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2020年の2020を目指して(2)

2月29日(土)晴れ後曇り。

 2月は体調すぐれず、懐具合も芳しくなく、変化のない日々を過ごすこととなった。
 足跡を記したのは東京、神奈川の1都2県、横浜市、渋谷区、新宿区、文京区の1市3区から増えず。
 利用した鉄道の会社も東急、東京メトロ、横浜市営地下鉄の3社、6路線、乗り降りしたのが5駅、乗り換えに利用したのが4駅と変わらず。
 利用したバス会社も相鉄、横浜市営の2社、14路線、乗り降りした停留所が1か所増えて8か所となったのみである。〔48〕

 このブログを含めて29件のブログを書いた。1月からの通算では60件となる。内訳は、日記(2020)が5、読書が7、読書(歴史)が6、梅棹忠夫が3、『太平記』が4、ジェイン・オースティンが4ということである。1月からの通算では日記が1、日記(2020)が10、読書が15、読書(歴史)が12、梅棹忠夫が5、『太平記』が8、ジェイン・オースティンが8、詩が1ということになる。コメントを1件、拍手を611頂いた。1月からの通算ではコメントが5件、拍手は1251ということになる。
 ベーコンの『ニュー・アトランティス』の紹介が終り、機会を見てラブレーの『パンタグリュエル』の紹介にとりかかるつもりであるが、ベーコンの『随筆集』とモンテーニュの『エセー』を比較しながら読むのも面白いかなとも思っている。〔65〕

 9冊の本を買い、10冊を読んだ。1月からの通算では19冊の本を買い、15冊を読んだことになる。読んだ本を列挙すると:米沢穂信『巴里マカロンの謎』(創元推理文庫)、伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留(編)『世界哲学史1 古代Ⅰ 知恵から愛知へ』(ちくま新書)、佐藤弘夫『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』(法蔵館文庫)、安岡章太郎『利根川 隅田川』(中公文庫)、中川浩一『総理通訳の外国語学習法』(講談社現代新書)、望月麻衣『京都三条寺町のホームズ⑭ 摩天楼の誘惑』(双葉文庫)、呉座勇一『日本中世への招待』(朝日新書)、伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留(編)『世界哲学史2 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開』(ちくま新書)、倉本一宏『藤原氏――権力中枢の一族』(中公新書)、大津透『律令国家と隋唐文明』(岩波新書)
ということである。どうも今年に入ってから、読書量が減っている感じであるが、それでも今月はどうやら2桁の本を読み終えたので、これからは普段のペースに守っていきたいと思っている。〔16〕

 『NHKラジオ英会話』は1月に聴き逃した2回分を2月2日の再放送で聴いたかわりに、2月25日分を聴き逃したので、21回分を聴いたことになる。2月25日放送分は、3月1日の再放送で聴くつもりである。1月からの通算では39回聴いていることになる。『入門ビジネス英語』は8回分を聴いたので、通算では16回聴いたことになる。また『遠山顕の英会話楽習』は12回聴いていて、1月からの通算では23回聴いたことになる。『高校生からはじめる「現代英語」』は8回分を聴き、1月からの通算では16回ということになる。『実践ビジネス英語』は12回分を聴き、1月からの通算では24回分を聴いている。
 このほかに『英会話タイムトライアル』、『ボキャブライダー』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『世界へ発信! ニュースで英語術』もできるだけ聞くようにしているが、数の中に入れていない。

 『まいにちフランス語』入門編は12回、応用編は8回聴いているので、1月からの通算では入門編を24回、応用編を16回聴いていることになる。『まいにちスペイン語』も入門編を12回、応用編を8回聴いているので、通算では24回、16回ということである。『まいにちイタリア語』は入門編12回、応用編8回で、通算では入門編24回、応用編15回ということである。
 このほかに『まいにち中国語』、『まいにちロシア語』、『ポルトガル語ステップアップ』もできるだけ聞くようにしている。中国語とロシア語は大学時代に単位をとったし、ポルトガル語はブラジルに出かけた際に少し親しんだはずであるが、あまり耳に残っていないという感じである。〔237〕

 このほか、NHK高校講座『国語総合』、『現代文』、『古典』、『倫理』、『政治経済』、『現代社会』、『英語表現Ⅰ』、『コミュニケーション英語Ⅱ』、『コミュニケーション英語Ⅲ』、この他『私の日本語辞典』の時間をできるだけ聞くようにしている。

 1月は映画を見に出かけたが、2月は出かける機会がなく、美術展も例年のごとく丸木位里・俊の展覧会の案内を頂いたのだが、出かける機会を逸してしまった。また音楽も1月に別府葉子さんのライヴを聴きに出かけて以後はご無沙汰している。〔3〕

 サッカーも折角横浜FCがJ1に昇格したのに、そのお目見えである2月16日のルヴァン杯の広島戦を見に行くことができず、1月に2試合を見たままに留まっている。しかし、ミニtotoを2回あてたので、こちらの方の数字はすこしだが伸びている。〔4〕

 コロナ・ウィルスのおかげで確定申告の締め切りが延びたので一息ついている。この種の用事は早く済ませた方がいいのだが、体調が悪いので税務署に出かけるのが嫌だなぁと思っていたのである。4月までに何とか、体調が回復してくれることを祈るのみである。皆さんも健康にご留意ください。それではまた。 
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細川重男『執権』(10)

2月28日(金)晴れのち曇り

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの政権を築き、維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者によれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その苦闘の中心的存在であった北条氏代々の得宗がどのように生き、戦い、何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗という2人の得宗・執権に焦点をあてて見ている。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことが述べられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、北条時政の嫡男ではなかった義時が、鎌倉幕府の権力争いの中で次第にその地位を上昇させ、最後は承久の乱に勝利するまでの過程がたどられるが、「義時は災難に直面するたびに、自身と周囲の人々を守るために戦い、結果的に勝利し続けただけに過ぎないのではないか」(104ページ)とまとめられる。ところが、その彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという奇妙な伝説が生まれ、それが北条氏の鎌倉幕府支配の理論的な根拠として機能したことが論じられている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗には時輔という兄がいたにもかかわらず、母親の身分から嫡子とされたこと、蒙古との戦いに備えて自己の権力を確立するために兄・時輔や傍系の名越一族を滅ぼす(勢力を削減する)ために内戦――二月騒動を起こしたらしいことが記されている。

第4章 辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの
  鎌倉将軍の系譜
 源氏将軍・摂家将軍・親王将軍
 今回から第4章に入る。第4章は、鎌倉幕府における将軍という存在について考えるところから始められている。
 「江戸幕府は徳川家康の征夷大将軍任官から大政奉還まで264年。将軍は徳川氏、15代。室町幕府は『建武式目』発布から足利義昭の京都追放まで237年、将軍は足利氏、やはり15代。これに対し、鎌倉幕府は頼朝の鎌倉入りから数えても153年、将軍は9代。」(149ページ)
 江戸幕府には鎌倉幕府・室町幕府・織田政権・豊臣政権、室町幕府には鎌倉幕府〔と、細川さんは書いていないが建武政権〕という先例があったが、鎌倉幕府は武士政権としての先例がない(強いて言えば、奥州藤原氏の平泉政権と平清盛の六波羅政権)中で試行錯誤を繰り返しての153年だったから、よく頑張った方だろうと細川さんは言う。 

 ところが、室町・江戸両幕府と鎌倉幕府とを較べると、大きく違う点がある。それは鎌倉幕府の将軍職が、1つの家系の世襲職とならなかったことである。なぜこのようなことになったのか。
 鎌倉将軍は源氏将軍3代・摂家将軍2代・親王将軍4代に分けられる。源氏将軍は源頼朝と、その息子の頼家・実朝の2世代3人である。摂家将軍とは頼朝の妹の曽孫で摂関家藤原氏(九条家)出身の藤原頼経とその息子頼嗣の2代の2人。親王将軍は宗尊親王・惟康親王父子2代と、久明親王・守邦親王の父子2代の4人である。

 承久元年(1219)正月に実朝が暗殺されると、鎌倉幕府はかねてからの約束どおり皇子の1人を将軍として鎌倉に派遣するように願い出る。しかし、幕府嫌いの後鳥羽上皇の拒絶にあって、やむなく頼朝の妹が京都の貴族と結婚して生まれた2人の娘の両方の血を引いている三寅(後の藤原頼経)という幼児を鎌倉に連れていき、将軍候補とする。そして嘉禄元年(1225)に三寅が8歳で元服すると、征夷大将軍に就任した。
 寛元2年(1244)に27歳となった頼経は息子の頼嗣(6歳で元服したばかりだった)に将軍職を譲って出家するが、将軍の父としてなお権勢をふるい、幕府の執権ともめ、寛元4年に京都に送還されるに至る。さらに建長4年(1252)には頼嗣も鎌倉を追われ、入れ替わりに第88代後嵯峨天皇の皇子で、第89代後深草天皇(持明院統初代)と第90代亀山天皇(大覚寺統初代)の兄である宗尊親王が鎌倉に入って、将軍となる。親王将軍3代、鎌倉将軍としては8代目の久明親王は後深草天皇の皇子、第92代伏見天皇の弟であり、宗尊親王から見ると甥、7代目の惟康親王の従弟ということになる〔惟康親王についてはこの後詳述されることになる〕。

血統を繋ごうという努力
 三寅(→頼経)が頼朝の血統を継いでいるといっても、かなりその縁は薄い。そのことは幕府も承知していたようで、寛喜2年(1230)に頼経は頼家の娘・竹御所と結婚している。この時頼経は13歳、竹御所は28歳。幕府が頼朝の血筋を絶やさぬようになりふり構わず努力していることはわかる。しかし、頼経と竹御所の間には子どもは生まれなかった〔厳密にいうと、難産で母子ともに死んだのである〕。また、7代目の維康親王の王女は久明親王に嫁ぎ、彼女が生んだ守邦親王が鎌倉最後の将軍となる。つまり、鎌倉幕府としても将軍の血統を何とか繋ごうと努力していたということであり、将軍交代も、時々の政治問題の結果であり、北条氏も気まぐれで気楽に将軍の首を挿げ替えていたわけではないと細川さんは論じる。
 「将軍家がコロコロ替わったことに、当時の人々が何の問題も感じていなかったわけではないのである。大いに問題だと思ったから、何とか血統を繋ごうと努力(ツジツマ合わせ)をしたのである。しかし、現実としては将軍家はコロコロ替わってしまい、ツジツマ合わせも、うまくいかなかったというのが、史実である。そしてその原因を遡れば、結局、実朝暗殺によって頼朝の血統が絶えてしまったことに辿り着く。/ところが、鎌倉幕府には、実は4人目の源氏将軍がいたのである。7代将軍維康である。」(153-154ページ)
 ということで、細川さんは新しい問題に読者を連れて行こうとしているが、その前に多少の前置きとなる議論をしている。「源氏」ということに関連して、「氏・姓・苗字」について説明しておこうというのである。

  氏・姓・苗字
 苗字の成り立ち
 第7代鎌倉将軍維康は、今日、一般には「維康親王」の故障で知られている。〔このブログでもそう書いてきた。〕
 「親王は皇族男子の中でも皇位継承有資格者の称号であり、親王となるためには天皇から親王宣下というものを受けなければならない。親王宣下を受けない皇族は、ただの王である。」(154ページ) ここで、細川さんは長屋王とか塩焼王とかいう奈良時代の「変な名前」の皇族を持ち出すが、それよりも、治承寿永の争乱の時代の以仁王が後白河法皇の子でありながら、親王宣下を受けなかったこととか、逆に宗尊親王が皇位継承の可能性は低いのに、後嵯峨天皇にかわいがられたために親王宣下を受けていたこととか、身近な例はあるはずである。〔なお、現行の皇室典範での規定はまた違うはずである。〕
 また、皇族がその身分を離れることを「臣籍降下」といい、このためには「賜姓」と言って、天皇から氏を与えられなければならない。〔細川さんも書いているが、氏を与えられるのであれば、「賜氏」になるはずだが、うるさいことは言わないことにしようということらしい。〕

 それで、簡単にまとめると、氏は一族の名、姓(かばね)は天皇が与える一族の称号、苗字は氏の中に自然成立した家の名と思えば一応説明がつく。例えば中臣連(むらじ)鎌足は中臣が氏、連が姓、鎌足が個人名である。ところがその息子の不比等になると藤原朝臣不比等ということになった。中臣、藤原以外にも、紀、清原、菅原、大伴、源、平など氏はかなり多くあった。ところが氏の中で同族が増えて来て区別するのが難しくなると、住所や役職で区別するようになる。そうしてできたのが苗字だという。
 少し遠回りをしたが、桓武天皇の曽孫である高望王は、平の氏と朝臣の姓を与えられて平高望となり、清和天皇の孫経基王は源の氏と朝臣の姓を与えられて源経基となった。ところが、平にしても、源にしても、複数の天皇の子孫に与えられたので、区別するためにご先祖の天皇の名前を付けて、嵯峨源氏、清和源氏などというようになった。さらに、そのまた嵯峨源氏の中で住む場所とか、その他の理由により、渡辺、瓜生、松浦などという苗字が出来上っていったのは、よく知られているところである。

 このような使い分けの例として、武家の大族である佐々木氏は宇多天皇の子孫である宇多源氏の一族であり、源が氏で佐々木が苗字であるが、さらにその佐々木氏の中には多くの家が成立した。〔いちばん有力なのは、南近江を支配していた六角氏であり、北近江を支配していた京極氏がそれに次いでいたが、京極の方が佐々木(京極)道誉以来次第に有力になった。このほか、戦国時代に活躍した尼子氏、如水の活躍によって大名の地位に躍り出た黒田氏などは宇多源氏佐々木流に属するとされる。旧民社党の委員長であった佐々木良作は六角氏の子孫ということであり、新を捨てて旧に復した例と言えよう。〕 桓武平氏に属するとされる北条氏の中で、名越氏、金沢氏、赤橋氏などが分かれていったのも同じような例である。

 さて、ここから話は鎌倉幕府第7代将軍維康の複雑な履歴に移っていく。複雑だというのは履歴だけであって、彼がどのような性格で、どのような業績を残したのか、ほとんどわからない。なぜならば、彼はお飾りの将軍であって、何をしようとほとんど記録されなかったからであるというようなことについては、また次回に。
 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(9)

2月27日(木)晴れ

 平将門が「新皇」即位を宣言した際に、八幡神と菅原道真の霊が役割を果たしたことは、古代から中世にかけての神祇体系の変化と関係するものであった(どこかどのように関係するかということをめぐっては、これからも議論が続くであろうが、関係することをめぐっての異論はないと思う)というのがこれまでの議論であったが、それでは、将門が「新皇」を称したことの歴史的な意義はどのようなものであったのかというのが、これから論じられる問題である。

「新皇」即位と王土王民思想
 9世紀後半・10世紀前半の王権の揺らぎ
  「新皇」即位の意義
 いよいよ、将門が「新皇」を称したことの歴史的な意義をめぐる議論に差し掛かる。
 日本の古代・中世史の中で、皇統や王権をめぐる対立や紛争はそれほど多くはないと著者は言う〔多いか少ないかは、どのような王朝と比較するかによって違うのではないかと思う。〕 
 確実なところでいえば、大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱、その後、奈良時代末期の道鏡事件を契機とした天武皇統から天智皇統への移行や、平清盛による後白河法皇の幽閉問題などがあるが、それらを除けば、北朝と南朝に分かれて争った南北朝の内乱くらいしかないという。〔皇位をめぐる争いが武力衝突を引き起こした例としては、道鏡事件の前段階である淳仁天皇の廃位問題があるし、平安時代には薬子の変がある。保元の乱も皇統をめぐる紛争と言えなくもない。他にも、武力紛争に至らないまでも、複数の皇統が皇位を争った例は少なくないのではないか。〕
 とにかく皇統が分裂し、抗争したのは平将門の「新皇」即位と、南北朝の争乱くらいしかなく、だからこそ、将門の乱は日本史上の大事件だというのである。

  政治体制の動揺
 この時期の皇統に関する事件としてもっとも重大なものは、陽成天皇の宮中における殺人事件によって、藤原良房が推進してきた文徳‐清和‐陽成皇統が中断して、仁明天皇の子で文徳の弟の光孝天皇が即位したことであろう。これによって三代続いた文徳皇統は途絶えた。〔読みにくいかもしれないが、このあたりの系譜図を書いておく。なお、陽成天皇の皇子たちは源姓を与えられ、その子孫は貴族としてしばらく続く。〕
  桓武(50)― 平城(51)
        |嵯峨(52)―仁明(54)―文徳(55)―清和(56)―陽成(57)―源清蔭
                                    |貞純親王―源経基 
                      |光孝(58)―宇多(59)―醍醐(60)
        |淳和(53)
        |葛原親王―高見王―平高望―国香―貞盛
                            |良持ー将門
 光孝の後即位した宇多天皇は菅原道真を登用したりして、藤原北家の基経・時平らを押さえようとしたが、必ずしもうまくいかず、宇多の後即位した醍醐天皇の時代に、道真は太宰権帥に左遷されるというような出来事も起きた。

 道真を左遷して権力を掌握した藤原時平は延喜2(902)年に延喜荘園整理令を発布して支配体制の再編を図った。それは戸籍・計帳に基づく律令制的人身支配を放棄してすべての耕地を「公田(こうでん)」として編成し、それを田堵(たと=有力百姓層)らに請け負わせるというもので、公田≂土地支配に基盤を置く国家体制の大きな転換であった。こうしてできあがった国家体制を坂本賞三は王朝国家体制と呼んでいる。〔このあたりの説明は十分ではなく、時平の再編の全体像がよくわからない。〕

 しかし、政治的陰謀によって非業の死を遂げた道真に対する人々の心情と時平の専制に対する不満は道真の霊を「怨霊」に仕立て上げ、すでに見たように支配階層のあいだで起きた様々な事件をすべて道真の怨霊の祟りによるものだとした。政治体制が不安定ななかで、醍醐天皇が道真の怨霊によって死亡するという事態まで起き、政治体制と王権の揺らぎは隠すことができなかった。

  対外的緊張と動揺
 このような国家の動揺は対外関係にも反映された。それを象徴的に物語っているのが、新羅との外交関係の悪化と遣唐使の中止である。
 承和の遣唐使派遣(承和5年<838>~同6年<839>)の事前交渉として新羅に派遣された紀三津が交渉に失敗した事件、さらに貞観11年(869)には新羅の海賊船が博多津に侵入して絹錦を略奪する事件などが起き、日本の伝統的な対外意識は大きく動揺する。このような事態に際して、調停は伊勢神宮や石清水八幡宮に奉幣して鎮護を祈願しているが、その際に採用されたのは日本は神国であるから外国からの武力による侵略は起きないのだという独善的な神国思想である。
 遣唐使の派遣中止もまたこのような流れに沿ったものであった。こうして古代の日本は東アジア諸国との正式な国交を中断するという政策に方向転換したのである。ただこの転換が民間の交易や交流を全く妨げるものではなかったことも留意しておく必要はある。とにかく、日本は大げさに言えば、「孤立した王権」の道を歩み始めたのだといえよう。

  王権認識の動揺
 このような王権の揺らぎは思想の面でも確認できる。それは菅原道真を左遷した張本人である醍醐天皇が死後地獄に落ち、罪にさいなまれているという伝承が生まれたことに表れている。
 河音能平によると、古代天皇制・中世天皇制は自らの支配を正当化する根拠を天照大神の子孫であるという神血観念(貴種観念=血筋・家柄の貴賤に基づく考え方)とも呼ぶべきものに置き、天皇や院=治天の君は原則として地獄に落ちることはあり得なかったのであるが、醍醐天皇の堕地獄説話はその例外の一つと考えられている。この考えは、この後多くの天神縁起絵巻に採用されていくが、天皇を絶対的な存在としてではなく、天皇の権威とその「継承」を相対化する動きの表れとみることができる。
 この書物の154-155ページには、宮内庁の三の丸尚蔵館所蔵の6巻本「北野天神縁起」の中の「火炎に苦しむ堕地獄後の醍醐天皇」の図が掲載されており、私も三の丸尚蔵館で多分この絵巻物の中の絵を見たという記憶があるが、自分の先祖の過失と堕地獄の伝説を真摯に受け止めて、この絵巻を公開している皇室・宮内庁の姿勢は、文書を改ざんしたり、隠匿したり、後付けで解釈を変更したりしている政治家と違って、誠に潔く、すがすがしいものではないかと思う。

 著者の論旨に反対ではないが、もう少し視野を広げて東アジアの情勢を見ると、9世紀の終りに唐では黄巣の乱がおき、907年には唐が滅びてしまう。朝鮮半島では902年に後百済が新羅から独立して国を建てる。さらに904年には摩震が独立して後三国時代が始まる(摩震はその後泰封と国号をあらためたが、918年に王建によって倒され、高麗となる)。926年には中国東北部にあった渤海を遼が滅ぼす。935年には新羅が滅亡するということで、大きな変化が続々と起きている。この情勢と、将門の乱(935‐940)は決して無関係ではないし、木村さんがこの後その所説を紹介する上島享のように、これらの東アジアにおける政治的な変化と将門の乱の結びつきを重視する論者もいるようである。

 さて、次回は「『新皇』即位と天命思想・皇統意識」、「『新皇』即位と王土王民思想」という、王権の側が乱に際して、どのようにして自己の支配の正統性を理論づけようとしたかをめぐる考察を取り上げる。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(11)

2月26日(水)雨が降ったりやんだり

 1958年2月から3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学が派遣した東南アジア学術調査隊による研究調査の後半部分として、インドシナ3カ国を自動車で踏破する調査旅行を行った。隊員であり、昆虫学者・医師の吉川公雄と、外務省留学生の石井米雄が同行した。
 3人は2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入り、バッタンバンからトン・レ・サップ湖の南西岸を南下してプノムペンに至り、その後、海岸部の漁港カムポットを訪問したり、トン・レ・サップ湖の北東岸を踏査したりした。そして2月21日にプノムペンを出発して、その日のうちにサイゴン(現在はチョロンとともにホーチミン市の一部になっている)に到着した。当時のベトナムは南北に分断され、南はアメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジェム政権が支配していた。梅棹たちは、サイゴンの西北にあるタイニンにあるカオダイ教の本部を見に行った。民族主義的な傾向が強く、反仏独立闘争の一勢力であったが、ゴ・ディン・ジエム政権とは対立が続き、1955年に和解が成立したところであった。そのような歴史とは裏腹に、実際に訪問した印象では、寛容で穏やかな宗教に思われた。一行はまた、メコン・デルタ開拓時代の中心都市であったミートーも訪問した。

第14章 コーチシナ平原(続き)
 明の遺臣たち
 「ベトナムの歴史からいえば、コーチシナは新しい土地である。17世紀までは、クメール人の居住地であった。いまでも、この平原の一部には、30万人くらいのクメール人がのこっているのである。」(98ページ) Wikipediaによると、現在のベトナムには約170万人のクメール人がいるそうである。
 コーチシナ平原の開拓においては、中国人が果たした役割が大きい。1680年ごろに、約3000人の中国人の武装集団がアンナン帝国の首都に近いダ・ナン(ツーラン)に入港してきた。清朝に追われた明の遺臣たちである。彼らはアンナン皇帝によってコーチシナに居住することを認められ、この新しい移住地において、自治をみとめられ、先住者のクメール人を排除しながら、この地方の開拓に従事した。またベトナム人との間に、明郷(ミンフォン)と呼ばれる混血の集団を作り出したのであった。

 中国人(梅棹はシナ人と書いているし、私は華人もしくは漢人と書く方がしっくりくるが、わかりやすくするためにこの表記を続ける)はコーチシナにビエン・ホア(邊和)とミートー(美湫)という2つの都市を作り上げた。ビエン・ホアはサイゴンの東北にあり、現在では人口100万人を超える都市である。梅棹一行はこの後、この都市を通過するが、その際の見聞はたぶん次回に述べることになる。1771年のタイソン(西山)の乱の際に、ビエン・ホアの華僑たちは、戦禍を避けて南に移り住みショロン(チョーロン、現在ではホーチミン市の一部となっている)の町を築いた。チョーロンはベトナム語では大市場という意味だそうである。
 ミートー市は静かな、美しい、落ち着いた町で、梅棹は時間が経てば中国人の町もこのように変化するのであろうかという感想を持った。

 チョーロンと華僑 → 東洋の汚いヴェニス
 「サイゴンの夜は静かである。店はみんな閉まっているし、人通りも少い。夜の都心は、サイゴンを離れてチョーロンに移る。」(100ページ) チョーロンは夜の歓楽郷であるが、日本の大都市の繁華街を見慣れたものの目から見ると、つまらないところである。もちろん、興味のある人には注目すべき観察対象であるのかもしれないが、梅棹は昼のチョーロンの方に注目する。この町の人口のほとんどが華僑である。「ベトナムにおける華僑の分布は、非常にかたよっている。全ベトナム在住華僑の90パーセント、約70万人がコーチシナにいる。そのまた約60パーセント、40万人がチョーロンにかたまっているのである。」(100ページ) その後、ベトナム在住の中国人の多くが海外に「ボート・ピープル」となって流出した時代があったが、現在でもチョーロン地区には40万人くらいの華僑が住んでいるようである(他の地域に住んでいた華僑がほとんどいなくなったということらしい)。

 「あらゆる種類の商店がここにはある。そして、この町の重要な産業の一つは、精米所である。東南アジア諸国の例にもれず、ベトナムにおいても、華僑の経済活動はまことに目ざましい。」(101ページ) しかし、ゴ・ディン・ジエム政権は華僑に対して厳しい政策をとっており、行き過ぎだという批判もあることを梅棹は書きとめている。

 サイゴン滞在中に梅棹はチョーロンに何度も出かけたと記している。陸からも言ったし、水上からも出かけた。サイゴンからチョーロンまではアロヨ・シノワ(arroyo chinois)と呼ばれるクリークを伝って、舟で出かけることができる〔arroyoというのは、インドシナで見られる自然または人工の水路のことを言う〕。チョーロンの町に出かければ縦横にクリークが走っているので、陸上に上らなくても、見物ができる。クリークの上を進む大きなジャンクも、小さなサンパンも、舟はその舳先の両側に眼玉が描いてあった。梅棹の眼前に展開したのは、エキゾチックではあるが、汚い眺めであり、チョーロンを「東洋のヴェニス」というということは、ヴェニスも同じようにエキゾチックで汚い町なのかなどと、想像をめぐらせるのであった。

 チョーロンの表通りの歓楽郷と、裏通りのクリークとを結びつけていたのが、一種の水上暴力団であるビンスエン派であったが、彼らはゴ・ディン・ジエム政権によって掃討されて、今のチョーロンは平和で安全であると梅棹は記している。

 日本東京大歌舞団
 日曜日に植物園に出かけたが、家族連れや、カメラを肩から下げた青年たちでにぎわう様子は日本と変わりないように思われた。植物園の中には興行場があって、「日本東京大歌舞団」の公演が行われていた。サイゴンでは大々的に宣伝されていたのだが、どうも聞きなれない名前の歌舞団であった(今、調べてみたのだが、1957年の12月から松竹歌劇団が東南アジア公演を行っているので、それかも知れない)。
 歌舞団に興味のない梅棹たちは植物園の中を歩き回ったが、そっちへ行ってはだめですなどと日本語で話しかけられてびっくりする。話しかけてきたのは、戦争中はまだ赤ん坊であったような青年であり、日本への関心がベトナムでは意外に高いことを彼は知るのである。

 日越同祖論
 入国する前は、ベトナムは反日的だという噂を聞いて不安だった梅棹であるが、実際に入国してみると、ベトナムは日本を見習うべきであるというような意見に接する機会が多かった。
 その理由として、日本とベトナムの人種的・文化的な近さがあるだろうと梅棹は考える。体格は日本人よりも華奢に見えるが、顔つきはよく似ている。東南アジアの人々の中ではベトナム人がいちばん日本人に似ている〔これは私もそう思う〕。
 日本人はいろいろの系統の人々の混合であるが、そのなかの有力な流れは中国の揚子江以南の「越」の地域に住んでいた人々であろうと考えられる。そして、そこから東に移住したのが日本人であり、西(南)に移住したのがベトナム人となったのかもしれない。日本とベトナムは言語的にはまったくちがうが、人種的には似ていることは否定できない。
 文化的には両方とも中国の影響を受けている。東南アジアのほかの国々はインドの影響の方が強いが、ベトナムは東南アジアの国々では唯一、漢字を使っていた。「今はローマ字を常用するようになっているが、もともとは漢字の国なのである。そして儒教の国なのである。そういう点から見ると、日本とベトナムは、同じ中国文化圏の中で育った兄弟なのである。」(106ページ)

 このあたりのことは、もう少し慎重に論じたほうがよいだろうと思う。日本人とベトナム人が似ていることは否定できないが、のちに人類学の看板を掲げることになる梅棹としては、論を組み立てるための材料を何か探すべきであったのではないかと思う。

 日本映画の夕べ
 このように日本人とベトナム人の類似性に興味を持った梅棹であったが、ある経験を通じて、今度は両者の違いのほうに気づきはじめる。それは大使公邸の庭で開かれた日本映画の会であった。観客は在留日本人会の人々で、ニュースと日本紹介の短編映画が上映された。
 その中の、日本の製薬会社で働く人々を描いた作品に登場している若い女性たちの表情や挙動、彼女たちの化粧など、どれをとっても、ベトナムで目にする同じ年代の女性たちに比べて生き生きとしていると梅棹は感じる。「何が違うのか。私のみよくわからないのだが、化粧、表情、動作のちがいのほかに、それの背景をなす、生活体系全体の性質のちがいのようなものがある。サイゴンのベトナム娘は、美しく、優雅である。しかし、映画の日本娘は、個性的で、活動的である。」(107ページ) そして日本の町屋工場の様子はベトナムの街とは似ても似つかぬものであると思った。日本は動いているが、ベトナムは静止しているというのが梅棹の見立てである。だから、ベトナムが日本をまねして、追いつこうと考えても、かなりの距離があることが感じられるし、うまくいくかどうかはわからないとも思う。こうして、梅棹は、同祖論から、両者のちがいのほうに引き戻されるのだが、海外在住の日本人が日本PR映画を見て、日本の現状を再認識することは、やはり必要なことではないかと、その経験を通じて思ったというのである。

 この箇所は、書物全体と通じても印象の強い部分であるのだが、今を去ること60年以上昔に、梅棹が観察したことが、現在の日本とベトナムの関係に当てはまるかどうかは極めて疑問である。ベトナムからの留学生を教えていた友人と、この箇所について話したことがあったが、今の日本人学生とベトナム人学生とでは、ベトナム人学生のほうがはるかに生き生きとした表情をしているし、生活にまじめに取り組んでいるという。もちろん、そういう学生が、あるいは若者がすべてだとは言えないだろうが、日本の社会もベトナムの社会も60年昔からは大きく変化していることも認めなければならないだろう。

 今回で第14章「コーチシナ平原」を終わり、次回からは第15章「チャムの塔」に入る。一行は、サイゴンから海岸線伝いにベトナムを北上し、クイ・ニョンに至る(第16章ではさらに北上してフエ、クヮン・チー、ドン・ハーから西に向かい、ラオスとの国境を超える)。梅棹はベトナムの社会と人々のどのような姿をとらえるだろうか。それはまた次回に。

日記抄(2月19日~25日)

2月25日(火)曇り

 2月19日から本日までに経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:

2月18日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』はギリシア神話の中から「サイレン」を取り上げた。ギリシア神話には「セイレーン」として登場する半鳥半人の海の怪物である。海の岩礁の上から美しい歌声で、航海者たちを惑わし、難破させたという。イアーソンに率いられたアルゴー船隊が、セイレーンの岩礁に近づいた時、彼女たちは例によって彼らを惑わそうとしたが、船隊に加わっていた吟遊詩人のオルペウスが歌を歌いだし、その歌の力にセイレーンたちは打ち負かされて、結局、アルゴー船隊は無事に岩礁を通り抜けることができたという。
 放送で取り上げたのは、その後の話である。トロイア戦争でギリシア軍の勝利の立役者となったオデュッセウスが、このセイレーンたちの岩礁を通らなければならないことになった。その際に、彼はあらかじめ、自分の部下たちの耳に蝋で作った栓をさせて、自分の体を帆柱にしばりつけさせ、いくらほどいてほしいといっても、かえってきつく縛るように部下たちに命令していた。そのため、彼はセイレーンの歌声を聞いたけれども、無事にその誘惑から逃れることができたという。
 なお、『大長編 ドラえもん のび太の魔界大冒険』では、歌う人魚の声にドラえもん・のび太達一行が引き寄せられるが、おれの方がうまいと主張するジャイアンが歌い始めたことで、セイレーンたちがびっくりして魔法が解けることになっている。

2月19日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The duty of comedy is to correct men by amusing them.
       ―― Molière (French playwright, actor and poet, 1622 - 73)
(喜劇の務めは、人を面白がらせることによって人を正すことである。)
 モリエールの喜劇を通じて人々を正そうという企てが、あまり成功しなかったから、その後のフランス社会の変動が起きたのかもしれない。

2月20日
 『朝日』の「天声人語」欄に、「巨人・大鵬・卵焼き」に対抗して「阪神・柏戸・目玉焼き」という言い方もあったと記されている(真偽のほどは定かではない)。コラム子は、そこからBC級グルメをめぐる地域的なライバル関係に話を展開していくのだが、私は柏戸というところで思い出すことがあった。
 大学時代に教育心理学を教えていただいた佐藤幸治先生は、旧制三高で哲学を教えられていたこともあったようで、哲学的な方面から人格心理学を研究されていたようである。ある時、授業中の雑談で、京大の時計台下で当時の全学連の指導者であった北小路敏がハンガー・ストライキを企てたことがあって、殊勝なことであると思って断食の仕方を教えに出かけたという話をされていた(我々学生は半分呆れて聞いていた)。
 就職してから、大学の先輩と同席する機会があって、その話をしたところ、佐藤先生はとにかく面倒見がよくて(そういうのを面倒見がいいというのかどうか疑問に思われるが)、同郷の横綱柏戸が調子が悪くなると手紙を書いて、こういうところに気をつけなければならないと助言されていたという。柏戸が手紙をどう思ったかはわからないが、中卒で角界に入ることが少なかった当時の力士としては珍しく山形県の名門鶴岡南高校に入学していたという柏戸のことだから、多少は効果があったかもしれない。

 昨日に引き続き、『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
There is also this benefit in brag, that the speaker is unconschiously expressing his own ideal. Humor him by all means, draw it all out, and hold him to it.
   --Miguel de Cervantes (Spanish novelist and playwright, 1547 - 1616)
(自慢話にはこんなよい面もある。自慢話をする人は、無意識のうちに自分の理想を話している。ぜひとも、好きなように話をさせて、そのすべてを聞き出し、それを実行させるのだ。)
 セルバンテスの作品、特に『ドン・キホーテ』は警句・名言の宝庫だといわれる。古典からの翻訳ではなく、人々の生活から出た知恵を巧みに要約したものが多いというのがその特徴である。

2月21日
 『朝日』の朝刊の国際面の「世界発」のコーナーに、1960年代にインド洋に浮かぶフランスの海外県であるレユニオン島から本土に強制移住させられた子どもたちが、成人して自分たちのアイデンティティーを探しているという記事が出ていた。ラジオの『まいにちフランス語』入門編の2月の放送は、レユニオン島を舞台とした話の展開になっていて、偶然の符合ではあろうが、いろいろと考えさせられる。

2月22日
 中川浩一『総理通訳の外国語勉強法』(講談社現代新書)を読み終える。大学卒業後、外務省に就職できた著者は、事志に反してアラビア語の専門家となることを求められる。国内での研修の後、留学することになったのはカイロ・アメリカン大学である。〔カイロにある大学というと、イスラームの最高学府であるアル・アズハル大学と、アラブ世界の名門カイロ大学、それにこのカイロ・アメリカン大学である。イスラムと(アメリカを中心とするというのが問題ではあるが)国際社会をつなぐことを目的として設立されたこの大学で日本人である中川さんが学ぶというのはごく当然のことである。〕 そこから努力に努力を重ねて、総理大臣とアラブ世界の要人との会見における通訳を務めるまでに至る。
 印象に残る指摘を3点あげておこう。外国語学習はスタード・ダッシュが重要だということ。途中で休んだり、中断期間があってもいいが、最初はしっかりやっておいた方がいいということのようである。アメリカの国務省付属の語学機関が語学難易度を4つのカテゴリーに分けていて、『英語に近い言語』(学びやすい言語ということになる)とされる「カテゴリー1」がイタリア語、スペイン語、フランス語、オランダ語、デンマーク語、ポルトガル語、スウェーデン語、ノルウェー語、ルーマニア語であり、それよりも英語から遠い言語とされる「カテゴリー2」がインドネシア語、ハイチ・クレオール語、スワヒリ語、マレー語、ドイツ語、「カテゴリー3」は省略して、「カテゴリー4」(非常に難しい言語)とされたのが、アラビア語、中国語、韓国語、日本語ということだそうである。
 大学で第二外国語を選ぶ際に、ドイツ語は英語に近い(同じゲルマン語派に属している)という理由で、ドイツ語を選ぶ学生が少なくないが、もう少し慎重に考えた方がいいということを、この区分は示しているようである。
 それから、現在のグローバル社会では、英会話の実際はノンネイティブとの交流の方が圧倒的に多くなってきているということである。これは私も実感してきたことで、日本の英語教育の方向性を考えていくうえで重要な問題の一つであろう。

2月23日
 『朝日』の日曜朝刊に掲載されている「日曜に想う」で曾我豪記者が「100年前のパンデミック」として、第1次世界大戦中に流行した「スペイン風邪」について書いている。ヴェルサイユ講和会議に出席した各国の首脳まで感染したというから、その猛威ではコロナウイルスを凌いでいたようである。
 さて、この「パンデミック」という語のもとになっているのは、pandemoniumという語で、これはミルトンの『失楽園』に出てくる悪魔たちの宮殿であり、「万魔殿」などと訳されている。panは「すべての」という意味、demonは「悪魔」である。

 Jリーグが開幕し、横浜FCはアウェーでヴィッセル神戸と対戦し、先制点を挙げたものの、防戦一方だったようで、結局1‐1で引き分けた。しかし、勝ち点1を挙げたこと、新人の瀬古選手が得点を挙げたことは大いに評価すべきではないかと思う。
 1154回のミニ-toto Aをあてた。今年2回目で、少し、運勢が上昇してきたのかもしれない。

2月24日
 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑭摩天楼の誘惑』(双葉文庫)を読み終える。京都寺町三条の清貴君は上海に、葵さんはニューヨークにと、この度はそれぞれ別方向に活躍の場を移すことになった(清貴君の活躍は『⑬麗しの上海楼』に描かれている)。こちらは葵さんの方の活躍を描いている。どちらかというと、上海での清貴君の活躍の方が目覚ましいだけでなく、この物語でも葵さんに同行してニューヨークに出かける利休君の方が存在感が強いように思われる。また、私は上海にもニューヨークにも出かけたことはない(出かけたいとは思っている)が、上海の描写の方が精彩があるような気がする。

2月25日
 『東京』の「本音のコラム」で鎌田慧さんが安倍政権の「理念なき政治」を憂慮する意見を述べている。少し前に、『朝日』紙上で、『週刊文春』の編集長が、安倍さんは理念型の政治家だと評したことがあったと記憶する。
 昔、大学に勤務していた時に、若手の先生仲間で集まって改革の動きをしていたことがあり、その中心的な人物であったA氏について、同僚のBさんが彼には組織論がないと言ったことがあった。私に云わせれば、組織論がないのではなくて、A氏の組織論がB氏の組織論とちがっていたというだけのことである。だから組織論がないというのではなくて、しかじかの点においてまちがっているというべきであったし、さらに言えば、どこがどう間違っているのかをきちんと批判すべきではなかったかと、今にして思うのである(もっともA氏が云っても聞き入れるような人物でなかったことも確かである)。
 安倍首相の場合も、理念がないのではなくて、彼なりの理念というものはあるのだけれども、国家財政の健全化に目を向けようとせず、教育や福祉についても気紛れなばらまきと切り捨てを行っているというように、客観的・長期的な視野から見ると適切さを欠く部分が多いという方が適切であろと思う。

 道行く人々の7~8割がマスクをしているように見える今日この頃である。わたしは――というと、コンビニに出かけてもマスクが売り切れているので、していない。あちこち探し回れば、見つかるのだろうけれども、そこまでするつもりもない。

 視野はできるだけ広く、いろいろな意見に眼を通そうということで、さまざまに手段を講じて、『朝日』、『東京』、『日経』、『毎日』、『読売』の各紙の報道・論説に触れるようにしている。全部目を通すのは難しいので、それぞれの目次、1面と社説の見出し、川柳のコーナーはしっかり読むことを心がけている。『朝日』の「天声人語」、『東京』の「筆洗」、『日経』の「春秋」、『毎日』の「余録」、『読売』の「編集手帳」という1面の下のコラムは、それぞれの新聞の特色があらわれるということで、特に注意して読む個所である。このほかに、『東京』が「編集日誌」という雑誌でいえば「編集後記」にあたるコラムを設けて、それぞれの号の特徴をまとめようとしているのは、紙面の整合性をはかるための優れた工夫ではないかと思う。後、『朝日』の「首相動静」が他紙に比べて詳しく首相の動静を報じているので、これもできるだけ読んでいる。昨年に比べて、今年は秘密の会議が少なくなってきたように思われるが、真相はどうなのだろうか。
 現在、連載中の記事では、『朝日』の「語る――人生の贈り物――」で講談師の一龍齋貞水さんが、『日経』の『私の履歴書』で陶芸家・第15代楽吉左衛門の楽直入さんが、『読売』の「時代の証言者」で歌人の岡野弘彦さんが、それぞれ、これまでの半生を語られているが、ともに面白い。個人の多様な経歴を通して、世相の変遷を知るというのも歴史の見方の一つだろうと思う。
 連載漫画では、『朝日』の『ののちゃん』、『東京』の『ねえ、ぴよちゃん』、『読売』の『コボちゃん』と3紙が小学生を主人公とするマンガであるのが面白い符合である。3つの中ではぴよちゃんが一番面白く(ぴよちゃんよりも、猫の又吉の方に気持ちが寄り添うところがあるが)、コボちゃん、ののちゃんの順となる。

『太平記』(303)

2月24日(月)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それらは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉重能、畠山直宗らの讒言により高師直の謀殺を企てたが失敗、逆に高師直・師泰兄弟の軍勢に三条の邸を包囲され、出家して錦小路邸に蟄居の身となった。上杉・畠山は越前に流罪となり、配所の江守庄で討たれた。

 足利幕府の内紛が始まったちょうどそのころに、不思議な出来事が起きた。出羽国の羽黒山は修験道の道場として知られているが、そこに雲景という名の山伏がいた。この山伏が世にも珍しい体験をして、その一部始終を(嘘偽りがないという証拠に)熊野三山の発行する護符である牛王宝印(ごおうほういん)の裏に神仏への誓言を添えて、書き残した未来記が伝えられている。

 この雲景という山伏は、諸国行脚の志を抱いて、春のころから思い立って都に上り、新熊野(いまくまの:京都市東山区今熊野にある新熊野神社)に移り住んで、京都の名所旧跡を巡礼していた。そして、貞和5年6月26日に、天龍寺を見物しようと都の西の嵯峨野の辺りに赴いた。昔太政官の庁があった跡地の辺りに差し掛かると、60歳ほどの年頃に見える山伏が1人やって来るのに出会った。この山伏が雲景に向かって、貴殿はどこへ出かけようとされているのかとたずねてきたので、当今の公家武家の崇敬を集めて建立された大伽藍なので、一見したいと思い、天龍寺に出かけるところですと答えた。すると、その山伏は天龍寺も確かに重要な寺院ではあるが、夢窓疎石の住持する寺で、たいして見物に値するものがあるわけではない、我々が住む山こそ、日本に二つとない霊地であるので、修行の思い出になるように、これからお見せしようと、天龍寺からさらに山の奥の方に入って行って、(これまた修験道の霊地として知られる)愛宕山と呼ばれる高峰にたどりついた。

 来てみると、実際、玉を敷き、黄金をちりばめた壮麗な仏閣が建っている〔神仏習合の時代で、愛宕にあったのは白雲寺という寺であったから、「仏閣」とあっても不思議ではない。ただ、ここで描写されている建物は過度に豪華であって、すでにここから雲景は天狗たちの世界に入っているように思われる〕。そのただならぬ様子に、雲景は身の毛がよだつほどの感動を覚え、このままここで修行したいと思っていると、案内してきた山伏が、ここまでやって来られたのであるから、思い出のために秘密の場所にも案内しましょうと言って、雲景を本堂のうしろの辺りの、一山の長の僧坊と思われる場所につれていった。そこもまた素晴らしい場所であった。中の様子をうかがうと、大勢の人々が座っていて、貴族の正装として衣冠を正しく着用して、金の笏をもっている人もいたし、高位の僧らしく黄を帯びた薄紅色の衣を着た人もいた。

 運景はこれは大変なところにやってきたと恐る恐る広庇(ひろびさし=堂舎の庇の間の外側に一段低く設けた板張りの吹放し部分)に小さくなってかしこまっていたが、別の席に山伏が8人いて、そのうちの1人が彼を案内してきた山伏であった。8人のうちの1人が雲景を見て、どこからおいでになった旅の僧であるのかとたずねたので、雲景はかくかくしかじかと答えた。質問した山伏は「そういうことであれば、最近、京都で何が起きているかを見聞きされたことであろう。どんなことが起きたのであろうか。また京童部(きょうわらんべ=京の口さがない民衆)はどんな噂話をしているのか」とさらに質問を重ねてきた。
 そこで雲景は、「特にたいしたことはございません。ただ事件としては、四条河原の桟敷が倒れて、多数の死者が出たことが、前例のないことであり、天狗の仕業ではないかと噂されております。そのほか、何事もありませんが、ただし、将軍(尊氏)と三条殿(直義)とが執事(高師直)のために不仲になっているとのことです。これは天下の大事に至るかもしれないと下々では噂しておりますが、我々の雲の上の出来事なので、詳しいことは存じません」と答えた。〔ありませんと言っておいて、実は…と後から事件について述べるのは奇妙だが、現在のわれわれも同じような言い方をしていることがあるかも知れない〕。

 すると、その山伏は「そういう噂が取りざたされているのか。四条河原の桟敷が倒壊したのは、天狗の力の及ぶ所ではない。というその理由は、現在の関白殿(二条良基)はかたじけなくも天児屋根命のご子孫であり、天子の政治を補佐する貴人である。また梶井の宮も(尊胤法親王)も今上(光明帝)と太子(皇太子興仁親王、後の崇光天皇)の高貴な親族であり、天台座主という高い地位についていらっしゃる。将軍というのは天下を守る征夷大将軍である。(それぞれ貴い身分の方々で、神々の守護を受けていらっしゃる。)
 ところが、四条河原に組み立てられた桟敷というのは、橋を建設するために、仏門修行の世捨て人(祇園社の執行であった行恵、必ずしも世捨て人というわけではない)が企てた興行の見物のためのものである。見物人たちは京中の商人、雑役の力仕事にたずさわる人々、召使たち、よくて普通の侍に過ぎない。
 しかるに、日本の国を治める貴人たちがこのような卑しい身分の人々と席を同じくして見物人たちの列に加わっていらっしゃるので、(源氏の守護神である)八幡大菩薩、(藤原氏の氏神である)春日大明神、(比叡山延暦寺の守護神である)山王権現がお嘆きになり、それにこの地を支えている堅牢地神(大地を司る仏教の神)が驚いて、その勢いで桟敷が倒壊したのである。
 実はこの僧(つまり質問をしている僧)も、その当時京に出かけていたのであるが、村雲の僧(妙吉)に伝えるべきことがあって彼の元を訪問したところ、彼が食事などでたいそうもてなしてくれたので、時間が経ってしまい、見物できなかったのであると述べた。そこで雲景は、いま、村雲の僧とおっしゃいましたが、この頃、修行で得た徳、政治への発言力で、非常に評判の高い、この方はいったいどのような方なのでしょうか。京童部は、実際は天狗ではないかなどと噂しておりますが、真偽のほどはいかがでしょうかとたずねた。
 すると老僧(山伏)は、それはその通りである、あの妙吉という僧は、才気のある人物なので、天狗の中から選び出して、乱世を出現させるために派遣したのである。だから世の中が乱れてくれれば、もとの住処に帰ることになる。そういう理由があったので、住むところは他にもあったのに、村雲という場所をわざわざ選んで住まわせたのだ。雲は天狗の乗り物なので、村雲に住むのである。しかし、このようなことがらは秘密なので、決して他人に知らせてはならない。もし、この愛宕山までやってくれば、詳しい話をしてやることにしようと語った。

 貴賤が区別なく田楽を見物するということを神々が嘆息されるというのは、いかにも保守的な発想であって、『太平記』の作者の物の見方がはしなくも表れているとみるべきであろう。ここでやり玉に挙げられている二条良基が、最高級の貴族でありながら、その一方で庶民的な連歌に親しんでいたことについて作者は批判的、あるいは否定的であったのかもしれない。貴族の伝統的な文化と、庶民の新しい文化とが結びついて、さらに新しい文化が生み出されていくのであり、例えば佐々木道誉のような当時のバサラ大名たちは、そういう新しい文化の創造者であったとも言いうるのである。どうやら、天狗のように思われる山伏と、雲景との対話はさらに続くが、それはまた次回に。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(32)

2月23日(日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 ハートフォードシャーに戻ってきたエリザベスは、帰宅の翌日、姉のジェーンに、ケントでの経験を語った。ただし、ジェーン(とビングリー)に関係する部分は伏せて、彼女とダーシーとの経緯だけに焦点を当てて話したのである。
 最初、ジェインはダーシーがエリザベスに求婚し、拒絶されたと聞いて驚いたが、妹の魅力をもってすればそのようなことも不思議ではないと、その驚きもおさまり、むしろダーシーの求婚の仕方がいかにも気の利かないものであったことを残念がり、さらに拒絶されてさぞ残念であっただろうと、同情心を示すのであった。〔他人を悪く思わないジェインの性格がよく出ている対応である。〕

 エリザベスは、ダーシーには気の毒なことであったかもしれないが、彼の性格や境遇からすればすぐに立ち直るだろうといい、むしろ驚いたのはウィッカムの正体を知ったことであると話を進める。エリザベスは、ダーシーの手紙に書いてあったことを(ジェインに関する部分は省いて)詳しく語り、ジェインはダーシーについてエリザベスが抱いていた疑いが晴れたことを喜んだが、その代わりに、ウィッカムの正体を知って驚いた。それでも彼女はこのような悪の存在を認めたくはなかったので、一方の無罪を認めながら、もう一方についても潔白であると証明しようとした。

 エリザベスは姉の努力が無駄であるといい、自分としてはウィッカムよりもダーシーの方を信じたい気持ちであり、自分が表面的な観察だけで、ダーシーに偏見を抱いていたことを後悔しているという。その結果、自己嫌悪に陥り、そのときほど姉がいてほしいと思ったことはなかったと打ち明ける。さらに、ウィッカムの正体を人々に知らせるべきかどうかについての姉の判断を仰ぐ。ジェインは、まずエリザベスの意見を聞きたいといい、エリザベスがあからさまに暴露することはしなくてもいいとこたえると、ジェインも同意見であるという。こうして自分が秘密にしていたことを姉に打ち明けたことで、エリザベスの気持ちは落ちついたが、ジェインとビングリーの件については、2人が完全に理解しあうまで黙っている方がいいだろうと判断した。しかし、もし2人が完全に理解しあうことが実現すれば、そのときにはこの件についても2人の間で話し合われ、解決しているだろうから、話してもむだになるだろうとも思っていた。

 「エリザベスは我が家の日常生活に戻って、ゆっくりと姉の本心を観察することができた。ジェインは決して幸せではなかった。」(大島訳、387ページ) ジェインのビングリーへの想いは彼女の年齢や性格に見合った真剣さをもったものであっただけに、彼と離れている哀しみは強いものであったが、そういう内心の苦しみを他人になるべく感じ取らせないように配慮する気遣いも彼女は併せ持っていた。

 しかし、ベネット夫人は(自分がジェインの「失恋」の最大の原因であったことには気づかずに)ビングリーのふがいなさを攻撃したり、エリザベスにコリンズ夫妻の暮らしぶりを訪ねて、八つ当たりしたりしていた。〔ベネット夫人はもともとメリトンの事務弁護士の娘であり、地主階層の出身ではないのだが、浪費家で家事は使用人任せであり、隣のルーカス家(当主は、もともと商人であったのが、メリトンの市長をつとめ、爵勳士の称号を得た。長女のシャーロットがコリンズ牧師と結婚している)のつつましい暮らしぶりに批判的な口ぶりである。〕

 エリザベスがケントから、ジェインがロンドンから帰ってから1週間が過ぎ、次の週になったが、その週のうちにメリトンに駐在していた連隊がブライトンに移動することになっていたので、ベネット家のキティーとリディアをはじめ、近隣の娘たちは元気を失い始めていた。リディアはキティーとともに、ブライトンに一家で出かけることを強く主張し、ベネット夫人までもがそれを後押しした。そんな会話を聞きながら、エリザベスは自分の一家の軽薄さを恥ずかしく思い、ダーシーがジェインとビングリーの結婚に反対したのも無理はないと思いさえした。

 ところが、最近結婚した連隊のフォースター大佐の夫人が自分と仲の良いリディアをブライトンに招待したことで、事態は一変した。リディアは自分のことだけを考えて有頂天になり、招待をうけなかったキティーの不満も目に入らない様子であった。
 エリザベスは何とかこの招待を断らせようと思い、自分が悪役になることも承知で、父親にそのことを申し出た。しかし、意外にも父親はリディアのブライトン行きに反対しなかった。「頭の良さと皮肉なユーモアと無愛想と気紛れが奇妙に入混じった人物」(第1章、大島訳、20ページ)であるベネット氏は、「リディアはいずれどこか公の場で馬鹿をやらかして世間の物笑いに出もならないことには、どうせ治まりはせんのだろう」(大島訳、393ページ)と、ブライトンでリディアがひどい目にあうことを期待するような口ぶりである。

 エリザベスは、リディア(とキティー)の行状のおかげで、すでに家族が不利な立場に立たされているというのだが、ベネット氏はリディアの行状による世間の悪評のおかげで、ジェインやエリザベスに恐れをなすような若者はとるに足りないと〔たしかにこれは正論であるが〕受け付けない。エリザベスは必死になって説得を続けるが、ベネット氏はブライトンで大事件が起きることは予測できないと、エリザベスを納得させようとする〔エリザベスが知りえた様々の情報をそのまま父親に打ち明けるわけにはいかなかったのが、ここでのベネット氏の判断に影響している。実際には、エリザベスがすでに得ていて、父親に黙っていた情報から、予測が不可能ではなかった事件が起きて物語が大きく展開することになる。〕

 エリザベスと父親との会話の内容を、リディアとベネット夫人が知ったら、烈火のごとく怒ったであろう。「リディアの想像では、ブライトンに行きさえすればこの世の幸福はすべて味わえる筈であった。」(大島訳、396ページ) 彼女は、ブライトンで、士官たちと恋愛遊戯に耽る自分の姿を夢想していたのである。〔前回、書いたようにブライトンは、この作品では、19世紀の初めの「摂政時代」の都市的な浮ついた華やかさを象徴する場所として取り上げられている。〕

 連隊がブライトンに移動するということは、エリザベスがウィッカムと顔を合わせることが無くなるだろうということでもあった。ケントから帰った後も、彼女は彼と同席する機会があった。ウィッカムの正体を知ってしまったエリザベスにとって、彼はもはや心のときめきを覚えるような存在ではなくなっていたが、ウィッカムの方ではそうと知らずに、また彼女との関係を蒸し返そうとする様子が感じ取れたので、エリザベスにとっては余計不快であった。「どうやらウィッカムはエリザベスのことを、どんな理由でいくら長いあいだ素気(すげ)ない態度をとっていても、また優しい言葉を掛けてやれば虚栄心(vanity)と自惚れ(preference)からいずれきっと靡いて来る女だとも思い込んでいるようであった。尤もこの点に関しては、エリザベスも相手にそう思い込ませた自分に非があったのだと感じない訳には行かなかったが、ただその思いは飽くまでも胸中に押止めて、表には出さなかった。」(大島訳、397‐398ページ)

 連隊がメリトンに駐在するのもこれが最後という夜に、ウィッカムは他の士官たちとともにロングボーン(のベネット家の屋敷)にやってきて食事を共にした。エリザベスはウィッカムと機嫌よく別れようという気持ちもなかったので〔彼女がケントに出かけた時とは対照的な態度である〕、ウィッカムから(ケント州の)ハンズフォード訪問中のことを聞かれて、ダーシーとその従兄のフィッツウィリアム大佐が3週間ほど滞在していたといい、フィッツウィリアム大佐のことはご存知かとたずねた〔ウィッカムの弱みを間接的に突いたのである〕。ウィッカムは一瞬驚きと不快と不安の表情を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻し、大佐は立派な紳士であるといい、ダーシーとは違うだろうと付け加える。エリザベスは、たしかにちがうけれども、3週間一緒に過ごしているうちに、ダーシーについての印象もかなり変わったと切り返す。ウィッカムは自分の苦労話を持ち出して、エリザベスの同情を引こうとしたが、エリザベスは相手にしなかった。その結果、ウィッカムはエリザベスを特別扱いにしようとはしなくなった。「最後に二人は丁寧に挨拶を交して別れた。多分どちらももう二度と会いたくないというのが本音であったろう。」(大島訳、401ページ)

 会がお開きになると、リディアはメリトンに帰るフォースター大佐の夫人と連れ立って家を出た。翌朝早くブライトンに向かう予定だったからである。一緒にブライトンに行けないキティーだけが悔し涙を流していたが、残る家族との別れは何とも騒々しいもので、ベネット夫人は楽しめる機会はできるだけ楽しめと命令口調で言ったのだが、リディアの方は命令されなくてもそうするつもりであったのは明らかである。

 今回は第2巻17章と18章をまとめて紹介した。ちょっと長くなったかもしれないが、これからゆっくりと紹介したい箇所もあるので、急いでみていける部分は急ぐことにした。
 リディアのブライトン行きはなにかの事件の前触れとなりそうである。ベネット夫人の「命令」は非常識きわまりない。ベネット氏はリディアが不行跡をしでかして、反省することを期待する口ぶりであったが、リディアは父親の想定を超えた馬鹿である可能性も残されている…。
 昨夜はパソコン作業の最中に寝てしまい、皆様のブログを訪問することができず、失礼いたしました。これからも、同じようなことが起こりそうですが、どうかお見捨てなきようお願いします。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(15)

2月22日(土)晴れのち曇り、夕方になって一時雨

 紀元1世紀のローマの詩人ルーカーヌスの未完に終わったこの叙事詩は、紀元前1世紀の半ばにローマの覇権をめぐり、閥族派のポンペイウスと民衆派のカエサルのあいだで戦われた内乱を題材とするものである。今日に残されているのは第10巻までであるが、これまで第3巻までを紹介してきた。今回から第4巻に入る。
 元老院とポンペイウスにより、ガリア総督の地位を解任され、軍隊の解散を命じられたカエサルは、その命令に従わず、ガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、大軍を率いてローマに迫る。内乱の始まりである。この知らせを聞いてローマは大混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、ローマの要人たちの多くがローマを去る。(第1巻)
 ポンペイウスはカプアを拠点として反撃を試みるが、カエサル派は各地でポンペイウス派の軍隊をやぶり、ポンペイウスはイタリア半島南東部のブルンディシウムの港から、ギリシアのエペイロスを目指して逃亡する。(第2巻)
 カエサルはローマに入城するが、彼を支持する者は少ない。一方、東方に逃れたポンペイウスは各地から大軍を集めて反撃を準備する。カエサルはスペインのポンペイウス軍と戦うべき西にむかい、その途中で両派の和睦を主張して抵抗したマッシリアの攻囲を部下たちに委ねて、スペインに向かう。マッシリアは、海戦によって陥落する。(第3巻)

 一方カエサルは、遠く世界の果ての地で獰猛に
戦を遂行していた。死者の数ではさほど罪深くはないが、
二人の将の命運を決する重大な契機となる戦であった。
(第4巻1‐3行、169ページ)
 ポンペイウス派の将軍はアフラニウスと、ペトレイウスであった。ローマから派遣された兵士たちに加えて、イベリア半島の各地からの兵士たちが彼の麾下に加わった。イベリア半島の東南部(後のアラゴン→カタルーニャ)にイレルダ(現在ではカタルーニャ語でリェイダと呼ばれている、スペイン=カスティーリャ語ではレリダである)という丘の上の町があり、その近くをシコリス川(現在ではセグレ川)が流れている。シコリス川と、その支流であるキンガ川(シンカ川)が合流するあたりを望む、もう一つの丘の上にカエサルの軍勢が陣営を構えた。〔シコリス川は、キンガ川と合流した後、今度はヒベルス川(エベル川)にそそぐ。〕

 両軍はしばらくにらみ合いを続けた。
 戦いの初日、流血の戦闘は控えられ、将の率いる
軍勢と数知れぬ軍旗を誇示するだけで終わった。
罪を恥じたのだ。恥の心が狂乱の将たちの兵戈を押しとどめ、
祖国と踏みにじられた法に一日の猶予を与えたのである。
(第4巻、24‐27行、170‐171ページ) このあたりの表現にルーカーヌスの戦争一般を否定する心情が込められているのではないかと思う。

 しかし、カエサル軍が動き出し、両陣営のあいだにある丘を占拠しようとするが、ポンペイウス派の軍の方が先に丘を自分のものとする。しかし、戦闘はどちらが勝利することもなく終わり、両軍はそれぞれの陣営に引き上げる。
 冬のあいだ、戦いは停滞していたが、春になると雨の日が多くなり、しかもピュレネ(ピレネー山脈)の山の雪が解けて、シコリス川が増水しはじめた。平原に陣地を張っていたカエサル軍は、「水難に見舞われて水没し、/陣営は押し寄せる洪水で壊滅した。」(第4巻、86‐87行、174‐175ページ)
 カエサル軍は苦境に陥ったが、運命は彼を見放さなかった。水害は長くつづかず、カエサル軍に挽回の余裕を与えた。彼らは柳の枝を編んで牛の皮を張った船を造って交通手段とし、さらに橋を架け、水路を掘って、水の勢いを押さえた。

 このようにカエサル軍が態勢を立て直しているのを見たペトレイウスは、イレルダの町の味方たちだけでは対抗できないと考えて、半島のさらに内陸部に同盟者を求めて去っていこうとした。
 それを見たカエサルは、兵士たちにすぐ、彼らの後を追うように命じた。ポンペイウス軍のしんがりに、カエサル軍の先頭の騎兵たちが追いつき、脅かし始めたとき、ポンペイウス軍は闘争を続けるか、踏みとどまって戦うかで迷っていた。
 カエサルは、ポンペイウス軍が内陸部に逃げ込むと戦闘が長期化することを懸念した、自分の軍隊の一部をポンペイウス軍に先回りさせて、正面から戦おうとした。
 両者は土塁を築いて先頭に備えた。しかし、そこで予期しない出来事が起きた。

・・・距離の遠さに霞むことなく、互いの目が
互いの顔をはっきりと見分けた時、兵士らは骨肉相食む
内乱の非道を覚悟した。皆は、軍律への恐れでしばし
声を呑み、ただ頷きと剣の動きで縁辺と会釈を交わしていた。
やがて、一層強い衝動に駆られて、熱い愛の心が軍律を破り、
思い余って土塁を乗り越え、両手を広げて腕を差しのべつつ
互いを抱擁した。知己の名を呼ぶ者もいれば、縁者の名を呼ぶ者もいる。
遊びや学びに共に熱中して過ごした子供時代が心に蘇った者もいた。
敵の中に知己、縁者を一人も認めなかったローマ人はいなかった。
(第4巻、168‐176行、180ページ)
 両軍の兵士たちは、相手の陣営に自分の知人や友人の姿を認めて、指揮官の命令や軍律を無視して戦闘を停止し、お互いに交歓しあったのである。この思いがけない平和は果たしてどのような結果をもたらすのであろうか、それはまた次回に。 

細川重男『執権』(9)

2月21日(金)晴れ

 鎌倉幕府の歴史は(主として東国の)武士たちが、自分たちの政権を築き・維持しようとした悪戦苦闘の歴史であり、著者である細川さんによれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その苦闘の中心的な存在であった北条氏の代々の得宗がどのように生き、戦い、何を残したかを、承久の乱に勝利した北条義時、元寇を退けた北条時宗という2人の得宗・執権に注目しながら解き明かそうとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府の成立以前の北条氏が伊豆の平凡な小土豪に過ぎなかったことが語られる。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では、義時が頼朝死後の幕府の権力闘争の中で、どのようにその地位を高めていったか、そしてその権力の維持と継承の中で、彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が生まれたことなどが述べられている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」では、時宗には時輔という兄がいたにもかかわらず、得宗の継承者とされたこと、時宗と時輔との関係について語られてきた。この2人が「対立」することになったのが「二月騒動」である。

第3章 相模太郎時宗の自画像(続き)
  二月騒動の経過
 不可解な事後処理
 まず、二月騒動とはどのような事件であったのか、その経緯をたどる必要がある。
 文永9年(1272)、時宗は22歳で執権、時輔は25歳で六波羅南方探題であった。
 2月11日鎌倉で、北条一族で幕府の有力者であった名越時章、教時兄弟の邸が襲われ、時章は自刃、教時は討死した。ところが時章は誤殺とされ、時章を襲った討手の大将5人はその日のうちに斬首されてしまう。謀叛人とされたのは教時だけであったが、その討手には賞罰共になかった。
 その4日後の2月15日、京都では鎌倉からの早馬が到着した直後、六波羅北方探題赤橋義宗の手勢が南方探題府を襲い、合戦の中六波羅府は炎上、焼死者・戦死者を多数出し、南方探題時輔も討たれた。〔足利尊氏の正室・赤橋登子は赤橋義宗の孫である。〕
 乱後、時輔や、誤殺であったはずの時章の所領は没収された一方で、名越氏の幕府における地位はそれほど後退しなかった。「ほんとに、なんだか、よくわからない。」(139ページ)

  二月騒動の再評価
 潜在的脅威の除去
 以上のように事件の経緯は表面的にはよくわからないことだらけであるが、その底にあるのは文永5年(1268)初頭以来の蒙古の重圧であろうと考えられる。対蒙古戦争が不可避であると判断した鎌倉幕府は、臨戦態勢の構築のために、時宗への権力集中を急いでいたと考えられる。
 そのような状況の中で、時章・教時兄弟を中心とする名越氏は、得宗家に匹敵する高い家格を有し、鎮西・北陸に6カ国に及ぶ守護分国を領有、その政治的・軍事的な勢力は時宗の権力確立にとって障害となりうるものであった。さらに時輔の場合、その六波羅探題在任のうちに西国に相当の勢力を築いていたと推測されるし、それ以上に執権の異母兄という存在そのものが、時宗への権力集中に不満を抱く勢力の結集点となる可能性を持っていたと考えられるのである。〔当時の日本は66カ国、2島から構成されていたから、後に室町幕府の時代に山名氏が一族で11カ国の守護となって、「六分の一殿」と呼ばれた(明徳の乱の原因となる)のに比べると少ないが、6カ国というのも相当なものである。〕

 では、この事件の首謀者は誰か。事件の最大の受益者である時宗その人であると細川さんは論じる。
 得宗家と競合する地位を有していた名越家の勢力を半減させ、その鎮西(九州)における所領を没収したことは、その後の対蒙古政策に重要な意味をもつ。
 時章襲撃の討手の大将で、後に処刑された5人のうち4人が執権・時宗の御内人(家臣)であり、残る1人がう連署・政村の家臣であったことを考えると、この襲撃の指揮を執ったのが時宗だと考えるのが当然である。
 時宗の行動は一貫しないようでいて、実は周到である。一方で権力集中の邪魔になるような人物はピンポイントで取り除き、その一族に対してはすぐに慰撫の手立てを講じる。こうして混乱の拡大を防いだのだと細川さんは考えている。

 武威の発動
 このような手段に訴えなくても、誘殺、あるいは暗殺という手段もあったのではないかという意見もあるだろうが、「二月騒動にあっては、暴力の発動それ自体が目的化していたとすら考えられる」(143ページ)というのが細川さんの議論である。
 「鎌倉での武力衝突は四半世紀ぶり、京都が戦場となったのは実に半世紀ぶりである。しかも、その犠牲者は実の兄を含めた執権の一家一門であった。二月騒動が当時の人々に与えた衝撃は、実際の戦闘の規模を越え、今日我々が考えるより、遥かに大きかったのではないか。」(145ページ)

 時宗は鎌倉の名越兄弟には自分の個人的な軍事力を発動し、京都の時輔には六波羅探題という公的な軍事力を差し向けた。しかも時章の討手は誤殺であったとして、自分の命令に忠実であった家臣たちを処刑さえした。時宗は自分の意志に反するものは、肉身であろうと容赦せず粛清すること、またそのためには自己の有するあらゆる軍事力を発動することを示したのである。このように狂暴と言えるほどの暴力主義が時宗という政治家の本質の一つであったと断じられている。

 権力の確立
 二月騒動の後、時宗への権力の集中は急速に進む。彼の反対者に残された道は、もはや遁世しかなくなったのである。
 「時宗は名越兄弟と時輔を攻め滅ぼすことによって、自身の意向に反する者の末路を示してみせたのであった。恐怖は権威の構成要素の一つなのである。道理(人のおこなうべき正しい道)や撫民(民をかわいがること)を口にしようとも、武家政権の権力の根源は強制力にあり、武士の本質は・・・躊躇なく人を殺す暴力にある。・・・時宗は、二月騒動によって、自己を非情・苛烈の指導者として、世人に対し演出して見せたのであり、それは時宗の独裁権力確立をもたらしたのである。」(147ページ) 〔「道理」や「撫民」を建前としてでも口にした、泰時や時頼と、時宗のちがいを考えてみる必要もあるだろう。〕

  苛烈の自画像
 蒙古との戦いを前にして、時宗は自らは、兄を滅ぼしてでもその権力を固める鋼鉄の人になろうと決心していたのではないかと細川さんは想像する。そしてその時宗の政権によって、武士たちは御家人・非御家人の別なく未曽有の軍事動員に駆り立てられ、寺社・本所もまた鎌倉幕府から空前の干渉を受けることとなる。そこで起きた世人の不満・批判は時宗への畏怖によって封じられたのではないかという。

 「出口を失った怨嗟は、実弟の命によって殺された青年(時輔)への同情に形を変え、時輔の生存・廻国の物語となって、時宗政権下の日本列島に、さながら地下水脈のごとく流れ続け、兄を殺すことによって独裁者としての自己を確立した弟の卒去を契機として、鎌倉幕府が無視しえないほどの規模で歴史の表面へと湧き出でたのである。」(148ページ) これがこの章の最初で述べた島根県の鰐淵寺に伝わる、時輔手配書の語るところではないかというのである。

 今回をもって第3章「相模太郎時宗の自画像」を終える。次回からは第4章「辺境の独裁者――4人目の源氏将軍が意味するもの」に入る。細川さんは、鎌倉将軍7代、親王将軍2代ということになる惟康親王の異様な運命の転変に焦点をあてながら、その将軍を戴きながら執権職を務めた時宗とその政権の性格を明らかにしようとしていく。
 なお、皇族および三位以上の人の死を薨去と言い、四位・五位の人の死を卒去という。時宗は死亡時点で正五位下相模守であったから、卒去ということになる。以前、六波羅蜜寺で学生風のグループが「薨去」とは何かと騒いでいたので、貴人が死ぬことだと教えて、感謝されたことがあったが、どうも中途半端な教え方で、今にして思うと慙愧の念に堪えない。
 

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(8)

2月20日(木)朝のうちはまだ晴れ間が残っていたが、次第に雲が空を覆う。

「新皇」即位と八幡神・道真の霊(続き)
 常陸・下野・上野の国司を追い出した後、平将門は「新皇」即位を宣言する。その際に八幡大菩薩と菅原道真の霊が登場していることの意味を著者は論じてきた。「『新皇』即位の歴史的意義」で律令制の下での神祇体系からはみ出た神祇である八幡神と菅原道真の霊が将門の「新皇」即位とかかわっていること、また「平安京における道真の怨霊と八幡神」で、この2神が当時の平安京にあって新しい神々であり、その神格を強化・向上させている最中であったことが指摘されている。

 関東における道真信仰
  常陸介菅原兼茂の役割
 それではなぜ、将門の「新皇」即位の場面に菅原道真の霊がかかわったのであろうか。この点に関連して、著者は川尻秋生がその研究の中で、道真の子息たちが東国の国司に任命されていることに注目していることを取り上げる。景行が常陸介、旧風(もとかぜ)が武蔵介、兼茂(かねもち)が常陸介に任じられているが、そのなかで川尻が特に注目しているのは兼茂であるという。兼茂は承平年間(931‐38)の後半ごろに常陸介であっただけでなく、『扶桑略記』には彼が父・道真の霊と対話したという逸話が記されているという。川尻によると、兼茂が常陸でこのことを語ったことが、将門の「新皇」即位にも影響したのではないかという。
 〔この本の130ページに菅原氏の略系図が掲載されていて、道真の子として11人が列挙されている中で、高視の子が、雅規、その子が資忠というところまでしか記されていないが、資忠の子が孝標で、やはり東国に地方官として下り、上総介であったことは『更級日記』が記すとおりである。〕

  大生郷天満宮社殿と2つの石碑
 木村さんはさらに、茨城県常総市の大生郷(おおのごう)天満宮の由来についても考えるべきだという。ここで、大生郷天満宮は日本三大天神に数えられるという記述があるが、念のために書いておくと、自社は日本三大天神に数えられるという神社はWikipediaによると11社あって、そのうち、北野天満宮と太宰府天満宮は、ほぼすべての神社が三大天神に数えているが、福島市の曾根田天満宮、福島県猪苗代町の小平潟天満宮、この大生郷天満宮、東京都江東区の亀戸天神社、鎌倉市の荏柄天神社、大阪天満宮、和歌山市の和歌浦天満宮、兵庫県高砂市の曽根天満宮、山口県防府市の防府天満宮が残る1つだと主張しているそうである。
 大生郷天満宮の社伝によると、道真の三男景行が、自分が死んだら骨を背負って諸国を遍歴し、それが重くなって動かなくなればその地に墓を造れという父親の遺言に従って、この地にやって来てこの地に至ったのがこの神社の起源だという。

  二つの碑文 → 二つの碑文の評価
 明治44(1911)年に発見された2つの碑文:桜川市真壁町羽鳥の歌姫神社にあった石碑と、大生郷天満宮の石碑は、ともに今日では碑文を判読できなくなっているが、景行が羽鳥の地に菅原神社を建立し、後に景行・兼茂・景茂の三兄弟が神社を大生郷に移したことが記されていたという。

 これらの碑文は、後世の作と考えられるが、景行が菅原神社を建立した際の協力者とされている源護・平良兼は将門が最初に戦った相手であること、大生郷のある豊田郡が将門の支配地であったことなど、注目すべき内容が含まれている。あるいは将門の乱以前にすでに道真伝説→信仰がこの地域に根付いていた可能性も考えられるからである。八幡神については何とも言えないが、将門が「新皇」即位を宣言する際に、道真の霊が出現する条件は当時の関東にもあったのではないかと木村さんは論じている。

 平将門の乱と中世的宗教秩序の形成
  二十二社制の成立
 道真の霊魂と八幡神が神格を獲得し、その地位を上昇させていく過程が、将門の乱とほぼ並行しているだけでなく、将門の乱はその契機となっているというのが著者の考えである。そしてこの2つの神は承平・天慶の乱の後も、その神格を上昇させていく。
 岡田荘司はこの時期に、律令神祇令に規定された古代的な神祇体系が崩れ、新たな神祇体系が形成されてくることを指摘した。その代表的な表れが二十二社奉幣制である。

 平安時代の朝廷と神社をつなぐ祭祀制度の一つが奉幣制であり、国家の重大事に際して、朝廷から臨時に使者が遣わされ、宣命を奏して幣帛を奉られるが、使者が遣わされる神社は9世紀末~10世紀初頭に成立する十六社制から次第に数を増して、11世紀後半には中世的な神祇秩序である二十二社制として確立したというのが岡田のまとめである。
 それで、二十二社というのは、伊勢(伊勢)、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、小原野、梅宮、吉田、祇園、北野、貴船(以上山城)、春日、大神、石上、大和、広瀬、龍田、丹生(以上大和)、住吉、広田(以上摂津)、日吉(近江)の各社をいうが、この中に新興の神である北野天満宮と石清水八幡宮が明確に位置づけられている点が重要であるという。このような神社の格付けの変化は、神祇体系の変化を反映するものであり、将門の「新皇」即位の場面に登場していた天神と八幡神が国家的な神祇秩序の中に位置づけられていることに、神祇体系の変質を見ることができるという。

  『国内神名帳』の作成
 この二十二社制とともに、中世的神祇秩序の成立にとって重要なのは、承平・天慶の乱後全国で新たな『国内神名帳』が作成されたことであると著者は論じる。上島享は古代的神祇秩序から中世的神祇秩序への転換に際して承平・天慶の乱が果たした役割を強調しているが、その議論において重視しているのは、承平・天慶の乱の平定後に諸国によって勧進された「神名帳」に基づいて神々の位を引き上げていることであるという。「神名帳」に取り上げられた神々の数は『延喜式』に列挙されたものをはるかに上回り、新たな秩序の編成を告げるものであった。
 木村さんは、上島の議論に加えて、天満宮と石清水八幡宮もこれらの中世的な「国内神名帳」成立の動向の中に含まれていたことを確認している。

 「新皇」即位と八幡神・道真の霊
  八幡神・道真の霊登場の背景 → 八幡神・道真の霊登場の意義
 将門の「新皇」即位の場面における八幡神・道真の霊魂の登場は、中世的な宗教秩序形成に大きな影響を与えるとともに、その変化を象徴する出来事であったと、著者は論じているが、平安京における宗教秩序の変化はそれなりに説明されているとはいうものの、東国における変化は、道真の霊についての検討はあるものの、八幡神をめぐる検討がされていないので、まだまだ説得力が欠けているように思う。
 宗教秩序ということでいえば、中世神話の形成とか、仏教との影響関係とか、掘り下げるべき問題はまだまだ残されているのではないかという気がする。この書物が取り扱っている時代から後の話になるのかもしれないが、将門の伝説と北辰(妙見)信仰が結びついていく問題なども、議論すべきではないのか。などと、偉そうなことを書いてしまったが、私は人生の半分近くを神奈川県で過ごしていながら、まだ荏柄天神にお参りしたことがないことを思い出した。できるだけ早くお参りすることにしよう。

 次回からは、将門の乱を追討する際に朝廷の側が持ち出した主張である王土王民思想をめぐる議論を見ていくことにする。  
 

ベーコン『ニュー・アトランティス』(15)

2月19日(水/雨水)晴れ

 この書物の著者フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)はイングランドの政界・法曹界で活躍した政治家・法律家・文筆家であったが、今日では主としてその哲学的な著作によってその名を知られている。『ニュー・アトランティス』は彼の死後、未完の原稿として残された作品で、彼の理想とする自然科学研究のための施設とその研究成果を実用に移す施設の構想を描き出すこと、また理想的な法律・政治・経済体制をもった社会の見取り図を示すことであったといわれる。前者の構想は作品中の「サロモンの家」の描写によって果たされているが、後者については著者の死によって十分な形ではまとめられなかったとされる。
 物語は一人称で語られ、語り手はペルーから太平洋を渡って中国・日本にむかおうとして途中、強風に流されて未知の島にたどりついたというのが発端である。ベンサレムの島と自称するこの島の人々は、ソラモナ王による改革以来、鎖国政策をとっている一方で、「サロモンの家」という機関を設けて世界のあらゆる事物を研究し、研究成果の応用可能性を探っている。そして秘密裏に、外国の事情も探っているという。語り手は、「サロモンの家」の長老から、この施設の概要と仕事ぶりを聞くが、どのような施設があるか、研究員たちの任務はどのようなものかについて語られ、話も終わりに近づく。

 長老は、「サロモンの家」の目的、施設・設備、研究員たちの任務に加えて、そこでの法令と儀礼について語ると約束していた。他のことを語り終えて、いよいよ、最後の法令と儀礼について語ることになった。儀式と儀礼について言えば、サロモンの家には2本の長い、立派な回廊(galleries)がある。川西進訳では、「展示と礼拝に関して言えば、たいへん長く立派な会場が2つある」(64ページ)となっている。川西が「展示と礼拝」と訳しているのは、原文では”ordinances and rites"で「儀式と儀礼」の方が適切ではないか。
 回廊の1つには優れた発明品の模型と見本とが陳列され、もう一方の回廊には主要な発明家の像が飾られている。主要な発明家の中には、コロンブスや、「大砲や火薬を発明したお国の修道僧」(川西訳、65ページ、your monk that was the inventor of ordnace and gunpowder, 伝統的に火薬の発明者だと考えられていたロジャー・ベーコン(Roger Bacon, 1210 -1292)のことだと考えられる)、「印刷術の発明者」…なども含まれている。列挙されている発明の中には、金属工芸、ガラス工芸、養蚕と絹など発明者を特定できる性格のものではない事柄が含まれているのが奇妙である。
 とにかく、価値ある発明をした人々は、その像を建て、また多額の名誉ある報酬を与えられる。〔科学技術の歴史を振り返ると、そのような報酬を与えられなかった人々が少なくないことに気づくはずである。
 「サロモンの家」の人々は、毎日、彼らのやり方で聖なる歌を歌い、祈りを唱える。

 最後に、「サロモンの家」の人々は、研究成果の普及のために全国の主要都市を巡回する。また病気、悪疫、有害動物の大量発生〔そういえば、現在東アフリカでイナゴが大量発生して被害が出ているとのことである〕、飢饉、嵐、地震、洪水、彗星〔も災厄の一つだと、ベーコンは考えていたらしい。なお、エドモンド・ハレー(1656‐1742)がハレー彗星の軌道を計算してその出現を予言したのは18世紀のことである〕、年間の気候、その他さまざまなことがらについての予報を行い、それらの予防と救済のための助言を与える。

 ここまで言うと、長老は話を終え、語り手は彼に対して跪いて敬意を表した。長老は、島の外の世界の人々の利益となるように、この島で見聞したことを発表することを許すと述べる(これは、島の慣行を改めることである)。そして、彼は出て行き、語り手たち一行に約2,000ダカット(ducats ,むかしヨーロッパ大陸で流通していた金貨)の贈与金を与えてくれた。
 〔残りは未完〕

 初版本をはじめ多くの『ニュー・アトランティス』の刊行本は、この後以下の研究課題のリスト゚を付け加えている。表題の「自然の大いなる業」(magnalia naturae)は、「神の大いなる業」(magnalia Dei =奇蹟)と区別されると川西さんは書いているが、つまり、加賀の力で実現可能だと考えられる課題ということであろう。列挙されているものの中には、「サロモンの家」で研究されているものもあるので、その点に注意する必要もある。

 自然の大いなる業、人類に益となるものを中心に
寿命の延長
ある程度の若さの回復
老化の遅延
不治とされる病の治療
苦痛の緩和
不快感の少ない楽な下痢
体力、行動力の増進
苦しみ、痛みに耐える力の増進
体質、肥満体、痩身体の変更
身長の変更
容貌の変更
知的能力の増進と高揚 
生体の転換
新種の創造
異種間の接木
戦争、毒薬などの破壊道具
精気の活性化とその良好状態の保持
他人あるいは自分の身体に影響を及ぼす想像力
成熟の促進
清澄化の促進
煮出しの促進
発芽の促進
豊かな堆肥による土地の肥沃化
大気圧の影響と人工嵐
硬度、柔軟度などの大変更
水分を多量に含む原料から油性、脂肪性への物質の変化
現在用いられていない材料から新食料の抽出
合成繊維と紙、ガラスなどの新素材の製造
自然な方法による予知
感覚の錯誤
より大きな快感
人工の鉱物とセメント

 研究課題が実生活、社会での利用と結びついている点がいかにもベーコンらしい。その一方でベーコンが科学とその応用を、研究・開発に携わる人々と、その成果を利用するだけの人々という風に2つの社会層を想定して論じていることにも注意しておくべきであろう。

 以上でベーコンの『ニュー・アトランティス』の紹介を追える。繰り返しになるが、科学技術の応用による社会の改造という彼の志は興味深いし、よく伝わって来るけれども、理想の政治・法律・社会についての記述がなされないまま著者が死んでしまったのは残念である。この面でおそらく、ベーコンがモアやカンパネッラのような画期的な提言はしなかったと思われるけれども、それでもやっぱりどんなことを考えていたのかは知りたいのである。

 

日記抄(2月12日~18日)

2月18日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から頂上部を雲に覆われた富士山が見えた。

 2月12日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

2月12日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
No legacy is so rich as honesty.
            (from All's Well That Ends Well)
---- William Shakespeare (English dramatist and poet, 1564 - 1616)
(正直さほど価値ある遺産はない。)
 そんなことを言っている奴に限って正直ではないという場合が多いが、この作品の展開の中ではどうだろうか。読んだことがないのでわからない。『終わりよければ全てよし』(1603‐04?)は普通「喜劇」に分類されるが、必ずしも喜劇とは言えず、不自然な点も多いので、彼の作品の中では最も上演回数が少ない作品のようである。

2月13日
 本日の『読売』はベトナムで「日本で稼げる」と、「偽装留学」を仲介する悪質な業者が急増しているという解説記事を載せている。(このところ『読売』はこの種の記事が多い。) なぜそのような業者が増えているのか、またその口車に乗る人々が絶えないのか、背景の事情をもっと掘り下げて、ベトナム社会の問題点をあぶり出すところまで追及してほしいものである。

 昨日の『東京』は、マルチ商法の勧誘に首相夫妻と業者が一緒に写った写真が使われたことを、問題の写真入りで取り上げていた(業者の前で座って撮影に応じている首相夫妻の顔がいつもより和んで見えた)。ところが、本日の『朝日』「焦点採録」によると、首相は「その人物は存じ上げない。政治家だから歩いている時に「撮ってくれ」と言われれば」断らないと答えたそうであるが、問題の写真を見る限り、不自然な返答である。「存じ上げない」などという怪しげな敬語を使うところがますます怪しい。自分の写真を許諾なく使用されたことについて、業者を相手に訴訟を起こすくらいのことをしなければ有権者は納得しないだろう。

2月14日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編「フランスで『世界』と出会う」は、昨日に引き続きマルセイユを取り上げている。
Marseille est la ville cosmopoplite par excellence. Depuis l'Antiquité, les bateaux d'immigrés y accostaient e les migrants s'installaient dans la ville. (マルセイユは、とびきり多民族的な街。古代から、移民を乗せた船がここにやってきたし、移民たちはこの町に身を落ち着けた。)
と解説されている。1915年の大虐殺後にやってきたアルメニア人や、地中海を渡ってやってきたマグレブ系の人々のコミュニティーがあることが述べられていたが、もともとこの町がマッサリア(ラテン語ではマッシリア)というギリシア人の植民都市であったことをまず書き記すべきであろう。

 安岡章太郎『利根川・隅田川』(中公文庫)を読み終える。利根川とその水域の歴史について語る際に避けて通ることができないのが、足尾鉱毒問題であって、その点で、巻末にこの本についての平野謙の論評が掲載されているのはきわめて適切な編集であると言えよう。戦後、文部大臣をつとめたこともある経済学者の高橋誠一郎が、慶応の学生だった時代に、田中正造を招いて塾内で講演会を開こうとして、当局から禁止された、理由を尋ねたところ、本校には古河の子弟が在学しているからだと言われたことを書き記している。書き残しているところに、高橋の良心がうかがわれる。
 一方、黒岩涙香は『萬朝報』の連載記事「弊風一斑 蓄妾の実例」で「鉱毒大尽古河市兵衛は有名なる蓄妾家なるが、我輩の探り得たるものを挙ぐれば左の如し」として、6例を挙げ、「この外に未だ2,3人ある由なれば分り次第に記す可し」(黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』、現代教養文庫、24ページ、25ページに古河の似顔絵が掲載されている)と、別の方面からの攻撃を仕掛けている。なお、古河もさるもので、ついに残りの2,3人は記事に取り上げられないままで終わっている。

 なお、足尾鉱毒問題を取り上げた小説として平野が紹介している『渡良瀬川』の作者大鹿卓は、金子光晴の実弟である(実は長いこと、大鹿の方が兄だと思っていた)。

2月15日
 『東京』は明治大学ラグビー部監督として67年にわたりチームを率い、1996年に95歳で他界した北島忠治さんの指導精神“北島イズム”に迫ったノンフィクション『紫紺の誇り』(ベースボール・マガジン社)の著者である安藤貴樹さんのインタビューを掲載している。ラグビーについてはあまりよく知らないが、「前へ」という北島イズムは好きである。学生相手の指導方針は単純明快な方がいい。

 同じく『東京』の「週刊 ネットで何が…」というコーナーで、崎陽軒のシウマイ弁当をめぐる話題を取り上げている。書き手の中川淳一郎さんはこの弁当が「ビールのつまみとして最適だ」と書いたことがあるというが、どちらかというと私は水割りの缶を開けて飲みながら、この弁当を食べるほうが好きである。

2月16日
 『朝日』の「天声人語」欄に、ゴーゴリの喜劇『検察官』のことが触れられていた。「ロシアの文豪」とあるのだが、ゴーゴリはロシア語で執筆活動をしたものの、ウクライナ人である。それで以前はロシアの5大文学者というとプーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイだといわれていたのが、ソ連邦解体後は、ゴーゴリと入れ替わってレールモントフが挙げられるようになった。このあたり、書き方に気をつけてほしいところである。

 同じ『朝日』の「声」欄に、大分県の中学生が学校の読書の時間を楽しみにしているが、「振り仮名」つきの本を読んではいけないという規則があるのが納得がいかないという投書をしていた。指導している先生としては、振り仮名付きでない本を読んで、読み方が分からない語句は辞書で調べるのが勉強だという考えなのであろうが、もともと振り仮名が付いていない文章を、編集者が後から振り仮名をつけている場合と、著者自身がわざわざ(何らかの意図をこめて)振り仮名をつけている場合とがあるという事情が理解できていないのではないだろうか。振り仮名があるとかないとか、そういう細かいところにこだわっているのは、読書を推進するという趣旨からすればおかしい。

 横浜FCはルヴァン杯のグループ・ステージ第1節で広島サンフレッチェと対戦し、0‐2で負けた。この試合、なぜか前売り券が入手できず、当日、天気も悪いし、体調も悪かったので観戦を取りやめたのだが、後になって座席には十分な余裕があったことを知った。どうも残念なことをした。試合内容を後で分析する限り、敗戦をそれほど気にする必要はないと思う。しかし、早く白星を挙げてほしい。
 1153回のミニtoto-Aが当たった。世の中、うまくいかないこともある一方で、いいこともある。

2月17日
 『日経』に駿台教育研究所の石原賢一さんが大学入試改革の迷走は共通試験が肥大化して、いろいろな要素を詰め込みすぎた結果、性格があいまいになったことによるという意見が掲載されていた。対策として、大学側は選抜目的を明確にして、そこから試験について再考すべきだというのである。傾聴すべき意見である。

 倉本一宏『藤原氏』(中公新書)は、たしか一昨年に購入して、時々覗いては見るのだが、完全に読み通す気が起こらないままであった書物であるが、やっと本格的に読んでみようという気持ちになった。中臣鎌子(中臣鎌足)と葛城皇子(中大兄皇子)が知り合ったのは、蹴鞠の場であったというのは『藤氏家伝」の記述で、『日本書紀』には法興寺(飛鳥寺)で行われていた打毬(だきゅう、ポロのような競技)の場であったと記されている由である。(10ページ) どちらにしても、後世の創作であろうが、なぜか(『日本書紀』の方が編纂年代は古いし、史料としても信頼性が高いのに)蹴鞠説の方が一般に普及している。
 なお、『水滸伝』のはじめの方で高俅が端王といった後の徽宗に気に入られるきっかけがやはり蹴鞠であって、こちらも創作であろうが、暗主と佞臣の出会いというこの設定の方がリアリティーがある。

2月18日
 『日経』に短期連載されているエール大学助教授成田悠輔さんの「教育をデータで斬る」はその第2回で、学歴(というよりもこの場合「学校歴」であるが)に関わる言説を批判して、「有名校の生徒はその学校のおかげで優秀なのではなく、そもそも成績優秀な生徒が、有名校に入っているだけ」という研究結果を紹介している。成田さんの意見に反対ではないのだが、こういう議論は論拠を数量的に明示して進めないと説得力を持たず、そのようなデータが示されていないのが残念である。

 NHKラジオ『まいにちロシア語』では、昔ロシアが北アメリカの一部を領有していた(1867年に売却)ことが語られた。アラスカだけでなく、カリフォルニアまで影響力はおよび、毛皮交易を主な事業とする露米会社がその経営にあたっていたという。

 野村克也さんの現役時代の背番号が19であったことはよく知られているが、別のことを調べていて、阪神→毎日で捕手として活躍された土井垣武さん(1921‐99)の現役時代の背番号で、一番長く使われていたのがやはり19であったことを知った。わたしがいちばん最初に見たプロ野球の試合は大映スターズ対毎日オリオンズの対戦で、土井垣さんがホームランを打って試合後、何やら大きなホームラン賞の商品をもって引き上げているのを見たことを記憶している。それかあらぬか、野球のポジションではキャッチャーに一番興味がある。なお、私が見た中で一番すごい捕手は(その時は、子どもだったから、それほどすごいとは思わなかったが)ヨギ・ベラである。
 野村さんについて言うと、横浜スタジアムでベイスターズとタイガーズの試合があった折に、タイガーズの監督であった野村さんが抗議に出てきて、後の方で「あっ、野村さんだ! テレビで見るのとそっくり」と叫んだ女性がいたことが一番印象に残っている。テレビで見るよりも、いい男だとかなんとかいわれなかったのが、ご本人としては無念であるかもしれない。

 ただでさえ体調が悪く、体を動かすのが億劫なのに、新型肺炎の流行とは困ったことである。新型肺炎は血圧と、血糖値が高い高齢者が危ないというが、3つの条件すべてにあてはまるので気をつけている。昨日(17日)の『読売』に政府の専門家会議のメンバーの名前が出ていたが、私が通っている病院の関係者が2人も名を連ねていた。治療を受けている一方で、感染症研究の実験材料にもされているのである。
  

『太平記』(302)

2月17日(月)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 貞和5年(正平4年、西暦1349年)、2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉重能、畠山直宗の讒言により、高師直の謀殺を企てたが失敗、逆に師直・師泰兄弟の軍に三条坊門高倉の邸を包囲され、直義は兄・尊氏の勧めに従って近衛東洞院の尊氏のもとに移るが、高兄弟は包囲を続け(これを「御所巻」という、足利幕府独特の風習の始まりである)、ついに出家して錦小路邸に蟄居の身となった。

 さて、高兄弟のもう一つの要求は、反師直の中心人物であった上杉重能、畠山直宗の処分である。高兄弟は彼らを斬って六条河原でその首をさらすように言ったが、所領を没収し、宿所を破却したうえで、越前に配流することになった。上杉は尊氏・直義兄弟の母親の実家、畠山は足利一族である。両者は、まさか命まで奪われることはないだろうと当てにしていたのであろうか、しばしの別れを惜しんで自分の妻子を同行させ、自分が日ごろに趣味としていた琵琶を馬の鞍に結び付けて、旅の途中の宿舎で弾じていた。むかし漢の美女王昭君が、匈奴の王に嫁ぐ旅の途中で琵琶を弾いたという故事を思い出させる行為であった。〔どちらが、琵琶を嗜んでいたのか定かではない。しかし、旅の途中で琵琶を弾いたからと言って、日本の中世の武士と中国の古代の美女とを結びつけるのは乱暴な連想である。〕

 2人を中心とする一行は琵琶湖の西岸を北上し、今津、敦賀を通って、越前の江守の庄(福井市江守中町)に到着し、越前の守護代であった八木光勝がその身柄を引き取って、あきれるほどにひどいあばら家に彼らを置き、警固の武士をつけて見張ったのである。都での暮らしから変わり果てた有様に、涕の乾く日はなかった。
 師直・師泰は悪行を続けると、後の報いが恐いなどと考えることもなく、心のままに悪行を重ねてきたが、密かに討手を差し向けて、守護代である八木光勝と示し合わせ、上杉・畠山を討ち果たせと指示したのである。〔越前の守護は、足利一族の斯波高経のはずだが、彼は直義の三条の館に向かった武士たちのあいだにも、師直に同調した武士たちの中にもその名を見つけることができない。その後の観応の擾乱の中で高経は直義方で行動することを考えると、息をひそめて、情勢の変化を待ち受けていたものとも考えられる。〕

 八木光勝はもともと上杉重能と友人であったが、師直に説得されてにわかに心変わりをしたのである。そして8月24日の夜中に、江守の庄にいた上杉を訪ね、高一族のものが討手として追いかけてきたので、夜のうちに謁中・越後の方に落ち延びてしばらく姿を隠していれば、そのうちまた情勢も変わるだろうと夜逃げを勧めた。まさか、これが謀略とは知らずに信じた上杉・畠山の一行50人余は、その夜のうちに加賀の方面へと向かって旅立とうとしたのである。

 実のところ八木は、この近辺の土豪たちに、上杉、畠山の人々が留人として落ち延びようとしているのを見かけたら、ぜひに及ばず討ち取れと連絡しておいたのである。それで、彼らが落ち延びようとしていると聞いて、足羽(福井市足羽)、藤島(福井市藤島町)、江守(福井市江守中町)、浅生水(あそうず、福井市浅水町)、八代の庄(福井市足羽山の西)、安居(あご、福井市金谷町の辺り)、波羅蜜(はらみ、福井市原目町)の辺りに住んでいた無頼の徒たちが、太鼓を鳴らし、鐘をついて、「落人あり、討ち留めよ」と騒ぎ立てた。足羽川の渡しまで進んだが、橋を落されて進むことができず、戻ろうとすると、麻生津の橋が外されていて、進退窮まってしまった。
 いまはこれまでと、畠山の主従は自害し、腹を切る時に畠山は上杉に向かい、貴殿の短刀は少し長くて腹を切るのに不都合だから自分のを使えと、自分が腹を切った刀を投げたなり、息絶えた。
 ところが上杉は、奥方に未練が残り、ぐずぐずしているところを、八木光勝の部下の中間(武士と小者の中間の者)に生け捕りにされて、刺殺されてしまった。武士たるもの、死に際は綺麗にしなければならないのに、何たる不覚であろうかと人々の非難を受けた。
 奥方は、どこかでこっそりと身を投げて死のうと思われていたのを、そばに付き添っていた念仏聖がそれを思いとどまらせて、往生院(坂井市丸岡町にある時衆道場の往生院称念寺)で出家させて、一族の菩提と弔うことになった。

 このように政道の趣がことごとく、将軍の執事である高師直とその一族の手に落ちて、このままでは済まないだろうと思われたのだが、その年のうちは何事もなく暮れたのである。

 「何事もなく暮れた」と『太平記』の作者は記しているが、もちろん、このままでは済まない。九州に向かった足利直冬が勢力を築くことになるし、直義もやがて京都を脱出して反撃に転じることになる。次回はそこまで進まずに、このころ起きた「不思議」の事件について語ることになる。
 往生院称念寺という寺はすでに登場した新田義貞の墓所のある寺である。「時衆道場」と書いたが、現在も時宗の寺で、これまた以前に書いたことだが、明智光秀がこの寺の門前に住んでいたことがあるという。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(31)

2月16日(日)雨

 5月の2週目に、エリザベスは、姉のジェインと、マライア・ルーカスの3人でガードナー叔父の馬車に乗って、ロンドンのグレイスチャーチ・ストリートの叔父の家を出発した。ハートフォードシャーのとある町で、妹たちがベネット家の馬車に乗って迎えに来ているのと落ち合う予定であった。実際に町にたどりついてみると、妹のキティー(キャサリン)とリディアはすでに指定されていた旅館(inn)の2階の食堂の窓から外を見て、彼女たちの到着を待ち受けていた。ただ待っているのではなく、旅館の向かい側にある帽子店を覗いたり、見張りに立っている哨兵(この時代、英国はナポレオン統治下のフランスと緊張した関係にあったので、イングランド南部の町にはこのように軍隊が駐屯していたのである)を眺めたり、サラダ菜とキュウリにドレッシングをかけたりしていた。
 以前に書いたことの繰り返しになるが、グレイスチャーチ・ストリートはロンドンの中心部シティの通りで、イングランド銀行のすぐ近くにある。だからガードナー叔父が成功した事業家であることが示されている。この点は、後の方になって重要な意味をもってくる。これまでもそうだったし、これからの個所でもそうなのだが、キティーとリディアは自分の家の近くに駐屯している部隊の士官たちを追いかけてばかりいる。それから原文では、dressing a salad and cucumberとあるのを「レタスのサラダにキュウリを混ぜたりして」(大島訳、373ページ)と訳している。dressには「(料理を食卓用に)捌く、下ごしらえする」という意味もあるが、2人がいるのは旅館の食堂だから、台所でするようなことはしないだろうと思う。saladには「サラダ用野菜」という意味のほかに、「レタス」という意味で使う場合もあるとのことであるが、ここは文字通り受け取った方がいいのではないかと思う(大島訳以外の翻訳は調べていない。サラダの歴史をたどった書物が、探したら見つかるかもしれないので、このあたりのことはさらに検討を要する)。

 リディアは3人を食堂に案内する。食卓にはこのような旅館の食堂でよく供せられるような種類の冷肉料理が並べられていたのだが、自分が立派な料理を準備し、その費用を負担することが得意でならない様子であった(ジェインはともかく、エリザベスとマライアはレディ・キャサリン・ド・バーグの邸で豪華な食事を何度か経験しているのだから、リディアの振舞は世間知らずもいいところなのである)。そして、自分は帽子店でボンネットを買って金を使い果したので、後で金を貸してくれという。彼女は、自分が買ったボンネットを自慢げに見せるが、姉たちは醜悪(ugly)だといって同意しない。〔この後で分かるが、帽子を買ったことで、馬車の中にその置き場を確保しなければならず、馬車の中が窮屈になる。〕

 リディアはさらに、メリトンに駐屯していた部隊がブライトンに移動することになるという。そして、家族でそろってブライトンに出かけるように、父親に頼んでいるところだ、母親も大乗り気だという。エリザベスは内心、そんなことをすれば、ベネット家の世間的な評判はますます下落し、破滅に至るだろうと考えてひやひやしながら聞いていた。
 食卓に着くと、リディアは、姉たちにいい知らせがあるという。ジェインとエリザベスは、そこで給仕の男に下がってもいいというのだが、そういう態度をリディアは慎重すぎると笑い飛ばす。そして、ウィッカムと交際していたメアリー・キングがリヴァプールの伯父さんのところに行ってしまって、そのままずっととどまるらしいと知らせる。〔エリザベスがウィッカムと結婚する可能性がまた開けてきたといいいたいのであろうが、エリザベスはウィッカムの正体と行状を知ってしまっているから、その可能性は消えている。本来ならば、ここでウィッカムの本性を暴露してもいいところだが、そうできないジレンマを抱えているのである。このことが物語のこの後の展開に大きく影響してくる。〕 
 「ウィッカムは救われたのよ。」
 「それはメアリー・キングが無事に救われたってことじゃないの!」とエリザベスは附け加えた、「財産目当ての無分別な結婚からね。」
 「自分から逃げ出すなんて大馬鹿よ、ウィッカムが好きだったのならね。」
 「でもどちらにも強い愛情がなかったのだと思うわ」とジェインが云った。
 「ウィッカムの方になかったのは確かね。請け合ってもいいけど、あの人あの女のことなんかこれっぽっちも気に懸けていなかったもの。誰が気に懸けるもんですか、あんないけ好かないちびの雀斑(そばかす)娘なんか。」(大島訳、376ページ)
 リディアの言葉を聞いていて、エリザベスはウィッカムが自分を捨ててメアリー・キングの方に走ったときに、自分がむしろ優越感をもって事態に接したことを思い出してひやりとした。〔ウィッカムは、メアリー・キングが祖父の1万ポンドの遺産を相続することになったことを知って、エリザベスから彼女へと乗り換えたのである(第2巻第3章=26章)。しかし、メアリー・キングもウィッカムが財産目当てに自分に言い寄っているのだと、どこかで気づいたのかもしれない。〕
 リヴァプールはこの当時、ヨーロッパと新大陸、アフリカを結ぶ三角貿易の主要な港として繁栄していた。リヴァプールのマージ―サイド海事博物館が語るように、この三角貿易には奴隷貿易という負の側面があったことも否定はできない。メアリー・キングの叔父という人物も、貿易に従事しているのかもしれず、ガードナー叔父と同じような社会階層の人物であったとも考えられる。

 帰りの馬車には5人で乗り込むことになり、荷物が多いのでそれぞれの席を見つけるのに苦労したが、どうやら確保することができた。リディアは上機嫌であれこれと話し続け、ジェインとエリザベスが早く結婚すればいいのに、また自分も早く結婚したいという。彼女はほとんどずっと1人で話し続け、エリザベスはそれをできるだけ聞かないようにしていたのであるが、ウィッカムの名がいやに何度も出てきたことが気になった。

 一行はロングボーンに無事にたどり着き、両親に温かく迎えられた。マライアを迎えにやってきたルーカス家の人々も合流して食堂は大賑わいになった。その席では皆が好き勝手に話をして、話題はてんでんばらばらであった。(何気なく書かれているが、この後、物語に大波乱が訪れることが予示されているのである。) 特に大声で喋りまくっていたのはリディアで、特に姉たちと戻ってくる馬車の中が楽しかったとメアリーに語り掛ける。「みんな大きな声でおしゃべりしたり笑ったりのし通しだった」(大島訳、380ページ)という。〔実際は自分1人が喋りまくっていたのである。ケントとロンドンから戻ってきた姉たちとマライアに花をもたせればいいのに、近くの町まで迎えに行った自分の大して自慢するようなことでもない振舞を自慢しまくるのは、彼女の浅はかさを示すものである。〕 これに対してメアリーはひどくまじめくさった顔で自分はおしゃべりよりも、読書に興味があるのだと答えるが、リディアはハナから聞こうとしない。

 食事がすむと、リディアはみんなでメリトンに出かけ、連隊の様子を見に行こうと提案したが、エリザベスは断固反対した。一つには一家の行状についての悪い評判が広まるのを恐れたからであるが、ウィッカムに会いたくなかったという別の理由もあった。連隊がいなくなれば、彼と顔を合わすこともなくなり、心を悩ますこともないだろうと彼女は思っていた。
 しかしそれから何時間も経たないうちに、リディアがちょっと口にしていたブライトン行きの話が、すでに両親のあいだでしばしば議論されていることが分かった。父親がまったくその気がないのはエリザベスにすぐ分かったが、はっきり反対せずに曖昧でどっちつかずの口しか利かないので、母親の方はブライトン行きをあきらめようとしていない様子であった。〔この父親のどっちつかずの態度が後で災いを招くことになるが、それはその時に。〕
 姉妹の中の上の2人が帰ってきたのだから、その2人を温かく歓迎するというのが家族としての態度だと思うが、そうなっていない。リディアは自分勝手に喋りまくり、それに対するメアリーの反応も手前勝手である。これまで以上の波乱が起きそうな予感がある。それから、ひょっとしてウィッカムはエリザベスとリディアの二股をかけていた(る)のではないかという疑惑も出てくる。一方で、エリザベスは、自分が信頼しているジェインにはこれまでの経験について語ろうと思っている。さて、どこまでのことを語ることができるだろうか。
 
 この『高慢と偏見』が最初に出版されたのは1813年で、その2年前の1811年に当時の英国王ジョージⅢ世の精神状態が悪化し、後にジョージⅣ世となる王太子が摂政(Regent)となり、いわゆる摂政時代(Regency era, Regency period, Regencyともいう)が始まっている。すでに書いたように、英国はナポレオン戦争の最中であったのだが、王太子→摂政→ジョージⅣ世は摂政就任以前から贅沢な生活を送って、国民から非難を受け、政治の混乱を招いていた。とはいうものの、産業革命が進行中の英国の社会と文化に、彼の趣味が大きな影響を与え、そのために起きた変化が重要なものであったことは否定できない。例えば、ロンドンの町にリージェント・パークやリージェント・ストリートがあるのもこの時代の後世への影響を物語るものである。

 さてジョージⅣ世は王太子時代の1783年にブライトンを訪問して以来、イングランド南部のこの保養地が気に入り、お気に入りの側近とともにブライトンで休暇を送るのを常とした。この小説の中にブライトンが登場するのは、このような社会の様子を反映するものである。オースティンが華やかだが軽佻なこの時代の社会と文化に批判的な態度をとっていたことは言うまでもないが、そういう彼女の考えを物語の登場人物の運命の変転を通じて述べていくところに、写実作家としての本領を見るべきであろう。

 全く個人的な感想をいくつか:初めて英国に出かけた時に驚いたことの一つが、日本のキュウリに比べて、英国のキュウリは大きいということであった。そういう些細なことが、結構記憶に残るものである。
 わたしが英国で一番長く滞在した都市はロンドンであるが、次がリヴァプールである(第3位がエディンバラ)。オースティンの時代のリヴァプールがどのような都市であったのかということはすでに書いたが、オースティンは果たしてリヴァプールを訪問したことがあったのであろうか?

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(14)

2月15日(土)曇り

 この叙事詩は紀元前1世紀の中ごろに起きたローマの内乱を描くものである。紀元前60年にポンペイウス、クラッスス、カエサルの間で成立した第一次三頭政治は、混乱を続けていたローマの政治に安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、両雄並び立たずの例にもれず、「樫の古木」ポンペイウスと、「雷電」のカエサルのあいだで抗争が始まる。
 元老院と結んだポンペイウスは、ガリア総督であったカエサルを解任して、ローマに召喚しようとするが、カエサルは軍隊を率いたままガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡り、さらにガリアから大軍を呼び寄せてローマに向かう。内乱の開始である。
 ポンペイウスをはじめとする高官たちの多くがローマを脱出、カプアを本拠としてカエサル軍と戦うが支え切れず、さらにイタリア半島の東南のブルンディシウムに籠城するが、カエサル軍の猛攻から自軍を支えることができず、ギリシアのエペイロスへと脱出、ポンペイウスの地盤である東方の地域から大軍を集めて反攻を試みる。
 カエサルはローマに入城し、国庫を略奪、スペインのポンペイウス軍の掃討に向けて再びガリアに向かう。途中、内乱を避けようとするギリシア人植民地のマッシリア(マルセイユ)の市民たちがカエサルにポンペイウスとの和平を勧告するが、カエサルは聞き入れず、籠城した市民たちとの戦いが始まる。カエサル自身は、自軍の一部を攻囲戦のために残してスペインに向かうが、残された軍隊は、マッシリアの近くの聖なる森の木々を伐採して長大な土手を築き、攻城戦を仕掛けるが、夜間に出撃したマッシリア軍に火を放たれて土手は崩壊し、陸からの攻撃を断念、海戦に命運を託すことになる。〔第3巻の途中まで、カエサル自身の書いた『内乱記』と事実の記述が異なるところがあるので、両者を突き合わせて読む必要がある。もちろん、カエサル自身の証言の方が信頼性が高いのであるが、その代わり、自分に都合の悪いことは記録に残していないことを割り引いて読む必要がある。〕

 敗北を喫したローマ軍は、陸戦での望みを絶たれ、海原での海戦に
命運を賭すことに決めた。艦船は彩色で飾られぬ白木造りで、船を守る
船首像が優美さを添えることもなく、山で伐り倒された姿そのままの
荒木を組み、海戦用に足場のしっかりした甲板を備えたものにすぎぬ。
(第3巻、526‐529行、152ページ) 『内乱記』によるとカエサルはマッシリアの西北にある都市アレラテ(Arelate, 現在のアルルArles)で12隻の船を建造することを決める。「原木を伐り倒してから30日間で船を造り、艤船してマッシリアに曳航する。」(国原吉之助訳、47ページ) 急造した艦船だったので、彩色もされず、船首像も備えられていなかったのである。だが、そういうことは戦闘とはかかわりのないことである。 
 ここで、ルーカーヌスは、カエサル軍が陸戦での勝利の可能性を失ったので、海戦に命運をかけたと歌っているが、カエサル自身の証言とは異なる。デキムス・ユニウス・ブルートゥスが海上でマッシリアの海軍と戦っているときに、陸ではトレボニウスがマッシリア軍と戦っていたのである。ただ、トレボニウスがはっきりした戦果を挙げることができなかったのに対し、ブルートゥスが目覚ましい勝利を収めたというのが両者のちがいのようである。なお、前回にも書いたが、このデキムス・ユニウス・ブルートゥスはすでに登場した(後にカエサル暗殺計画に加わった)マルクス・ユニウス・ブルートゥスの縁者であり、後にやはり暗殺計画に加わっている。

 司令官であるデキムス・ユニウス・ブルートゥスの乗った旗艦を中心として、カエサル軍の軍船はロダヌス(ローヌ)川の流れを南下、マッシリアの近くに浮かぶ島々に停泊して戦機をうかがっていた。迎え撃つマッシリアのギリシア人たちも戦意は盛んである。
 そして、「海が海戦の/絶好の日和で凪いでいたころおいのこと」(第3巻、539‐540行、153ページ)両軍は船を進めた。詩人は「相拮抗する兵力を率い、」(第3巻、541行、同上)とうたっているが、カエサルは「ブルトゥスは船の隻数においてはるかに劣勢であった。」(国原訳、61ページ)と記している。ただし、数は少ないが、選り抜きの勇猛な兵士がそろっていたとも書いている。
 ローマの艦隊は、ブルートゥスの乗る巨大な旗艦を中心に、大型船と快速の小型船とから編成されていた。

 両軍の艦隊が接近すると、お互いに飛び道具を使っての攻防が開始された。ローマの艦隊は船の間隔を広げ、空いた隙間にマッシリア軍が入り込んだ。操舵の術に優れているマッシリア軍はすばやく動き回ってカエサル軍をかく乱する。しかし、カエサル軍の艦船の方が頑丈につくられていた。ブルートゥスは敵艦に体当たりして、船の上で白兵戦を展開するように兵士たちに指示する。マッシリア軍も負けてはいないで、ブルートゥスの乗った旗艦に攻撃を仕掛けるが、その巨大さと堅牢さに圧倒されて思うように戦うことができない。

 ついに、両軍ともに船の動きを止め、敵船に乗り込んでの白兵戦が展開される。
海原は船また船に覆い尽くされ、船を停めての合戦に変わった。
 今や、投げ槍が二の腕を振るって投げかけられ、
遠くから放たれた手槍が降り注いで傷を与えることはなく、
戦闘は白刃交える白兵戦と化した。この戦闘でもっとも大きな役割を
果たしたのは剣である。
(第3巻、582‐586行、156ページ)

 こうして激しい戦闘が続き、むごたらしい光景があちこちで出現する。「あの日は、海上で、/こうした種々数多の衝撃的な光景が繰り広げられたのだ。」(第3巻、644‐645行、160ページ) 兵士たちが一方に偏ったために転覆した船が出たり、投げられた松明のために炎上する船が出たりした。
燃える炎を海水で消そうと再び波間に戻る者もいれば、
溺死を恐れて、燃えさかる板にしがみつくものもいる。無数にある
死に様の中で、誰もが、ひたすら目前に迫り来る死だけを恐れた。
だが、海に投げ出されながらも、なお勇武の心は消えなかった。
(第3巻、698‐701行、163ページ)

 カエサル軍の船の先端に立っていたテュレッヌスは、マッシリア軍のリュグダモスが狙い定めて放った石弓で視力を奪われたが、まだ自分に力が残されているのを感じて、自分のつかんでいた槍を思い切り投げ、その槍がマッシリア軍の船に乗っていた若者アルゴスの体に突き刺さった。アルゴスの父も、同じ船の反対側に乗船していたが、瀕死の息子を目にして、我が子よりも先に死のうと、自分の腹に剣を突き立てて、投身自殺をしたのである。

 将らの命運はすでに傾き、もはや戦いの帰趨は誰の目にも明らかとなった。
(第3巻、759行、167ページ) ギリシア(マッシリア)の船の多くが沈み、また逃走し、あるいはカエサル軍のものとなった。やっと逃げ帰った自軍の艦船を迎えて、マッシリアは悲嘆にくれた。
いっぽう、ブルートゥスは、海原で初めて勝利者となり、
カエサルの軍勢に初の海戦勝利の誉れを付け加えたのだ。
(第3巻768‐769行、168ページ)
 こうして第3巻は終わる。『内乱記』を読むとわかるが、マッシリア攻囲戦は、ここでルーカーヌスが歌ったほど簡単ではなく、かなり長く複雑な経緯をもって展開されるのであるが、そのあたりは省略する。次回は第4巻に進んで、イスパニアでのカエサルのポンペイウス派との戦いの様子を見ていくことになる。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(10)

2月14日(金)曇り、夕方になって雨が降り出す

 1958年2月、梅棹忠夫(1920‐2010)は東南アジアでの調査研究の後半部分として、インドシナ3カ国の歴訪に旅立った。同行するのは彼が隊長であった大阪市立大学学術調査隊の隊員で昆虫学者(兼医師)の吉川公雄と、外務省留学生の石井米雄である。
 3人は2月12日にバンコクを出発し、13日にカンボジアに入国、バッタンバンからトン・レ・サップ湖の南西岸を通ってプノムペンに到着、その後、海岸部の漁港カムポットや、トン・レ・サップ湖の東北岸を旅行した。2月21日にプノムペンを出発し、その日のうちにサイゴンに到着した。「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴンは美しい町であったが、そのフランス風の町の様子に梅棹は親しめないものを感じる。

第14章 コーチシナ平原(続き)
 カオダイ教徒の乱
 サイゴンから70キロほど離れたところに、タイ・ニンの町があり、カオダイ教の本部があることを知っていた梅棹は、この地を訪ねてみようとする。カオダイ教は、宗教団体ではあるが、強大な私兵団を擁していて、ゴ≂ディン・ジェム政権(当時)に反抗し、新しいベトナム共和国建設に敵対する「封建勢力」と見なされているとの報道もあった。しかし、この当時は政府との間に妥協が成立して、武装解除し、平和な宗教活動を行っているとのことで、訪問に支障はなかった。

 カオダイ教の本部はタイ・ニンにあるが、発祥の地は台湾にある離れ島、フークォック島である。カンボジア訪問の際に立ち寄った漁港カムポットの沖に浮かぶ島であるが、ベトナム領になっている。ヌォック・マム(魚醤)の産地として名高く、一種の観光地になっている。
 フランス支配下のコーチシナ政府の官吏であったゴ・ヴァン・チェウ(呉明釗 1878‐1932)が1919年に突如、カオダイ(高台)すなわち玉皇上帝の啓示を受けたことから、カオダイ教は始まる。ゴ・ヴァン・チェウは周囲の人々にカオダイの啓示を告げ、しだいに信徒を集め、やがて彼はベトナム本土に帰って新しい教団の組織に着手する。1925年(26年説もある)新興宗教カオダイ教が成立した。

 カオダイ教はサイゴンを中心にコーチシナ一帯に広がり、さらに影響力を拡大して、10年後には中部(アンナン)および北部ベトナム(トンキン)にまでのびはじめる。そしてしだいに民族主義的な傾向をもつようになり、反仏、親日の政治的な姿勢を示す。独立の方策としては、アンナン王族出身の独立運動家で日本に亡命していたクォン・デ侯(1882‐1951)を支持した。〔アンナン王族出身という書き方はあまり適切ではない。阮朝ベトナム帝国初代皇帝の嘉隆帝の直系の子孫という方がいいのではないかと思う。〕

 教団の反仏的な傾向は当然、フランスからの弾圧を招き、教会は閉鎖され、信者は投獄される。1940年、彼らはついにサイゴン付近で武装反乱を起こす。「カオダイ教徒の乱」である。その結果、教主のファム・コン・タク(范公則 1890‐1959)以下の幹部たちは捕らえられてマダガスカル島に流された。彼らは日本軍の仏印進駐とともにベトナムに帰った。〔前記クォン・デが仏印進駐に協力していた。ファム・コン・タクは現在のカオダイ教の教会では大きな存在とされているそうである。〕 

 「封建勢力」の討伐
 戦後のインドシナ戦争の中で、フランスはホー・チ・ミンに対抗するために香港に亡命していた旧アンナン帝国(というよりも阮朝の「ラスト・エンペラー」という方が適切だろう)バオダイ(保大、1913‐97)を連れてきて、1949年に新政権を成立させた〔ベトナム国〕。この時点で、カオダイ教徒の再武装は進んでいて、強大な武装勢力となっていたが、バオダイと結びついて新政府の武力の中心となった。
 フランス軍は、北部方面におけるホー・チ・ミン軍との戦闘にかかりきりになり、コーチシナ方面は、カオダイ教、ホアハオ教、ビンスエン派という3つの私兵団に任されたという事情もあった。ホアハオ教は、やはり一種の新興宗教である。〔1939年にフイン・フー・ソー 黄富楚 1919‐47)がメコン・デルタのホアハオ村で創立したためにこの名がある。仏教系の新興宗教であるが、儒教の影響もあるということである。〕 ビンスエン派というのはチョーロン(サイゴンの南にある都市で、「東洋のヴェニス」と呼ばれる)に巣くう暴力団の大きくなったものである。

 「民族主義者としては、カオダイ教とはいささか判断を誤ったようだ。バオダイは、フランスの操り人形にすぎず、その政府はとうてい事態を収拾することができない。そこで、ゴ・ディン・ジェム首相(1901‐63)が登場してくる。彼は、反フランスの民族主義者であるとともに、反共であり、しかも反バオダイである。彼は、首相に就任するとともに、バオダイの支柱となっていた諸団体の一掃にとりかかる。『封建勢力』というのは、「民主的」ゴ・ディン・ジェム政権の当面の敵としてのバオダイ支持勢力ということであろう。」(93ページ) 〔ゴ・ティン・ジェム政権がカトリック信者を支持基盤にしたことが、カオダイ教徒の対立の原因ではなかったか。彼は仏教も弾圧したのである。〕

 ゴ・ディン・ジェムは、アメリカの強力な支援の下に国軍による作戦を展開し、まずサイゴンでビンスエン軍の討伐に成功し、続いてホアハオ軍を下した。そしてカオダイ教は1955年にゴ・ディン・ジェム政権支持に転向し、武装解除して新政府に協力することになった。

 大道三期普度
 さて、いよいよ梅棹たちはカオダイ教の本部に到着する。広大な敷地のずっと端の方に、塔のある建物が見えたが、それがこの宗教の中央神殿とでもいうべきものらしかった。「これは不思議な建築である。全体は奥行きの長い長方形で、三層の上に塔の列がある。」(94ページ、どんな建物かは、ネットで検索してみてください。たしかに奇妙に思われる建物である。) 「様式は、カトリック教会のようでもあり、イスラムのモスクをも思わせるし、仏教寺院的なところもある。それはちょうど、この宗教が世界の大宗教のいわば『合成』によってできあがっていることのあらわれかもしれない」(同上)。

 カオダイ教の教義によると、神はかつて各地の人類にそれぞれの「大道」を与えた。すなわち、儒道(儒教)、神道(精霊崇拝的固有信仰)、聖道(キリスト教)、仙道(道教)、仏道(仏教)である。そして、カオダイ教は、そのすべてを超えた最高の教えであるという。〔タイに出かけた時に、精霊を祀る祠があちこちに設けられているのを見かけた記憶がある。ベトナムでも精霊信仰は生きているらしい。〕
 建物の玄関の上のバルコニーから、大きな三色旗が垂れ下がっていて、その旗には巨大な眼が描かれ、「大道三期普土」という漢字が記されている。眼は「天眼」であり、至高の神を象徴する。それは教祖であるゴ・ヴァン・チェウが初めて天啓を受けたときに、見た神の姿であった。「大道三期普土(ダイダオタムキフオード)」は、カオダイ教が人類における第3回目の、そして最後の救済であることを宣言している。キリスト教も、儒教も、仏教も色あせて、それらを統一する真の宗教が現れたというのである。「宗教というものは、つねに確かな自信と自己主張にみちているものである」(95ページ)と梅棹は感想を述べている。

 「天上天下、博愛公平」
 梅棹一行は、遠慮がちに玄関を入ったが、カオダイ教徒は彼ら異教徒に寛容な態度を示す。
 玄関に3人の人物が立っている油絵が掲げられていた。1人はヴィクトル・ユーゴー、もう1人は孫逸仙(孫文)、もう一人はベトナムの予言者チャン・チンだという。〔この組み合わせは、なかなか興味深い。ゴ・ヴァン・チェウがどのような思想的環境にあったかということをも語っているように思われる。〕 チャン・チンは筆を持って「天上天下、博愛公平」と記している。ユーゴーは、羽ペンで”Dieu et Humanité, Amour et Justice"と書いている。〔フランス語のdieuは「(多神教の)神」を意味するそうである。梅棹はフランス語ができたはずだが、言葉の詳しい詮索をせずにユーゴーの言葉は「天上天下…」と同じだろうと書いている。ここでしゃくし定規に訳しておくと「神と人道、愛と正義」である。そういうことよりも、カオダイ教が多神教であることを認識するほうが重要かもしれない。
 堂内の様子を見て、梅棹はカオダイ教が穏やかな宗教だという印象を受ける。また高度に精神的な宗教だという印象も受ける。それらが正しい判断であるかどうかは、なんともいえない。

  メコン・デルタ
 梅棹はコーチシナではもう1か所、メコン・デルタの開拓時代の中心都市であったみーとーを訪問したいという願望を実現させる。サイゴンから西南へ約70キロ、これまた2時間ほどの行程である。2月23日、朝から出かける。交通量は相当に多いが道路は整備されているとはいえず、橋は1車線でしかも鉄道との共有、真ん中を鉄道の線路が走っている。これがフランスの植民地政府による開発の主な成果だというのか、と梅棹は考える。
 鉄道は、橋以外のところでは、街道にずっと並行して走っている。ときどき小さな列車がやってくる。ディーゼル・カーがやってくることもある(ということは、まだ電化されていないということである。もっともこの時期、日本の鉄道でも電化されていない路線はたくさんあった)。サイゴン・ミートー間70キロのこの路線は、1885年にインドシナで初めて敷設された路線だというのに、それからほとんど変わっていないように思われる〔戦争の影響で鉄道が改善されなかったということらしい。現状については下川裕治さんの本でも読んで確かめることにしよう〕。
 1時半ごろにミート―につき、メコン川の岸に張り出した食堂で昼食をとる。ミートーは4本に分流するメコン川の一番北の流れに面した、豊かな穀倉地帯であるメコン・デルタの米の集散地として発達した都市である。

 サイゴンの市街にフランスの植民地時代の名残を強く感じて、親しみをもてなかったという梅棹がカオダイ教の本部を訪問するというのが興味深い。ベトナム人の精神の内奥を探ろうというつもりであったのだろうか。だとすれば、彼がホアハオ教の本部を訪ねたり、仏教の寺院やカトリックの教会を訪問してベトナム人の信仰生活のありかを突き止めようとしていないのはどういうことだろうかという疑問もわくのである。

 昨晩は夕食後、眠り込んでしまい皆様のブログを訪問する時間的な余裕がなくなり、失礼いたしました。
 横浜駅の西口JOINUSの地下道では毎年バレンタイン・デーのチョコレートを売るワゴンがならぶのですが、今年はそれが見られず、これもコロナウィルスの影響だろうかと、心配を募らせております。皆様もご自愛ください。

細川重男『執権』(8)

2月13日(木)朝のうちは雨が降っていたが、昼頃から晴れ間が広がる。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちの支配機構を作り出し、維持しようと悪戦苦闘した歴史であり、著者の言葉を借りると「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。この書物は、その苦闘の中心的な存在であった北条氏の代々の得宗は、いかに生き、戦い、何を築き上げたのかを、承久の乱に勝利した北条義時と、元寇を退けた北条時宗という2人に注目しながら解き明かそうとするものである。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府の成立以前における北条氏が伊豆の小土豪に過ぎなかったことを明らかにしている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」では、義時が頼朝死後の幕府の権力闘争にどのようにかかわりながら、その力を増大させていったか、またそのような権力の獲得と継承の中で、彼が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説が広がり、信じられていたことなどが語られている。
 第3章「相模太郎時宗の自画像」のこれまで読んだ部分では、文永9年(1272)に「二月騒動」で殺害されたはずの時宗の庶兄・時輔の手配書が、時宗の死の直後である弘安7年(1284)に出回っていたという奇怪な事件を取り上げている。時輔は時宗の兄であったが、母親の身分が低かったために冷遇されたのを恨みに思って、時宗を取り除こうとして「二月騒動」が起きたというのが通説であるが、時輔は父親である時頼から嫡出の時宗・宗政に次ぐ地位を与えられており、元服の際の烏帽子親を足利利氏(頼氏)が務めていることから見ても、軽んじられているわけではなかったと、細川さんは考えている。

第3章 相模太郎時宗の自画像(続き)
  北条時輔の政治的位置――③外戚
 庶子の姻戚関係に見える政治的意図
 時頼には成人した4人の子=時輔・時宗・宗政・宗頼がいて、時宗・宗政が嫡出、時輔・宗頼は庶子である。それぞれの結婚相手を見ていくと、時輔が下野守護小山長村の娘、時宗が安達義景の娘(義景の兄・泰盛の養女)、宗政が北条政村の娘、宗頼が豊後守護大友頼泰の娘である。
 嫡子である時宗と、そのスペアである宗政が北条一族や幕府の重臣の娘と結婚しているのに対し、庶子の時輔と宗頼が守護クラスの武士の娘と結婚していることに、著者は、父親である時頼の配慮がうかがわれるという。

 自立志向の小山・結城一族
 小山一族は、平将門の乱の平定に功績のあった藤原秀郷の後裔であり、以後一貫して下野を支配してきたと自称していた。この時代にあっても、幕府からの自立性は強く、それだけに時頼はその一族との北条家の結びつきの改善を図ったのではないか、新興の守護である大友氏から、宗頼の妻を迎えたことにも同じような意図があるのではないかと推測している。

  北条時輔の政治的位置④――叙爵年齢
 鎌倉武家社会における時輔の位置
 叙爵とは従五位下の位階に叙すことである。貴族のランキングを簡単に説明すると従三位以上を公卿、正四位から従五位下まで(4位・5位)が諸大夫(しょだいぶ)、正六位上以下が侍(さむらい)である。だから、叙爵は貴族への登竜門である。 
 時輔の叙爵は文永2年(1265)で18歳、同時に式部丞に任官した。これは弟である時宗が11歳、宗政が13歳で叙爵したのに比べれば遅いが、時輔の甥(宗頼の子)兼時は19歳、その弟宗方は17歳、その他の北条一門の子弟が10代後半で叙爵していることを考えると不当に遅いとは言えない。むしろ、時輔は得宗家の連枝(貴人の兄弟)として相応の、鎌倉幕府にあっては高い待遇を受けていたと考えてよいと著者は論じている。

  北条時輔の政治的位置⑤――南方探題就任
 西国統治機関としての六波羅探題
 時輔は文永元年(1254)に17歳で六波羅南方探題に任じられて京都に赴く。通説ではこれは鎌倉からの追放とされるが、大いに疑問がある。
 六波羅探題は承久の乱ののち、幕府方の大将であった北条時房・泰時がそのまま南方探題・北方探題としてもともと清盛流平氏一門が集住していた六波羅に屋敷を構えたというのが起こりで、当初は占領軍司令部の色彩が濃厚であった。
 ところが、承久の乱以後、朝廷の統治能力が急速に衰え、京都の治安維持すらおぼつかなくなった結果、京都市中はもちろん、西国(西日本)の治安・警察業務は六波羅探題が行うことになった。
 さらに、本来朝廷の職務権限であった本所間訴訟(幕府や御家人と無関係の荘園領主同士の紛争)まで、幕府に持ち込まれるようになって、六波羅探題は占領軍司令部から、朝廷の統治能力の不備を補う鎌倉幕府の西国統治機関として姿を変えていくのである。こうして南北両探題のもとに、鎌倉幕府と同様に六波羅引付頭人、六波羅評定衆、六波羅引付衆のような役職が置かれ、その整備が進められることになる。
 時輔の南方探題在任は9年余りにわたり、その間2年間は北方探題が不在で1人でこの職務にあたったことを考えても、その職責は大きく、追放説は否定されるのではないかと著者は論じている。

 得宗一門の地方派遣
 時輔が父・時頼によって六波羅南方探題に任じられたのは、南方探題府の再建のためであったと著者は考えている。就任に先立つ20年間ほどは、六波羅探題は1人というのが常態であり、時輔が派遣された時期には六波羅探題の機構の整備・拡充、特に訴訟機関としての整備が勧められていたという事実が重要ではないかという。
 しかも時輔の六波羅探題就任は、彼の弟である時宗が執権である父・時頼の連署に就任して3か月後のことであり、むしろ来たるべき時宗体制のための有力な布石として期待されての人事であったと考えられる。また時宗と、その子である貞時の時代には得宗一門を地方に派遣する例が多くなっていた(例外は時宗の同母弟である宗政と、その子師時だけで、この2人は鎌倉に留まって、職を得ている)こともこのことを裏付けるのではないかという。

 「以上のことから、時輔の側には文永9年2月に討たれるべき要因は、きわめて薄弱であったと言わざるを得ない。では、なぜ、二月騒動は起こったのか、この要因は時輔・名越兄弟よりも、討伐を決行した時宗の側にあると考えるべきではないか。」(137ページ)
 次回はいよいよ「二月騒動」の経過をたどり、その再評価と、それらを通じての時宗の人物像の掘り起こしに取り組むことになる。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(14)

2月12日(水)晴れ、温暖

 フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561‐1626)は17世紀の初めのイングランドで活躍した法律家・政治家であったが、今日ではその哲学的な著作によって知られ、英国の哲学の経験論的な源流の1人、哲学的な方法としての帰納法の主唱者と評価されている。この『ニュー・アトランティス』は彼の死後に未完の原稿として残された作品であり、科学の力で優れた文明を築き上げている未知の世界の見聞記という形をとっている。
 語り手はペルーから太平洋を渡って中国・日本に向かっている途中で、強風のために太平洋北部の未知の島に漂着する。この島の人々は、かつてこの島を支配したソラモナ王の改革によって外界から遮断された生活を送っているが、「サロモンの家」と呼ばれる研究機関を設けて、宇宙のあらゆる事物を研究し、その文明を改善しているという。語り手は、サロモンの家の長老の1人から、その機関の目的や、さまざまな設備についての詳しい話を聞くことになる。

 「サロモンの家」の長老の話は続く。
 「サロモンの家」にはまた動力研究所(engine-houses)がある。そこではあらゆる種類の運動のための動力機械が作られる。武器、乗り物、時計などが作られている。乗り物としては、鳥のように空を飛ぶ機械、水中を進むことのできる舟(Oxford World Classics 以下OWCと略記、岩波文庫の両方で注記されているように、1620年から1624年にかけて、オランダの発明家コルネリウス・ドレベル(Cornelis Drebbel, 1572 - 1633)がテームズ川で人力で航行する潜航艇の試験を行っているから、まったくの空想というわけではない)、永久運動(perpetual motion)をする機関などがあるという。永久機関はこの後18世紀には熱心に実現のための努力が展開されたが、18世紀末には純粋力学的な方法で、また19世紀には熱を使った方法でも不可能であることが分かるが、ベーコンは17世紀の人である。また、さまざまな動物の動きをまねることができる機械も作られているという。

 数学研究所(mathematical house, 他の研究所とちがって、ここでは単数形が用いられている)では、幾何学や天文学のさまざまな機械が備えられている。〔計算機が着想されていないのは奇妙である。〕

 さらに錯覚研究所(houses of deceits of the senses)という施設があり、そこではあらゆる奇術(juggling)、偽の幻影(false apparitions、川西訳では「妖怪」となっているが、適切な訳であるとは思えない)、詐欺(impostures)、幻影(illusions)の仕掛けと、その欺瞞とが明らかにされている。「サロモンの家」に設けられている研究施設は理数系のものが多いが、この施設は社会・心理学的である。

 これで「サロモンの家」に備えられている設備と器具との説明は終わり、次にその研究員たちに課せられている職務と役割の説明が続けられる。
 まず、既に言及されたように、海外に出かけてその事情を探り、外国人の達成した研究の成果を持ち帰ることを職務とする研究員が12人いて、彼らを「光の商人」(Merchants of Light)と呼ぶ。
 すべての書物に書かれた実験を収集する研究員が3人いて、彼らを「略奪者」(Depredaters、川西訳では「収奪者」、どちらにしても、あまりいい感じをうけない語であるが、辞書に他の訳語が載せられていないので、このままにしておく)と呼ぶ。
 機械技術(mechanical arts、川西訳では「機械工学」となっているが、artsは「技術」と訳すほうが適切ではないか)、純粋科学(liberal sciences、川西訳ではliberal sciences = liberal artsと受け取って、「教養諸科目」としている)に関わる全ての実験、また技芸(arts)の域には達していない実践に関わる研究員が3人いて、彼らを「職業的技能人」(Mystery-men、川西訳では「技術者」としている)と呼ぶ。〔OWC版の注によると、mechanical artsは実用的な科学技術、liberal sciencesは知識の探求のための研究、第3の領域は、それ以外の研究ということである。〕
 自分でよいと思った事柄をはじめとする、新しい実験を試みることを職務とする研究員が3人いて、彼らを「開拓者」(Pioners, 普通Pioneersと綴るのではないかと思うが、OWCの本文はこうなっている)あるいは「採掘者」(Miners)と呼ぶ。
 以上の4種の業績を分類して記述し、表にして、業績から具体的事実や法則を引き出すのを助ける研究員が3人いて、彼らを「編纂者」(Compilers)と呼ぶ。
 同僚研究員の実験を吟味し、そこから人々の生活に実際に役立つこと、さまざまな事象の原因を説明する理論的な知識とその応用、自然の変化を予知する方法を引き出し、さまざまな事物の隠れた効能と特性とをどうすればわかりやすく解明できるかを考察する研究員が3人いて、彼らを「贈与者」(Dowry-Men、dowryは結婚の際の持参金という意味である)、あるいは「恩恵者」(Benefactors)と呼ぶ。

 さらにこれまでの作業と収集物を研究するための「サロモンの家」の会員全体による討議が開かれる。このような討議を重ねた後に、その成果を踏まえてさらに自然の内奥に迫るような新しい実験の企画を担当する3人の研究員を選ぶ。彼らを「灯火」(Lamps)と呼ぶ。
 これを受けて3人の研究員が、「灯火」の企画した実験を実施し、その結果を報告する。彼らを「接種者」(Inoculators)と呼ぶ。
 最後に実験により過去の発見をより大きな事実(observations)、法則(axioms)および定理(aphorisms)へと引き上げる研究員が3人いて、彼らを「自然の解釈者」(Interpreters of Nature)と呼ぶ。

 「サロモンの家」にはこれらの研究員のほかに、見習い(novices)と助手(apprentices)がいるので、研究員の欠員が出来ても後継者の補充に苦労することはない。さらに多数の使用人と付き添い(attendants)がいる。このあたりは、今日の研究機関やシンクタンクとよく似ているという気がする。
 さらに「サロモンの家」で行った実験やその結果得られた発明・発見のうち、何を公表し、何を秘密にしておくかも研究員が相談して決める。したがって、一部を政府に伝えることもあるが、伝えないこともある。どちらの場合も内部で秘密を厳守する制約をしなければならない。  

 この書物の紹介は、今回で終わらせることができるかと思ったが、最後の方に来て内容が濃くなってきたので、後さらに1回、紹介を続けることにする。この書物は読んでみるとわかるように、著者の意識が社会よりも、科学技術の向上に向けられていて、社会思想史的というよりも、科学史、あるいは技術史的な興味から読んだ方が面白い内容を多く含んでいる。「錯覚研究所」という構想が彼の「イドラ」論とのつながりを想起させること、さらに「サロモンの家」で行われている研究の進め方が、彼の帰納法の主張に沿っていることなど、単にこの本を読むだけでなく、ベーコンの他の著作も併せ読まないと理解できない部分があるように思う。
 そこで、中公クラシックスに入っている彼の『随想集』を読み始めたのだが、その最初に彼の親戚や知人に宛てた献呈の言葉が連ねられていて、そのなかにバッキンガム公爵ジョージ・ウィリアーズ(1592‐1628)の名前があって、びっくりしているところである。この人物は、デュマの『三銃士』に登場して、フランスの王妃アンヌ・ドートリッシュと浮名を流す、バッキンガム公爵その人である。デュマの作品は、結構歴史的な事実を踏まえていることもお分かりいただけると思う。

日記抄(2月5日~11日)

2月11日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 2月5日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:
2月5日
 NHK『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Nothing will ever be attempted if all possible objections must be first overcome.
          (from The History of Rasselas, Prince of Abissinia)
        ---- Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709 - 84)
考えられるすべての反論を最初に克服しなければならないのであれば、何事も決して試みられないだろう。
 サミュエル・ジョンソンのこの作品は朱牟田夏雄により『幸福の探求――アビシニアの王子ラセラスの物語』という表題で翻訳され、岩波文庫に収められていて、この言葉はその第6章でラセラスの問いに対する、技術家の答えの中に出てくる。物語に描かれるアビシニアでは、王子・王女は王位に就くまでは谷間の宮にとじこめられ、その代わりに幸福と快楽の日々を送ることになっていた。しかし、ラセラスはその境遇に不満を覚え、外の世界に出ようと思って、技術家に空飛ぶ機械を発明してもらおうと考えたのである。

2月6日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』応用編「フランスで『世界』と出会う」はカナダのケベック州から見たフランスという話題を取り上げていた。番組の終りのフロランス・メルメ=オガワさんのおしゃべりの中で、ケベック出身の映画俳優・監督であるグザヴィエ・ドランの話題が出てきたが、最後のところで、同じケベック出身のフィリップ・ファラルドーと、その作品『ぼくたちのムッシュ・ラザール』の話題も出た。この作品は、私も見たことがある。

 同じく『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」では、ペルーの国民的歌手チャブカ・グランダ(Chabuca Granda, 1920‐83)と、彼女の代表的な歌”La Flor de la Canela"(日本では「シナモンの花」として知られる)が紹介されたので、YouTubeで探してみたが、探し出すことができなかった。

 同じく『高校生からはじめる「現代英語」』は”Loch Ness mystery possibly solved"(ネス湖の謎 もしかすると解けた)という話題を取り上げた。ネス湖に住むとされる伝説の怪物について科学者たちが調査した結果、その正体は巨大なウナギ(very large eels)かもしれないということである。
 わたしは、恐竜には興味がないが、ネス湖の怪物は恐竜の生き残りではないかと考えるほうが面白いとは思っている。以前にも書いたことがあるが、エディンバラの土産物店で、ネス湖の恐竜が観光局宛に、この間食べた観光客はおいしかったので、もっと観光客をよこしてくださいという手紙を書いているという図柄の絵葉書を見たことが忘れられない。番組中のDiscussionでハンナ・グレースさんが
I actually enjoy the idea that there are some mysteries in the world that science can't resolve. (実際のとrころ、世界には科学で解決できない謎がいくつかあると思うと楽しいのです。)
と言っていたのに同感である。
 番組のあと、lochつながりでスコットランド民謡”Loch Lomond"をYou Tubeで探して聞く。

 カーク・ダグラスさん死す。103歳という長寿に加えて、息子のマイケル・ダグラスも俳優・製作者として大成。思い残すことのない人生だったと思う。出演作では『海底二万哩』(1954、ディズニー、リチャード・フライシャー監督)の銛打ちのネッド、『OK牧場の決闘』(1957、パラマウント、ジョン・スタージェス監督)のドック・ホリデー役が印象に残っている。昨年、シネマヴェーラで『三人の妻への手紙』(1949、日本公開1950、FOX、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督)を見て、若いころの姿に接し、印象を新たにしたことも忘れられない。2月8日の記事の繰り返しになるが、ご冥福をお祈りしたい。

2月7日
 『日経』のコラム「私見卓見」に東北大学工学部長の長坂徹也さんが、「学力そぐ就活の見直しを」という一文を寄せている。学生が授業そっちのけで就職活動にはげめば、その分、学力はつかず、ご本人も、大学も、採用する企業の側も損をするので、就職者の採用について、もっと学生が勉強に専念できるように、就職・採用活動の早期化・長期化をやめてほしいというものである。工学部以外でも同じような事情があるのではないかと思う。実情に見合った改善の方向が開けていくといい問題である。

 伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留編『世界哲学史1 ――古代Ⅰ 知恵から愛知へ』(ちくま新書)を読み終える。このシリーズは、いずれ本ブログで取り上げていくつもりだが、長大な連載になりそうだ(途中で終わることになるかもしれない)。

2月8日
 『朝日』の解説記事「いちからわかる!」ではオリオン座のペテルギウスが爆発して超新星になるのではないかという(このブログでも取り上げたことがある)最近の話題について取り上げている。その中で、「有名なのは1054年の超新星で、歌人の藤原定家が日記『明月記』に記した」とあるが、やや不正確な書き方である。なぜなら、藤原定家(1162‐1241)は超新星が出現した1054年の時点ではまだ生まれておらず、『明月記』には、過去の出来事として記載されているからである。

 『朝日』の連載漫画『ののちゃん』で父親が電話で5箱分をまとめて売っているティッシュを買ってきてくれと言われて、まちがえて5箱分のマスクを買ってくるというのは、マスクが不足している昨今の事情を考えると極めて不適切ではないかと思う。今回に限らず、いしいひさいちさんのこの漫画は、つまらないとは言わないが、笑いの質が朝刊の漫画としては適切ではないような気がする。

 『朝日』の土曜版の付録「be」で高等学校の学習指導要領における国語の科目の変更をめぐって、「教科書に小説は必要ですか」という記事が出ていたが、教科書に掲載されている小説は、部分的に省略されていることが多いのが問題ではないかと思う。授業の中で小説を取り上げることには賛成だが、その場合、教科書から離れて自由に教師が教材を選択できるようにした方がいいと思う。なお、このことに関連して、東大名誉教授で『知の技法』シリーズの編集者であった船曳建夫さんが「韻文の扱いこそ重要」という意見を述べていたのが印象に残った。ただ、韻文にもいろいろな種類があるので、そのあたりをどのように取り上げていくかは工夫を要するところである。

2月9日
 『東京』に浄土真宗本願寺派の僧侶である江田智明さんが「今どき 『お寺の掲示板』(上)』という文章を書いていて、「お寺の門前に設置されている掲示板。そこに張り出されている文言を立ち止まって読んだことがあるという方は多いのではないでしょうか」と語りかけている。そういう掲示板は、それぞれの町の古くからある寺町の寺の一つの前に設けられていることが多い…ような気がする。

 佐藤弘夫『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』(法蔵館文庫)を読み終える。この本については、また機会をあらためてゆっくり論じていきたいと思う。

2月10日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の2月の放送はインド洋に浮かぶレユニオン島を舞台にして様々な会話が展開されるが、番組の終りの方のおしゃべりで、
Quand ariive le printemps, pas de cerisiers, mais les jacarandas sont couverts defleurs violettes.
春が来ると桜ではなく、ジャカランダという気が紫色の花で覆われてきれいなんだ。
という発言があった。1月に別府葉子さんのライヴで、ジャカランダの花の話が出てきたことを思い出した。

2月11日
 『東京』には「編集日誌」というコラムがある。他紙ではあまり見られないコーナーだが、本日は連載漫画『ねえ ぴよちゃん』を取り上げていて、この漫画の家庭的な雰囲気を自賛している。この『ねえ ぴよちゃん』、『読売』の『コボちゃん』、『朝日』の『ののちゃん』と、朝刊の連載漫画には小学生を主人公にした(もともと『コボちゃん』は就学前だったのが、連載が長く続いて小学生になった)作品がそろっているが、家庭的でほんわかした雰囲気で朝の気分を和ませるという点で、『ねえぴよちゃん』が他に抜きんでていると思う。

 IR汚職で逮捕された秋元司議員が3千万円の保釈保証金を納付して、保釈された。ゴーン被告のように国外に逃亡したりする恐れは…ないだろうね。
三千万 保釈金にも格差かな
レバノンに 逃げても言葉が通じない

 『NHK高校講座 現代文』の芥川龍之介「鼻」を取り上げた回が終わる。講師の先生が作品の受け取り方はいろいろだろうというようなことを言っていたが、この点は重要である。学習指導要領の改訂で導入される「国語論理」は、生徒が様々な方向に自分の思考を展開させることを勧奨するのか、それとも画一的な方向に向かわせようとするものなのか、その点も重要な問題になるのではないだろうか。
 

『太平記』(301)

2月10日(月)朝のうちは雲が多かったが、次第に晴れ間が広がる。

 貞和5年(南朝正平3年、西暦1349年)、京都では南朝討伐に功績のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は高一族の排除を企てた。また、その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟から軽んじられたのを憤り、兄弟を秦の趙高になぞらえて取り除くべき存在であると直義に進言した。直義はまず、兄・尊氏の庶子で自分の養子となっていた直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 この年2月に清水寺が炎上し、6月11日には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉・畠山の讒言により、高師直の謀殺を企てたが、逆に高兄弟の軍に包囲され、やむなく三条坊門高倉の邸を出て、兄・尊氏の近衛・東洞院の館に移ったが、師直兄弟は包囲を解かず、ついに上杉・畠山の遠流と直義の政務からの引退を約束させた。

 観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の内紛の始まりである。この内紛は南北両朝の抗争と絡み合って、ますます複雑な様相を呈していき、その過程でこれまで協力し合っていた尊氏・直義の兄弟の間に亀裂が入る。この兄弟だけでなく、多くの家系で骨肉の争いが繰り広げられる。
 ということで亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書)をあらためて読みなおしてみたのだが、「諸大名が、大軍で将軍邸を包囲して政治的な要求を行う。これを『御所巻』という。鎌倉・江戸幕府には見られない室町幕府独自の風習である。この御所巻を初めて敢行した武将が、高師直なのである。」(亀田、61ページ)という個所を読んでいたのに、「御所巻」という言葉をすっかり忘れていたことに気づいた。「御所巻」については、呉座勇一『応仁の乱』(中公新書)にもその例が示されていたと記憶する。本を読んだままにしておくと、内容を忘れたり、誤った理解が定着してしまったりするので、繰り返し読むことが重要であると自戒を新たにしたしだいである。〔そういえば、「室町幕府」という言葉を何気なく使っているが、まだ将軍の館が室町にはおかれていないので、この言い方もおかしいと言えばおかしいのである。〕

 師直・師泰兄弟は、直義が政務から退いただけでは満足せずに、彼の命を狙おうとしているという噂がしきりだったので、もはや自分には野心はなく、世俗のことを捨てたという気持ちを広く知らせようと、まだ41歳という年齢であったのに、頭を丸めて出家した。そしてこうなった以上は、広壮な屋敷に住むべきではないと、長年住み慣れていた三条坊門高倉の邸を出て、錦小路堀川のみすぼらしいあばら家に居を移した。この三条坊門高倉の邸というのは、村上源氏の中院家(三条坊門家)の邸を直義が接収して住んでいたのである。このような境遇の変化の結果、直義を訪問する人物はいなくなってしまった。
 前記『観応の擾乱』によると、直義が三条坊門高倉の邸を出たことは確かであるが、引っ越し先の錦小路堀川というのは足利一族の細川顕氏の邸であったから、あばら家というわけではない。三条の館には、この年の10月に鎌倉から尊氏の嫡子・義詮が上京してきて住むことになる(だけでなく、直義の職務を引き継ぐことになる)。このことをなぜか『太平記』は記していない。また、義詮と入れ替わりに、彼の同母弟である基氏(この時点では元服していないから、基氏とは名乗っていない)が鎌倉に赴くことになる。関東公方の初代である。田辺久子『関東公方足利氏四代』によると、基氏は直義の猶子であった(直冬が養子であったというのと微妙に違う点に田辺さんは注目している)。義詮は38歳、基氏は28歳で没し、2人とも短命であったが、武家政権の確立のためにそれぞれかなりの仕事をしているようである。『太平記』の中では影の薄い2人であるが、実像はもっと強力で巨大なものであったと考えたほうがよい。

 訪れるものがほとんどない直義のもとを、ときどき訪ねてきたのは、天台宗の学僧で独清軒と号していた玄恵法印だけであった。すでに、足利直冬を一時養っていた人物として物語に登場した人物である。後に、今川了俊は彼が直義を助けて、『建武式目』を起草し、また『太平記』の編纂にも関わったと記している。玄恵は、師直の承諾を得て、錦小路堀川に通って日本や中国の歴史のことなどを話して直義の無聊を慰めていたのであるが、老齢であり、病気がちのため、訪問が困難になって来たと伝えてきた。そこで、直義は薬を一包み送り、それに
 長らへて問へとぞ思ふ君ならで今はともなふ人もなき世に
(第4分冊、302ページ、長生きして私を訪ねてください。今はあなた以外に親しく過ごす人もいない。)
という歌を添えた。
 法印はこの歌を見て、泣く泣く、次のような詩を書いて、心持を伝えた。
 君が今日の恩を感じて
 我が九原の魂を招く
 病を扶けて床下(しょうか)に座し
 書を披(ひら)いて涕痕(ていこん)を拭(のご)ふ
(第4分冊、302ページ、今日までのご恩に感謝し、墓場へ赴くわが魂を呼び返す。病床から起きて座し、君の文を見て涙を拭う。)
 その後、間もなく(翌観応元年、西暦1350年の2月)、法印が没したので、出家して恵源と名乗っていた直義は、この詩の奥に紙を継いで、金剛般若経を書写して送られたのはあわれなことであった。

 法印というのは、法印大和尚位の略で、坊さんの位としてはきわめて高い地位である。そういえば『徒然草』に「強盗の法印」とあだ名された坊さんが登場するが、これは何度も強盗に遭ったためについたあだ名だという。地位が高い分、収入も多くて、強盗につけ狙われたのであろう。法位としての法印に相当する僧官は大僧正、僧正、権僧正であり、『徒然草』には堀池の僧正という坊さんの話もあった。地位が高いからと言って、知恵も徳も備えた名僧かどうかはわからないのは、他の世界でも当てはまることかもしれないが、この玄恵法師は人々の尊敬を集めるだけの智慧も徳も備えていたし、だからこそ、『太平記』の作者も敬意をもってこのやりとりを記したのであろう。

 直義と師直の闘争は、まず初戦で師直の勝利に終わったが、これで終わるわけではないし、直義はおそらく、『太平記』の作者が書いたようなわび住まいをしていたわけではなく、復讐のためにいろいろと策を練っていたと思う方が自然である。亀田さんによると、観応元年に玄恵が死去した後、直義の勧進によって『玄恵追悼詩歌』が編纂されており、さらにその後、直義は京都を脱出して反撃に転じることになる。だが、物語はそこへ行く前に、師直によって取り除くように要求され、遠流と決まった上杉重能、畠山直宗の運命を語ることになる。それはまた次回に。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(30)

2月9日(日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 翌朝早く、ダーシーとフィッツウィリアム大佐の2人の紳士は、叔母のレディー・キャサリン・ド・バーグの邸宅であるロウジングズ邸を発った。コリンズは彼らを見送るとともに、レディー・キャサリン・ド・バーグとその令嬢を慰めようと、ロウジングズ邸を訪問したが、令夫人は甥たちが去って気がふさぐので、牧師館の一同を呼んで食事をしたいと伝えてきた。
 邸に出かけ、レディー・キャサリンの顔を見ると、エリザベスは、もし自分がダーシーの求婚を受けていたら、この人の未来の命として紹介され、彼女の怒りを買っていたかもしれないと心の中で想像して、一人で面白がっていた。
 レディー・キャサリンによると、2人の甥のうち、特にダーシーの方が、ロウジングズを去るのを辛そうにしていたという。コリンズはド・バーグ家の令嬢との別れがつらかったのだろうと仄めかし、母娘双方から好意的な笑顔で報いられた。

 レディー・キャサリンは食事の後、エリザベスがなんだか元気がないことを指摘して、それはまだ家に帰りたくないからだと一人合点をして、母親に滞在を伸ばしてくれるように頼む手紙を書いてはどうかと言い出す。
 エリザベスは、父親が彼女の顔を見たがっているし、予定を変えることはできないというが、レディー・キャサリンは聞き入れない。母親が承諾すれば、父親は言うことを聞くものだという確信があるからである(ベネット家の場合、エリザベスは父親のお気に入りである反面、母親とは意見が合わないという家庭の事情があることを知らないか、無視している)。しかし、彼女の説得にエリザベスが応じないので、その件はあきらめて、エリザベスとマライア(シャーロット=コリンズ夫人の妹)を返す時の馬車の世話を焼きはじめる。それで、エリザベスはロンドンの叔父(ガードナー氏)が馬車を回してくれるといって、その件も切り抜ける。エリザベスは、帰省よりも、彼女の周辺で最近起きた事柄の方に気をとられていたが、レディー・キャサリンが帰省についてあれこれ聞いてくるのに答えなければならず、それでかえって気がまぎれるところがあった。

 彼女は一人になる機会があると、散歩に出かけ、その間、ダーシーからの手紙をほとんど暗記できることができるほどまでに繰り返し読み返した。彼女は自分がダーシーからの求婚を断ったことを後悔することはなかったが、彼に対する態度が失礼だったとは思い、また彼に対する認識をあらためた。それでももう一度会いたいという気持ちは起きなかった。しかし、それ以上に彼女の心に重くのしかかってきていることがあった。「今やエリザベスにとって、これまでの自分の振舞は絶えざる心痛と悔恨の種であり、家族の嘆かわしい欠点はそれ以上に気の重い憂鬱の種であった。家族の欠陥が今さら良くなりそうには到底思えなかった。父にしてからが、家族の至らなさをただ面白がってみているだけで、下2人の娘が軽佻気儘な振舞に及んでも、それを敢えて止めさせようともせず、母に至っては、自身が作法知らずもいいところであったから、娘の振舞がはしたないこと(wild giddiness)などそもそも感じてもいなかった。」(大島訳、364ページ) エリザベスは、姉のジェインと一緒になって妹たちの振舞を改めさせようとしてきたのだが、母が下の2人を甘やかす一方なので、効果がなかったのである。

 ジェインのことも気がかりで、大きな心配であった。ダーシーの手紙を読んで、ビングリーがジェインのことを真剣に愛していたことを知り、彼女はビングリーに対する評価をやはりいい人だったのだと、元に戻したのだが、「それだけにジェインが失ったものの意味合いが一層痛切に感じられた。・・・この結婚は有利な条件に満たされた、幸福の見込みも十分な、どこから見ても望ましいものであった。その結婚によって得られるはずの社会的地位を、ジェインは自分の家族の愚かさと無作法のために失ってしまったのだ! それを思うと、ビングリーの愛情が本物だっただけに、エリザベスは何とも悲しかった。」(大島訳、365ページ)

 さらに、彼女が憎からず思っていたウィッカムの正体も明らかになってしまった。こうなると、本来陽気なエリザベスが今度ばかりは意気消沈して、明るい表情を作るのにかなり無理をしなければならなくなったのは当然かもしれない。
 エリザベスとマライアの滞在期間が残り少なくなると、ロウジング邸からの招待はいよいよ頻繁になり、レディー・キャサリンは2人の旅についていろいろと口を出して助言を与えるのであった。
 そして、いよいよお別れということになると、レディー・キャサリンは丁重に道中の無事を送り、来年もハンズフォードにいらっしゃいと言った。ミス・ド・バーグも敢えて膝を軽く曲げるお辞儀までして、2人に片手を差し伸べたのである。

 いよいよ出発の土曜日がやってきたが、その日の朝、エリザベスはコリンズと2人きりになる時間があり、その間、彼の長い説教じみた別れの言葉を聞かされた。彼女はシャーロットのことが心配だったが、彼女が牧師の妻として何とかやっていくだろうという見通しをもつことはできた。
 2人(エリザベスとマライア)はともに馬車が動き出してから2,3分のあいだは黙って窓の外を眺めていたが、やがて、マライアが叫んだ。不思議なことに、ここに来てから1日か2日しかたっていないような気がするというのである。「でも、随分といろいろなことがあったわよねえ!」 エリザベスはため息交じりに相づちを打つ。マライアは陽気に、自分は土産話がたくさんできたというが、エリザベスは内心で、「私は隠す話が一杯出来たわ」(大島訳、372ページ)とつぶやく。
 馬車はハンズフォードを出てから4時間ほどでロンドンのガードナー叔父の家に到着し、エリザベスはそこでジェインと再会、2,3日伯父のもとに滞在することになったが、叔母がいろいろと予定を組んでいたために、姉妹が落ち着いて話をする機会はなかっ
 ハンズフォードで起きたことについて、エリザベスは姉に早く打ち明けたいという気持ちもあったが、その一方で姉のビングリーに対する気持ちにも配慮しなければならず、ロングボーンの父母の家に戻るまで我慢しようと思い、かろうじて誘惑に打ち勝ったのであった。

 今回は第2巻第14章(37章)と第15章(38章)をまとめて紹介した。ジェインとビングリーの結婚をめぐり、(ジェインとエリザベスを除く)ベネット家の人々の品格が問われていることを知り、エリザベスはかなりの衝撃を受ける。このことは、ダーシーのエリザベスに対する気持ちを知っていて、彼女に敵意を燃やしているミス・ビングリー(ビングリーの妹)がこれまでもチクチク言ってきたことではあるが、ダーシーの手紙には、誠意が込められていて、そのために説得力が増したということらしい。ケントでの出来事によって、いったん絶たれた関係が、今後また何かのきっかけでよみがえるのか、それとも別の新しい出会いがあるのか、これからの展開はどうなっていくのか、それはまた次回以降に。 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(13)

2月8日(土)晴れ

 紀元前60年に、スッラの後継者でローマの東方支配を確立したグナエウス・ポンペイウス・マグヌス、スパルタクスの反乱を鎮圧したマルクス・リキニウス・クラッスス、ローマ屈指の名門の出身ではあったが、スッラの宿敵であったマリウスの後継者として民衆派の立場を貫こうとするガイウス・ユリウス・カエサルの3者のあいだで密約が交わされ、第一次三頭政治が成立、混乱が続いていたローマに安定をもたらす。しかし、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残る2人のあいだで熾烈な戦いが展開されることになる。
 ローマにいたポンペイウスは、総督としてガリアで戦っていたカエサルを解任し、軍隊を解散して帰国することを命じる。しかし、カエサルはこれに応じず、ガリアとイタリアの境界であったルビコン川を軍隊を率いたまま渡り、さらにガリアから軍隊を呼び寄せて、ローマに進撃しようとする。
 カエサルの来襲を恐れたポンペイウスは、カプアに逃れて抵抗しようとするが、各地でポンペイウス派の軍隊はカエサル派に敗れ、イタリア半島の東南のブルンディシウムに逃れるが、そこも支えられず、ギリシアに向けて逃亡し、東方の軍隊を結集して再起をはかろうとする。
 いったんローマに戻ったカエサルは、ポンペイウス派の一掃を図り、まず、スペインに向かって西進する。その途中、ガリアの都市であるマッシリア(マルセイユ)が、カエサルに対し、ポンペイウスとの和睦と停戦を勧告するが、カエサルは聞き入れず、マッシリアの攻囲戦が始まる。

 さて、ギリシア植民のこの都は、語り種(ぐさ)となり、久遠の
誉れとなるに足る偉業をなし遂げた。単なる恐怖で打ち砕かれ、
瓦解することなく、あらゆるものに向かって突進する、燃えさかる
戦の行く手を阻み、すべてがカエサルによって奪われていく中、
敗れはしたものの、唯一、勝利を手間取らせたのである。運命の
歩みを押しとどめ、カエサルを全世界に君臨させようと急ぐ
フォルトゥナに、あれほどの日々を空費させたその偉業はいかばかりか。
(第3巻、407‐413行、144ページ)
 フォルトゥナ(fortuna)は機会、運、運命を意味するラテン語であるが、運命の神という意味でも用いられる。女性名詞なので、女神ということになる。詩人は、マッシリアの抵抗が、カエサルの勝利を遅らせたことを賞賛する。

 マッシリアの近くの2つの丘をつなぐ土手を築くために、カエサルはその土手の中心になる木組み用に、近くの森の木々をことごとく伐採した。ガリア人たちの聖職者集団であるドルイドが神聖なものとして崇め、人間はおろか、鳥獣さえも近づかないとされてきた森林も例外ではなかった。
 太古の昔から、一度も侵されたことのない森があった。
絡み合う枝葉で陰々とした大気と、高く陽の光を遮って
冷気漂う陰を包み込む森である。・・・
・・・神々の
神秘を崇めた古(いにしえ)からの言い伝えに何ほどかの信があるなら、
鳥さえその枝にとまるのを恐れ、獣もねぐらを構えて
横たわるのを恐れるという。また、この森には風も吹き込まず、
黒雲から発せられた雷電さえこの森は避けるのだ。
(第3巻、418‐420行、423‐427行、145ページ)

 このように太古の昔から禁断の聖域であった森の木々を切り倒すことを、カエサルは命じる。
 その森に斧を入れ、木々を伐り倒せと、カエサルは命じた。
(第3巻、443行、146ページ) しかし、さしも勇敢な兵士たちも、神々の怒りを恐れて斧をふるおうとしない。
カエサルは、兵らがひどく怯え、呆然としているのを見て取るや、
両刃の斧を奪い取り、恐れることなく、真っ先に斧を振り上げ、
空高く聳えるひともとの樫の木を伐り倒しにかかり、
冒瀆されたその幹に、一撃、斧がめり込むと、こう言った。
「もはや、お前たちの誰一人、この森の木を伐り倒すのを
躊躇(ためら)ってはならぬ。こう思え。この非道の罪の張本人は、
この私だと」。すると、軍勢は一人残らず命に従った。恐れが
拭い去られて安堵したからではない。秤にかけたのだ、神々の怒りと
カエサルの怒りとを。」
(第3巻、449‐457行、147ページ)

 こうして森の樹木が伐り倒され、これまで光を浴びたことのなかった土地に陽の光が差し込んだ。この光景を城壁の中から眺めていたガリア人たちは、嘆き悲しんだが、城内の軍兵はむしろ喜んだ。カエサルとその軍隊に神の怒りが降りかかると思ったからである。
・・・――だが、
運命が罪ある者を庇護する例(ためし)は数知れず、
神々の怒りの矛先は、ただ不幸な者にのみ向けられる――。
(第3巻、465‐467行、148ページ)
 兵士たちは附近の農村から荷車を徴発し、伐り倒した木々を運んだ。牛ごと荷車を奪われた農夫たちは、もはや農作物を収穫することもできず、悲嘆にくれるのであった。「神が身の怒りの矛先は、ただ不幸な者にのみ向けられ」たのである。

 攻囲戦の長期化が避けられないことを見通したカエサルは、軍隊の一部にここにとどまって戦闘を続けるように指示して、みずからはへスペリア(スペイン)の戦線へと転進した。
 こうして運んだ材木による木組みを基に土手が築かれると、どこからか巨大な櫓が運ばれ、そこからマッシリアの城壁への攻撃が始められた。ローマの武器が主として弓矢とやりであったのに対し、マッシリアの側は投石機を使ったので、武器の威力という点ではまさっていた。ローマは亀甲隊形の武装した歩兵、次には可動攻城小屋を使った攻撃を仕掛けるが、どちらも撃退される。一方、マッシリア側は、火攻めの夜襲を仕掛け、これが成功してローマの築いた土手は崩れ、陸戦でマッシリアを降伏させる可能性はなくなった。

 陸戦による勝利の道が無くなったローマは今度は海戦でマッシリアを攻略しようとするが、それはまた次回に。
 神聖な森に斧を入れるカエサルと、その命に従う兵たちを描いた部分は、この作品中でも最もよく知られている部分である。
 カエサル自身の『内乱記』を読んだ限りでは、彼はマッシリアの攻囲戦をそれほど重視していたわけではなく、その対応に腹を立てながらも、軍隊の主力とともにスペインに向かい、総督代理のトレボニウスを攻囲戦の指揮官として、デキムス・ブルートゥスを海軍の指揮官として残したと記している。なお、デキムス・ブルートゥスは第2巻に登場する(後にカエサル暗殺計画の中心人物となる)マルクス・ユニウス・ブルートゥスの縁者である。どうも、カエサルはよくあるように、自分に都合の悪いことは記録に残さなかったようである。
 最初の部分で、スパルタクスの反乱とクラッススについて触れたが、映画『スパルタカス』(1960、スタンリー・キューブリック監督)で製作・主演されたカーク・ダグラスさんが103歳で亡くなられた。ご冥福をお祈りする。この映画ではスパルタクス(スパルタカスは英語読み)をカーク・ダグラスさん、クラッスス(英語読みではクラッサス)をローレンス・オリヴィエが演じていた。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(7)

2月7日(金)曇りのち晴れ

「新皇」即位と八幡神・道真の霊(続き)
 平将門の「新皇」への即位を保証したのが、八幡神と道真の霊であったことの意味を考えるために、この時代の平安京における道真の怨霊の動向を見ておく必要があると著者は考えている。

 平安京における道真の怨霊と八幡神(これまでのまとめ)
 9世紀末、文人貴族として頭角を現し、昌泰4年(899)には右大臣へと異例の出世を遂げた菅原道真は、政敵であった藤原時平が醍醐帝と組んで画策した排斥事件により、延喜元年(901)に太宰府権帥に左遷される。しかし、その死後、道真左遷に関わった人物が次々と不慮の死を遂げ、それは道真の怨霊の仕業とされた。10世紀前半の宮中・平安京には道真の怨霊が吹き荒れていた(と信じられていた)。

  道真の霊の神格化
 延長8年(930)に醍醐帝が崩御した数年後から、新たな動きが出てくる。
 天慶5年(942)に右京七条の多治比文子という少女に故道真の霊を祀るようにとの託宣があり、さらに5年後には近江国比良神社の神官の子・太郎丸にも同様の託宣があった。このような道真の霊の神格化への動きを受けて、天暦元年(947)に、現在の北野天満宮の場所にあった朝日寺の僧・最鎮(最珍)らが朝廷の命を受けて、その地に道真の霊を祀る社殿を造営し、神宮寺としたのである。これが北野天満宮の起こりである。
 道真の死後、かなりの速さでその霊魂=怨霊の神格化が進み、社殿が造営されたのは、その背景として摂関家(藤原忠平=時平の弟、師輔)の協力があったことを考えても、驚くべきことである。「そして、なによりも、このような動きが将門の乱とほぼ同時期に進行していたことに注目しなければならない」(116ページ)

  石清水八幡宮の成立と八幡神信仰
 それでは、もう一方の八幡神の方はどうか。八幡神の大本は、豊前国(現・大分県)の宇佐神宮である。八幡神がその宇佐から、京都の石清水男山に勧請されたのは、貞観2年(860)のことである。石清水八幡宮は王城鎮護の八幡大菩薩の託宣を受けて、平安京を鎮護する神として登場した「新しい神」であった。
 勧請の背景の事情については不明な点が多いが、その後の石清水八幡宮の神格の上昇は目覚ましいものであった。貞観11年に石清水八幡宮に奉幣がされたときの告文(神に捧げる言葉を書いた文書)には「石清水の皇大神」と記され、天皇家を鎮護する神と認識されたのである。天元元年(979)には石清水行幸が実施され、10世紀末には16社奉幣制の中で伊勢神宮に次ぐ位置にまでのぼり、代替わりには天皇が最初に行幸する神社にまでなったのである。
 〔〔十六社〕というのは、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・竜田・住吉・丹生・貴船の各神社である。〕

  藤尾寺事件
 しかし、このように急速に神社としての地位を上昇させ、国家神としての性格をもった石清水八幡宮であったが、その信仰は民衆の間に浸透しているとは言えなかった。このことを示すのが、天慶2年(939)に起きた藤尾寺事件である。
 京都近郊の山科の辺りの藤尾寺という寺で、1人の尼が八幡大菩薩の像を祀っていたが、霊験あらたかであるとして多くの人々の信仰を集め、そのために本宮である石清水八幡宮の放生会に人が集まらなくなるほどであった。そこで石清水側では、藤尾寺の側の放生会の日程を変更するように申し入れたが、聞き入れられなかったので、実力行使に及び、神社を破壊し、仏像と尼を石清水に連れ去ったという。

  藤尾寺事件の評価
 貴顕の信仰を集める神社となった石清水八幡宮ではあったが、民衆の間にはその霊験は浸透しておらず、名もない尼が祀った仏像ほどにも人々の尊崇を集めることはできなかったのである。このことから、著者は柴田実・竹内光浩の見解を基に、石清水八幡宮の信仰は、この段階ではまだ民衆に浸透していなかったと結論する。

  石清水八幡宮の神格上昇と承平・天慶の乱
 ところで、石清水八幡宮の神格上昇の経緯の中で、一つの画期となるのが承平・天慶の乱の鎮定の報賽(祈願成就の御礼)として行われた石清水臨時祭であったことに、著者は注目する。菅原道真の霊魂の神格化の過程が将門の乱とほぼ同時期であったことはすでに指摘したとおりであるが、石清水八幡宮の神格上昇もまた承平・天慶の乱の平定が決定的な契機になっていたのである。「このことは、道真の霊魂と八幡神という新しい神が摂関期の神祇体系に位置づけられていくうえで、将門の乱が果たした役割が大きかったことを示している。」(124ページ) 〔反乱を起こした将門の側と、それを鎮定した朝廷・摂関家の側の両方が、道真の霊魂と八幡神を担ごうとしているということの意味をどう考えるのか、という点では、この指摘は不十分ではないかと思う。〕

  シダラ神事件
 その地位を上昇させていた八幡神と道真の霊が同時に現れる事件がもう1つあることを、著者は指摘する。それは天慶8年(945)に起こったシダラ神事件である。
 この事件は天慶8年の7月末から8月にかけて、「自在天神」(菅原道真の霊)や宇佐八幡大菩薩などを祀った数基の輿が〔数千万人〕の人々に担がれ、九州から上洛してきたが、山城国乙訓郡山崎郷まで来て、急に託宣により石清水八幡宮に吸収されてしまったというものである。
 著者はここでも道真の霊魂と八幡神との「協働」の存在が確認できるとする。そして両者が石清水八幡宮に吸収されてしまったことに注目している。

  シダラ神事件の歴史的意味
 このように道真の霊魂を受け入れただけでなく、宇佐八幡神を再度受け入れたことの中に、石清水八幡宮の王城と皇統・貴族社会を守護するという石清水八幡宮の役割を強化する意図があったと考えられる。別の見方をすると、これらの事件を利用して、石清水八幡宮の側が地位の向上をはかったとも解釈できる。 
 その一方で著者は、『将門記』の著者が、このような天慶年間における道真の霊魂の神格化と石清水八幡宮の神格の強化という2つの目覚ましい動きを目にしたことのために、それらを将門の「新皇」宣言の場面と結びつけたのではないかと推測している。これだけでは、どうもあっけないというか、説得力に欠ける議論のように思えるのだが、どうだろうか。著者自身も気にしているようで、この後、今度は関東における道真信仰の展開について検討を加えているが、それについてはまた次回に。

 今回、その所説が言及された柴田実先生は、私が京都大学に入学した際の教養部長で、教養部では日本史関係の科目を担当されていた。私が受講したのは史学概論と世界史(西田太一郎・西村・望田幸男の各先生とのリレー講義)であったが、どうも講義内容を思い出せない。要するに、そのくらい私の興味から離れた講義内容だったのだが、その後で、先生の業績に接してみると、自分の関心と重なる研究がいくらでも見つかる(先生は心学者の柴田鳩翁の曽孫にあたられ、心学についてはもちろん、民衆・民俗信仰についての多くの業績を残された)――というのは、どちらが悪いのかと、考え込んでしまうのである。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(9)

2月6日(木)晴れ

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の現地研究を行った。『東南アジア紀行』はその調査旅行の個人的な記録である。下巻はこの旅行の後半部分と、1961年12月から1962年2月にかけてタイを再訪した際の経験が記されている。
 第一次の旅行の後半部分で、梅棹は隊員の医師で昆虫学者の吉川公雄、外務省留学生で後に東南アジア研究者となった石井米雄とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪している。2月12日にバンコクを出発した一行は、翌日カンボジア領内に入り、バッタンバン、プノムペン、カムポットなどの都市、農村やトン・レ・サップ湖上の集落などを訪問した。2月21日には当時は南北に分断されていた南ベトナムの首都であるサイゴンに入った。成立間もないベトナム共和国(南ベトナム)はフランスの影響を脱しえていないように見えた。

第14章 コーチシナ平原(続き)
 皇帝と司教
 梅棹はフランス化する前のベトナムの姿を知ろうとするが、そもそもサイゴンがベトナム人の都市として発展したのはここ2世紀ほどのことでしかないことに気づく。サイゴンはもともとカンボジアの町でコーチシナにおけるクメール人の政治的・商業的中心地であった。ところが17世紀後半ごろから北方のベトナム民族のコーチシナ流入が盛んになり、その統治のために1698年にサイゴンのすぐ北にジァー・ディン(嘉定)府がおかれる。軍隊が駐屯し、18世紀以後グエン王朝(阮朝)のベトナム統一の最大の拠点となった。
 17世紀から18世紀にかけてのベトナムの歴史は、北方トンキンの支配者チン(鄭)氏と、南方コーチシナの支配者グエン(阮)氏との対立・抗争の歴史である。ところが1771年にクィ・ニョン(帰仁)を中心として、タイソン(西山)の乱がおきて、グエン、チン両氏は滅ぼされ、ベトナム全土は混乱に陥った。
 グェン一族の中でただ一人生き残ったグェン・フック・アン(阮福映)は逃亡中に、旧知のフランス人アドラン司教に出会う。アドランは王子を説いて、フランスの援助を求めさせた。彼はフランスに帰り、グェン救援の遠征軍を組織した。グェン軍は、名将レ・ヴァン・ズェット(黎文悦)らの奮戦と、フランス艦隊の強力な支援によって、タイソン一派を打ち破って次第に北進し、1802年についにハノイに入城する。1806年にはグェン・フック・アンは安南帝国の皇帝{→ジァー・ロン(嘉隆)帝}を名乗り、インドシナ半島におけるベトナム人居住地域の大統一を完成した。「その統一が、しかし、異邦人であるフランス人の協力のもとにはじめて成功したという事実は、なかなか象徴的である。その後のベトナムの運命は、じつはすでにこのときに用意されていたとみることもできる。」(86ページ)
 この間、1779年にアドラン司教は没する。1789年にグェン・フック・アンはサイゴンを占領し、フランス人の将校に依頼して城を築かせる。

 「友情」のゆくえ
 ジァー・ロン皇帝は、帝国の統一を完成した後、国内の乱れた秩序を回復し、「嘉隆の治」と呼ばれる黄金時代を作り上げたが、在位18年で1820年に世を去った。彼は、フランス人およびキリスト教に対して、友好的であり、その宮廷に、多くの有能なフランス人が仕えていた。
 しかし、その後継者である第2代皇帝ミン・マン(明命)はフランス人を退け、キリスト教を迫害した。嘉隆帝に仕えて国家統一につくしたレ・ヴァン・ズェットは、コーチシナ太守としてジァー・ディン城にいたが、フランス人が統一事業に貢献したことを皇帝に思いださせて、迫害を緩めようとした。しかし、1833年に彼が死ぬと、皇帝は彼の墓を破壊し、キリスト教徒の迫害を強めたのである。〔梅棹は書いていないが、彼の養子のレ・ヴァン・コイが皇帝の中央集権化政策に対する反乱を起こしたことも関係しているようである。〕 梅棹はレ・ヴァン・ズェットの墓というよりも廟を訪問し、この建国の功臣が後世の人々の尊崇を集めているさまを目撃している。

 「全外国人を死刑にせよ」
 フランス人の宣教師たちが、アンナン帝国の皇帝たちの迫害にあって命を落とすのを怒ったフランスの皇帝(国王)たちはフランスの艦隊を派遣、艦隊はツーラン(ダナン)港に侵入し、皇帝を脅かしはじめる。フランスの脅迫に憤慨した第3代皇帝ティェウ・チ(紹治)帝は、「全外国人を死刑にせよ」との遺言を残して死ぬ。
 4代トゥー・ドゥック(嗣徳)帝は、宣教師を斬首の刑に処し、その結果、フランス皇帝ナポレオンⅢ世は遠征軍の出動を命じる。1859年2月、フランス艦隊はサイゴン川をさかのぼり、わずか2日間の戦闘で、サイゴンは占領されてしまう。1862年に条約が結ばれ、コーチシナ東部3省は、フランスの領土とされた。フランス領インドシナの始まりである。

 その後、サイゴンを拠点として、フランスのインドシナ攻略は着々と進む。1863年にはカンボジア王国を保護国とし、数年後(1867年)にはコーチシナ西部3省をとる〔89ページに「東部3省」とあるのは誤り。東部3省はすでに1862年に仏領となっている〕。1884年の条約ではトンキン、アンナンが保護領となる。最後に、ラオス保護領が加わり、フランス領インドシナが成立する。

 この個所を読んでいてちょっと背筋が寒くなってきたのだが、フランスがインドシナを植民地化していくこの過程は、日本の明治維新と時間的に重なっている。幕末・維新の変動期に英国が薩長を支援したのに対し、フランスが幕府を支援しようとしたことは知られていて、もし、そのフランスの支援がより積極的なものであったら、どんなことになったかということを考えないわけにはいかなかったのである。

 インドシナ連邦
 インドシナ連邦、あるいは「仏印」は5つの邦(pays):カンボジア、ラオス、トンキン、アンナン、コーチシナからなる連邦であった。トンキン、アンナン、コーチシナは、ベトナムが伝統的に北圻、中圻、南圻の3つの地方にわけて考えられていたのに対応するものであるが、フランスの統治下で、トンキンとアンナンが保護領であるのに対し〔したがって、阮朝の君主が形式的にせよ統治していた〕、コーチシナは直轄植民地だった。『歴史的な因縁からも、フランス人はコーチシナを、インドシナの中でも特別な地域と考えていたらしい。」(90ページ)
 フランスは何としてもコーチシナだけは失いたくないと考えていたようで、1946年にフランス政府は当時のベトナムの唯一の政府であったホー・チ・ミン政権〔1945年の「八月革命」により阮朝が倒れてベトナム民主共和国が成立した〕と和平交渉を進めて、フランス連合の枠内でベトナム民主共和国の独立を認めるという暫定協約を結ぶ寸前までいったのだが、その際のベトナム民主共和国にはコーチシナが含まれていないことが分かって決裂、泥沼のインドシナ戦争が続き、結局、フランスはすべてを失うことになったのである。

 今回取り上げた個所では、ベトナムの歴史が概観されていて、サイゴンやその市民の様子の観察記事はほとんどない。梅棹は日中戦争を経験しているし、前回も書いたようにベトナム共和国(南ベトナム)は成立間もない時期でもあったから、歴史の動きを、今日の読者である我々よりも、より生々しく感じていたことも考慮しなければならない。
 このあと、梅棹一行は、南ベトナムにおける有力な宗教勢力であったカオダイ教の本部を訪問することになるが、それはまた次回に。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(13)

2月5日(水)晴れ

 フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)は16世紀から17世紀にかけて活躍したイングランドの法律家、政治家、文筆家であり、現在ではその哲学的著作が英国経験論の源流の一つとして評価されている。この『ニュー・アトランティス』は彼の死後、未完の原稿の状態で残されていたものを、死後出版したもので、近世における代表的なユートピア文献の1つに数えられている。このような文献の最初のものである『ユートピア』を書いたトマス・モアは、ヘンリーⅧ世のもとで大法官(Lord Chancellor)をつとめ、その後解任、処刑されたのであるが、ベーコンも大法官となり、解任されたのは偶然の一致とは言え、運命の皮肉を感じさせる。しかし、ベーコンは処刑されることなく、未完ながらこの『ニュー・アトランティス』を残したのは、幸運であったと言えよう。
 物語の語り手の乗った船は南アメリカのペルーから、太平洋を横断して中国または日本にむかおうとしたが、途中で風に流されて、未知の島に漂着する。この島の住民たちは海禁政策に従っているため、一行はいったん上陸を拒否されるが、この未知の土地にとって有害な存在ではないことが分かって、島内の施設への滞在が許可される。
 島の人々は奇蹟的な出来事を通じてキリスト教に帰依しており、かつてこの島を支配したソラモナ王が創設した「サロモンの家」という学会と研究施設を兼ねた機関が、人々の生活をより豊かにするために研究活動を続けているという。
 語り手は、「サロモンの家」の長老の一人と会見して、その概要を聞く機会を得た。この機関の目的は神が創造したあらゆるものを研究し、その未知の性質を発見するとともに、人々の生活に役立てることであり、そのため、さまざまな施設・設備が設けられている。

 「サロモンの家」にはあらゆる獣と鳥を収容する園と檻とがある。要するに動物園と考えていいだろう。しかし、動物園のように人に動物を見せるというだけではなく、それらの動物や鳥を医学的な目的のために解剖したり、実験の材料にしたりするという。〔動物をこのような実験に使うのは可哀そうだという同情心の一方で、そういう実験を行わないと医学の進歩がおぼつかないという懸念も付きまとうのは現代においても同じである。〕 また薬物の投与等によってさまざまな変種を作り出す。
 また異種間の交配により、新しい雑種を作り出し、「しかもそれらは通説と異なり、繁殖力を有する」(56ページ、そうではなくて、雑種の繁殖力の有無が種を定義するのである)。
 さらに腐敗物から生物を発生させる(この時代の科学的水準では、そのように考えられていた)。さらに特別な池があって、魚類についても、獣や鳥類にして行ったのと同じようなことをする〔一種の水族館ということである〕。
 また蚕やミツバチのような特別に有用な昆虫の繁殖と生育のための施設も設けられている。
 川西さんは訳注で、古くから珍しい動物を集めた動物園はあったが、学問研究のための動物園は19世紀以降のことである。水族館についてもほぼ同様であると記している。ベーコンの死後間もない1635年にルイXⅢ世によって創設されたパリの「王立薬草園」が今日の「国立自然史博物館」になる歴史的過程など、このベーコンの記述と照らし合わせながら見ていくと興味深いかもしれない。〔これに比べるとロンドン自然史博物館の歴史はだいぶ新しい。〕

 そのほかに優れた特別の効能を持つさまざまの飲料、パン、料理を作る醸造所、製パン所、厨房などもあるという。老人や病人のための飲食物も工夫されている。
 また薬局もあり、ヨーロッパよりも医薬品の材料がそろっている中で、さまざまな医薬品を調合している。さらに「ほとんど自然の薬草と変わりのない化合物をつくる完璧な合成方法を知っている。」(58ページ)
 優れた工芸品を作る工房もあり、そのような工芸のための器具は各地で使用されるようになっているが、もともと「サロモンの家」で開発されたことを示すために、見本、原型が保存されている。

 また「熱」に関わる研究も行われている。さまざまな炉があって、いろいろな種類の高温状態を作り出している。「特筆すべきは、太陽、その他の天体の熱に似た熱を作りうることである」(58ページ)という。こんなことがこの当時可能であったわけはないが、想像するだけでも大したものと言えよう。その他さまざまな熱が研究され、開発されていて、「これらさまざまな熱をわれわれの意図する作業が要求するところに従って活用する。」(59ページ)

 さらに「光」についての研究も進められている。光学研究所(perspective-houses)ではプリズムや望遠鏡を使って様々な色の光を作り出したり、遠くにある物体を見たり、細かいものを観察したりする。〔ベーコンは望遠鏡のことは知っていたが、顕微鏡については知っていたかどうか定かではないのはすでに述べたとおりである。〕
 またさまざまな宝石や、鉱石、その他の鉱物を集め、研究している。

 音響研究所(sound-houses)ではあらゆる音を実際に発生させ実験している。一方で楽器や音楽の研究があり、もう一方で自然音の再現、例えば鳥のさえずりや獣の咆哮を再現したり、木霊を起こしたりする研究も行われている。音を大きくしたり、小さくしたり、遠くの人に声を伝えることも実験されている。
 さらに香料研究所(perfume-houses)があり、匂いだけでなく、味覚についても研究し、菓子の製造もおこなっている。

 ベーコンは様々な思い付きを連ねていて、中には彼自身が自分の居館で行っていたのではないかという実験もあり、そうかと思うと想像をたくましくしているものもある。科学的な裏付けはともかくとして、ベーコンの想像力の飛翔に付き合って楽しんでみるのも一興であろう。未完のまま残されたこの物語の最後に我々は近づきはじめていて、あと1回か2回で、この連載も終わることになりそうである。しかし、最後まで、ベーコンらしいなぁという発想の展開があるので、気を緩めずにお付き合いをお願いしたいと思う。
 

日記抄(1月29日~2月4日)

2月4日(火/立春)朝のうちは晴れていたが、次第に雲が多くなる。日没後、雨が降り出す。

 1月29日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

1月17日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の"Talk to Talk"のコーナーで講師の杉田聡さんがこんな発言をしていた。
 And even today, Japanese children are taught to be independent early on. Foreign media have reported with amazement on Japanese schoolchildren riding the subway all alone. In the United States, parents can be charged with neglect and endangerment for allowing their young children to walk to schol or play in the park without close adult supervision.
 (そして現在でも、日本の子どもたちは早くから自立するように教えられます。外国のメディアは、日本では就学児童がたった1人で地下鉄に乗っていると、驚きをもって伝えました。アメリカでは、大人の目がきちんと届かない状態で、幼い子どもを学校まで歩いて行かせたり公園で遊ばせたりすると、親は育児を放棄し子どもを危険にさらしたとして、起訴される場合がりますからね。) 
 日本の子どもがどのように小学校に通うかには、地方・地域によって違いがあり、電車やバスを利用する例もあるが、それがすべてではない。私の住んでいる地域では、徒歩で集団登校している。自分が見た一例を、ごく一般的な事例だと拡大解釈してしまうのは危険である。

1月27日
 NHKラジオ『まいにちロシア語』のロシア人パートナーは2人ともウラジオストックの出身だそうで、この日、ウラジオストック出身の有名人を挙げてほしいといわれて、1人がユル・ブリンナー(1920‐1985)の名を挙げていたのが印象に残った。講師が、ブリンナーについて『荒野の七人』に出演したと紹介していたが、ブリンナーの名を高からしめたのは、『王様と私』で、舞台でトニー賞を、映画でアカデミー賞を受賞している。

1月29日
 『朝日』の「多事奏論」のコーナーで、駒野剛記者が「太閤秀吉も宰相も 権力者は花見がお好き」という表題で、慶長3年(1598年)3月15日に秀吉が催した醍醐の花見と、首相主催の「桜を見る会」とを対比している。醍醐寺は真言宗の有力な門跡寺院で、戦乱で荒廃していたのを秀吉が復興して、花の名所として知られる吉野をはじめ、各地から桜の木を移植して、大掛かりな花見を行った。それに比べると、安倍首相の「桜を見る会」はささやかなものである。いや、ささやかというよりせこいという感じがするのは、伝統的な「花見」とちがって、「桜を見る会」は開花期の遅い八重桜を見る会だということであり、開花期が遅いから予算が組めるというところにせこさを感じるのである。
 それから、余計なことを書き添えておくと、「宰相」は「鉄血宰相ビスマルク」とか、「憂国宰相カヴール」とか、「平民宰相原敬」という風に、首相の別名として用いられることもあるが、王朝政治の官職の中では、公卿の最下位に位置する参議のことを「宰相」と呼んでいたことも忘れてはならないだろう。

 本間順治『日本刀』(岩波新書)を読み終える。戦前に出版された書物であるが、今なお版を重ねている。日本刀そのものよりも、製鉄・製鋼をめぐる興味があって読んだのだが、名刀と呼ばれるような日本刀を一振りたりとも見逃さずに、その行方を追い続けようという著者の執念が感じられる。

1月30日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の木曜日の放送は、落語をもとにした短い話を英語で放送しているが、今回は「権助提灯」を取り上げていた。ある風の強い日、金持の旦那が奥さんに火事になると大変だから妾宅に行ってやりなさいと言われて、妾宅に出かけると、愛人の方は奥さんに申し訳ないといって本宅に返そうとする。お互いに相手のことを思い遣っている本妻とお妾さんのあいだを旦那が行ったり来たりするうちにとうとう夜が明けてしまうという噺である。
 権助というのは昔の商店で店頭ではなく、家事のために雇われていた使用人で、落語では都会に出てきた田舎者という役回りで登場することが多い。明治時代の速記本などを読むと、ただの粗野な田舎者という描き方になっていることが多いが、その後時を経て、気が利かないけれども正直で曲がったことが嫌いという性格の持主として描かれるようになってくる。これは寄席の客として、地方から都会にやって来た人が多くなってきたことと対応する変化であろう。この話では、権助が提灯のろうそくの無駄遣いを叱る旦那に向かって、本妻のほかに、妾を持つのがそもそもの無駄だなどと口答えをする辺りが面白いのだが、そのあたりは英語版では省かれていた。

 『アルジャジーラ』によると、バングラデシュ政府はロヒンギャの子どもたちのために学校教育を提供するという計画を認めたそうである。最近にない明るいニュースではあるが、当然のことがニュースになるというのは困ったことだ。

1月31日
 『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」は、「『解放者』シモン・ボリバル」として、中南米のスペインからの独立のために尽力したシモン・ボリバル(1783‐1830)の生涯を紹介した。ベネズエラの裕福な家庭に生まれ育ったボリバルは、ヨーロッパに留学中にマドリードの由緒ある家の娘マリアと知り合い、結婚したが、帰国後まもなくマリアが黄熱病で死んだことからヨーロッパに戻り、そこで彼がいつもクリオージョ(criollo=中南米生まれのスペイン人、本国生まれのスペイン人はpeninsular)と見なされていたことから、独立への志向を高めるようになる。
 Bolívar contribuyó a la independencia de Venezuela y de otros paísajes. Por eso se le conoce como el Libertador.
(ボリバルはベネズエラと(イスパノアメリカの)他の国々の独立に貢献しました。それゆえ、彼は「解放者」として知られているのです。) 彼はイスパノアメリカの連帯を求めていたのだが、各共和国は関心を示さず、失意の中に世を去ることになる。「いったいどうやったらこの迷宮から抜け出せるんだ」というのが彼の臨終の言葉と伝えられる。ガブリエル・ガルシア=マルケスが彼の最後の日々を『迷宮の将軍』という小説の中で描いていることもよく知られている。

2月1日
 毎月、1日付の各紙に『選択』という雑誌の内容をかなり詳しく紹介する広告が掲載されていて、雑誌を講読する経済的な余裕がないので、広告だけ読んで勉強させてもらっている。今回は「カネまみれの『大学入試』利権」として、大学入試「改革」が政官民の癒着による「利権」あさりの手段と化していることが暴露されているようである。一方、『朝日』の「多事奏論」のコーナーでは山脇岳志記者が、入試改革の理念・目的について「『忖度する主体性』にならないか」という疑問をぶつけている。雑誌が「事実」を追求し、新聞が「理念」を問うのは悪いことではないが、やっていることが逆のような気がしないでもない。

 『朝日』の書評欄でクロード・レヴィ=ストロース『われらみな食人種(カニバル) レヴィ=ストロース随想集」(創元社)が取り上げられ、同紙の「大澤真幸が読む 古典百名山」でもレヴィ=ストロースの『野生の思考』が取り上げられていた。
 大学院時代に、梅棹忠夫が出張講義をした際に、レヴィ=ストロースの研究はフランス帝国主義の産物だと言ったという話を伝え聞いたことがある(別に、帝国主義の産物だから悪いと言ったわけではないと思うが、聞いた人は、そう受けとめて、梅棹の研究だって日本帝国主義の産物だと思ったようである)。それはさておき、梅棹は、近代主義者というか、進化論者というか、そういう思考の持ち主だったから、レヴィ=ストロースには批判的だったろうと思う。

2月2日
 『日経』の「名作コンシエルジュ」はジュディ・ガーランド(1922‐1969)が1961年にカーネギー・ホールで行ったコンサートの録音を取り上げている。この記事では彼女が『オズの魔法使』(1939)で成功を収めた後、「スリムな体型を維持し、長時間眠らずに働けるように、映画会社から薬漬けにされてしまったのだ」と、その後の悲劇的な人生を説明しているが、彼女はもともとあまり「スリムな体型」ではなかったので、この説明には無理があるのではないかという気がする。

2月3日
 『日経』に連載されている「大岡山通信」で池上彰さんが、新型肺炎の感染拡大のニュースからカミュの『ペスト』を思い出したと書いている。「舞台はフランスの植民地だった北アフリカ・アルジェリアの都市。ペストが発生し、外部への感染拡大を防ぐために都市は封鎖されます。」
 「封鎖」というのは比較的近代になってからの措置である。むかし、ヨーロッパでペストのような疫病が流行すると、特に裕福な人々は感染を避けるために、郊外の別荘のようなところに逃げる。ボッカッチョの『デカメロン』はそうして難を逃れた男女が時間つぶしに物語る話を集めたという構成になっているのはご存じだろうと思う。
 デフォーの『ペスト』は1665年にロンドンを襲った伝染病の脅威におののく人々を描いた記録文学風の作品であるが、このときまだ幼児であったデフォーが、この災厄を実際に体験したのか、それとも地方に逃れて傍観したのかについては意見が分かれているらしい。とにかく、デフォーの『ペスト』の語り手は、ずっとロンドンにとどまって疫病の蔓延とその終りを見届けている。そこに「神の意志」を見ているところが、注目されるところではある。 

2月4日
 『日経』朝刊の「私見卓見」のコーナーに自修館中等教育学校進路情報室長である川澄勤さんの「大学入試 知識偏重やめよ」という論説が発表されていた。この種の主張はこれまで何度も繰り返されてきたもので「思考力や主体性は国際競争を生き抜く人材に不可欠だ。課題発見と問題解決の力を身につけさせるのが望ましい教育だ」というのも陳腐きわまりない議論である。それを強く主張したいのであれば、こういう出題をすればいいのではないかという具体案を提示すべきである。
 個人的な意見を言っておけば、「知識詰込み」ではなくて、「知識応用」あるいは「知識活用」型の試験問題を出すようにすれば、この筆者の言う問題はある程度解決できるだろうと思う。そもそも、入試に出題「科目」の指定があることが問題で、歴史について言えば、科目横断的に「紀元800年の世界がどのようなものであったかを論ぜよ」というような出題ができることが望ましいのではないか。「日本は平安京奠都から間もなく…」と書く受験生もいるだろうし、「この頃、アメリカ大陸では先住民が…」などと勝手な想像をめぐらす受験生がいても、いいのではないか。それをどのように評価し、その受験生のもっている可能性をどのように伸ばしていくか…ということこそ大学入試の本当の課題なのである。学力というのは数字に還元して、序列化しておしまいというものではないのである。

 各紙の報道によると、1963年に「こんにちは赤ちゃん」でレコード大賞を受賞した歌手の梓みちよ(本名・林美千代)さんがなくなられていたことが2月3日に分かった。76歳。受賞の場面はテレビで見ていたという記憶がある。京都大学の大学祭である「十一月祭」の前夜祭は、教養部のグランドで行われ、当時、大学の総長(法律上は学長のはずだが、京大と東大ではこういうことになっている)であった奥田東さんが、一度ならず、余興として「こんにちは赤ちゃん」を歌われたことを思い出す。そのくらい流行した歌であった。
 個人的にそれほど好きな歌い手さんではなかったが、歌はよく聞いていた。特に印象に残っている歌は「忘れな草をあなたに」である。ほぼ同年代の方なので、訃報に接して愕然とした思いにとらわれる。謹んでご冥福をお祈りする。

『太平記』(300)

2月3日(月/節分)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京では南朝討伐に功があった足利家の執事である高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は、高一族の排除を企てた。また、その頃夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に師直を秦の滅亡の原因となった趙高になぞらえて、高兄弟を討つように進言した。そこで直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それらは天狗の仕業と噂された。足利直義は、妙吉侍者や上杉・畠山の讒言により、高師直の謀殺を企てたが失敗し、逆に高兄弟の軍に自分の居館を包囲され、兄の尊氏のもとに逃げ込んだ。

 将軍尊氏の近衛東洞院の館へ直義は逃げ込んだが、その館を師直たちは包囲して、盛んに鬨の声を上げる。尊氏も直義も、今はこれまでと覚悟を決めて、武士たちにしばらく防ぎ矢を射させておいて腹を切ろうと決心した。そして鎧を脱いで小具足だけの姿になっていたが、師直と師泰はそうはいっても、ただちに攻め入ろうとするそぶりだけで、攻め込んではこようとはしないままに時間がたっていった。
 そこで尊氏は側近の武士である須賀清秀を師直のもとに遣わして、次のように伝えた。「我が先祖である源義家以来、汝の先祖は足利家代々の家臣として忠義をつくし、一日たりとも主従の礼儀を違えたことはなかった。ところが今の今になって、一時の怒りに駆られて、先祖代々の足利家の恩を忘れ、詳しい事情を穏やかに述べることもせずに、みだりに武装して我が居館の四方を囲んでいる。このように尊氏を軽んじることはできても、天の道に背いたことで自分の運命を逃れることはできないだろう。もし心中に怒りを抱いているのであれば、私に対してその所存を申し述べることに何の支障があるのだろうか。とはいうものの、佞臣の讒言にことよせて、国家を奪おうとする企てをもっているのならば、議論の余地はない。わたしはここで腹を切って、黄泉(あの世)の下で汝の運命の行方を見守ることにしよう」と、言葉は少ないが道理のつくされた発言である。
 これに対して師直は、「いやいや、これほど厳しいお言葉を承ろうとは思いませんでした。直義さまが侫者の讒言を聞き入れられて、師直の一派を滅ぼそうという語計画を立てられたので、我々は無実であるという申し開きをし、また讒言の張本人である上杉と畠山の2人を引き出して、(刑場である)六条河原に切り懸けて、後の人の戒めとしようと思って、ここに参ったしだいです」と、旗を下げて、楯を前面に進ませ(戦闘準備に入る態勢をとり)、将軍尊氏の決定をいまや遅しと促したのである。

 尊氏はいよいよ腹を立てて、「そもそも先祖から代々の譜代の家臣に取り囲まれて、事件の張本人を出せと言われ、出すというようなことがあっていいのだろうか。そんなことをすれば天下の笑いものになってしまう。もはやこれまでだ。腹を切ろう」と勢い込んだのであるが、直義の方はなにを考えたのであろうか、「ここはまず師直の言い分を通させましょう」と、尊氏を固くとめたのである。何度か問答を重ねた末に、とうとう師直の思い通りに話が決まり、「これからは、直義を政道に関与させることはない。上杉、畠山は遠流の刑とする」と師直の言い分をほぼ認める回答が出たので、師直は喜んで、自分の宿所へ帰っていった。

 もう1人、直義に師直の讒言を吹き込んだ人物とされた妙吉侍者についても、翌日人を派遣して、捕縛しようとしたのであるが、すでに行方をくらませていたので、仕方なく、その寺の堂舎を壊し、残骸をあちこちに散らかした。妙吉侍者が築いたかのように思われた富と地位は、たちまちに浮雲のように儚い夢物語となって消えてしまった。〔世の無常を感じて出家するのではなくて、出家してから世の転変無常に出会うのでは、順序がおかしい。〕 

 さて、長門探題として中国地方に派遣され、備後の鞆(広島県福山市)に本拠を置いていた足利直冬であったが、彼もこの中央における政治の動きの影響を受けた。師直は、近国の地頭、御家人たちに触れ回って、直冬を取り除くべきであると指示したので、杉坂又次郎という武士が200余騎を率いて、彼の居所に押しかけた。急なことで、然るべき防備もしていなかったため、直冬の命は危うくなったが、磯辺左近将監という武士とその郎従3人が、それぞれ強い弓にかけてはならぶもののない名手で、略式の鎧も着ずに、できるだけ弓を引きやすい態勢をとり、矢を箙から砂浜に散らして、砂の上に突き刺し(てはすぐに抜き取って弓につがえ)、押し寄せてくる敵の物の具のすきまになっているところを過たず射かけ、矢を次々に手早く弦につがえて打ち出したので、寄せ手のうち16騎が落馬し、18騎が負傷した。直冬を逃がすべく、波打ち際に立って、頑張っていた。

 こうして直冬は、磯辺の奮戦のおかげで逃げる時間を稼ぐことができ、肥後の豪族である川尻幸俊の舟に乗って、肥後へと落ちて行こうとした。直冬に心を寄せる人びとははるかに沖までついていった。そして一行は周防の鳴門(山口県柳井市大畠と周防大島=屋代島)の間の海峡を目指して西へと向かっていった。
 建武元年に足利尊氏・直義兄弟が京都の攻防戦に敗北して九州に落ち延びたものの、すぐに勢力を回復して京都に戻った例はすぐ最近のことだったので、気を落すことはないと人々は強いて強気を装ってはいたが、落ち行く旅の悲しさを覆い隠すことはできないようすであった。
 9月13日の夜は、8月15日の夜を「中秋の名月」というのに対し、「後の月」と言って、やはり月見の行事をする習わしであった。その「後の月」の明るさが旅心を掻き立てたので、直冬は
 梓弓われこそあらめ引き連れて人にさへ憂き月を見せつる
(第4分冊、300‐301ページ、私はともかくとして、引き連れた他の者にまで、異郷の辛い月を見せることだ。)
と歌を詠んだので、同行した人々は涙で袖を濡らしたのであった。

 この記事もとうとう300回を数えるに至った。次回、高師直の圧迫を避けるため、直義は出家して、わび住まいをすることになる。また上杉、畠山は越前に遠流される。が、事態はそれで済みそうもない。足利直義と高師直の確執はやがて、直義と兄尊氏との対立になり、南朝の動き、さらには地方勢力の動きとも絡み合って、観応の擾乱が展開されることになる。混乱が混乱を生むこの擾乱は、結局室町幕府の権力を一元化するのに役立っていくのだが、そこまでどれだけの曲折があるかは予測しがたいものがある。
 高氏は天武天皇の王子で壬申の乱で活躍した高市親王の末裔であるが、平安時代以来、源氏、後にはその中の足利氏に仕えて、高氏の惣領が代々、足利氏の家政全般を取り仕切るようになっていた。それで尊氏が幕府を開き将軍となった問、師直は同時に幕府の執事、将軍家の執事となったと考えられている。とにかく足利氏と高氏の主従関係は極めて長いのであって、今回の個所はそのことを踏まえなければ理解できないだろう。備後の鞆の直冬を襲った杉坂又次郎は、杉原とする異本もある由で、杉原とすると、尾道市木ノ庄町に住んだ武士だと岩波文庫版の脚注に記されている。
 最後に、直冬が歌を詠むところで、「武衛」と兵衛府の唐名が使われているが、この語で思い出すのは『吾妻鏡』で頼朝のことをはじめのうち、「武衛」と記していることである。頼朝は平治の乱の際の除目で右兵衛権佐に任じられており、この職は乱後にすぐに解かれるが、坂東武士たちから和風に「佐殿」と呼ばれたことでも分かるように、いったんこの官職に就いたことが彼の社会的評価に後々に大きな影響をもつのである。それはそれとして、直冬も自分に随行する人々を思い遣るところを見せるなど、将としてそれなりの資質を持った人物であることが見て取れる。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(29)

2月2日(日)晴れ、温暖

 エリザベスは、ダーシーから受け取った手紙の中身が、求婚の蒸し返しだとは思わなかったが、何が書かれているのかについて想像できないまま、内容に目を通すうち、夢中になって読み出し、読むそばから矛盾した感情にとらわれていった。ダーシーの手紙は、彼女が彼からの求婚を断った際に取り上げた2つの問題に対する非難に対する弁明であり、(社会的な身分からいっても、名誉を重んじる人間としては当然の対応であるが)、もともと彼女が彼に対して持っていた反感からまともに取り合うつもりはなく、読み飛ばしていったが、ネザーフィールドの舞踏会での事柄に触れられているところから、かなり真剣に読み始めた。そしてジェーンにはビングリーに対する愛情があまり見られないように思ったというダーシーの言い分に腹を立てた。ただ、ダーシーの文章の尊大さを感じるだけであった。〔エリザベスはジェーンと何度も話し合っているので、ジェーンのビングリーに対する愛情を確信しているのであるが、そういう舞台裏はダーシーにはわからない。〕

 次にウィッカムについて触れた個所について読み進む、少し冷静になって読むことができるようになった。その内容はウィッカムに対する彼女の評価を変えることを迫るものであり、しかも記されている事実は、ウィッカムが彼女に語ったこととよく一致していたので、彼女は何度となく混乱し、こんなことは嘘だと心の中で叫んだのである。
 しかし、そうやって、手紙を読むのを中断してみても、また読みたいという気持ちが起きて、読み直し、自分がウィッカムから聞いた話と、手紙の内容を較べながら、両方の主張について考えたのである。ダーシーの父親がウィッカムのために用意していたという牧師禄をダーシーが与えなかったという一件の真相は、どうもウィッカムの言うようなものではなかったと思うようになった。

 ダーシーがウィッカムについて浪費家で身持ちが悪いと書いていることについて、反駁する材料となるような身近な出来事をエリザベスは思いだすことができなかった。「その魅力的な風采や物腰ならたちどころに眼前に浮かんでくるのだが、いざ内実のある善行となると、概して近所界隈の人達に評判がいいとか、持前の社交家ぶりを発揮して聯隊の仲間から一目置かれているとか、どうもそれぐらいのことしか思い出せなかった。」(大島訳、353‐354ページ)
 ウィッカムがミス・ダーシーと駆け落ちをしようとした件については、ダーシーは不審に思うならばフィッツウィリアム大佐に問い合わせればいいと書いていたが、問い合わせるまでもなく、本当のことらしいと思った。

 メリトンの伯父の家でエリザベスと初めて会ったときに、ウィッカムは彼の身の上について包み隠さず話したが、考えてみれば初対面の相手に対し、そんなふうに何もかも話すのは慎みのないことである。それに彼の言っていることと、していることは矛盾していた。彼はダーシーに対して恐れるところはないと言いながら、舞踏会が開かれるとなると、用事を作って出席しなかったのである。他にもこれに類したことがしばしば見られた。
 「今やエリザベスの眼にはウィッカムに関するすべてのことがまるで違った風に見えた。ミス・キングに云い寄ったのも、今にして思えば、ただもう金目当ての動機からに過ぎず、相手の女がさほどの財産家でなかったことも、ウィッカムにさほどの慾がなかったからではなく、得られるものなら何でもいいというだけのことだったのだ。」(大島訳、355ページ) エリザベスとのことにしても、彼女の側の財産に思い違いをしていたか、あるいはただ自分の虚栄心を満足させるためだけに親しくしようとしていただけのように思われた。

 「これまで何とかウィッカムを好意的に見ようと努力して来たが、その気持ちも薄れる一方であった。そしてどうやらミスター・ダーシーの方が正しそうだという気持が強まるに連れて、見直さざるを得ないことが次つぎと思い出された。」(大島訳、355‐356ページ)
これまでウィッカムの言うことを信じて、(また、メリトンでの舞踏会での無礼な言葉を引きずって)ダーシーには偏見を持ってきたけれども、ビングリーはダーシーが立派な男性であると言っていたし、ここしばらく彼と身近で接触する機会が多かったので、彼が礼儀正しい、しっかりとした人物であることは感じてきた。

 「エリザベスは自分が恥しくて居た堪らない気持ちになった。――ダーシー、ウィッカム、どちらのことを考えても、自分が盲目で、公正を欠き(partial)、偏見に囚われ(prejudiced)、愚か(absurd)であったと思わずにはいられなかった。」(大島訳、356ページ、absurdを大島さんは「愚か」と訳しているが、absurdは「ばかばかしい」とか、「ばかげた」という意味である。次のことと関連するが、「ばかげた振舞をする存在」というような意味であろう。) 彼女は自分が頭がいいとうぬぼれ、姉の他人を疑わない寛大な善意を見下していたことを後悔した。
 そして、手紙の中のジェインとビングリーについて触れた部分に改めて目を通した。ジェインがかなり激しい性格の持主なのに、表面的にはおっとりとしたふうに見せていて、自分の気持ちをはっきり顕わさないので誤解を受けやすいというシャーロット(コリンズ夫人)の言葉を思い出したりしたのである。

 それから自分の家族について触れられた箇所については、気に障るけれども、本当のことだと思わないわけにはいかなかった。「その非難が正しいことはいやでも認めざるを得ず、それにダーシーが特にネザーフィールドであったことに言及して、そもそも2人(ジェインとビングリー)の結婚に不賛成だった気持ちがあれで決定的なものになったと云う母や妹たちの振舞は、当のダーシー以上にエリザベスの方が遙かに強く心に徹(こた)えていたのだ。」(358ページ)
 「――ジェインの失恋を招いたのが実は最も身近な家族の所業だったことを考え、自分と姉の対面や信用も家族のそういう礼儀知らずな振舞のためにいやでも傷つかざるを得ないことを思って、エリザベスはすっかり気が滅入った。こんな気持ちになったのは生まれて初めてであった。」(同上)

 こうして彼女は2時間ほどあれこれと考えながら、小道を歩き、考えることにも歩くことにも疲れて、家に引き返すことにした。そして皆との談話の際には、努めて明るい表情をしようと決心したのである。
 エリザベスは、留守中に、ダーシーとフィッツウィリアム大佐がそれぞれ別々に彼女にいとまごいにやってきていたことを知らされた。ダーシーの方はすぐに帰ったが、大佐は1時間ほど彼女の帰りを待っていたという。エリザベスは、大佐にあえなくて残念だという表情を何とか見せることができたが、内心では顔を合せなかったことにほっとしていた。彼女の気になるのは手紙のことだけであった。

 エリザベスのケント滞在中に、ダーシーの彼女への求婚という大事件が起こり、エリザベスの拒絶、しかしそのためにエリザベスがウィッカムの正体を知り、ダーシーへの偏見を改め始めるという展開になる。エリザベスは(途中でジェインと合流して)ハートフォードシャーの父親のもとに戻ることになるのだが、ケントを去るところにかなりの枚数が費やされていて、なかなかそこまでいかない。次回はその点を我慢してお付き合いください。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(12)

2月1日(土)晴れ

 紀元1世紀ネロ帝時代のローマの詩人ルーカーヌス(38‐65)の現存する唯一の作品であるこの叙事詩は、紀元前1世紀の半ばに展開されたローマ共和政末期の内乱を主題とするものである。
 紀元前60年にポンペイウス、クラッスス、カエサルの3人の間で成立した第一次三頭政治は、混乱していたローマに安定をもたらしたが、同53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残る2者、ローマにいたポンペイウスと総督としてガリアにいたカエサルとの間の対立が激しくなった。紀元前50年にポンペイウスは元老院の保守派と結び、カエサルの解任・召還を決定する。しかし、カエサルはこれに応じずに、紀元前49年、イタリアとガリアの境界であるルビコン川を軍隊を率いて渡り、ポンペイウス打倒を目指す。ローマは混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ、政府の高官や元老院議員たちはローマから逃亡する。(第1巻)
 ポンペイウスはカプアを拠点として反撃を試みるが、破竹の勢いのカエサル軍に対抗できず、イタリア半島南東のブルンディシウムに追いつめられ、さらにそこを脱出して、ギリシアへと向かう。(第2巻)
 カエサルはローマに入城するが、民衆の支持は得られず、国庫からの略奪をしたことで評判は悪くなる。(第3巻のこれまで)

(第3巻の続き)
 一方、イタリア半島の外では、ポンペイウスに呼応して多くの地方と人々が挙兵し、徴募されてポンペイウス軍に参集した。ギリシア、プリュギア、シュリア(シリア)、ポエニキア(フェニキア)、カッパドキア、アルメニア、アラビア、アエティオピア(エチオピア)、バビロニア、スキュティア・・・とそれらの土地と民族が列挙される。この列挙には誤聞や誇張があるかも知れないが、主としてローマの東と南の方の地域から兵力を集めていたことが分かる。これらの地方は、ポンペイウスが闘い、勢力を築いてきた地方であり、カエサルの『内乱記』第3巻第3‐5節を見ても、ポンペイウス方の軍隊の内容はほぼ一致する。

・・・一人の将の麾下に
これほど数多の王たちが集まった例(ためし)はない。また、かつて、衣装が
これほど千紫万紅の民族、言葉がこれほど千態万状の軍勢が
集まった例もない。運命は、膨大な数の民人を一大破滅の
道連れとして戦に駆り立て、(ポンペイウス・)マグヌスの葬儀に相応しい
葬列を賜ったのだ。
(第3巻302‐307行、137ページ) 詩人は、一方で大軍の参集を記しながら、その不吉な運命についても既に予示している。
・・・運命の寵児
カエサルにすべてを一時に受け取らせようと、パルサロスの野は、
全世界を一堂に会させ、カエサルの勝利のために差し出したのだ。
(第3巻310‐312行、137‐138ページ) パルサロスはギリシアのテッサリア地方の都市で、やがてこの都市周辺の平原で、カエサルとポンペイウスの軍隊が衝突することになる。この叙事詩の別名を「パルサリア」というのは、このためである(申し遅れました)。現在はファルサラという人口2万人足らずの町だそうである。

 一方、カエサルはイベリア半島のポンペイウス派を掃討するためにローマを後にして、西へと向かう。イタリア、ガリアの各都市が息をひそめてその行軍を見守っている中で、もともとギリシア人の植民市であったマッサリア(マルセイユ)が「ギリシア人らしからぬ強固な意志で、あえて/ローマと交わした信義と盟約を守り、事の向背に従うのではなく、/あくまで大義を貫こうとした。」(第3巻、316‐318行、138ページ) マッサリアの人々はカエサルに使者を送り、ポンペイウスとの和平を結んで、内乱を避けるべきだと主張したのである。そして、もしこの申し出が受け入れられなければ、籠城して飽くまで抵抗すると言い放つ。
 このあたりの経緯は、カエサルが『内乱記』で書いていることと異なっている。コルフィニウムでドミティウスとともにカエサルに抵抗しようとして捕縛され、宥恕されたルフスがポンペイウスによりヒスパニアに派遣されたことで、カエサルは西に向かうことを決心するが、ドミティウスもマッシリアに向かったことを知る。マッシリアはカエサルとポンペイウスの両者の影響を受けていたので、その意向を決しかねていたが、協議中にドミティウスがマッシリアに上陸してカエサルとの戦いの準備を始めたという。これに怒ったカエサルはマッシリアを陸と海の両方から攻撃することを決心したのだという。

 マッシリア市民たちの内乱の調停・回避の申し出をカエサルは怒りをあらわにして一蹴する。
「・・・ 世界の西の果て、へスペリアを指して、
我らは急いでいるが、マッシリアを破壊するくらいのゆとりはある。
喜べ、大隊の兵らよ。行く手に運命の与えてくれた恵みの戦が
我らを迎えてくれている。疾風は、密生する森がその木々で迎え撃たねば、
空のうちに四散して威力を失い、大火は、行く手阻む障害物がなくば、
鎮火する。それと同じで、討つ敵を欠くなら、私には痛手。
勝利できる相手が逆らわねば、思うに、兵戈の損亡というものだ。」(第3巻、379‐385行、142ページ) 本格的な戦いに取り組む前の腕試しとして、こんな都市はひねり潰してやるというのである。
 こうしてカエサルは、マッサリアの周辺の地勢を見極め、攻囲戦の準備に取り掛かる。

 古今東西を通じて、空前の名将に数えられる1人を敵に回して戦うというのは相当な決心だったと思うが、人物の価値は同時代人にはかえってわかりにくいということもあって、マッシリアの市民はカエサルを甘く見ていたのかもしれない。(ヘーゲルがナポレオンを「歴史的人間」と評価しているのは、一流は一流を知るという例だと感心しているところなのである。) カエサル軍は、しかし、マッサリア攻囲にかなり苦戦することになるが、それはまた次回に。
 マルセイユという港町は、日本人がインド洋からスエズ運河をぬけて船でヨーロッパへと旅していた時代にはおなじみの町であったし、マルセル・パニョルの三部作などでその町の外貌にも触れることが多く(私は横浜育ちなので、港町は好きである)、まだ行ったことはないが、一度は行ってみたい都市の1つであるが、こんな過去の歴史があるとは知らなかった。
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