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2020年の2020を目指して(1)

1月31日(金)晴れ、部屋の中にいる分には温暖だが、外に出ると結構風が冷たい。

 昨年同様、新年を東京で迎え、元日のうちに横浜に移動した。その後何度か東京に出かけた。
 足跡を記したのは都道府県単位では、東京都と神奈川県。
 市区町村単位では、横浜市、渋谷区、新宿区、文京区の1市3区である。
 利用した鉄道は会社別でみると、東急、東京メトロ、横浜市営地下鉄の3社、
 路線別では東急の大井町線、東横線、目黒線、東京メトロの南北線、半蔵門線、横浜市営地下鉄のブルーラインの6路線を利用している。
 飯田橋、渋谷、坂東橋、本駒込、横浜の5駅で乗り降りし、
 乗り換えのために、大岡山、自由が丘、永田町、武蔵小杉の4駅を利用している。
 利用したバスは会社別でみると、相鉄と横浜市営の2社、
 相鉄の6路線、市営の8路線、合計14路線を利用し、
 7か所の停留所で乗り降りしている。〔47〕

 この記事を含めて31件の記事を書いた。内訳は日記が1件、日記(2020)が5件、読書が8件、読書(歴史)が6件、梅棹忠夫が2件、『太平記』が4件、ジェイン・オースティンが4件、詩が1件である。コメントを4件、640の拍手を頂いた。〔35〕

 10冊の本を買い、5冊を読んだ。例年に比べて調子が悪い。読んだ本を列挙すると、マキアヴェッリ(池田廉訳)『君主論』(中公文庫)、倉本一宏『公家源氏』(中公新書)、松原隆彦『宇宙は無限か有限か』(光文社新書)、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑬ 麗しの上海楼』(双葉文庫)、本間順治『日本刀』(岩波新書)
ということである。本はすべて紀伊国屋横浜店で買っている。〔6〕 

 『ラジオ英会話』を18回(1月27日と29日の放送分を聴き逃しているが、2月2日の再放送で聴くつもりである)、『入門ビジネス英語』を8回、『遠山顕の英会話楽習』を11回(1月21日の放送分を聴き逃し、再放送を聴いたのだが、途中で寝てしまって全部は聴いていない)、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。
 『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を7回聴いている。フランス語、スペイン語、イタリア語ともに入門編は以前に放送されたものの再放送であり、聞き覚えがある内容が少なくない。応用編を聞いていると、フランス語、スペイン語に比べて、イタリア語の力が劣っているという実感がある。〔116〕

 横浜・若葉町のシネマ・ベティーで『台湾、街角の人形劇』(2018、台湾、楊力州監督)を見た。昨年に比べて、少しでも多くの映画を見ようと思っているが、さて、どうなるか。〔2〕

 神楽坂のThe Gleeまで別府葉子さんのシャンソン・ライヴを聴きに出かけた。〔1〕

 ニッパツ三ツ沢球技場で全国高校サッカー選手権の2回戦2試合を観戦した。〔3〕

 美術展に出かけたことはなく、史跡や名刹を訪問したこともない。
 体調はあまりよくないのであるが、かえって酒を控えようという意欲がわかず、だらだらとアルコール類を飲み続けている。

 この「20**年の20**」というシリーズは2011年から2020年まで続けるつもりで、記録をとってきたのだが、達成できなかった年もあるので、2025年まで続けていくことにした。もっとも、それまでこちらが体力・気力を維持していくことができれば…の話である。 
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細川重男『執権』(7)

1月30日(木)晴れ、温暖。

 鎌倉幕府の歴史は、(主として東国の)武士たちが自分たちによる支配機構を作ろうと悪戦苦闘した歴史であり、それは著者の言葉を借りつと「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。その奔流の中で、代々の北条氏、特にその得宗は、いかに戦い、生き、何を築いたのか。それを北条義時と、時宗を通じて見ていこうとするのがこの書物である。
 第1章「北条氏という家」では、鎌倉幕府成立以前の北条氏が、東国にありふれていたその他大勢の武士団、田舎土豪に過ぎなかったことを明らかにした。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」では北条義時の人生とそれが後世に与えた影響、特に彼が頼朝死後の鎌倉幕府の権力闘争にどのようにかかわったか、実朝との関係、承久の乱の経緯、そして彼が八幡神の命を受けた武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説について考察した。
 今回から第3章に入る。

第3章 相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの
  奇怪な古文書
 1通の「指名手配書」
 昔は出雲国だった島根県・出雲市にある天台宗の古刹、浮浪山鰐淵寺(がくえんじ)には弘安7年(1284年)9月7日付の出雲守護佐々木(塩冶)頼泰施行状という文書が伝わる。これはその前日に頼泰のもとに届いた8月20日付の鎌倉幕府の命令書「関東御教書」の写しを、国内の御家人や軍事力を持つ寺社に送付する際に、守護が添えて出した文書である。将軍の意志を伝える文書である「関東御教書」は現存せず、施行状はこの1通しか残っていないという。その内容は、「相模式部大夫殿」という人物とその子息があちこちに出没しているので警戒を怠るなというものである。つまり指名手配書である。

 位階と官職
 では、この「相模式部大夫殿」とは何者であろうか。
 文書内に記された「式部大夫」という位階と官職とから判断して、北条時頼の庶長子である北条時輔であると考えられる。

 北条時輔と二月騒動
 ところが、時輔は弘安7年から12年も前に、すでに京都で没していた。文永9年(1272年)の鎌倉幕府の内戦「二月騒動」の際に25歳で殺害されていたのである。それを命じたのは、彼の異母弟である執権時宗であった。
 ということは、幕府はすでに死んでいるはずの人物の手配書を発給したことになる。しかも、この文書が発給される半年前に、時輔殺害を命じた執権である時宗は死亡していた。

 当時、二月騒動で殺害されたはずの時輔が、実は逃亡して生存しているという噂があったことを裏付ける史料も存在する。時輔が殺害されたことは歴史的事実として否定できないが、彼の生存のうわさが流れ続けたことも事実である。そこで細川さんは「時輔の経歴と二月騒動そのものを再検討することにより、時宗政権における二月騒動の歴史的意義と時輔の生存・廻国伝承の背景の解明を目指そうと思う。それは、蒙古襲来という未曽有の国難に立ち向かい、大日本帝国の時代には救国の英雄に祭り上げられた北条時宗とその政権の実相を我々に教えてくれるはずである」(115‐116ページ)と細川さんは見通している。

  北条時輔の政治的位置①――嫡庶の順位
 三郎・太郎・四郎・七郎
 北条時頼には7人の男子があったことが確認されるが、ここでの考察にとって重要なのは時輔・時宗・宗政・宗頼の4人である。彼らの長幼の順序は、ここで記したとおりであるが、それぞれの仮名は三郎・太郎・四郎・七郎となっていて、順序がおかしい。

 長子で庶子
 なぜこのようなことが起きたのか。『吾妻鏡』によると弘長元年正月4日に時頼は子息たちの序列を定め、時宗を第1位、宗政を第2位、時輔を第3位、宗頼を第4位としたのである。時宗、宗政は時頼とその正室の間にできた子、時輔は側室との間にできた子、宗頼の母は未詳。だから、ここでの序列は、長幼よりも嫡庶の方に重点が置かれていることが分かる。その点を考えると、年長だが庶子である時輔が三郎、序列は上だが、年少の宗政が四郎とされている。時頼が、時輔の扱いを慎重に考えていたことが分かる。もっともこの慎重な配慮も、実を結ばなかったことはその後の経緯を見ればわかることである。

  北条時輔の政治的地位②――烏帽子親
 足利家の系譜
 時輔の元服は康元元年(1256年)8月11日、9歳の時のことで、烏帽子親は足利一族の利氏(後に頼氏と改名)で、足利尊氏の曽祖父にあたる。詳しいことを書くとややこしくなるが、足利氏は源頼朝と姻戚関係を有し、三代にわたって北条氏から妻を迎え、北条氏家督(得宗)の娘を母とするものが当主となっている。源氏三代滅亡以降、源氏の嫡流と見なされてきた。そのような家柄の有力御家人が烏帽子親となっていることは、時輔が決して軽く扱われていなかったことを示すものであると細川さんは論じている。

 「北条時輔の政治的地位」をめぐる考察は⑤まで続くが、それはまた次回に譲ることにしよう。すでに紹介してきた②までで、土岐頼は庶子ではあっても年長の時輔を、それなりに大事に扱い、彼と時宗とが反目しないように配慮してきたというのが細川さんの説である。そこから「二月騒動」の原因は、長子であってもその生まれのために冷遇された時輔が時宗に恨みを持ったということであるという理解に対し、異論を唱えようとする。次回により詳しく論じることになるが、時輔を排除する理由があったのは時宗の方ではなかったかということがこの後、論じられることになる。
 

ベーコン『ニュー・アトランティス』(12)

1月29日(水)朝のうちは雨が残っていたが、その後はよく晴れ、気温上昇。

 フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)は16世紀から17世紀にかけてイングランドで活躍した法律家、政治家、文筆家であるが、今日ではその政治的業績は忘れられ、英国経験論哲学の源流とされる哲学的な著作や、近世の代表的なユートピア文献の一つとされるこの『ニュー・アトランティス』によってその名を知られている。
 「旅について」と題される彼のエッセーの中で、ベーコンは「旅は、若者にとっては教育の一部であり、年長者にとっては経験の一部である」と書いているそうである。新しい経験を求めて、南米のペルーから、当時南海と呼ばれていた太平洋を横断し、中国あるいは日本をめざす航海に出かけた語り手の一行は、強い南風に流されて、太平洋の道の海域にある島(その住民たちは、自分たちの島をベンサレムの島と呼んでいた)に漂着する。
 島の人々は外部との接触を制限しており、語り手の一行もはじめのうちは上陸を拒否されるが、彼らがキリスト教徒であり、海賊ではないことが分かると、上陸を許可され、外部からの漂流者を収容する施設に滞在することになる。はじめのうちは、行動を制限されていたが、その後、自由に島の中を見て回ることができるようになった。
 島は1900年ほど前(ということは紀元前300年頃)にこの島を支配していたソラモナ王による改革を経て、その後、紀元50年ごろにある奇蹟を通じてキリスト教を信奉するようになった。ソラモナ王の改革により、外部との交流を制限することになったが、彼の創設した「サロモンの家」に優れた学者を集め、世界中の知識・科学が集積されるようにしてきた。島の人々は厳重な一夫一妻制を守り、家族の結合を何よりも大事にしてきている。
 語り手を含む一行は、彼らが滞在する町にやってきた「サロモンの家」の長老と会見し、語り手は、彼からこの学問的施設の詳しい内容について聞くことができた。彼らは地下深く掘られた洞窟や、地上高く築かれた塔をもち、科学的な研究に役立てている。

 長老の話は続く。
 「サロモンの家」は、淡水、塩水の大きな湖をもっていて、そこに多くの魚類や鳥類を放している。湖は生物の埋葬のためにも利用し、他の場所に埋葬した場合と、埋葬後の変化がどのように違うのかが観察される。また、池(pools)も設けられていて、そこでは塩水から淡水を濾しだしたり、淡水を塩水に変えたりする実験が行われている。さらに海の中の岩(岩礁か?)や、海岸部の入り江(川西訳では「湾」になっているが、前後の関係を考えるとこの方が適切である)を利用して、水蒸気が蒸発する様子を観察する。急流や滝は動力として利用される(水車が作られているということであろう)。風車を使うだけでなく、その風力を更に強化することのできる装置も開発している。

 彼らはまた、いくつもの人口の井戸(well)と泉(fountain)を、自然の泉(source)や鉱泉(bath)を模して作っている。これらは硫酸塩(vitriol)、硫黄、鋼(川西訳では「鉄」となっているが、原文はsteelである。自然の状態で得られるのは「鉄」であって、「鋼」であることは言うまでもないが、ベーコンには何か意図するところがあったのかもしれない)、銅(原文ではleadで、これは川西訳では次に出てくる鉛である)、鉛(原文ではbrassで「真鍮」である。これまたsteel同様、自然には存在しない)、硝石、その他の鉱物を含んでいる。逆に水の中に、鉱物質を溶け込ませるための井戸もある(要するに鉱水を作り出すための井戸である)。こうして得られた液体の中に「楽園の水」(Water of Paradise)と呼ばれるものがあって、これは人々の健康維持に役立ち、寿命を延ばす効能があるという。
 このあたりの記述は、この物語が未完のまま残されていて、ベーコンがさらに推敲を重ねなかったために意味が明瞭にとれない部分があるが、それと共に彼の科学的な知識が時代の制約を受けていたことも物語っているように思われる。

 彼らはまた広壮な館を所有し、そこで様々な大気現象(meteors)を人工的に作り出し、実験する。すなわち、雪、雹、雨、水以外の液体の雨、雷、稲妻などである。また蛙、羽虫、その他さまざまな生物を大気中に発生させる。〔顕微鏡の発明は1590年のこととされ、『ニュー・アトランティス』の執筆に先立っているが、この時代の人々はまだまだ、多くの生き物が大気中で自然に発生すると考えていた。ベーコンもそうした時代の制約を克服していなかったのである。〕

 彼らはまた「健康室」(Chambers of Health)という名の部屋を設けていて、そのなかの空気をさまざまな病気の治療と健康の維持にとって適切な効果をもつように調節しているという。

 また清潔で広い浴場も設けられていて、その湯の中には数種の成分を溶かし込んで、病気や、arefaction(この語は、辞書に載っていなかった、川西さんは「水分欠乏」と訳している)の治療に役立つようにしている。また、筋肉、内臓、体液を強壮にする効能を持った浴場も設けられている。〔日本では温泉療養は昔から、ごく一般的に行われてきたのであるが、イングランドには湯治場というのは少なかった。だからこそ、それを人工的につくろうというところに注目すべきであろう。〕

 さらに大規模で多様な果樹園(orchard)と菜園(garden)があり、美観よりも、そこで栽培される様々な樹木や草本(川西さんは「草本」と訳しているが、原文はberriesで「核のない果肉の柔らかな食用小果実」である)の生育に相応しい地形、土壌を配慮して作られている。葡萄園(vineyard)のほか、さまざまな種類の飲料を作るための草木を植えた広い場所もある。そこで栽培されている植物のほか、野生の植物についても接ぎ木、芽接ぎなどの実験を行って、品種改良をはかっている。植物の開花や結実を早めたり、遅くしたり、実を大きくしたり、より甘くしたり、薬用に役立つように改良したりする。
 イングランドで栽培される果物というとリンゴのほかは、berriesだけである(その代わり、berriesの種類はかなり多い)。ブドウはウェールズでは栽培されていたようであるが、イングランドでは栽培されず、したがってワインも醸造されなかった。しかし、最近は地球温暖化の影響でブドウ作りが広がって、ワイン醸造も盛んになってきたそうである。そういうわけで、この果物をめぐる記述には、果物にあまり恵まれないイングランドで暮らす(より恵まれていたフランスで暮らした経験のある)ベーコンの願望が込められていると考えてよいよいに思われる。

 長老はさらに続けて言う:
 「われわれには、さまざまな植物を、種からではなく土壌の混合によって発生させる手段がある。同様に普通種とは異なる新種の植物を作ったり、ある草木を別種の草木に変える術を知っている。」(川西訳、55ページ)
 昆虫が大気中から発生するというのと同様に、植物が土壌の中から発生するというのも今日の化学常識からいえば否定されるべきことである。しかし、ここで植物の品種改良→人々の生活の改善を目指すベーコンの意気込みは評価されてよいだろうと思う。今回取り上げた個所は、思想家としてのベーコンの時代的に背負っていた制約と、にもかかわらず抱いていた科学技術の普及による社会改善の夢をよく物語っているのではないかと思う。「サロモンの家」の施設・設備についての長老の話はまだまだ続くが、この後の話はまた次回に。

 

日記抄(1月22日~28日)

1月28日(火)雨

 1月22日から本日までのあいだに、経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

1月22日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』では、登場するアルゼンチン女性とガイド役の日本青年が北海道大学のキャンパス内にあるクラーク博士の銅像の前に立つ。有名な「少年よ大志を抱け」(Boys, be ambitious!)」という言葉を、スペイン語でいうと、”¡Chicos, id lejos, perseguid vuestros sueños!"(青年たちよ、成功をつかめ、夢を追え!)というのがふさわしいが、長くて複雑なので、放送では、英語からの直訳で”!Chicos, sed ambiciosos!"としておいた。というのは、スペイン語のambiciosoには「野心満々の、欲望むき出しの」という、あまりよくないニュアンスが含まれているからだとのことである。
 さて、”Boys, be ambitious!"を「少年よ、大志を抱け」と訳して、その精神を広めたのが、札幌農学校の1期生として、直接クラーク博士の薫陶を受けた大島正健(1859‐1938)で、彼は後に甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高校)の校長になった。この学校で留年を繰り返していた生徒の1人が、そのおかげで大島に出会うことができ、彼の人格に触れて発奮し、ジャーナリスト、政治家として大成した。石橋湛山である。甲府第一高校には、石橋による”Boys, be ambitious!"の碑が残っているそうである。
 私の小学校時代の担任の先生の1人が厚木の方で、卒業してだいぶ経ってから先生を訪問した際に、大島正健の話題が出て、大島家というのは海老名の名門なんですよと教えていただいたことがある。

1月23日
 『朝日』の朝刊で、歴史家の樺山紘一さんがイスラム世界の多面性を理解すべきだという見解を示していて、少なくともアラブ、イラン、トルコの3つの部分に分けられると説いていたのは、北アフリカやその他のアフリカ、東南アジアのイスラーム世界をどのように位置づけるのかという問題に答えていないとはいうものの、なかなか説得力のある意見だと思った。英国の歴史家のエリック・ホブズボームがその晩年に、「アラブの春」は彼の生涯で出会ったいちばん大きな出来事だと語っていたのに比べると、歴史の動きを正確に見ている意見ではないかと思うのである。

 同じく『朝日』に「ジャワ原人」についての最近の研究の様子が紹介されていた。われわれが若いころは、ジャワ原人や北京原人は我々の先祖だと思われていたのが、現在では別の種であるということになっている。しかし、だからと言ってその研究が意味がないということにはならないのである。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」で、登場人物たちはベネズエラ西部の町メリダを訪問する。アンデスの山間にあるこの町は、首都カラカスのベネズエラ中央大学とならんで、ベネズエラを代表する学府であるロス・アンデス大学などがある学生の街・文化都市であるという。この日の『朝日』では、「ベネズエラ 続く混迷」として政権の正統性をめぐるグアイド派とマドゥロ派の争いによる混乱が取り上げられていた。メリダの町の現状はどのようなものなのだろうか。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"で取り上げられた言葉:
The advancement and diffusion of knowledge...is the only guardian of true liberty. (from Letter to George Thomson)
           ―― James Madison Jr. (4th U.S. president, 1751 - 1836)
 知識の進歩と普及のみが…真の自由を守る。
 マディソンは合衆国建国の父と呼ばれる人々の中で最後まで生きていた人物であり、合衆国憲法の制定に大きな役割を果たした。アメリカ合衆国各地に、彼の名前を付けた地名が見いだされる。また彼の妻のドリーは、彼女を讃えた言葉から、ファースト・レディーという言葉が生まれたといわれるほどに、人気があったそうである。

1月24日
 『東京』の投書欄「発言」・「若者の声」にある高校生の、日本の社会は「遅刻にはうるさい半面、終了時刻を守らないことには”寛容”だ」という意見が掲載されていた。会議をだらだら長引かせることが好きな人というのはいないかもしれないが、知らず、知らず、そうしている人は少なくないかもしれない。

1月25日
 『朝日』朝刊の「耕論」:「『上級国民』流行する国」をめぐる社会学者の吉川徹さん、歴史学者の與那覇潤さん、歌人の山田航さんの三者三様の意見の開陳が読みごたえがあった。
 吉川さんの意見で現在の日本では「『上から目線』は冷ややかなのに『下から目線』は暖かいという傾向がある」、「不満や批判を強めるよりむしろ『エリートは頑張って』とお任せ状態で委任を与えているように思え」るという指摘が腑に落ちるところがあった。にもかかわらず、池袋の事件では「下から上層を見るまなざしが、これほど批判的な熱を帯び」たことを問題にしている。
 與那覇さんは「上級国民という言葉の使われ方には、独特のひりひりした感覚が伴ってい」るという。そこにあるのは、単なる階級意識にとどまらない悪意だとさえ言っている。というのは、この言葉遣いには「階級に欠かせない『われわれ』意識がそこにはない」からである。むき出しの『私』が「上級国民」を攻撃している。〔しかし、そういう「私」もある社会階層に属し、その社会的経済的な制約を背負って、自分の意見をぶつけているわけである。〕
 最後に山田さんは、カタカナ言葉が飛び交う中で、「上級国民」などという漢語が盛んに使われることに違和感を感じながら、「現在、さまざまな制度についてコミット(参加)できる、アクセスできる「権利」をもつこと自体が「特権」である、と考える層が増えているのではないでしょうか」と問うているが、その「特権」をもつことができる一歩か二歩手前で挫折した経験を持つ人々が増えているということであるのかもしれない。
 これらの点をめぐっては『日経』の「経済論壇から」で「格差拡大にどう対応するか」という見出しのもとに土居丈朗さんがまとめている民主主義と平等をめぐるアマルティア・センさんと、猪木武徳さんの議論なども合わせ読むといいかもしれないし、さらに同じ『日経』の読書欄で紹介されているマイク・サヴィジ『七つの階級』なども読んでみるといいのかもしれない。

 同じ土居さんの論評の中で、オックスフォード大学の苅谷剛彦さんが現在の大学入試改革をめぐり、「これまでの教育実践の蓄積から帰納して政策を建てるという発想は封じられ、実態把握を欠いたままでも、つぎつぎと教育政策の言説を生産する演繹型思考によって政策立案されてしまった」という洞察を展開していることが紹介されていて、非常に興味深かった。これは、入試をめぐってだけでなく、教育政策全般についてもあてはまる議論ではないだろうか。教育政策の策定に先立って、大規模な調査が行われた例というのをあまり聞いたことがない。
 さらに、中央大学の阿部正浩さんが、現在、敬遠されがちな職業の多くが、イメージだけで判断されているが、実はプロとしての高度なノウハウが求められているし、社会的意義もあるということが求職者に知られていないと論じているという。この苅谷さんと阿部さんの議論は、高等教育への入り口と出口をめぐる議論であって、その間の過程についても議論がもっと深まることを期待したいところである。

 同じく『朝日』朝刊にアウシュビッツ解放75年を記念する式典がエルサレムで開かれたという記事が出ていた。ドイツの大統領が「歴史から学んだと言えたらよかったが…」と複雑な胸中を吐露する発言をしたという。ナチスによる迫害の被害者であったユダヤ人の国家であるイスラエルが、パレスチナ人を抑圧しているという現状をどのように考えるかというのは、重い問いである。

 同じ『朝日』朝刊に、北京大学経済学院の教授である蘇剣さんの中国の人口統計が信用できず、その人口がすでに減り始めているのではないかというインタビューが出ていた。他山の石とすべし。

1月26日
 『日経』の朝刊で宮下志朗さん(このブログでも取り上げたラブレー『ガルガンチュワ物語』の翻訳者の1人である)が、「ある田舎貴族の日記」という文章を書いている。16世紀のフランスを生きたジル・ピコ・ド・グーベルヴィル(c1521-78)というノルマンディー最北部のコタンタン半島、シェルブールの近郊で暮らした貴族で、リンゴ栽培に情熱を注ぎ、日記にはシードルを蒸留した旨の記述があることから、現代では「カルヴァドスの父」とも呼ばれているという。実は、シャルル・ボワイエとイングリッド・バーグマンが共演した『凱旋門』という映画を見て以来、カルヴァドスは親しんできた酒で、このところ、飲んでいないが、機会があったら飲んでみたいと思っている。彼は、自分の館から外に出ることがあまりなく、そのため後世の歴史家から「出不精な田舎貴族」などと言われたが、毎日の出来事をありのままに、経済生活を中心につづった日記は、その目立たない日常のたんたんとした記述のために魅力のあるものになっているという。

 佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書)について、『毎日』で松原隆一郎さん、『読売』で苅部直さんが論評している。同じ日に同じ書物の書評が2紙以上で取り上げられるのは珍しいことではないが、約50年間にわたって、文部(科学)省が展開してきた高等教育政策がどう考えても〔この間に新設された「新構想大学」が、筑波大学を除いて、世界の大学ランキングの上位に顔を出していないという事実を見れば明らかなように〕、失敗だったというあまり愉快ではない事実と向き合うべき時が来ているということである。
 
1月27日
 『朝日』朝刊に同紙が河合塾と共同で実施している日本の大学を対象とするアンケート調査の結果が発表されていて、多くの大学人が私立大学が多すぎると感じていることが示されていた。

 『東京』の連載漫画・青沼貴子さんの『ねえ、ぴよちゃん』は本日でちょうど1000回を迎えた。小学校から下校するぴよちゃんと、それについてきた猫の又吉。風が強いので、又吉が風よけになろうとすると、風に飛ばされてしまい、結局、ぴよちゃんのランドセルの中に入れてもらうというもの。この漫画、登場人物が笑いの質が他愛のないものが多く、登場人物が笑顔で描かれている場面が少なくないところが好きである。さらに、連載が続くことを望む。

 『日経』朝刊に青山学院大の耳塚寛明さんが日本の子どもの読解力の低下の問題について書いていたのが、論点整理に役立つ論考であった。要するに、PISA調査で問題にされているのは一般的な読解力ではなく、IT時代に必要な読解力であるということで、この点を混乱して解釈してはならない。

1月28日
 『東京』の「本音のコラム」でルポライターの鎌田慧さんが「生活保障なき経済大国」という文章を書いている。最近、財界のえらい人たちが「生涯雇用」(終身雇用の方が一般的な言い方ではないか)、「年功型賃金」による「家族主義」的な経営=「日本的経営からの脱却」を唱えているが、そのなかで、「日本的経営」のもう1つの重要な柱であった「企業内組合」も変質を余儀なくさせられているが、それでいいのだろうかという論旨である。これは見落とされがちな論点なので、あえてここで注目を喚起しておきたい。

 『日経』に短期連載中の「装いがまとう意 十選」第7回は、藤沢の清浄光寺(=遊行寺)所蔵の後醍醐天皇の肖像を取り上げている。この図は、網野善彦の『異形の王権』の表紙にも使われたりして、『太平記』と南北朝時代の歴史に関心のある人々にはおなじみのものであるが、後醍醐天皇の即位灌頂の印明伝授者は関白・二条道平であったという記述が印象に残った。道平は、このブログにしばしば登場する二条良基の父親である。
 このブログで取り上げようと思って、機会を見失っていたのだが、1月17日に国文学者の岩佐美代子さんが亡くなられていた。京極派・北朝の歌人の研究者として独自の境地を築かれた方である。『太平記』や『増鏡』に関心を持つものとして、その業績については詳しく論じるべきなのであるが、浅学のためその域にいたらない。まだまだ努力を続けなければならないし、残された寿命の中で、なんとか頑張っていくつもりである。 

『太平記』(299)

1月27日(月)曇り

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京都では南朝の宮廷を吉野から賀名生へと追い払った高師直・師泰兄弟がおごりをきわめていたが、それを妬む上杉重能(足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。またその頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利が直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、師直を秦の滅亡をもたらした趙高になぞらえて、兄弟を討つように進言した。直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 2月に清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出たが、それは天狗の仕業と噂された。直義は、妙吉侍者や上杉・畠山の讒言により、師直の謀殺を企てたが、千葉一族の粟飯原清胤が師直に内通して計画を知らせたため、未遂に終わった。

 師直が師泰を呼び寄せて、多くの武士が上洛してきたことで、都の中では、今にも合戦が始まるだろうという騒ぎになり、8月12日の宵から、数万騎の兵士たちが、南北に走り回っていた。
 直義の三条殿に集まったのは、足利一族の石塔頼房、この騒ぎの張本人の一人である上杉重能、彼の甥で犬懸上杉氏の朝房、これも騒ぎの張本人の一人である畠山直宗、足利一族の石橋和義、高一族の南宗継、これも高一族でこれまでも名前が出てきた大高一成、島津四郎左衛門(光久)、相模の武士曾我師助、同じく饗庭尊宣、同じく梶原景広、同じく須賀清秀、評定衆の斎藤利泰をはじめとして、直義に日ごろから忠誠を誓っていた武士たちが3千余騎、参集した。
 この中で気になるのは島津四郎左衛門で、校注者の兵藤裕己さんは触れていないが、第10巻に出て来る北条高時が目をかけて、烏帽子子にした島津四郎と同一人物かも知れない(第10巻の島津四郎について、曽我時久とする異本もあるようである。なお島津四郎は第15巻の多々良浜合戦にも登場している。) 梶原景広は、梶原景時の子孫らしい。梶原氏は坂東八平氏の一流で、景時は源頼朝の寵臣であったが、頼朝の死後、他の御家人たちの嫉みを買って、正治元年(1199)の梶原景時の変で一族はほぼ全滅状態になるが、景時の次男、三男の子孫が各地でその血統を伝えたという。斎藤利泰は「左衛門大夫」と記されていて、同じ斎藤でもこの前に出てきた「五郎兵衛入道」とは別人のようであるが、ともに利仁流の藤原氏であろう。

 一方、師直の方に味方としてやってきたのは、足利一族の仁木頼章、その弟の義長、同じく弟の頼勝、これも足利一族の細川清氏、清氏の父・和氏の弟である頼春(楠正行との戦いではいいところがなかったが、その子・頼之がこの後大活躍して、『太平記』終盤の中心人物となる)、足利一族の吉良満義、これまで何度も登場してきた山名時氏、足利一族の今川範国(遠江・駿河守護で、後に大活躍する貞世=了俊の父親である。駿河の今川氏は、範国の長男である範氏の子孫である)、同じく今川頼貞(範国の甥)、千葉氏の総領である千葉貞胤、伊予宇都宮氏の宇都宮貞宗、その弟の宇都宮貞泰、土岐頼遠の甥で頼遠の死後に美濃守護となった土岐頼康、佐々木(京極)道誉、近江守護で佐々木一族の六角氏頼、安芸・甲斐の守護で四条畷の合戦の際に勇戦した武田信武、信濃の守護の小笠原政長、大友一族の戸次頼時、荒尾(肥後の武士か)、関東の土肥、土屋、多田院(清和源氏の源光仲が建立した多田院→ただ神社の周辺に住んだ多田源氏)、常陸の国に勢力を築いてきた千葉・相馬の一族、甲斐源氏の武田・小笠原一族、高一族のものはもちろんのこと、畿内近国、四国、中国の武士たちが我も我もと集まってきて、その数は5万騎を数え、一条今出川の師直の邸に入りきらない軍勢が一条通にあふれかえった。

 三条殿にはじめ3千余騎が集まっていたのだが、師直側に多数の武士が集まっていることが分かると、これは敵わないと思ったのであろうか、一人ぬけ、また二人ぬけて、姿を消すものが相次ぎ、とうとう300騎ほどが残るだけとなってしまった。尊氏はこれを聞いて、三条殿に使いを送り、「師直、師泰の様子を見ていると、主従の義を忘れて、主人に刃向かおうとしているように見えるので、きっと三条殿に攻め入ろうとしているのであろう。急いでこちらの方に来てほしい。運命をともにしようではないか」と申し送った。これを聞いた直義は、残った兵150余騎を率いて、尊氏の近衛東洞院の館に入った。
 近衛大路は京の東西を、東洞院大路は南北に走っている。

 明けて8月14日の卯の刻(早朝)、師直とその子師夏が2万余騎を率いて、近衛大路の東の端、鴨川の岸辺に建っていた法成寺へと兵を進め、将軍の館の東北を取り巻き、弟の師泰は7千余騎を率いて、西南の小路を封鎖して、搦手に回った。四方から火をかけて火攻めにするという噂だったので、兵火の余煙から逃げることはできそうもないと、近くに邸宅を構えていた貴族たち、長講堂、三宝院などの寺社の僧侶たち、皆あたふたと逃げ惑った。
 内裏もほど遠からぬところにあったので、軍勢が戦乱の余波でどのような狼藉に及ぶかもしれないというので、帝(崇光院)が急遽他の場所に移られる準備を始めた。それで太政大臣、左右の大将、大中納言、参議たち、弁官たち、 5位・6位の者たちが階上・階下をうろうろとし、内侍所や、その他の役所に仕える女官たちがなりふり構わず逃げ惑う姿は目も当てられないものであった。
 当時の内裏は、今日の京都御所(土御門東洞院殿)の場所にあったから、尊氏の近衛東洞院とは近かったのである。法成寺は現在府立鴨沂高校があるあたりを含む広大な土地に藤原道長が建てた寺であるが、『徒然草』に記されているように、この時代にはその大部分が焼失・荒廃していた。そして現在はまったく姿を消しているのである。
 この時点では尊氏と直義の間には意思の疎通ができていることがわかる。妙吉侍者は、師直が既成の権威を重んじようとしないと非難したが、いよいよその傾向が激しさを増して、主人である尊氏にさえ、弓を引こうというのであろうか。それとも、さすがに尊氏を倒すことは思いとどまるのであろうか。それはまた次回に。
 なおここで、直義方と師直方に、様々な武士がはせ参じている中で、一族の分裂がみられることも注意しておく必要があるだろう。足利一族はもちろんのこと、高一族でも、大高忠成のように師直ではなく、直義に帰属している武士がいるのは注目してよいことである。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(28)

1月26日(日)雨が降ったりやんだり

 ダーシーから求愛の告白を受け、それをはねつけたエリザベスは、翌朝目覚めた時も、その時の驚きや当惑を引きずっていた。そのため、何をする気にもならず、朝食が済むと、外へ出て体を動かすことに決めて、まっすぐお気に入りの散歩路へ向かった。ロウジングズ・パークに入ると、ダーシーにあうかもしれないということで、中に入らずに外の道路をずっと歩いて行ったが、朝の空気の爽快さに誘われて、緑が濃くなりはじめていたパークの中に入っていった。
 すると、パークの端の小さな森のような茂みのところに、男性の姿が見えた。それがダーシーではないかと思ったエリザベスは急いで外に出ようとした。すると、男性は彼女の名を呼んで引き留めようとした。エリザベスはすでに門を出ていたが、なぜか、門の方に引き返すと、そこにダーシーがいて、彼女に手紙を手渡そうとした。エリザベスがつい弾みでその手紙を受け取ってしまうと、彼は落ちつきはらった様子で、その手紙を読んでほしいといって、去っていった。l

 エリザベスは好奇心に勝てず、封を開いて手紙を見たが、便せん2枚にびっしりと文字が記されていた。
 ダーシーは、この手紙が求愛を繰り返すものではないことを最初に記したうえで、全やエリザベスが彼に対して投げつけた2つの非難――彼女の姉ジェーンとビングリーとの仲を引き裂いたこと、聖職に就きたいというウィッカムの願いを遮ったこと――に対する弁明を細かく記していたのである。

 ジェーンとビングリーの件について。ビングリーがジェーンに対して好意を抱いていることは分かったが、それが真剣な恋であるとは思っていなかった。しかし、ネザーフィールドのビングリーの邸での舞踏会の際に、ダーシーがエリザベスと踊っていた時に、サー・ウィリアム・ルーカスが何気なく言った言葉{第1巻第18章の「とりわけ或るおめでたいことが、ね。」(大島訳、167ページ)}を聞いて、周囲の人々が2人の結婚を期待していることに気づいた。
 そこで、ダーシーは2人の様子を観察していたのだが、ビングリーがジェーンを真剣に愛していることはすぐに分かったが、ジェーンの方は「特別な愛情の徴(しるし)」(大島訳、340ページ)を見せているようには見えなかった。妹であるエリザベスにはわかったかもしれないが、おそらくほかの人間にはジェーンがビングリーに強い愛情を寄せているようには見えなかっただろうという。〔第1巻第6章で、エリザベスはシャーロット(→コリンズ夫人)に向かってジェインが自分のビングリーに対する愛情を他人の目から隠そうとふるまっていると話すと、シャーロットは「でもそんなふうにあんまり用心深くすると、時として不利なこともあってよ。」(大島訳、47ページ)と反論している。これは、その後の展開の伏線とも受け取ることができる。〕

 しかし、ダーシーが2人の結婚に反対したのはジェーンの態度だけを問題にしたわけではない。また、身分や家柄が違うからだけでもない。ビングリーはダーシーのように貴族の血縁であるというようなことはないので、それほど結婚に際して相手の家柄を気にする必要はないのである。〔それにダーシー自身がジェーンの妹であるエリザベスに求愛しているのだから、その点が決定的な問題ではないということである。〕
 ベネット姉妹の母親であるベネット夫人の実家の社会的な地位が低い〔第1巻第7章によると、「夫人の父親は生前メリトンで事務弁護士をしていて」(大島訳、58ページ)、夫人の姉は父親の仕事の後継者と結婚し、弟はロンドンで商業にたずさわっている〕ことは確かに問題ではあるが、それ以上に、ベネット夫人と、姉妹の下の3人、それに父親までもが時として、〔第1巻第18章に描かれた、ネザーフィールドでの舞踏会のあとの食事の席でのベネット夫人のおしゃべり、メアリーが勝手に歌を歌ったこと、それをやめさせたベネット氏の思慮のないものの言い方など〕礼儀にはずれた振舞をするのが我慢ならないというのである。そういったところで、上の2人ジェーンとエリザベスの振舞は非難の余地のないものであることは認めているので、その点は理解してほしい。
 とにかく、ビングリーは舞踏会のあとロンドンに発ち、その後すぐにネザーフィールドに戻るつもりだったが、ダーシーと同じくベネット家の人々の振舞に不安を持ったビングリー姉妹とが協力して、ビングリーをそのままロンドンに残らせ、ジェーンとの結婚を思いとどまらせようとした。ビングリーはダーシーの判断を重んじているので、ネザーフィールドに戻らないことにした。
 ただ一点、気になるのは、ジェーンがロンドンに来ていたことをビングリー姉妹と、ダーシーは知っていたが、それをビングリーには知らせなかったことで、ビングリーのジェーンに対する思いがまだ完全に冷めてはいないことを懸念してのことであった。自分としては善意の行為であったが、そのようなことがジェーンを傷つけてしまった事には気づかなかったのである。しかし、自分としては間違ったことをしたとは思っていない。

 さて、次にエリザベスがダーシーを非難したのは、彼がウィッカムに対して不当な扱いをしたということであるが、これは2人に関わるこれまでの経緯をありのままに説明すれば、ダーシーの態度が不当なものではなかったことが分かるはずだという。
 ウィッカムの父親は、非常に立派な人物でダーシー家のペンバリーに持っている土地の管理にあたってきた。その仕事を立派に果たしたので、だーしの父親は彼だけでなく、その息子もかわいがり、ケンブリッジ大学で勉強させたほどである。そして、いずれは牧師になってくれればという期待から、牧師禄も用意していた。しかしウィッカムは、ダーシーの父親に対しては隠しおおせていたが、ダーシーに対しては隠しきれなかった身持ちの悪さがあった。ダーシーの父親の死後、ウィッカムはダーシーに手紙をよこして、自分は法律の勉強をするつもりなので、牧師禄の方はあきらめるから、余分の援助をしてほしいといってきた。そこで聖職の方は放棄するという条件のもとで3000ポンドを与えた。その後3年間ほど、音沙汰はなかったが、ダーシーの父親がウィッカムのために予定していた教区の牧師が死ぬと、その教区の牧師に推薦してほしいと依頼してきた。しかし、これまでのいきさつがあるので、その依頼には応じなかったという。どうもこの件をめぐって、ウィッカムはダーシーの悪口を言いふらしてきたようである。

 ところが、次にウィッカムがダーシーの前に現れた時には、とんでもないことが起きた。その件については、やむを得ず触れるので、秘密を守ってほしい。
 ダーシーには10歳ほど年下の妹(ジョージアナ)がいて、彼らの父親の死後、兄であるダーシーと、従兄のフィッツウィリアム大佐が後見人を務めてきた。それで学校をやめさせて、ロンドンに家を持たせた。1年前の夏、妹は家政を担当しているヤング夫人とラムズゲイト(ケントの南部の海岸にある保養地)に出かけたところ、そこでウィッカムと会った。どうもウィッカムとヤング夫人とがあらかじめ示し合わせてそうしたらしい。妹は、子どものころからウィッカムを知っていたので、口車に乗せられ、駆け落ちに同意してしまった。ところがその決行の2,3日前に、ダーシーが妹のところを訪問したので、隠しきれなくなって妹はすべてを白状してしまった。この件についてはフィッツウィリアム大佐に証人になってもらうことができるという。
 以上がダーシーの手紙の内容であった。

 ジェーンとビングリーの中を引き裂いた張本人がダーシーであったというのは事実だと分かったが、それにはダーシーの側の言い分があったのである。またエリザベスはウィッカムの言い分をうのみにしていたが、それを疑わせるような内容が手紙には記されていた。すなわち、第1巻第16章でウィッカムがエリザベスに言ったことが、ダーシーの立場から語りなおされ、新しい照明を当てられている。ダーシー家の先代の遺志にもかかわらず、ウィッカムに牧師禄が与えられなかったという言い分、さらにダーシーの妹について「あの人はあまりにも兄にそっくりで――実に気位が高い。――子供のころは情の深い、感じのいい子で、とても僕に懐いていましたから、僕も何時間でも遊び相手になってやったものです。でも今の僕には何でもありません。」(大島訳、149ページ)という発言の裏に隠れていた事情が明らかにされた。エリザベスが、この手紙の内容をどのように受け止めたかは、また次回に語ることにしよう。 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(11)

1月25日(土)曇りのち晴れ

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品であるこの叙事詩は、共和政末期にユリウス・カエサル(前100‐44)とポンペイウス・マグヌス(前106‐48)のあいだで起きた内乱(前49‐46)を描くもので、作者の夭折によって未完に終わったが、ウェルギリウスの『アエネーイス』に次ぐラテン詩文の雄編との評価を得てきた。
 ポンペイウスとカエサル、スパルタクスの反乱を鎮圧した富豪・クラッススによる第一次三頭政治(前60)は、混乱の続いていたローマに安定をもたらしたが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いに敗死すると、残る2人のあいだでの対立が激しくなった。ローマにいたポンペイウスは、元老院と結んでガリア遠征中のカエサルの公職からの解任と、彼の率いる部隊の解散を命じるが、カエサルは軍を率いてガリアとイタリアの境界であるルビコン川を渡って、ポンペイウス派の一掃を目指した。ローマは恐怖・混乱に陥り、ポンペイウスをはじめ多くの高官と元老院議員が市を捨てて脱出、民衆は内乱の予感におののいた。〔以上第1巻〕
 ポンペイウスは現在のカンパニア州の古い都市であるカプアに本拠を構え、カエサルを迎撃しようとするが、ポンペイウス派の軍は各地でカエサル軍に撃破される。イタリア半島の東南の港、ブルンディシウムへの退却を余儀なくされたポンペイウスは、地中海沿岸の各地から援軍を求めて、カエサルに対抗しようとするが、カエサルは、ブルンディシウムの港を封鎖、ポンペイウスはそれを突破、ギリシアのエペイロスを目指して脱出する。〔以上第2巻〕
 海上を逃れ行くポンペイウスに、カエサルの娘である前妻ユリアの亡霊が現れ、彼を悩ませるが、ポンペイウスは強いて否んで、エペイロスに上陸する。
 一方、ほぼイタリア全土を平定したカエサルは、民心を掌握しようと、シキリア(シチリア)やサルディニア(サルデーニャ)から穀物を調達してローマに送り、ローマに入城しようとした。〔以上、3巻のうちのこれまでの紹介箇所〕
 この内乱は、その勝者であるカエサル(シーザー)の側から見られることが多いが、この叙事詩は、共和制とポンペイウスを擁護する立場から歌われていることが注目される。

 将は、こうした手筈を整えると、勝利者として、武装を解き、
見た目には平和を装う隊列を率いて、祖国ローマの家並みを目指した。
(第3巻、74‐75行、122ページ)
 カエサルがガリアを平定して凱旋したのではなく、ポンペイウスを追い払ってローマに入城してきたことで、ローマの民衆は複雑な対応を見せる。
…諸都市の民人は、嬉々として群れ集い、
過ぎゆく彼を歓呼して眺めはせず、ただ、恐れのあまり、
声を殺して傍観するのみであった。将を待ち受け、出迎える
群衆の姿はどこにも見られなかった。だが、彼は、己が民衆に
それほどの恐怖の的となっているのを喜んだ。もとより、
愛されるのを選ぶ心など、彼には毛頭なかったであろう。
(第3巻、84‐89行、122‐123ページ)
 共和制とポンペイウスに同情的な詩人は、カエサルの胸中を以上のように想像しているが、カエサル自身は本当のところどのように思っていたのか。彼の手記である『内乱記』は事実と行動だけを述べて、それ以上のことを語っていない。
 ここで思い出すのは、マキアヴェッリが『君主論』の中で(君主は)恐れられるのと愛されるのとどちらがよいかと論じている個所である。どちらか一つを選ぶとすれば、「愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。」(池田廉訳、中公文庫版、141ページ) そのマキアヴェッリはカエサルの気前の良さをめぐっていくつかの評言を残しているが、冷酷であったかどうかについては判断を下していない。

 ガリアの総督に任命され、紀元前58年にガリアに赴いてから、長らくローマの地を踏んだことのないカエサルにとって、再びこの都市に戻ることのできた感慨は深いものであった。しかし、思ったことは何でも実行に移すカエサルが入城してきたことで、ローマ市民たちは怯えていたと詩人は言う。
・・・万事が慶祝の
陽気さとはほど遠く、偽りの祝賀の声を上げ、上辺を繕い嬉々として
浮かれ騒ぐことも、況(いわん)や憎しみの声を上げることもできかねた。
(第3巻、109‐111行、124ページ)
 そして元老院が招集される。ローマ城壁外のパラティウム丘のアポロン神殿を会場とし、執政官、法務官、その他の高位公職者がほとんど出席していない、正当性の疑わしい会議であった。「カエサルがすべてであった。」(第3巻、116行、124ページ)
 カエサル自身は次のように記している。
 「元老院を招集させ政敵の横道ぶりを詳しく語る。」(国原吉之助訳、講談社学術文庫版、43ページ)
 国原の注記によると、「4月1日、護民官アントニウスに招集させ、城壁外のマルス公園のアポロン神殿(?)で議会を開いたらしい。キケロなど参加せず、惨めな集会だったらしい。」(同上、90‐91ページ) 他の注を参考に補うと、カエサルはガリア総督(解任されているのだが、本人は解任されたことを認めていない)なので、ローマの城壁内に入ることができないのである。

 元老院の議事をはじめ、ローマ市内はカエサルの思うままになろうとしていたが、カエサルの軍隊がサトゥルヌスの神殿に設けられていた国庫(財務官が管理している)に近づき、規則的な歳入による通常金庫と、奴隷解放税(5パーセント)からなる緊急時の臨時出費のための予備金庫となっていたうちの予備金庫を開けようとした。このとき、ローマ屈指の名門出身で護民官であったメテッルス(ガエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ)がそれを遮ろうとした。メテッルスの娘のコルネ―リアはクラッススの息子の妻となっていたが、その死後(カエサルの娘ユーリアが死んだのちに)、ポンペイウスの妻となっていた。 
 メテッルスはカエサルの部下たちが予備金庫を開けようとしていたのを身をもって止めようとする。
「・・・
さあ、剣を抜くがよい。いかにも、この犯罪を目撃する群衆を
恐れる要はない。我らの佇む地は見捨てられた都だ。・・・」
(第3巻、137‐138行、126ページ) そしてこの場に姿を現した(既に述べたように、ローマの城壁の中に入ることは、その身分上、違法である)カエサルに向かって、彼には他にも略奪できる財宝があるではないかと、言い放つ。
 この言葉はカエサルを激怒させる。そして、彼はメテッルスが望むような名誉ある死を彼に与えないと言い返し、
「・・・
法はメテッルスの声で守られるくらいなら、まだしも
このカエサルの手で廃棄されることを望もう」。
(第3巻、150‐151行、127ページ)
 しかし、メテッルスは飽くまでその場を離れず、予備金庫を死守しようとするが、もう1人の護民官であるコッタがわれわれは敗者であるから、何一つとして拒めぬと言って、彼を引き下がらせる。
「・・・
自らの法と権利に守られている民なら、損失は民の痛手となる。
だが、隷属する者の欠乏は、隷属する者ではなく、
支配する主人の手ひどい痛手となるのだ」。
(第3巻162‐164行、128ページ) これは名言だね。
 こうして、カエサルの部下たちは、予備金庫の中の財貨を持ち出し、
神殿は、哀れにも、略奪され、鹵獲された。
このとき、初めてローマはカエサルよりも貧しくなったのだ。
(第3巻178‐179行、129ページ) カエサルが城壁内に入っただけでなく、護民官の不可侵権を傷つけたことは、彼の評判を悪くしたと国原は『内乱記』に注記している。その『内乱記』でカエサルが、メテッルスはカエサルの政敵から買収されたと言葉をつくして非難しているのは興味深いところである。なお、国原によると、キケロは彼について、由緒ある家門の名誉をけがしたと軽蔑している由である。

 一方、イタリア半島を離れたポンペイウスのもとには大軍が集まったと詩人は歌う。その大軍と戦うべく、カエサルはローマを後にして再び遠征の旅に出るのだが、その成り行きはまた次回に。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(6)

1月24日(金)曇りのち晴れ

「新皇」即位と八幡神・道真の霊
 「新皇」即位の歴史的意義
  「新皇」即位の場面
 常陸国・下野国・上野国の国府を襲い、それぞれの印鎰{いんやく=国司が発給する文書に押す印と国衙の財源を納めた国倉の鎰(鍵)}を奪って、国司を追い出した平将門は、上野国府で「新皇」を宣言する。それには、次のような出来事が絡んでいた。
 『将門記』によるとある巫女が神がかりして、八幡神が将門を天皇の位につけ、その位記を菅原道真の霊が捧げるのだという。
 「八幡神と道真の霊魂が突如関東に出現したことも奇妙なできごとだし、・・・10世紀の前半怨霊とし手中央政界で荒れ狂っていた道真の霊が反乱者将門の「新皇」即位を保証したのだから、怨霊と反乱者の結びつきというこれまた非常に希有な現象が起こった瞬間といえよう。」(109ページ)
 さらに『将門記』によると、彼は王城=宮都を下総に造営することを命じ、また左右大臣ら「文武百官」を任命したという。新しい『国家』が建設されようとしたのであった。

  「新皇」即位をめぐる3つの論点
 この『即位』をめぐる事情については、多くの議論がされてきた、それらは3つの論点にまとめることができると木村さんは言う。
① 「新皇」宣言の契機となった八幡神と道真の霊の役割をめぐる議論。八幡神も道真の霊(→天神)も律令的な神祇体系の中に位置づけられていない、いわば「新しい神」である。その「新しい神」が「新皇」を正当化する存在として登場しているという、当時の国家的な宗教体系に関わる問題である。
② 坂東諸国の国司補任と王城建設に見られる将門の国家構想をめぐる問題である。これについては、律令国家を模した「みじめな構想」であるという石母田正の説から、鎌倉幕府の国家構想の前提であるという網野善彦の評価まで諸説あるが、この問題については、書物のエピローグの部分でふれるという。
③ 「新皇」宣言の政治的な意義。これはこの時代の皇統や王権にかかわる問題である。この問題についても、木村さんは後で詳しく論じるという。

 これらの問題を通じていえることは、将門の乱が中世成立期における武士の反乱や武士成立論にとどまらない大きな歴史的な意味を持ったものであり、当時の政治的・宗教的状況全体の中で解明されなければならないものだという。将門の乱を含めた承平・天慶の乱について国家論・王権論と宗教構造上に占める歴史的な位置という大きな視点から研究を進めてきたのは上島享であり、著者は、上島の議論を紹介・補強する形で議論を進めようとしている。

 平安京における道真の怨霊と八幡神
  2つのアプローチ
 将門の「新皇」宣言・即位の際に八幡神と菅原道真がかなり唐突に出現することをめぐり、従来は『将門記』作者のフィクションなのではないかと説が強かったが、最近では、将門の乱鎮圧後の天慶8年(945)に起こった「シダラ神」事件に道真の霊魂と石清水八幡宮が関係していることや、道真の子が常陸国司を務めていたことが明らかにされ、両者がこの場面に登場してくる条件があったことが指摘されている。木村さんもその立場をとり、将門の「新皇」即位の場面に八幡神と道真の霊魂が登場してくる状況を明らかにしようとしている。

 その際に、著者は2つのアプローチが必要だという。1つは、この事実が『将門記』でしか確認できないことから、『将門記」の著者の周囲で展開されていた宗教状況の反映であり、当時の京都や貴族社会における八幡神と道真の霊魂のありようを視野に入れるというものであり、もう1つは、「新皇」即位の舞台が上野国府であったことを重視するならば、関東における八幡神信仰と道真の霊をめぐる動向についても考慮すべきであるという視点である。
 まず、著者は当時の平安京における道真の怨霊をめぐる動きについて検討しようとする。

  平安京における道真の怨霊
 菅原道真が宇多天皇によって重く用いられ、昌泰4年(899)には右大臣に昇進したものの、その進出を快く思っていなかった左大臣藤原時平が、宇多天皇の光景である醍醐天皇と組んで、彼を延喜元年(901)に失脚させ、太宰権帥として左遷してしまう。その地位にあったまま道真が死去したのはよく知られた事実であるが、彼の死後まもなくして、彼を左遷した貴族たちの間に奇妙な事件が連続して起きる。まず首謀者の時平が延喜9年(909)に病気で急死する。さらに同13年(913)には道真の後任として右大臣に就任した源光が事故死し、延長元年(923)には醍醐天皇の子で皇太子であった保明親王、さらに延長3年には保明親王の子で、彼の後皇太子となっていた頼慶王が早世してしまう。道真左遷のもう1人の首謀者であった醍醐天皇の後継者が次々と死んでしまったのである。なかでも保明親王の死は当時の平安京の人々に大きな衝撃を与え、人々は道真の霊魂の恨みの恐ろしさを実感していたようである。それは保明親王の死後1か月の後に道真を本官の右大臣に戻し、従二位から正二位へ追贈することを命じ、さらに道真を大宰府に左遷した「昌泰4年正月25日の詔書」を廃棄すべきことまで命じていた(文書の廃棄というと、何かしら連想されることがある)。
 
 しかし、それでも道真の怨霊はとどまることなく、延長8年(930)6月26日には宮中の清涼殿に落雷があり、会議中の大納言藤原清貫をはじめ多くの公卿らが死傷するという事件が起きる。『日本紀略』はこの落雷を「霹靂の神火」と記す。この「神火」が道真の怨霊によるものであることは、『北野天神縁起絵巻』の「落雷」の場面に活写されている。この落雷に衝撃を受けた醍醐天皇は、その日不予(病気)になり、9月22日に崩御される。このように10世紀前半の平安京には道真の怨霊が荒れ狂っていたのである。

 今回は、これまでの概要を省略した(概要を述べている時間的余裕がなかったのである)。崩御された後の醍醐天皇の霊魂の行方については、『太平記』で述べたことがある。次回は、引き続き、平安京における道真の怨霊と八幡神についての考察をたどっていくことになる。平安時代の東国における宗教状況についての記述は、現在の目から見れば奇異に思われるかもしれない。例えば、鎌倉で一番古い神社は荏柄天神だといわれ、鶴岡八幡宮が多くの人々の初もうでの場となっている。そういう今日の目からすると、平安時代の八幡神と天神が東国の人々にとってあまり縁のない神様であったとは信じられない。しかし、歴史的に見ればまた別の事情があるらしい。
 本日は、執筆がはかどらず、皆様のブログを訪問する時間的な余裕がとれなくなりました。あしからず、ご了承ください。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(8)

1月23日(木)雨

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアを訪問し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。旅行の後半で、彼は隊員の吉川公雄、外務省の留学生である石井米雄とともに、カンボジア、ベトナム、ラオスの3カ国を歴訪した。
 最初に訪問したのはカンボジアで、1958年2月13日に入国、21日まで滞在した。当時のカンボジアでは中国人の存在感が強く、2月17日から始まった春節の影響を受けながら、南部の海岸地方に足を延ばしたり、乾季で面積が縮小したトン・レ・サップ湖の周囲を(前年の旅行で訪問した分を加えて)一周、水上の集落を訪問したりした。

第14章 コーチシナ平原
 この第14章から第16章までの3章が当時の南ベトナムの訪問記となっている。梅棹一行の足跡は北ベトナム(当時)には及んでいないが、それでもカンボジア、ラオスに割り当てられているのが2章であることを考えると、旅行の中でのベトナム訪問の比重の重さが分かる。

 サイゴンへ
 2月21日午前11時に、梅棹一行はプノムペンを出発して、サイゴン(当時、現在はホーチミン市と改称されている)に向かった。バナムの渡し場でメコン川を渡り、スヴァイリエンを経て、5時半に国境に着いた。
 ベトナムについては、反日的である、警察や税関が官僚的で腐敗している、ベトコンのゲリラが出没するから(特に地方は)危険だなどの悪いうわさを聞いてきた。3カ国の中では一番治安が悪いようなので、多少の緊張を感じながら入国しようとした。

 国境の入国審査は、大したトラブルもなく通過することができた。「国境をすぎて、わたしたちは一路サイゴンに向って、コーチシナの大平原を走った。」(78ページ) 途中、交通違反で警官に注意されることはあったが、いくつかの町を通り抜けて、だんだん慣れてくる。人々の様子も別に反日的というわけではなさそうだ。
 「タイやカンボジアの、地味な風俗を見なれた目には、ベトナム風俗は、おどろくばかりあでやかで、都会的に見える。
 家もかわった。タイやカンボジアの高床式の住居は、ここでは影をひそめる。みんな土間である。私たちは、あきらかに違った文化圏に入ったことを知る。服装も、住居も、中国ふうに近いという印象をうける。わたしたちは、極東文化圏に入ったのだ。」(79ページ)
 次第に町が大きくなり、にぎやかになる。日没後、一行はサイゴンに到着する。

 大使公邸
 一行は夜のサイゴンを走って、大阪商船の駐在員である山下さんを訪問するが、山下さんは病気であった。それで大使館に回ったところ、すでに顔見知りであった代理大使の小川さんから公邸に泊まってはどうかという申し出がある。
 「それはまったく、夢のようなはなしだった。3人とも1つずつへやをあてがわれた。冷房つきである。それに、日本人の板前さんがいる。自動車旅行のつかれも、あやしげなシナめしの栄養失調も、これで一気にふっとんでしまうというものだ。」(80ページ)
 カンボジアのところでも書いておいたが、カンボジアでは「同文同種のよしみからではないけれど、わたしたちには、やっぱりシナめしの方が口にあう。」(60ページ)と言っておいて、君子豹変である。

 パリの昼寝
 「東洋のパリ」と呼ばれるサイゴンは美しい町であるが、梅棹は何となく親しめないものを感じる。彼は固有のベトナム的なものを求めているのである。しかし、街並みはフランス風、走っている自動車はシトロエンが多く、店の看板にもフランス語が多いし、商品もフランス製、本屋にならんでいるのもフランス語で書かれた学校の教科書のような本が多い。雑誌も新聞もフランス語である。

 それどころか、昼寝の時間もフランスの習慣そのままであるという。しかし、梅棹は、これはベトナム固有の習慣ではなくて、フランスからとりいれられたものではないかという。「ベトナムでも、地方へゆけばこんな習慣は存在しないにちがいない。ベトナム人は、もっと勤勉なはずである。」(82ページ)
 「サ[ン]ゴンは、長年にわたって、フランスのインドシナ経営の拠点だった。だから、フランスふうがしみこんでいるのもむりはないかもしれない。しかし、ベトナムは独立したのである。独立後のベトナムの人たちは、このフランス的な「美しさ」と生活習慣を、やはり誇りに思っているのだろうか。」(82ページ)

 ベトナムのことはよく知らないが、タイの人は、日本人に比べて早起きであり、おそらくは昼寝をする分、朝早くから体を動かしているのである。だから梅棹の、昼寝は勤勉ではない、アジア人はもともと勤勉である、だから昼寝はもともとの習慣ではないというような議論は疑ってかかる必要がある。梅棹は朝に弱かったから、自分自身の調子がようやく乗り始めた時間帯に昼寝というのは納得がいかなかったのであろうが、このあたりでの議論は少し乱暴である。

 サイゴン風俗
 もちろん、独立後のベトナム化が進行している側面のあることを梅棹は見落としてはいない。例えば道路の名前がベトナムふうに改められた。とはいうものの、市街地に、ベトナムふうの建築はまれである。「失われたものの、ある部分は、もはや、永久に失われたのである。」(83ページ)
 とはいえ、例えば女性の服装などは完全にベトナム化しているという(梅棹はアオザイという語を使っていないが、民族衣装の女性が多く、洋装姿の女性はまれであると書いている。ただ、アオザイがそれほど古い歴史を持つものではないことに、梅棹は気づかなかったようである。)

 「とにかく、ベトナム共和国は独立したのである。ゴ・ディン・ジェム総統はその政治的シンボルである。」(84ページ)
 梅棹が東南アジアを訪問していた1957~58年に私は小学校6年生だったから、自分の外の世界についてそれほどしっかりした知識はもっていなかったが、今調べ直してみると、第一次インドシナ戦争(1946~54)の終了後、南ベトナムにゴ・ディン・ジェム大統領のベトナム共和国が「成立」したのは1955年のことで、この時点では建国間もなかったのである。1975年にサイゴンが陥落して、ベトナム共和国は崩壊するから、ベトナム共和国=南ベトナムの歴史は約20年、第二次世界大戦後についてみても、ベトナムが南北に分裂していた期間よりも、統一国家としての期間の方が今でははるかに長くなっている。梅棹が垣間見た南ベトナムの姿もまた、「失われたもの」に数えられるように思われる。

 梅棹は、この後、近世から近代にかけてのベトナムの歴史をたどって、筆を走らせるが、それはまた次回に紹介するとしよう。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(11)

1月22日(水)晴れ

 フランシス・ベーコン(1561‐1626)はイングランドのエリザベスⅠ世とジェイムズⅠ世の治下で活躍した法律家、政治家であったが、今日では『ノヴム・オルガヌム(新機関)』などのその哲学的な著作によって知られている。この『ニュー・アトランティス』は北太平洋に想定された架空の島国を舞台として、科学が人々の豊かで道徳的な生活を支えているような社会を描こうとしたものだが、未完のままに終わっている。
 ペルーから太平洋を横断して中国・日本にむかおうとした語り手たちの船は、途中、強い南風に吹き流されて北太平洋の未知の島に漂着した。島の人々は彼らの上陸をいったんは拒否したが、彼らがキリスト教徒であり、海賊ではないこと、病人を抱えていることを考慮して、上陸を許可し、異人館と呼ばれる施設に入居させた。異人館の館長の説明によると、この島はかつては世界中の人々と交流してきたが、アメリカ大陸(プラトンの言うアトランティスはこの大陸のことだという)が大洪水に見舞われその文明が滅びた後に、鎖国政策に転じたのだという。しかし、「サロモンの家」と呼ばれる研究施設を作って地上のあらゆる知識を集め、生活を改善してきた。この島の人々はある奇蹟によってキリスト教を信じるようになり、家族を大事にし、一夫一妻制度を厳格に守っている。島に住むユダヤ人ジョアビンを介して、語り手たちは「サロモンの家」の長老が彼らの滞在している町を訪問する様子を見ることができた。

 いよいよその日が来て、長老が配下のものを従えて市中を行進した。彼は輿に乗って行進し、彼もまたその50人を越える部下たちも豪華な服装をしていた。〔前回も書いたが、ベーコンはその服装について事細かに描写している。〕 「彼(長老)は何も言わぬまま素手を挙げて人々を祝福しているようだった。通りの群衆は整然としていた。いかなる軍隊の隊列で汗も、これほど一糸乱れぬことはないであろう。通りに沿った家々の窓も同様に混みあってはおらず、人々は配置されたように窓辺に立っていた。」(川西訳、49‐50ページ)

 ジョアビンは長老の接待のために、語り手の一行から離れていったが、やがて戻ってきて、長老が彼ら全員と会い、そのなかの1人と詳しい話をするつもりで招待すると伝えた。その詳しい話をする相手としては、語り手が選ばれた。
 長老が彼らを迎えた部屋は豪華なもので、彼は一行に祝福を与え、語り手以外のものが退出すると、おもむろに口を開き、スペイン語で語り手に語り掛けた。彼は、「サロモンの家」の実情について、
 ①学院設立の目的
 ②学院の目的達成のために準備されている設備と器具
 ③学院の研究員に委ねられている業務と役割
 ④研究員たちが守る法令と儀礼
について語るという。

 まず「サロモンの家」の目的であるが、「諸原因(Causes)と万物の隠れたる動き(secret motions of things)に関する知識を探り、人間の君臨する領域(Human Empire)を広げ、可能なことをすべて実現させることにある。」(川西訳、51‐52ページ) つまり科学的な研究、それに基づいた技術の開発とその実地への応用ということである。ここで、ベーコンが人間が自然を支配する領域を広げるという考え方を述べているのは、いかにも近世的で、環境との共存・共生を目指すというより今日的な考え方からすれば批判も生まれるところであろうと思う。

 次に設備と器具についてであるが、最初に取り上げられているのは、彼らがあちこちに掘った洞窟である。もっとも深いものは600尋(fathoms, 1 fathomは1.83メートルなので、600尋は1.1キロほどとなる)もあり、そのほかに岡や山の下に掘られた洞窟もあって、丘の高さと洞窟とを合わせると3マイル(4.8キロ)の深さを持つことになる。このような洞窟を掘ることの目的は、太陽の光や空気から、特定の物質を遠ざけることにある。これらの洞窟を、彼らは「下層界」(the Lower Region)と呼んでいる。そして諸物体の凝固(coagulations)、硬化(indurations)、冷却(refrigerations)と保存(conservations)のために使用する。
 またこのような洞窟を天然の鉱山の坑道の代用として使い、彼らが使用する合成物と原料を長年貯蔵し、新しい人工金属を生産するのに役立てる。洞窟はまた、ある種の病気の治療のために、またこのような洞窟の中で生活することを選んだ隠者(hermits)のためにも利用される。どうもベーコンは洞窟の中に住んでいる方が寿命は延びると考えていたようである。そのような隠者は驚くほど長命であり、彼らから一般の人々は多くのことを学ぶのである。

 彼らはまた、さまざまな土質のところに穴を掘って埋蔵所を設けている。中国人が磁器を埋蔵しているように、様々な種類のセメントを埋めている。ここで、川西訳は「陶器」と訳しているが、原文のporcelainは「磁器」と訳すべきである。川西さんは、訳注の18でベーコンの「中国の磁器は地中に埋蔵されている沈積物で、時間の長い経過によって凝固し光沢を帯びてあのような精妙な物質と化す」(90ページ、これはもちろん、誤聞である)という文章を引用しており、本文で「陶器」と書いているのは一貫しない。
 セメントは磁器よりは種類も多く、上質のものもある。土地を肥沃にするための肥料、堆肥の類も豊富である。

 また高い塔も設けられている。「最も高いものは高さ約半マイル、高い山頂に建てられた塔もあり、山の高さを加えれば、最高3マイル以上の高さに達する。」(川西訳、53ページ) 半マイルは約800メートル。スカイツリーよりも高い。3マイルの高さということになると、アルプスの最高峰モンブランの高さに匹敵することになる。このような高所を彼らは「上層界」(the Upper Region)と呼んでおり、高地と低地の間の空間を「中層界」(a Middle Region)と呼ぶ。塔は、それぞれの高さと設置場所に応じて、日光乾燥、冷却、貯蔵のため、また風、雨、雪、雹(ひょう)、それに流星など気象・天文現象を観察するために用いられる。いくつかの塔にはこれまた隠者が住み、「サロモンの家」の人々はときどき彼らを訪ねて、何を観察すべきかの指示を与える。

 いよいよ「サロモンの家」がどのようなものであるか、その目的や活動の概要が語られ始める。ベーコンは社会の仕組みを語ることよりも、科学とその応用について語ることの方に関心があることが分かる。洞窟の深さとか塔の高さなど、彼の時代の技術では到底建設可能なものではないのであるが、ベーコンの想像の翼もなかなかのものであると感じさせられる。洞窟の中に新しい金属など特定の物質を保存するというのは、どうも使用済み核燃料の問題を思い出してしまう。地下の洞窟に住む隠者達は長生きを予期されているが、高い塔に住む隠者についてはその寿命について触れられていないのも注意してよいことかもしれない。「サロモンの家」についての長老の説明は続き、それを読むことで我々はベーコンが考えた学問の大革新の現実への応用の構想がどのようなものだったかを知ることができるのだが、それはまた次回以降に。

日記抄(1月15日~21日)

1月21日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近からかすかに富士山が見えた。

 1月15日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

1月15日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』では「クッキーの裏と表」と題して、クッキー(cookie)にかかわる様々な表現が取り上げられた。
 この菓子は、cookie dough (クッキー生地)を伸ばし、cookie cutter (クッキーの抜型)で切り取り、cookie sheet (天板)に乗せて焼いてこしらえる。ふつう、多めに数日分を作り、cookie jarという入れ物に入れておく。そんなところから、さまざまなゲームや表現が生まれた。
 「うまくいくと思ったんだけれど邪魔が入って」という話を聞いて、
 That's the way the cookie crumbles.
(クッキーはそうやってボロボロになる)
というと、「世の中、そういうことなんだよね」「仕方ないよ」といったあきらめをこめた日常表現となる。
 このことわざとか、smart cookie (賢い奴)、、tough cookie (タフで侮れない奴)といった表現は『ロングマン英和辞典』(2007)には出ているが、『齋藤英和中辞典』(初版1933)には出ていないどころか、そもそもcookieという語が出てこないのだから、時代の変化というものを感じさせられる。

1月16日
 来年度から始まる大学入試における英語の4技能をめぐる新しい試験についての検討会議の記事が『朝日』、『日経』両紙に出ていた(他紙にも出ていたはずである)。民間試験の活用の問題などをめぐり、もう一度白紙の状態から出発するのか、これまでの議論を踏まえて(継承して)議論するのかというところで、すでに議論が分かれていたようである。そのあたりのことも含めて、徹底的に議論をしてもらいたいものだ。

 『日経』に吉野彰さんがノーベル賞を受賞されたことを祝う、同じく企業内の研究者でノーベル賞受賞者である田中耕一さん、それに池上彰さんと3人での座談の様子が掲載されていた。「問題意識を持ち続ける」など、当たり前のことでも大きな研究成果をあげた人の発言だと、説得力が増すから面白いものである。

1月17日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』では、1月8日から6回にわたって、”Overprotective Parents"(過保護な親たち)という話題を取り上げてきたのだが、アメリカで最近問題になったthe college bribery scandal (贈収賄スキャンダル)について意見を聞かれた番組パートナーのヘザー・ハワードさんが
I fumed. Ifumed and fumed and fumed. I mean, it just boils my blood to think of these wealthy parents trying to steal a place from kids like me and my high school friends We workd our butts off to get into college..(非常に腹が立ちましたね。怒り心頭に発しました。つまり、こうしたお金持ちの親たちが、私や私の高校の友人たちのような子供たちから席を奪おうとしていると考えるだけで、とても腹立たしいのです。私たちは大学に入るために猛勉強したのですから。)と怒りをあらわにする発言をしていたのが印象に残った。よく、アメリカでは大学に入学するのは容易だが、卒業するのは難しいといわれてきたが、実際のところ、入学するのが難しい大学も少なくないようである。〔ヘザーさんはアイヴィー・リーガーズに数えられるコーネル大学の卒業生である。〕

1月18日
 神楽坂のThe Gleeで別府葉子さんのシャンソン・ライヴを聴いた。今回は、「歌うピアニスト」江口純子さんがピアノを担当ということである。「花」を主題にした楽曲を中心に構成するということで、そのなかでも「百万本のバラ」をはじめ、バラを取り上げた歌が多いのが特色であった。そういえば、江口さんとのデュエットで歌った江口さんのオリジナル曲は「ここには バラが」と題されていたし、アンコール曲も、「バラはあこがれ」であった。
 当然のことながらヨーロッパの曲が多かったのだが、そのなかでアフリカで医療活動に従事する日本人を歌ったさだまさしさんの「風に立つライオン」は異色ではあったが、聞きごたえがあった。そういえば、今回取り上げられた別府さんのオリジナル曲「月虹」をめぐり、月虹がよくみられるのはエチオピアであること、エチオピアでは「アフリカの桜」と呼ばれるジャカランダという花が咲くことなどが語られた。霙交じりで寒い外とは対照的に明るく、温かい雰囲気で進んだライヴであった。

 『NHK高校講座 古典』は『枕草子』の4回目。「すさまじきもの」の2回目で、除目で地方官に任命されることを期待していたのに、選から外れた貴族の喜悲劇を描く章段。地方官に任命されれば、莫大な収入が期待されるのだが、それは裏を返せば、地方で過酷な収奪を行うということでもある。『今昔物語集』にはそういう収奪者としての地方官の姿を描いた説話がいくつもあって、物事をどちらの方向から見るかによって、描き方が違ってくる例として取り上げてもよいと思った。
 別府葉子さんのライヴを聴いたばかりのところなので、ちょっと書いておくと、平安時代から鎌倉時代にかけての地方政治のなかで、「別府」というのはどういう意味かをめぐって私の知る限り2説、郡衙の所在地という意味と、別符=国司などの特別の許可を得て私的領有が認められた土地という意味だとする見解とがあり、それぞれの場合に即して考えていくべき問題ではないかと思う。

 望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑬ 麗しの上海楼』(双葉文庫)を読み終える。主人公の家頭清貴、その「ライバル」の円生(なんでこの名前を付けたのか不審に思うことがある)、探偵事務所の所長である小松の3人が今回は美術・工芸品の鑑定士として上海に出かけるが、そこで事件に巻き込まれる。作者はあとがきで、上海とニューヨークに行く機会があったので、その経験を盛り込ませていただきましたと書いているが、そういう張り切った感じがよく出ている作品である。

1月19日
 『朝日』朝刊の「日曜に想う」で福島申二さんが「無類の人間好きが潤した荒野」という文章を書いている。アフガニスタンで凶弾に倒れた医師の中村哲さんが「無類の人間好き」だったという話の一方で、抽象的には人類愛を説くけれども、実際には周囲の人間と折り合いが悪い「人類を愛する人間嫌い」(フェルナンド・ペソア)が少なくないという指摘が心に突き刺さった。
 昔、教えた(制度的にはそうなっていたけれども、こちらが教えようとすることは何一つ学ぼうとしなかったから、『教えた』とは言えないのが真相である)学生でシュヴァイツァーのようにアフリカで医療活動に従事したいという夢を手放さないのがいた。小学生や中学生がそういう夢を持つのはかまわないが、大学入学の時点で医学部に入れなかった人間はもっとほかのことを考えるほうが現実的である。それに開発途上国における医療支援の形態や内容もシュヴァイツァーの時代とは変わっている。何よりもご本人が医師になるための、外国に出かけるための準備らしいものを何一つしていない。やる気だけでは何も実現できないと、周囲の人間がもっと「身の丈にあった」将来の計画を立てるように言って聞かせても、考えを変えなかったことを思い出す。教師の方は、彼が医学部を受験するために大学をやめてくれれば大いに助かると思っていたが、たぶん、親が必死になって説得したのであろう、そうせずに教職に就いた。福島さんの文章を読んで気づいたのだが、彼は周囲の人間との折り合いがあまりよくなくて、そのために意地になって人類愛の夢にしがみついていたのではないかということである。
 さて、この文章で、福島さんがペソアのことを「ポルトガルの文人」と書いているのは、この人物について誤解しているなと思った。ペソアはビジネスマンとして勤務しながら、いくつもの人格を背負った筆名を使い分けて、文学活動を展開した人物である。そうやって多数の仮面の陰に自分を隠すような文筆活動の中には新しい文学の可能性が潜んでいたのではないかと思う。あるいは、そんなペソアの人物像について詳しく書いていたら、本題の中村さんのことがかすんでしまうと思ってわざと簡単に触れるだけで終わらせたのかもしれない。

1月20日
 『日経』の「月曜経済観察」でMITのデービッド・ホーター教授が「巨大ITが生む格差」がますます拡大し、商社が労働の成果を独り占めし、敗者は仕事には就くことができるものの、彼らに与えられる仕事は高齢者介護・製造・整備、交通、修理など、高度な技術を必要としない仕事に偏るだろうと予測している。「社会的に問題なのは仕事が不足することではなく、比較的スキルの低い仕事の割合が増えていることだ。」というのはあまり明るい見通しではない。

 同じく『日経』の文化欄で、「装いがまとう意 十選」という連載が始まり、第1回として中宮寺に伝わる(奈良国立博物館寄託)「天寿国曼荼羅繍帳」の一部の写真が掲載されていた。聖徳太子の没後、妃である橘大郎女は、太子のいる天寿国をこの目で見たいと願い、それを聞いた推古天皇が天寿国の有様を刺繍で描かせたと伝えられている。〔太子の最も古い伝記とされる『上宮聖徳法王帝説』によると、橘大郎女が作らせたとのことである。〕
 この写真の「中央右の男子像が目立つ。太子の姿ではないかと想像できよう。しかしこの人物は、われわれが一般的に思い起こす太子の姿とは、まったく異なる衣服を身につけている。」 ということは、いろいろなことを考えさせる。あるいは、この繍帳をめぐる由来から疑い直した方がいいのかもしれない。

 本間順治『日本刀』(岩波新書)を読んでいて、『日本書紀』の推古天皇のところに、「太刀ならば呉の真鋤(まさび)」という歌が記されていることから、古代中国南方、特に呉と呼ばれた地方の鉄剣と、その技術がわが国にも輸入されていたことが推測されているのが興味深かった。『太平記』にも登場する呉の「干将莫邪」の説話を思い出したからである。著者が日中両国の刀鍛冶をめぐる交流史の可能性を示唆しているのは当を得たことであろう。

1月21日
 『朝日』の朝刊の「揺れる大学入試」という連続記事に、英語民間試験活用の見直しに関連して、「高校生は英語で自己表現したいんです」という東進ハイスクール講師の安河内哲也さんのインタビューが掲載されていた。英語で自己表現したいと思う高校生は、安河内さんの周辺には多くいるかもしれないが、みんながみんなそう思っているわけでないだろう。どのくらいの割合の高校生がそのように思っているのかを実証的に提示しないと、議論は始まらないのである。

 このブログを書いている最中に、宍戸錠さんの訃報が飛び込んできた。86歳。長く日活映画で活躍され、『探偵事務所23』シリーズなど主演作もあるが、小林旭さんの『渡り鳥』シリーズに登場する「エースのジョー」など、悪役(と云い切れない、独特の役柄)での演技が印象に残る。ざっと数えたところで私が見たことのある出演作は20本をくだらない。それでもコアなファンの方から見れば少ないだろうと思う。確か『仁義なき戦い 完結編』であったかと思うが、東映映画の撮影を見学した際に、直接の姿に接したことがある。また、ラジオで私の中学の先輩である赤木圭一郎を偲ぶ番組に出演されて思い出を語っていたことを懐かしく思いだす。謹んでご冥福をお祈りする。 

『太平記』(298)

1月20日(月/大寒)晴れ

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)、京では南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能(足利尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、高師直を秦の滅亡をもたらした趙高になぞらえ、高兄弟を討つように直義に進言した。
 直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。
 この年2月、清水寺が炎上し、6月11日には、四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者を出したが、それは天狗の仕業であると噂された。

 上杉、畠山はいよいよ讒言を連ね、妙吉侍者も高兄弟を取り除くことをしきりに勧めたので、直義は兄である尊氏には知らせることなく、上杉、畠山に加えて、高一族の大高重成、千葉一族の粟飯原清胤、利仁流藤原氏の斎藤五郎兵衛入道らを集めて、評定を行い、こっそりと高兄弟を討ち取ろうと相談した。中でも大高伊予守(重成)は大力である、宍戸安芸守は歴戦の勇士であるということで、この2人が討ち取ることと決められ、もしそれでも討ち取ることができないときの用意にと、武芸に秀でた武士たちを100人以上集めてそこここに潜ませた。そして何食わぬ顔で、師直を召し寄せた。
 大高重成は第9巻で尊氏が篠村から引き返して六波羅を攻めたときに、「足利殿の御内に大高次郎重成と云ふ者なり」(第2分冊、62ページ)と名乗りを上げた時が初登場で、その後も尊氏に従って足利軍の一角を占めてきた。しかし、貞和4年(1348)に足利尊氏の怒りを買って、若狭守護を解任され、所領をすべて没収された。その理由は不明である。なお、大高重成が失脚した際に、側杖を食っているのが粟飯原清胤である。(亀田俊和『観応の擾乱』43-44ページ参照)。ただ、今回取り上げた個所でもわかるように、師直とは違って直義と近く、この後から展開される観応の擾乱をうまく乗り切ることができた。武人ではあったが、夢窓疎石と足利直義との禅問答集『夢中問答』を出版したことで、文化史、宗教史にその名を残している。〔森茂暁『太平記の群像』、角川文庫、180‐181ページ参照〕 宍戸安芸守は、常陸国茨城郡宍戸荘)の武士だという。

 まさか直義が自分を討ち取ろうなどと考えているとは思わなかった師直は、騎馬の若党を3人連れて、安心しきった様子でやってきた。若党や中間は、皆侍の詰め所、主殿の前庭に控えており、中門(表門と主殿のあいだの門)に連なる白壁の塀で主殿からは隔てられていた。師直は1人で客間に通されて座っていた。彼の命はまさに風前の灯火ということになっていたが、彼を暗殺する謀議に加わっていた粟飯原下総守が、突然心変わりして、暗殺計画を師直に知らせた方がいいと思うようになり、ちょっと挨拶するような格好で、きっと目で挨拶をした。師直は、抜け目のない人物であったので、すぐにそれが何を意味するかを察して、ちょっとしばらく退出するようなふりをして、門前から馬に乗り、自分の宿所に帰ったのである。

 その夜が暮れると、すぐに夜の闇に紛れて粟飯原と斎藤が師直の邸にやってきた。そして直義の居館である三条殿では、上杉と畠山を中心に謀議が進められており、かくかくしかじかとこれまでの経緯を語った。師直は喜んで、2人に相当の引き出物を与え、これからも三条殿の様子を内内に知らせてほしいと頼んで、相原と斎藤を返した。師直は、これから用心を厳しくして、一族若党数万人(これは大げさ)を自邸の近くの民家に宿泊させ、出仕をとどめて、仮病を使って邸にこもっていた。

 前年の春から、師直の弟である師泰は、楠一族の中で最後に残っている正儀を討伐しようと河内国に下って、石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に楠一族に対する向かい城を構えて対峙していた。そこへ師直は使いを送って、事情を知らせたところ、師泰は紀伊の国の守護であった畠山国清に連絡を取り、彼の代わりに石川河原の城に入らせたうえで、急いで京都に戻ってきた。畠山国清は足利一族で、この後も登場することになる。

 直義は、師泰が大軍をひきいて上京してくるという噂を聞いて、この人物の起源をとらないと師直排除の計画は上手く行かない、だましてやろうと思ったので、飯尾修理入道(宏昭、幕府の引付衆)を使いに出し、「師直の政務ぶりは短才庸愚(才が無く凡庸で愚か)なので、しばらくの間政務への関与をとどめているところである。これからは、師泰を管領(執事、将軍の補佐役)に任じるものである。政所(幕府の財政・行政を司る役所)やその他の運営は、丁寧に行うべし」と管領職を委ねようとした。
 師泰は、この使いに対して、どうもありがたいお申し出ではあるけれども、枝を切った後で、根を断つという腹積もりではないのでしょうか(師直を倒した後で、今度は師泰を倒そうと画策している)。どのように入京して、お返事を申し上げればよいのでしょうか(わかりません)」と直義の目論見に反して返答をして、すぐにその日のうちに石川の館を引き払った。鎧兜で武装した兵3,000余騎に、7千人ほどの人夫たちに各種の盾を持たせ、今にも合戦に取り掛かるような様子で、しかも白昼に京都に入ってきた。京の人々は洛中でまた合戦が起きるのかと驚き、恐れおののいたのである。

 師泰は師直の宿所に入り、いよいよ三条殿(直義の居館、また直義のこと)との合戦が始まるといううわさが広がったので、8月11日の宵に、赤松入道円心とその子・則祐、氏範が700余騎を率いて、師直の邸に出かけた。
 師直は、赤松父子と急いで対面して、直義殿は理由もなく師直とその一族を滅ぼそうとされており、事態は切迫していると告げた。そして、彼は将軍≂尊氏にこの事情を説明したところ、尊氏は、直義がそのような企てをするのは穏やかではない。なんとかその企てをやめさせて、直義に師直の讒言を吹き込んだ者たちを重く処罰するべきである。もしその命令に従わずに、師直に討手を遣わすことがあれば、尊氏は必ず師直と一緒になって、安否を共にするつもりであると言われた。
 将軍のご意向がはっきりしたので、もし直義殿から討手が使わされば、反撃する所存である。京都のことは、内内に気脈を通じているものが多いので、安心である。しかし問題は、直冬殿が備後に居られることである。もし中国地方の兵を率いて京都を目指して攻め込んでこられると、厄介なことになる。今晩すぐに(赤松氏の本拠である)播磨におくだりになって、山陰道、山陽道から攻め上ってくる敵を杉坂、船坂の要害の地で食い止めてはくれないかと、依頼をする。赤松一族の武勇はこれまでの歴戦で明らかである。そして、藤原道長に仕えて勇武の士として知られた藤原保昌(伝説では源頼光、彼の四天王とともに大江山の鬼を退治した)のもっていた、代々受け継いで身辺から離さないできた護身用の懐剣を錦の袋に入れて、引き出物として与えた(大変な信頼ぶりである)。
 
 赤松父子3人はその夜ただちに都を発って播磨に下り、3千余騎の配下の兵を2手に分けて、備前の船坂、美作の杉坂、2つの道を封鎖したので、直冬は、備後から軍勢を率いて上京する心づもりであったのが、予定が狂ってしまった。

 いよいよ観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の初期における最大の戦乱が始まろうとしている。今回、師直が打った布石のために、直冬は一応抑えられたが、この程度のことでは事態は収まらないはずである。
 亀田俊和さんによると、この擾乱によって室町幕府の権力構造が鎌倉幕府(と建武新政権)の単なる模倣から、室町幕府独自のものへと変化することになるという。それはさておき、ここでは人間関係に重点を置いて、事態の推移をみていきたいと思う。三条殿(直義)の下に、また高師直の下に、多くの武士たちが集まり、一触即発の危機が出現するというのは、また次回に。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(27)

1月19日(日)晴れのち曇り

 フィッツウィリアム大佐の話を聞いて、姉ジェインとビングリーとの仲を裂いたのがダーシーであったと察したエリザベスは、彼に対する怒りを掻き立てたい衝動に駆られ、コリンズ夫妻とマライアがロウジングズ邸に出かけた後で、ケントに来てから届いたジェインの手紙を全部読み返すことにした。姉の手紙には具体的なことは何一つ書かれていなかったが、彼女の手紙の持ち味である陽気な明るさが欠けていた。エリザベスは姉を不幸な目に合わせただけでなく、仲を裂いたことを自分の功績として誇っているダーシーに対する怒りを募らせた。それでも、間もなくダーシーはロウジングズ邸を離れるし、自分自身が姉とまた一緒にロングボーンで暮らすようになるのだと思って心を慰めたのである。
 エリザベスはまた、ダーシーがロングボーンを去るということは、フィッツウィリアム大佐も一緒に行ってしまうことだと思った。しかし、大佐は財産のない女性との結婚の意志がないことをはっきり口にしたので、彼女は自分の気持ちを整理することができた。

 大佐のことは、はっきり忘れようと彼女が考えていると、突然玄関の呼鈴が鳴ったので、エリザベスははっとした。あるいはフィッツウィリアム大佐かも知れないと思うと、思わず軽い胸のときめきがした。以前にもそんなことがあったので、自分が気分が悪いと知って見舞いに来てくれたのかもしれないと思ったのである。
 しかしこの胸のときめきはすぐに、不吉な胸騒ぎに変わった。現われたのは大佐ではなくダーシーだったからである。
 彼は部屋に入るなり、せかせかした調子でエリザベスの健康状態について尋ねた。それに対し彼女は礼儀正しく、しかし冷ややかに答えた。ダーシーはほんのしばらく腰を下ろしたかと思うと、また部屋の中を歩き回り始めた。この奇妙な挙動にエリザベスは驚いたが、何も言わずに黙っていた。

 やがて、ダーシーは思いつめたような様子で、彼女にこう言った。
「もう駄目だ、何とか抑えようと努力したけれど、どうしても抑えきれない。この気持ちを抑え込むのは無理です。はっきり言います。僕はあなたのことが好きだ。心から愛している。」(大島訳、326ページ)
 エリザベスの驚きは形容のできないほどのものであった。〔つい今しがたまで、憎んでもあまりあると思っていた男性から、急に愛の告白を、それもかなり奇妙な仕方での告白をされたのだから、驚かない方がどうかしている。〕
 エリザベスが驚きのあまり、何も言えないでいるのを、承諾の意味を込めた沈黙だと誤解したダーシーは、それに勢いづいて彼が彼女をどれほど思っているか、それまでどれだけ思ってきたかを、とうとうと述べはじめたのだが、それ以外にも(彼の自尊心のゆえに)付け加えたいことがあって、話が長くなった。というよりも、彼女との結婚が自分の階級的な地位を下げることとか、家柄のちがいとか、自分の理性的判断とエリザベスに惹かれる感情の相克とかについて語り、それは彼がこのような障害があっても結婚したいという思いの表明であったかもしれないが、魅力的な結婚の申込とはいいがたいものであった。

 エリザベスが男から求愛される、あるいはされかけるのは物語が始まってからこれで4人目である。つまり、最初がコリンズ、次がウィッカム、それからフィッツウィリアム大佐、そしてダーシーである。正式に求愛したのはコリンズと、ダーシーの2人で、2人とも理屈っぽいというか、余計なことを並べすぎる求愛の言葉を連ねているのだが、自分の自尊心との戦いがそのまま出てしまっているダーシーの方が、少し誠実に思われるのではないかと思う。

 「エリザベスはダーシーを心底嫌ってはいたものの、これほどの男が自分を愛してくれているのかと思うと、さすがに冷淡にはなれなかった。自分の意志がぐらつくことは一瞬たりともなかったが、最初のうちは、相手が受けるであろう苦痛を思い遣って気の毒な気持ちになったほどであった。」(大島訳、328ページ) エリザベスは冷静にふるまっているが、それは求愛を拒否するつもりだったからである。そして、ダーシーの言葉を聞いているうちに、これまで抱いていた怒りがまた戻ってきて、相手に対する同情の気持ちなどなくしてしまった。それでも、ここは冷静に対応しようと決心して、相手の話が途切れるのを待っていた。
 一方、ダーシーの方は自分の申し出が拒否されることはないと確信している様子だったので、エリザベスはますます怒りを募らせていた。

 ダーシーが話をやめたときに、エリザベスは顔を紅潮させて、このような場合には、義理にでも礼を述べて、それから断るべきだと思うけれども、自分としてはそれもしたくない、彼からよく思われたいと思ったことは一度もないし、この件は忘れてほしいと答える。今度は驚き、怒りを感じたのはダーシーの方である。それでも、なんとか平静さを保ちながら、エリザベスがなぜそのように礼儀作法に反した拒絶をするのかと問い返す。
 エリザベスは自分の方から尋ねたいことがいくつもあると切り返す。そもそも、ダーシーが自分の理性に反して、身分や品性に反して、彼女のことが好きになったと述べたが、それは彼女を侮辱するような言い方ではないか。それから、自分の姉であるジェーンから、その恋人のビングリーを去らせるような真似をなぜしたのかというのである。
 これに対して、ダーシーはビングリーをジェーンと別れさせたのは、それなりの理由があって、友人を思い遣った結果であるという。エリザベスは、彼の言わんとすることが分かったが、分かったと思われるのが癪なので、わからないふりをして次の質問に取り掛かった。彼がウィッカムから聖職に就くという彼の希望を奪ったのはなぜかというのである。この質問に対しては、ダーシーはまともに答えない(それには、それだけの理由があるのであるが、それはあとからわかる)。

 こうして2人は、かなり激しいやりとりの後で、別れることになる。ダーシーが出て行った後、エリザベスは激しい動揺に見舞われた。一方で、彼が彼女について強い愛情を抱いていたことを知らされ、その一方で彼女が彼に対していだいていた怒りの感情の原因になったことを、彼は否定しなかったし、正当化しさえしたのである。そうして自分の心の興奮をなかなか鎮めることができなかったが、そのうち、ロウジングズ邸を訪問した一行が戻ってきた様子を察知して、自分の部屋に引き上げることにした。親友であるシャーロット(コリンズ夫人)の目をごまかして、自分の心の動揺を隠すことは難しいと思ったからである。

 今回も、これまでのあらすじを紹介するのをやめた。これからは何回か置きに紹介するということにしたいと考えている。
 物語の1つの山が来て、ダーシー(高慢)のエリザベス(偏見)に対する求愛は拒絶された。しかし、ここで話が終りになるわけではない。まだ物語は27章も残されており、これから物語の本格的な展開が始まると考えた方がいい。自尊心を克服しようとしながらも、まだまだ中途半端な態度でしてしまった、エリザベスへの愛の告白を拒絶されたダーシーの「高慢」がどうなっていくのか、エリザベスの怒りあるいは「偏見」は和らぐのか。前途に待ち構えているのは、どんな出来事であろうか。
 ところで、ダーシーはエリザベス以前に、求愛した女性がいたのだろうか。オースティンがそのあたりをどのように考えていたのかを想像してみるのも面白い。

森林公園行きの電車に乗った

1月18日(土)雨が降ったりやんだり、東京ではみぞれが降っていた。

森林公園行きの電車に乗った

森林公園行きの電車に乗った
この特急電車に
始発から終点まで
元町・中華街から森林公園まで
ずっとずっと乗り続ける乗客は
たぶん いないだろう
運転士さんだって
途中で交代するのかもしれない

終点を目指しずっと走り続ける
愚直さを嘲笑してはいけない
目的に向かい、時間通りに
走り続けることを軽く見てはいけない

我々乗客は、走り続ける電車を横目で見ながら
途中で乗車し、下車し、乗り換え、乗り継ぎ、
せわしなく集まり、散り、
あわただしく職場に向かい、用談に赴き、
学校に向かい、遊びに出掛け、
病院に通い、家に帰る。

一度くらいはのんびりと
目的を持たずに始発から終点まで電車に乗り続ける
ちょっとした旅をしたいものだ。
その目的のなさを電車に嘲笑されてもいいから、
機械よりもおっとりとした
人間の生き方を試みてみたいものだ。

 本日は順番としては、ルーカーヌス『内乱――パルサリア――」を掲載する日ですが、東京の神楽坂まで別府葉子さんのシャンソン・ライヴ(ピアノは江口純子さん)を聴きに出かけたために、予定を変更して、飯田橋までの電車の中で思いついた詩を掲載します。
 今年友人から届いた年賀状の中に、もっと詩と映画の紹介・批評を多くしてくれというブログへの注文があったのですが、詩は霊感がわかないと書けないので、私としてできるのは、霊感がわきそうな経験をもっと多く設けるように努力するということです。映画のほうは、1本でも多く、できるだけ新しい映画を見て、作家や作品とのより刺激的な接点が作れるように努力したいと思っております。
 コンサートの感想については、21日付の「日記抄」に書きたいと考えております。

細川重男『執権』(6)

1月17日(金)曇り

 この書物は北条氏は将軍位に就かなかったのに、なぜ鎌倉幕府を支配し続けることができたのかを、執権であり得宗でもあった2人の人物、北条義時と時宗のそれぞれの人生と政権、影響について考察することにより、あきらかにしようとするものである。
 これまで見てきたところでは、伊豆の小豪族であった北条氏が一族の娘・政子が頼朝の妻になることによって幕府の中で重要な地位を占めるようになり、つぎつぎと政敵を倒して権力を築く過程、そのなかで北条義時が積極的に役割を果たすというよりも、事態に消極的に対応しながら、しだいにその地位を固めていったことが明らかにされている。ところで、注目すべきは鎌倉時代に成立した説話集である『古今著聞集』に義時は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えた武内宿禰の生まれ変わりであるという説話が収められていることで、少なくとも朝廷や鎌倉幕府に関係する知識層の中では、これが信じられていたように思われる。義時が八幡神の命により再誕した武内宿禰であるという説話は、その子孫である北条氏得宗家の正当性を裏書きするものとなった。

 得宗とは何か
義時と「得宗」の謎
 しかし、それでは、「得宗」とはいったい何を意味する語なのであろうか。北条氏嫡流の家系は「得宗家」、北条氏家督に権力の集中した鎌倉幕府政治の第3段階は「得宗専制政治」、北条氏家督の家政機関は「得宗家公文所」、北条氏家督の所領は「得宗領」、鎌倉時代当時には「御内人」と呼ばれていた北条氏家督の家臣は学術用語で「得宗被官」と呼ばれ、後期鎌倉幕府を「得宗政権」と呼ぶことすらある。ところで、「得宗」は、北条義時に関係する何かだと理解されているが、その「何か」があまりはっきりしない。
 そもそも、得宗が義時と結びつく語であるということを示す史料がほとんどないのである。わずかに、鎌倉幕府滅亡26年後の延文4年(1359)に記された「石清水社務嚢清注進状」に義時が得宗と号す(義時には得宗という別名があった)という割注が加えられているのが見られるだけである。細川さんは、この史料は、信用していいのではないかと論じる。しかし、義時が出家して名乗った法名は「観海」である。だから「得宗」が義時の法名であった可能性は否定される。

時頼と得宗
 史料を調べると、「得宗」は「徳宗」または「徳崇」と書く場合があったことが分かる。あるいは、得宗は「徳崇」の当て字、略字なのではないかと、細川さんは推測する。というのは、時頼以後の北条得宗の歴代の法名には「崇」路を用いる例が多いのである。つまり、時頼が道崇、貞時が崇暁、後に崇演、高時が崇鑑であり、他にも得宗に近かった有力者で崇を法名に用いた例があるという。そして、この「崇」というのは禅宗系の法名に用いられているので、得宗家が禅宗に帰依するようになった時頼の時代に、義時に対して改めて「徳崇」という法名を贈った可能性があると推測している。

 というのは時頼には義時に対して共感を覚えるような事情があったからだと推測は続く。もともと時頼には経時という兄がいたが、病弱なために執権職を譲られたという経緯があり、一族の中にはこの継承に異議を唱えるものがあって、それが一族の有力者である名越光時の反抗(宮騒動)となって現れたという。さらに宝治合戦によって三浦氏、毛利氏などの敵対する勢力を滅ぼして執権職を守ることになる。さらには彼にとって大叔父となる重時を六波羅から鎌倉に呼び戻し、連署の地位に据えることによって自分の権力を固め、その娘を妻に迎えさえしている。このように自分の地位の正統性に欠けるところがあるという自覚を持っていた時頼には、同じような立場ながら家督を継承した義時に共感するだけでなく、その共通性を強調することによって、かえって自分の地位を強化できると考えたのではないか。それが義時への追号となって現れたのであろうというのである。

 神話と実像の間
 子孫やその周辺の人々によって武内宿禰の生まれ変わりというような神話的な存在に祭り上げられたのであるが、義時の実像はそのような存在とは程遠いものであったと細川さんは考えている。
 「有象無象の東国武士団北条氏の庶子に生まれた江間小四郎義時は、18歳の治承4年(1180)8月17日までは、父時政より北条の西隣江間郷を割き与えられただけの存在であり、兄宗時の家子として生きる以外の将来はなかった。源頼朝挙兵後の運命は、義時自身の予想だにもしなかったことの連続であったであろう。
 義時の人生を鳥瞰してみると、本人の意志とは無関係に次々に押し寄せる災難に振り回され続けであったとしか思えない。姉政子が流人頼朝と結ばれることなく、また頼朝が鎌倉幕府の創始者とならなければ、良いときは無名の東国節として生きたはずである。」(104ページ)
 頼朝挙兵、鎌倉幕府の創設、頼朝死後の幕府の内部抗争という激動の中で、義時は自分自身と周囲の人々を守るために戦い、結果的に勝利し続けただけに過ぎないのではないかと細川さんは言う。「勝利のたびに義時の地位は向上し、それはさらに大きな災難を呼んだ。その果てに承久の乱の勝利がある。」(同上)
 
 神格化されていった義時であるが、彼の実像は次のような挿話から窺い知るべきなのではなかろうか。
 承久の乱の最中に、義時邸の台所に落雷があり、下働きの男1人が犠牲になった。義時は恐れおのの生き、大江博元を呼んでこれは幕府の運命もこれまでという前兆ではないかと訴えた。
 すると広元はこれは凶兆ではない。頼朝が奥州合戦に赴こうとした時も落雷に見舞われたが、合戦には勝利を収めた。もし心配ならば占いでもしてみればいい。
 そこで陰陽師を呼んで占わせたところ、結果は最吉と出たと『吾妻鏡』は記しているという。〔細川さんはそこまで書いていないけれども、占いなんてものは、いくらでもごまかしが可能である。〕 義時にしても、院に戦いを挑むことは怖かったのである。彼もまた天皇と王朝を素朴に尊崇する中世人の一人であったのだという〔というのはいいけれども、そうなるとずっと強硬な意見を主張し続けている大江広元はどうかという問題が出てくるはずである〕。

 しかし、その義時が、彼の子孫やその取り巻きたちにとって、北条氏には鎌倉幕府を支えていく歴史的使命があるという一種の「王権神授説」の理論的根拠を与えることになったのは、歴史の皮肉というべきであろうか。
 ということで、第2章「江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの」を終る。歴史よりも、伝説の方に興味がある私にとっては、後半の方が面白いと思うのだが、読者の皆さんはどうお考えであろうか。次回からは、第3章「相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの」を取り上げることになる。さて、細川さんは時宗の実像をどのようなものと把握しているのであろうか。それはまたこれからのお楽しみ。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(5)

1月16日(木)曇り

 平将門の乱は承平5年(935)から天慶3年(940)までのあいだ北関東を中心に展開された<武士の最初の反乱>であるが、この書物はその事態の推移よりも、その「時代的特徴」に焦点を当てて、八幡神や道真の霊魂の出現に見られる国家的な神祇体系の変化、および王土王民思想に代表される国家的イデオロギーの発現など、当時の国家支配の性格との関連に留意して、その性格を明らかにしようとするものである。
 この反乱の誘因となったのは関東地方の治安維持のために派遣された「一種の辺境軍事貴族」であった平氏一族の内紛であるが、将門が一族を相手に争乱を起こしたのは東北と京の中間に位置し、東北の富を都に運ぶ際の要路であった筑波山西麓の支配権をめぐる対立がもとであったと著者は考えている。
 将門の乱の第2段階は、将門による武蔵国府における紛争への介入、常陸国府、下野・上野国府襲撃であるが、その際に将門が国府における紛争に介入できる地位にあったことが重要であり、この間、将門と国府のあいだに「移牒」と呼ばれる文書が交わされていることから、将門は軍事貴族として国衙から独立し、対等に交渉し得る地位にあったと著者は考えている。〔以上これまでの要約〕

 将門の政治的地位(二)――「営所」の性格を中心に
「営所」をめぐる諸説
 「『移牒』とならんで、将門の在地社会における政治的地位を示すと考えられるのが『営所』である。将門の本拠地の石井(いわい)が『営所』と呼ばれているのがそれである。」(89ページ) 
 「営所」をめぐっては、「軍事的拠点」と理解する見解が有力であるが、それが郡をまたいで複数存在することから、単なる「軍事的拠点」ではなかったと考える意見もある。

水守営所と石井営所
 著者は『将門記』を検討して、書中に「営所」は3か所(平良兼の水守営所、将門の石井営所、源経基が籠った武蔵国比企郡狭服山の営所)しか登場せず、1人の武将が複数の「営所」を行き来していたとは考えにくいとするが、その性格について、「軍事的拠点」であるだけでなく、「政治的拠点」の機能も持っていたと考えている。

武蔵国狭服山の営所
 著者は『将門記』における武蔵国府の内紛への将門の介入をめぐる記述の分析から、「営所」は国府による国内支配に関連した公的、あるいは準公的な施設であったと考えている。

「営所」の準公的な性格
 将門は移牒を石井の営所で受け取っており、その際、宛名として本来役所を意味する「衙」という文字が添えられていることから、将門の石井営所も、擬似官司化した存在であり、準公的な性格をもっていたのではなかったかと考えている。 

 将門と平氏一族の政治的地位
将門の自立性
 これまで展開してきた分析をまとめると、次のようになる。
 「武蔵国府から始まる国府襲撃事件は、それぞれ性格に違いがあり一括して議論することはできない。」(102ページ) この場合は、将門が調停者として登場していること、にもかかわらず経基の上奏によって将門に「反乱」の意図があるという汚名が着せられてしまったことに注目すべきであろう。
 常陸国の場合は、調停者であった将門が、ここで反乱者に姿を変えている点が重要であり、彼は自分が皇統に連なることから、反乱を起こすことを自ら宣言している。さらに、下野・上野両国府の場合は、反乱の完成にむかおうとしている。

 将門は軍事貴族としての自立性を持っており、律令制における官司としての地位はもっていなかったが、地方の軍事貴族として自らを「擬似官司化」した存在であった。彼のこのような存在を支えたのは、関東において辺境軍事貴族としての平氏が築き上げてきた政治的地位があったと考えられる。

10世紀前半、平氏一族の政治的地位
 以上のことから、平将門の関東地方における政治的な地位は国司と「移牒」のやりとりができる「擬似官司化」したものであり、それに加えて「営所」という準公的な施設=政治拠点を持つことのできるほどのものであったことが分かる。
 しかし、このような地位は、将門だけでなく、平氏一族の他の人物も持っていたものと考えられる。それは10世紀前半の平氏一族が共通して持つことの出来るものであったと考えられる。したがって、そのなかで将門を反乱に踏み切らせたのは、一族として保持していた関東諸国に対する広域的な支配権と奥羽・蝦夷の富に対する利権であって、私的な原因に基づくものではなかったと考えられる。

 その後の将門の行動と、その背景の事情についてはまた次回に。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(10)

1月15日(水)朝のうちは雨が残っていたが、その後、晴れ間が広がる。

 おそらくは17世紀の初め(日本では江戸時代のはじめ、中国では明末)に、語り手の乗った船はペルーを出帆して中国か日本のどちらかに向かって航海していたが、強い南風のために北太平洋のみちの海域にある島に漂着した。語り手の一行は最初、入国を拒否されるが、彼らがキリスト教徒であり、海賊行為を働くものではないことが理解されて、上陸を許可され、漂流者を収容する施設である「異人館」(The Strangers' House)に居住することになった。
 「ベンサレムの島」と自称しているこの島の人々は、アトランティス大陸(アメリカ大陸のことだという)を襲った大洪水の後、一種の鎖国政策をとるようになったが、その一方で秘密裏に外部の事情を調査して、高い文明を築き、維持している。彼らは家族の結びつきを重視し、厳格な一夫一妻制度をとっているようである。

 この島に住む数少ないユダヤ人の1人であるジョアビンは、学識豊かで思慮深い人物であったが、ベンサレムの島の人々の貞潔さを賞賛した後、しばらく沈黙していた。語り手は、彼に話を続けてほしかったが、何も言わないのは失礼だと思い、ベンサレムの正義はヨーロッパの正義よりも上であると認めないわけにはいかないという意見を述べた。
 するとジョアビンは「この国には結婚に関する優れた理にかなった法律がたくさんあります。一夫多妻(polygamy)は許されません。また初対面後1ヵ月を経ないと結婚も婚約もできません。両親の同意なしの結婚は無効とはされませんが、相続人にその罰が科せられています。そのような結婚で生まれた子供たちは、彼らの両親の遺産の3分の1以上を相続することができないのです。」(47ページ) ベーコンは法律家であったから、この相続の規定については彼なりの理論的な根拠があったはずであるが、そのことをめぐる解説は見いだされなかった。

 彼はさらに次のように続ける:「私はあなた方のお国の人が、架空の共和国(a Feigned Commonwealth)について書かれた本の中で、結婚する男女(the married couple)が、婚約する(contract)前にお互いの裸の姿を見るのを許されるという話を読んだことがありますが、この国の人々はそれを良いとは思いません。それほど親しく相手を知った後で断るのは相手に対する侮辱と考えるからです。男女の肉体のさまざまな隠れた欠陥についてはもっと礼儀にかなったやり方があります。あらゆる町の近くに二つの池(a couple of pools)(アダムとエヴァの池と呼んでいます)があり、結婚したい男の友人と女の友人がそれぞれ別々に二人が裸で水浴びしているのを見るのが許されるのです。」(47‐48ページ)

 ここでジョアビンが読んだと言っているのは、トマス・モアの『ユートピア』であることは明らかであるが、ユートピアについて"a Feigned Commonwealth"といっているのが気になるところである。というのは、モアはユートピアが王国であるとも、共和国であるとも、どうもはっきりとは述べていないのである。だから、ベーコンがこと更にcommonwealthという言い方をしているのが気になるのである。辞書によると、commonwealthは「国家」という意味であって、「共和国」を指す場合が多いが、「共和国」に限って使われる言葉ではない(これはrepublicも同じで、「国家」とも訳されるし、「共和国」とも訳される)。ただ、実際にはベーコンの死後まもなく1649年から1660年まで続いたthe Commonwealth of Englandは共和国であった。

 それからおさらいのために『ユートピア』の本文を探してみると、「さて、配偶者を選ぶにあたって、彼らは、きわめてばかげた、おかしな〔われわれにはそう見えたのです〕習慣を、まじめかつ厳格に守っています。つまり処女であれ未亡人であれ、女性は、品位あり名望ある貴婦人の手で裸にさせられ相手に見せられますし、同様に求婚者も有徳の士の手で裸にされて女性の前に連れ出されるのです。」(澤田訳、191ページ) 澤田さんは、これはプラトンの『法律』に示唆されたものであると注記しているが、Oxford World ClassicsのSusan Bruce (ed.,) Three Early Modern Utopiasの当該箇所の注では、ホラーティウス、セネカ、プラトンの発言を引用していて、それらを見た限りで、モアの意見はセネカに倣ったものだといえる。つまり、セネカは人々は馬を買うときにはバグや鞍をはずして、隠されていた場所に傷などがないかを確かめるのに、奴隷についてはそういうことをしないと発言している(『道徳書簡』)が、これはモアの議論とよくかさなるものである(ただし、奴隷が妻に対応しているというのが問題ではある)。澤田さんはこの習慣をそのまままねろとか、とりいれろとか言うのではなくて「配偶者の選択に十分注意せよ」という教訓を与えるものと解釈していて、それはそれでもっともだと思うが、その反面でやはり風刺的な意味が込められているという解釈も捨てがたい。
 それにしても、同じ部屋の中で裸で見合いをするというのと、それぞれが別のプールに裸で入って、お互いを見るというのと、あまり違いはないように思うが、ベーコンはそうは考えていないようである。

 それからプラトンについてはまだどのようなことを言っているのか確認していないが、『国家』などの著作から推測できることは、彼が優れた子どもができるような優生学的な配慮をすべきだと考えていたということである(この点はカンパネッラがその影響を受けている)。プラトンはアテナイの人であるが、それと対立するポリスであったスパルタの制度を作ったとされるリュクルゴスという伝説的な人物の伝記を、プルタルコス(プルターク)が書いていてその要約・解説がベルネリの『ユートピア思想史』に掲載されている。問題は、リュクル ゴスはプラトンよりも前の時代の人だといわれているのに対し、プルタルコスは、プラトンよりもかなり後の時代の人だということであり、彼が定めたというスパルタの制度は、プルタルコスの時代にはすでに廃れていたと、プルタルコスが書いていることである。とにかく、プラトンおよびプルタルコスが書いている(らしい)、少年たちの前で少女たちが裸で踊ってというのは、その魅力を見せつけるためであって、セネカやモアの欠点を知るために裸の姿から確認するというのとはかなり違う話ではないかと思うのである。

 語り手がジョアビンといろいろと話をしているところに、使いと思しき人物が現われて、彼に用件を告げる。彼は、呼び出しを受けたので、これで失礼するといって去っていくが、翌朝、またやってきて、「サロモンの家」の長老の1人が、その日、当地にやって来るので、その到着の様子がよく見えるように手配しようという。〔どうでもいいけれども、そういう仕事は、「異人館」の館長の仕事ではないかと思う。〕
 ベルネリも指摘しているが、他のユートピアの住人たちが質素な衣食住で生活しているのに対し、ベンサレムの島の高官たちの見せびらかすような豪華な衣装の描写は、書き手の俗物性の反映であろうが、あまり感心しないものである。
 こうして、語り手は、「サロモンの家」の長老の姿を見、やがて彼と会見して、「サロモンの家」の事業について詳しく知ることになるが、それはまた次回に。

日記抄(1月8日~14日)

1月14日(火)晴れ、雲が多い。

 1月8日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

1月8日
 「朝日川柳」のなかに、茨城県の岩井廣安さんによる「まださほどトイレは近くないと見え」という句があった。「おしめして箱に隠れる覚悟かな」という方がいいかもしれない。

 松原隆彦『宇宙は無限か有限か』(光文社文庫)を読み終える。宇宙の果てがどうなっているのかという問題は、藤子・F・不二雄の漫画によく出てくる。宇宙の広大さは、年をとり、科学の発展を多少は自分の知見としたことで、だんだん身にしみてわかってきた。とはいうものの、「無限か有限か」ということになると、どうもわからないところがある。
 この書物では光行差の発見、年周視差の初測定などという過程を経て、しだいに地動説が天動説を実証的に圧倒していく過程から始まって、宇宙の構造が明らかになっていく道筋が辿られているが、そのような観測と理論の発展にもかかわらず、依然として、宇宙は無限か有限かわからないというのが、今のところの結論であるというのは、安心するようなしないようなところがある。

1月9日
 NHK『まいにちフランス語』応用編「フランスで『世界』と出会う」を聴いていて、フランスでは最近、ルーマニア人の歯科医が多くなっていることを知った。そういえば、昨年放送された『まいにちフランス語』入門編「世界のフランコフォンと話そう」の5月21日放送分で、ルーマニアのことが取り上げられていた。ルーマニアではフランス語が公用語とされてはいないが、東欧の中ではフランスとの結びつきが強い国であるという。彫刻家のブランクーシ、詩人のトリスタン・ツァラ、劇作家のウジェーヌ・イヨネスコなどはフランスで活躍したルーマニア人である。5月21日の放送でも名前が出てきたE.M.シオランもルーマニア出身の詩人で、『歴史とユートピア』などの著作がある。

1月10日
 横浜FCシーガルズのFW長澤菜月選手が新潟アルビレックスレディーズに完全移籍することになった。もともと新潟出身の選手なので、郷里に帰ってプレーするということであろう。彼女の履歴を調べていてびっくりしたのは、彼女が最初に所属したのが五十嵐サッカークラブだったということ(五十嵐は新潟大学の所在地である)、彼女が生まれたのが、私が新潟から移動した後のことだったということである。時の流れは速いものだ。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」では、コロンビアのカリブ海沿岸の町カルタヘナが取り上げられた。この町にゆかりのあるノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケス(1928‐2014)のことが話題に出て、彼が若き日に新聞記者として働いていたバランキージャの町を訪問しようということになる。ガルシア・マルケスというと40年以上昔に、彼の作品がスペイン語の時間の応用編で取り上げられたことがあったし、その後、『朝日』に彼のインタビューが掲載されていて、あなたの作品には幻想的なものが多いのですがという問いに対して、「ラテン・アメリカではそのように幻想的だと思われることが現実なのだ」と答えていたのが強く印象に残っている。
 テキストによると、バランキージャは「19世紀初頭にドイツの移民会社の商船が到来して以来、ドイツ人やイタリア人、ユダヤ人やアラブ人、インド人など多くの移住者が渡ってきた、民族と文化が交差する港町であり、サムディオ(Samdio)やフエンマヨール(Fuenmayor)など多くの文人を輩出した文学同人会「バランキージャ・グループ(Grupo de Barranquilla)」で知られる文化都市」だそうである。人口はカルタヘナが100万人くらい、バランキージャが170万人くらいだというから、それぞれ相当な大都市である。

1月11日
 『朝日』朝刊に国際オリンピック委員会(IOC)が選手村や表彰式での政治的なメッセージやジェスチャーを東京五輪から一切認めないという方針を発表したそうだ。何が政治的で、何が政治的でないのかという線引きは難しい。考えようによっては「万歳」をしたり、ピース・サインをしたりすることも政治的だと受け取られるかもしれない。政治的な意思表示を禁止するというのも政治的な意思表示である。1968年のメキシコ・オリンピックの男子200メートルで優勝したトミー・スミス選手が自国における黒人差別に抗議して、表彰台上でこぶしを高く掲げるブラック・サリュートというパフォーマンスをおこなったことはよく知られている(テレビでその画面を見た)が、オリンピックのような機会を利用して政治的あるいは社会的な問題を訴えることはむしろ推奨されるべきではないかと思う。

 『朝日』の第2神奈川版によると、地方の寮制学校が首都圏から生徒を集めようとする努力を拡大しているという。日本には少なからぬ数の私立の寮制学校があるが、中には医学部への進学で高い実績を挙げている学校もあるなど、独自の個性が育っているようである。何が寮制学校の利点なのか、実証的に考えてみる必要がある。

1月12日
 横浜シネマ・ベティで『台湾 街角の 人形劇』を見る。映画を見に出かけたのはおよそ半年ぶりで、この作品については『日経』に紹介記事が出ていたので、見てみようと思ったのである。
 台湾の伝統的な人形劇である布袋戯は布袋の中に手を入れて演じることからこの名がつけられているが、候孝賢監督の映画作品の名脇役としても知られる李天禄はこの布袋戯の人間国宝であった。映画はその李天禄の長男で、ある事情から母の姓を継いだ陳錫煌もまた人間国宝に指定されるほどの名人であるが、父親との間にはわだかまりがあり、それが彼の芸にもさまざまに影響してきた。映画は老境を迎えて、伝統をいかに後世に伝えるかを考え、その芸の記録・保存に意を用いる一方で、芸の維持・継承にも心を砕く陳の姿を描いている。布袋戯と、その語りの言語である台湾語がしだいに衰退していく中での芸能の継承の難しさが、描き出されている。

1月13日
 愛知県のある大学で、単位をめぐる口論の結果、学生が教師を刺すという事件が起きた。学生のほうではレポートを出さずに単位をもらおうというのだから、虫のいい話で、レポートが提出されない以上単位を出さないと当たり前の対応をとって刺された先生のほうが気の毒である。しかし、かなりいい加減な方法で単位をそろえて大学を卒業している人間もいないわけではないので、学生が単位をとれるように便宜を図ってやれるような話し相手がいればよかったのにと思わないでもない。
 高田公理さんの『酒場の社会学』の中に1970年ごろの話として、京大卒業させ屋という職業を営んでいる人物がいたという話が出てくる。全共闘シンパのような先生に頼んでは、レポートと引き換えに単位をもらうというあっせんをしていたというのである。そういえば、私も大学を卒業するときに、心理学の単位が余っていたので、漢文の教師になりたいが心理学の単位が足りないので教員免許が取れないという友人のためにその単位が回せないものかと真剣に考えたことがあった。「卒業させ屋」にあって、私になかったのは実行力であると今になって思う。心理学の先生とはラポールがあった(と思う)ので、レポートを書けばなんとか単位を出すという話くらいはまとめられたのではないかと、今になって思う。〔レポートを出さずに、単位をもらおうというのが言語道断であることは言うまでもない。〕

1月14日
 『朝日』朝刊に英国語学評価テスト学会の創設者であるバリー・オサリヴァンさんによる「国際基準の統一テスト 政府が開発を」というインタビュー記事が出ていた。民間団体による試験が悪いというわけではないが、政府がもっとこの問題に積極的に取り組む必要は誰もが認めているところではないかと思う。

 『日経』1面のコラム「春秋」に気になる記事が出ていた。冬の夜空を飾る一等星の1つであるオリオン座のペテルギウスがいつになく暗い。「米国の天文学者によれば、2019年10月から2か月ほどの短い間に、明るさはほとんど半分になったという。100年ほど前に観測を始めて以来もっとも暗い、とも伝えられている。▼超新星爆発を起こす前触れでは――。そんな物騒な声が聞こえてくる。・・・もし爆発すれば月に匹敵する明るさになるらしい。1054年に世界の各地で人々の目を惹いた超新星爆発より、ずっと派手な天体ショーになるのかも・・・・・。夜空を見上げるのが、いよいよ楽しみである。」という。
 1054年の超新星の残骸がおうし座にあるかに星雲で、この爆発についてヨーロッパの記録はないが、中国の『宋史』とわが国の『明月記』に記載があるという(定家は同時代の記録としてではなく、昔そういうことがあったとして、「客星」についての記事を書いているのである)。超新星としてはこのあと1572年に有名なティコの星、1604年にケプラーの星とよばれるものが現われたが、その後は銀河系では出現していない。だからもし、超新星の出現ということになれば大変な事件である。超新星の出現の一方で、冬の大三角形の一角が崩れ、古くから日本では平家星として親しまれていた赤い星が見えなくなるというのも寂しい話である。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』で”I'm planning to take Route 66 from Chicago to Santa Monica."という文が出てきた。「ルート66(国道66号線)」というのは、ここでのべられているように、イリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカまでの3,755キロを結んでいた道路であり、1926年に国道に指定され、1985年に廃止された。1960年代に『ルート66』というテレビの連続番組が製作され、日本でも放映された。ところで、日本にも国道66号線があるのかと思って調べてみたら、59号~100号は欠号になっていて存在しないのだそうだ。残念。 

 このブログを始めて以来、読者の皆様から頂いた拍手が40,000を超えました。厚くお礼申し上げるとともに、これからもよろしくご愛読くださるようお願いいたします。

『太平記』(297)

1月13日(日)晴れ

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)正月、足利幕府方の高師直・師泰兄弟は宮方の楠正行・正時の軍勢を四条畷で破り、さらに吉野に押し寄せて、南朝の御所や金峯山寺を焼き払った。山奥の賀名生に逃れた後村上帝以下の南朝の人々は暮らしにも事欠く有様だった。
 その一方で都の高師直・師泰兄弟は奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能(尊氏・直義兄弟の従兄弟)と畠山直宗(足利一族)は、高一族の排除を企てた。また、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に師直は秦始皇帝の趙高のような人物であると讒言し、高兄弟を討つように進言していた。
 直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。貞和5年の2月に清水寺が炎上し、6月には四条河原の田楽桟敷が倒壊して多くの死者が出た。

 このような異変はただ事ではなく、必ずや天狗の所業ではないかと噂されていたが、そのうち、次のようなことが分かった。比叡山延暦寺の西塔の釈迦堂(本堂)の長講(伝教大師最澄の忌日に西塔釈迦堂で行う長講会=法華経の講説の役僧)が所用で山を下りて歩いていると、山伏に出会った。山伏が、ただいま四条河原でめったに見られない興行が始まっているので、ご覧になってはどうかというので、長講はすでに田楽開始の時刻である正午になっている、いまから出かけても満員で入れないだろうし、どうやって入ればいいのだろうというと、山伏は中に簡単に入れる方法がある、ただ自分のあとについて歩いてきなさいという。長講は何となく納得して、簡単に入る方法があるというのであれば、めったに見られるものではないし、出かけてみようという気持ちになって、山伏のあとについて3尺ほど歩くと、いつの間にか、四条河原に到着していた。

 すでに中門の入り口で演じられる田楽の最初の演目が始まっていたので、入り口のくぐり戸もふさがっていて、入場できない。どうして中に入ることができるのかと心配していると、山伏は、私の手にしがみつきなさい、飛び越えて中に入ることにしようと言ったので、そんなことができるのかといぶかしくお思われたが、手にしがみついてみると、山伏は長講を小脇にはさんで、三重に築き上げた桟敷の上を軽々と飛び越えて、将軍の桟敷の中に入りんだ。

 張高が同席している桟敷の中の人々を見ると、足利一族の仁木、細川、将軍家の重臣である高、上杉家の人々ばかりで、顔見知りは一人もいない、遠慮してうずくまっていた。すると山伏がこっそり、そんなに窮屈になさらなくてもいい、普通に見物しなさいと言ったので、山伏とならんで、将軍の向かい側に席をとった。すると、酒や料理が新たに供せられるたびに、将軍が山伏と長講に挨拶をして、酒宴が次第に盛んになる。

 桟敷の上の人々はみな酔いが進み、簾を引きちぎったり、垂れ幕を巻き上げたりして、むやみに調子に乗りかけた時に、新座(南都=奈良の田楽)の閑屋(しずや)という名の田楽師が、猿の面をかぶって御幣(五色の紙を幣束にしたもの)を差し上げ、渡り廊下の飛び回って軽々と踊りまくった。〔この閑屋は『申楽談義』に「しづや、人かはりたる風体す」と記されている由で、実在した、おそらくは喜劇的な踊りをおどった田楽師であろう。上下の桟敷でこれを見ていた人々は熱狂して、じっとしていられず、面白い、我慢できないくらいに面白い、死にそうだ、助けてくれなどと大声を挙げて騒ぐ。そんな騒ぎが1時間ほども続いた。

 このとき、山伏が長講に向かって、皆、我を忘れてばかばかしく騒いでいるのが見苦しい、一つ、見物人たちの肝をつぶさせて、興を醒ましてやろう、騒ぐのではないぞといって、席を立った。とみるうちに、桟敷を組み立てている柱の1つをえいやえいやと押していたかと思うと、三重の桟敷を支えていた200本を越える柱が崩れ、桟敷が天狗倒しになった。天狗倒しというのは、天狗の仕業としか考えられない、原因不明の倒壊事故をいうのであるが、どうもこの山伏は天狗であったらしい。よそ眼からは、つむじ風が吹いたのだという風に見えたといわれる。このことは比叡山の記録に書きとどめられているそうである。

 この四条河原の桟敷の倒壊が歴史的な事実かどうか、たしかめてみようと思ったのだが、今のところ確認できていない。つむじ風といえば、『方丈記』につむじ風による災害の記述があるので、それなりに合理的な説明になると思う。ここまでは、動乱の序曲といった感じで、この後、「観応の擾乱」と呼ばれる足利幕府の一大事件が展開することになるが、それはまた次回に。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(26)

1月12日(日)晴れのち曇りのち一時雨

 イースター・デーが過ぎても、エリザベスはハンズフォードのコリンズ夫妻の牧師館に留まっていた。親友であるコリンズ夫人(シャーロット)とおしゃべりをしたり、一人になった時は牧師館に隣接するレディー・キャサリン・ド・バーグのロウジング・パークの庭園を散歩したりして過ごした。彼女だけの、お気に入りの散歩路が見つかったのである。
 ところが、その彼女だけのはずの散歩路を歩いていると、ダーシーに出会うことが一度ならずあった。いちばん顔を合わせたくない相手に、一度、二度、三度会うことが続くと、不思議な気分にさせられた。特に三度目にあった時には、かなり長い会話を交わすことになった。気の進まない会話を続けるのは彼女には苦痛に思われ、牧師館にたどりついて別れることになった時には心からほっとしたのである。

 ある日、エリザベスは姉のジェインから届いた手紙をもって散歩に出かけ、歩きながら読み返し、書き手の元気が感じられない箇所があることに心を痛めていた。その時ふと人の気配がしたので、またダーシーと会うのかと思って顔をあげると、それはフィッツウィリアム大佐であった。大佐は年に1度、ロウジングズ邸を訪問するときには、こうしてパークを一周するのだといい、その締めくくりとして彼女と一緒に牧師館まで歩いた。

 土曜日に大佐とダーシーとがロンドンに戻るという噂を確かめようとすると、ダーシーがそうしようとすればそうなるだろうという。彼は裕福で、大佐はそうではないので、どうしても(大佐の方が年長であるが)そういう結果になるという。大佐は伯爵の子息という高い身分であるのに、他人の判断に依存して生きなければならないという場面があるのかというエリザベスの問いに対して、そういうことはこれまであまりなかったが、しかしこれから生まれるだろうと答える。「いずれもっと重大な問題で、金がないために苦しい思いをすることがあるかも知れない。次男三男は好きな女性が出来ても好きなだけでは結婚できないんだから。」(大島訳、317ページ)

 「財産のある女性が好きになれば話は別ですわ。よくあることだと思いますけど」(大島訳、318ページ)と、エリザベスは切り返す。ウィッカムに「振られた」経験を踏まえての発言であろう。この質問を大佐は否定しない。彼が、彼女のことを言っているのかと思って、エリザベスは一瞬、顔を赤らめる。〔またも、振られているのであるから、赤らめなくてもいいのではないかという気がする。〕 では、どの程度の財産をもたらす女性であれば、彼の伴侶としてふさわしいことになるのであろうかと、エリザベスは質問する。そこで、会話は途切れる。

 途切れた会話をつくろおうと、エリザベスはダーシーがなぜ結婚しようとしないのだろうかという問題を持ち出す。あるいは、自分の妹であるミス・ダーシー(ジョージアナ)がいるので、それで満足しているのであろうかという。フィッツウィリアム大佐はそれを否定する。ダーシーだけでなく、自分もジョージアナの後見人を務めているのだという(年齢の問題があって、大佐は30歳くらい、ダーシーは25歳くらいで、15歳か16歳のミス・ダーシーとは年齢が離れすぎている)。年齢を考えると、ミス・ダーシーは扱いにくい存在かも知れないし(エリザベスは自分の妹と、重ね合わせて発言しているのかもしれない)、兄と衝突することもあるのかもしれないとエリザベスは言う。

 話しながら、大佐が真剣な表情で彼女のことを見ているのに気づく。そして彼が、ダーシーがなぜ大佐とエリザベスにとって不安の種になりそうだと思うのかと聞き返す。それで、エリザベスは、自分がどうやら真相に触れたのではないかと思って、すぐに言葉を返して、ミス・ダーシーが素敵な令嬢であることを疑っているわけではないと言い(この後の個所から考えて、これは本心ではなく、社交的な発言である)、彼女の知り合いであるミセズ・ハーストとミス・ビングリーの姉妹がミス・ダーシーのことが大好きだという(ここで、エリザベスがこの姉妹とは必ずしも仲がいいわけではないことは伏せられている)。

 大佐は姉妹とはほんの顔見知り程度であるといい、彼女たちの兄弟のビングリーはなかなか感じのいい、紳士然とした男性であり、ダーシーの親友であるという。
 それに対し、エリザベスはダーシーがビングリーに対してはひじょうに親切で、面倒見がいいという。大佐は、たしかにダーシーはビングリーに対して必要だと思うだけの面倒を見てやろうとしているらしいという。そして、ケントへ来る途中でも、彼がある友人(ビングリーのことかどうかはわからない)に対して、軽率な結婚をしそうになったのを思いとどまらせたという話をしたと言って聞かせる。

 その話を聞いて、話題になっているのがビングリーと、エリザベスの姉のジェインのことではないかと考えたエリザベスはダーシーがなぜ、そのような干渉をしたのかを不審に思う。そして、姉とビングリーのあいだを引き裂いたのがダーシーであると考えると、ますます彼に対する嫌悪の情が強くなってくる。

 牧師館に到着して、フィッツウィリアムと別れたエリザベスは、これまで彼女が考えていたようにミス・ビングリーではなく、ダーシーが姉の恋を邪魔したのだと考えて、悲憤に駆られてすっかり気分が悪くなった。そのため頭痛に苦しんで、夕刻に約束してあったロウジングズ邸でのお茶の会への出席を見合わせることにした。コリンズ夫人(シャーロット)はエリザベスの様子を見て、強いて進めようとしなかったが、コリンズの方はエリザベスが欠席することで、レディー・キャサリン・ド・バーグが機嫌を損ねるのではないかと心配して、気が気ではない様子であった。〔小心で形式主義的なコリンズの性格がよく出ている。以上、第2巻第10章〕

 今回は、これまでのあらすじを省略した。フィッツウィリアム大佐はエリザベスのことが好きだけれども、彼女が経済的に恵まれていないことを知っているので、結婚を申し込もうとはしない。第1巻第19章でコリンズがエリザベスに自分と結婚するように脅かすようにして言う「不幸にしてあなたが貰える遺産はごく僅かなものですから、折角の美しさも愛すべき性質もおおかた役には立たないでしょう」(大島訳、194ページ)という言葉が、利いてくるところである。男女の愛情を経済的な問題と絡めて取り上げていくのはいかにも、オースティンらしい。ところが、次回で物語は大きく動くことになるが、それは、その時のお楽しみということで。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(10)

1月11日(土)晴れ

 ローマの詩人ルーカーヌス(39‐65)のこの作品は、紀元前1世紀の半ばに起きた内乱を題材とする叙事詩である。
 紀元前60年に成立したポンペイウス、クラッスス、カエサルの3者による第1回3頭政治は、混乱の絶えなかった共和政末期のローマに一時的な安定をもたらしたが、紀元前53年に3人のうちの1人クラッススがパルティアで戦死すると、残る2者の対立が激しくなる。ポンペイウスは元老院と結んで、ガリア総督であったカエサルの任務を解き、軍隊を手放すように命じるが、カエサルはガリアとイタリアとの境界とされていたルビコン川を渡り、アリミヌムに侵攻する。そこへ護民官の職を解かれて、ローマを追放されたクリオが合流して内乱をそそのかす。自分の率いる軍隊が支持しているのを見極めたカエサルは、ポンペイウス派の一掃を決意する。そしてガリア各地に展開していた軍隊を呼び寄せる。
 カエサルが大軍をひきいて迫ってくるという知らせを聞いたローマは混乱に陥り、民衆だけでなく、当のポンペイウスやその他の高官たちも続々とローマから脱出する。年長の人々は、閥族派のスッラと民衆派のマリウスの血なまぐさい戦を思い出し、その再現を恐れる。混乱の中でも平静を失わなかった小カトーは、共和政を守るためにポンペイウスとともに戦うべきだと、義理の息子であるブルートゥスを諭す。
 ポンペイウスはカプアを拠点とするが、ポンペイウス派の軍隊は各地でカエサルの軍隊に敗れ、コルフィニウムに拠ったドミティウスも撃破される。ポンペイウスはブルンディシウムへの退却を余儀なくされ、息子グナエウスと2人の執政官に、地中海沿岸の各地から援軍を集めるように指示する。
 追撃してきたカエサルは、ブルンディシウムにせまり、港の封鎖を試みるが、ポンペイウスの艦隊は軽微な損害を蒙っただけでこれを突破し、戦線を国外に散らそうと、ギリシアのエペイロス(最西部の地方)を目指して脱出する。〔以上第2巻までのあらすじ〕

 さて、第3巻に入り、詩人はまず、ギリシアのエペイロスを目指して船を走らせるポンペイウスと、その麾下の兵士たちを描く。
 艦隊が、吹き寄せる南風(アウステル)の吹くままに、
風はらむ帆に運ばれて、船々が大海原のただ中を進むころ、
水兵らは皆、彼方のイオニア海を眺めやっていた。
(第3巻、1-3行、117ページ) 一方、ポンペイウスは、おそらくは二度とその地を踏むことがないであろうへスペリア(西の方の地、ここではイタリア)を眺めていた。しかし、疲れに襲われて、眠ろうとした彼の目の前に、彼の前の妻であり、カエサルの娘であるユリアの亡霊があらわれる。彼女はポンペイウスの妻になったが、紀元前54年に産後の肥立ちが悪く死去、そのこともポンペイウスとカエサルの離反の原因となっていた。

 亡霊は、彼女が死者の世界で見た光景を語り、これから起きるであろう兵火によって多くの人命が失われることを予言する。
「内乱が生じてのち、浄福の野、敬虔な人々の霊の住む原を
逐(お)われて」亡霊はそう言った、「わたしはステュクスの闇、
罪人らの霊のもとに引かれ行く。復讐女神(エウメニデス)が、あなたたちの
兵火を煽ろうと、手にする松明を打ち振るのをこの目で見ました。
(川岸の)焼け焦げたアケロンの渡し守は無数の舟を
用意している。タルタロスは数知れぬ罪人を罰する場所を
広々と空けている。
(第3歌、11‐18行、118ページ) 彼女の言葉はさらに続くが、内乱による死者の多くが来世で罰を受けるであろうという。運命の女神が人々の運命の糸を断つ作業に疲れているというとぞっとさせるようなことを告げる。

 そして、ポンペイウスが彼女の死後、彼女の恋敵であるコルネリアと結婚したことを恨む。コルネリアはローマの名門スキピオ家の直系メテッルス・ピウス・スキピオの娘で、はじめはクラッススの息子に嫁いだが、その死後、ポンペイウスと結婚したのである。そのスキピオであるが、第2巻で、精鋭を率いながらヌケリアの要塞を捨てて逃亡した将として描かれているのは前回に述べたとおりである。
 彼女はポンペイウスにどこまでも付きまとって、彼を悩ませると告げる。「昼は父のカエサルに、/夜は娘の私に」(第3巻、29‐30行、119ページ) そして、それは運命によって支持された行為なのだという。
忘却の川(レテ)の岸辺の忘却が、夫よ、あなたのことを忘れさせることもなく、
物言わぬ死霊を支配する王たちも、あなたのあとを追い続けるのを
私に許してくれました。あなたが戦をする時は、必ずや、戦列の真中に、
私は立ちましょう。
(第3巻、31‐34行、119ページ)

 マグヌス(ポンペイウス)は、神々と死霊が彼の将来における数々の禍を用意していることを知るが、「災厄を覚悟して、むしろ/兵戟に突き進む決意をなおさら固め」(第3巻、40‐41行、119ページ)、次のように言った。
「実のない幻を見たからとて、何を恐れることがあろう。
死後の魂には、感覚は一切残されておらぬか、死は無か、
いずれに過ぎぬ。」
(第3巻、42‐44行、120ページ)
 夜は更けてゆき、航海は順調に進行し、船団はギリシアの海岸に近づいて、船の帆を下ろし、櫂を漕いで接岸しようとしていた。

 一方、カエサルはポンペイウスを取り逃がしたことを悔しく思いながら、イタリア半島とローマを確保するために、「もっぱら平和に意を用いて、/いかにして移り気な民衆の好意を掻き立てるかに腐心した。」(第3巻、55‐56行、120ページ)
 そしてクリオをシキリア(シチリア島)に派遣して穀物を調達し、ローマに送るように命じた。さらに穀物の確保のためにサルディニア(サルデーニャ島)にも兵を送った。

 さて、いよいよカエサルはローマに入城することになるが、その後の展開はどうなるかというのはまた次回に。
 第3巻は、イタリア半島を離れる船団の中で、兵士たちが行く手を、将であるポンペイウスが別れを告げてきた土地を見ているという描写で始まるが、未来を向く水兵たちと、過去を振り返るポンペイウスの対比が示唆的である。そして未来にもそれほど希望が持てないことが、ポンペイウスの前の妻ユリアの亡霊の出現で語られる。
 この連載の第1回でも書いたが、ダンテは『神曲』の中にルーカーヌスを登場させ、ホメーロス、ウェルギリウス、ホラーティウス、オウィディウスとならぶ大詩人に加えている。彼がウェルギリウスとともに、ルーカーヌスからも多くのものを学んでいるのは、今回取り上げた個所の中での「アケロンの渡し守」とか、「忘却の川」の取り上げ方を見ればわかることである。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(7)

1月10日(金)晴れ、午後、次第に雲が多くなってきた。

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市大の学術調査隊の隊長として、熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌を調査するために東南アジアを旅行した。調査も後半となり、梅棹は昆虫学者で医師である吉川公雄とともに、カンボジア、(南)ベトナム、ラオスを歴訪する自動車旅行に出かけた。外務省留学生で、後にタイを中心とする東南アジア研究家として活躍することになる石井米雄が通訳として同行した。一行は2月12日にバンコクを出発、13日に国境を越えてバッタンバンに到着、さらにトンレ・サップ湖の南側を進んで、14日に首都プノムペンに到着した。
 プノムペンは近代都市として設計されている一方で、他の東南アジアの都市と同様に町の中心に市場があり、いわば妥協的な形態をとっていた。プノムペン滞在中に、カンボジアの数少ない海港であるカンポットや、ケップの海水浴場も訪問したが、目につくのは白人と中国人ばかりで、カンボジア人の姿が見えないことが奇異に思われた。自動車の運転をしない時には、梅棹は後部座席で読書に耽り、東南アジアの歴史と社会についての研究を進めた。

第13章 ゾウと王さま(続き)
 洪水林
 2月18日、プノムペンからトンレ・サップ湖の北側を見るために、シエム・レアップまで出かける。シエム・レアップまでは前年にアンコール・ワットを訪問した際に足跡を記していたのである。プレク・クダムでトンレ・サップ川を渡る(トンレ・サップ川から流れ出て、メコン川へと注ぐ川である)。1時過ぎにコンポン・トムを通過。道はよかったという。途中、クメール橋と呼ばれる古代の石橋を渡る。5時過ぎにシエム・レアップに到着する。ところが、旧正月の休暇を利用してアンコール・ワット見物にやって来たお客のために、宿がとれない。それでもやっと宿を見つけて泊る。

 翌日、トンレ・サップ湖を見に出かける。「大きな水車のならぶ川に沿うて、ビンロウの林につつまれた村々の中をぬけてゆくと、広い、明るい灌木原に出た。道はその灌木原をつっきって、堤防のように、まっすぐ南にのびていた。」(67ページ、「大きな水車」とあるだけで具体的な記述はない。水車の研究家として知られる室田武さんならば、大いにツッコミを入れたくなるだろうなあと思う個所である。)

 「トンレ・サップは奇怪な湖である。」(68ページ) というのは、季節によって大きくなったり、小さくなったりするからである。梅棹が訪れた時は乾季であったから、小さくなっていたが、雨季になると周辺の川の水を集め、さらにメコン川の水が逆流して来て、乾季の3倍くらいの大きさに膨れ上がる。周りの灌木林はすべて水につかる。「この広大な洪水林は、魚にかくれ場と餌とを供給して、この上ない養魚池となっている。」(68ページ) というようなことは本で読んで知っていたが、実際に来てみてみると、灌木林の広大なこと、驚くばかりである。道路はずいぶん高いのだが、進んで行ってもなかなか湖が見えない。
 ようやく、道ばたに干網のならぶ漁村に到着する。道はここで途切れ、そこから先は洪水林の中の水路である。前進をあきらめて引き返そうとすると、男が出てきて、何か言う。言葉は通じないのだが、どうやら舟に乗れということらしい。一行は、車を路上において、彼の漕ぐ小舟に乗り込んだ。

 湖上の部落
 灌木林の中をゆるやかにうねっている水路をぬけていくと、湖に出る。湖は広大で、水平線のかなたには何も見えない。〔乾季で小さくなっているとはいえ、琵琶湖の4倍くらいの面積があるという。私は琵琶湖の湖畔で生まれたので、琵琶湖よりも広いというと過剰反応するところがあるが、その代わり、琵琶湖の方が深いことは確かである。〕 男はどんどん湖の沖の方へ舟を漕ぎ進め、ささほど大きくない舟は荒波に揺られ始める。一行は気が気ではないが、男は微笑むばかりで、どんどんと舟を漕ぎ進めつづける。

 「そのうちに、沖に何か見えてきた。点々とならんでいる。漁船の群れであろうか。ところがちがった。接近してみると、おどろいたことには、それは家だった。それも、2軒や3軒ではない。数十戸はあろうと思われる水上の大集落であった。1つの集落をすぎて、しばらくゆくと、もう1つの集落があらわれてきた。これは100戸ではきかない。大きな村だった。湖上の,しかもこんな沖合いに、これほどの大集落が存在しようとは、だれが想像し得るだろうか。」(69ページ)

 湖上の家というのは、湖の底に木の棒杭を立てて、その上に床を並べ、屋根を結んだものである。できあがった家には壁を張り、屋根を葺き、竹垣をめぐらせて、それなりに落ち着きのある家屋ができあがる。よく見ると、竹垣で囲まれた裏庭はいけすになっていた。彼らは湖の中の漁場に、自分たちの家を建てて暮らしているのである。湖の中に立っている男がいるところを見ると、この広大な湖の深さは1メートルくらいしかないらしい。

 ところが、増水期になると、シエム・レアップまで汽船が入るという。水深は10メートルくらいになるらしい。その時は、この水上の村の人々はすみかを分解して、陸上に帰るのであろう。水上の家屋のほかに、家船も見られるが、その多くがベトナム人たちのものである。メコン川をさかのぼってここまでやってきて、魚を取っているのである。

 2時半、シエム・レアップを出て、5時、コンポン・トムを通過。夜道を走って、7:40、コンポン・チャムに着いた。例によって中国人経営の安宿をさがして宿泊する。

 大いなる河
 コンポン・チャムはメコン本流に面した町である。
 コンポン・チャムは「チャㇺの渡し場」という意味で、チャムは、ベトナム南部を中心に大文明を築き上げた民族であるが、今は山の中にわずかにその後裔が生き延びているだけである。〔この後、ベトナムに入ってからの個所で、チャムについては詳しく論じられる。〕
 宿に戻る。宿の前の空き地にヴィシュヌらしい古い神像があった。〔ヴィシュヌというのはヒンドゥー教で、ブラフマー、シヴァとともに最も主要な神とされる。〕 アンコール時代のものであろうか、チャムの遺物かもしれないと梅棹は考える。アンコールは廃棄され、チャムは亡んだけれども、このヴィシュヌはまだまだ人々の信仰を集めていて、その前には線香の煙が立ち昇っている。
 ここでも目立つのは中国人で、旧正月がまだ続いているらしく、賑やかというよりも騒々しい。

 プランテーション
 コンポン・チャムから西にむかい、スクーンというところで、コンポン・トムからまっすぐ南下してくる道(梅棹一行がシエム・レアップに向かう際に利用した道のはずである)と合流する。
 コンポン・チャム州はカンボジア国内において最もプランテーション(熱帯の植民地における大規模農場)農業の盛んな土地である。植民地にやってきたヨーロッパ人たちは、広大な土地を買い占めて、そこを農地化し、輸出向きの単一作物を作った。自分たちは経営者となり、現住民やよそから連れてきた人々を労働者として安い賃金で働かせるのである。
 一行が通過している赤土地帯はゴム栽培に適しているとされ、実際にゴム園が続いている。やがて、ゴム林が終わって、ゴムの苗木の林がつづき、さらに、原始林を切り開いたばかりに見える場所が広がる。原始林のプランテーション化はまだ進行中なのであった。

 と、今度はバナナのプランテーションが始まった。こんな大量のバナナがどこへいくのだろうかと、梅棹は不思議に思う。牛の引く荷車にバナナを積み込んでいる男女がいたので、ビスケットの箱を取り出して、手まねで交換を申し出たところ、大きな房を3つもくれた。青いままであった。〔日本でもバナナは青いままで輸入して、国内で黄色く熟成させるのである。青いバナナを食べた梅棹の感想は記されていない。〕
 現在でも天然ゴムはカンボジアの農業の重要な産品らしいが、バナナについては盛んではないようである。

 顔の文化
 一行はプレク・クダムの渡しを渡り、ウドーンの遺跡を訪ねた。
 日本語の「うどん」はこのウドーンに由来するという説があるが、真偽のほどは定かではないという。〔カンボジアを含む東南アジアは全体として米食主体であり、うどんは小麦粉で作られることを考えると、たぶん、違うだろう。〕 
 うドーンの町が造られたのは、17世紀の初めのころである。栄華を誇ったアンコールの都は、タイ軍の侵入を受けて、15世紀にはついに放棄されてしまう。その後、クメールの王たちは、国内のあちこちに都を移し、1620年にようやくこのウドーンを都として、1866年にプノムペンに移るまで、ずっと留まっていた。17世紀には日本人町も作られていたという。

 梅棹の一行は、古い都の遺跡を探しまわるが、案内人もいないので、なかなか見つからない。しかし、
「森の中に丘があって、上まで石段が通じていた。わたしたちは、石段の下に車をおいて、丘にのぼった。
 丘の上には、巨大な塔があった。稜線の上に、すこし間隔をおいて、塔は何本もあった。歴代のクメールの王の陵墓である。塔は印象的であった。しげみの中からそびえ立って、するどく天を指していた。石としっくいの、黒い灰色の重々しい造形であった。とりわけ印象を与えるのは、塔にきざまれた『顔』である。塔の上部3分の1のあたりのところにくびれがあって、そこに、四方を向いて顔があった。何者の顔であろうか。この陵墓にねむるクメールの王の顔であろうか。」(75ページ)
 顔が何を意味しているのか、正確なところはわからないが、梅棹は、クメールの他の遺跡の「顔」を思い出す。そしてカンボジアにおける「顔の文化」というものについて考える。それは他にあまり例を見ないものではないかと思う。「不気味な、強い力が、しだいにわたしを暗い歴史の深みのなかにひきずりこんでゆく。」(76ページ)

 物思いにふけっていた梅棹は、子どもたちの声によって現在に引き戻される。彼らはいろいろと話しかけてくるのだが、何を言っているのかは全く分からない。子どもたちと一緒に石段を下りて、小さな屋台でヤシの実を買う。「ナイフが殻をやぶると、冷えた果汁がほとばしって、顔にかかった。」(76ページ) 〔何も書いてないが、子どもたちと一緒にヤシの実を味わったのだろう。〕
 夕方、プノムペンに帰りついた。
 こうして、梅棹一行はカンボジア訪問を終えて、次の訪問先であるベトナムに向かうことになる。さて、どのような出来事が待ち受けているだろうか。それはまた次回に。

 トンレ・サップ湖とその周辺で生活する人々については、カンボジアを旅行した人々がいろいろと書いているので、詳しく知ることができる。しかし、カンボジアの社会は全体としてみると、かなり大きく変化しているのではないかと思う。

 本日は、作業中に眠ってしまったこともあり、皆様のブログを訪問することができませんでした。あしからず、ご了承ください。

細川重男『執権』(5)

1月9日(木)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。夕方になって雲が多くなってきた。

 鎌倉幕府の歴史は、東国の武士たちが自分たちによる支配機構を築こうと悪戦苦闘した歴史であり、細川さんによるとそのための「ムダな流血の連続」(14ページ)が見られた。この書物は、その最終的な勝者である北条氏が権力を手にしながらなぜ将軍にならなかったのかという問題をはじめとして、その権力とのかかわり、権力についての考え方を、北条義時と時宗という2人の執権の生き方と仕事ぶりをたどりながら、あきらかにしていく。
 第1章「北条氏という家」では、もともと伊豆の小土豪に過ぎなかった北条氏が、時政の娘の政子の夫である源頼朝が鎌倉幕府を開いたことにより、その地位を急上昇させたことが述べられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」のこれまで見てきた部分では、時政の庶子であった義時が、鎌倉幕府の様々な内紛の中で、あまり積極的に動こうとしなかったことがかえって幸いして、その地位を上昇させ、ついに幕府への権力集中をはかる。その過程で御家人たちの抵抗を受けるが、和田合戦(建保元年、1213)に勝利して、その地位を確固たるものとする。さらに、3代将軍実朝の死(承久元年、1219)、承久の乱(承久3年、1221)という危機を乗り切って御家人たちの不動の信頼を得ることになる。

  関東武内宿禰伝説
 武家政権の創始者
 一般に鎌倉北条氏の始祖は時政と考えられている。例えば『太平記』巻5の「時政参籠榎嶋事」では、北条氏の繁栄は時政の前世における善行のためであるとする説話を語っている。〔この話は、『太平記』を読む前から知っていたし、このブログにおける『太平記』の紹介の中でも取り上げた。〕
 鎌倉幕府ができたころ、時政は江ノ島に参篭して、子孫の繁昌を祈願した。すると、21日目の夜に美しい女房が彼の眼前に現れ、時政の前世は箱根権現の法師であったが、66部の法華経を映して日本66か所の霊場に奉納した善行により、再びこの伊豆の地に生まれることができたのであり、時政の子孫は長く日本を支配するだろう。しかし、正しい行いをしなければ、その支配は7代をすぎることはない。もしこの言葉が嘘だと思ったら、諸国の霊地を調べてみればよい。
 というと、女房はたちまち体長20丈(60メートル!)の大蛇となって、海中に姿を消した。大蛇は江ノ島弁財天の使いであったのである。
 そこで、時政は各地の霊場に人を遣わして調べさせてみたところ、奉納筒に「大法師時政」と記した法華経が発見された。
 女房が立っていた場所には大きな3枚の鱗が落ちていた。時政はその鱗を拾い、それが北条氏の三鱗紋の起源となったという。この話では北条氏の始祖は時政と考えられている。

 しかし、『太平記』の中には、義時の功績を高く評価している個所もある〔巻1に見られるという。読んだはずだが、読み落とした。問題意識をもって読んでいないと、読み落とす箇所が多くなるという一例である〕と細川さんは指摘している。また、足利尊氏の室町幕府樹立宣言『建武式目』には「承久、義時朝臣天下を并吞(のみこむ)す」(90ページに引用)と、義時を高く評価する文言が見られるという。

 「武内宿禰再誕」伝説
 時政の江の島参籠の説話よりも、さらに奇妙な説話が義時をめぐってあるという。建長6年(1254)成立の『古今著聞集』の中に、ある人が八幡神社参籠した夜に、夢を見て、義時が八幡神の命を受けた武内宿禰の生まれ変わりであることを知ったという説話が収められている。実は義時が武内宿禰の生まれ変わりであるという認識が鎌倉時代末期の幕府の知識層の間にあったことを示す文書が他にもある。この時代の人々には「生まれ変わり」や「夢のお告げ」がリアルな説得力を持っていたことを考えると、これは無視できない事柄である。

 中世神話創出の構造
 ではなぜ、義時が武内宿禰の生まれ変わりであるといされるのか、またこの奇妙な伝説はどうして生まれたのかを考えてみよう。まず、両者の共通点として、数代の主君(武内宿禰の場合は天皇、義時の場合は将軍)に仕えたことが挙げられる。数字があわない点はあるが、複数の主君に仕えた点が重要である。
 次に、武内宿禰の場合は神功皇后、義時の場合には政子という重要な役割を果たした女性の存在も共通する。同じように神功皇后の子である応神天皇に対応するのは、鎌倉4代将軍藤原頼経である。
 また武内宿禰は応神天皇の即位に反対して起こった応神の異母兄である香坂(かごさか)・忍熊(おしくま)両王の乱を神功皇后とともに平定し、義時は承久の乱を政子を奉じて勝利に導いた。

 さらに、『日本書紀』その他によると、武内宿禰は弟である甘美内(うましうち)宿禰の讒言により、応神天皇から追討命令を出されたが、弟と盟神探湯で対決して無実を証明し、赦免されたという。これは義時が後鳥羽院から追討宣旨を蒙りながら、承久の乱に勝利したことに対応するものである。おそらく承久の乱における義時の勝利は、あってはならない驚天動地の事態であると感じた貴族たちが、必死で先例をさがしたのではないか、その結果として武内宿禰が発見されたと細川さんは推測している。
 ここで、『古今著聞集』は、ある人が夢を見る舞台をただ「八幡」とだけ記していて、どこの八幡かは記していない。だが、京都(府)の石清水八幡宮の社務田中氏は、武内宿禰の子孫である紀氏の系譜につながっているとされているので、このあたりで鎌倉幕府との関係強化のために作成されたのではないかとの推測もされている。「しかし、この伝説が石清水社の作成であったとしても、九条家・西園寺家などに仕えた王朝貴族橘成季によって義時没の30年後である建長6年(1254)に編纂された『古今著聞集』に記録されたことは、この話が王朝貴族の間に急速に広まったことを示している」(96ページ)と細川さんは記す。〔九条家も西園寺家も鎌倉幕府と縁の深い貴族の家柄であることにも注目したほうがいいのではないかという気もする。〕

 そして、この神話が北条得宗家にとって、得宗家が鎌倉将軍の「御後見」の「正統」の家であること、つまり北条氏得宗の鎌倉幕府支配の理論的な根拠を提供するものであるという。しからば、「得宗」とはなんであるのかという問いが残る。これもこの書物の取り組む重要な問題の一つであるが、それについては、また次回に取り組むことにしよう。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(9)

1月8日(水)午前中は雨が降っていたが、午後になって晴れ間が広がった。

 『ニュー・アトランティス』は北太平洋に想定された架空の島で、住民たちは「ベンサレムの島」と自称している。かつては世界中の国々と通交していたが、アトランティス大陸(この物語では南北アメリカ大陸のことであったとされている)が大洪水に襲われて、その文明が滅んだ後に、ソラモナ王という改革者が現れ、鎖国政策をとるようになった。その一方で王は「サロモンの家」という学府を設けて世界中の事物と現象を研究することにした。そしてこの学府の会員を秘密裏に海外に派遣してその事情を探らせているという。さらにその後、奇跡的な出来事が起きて、島の住民たちはキリスト教を信じるようになった。
 語り手の一行はペルーから中国あるいは日本をめざす航海の途中で、強い南風に流されてこの島に漂着する。彼らがキリスト教徒であり、海賊ではなく、また病人を出して困っていることが分かり、島に漂着した人々を受け入れる異人館に受け入れられる。この施設の館長から、島の歴史や法律の説明を受けた一行は、この島の人々のもつ文明と道徳性の高さに感激する。特に一行のうち2人が招待されて参加した「家族の宴」の荘厳な様子は大いに感銘を与えた。

 1週間ほどたって語り手である「私」は、街の商人であるジョアビンというユダヤ人と親しくなった。この島にはわずかではあるが、島が外界と交流していたころの名残として、ユダヤ人が住んでいるのである。彼はユダヤ人のしきたり通り、割礼を受けていた。この島のユダヤ人は自分たちの信仰としきたりを守ることが認められていたが、それも彼らがこの島の宗教や制度の良さをしっかりと認識していたからである。
 なぜここでユダヤ人が登場するのか、島の住民の誰かと親しくなる方が話の運びとしてわかりやすいのではないかと思わないでもないが、ユダヤ人は英国の社会にも住んでいたので、英国人と島の住民の橋渡し役として想定されたのだと考えるべきなのであろう(江戸時代の談義本である『異国奇談 和荘兵衛』で、不老不死の国に漂着した和荘兵衛にこの国のことを説明するのが、秦の始皇帝の命令で不老不死の薬を求めにやってきた徐福だというのとよく似た発想ではないか)。ユダヤ人はキリスト教徒と衝突したり、迫害を受けたりしていたが、ここではそういうことがないという描き方も注目しておいてよい。とにかく、ベンサレムの島のユダヤ人たちは、彼らなりのやり方で島の宗教(キリスト教)を理解し、尊重していた。それはさておき、「ジョアビンは賢い、学識豊かな思慮深い男で、この国の法律と風習に精通していた」(川西進訳、43ページ)。

 そこで語り手は、ジョアビンに自分たちの一行のものが「家族の宴」に招かれて大いに感動したという話をして、「あれほど自然の情にかなった儀式」(川西訳、44ページ)はないが、それではこの島では結婚についてどんな法律と習慣があるのだろうとたずねた。家族の増加は結婚による男女の結びつきによるからである。この国は人口の増加を望んでいるように思われ、普通人口の増加を望むようなところでは男性が複数の妻を持つことが許されているのだが、ここでは一夫一妻制度が守られているのだろうかともたずねた。〔異邦人の館の館長、あるいは「家族の宴」の参加者にではなく、ユダヤ人にこの質問をするというのは、多少奇妙であるが、聞きにくいことを聞いているという質問者の意識、あるいは客観的な評価が知りたいという気持ちがあったのかもしれない。〕

 これに対し、ジョアビンは語り手が「家族の宴」について賛美するのはもっともなことで、実際にこの儀式を行った家族はその後、さらに繁栄している例がいくらでもあると述べ、この国の人々はきわめて貞潔な(chaste)生活を送っていると強調する。「人間世界の中で、この国民の純潔な精神ほど美しく、誉むべきものはないからです。」(川西訳、同上、原文はFor there is nothing amongst mortal men more fair and admirable, than the chaste minds of this people. Susan Bruce (ed.) , Three Early Modern Utopias, p.173.)

 「ですからここには特殊浴場とか売春宿とか娼婦とかその類のものは一切ありません。」(川西訳、45ページ、原文はKnow therefore, that with them there are no stews, no dissolute houses, no courtesans, nor anything of that kind. stewは「シチュー」という意味に加えて、「蒸し風呂」という意味があった。そのほかに、「売春宿」という意味もあり、stewsというと「売春地帯」という意味になるそうである。)ところが、ヨーロッパの国々ではこのようなものが存在して、そのために結婚が意味のないものになってしまっている。もともと結婚は不倫な欲望(unlawful concupiscence)を癒すものであり、自然な欲望が結婚を促すと考えられてきた。ところが欲望を満たす手段が身近にあると、結婚よりも放縦な独身生活を送ろうとするものが多くなってくる。結婚するにしても、かなり年を取って自然な活力が失われてから、姻戚関係とか持参金とか名声のために結婚するという例が少なからずあり、その場合は子どもを残すということは二の次になってしまう。〔ベーコン自身が、かなりの年齢になってから自分の娘といってもいいくらい年の離れた女性と結婚して、多額の持参金を手にしたものの、子どもを儲けることはなかったことも多少このあたりに反映されているかもしれない。〕 しかも、結婚したからといって、それまで放縦な生活を送っていた人物の身持ちが改まるというものでもないのだという。

 こうした悪習を、もっと重大な性的な逸脱行為を防ぐためだというかもしれないが、それは本末転倒の智慧である、『創世記』に登場する、客を守るために自分の娘たちを提供しようとした(アブラハムの甥である)ロトの行為と同じであると、島の住民たちは言う〔ここは、旧約聖書を忠実に読んでいただきたい。ロトの娘たちは、ソドムの住民たちに凌辱されてはいないのである。〕 肉欲の炎はいったん消えるかもしれないが、また別のはけ口を見つけて燃え盛るかもしれない。この島の人々の自尊心はきわめて堅固なもので、それぞれのあいだにしっかりした友情を築いているので、道徳を逸脱する行為はほとんど見られないのであるという。

 ジョアビンという名のユダヤ人が語る、この島の結婚の制度と習慣についてのさらに詳しい話の続きは、また次回に。 

日記抄(1月1日~7日)

1月7日(火/七草)曇り、昼頃から雨

 1月1日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 大ニュース選んだあとで大ニュース
 除夜の鐘ゴーン(Gosn)ゴーン(gone)と響くなり
 IRまるで落語の「芋俵」
 (事業が本格化する前から贈収賄が始まっている。「気の早いお芋だ」という落語の「芋俵」の落ちを思い出してしまう。とにかく、IR反対、カジノ粉砕。)

1月1日
 東京で新年を迎え、横浜に戻る。

 マキアヴェリ『君主論 新版』(池田廉訳、中公文庫)を読んでいる。マキアヴェリはこの書物が理想論ではなくて、自分の経験と、歴史から学んだ知識とに基づいた現実的な議論だということを強調しているが、政治的な議論というよりも、人間観察の書物として読んだ方が面白いような気がする。「もともと人間は、恩知らずで、むら気の、猫かぶりの偽善者で、身の危険を振り払おうとし、欲得には目のないものだ」(141ページ)などという見方が、彼の政治についての考え方の根底にあるのである。

1月2日
 マキアヴェり『君主論 新版』を読み終える。彼の言う現実的な議論というのが、どういうものかはエラスムスと彼の意見を対比してみるとよくわかる。エラスムスが『平和の訴え』の中で、君主は人民に奉仕するのが神の教えだと言っているのに対し、マキアヴェリは「民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない」(25ページ)と言ってのけている。エラスムスが平和を望むのに対し、マキアヴェリは「君主は戦いと軍事上の制度や訓練のこと以外に、いかなる目的も、いかなる関心も持ってはいけないし、また他の職務に励んでもいけない」(125ページ)とまで言っている。渡辺一夫はエラスムスとルターを対比しているが、マキアヴェリの『君主論』とエラスムスの『キリスト教的君主の教育』がほぼ同時期に書かれていることに注目する議論もあるのである。

 ニッパツ三ツ沢球技場で第98回全国高校サッカー選手権2回戦2試合:神戸弘陵学園高校(兵庫県)対明秀日立高校(茨城県)、帝京長岡高校(新潟県)対熊本国府高校(熊本県)を観戦した。第1試合は神戸が3-2で明秀日立を破る。なかなか勝負強い試合運びである。第2試合は県大会で無失点だったチーム同士の対戦だったのだが、帝京が3-0で制した。

1月4日
 『朝日』朝刊の別刷「be」に「義経・北行伝説のみち」という記事が掲載されていた。源義経(1159-89)が平泉で死なずに、落ち延びたというのは判官びいきの作り話かもしれないが、日本の東北地方から北海道・サハリン・沿海州を経て、中国の北の方とつながるルートがこの時代にあったことは否定できないだろう。

 『日経』朝刊の読書欄のコラム「半歩遅れの読書術」に野矢茂樹さんが書いている「哲学書 読み方は遅い者勝ち」「能動的に深読みとあら捜し」という文章が味わい深かった。

1月5日
 『日経』朝刊の日曜特集”The Nikkei Style"に「『永遠の未完』最終章へ」として、ガウディが設計したバルセロナのサグラダ・ファミリアの建設工事が2026年の完成を目指して、急速に進んでいることが報じられていた。この建物は140年余り建設が続いているのだが、ドイツのケルンの大聖堂などは1248年に礎石が置かれてから、宗教改革や三十年戦争などによる何度かの中断を経て建物が完成したのが1884年であったというから、上には上があるものである。なお、横浜駅は1915年に開設されて以来、ずっと工事を繰り返して完成に至っていないので、日本のサグラダ・ファミリアだという人がいる。

 同じく『日経』の「美の粋」の欄では、米国のニューヨーク州における美術の歴史が辿られていて、オランダの植民地だった時代の名残とか、19世紀初めの画家たちの集団「ハドソン・リバー派」の活動と作風など、初めて知ることが多くて、興味深い内容であった。

1月6日
 『日経』の朝刊に米FRB(連邦準備理事会)元議長のグリーンスパンさんのインタビュー、欧州復興開発銀行元総裁のジャック・アタリさんの論文と、今後の世界の経済と政治を予測する興味深い記事が2件掲載されていた。グリーンスパンさんが「創造的破壊で停滞脱せ」というのはごくまともな議論だが、それがうまくいかないから困っているのではないかという気がしないでもない。グリーンスパンさんは「中国、自由化ならば米欧抜く」、アタリさんは「民主主義に劣る独裁制は消滅する運命に」と予測しているが、果たしてどうなるか。

1月7日
 『日経』の連載記事「グローバル化する日本研究(下)」は海外における日本研究者が減っており、それは国内における日本文化研究にとっても死活問題であると説く。この傾向を食い止めるためにも、ウィーン世界博物館収蔵のハインリッヒ・フォン・シーボルト(幕末の日本に滞在した医師・博物学者シーボルトの次男)のコレクションなど、海外における重要な資料の価値に改めて注目する必要があるという。

 倉本一宏『公家源氏』(中公新書)を読み終える。倉本さんにはすでに『藤原氏――権力中枢の一族』(中公新書)という著書がある。源平藤橘というが、日本の歴史の中でおそらくもっとも活躍した一族が藤原氏で、次が源氏である。賜姓皇族・源氏というと、征夷大将軍を出した武門の源氏を思い出すが、都で貴族として政治に関わり、また文化人として活動した源氏に属する多くの人々の姿を描き出した書物である。

『太平記』(296)

1月6日(月/小寒)晴れ

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、吉野から賀名生に退去した後村上帝以下の南朝の人々は、暮らしにも事欠く有様であった。京では、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は、高一族の排除を企てた。その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、秦の始皇帝が蓬莱の薬を求めて龍神の祟りで死去した故事、また、始皇帝の子が趙高に殺害されて秦が滅んだ故事を語り、高師直を趙高になぞらえ、高兄弟を討つように直義に進言した。直義はまず、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を、長門探題に任じて西国へ下した。

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年)2月26日の夜半に、都に変異が起きるときに鳴動するといわれてきた将軍塚がおびただしく鳴動して、空を馬が駈けていく音が一時間ばかり続いて聞こえたので、都の人々は身分の高い低いを問わず、何が起きるのだろうかと心配していたところ、翌27日の午前0時ごろに、清水坂から失火が燃え広がり、清水寺の本堂、阿弥陀堂、楼門、舞台、地主権現神社の社殿、悉く焼失した。
 火災が起きるのは世の常のことであるとは言うものの、それほど強い風も吹かないのに、火事が燃え広がり、荘厳な御祈祷所を焼き尽くしたのは不思議なことだと人々が怪しんでいると、さらに追い打ちをかけて世にもまれな事件が起きた。
 将軍塚は京都市東山区粟田口の華頂山頂にある塚で、桓武帝が平安京鎮護のために8尺の将軍像を埋めたと伝えられる。最近では青蓮院の青龍殿(京都市山科区)の大舞台というのが建造されて、新名所になっているらしい。清水寺は京都市東山区清水にある法相宗の寺で、清水坂はこの寺に参詣する道であり、五条大通り(現在は松原通)の延長である。

 祇園社(現在の八坂神社)の執行(しゅぎょう=祇園社の社務を管掌する僧職。この時代は神仏混交していたから、神社に僧侶がいても不思議ではない)である行恵(ぎょうえ)が、四条の橋を建造するための浄財を募ろうと、新座(南都=奈良の田楽)、本座(京・白河の田楽。この時代白河=鴨川の東側の地は、京都に含まれていなかった)の田楽師たちを集め、芸比べの猿楽の興行を企画した。
 洛中洛外の老若男女たちは、貴賤を問わず、これはめったに見ることのできない見ものであると競って桟敷(見物席)をこしらえて、見物しようとした。長門国の阿武郡産の良質の材木を組んで、83本の柱を立てて、三重の桟敷を作り上げた。

 興行の当日(『太平記』には記述がないが、6月11日らしい)になったので、人々は馬や車、輿などに乗って〔乗らないで徒歩でやってきた観衆も多かったのだろうが〕河原に集まり、その様子は雲霞のようであった。幔幕はへんぽんと風に舞い上がり、一帯に香をたいた香が漂った〔風が強いのは、必ずしもいいことではない〕。
 優雅な音楽が奏でられ、笛や鼓の鋭い音色が群衆の耳を冷やしたかと思うと、豪華な衣装に化粧をつくした容姿美麗な少年が8人、皆同じように金糸を織り交ぜた狩衣(と、岩波文庫版の脚注にはあるのだが、本文は「水干」で水干と、狩衣は別の衣装だと思うのだが、どうなのだろう)を着て、東の楽屋から出てきた。すると、白く清らかな様子の法師たちが8人、お歯黒をして、銀の散らし模様の裾に行くほど濃く染めた袴を着て、白打出綾藺笠(しろうちでのあやいがさ=よくさらした藺草で編み、裏に綾絹を張った笠)を傾けて被り、西の楽屋から出てきた。
 「一の簓(ささら)には、本座の阿古」(第4分冊、285ページ)とあるのは、最初の演目である「びんざさら」(五穀豊穣を祈願して笹らを摺り、鼓を打って踊る舞)を舞ったのは本座(京・白河)の阿古という田楽であったということであろう。 続いて乱拍子(鼓だけで拍子をとる舞)を踊ったのは新座(奈良)の彦夜叉であった。
 これらの演目が終わって、比叡山の守護神である日吉大社の山王権現の霊験があらたかであるということを示す演目に入ると、見物人の熱狂は最高潮に達した・・・のはいいのだが、どうしたことであろうか、三重に組まれていた将軍(ということは、尊氏・直義兄弟もこの興行を見に来ていたということらしい)の桟敷の下のほうの横材が粉々に砕けて、桟敷がぎしぎしと揺れ出した。「あれや」と、言う間もなく、造り足し造り足してきたものとはいうものの、どこかで崩落を食い止める仕掛けた会ってもよかったと思われるのだが、83本の柱を3段・249間という桟敷が、将棋倒しとなって崩壊してしまった。

 崩れた桟敷の下敷きになるだけでなく、見物人のさしていた刀が抜け落ちたために切られたり、茶を飲むために沸かしていた湯がこぼれてやけどをしたりで、阿鼻叫喚の大騒ぎとなり、数百人の死者が出た。どさくさに紛れて、泥棒をしたり、乱闘が起きたりして、収拾がつかなくなった。
 天台座主である梶井二品親王(光厳上皇の弟の尊胤法親王)も腰を打たれたという噂だったので、すぐに、何者かが四条河原に狂歌を札に書いてたてつけた。
 釘付けにしたる桟敷の破るるは梶井の宮の不覚なりけり
(第4分冊、286ページ、釘で留めた桟敷が壊れたのは、釘を作る鍛冶の失敗であるよ。梶井宮と鍛冶を掛ける。)
 また、現職の関白であった二条良基も見物していたということだったので、
 田楽の将基倒しの桟敷には王ばかりこそ登らざりけれ
(第4分冊、286ページ、田楽の将棋倒しの桟敷には王(天皇)だけが登らなかったことよ。王(駒)は将棋の縁語。)

 祇園社(八坂神社)は四条通りの東端にあるから四条の橋を架けるのは身近な問題だったのである。田楽は、能や狂言へと変化をしている過程にあったと思われる。尊胤法親王(1306‐59)は、鎌倉幕府の六波羅探題が東国へ落ち延びようとした際に、光厳院らとともに同行したが、途中、長旅は困難だと判断して近江の篠原宿で別行動をとり、鈴鹿を越えて伊勢に向かい、奇跡的に無事だったと第9巻に記されている。建武の新政の際に天台座主の地位を下ろされたが、その後、また復帰していたのである。二条良基(1320‐88)は、政治家であるとともにすぐれた学者・文化人であり、何度も摂政・関白になった政治的な履歴よりも、連歌の大成者という文化的な業績によって後世の人々に記憶されている(『増鏡』の作者だという説もある)。歌人としても知られる良基が、狂歌で揶揄われているという巡り合わせが面白い。
 この桟敷の崩壊はただ事ではなく、実は天狗の仕業だったという話が、この後に続くが、それはまた次回に。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(25)

1月5日(日)晴れ

 19世紀の初め、ロンドンの北にあるハートフォードシャーのロングボーンという村の地主ベネット氏の次女であるエリザベスという20歳になり、美しく才知にあふれた女性がこの物語の主人公である。彼女は、近くのメリトンの町で開かれた舞踏会で、彼女と一緒に踊ることを勧められたダーシーというダービーシャーの大地主の青年が、「この僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね」(大島訳、31ページ)といって断ったのを聞いてしまった。それ以来、彼女にはダーシーに対する偏見が生まれたが、ダーシーの方は言ってしまった後で、エリザベスの魅力に気づいて、彼女に関心を持ちはじめる。
 ベネット家の財産は遠縁のコリンズという青年に限嗣相続されることになっていたが、そのコリンズはダーシーの叔母にあたるレディー・キャサリン・ド・バーグの庇護でケントのハンズフォードの教区牧師の地位を得ることができた。ベネット家を訪問したコリンズはエリザベスに求婚するが、彼が尊大さと卑屈さを併せ持つ、退屈な人物であると感じたエリザベスはその求婚を断る。断られたコリンズは、結局エリザベスの親友であった隣家のルーカス家の長女シャーロットと結婚することになる。
 エリザベスはメリトンに駐在している義勇軍(militia, この時代の英国は革命後のフランスと戦争状態にあった)の士官であるウィッカムと知り合い、彼に好意を寄せる一方で、ダーシーと幼馴染だというウィッカムの話を信じて、ダーシーに対する嫌悪感を強める。しかし、ウィッカムは多額の遺産を相続した別の女性を選び、エリザベスから離れてゆく。
 エリザベスはシャーロットとの約束を守り、ケントの新居で暮らしている彼女をその父であるサー・ウィリアム、妹のマライアに同行して訪問することになる。コリンズ牧師の庇護者であるレディー・キャサリン・ド・バーグの邸に招かれたりするようになったが、その邸をレディー・キャサリンの2人の甥、ダーシーと従兄のフィッツウィリアム大佐が訪れた。そして、イースター・デイの夕食にコリンズ夫妻とともにエリザベスは招かれる。〔以上第2巻第8章=31章までのあらすじ。この小説は第3巻第19章=61章までつづくので、ちょうど半分が終わったことになる。〕

 次の朝(ということは月曜日の朝)、ミセズ・コリンズ(シャーロット)とマライアが用事で村に出かけたので、エリザベスは一人居間に残って手紙を書いていた。すると、ダーシーが一人で入ってきた。エリザベスが一人だけだということを知ると、他の人々も在宅していると思っていたと弁解をして、勝手に一人で部屋に入ってきた非礼を詫びた。
 エリザベスが(レディー・キャサリンの)ロウジングズ邸の様子を一通りたずねてしまうと、話題が無くなり、後はまったくの沈黙状態に陥った。しかし、エリザベスはふと、ハートフォードシャーで最後にあった時のことが頭に浮かび、(姉のジェインと付き合っていた)ビングリーの一家とダーシーがなぜ急にあわただしく出発したのかをたずねてみようとした。ダーシーが詳しいことを話そうとする様子がなかったので、彼女はビングリーが借りているネザーフィールドの邸に戻るつもりがあるかどうかをたずね、ダーシーはなさそうだというエリザベスが口にした噂を否定しない。

 次に今度はダーシーがコリンズ夫妻の住んでいる牧師館の住み心地がよさそうだという話題を取り上げ、コリンズ氏はよい伴侶を得たというと、エリザベスはシャーロットが優れた女性であることを認めながらも、この結婚が実利的にいえば良縁であったことは否定しないが、賢明なものであったかどうかはわからないと答える。ダーシーはケントとハートフォードシャーが近い距離にあるというが、エリザベスは50マイル(80キロ)も離れているのでは楽に行き来できるとは言えないと反論する。若い男性で裕福なダーシーと、それほど裕福ではない女性であるエリザベスの旅行をめぐる意識の違いがここで浮き彫りにされる。しかし、ダーシーはエリザベスが自分の生まれ育ったハートフォードシャーに愛着があるので、他の土地は遠くに思えるのだろうという。エリザベスは、彼女がジェインとビングリーのことを念頭に置いているのだと、ダーシーに見抜かれたのかと思いながら、コリンズ夫妻はそれほど裕福ではないので、旅行は容易ではないだろうという。それに対してダーシーは、エリザベスが生まれた土地に愛着を持っていたとしても、いつまでもいつづけることはできないといい、彼女が驚いた表情を見せたのに気づいて話題を変える。

 まもなくシャーロットとマライアが帰ってきて、2人の様子を見てびっくりする。ダーシーは、エリザベスが1人で留守番をしているとは知らなかったのでと言い訳をして帰っていく。彼がなぜ、1人でやって来たのかをめぐり、シャーロットはエリザベスに関心があるのではないかと推測するが、エリザベスは否定し、結局ただの気紛れだろうという結論に落ち着く。
 しかし、その後、ダーシーとフィッツウィリアム大佐は牧師館を頻繁にたずねるようになり、ときには叔母のレディー・キャサリン・ド・バーグまでも姿を見せた。フィッツウィリアム大佐がよくやって来るのは、あきらかにエリザベスに好意を寄せているからであり、エリザベスの方も彼を以前好きだったウィッカムと比較してみたりした。「二人を較べてみて、フィッツウィリアム大佐は、女心を巧みに捕える物柔らかな態度物腰という点ではウィッカムに劣るが、見聞の広さや博識という点でははるかに上のようだと思った」(大島訳、312ページ)。〔この時代の英国の軍隊における階級というものがよくわからないからはっきりしたことは言えないが、伯爵の次男で30歳くらいで正規軍の大佐のフィッツウィリアムと、平民の子で25歳くらいで義勇軍の中尉のウィッカムとでは教育や経験でかなりの開きがあったと思われる。ウィッカムはケンブリッジ大学を出ているが、それでもフィッツウィリアムには太刀打ちできないという描き方である。〕

 それに対して、ダーシーがよくやって来る理由というのは、牧師館の人々にはよくわからなかった。というのは彼は、訪問するだけで、あまり口を利かなかったからである。しかし、彼はときどき、ぼんやりした様子を見せることがあって、それは普段彼が見せないものであることらしいと気付いたミセズ・コリンズ(シャーロット)は、彼がエリザベスに恋をしているのだと推理して、真相を突き止めようと注意を怠らなかったが、確証を得ることはできなかった。結局、彼女はこの問題に深入りすることをやめた。
 その一方で、彼女はエリザベスのために何かできることはないかという思いから、フィッツウィリアムズ大佐との結婚はどうだろうと考えてみた。「大佐はミスター・ダーシーよりも断然愉快な男だし、エリザベスに好意を抱いていることも確かだし、それに社会的地位も至って望ましい。ただ、シャーロットの立場からすると、これらの利点を相殺する面がないわけではなかった。それは、ミスター・ダーシーには聖職者推薦権があってかなりの数の牧師禄が自由裁量できるのに対して、従兄のフィッツウィリアム大佐にはその方面の可能性がまったくないことであった」(大島訳、313‐314ページ)。
 結局のところ、シャーロットはエリザベスのことを考えているようでいて、自分(とその夫)のことを考えていることが分かる。コリンズが得ているハンズフォードの牧師禄は夫妻が生活していくのに十分なものではあるが、もっと条件のいい牧師禄が得られればそれに越したことはないと考えているのである。ジェイン・オースティンは牧師の娘であったから、このあたりの事情には詳しかったと思われる。

 オースティンの完結した6編の小説のうち、『ノーサンガー・アベー』、『分別と多感』、『マンスフィールド・パーク』の3編でヒロインが牧師と結婚する展開になるのに対し、この『高慢と偏見』と『エマ』では牧師の結婚(生活)が肯定的には描かれていない。『説得』のヒロインは、昔別れた恋人が軍隊の中で大佐まで昇進した後に、再会して結婚することになる。オースティンは社会の現実や、個人個人の性格をよく見ていて、職業やそのなかでの地位を人間性を決定するものと考えてはいないが、さりとて、それが大したものではないと無視してもいないのである。

 岩波文庫に入っているトーニーの『宗教と資本主義の興隆――歴史的研究――(上)』を読んでいたら、「19世紀はじめのある政治家――そのひとの教会と国家との関係を見る眼はコリンズ氏とキャサリン・ダ・バーグ夫人との関係そのままだったように思われるのだが――は、つぎのようにいって聖職者出身のある改革者をおさえつけたといわれている」(トーニー、前掲、27ページ)という個所に出会った。この個所についての「訳注」が面白い:「コリンズ氏とキャサリン・ダ・バーグ夫人はジェーン・オースティンの処女小説『高慢と偏見』の中の登場人物。それぞれ高慢と偏見を代表している」(同上、223ページ、一部省略して引用)。
 「コリンズ氏とキャサリン・ダ・バーグ夫人の関係」というのは、牧師(教会)が地主(国家)に従属している関係ということで、「高慢と偏見」云々は関係ない。それから『高慢と偏見』がオースティンの「処女作」というのは間違いではないが、そう書くためにはいろいろと説明が必要であるから、省いた方がいい。

2019年の2019(まとめ)

1月4日(土)晴れのち曇り、夕方になって雨が降り出す

 「師走」という言葉を実感させるように、12月は野暮用でバタバタしたため、少し数字が伸びたようである。

 走り回ったといっても、区役所に出かけたくらいで済んだので、都道府県、市区町村のレベルで新たに足跡を記したところはない。都県は東京都と神奈川県、市区は横浜市、品川区、渋谷区、新宿区、千代田区、文京区、港区で、1都1県、1市6区というのは変らず。
 新たに利用した鉄道会社・路線もなく、会社は京急、JR東日本、東急、東京都営、東京メトロの6社、路線は東急大井町線、東横線、目黒線、東京メトロ南北線、半蔵門線、副都心線、JR東日本根岸・京浜東北線、横浜線、東京都営新宿線、三田線、京急本線、横浜市営ブルーラインの12路線、乗り降りに利用した駅が石川町、御成門、表参道、神奈川新町、上大岡、関内、小机、渋谷、白金台、新宿三丁目、神保町、新横浜、反町、本駒込、目黒、横浜の16駅、乗り換えに利用した駅が大岡山、自由が丘、白金高輪、永田町、東神奈川、日吉、三田、武蔵小杉の8駅である。〔これまでの集計で武蔵小杉を見落としていた。〕
 バスは新たに横浜市営324を利用したほか、2つの停留所で乗り降りをしたので、江ノ電、神奈川中央、相鉄、横浜市営の4社というのは変らないが、横浜市営が10路線、相鉄が5路線、神奈川中央交通が2路線、江ノ電が1路線の合計18路線、停留所も17か所に増えた。〔90〕

 31件のブログを書いた。内訳は日記が6件、読書が10件、読書(歴史)が4件、『太平記』が5件、ジェイン・オースティンが5件、推理小説が1件ということである。1月からの通算は日記が68件、読書が87件、読書(歴史)が42件、モア『ユートピア』が8件、読書(言語ノート)が9件、『太平記』が53件、ジェイン・オースティンが38件、ラブレーが27件、ダンテ『神曲』が20件、推理小説が8件、詩が6件、映画が1件、未分類が1件で合計368件ということである。
 コメントを1件頂いた。1月からの通算は11件である。拍手コメントは1件のままであった。〔380〕
 
 11冊の本を買い、16冊を読んだ。新しく本を買った書店はない。年間を通して130冊の本を買い、124冊読んだことになる。ただし、123冊のうちの5冊は2018年に、3冊は2017年以前に買った本である。本を買った書店は紀伊国屋本店、横浜店、イタリア書房の3店舗のみである。12月に読んだ本を列挙すると:
 ポール・アダム『ヴァイオリン職人の探求と推理』(創元推理文庫)、ポール・アダム『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』(創元推理文庫)、近藤史恵『時々旅に出るカフェ』(双葉文庫)、岡本雅享『千家尊福と出雲信仰』(ちくま新書)、フランソワ・デュボワ『作曲の科学』(講談社ブルーバックス)、ポール・アダム『ヴァイオリン職人と消えた北欧楽器』(創元推理文庫)、関幸彦『英雄伝説の日本史』(講談社学術文庫)、原武史『「松本清張」で読む昭和史』(NHK新書)、宮崎市貞『中国文明論集』(岩波文庫)、本郷和人『権力の日本史』(文春新書)、田中啓文『大塩平八郎の逆襲 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)、愛川晶『芝浜謎噺 神田紅梅亭寄席物帳』(中公文庫)、北村薫『ニッポン硬貨の謎』(創元推理文庫)、エラスムス『平和の訴え』(岩波文庫)、渡辺淳子『星空病院 キッチン花』(ハルキ文庫)、本郷和人『さかのぼり日本史 なぜ武士は生まれたのか』(文春文庫)
ということである。1か月のうちにポール・アダムさんの本を3冊、本郷和人さんの本を2冊読んだことになる。2019年を通じて本郷さんの本を4冊(『承久の乱』、『日本中世史の核心』、『権力の日本史』、『さかのぼり日本史 なぜ武士は生まれたのか』)読んだことになり、堂々の首位である(ただし、啓蒙的な内容が多く、新しい発見が含まれているとはいいがたい問題点がある)。東海林さだおさん(『シウマイの丸かじり』、『ヒマつぶしの作法』、『ガン入院オロオロ日記』)、ポール・アダムさん、田中啓文さん(『ジョン万次郎の亡くしもの』、『貧乏神あんど福の神』、『大塩平八郎の逆襲 浮世奉行と三悪人」)が3冊で続く。椎名誠さんも3冊読んでいる(『おなかがすいたはらペコだ』、『かぐや姫はいやな女』、『本人に訊く(壱)よろしく懐旧篇』)が、『本人に訊く』は目黒考二さんとの対談なので、2.5冊というのが適切であろう。2冊読んだというのが6位ということになるが、内田洋子さん(『イタリアのしっぽ』、『イタリア発 イタリア着』、ヘロン・カーヴィック(『ミス・シートンは事件を描く』、『村で噂のミス・シートン』)、下川裕治さん『ディープすぎるシルクロード 中央アジアの旅』、『12万円で世界を歩く リターンズ』)、山口恵以子さん(『食堂メッシタ』、『あの日の親子丼』)、望月麻衣さん(『京都寺町三条のホームズ⑪』、『京都寺町のホームズ⑫』)、ジム・ロジャーズさん『お金の流れで読む日本と世界の将来 世界的投資家は予想する』、『日本への警告』)、平松洋子さん『買えない味③おいしさのタネ』、『かきバタを神田で』)、愛川晶さん(『高座のホームズみたび 昭和稲荷町落語探偵』、『芝浜謎噺 神田紅梅亭寄席物帳』)、渡辺淳子さん(『東京近江寮食堂 宮崎編」、『星空病院 キッチン花』)ということで、読書の傾向というのが出来ていることが分かるが、その反面で数を稼ぐために読みやすい本ばかり読んでいるということも隠せない。〔127〕

 『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』を227回、『遠山顕の英会話楽習』を139回、『入門ビジネス英語』を75回、『高校生からはじめる「現代英語」』を96回、『実践ビジネス英語』を144回聴いていることになる。
 『まいにちフランス語』入門編を10回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を10回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を10回、応用編を8回聴いている。年間では『まいにちフランス語』入門編を133回、応用編を67回、『まいにちスペイン語』入門編を64回、初級編を58回、応用編を67回、中級編を24回、『まいにちイタリア語』入門編を102回、初級編を31回、応用編を91回聴いていることになる。〔どうも数があわないのであるが、いちおうそういうことでご了解いただきたい。〕〔1318〕 

 ついに12月も映画を見に行くことなく過ごし、映画館2館で9本を見るという数字のまま年を越すことになった。年間に見た映画が10本に達しなかったのは久しぶりである。〔11〕
 展覧会も何通か案内のはがきを受け取りながら、出かけられなかった。〔3〕

 ニッパツ三ツ沢球技場で第98回全国高校サッカー選手権の1回戦2試合を見たので、2019年に見たサッカーの試合は37試合ということになった。ニッパツ三ツ沢球技場、小机フィールズ、保土ヶ谷、三ツ沢陸上競技場の4か所に出かけている。横浜FCのホーム21試合のうち20試合を見た(対柏レイソル戦だけ、入場券が売り切れたため、見ることができなかった)。このほか、天皇杯の2回戦1試合(これも、マリノスとの3回戦は入場券が売り切れで見逃した)、第97回全国高校サッカー選手権の2回戦2試合を見ている。また横浜FCシーガルズの試合をリーグ戦8試合、カップ戦4試合見ている。
 1141回のミニtoto-Aと1145回のミニtoto-Aをあてたので、2019年の当選回数は29回ということになる。〔70〕

 酒を飲まなかったのは3日にとどまった。1月からの通算では(9月分を集計していないが)94日である。〔94〕

 ということで、暫定の数字ではあるが、2093ということになって、2019年の2019は一応達成したことになる。ここに上げた数字でどうも怪しげなものもあるし、その一方で、ここで挙げていない数字もあるので、細かいことは言ったらキリがないが、大体のところでは達成できたのではないかと思う。本来であれば、2019という数字になるように項目を揃えたかったのだが、まあ、超過達成ということで細かいことにはこだわらないことにしておこう。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(10)

1月3日(金)晴れ

 ローマ白銀時代(14‐180)を代表する叙事詩人であるルーカーヌス(39‐65)の唯一現存する作品であるこの『内乱』は、紀元前49年から46年までつづいた共和政末期のローマの覇権をめぐる内乱を描くものである。
 紀元前1世紀のローマは、その版図を広げていく一方で社会の不安・混乱が続き、強力な指導者が求められていた。その中で元老院議員にえらばれるような名門貴族・軍閥を中心とする閥族派と、平民の支持を得て改革を進めようとする民衆派(平民派)の対立が激しくなる。紀元前60年に閥族派の軍人であるが平民の支持も集めようとしたポンペイウス、閥族派の軍人・富豪でやはり平民の支持を得ていたクラッスス、ローマ屈指の名門の出身ではあったが民衆派の指導者であったマリウスとの縁戚関係から民衆派を自称していたカエサルの3人のあいだで第1回の三頭政治が成立し、社会は一応の安定を見る。しかし、紀元前54年にカエサルの娘でポンペイウスに嫁していたユリアが死去、さらに紀元前53年には三頭の1人クラッススがパルティアで戦死したため、ポンペイウスとカエサルの関係が悪化し、ポンペイウスは元老院と結んでカエサルの排除を企てる。紀元前49年1月7日には、元老院がガリア総督であったカエサルの軍隊の解体を命じる。1月10日にカエサルはイタリアとガリアの境界であったルビコン川を軍隊を率いたまま渡り、国境の町アリミニウム(リミニ)に迫る。そこへ護民官の職を解かれ、ローマを追われたクリオが合流し、カエサルに内乱を教唆する。カエサルは自分の率いる軍隊の兵士たちの支持を見極めてうえで、ポンペイウス追討のため、ガリアに展開していた軍を呼び集める。
 カエサル進軍の報せを受けてローマは恐怖・混乱に陥り、民衆はもとより、ポンペイウスや元老院議員たちもローマから逃げ出してしまう。それに様々な異変が続いて、人々は内乱の予感に怯えた。その中で、落ち着きを失わなかった小カトーは意見を聞くために自分を訪問した義理の息子であるブルートゥスに向かって、共和政を守るためにポンペイウスを支持して行動すると宣言する。
 ローマから逃げ出したポンペイウスは、カプアを拠点にして陣を構えるが、民衆や諸都市の支持が分かれる中で、破竹の勢いのカエサル軍は各地でポンペイウス軍を撃破し、コルフィニウムによったドミティウス(小カトーの義理の兄弟である)も抵抗を試みたものの、兵に裏切られてカエサルに引き渡された。死を覚悟したドミティウスに対し、カエサルは宥恕を与える。
 〔この内乱をめぐっては、その最中に記されたカエサルの覚書『内乱記』が現存しており、ルーカーヌスの書いているところと相違する部分が少なくない。例えば、ドミティウスは、兵に裏切られたのではなくて、兵に隠れて逃げ出す手はずを整えていて、それを察知してカエサルのもとにつき出されたと、『内乱記』には記されている。〕

 こうする間にも、マグヌス(ポンペイウス)は、指揮官(ドミティウス)が虜囚の辱めを受けたとも知らず、
新たな兵力を加えて自派を固めようと、戦備を整えるのに余念がなかった。
(第2巻、534‐535行、100ページ)
 そして、自軍に向かって兵を鼓舞激励する演説を行う。緒戦でカエサルが勝利したとはいうものの、戦いの大義は自軍の方にあローマの2人の執政官もポンペイウスの陣営に加わっている。さらにポンペイウスには歴戦に勝利を重ねてきた経験と実績とがある。このように語るが、兵士たちは歓呼してそれにこたえることはない。彼は、まだ見ぬカエサルにすでに敗れている兵らの怯えに気づかされる。そこで、決戦を挑むのではなく、態勢の挽回をはかって、ブルンディシウムの安全な要塞まで退却することにした。
 ブルンディシウムは現在のプーリア州ブルンディジであり、イタリア半島の東海岸、アドリア海に面した港町で、アッピア街道の終点として知られる。ローマの大詩人ウェルギリウスが没した町でもある。スエズ運河が開通すると、マルセイユなどと並び、ヨーロッパとアジアを結ぶ航海の重要な発着点の一つとなった。森鴎外の『舞姫』は、主人公が「ブリンヂイシイ」の港から出航して日本に帰る旅の途中で書いた回想録という形になっている。さらに、ジュール・ヴェルヌの『80日間世界一周』のフォッグ氏とパスパルトーはここからインドへと航行する船に乗り込む。また同じヴェルヌの『アドリア海の復讐』(デュマの『モンテ・クリスト伯』のヴェルヌ版)にもブリンディジが登場するそうである(この小説は読んだけれども、そんなことは忘れてしまった)。

 ブルンディジは天然の良港であり、地中海における要衝として知られてきた。そこに逃れてきたものの、ポンペイウスは自分が去った後のイタリアやガリアの情勢が把握できないまま、長男であるグナエウスにエジプト・メソポタミア地方に向かうように指令する。「息子よ、東方の/ことごとくの地にわが戦を携えて行け。わたしが征服した全世界の/都という都を煽って蜂起させろ。わが陣営に再び連れ戻すのだ、/私が凱旋の勝利を収めたすべての民を」(第2巻 653‐656行、108ページ)。また彼に同行していた2人の執政官にギリシア・マケドニア地方に向かい、そこで援軍を組織してほしいと指令する。〔共和政期の政務官のなかでもっとも重要な役職であったのが、執政官で、これは1年任期で2人が選ばれた。だから、ポンペイウスに2人の執政官が同行しているのは、彼の行動を正当化するのに役立ったのである。なお、緊急の場合には、執政官の上に、独裁官が設置されることがあった。〕

 しかし、カエサルはポンペイウス軍に急迫してきた。ふつうの軍人であれば、すでに収めた戦果で満足するはずであったが、彼は「なすべきことが/一つでも残されていれば、何一つなしていない」(第2巻、669‐670行、109ページ)と信じ、獰猛にポンペイウス軍に肉薄した。ほぼイタリア全土を手中にしながら、わずかな土地にしがみついているポンペイウスを容赦しようとしなかった。また、彼が船団を率いてこの港を出ていくことも望まなかった。そこで、大きな岩を海中に投げ込み、堤を築いて航海を妨害しようとしたが、海が深いためにうまくいかなかった。そこで森の木々を切り出し、鎖で結び合わせて筏を造り、長大な堤を築こうとした。〔カエサルの『内乱記』によるとはじめから筏を組んで堤を築き、敵の船の航行を妨害しようとしたが、ポンペイウス側も応戦したという。〕

 このようにカエサルが海上に堤を出現させて航行を邪魔しようとするのを見て取ったポンペイウスは、隠密裏に艦隊を出動させ、首尾よくブリンディジからの脱出に成功する。わずかに後尾の2艘の船が拿捕されたが、他の船は逃れ去ったのである。
すでに、マグヌス、汝は大海の上にあった。だが、
四海の海原で海賊らを追っていたころのあの盛運は
もはや携えてはいなかった。
(第2巻、737‐739行、114ページ) それでも、ポンペイウスは戦線を国外に散らそうと、ギリシアのエペイロスを目指して船を走らせるのである。

 こうしてポンペイウスがイタリア半島を離れるところで第2巻は終わる。ルーカーヌスはポンペイウス(マグヌス)に同情的であるが、カエサルの『内乱』によると、ポンペイウスの軍隊の乱暴に悩まされていたブルンディシウムの市民たちは、カエサルの方に気持ちを寄せ、ポンペイウスが船出しようとしているのを何とか、カエサル側に知らせようとしたという。ポンペイウスがほとんどの船を使って脱出したために、カエサルはそれを追撃することができなかった。
 それでも、イタリア全土を制圧したカエサルは、ローマに向かう。さて、そこで何が起きるかはまた次回に。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(4)

1月2日(木)曇りのち晴れ

 平将門の乱は承平5年(西暦935年)から天慶3年(西暦940)にかけて北関東を中心に起こった<武士の最初の反乱>であるが、ただ単に東国で起こった反乱とか、武士の発生を示す反乱という評価に押しとどめておくことはできない重大な意味をもっていた。この事件は①皇統に関わる事件だったこと、国家の高度な支配イデオロギーであった王土王民思想が発言された数少ない事件の1つであったことで重要な意味をもつと著者は考えている。
 この書物の中で、著者は次の5点に注目しながら、議論を進めようとしている。
① 将門の乱の誘因となった坂東平氏一族の内紛の原因は何であったのか。
② 将門が国府を襲撃した際の彼の政治的な地位はどのようなものであったのか。
③ 将門が「新皇」に即位した際に八幡神と菅原道真の霊魂が登場したとされるのは、どのような歴史的文脈においてであったのか
④ 将門が「新皇」即位を宣言したことの歴史的韋な意義はどういうものなのか。
⑤ 将門の「冥界消息」が語られたのは、どういう文脈においてであったのか。

 著者は将門の乱の誘因となった平氏一族の内紛は、東北と京の途中に位置し、東北の富を都に運ぶ際の要路であった筑波山西麓の地域の支配権をめぐる争いであったと考えている。〔以上、前回まで紹介した内容〕 将門の父である良望は鎮守府将軍として、東北地方の富を(もちろん部分的に)自分のものとしていたが、無官である将門はそのような利権に与ることができず、そのことが乱の誘因であったと著者は考えている。〔前回、紹介するつもりで紹介できなかった部分の概要。〕

国府襲撃と平将門の政治的地位 「移牒」と「営所」の評価を中心に
 「国府襲撃」事件の経過
  「移牒」と「営所」
 将門の乱の第二段階は、平氏一族の内紛にとどまらず、将門が武蔵国府から始まって常陸国府、下野国府、上野国府を襲い、最後は上野国府で「新皇」宣言に至る過程である。
 この書物では、将門の政治的な位置を解明するために、国府襲撃事件の家庭で、国司と将門との間でたびたびやりとりされた「移牒」「牒」の性格と、『将門記』で将門らの拠点として記されている「営所」の性格とを検討している。

  武蔵国府での事件
 最初は武蔵国府の事件である。将門が武蔵国府に介入するきっかけとなったのは、新任の権守興世王・介源経基と足立郡司武蔵武芝との紛争である。この紛争は『将門記』の記述に従う限り、国衙支配体制の変化に伴う受領と任用国司・郡司との矛盾・対立の構図である。ここで、将門は紛争の当事者としてではなく、調停者として登場している。将門の朝廷の結果として、興世王と武芝との和睦は成立したのだから、これを国府襲撃事件とすることはできない。ただ、この後に起きる事件の導入という役割を持っているかもしれないとは言える。また、ここで(清和源氏の祖とされる)源経基が怖気づいて京に逃げ帰っただけでなく、将門が犯らを起こすかもしれないと密告したことをめぐり、「未だ兵の道に練れずして」(71ページ)と『将門記』の著者に評されていることは注目してよいことである。

  常陸国府襲撃事件
 次の事件の舞台は常陸国府である。武蔵国府での事件で将門の介入により難局を乗り切った興世王が新任の武蔵国守百済貞連と不和になり、下総国の将門のところに「寄宿」するという事態になっていた。
 そこへ、常陸国の豪族である藤原玄明(はるあき)と、常陸介藤原維幾(これちか)が官物の弁済をめぐって対立するという事件が起き、維幾の追及をかわし切れなくなった玄明が将門を頼って下総国豊田軍に逃げ込んだ。維幾は玄明を追捕するよう将門に「移牒(書状)」を送ったが、将門は応えなかった。ここでも、国司と在地土豪との対立に将門が介入するという構図になっていることが注目される。

 将門と常陸国府軍との間に激しい戦闘が展開されたが、将門の勝利に終わる。将門は常陸国守の「印鎰(いんやく)」を奪い、維幾や詔使(天皇の詔によって任命・派遣された使者)を引き連れて豊田郡の鎌輪宿に戻った。「印鎰」{「印」は国司が発給する文書に押す国の印、「鎰」は国衙の財源を納めた国倉の鎰(鍵)のことである}を奪ったこと、「詔使」を連れ去り、監禁したことは、中央政府に対する反乱と見なされても仕方のない行為である。
 このとき、鎌輪宿に寄宿していた興世王が、常陸国だけを討っただけでもその罪は軽くないのだから、この際、坂東全体をかすめ取って、朝廷の出方をうかがう方がいいのではないかと反乱の拡大をそそのかし、将門も自分は桓武天皇の末裔なので、坂東8か国を領有したうえに、京都の朝廷も掠め取っていいはずだとその気になる。いよいよ本格的な反乱の開始である。

  下野・上野国府襲撃事件 → 国府襲撃事件の性格
 大軍をひきいて下野、次に上野の国府に向かった将門に下野、上野の国守は対抗することができず、印鎰を奪われたうえに、京都に追い返されてしまった。

 武蔵国の場合は、将門は国司と地方豪族の間の紛争の調停に乗出しただけで、調停は成功したものの、その際に逃げ出した経基の猜疑心によって反乱者というレッテルを貼られてしまった。とはいえ実際には反乱の意図はなかったと考えられる。次に、常陸の国の場合には国司と地方豪族の間の紛争の調停に失敗するが、その結果、国府軍との交戦にいたり、さらにその結果興世王の扇動もあって、反乱の第一歩が記されることになる。さらに、下野、上野国府襲撃の場合には、介入するような紛争もなく、常陸国府襲撃の延長としての戦闘であって、その性格はかなり異なったものであると考えることができる。

 そこで、このような調停、さらには反乱という動きを見せるに至った将門の地方における政治的な地位はどのようなものであったのかということが問題になるが、それはまた次回ということにする。すでにお気づきかもしれないが、そこで「移牒」と「営所」が問題になるのである。

 
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