずに、片っ端から4年制大学に改組していった「改革」には異議を唱えたいところがあり、興味深く読んだ。投書子は「社会に出たのち、もっと学びたいと思った時にいつでも学べる環境こそ必要ではないか」とリカレント教育の実現を望んでいて、それには私も賛成なのだが、それとともに、2‐3年制の短大から4年制大学への編入をもっと盛んにすることが入試改革よりも重要なのではないかと思っている。

雨に濡れ ミモザの花に春重し

森羅万象意に沿わぬこともあると知り
(かどうかはわからない)
ウイルスを袋に詰めて牢に入れ
{昔、雨水を牢屋に入れた上皇(=法皇)がいたと聞く。}

3月3日
 『日経』のコラム「大機小機」でコラム子が、アメリカ大統領選挙で「『急進左派』とされるサンダース氏、ウォーレン氏こそ中道である」、「サンダース氏らが唱える国民皆保険は、まともな民主主義国の世界標準である。『社会主義』と決めつけるほうが異質である」と論じていて、言われてみればその通りだと認識を新たにした。それはそうと、サンダース氏の言うことに反対ではないのだが、78歳という年齢が気になっている。

 同じく『日経』のスポーツ欄のコラム「スポートピア」で、野球解説者の仁志敏久さんが常総学院時代の恩師である木内幸男さんについて書いている「自ら考え動く木内野球」が自分の体験に基づく記事だけに興味深かった。それはそうと、今年の春の選抜野球は無観客で実施されるようである。どんな展開が待っているのであろうか。

 NHK『ラジオ英会話』の講師である大西泰斗さんが番組の最初にいうジョークが時としてつまらないと(謙遜して)言ったところ、番組パートナーの秋乃ろーざさんが常につまらないと返したのは、どうもその通りで、もう少し考えてほしいと思うところでもある。
  
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