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日記抄(12月28日~31日)

12月31日(火)晴れ、風が強い。三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。一年を白き富士の嶺しめくくり

 12月28日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

12月23日
 NHKラジオ『まいにちロシア語』の時間でレールモントフ(1814‐41)の詩を取り上げていた。

 帆
 孤帆が白く見えている
 淡青色の海霧の中に!・・・
 遠い国になにをさがそうというのか?
 故国にはなにを捨ててきたのか?(以下略)

 旧ソ連の作家カターエフ(1897‐1986)の児童文学作品『黒海の波』はオデッサに住む少年少女が第一次ロシア革命の際に反乱を起こしたポチョムキン号の兵士をかくまうことから物語が始まるが、この詩が引用されていた記憶がある。

 NHKラジオ『世界へ発信 ニュースで英語術』で、ジンベエザメの口の中に生息するヨコエビの一種が発見されたというニュースを放送していた。ジンベエザメのことを英語ではwhale sharkというそうだが、ジンベエザメという名の方がのんきでいいと思う。

12月28日
 『朝日』の朝刊の「オピニオン&フォーラム」に佐伯啓思さんがこれまでも書いてきた「異論のススメ」の特別版として、「社会が失う国語力」という論説を書いている。伝統的な文学中心の国語教育こそ論理的な思考を養うのに適切なものだという議論にはおおむね賛成であるが、ここで文学とは何かとか、論理的な思考、あるいは論理とは何かということも考えておく必要があるだろう。特に論理には演繹的な論理と帰納的な論理とがあり、演繹的な論理はむしろ数学を中心として教育されるべきであり、帰納的な論理は、国語だけでなく社会科学系、自然科学系のおそらくはあらゆる教科(数学を含めて)を通じて教育されるべきであろう。論理国語という科目を特設することで、日本の若者に論理的な思考が身に付くなどと考えること自体が、非論理(この場合は帰納的な論理)的である。
 もう一つ付け加えておくと、佐伯さんは社会のデジタル化にはあまり賛成してはいないようであるが、デジタル社会における「読解力」に欠かせないのが批判的な思考であって、「異論のススメ」を書いている佐伯さんは、知らず知らずのうちに、デジタル社会において有効な思考力の育成に手を貸しているといえる。これはめでたいことである。

12月29日
 『朝日』朝刊の「俳壇時評」の青木亮人さんによる「志と詩のあいだ」という文章が面白かった。前衛俳句の雄であった赤尾兜子をしたう木割大雄が出版しつづけている個人誌『カパトまんだら通信』、金子光晴の詩の研究家である原満三寿(まさじ)が出版した句集「風の図譜』のことなど、ある作家にこだわり続けながら文学活動を続けることの意義を教えられる。あらためて、金子光晴の詩業をたどり直してみようと思った。
 夏座敷弟子は不肖の影を曳き (大雄)

12月30日
 渡辺淳子『星空病院 キッチン 花』(ハルキ文庫)を読む。民間の大病院である星空病院の名誉院長は、手術と料理が得意で、病院の一角に「キッチン 花」を構えている。その料理は患者の病気の治療だけでなく、患者と患者を取り巻く人々の悩みや問題を解決するのに役立っている。自分が入院した時のこと、家族が入院した時のことなど思いだしながら読むと、いろいろと思い当たることがあって心温まる一方で、考えさせられもする短編集である。

12月31日
 ニッパツ三ツ沢球技場で、第98回全国高校サッカー選手権の1回戦2試合明秀日立高校(茨城県)対高知高校(高知県)、秋田商業高校(秋田県)対神戸弘陵学園高校(兵庫県)の2試合を観戦した。第1試合は前半に先制した明秀日立がその後も押し気味に試合を進め、追加点は上げられなかったが、1‐0で勝利した。第2試合は、強風の中、退場者が出たりして波乱含みの展開で、前半に神戸が1点を先制したものの、秋田が2点を挙げて逆転、後半に今度は神戸が2点を挙げて再逆転して勝利した。

 年末ジャンボ宝くじは、ハロウィン・ジャンボに引き続き、3,000円が1枚あたっていた。もう少し上が当たらないかなぁと思ったのだが、駄目だった。

 サッカー観戦に時間をとられたのと、この後、元日を迎えるために東京に出かけるために、皆様のブログを訪問する時間的な余裕がありませんが、あしからずご了承ください。今年1年、いろいろとありがとうございました。来年もよろしくお願いします。よいお年をお迎えください。
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『太平記』(295)

12月30日(月)雨が降ったりやんだり

 貞和5年(南朝正平4年、西暦1349年、歴史的事実に照らすと貞和4年が正しい)正月5日、四条畷の合戦で楠正行・正時兄弟を破った高師直・師泰兄弟は、南朝の本拠である吉野を襲い、そのため後村上帝以下の南朝の人々はさらに山奥の賀名生に退去した。その後の南朝の人々は、暮らしにも事欠く有様であった。
 京では、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りを極めていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は、高一族の排除を企てた。それは、中国戦国時代の趙王の臣で、卞和の玉を秦王から取り返した藺相如が、廉頗将軍との争いを避け、真相を知った将軍と刎頸の交わりを結んだのとは著しい違いだった。
 その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、足利直義に重用されていた妙吉侍者は、高兄弟に軽んじられたのを憤り、直義に、秦の始皇帝が蓬莱の薬を求めて龍神の祟りで死去した故事、また、始皇帝の子が趙高に殺害されて秦が滅んだ故事を語り、高師直を趙高になぞらえ、高兄弟を討つように直義に進言した。

 妙吉侍者の言うところでは、高師直はその家来で恩賞として領地を与えられたものの、そこから上がる収入が少ないと文句を言うものがいると、そんな文句を言うな、近くに寺社の領地があれば、境を越えて自分のものにしてしまえと指示を与える。また罪科があって官職や領地を没収されたものが、縁故を頼って師直・師泰兄弟にとりなしを求め、どうすればいいだろうと歎願すると、よしよし、師直は知らぬふりをして見過ごしてやるぞ。たとえ将軍がどのような文書を発給されたとしても、今持っているものはそのまま手放さずに持ちつづけろと言って事態を処理してしまう。〔これでは幕府の規律・秩序が保たれないと、どちらかというと保守的で伝統的な権威や秩序を重んじる直義に受け入れられやすそうなことを言ったのである。〕
 また、聞くところによると、「都に、王と云ふ人のましまして、若干(そこばく)の所領をふさげ、内裏、院の御所と云ふ所のありて、馬より下るるむつかしさよ。もし王なくて叶ふまじき道理あらば、木を以て作るか、金を以て鋳るかして、生きたる院、国王をば、いづくへも皆流し捨てばや」(第4分冊、280ページ、都に、王という人が存在して、多くの所領を領有しているだけでなく、内裏とか院の御所とかいうものがあって、その前を通る時には下馬しなければならないことがうっとうしいことだ。もし王がなくてはやっていけないという道理があるのであれば、木から造るか、金属を鋳て作るかして、生きている院や国王とかいうものは、どこへなりとも皆島流しにしてしまえ)と何ともあさましいことを言っているそうである。
 中国古代の聖人である孟子はその著書の中で「一人天下に横行するをば、武王これを恥ぢしめたり」{第4分冊、280ページ、脚注によると、『孟子』の本文には「一人天下に衡行するも、武王これを恥づ」(梁恵王下)=1人でも天下に横柄にふるまうものがいたら、武王は自分の恥辱としてその者を討つ}と述べている。それだけではない、師直兄弟は自分自身で処理する訴訟の裁定も、自分たちにへつらうものに有利に裁定し、道理を曲げている。このように将軍と直義の意志に背く行為が度重なっている。正しい裁判と刑罰が行われなければ、天下は乱れる一方である。早く高兄弟を討伐して、上杉、畠山を執権として起用し、直義公の若君に天下を支配させようとは思われないのでしょうかなどと、言葉をつくし、さまざまなたとえを用いて、直義の心を動かそうとしたので、直義も妙吉の言い分を聞くうちに、それもそうだなと思う心が強くなってきた。これも第26巻で取り上げた、仁和寺の六本杉の梢で、あちこちから集まってきた天狗たちが、天下に争乱を引き起こそうとして相談したことの結果が、早くも現れ始めたと考えられる。

 この進言を受けて直義が打った最初の布石は西国の安定のためというので、尊氏の庶子で自分の養子となっていた足利直冬を備前の国に派遣したことである。そもそもこの直冬という人物は、尊氏が忍んで通った越後局(越前局とも)という女性との間に設けた子どもであり、そのためにもともとは武蔵国東勝寺の渇食(かっしき=稚児)であった。〔東勝寺は鎌倉市小町葛西ヶ谷にあった臨済宗の寺で、鎌倉幕府滅亡時に北条一族がここで自害したのは、第10巻に描かれている。小町通りから北の方に行った、祇園山ハイキングコースの入り口付近に東勝寺跡の標識が出ているそうである。それはいいけれども、鎌倉は武蔵ではなく、相模に属しているはずである。〕 それを僧侶にせずに、元服させて京都に送り出して、尊氏に内内にその由を伝えた。しかし尊氏は許容しなかったので、独清軒と号していた玄恵(げんえ)法印のもとでわび住まいをしながら、学問を続けていた。才気や風采が然るべきものと思われたので、玄恵法印から直義の方に申し入れて、直義が面会してその人物を確かめた。直義は直冬を尊氏にとりなしたが、それでも尊氏は直冬を自分の子と認めようとしなかった。

 こうして尊氏の許容がないまま1,2年がたったが、紀伊の国の宮方が蜂起したときに、その討伐軍の大将として直冬が起用されることになった。このとき初めて直冬は尊氏の子として認められ、右兵衛佐に補任された(森茂暁は「左」兵衛佐の間違いではないかとしている)。遠征は成功して、紀州の情勢がしばらくの間安定したので、直冬は人々の間で重んじられるようになった。そして時々は尊氏のもとにも伺候するようになったが、その際の座席は足利一族の中でも末流の仁木・細川と同列で、尊氏からはそれほど重んじられているわけではなかった。

 ところが、直義の計らいとして、西国(長門)探題に任じられたので、いつしか(中国地方の)人々は彼に帰服し、従うものが多くなった。直冬は備後の鞆(広島県福山市)に本拠を置いて政務をとり、(その政治はというと)忠義をつくすものには望まないでも賞を与え、過失がある者は罰を受けるまえにその支配の外に逃れるというものであったので、黒を白と言いくるめ、秩序を乱している高兄弟の悪行はますます隠れのないものとなった。

 尊氏・直義兄弟と高師直・師泰兄弟を切り離すはずの企てが、実は尊氏・直義兄弟を離間させる結果をもたらしていく。『太平記』の作者の考えを受け入れれば、天狗たちの策謀が実を結んでいくのである。今後の展開については、また来年以降に譲る。
 なお、森茂暁さんによると、直冬が史料の中で確認できるのは『師守記』康永3年(1344)6月17日条の記事であるという(森『太平記の群像』、角川文庫、148ページ)。これは『大日本史料』6編以来の定説だそうであるが、田辺久子さんはここで記されている<着袴>の儀を行うには、直冬は年を取りすぎているとして、ここに記されているのは後に鎌倉公方になった基氏であると論じている(田辺『関東公方足利氏四代』、吉川弘文館、4ページ)。尊氏の子どもについて(男子のみ)整理してみると、竹若(母は加子六郎基氏の娘、元弘の変に関係して殺害された)、直冬、義詮(2代将軍)、聖王(夭折)、基氏(初代関東管領)、英仲(禅僧)ということであり、義詮、聖王、基氏の3人は尊氏の正室・登子の子である。吉川英治の『私本太平記』などは、直冬の母に藤夜叉という名を与えて、想像を膨らませて書いている(NHK大河ドラマでは宮沢りえさんがこの役を演じた)が、実際のところはあまりよくわからないようである。
 直冬を養い、直義に紹介したとされる玄恵法印は直義による『建武式目』の制定に参画、また『太平記』の成立にも重要な役割を果たしたとされる存在である。
 直冬はこれから、『太平記』の中の重要人物の1人として活躍することになるが、森さんはその軌跡を「波瀾万丈」と表現しつつも、彼の人物像について「外からの影響を受けやすい小心者で、ナイーブな性格の持ち主だったらしい」(森、前掲、155ページ)と推測している。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(24)

12月29日(日)晴れ

 ロンドンの北に位置するハートフォードシャーのロングボーンの村に住む地主の娘エリザベス・ベネットは、近くのメリトンの町で開かれた舞踏会に来ていたダービーシャーの大地主であるダーシーが、彼女と踊るように勧められたときに、「この僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね」(大島訳、31ページ)といって断ったのを聞いてしまった。そういった後で、ダーシーは彼女の魅力に気づいて、関心を寄せ始めるのだが、エリザベスの方は彼に対して偏見を持ち続け、距離を置こうとし続けるのである。
 ベネット家の財産を相続することになっている牧師のコリンズの求婚をエリザベスは断るが、そのコリンズは彼女の親友であるシャーロット・ルーカスと結婚する。シャーロットとの約束を守って、エリザベスはシャーロットの父親、それに妹のマライアとともにケントのコリンズ夫妻をたずねることになる。彼らの住まいであるハンズフォードの牧師館はこの土地の大地主でコリンズの庇護者であるレディー・キャサリン・ド・バーグのロウジングズ邸に隣接しており、レディー・キャサリンはダーシーの叔母なのであった。
 イースターが近づき、ロウジングズ邸に身内の来客があることが分かった。訪問してきたのはダーシーと、その従兄であるフィッツウィリアム大佐であった。〔以上、第2巻第7章=第30章までのあらすじ〕

 「フィッツウィリアム大佐の態度振舞は牧師館の人達から大いに賞賛され、女性達からは、あの人がいればロウジングズ邸での会合もずいぶんと楽しいものになるに違いないと思われた。」(大島訳、297ページ) しかし、牧師館の人達にはロウジングズ邸への招待はなかなか届かなかった。レディー・キャサリンは2人の甥たちのことで頭がいっぱいだったからである。ダーシーとフィッツウィリアム大佐が到着して1週間たったイースター・デー(イースター・サンデー)になってようやく、礼拝が済んで教会を出るときに、今晩ちょっといらっしゃいと招待を受けたのであった。この間、フィッツウィリアム大佐はほぼ毎日、牧師館を訪問しにやってきたが、ダーシーとは教会で会っただけであった。

 牧師館の一同はもちろん招待を承諾し、その夕方、ロウジングズ邸の客間で開かれているパーティーに加わった。レディー・キャサリンは2人の甥たち、特にダーシーの方との会話に熱中していて、これまでのように牧師館の人々に関心を向けることはあまりなかったが、フィッツウィリアム大佐は訪問を喜んで、エリザベスにいろいろと話しかけ、2人の間でケントやハートフォードのこと、読書や音楽など様々な話題に話の花が咲いた。二人の様子が楽しげなので、レディー・キャサリンもダーシーも2人に関心を向けざるをえなかった。

 2人が音楽について話していたのだということを知って、レディー・キャサリンは自分ほど音楽を楽しみ、また生まれつき音楽についての才能をもっている人間は少ないと自慢気にいう。自分が音楽をきちんと学んでいれば、その道の達人になったことであろうといい、娘のアンも練習に耐える体力があったならば、もっと上達していただろうといって、ダーシーに彼の妹のジョージアナの様子をたずねる(第1巻第8章で、ミス・ビングリーはジョージアナがいろいろな才芸を身につけていることを賞賛し、第21章の手紙の中でも同じことを繰り返しているので、読者はこのことについては予備知識をもっている)。ダーシーは愛情のこもった口調で、妹は相当上達したと答えた。レディー・キャサリンはこの答えを喜び、よほど練習しないと上達は望めないと伝えるように言うと、ダーシーはそれには及ばない、妹は十分に練習していると答える。
 レディー・キャサリンは練習が大事だと繰り返し言い、矛先をエリザベスに向けて、彼女も練習したければロウジングズ邸にやってきて(令嬢の家庭教師をした後も、同居している)ジェンキンソン夫人のピアノを弾いて練習しても構わないという。これはあまり礼儀に適った言い方でないので、ダーシーはそれについては返事をしなかった(エリザベスの反応については記されていない)。

 コーヒーが済むと、フィッツウィリアム大佐はエリザベスに約束通りピアノを弾いてくれと促し、エリザベスはピアノを弾き始め、大佐はそれを近くで聴いた。レディー・キャサリンは途中まで聞いて、後はまたダーシーと話し始めたが、そのダーシーは叔母との話を適当に切り上げて、ピアノの方に近づき、演奏しているエリザベスの顔がよく見えるような場所に立った。ダーシーの挙動に気づいてエリザベスは、自分をこわがらせようとそんなところにたっても、自分は平気で、ダーシーの妹のジョージアナほど上手には弾けないかもしれないが、自分が怖気づくということはないという。
 ダーシーは自分にはエリザベスを脅かそうという魂胆はないし、エリザベスがときどき、心にもないことをいうのは先刻承知していると答える。
 エリザベスは、ダーシーがハートフォードでの自分のことをいろいろと暴露しようとするのであれば、自分もダーシーのことを暴露するかもしれないと仄めかす。フィッツウィリアムがどんな話かと聞いたので、エリザベスは彼が舞踏会で相手がいないで待機している女性が大勢いたのに、踊ろうとしなかったという話をする(その女性たちの1人が彼女だったということを伏せているが、ダーシーはもちろん気づいただろうし、フィッツウィリアム大佐も察したのではないかと思う。このあたり、露骨にいわないのが礼儀というものである)。
 ダーシーは初対面の人と名乗り合うのが苦手だという(そういう英国人は少なくないようである)。なぜ苦手なのかというエリザベスの問いに、フィッツウィリアムが割り込んで、要するに、面倒くさいからだと答える。
 ダーシーは、初対面だとどうも話をうまく勧めていくことができないといい、それに対してエリザベスは自分の指だって自在には動かないけれどもピアノを弾いているとやり返す。ダーシーは彼女の発言を笑って受け入れる。

 レディー・キャサリンが何の話をしているのだと質問したので、エリザベスはまたピアノを弾き始める。レディー・キャサリンは、それを聴いて、ロンドンの先生についてもっと練習すればもっとうまくなるだろうにといい、自分の娘のアンもそれなりの練習をする健康に恵まれていれば、うまくなっただろうと付け加える。エリザベスは、この言葉を聞いてのダーシーの反応をうかがうが、彼は特にアンに愛情を寄せている様子も見せなかったので、ミス・ビングリーも(ダーシーと結婚するという)希望を捨てない方がいいのかなと思ったりした。
 レディー・キャサリンはエリザベスの演奏について技術的な批評を繰り返し、それに対してエリザベスは我慢を重ねながら、2人の紳士の要望に応じてピアノを弾き続けた。

 才芸というのは技術的な面もあるけれども、人格的な面が加わってその技術が精彩をおびる。エリザベスのピアノは上手ではないかもしれないが、彼女の人格的な魅力が加味されているから、2人の紳士が喜んで聴いているわけである。レディー・キャサリンはそのことに気づかず、技術的な批評ばかり続けている。
 ミス・ダーシー(ジョージアナ)は噂ばかりでなかなか登場せず、第3巻第3章(第45章)になってやっと姿を現す。彼女がミス・ビングリーの言うように完璧なお嬢様であるのか、傲慢で虚栄心の強い令嬢であるのかは、そのときまでのお楽しみということにしておこう(もちろん、どちらでもない可能性もあるのだが…)。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(9)

12月28日(土)晴れ

 ローマ白銀時代(14‐180)の詩人マルクス・アンナエウス・ルーカーヌス(39‐65)の現存する唯一の作品である『内乱』は紀元前1世紀半ばのガイウス・ユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウス・マグヌスとの間でローマの覇権をめぐって戦われた内乱を描く叙事詩である。この時代は、ローマの政治・社会が不安定になり、強力な指導者が求められていたが、そのなかで、紀元前60年にポンペイウス、カエサル、クラッススの3人によって第1回三頭政治が始まり、いちおうの安定が得られる。しかし、前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死したことにより、残る2人の間の対立が表面化する。
 ガリア総督の任を解かれたカエサルは、当時ガリアとイタリアの国境とされていたルビコン川を軍隊を率いて渡り、アリミニウムに侵攻する。そこに、カエサルと親しい政治家でローマを追われたクリオが合流し、内乱をけしかけると、カエサルは兵士に向かってその決意を述べ、彼らの同意を得ると、ガリア全土に展開していた彼の軍隊を呼び寄せ、ポンペイウス打倒に向けてローマにむかおうとする。
 ローマはカエサル進軍のうわさで恐怖、混乱に陥り、民衆はもとより、当のポンペイウスやその他の高官、元老院議員の大半が脱出してしまう。時を同じくして様々な天変地異が起き、内乱を予期した人々の不安は募るばかりである。特に閥族派のスッラと民衆派のマリウスの血で血を洗う戦を経験した年長者たちは、その再現を恐れる。
 内乱とローマの行方をめぐって心を痛める(小)カトーのもとを、その義理の息子であるブルートゥスが訪れ、身の処し方をたずねる。小カトーは共和政を守るために、ポンペイウスに味方すべきであるという。そこへ彼の元の妻でホルテンシウスに嫁していたマルキアがやってきて、ホルテンシウスが死んだことで、復縁したいと申し出て、形ばかりの再婚の儀式が行われた。

 さて、その間にも、マグヌス(ポンペイウス)は、都を落ち、怯える隊伍を率いて、
ダルダノスの後裔の植民が築いたカンパニアの都城を占拠したが、
ここを戦の本拠とし、ここから戦の指揮を総覧して、
各所に部隊を出陣させ、敵の攻撃を迎え撃つことに決めた。
(第2巻、399~402行、91‐92ページ)
 ポンペイウス・マグヌスが本拠とした「カンパニアの都城」はカンパニア州カゼルタ県のカプアのことで、ダルダノスの後裔、すなわちトロイア王家の後裔ということになるカピュスが築いた都市なので、この名があるという。〔エトルリア語起源の地名だという説もある。〕 現在では見る影もないが、アッピア街道の当初の終点であったことで分かるように、古代にはカンパニア州の中心都市であった。ルーカーヌスは、この土地をめぐる自然について詳しく描写する。

 ポンペイウスが守勢に立っているのに対し、カエサルは攻勢で、いたる所で戦端を開こうとしているように思われる。
 さて、兵戟を狂熱するカエサルは血を流さずに征路を拓くのを
よしとせず、敵なきへスペリアの地を踏みしだくことも、人なき野に
侵攻することも好まず、行軍さえ無駄とばかり、戦に次ぐ戦を
渇望した。
(第2巻、444~447行、94‐95ページ) 「へスペリア」は『西の方の国』という意味だそうである。この文脈では特定の国、地方を指しているようには思われない。ルーカーヌスの描くところでは、カエサルには「戦わずして勝つ」という考えはないようである。

・・・そのころ、
ラティウムの諸都市は態度を決めかね、支持は区々に分かれて
揺れていた。
(第2巻、450~452行、95ページ)
 ラティウムというのは、ローマの周辺、現在のラツィオ州のこととも受け取れるし、イタリア全域とも受け取れる。
・・・民衆はむしろマグヌス側に
靡いていたが、相争う、忠誠心と脅かす恐怖との狭間に立ち、
進退両難の中にあった。
(第2巻、456~458行、95ページ) 閥族派のポンペイウスと民衆派のカエサルの戦いであるが、民衆はポンペイウスを支持する方が多かったと、ルーカーヌスは書いている。

 各地で戦闘が始まる。
 エトルリアの民は怯えたリボの遁走で防ぎ手もなく丸裸にされ、
テルムスの敗走によってウンブリアは自律の権利を失った。また、
スッラも、同じく内乱を戦いはしたものの、父親のような
瑞兆は得られず、カエサルの名を聞いただけで敗走した。
(第2巻、465~468行、96ページ) ポンペイウス側の武将たちは総崩れの様相を見せる。エトルリア(トスカナ州)を守っていたリボはポンペイウスの次男であるセクストゥス・ポンペイウスの義父であったが、戦わずして遁走、ウンブリア(州)を守っていたテルムスも(詳細は不明だが)敗走した。かつての独裁官スッラの息子のスッラも、敗走した。
 ポンペイウスの将軍の1人であったウァルスはカエサル軍の騎兵の襲来を知るとすぐに遁走、ピケヌム地方のアスクルム(マルケ州のアスコリ・ピチェーノ)を守っていたレントゥルスも要塞を明け渡したが、退却する彼の軍をカエサル軍は容赦なく襲い、指揮官だけがかろうじて逃げ帰った。名門スキピオ家の直系であるクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオはポンペイウスの後妻コルネリアの父であったが、彼も(カンパニア州)ヌケリアの要塞を捨てて、遁走した。彼の配下にいたのは、少し以前まで援軍として派遣されたガリアでカエサルの指揮下にあり、パルティアへの援軍という名目でローマに戻ってきた精鋭部隊であった。

 このように、ポンペイウス側の将軍たちは臆病風に吹かれていた。その中でただひとり、抵抗の姿勢を示そうとしたのがコルフィニウム(現在のアブルッツォ州の州都ラクイラの近くにあった古代都市)を守っていた「戦意漲(みなぎ)るドミティウス」であった。彼は小カトーの義兄弟であり、カエサルの解任後、ガリア総督の地位を得た。ちなみにルーカーヌスが仕えた皇帝ネロの高祖父でもある。彼は町の近くを流れる川の橋を破壊して、カエサル軍の進撃を食い止めようとした。しかし、それを察知したカエサルは、橋が破壊される前に守備隊を撃退し、川を難なく渡り、巨大な岩石を飛ばす機会を据え付けて、コルフィウムの要塞を攻略しようとする。そのとき、コルフィウムの兵士たちは、指揮官であるドミティウスを捕虜として連行して、カエサルに降伏したのである。死を望むドミティウスに対し、カエサルは宥恕による生を与える。それは
…ローマの男児、
ローマ市民の彼には極刑にも等しい惨刑だったのだ、
祖国の陣営に付き、将マグヌスと全元老院に従ったことで宥恕されるのは。
(第2巻、525~527行、100ページ)
 この恥辱を与えられたドミティウスは、表面は平静を装いながら、内心でカエサルへの復讐を誓うのであった。

 カエサル自身が、『内乱記』(國原吉之助訳、講談社学術文庫)で書いているところと、このあたりの経緯はだいぶ違うので、両者を突き合わせて真相を知る必要がある(カエサルは当事者として経緯を記し、ルーカーヌスは100年以上後の時代に伝聞をもとにして書いているという時間的な隔たりから、カエサルのほうが信頼性が高いけれども、当事者だから本当のことを書くとは限らないということも念頭に置くべきだということである)。ルーカーヌスは、カエサルが何よりも戦闘を欲していたと書いているが、カエサルは戦闘よりもその前に情報戦で戦わずして勝つことのほうの意義を認める旨を書いている。また、ルーカーヌスはドミティウスが抗戦しようとして部下の裏切りにあったと書いているが、カエサルによれば、彼はこっそり脱走を企てていたのを部下に察知されて、部下たちによってカエサルのもとに突き出されたということである。
 地図を見るとわかるが、ポンペイウスが本拠としているカンパニア州は、イタリア半島の南の方に位置している(現在の州都はナポリである)。北部・中部を押さえたカエサルに対し、ポンペイウスが劣勢であることがこのことでも示される。決戦の時が迫って来るのを感じたポンペイウスは、そのための準備を進めるが、彼の元に届く報せはよくないものばかりである。ポンペイウスは勢力の挽回をはかるが、その努力の結果はどのようなことになるか…というのはまた次回に。 

日記抄(12月24日~27日)

12月27日(金)曇りのち晴れ

 12月24日から本日までに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

12月23日
 NHKラジオ”お・も・て・な・し”のスペイン語』は昨年4月~9月に放送された内容の再放送であるが、この日の放送は登場する日本女性とメキシコ人男性が宮城県石巻市にある慶長使節船ミュージアムを訪問するという設定になっていた。考えてみると、天正の少年遣欧使節はポルトガルの援助のもとに、インド洋から大西洋を北上してヨーロッパに出かけたのに対し、支倉の一行はスペインの船に乗って太平洋を横断し、メキシコを横切って、大西洋を渡ってヨーロッパに入っている。対照的な航路をとっているのである。日本人が世界を一周するのは、もっと後の時代になってからのことである。

12月24日
 眼科に定期検診に出かける。眼圧があまり下がらないのが問題だそうだ。

 愛川晶『芝浜謎噺 神田紅梅亭寄席物帳』(中公文庫)を読み終える。落語ミステリーというジャンルがあるとすれば、愛川晶は作品数ではこのジャンルの第一人者といえるのではないかと、著者自身が書いている(他に、大倉崇宏、田中啓文、少し古いところで小林信彦、さらに古いところで都筑道夫といったところか。ちなみに都筑の兄は落語家の鶯春亭梅橋(1926‐1955)であった。) 確かに落語についての知識や、打ち込み方で他の追随を許さないところがある。「野ざらし死体遺棄事件」、「芝浜謎噺」、「試酒試」という、それぞれ「野ざらし」、「芝浜」、「試酒」という落語に絡んだ事件が展開し、しかもそれぞれの落語を登場する落語家が演じて見せるという物語の展開になっている。

 日・中・韓3国の東アジア3カ国の首脳会談が、三国時代の蜀の都であった成都で開かれている。
 三国で思い出すのは、3世紀の邪馬台国の女王であった卑弥呼が魏に朝貢していることである。その後継者であった台与(あるいは壹与)は魏にとってかわった晋に朝貢しているらしい。つまり中国の北方の王朝と交流をもっているのだが、その後の倭の五王になると、南北朝の南朝の方と交流している。飛鳥時代になると隋・唐と統一王朝が成立し、遣隋使・遣唐使が送られたが、これらの王朝は北方系であり、日本の交流する相手が時代によって北の方になったり、南の方になったりと変化しているのは興味深いことではないかと思う。

12月25日
 クリスマス 横眼で眺め 般若湯
 クリスマス 中華料理の 安倍総理 (外遊中)

 北村薫『ニッポン硬貨の謎』(創元推理文庫)を読み終える。1977年、ミステリ作家で名探偵でもあったエラリー・クイーンが出版社の招きで来日した。公式日程をこなすかたわら、東京で発生していた幼児連続殺害事件に関心を抱く。ミステリ・ファンでクイーンのファンであった女子学生小町奈々子は、アルバイト先の書店で50円玉20枚を「千円札に両替してくれ」と頼む男に出会うという奇妙な経験をした。彼女は、クイーンを囲むファンの集いで『シャム双生児の謎』を展開して、クイーンの知遇を得て、彼の都内観光のガイドをすることになった。2人で出かけた動物園で、幼児誘拐の現場にゆき合わせると、クイーンは連続殺害事件との関連を指摘しはじめる…というエラリー・クイーン作品のパスティーシュなのだが、クイーン作品をあまり読んでいないので、いま一つ乗れないところがあった。

12月26日
 『朝日』朝刊の投書欄「声」に「宝くじ高額当選に心臓バクバク」という投書が出ていた。売り場では賞金が払えないので、銀行に行ってくださいと言われたので、いくらかと思って出かけてみたら10万円だったという話である。わたしは宝くじでも、totoでもあたっているかどうかは必ず確認する(そういうことはまめである)ことにしているが、この投書子のように10万円(それまでの最高記録は5万円だったそうだ)あたったということは一度もなく、最高額は1万円である。当らないよりも、当たるほうがいいが、額が少ないほど、そのまま生活費に消える可能性が大きい。

12月27日
 エラスムス『平和の訴え』(岩波文庫)を読み終える。ずっと本棚で眠っていた本であるが、この本のカバーから推測すると、1977年ごろに福井市の品川書店で購入したもののようである。

 相鉄バスの車内には、相模一宮である寒川神社への初もうでを勧めるポスターがあり、京急の電車の中には坂東三か所の第14番霊場である弘明寺への初もうでを勧めるポスターが吊るされていた。どうでもいいけれど、横浜市の大部分は武蔵の国に属していて、相模ではない。とはいうものの、武蔵一宮とされる大宮氷川神社はちょっと遠いということか。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(6)

12月26日(木)曇り

 1958年2月、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市大の派遣した学術調査隊による熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌の調査の後半の活動として、カンボジア、ベトナム(南ベトナム)、ラオスの3カ国を歴訪する自動車旅行を行った。隊員の中では、昆虫学者で医師の吉川公雄が同行、それに外交官(当時)で東南アジア研究家である石井米雄(1929‐2010)が通訳を兼ねて加わった。
 3人は2月12日にバンコクを出発、13日に国境を越えてカンボジアに入り、トン・レ・サップの南岸を通って、14日に首都プノムペンに到着した。シハヌーク殿下のもとで中立政策を推進していたカンボジアの社会は、タイのそれとはかなり違った様相を見せていたが、それ以上に目についたのは中国人の多さである〔このあたり、現在とはだいぶ違っているところではないかと思う〕。

第13章 ゾウと王さま(続き)
 シナ正月
 2月17日、一行は「シナ正月」に遭遇する。〔新中国ではグレゴリオ暦による1月1日を「元日」、旧暦(時憲暦)の正月初一を「春節」とすることになっていて、その「春節」である。ちなみに今年(2019年)の「春節」は2月15日であったが、来年(2020年)は1月25日である。日本における「旧暦」は江戸時代の終り頃に作成された「天保暦」に基づいているが、厳密にはまったく同じものではないそうで、なかなか複雑である。ただし、一行が困ったのはこういう暦学的な問題ではなくて、中国人の店がみな、閉まってしまったことである。〕 「わたしたちは食いはぐれるのだ。ことは重大である。」(60ページ)

 街を歩いてみると、お祭り気分で、店を飾り立て、爆竹をあちこちで鳴らし、若い女性などは晴れ着(といっても「もっさりとしたワンピース」)で着飾っている。しかし、そんなことよりも、一行にとっては食事の方が大事である。とうとうインド人の店を見つけて、入ってみたが、出てきた料理には閉口した。「わたしたちには、やっぱりシナめしの方が口にあう。」(60ページ) 〔すぐ後のベトナムのところで「あやしげなシナめし」(80ページ)などと書いているのだから勝手なものだが、グルメの梅棹らしいと言えば、言える。〕

 一行の食生活はというと、朝食は泊っているシナ宿の1階の食堂でとる。「パットンコーというメリケン粉の油あげみたいなの」(61ページ)と「カフェ・オ・レ」(加糖練乳入りのコーヒー)。昼食は外へ出て、開放的なシナめし屋の店先で「クェイティオ」というきしめんみたいなスープ入りの麺を食べる。夕食は少しマシなシナ料理、大使館の人の招待などがあればフランス料理を食べる。奇妙なことにクメール料理というのに出会ったことがない。どこに行けば食べられるのかもわからないし、そんな店も見つからないという。〔梅棹はこんなことを書いているが、ネットで検索してみると、カンボジア料理の店というのは日本にもないわけではないようで、JR代々木駅の近くには、「アンコールワット」というカンボジア料理の店があるそうだ。〕

 カンボジア人はどこへいったのか
 プノムペン滞在中に、さらに足を延ばして海を見に出かける。カンボジアはほとんど内陸国のようなものであるが、タイ湾に面した海岸線がわずかながら確保されている。その海岸線にある港町であるカムポットを訪問した。この当時、カンボジアにおけるもっとも重要な港はプノムペンであった。メコン川をさかのぼって(ということはベトナム経由で)相当の大きさの外航船がプノムペンまでやって来ていたのである。しかし、フランスの援助で、カムポットの6・70キロ西のコンポン・ソムで港湾建設工事が行われていて、シハヌーク港という港ができることになっていた。〔工事は1964年に始まり、その後内戦で中断したりしたが、港湾そのものはできあがっており、コンポン・ソムはシアヌークビルと名前を変えた都市になっている。工事が進まなかったので、自然が残り、リゾート地として脚光を浴びているそうである。〕

 カムポットでは「貴州旅店」という宿屋に泊まる。店主は貴州省出身の中国人であるが、専ら筆談で意思の疎通を行うだけである〔梅棹は、岩波新書の『実戦・世界言語紀行』という書物で書いているとおり、多少中国語ができたのである。しかし、標準語が出来ても、地方出身者とは話が通じないことが多いのは、中国料理店の人たちの会話が聞き取れないことから容易に推測できる。〕

 次の日はカムポットから20キロほど東にあるケップの海水浴場に出かけたが、見かけるのは白人ばかりで、後は金持の中国人らしい1組がいるだけである。カンボジア人の姿が見えないことで、梅棹は奇妙な気持ちにとらわれる。「バッタンバン以来、私はすこし変な気持ちになっている。カンボジアとは一たい何であるか。ずっといなかへゆけば、たしかに貧しいカンボジア農民がいる。しかし、ちょっと町らしいところでは、のさばっているのは要するに白人と中国人ではないか。カンボジア人はどこへいってしまったのだろうか。」(63ページ) 〔現在のカンボジアではそういうことはないが、そうなるについては内戦の歴史が影響していると思われ、手放しで喜べないところもあると思うのである。〕

 昼過ぎにカムポットに戻る。貴州旅店のある海岸通りには、物売りたちが店を出している。売っているのは魚醤である。「シナめし屋で、醤油がわりに出す。それは、桶の中に魚を強い塩漬けにして、その浸出液をとったものである。上等のはうまいが、悪いのは大へん臭い。日本にも似たものがあるようだ。東北のしょっつるというのは、これだろう。カンボジア、タイ、ベトナムの諸国では、この漁醤が最大の調味料である。」(63ページ) カムポット付近はこの魚醤の一大生産地であり、近くのフークォック島はベトナム領であるが、さらに有名な産地である。
 カンボジア人はもともと内陸民族なので、漁業には関心がなく、魚醤造りに関わっているのも中国人、ベトナム人が主であり、中にはマラヤ人らしい姿も見えたという。
 なお、東南アジアの魚醤文化については、後に梅棹の助手を経て文化人類学者として活躍している石毛直道の研究がある。

 移動図書室
 午後、カムポットからプノムペンに戻る。
 この旅行で梅棹は大量の本を自動車の中に持ち込み、自動車を運転していないときには、後部座席に寝そべってその本を読むことにしていた。出発前に、東京の古本屋で東南アジア関係の書物を買いあさり、さらにバンコクで英語のものを買い込んだ。満鉄調査部で刊行した「南洋叢書」などにはいい本がかなりあったという〔現在では60年も時間が経ってしまったから、そう簡単に古本屋で本は手に入らないのではないかと思う。しかし、私も経験があるが、バンコクの本屋では結構いい本が手に入るものである〕。

 「現地で、実物を見ながら本を読む。わたしはまえから、これは非常にいい勉強法だと思っている。本に書いてあることは、よく頭にはいるし、同時に自分の経験する事物の意味を、本でたしかめることができる。」(65ページ)
 カムポットからプノムペンに向かう道筋で、梅棹はほかのカンボジアの農家のように高床住居でなく、土間になっている住居があり、その周りには見なれない作物が栽培されているのを見かける。これは彼が持参した書物を読むと、コショウであり、その生産者は中国人の農民であるということが分かる。高温多湿の海岸地帯は、コショウの栽培に適した条件を備えているのである。それにしても中国人の農業移民というのは珍しいと梅棹は考える。謎が謎を呼んで、好奇心の対象が広がってゆく。

 今回で第13章を読み終えるつもりだったのだが、内容が面白くて、深読みをしているうちに紙面が埋まってしまった。たぶん(来年に)もう1回、カンボジアの個所を取り上げて、それから(南)ベトナム旅行の個所を読んでいくつもりである。それではまた。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(8)

12月25日(水)曇りのち晴れ

 いつのこととは記されていないが、17世紀の初め頃(つまり日本では江戸時代の初め頃)のことであろう、語り手たちが乗った船はペルーを出発して、当時南海と呼ばれていた太平洋を横断して中国(篇中でも語られているが、当時海禁政策をとっていた)か日本(まだ「鎖国」政策はとっていなかった)を目指して航海をしていたが、風の影響で北の方に押し流され、未知の土地に漂着した。
 島の人々は一行をはじめ上陸させようとしなかったが、彼らがキリスト教徒であり、海賊ではないことを確認したうえで、異人館(the Strangers' House)に滞在することを許す。キリスト教の司祭でもある異人館の館長の説明によると、この島の人々はある奇蹟によってキリスト教を信じるようになったのであり、それ以前の大昔には世界中で遠距離航海が今よりも盛んだったので、外の世界と交流していたが、その後、ソラモナと呼ばれる王が現れて、外の世界とは交流せずに、自足して生活するという政策をとるようになったのだという。かつてはアトランティスと呼ばれていたアメリカ大陸の人々がその侵略的な性向のために大洪水という神罰を受けたことも、この判断と関連しているというのである。

 ソラモナ王がおこなった改革についての館長の話は続く。
 この王がおこなった改革の中で特筆すべきは「サロモンの家(Salomon's House)と呼ばれるOrderもしくはSocietyの創設であるという。岩波文庫の川西進さんの翻訳ではOrderは「教団」、Societyは「学会」となっていて、それで間違いではないと思うのだが、ここでOrderというのは「修道会」(ヘンリーⅧ世によってイングランドの修道会は廃止されたが、その記憶は残っていた)という意味、「結社」あるいは「爵勳士団」(騎士団)という意味があり、この両方の意味が含まれているように思う。つまり、特定の(崇高な)使命をもった選ばれた人々の団体ということである。Societyは「学会」と考えていいと思われる。
 この「ソロモンの家」は古代のイスラエルの王であったソロモンにちなんで名づけられたと考えられ、島の人々は、ソロモン王の書いた『博物誌』をもっているという。「サロモンの家」は別名を、「六日創造学院」(the College of the Six Days Works)といい、『旧約』の『創世記』で神が6日で創造されたといわれるもののすべてを研究するための機関である。

 さて、ソラモナ王は国民が海外に渡航することを禁止する法令を出した後、12年ごとに2艘の船それぞれに「サロモンの家」のFellowsないしはBrethrenを3人ずつ乗せて海外に派遣し、派遣先の「国情、民情、また特に全世界の学問、芸術、工業、発明に関する知識を集めあらゆる種類の書籍、道具、見本を持ち帰らせる」(35ページ)ことによって自国の文化を向上させようとした。川西さんは、Fellowを「会員」、Brotherを「兄弟」と訳しているが、Brotherは「会友」の方がいいだろう。『齋藤英和中辞典』ではFellowに「甲種会員」という訳語も与えているが、その手を使えば、Brotherは「乙種会員」というところであろうか。そしてこの3人は、次の船が来るまで、つまり12年間、派遣された土地にとどまって、その土地の文化を研究するのである。このような手段を講じているので、島の人々は外の世界についてよく知っているという。

 そして館長は、語り手を含む一同が、あとどのくらいこの島にとどまりたいか、よく相談するように言って出て行ったが、その際に、この島に残りたいと申し出るものが少なからずいて、一同はその連中を思いとどまらせて、今後の方針を議論するのに一苦労したのであった。〔語り手が、この島について外の世界の人々に知らせるために手記を書いているということは、彼がその後、島から出てきたということを示すものである。〕

 一同は危険を脱し、安心して島の生活を送ることができるようになった。彼らは「いまや自由人として、許される限り外に出、街の中や隣接する地域の見るべきものを見物し、多くの立派な市民たちとも知り合いにあって楽しい日々を過ごした。彼らは大へん人情が厚く、進んで心を開き、異邦人を迎え入れてくれたので、故郷の懐かしいものをみな忘れてしまうほどだった。」(37ページ)
 こうして彼らは、さまざまな見るべきものを見たのだが、そのなかでも特に語るべき価値があるものの一つが、「家族の宴」(a Feast of the Family)と呼ばれるものである。
 「誰でも自分の血を引いた子や孫で3歳以上のものが30人以上になるとこの宴を行うことができ、国が経費を負担する。」(37ページ、「国が経費を負担する」と訳されている部分の原文はat the cost of the stateで国家が費用を支出していることがはっきり示されている)。
 ターサン(Tirsan、たぶん、ベーコンがアラビア語風に適当に作り出した語であろうと、スーザン・ブルースは推測している)と呼ばれる家長がこの催しの2日前に自分で選んだ3人の友人、それからこの宴の催される都市あるいは地区の長(the governor)にも出席してもらい、男女を問わず家族全員を招集する。2日間にわたって、一同は家族の様々な問題について話し合う。市長が陪席しているのは、家長の裁定に不服を唱えるものが出た場合に、それを鎮めるためであるが、彼の意見が必要とされるような場合はほとんどないという。ターサンは彼の息子たちのうちの1人を自分と同居させ、その子どもは「葡萄の子」と呼ばれることになる(その理由は、あとで述べる)という。

 この催しがどのようなものかについては次回に説明する。モアの「ユートピア」においても大家族の結合は強調されていたが、ベーコンの場合はそれに家長の権威の強調が加わる。これに対し、カンパネッラの場合は、『太陽の都』の住民全体が1家族に属するとみなされていて、事実上、我々が考えるような家族は解体されている。このことは、これらの作品における婚姻の扱い方を見るとさらにはっきりするように思われるが、それはその時に。また、近世のユートピア文献がルネサンスにおけるプラトン復興の影響の中で生み出され、彼の哲人政治や、理想社会についての議論を継承するものであるとともに、プルタルコス(プルターク)が記した古代スパルタにおけるリュクルゴスの改革(実際にそのような改革が行われたかどうかは疑わしい)の影響を受けていることも、否定できないと思うが、そのこともその個所に即して書いていくつもりである。

『太平記』(294)

12月24日(火)晴れのち曇り

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年、『太平記』は翌年のこととして話を進めている)正月、室町幕府から派遣された高師直・師泰兄弟は、四条畷の合戦で楠正行・正時兄弟の必死の戦いに苦戦したもののこれを破り、師直は余勢をかって吉野に押し寄せ、南朝の皇居や金峯山寺を焼き払った。後村上帝以下の南朝の人々は、吉野からさらに山奥の賀名生に退去したが、暮らしにも事欠く有様であった。
 京では、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟が奢りをきわめていたが、それを妬む上杉重能と畠山直宗は、高一族の排除を企てた。それは、中国戦国時代の趙王の臣で、卞和の玉を秦王から取り返した藺相如が、廉頗将軍との争いを避け、刎頸の交わりを結んだのとは著しいちがいだった。
 その頃、夢窓疎石の兄弟弟子で、妙吉侍者という僧侶がいたが、夢窓が足利直義の帰依を得ていることを羨んで、陀祇尼天の法を習って夢窓に働きかけた。その結果、夢窓は直義に妙吉を重んじるようにと勧めたのであった。

 直義が妙吉に会ってみると、立派な僧侶に思え、帰依する心が湧いてきて、妙吉を篤く仰ぎ慕ったのである〔あるいは、それも陀祇尼天の法のためであったかもしれない〕。
 こうして直義の帰依を得た妙吉は一条堀河村雲橋というところに寺を建てた。この土地は、現在の京都市上京区村雲町で、有名な一条戻橋の少し上流の辺りであるが、京域の境で様々な怪異談が伝わる場所である。直義は妙吉がたてたこの寺に足しげく通い、それを見た僧侶たちは、禅宗の僧侶たちはもとより、比叡山や三井寺の僧侶たちであっても、妙吉のもとに出かけて、そのつてで直義に取り入ろうとしたのであった。

 このように多くの人々の帰依・尊崇を得た妙吉であったが、師直・師泰兄弟はこの僧の才学のほどはそれほどたいしたものではないと見くびって、敬意を払う様子を見せなかった。このため、妙吉は兄弟に対してよい気持ちを持たず、その会話の中でしばしば兄弟のことを悪く言った。これを聞きつけた上杉重能、畠山直宗は、この僧の力を借りて、師直・師泰兄弟を倒すことが出来そうだと思い、盛んに妙吉に取り入って、深く交わるようになったのである。そして、事あるたびに高兄弟のことを悪く言いつけた。

 妙吉侍者の方ももとよりこの兄弟の振舞を憎らしく思っていたので、彼らの所業について国の政治を乱すものだと直義に讒言することが多くなった。そのような讒言の中でも、特に言葉を選び、いかにもその通りだと思うようなものは、秦の始皇帝が天下を統一した後に、佞臣張高が暗躍して国を滅ぼした故事を語ったことである。
 秦の始皇帝は天下を統一したが、その政治について儒者たちが昔の聖人の道とは違うと異論を述べたところ、怒って彼らを生き埋めにしただけでなく、その書物をすべて焼き捨ててしまった。そして、彼の政治に対する天の警告があっても、まったく心を改めようとはしなかった。
 そして、秦の都には豪奢な宮殿を建てて栄華をつくしたのであるが、自分には寿命があって、その快楽がいつまでも続くものではないことを嘆いていた。すると、徐福、文成という2人の道士がやってきて蓬莱山まで出かけて不老不死の仙薬を求めてくるといったので、彼らに仙薬を求めに行かせた。しかし、蓬莱山だの仙薬だのというのは作り話なので、自分たちのウソが露見するのを恐れた道士たちは、竜神たちがたたりをなすために蓬莱山には近づけない、皇帝みずから竜神を退治してくださいと申し出た。そこで始皇帝は大河を舟で渡る時には弓矢で武装した兵士たちを多く乗せて、竜神が現れてもすぐに射殺できるようにした。

 始皇帝が山東省にある之罘山(しふざん)の近くで大河を渡ろうとしたとき、同行した兵士たちが載っている船の船端をたたき、太鼓を打って、大きな音を立てたので、竜神が驚いてサメのような大魚に姿を変じて水上に出現したが、兵士たちの射かけた矢によって命を奪われてしまった。
 始皇帝は、その夜、自分が竜神と戦っている夢を見たが、翌朝から重病になり、全身に苦痛を覚え、7日間苦しんだ揚げ句、ついに河北省の沙丘の平台宮で没したのであった。〔竜神の祟りで死んだと理解できるが、そもそも皇帝は龍になぞらえられる存在であり、自分で自分を滅ぼしたという解釈もできるのではないか。〕

 さて、始皇帝には扶蘇という長男と、胡亥という次男の2人の王子がいた。兄は正義感に富み、慈愛の心が熱く、しばしば父親を諫めたので、父親のおぼえは悪く、弟は皇帝が寵愛する妃の子であった上に、「驕りを好み、賢をに悪(にく)み、悪を究め、武を嗜む」(第4分冊、271ページ)という父親によく似た気性であったので、気に入られていて、そのため、張高という大臣をつけて、もっぱら政治を任せられていた。

 ところが、始皇帝はその死に際して皇帝の位を扶蘇に譲ると遺言した。そのため、張高はもし扶蘇が帝位につくと、賢人才人たちが登用されて、自分はその権力を失うことになることを恐れ、遺言を書き換えて、胡亥が後継者に指名されたといって、扶蘇を死に追いやり、自分の思うままに政治を行おうとした。
 
 すると、張高の専横に怒って江蘇省沛県から劉邦(漢の高祖)、楚から項羽というように、各地から反乱軍が挙兵して天下が再び乱れた。秦の方も対抗しようとしたが、なかなか勝負は決せず、天下は乱れに乱れた。
 張高はいよいよ自分が天下をとろうと思ったので、夏毛の鹿(鹿の毛色は夏になると白い斑点がはっきりと浮き出てくる)に鞍をかけて、二世皇帝(胡亥)にこの馬に乗ってみてくださいという。胡亥が、これは馬ではなくて、鹿であるというと、張高はそれでは大臣たちの意見を聞いてみようといって、大臣やその他の高官たちを呼び寄せる。呼び出された連中は、そこにいたのが馬ではなくて鹿だということはわかっていたが、張高の威勢を恐れて、皆、口々にそれは馬だといった。こうして自分の威勢に自信を持った張高は、ついに兵隊たちを派遣して二世皇帝を殺した。
  ところが、それを知った秦の将軍が楚の項羽に降伏してしまったので、形勢は一気に秦の不利に傾き、劉邦と項羽が秦の都である咸陽の宮殿に入り、張高は始皇帝の孫である子嬰に殺され、子嬰は項羽に殺されて、秦は滅びてしまった。

 兄弟を誇った秦が二代で滅びてしまったのは、張高という佞臣の驕りの心がもとである。その家の執事・管領の善悪で家の運命が決まるというのは今も昔も変わりがない。足利家の執事である師直・師泰兄弟のおごり高ぶった所業を見ていると、足利家の将来が心配であると、妙吉侍者は、昔の中国の事例を引き合いに出して、師直・師泰兄弟を除くべきことを直義に進言したのであった。

 直義が妙吉侍者の言葉をどのように受け取り、どのように行動したか、これまでずっと一緒に行動してきた尊氏・直義兄弟の間に溝ができてしまうのか、対立が生まれるのかは、また次回に。妙吉という僧が直義の帰依を受けていたことは、同時代の貴族の日記である『園大暦』にも記されていて、史実として確認できると森茂暁は書いている(森『太平記の群像』角川文庫版、169ページ参照)。妙吉侍者が語った秦の始皇帝の死から、秦の滅亡に至る経緯は、自分の知っている話と違うと思う方が多いと思うが、『太平記』の作者はそのように記憶・再構成したということで、理解していただきたいと思う。説話は生きた物語である限り、常に書き換えられていくのである。

日記抄(12月17日~23日)

12月23日(月)朝のうちは雨が残っていたが、曇り、午後になって晴れ間が広がってきた。

 12月17日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正など:

 10代の若さで環境活動家として世界を動かしているスウェーデンのグレタ・トゥンベリさんは、ひょっとして江戸時代の日本にやって来て日本の植物を採集し、旅行記を書いたスウェーデンの博物学者カール・ぺーテル・トゥンベリ(1743‐1828)の子孫ではないかと思って調べてみたのだが、いまのところ、そうだとも、そうでないとも言えない。ただ、調べている中で、彼女の父方の祖父であるオロフ・トゥンベリは俳優・声優・映画監督として知られ、ベルイマンの『冬の光』(1963)などに出演していることが分かった。

12月15日
 『日経』朝刊の「美の粋」は、「松本竣介 戦時下の肖像」として上下2回に分けて、松本竣介(1912‐48)の生涯と画業をたどる記事である。東京で生まれた彼は、幼少時を岩手県の花巻と盛岡で過ごし、盛岡中学(現在の盛岡第一高等学校)に入学するが、病気のため聴覚を失い、やがて中学を退学。上京後、画家として頭角を現した彼は、1936年に松本禎子と結婚して松本姓となり、2人でエッセーを軸とした雑誌『雑記帳』を発刊、その創刊号には宮沢賢治の遺稿、高見順、武田麟太郎のエッセー、林芙美子の詩、さらに猪熊弦一郎をはじめとする画家たちのデッサンやエッセーが掲載されたという。紹介されている彼の画業も注目すべきものだと思うのだが、それ以上に編集者としての彼の手腕にも感心するところがある。

 原武史『「松本清張」で読む昭和史』(NHK新書)の中で、原さんは清張の歴史小説に対する大岡昇平の批判を取り上げて、エリート(大岡)による非エリート(清張)への上から目線を指摘している。批判の具体的な内容について詳しく書かれていないので、はっきりしたことは言えないが、大岡が井上靖の歴史小説についても批判を行っていることにも注目すべきであろう。

12月17日
 宮崎市貞『中国文明論集』(岩波文庫)を読み終える。1月29日に購入した本なので、10か月半かけて読み終えたことになる(途中で中断期間があったのである)。いロ色と注目すべき論考があったが、一番面白かったのが毘沙門天信仰がもともとペルシアのミトラ神の信仰に端を発するもので、それが中国を経て日本に渡来したものだというものである。毘沙門天は多聞天とも言い、楠正成・正行父子の幼名が多聞丸だったのは、この一族と毘沙門天信仰の結びつきを示すものではないかと思う。そういえば、宮崎も言及している毘沙門天信仰の日本における中心地である信貴山に出かけたことがある。多聞という名前の中学・高校の同期生がいるが、これはやはり楠一族がらみでつけられた名前だろう(多聞第一の阿難尊者に由来するものではあるまい)。

12月18日
 『朝日』朝刊の「時時刻刻」のコーナーでは新しい大学入学共通試験における記述式の問題の導入が見送られた経緯が改札された。ここで、導入反対派であった紅野健介日大教授と、推進を叫んできた安西雄一郎・元慶応義塾長(元中教審会長)の両者の発言が載っているのが、いろいろと考えさせられた。紅野さんは「センター試験を変えることで高校の教育内容を変えるという発想が失敗の原因だ」と論じているが、確かに一面の真理をついた発言である。一方、安西さんは「論理明確に考え、相手の立場を考慮して論旨明確に表現する力が、世界の中で生きる日本の若い世代には決定的に必要だ」と論じているが、この発言自体がそれほど論理的なものとは言えないのが一番の問題である。

12月19日
 『朝日』朝刊の「オピニオン・声・フォーラム」欄にやく みつるさんが書いている1コマ漫画がおかしかった。萩生田文部科学大臣の似顔絵の横に、「大学入学共通テストで導入予定だった記述式問題の実施が、見送りとなった原因はなにか/イ. ずさん ロ. どくぜん ハ. せっそく ニ. ばあたりてき 」と問題文が書かれ、「選択式でも十分思考力は問える?」とコメントされている。

 同じ『朝日』朝刊の「神奈川」欄に今年の横浜市の10大ニュースが選ばれていた。1位はラグビーのワールド・カップ開催で、2位が相鉄線とJR戦の相互乗り入れの開始である。5位の京急線の神奈川新町駅付近の自己では、その直後にインタビューを受けたことについてはすでに書いた。6位が、IR誘致で、これは断固粉砕しよう。プロ野球横浜DeNAのCS開催が8位に選ばれているのに、横浜Fマリノスのリーグ優勝も、横浜FCのJ1昇格も選から漏れていたのは残念だった。

12月20日
 『朝日』朝刊に鷲田清一さんが連載している「折々のことば」に、湯川豊さんの『大岡昇平の時代』の中の「「信じる」ということは、仮定形の上には成り立たないのではないか。」という言葉が取り上げられていたが、この言葉も、また鷲田さんが取り上げた理由も、ここに記されている解説のコメントも、全部意味が読み取れなかった。こういうことは珍しい。

 本郷和人『権力の日本史』(文春新書)を読む。本郷さんの本を読むのは今年に入ってから3冊目で、ちょっと本の書きすぎではないかなぁとも思うが、この本の中に日本史を考えていくうえで重要な論点が含まれていることも無視しがたい。

12月21日
 田中啓文『大塩平八郎の逆襲 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)を読み終える。ペリーのような歴史上実在する人物、森の石松のようなたぶん実在したのだろうが、実像が分からなくなっている人物、さらには実在の人物の架空の履歴などが、架空の人物たちの活躍の中に紛れ込んでいる奇想天外な展開のシリーズ最終作。もう少し長く、書き続けてほしかったという気持ちがある。

12月22日
 『朝日』の短歌時評で歌人の松村正直さんが、短歌を「初恋」として文学の道に入った石牟礼道子が、水俣病と向き合い救援運動に取り組む中で短歌から離れていったことについて触れ、同じような文学歴を持つ作家として松下竜一を挙げながら、「短歌が個人的な英単を超えて、社会的な問題と真正面から向き合うことは可能だろうか」という問いを発している。石牟礼や松下の前に、「歌の別れ」を書いた中野重治がいることもお忘れなく。

 同じく『朝日』の「今日の番組」の欄への投書で、NHKラジオ『朗読の時間』の「太宰治作品集」を朗読する石田ひかりさんについて「いきいきと耳心地の良い声で」とほめていたが、私は石田さんの声の甘さが強すぎると思って、この番組は聞いていない。人によって受け取り方が違うものだなと思った。

 『日経』の朝刊の「美の粋」のコーナーに掲載された「松本竣介戦時下の肖像(下)」で紹介されている作品群は、どれも注目すべきものであったが、1944年ごろに製作されたという「Y市の橋」という作品が興味深く、なぜか懐かしい気持ちになった。宮川匡司さんの解説によると、横浜駅の近くの新田間川にかかっていた橋を描いたものだということで、私の住まいの比較的近所であるから、橋はなくなり(おそらく架け替えられ)、近くの風景も全く変わっているにもかかわらず、どこか既視感があるということのようだ。(生まれる前に描かれた絵に、既視感というのもおかしいのであるが…)

12月23日
 『朝日』の朝刊にOECDの学習到達度調査(PISA)との関連で、日本人は教科書や辞書のような「本当のこと」が書いてある文献を読みこなす力はあるが、嘘も含まれているネット情報を読みこなしていく「デジタル読解力」は今一つであるという記事が出「ていた。12月22日の同紙の「社説余滴」に藤生京子記者が「いま加藤周一を読みなおす」という記事を書いていたので、思いだしたが、
加藤周一はたしか『山中人閒語』の中で、「だまされない』教育が必要であると書いていた。しかし、世の中、政治権力が嘘をつき、民衆が騙されてばかりいるという単純なものではないような気もするのである。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(24)

12月22日(日)曇り、午後になって雨が降り出す。

 19世紀が始まったばかりのイングランド、ロンドンの北にあるハートフォードシャーのロングボーンという村の地主の娘エリザベス・ベネットは20歳、5人姉妹の次女で明るく、(姉のジェインに次いで)美しく、(5人の中で一番)聡明な女性である。近くのメリトンの町で開かれた舞踏会で、彼女と踊るように勧められたダーシーという青年が「この僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね」(第1巻第3章、大島訳、31ページ)とかなり失礼なことを言っているのを聞いてしまう。「高慢」な男性と「偏見」を抱き続ける女性の出会いである。しかし、そう言ってしまったものの、ダーシーはエリザベスの聡明な表情や茶目っ気から生まれる魅力に気づいて、彼女に関心を抱き始めた。
 ベネット家は男系の限嗣相続制をとっていたため、一家の財産を相続することになっているコリンズという青年が、ケント州の大地主であるレディー・キャサリン・ド・バーグの庇護で教区牧師の職を得たのをきっかけに、ベネット家を訪問し、エリザベスに求婚するが、彼が尊大さと卑小さの入混じった退屈な人物であると見抜いたエリザベスは受けいれない。かわりに、彼女の親友であった隣家のルーカス家の長女シャーロットがコリンズと結婚することになる。
 結婚してケントに旅立つときに、シャーロットはエリザベスに自分をたずねてきてほしいといい、その誘いに応じて彼女は、シャーロットの父親であるサー・ウィリアム・ルーカスと、妹のマライアとともに、ケント州のハンズフォードに住むコリンズ夫妻を訪問する。彼らの庇護者であるレディー・キャサリン・ド・バーグは実はダーシーの叔母である。レディー・キャサリンの邸にルーカス父娘とともに招待を受けたエリザベスは、彼女からいろいろ質問を受け、臆することなく自分の考えを語る。〔以上、第2巻第6章=第29章まで〕

 サー・ウィリアムはハンズフォードに1週間ほど滞在して、長女の結婚生活がうまくいっていることを見届けると、ロングボーンに帰っていった。エリザベスとマライアはハンズフォードに残り、コリンズ夫妻の普段の生活ぶりがどのようなものかをより詳しく知ることができた。コリンズは毎日、庭仕事をしたり、書斎で本を読んだり書きものをしたりして過ごしていた。シャーロットは家の裏手にある居間で時間を過ごしていた。夫に余計な干渉をされないためである。表通りに面した部屋にいるコリンズは、通りを誰かが通ると、必ず報せに来た。レディー・キャサリンの娘のミス・ド・バーグ(アン)が通る時は、馬車をとめてシャーロットと話をしていくのが常であったが、いくら勧めても、彼女は馬車を降りて家の中に入ることはしなかった。

 コリンズ夫妻は、ほとんど毎日、レディー・キャサリンのご機嫌伺に参上していたが、それは彼女が他にも牧師禄を与える推薦権をもっているからであろうとエリザベスは推測した。一方、レディー・キャサリンはコリンズ家を時々訪れて、その家事について様々な指示を与えた。それだけでなく、彼女はハンズフォードの治安判事に任命されていたわけではなかったが、実際にはこの村の治安にかかわる事柄を取り仕切っていた。

 イースターが近づき、レディー・キャサリンのロウジングズ邸に身内の来客があることが分かった。さらに間もなくそれがダーシーであることがエリザベスにも知れた。彼女は、ダーシーには相変わらずいい感情をもっていなかったが、彼とミス・ド・バーグの様子を見守ることで、ダーシーに思いを寄せているミス・ビングリー(キャロライン)の望みがかないそうもないことを確認したいという気持ちでその到着を待ち受けることにした。ミス・ビングリーは、自分の兄であるビングリーとエリザベスの姉のジェインの仲を裂き、自分の兄をダーシーの妹のミス・ダーシー(ジョージアナ)と結婚させようと思っている様子なので、エリザベスは彼女の願望がかなうことを望まなかったのである。〔しかし、ダーシーがエリザベスに関心をもっているとミス・ビングリーに打ち明けたために、彼女がエリザベスに敵意を抱いているとまでは知らなかった。〕
 レディー・キャサリンがダーシーを自分の娘婿に決めていることは明らかで、甥の訪問を楽しみにしているだけでなく、その人柄をほめちぎり、さらにマライアとエリザベスがすでに何度も彼と会っていることを知ると、「今にも怒り出しそうな顔になった」(大島訳、294ページ)。

 コリンズはダーシーの到着を確認するために、ロウジングズ邸の番小屋の辺りの様子を午前中からうかがっていたが、馬車が入っていくのを見て、すぐにこのことを知らせに来た。翌朝、彼は敬意を表すべくロウジングズ邸に出かけたが、ダーシーは1人ではなく、彼の従兄のフィッツウィリアム大佐を同行していた。この人物はダーシーの伯父である(母親の兄)伯爵の次男であった。牧師館の一同が驚いたことに、2人の紳士は帰宅するコリンズと一緒に、牧師館までやってきたのである。その姿を見たシャーロットは、なんて名誉なことかしらといい、続いて、「こんな鄭重な挨拶があるなんて、エライザ、みんなあなたのおかげよ。ミスター・ダーシーが私のためにこんなに早く挨拶に見えるはずはないもの。」(大島訳、295ページ)といった。

 エリザベスは、シャーロットからこんなお世辞を言われる筋合いはないと言おうとしたが、その暇もなく3人の紳士が部屋に入ってきた。最初にやってきたのはフィッツウィリアム大佐で、年齢は30歳くらい、「美男子ではないが、風采も物腰も見るからに紳士然としていた」(大島訳、296ページ)。ダーシーの方はハートフォードシャーであった時と変わりない取り澄ました様子で、コリンズ夫人とエリザベスに挨拶した。エリザベスのほうも軽く膝を曲げてあいさつしただけで、一言も口を利かなかった。

 フィッツウィリアム大佐はいかにも育ちのよい人らしく(well-bred)、周囲の人々とすぐに話をはじめ、その話ぶりも快活で愛想のよいものであった。〔well-bredは『齋藤英和中辞典』によると「生い立ちのよい、礼を知る」ということだそうである。貴族の家庭に生まれただけの礼儀正しさを備えたというような意味のようである。〕 ダーシーの方は黙っていたが、それでは礼儀に反すると思ったらしく、エリザベスに家族の様子を聞き、エリザベスは型通りの答えをした後、少し間をおいて、自分の姉がロンドンに滞在しているが、ロンドンで会うようなことはなかったかとたずねた。会っていないことはわかっていたが、探りを入れるために聞いてみたのである。ダーシーの方はあいにく会っていないと答えたが、その際に一瞬表情が変化したと、エリザベスは思った。それから間もなくして、2人の紳士は辞去していった。〔以上第2巻第7章=第30章〕

 次章から、舞台を変えて、エリザベスとダーシーとの愛憎の駆け引きが展開される。ハートフォードシャーの時とは、2人を取り囲む顔触れが変わっているので、違う展開があるかもしれない。第1巻第18章に描かれている(ビングリーが借りている)ネザーフィールドの邸で開かれた舞踏会で、エリザベスはダーシーの申込を受けて2人で踊っている。あまり踊りを申し込むことのないダーシーが申し込んだということで、気を回す人がいても不思議はない。また、たぶん、このときに2人が踊る様子が周囲の人々の注目を浴びるほど素晴らしいものであったことも推測してよい(サー・ウィリアム・ルーカスがお世辞を言ったのは、それなりの真実の裏付けがあったと考えるべきである)。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(8)

12月21日(土)曇り

 紀元前1世紀のローマは、その支配する領域が拡大する一方で社会の内部での対立が激化し、その不安を取り除く強力な指導者が望まれる時代であった。そんな中で台頭したのが、閥族派のスッラ(138‐78 B.C.)と民衆派のマリウス(157?‐86 B.C.)であった。両者の抗争はスッラの勝利によって終わり、彼の独裁体制が続くが、その引退後は、再び社会を混乱が襲った。この混乱を終らせたのが、紀元前60年に成立した第一次三頭政治で、スッラの後継者であり、東方において多くの戦果を挙げたグナエウス・ポンペイウス・マグヌス(106‐48 B.C.)と、スパルタクスの反乱(73‐71 B.C.)を鎮圧した富豪のマルクス・ルキニウス・クラッスス(115‐53 B.C.)、ローマ屈指の名門の出身ではあったが、マリウスの義理の甥にあたることから民衆派に与したガイウス・ユリウス・カエサル(100‐44 B.C.)の共同支配がローマに安定をもたらす。しかし紀元前53年に、クラッススがパルティアとの戦いに敗死したことで、勢力の均衡が崩れる。野心家のカエサルはガリア遠征によってその実力と声望を高め、ローマにあったポンペイウスを脅かす。このため、ポンペイウスは元老院と結んで指揮官が軍隊を率いてイタリアとガリアの国境であるルビコン川を渡ることを禁止する法律を定める。カエサルはルビコンの手前で躊躇したものの、意を決してこの川を渡り、この軍隊にローマを追われた政治家のクリオが合流し、カエサルに内乱をけしかける。部下たちの指示を固めたカエサルは、ポンペイウスに対する戦い(=内乱)に踏み切る。
 カエサル進軍のうわさが伝わったローマは恐怖と混乱に陥り、民衆はもとより、当のポンペイウスをはじめ、高官、元老院議員の大半が早くもローマを脱出する。それに様々な予兆や怪異、変事が追い打ちをかける。
 これから起こるであろう内乱を予期して、母親たち、兵隊に駆り出される男たちが嘆きの声をあげる。そして老人たちは、マリウスとスッラによって争われ、報復と粛清とが相次いで荒れ狂った過去が再現されることを予言する。

 このように人々が混乱と恐怖の中にあり、来たるべき内乱の惨禍に心を痛めている中で、落ち着きを失わない人々もいた。
 だが、剛勇のブルートゥスの心は驚愕に打たれて怯えるようなことはなかった。
恐るべき動乱のこれほどの恐怖の中にありながら、彼は
慨嘆する群衆の一人では決してなかったのだ。
(第2巻 235‐23行、80‐81ページ)
 マルクス・ユニウス・ブルートゥスは伝説的なローマ王制の最後の王であったタルクィニウスを追放し、共和政を打ち立てたローマ共和政初代の執政官ブルートゥスの末裔であり、ストア哲学と共和政の信奉者であった(つまり、古き、よきローマを体現する人物であった)。

 とある夜更け、ブルートゥスは義理の叔父であり、義父でもある(小)カトーを訪れた。小カトーはこれから起きる内乱によって生じる惨禍を考えて心を痛め、「己のことでは心安らかながら、万人を思いやり、おそれを抱」(第2巻、241行、81ページ)いていた。〔ストア哲学の信奉者らしい態度である。ルーカーヌスはセネカの甥であるから、ストア的な価値観をよしとしていたことは容易に推測できる。もっとも、セネカの主張は、かなり折衷的な性格をもっていると私は思う。〕
 ブルートゥスは小カトーに次のように語りかけ、これからの事態の推移に対しどのように処したらよいかをたずねる。
「あらゆる地から放逐され、追放されてすでに久しい徳性の、
今や唯一の証(あかし)、旋風すさぶいかなる運命の嵐をもってしても
あなたからは奪い去れぬ特性の証のカトーよ、どうか、ぐらつく
私の心を正していただきたい。確固としたあなたの堅い心で、惑う
私を強固にしていただきたい。
(第2巻 234‐237行、81ページ)

 人々はそれぞれ自分の利害関係に基づいてポンペイウスと、カエサルのどちらに与して戦うかを決めようとしている。その中で、徳性に基づいた判断ができるのは小カトーしかいないので、その判断に従うつもりだと言いながら、彼は内乱という大きな罪に加担するつもりはなく、この戦いを傍観してやり過ごし、決着がついた後で勝者の敵になるつもりだという。
このブルートゥスは、今はポンペイウスの敵とも、カエサルの敵ともならず、
戦の決着がついたあかつきに、敵となって見せましょう、勝利者の。」
(第2巻 288‐289行、84ページ)

 これに対して、小カトーは次のように述べて、ブルートゥスをたしなめる。
「・・・内乱が道に悖(もと)る罪の最たるものであることは認める。
だが、徳というものは、宿命が導くところ、そこへと心穏やかに
従っていくものなのだ。
(第2巻 292‐294行、84ページ) そして、ローマとその属領、ローマ市民と異邦人たちが巻き込まれようとしている戦乱を傍観しようとするのは、まちがっているという。自分は飽くまでローマ(共和政)とともに歩むというのである。
・・・今、
このとき、(共和)国家の旗幟と将ポンペイウスに従わずして何とする。
(第2巻 328‐329行、87ページ) ポンペイウスも勝利ののちに、思わぬ野心を抱くかもしれないが、それでも、自分は共和政のために戦うのだという。

 そうこうするうちに夜が明けて、小カトーの家の扉を激しくたたく音がし、夫であったホルテンシウスの火葬堆を後にした、小カトーのもとの妻マルキアが現れる。彼女は小カトーに嫁して3人の子どもを儲けたが、ホルテンシウスが彼女の多産を羨んで小カトーに彼女との結婚を願い出たため、小カトーは彼女と離縁して、ホルテンシウスに嫁がせたのであった(随分、ひどい話だと思う)。彼女は小カトーとの復縁を願って、聞き入れられ、形ばかりの再婚の儀が執り行われる。

 一方、ローマから逃げ出したポンペイウスはどうしていたかというのは、また次回に。我々は歴史を、この内乱の勝者であるカエサルの側から見ることになれていて、この『内乱――パルサリア――』を読んで、作者が敗者であるポンペイウスや小カトーに同情的な筆の運びをしていることに意外な気持ちを抱くかもしれない。翻訳者である大西英文さんが記しているように、この叙事詩が内乱とカエサルについて、「ともすれば見落とされがちな、一つの視点を提供してくれる」(人名・神名等一覧、5ページ)ことを実感するのである。〔そういえば、本棚の内容を点検していたら、カエサルの『内乱』の翻訳が見つかったので、次回以降、これも利用していきたいと思う。〕 なお、ラテン語の発音としては、カエサルよりも、カイサルの方が正しいようであるが、カエサルの方が一般に通用しているので、改めない。
 今回取り上げた部分での小カトーの発言を読んでいると、ストア哲学というものがどういうものかというのがよくわかった。どんな過酷な運命であってもそれを受け入れて、最善を尽くす――というのは、たしかに一つの生き方ではあるが、私は「隠れて生きよ」というエピクロスの哲学のほうにより大きな共感を抱いている。

 ローマの歴史を見ると、伯父(叔父)と甥の関係で、後者が前者の養子・後継者になるという例が多いことに気づく。マリウスとカエサル、カエサルとオクタウィアヌス(アウグストゥス)、セネカとこの叙事詩の作者ルーカーヌス(単に叔父・甥の関係だっただけで、後継者になったわけではない)、大プリニウスと小プリニウス・・・。ポーランドの作家ヘンリク・シエンキエヴィッチの小説『クォ・ヴァディス』のペトロニウス(実在の人物である)と彼の甥のウィニキウス(架空の人物である)の関係はこうした歴史的な事実を踏まえて創作されたものであろう。〔『クォ・ヴァディス』は教会ラテン語の読み方で、古典ラテン語では、『クォ・ワディス』と読むべきであろうし、岩波文庫の翻訳も「ワディス」になっているが、一般には「ヴァディス」の方が多く通用しているようなので、そのように表記した。

細川重男『執権』(5)

12月20日(金)晴れのち曇り

 鎌倉幕府の歴史は東国の武士たちが自分たちによる支配機構を築こうと悪戦苦闘した歴史であり、著者によれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。その中で勝ち残った北条氏がなぜ将軍位につかなかったのかという問題を中心として、北条氏の権力とのかかわり方、また権力についての考え方を、北条義時と時宗という2人の執権の処世とその後の時代への影響を考察するというのがこの書物の課題である。
 第1章「北条氏という家」では、北条氏がもともと伊豆の小規模な一土豪に過ぎなかったが、時政の娘政子が頼朝の正室となり、頼朝が源氏の棟梁として将軍になることで大きくその地位を上昇させたことが述べられている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」のこれまで扱った箇所では、田舎土豪の庶子であった江間(北条)義時が「何もしない」ことによって頼朝死後の幕府内の権力闘争を生き延び、父親である時政の失脚後、政所別当に就任する。彼の幕府中枢に権力を集中させる政策は、多くの御家人の反発を呼び、侍所の別当であった和田義盛との武力衝突(和田合戦)を起こすが、これに勝利して侍所の長官を兼ねることにより、「執権」としての地位を固めることになった。

第2章 江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの
 覇権への道(続き)
  実朝と義時
 和田合戦以後、将軍実朝のもとで6年弱の平和な期間が過ぎる。細川さんは、これ以前に起きた事件と、この間に起きた事件との2つの事件を取り上げて、実朝と義時の関係を描き出す。これら2つの事件は、実朝の激怒の対象となった人物を、義時がとりなしたという共通性をもち、実朝が結構短気でこわい人物であり、幕府の将軍としての自覚を持っていたこと、実朝と義時との間にはしっかりした信頼関係が出来ていたこと、また義時が結構親切なところがあったことなどを物語っているという。
 「実朝が長寿を保ち、子孫を残していれば、鎌倉幕府の歴史、そして北条氏の運命は、かなり違ったものになったはずである。」(82ページ)

 承久の乱
  代打の将軍
 和田合戦から6年後の承久元年(1219)正月27日、実朝が兄・頼家の遺児である公暁に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されるという事件が起きた。源氏将軍家は三代で滅亡した。
 この事件の黒幕が義時であったという説もあるが、細川さんは北条氏と対立していた比企氏に取り込まれていた頼家と違い、実朝と北条氏の関係は濃密であり、義時の側に彼を暗殺する理由はないと考えている。
 将軍がいなければ幕府は成立しないので、やむを得ず朝廷の最高権力者であった後鳥羽院に皇子の関東下向を願い出る。しかし頼朝没後20年間余りの混乱とその帰結としての将軍家断絶を鎌倉幕府の弱体化と判断した後鳥羽院は皇子下向を拒否、さらに自分の寵愛する舞女亀菊の所領である摂津国(大阪府)長江荘・倉橋荘の地頭罷免を命じる院宣(上皇の命令書)と宣旨(天皇の命令を伝達する文書の一種)を発給した。

 ここはあまりわかりやすくない箇所なので、細川さんの文章をそのまま引用しながら、説明を加えていきたい。
 「古代・中世の日本には『土地そのものを与える・奪う』という発想が、そもそもなかった。であるから、『所領(土地)を与える』ということは、実際には『その土地における権益を与える』ということであった。地頭とは、わかりやすく言えば、私有地(荘園など)の管理人の役職の一つである。頼朝は自分の家臣である御家人に『所領を与える』時、その土地の地頭職に補任(任命)するという形をとったのである。」(83-84ページ) 〔「管理人の役職の一つである」というところに意味があって、地頭は荘園から上がる収入のごく一部だけを自分のものにしていたのであって、領主はもちろんのこと、それ以外の様々な管理人がその収入を奪い合っていたのである。頼朝のやったことは、荘園の管理に武士が割り込む権利を与えたということだといってもいいのかもしれない。〕

 後鳥羽院は頼朝から長江荘・倉橋荘の地頭に任命されていた御家人を首にしろということで、鎌倉幕府(義時)がどのように出るか、その出方をうかがった。義時は、頼朝公が恩賞として任命された地頭の職は大した罪もないのに解任することはできないといってこれを拒否し、義時の率いる1,000騎の兵が京都に入って、頼朝の姉の曽孫にあたる摂関家九条家の子三寅{みとら、後の藤原(九条)頼経}が将来の将軍として鎌倉に迎え入れられた。三寅の後見には政子が当たることになり、事実上の将軍の役割を果たすことになる。世にいう「尼将軍」である。
 ここまでの経過は、鎌倉のほうに不利である。三寅はしょせん「代打の将軍」であった。〔「世界の代打男」と呼ばれた高井保弘さんが亡くなった直後なので、そう「代打」を馬鹿にしてもいいのかなぁという気がしないでもない。〕 
 一方、今こそ討幕の好機と見た後鳥羽院は、北面の武士に加えて、新たな院の武力として西面の武士を創設するなど武力増強に努めて、実力で鎌倉幕府を打倒しようとした。

 御家人の守護者として
 こうして承久3年(1221)5月15日、たった4歳の仲恭天皇(後鳥羽院の皇孫)の命を奉じる形で北条義時追悼の宣旨が発給された。承久の乱の始まりである。
 後鳥羽院は倒幕といわず、義時追討だけを命じていた。この宣旨によって幕府に従う御家人たちが義時派と反義時派に分裂して内戦を起こし自壊することを狙ったのである。宣旨を発給するとともに、後鳥羽院は軍勢を2人いた京都守護のうち鎌倉に忠実な伊賀光季に差し向けた。もう1人の京都守護である源(大江、広元の子である)親広は京都方についていたのである。衆寡敵せず、光季は敗死した。

 宣旨発給・京方挙兵の報は、5月19日に鎌倉に達し、早速、政子・義時らによって対策会議が開かれた。このとき、政子が声涙下る熱烈な演説をしたというが、実際には政子の発言を安達景盛が伝えたというのが真相である。政子の意見は武蔵の軍勢が終結してから京都に攻め上ろうという侵攻策であった。
 ところがそのうちにまた、京都からの軍勢を迎撃するという意見が有力になりはじめた。そこで、21日にまたもや政子・義時らによる対策会議が開かれた。ここで幕府長老の大江広元がすぐに(義時の嫡子の)泰時だけでも出陣すべきであるという過激な積極論を述べた。自身の案までも否定された政子は面白くないので、もう1人の長老である三善康信を出席させた(康信は老病で祈祷状態だったのである)が、康信も泰時一人でも出陣すべきだという。長老2人の意見が示し合わせたわけでもないのに、一致したのを「冥助(神仏の助言)」であるとして義時は積極的に侵攻する方策に舵を切り、泰時に出陣を命じた。
 わずか20騎で出発した泰時の軍勢は、瞬く間に膨れ上がり19万騎となって各地で京方を撃破し、これを制圧した。6月15日には、京になだれ込み、後鳥羽院は今回の事件は防振が勝手にやったことであると、義時追討の宣旨をあっさりと撤回したが、時すでに遅く、仲恭天皇は廃位され、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇が配流された。
 義時は、上皇の自分の寵姫の所領を守ろうという恣意的な命令に対抗して、朝敵の汚名を着てでも御家人たちの利益を守ろうとしたために、その御家人たちからの強い支持を得ることができた。こうして御家人たちの義時に対する信頼はゆるぎないものとなったのである。〔義時の(少なくとも味方には)親切だという性格が、多くの御家人たちに共有されていたということであろう。〕

 承久の乱をめぐっては、坂井孝一さんと本郷和人さんの著書が最近出版されていて、それぞれ補い合うような内容であるので、併せ読むことをお勧めする。この『執権』という書物の趣旨からいうと、この乱の経緯よりも、義時をめぐる(現在ではほとんど忘れられてしまった)伝説の方が重要らしく、それはこの後、また次回に紹介することになる。

 昨夜は、私のパソコンがインターネットにつながらなくなったため、ブログを完成できず、また皆様のブログを訪問することもかないませんでした。幸い、修復いたしましたので、またよろしくお願いします。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(3)

12月19日(木)雨が降ったりやんだり

 前回(12月5日)からまた間が空いてしまったが、木村茂光『平将門の乱を読み解く』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)について検討を加えていく。
 武士の最初の反乱といわれる平将門の乱{承平5年(935)~天慶3年(940)}は、もともと坂東における平氏の内紛に端を発したものだったが、首謀者である将門はその後、武蔵国府への介入から常陸国府の襲撃、さらに下野国府・上野国府を襲撃してそれぞれの国の国司を追放するという反乱へと展開した。その上、将門は上野国府で「新皇」を宣言して坂東八か国の国司を任命し、新たな「王城」の建設を宣言するに至る。
 反乱は将門の従兄弟である平貞盛と下野の国の押領使・藤原秀郷の連合軍によって将門の軍勢が敗れたことで終わるが、同時代だけでなく、その後の時代、平安時代の終わりごろまでも貴族社会の中で記憶され続けたほどに衝撃的な事件であった。その重大性について、木村さんは将門の乱が単なる武士の反乱ではなく、①将門が「新皇」即位を宣言するなど皇統に関わる事件であったこと、②当時の朝廷が王土王民思想を持ち出してこの反乱を鎮圧事態を重視していたこと、これらの理由によって王権や国家権力のあり方と密接な関連する事件であったことを説き、さらに③即位にあたっての(宗教的)根拠として新興の神である八幡神(八幡大菩薩)と、怨霊神である菅原道真の霊魂を持ち出していることに見られるように、これまでの皇統と神祇との関係を改変しようとする事件でもあったことにその意義を見出している。
 このようなことから、この書物は平将門の乱の経過よりも、その時代的な意義を読み解くことを目的として取り組まれるものである。

 平将門は、桓武天皇の子孫である高望王の孫で、父良持(良将)は鎮守府将軍であった。彼の一族の多くが関東諸国の国司に任じられていることから、将門一族は関東・東国の治安維持のために派遣された「一種の辺境軍事貴族」であったと考えられる。将門は若いころは、摂関家の藤原忠平(菅原道真を失脚させた時平の弟)に仕えていたこともあったが、都での任官がかなわず、再び関東に戻り下総国猿島郡石井(いわい)を本拠にしていた。
 将門が、彼と対立する平氏一門の人々と最初に交戦したのは筑波山の西麓の地域であり、このあたりは当時の郡衙が置かれるなど開発の拠点であるとともに、奥州への交通の要路でもあった。

乱後の筑波山西麓の政治的位置
 水守と常陸平氏
 木村さんは将門の乱の終息後、筑波山西麓の「水漏(みもり)」(水守)を根拠地として、貞盛とその弟の繁盛の一族が勢力を拡張したことに注目している。野口実・高橋修の両氏の研究から、貞盛流が京都で人脈を築き、それが繁盛流の常陸での勢力拡大に活用される。一方、繁盛流が常陸から送り込む物資が貞盛流の京都での活躍屋栄達のために利用されるという一族のあいだでの分業・協力関係があったことが推測される。
 繁盛の子・維幹(これもと)はその後、多気に移り、大富豪であったことが『古本説話集』、『宇治拾遺物語』の説話で知られる。

 平維幹の軍事力
 『今昔物語集』には常陸守源頼信(将門の乱の際に武蔵介として、将門が反乱を起こそうとしていると都に訴えた経基の孫である――ということは、乱からかなり後の話ということになる)が、平忠常を攻撃しようとした際に、平維幹が、忠常は「勢有ル者」なので、相当な大軍をもって威圧しないと効果はないといったのを、頼信は聞かずに2,000騎ほどの軍勢を率いて忠常の本拠である下総国に出陣したところ、維幹が3,000騎余りの軍勢を率いて合流してきたという説話が記載されている。木村さんはここで、維幹が頼信に忠告できるような自立した立場にあったこと、国守軍とは別に武士たちを動員できる別個の軍事編成をとっていたこと、その軍勢も国守の軍の人数を上回るほど大規模なものであったことの3点を挙げて、11世紀初頭の常陸平氏の政治的な地位の高さと、軍事的な強大さを読み取っている。

 水守・多気と常陸平氏
 維幹が水守から移り、本拠地とした多気は筑波郡衙と推定される平沢官衙遺跡のすぐ北にあり、筑波山麓における政治的な拠点であり、常陸平氏が郡衙の権威と政治的な位置を自分たちのために利用していたことをうかがい知ることができる。

 宇都宮・常陸府中を結ぶ幹線道路
 木村さんは高橋修さんの研究に依拠しながら、宇都宮―常陸府中ルートは古代の常陸国を南北に貫く官道を踏襲したルートであり、古代・中世を通じて常陸国と東山道、さらに奥羽をつなぐ主要幹線道路であったとその重要性を論じている。

 筑波山西麓の歴史的・交通史的特質
 平氏一族の中で将門と対立していた良兼らが拠点としていた水守・羽鳥などの土地は、常陸国府――筑波郡衙――真壁郡衙ー―新治郡が、さらに東山道を結ぶ主要な古代官道の要衝であった。それに対して、将門の拠点である石井営所は、この地域から遠く離れており、一族との合戦においては彼のもう一つの拠点である鎌輪(鎌庭、下妻市の南方)が戦場になった可能性が高いという。鎌輪宿も筑波山西麓の交通の要衝であった。つまり、平氏一族の内紛の主要舞台は筑波山西麓の水陸交通の要衝であった。

平氏一族内紛の要因
 平将門・平氏一族の政治基盤
 すでに述べたことから、良兼流は早い段階から筑波山西麓に政治基盤を持っており、常陸国府と宇都宮、さらには東山道を経由して奥羽につながる主要幹線を掌握していたと考えられる。この地域を、将門の乱後に貞盛の弟の繁盛とその子孫が支配することになるのは、良兼の支配地域を繁盛が継承するための働きかけが将門の乱の最中から続けられていたと考えるべきであり、それは繁盛もまた将門の乱において兄を助けて戦ったことを記す文書の存在からも推測できる。
 将門および平氏一族が筑波山西麓に勢力を拡大できた政治基盤は9世紀後半以来の軍事貴族としての実力を前提に、水守・羽鳥、さらに多気を拠点として、宇都宮――常陸国府を結ぶ基幹ルートを掌握していたことに求められるだろう。
 父良持の遺領=奥羽の富
 平氏一族内紛の構図
 

ベーコン『ニュー・アトランティス』(7)

12月18日(水)晴れ、温暖、その後、雲が多くなり、夜になって雨が降り出す。

 語り手の乗った船は、ペルーを出発し、当時南海と呼ばれていた太平洋を横断して中国か日本に渡るつもりであったが、途中で風向きがかわって北のほうに漂流し、未知の陸地に到着する。ベンサレムの島と自称しているこの島の住民たちは、はじめ彼らの上陸を許可しなかったが、彼らがキリスト教徒であることを知り、また海賊ではないと誓約したことを受け入れて、上陸を許可し、島の「異人館」と呼ばれる施設に受け入れた。
 一行の主だったものに対して、キリスト教の司祭でもあるというこの「異人館」の館長は、この島が奇蹟的な出来事によってキリスト教を信じるようになった次第を語り、その後、彼らの時代においては外界との接触をほとんど断っているこの島が、古代においてはヨーロッパやアジアの国々、また当時はアトランティスと呼ばれていた南北アメリカ大陸と広く交流していたと語る。しかし、南北アメリカの人々はその高い文明のために自惚れが高じて外の世界に侵略を働き、それが神の怒りに触れて第二の洪水によって滅び、ごくわずかな者だけが生き残ったという経緯があると、語る。

 館長はさらに、アトランティスの衰亡の結果、彼らは外界から孤立した状態になっただけでなく、アトランティス以外の世界も、「(戦争のためか、時代の自然の変動によるためか)その後の数百年の間に、航海はいたるところで明らかに衰退の一途をたどりました」(27ページ)と語る。特に遠洋航海は不審に陥ったので、外の世界からベンサレムの島を訪問することが、偶然の漂流以外はまれになった。しかし、それだけでなく、すぐれた造船術と航海術をもった島の人々が外の世界に出かけなくなったのはなぜか、それには理由があるのだという。 

 約1900年ほど前(ということは紀元前300年ごろということになる)にこの島は、ソラモナ(Solamona)という偉大な国王に統治されていた。この国王は〔島の住民の間にキリスト教が広がる以前の存在であったのだが〕「神の道具」(devine instrument)であったために今なお国民たちからの尊崇を集めているという。この国王はベンサレムの島に法律をもたらしたのだが、それは国民の幸福を願ってのことであった。〔簡単に書いているが、この物語が書かれた時代背景を考えると、もし、ベーコンがもっと長生きしていれば、書き足したかもしれないと思われる個所である。〕

 そしてこの国が外国からの援助がなくても、十分自給自足できる、というのは島には十分なだけの肥沃な土地であり、船舶は、漁業や自国内の海運業に活用できること、その当時この島が「幸福と繁栄のただなかにあり、変わるとすれば、悪くなる可能性は山ほどあるとしても、これ以上よくなる道はほとんど考えられぬこと」(32ページ)などの理由から、現在の繁栄を永続させるための措置を講じることになったという。
 その一つが、異邦人の入国を許可しないという法令である。このころは、アメリカ大陸の大洪水の後だったので、ベンサレムの島にもしばしば異邦人が到来し、島民の間に新奇なものを求めたり、その風俗習慣が混乱するようなことが見られたという。

 そして異邦人の入国を禁じるという点では同じような法律が中国にもあることについて触れ、「あれはつまらぬもので、そのおかげで彼らは、物見高い、無知な、臆病な、愚かな国民となっています」(32ページ)とこの法令、あるいは中国の孤立主義(isolationism) を酷評する。この島における法令は異邦人をひたすら排除するものではなく、乗船の難破などのために困窮してこの島にたどり着いた異邦人に対しては、親切な対応をとることは、この話を聞いている一行が経験したとおりであるという。法律家であったベーコンが、間もなく終わりを告げる中国明朝の政策・法律についてどの程度の知識を持っていたかは興味ある問題である。
 というのは、ベーコンの同時代、明末清初においては、マテオ・リッチ(1552‐1610)をはじめとするキリスト教宣教師たちの中国における活躍が目立っているのであり、そのあたりの情報をベーコンが察知していなかったのかということを考えると、どんなすぐれた人物にもその知性(というよりも情報収集)の限界は、あるというよりも、作られてしまっているのだななどと思ってしまうのである。
 また、中国だけでなく、朝鮮も海禁(≒鎖国)政策をとっていたはずであるのだが、そのことには触れられていない。そもそも、ベーコンが朝鮮という国の存在を認識していたかどうか、定かではない。日本は徳川幕府三代将軍家光の時代、もう少しすると鎖国政策をとることになる。日本が鎖国(=海禁)政策をとったのは、特定の将軍の考えというよりも、幕閣における海外の事情もいろいろと考えたうえでの意思決定だと思うのだが、この点について論じている研究はあるのだろうか。

 ソラモナ王は、一方で彼の国に漂着した異邦人を彼らの意志に反して抑留するのは非人道的であると考え、しかし、ベンサレムの島について、彼らが帰国後言いふらすのも自国にとって迷惑だと思ったので、異邦人たちには帰ってもよいが、できるだけ厚遇するという方針をとった。その結果、この国を出ていった船は1艘もなく、合計して13人の異邦人がベンサレムの島の船に便乗して故国に帰っただけであるという。島についての彼らの報告が、故国の人々に受け入れられたとは思われない。ただの夢物語として笑い飛ばされただけのようである。
 島の人々が(個人的な理由で)海外に出かけることは、全面的に禁止された。これは中国が自国から出ていくことは制限しなかったのとは対照的であるという。彼らの法律では、異邦人の制度の方が優れていると思う場合には、それはすぐに取り入れることを定めているというのである。ソラモナ王は島の人々が海外に出かけることを禁止したが、それについて「唯一の素晴らしい例外」を設けたという。

 ではその例外とはどのようなものか。これはこの島の人々が外界のことをよく知っていることと関係があるようだが、どういうことかという疑問が生まれるはずだが、はたしてその例外はどのような措置であるか? それはまた次回に。
 今回読んだ箇所で、いくつかの疑問が生まれるはずである。ベーコンはこの時代、中国が海禁政策をとっていたことを知っていたのに、語り手の一行がペルーから中国を目指して出発したと初めの場所で書いているのはなぜか?さらに言えば、この島を出た異邦人はわずかだというが、語り手たちが、この島について語り、しかも詳しいことを書いているというのは、彼らが島を出たことを示すものではないのか。

 現在、ゆっくりとではあるが、同時代のドイツ人で(英国を訪問したことがあり)、『ニュー・アトランティス』よりも少し前に発表されたアンドレアエ(Johann Valentin Andreae, 1586‐1654)の『クリスチャノポリス』(Christianopolis, 1619)のドイツ語訳を読んでいるが、ベーコンの『ニュー・アトランティス』と共通する内容が少なくないように思っている。気づき次第、書いていくつもりだが、どういうことになるかはわからない。それではまた、次回。
 本日は、区役所に出かける用事が出来たり、インフルエンザの予防接種を受けたりしたため、時間が無くなったので、昨日同様、皆様のブログへの訪問を休ませていただきます。あしからず、ご了承ください。

『太平記』(293)

12月17日(火)雨、午後になって曇り

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)正月、京都の幕府から派遣された高師直・師泰兄弟は四条畷の戦いにおいて、南朝方の楠正行の必死の挑戦に苦戦したもののこれを破り、勢いに乗って師直は吉野を攻め、南朝の皇居や金峯山寺を焼き払った。
 吉野からさらに山奥の賀名生に退去した後村上帝以下の南朝の人々は、暮らしにも事欠く有様だった。
 一方、京では南朝討伐に功のあった師直・師泰兄弟が奢りをきわめていた。

 幕府の内部でも、尊氏・直義兄弟の母方の従兄弟である上杉重能、足利一族の畠山直宗のように、師直・師泰兄弟にあからさまに反感を示す人々もいた。もっとも『太平記』の作者は、この2人について「才短くして、官位人よりも高からんことを望み、功少くして、忠賞世に超えん事を思ひしかば」(第4分冊、253ページ、大した才能もないのに、他人よりも高い官位につくことを望み、それほどの功績をあげてもいないのに、他人以上の恩賞をえることを望んでいたので)などと、かなり否定的にその人間像を描いているのは注目してよい。この2人は師直・師泰兄弟が尊氏・直義兄弟の執事として権勢をふるっていることをそねみ、機会を見つけてはあら捜しをして、讒言を繰り返していた。しかし、尊氏・直義兄弟は、師直・師泰兄弟がいなければ天下の争乱を鎮定することは不可能だということが分かっていた(楠正行の一党との戦いの経緯で、読者もこのことが分かっているはずである)ので、師直・師泰兄弟が自分たちに対し異心をもっているとは思わず、少々の行き過ぎがあったとしてもそのことを咎めようとはせず、むしろそれよりも邪な心をもった家臣や讒言者が、幕府の統制を乱すことの方を心配していたのであった。

 そもそも、天下をとって世の中を平定する人物には必ず賢才輔弼の臣下が存在して、国内の混乱を鎮め、主君にもし過ちがあれば、それを正すものである。古くから語り伝えられてきた堯の八元、舜の5凱、周の(武王に仕えた)十乱、漢の(高祖の天下統一を助けた)三傑(張良・蕭何・韓信)、世祖(後漢の光武帝)の二十八将、唐の太宗の十八学士などの例を見ると、それぞれ高い報酬を得、また高い官位も得たのであるが、お互い同士争う気持ちはなく、互いにそれぞれの欠点を指摘しあって切磋琢磨し、国内の安定を図って、天下泰平を期したのであった。こういう例を指して忠臣というのであるが、足利幕府の場合、代々の執事をつとめてきた高と、同じく譜代の臣で尊氏・直義兄弟の母親の実家である上杉の2つの家柄が仲が悪く、ややもすると、お互いの欠点を指摘して、相手にとってかわろうと心中に含んでいたのは、どうして忠節の心を持つ人などといえたであろうか。

 ここから『太平記』の作者は、中国古代の説話から、卞和(べんか)の璧(へき)という宝玉の由来、その宝玉を手に入れた趙の恵文王に、秦の昭王が十五城との交換を求め、趙の将軍廉頗(れんぱ)はこれが謀略で璧を与えても秦王は城を渡すまいと進言、趙の臣藺相如(りんしょうにょ)の活躍で無事にこの宝玉を持ち帰ることができた(完璧)、藺相如が厚遇されるのをねたんだ廉頗は彼を殺害しようとし、藺相如は逃げ回り、その理由を聞かれて、もし2人のうち1人がいなくなるようなことがあれば、趙は秦に併呑されることになるから、国のためにそうしているのだと答え、これを聞いた廉頗が謝罪して2人は刎頸の交わりを結ぶに至ったという故事を持ち出す。そして私心を忘れて国のため、主君のために協力し合う人々こそ中心というべきであるのに、高・上杉はそうしていないと非難するのである。

 さて、このころ、足利直義は、兄である将軍・尊氏に代わって天下の政治を行うようになっていたが、その間、もっぱら禅の宗旨に心を動かされ、夢窓国師の弟子となり、尊氏とともに天龍寺を建立したことは25巻でも触れられていたが、その後も自邸に禅僧を招いたり、寺に出かけたりすることが続いていた。そして寺や僧侶に多くの寄進を行って人々を驚かせていた。
 この夢窓国師の兄弟弟子で妙吉侍者という禅僧がいて、夢窓国師が直義の帰依を得ていることを羨ましく思い、仁和寺に志一坊という外法成就(仏道に背く邪な教法を修行してその法力を得た人)の僧侶がいたので、この僧侶から咜祇尼天(だきにてん)の法を習って三七21日間というものこの法を行った。咜祇尼天の法というのは、使うと物事が自分の思い通りになるという法術であるが、そういう術が本来の仏教の趣旨に反するものだという認識が『太平記』の作者にはあると思われる。だから、作者は妙吉侍者に対してあまりいい感情をもっていないことが推察される。
 さて、21日間にわたってこの法を行った結果、妙吉侍者は何でも物事が自分の思い通りに運ぶようになった〔そういうことが起きるとは思えないが、作者は一応そう書いている。と、言っても何から何までその人の思うとおりになるというようなことがおこるはずがないという常識も作者は持ち合わせていると思う。〕 そして夢窓和尚も、妙吉侍者が大切な人材だと思うようになって、直義のもとを訪問した折に、自分のもとにいつも足を運んで仏教の修業をするのは結構なことであるが、より身近に妙吉侍者という僧侶がいて、修行に励んでいるので、この僧の話をお聞きくださいと勧めた。そして妙吉侍者を直義に会わせた。

 さて、この妙吉という野心的な僧侶が直義に取り入ったことから、幕府の中に亀裂が走り、波乱が起き始める。それはまた次回以降で語ることにする。妙吉が咜祇尼天の法を使ったのが、夢窓疎石(国師)にも効果を及ぼしたというところに、作者がおそらくは比叡山系の仏教の関係者であって、禅宗に対しては批判的な態度をとり続けていることが反映していると思うのだが、あるいは考えすぎかもしれない。
 このところ、いろいろと用事が立て込み、また体調もよくないので、本日は皆様のブログへの訪問は休ませていただきます。また、明日以降に訪問させていただきたいと思いますのでよろしく。

日記抄(12月10日~16日)

12月16日(月)晴れ

 12月10日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:
12月10日
 岡本雅享『千家尊福と出雲信仰』(ちくま新書)を読み終える。
 千家尊福(1845‐1918)は第80代の出雲国造で明治から大正にかけての近代化の流れの中で出雲信仰を継承普及しながら、大社教を創設するなど時代の流れに沿った神道の改革を進め、また政治家として埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事、司法大臣(西園寺公望内閣)を歴任、さらに東京鉄道の社長として同社の解散、東京の路面電車の東京市(当時)による買収を実現するなど実業家としても活躍した。多方面で活躍した人物の軌跡を追った書物だけに、内容豊富でいろいろな読み方ができる。例えば、埼玉県に出雲系の神社が多いことと、尊福の知事としての活動の関係など(既に原武史さんの研究はあるが)、興味深いものである。

12月11日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』ではツール・ド・フランスの話題を取り上げた。フランス国内を駆け抜ける(毎回、コースは変る)、サッカーのワールド・カップ、夏季オリンピックと並び、世界の三大スポーツ・イベントに数えられる自転車のロード・レースである。もう20年前になってしまったが、英国滞在中にテレビのチャンネル4で実況録画を放映していたのを熱心に見たことを思い出す。競技そのものの魅力もあるが、この放送でも言っていたように、フランス各地の風景を見る楽しみもあるのである。

12月12日
 パプアニューギニアのブーゲンビル自治州の独立の可否を問う住民投票が行われ、独立に賛成する意見が97.7パーセントを占めた。この自治州はブーゲンビル島を中心とするが、この島の名は、フランスの探検家でフランス人として最初に世界一周航海を行ったルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(1729‐1811)に因むものである。ブーガンヴィルとフランス語風ではなく、ブ-ゲンビル(本当はブーゲンヴィルだろうが)と英語風に読むところに、英語とフランス語の力関係の変化がうかがわれる。
 なお、ブーガンヴィルの『世界周航記』の『補遺』として出版されたディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』はこの一行のタヒチでの経験をめぐる考察であって、ブーゲンビル自治州とは関係がないようである。実は、近世ヨーロッパのユートピア文献をめぐる考察をまとめようと考えていて、ベーコンの『ニュー・アトランティス』で締めくくるか、ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』まで対象に含めるか、悩んでいるのである。

 フランソワ・デュボワ『作曲の科学』(講談社:ブルーバックス)を読み終える。ネウマ譜から現在の五線譜にいたる楽譜の歴史について書いた部分が興味深かった。

12月13日
 映画俳優の梅宮辰夫さんが亡くなられたことが報じられた。梅宮さんというと、1960年代の末から1970年代にかけて合計16本が作られた『不良番長』シリーズのカポネ団団長(番長)役が印象に残る。このシリーズは野田幸男、内藤誠という2人の監督が手掛けたが、野田は(俳優の戸浦六宏とともに)私の大学における部活動の先輩らしい。
 『不良番長』は暴走族グループ・カポネ団の所業を描き、最後は殴り込みで団員たちが死んで、梅宮さんの番長だけが残るという話が多かったのだが、人気が出るにしたがって山城新伍や、女優陣(夏珠美、大信田礼子、大原麗子)も生き残るようになった。それよりも、シリーズ作品なので、登場人物が、俺たちはここで死ぬけれども、次の作品ではまた生き返るというような大見得を切るのが、シリーズ作品らしくて面白かった。梅宮さんが「40になっても俺は番長だぞ!」というと、山城がそれまで体力が持つかなどと突っ込みを入れるというのもシリーズらしい妙味であった。しかし山城新伍が死に、また梅宮さんもなくなり(大原麗子さんまで亡くなり)、寂寥感でいっぱいである。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」ではグアテマラのチチカステナンゴという町を取り上げた。先住民人口が多く、マヤ文化遺産を保存してきた町だそうである。
En un lugar cercano a la iglesia de Santo Tomás se encontró el Popol Vuh, texto sagrado maya quiché que narra el origen de la humanidad. (聖トマス教会の近くで、人類の起源をつづったマヤ・キチエ族の聖なる書『ポポル・ヴフ』が発見された。)
 『ポポル・ヴフ』はグアテマラ人のノーベル文学賞作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスによるスペイン語翻訳版でも知られているという。『ポポル・ヴフ』は中公文庫に入っているのを買った記憶はあるが、この記事を書くために書架で探しても見つからなかった。

 ポール・アダム『ヴァイオリン職人と消えた北欧楽器』(創元推理文庫)を読み終える。今回は主人公のヴァイオリン職人ジャンニがヴァイオリン作りを教えたノルウェー人のヴァイオリン職人が殺害されるという事件が起き、真相を究明するために主人公たちはノルウェーに飛ぶ。ちょっと観光客気分も味わえる作品で、ノルウェーの生んだ作曲家グリーグについてもかなり詳しく述べられている。

12月14日
 大学入学共通テストにおける英語民間試験の活用が見送られたことに伴い、主な公立・私立大学の入試における民間試験の対応が13日までに明らかになったと『朝日』、『日経』が報じている。積極的に活用する方針だった一部の私立大学が、方針を急に後退させていることが目立つ。

 『日経』によると、中央教育審議会は2022年度をめどとして小学校の高学年における教科担任制を導入するという方針を取りまとめたという。特に反対ではないが、それに加えて、小学校5年から中学校に進学するという措置を認めるとか、小学校を5年、中学校を4年(フランスはこの方式である)という学制の再編を行うとか、もう少し大胆な提言をしてほしいと思う。

12月15日
 『朝日』朝刊の神奈川版を見ていたら、横浜市の地下鉄・バス等で利用できる敬老パスについて、見直しが検討されているとの記事が出ていた。適用の年齢を引き上げるとか、利用者が負担する金額を値上げするという案が検討されているそうだが、お手柔らかにお願いしたい。

 関幸彦『英雄伝説の日本史』(講談社学術文庫)を読み終える。ちょっと読みにくいところがあるが、読んでいるうちに引き付けられる。義経→ジンギスカン説が唱えられるに至った経緯の考察など面白い。そういえば、この本では触れられていないが、明智光秀が生き延びて天海大僧正になったという話もある。

 妹の話だと、私の2歳年上の従姉が歩行器を使って生活をしているそうだ。私も2年後にそんな生活になる可能性があると考えると、あまり落ち着き払ってはいられない。

 原武史『「松本清張」で読む昭和史』(NHK新書)を読み終える。清張の「昭和」を見る目を、司馬遼太郎が「明治」を見る目と対比しながら論じているところが興味深いが、わたしはもう1人、もっと古い「国民」的作家である吉川英治をくわえて3人を対比して考察してみたら、もっと面白かったのではないかと思う。吉川英治が日本史学者たちの仕事に敬意を払いながら、歴史小説を書いたのに対し、清張は反アカデミズムの姿勢をもっていた。司馬の場合は(一部かもしれないが)学界の方で司馬にゴマをするようなところがあったような気もする。
 この本の「あとがき」でも触れられているが、清張の作品の映画化では野村芳太郎監督による『張り込み』と『砂の器』(これは今年になってやっと見た)の2作が優れていて、清張自身も高く評価していたという。『張り込み』は高峰秀子の名演に支えられた部分が大きいと思うが、『砂の器』は監督の演出の力がよく発揮されている。なお、清張は新珠三千代がごひいきだったそうだが、彼女が清張原作作品に出演した例はない――というのは残念である(実は私も演技者としての新珠三千代は高く評価しているのである。大女優ではないが、名女優であり、そこに価値がある)。

12月16日
 12月14日に、デンマーク出身でフランスを中心に活躍した女優のアンナ・カリーナ(本名=ハンナ・カレン・ブレーク・バイアー)三が亡くなられたことが報じられた。『小さな兵隊』(1960)、『女と男のいる鋪道』(1962)、『はなればなれに』(1963)、『アルファヴィル』(1965)、『国境は燃えている』(1965、ヴァレリオ・ズルリーニ監督)、『気狂いピエロ」(1965)、『愛すべき女・女たち 未来展望』(1967)、『異邦人』(1968、ルキノ・ヴィスコンティ監督)、『悪魔のような恋人』(1969、トニー・リチャードソン監督)、『アレクサンドリア物語』(1969、ジョージ・キューカー監督)、『ザルツブルグ・コネクション』(1972、リー・H・カッツィン監督)と出演作のうち11本を見ている(監督名を記していないのは、一時結婚していたジャン=リュック・ゴダール監督の作品である)。もともとモデル出身で、背が高く、目鼻立ちがはっきりしていて、非常にかっこいい女優さんであった。『女と男のいる鋪道』、『はなればなれに』などの作品中で踊っているシーンが特に印象に残っている。心から冥福を祈りたい。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(23)

12月15日(日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山がかすかに見えた。

 19世紀初めのイングランド、ロンドンの北のハートフォードシャーの地主の娘エリザベス・ベネットは姉のジェインほどではないにせよ美しく、姉よりも聡明な女性である。近くの町で開かれた舞踏会で、姉は近所の邸を借りたビングリーという青年紳士と知り合う。一方、エリザベスはビングリーの友人だというダーシーという青年紳士が彼女について「この僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね」(大島訳、31ページ)と失礼なことを言っているのを聞いてしまい、腹を立てる。
 ベネット家の遠縁の親戚で、男系の限嗣相続制のため、一家の財産を相続することになっているコリンズという青年が、ダーシーの叔母であるレディー・キャサリン・ド・バーグの庇護を得てケント州のハンズフォードの教区牧師の地位を得たのをきっかけに、一家を訪問し、エリザベスに求婚するが、エリザベスは彼の尊大さと卑屈さとが入り混じった性格が気に入らず、それを受け入れない。コリンズは、隣家のルーカス家の長女で、エリザベスの親友であったシャーロットと結婚を決める。
 ビングリーは急にロンドンに引き上げ、ジェインは取り残される。彼女はしばらく、ロンドンにいる叔父のガードナーのところに滞在することになる。しかし、ビングリーと会うことはできない。誰から裏で2人の仲を裂こうとしているようでもある。エリザベスは近くの町に駐留する国民軍の士官であるウィッカムという青年と知り合い、彼に惹かれるが、ウィッカムは財産相続の見込みのある女性へとその求愛の対象を変える。
 コリンズの妻となったシャーロットに招待されて、エリザベスはケント州に夫妻をたずねることになる。途中、ロンドンでジェインに会い、元気であることが分かって安心し、ケントに到着する。到着後まもなく、レディー・キャサリン・ド・バーグからシャーロットの父、妹とともにエリザベスも晩餐に招待を受ける。エリザベスに興味を持ったらしいレディー・キャサリンは彼女にいろいろと立ち入った質問をする。

 ベネット家の家と土地とは、コリンズが相続することになることをレディー・キャサリンは知っていて、コリンズの妻であるシャーロットにとってはいいことであるが、相続を男系に限定する必要はなかったのではないか、ド・バーグ家ではそんなふうには決めなかったという〔暗に自分の一族の方が賢明だと仄めかしているとも受け取れる。ただし、ド・バーグ家の相続の話題は第1巻第14章のコリンズとベネット夫人のやりとりの間で言及されている〕。

 次にレディー・キャサリンはエリザベスにピアノと歌はたしなむのかと質問する。エリザベスがすこしだけ(A little)と答えると、そのうちに聴かせてもらおうという(物語のここまでの展開で、第1巻第6章で彼女はピアノを弾いて歌い、第10章では演奏を辞退している。妹のメアリーほど上手ではないが、自分の腕がどの程度のものか自覚しているので、進んで腕前を披露しようとはしないようである)。レディー・キャサリンは、エリザベスの姉妹たちも音楽を勉強しているのかと聞き、彼女は1人(メアリー)だけが音楽を勉強していると答える。
 この時代の(ある程度以上の身分の)女性の教育は楽器(主としてピアノ)を演奏したり、歌を歌ったりする音楽関係、絵を描くというような美術、あるいは刺繍のような才芸(accomplishment、『齋藤英和中辞典』では「芸事」という訳語も示している)の習得に向けられていた。したがって、レディー・キャサリンの質問もこの範囲で行われている。
 彼女は、姉妹のうち2人しか音楽を勉強していないのは不思議だという。そして次に絵の方はどうかと質問する。エリザベスはまったく手掛けていないと答える。彼女の姉妹も同様である。これもレディー・キャサリンのお気に召さない答えである。母親が姉妹をロンドンに連れて行って絵の教師につけるべきだったという。(ウィルキー・コリンズの『白衣の女』の語り手が美術の教師という設定になっているように、この時代、住み込みあるいは通いで音楽や美術を教える教師がいたのである。) エリザベスは、父親がロンドン嫌いなので、そういう機会はなかったと答える。

 レディー・キャサリンはベネット氏の教育方針にだいぶ不審を抱いたらしい。次に「皆さんもう家庭教師(ガヴァネス)の手は離れたの?」(大島訳、286ページ)と質問し、「家では家庭教師を置いたことは一度もないんです」(大島訳、同上)という答えを聞いてびっくりする。
 英文学者だった川本静子さん(1933‐2010)に『ガヴァネス ヴィクトリア時代の余った女たち』という名著があるので、ガヴァネスについて関心がある方は是非お読みください。この時代、裕福な家庭では住み込みで子どもたちに勉強を教え、生活を共にする家庭教師を雇っていた。男性の場合はチューター、女性の場合はガヴァネスという。川本さんによると、ヴィクトリア時代の文学作品に登場するもっとも有名なガヴァネスは『ジェイン・エア』とサッカレーの『虚栄の市』のヒロインであるベッキー・シャープの2人である。
 ジェイン・オースティンはヴィクトリア時代よりも前の作家なので、川本さんの研究対象になっていない。ガヴァネスはまた、シャーロック・ホームズものに登場する女性の職業として最も多い職業(ワトスンの妻になるメアリー・モースタンはガヴァネスであった)であるが、そのことについても触れられていない。
 オースティンの作品では、『マンスフィールド・パーク』と『エマ』にガヴァネスが登場し、特に後者においては重要な役割を演じているが、彼女は同時代の女性がガヴァネスのほかにあまり職業がないという社会の状態に対してかなり批判的だったような気がする。人間には同情的な描き方をしているが、職業の方はあまり好意的に描いていないように思うのである。
 それに対し、レディー・キャサリン・ド・バーグはガヴァネスの存在も、そのような職業についても自明のものとして疑う様子を見せずに、ガヴァネスを置かないのは奇妙だという。

 エリザベスは「でも家では勉強したいと思えば手段に困るようなことはありませんでした。父からはいつも本を読むように奨められていましたし、住み込みの家庭教師はいなくても、必要なときにはいつでも専門の先生を附けてもらいましたから。ただ怠けようと思えば怠けられたことは確かです。」(大島訳、287ページ)と答える。
 これに対し、レディー・キャサリンは次のように論じる:「でも、怠けさせないようにするのが家庭教師なんです。…地道に規則正しく教えないと教育しても何にもならないし、それができるのは家庭教師だけ・・・」(大島訳、同上)であるというのである。そして、「私はね、我ながら驚くほど随分と沢山の家庭に家庭教師を送り込んでいるんです。」(大島訳、同上)と自慢を始める。自分の娘の家庭教師(ガヴァネス)だったジェンキンソン夫人(その後も同居して、レディー・キャサリンの令嬢の世話をしている)の4人の姪も全員ガヴァネスをしているし、自分が世話をしたガヴァネスのことで感謝を受けたこともあるという。

 さらにレディー・キャサリンはエリザベスの妹たち3人のうち誰が社交界に出ているのかと質問する。3人全員が出ているとエリザベスが答えたので、驚く。上の姉が結婚する前に、妹たちが社交界に出るのはおかしいと(当時の社会通念にしたがって)考えたのである。これに対してエリザベスは、姉が資力がないために結婚できないことで、妹たちが社交界に出るという楽しみを奪うべきではないと彼女の考えを述べ、レディー・キャサリンはエリザベスがまだ若いのに随分はっきり自説を主張するものだと呆れたような感心したような感想を述べる。そして、エリザベスに年齢を聞く(これは作法に反している)。この質問をエリザベスははぐらかして、率直に答えない。
 その後、(晩餐の後、別々になっていた=これはそういう習慣なのである)男たちが戻ってきたので、一同はトランプを始めた。レディー・キャサリンとサー・ウィリアム(シャーロットの父)、コリンズ夫妻はカドリール、エリザベスとマライアは、ジェンキンソン夫人、レディー・キャサリンの令嬢とともにカシーノの卓を囲んだ。第1巻第16章では、事務弁護士のフィリップス氏(エリザベスの義理の伯父)のところで、年長者はホイストをしている。その際にも書いたが、この時代はホイストがカドリールにとってかわろうとしていた時期で、レディー・キャサリンの周辺がすこしずつ時代遅れになりかけていることが示されているように思われる。

 トランプが終り、レディー・キャサリンは一同の帰宅のために馬車を用意させる。それから彼女は翌日の天気についての時節を開陳する。そして一同はうやうやしくそれを拝聴したのである。帰りの馬車の中で訪問の感想を求められたエリザベスは、実際に感じたよりもずっと好意的な意見を述べたのだが、コリンズはそれに満足せず、自分で令夫人を礼賛する演説を始めたのである。〔以上、第2巻第6章=29章まで〕

 この時代の女子の教育は、家庭で家庭教師(または親)から教育を受ける(ベネット家の場合には子どもたちが自分で勉強する割合が大きいが、それでも一応は親の指導がなされているとみるべきであろう)か、学校に通うかであったが、経済的に裕福な家庭ほど、家庭教師を雇うことが多かったようである。学校には様々な種類があり、『虚栄の市』のアメ-リアとベッキーが通ったチジック・モールのアカデミーなどはいい学校であったが、質の悪いものが少なくなかったといわれる。レディー・キャサリンの教育観は当時の上流階級の女性としてはごく一般的なものであったが、おそらくは作者がエリザベスに代弁させている彼女自身の意見はそれを丸のみにするようなものではなかったようである。〔なお、ビングリー姉妹は学校に通ったことがあり、これは彼女たちが(『虚栄の市』の女性たちと同様に)ミドル・クラス出身であったことと関係するようである。〕

 サー・ウィリアムは娘の境遇に満足して帰還するが、マライアとエリザベスはまだまだハンズフォードに留まる。そしてエリザベスは思いがけない人物と再会する。それはまた次回に。
  

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(7)

12月14日(土)晴れ

 ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(39‐65)の唯一現存する作品であるこの未完の叙事詩は、紀元前1世紀半ば、ローマの覇権をめぐって閥族派のグナエウス・ポンペイウス・マグヌスと民衆派のガイウス・ユリウス・カエサルとの間に起きた内乱を題材とするものである。作者が当時の皇帝であったネロによって処刑されたため、10巻の途中で唐突に中断しているこの作品の、第1巻を読み終え、今回から第2巻に入る。
 紀元前1世紀のローマは、一方でその領土が拡大し、植民地から豊かな物資が流れ込んできたが、イタリア半島の住民たちはそのことによって自分たちの生活を脅かされ、社会の対立・不安が大きくなってきた。その中で、紀元前60年に、東方遠征で功績をあげた閥族派のポンペイウス、スパルタクスの反乱(紀元前73~71年)を鎮圧した富豪のクラッスス、名門の出身ではあるが民衆派の指導者として実力を蓄えてきたカエサルによる第一次三頭政治が成立し、政治的な安定を見る。しかし、紀元前53年にクラッススがパルティアで戦死すると、残る2人の間の対立が激しくなる。
 巨大な軍団を率いてガリアで戦い、その勢力を拡大しているカエサルに対し、ポンペイウスは元老院と結んで、属領と本国の境界であるルビコン川を軍隊を率いて渡ることを禁止する。しかし、紀元前49年1月、カエサルは逡巡の末、軍隊を率いてルビコンを渡り、川の近くの町アリミヌムに侵攻する。〔アリミヌムは現在のエミーリオ=ロマーニャ州のリミニにあたる。ルーカーヌスは書いていないが、この都市は、もともとカエサルの義理の叔父であり、民衆派の指導者であったマリウスを支持していたので、カエサルにとっては頼りがいのある場所だったようである。〕 そのカエサルに、紀元前50年に護民官に選ばれたものの、カエサル派として活動したために追放処分を受けたクリオが合流し、彼に反乱を教唆する。カエサルはついに反乱の意志を固め、軍隊もこれを支持、彼はガリアの各地に散開していた自軍を呼び寄せる。
 ローマはカエサル進軍の風説で恐怖、混乱に陥り、民衆はもとより、当のポンペイウスをはじめ、高官、元老院議員の大半がこぞって早々とローマを脱出する。追い打ちをかけるように予兆や怪異、返事が生じ、占い師アッルンス(おそらくは作者が創作した人物)が呼ばれて内蔵占いをするが、「大過が襲う」というあいまいな占いしかしない。しかしフィグルス(実在の人物)が星占いをして、「兵乱の教区」、武勇の美名を与えられた「犯罪」と「君主」の到来を予言し、さらに、アポロンに取りつかれた寡婦が内乱の成り行きを見通し、暗示する予言を語りながら都中を駆け巡った。

 今や、神々の瞋恚は明らかとなった。戦を告げる明白な兆しを
宇宙は示し、未来を知る自然は、数知れぬ怪異の恐慌を引き起こして、
万有の法則と連携を覆し、悖逆の戦を宣明した。
オリュンポスを支配する神よ、何ゆえあなたは嘉したもうたのか、
不安に怯える人間たちに、戦慄すべき予兆でやがて訪れる禍を知るという、
さらなる心痛を与えるのを。
(第2巻第1-6行、65ページ) 人間の願望や期待を越えたところで、神々の意志が働いている。内乱は神々の瞋恚(=怒り)の結果であるという。しかも、神々はその内乱の様々な予兆を人々に示している。人々が不安におののき、混乱するのも神々の意志の結果なのであろうか。
 宇宙や自然の動きによって、人間の社会の出来事を知ることができるという考えは、その後も長く人々の思考を支配し続ける(例えばダンテの『神曲』)。

 来たるべき内乱を市民たちが予感したことで、市内の様々な活動が停止した。ローマに残った高官たちは、正式の服装であるトガを着用せず、母親たちは神々の社に参拝に出かけた。そんな母親たちの1人が叫んだ:
・・・「ああ、
可哀そうな母親の皆さん、さあ、今こそ嘆きの胸を打つのです、今こそ
髪を掻きむしるの。悲哀を先延ばしにし、最悪の時に取っておくなんて、
してはなりません。今なら泣くことができます。運命が将軍方の
どちらに微笑むか、まだ分からぬうちは。どちらかが勝利すれば、
(否応なく)喜ばねばなりませんもの」。
(第2歌、38‐43行、67‐68ページ) どちらかの将軍が勝利すれば、勝利した将軍のために喜びの声をあげなかればならず、息子を失った母の嘆きは後回しにされるというのである。

 母親たちの嘆きの声を聞きながら、内乱が始まれば、どちらかの軍のために出征することになるだろう男たちも声をあげた。カルタゴとの戦いの時のように、外敵と戦うのではなく、自分たちの国の中で戦うことになるのだ。骨肉相食む内乱が本当に神々の意志に基づくものなのか、彼らは問う:
・・・過酷な万物の生みの親よ、その雷で
打ち据えたまえ、党派二つながら、将二人ながら、いまだ罪を犯さぬ前に。
前例を見ぬ、これほどまでの大禍を招く犯罪の帰趨をもって
決するに値することなのか、いずれが都の覇権を握り、君臨するのかを。
どちらも覇権を握らぬ(自由の)ために内乱を起こすのなら、代償として、
あまりにも高すぎる」。滅びようとする祖国への愛に駆られ、
そのような嘆きを口にした。
(第2巻61~67行、69ページ)
 
 そして彼らの「哀れな老いた親たちも、
おのおの不安に心を痛め、生き長らえる頽齢(たいれい)の定めを恨み、
生き延びて、内乱を再び目にする長寿を呪った。」
(第2巻第67~69行、69ページ) そして、彼らがすでに経験した閥族派のスッラと民衆派のマリウスの激しい争闘を思い出し、語るのであった。〔ポンペイウスはスッラの支持者→後継者、カエサルはマリウスの義理の甥であり、後継者であった。〕 最終的にはスッラが勝利者となる両者の戦いの中で、一時的に覇権を握った方が相手に対し報復・粛清を行い、覇権の変転の中でそれが繰り返されたのである。
・・・幾度となく亡命者となったマリウスには、
戦の最大の報償は奪還したローマに過ぎなかった。スッラの勝利も、
憎む党派の殲滅以上のものではなかった。
(第2巻228‐230行、80ページ) 大義のない戦の中で多くの血が流されたのである。ポンペイウスもカエサルも既に権力を分け合ってきたのだから、それ以上何を望もうというのかと、昔を知る老人はその過去を思い出し、未来を憂えたのである。

 歴史は繰り返すという。すでに述べてきたように閥族派は少数特権者による共和政治を守ろうとし、カエサルは民衆派を自称しながら、民衆の支持を背景に、独裁権力を握ろうとしている。どちらが勝っても、あまりいいことはないようにも思われる。戦争で苦しむのは一般の市民である。しかし、このような不安と混乱の中でも、落ち着きを失わない人物もいた。叙事詩は次に、そのような人物の行為について語ることになる。それはまた次回に。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(5)

12月13日(金)曇り

 1958年2月、梅棹忠夫(1920‐2010)は東南アジアにおける調査旅行の後半の試みとして、医師で昆虫学者の吉川公雄とともに、タイのバンコクからカンボジア、ベトナム(南、当時は南北に分断されていた)、ラオス歴訪の自動車旅行に出かけた。外交官でタイを中心とする東南アジアの研究家である石井米雄(1929‐2010)が通訳を兼ねて同行した。
 第12章「歴史の足あと」ではバンコクから国境を越えてカンボジアに入り、バッタンバンからトン・レ・サップ湖の西南岸を進んで、首都プノムペンに到着するまでの道のりが辿られている。

第13章 ゾウと王さま
 中央市場
 「プノムペンは、小さいけれど、小ざっぱりした美しい町だった。トンレ・ザップ川に沿うて、南北にのびている。中央に、プノムペン駅から川まで、東西に走る大通りがあって、町を二分している。北の半分は、閑静な住宅区域で、南の半分は、中央広場を含む商業地区である。しかし、王宮や国会議事堂、政府諸機関、博物館などは、そのまたずっと南の方にかたまってある。」(52ページ)
 近代的な都市計画によって作られた町だが、その悪い面はまだ発生していないと梅棹は観察した。そう書いている一方で、
 「人口は30万とすこしくらいだろう。そしていま、新生カンボジア王国の首都として大発展の途上にある。」(52‐53ページ) そう書いている一方で、外見としては整備されているが、未完成の部分も少なくない。例えば上水道が完成されておらず、ドラム缶を横向きに積んだ荷車をよく見かけるとも指摘している。
 梅棹が30万人くらいと見積もったプノムペンの人口は、今は200万人を超えているそうである。とすると、ここで梅棹が書いていることはまったくの昔話と見た方がいいように思われる。

  中央市場に出かける。巨大な建物で、多くの店が群集している。中央市場といっても、卸売りではなく、さまざまな小売店が密集しているのである。大鉄傘からはみ出たところで商売をしている店も見受けられる。
 タイの町では、どこでもまんなかにタラートと呼ばれる大きな市場があって、それを取り巻く形で市街が広がっているのが普通だったと梅棹はタイの例を思い出す。あるいはマーケット中心主義というのは、東南アジア諸国の都市における、共通の特色かもしれないという。「日本の都市の多くのものが、封建領主の居城を中心に展開しているのとは、基本的にタイプが違うようである。」(53ページ) 日本にも市場を中心に形成された都市はないわけではないし、中近東やヨーロッパの古代・中世の都市も市場を中心に形成されたものが少なくないから、これはすこし急ぎすぎた議論ではないかと思う。日本には戦国時代があったから、都道府県庁所在市の過半数が城下町だというようなことになった。しかし、港町や門前町、宿場町から発展した都市もあるので、日本の都市についての一般的な像を描くのはもう少し慎重であった方がいいように思う。

 プノムペンについて梅棹は「この町だって、カンボジア王国の首都であり、カンボジア国王の王宮はあるけれど、城というものはない。カンボジアもタイも、古い王国だけれど、いわゆる封建国家ではなかった。封建領主は存在しなかったのである。/現在のプノムペン市街は、おおむねフランス風な設計のもとにつくられた近代都市である。それでも町の中心には市場を据えている。東南アジアの伝統的な都市のあり方と、フランス風な都市計画との妥協形態であろうか。」(53‐54ページ)とまとめている。梅棹が訪問した時に比べてはるかに人口が増大し、市域も拡大しているはずのプノムペンがその後、どのようにその姿を変えたのかは、興味ある問題である。

 ゾウと王さま
 「王宮は、美しい建物だった。タイ建築に似て、何層もの屋根がかさなり合い、まんなかに高い尖塔をそびえさせていた。」(54ページ)
 カンボジアは、1863年の保護条約で、フランスの保護領となるが、その下でクメール帝国の正統を伝える国王は存在していた。1945年に日本軍による仏印武装解除がおこなわれると、その時の国王であったノロドム・シハヌークは独立を宣言した。日本軍の降伏に伴って、シハヌークの政府も崩壊したが、1947年にやはり彼を中心とする新政府が出来て、憲法を発布した。やがて、ベトナム、ラオスとともにフランス連合内における独立をみとめられるが、完全独立を目指すシハヌークは1953年にタイに亡命、紆余曲折はあったが、カンボジアはその要求をほぼ貫徹して独立国としての地位を得たのである。
 その後、シハヌークは王位を父親にゆずり、みずからは首相となった。カンボジアの政局は安定せず、内閣は頻々と変わるが、政治の実権を常に握っているのはシハヌーク殿下であるという。〔その後、父王が死んだので、シハヌーク殿下は「国家元首」となったが、その後のカンボジアの政局はさらに二転三転したのはご存じのとおりである。〕

 王宮の隣にはゾウの飼育舎があって、大きなゾウと小さなゾウが飼われていた。「王さまのゾウが、この王国にとって、どのような意味をもっているのか、わたしは知らない。」(55ページ)

 レプラの丘 → 精神再武装
 この個所は、今日では使われない言葉が使われているので、注意して読んでいただきたい。
 プノンペン市の北部に、市の名前の起源となったプノム・ペンという小高い丘がある。高さは25メートルあって、人造の丘だといわれる。丘の上には寺があって、昔洪水の時に流木とともに仏像が流れ着き、それをペンという高貴な身分の女性が拾いあげて、この丘の上に祀ったという伝説があるそうである。
 伝説はロマンチックに思われたが、梅棹はこの場にあまり長居したいとは思わなかった。レプラのこじきが大勢、彼に迫って来たからである。このような病人が野放しになっていることに、彼はやり切れない思いを抱く。

 タイではこのようなレプラのこじきに出会うことはなかったが、脳水腫の子どもが見世物になっているのを見かけたことがある。
 文明の発展によって、われわれは人生の不幸や残酷に対し、敏感になってきているはずだが、こういう国においては、「わたしたちは、鈍感さのヨロイで再武装しておかなければ精神がもたない」(58ページ)と感想を語っている。

 高棉国金辺市
 プノムペンに到着した梅棹一行は、どこに泊まるという当てがなかったので、日本大使館の館員で石井の友人である今川さんに同行して宿を探してもらった。結局、町の中心部にあるロンドン・ホテルという名前だけは立派な中国人経営の宿に泊まることになった。まったくの安宿で、それ以上に夜中でもうるさいのに閉口させられた。
 プノムペン市の人口構成は、外国人の方がクメール人よりもずっと多い。〔現在ではクメール人が市の人口の90%以上を占めているというから、大きく変化したことになる。〕
 外国人の中では中国人が一番多く、次いでベトナム人ということである〔全体に占める割合は大幅に減少したが、現在も中国人が外国人の中では一番多く、次いでベトナム人、タイ人という順序であるらしい〕。店の看板も、クメール文字とローマ字と漢字の3つが並べて書いてあるのが普通であり、それを見ているうちに中国語的な表現を覚えてしまうと梅棹は書いている〔漢字に慣れているとどうしてもそうなるようである〕。
 一行が泊っているロンドン・ホテルは倫敦大旅店であり、カンボジアは高棉、プノムペンは金京である。バンコクがタイの都だということで、泰京というのはわかるが、金京というのはどういう理由からなのかわからないと梅棹は記す。
 カンボジアの中国人は約30万人で、潮州人が圧倒的に多いといわれる。ずいぶん自由な活動を許されているようで、タイに比べると彼らの存在は目立つ。この国の完全中立政策(当時)を反映して、中国共産党系の中国語新聞も発行されているが、これはタイでは見られないことであった。

 カンボジアはその後、クメール・ルージュの大虐殺があったが、プノムペン(梅棹はこう表記しているが、プノンペンと書くほうが標準的ではないか)の人口の大膨張に示されるような、都市化や経済の発展、冷戦の終結により、政治と社会の様子もかなり変化しているようである。当然、それに伴って中国人の社会の規模や役割も変化しているはずで、それはそれで興味ある問題である。とにかく、カンボジアにいるのに、クメール人よりも中国人のほうが目に付くというのは、その後のカンボジアの社会の歴史的な推移を考える際に注目すべき観察であることは否定できない。
 

細川重男『執権』(4)

12月12日(木)晴れ

 鎌倉幕府の歴史は東国の武士たちが自分たちによる支配機構を作り上げようと悪戦苦闘した歴史であり、著者によれば「ムダな流血の連続」(14ページ)であった。その中で支配権を握るようになった北条氏が、なぜ、将軍位につかなかったかという問題を含めて、その権力とのかかわり、考え方を北条義時・北条時宗という2人の人物の人生とその影響を中心に考察するというのがこの書物の課題である。
 第1章「北条氏という家」では鎌倉幕府成立以前、北条氏が伊豆の小規模な武士団に過ぎなかったころに、どのような生き残りの戦略をもって時代に対処しようとしていたかが考察されている。
 第2章「江間小四郎義時の軌跡」は北条時政の庶子であった義時が頼朝の家子として頭角を現し、頼朝の死(正治元年=1199)後の陰惨な権力闘争の中で父親の時政とちがって積極的に策謀をめぐらさない「積極性のなさ」(66ページ)のためにかえってその地位を高めていった。〔以上、前回まで〕

第2章 江間小四郎義時の軌跡(続き)
立ち上がる義時
 頼朝死後の鎌倉幕府の主導権をめぐる権力闘争の中で、義時は積極的に行動する様子を見せていない。わずかに比企の乱(建仁3年=1303)においては兵を率いて戦っているが、それは飽くまで父・時政の指図のもとの行動であったと考えられる。
 その義時が初めて自分の意志を示すのは元久2年(1205)6月の二俣川合戦(畠山合戦)においてである。
 畠山重忠は武蔵の国に本拠を置く鎌倉幕府の有力御家人であったが、時政とその後妻である牧方は彼が謀反を企んでいるとして、義時・時房(義時の弟)らに討伐を命じた。重忠は時政の娘を妻にしているので、義時・時房にとっては義理の兄弟でもあり、謀叛についてはその実否を確かめてからでも遅くはないと主張したが、時政に押し切られ、軍勢を動かす。
 武蔵の国二俣川(現在の横浜市旭区)で両軍が遭遇した時に、重忠が率いていたのはわずか134騎、叛意がないことは明らかであったが、両軍は激突、畠山軍は全滅した。鎌倉に帰った義時は父親を糾弾、時政と結んで重忠を陥れた稲毛重成(重忠の従兄弟で、彼も北条時政の娘を妻にしていた。川崎市多摩区の広福寺の辺りが彼の本拠であったといわれる)、榛谷重朝(武蔵の国都筑郡二俣川から橘樹郡保土ヶ谷あたりに及ぶ榛谷御厨の地頭であった)兄弟は誅殺された。〔坂東八平氏の中の有力な一門であった秩父氏の中では、これにより畠山氏、稲毛氏、榛谷氏が滅んだが、江戸氏がこの一門の棟梁となった。また重成、重朝の弟である小山田行重の家系は存続し、南北朝時代に新田義貞にしたがって兵庫で戦死した小山田高家のことは『太平記』に記されている。〕
 「比企能員に続いて、相模とともに鎌倉幕府の本拠地というべき武蔵の実力者畠山重忠を葬った時政であったが、この事件は彼の失脚のきっかけとなったのである。」(71ページ)
  畠山重忠の乱については『吾妻鏡』の記述が手掛かりになるが、事件の経緯が義時に有利に記されているのではないかという疑いもぬぐうことができない。重忠はその悲劇的な死に対する同情も手伝って、鎌倉武士の典型としてその武勇を長く語り継がれることになる。稲毛重成は、時政の娘である妻が比較的早く死んだのでその供養のために相模川に橋を架けた。その落成供養の帰途、源頼朝が落馬して、それが原因で死去したという事件があった。広福寺には出かけたことがある。また二俣川に住んでいる同級生がいたので、今回取り上げている歴史的な出来事は、比較的身近に感じられる。

 この結果に焦りを感じた北条時政と牧方は、牧方が生んだ娘の婿であり、清和源氏義光流(八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の子孫)で京都守護であった平賀朝政を将軍位につけようと、実朝謀殺を企て、それが発覚して政子の命を受けた御家人たちが時政邸にいた実朝を連れ出し、義時邸にいれた。元久2年閏7月のことで、時政はこれで失脚、出家の上伊豆に追放された。平賀朝政は京都で討たれ、義時は時政に代わって幕府の政所の別当を、大江広元とともに務めることになった。
 さらにこの事件の余燼として、時政の娘婿であり、義時の義弟にあたる下野の豪族宇都宮頼綱が謀反を企てているというかどで義時が討伐を命じるという事件があり、討伐を命じられた下野の豪族小山朝政がこれを拒否、結局、小山の仲介で、頼綱が出家するということで討伐が中止されるという事件もあった。
 こうして父時政の失脚によって義時は、幕政の中心人物としての地位を得ることになり、将軍実朝(義時にとっては甥である)とその母政子(義時の姉)を擁し、頼朝以来の政所別当である大江広元、頼朝の流人時代からの近臣安達盛長の息子景盛らをブレーンとして幕府を運営していくことになる。〔義時と大江広元の関係について、細川さんは詳しく掘り下げていないが、広元の子孫たちと北条氏は反目し合うことになる。〕

さらなる抗争
 ここで義時が目指したのは、幕府中枢への権力集中であり、その典型的な表れは承元3年(1209)11月に導入しようとした守護交代制である。これは下野の小山、下総の千葉、相模の三浦の3氏の反対を受けて、同年12月に中止された。どうも有力御家人の反発が強かったようである。このような御家人たちの反発の中で、反義時の中心人物として期待されるようになったのが、侍所の別当である和田義盛であった。
 詳しい経緯は省くが、この対立の中で起きたのが、建保元年(1213)5月の和田合戦である。和田氏は相模最大の豪族である三浦氏の分家で、和田義盛は頼朝に早くから従い、幕府では宿老というべき地位にあった。細川さんは義時が、義盛との対決は避けられないと腹をくくって、挑発行為を繰り返し、その一方で、三浦一族の惣領である義村を義盛と離反させるというような工作を行ったと推測している。
 5月3日に挙兵する予定だった義盛は、加わる予定だった三浦義村・胤義兄弟が計画を義時に密告するという事態が生じ、追い詰められた義盛は予定を早めて2日に将軍御所を襲った。「鎌倉は幕府創立以来初めての壮烈な市街戦の戦場と化した。和田方は将軍御所に攻め入り、これを炎上させて、実朝を御所から避難させるなど奮戦したが、作戦のくるいが最後まで響き、敗退。和田一族、武蔵横山党、相模の土屋・山内・渋谷・毛利・鎌倉など幕府の本拠地である南坂東を中心に多くの有力武士団が和田方として滅亡、あるいは没落した。」(76ページ)
 こうして和田義盛を滅ぼした義時は政所別当に加えて侍別当を兼ねることになる。すなわち執権職に就いたことになる。
 和田合戦の際に和田方でもっとも奮戦したといわれるのが、義盛の三男朝比奈義秀で彼はこの合戦で戦死せずに部下を引き連れて船で自分の本拠地である安房の国に戻った(その後の行方は分からない)という。一説によると、横浜市栄区田谷町にある「田谷の洞窟」に逃げ込んだとも言い、この洞窟は現在では真言宗大覚寺派田谷山定泉寺の境内にある瑜伽洞として現存する。小学生の時に定泉寺のお坊さんに案内されてこの洞窟の中に入ってみて回ったことがあって、あまり気持ちのいい思い出ではなかったが、もう一度機会があったら出かけてみたいものだとは思っている。朝比奈義秀の母親は実は、源義仲に従っていた巴御前だという俗説があるが、和田義盛はその妻を横山党から迎えていたとされ、それを裏付ける証拠もあるので、歴史的な事実としては信じがたい。ただ、そう信じたい気持ちが伝説として伝わっていった心理的な背景はわかるような気がする。義盛と横山党は現在の横浜市を形成する土地とかかわりのある人々なので、ひいきしたい気持ちというのは私にもやはりあるのである。
 細川さんが列挙している中で、相模の渋谷氏は一族の高重が和田方に加わったためにその本拠地である渋谷荘を没収されるが、この領地は後に高重の兄の光重に与えられているそうで、渋谷氏そのものはその後も存続していく(日露戦争で日本海軍を率いた東郷平八郎元帥はこの渋谷氏の末裔だという)。毛利氏というのは、後に中国地方に覇を唱える大江広元の子孫の毛利氏ではないようで、別の系統の毛利氏らしい。

 今回は余計な事ばかり書いていたので、あまり進むことができなかった。まだしばらく第2章をうろうろすることになりそうである。 

ベーコン『ニュー・アトランティス』(6)

12月11日(水)曇りのち晴れまた曇り

 語り手の乗った船は、ペルーから出帆して当時南海(the South Sea)と呼ばれていた太平洋を横断し、中国・日本方面に向かおうとしていたが、途中で強い風のために船が押し流され、未知の陸地にたどりついた。そこの住民たちは、船に乗っている一行がキリスト教徒であり、海賊ではないことを確認したうえで、一行を島の「異人館」(The Strangers' House)という施設に迎え入れた。この施設の館長は、自分はキリスト教の司祭でもあるといい、島の人々がある奇蹟的な出来事によってキリスト教徒となった経緯を語った。この島は外界とはほとんど接触していないし、ヨーロッパでは大航海時代の発見が相次ぐ中で、この島の存在について語る航海者はいなかったのに、島の住民が外の世界の様子をよく知っている様子なのはどうも不思議である。

 島の住民たちがキリスト教を信じるようになった経緯を語った後、所用で退出した館長が、翌日一同をまた訪問し、さらなる質問を受けるつもりだといった。しばらく躊躇の沈黙があった後、一同の中の一人が口を開いて、もし不適切な質問だと考えるのならば回答を拒否しても構わないと前置きをしたうえで、ヨーロッパではこの島のことは知られておらず、島の人々が海外に盛んに出かけている様子もないのに、島の人々がヨーロッパのことをよく知っているのは不思議であり、どうしてこういうことが起きているのかと質問する。「他人には隠れて見えないでいながら、こちらからは他人がまる見えで、光の中にさらされているように見えるというのは、まさに神か天使でなければできぬことのように思われるのです」。(川西進訳、25ページ)

 この問いに対して、館長は微笑を浮かべ、質問をする際に許可を求めたのは適切なことであったと言い、あなた方は島の人間が魔術のようなものを使って世界の様子を探っているようにお考えだからと冗談めかして言う。一同は恐縮しながらこの発言を聞き、魔法というよりも天使の力のようなものだとは思うが、許可を求めたのは、この島には異邦人に対する機密保持の法律があることを念頭に置いていたからだという。館長は一同のこの気遣いを褒めたうえで、特に差支えのないことを話そうという。

 館長によると、約3000年の昔(紀元前1400年ごろということになる)には、信じられないかもしれないが航海、特に遠洋航海はずっと盛んであったという。既に述べたように、この時代のヨーロッパは大航海時代を迎えていた。そのことは館長も承知で「あなた方のお国で、ここ120年ほどの間に、航海が大いに行われるようになったことを私どもは知らないわけではありません。・・・それでもあのころの方が今より盛んだったのです。」(川西訳、26ページ)という。あるいは世界中を襲った大洪水から少数の人々を救うことができたノアの箱舟の経験が人々に自信を与えたのかもしれないが、フェニキア人、特にその中でもティルス(テュロスとも呼ばれ、ローマ時代の遺跡が多く残っていて、ユネスコの世界遺産に指定されている)の人々は大船団を持っていた。フェニキア人たちが築いた植民地であるカルタゴの人々は、さらに西の方に入植したが、同様に大船団を持っていた。東方にはエジプト人とパレスティナ人の船が盛んに航海に出かけていた。〔ここで東方に向けてというのは、地中海の東部や黒海よりも、紅海からさらにインド洋にかけてということであろう。〕 中国も大アトランティス(the great Atlantis、ヨーロッパ人たちがアメリカと呼ぶようになった土地である)も今でこそジャンクとカヌーしかもっていないが、その時代には大きな帆船を持っていた。この島(前回紹介したところではベンサレムの島と自称していた)の人々も当時は1500艘の頑丈で大型の船を持っていたという。
 
 その当時は、この島は外部の世界と盛んに交流していた。外国からの船が盛んにやって来たし、こちらからも盛んにたずねていた。ペルシア人、カルデア人、アラビア人など主要国の人々はみなこの島を訪れたし、彼らの子孫はこの島にまだ住んでいるという。また島の人々はジブラルタル海峡や大西洋、地中海のいたる所に出かけていた。パギンとかキャンバラインとか呼ばれている北京(ベーコンは北京が港町だと思っていたようである)、マルコ・ポーロがその旅行記に記しているクィンジー(杭州)、さらには東韃靼(タタール)の地まで訪問していたという。

 それから館長は大アトランティスについて語りはじめる。プラトンは『ティマイオス』(25)、『クリティアス』(113‐121)の中でアトランティスについて、エジプトの神官から聞いた話として空想を交えて記述しているが、アトランティスは当時コヤと呼ばれていたペルー、ティランベルと呼ばれていたメキシコと同様に、強大な軍備を持つ豊かな国であったことは確かだという。〔コヤとかティランベルとかいうのは、ベーコンによる造語である。ここで、ペルーとメキシコが出てくるのは、ベーコンがアステカ帝国やインカ帝国を念頭に置いていたということであろう。〕 それぞれの強大を頼んで、ティランベルは大西洋を横切って地中海へ、コヤは南海(太平洋)を横切ってベンサレムの島を攻撃した。ティランベルの船団は、プラトンが記しているようにアテネの人々が防戦に成功したためかどうかはわからないが全滅し、コヤの人々は当時の島の王アルタビンの巧みな作戦によって幸福させられ、しかも寛大な扱いを受けて帰国することになった。

 戦いの結果はこのようなものであったが、アトランティスの人々の侵略的な性向は神の怒りを招き、彼らの文明は(プラトンの言うように大地震によってではなく)、大洪水によって滅びた。洪水の規模は大きくなかったので、一部の人々は助かったが、水に浸った地域が広かったので、文明は衰退したというのである。〔ベーコンが文学的な想像としてこの個所を書いているのか、それとも彼が神の人間に対する懲罰というようなことが自然現象の形をとって現れると信じていたかは議論の分かれるところであろう。〕

 このようにしてアトランティスを襲った変異は世界の他の部分にも影響を与えたと館長は語る。その話はまた次回。
 今回読んだ箇所で、いよいよ『ニュー・アトランティス』という作品の、『ユートピア』や『太陽の都』とは違った小説的な魅力というものがご理解いただけたかと思う。この作品は未完に終わったのだけれども、ベーコンは古代の哲学作品や、その当時(大航海時代)の見聞を織り込みながら、読み物として面白い作品を書こうとしているように思われる(逆にいうと、社会的な批判・提言という要素は乏しくなっている)。ベーコンがアトランティスは大西洋上にあって沈んだのではなく、アメリカ大陸がアトランティスに他ならないのだと考えているのも興味深い点で、彼がユートピア文学の新しい可能性を切り開こうとしていたことを、ここでは理解すべきであろう。
 本日は研究会のため外出するので、皆様のブログを訪問する時間的な余裕はありませんが、ご了承ください。 

『太平記』(292)

12月10日(火)曇り

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年、なお、『太平記』では貞和5年の出来事として描いているが、これは誤りである)正月、京都の足利尊氏・直義兄弟によって楠討伐のために派遣された高師直・師泰兄弟は、正行・正時の楠兄弟と四条畷で対戦し、一時は苦戦したものの、これを破り、楠兄弟は自刃した。勢いに乗った師直は吉野の皇居や金峯山寺を焼き払った。師直に追われて吉野から賀名生に退去した後村上帝以下の南朝の人々は、暮らしにも事欠く有様だった。
 一方、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟はますます心驕り、見苦しい振る舞いが多くなった。師直は一条今出川にその身分を越えた豪華な屋敷を構え、高貴な身分の女性たちを次々とわがものにしていた。その弟の師泰はというと…

 「これらはなほもおろかなり」{第4分冊、249ページ、これらは(師直が豪華な屋敷を構えたり、高貴な身分の女性をわがものにしたりしたのは)まだましな方である}と『太平記』の作者は評する。「越後守師泰が悪行を伝へ聞くこそ不思議なれ」(同上)と、その弟師泰の「悪行」について語りはじめる。
 師泰が東山の枝橋(現在の京都市左京区今出川口の辺り)に山荘を造営しようと考えて、その土地の持主が誰かをたずねてみると、菅原氏の長者である宰相(=参議)菅原在登(ありのり)の領地であることが分かった。そこで、使者を送って、この土地を譲ってほしいと申し入れた。
 使いの者に対して在登は申し出の趣は承知したが(本当は承知したくないのだが、長い物には巻かれろということであろう)、この地は先祖代々の墳墓の地であり、せめて墓標を移転するまでの猶予をお願いしたいと答えた。これを聞いた師泰は何を言うのか、本当は土地を譲りたくないからそんなことをいうのだろうと怒って、その墓をみんな掘り崩してしまい、樹木を切り倒して地ならしをした。すると、地に重なり落ちた五輪の下に、苔にまみれた死骸が見えたり、割れた石碑に昔の人の名が刻まれていたり、あわれ惨たらしい情景が目の前に広がった。

 どこの誰だか知らないが、余計なことをする人はいるもので、一首の歌を書いて、地ならしをしている土の上に立てかけた。
 亡き人のしるしの卒塔婆堀棄てて墓無かりける家造りかな
(第4分冊、250ページ、故人の墓石を掘り捨てて家を建てても、永くは栄えまいよ。墓が無しと、はかなしをかけている。) 
 師泰はこの落書を見て、これはきっと菅三位(=在登)の仕業にちがいない。当座の口論にことよせて、差し殺せと言って、亀山院の皇子寛尊法親王の寵愛の稚児で五護殿と呼ばれていた大力の少年をたきつけて、強引に在登を殺させてしまったのは哀れむべき出来事であった。在登は代々の学者の家の出身で、北野天満宮の祀官であるとともに文芸の大家でもあった。何でこのような不運に出会ったのか、まことに気の毒なことであった。
 森重暁『太平記の群像』(角川ソフィア文庫)によると、師泰が菅原氏の墳墓を破壊し、在登を殺害したということをめぐっては傍証はないそうである。『常楽記』{じょうらくき=永仁3年(1295)から応永32年(1425)にかけての天皇・公家・武家・僧侶などの死没年月日を列記した一種の過去帳)には、在登は観応元年(1350)5月16日に子息在弘とともに護吾丸のために同時に殺害されたと記されているという。また『祇園執行日記』{ぎおんしぎょうにっき=京都祇園社(八坂神社)の執行(しゅぎょう≂寺務を担当する僧職、この時代は神仏混交しているからこういう役職の人がいた)の日記}にも5月16日に「西院宮児五々殿」のために殺害という記事があるそうである。それで在登父子が「吾護殿」という稚児に殺されたことは事実のようであるが、事件と師泰との関係は明らかではない。(森、168ページ参照)

 さらにまた、この山荘を建てているときに、四条大納言隆蔭に仕えている青侍(公家に仕える六位の侍)上杉重藤と古見宗久とが通りかかって、山荘造営に使用されている人夫たちが汗を流してこき使われているのを見て、どうも気の毒なことだ、身分の低い人夫たちであるとはいっても、これほどまでに痛めつけなくてもいいだろうと非難の言葉を漏らしていきすぎていった。この工事の現場の責任者であった中間がこれを聞きつけて、何者かは知らないが、ここをとる公家仕えの侍が、このようなことを言って通りすぎていきましたと師泰に言いつけた。
 師泰は大いに怒って、よくも言いおったな、人夫をいたわれというのであれば、そ奴らを使うべしといって、遠くまで去っていた2人の武士を呼び戻し、人夫たちの着るつぎはぎだらけの粗末な衣服に着替えさせて、高位のもののつける立て烏帽子をへこませて、庶民の被る柔らかな烏帽子のようにして、夏の暑い日1日中、鋤をとって土を掘り返させ、石を掘っては釣り輿で運ばせるなどこき使ったのであった。これを見た人々は非難のしぐさをして、命は惜しいものではあるが、恥を見るよりも死んだほうがいいのかななどといいあったのである⦅表向き、2人の武士を非難しているが、心の中では師泰を非難しているということであろう)。
 この事件が歴史的な事実であるかについては、森さんの前記著書では触れていない。

 これらはまだまだたいしたことではないと『太平記』の作者は続ける。貞和4年の正月に師直が吉野に攻め入ったときに、師泰が石川河原(大阪府富田林市の東部を流れる石川の河原)に陣をとって周囲ににらみを利かせたことはすでに述べたが、その一帯の寺社の所領を、領主に問い合わせることなく差し押さえてしまった。のみならず四天王寺の燈明の費用に充てる荘園もその中に含まれていたので、700年にわたり一度も消えたことのなかった仏法常住の燈(仏法の不変を示す燈)も消えてしまい、それとともに仏法の威信も失われたのである。

 また、何者であろうか、極悪非道な人物が云いだしたことに、この辺の塔の九輪(塔の最頂部に立てる九重の金具の輪)は混じりけのない赤銅製であるそうだ。これを使って鑵子(かんす=茶の湯を沸かす釜)を鋳造したら、おいしいお茶が飲めるはずだなどという。それをもっともだと思った師泰はある寺の九輪の輪を1つ外してそれで鑵子を鋳造させた。すると、言われた通りじつに芳しいお茶を飲むことができた。
 上に立つものがこのように仏法を敬わない行為をするものだから、配下の者も我も我もと近くの寺の九輪をはずしてそれで鑵子を鋳造した。そのため和泉、河内の三重塔、五重塔、九重塔、多宝塔など数百か所の塔婆でまっすぐなものは1基もないという有様となった。あるいは九輪を下ろされて、柱の上の枡形の木枠だけが残っているもの、またあるいは塔の中心となる支柱を切られて、建物の土台だけが残っているもの、宝塔に座す多宝如来と釈迦如来の像を飾っている瓔珞(宝玉)が雨ざらしになり、五智の如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)の肉髻が夜の雨に打たれて濡れているという仕儀である。昔々仏教の敵となった物部守屋が再びこの世に生まれ変わって、仏法を滅ぼそうとしているのかと思えるほどにあさましい様子であった。
 これらの行為についても傍証となる資料はないようであるが、森さんは配下の武士たちの「所領横領の黙認については、当時の在地領主たちの寺社本所領に対する濫妨・狼藉の停止を幕府が徹底させえなかった事情を反映しているようである」(森、169ページ)と師泰に対しむしろ同情的な評価をしていることを書き添えておこう。

 師直に続いて、師泰の兄を凌ぐ悪行の数々が記されて、兄弟の悪逆非道振りが描き出されるが、今日の歴史研究の中でそのような人間像を裏付ける史料が確認できるわけではないことも付け加えなければならない。ただ、師泰の悪行の描写を通じて、どうも『太平記』の著者が寺院の関係者だったらしいことが推測できる。
 さて、このような師直・師泰兄弟の驕慢に対し、反感を持ち、排除を企てるものが出てきても不思議はない…というのが次回以降の展開である。詳しいことは、その時に。

日記抄(12月3日~9日)

12月9日(月)晴れのち曇り

 12月3日から本日までのあいだに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
12月3日
 延期が決まった大学共通入試における英語民間試験の活用について、この取り組みに反対を続けてきた南風原朝和東京大学名誉教授が『朝日』に「大学で必要な力 重点評価を」という意見を寄せている。東京大学を始め多くの大学が、受験生に「欧州言語参照枠」(CFER) のA2の能力を求めていたが、これは「日常の事柄について簡単な情報交換ができる」というレベルで、大学の学習というよりも、一般社会で必要な能力ではないか、大学で必要な能力について改めて検討する必要があるという。
 この主張はもっともではあるが、高校生の大部分がCFERのA2の力を身につけておらず、A1(日常生活での基本的な表現を理解し、ごく簡単なやりとりができる」というレベルにとどまっているという現状、現実に大学に入学して勉強をする場合には、少なくともB1(社会生活での身近な話題について理解し、自分の意志とその理由を簡単に説明できる)程度の能力が必要だという要求水準の両方を考えると、両者の兼ね合いでA2という結論が導き出されるのだろうという弁護もしたくなるところがある。

 女子サッカーの皇后杯3回戦に進出した横浜FCシーガルズは西が丘で日テレベレーザと対戦。終りの部分だけサッカー協会の提供するテレビ画面で見たが、サッカーをさせてもらう相手ではなく、1‐5で大敗した。6‐3‐1という守備重視の陣形で臨んだのだが、それでよかったのかなという疑問も残る。

 『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅲ』では広島市街地を走る路面電車が原爆投下後もすぐに運行を開始し、市民の復興の気持ちを後押ししたことが話題として取り上げられた。その中で広島電鉄が設置していた広島家政女学校の生徒たちが、学校が廃校になる9月まで運行に尽力し続けたことが語られたが、犠牲的な精神を発揮して仕事にはげんだにもかかわらず、学校が廃校になったためにその経歴が学歴として評価されなくなってしまったなどのマイナス面についても触れる必要があったのではないかと思う。

12月4日
 3日、OECDの学習到達度調査(PISA)の結果が発表され、日本の15歳が「読解力」において15位とその順位を下げたことが問題として取り上げられた。この調査では単に学習到達度のテスト結果だけでなく、生徒の生活や日常的にどのように勉強しているかという調査もしているはずで、そのあたりを視野に入れて、広く深く原因を探る必要がある。読解力の低下を学校と教師だけの責任に帰してはいけないと思うのである。

『日経』の「ASIAトレンド」のコーナーでシンガポールではプログラミング塾が増加しているという動きが紹介されていた。日本では学校教育のカリキュラムの中にプログラミングを取り込もうとしているが、どちらがより大きな効果を発揮するのか今後の動きに注意する必要がありそうだ。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
God gave us the gift of life; it is up to us to give ourserlves the gift of living well.
        ―― Voltaire (French philosopher and writer, 1694- 1778)
 神は私たちに、人生という贈り物を与えた。充実した人生を自分に贈るのは自分次第だ。

12月5日
 『朝日』の朝刊に鷲田清一さんが連載している「折々のことば」で「ごきげんさん」という言葉を取り上げていたのが興味深かった。関西ではこの言い方に限らず、挨拶に「おはようさん」というように、「さん」をつけることが多い。しかし、「ありがとうさん」、「おめでとうさん」、「おつかれさん」などと「さん」をつける挨拶がある一方で、「さようならさん」とか、「こんばんはさん」とか言わないのは(あるいは言っている人もいるのかもしれない)のはどういうことだろうか。「お疲れ様」という言い方もされるが、「おはようさま」とは言わないのはなぜだろうかとか、この言い方になぞが多いことも確かである。 

 ポール・アダム『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』(創元推理文庫)を読み終える。主人公ジャンニは、ロシアの天才ヴァイオリニストのために、彼が特別に演奏に使用することになっているパガニーニ愛用のヴァイオリンを修理することになる。ところが、その後、殺人事件が起こり、また天才ヴァイオリニストが失踪する…。ジャンニはクレモナ署の刑事であるアントニオとともに事件の真相の解明に取り組む。

 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」はキューバをめぐっているが、今回はホセ・マルティ作詞の「グアンタナメラ(Guantanamera)」という歌曲が言及された。紹介だけで、音楽を流さないので、後でYouTubeで探してきいてみた。

12月6日
 『朝日』、『日経』両紙ともに、2020年度の大学共通入試から導入予定だった国語・数学における記述式試験の見直しの動きについて報じている。断片的な知識の詰込みではなく、自分の頭で考えるような学習を推進するということで、記述式が導入されようとしているのであろうが、そうなると、記述のマニュアルのようなものが出回って学習が別の形でパターン化するという堂々巡りになる恐れがある。それよりも、高校時代の生活態度とか学習への取り組み方の方を重視する選考が少しずつ浸透してきていることの方が、長い目で見て大きな意味を持つのではないか思っている。
 ただ、大学時代に接した学生を見ていると、生活態度はしっかりしていて、まじめな学生なのだが、しかし、学問的なセンスが悪いというタイプが結構いたように思う。そのあたりは大学の中での教育で解決していく問題なのであろう。

 『まいにちスペイン語』応用編の「すばらしきラテンアメリカ」では、「二輪のくちなしの花(Dos gardenias)」という歌が紹介された。これまた言及されただけで音楽は放送されなかったので、自分で検索してどんな曲なのか調べたのである。

12月7日
 『朝日』朝刊書評欄の「杉江松恋が薦める文庫 この新刊‼』で都筑道夫の『紙の罠』を取り上げている。杉江さんも触れているようにこれは宍戸錠・長門裕之・浅丘ルリ子主演で映画化された『危(やば)いことなら銭になる』(1962、日活、中平康監督)の原作である。この映画で製版の名人を演じている左卜全が面白かったという記憶がある。

 サッカーのJ1のリーグ戦が終り、横浜FマリノスがJ1で15年ぶり4度目の優勝を飾った。1141回のミニtoto-Aが当たっていた。

12月8日
 NHKラジオ『私の日本語辞典』(再放送)は東京文化財研究所音声映像記録研究室室長石村智(とも)さんの「言葉で探る日本の港の姿形」という放送を始めた。この中で、石村さんは私見ではあるがと断りながら、天照大神は海と関係のある神ではないかという説を述べていたが、最近読んだ筑紫申真『日本の神話』では、天照大神と海の関係がかなり詳しく考察されている。石村さんが筑紫の研究を知らないのか、あるいは知っていても言及を避けたのか、判断に苦しむところである。

 サッカーのJ3の日程が終了した。J1では横浜Fマリノスが優勝、J2で横浜FCは2位で1部自動昇格を決めたが、J3のYSCCは13位に終わった。

12月9日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』では、スペインとフランスの間にあるバスク地方で盛んなぺロタ(la pelote)というテニスやスクァッシュに似たスポーツが話題として取り上げられた。
Cousine du tennis, la pelote basque a été sport olynpique en 1992 pour des démonstrations lors des J.O. de Barcelone en Espagne, où ce sport a aussi beaucoup d'adeptes.(テニスによく似たこのバスク・ぺロタは、スペインのバルセロナで1992年に開催されたオリンピックの公開競技だった。スペインにもこのスポーツの支持者が多くいる。
 世界には、日本ではあまり知られていないスポーツがまだたくさんあるようである。  

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(22)

12月8日(日)晴れ

 エリザベスがサー・ウィリアム・ルーカスとその娘マライアとともに、ケント州のハンズフォードの牧師館のコリンズ夫妻(コリンズ夫人シャーロットは、サー・ウィリアム・ルーカスの長女であり、この物語のヒロインであるエリザベスの親友である)のもとに到着した翌日、コリンズ氏の庇護者であるレディー・キャサリン・ド・バーグから晩餐への招待があった。コリンズ氏はこの招待が早々となされ、しかも晩餐への招待であったことにいたく感激して、そのことをほかの人々に吹聴した。そしてコリンズ氏はこの招待に応じる際の心得について入念に話して聞かせたのである。

 天気が良かったので、一同はレディー・キャサリン・ド・バーグの邸宅であるロウジングズ・パークの庭を半マイル(0.8キロ)ほど歩いて、屋敷に向かった。こういう訪問になれないマライアは緊張のあまりおびえた様子を見せ、サー・ウィリアム・ルーカスでさえ完全に平静な状態ではいられなかったようであるが、エリザベスは落ちついていた。レディー・キャサリンが地位と財産を持っているだけの人物であるならば、それほど恐れるような存在ではないと思ったからである。

 玄関広間(the entrance hall)に入り、召使たちに案内されて一同はレディー・キャサリンと令嬢とジェンキンソン夫人が座っている部屋に入った。「令夫人は大いに気さくなところを見せて椅子から立ち上がり、皆を迎えた。紹介の役目はミセズ・コリンズが引き受けることに夫婦相談の上で決まっていたので、皆の紹介はいたって簡潔かつ適切になされた。」(大島訳、281ページ) もしコリンズ氏が紹介していたら、紹介は必要以上に長引いていたであろう。

 サー・ウィリアムはセント・ジェイムズ宮殿に伺候した経験があるのに、豪勢な部屋の様子にすっかり圧倒されてしまい、かろうじて一礼しただけで、一言も発することなく席についた。マライアは茫然自失の体(てい)であったが、エリザベスは目の前の3人の婦人を冷静に観察することができた。
 レディー・キャサリンは背の高い、大柄な女性で、かつては綺麗だったろうと思われる、くっきりとした目鼻立ちをしていたが、口のきき方が高飛車で、尊大な性格の持主であることがすぐにわかった。エリザベスは、ウィッカムの発言を思い出し、レディ-・キャサリンが彼の言うとおりの人物であると思った。また、その表情や挙動がどことなくダーシー氏に似ていることにも気づいた。
 一方、令嬢の方は母親にまるで似ておらず、痩せて小柄で、病弱な感じで、目鼻立ちも目立ったところはなく、ほとんど口もきかなかった。ただ、ときどき、ジェンキンソン夫人に何か話しかけるだけであった。ジェンキンソン夫人は令嬢の話を聞き、その健康に気を遣うことに専念していた。

 晩餐はきわめて豪勢なものであったが、食卓の下座について主人役を務めることになったコリンズ氏はこの扱いに満足して、さもうれしそうにいそいそと皆に肉を切り分け、自分も食べ、褒め言葉を口にした。「どの料理もまず コリンズが褒め、次にサー・ウィリアムが褒めた。サー・ウィリアムも今では娘婿の云うことを何でも鸚鵡返し出来る程度には落ち着きを取り戻していた。こんな褒め方をされてレイディー・キャサリンはよくも我慢が出来るものだとエリザベスは不思議でならなかった。だが令夫人はどんな褒め過ぎの言葉にもご満悦の体で、特に食卓に出た料理がみなにとって大変珍しいものであることが判ると、いかにも嬉しそうににこにこしていた。食卓の会話はあまり弾まなかった。」(大島訳、283ページ) エリザベスは話の糸口があれば口をききたいと思っていたが、座っている場所も、会話の内容も、彼女が口を利く機会を与えるようなものではなかった。〔会話を楽しむタイプの性格であるエリザベスには、形式的な追従だけのやりとりが満足できなかったということである。〕

 「晩餐が済んで、婦人たちは客間へ戻ったが、レイディー・キャサリンの話を拝聴する以外に何もすることはなかった。令夫人は珈琲が出るまでのあいだ片時も口を休めず、どんなことにでも決めつけるような口調で意見を述べた。それは、日頃自分が何を云っても反対されることのないひとの物云いであった。」(大島訳、284ページ) シャーロットによる牧師館の家事について彼女は細かい助言を与えた。「エリザベスには、この貴婦人が、他人に指図する機会を与えてくれるものなら何一つ見逃さない人であることが判った。」(大島訳、同上)
 レディー・キャサリンはコリンズ夫人(シャーロット)との話の合間にときおりマライアとエリザベスにも話しかけ、特にエリザベスにいろいろと質問した。彼女はエリザベスがどのような成り行きでこの一座に入っているのかほとんど知らなかったが、エリザベスについては「たいへん淑やかで綺麗な娘さんだ(a very genteel, pretty kind of girl)」(大島訳、同上)と、コリンズ夫人にその印象を語った。この発言を、小尾訳では「たいそう礼儀正しい、きれいなお嬢様」(小尾訳、292ページ)と訳していて、大島訳と大差はないが、齋藤秀三郎の『英和中辞典』によるとgenteelは「(賤しき身乍ら)上品な、人柄好き、紳士(貴女)らしき」ということで、レディー・キャサリンがエリザベスを見下していることが読み取れる。

 レディー・キャサリンはエリザベスに向かって、姉妹は何人いるか、彼女よりも年上か年下か、姉妹の中に結婚しそうな人はいるか、姉妹たちは美人か、教育はどこで受けたか、父親はどんな馬車を持っているか、母親の旧姓は何というのかなどと質問をした。エリザベスはずいぶんと不躾な(原文はElizabeth felt all the impertinence of her questionsで、指図好きのレディー・キャサリンは本来ならば質問を差し控えるような立ち入った事柄にまで質問しているということである)ことを聞くものだと思いはしたが、冷静に答えていた。〔以上第2巻第6章=第29章の途中まで〕

 詳しく展開をたどる必要があるので、今回もあらすじは省略した。大島訳はladyをレイディー、mistressをミセズなど、英語の発音に忠実に移そうとしていることがお分かりいただけたかと思う。噂だけでご本人が姿を見せてこなかったレディー・キャサリン・ド・バーグが登場し、まだのこっている人物はいるが、主要登場人物はほぼ顔をそろえた。この後、レディー・キャサリンはエリザベスとその姉妹たちの教育をめぐってさらに質問をして、自分の意見を述べる。ペンギン・クラシックス叢書のヴィヴィアン・ジョーンズの注によると、その内容は当時(19世紀初頭)における女子教育をめぐる主な問題に触れるものだというので、次回、少し詳しく見ていくことにしようと思う。この物語に登場したビングリー姉妹は学校(seminary)で教育を受けているが、レディー・キャサリンは学校教育には賛成していないようである。そういうことを含めて、また、次回。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(6)

12月7日(土)雨が降ったりやんだり

 この叙事詩の冒頭で、作者ルーカーヌスは「内乱にもましておぞましい戦、正義の名を冠された犯罪」(第1巻第2行、17ページ)を歌うと、作品の主題を述べる。
 紀元前1世紀のローマは、一方でその版図が拡大し、海外の物資が大量に流れ込んでくる一方で、国内の生産者たちがそのことによって生活を脅かされ、不安定な状態が続いていた。そのようななかで、政治的にも軍事的にも強力な指導者が求められていた。そのような社会情勢の中で、紀元前60年、東方への軍事的遠征で勝利を収めた閥族派のポンペイウス、スパルタクスの反乱を鎮圧した富豪のクラッスス、名門の出身であるが、民衆派の指導者であったマリウスの義理の甥であることから民衆の支持を得ているカエサル(シーザー)の3人によって第一次三頭政治が成立し、元老院をけん制しながら、バランスを保ってローマの政治を動かすようになる。
 しかし、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いで敗死したことにより、三頭の一角が崩れ、「樫の古木」ポンペイウスと、「雷電」カエサルの間の対立が深まる。カエサルの娘でポンペイウスの妻になっていたユリアが紀元前54年に死去していたことも、両者の関係を悪化させる一因となった。
 ガリアの地で軍事行動を展開して勢力を蓄えているカエサルを恐れたポンペイウスは、元老院と結んでカエサルが元老院の許可なくルビコン川を渡って、ローマに帰国することを禁止するが、カエサルは逡巡の末、ルビコン川を渡る(このとき、「賽は投げられた」(Iacta alea est.)といったとスエトニウスは伝える。また「ルビコンを渡る」という成句も生まれた)。彼の軍勢に、ローマを追われた政治家蛮勇クリオが合流し、内乱をそそのかし、兵士たちの指示を固めたカエサルはガリア全土に展開する大軍を呼び寄せ、ローマ進軍を指示する。
 カエサル進軍のうわさでローマは恐怖、混乱に陥り、民衆はもとより、当のポンペイウスをはじめ、高官、元老院議員の大半がこぞってローマを脱出する。追い打ちをかけるように怪しい出来事があちこちで起きる。

 こうした変事が相次いだため、古来のしきたりに従い、
エトルリアの占い師らを招くことに決められた。
(第1巻588‐589行、55ページ)
 エトルリアは現在のトスカーナ地方のラテン語による呼び名であるが、そのあたりを拠点としてローマにまで勢力を伸ばしていた部族の人々の名前としても使われる。エトルリア人はインド=ヨーロッパ語族に属さない謎の言語を話し(いまだに解読されていない)、ラテン人、サピーニ人とともに王政時代のローマの重要な部族の1つであったが、次第にその力を失っていった。彼らは動物の内臓を使った占いをしていたといわれる。
 こうして呼ばれた占い師たちの最長老はアッルンスといったが、彼は仰々しい儀式を行った後で、占いに使った動物の肝臓にこれまでに見たこともないおぞましい予兆を見て、大禍が襲いかかるだろうと告げたが、予兆をゆがめて、多くを謎めいた曖昧な言葉の中に隠してしまった。〔このアッルンスはルーカーヌスが創造した人物であろうと、翻訳者の大西英文さんは注記している。〕

 その場に居合わせた学者で、星占いの術にも長じているフィグルスが声をあげた。〔プブリウス・ニギディウス・フィグルス(紀元前98頃‐紀元前45)は、キケローの友人でピタゴラスの影響を受けた神秘主義的な学者であったとされる。〕
 彼は「都と人類とに企まれた/破滅が間近に迫っている」(第1巻649‐650行、59ページ)といい、数知れない人々が1日のうちに死ぬような事態が迫っていると予言する。
間近に迫るは兵乱の狂気、剣の威力は法をことごとく力で覆し、
非道の犯罪に武勇の美名が与えられ、その狂気は幾年月にも及ぼう。
神々に終わりを希(こいねが)うとも詮なきこと。その果ての平和は
伴いくるのだ、君主を。
(第1巻673-676行、61ページ) ローマは内乱に蹂躙され、そしてその後の平和は、君主政(帝政)を伴うだろうというのである。〔これは、実際に帝政時代に生きている詩人が創作した事後予言だと考えられる。〕

 怯える民衆を恐れさせるにはこの予言で十分すぎた。だが、
降りかかろうとする大難はそれをも越えるものであった。
(第1巻679‐680行、61ページ)
 さらにポイボス(アポロン)に取りつかれた寡婦が、市内を走り回って、狂気の内乱が起きることを予言した。ギリシアに、エジプトに、リビアに、アルプスとピレネーの山地に、またローマで戦いが続けられるだろうという。

 こうして第1巻は終わる。第2巻ではいよいよカエサルとポンペイウスの両者の間に戦闘が開始される。高校で世界史を履修すれば、その結果がどのようなものであったかはわかるはずで、現代に生きる我々読者の興味はその既知の事柄である内乱を、我々よりも時代的にはるかに近いルーカーヌスがどのように描写し、評価しているかというところに置かれる。共和制に対する郷愁を抱くルーカーヌスは、ポンペイウスに近かった元老院の人々に共感を寄せながらこの叙事詩をつづっている。その点が、注目に値するところではないかと思う。そして、自分からはるかに遠いところにいるルーカーヌスの政治観を見ることで、我々の政治に対する見方を再考してみるのも意味のないことではないだろう。
 共和政治というと聞こえはいいのだが、実際のところ、ローマにおける共和政治は少数の選ばれた人々による貴族政治(寡頭政治)というのが実態であった。だから、民衆の不満が高まっては改革がおこなわれるということが何度も繰り返され、それなりに社会階層間の勢力の均衡が図られてきたのだが、それも限界に達したことで、内乱が勃発することになる。政治についた考えるとき、表面的な言葉だけではなく、その言葉が背後に控え持っている実態を踏まえた議論が必要になると思うのである。
 そういえば、昨日(12月6日)の『朝日』の「コラムニストの眼」に『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたデイビッド・ブルックスの「ポピュリズムの失敗」という文章が掲載された。ローマ共和制の末期に現れた民衆派の政治家たちは、結局、帝政への道を開いたのであるが、現代の世界各地で展開されている左右のポピュリズムが、ローマ時代の政治史と同じ展開をたどるとは思われない(もっとも、私がそう思っているだけで、現実にはどうなるかはわからない)。歴史は繰り返すかどうか、繰り返すようでいて、繰り返さないと思うのだが、あるいは逆かもしれない。

 一昨日(5日)に転寝をしたことで、風邪をひいてしまい、昨日は皆様のブログへの訪問を休んで休養いたしました。今年の秋から冬にかけて、すでに2度、体調を崩したことになり、健康の衰えを感じております。皆様もくれぐれもご自愛ください。
 

ポール・アダム『ヴァイオリン職人の探求と推理』

12月6日(金)曇り

 12月3日、ポール・アダム『ヴァイオリン職人の探求と推理』(創元推理文庫)を読み終え、12月4日に同じ著者の『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』(創元推理文庫)を買って、12月5日に読み終えた。引き続き、シリーズ第3作である『ヴァイオリン職人と消えた北欧楽器』(創元推理文庫)を読んでやろうと思っているところである。

 イタリア北部ロンバルディア州のクレモナはローマ時代からの歴史を持つ都市であるが、近世にグァルネリ、アマティ、ストラディヴァリといった弦楽器製作の名匠が現れ(その多くが、一族で製作に携わった)、現在もその伝統を伝えている。
 語り手であり、主人公でもあるジョヴァンニ(ジャンニ)・カスティリョーネはクレモナで生まれ育ち、子どものころにヴァイオリン演奏を習ったが、自分の限界を知って、弦楽器職人のバルトロメーオ・ルフィーノの徒弟になり、彼のもとで9年間修業して独立した。弦楽器を製作する傍ら、古い楽器の修理に取り組み、むしろ修理の方で名声をえるようになった。妻に先立たれ、子どもたちとは別居して、クレモナ郊外の工房で仕事に励む彼の楽しみは、月に一度、仲間たち、同じ弦楽器職人で元はオーケストラのひらのヴァイオリン団員だったトマソ・ライナルディ(第一ヴァイオリン)、アリーギ神父(ヴィオラ)、クレモナ署の刑事である(ジャンニの息子の友だちでもある)アントニオ・グァスタフェステ(チェロ)と弦楽四重奏を楽しむことである。

 4人で演奏と、ワインと、おしゃべりを楽しみ、トマソとアリーギ神父が帰った後、残る2人は会話を続けていたが、そこへトマソの妻のクラーラから、トマソがいつまでたっても帰ってこないという電話がかかってくる。2人(ジャンニとアントニオ)は心当たりを探し、さらにトマソの工房を覗いてみるが、そこで見つけたのはトマソの死体であった。なぜ、彼は帰宅せずに工房に戻り、しかも死体で発見されることになったのか…。

 どうやら、この事件には、トマソがその前から”メシアの姉妹”と呼ばれる幻のヴァイオリンを探していたことと関係がありそうである。「メシア」あるいはフランス語の「ル・メシー」はストラディヴァリがその絶頂期にあった1716年に製作したヴァイオリンで、何人かの収集家の手を経て、オックスフォードのアシュモリアン美術館に収蔵されている。ほとんど演奏されたことはないが、ヨーゼフ・ヨアヒムが1891年に少しだけ弾いたという。それと同じ価値のある、完ぺきで手を加えられていないストラディヴァリのヴァイオリンがあれば、とほうもない値がつけられるだろう。

 事件の性格から見て、ヴァイオリンについての専門的な知識が必要なので、アントニオの仕事をジャンニが手伝うことになる。トマソは、そのヴァイオリンについての何らかの情報を手に入れ、探し出そうとしていた。そして殺される2日前に、ヴェネツィアに住んでいる有名なヴァイオリン収集家のエンリーコ・フォルラーニという人物と接触していたことが分かり、ジャンニとアントニオは、フォルラーニに会いに出かける。フォルラーニはヴァイオリンの収集以外にはほとんど金を使おうとしない奇人であった。2人がもう一度フォルラーニに会おうと彼の家に出かけると、彼は殺されていて、彼が収集したヴァイオリンの中から”蛇の頭のマッジーニ”と呼ばれるヴァイオリンが盗まれていた。他の(もっと高価なものもあるのに)ヴァイオリンが手をつけられた様子がないのも不思議であった。これら2件の殺人事件の犯人は何者なのか。そして幻の名器は見つかるのか・・・?

 「職人仕事の世界はとくに神話づくりをしがちであり、とりわけそれをうながすところである。皮肉な人間なら、そうすれば値段を吊り上げておけるからだと言うだろう。美術品ディーラーは失われたラファエロが、ファン・ゴッホが、どこかの変わり者の老貴婦人の屋根裏部屋からほこりにまみれてあらわれた話をする。音楽学者は未知のシューベルトの交響曲が、長く紛失していたモーツァルトの楽譜が、とある無名のコレクターの書斎から劇的な経緯で見つかった話をする。そしてヴァイオリン職人は”ル・メシー”、すなわち、完璧な、誰も弾くことのない、値段のつけられないストラディヴァリの物語を語るのだ。」(47ページ) つまり、この作品は殺人事件の犯人探しとともに、宝探しの物語でもある。そういう二重の面白さがある(いやそれ以上かもしれない)。
 この二重の捜査のために、ジャンニとアントニオは走りまわる。名前を付けられ、その存在について特定されてきた有名なヴァイオリンが、いつ、だれの手にあり、誰の手に渡されたかを記す古文書を探し、探し当てるとそれを手掛かりとして、また別の文書を探すというような現在と過去の往復が続けられる。これがこの作品(シリーズ)の特色の一つである。歴史的な事実がもとになっているが、適当に虚構が織り込まれている。両者が適当に混ざり合っているところに、この作品の面白さがある。

 作者のポール・アダムは英国人で、イタリアを舞台とした推理小説を書くというのはかなりの知識を必要とするはずだが、イタリアについて、あるいは音楽について、特にヴァイオリンについての知識はなかなかのものである(本当に詳しい人が読んだら、どんな感想を持つか、聞いてみたいところがある)。二重の捜査と書いたが、あるいは三重かもしれず、語り手が徒弟として弦楽器造りを習ったルフィーノという職人は、実は名器の贋作づくりという裏の顔を持っており、そのことがこの作品にもう一つのスリルを与えているところがある。謎が謎を生んで展開していく読み応え十分なミステリーである。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』(2)

12月5日(木)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 前回(11月14日)から間が空いてしまったが、木村茂光『平将門の乱を読み解く』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)について引き続き見ていく。この書物は平将門の乱の経緯ではなく、乱がおきた背景や、その性格について掘り下げようとするものである。

平氏一族内紛の要因 「女論」か「遺領争い」か
 一族内紛の要因はなにか
 前回触れたように、もともと平将門の乱の発端となったのは、坂東に展開した平氏一族の間での内紛であった。
 平将門の乱に関しては、『将門記』以外に残存する史料が少ないこともあって、解明されていない事実は多く、乱の発端となった将門と彼の伯父である国香・良兼・良正らとの内紛の要因も、『将門記』の巻首が欠けていることから、説得力のある説明がなされてきたとは言えない。著者はとりあえず、これまでの研究史の中で提起されてきた諸説を列挙し、それらについての疑問点を述べるという形で、問題点の整理を行っている。

 まず、『今昔物語集』巻25第一「平将門謀叛を反(おこ)し誅せらるる語(こと)」は鎮守府将軍であった将門の父・良持が持っていた多くの所領をめぐり、その死後、一族の間で争いが起きたとされている。しかし、将門の時代に領地・所領はまだ財産としての価値をもっていなかったので、この節は成り立ちそうにないと木村さんは論じる。
 次に『将門略記』ということ書物には、将門の妻が伯父良兼の娘であったこと(女論)が原因としているが、そうであれば、良兼と将門の戦いがまず起きるはずであり、これまた説得力に欠けるという。
 そのほか、近年は鬼怒川の水利権をめぐる対立が背景をなしているという説がたてられているが、利権の具体的な内容が明らかにされていないという難点がある。さらに京都と陸奥を結ぶ交通の要路である常陸の国の猿島郡の支配をめぐる争いであるという説もあるが、これも裏付けに乏しい。

 筑波山西麓の政治的位置
 「平氏一族内紛の要因を考える時、やはり重要なのは、最初の合戦の舞台が・・・筑波山の西麓だったことと、その後の合戦も・・・筑波山西側の鬼怒川(毛野川)流域であったということであろう。」(38ページ)と著者は論じている。著者はまず、筑波山の西麓が筑波郡衙、真壁(白壁)郡衙、新治郡衙という3つの郡衙が直線状に並んでいる、古代における開発の拠点であったことを注目すべきだという。
 さらに現在の茨城県石岡市にあったと考えられる常陸の国の国衙からこの3か所の郡衙を通って、東山道、さらには奥山道へと通じる官道が通っていたと考えられる。

 将門と反対勢力との間での最初の合戦がおこなわれた場所の1つである石田は、伯父の平国香の居館のあったところと考えられ、大串は国香の縁戚の源護の息子の誰かの本拠、取木は源護の居館のあったところ、水守は平良正、あるいは良兼の居館のあったところとされ、筑波山西麓が反将門派の勢力範囲であったことが分かる。また羽鳥の歌姫神社の近くから、菅原道真の子である景行・源護・平良兼が道真の霊を供養するために神社を建立したという石碑が発掘されている(この石碑が景行らの時代に作られたとは考えられないが、そういう言い伝えがあったことが重要であるという)。またここで、菅原景行が登場していることは、この後の将門の乱の展開とも重要なかかわりを持つのではないかとも推測されている。要するに、筑波山西麓の地域は、古代から政治的にも重要な施設があり、交通的にも重要であり、将門の時代には、彼と敵対する勢力が地盤を築いていたことがわかるのである。

 これに対して将門の本拠と考えられているのは下総の石井(いわい)営所であるが、これは現在の千葉県坂東市島広山付近に比定されている。この地は良兼らの本拠とはかなり離れているので、将門が一族の内紛の際に拠点としたのは、石井よりも東北にある下妻市鎌庭に比定される鎌輪宿であった。鎌輪宿は常陸国と下総国北部を東西に結ぶ陸上交通の、鎌輪宿と一体になっている毛野川(鬼怒川)の堀越の渡は、毛野川と子飼(小貝)川の水上交通の重要地点であったので、将門はこの地にあって地方の水陸の両方の交通を支配していたと考えられる。そして、将門は水上交通よりも、陸上交通の方を重視していたのではないかというのが著者の考えである。 

ベーコン『ニュー・アトランティス』(5)

12月4日(水)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。
 
 語りては当時南海と呼ばれていた太平洋を横断してペルーから中国・日本にむかおうとしたが、彼の乗った船は風に流されて、未知の陸地にたどりついた。未知の国であるにもかかわらず、そこはキリスト教を信じる土地であり、語り手たちはキリスト教徒であり、海賊ではないことを誓ったうえで上陸を許され、外国人を収容する「異人館」(the Strangers' House)という施設に滞在することになる。この施設の長はキリスト教の司祭でもあるといい、語り手たちにこの国と施設のことをいろいろと説明しようとする。

 異人館の館長は自分の方から説明するよりも、漂流者の一行の方からいろいろと質問をしてもらってそれに答えるほうがいいだろうといい、一同(船に乗っていた人々のうち、主だった10人)はなぜこの島の人々がキリスト教を信じているかと質問する。館長は、最初にこの問いが発せられたことで、彼と一同とが神への同じ信仰をもっていることが分かったといって喜びの表情を見せる。そして、次のような驚くべき話を語る。〔我々は、ベーコンというと、<英国経験論の祖>というような理解をしているのだが、その彼が人間の経験を越えた、奇蹟というべき出来事を創作していることが興味深い。〕

 「われらの救い主の御昇天の約20年後のこと、レンフューザ(この島の東海岸にある市です)の住民が、夜中に、・・・沖合い1マイルほどの所に大きな光の柱を見ました」(川西訳、20ページ)と、館長は語りはじめる。その柱の上には十字架が見えた。市民たちは驚いてこの光景を見ていたが、やがて何艘かの舟を漕ぎだして、この光の柱に近づこうとした。しかし柱から60ヤード(川西訳では50メートルとなっているが、原文に即して訂正した。この時代はまだメートル法は考え出されていない)ほどのところにたどりつくと、舟は金縛りにあったように、それ以上は進めなくなってしまった。多くの人々が柱の周りをぐるぐる回りながら、見守るだけだった中で、一同の中にこの島の最高の叡智を集めた集団であるサロモン学院Salomon's Houseの一員がいて、この光の柱に敬虔な祈りを捧げると、彼が乗った舟だけが柱に近づくことができるようになった。
 イエスの昇天の約20年後ということは、紀元50年ごろということになる。レンフューザ(Renfusa)というのは、ギリシア語でrhenは羊、phusisは生命、成長ということであるからの造語で、「羊のように育てられた」という意味であろうと解釈する学者がいるそうである。「光の柱」というのは『旧約聖書』「出エジプト記」の第13章第21節に記されているという(川西訳の割注、ブルースによる後注ともこのように注記している)。この物語の眼目の一つともなるサロモン学院がどのような施設であるかは、後の方で詳しく語られることになる。

 動けるようになったので、これは近づいてもよいという許可が与えられたのだと思い、彼はゆっくりと舟を漕がせて、柱に近づいた。「しかしたどり着く前に、光の柱と十字架は砕け、あたかも一面の空の星となって飛び散りました。その星くずも間もなく消え、後には、ただ香柏の小さな櫃(ひつ)か箱のようなものが一つ、まったく濡れずに乾いたまま水の上に浮いているのが見えるばかり。その箱の手前側には棕櫚の小さな緑の枝が一本伸びていました。賢者がうやうやしくそれを舟に引き入れると、箱が自然に開き、中から一冊の本と手紙が現れました。どちらも美しい羊皮紙に書かれ、上等の麻布に包まれていました。本はあなた方と同じ(私どもはあなた方の諸教会が何を受け入れているかよく存じております)旧新約聖書の正典のすべてのほか、〔ヨハネ〕,「黙示録」その他、当時まだ書かれていなかったはずの新約聖書のいくつかの書も収められていました。」(川西訳、22ページ)
 香柏と訳されているのはcedarでマツ科ヒマラヤスギ属の樹木をいうようである(当然、旧約聖書でソロモンが神殿を建てるのに使ったというレバノン杉が意識されていると思われる。レバノン杉はフェニキア人が船を建造するのに使ったといわれる。フェニキア人は、またこの物語の後の方で登場する)。「香柏の小さな櫃か箱のようなもの」という個所の原文はa small ark or chest of cedarとなっていて、川西訳では「櫃」と書いて、「ひつぎ」とふりがなされているが、「櫃」は「ひつ」(蓋つきの箱)であって、「ひつぎ」(死体を収める箱)とはよまない。
 キリスト教会の伝承では、『新約聖書』の福音書はそれぞれその名を冠された人物が書いたことになっており、紀元50年の時点では12使徒のうち長命であったといわれる聖ヨハネは、まだその福音書と、彼が著者だといわれる黙示録を書いていなかったはずなので、このことを考慮してベーコンは「当時まだ書かれていなかったはずの」と書き添えているのである(聖書の真の著者は神自身であるという意識が当然、その背後にあると思われる)。それから、どのような文書を聖書の正典とするかについては、教会間で違いがあるようであるが、ベーコンはあえてその点には踏み込もうとしていないと考えるべきであろう。

 手紙は12使徒のひとりで、インドまで布教したといわれる聖バルトロマイのものであり、天使のお告げにしたがって、聖書をこの櫃の中に入れて海に流す。流れ着いた土地の人々にイエスの救いと平安と善意が届くことを信じているという内容であった。
 『新約聖書』の「使徒言行録」(2章4-11節)には、使徒たちが、習ったわけではないのにさまざまな言語を自在に語る能力を身に着けるという奇跡が記されているが、この書物にも手紙にも同じような力が働いていて、その当時島にはもとからの住民のほかに、ユダヤ人、ペルシア人、インド人がいたが、彼らはそれぞれの言葉でこの書物と手紙を読むことができた。このような奇跡のために、島の住民はキリスト教を信じるようになったのだという。
 館長がここまで語ったときに、使いの者がやってきて、彼は呼び出され、談話はそこまでで打ち切りとなった。

 この島の人々は、外の世界とはほとんど交流を持っていないはずなのに、外の世界のことをよく知っているのはなぜか、そのことについてはこの後、館長が次にやってきたときの話で明らかになる。この島を、語り手が島の住民たちが呼ぶように「ベンサレムの島」ではなく、「ニュー・アトランティス」と呼んでいる理由もおいおい明らかになるはずである。

『太平記』(291)

12月3日(火)晴れ、温暖

 今回から第27巻に入る(『太平記』は40巻からなり、第22巻が欠けているので、第27巻は26巻目ということになり、この巻を読み終えれば、全体の3分の2を読み切ったことになる)。

 貞和4年(南朝正平3年、1348年、なお『太平記』では貞和5年の出来事として描いているが、4年が正しい)高師直・師泰兄弟は四条畷で楠正行の軍勢と戦い、一時は苦戦したものの勝利を収めて、楠正行・正時兄弟は自刃する。
 高師直兄弟は吉野に押し寄せ、南朝の皇居や金峯山寺を焼き払った。後村上帝と南朝の人々はさらに山深くに落ち延びていった。

 四条畷の戦いで、正行・正時兄弟は戦死し、正行の弟で正成の三男である次郎左衛門正儀だけが生き残って河内の本拠を守っているという噂なので、このついでに一族を根絶やしにしてしまえと師泰は3,000余騎を率いて、石川河原(大阪府富田林市)を流れる石川の河原に、向かい城を築き、楠勢の残党との間で攻防を繰り返した。

 後村上帝は天川(てんのかわ=奈良県吉野郡天川村)の奥の賀名生(あのう=五條市西吉野町賀名生)というところに、にわか作りの黒木造りの御所(皮を削らない丸木づくりの御所)を建ててお住まいになった。それは昔の中国の聖天子である唐の堯、虞の舜が屋根を葺いた茅の先を切りそろえず、椽(たるき)もかんなで削らない質素な住まいに住んでいたというのもこんなことではなかったかと思わせるものであった。

 そのように古の聖天子に通じる質実な暮らしぶりであったとはいうものの、後村上帝の母親である新待賢門院(阿野簾子)、中宮である顕子(北畠親房の娘)は柴葺きの粗末な小屋に住まわれて雨漏りに悩まされ、涙をぬぐう袖が乾く暇もなかった。公卿殿上人たちは木の下、岩の陰に、松の葉を屋根に吹き、苔の莚を床に敷いて、身を置く仮の住まいとした。高い山から強い風が吹きつけ、夜は重ね着をして寒さをしのごうとするが、露の置く野での旅寝が寒いので、昔の栄華を夢に見ることもできないという有様であった。さらに、その家来・従者ということになると、夕暮れの山で薪を拾ってきても、雪を頂く吉野の地は寒く、深い谷間の水を汲んでも、月の光をあびる肩がやせ衰えて見える。

 こうして生き延びる価値がないような暮らしを送ることになってしまったが、それでも容易には消えない露のようなはかない身の上を嘆きながら、わずかな希望にすがって生き延びていたのである。

 その一方で南朝の朝廷を吉野から追い払った高一族は驕りたかぶっていた。そもそも富貴な身の上となり、武功を賞賛されるようになると、物事の終りを慎まずに恥ずべき行為に及ぶものが多いのは世の常である。将軍足利尊氏の執事である高師直とその一族は、正行との戦い、吉野攻略と大きな手柄を立てたので、いよいよ心驕り、横暴になって、人の謗り、世のあざけりをますます多く受けるようになった一方で、全くそれを気にせずにふるまっていたのである。

 世の中の仕来りとして、4位以下の位の低い武士たちは、板葺きの家に住むものであったのに、師直は、一条今出川(鴨川の分流の今出川が、平安京に入る東洞院大路と一条大路の交点)に、以前は護良親王の母親である宣旨三位殿(北畠師親の娘・親子)が住まわれていたが、今は荒れ果ててしまった古御所を改築して自分の住まいとした。唐門(屋根が唐破風造りの門)と棟門(むなもん=屋根が切妻破風造りの門)を四方にあけ、釣殿(寝殿造りの池の側の殿舎)、渡殿(わたどの=渡り廊下)、泉殿(池に突き出た殿舎)を壮麗に築き、まことに華やかなものであった。
 庭には、伊勢、志摩、紀州の雑賀から大きな石を運ばせ、その際に石を乗せた車の心棒が折れたり、車を引く牛が苦しんだりの大騒ぎであった。さらに庭の樹木として、吉野の桜、高砂の松(兵庫県加古川市の尾上神社の松)、八塩丘(京都市左京区岩倉の紅葉の名所)の紅葉、西行法師が「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風渡るなり」と詠んだ難波の葦、在原業平が東下りの折に通った宇津ノ谷峠の蔦楓、未署名所の風景が、その場にいて楽しめるように集めたのである。

 さらに公卿や殿上人の娘たちは、変転の激しい世の中で寄る辺のないわびしさをかこっていたのに付け込んで、自分のものにしようとするのはこのような時世なので、仕方のないことなのかもしれないが、高貴な皇女腹の姫君などその数がわからないくらい大勢、あちこちに隠し養っていた。毎夜毎夜あちこちに通っていくので、「執事の宮廻に、供え物を頂かない神もない」(宮腹と宮=神社をかけたしゃれである)と京の口さがない民衆が笑い興じていたのもあさましいことであった。
 こういうけしからん振る舞いが多い中でも、果たしてこれでいいのかと思うような出来事は、二条の関白(道平であろうかと脚注にある)の妹君を、宮中にお仕えさせようと考えられていたのが、師直が盗み出して、最初のうちは遠慮してこそこそと通っていたのが、あとのほうになると図々しく大っぴらに通うようになった。こうして2人の間にできたのが武蔵五郎と称した高師夏であったという。いかに末世とはいえ、かたじけなくも大織冠(たいしょっかん)藤原鎌足公の末裔である方が、礼儀作法もわきまえぬ坂東節と結ばれるというのは、あさましいことであった。

 足利尊氏の執事に過ぎない高師直が奢りを極めたことを『太平記』の作者は非難しているが、貴族が住むような寝殿造りの邸宅に住むのは、鎌倉時代の上級武士もしていたことであるのは、金沢北条氏の遺跡である金沢文庫と稱名寺を訪れてみればわかることで、最近ではもっと僻遠の地方の武士でも、豪勢な暮らしをしていたことがうかがわれる遺跡が発見されているようである。
 師直の好色ぶりについても大いに非難されているが、それが事実であるかどうかという問題、また事実だとしても当時の武士たちの生活ぶりと比較してどの程度、逸脱したものであったかという問題など、そう簡単には片付かない問題は多いのではないか。林家辰三郎によると、この時代の武士の居館には、もし落城するようなことがあれば、一家の妻女たちが自殺するための場所が設けられていたというし、『太平記』の作者が見逃している問題も少なくはないように思われる。
 とにかく、文学作品であるから、歴史的な事実ではないことも書き込まれていることをご承知の上でお読みください。次回は、師直の弟である師泰の悪行が記された個所を読むことになる。

日記抄(11月26日~12月2日)

12月2日(月)雨が降ったりやんだり、ときどき、かなり強く降っている。

 11月26日から本日までに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

11月26日
 『NHK高校講座 現代文』は井上ひさし「ナイン」を取り上げた。この放送は昨年も聴いた記憶がある。
 放送関係の仕事をしている語り手は、昔部屋を借りていた四谷新道の畳店をたずねる。畳店を継いでいる先代の店主の息子がエースだった少年野球のチームのメンバーが、その後どうなったかというのが先代といまの店主の2人の口から語られる。
 講師の説明によると、この話は1984年の時点から1965年の出来事を回想するという構造になっているが、その間に新道の商店街がかわり、人情も変わっていったというのが小説の背景をなしている。小説中には、四谷新道に住んでいた歌舞伎俳優の岩井半四郎(作中では大和屋という屋号で呼ばれている。十代目。1924-2011)と中学生だったその2人の娘(岩井友見さんと仁科明子さん)という実在の人物が登場するのも特徴的である。商店街の変化とともに、大和屋とその一家も別の場所に移っていったと書かれているが、その引っ越し先の近くにアパートを借りていた知人のところに1976年か1977年ごろに泊まったことがあるのは昨年も書いた。この作品とのかかわりでは、微妙な経験だったのだなぁと改めて思う。

11月27日
 病院に出かける。

 渡辺一夫『ヒューマニズム考』(講談社文芸文庫)を読む。
 ルネサンス時代の精神であるヒューマニズム(ユマニスム)を宗教改革の精神との関係で考え直していく。エラスムスのユマニスムとルターの宗教改革、ラブレーのユマニスムとカルヴァンの宗教改革を論じ、最後にモンテーニュの『エセー』の軌跡をたどる。
 渡辺は暁星中学の卒業生であるが、大学時代の私の先生の一人がやはり暁星中学の出身で、渡辺を尊敬すると発言されていたそうである(私は直接聞いたことはない)。暁星は私の尊敬する詩人である金子光晴と、敬愛する文学者である吉田健一の母校でもあって、そういう伝統を持つというのはいいことだと思っている。吉田健一の『東京の昔』にフランスに留学したがっている古木君という東大の学生が出てきて(最後に、留学することになる。吉田の親友だった中村光夫あたりがモデルなのだろうか)、金子の『西ひがし』にはフランス留学から日本に帰るプルースト君という若者が出てくるというのも面白い対比である。

11月28日
 『NHK高校講座 音楽Ⅰ』は弦楽器のうちのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロについて取り上げた。それぞれの楽器の演奏者が楽器の特徴や演奏上の問題などを話していたのが興味深かった。中でもヴィオラの楽譜はハ音記号で書かれているので、学習に戸惑わなかったかという講師の質問に対し、比較的早く慣れましたというやりとりなどが興味深かった。

11月29日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」は惻隠子の「展望なき文部行政憂う」という文章を掲載している。その中で惻隠子は21世紀に入ってからの文部科学省による高等教育政策がことごとく失敗していることを問題視している内容であるが、日本の高等教育政策と高等教育の実際がうまくいっていないのは、もっと根の深い問題ではないかと思う。
 教育政策の方向性を示す文書である中央教育審議会の答申について、詳しく調べていないので、しっかりしたことは言えないが、1963年の第19回答申「大学教育の改善について」は、その後の高等教育の大衆化の速度と規模を読み違えているという問題はあるにしても、高等教育の多元化という方向づけは、おおむね正しいものであったように思われる(1960年代の後半に大学生だった私が、このような方向に反対する立場で運動していたのは慙愧に耐えないところである)。ところが、1969年の第21次答申「当面する大学教育の課題に対応する方針について」などは当時の大学闘争に対する場当たり的な対応しか示していない。その後、もっと真剣に高等教育の問題に取り組むべきであったにもかかわらず、十分な取り組みがなされてこなかったように思われる。つまり、惻隠子は問題を20年余りの無策の結果と考えているが、私の見るところ50年の無策の結果のようである。

 ポール・アダム『ヴァイオリン職人の探求と推理』(創元推理文庫)を買ってきて、読み進んでいる。語り手は、ヴァイオリンの製造地として有名なイタリアのクレモナの町に住むヴァイオリン職人である。同じヴァイオリン職人であるトマソ、アリーギ神父、それにクレモナ警察の刑事であるアントニオと月に1回することになっている弦楽四重奏を楽しんだが、その後、トマソと連絡がつかなくなり、仕事場で彼の死体が見つかる。語り手はアントニオによる事件の捜査を手伝うことになる・・・。
 まだ読み終えていないので、全体的な感想は書かないが、弦楽四重奏を楽しむというのはなかなかいい趣味だと思う。ヴァイオリン職人2人が第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリン、アリーギ神父がヴィオラ、アントニオがチェロということらしい。
 日本文学をイタリア語に翻訳・紹介しているアレッサンドロ・ジョヴァンニ・ジェレヴィーニさんはクレモナの人で、彼のイタリア語エッセイDolcissimo italianoには”Cremona e il suo patrimonio culturale immateriale"(クレモナの無形文化遺産)という文章が収められていて、この町の弦楽器製作の伝統がユネスコの無形文化遺産になっていることをめぐるジェレヴィー二さんの複雑な心境がつづられている。

 筑紫申真『日本の神話』(ちくま学芸文庫)を読み終える。著者が教師として活動した三重県(伊勢・志摩地方)における民俗の観察と、古代神話の文献研究から独創的な見解を導き出している。

11月30日
 11月27日の項で金子光晴のことについて触れたが、本日の『朝日』朝刊の「折々のことば」は金子の「どんな歴史でも、あとから、あとから押してくる現実に、追いたてられるようにして過ぎてゆくものらしい。」という言葉を取り上げていた。できるだけゆったりとした気分で推移する事態に対処すべきだということらしい。吉田健一ができるだけ広い視野でものを見るべきだと言っていたことなども思いだされる。

 全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の決勝戦を見に行かなかったことはすでに書いたが、日大藤沢高校が桐光学園高校を1-0で破って全国出場を決めた。5年ぶり5度目の全国出場だそうである。横浜FCのFWとして活躍し、現在はファジアーノ岡山の監督をしている有馬賢二さんはこの学校の卒業生である。

12月1日
 『朝日』の朝刊は高校の校則の「ブラック化」の問題を取り上げている。(なお、「ブラック」という言葉を否定的な意味に使うことについては、私は反対で、「ダーク」というべきではないかと思っている。) 社会の、ひいては生徒の多様化に学校の側が対応しきれていないというのが問題だろうが、高校生の多くが校則については従うべきだと考えているのが最近の傾向であるという調査結果についても考える必要があるだろう。VoiceというよりもNoiseの問題、つまり多数が支持していても一部に強い反対があるというような場合(多数が反対していても、一部に強い支持があるというような場合)の対処の仕方というのは、現在の民主主義が避けることのできない問題ではないかと思う。

12月2日
 『朝日』の朝刊に今川義元が「実はキレ者」であったという記事が掲載されていた。この記事にも多少書かれていることだが、義元は補佐役として太原雪斎がいたころはわりにしっかりと領内を把握していたのだが、雪斎の死後、失敗が多くなったという説が有力ではないかと思う。静岡大学の学長をしていた日本史学者の小和田哲男さんの雪斎が生きていたら桶狭間の敗北はなかったかもしれないという意見がこの記事にも引用されていた。戦国時代の武将と交流があり、外交折衝などに活躍した禅僧が多いことは歴史的な事実であるが、武将たちの戦略と実戦において果たした軍師・参謀の役割については分からないことが多いようなので、雪斎について過大評価するのも問題かもしれない。
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