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『太平記』(304)

3月2日(月)雨が降ったりやんだり

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は、帰依している僧である妙吉侍者と側近の上杉重能・畠山直宗の進言を受けて、高師直の謀殺を企てたが、逆に高師直・師泰兄弟の軍に三条の館を包囲され、出家して錦小路堀川に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。事変に先立って、羽黒山伏の雲景が羽黒山と同じく修験道の霊場であった愛宕山に登った際に不思議な体験をしていた。

 妙吉侍者が天狗たちによって世の中を乱すために差し遣わされた天狗であったと聞いて驚いた雲景であったが、この際、天下の大事、未来の安否を聞いておこうと思ったので、さらに詳しいことを問いかけた。それに対する答えは、「三条殿(直義)と執事(高師直)との対立は1,2か月を過ぎることはないだろう〔実際はもっと長く続いた〕。大へんに珍しいことである」というものであった。雲景がさらに、どちらに道理があり、どちらに非があるのかを問うと、「どちらに道理があるとも言い難い。というのは、この人々が世の中を治め始めた当初は、1日でも長く政権を保つことが出来れば、政道はよく行われるようになるだろうと思っていたのであろうが、上の者は暗愚で、下の者はそれに追従して、万事公正ではない。それゆえ神仏のご照覧に背き、人望を失っているだけでなく、自分たちの非を知らず、お互いにそしり合う心がある。獅子身中の虫が、自分の寄生している獅子を食べているようなものである。たまたま仁政と思うことがあるかも知れないが、それは仁政ではなく、人々の嘆きである。

 そもそも仁というのは、天下に恩恵を施して、民衆を深く慈しむことをいうのである。政(まつりごと)とは道である。国のいろいろなことがらについて筋道を立てて治め、人を採用してその人物の深浅を知る。その上で、善悪において公私を混同せず、公平に民を養うことを政というのである。ところが政の徳義が少しも、これまで述べたところと合致せず、内心において欲深く、勝手気ままにふるまい、君臣父子の忠義や孝行の徳も忘れている。況やそのほかの、徳のある政治と民への慈しみなどはどこへいってしまったのかわからない。政治を行うとはいっても、実際には世の中のものを私物化し、他人の財産までも自分の懐に納めようとする気持ちだけで行っているから、すべて偽り飾り立てるだけのことしかしていない。

 そうはいっても神仏が世の中のことをみそなわしていらっしゃるから、何から何まで人間の思うとおりになるというものではない。前世での行為の報いとして受ける宿運の良しあしで、うまい具合に高い地位について、国政を動かしているものもいるが、それは真の徳義によるものではない。そういうわけで1人として世の中を正しく治め、その運を長く保つことのできる者はいないのである。
 昔の聖天子の道を軽んじ、仏神を恐れぬ輩が横行する末法の世の中であるので、これ以外の政治の在り方などあるわけがない。であるからして、悪逆のさまに違いはあるにしても、嫉み非難し合う輩、だれもかれも差別なく滅亡の運命をたどることに間違いない。たとえていえば、山賊と海賊とが同席して、お互いに相手の犯罪の軽重を非難し合うようなものである。

 ということで近年、武家が世の中を支配するようになって、頼朝卿よりこの方高時に至るまですでに11代を経た。武士はもとより東夷といわれるように蛮夷の卑身(野蛮で身分の卑しいもの)に過ぎない存在であり、世の中を支配するということは本来の道に適うことではないはずであるが、末世のこととて仕方のないことである。〔11代とあるが、鎌倉将軍は源氏将軍3代+摂家将軍2代+親王将軍4代の9代、執権は得宗・非得宗を合わせて16人だったという説と17人だったという説がある。おそらく源氏将軍と、北条氏の得宗執権をつないだのではないか思ってやってみると、頼朝、頼家、実朝、義時、泰時、経時、時頼、時宗、貞時、高時と10人にしかならない。源氏将軍時代に執権であった時政を入れているのか、泰時の子で執権にならなかった時氏を入れているのか、貞時と高時のあいだに10年以上執権をつとめた師時(時宗の甥、貞時の従兄弟)を入れているのかのどれかであろう〕。
 「時と事と、ただ一つ世の道理にあらず。」{第4分冊、316ページ、時勢と事態のなりゆきは、ただこの世だけの道理ではない(前世からの因縁がある)。} 家臣が主君を殺し、子が父を殺し、力をもって争うような時代がやってきたので、下克上の一端(下賤の者が上位の権勢を侵すことの一つの表れ)として、摂政関白・大臣・天皇も権力をふるうことができず、身分が低いはずの武士が天下に勢いをふるうに至った。こうして天下は、武家のものとなった。これは誰の仕業というわけでもない。時勢と機運とに巡り合って、すべての業因の報いの時がやってきたためである。
 承久の乱後、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を島流しにして、悪を天下におこなった北条義時を世人はあさましいと言ったけれども、前世の果報があるうちは、その子孫はずっと繁栄をつづけた。これは(北条代々の執権が)自分の分際に応じた政道を行ない〔泰時・時頼の撫民政治について言っているものと思われる〕、為政者に厳しく民衆に徳を施したので、国は豊かになり民衆は苦しまなかった。
 しかしながら、前世での善悪の業の報いの期限が尽きるときがやってきて、天の思し召しに背き、仏神も鎌倉幕府を見捨てるような時が到来して、先朝(後醍醐帝)が高時を倒すことができた。これは必ずしも後醍醐院の聖徳のためというわけではなく、鎌倉幕府の方の自滅の時が来ていたということなのである。〔ここで、後醍醐院という呼び方をしていることも注意しておいてよい。〕

 不思議な山伏(おそらくは天狗)の言葉はなおも続くが、鎌倉幕府の滅亡までのところでいったん打ち切って、残りは次回に回すことにしよう。武士の政権の成り立ち、性格をめぐって、『太平記』の作者の見解が述べられているのが興味深い。『太平記』が冒頭の部分で政治の在り方についての朱子学的な名分論に基づく作者の見解を述べ、北条高時の政治がそこから逸脱したことを非難していること、また第5巻で北条時政が前世で行った善行(66部の法華経を書写して全国の霊地に納めた)ことにより、子孫に繁栄がもたらされる→しかし、それには限りがある)という伝説が語られていることを思い出していただきたい。

 足利幕府の政治について『太平記』はぼろくそに言っているが、『梅松論』からは別の意見が読み取れるように思われるし、どちらかというと、後者の方が実態に近かったのではないかと思う。通説では直義と師直の対立は、伝統的な価値と秩序を重んじる直義と、実力を重んじ新しい方向を目指そうとする師直の対立であったとされるが、必ずしもそのように簡単に割り切れるものではなさそうである。
 天狗は本来魔の世界の住人であって、邪悪な存在のはずであるが、『太平記』の作者は物語の背景を説明する≂作者自身の考えを述べるために、その天狗を使っているところがある。つまり、それほど、事態の進展が奇々怪々なものに思われていたということなのであろう。
 このブログを始めて以来、皆様から頂いた拍手の数が41,000を越えました。あつく御礼申し上げるとともに、今後ともよろしくご愛読をお願いします。『太平記』300回と、『執権』10回を記念しまして、次のアンケートを実施します。コメントを頂ければ幸いです。
 安倍晋三首相は、北条歴代の次のどの人物によく似ていると思いますか。1人を選んでください。
 (1)北条時政、(2)北条義時、(3)北条泰時、(4)北条時頼、(5)北条時宗、(6)北条貞時、(7)北条高時、(8)北条時行

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(33)

3月1日(日)晴れ

 「もしエリザベスが自分の家族の姿だけを見て人生観を育んでいたなら、夫婦の幸せや家庭の慰めについてとても楽観的な考え方はできなかったであろう」(大島訳、402ページ)
Had Elizabeth's opinion been all drawn from her own family, she could not have formed a very pleasing picture of conjuugal felicity or domestic comfort. (Penguin Classics, p.228)
と、第2巻第19章(42章:第2巻の最終章である)は書き出されている。
 この個所を読むと、なぜかトルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭部分が思い出される。
「すべての幸福な家庭は互いによく似ているが、不幸な家庭というものはそれぞれにおいて不幸である。」(英訳ではAll happy families resemble each another, each unhappy family is unhappy in its own way. ) トルストイはたぶん、オースティンを読んでいるし、いろいろと影響を受けたに違いない。

 エリザベスの父であるベネット氏は、(何度も書いてきたように、社会的な階級としては彼よりも低いが)美人で愛嬌のあるガードナー嬢と結婚した。ガードナー嬢すなわち、エリザベスたち5人姉妹の母親のベネット夫人である。結婚してみると、彼女はベネット氏に相応しい知性も、教養も持ち合わせず、性格的にも狭量であることが分かった。
 相手の美貌だけに眼がくらんで、知性や教養のつり合いを考えずに結婚した男性のいらだちは、『分別と多感』のパーマー氏においても見られるが、『高慢と偏見』では、そのような不釣合いな結婚を子どもの世代の結婚問題の背景として描いていて、物語としての奥行きの深さを感じさせる。社会階級的な見方からもう少し書いておくと、事務弁護士であったガードナー氏の娘であるベネット夫人とその姉の(夫が事務弁護士をしている)フィリップス夫人は無知な俗物として描かれているが、弟でありロンドンで実業に携わっているガードナー氏は立派な分別と思慮ある性格の持ち主として描かれていて、オースティンが中流階級全般を蔑視あるいは敵視していたわけではないことが分かる〔その意味では『分別と多感』のジェニングズ夫人の描き方などがいちばん真に迫っている〕。オースティンは自分の時代が産業革命の時代であり、中流階級の人々が自分の力で社会的な実力を向上させていることを肌で感じていたのである。

 結婚生活に満足できないために、他に快楽を求める男性もいる〔前記パーマー氏の場合は、快楽ではなく、国会議員になって権勢慾を満たすことが生きがいになっているようである〕が、ベネット氏はそういう人間ではなく、書物好きの読書家で田舎の暮らしのなかに人生の慰めを見出していた。「妻のおかげで味わえる楽しみは、せいぜいその無知と愚かさを面白がらせてもらうことだけであった」(大島訳、402ページ)。
 そういう父親の母親に対する態度が、夫の妻に対する態度としては適切なものではないことはエリザベスにもわかっていた。それだけでなく、父親が自分の娘たちの前で、母親を揶揄ったりするのを見て胸を痛めていた〔エリザベスは胸を痛めたが、他の姉妹がどう感じたかは、記されていない〕。それでも、父親が自分を理解してくれていることに免じて(エリザベスは母親とはあまりうまくいっていなかった)、大目に見ていたのである。
 「それにしても、不釣合いな結婚から生まれた子供達にはどうしても不利益が伴うことを今ほど沁じみと実感したことはなかったし、せっかくの才能も向けるべき方向を誤ると不幸に繋がることも今ほど痛切に感じたことはなかった。父の才能は正しい方向に向けられていれば、妻の心を豊かにすることは無理だとしても、せめて娘達の品位だけはここまで落さずに済んだかもしれないのだ」(403ページ)。

 エリザベスは、メリトンに駐在していた義勇軍の連隊がブライトンに移動しても、そのおかげでウィッカムと会うことが無くなったのを喜んだくらいで、他に何か感じることはなかった。ところが、母親とキティーは士官たちがいなくなったために退屈になったとしじゅう不平を言うので、そのために気分を暗くすることになった。キティーの不機嫌は時間が解決するだろうと考えて安心していたのだが、ブライトンに出かけたリディアの方はそれ以上に心配であった。
 その一方で彼女は、ロンドンのガードナー叔父・叔母とともにイングランド北部・湖水地方に出かける予定になっているのを心待ちにして、気分を和ませていた。姉のジェインと同行できないのは残念であったが、完全無欠な幸福を望んでも、何か失望が伴うものだと自分に言い聞かせたのである。
 ブライトンに出かけたリディアは、手紙はまめに出すと言い残していたのだが、実際には長く待たせるわりに、短い手紙しかよこさなかった。母親あての手紙には日常のとりとめのない出来事が断片的に記されているだけであり、キティーあての手紙はそれよりも量が多かったが、やたら下線を引いて、ここは2人以外の誰にも知られてはならない秘密だと断り書きがしてあったので、リディアの消息は分からないことだらけであった。

 「リディアがいなくなって2,3週間が過ぎたころから、健康と上機嫌と快活の気がロングボーンにも甦り始めた。すべてにそれまでよりも浮きうきとした気配が感じられて来た。冬をロンドンで過していた家族も次つぎと戻って来て、華やかな夏の装いが目立つようになり、本格的な夏の社交が始まった」(405ページ)。ベネット夫人もキティーも依然として不平は残っていたが、落ち着きを取り戻しはじめていた。
 はっきり書かれていないが、物語は6月に入っている。日本のように梅雨があるわけではなく、緯度が高い(したがって気温はあまり高くない)イングランドの土地柄、6月は過ごしやすい季節と言えるかもしれない。そういえばもう40年以上昔、金沢は梅雨時がいいんですよと言った元同僚がいたが、金沢大学に勤めている先輩に聞いたところ、誰ですか、そんなことをいう人はという答えが返ってきたのを記憶している。人によってそういう季節の受け止め方は多様なのである。
 さて、いよいよエリザベスは叔父夫婦とともに湖水地方に出かけることになる…かと思うと、予定が変更になり、彼女を当惑・狼狽させる。湖水地方(the Lake District)はイングランド北西部Cumbria州南部を中心とする美しい湖水と山岳とからなる観光地である。オースティンの時代≂18世紀の終りから19世紀の初めにかけて、ワーズワース、コールリッジ、サウジーの3人の詩人がこの地方に居を構え、「湖水詩人」として知られた――ということよりも、ピーター・ラビットの舞台という方がなじみのある方が多いかもしれない。1999年にリヴァプールに半年近く滞在したことがあって、そのときに、どうせなら湖水地方に出かけたらどうかと勧められたが、行かずじまいであったことを後悔している。
 脱線と寄り道が多くなってしまったが、第2巻第19章はあともう1回かけて紹介する。
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