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2019年の2019を目指して(11)

11月30日(土)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 11月は後半に体調を崩し、不活発になったので、動静をめぐる数字に大きな変化はない。
 足跡を記したのは東京、神奈川の1都1県、横浜市と品川区、渋谷区、新宿区、千代田区、文京区、港区の1市6区のままである。
 利用した鉄道も京急、JR東日本、東急、東京都営、東京メトロ、横浜市営の6社で変化なし。
 路線も東急大井町線、東横線、目黒線、東京メトロ南北線、半蔵門線、副都心線、JR東日本京浜東北・根岸線、横浜線、東京都営新宿線、三田線、京急本線、横浜市営地下鉄ブルーラインの12路線で変化なし。
 乗り降りした駅は16駅、乗り換えをした駅は7駅とこれも変わらず。
 利用したバスは江ノ電、神奈川中央交通、相鉄、横浜市営の4社、17路線は変わらないが、乗り降りした停留所が1か所増えて15か所となった。〔86〕

 この記事を含めてブログを30件書いた。1月からの累計は337件である。内訳は日記が5件、読書が10件、読書(歴史)が2件、『太平記』が4件、ジェイン・オースティンが4件、ラブレーが5件ということである。1月からの累計では日記が62件、読書が77件、読書(歴史)が38件、モア『ユートピア』が8件、読書(言語ノート)が9件、『太平記』が48件、ジェイン・オースティンが33件、ラブレーが27件、ダンテ『神曲』が20件、推理小説が7件、詩が6件、映画が1件、未分類が1件ということである。
 コメントを4件、拍手を527頂いた。1月からの累計はコメントが10件、拍手コメントが1件ということである。〔348〕

 12冊の本を買い、8冊を読んだ。1月からの累計では119冊の本を買って、108冊の本を読んでいることになる。ただし、108冊のうち、今年買った本は102冊で、残り6冊のうち4冊は2018年に、2冊はさらにそれ以前に買った本である。
  11月に読んだ本を列挙すると:デフォー『ロビンソン・クルーソー(下)』(岩波文庫)、松下貢『統計分布を知れば世界が分かる』(中公新書)、木村茂光『将門の乱を読み解く』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)、平松洋子『かきバターを神田で』(文春文庫)、宮田珠巳『いい感じの石ころを拾いに』(中公文庫)、三浦佑之『古事記神話入門』(文春文庫)、渡辺一夫『ヒューマニズム考』(講談社文芸文庫)、筑紫申真『日本の神話』(ちくま学芸文庫)
ということである。数は少ないが、中身は充実している(と、思うことにしている)。〔111〕

 『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いた。1月からの累計では、『ラジオ英会話』を207回、『遠山顕の英会話楽習』を127回、『入門ビジネス英語』を67回、『高校生からはじめる「現代英語」』を88回、『実践ビジネス英語』を132回聴いていることになる。このほかに、夏休みの特別番組”Let's Learn English in English"を5回聴いている。
 『まいにちフランス語』入門編を11回、応用編を7回、『まいにちスペイン語』入門編を11回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を8回聴いている。1月からの累計では、『まいにちフランス語』入門編を123回、応用編を59回、『まいにちスペイン語』入門編を54回、初級編を58回、中級編を67回、応用編を16回、『まいにちイタリア語』入門編を92回、初級編を31回、応用編を83回聴いていることになる。〔1210〕

 映画を見に出かける機会がなかったので、2館9本という数字は変らず。〔11〕
 展覧会にも出かけられなかった。〔3〕

 J2第39節の横浜FC対Vファーレン長崎の試合、第42節の横浜FC対愛媛FCの試合を観戦した。観戦した試合の累計は35試合となった。横浜FCがJ2リーグで2位となって、13年ぶりにJ1に昇格するのはうれしい限りである。その一方で、全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の準決勝、決勝3試合を見ることができなかったのが残念である。
 第1135回のミニtoto-A、第1138回のミニtoto-A、第1139回のミニtoto-Bをあてた。1月からの当選回数の累計は27回である。〔66〕

 アルコール類を口にしなかったのは14日である。体調が悪かったので、口にできなかったのだが、そのわりに体重が減っていないのが気になるところである。栄養指導で栄養士さんに微妙なところなので気をつけてくださいと言われたが、言われなくてもそれは承知していることである。
 11月は体調を崩したために、数字があまり伸びなかったが、2019年の2019は達成できそうなところまで積み上げてはいるので、無理をせずに一歩一歩目標に近づいていくことにしようと思う。 
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ラブレー『ガルガンチュワ物語』(27)

11月29日(金)晴れ、やっと青い空を見ることができたかという感じである。

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生後すぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだので、このように名づけられた。もともと巨大な体躯の持主であった上に、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという先生のもとでパリで勉強して、学芸と武勇の両方に秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王の領地の住民たちが、隣の国のピクロコル王の領地の住民たちと些細な衝突を起こしたことから、激怒したピクロコル王がグラングゥジェ王の領地を侵略するという出来事が起きた。グラングゥジェ王は事態を平和に解決しようとしたが、これを機会に世界征服に乗出そうと思っているピクロコル王は交渉に応じず、やむなく、グラングゥジェはガルガンチュワを呼び寄せて、侵略軍を排除することにする。故郷に戻ったガルガンチュワはポノクラートや、自分と父王の家臣たち、侵略軍から修道院のブドウ畑を守ったジャン修道士らの助けを借りて、ピクロコル軍を撃破する。
 戦いに勝ったガルガンチュワは、功績のあった家臣たちにそれぞれ莫大な褒賞を与えるが、そのなかでジャン修道士は、これまでになかったような新しい修道院を建てたいと願い出る。この申し出はガルガンチュワの気に入り、ロワール川沿いのテレームという場所に大修道院が建設されることになる。六角形をしたその建物は男女の寮舎に割り当てられる区画のほかに、図書館が設けられ、建物の外にはスポーツや武術を鍛錬する場所や劇場が設けられていた。女性は貴婦人らしい、男性は貴公子らしい服装が定められていた。

第57章 テレミートたちの生活はどのように定められていたか
 「彼らの生活はすべて、法令や定款あるいは規則に従って送られたのではなく、皆の希望と自由意志とによって行なわれた。起きるのがよかろうおと思われた時に、起床したし、そうしたいと思ったときに、飲み、喰い、働き、眠った。誰に眼を醒まされるということもなく、飲むにせよ食べるにせよ、またその他何事を行なうにつけても、誰かに強いられるということはなかった。そのように、ガルガンチュワが決めたのである。一同の規則は、ただ次の一項目だけだった。
欲することをなせ。
FAY CE QUE VOUDRAS,

 
(渡辺訳、248ページ) そのように定められたのは、正しい血統に生まれ、十分な教養を身につけ、よい友人たちと付き合ってきた自由な人間にはもともと良知(honneur)というものが備わっているので、外から余計な干渉や圧迫を加えるべきではないと考えられたからである。〔すべての人間ではなくて、恵まれた環境に生まれ育った人間に限定された<性善説>が唱えられているのが特徴的である。〕 外から押さえつけたり、禁じたりしようとする人々は、人間には禁じられたことをしてみたい、拒否されたことを求めてみたいという性向があることを忘れてはならないのである。

 修道院の雰囲気は自由だったから、各個人の意志と集団の意志とが食い違うことはなかった〔実際にそんなことが実現するかどうかは疑問である〕。「彼らは、高貴な教養を受けていたから、読むこと、書くこと、歌うこと、楽器を奏でること、5つ6つの国語を操ること、またそれらの言葉で詩歌や散文を綴ることのできない者は一人としていなかった。」(渡辺訳、249ページ) 〔修道院に入る前から、このような教養を身につけていたのか、入ってから身につけたのかがはっきり書いていないところが問題である。〕 また修道院の男子たちは騎士としてふさわしい勇敢さと武芸の腕を持っていたし、女性たちは貞潔で、手仕事に秀でていた。
 このようなことから、修道院の男子が自分の意志で、あるいは親の意向に沿って、修道院を去る際に修道院の女性と結婚することはよくあることであったという。

 ところで、この修道院を建てている際に、その土台下から一枚の銅板が発見され、そこには一篇の謎歌が記されていた。物語の最後に、この謎歌を紹介することを忘れてはならないだろう。

第58章 後世(のちのよ)照らす謎歌
 幸(さち)待ち侘ぶる哀れなる人々よ、
 勇を鼓して、我が言葉を聞き給え。
(渡辺訳、250ページ)で始まるこの詩は、やがて冬を迎えようとする季節に、一群の人々が現れ、世間を惑わそうとする。その結果、争いが起きて世の中は乱れる。この戦いの中で力を得るのは、真理を奉ずる人々ではなく、信仰をもたない人々である。そして大きな洪水が起きて、人々は苦しむ。騒ぎの中で球体はどのような安息を得るというのか。しかし、やがては平和と安息の日々が訪れるだろうというような内容である。

 これを読んだガルガンチュワは溜息をもらす。「福音書の御教えを信ずるに至った人々が迫害を蒙るということは、何も今の世だけとは限らぬものと見えるな。」(渡辺訳、257ページ)
 ジャン修道士は、これに対して、殿のお考えではこの詩はどのようなものかと質問する。
 ガルガンチュワは「神の真理の進みゆく姿と、その有様(ありよう)に外ならぬではないか。」(渡辺訳、257ページ)というが、ジャン修道士は、これは打球戯(ジュ・ド・ポーム)の様子をわかりにくい言葉で表現しただけのものだという。洪水は流れる汗のこと、球体は打球戯のボールのことだという。試合が終われば勝ったものにとって楽しい時間が待っているだろう。「されば、これより大盤振る舞い!」(Et grand chere!、渡辺訳、258ページ)

 こうして、『ガルガンチュワ物語』は終わる。多少の謎を残して終わるというのが正直な感想であろう。謎歌の本当の意味は、ガルガンチュワの解釈したようなものかも知れず、それは、この物語が書かれたのがフランス国内でカトリックと新教徒との戦いが次第に激しさを増している時期であり、しかも、ラブレーは、彼がその師と仰ぐエラスムスと同様に、カトリック教会の腐敗に対しては批判的であったが、宗教改革の排他的・狂信的な傾向にもついていけず、理想と現実とをどのように釣り合わせていくかに腐心していたところだったからである。最近、講談社の文芸文庫から出版された渡辺一夫『ヒューマニズム考』は、このあたりの事情をより深く理解するのによい書物だと思うので、ぜひご一読ください。しばらくお休みを頂いて、次は『第二之書 パンタグリュエル物語』の内容を紹介していきたいと考えている。それではまた。


梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(4)

11月28日(木)雨が降ったりやんだり。この空模様が3日続くと、さすがに嫌になる。

 1957年の11月から1958年の3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジア諸国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。さらに1961年から62年にかけて派遣された第二次の調査隊にも客員として参加して、研究のその後の進展を見届けた。この書物は、この調査旅行における梅棹の私的な記録をまとめたものである。
 北タイで調査を進める他の隊員たちと別れて、梅棹と医師で昆虫学者の吉川公雄は、タイを出て、カンボジア、ベトナム、ラオス歴訪の旅行に出かけた。通訳として、当時外務省の留学生であった石井米雄が同行した。
 1958年2月12日、梅棹一行はワゴン車に乗り込んでバンコクを出発、その日はナコーン・ナーヨックに一泊、2月13日に国境を越えて、カンボジアに入り、バッタンバン市に到着した。カンボジアはタイとちがって、フランスの植民地であったので、その名残が見られる一方で、中国人の存在感が大きい。バッタンバンは第二次世界大戦中、タイ領に編入されていたために、まだタイ語が通じるので、一行にとっては好都合であった。〔以上、第12章「歴史の足あと」の途中までの要約〕

第12章 歴史の足あと(続き)
 誤解されたお客
 梅棹はタイに滞在中は彼の乗っているワゴン車の左方に日の丸の旗を、右方にタイ国旗を立てていた。カンボジアに入ったので、今度は右方にカンボジアの国旗を立てようと思って、バッタンバンの町で旗を売っているところを探した。町はずれに旗屋があるのを見つけて、入ったところ2階の応接間に通されるという歓迎を受けた。あとで判ったことであるが、この店で大量の旗を注文したタイ人がいて、石井のタイ語が上手なので、そのタイ人と間違えられたのであった。誤解が明らかになった後でも、この店の人々が歓待の態度を変えなかったのはありがたいことであった。
 厚意に甘えて、梅棹は家の中の様子を見せてもらった。この一家は平均以上の暮らしをしているようで、家の中は清潔で、よく片付いていた。「わたしは、バルコニーから裏を見る。周りはカンボジア人の住宅ばかりである。市の中心部のシナ人街とはまるでちがって、高床、トタン葺きの家である。みんな小さく、貧しげである。庭には、バナナやパパイヤの木を植えて、かれらの住まい方は、こんな都会であっても、まるで農村的である。かれらは、いったいどういう職業についているのだろうか。」(44‐45ページ)

 農村風景
 「バッタンバンからは、道はひじょうによくなった。トンレ・サップ南岸の大平原を、まっしぐらに走る。さえぎるものもなく、田んぼが無限にひろがっている。米の国カンボジアの中心部に入ってきたのである。」(45ページ)
 トンレ・サップ湖は、雨季になると水を集めて、乾季にはからからに乾いている土地までも拡大する。その時に備えて、道端の民家には小舟が備えられている。
 バッタンバンからポーサットに向かう途中、いくつもの小さな、貧しげな村を通りすぎる。家のつくりは高床式であるが、その高さは1メートルばかりということが多い。村を囲む森もなく、家々の周りにビンロウとバナナの木が植えられている程度である。
 しかし、村人たちの様子は陽気であると、梅棹は観察した。男同士、女同士でおしゃべりに興じている。女たちの服装や髪形はタイのメナム平原に似ているが、少し違うところがある。すでに米の収穫が終わって麻袋に詰められていて、あとは中国人の経営する精米所に送られるだけということらしい。
 ところどころに寺が建てられている。カンボジアはタイと同じくテラワーダ(上座部)仏教の国である。タイと同じく、男子は一生のうち一度は僧になる習わしだという。「寺のスタイルはしかし、タイよりも単純で、そして美的である。」(46ページ)

 甘美な国家の味
 一行はポーサットを経て、コンポン・チュナンに向かう。道はよくなったが、その道を利用しているのは牛車が多い。「山のように、素焼きのツボをつんだ牛車が、ゆっくりと歩んでいる。そんな車に、何台も行きあう。このあたりに、陶器の大生産地があるのだろうか。」(46‐47ページ、残念ながら、「陶器の大生産地」については確認できない。)
 通りすぎる、どの村でも初等教育の学校に通っているらしい子どもたちの姿を見かける。カンボジアが教育に力を入れていることがわかる。コンポン・チュナンの町に入ると、陸軍の兵士たちの行進がおこなわれていて、人だかりのために車を進めることができなくなった。「独立を保ち、国を未来におしすすめてゆくためには、新しい世代の教育とともに、武装もまた必要なのである。」(47ページ)

 と、サイレンがひびきわたり、兵士たちは直立不動の姿勢をとり、群衆も静止した。毎日の夕方におこなわれる国旗の掲揚式に出会ったのである。こういう国家的な儀式に日本人は感動しなくなっているが、「…独立をかちとってまだ日の浅いカンボジアは、『国家であること』をいまや、深く味わっているところなのであろう。ながく国家であることを失っていた国にとっては、国旗も、国家的儀式も、軍隊も、それは、えもいわれぬ甘美な味わいのものであるにちがいない。」(47‐48ページ)
 儀式が終わると、人々がまた動きだす。一行は公園の露店の喫茶店で飲物を飲もうとするが、当時のカンボジアは(冷戦の中で)中立政策をとっていたために、アメリカ系の飲物は輸入されていなかった。「この国の喫茶店においてあるのは、どこでつくっているのか知らないが、赤や青や黄色の、いかにも毒々しい色つきの水である。まさか毒にはならないだろうが、ためしに飲んでみたら、まことに言語を絶する味で、一口でやめた。中立主義国家の味は、われわれにとっては、かならずしも甘美ではない。」(48ページ)

 オールド・ファッションのお役人
 カンボジアの都市交通の主力は、シクロとよばれる人力による三輪自転車である。タイではサームローとよばれているが、カンボジアではシクロというのは、フランス語から来たものであろう。〔日本でも輪タクというのが1970年ごろまでは走っていたはずである。〕 タイのは本当に三輪であるが、カンボジアの場合は、普通の自転車の後ろに二輪の座席を連結したもので、タイヤの数からいえば四輪であるという。

 シクロのたまり場で、乗ろうとしている老官吏を見かける。梅棹が注目したのは彼の服装である。白いつめえり服に黒のパーヌンをはいていた。パーヌンというのはタイ語で、クメール(カンボジア)語で何というのかは知らないが、外見はタイと同じだと梅棹は書いている。
 タイでも官吏の正式の服装は白のつめえり服にパーヌンだと何かの本に書かれていたが、それは昔の話で、王宮の使用人は色物のパーヌンをつけているとはいうものの、ほかの官吏はカーキ色の軍服みたいなものを着ている。ところが、カンボジアでは昔通りの服装をした官吏が今でもいることを確認する。なんとなく懐かしい気分になったと梅棹は言う(梅棹が私生活では和服を愛用していたことを思い出してもいいのかもしれない)。
 「もっとも、この服装を持って、タイやカンボジアの固有のものと考えることはできないであろう.固有のものの形をのこしながら、それはあきらかにヨーロッパ風な改変をうけたものである。」(49ページ) 官吏の服装から東南アジアにおけるヨーロッパの影響、さらにその日本との比較に説き及ぶあたりに梅棹独自の比較文明論の片鱗がみられる。この服装は第一次の欧化の産物であり、「青年たちは、ベレー帽に半そで開襟で、訓練をうけている。」(50ページ) これは第二次の欧化であろうという。「シクロは、オールド・ファッションのお役人をのせて、のろのろと動きだした。」(50ページ)

 パルミラ・ヤシ
 梅棹一行はコンポン・チュナンからプノンペンに向けて車を走らせる。「南に下るとともに、景観はしだいに変化を見せる。灌木林がふえ、パルミラ・ヤシが目立ちはじめている。/パルミラ・ヤシは、水田のまんなかに、幾本もが束になって、すくすくと立っている。それは、南の国の単調な水田の風景に、変化としまりを与えるものである。」(50ページ)
 パルミラ・ヤシは梅棹にとって、1955年にインドに旅行した際からのなじみ深い植物である。タイでも、バンコク近郊ではよく見かけたという。「ずっと古くに、おそらくはモン帝国やクメール帝国がさかえるよりもっとまえに、インドから水田耕作とともにむすびついてはいってきたものだろう」(50ページ)と梅棹は推測する〔パルミラ・ヤシは「オウギヤシ」とも言い、アフリカ原産だそうである〕。

 梅棹は、パルミラ・ヤシがインド人に親しまれている植物であることを『ラーマーヤナ』の中の挿話を引き合いに語る。愛する妃であるシータを魔王に奪われたラーマ王子は、彼女を取り戻すために遍歴を続けるのだが、その時に、パルミラ・ヤシを見てシータの胸のふくらみを思い出し、涙するというのである。東南アジアの「小乗仏教世界」(さっきはテラワーダ仏教といい、今回は小乗と書いていて、一貫しない)はインドから米作とパルミラ・ヤシだけでなく、『ラーマーヤナ』も受容しているという。ただし、カンボジア版の『ラーマーヤナ』でパルミラ・ヤシの挿話がどのように扱われているかは知らないとも書いている〔正直である。しかし、『ラーマーヤナ』は岩本裕によれば、「小乗」仏教世界だけでなく、東南アジアの大乗仏教が盛んなベトナム、イスラーム教が優勢なインドネシアにも広がっていて、インドネシアの影絵芝居であるワヤンの演目ともなっている。さらに、中国や日本の説話集にもこの物語について記したものがある由である〕。
 ある小さな町で、一休みした際に、露店でパルミラ・ヤシの樹液が売られているのを見たし、さらに樹液を採取している現場も見たようである。日が暮れて、午後7時ごろにプノンペンに到着する。
 こうして第12章が終り、次回から第13章「ゾウと王さま」に入る。プノンペンとその周辺の見聞が記されている。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(4)

11月27日(水)雨が降ったりやんだり

 語り手の乗った船はペルーから中国・日本をめざして太平洋を西にむかおうとしたが、途中から風向きが変わって、予定から大きく外れ、太平洋の北の海域に押し流された。そして見知らぬ陸地に近づいたが、上陸しようとして、そこの住民たちに阻止される。彼らは、船に乗っている人々がキリスト教徒であり、海賊ではないことを確認して初めて、上陸を許可した。そして一行の主だったものは、上陸して異人館(the Strangers' House)に迎えられた。そしてこの土地の仕来りにより、船の乗員は全員荷物とともに上陸すること、その人、翌日、さらに3日間の間、異人館に留まるように言い渡される。

 翌日、船の乗員たちは全員、異人館に移ることができた。語り手は、乗員全員を集め、自分たちが幸運にも滞在を許されたとはいえ、これからのことはまだわからない。この土地の人々から言い渡された規則をきちんと守って、礼儀正しく行動するように申し渡す。その3日間を一行は異人館の中で快適に過ごし、その間に病人たちは速やかに健康を回復したのであった。

 3日たった次の朝に、これまで現れたことのない、別の新しい人物が一行を訪問した。彼は一行に礼儀正しく接し、一行の中の少数のものと話したいといったので、6人だけが残って話すことになった。彼はこの異人館の館長(office governor)であり、またキリスト教の司祭(Christian priest, 川西さんは「牧師」と訳しているが、イングランド国教会≂聖公会では「司祭」を使うので、こちらの方が適切だと思う)であるという。そして、この2つの職責から、一行が知りたいと思っていることを説明したいと思うという。

 まず、一行にはとりあえず6週間の滞在許可が与えられたが、事情によっては、彼自身の権限で期間を延長できるという。また、異人館は経済的に豊かで、十分な余裕がある。というのは、外国人の来訪がまれなため、今まで37年間も歳入を蓄えることができたのだという。したがって、一行の滞在費用は国が負担するし、一行が持ってきた品物については、適切に処理し、等価の物品、または金銀で返済するという。何事によらず、一行の要望には応えるつもりなので、遠慮なくいろいろと要望を出してほしい。しかし、特別の許可がない限り、市を取り巻く城壁から1カラン(約2.5キロメートル)以上離れてはいけないというのが彼の発言であった・〔ここで「カラン(Karan)」というのは、この土地で使われている尺度として、ベーコンが創作したものらしい。〕
 この寛大な申し出に対して、一行は感謝し、彼らの決まりに対する服従を誓う。そして、館長が去った後も、「天使の国に来たようだ」(川西訳、19ページ)と喜び合ったのであった。

 翌日の10時ごろにまた館長が現れ、彼らが「ベンサレムの島」と呼んでいるこの国では、海外に旅行する場合には自国の機密を保持する義務が課せられ、また外国人の訪問を受け入れることもないので、この国のことは外の世界ではほとんど知られていないのだという。そこで、自分たちの国のことで知りたいことがあれば、質問してほしいという。
 館長と対応したのは、一行の中の身分が高く、健康な10人ほどであったが、これまでの自分たちに対する扱いに感謝し、この国の人々が幸福そうに暮らしていることを賞賛しながら、どのようにしてこの国にキリスト教が広がったのかを教えてほしいと質問する。
 その答えは驚くべきものであったが、紹介は次回にゆずることにしよう。ベンサレムBensalemというのは、「エルサレムの子ども」(サレムはエルサレムの古い呼び名だそうである)という意味であるが、さらにこの語には「平和」とか「平安」という意味があるので、「平和の子ども」という意味にもなるとスーザン・ブルースは注記している。
 船の乗組員たちが全員無事に未知の島に漂着するというのは、『クリスティアノポリス』や『ロビンソン・クルーソー』の設定と大きく異なる点である。その一方で、乗員たちに、身分の差があって、そのことについてベーコンが当然のこととして記しているのも注目すべき点である(みんなが働くとか、平等だとか言う意識は全くないのである。この点はモアやカンパネッラと大きく異なるところである。) 
 住民たちが「ベンサレムの島」と自称している土地をなぜ「ニュー・アトランティス」と語り手は呼ぶのかという疑問を持つ方もいらっしゃるだろうが、その理由はおいおい明らかになるので、いましばらくご辛抱ください。

『太平記』(290)

11月26日(火)雨が降ったりやんだり

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実は、貞和3年、以下の出来事も実は1年前に起きている)。11月、正行は住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。翌正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。正行・正時兄弟は戦死し、師直軍は吉野へ押し寄せた。このため、後村上帝と南朝の人々は、吉野を去り、さらに山奥へと落ち延びたのであった。

 南朝の朝廷が吉野を去って、山中を逃げまどっているうちに、高師直は3万余騎の軍勢を率いて、吉野へと押し寄せ、3度鬨の声をあげたが、すでに人々が逃げ去った後なので、こたえる声はなかった。それならば焼き払ってしまえということで、皇居や側近の貴族たちの宿所に火をかけた。折からの強風にあおられて、2丈(約6メートル)の高さのある笠鳥居、2丈5尺(約7.5メートル)の高さの金鳥居、二階建ての仁王門、蔵王堂近くの天神宮、72間(約130メートル)の回廊、三十八所神社、宝蔵、竈神を祀る神社、蔵王堂の本尊である蔵王権現の三尊の社壇まで一時に灰燼となり、煙が空に立ち昇った。あさましいことかぎりのない情景であった。
 この時代は神仏が習合していたので、南朝が頼りにしている金峯山寺にも鳥居があったり、仁王門があったりする。岩波文庫版の脚注には笠鳥居は金峯神社の鳥居(修行門)か、金鳥居は、総門と蔵王堂の間の銅製の大鳥居(発心門)と記されている。実は吉野に出かけたことがあるのだが、何せ60年以上昔のことなので、ほとんどのことを忘れてしまった。ただ、蔵王堂の規模の大きさに感心したことだけはかすかに記憶している。

 さて、北野天神の社壇がなぜ吉野にあるのか。延喜13年(西暦913年)に吉野の奥にある大峯の笙の岩屋で修業をしていた日蔵上人が頓死するという出来事があった。すると蔵王権現がその左の手に上人を乗せて、地獄の閻魔王の宮殿へと連れて行った。閻魔庁の役人の1人が、上人に倶生神(くしょうじん)を1人付き添わせて、六道(衆生が輪廻する6種の世界:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を見せた。倶生神というのは人が生まれた時から常に両肩のところにいて、その人の一生を閻魔王に報告する男女2神である。ここではそのうちの1人が随行することになっている。
 こうして地獄の中の鉄窟苦所(てっくつくしょ)というところにやって来ると、溶けた鉄が湯のようになっているところに、玉のを被り、天子の装いをした罪人が苦しんでいるのが見えた。その罪人が手を挙げて上人を招いている。どんな罪人であろうかと不思議に思いながら、近づいてその顔を見ると、延喜の帝(醍醐帝)であった。

 上人は、御前に跪いて、陛下はご在位の折に、外には五常(仁・義・礼・智・信の5つの徳)を正しく保たれて仁義を専らにし、内には五戒(殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒をしないという5つの戒)をお守りになって慈悲を心がけて政治にあたられたので、十地等覚(じゅううじとうがく=仏になる一歩手前の、菩薩の修業の最終段階)の位に到達されるであろうと思っておりましたのに、なぜこのような地獄に堕ちるようなことになられたのですかとたずねた。
 すると、帝は涙を流されながら、私が在位の間、帝としての総ての職務を怠りなく果たし、民衆をいたわって治世を行えば、何事も間違いないはずであったが、藤原時平の讒言を信じて、無実の罪で菅丞相(菅原道真)を左遷したために、この地獄に堕ちたのである。上人は、いま、冥土に滞在しているが、これは定業(じょうごう=前世から定まった宿命)ではないので、生き返るはずである。私と上人との仏道における師弟関係は浅いものではない。上人は早く娑婆に生き返って、すぐに菅丞相の廟を建てて、衆生を導き利益を施してほしい。そうすれば、私はこの苦しみを逃れることができるだろうと、泣く泣くおっしゃったので、上人はそれを詳しく承ったということで、吉野山に廟を建てて、衆生に恩恵を与えるようにした。これが天神の社壇の由来である。

 蔵王権現というのは、昔修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)が衆生を救済するために金峯山に一千日籠って生身(しょうじん=肉身)の像を現出させようと祈ったところ、この金剛蔵王はまず柔和忍辱(にゅうわにんにく=温和で怒らず耐え忍ぶこと)の相を顕わされて、地蔵菩薩のお姿で地から湧き出られた。役行者はその頭を押さえて、これからは末法の世の中になるので、そんなおやさしいお姿では人々を導くことはできそうにありませんと申しあげたところ、像は伯耆国の大山へと飛び去って行かれた。そして激しく怒った姿に様子を変え、右のお手には密教の法具である三鈷(さんこ)を握って肱を怒らせ、左のお手には5本の指を組み合わせて(印を結んで)お腰を押さえられた。激しく怒った姿で睨みつけて、仏道を妨げる悪魔をとり鎮める神の姿をされ、一方の足を高く上げ、他方を低くして、天地を秩序づける威徳を顕わされた。〔文章だけだとわかりづらい。〕
 お姿の顕わし方が尋常の神仏のそれとは違い、またお姿を錦の帳の中にお隠しになろうとしないので、この世に現れた姿を隠すために、役行者と天暦帝(村上帝)がそれぞれ脇侍となる二尊の像を造り添えて、三尊として安置することとした。悪愛(おあい=忿怒と慈愛)を日本中に示し、人々の是非を正し、全世界に賞罰を明らかにして、煩悩にとらわれる人を懲らしめ、物事を糺した。仏が神として顕れた例は多いが、蔵王権現こそは衆生利益のあらたかなことは、他にまたとない霊妙な神である。

 このような不思議な霊験を持つ社壇を一度に焼き払ってしまうことを、悲しまない人がいただろうか。だからこそ、この知らせを聞いた人々は大いに悲しんだのであるが、その一方でこういう悪事を働く高師直は、間もなくその命運が尽きて滅びることになるだろうと思わない人はいなかったという。

 こうして第26巻は終わる。師直に追われて吉野を去る南朝の人々の姿を描いた後に、霊場を焼き払う師直の悪行と、吉野がどのような理由で霊場となったのかを語る2つの説話が語られる。
 無実の菅原道真を左遷したことにより、醍醐帝が地獄に堕ちたという説話は、『北野天神縁起絵巻』にも描かれている。東御苑の三の丸尚蔵館に『北野天神縁起絵巻』が複数収納されているのは、すごいなあと展示を見て感心した記憶がある。その一方で、醍醐・村上二帝の時代は摂政・関白を置かずに帝が親政されたため、「延喜天暦の治」として理想化する人々もいた。日本の中世というのは、一筋縄では語れない時代なのである。〔『太平記』とほぼ同時代に書かれた(少し先行する)ダンテの『神曲』にはローマ教皇の一人が地獄に堕ちている姿が描かれているのも注目に値することである。〕
 帝王の守るべき徳として、儒教的な五常と、仏教の五戒が並置されていること、蔵王権現の信仰が神仏混交であることなど、中世人の世界観が様々な要素を結びつけながら、独自の世界を構築するものであったことも注意する必要があるだろう。  

日記抄(11月19日~25日)

11月25日(月)朝のうちは曇っていたが、その後、晴れ間が広がる。しかし、15時ごろからまた雲が広がってきた。

 11月19日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:
11月18日
 『日経』に大学共通テストの国語・数学における記述式問題の導入をめぐって南風原朝和東京大学名誉教授がその問題点を指摘する論考を掲載している。大規模共通テストに記述式問題を導入するのは無謀な企てであり、どのような答案を正答と判断するかをめぐって混乱が生じることは、容易に想像できる。萩生田文科大臣は出題者側と採点事業者とが事前に基準をすり合わせることを提案しているが、それは結局、客観的なマークシート式に近づけることになり、記述式を導入した意味を否定することになりかねない。それに問題が漏洩する恐れもなしとはしない〔英国の標準テストのように、科目によっては、はじめから出題範囲を明示するというやり方ならば、それはそれでいいのではないかと思う〕。大学入試の現場を知らない人たちが机上の空案を立てて、現場の担当者からいろいろな問題点を指摘されても、なかなか耳を貸さないところに問題があるというのである。理念の正当性は、手段の非現実性の言い訳にはならない。このことを教育政策・行政にたずさわる者は肝に銘じるべきである。

11月19日
 『朝日』の朝刊に掲載された世論調査の結果によると、「英語民間試験」導入に反対という意見が49%に達したという。2月に日本財団がおこなった調査では支持する意見が大勢を占めていたはずである。この企てには、グローバルな人材を育成するための入試改革というような改革の目的・意義に関わる部分と、それをどのような具体的方法(この場合は入試)によって実現していくかという手段に関わる部分とがあり、2月の時点では目的に賛同する人が多かったのが、その実施上の問題点が明らかになるにつれて、反対意見が多くなってきたものと考えられる。

 『日経』の朝刊に台湾の伝統的な人形劇である布袋戯(台湾語でポーテーヒ)に取り組んでいる陳錫煌(チェン・シーホァン)さんのことが紹介されていた。陳さんの最近10年間を楊力州監督がカメラに収めたドキュメンタリー映画『台湾、街角の人形劇』が公開されるという。身に出かけてみたいが、さて、どうなるか。

11月20日
 インフルエンザの予防注射を打ってもらう予定だったのが、体調が悪く、注射をするとますます悪化する恐れがあるということで取りやめになった。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の"Word Watch"のコーナーで”topless meeting"という表現が取り上げられた。「toplessは本来「上半身が裸の」ということだが、ここではlaptop-lessの意味で使われている。ラップトップやスマートフォンなどのデジタル機器の使用を禁止する会議のことをこのようにいう。参加者の集中力が増すだけでなく、会議の時間が短くなる利点があるという。なお、LongmanのActive Study Dictionaryでtoplessという語をひくと、”a woman who is topless is not wearing any clothes on the upper part of her body”と説明されている。

 同じ番組の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
It is during our darkest moments that we must focus to see the light.
   ―― Aristotle (Greek philosopher, 384 - 322 BC)
最も暗い時期にいるときこそ、わたしたちは光を見出すために集中しなければならない。

 サッカーW杯の第二次アジア予選を対象とした1138回のミニtoto-Aが当たった。賞金はわずか278円であった。

 『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅲ』で広島市の市街を走る路面電車(streetcar)のことが取り上げられた。戦争中は、広島電鉄が設置した広島電鉄家政女学校の生徒が運転していたということ、原爆投下後も被爆電車が走り続けたことなどが英語で紹介された。調べてみると、広島電鉄家政女学校は1945(昭和20)年9月に廃校になり、卒業生が1人もいないだけでなく、当時の在学生は国民学校卒業という学歴にしかならなかったなど、様々な問題点が浮かび上がるのだが、そのようなことがこれからの放送でどれだけ明らかにされるのかという点にも注目する必要がありそうだ。

11月21日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「すばらしきラテンアメリカ」では、日本人の夫婦がラテンアメリカを旅してまわるという内容を放送しているが、これまで案内してくれていたメキシコ人の友人夫妻と別れることになり、”Las Golondrinas"(つばめ) というメキシコの有名な別れの歌を歌うという話が展開された。日本人の佐藤夫人がペドロ・インファンテ風に歌いましょうというところで話は終わり、肝心の歌は聞くことができなかった。YouTubeでペドロ・インファンテの歌う「ラス・ゴロンドリーナス」はわりに簡単に見つかるので、興味のある方は探して聞いてみてください。

 同じく『ボキャブライダー』でピーマンのことをgreen pepperという話が出てきた。ピーマンというのはフランス語起源だというのだが、フランス語ではpoivron vertという。poivron rougeまたはpoivron jauneというのはパプリカのことだそうである。ついでにイタリア語ではpeperoneという。

 宮田珠己『いい感じの石ころを拾いに』(中公文庫)を読み終える。私も、石は好きな方だが、石好きにもいろいろな種類があることを教えられる。

11月22日
 『NHK高校講座 倫理』では「プラトン 永遠へのあこがれ」としてプラトンの哲学について、イデア論と、哲人政治の理想の2点に絞って取り上げていた。ラブレーの『ガルガンチュワ物語』第45章で、ガルガンチュワも言う言葉:「王者が哲理に則るか、或いは哲人が政事(まつりごと)を執るかいたす時には、国家は福楽を得るものだ」(渡辺訳、210ページ)が引用された。
 ローマの皇帝であったマルクス・アウレリウスがストア派の哲学者であったのは有名な話だが、他にも英国の首相(1902‐05)をつとめたアーサー・バルフォア(1848‐1930)とか、チェコスロヴァキアの大統領(1920‐35)であったトマーシュ・マサリク(1850‐1937)など、哲学者でもあった政治家は少なくない。しかし、デモクラシーの社会では、国民の方がもっと哲学を学んで市民としての自覚を高めることの方が重要ではないかと思う。

11月23日
 全国高校サッカー選手権の神奈川県大会の準決勝が相模原市の祇園スタジアムで行われるので、見に行くつもりだったが、体調が悪いので断念し、その代わりに、神保町に出て西岡民雄さんの個展を見て、神保町シアターで映画を見ようと計画したのだが、それも断念した。週の初めごろに比べるとだいぶ体調は良くなっているが、それでもあまり無理はしない方がよさそうだ。

 三浦佑之『古事記神話入門』(文春文庫)を読み終える。『古事記』本文の主要部分の現代語訳に著者独自の解説がくわえられている。『日本書紀』と対比しての『古事記』の特色の一つは、出雲神話に関わる部分が多いことである。
 引き続き筑紫申真『日本の神話』(ちくま学芸文庫)を読み始めているのだが、こちらは日本の古代神話は古代専制王権を美化するために”作られた神話”」(だという前提に立ち、その創作の過程に伊勢の海民たちが貢献したために、彼らの固有信仰が投影されることになったという独自の議論が展開されている。
 特に気になったのは、泉鏡花の『歌行燈』、『高野聖』に関連して次のような指摘がなされていることである。「鏡花の小説の幻想性は、日本の固有信仰にしっかりと根ざした発想から生じていて、容易に人々を夢幻の共感へと誘う。」(20ページ) 「原始信仰の気分が人々に理解されうる普遍性をもちつづけるかぎりは、神話は生きている。それは生き続け、日本人の心をとらえつづけると思われる。・・・『歌行燈』や『高野聖』を読んで感動できるあいだは、日本人のこころの奥底で”つくられた日本神話〟も生きつづけることができる。――なぜなら、日本神話やこれらの鏡花の小説は、みな日本の原始的な固有信仰を基盤にして創作された作品なのだから。」(24ページ) 創作ではあっても、それなりに古代の人々の信仰が反映されているというのである。
 ところで、柳田国男の『遠野物語』のインフォーマントであった佐々木喜善は鏡石と号するくらいで、泉鏡花のファンであったのだが、佐々木から『遠野物語』を贈られた鏡花は、この作品をあまり評価しなかったので、佐々木ががっかりしたという話がある。京かがなぜ、『遠野物語』を高く評価しなかったのかというのも、考える価値のある問題である。

11月24日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第42節(最終節)の横浜FC対愛媛FCの対戦を観戦した。この試合に勝てば2位と、J1昇格が確定するというので、ほぼ場内が満員となる観客が押し掛けた。先着1万名に応援用のTシャツを配布するということで、入場前に並んでいるときに、このあたりだとTシャツは品切れになるかもしれませんなどと言われたが、無事入手した。
 前半32分に横浜はCKのチャンスを得て、中村俊輔選手がボールを蹴ったところ、愛媛側に反則があり、PKとチャンスがさらに広がり、皆川選手が確実に決めて1点を先行。シーズン途中から加入した両選手が先制点に貢献した。さらに後半、齋藤功佑選手のゴールで点差を開き、愛媛の猛攻をしのいで、勝ち点3を挙げ、13年ぶりのJ1昇格を果たした。
 試合後、シーズン終了のセレモニーが行われ、今シーズン限りで引退する田所選手の挨拶の後、奥寺会長や、その他のスタッフがこれまでの応援への感謝や今後の抱負などを語ったが、キャプテンの南選手の40歳になってこのような場面に居合わせることができるとは思わなかった、長いことサッカーを続けてきてよかったという言葉が印象に残った。

 一方、横浜FCシーガルズは皇后杯トーナメントの2回戦で帝京平成大学に2‐1で勝利し、3回戦に進んだ。3回戦では日テレベレーザと対戦するはずで、応援というよりも、現在なでしこリーグで最強を誇っている日テレベレーザがどんなチームなのかに興味があるので、見に出かけようと思っている。それから、第1139回のミニtoto-Bが当たっていた。これで1月からの当選回数は27回となった。30回に届くかどうか、微妙なところである。

11月25日
 『週刊東洋経済』11月30日号(本日発売)は「本当に強い理系大学」を、『エコノミスト』12月3日号(本日発売)は「勝ち残る/消える 大学」を特集している。気になるので、立ち読みできるところで中身をのぞいてみよう。

 『日経』の朝刊で中央大学の古賀正義教授が、「集団活動が自然に行え社会性に富んだ『普通の市民』を育て上げる高校の役割が揺らいでいる」として、受験勉強の重圧や教師への反発などよりも、生活リズムの乱れや、対人関係のひずみが理由となって、高校を中退する生徒が増えてきている現状を指摘、高校教育が社会参加と自立のための教育に取り組む必要を論じている。示唆に富む内容である。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(20)

11月24日(日)朝のうちは雨が残っていたが、その後は曇り空が続く。

 19世紀の初めのイングランド、ロンドンの北にあるハートフォードシャーのロングボーンの村の地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス(エライザ、リジー)、メアリ、キャサリン(キティー)、リディアという5人の娘がいた。この一族は男系相続の仕来りであったので、一家の財産は5人の娘ではなく、遠縁のコリンズ氏に相続されることになっていた。それで、娘たちのうちの1人でも、裕福な紳士に嫁いでくれることが、ベネット夫人の切なる願いであった。
 ロングボーンの近くのネザーフィールド・パークを北イングランド出身のビングリーという裕福な青年が借りることになり、近くのメリトンの町で開かれた舞踏会でジェインを見初める。ジェインもビングリーに好意以上の感情を持つ。一方、ビングリーの親友でそれ以上の富豪だというダーシーという青年は、ビングリーからエリザベスと踊るように勧められて、それほどの美人ではないといって断り、それを聞いていたエリザベスの気持ちを傷つける。高慢な男性(ダーシー)と、それによって彼に偏見を抱いた女性(エリザベス)がこの物語の主人公である。
 ダーシーの叔母であるレディー・キャサリン・ド・バーグの恩顧によってケントのハンズフォードの教区牧師となったコリンズ氏がロングボーンを訪問し、エリザベスに求婚する。しかし、尊大さと卑屈さとが入り混じったこの人物を好きになれないエリザベスは、その申し出を拒否し、コリンズ氏は、ベネット家の隣のルーカス家の長女シャーロットに今度は求婚して承諾を得る。
 順調に交際を続けていたはずのビングリーとジェインであったが、ある日突然、ビングリーはロンドンに移動する。一旦は、エリザベスのことを軽んじる発言をしたダーシーであるが、その後で次第に彼女の魅力にひかれ始める。一方、エリザベスは、メリトンの町に赴任してきたウィッカムという国民軍の士官と意気投合し、近づきになる。彼はダーシーを子どもものころから知っているという。ロンドンに住んでいるベネット夫人の弟のガードナー氏がその妻とともにロングボーンを訪問する。ガードナー夫人は、ジェインをロンドンの自宅に招待してしばらく滞在させる配慮を見せる。彼女はダービーシャーに住んでいたことがあり、その点でウィッカムと共通の話題を持っていた。(以上第2巻第2章=25章までのあらすじ)

 ガードナー夫人はエリザベスと2人きりになる機会を見つけると、彼女に向かって、ウィッカムは好青年かもしれないが、財産をもっていないことが問題で、あまり深入りしない方がいい相手であると忠告する。これに対し、エリザベスは早まった真似をするつもりはないから安心してほしいと答える。〔コリンズ氏は自分に財産があり、エリザベスにはないことを強調して結婚を迫ったが、エリザベスは彼の人間的な魅力の乏しさから求婚を断った。ウィッカムの場合は人間的な魅力に惹かれながらも、相手の財産のなさがブレーキとして働いているようである。〕
 「叔母はそれなら安心だと明言し、エリザベスは叔母の親切な忠告に感謝して、二人は別れた。――このような問題で忠告がなされて、恨まれずに済んだ、驚くべき稀有な一例である。」(大島訳、255ページ) この――以下の個所は、意味がとりにくい。原文はa wonderful instance of advice being given such a point, without being resented. となっていて、中野康司訳では、
「恋愛問題について忠告すると、たいてい言い争いになるものだが、これは大変珍しい例である。」(251ページ)、また小尾訳では
「この種の忠告をして、相手が腹を立てなかったという、これは稀有な例である。」(260ページ)
 三者ともに、wonderfulを「稀有な」とか、「珍しい」とか訳しているが、『齋藤英和中辞典』にあるように「感心な、見あげた」という意味が含まれているように思う。作者は、ガードナー夫人とエリザベスの双方の分別を貴重なものとして描いているのである。 

 ガードナー夫妻は、ジェインを連れてロンドンに戻り、それと入れ替わるように、コリンズ氏がシャーロットと結婚式を挙げるためにやって来た。結婚式の前日に、シャーロットはベネット家を訪問し、その際の母親の対応があまりに不躾なので、エリザベスはシャーロットの後を追って言葉を交わすことになった。その際に、シャーロットは、自分は結婚後しばらくハンズフォードを離れることはできないと思うので、訪ねてきてほしいという。訪問しても楽しいことはないと思ったものの、エリザベスはこの願いを断ることはできなかった。シャーロットによると、彼女の父(サー・ウィリアム・ルーカス)と妹のマライアが3月に訪問の予定なので、その時に同行してほしいというのである。

 コリンズ氏とシャーロットの結婚式が行われ、2人はケントへと旅立っていった。その後、シャーロットからエリザベスにこれまでと同じように規則正しく手紙が届き、エリザベスもそれにきちんきちんと返事を出したが、「手紙を出すたびに、あの楽しかった親密な心の交わりはもう終わったのだと思わずにはいられなかった。」(大島訳、256ページ) シャーロットがどんな生活を送り、何を考えているのかは、自分の目で確かめないとわからないと、エリザベスは思った。

 一方、ジェインからは無事ロンドンについたという手紙があった。エリザベスは次の手紙では、姉がビングリー兄妹について何か書いてくるだろうと期待をもって第二信を待っていた。しかし、ジェインの次の手紙には、ロンドンに到着して2週間になるが、キャロライン(ビングリーの妹)にはまだ会っていないと記されていた。それで、機会を見つけて、ビングリーの一家が寄寓しているグロウヴナー・ストリートを訪問してみるつもりだと記されていた。
 ガードナー夫妻が住んでいるのはシティーのグレイスチャーチ・ストリートであり、グロウヴナー・ストリートはウェスト・エンドにある。鈴木博之『ロンドン』(ちくま新書)によれば(別によらなくてもいいが)、パリや東京と同様にロンドンも東の方が下町で、西の方がお屋敷町である(まあ、そうはっきりと分かれているわけではないが…)。そのことは、この小説でも、ジェインには外面よくしているけれども、底意地が悪そうなキャロラインが、ダーシーに向かっていったことでもある。

 ジェインはその次の手紙で、キャロラインには会ったが、彼女がロンドンに来ているとは知らなかったといわれる。ビングリーはダーシーと一緒にいることが多いので、姉妹でさえも会うことはあまりないのだという。
 何度か、ビングリーの姉妹を訪問しているうちに、さすがのジェインも彼女たちが口実を設けては、彼女から遠ざかろうとしていることに気づく。そのことを知らされて、エリザベスはほっとしただけでなく、ビングリー(のジェインに対する愛情)を信じる気持ちも消え去ったように思った。

 ガードナー夫人からは、エリザベスとウィッカムのその後の様子をたずねる手紙が届いたが、ウィッカムは祖父の1万ポンドの遺産を相続したミス・キングに注目の対象をを移したようなので、心配は無用だと書き送った。〔ミス・キングは、第3章でベネット夫人がビングリーの踊った相手を列挙する中にすでに登場している。①シャーロット・ルーカス、②ジェイン、③ミス・キング、④マライア・ルーカス、⑤ジェイン、⑥エリザベス…ということである。ビングリーがそつのない社交家であることが、この列挙によってさりげなく示されている。〕 ウィッカムに対して気も狂わんばかりの恋をしなかったのは、今になってみると幸いであったと彼女は書き送った。キティーとリディアには、美男子であっても、他の男性と同様に食べる手だてを講じなければならないということがまだわかっていないとも書き添えたのである。〔以上、第2巻第3章=26章まで〕

 次回、エリザベスはシャーロットをたずねてケントへと旅立つ。その前に、ロンドンでジェインと会うのを忘れない。そしてケントでは思いがけない展開が待っている…。 
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ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(5)

11月23日(土・勤労感謝の日)雨が降り続く

 紀元前1世紀のローマにおけるカエサルとポンペイウスの間で戦われた内乱は、ローマの共和政を終らせ、帝政への道を開く重要な歴史的出来事であった。ローマ白銀時代の詩人マルクス・アンナエウス・ルーカーヌス(39‐65)はこの戦乱を「内乱にもましておぞましい戦を、正義の名を冠された犯罪を」(第1巻・第2行、17ページ)と非難をこめながら、主題として歌っていくことを宣言する。古代の他の叙事詩にはあまり見られない出だしである。
 紀元前60年に成立した第1回三頭政治は、ポンペイウス、クラッスス、カエサルの力の均衡の上に成立していたが、紀元前53年に3人のうちの1人クラッススがパルティアとの戦いで敗死すると、残る2人の間の対立が激化する。「樫の古木」に譬えられる過去の英雄ポンペイウスと、ガリア遠征によって勢力を蓄えて台頭してきた「雷電」=カエサルの両雄の激突は必至の情勢となった。
 ローマと属州との境界であるルビコン川まで達したカエサルは、(人間の姿をとって現れた)ローマの幻影の警告・制止を振り切って、この川を渡り、境界の都市アリミニウムに侵攻する。そこに、ローマを追われたかつての護民官蛮勇クリオが合流し、内乱をけしかけると、カエサルは決意をいっそう固め、兵士に向かってその決意を述べ、兵士を鼓舞する演説を行う。兵士たちは、一瞬躊躇するが、百人隊長ラエリウスが忠誠と、ローマの破壊をも辞さぬ覚悟を語って扇動すると、全員歓呼して鬨の声をあげる。カエサルはガリア全土に展開する部隊を呼び寄せる。

 カエサルが、ガリアの各地に配置しておいた軍隊を自陣に呼び寄せると、その数は圧倒的なものとなる。しかもそれは10年以上にわたる彼のガリア平定のための戦いによって鍛えられた精鋭たちである。
 カエサルは、兵を糾合し、膨大な員数にのぼる兵力に、
さらなる大望を敢行する自信を深めるや、イタリア全土に
部隊を展開させ、ローマ近傍の、城壁囲う町々を兵で満たした。
真の恐怖にあらぬ噂も加わった。噂は人心を浸食し、戦禍迫るという
不安を植え付けた。迫りくる戦を先触れる足早の使者として、
無数の口の端の箍をはずし、流言飛語の風説を触れて回ったのだ。
(479‐484行、48ページ) 

 各地で戦闘が始まり、ローマ兵だけでなく、異郷からの傭兵を組み込んだカエサルの軍隊の強力さが誇張して噂された。
・・・かくして、だれもが怯えで噂に加勢し、
戦禍は根も葉もない風説ながら、おのおの勝手に妄想した恐れに
怯えたのである。
(497‐499行、49ページ) 民衆たちだけでなく、ローマの指導者であるはずの元老院議員たちでさえ、噂におののいていた。
・・・虚妄の恐怖に驚愕して怯えたのは民衆だけではない。
元老院議事堂の主、ほかならぬ父なる元老院議員たちさえ議席から
飛び上がり、議会で不本意な戦争を宣言する決議を執政官らに
託すと、逃げ出してしまった。
(499‐502行、49‐50ページ) 共和政期のローマにあって元首に相当するのが執政官(独裁を防ぐために2人が選出された)で、元老院(Senatus)はその諮問機関であるが、執政官は元老院の推薦する候補を民会が選挙するという方式であり、事実上は元老院が統治機関としての機能を果たしていた。執政官には軍団を組織・動員する権限があったが、軍事的な経験が豊かな議員を多く含む元老院の強力がなくては、その権限も有名無実のものになってしまうのである。ローマのSenatusは、現在の合衆国上院(Senate)の語源であるが、実際に果たしている機能も似ているところがある。

 こうして、カエサルが本格的に進軍してくる以前から、人々はローマを見捨てて逃げ出しはじめた。逃げようとする人々があまりにも多くて、道がふさがって逃げられないという有様である。
・・・引き戻すものもなく、群衆は遁走した。
・・・市民や征服した異民族で殷賑をきわめ、群なし蝟集(いしゅう)するとも、
全人類さえ容れることのできる覇者ローマの都が、
カエサル来たるの報とともに、容易(たやす)い獲物として、怯懦な手で
捨てられたのだ。
(521‐522、523‐526行、51ページ)

 しかし、民衆(と元老院議員たち)の怯え方がどんなに見苦しいものであっても、それは大目に見てやる必要があると詩人はいう。なぜならば、
遁走したのだ、ほかならぬポンペイウスが。何より
その事実が彼らの恐怖を物語る。
(532‐533行、52ページ)

 人々が、カエサル迫るの噂におののいて、逃げ惑う中で、さらに追い打ちをかけるように天変地異が起きる。
・・・ このとき、人々の
戦慄(わなな)く心を軽くする、行く末の希望を一切絶とうとしてか、
なおさら過酷な運命を告げる、紛れもない兆しが
追い打ちをかけた。威嚇する天上の神々が
地を、天を、海を予兆で満たしたのだ。
(533‐537行、52ページ) 超新星? オーロラ、流星、彗星、各地で見られる雷光、エトナ火山の噴火、さらにローマのウェスタ女神の神殿の祭壇の火が突然消えるという怪異、高波、亡霊の出現… これだけ列挙されると、かえって疑わしさが増してくるのだが、そのうち幾つの現象が今日、歴史的な事実として確認できるのであろうか(エトナ火山の噴火というのは、現実に起きた可能性はあるが、それほどの大噴火ではなかったようである)。人心が動揺していると、些細な出来事でも大事件のように思われることもある。それに詩人が誇張した表現をしているのかもしれない。とにかく、さまざまな異変によって、人々の動揺はさらに激しくなった。さて、カエサルの動きと、ローマの対応はどのようなものとなるか、それはまた次回に。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(26)

11月22日(金)雨

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、生まれるとすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことからこの名を得た。もともと大きな体の赤ん坊だったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと成長し、またもともと明敏な頭の持ち主であったが、新しい学問と教育法を身に着けたポノクラートという先生についてパリで勉強した結果、学芸と武勇の両方に秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王と隣国のピクロコル王との間に些細なことから戦争が起き、ピクロコル王の軍隊が国内に侵入してきたので、グランぐぅじぇはがルガンチュワを呼び戻す。故郷に戻ったがルガンチュワは、ポノクラートやその他の家臣たち、父親の家臣たち、それに自分の修道院のブドウ畑を一人で守ったジャン修道士らの助けを借りて、ピクロコル軍を壊滅させる。勝利を得て、平和を取り戻したがルガンチュワは、功労のあったものに領地を与えたが、ジャン修道士はこれまでになかったような新しい修道院の建設を願い出て、許される。そして、ロワール川沿いのテレームという場所に大修道院が建設される。

第55章 テレミートたちの館はいかなるものであったか(テレームの住人の館について)
 テレームの修道院は6角形の建物であることは前回に述べたが、その中庭の中央には噴水が設けられ、三美神の像が水を噴き出していた。中庭に面した建物には、回廊が設けられ、珍しい動物の絵や、その角、牙などが飾り付けられていた。
 男女がともに居住する修道院ではあったが、両者は別の建物で寝起きすることになっており、女子の寮舎の前には、スポーツや遊戯を楽しむ空間や円形劇場が設けられていた。
 川(ということはロワール川であろう)のすぐそばには美しい遊園地があり、その中央には見事な迷路が設計されていた。また打球戯(ジュ・ド・ポーム、宮下さんは「テニス」と訳しているが、今日のテニスとスカッシュの両方のもとになる球技である)と蹴鞠(渡辺訳、宮下訳ではボール遊び、サッカーとラグビー、その他が分離していくのは19世紀に入ってからのことである)をする場所があった。

 さらに火縄銃や弓や弩(いしゆみ)の射的場、厩、鷹狩のための鷹の飼育場、猟犬小屋などが設けられていた。また婦人たちの宿舎の広間の出口には、香料係や結髪係が控えており、女性たちを訪ねる男性たちの取次役も務めていた。

 つまり、テレームの大修道院の住人たちは生産労働に従事せず、遊び暮らしていたのである。修道院と言いながら、その内実は宮廷や騎士の居館に近い。マリー=ルイズ・ベルネリは、「テレームの修道院」をその『ユートピアの思想史』の中に含めて論じたが、そこで描かれている生活は、ルネサンス時代の王侯貴族の理想像であって、モアやカンパネッラの描くすべての人々が生産労働に従事する世界とは縁遠いことも注目しておく必要があるだろう。テレームの修道院には修道者たちのほかに、彼らに奉仕する召使の存在が描かれていることも見落としてはならない。

第56章 テレームの僧院の男女の修道者たちはいかなる衣装を身に着けたか(テレームの修道院の男女の服装について)
 修道院がはじめられたころには、女性たちは、それぞれ思い思いの衣装を着けていたが、その後、「一同の自由な意志によって」(渡辺訳、244ページ)制服のようなものが決められた。ここでは詳しく書かないが、それは極めて豪華なもので、流行に従って仕立てられ、決められた枠の中で自由に着こなすことができた。男子も同様に豪華な服装をしていた。
 修道士・修道女たちの衣服や装身具を提供するために巨大な工場が設けられ、そこで職人たちが腕を振るっていた。そして材料はある帰属によって海外から提供されたのである。

 この物語は58章からなり、本日のうちに最終章まで進めるつもりだったが、パソコンの調子があまりよくないので、紹介はここまでにしておく。ラブレーはエラスムスとともに、モアの著作にも親しんでいたはずであるが、彼の描く人間模様は、モアとは大きく異なることが理解していただければ幸いである。
 パソコンの調子がいまいちよくわからないこと、明日、明後日は外出の予定があることで、皆様のブログへの訪問が粗略になるかもしれませんが、悪しからずご了承ください。

細川重男『執権』(3)

11月21日(木)晴れ、温暖

 もともと伊豆の小豪族に過ぎなかった北条氏が鎌倉幕府の執権として将軍位を左右するほどの権勢を持ちながら、なぜみずから将軍に就任しなかったのかという問題を、執権職に就いた人物の代表例として北条義時と、時宗を取り上げ、その人物と仕事ぶりを検討しながら、鎌倉幕府の性格、とりわけ権力構造の変化について考えていく。
 北条氏は、時政の娘政子が頼朝と結ばれたことから、頼朝挙兵の当初から源氏の棟梁にしたがって行動した。緒戦の山木攻めには勝利したが、石橋山の合戦で大敗、その際、時政と次男の義時は土肥郷に逃げ、長男の宗時は別方向に逃げたが殺害された。こうして義時は時政の最年長の男子となったが、家督継承者とはみなされなかったようである。しかし、源頼朝には厚遇され、近侍して警護に当たる家子としての扱いを受けていた。このことが、その後の彼の地位に大きな影響を与えることになる。(第2章「江間小四郎義時の軌跡」の途中までの要約)

第2章 江間小四郎義時の軌跡(続き)
 覇権への道
 何もしない人
 義時が覇権への道を歩みはじめたのは、要するに彼が「何もしない人」であったからというのが細川さんの意見である。ほかの人たちが動き回っているときに、何もしない。もっとも動き回っても不思議ではないような地位にあって、動かないことでその存在感を発揮したということで、地位が低くて何もしないということであったならば、覇権への道を歩むなどということはないはずである。

 石橋山の合戦後、時政・義時父子は安房に逃れて頼朝に合流したが、すぐに甲斐源氏との同盟締結の使者として甲斐に派遣された。交渉力に長けた時政が主役で、義時はそのボディ・ガードに過ぎなかったものと推測される。(史料である『吾妻鏡』にその名がほとんど出てこないのである。) 源平合戦には範頼・義経の幕僚として参加したが、目だった武功もあげず、占領地行政で活躍するということもなかった。奥州合戦でも同様である。しかし、この間、頼朝に近侍して親衛隊長的な地位を与えられてきたのは既にみたとおりである。

 この間の目だった出来事として細川さんが取り上げているのは文治5(1189)年に起きた源頼朝の愛人をめぐる騒動の際に、北条時政の舅にあたる牧宗親が頼朝の怒りを買って辱めを受けたことに、今度は時政が怒って居ずに引き上げてしまったことがあって、その際に、頼朝が義時は父親に同調せずに鎌倉にとどまっているだろうといって、留まっていることを確認したうえで呼び寄せて、軽挙妄動をしなかったことをほめたという出来事である。細川さんは次のようにまとめている:
 「要するに、浮気が元で起きた夫婦ゲンカに端を発するバカバカしい家族のモメ事である。義時もそう思ったのではないか。
 ところで、頼朝時代の数少ないエピソードであるこの話でも、義時は何もしていない。夜、家にいたら、呼びつけられて褒められただけである。
 むしろ、この積極性のなさが、義時の人生の特徴である。本人は何もしていないのに、まわりで大騒ぎがおこり、義時が巻き込まれるというのは、そもそも頼朝挙兵にも通じるが、同じようなことが、この後何度も何度も繰り返されるのである。」(66ページ)

 陰惨な権力闘争
 義時が37歳の正治元年(1199)、源頼朝が53歳で没する。鎌倉殿の地位は直ちに長男で18歳の頼家に継承されたが、この年の4月に御家人の13人合議制が成立し、頼家は執政をとめられる。この13人の中に時政・義時父子が入っているが、父子で入っているのはこの一例だけである。〔この件については、前回=10月30日の項で触れるべきであったのが、見過ごしていた。なお、この13人は大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛である。なお、三浦義澄と和田義盛は叔父=甥の関係である。〕
 しかし結合の中心となる頼朝の存在が失われた後の御家人たちの利害の対立は激しく、鎌倉幕府は相次ぐ内紛・抗争に見舞われることになる。そしてその一連の抗争の最終的な勝利者が北条義時なのであった。

 以下、順を追ってその経過をたどってみよう:
①正治元年(1199)8月 安達景盛討伐未遂事件
②正治元年10・11月 梶原景時弾劾事件
③正治2年正月 梶原景時滅亡
④建仁元年(1201)4・5月 越後城氏の乱
⑤建仁3年5・6月 阿野全成誅殺事件
 頼朝の異母弟〔義経の同母兄〕阿野全成(あのぜんじょう)は北条時政の女婿となっていたが、反意ありとして頼家の命令により逮捕され、配流ののち、殺害された。〔これで、頼朝の兄弟は全滅したことになる。よせばいいのに…と思うのは私だけであろうか。〕
⑥建仁3年9月 比企の乱
 頼朝の乳母比企天野一族比企能員は、頼家の妻若狭局の父として権勢を誇っていた。頼家が重病で危篤となったことを好機とした北条時政は自邸に能員を誘い出して暗殺、同時に義時を先頭とする御家人たちの軍勢が若狭局の生んだ頼家の嫡子一幡の館「小御所」を襲い、立てこもっていた比企一族は若狭局・一幡とともに滅亡した。その後回復した頼家は抵抗を試みたものの失脚し、伊豆国修禅寺に幽閉され、弟実朝が12歳で三代将軍となった。この事件によって、時政は大江広元とともに政所別当に就任し、一挙に幕府の最高実力者となった。
⑦元久元年(1204)7月 源頼家暗殺
 時政の命により、修禅寺の配所で頼家が殺害された。

 この間の過程で、権力奪取を目指して動いているのは時政であって、義時は動かないか、父の配下で兵を動かしているだけである。さらに権力抗争は続くが、それはまた次回以降に取り上げていくことにする。
 
 

ベーコン『ニュー・アトランティス』(3)

11月20日(水)晴れのち曇り

 語り手の乗った船はペルーを出帆して、当時南海(the South Sea)と呼ばれていた太平洋を中国・日本方面に向かっていたが、途中で逆風にあったりして船が思うように進まず、北の方の未知の海域に押し流された。そして未知の陸地に接近、立派な建物がならんでいるのを見て安心して上陸しようとするが、島の人々に上陸を阻まれる。
 島の方から役人らしい人物が、語り手の船に近づいてきて、文書を渡す。そこには、上陸を許可せず、16日以内に立ち退くように命じるが、航海を続けるのに必要な物資の援助はする旨がヨーロッパの数言語で記されていた。文書に記されていた紋章から、彼らがキリスト教徒らしいと判断した一行は安心したり、不安にかられたりする。そして、船中に病人が多数いるので、上陸を希望するという返書を送る。
 島からはさらに上位の高官がやって来て、語り手たちがキリスト教徒であること、海賊ではないこと、船の中の病人たちが伝染病に感染していないことを確認して、上陸を許可し、島の中の外国人を滞在させる施設に迎えることをつげ、さらに1日待つように伝える。

 『ニュー・アトランティス』における未知の世界への第一歩は、かなり厳しい入国審査というこれまでのユートピア物語には見られなかった手続きを経ることになった。一行はキリスト教徒であるか否かを問われ、海賊ではないことを誓わされ、船の乗員たちがかかっている病気がどのようなものかを確かめたうえで、上陸を許可される。語り手の側からすれば一刻も早く、上陸したい、未知の土地について見分したいという要求があり、読者もその気にさせられているが、著者であるベーコンは法廷弁護士という法律の専門家、それも大法官という高い地位にまで登った人物であり、入国させる側の理由もしっかり考えている。後で詳しく述べられるように、この新たに発見された国の人々は鎖国(あるいは海禁)政策をとっていて、これもその際に述べられるように、当時中国(明朝)は海禁政策をとっていた(朝鮮も同様で、日本もこの後、鎖国政策をとる)。そのような東アジアの政策についてベーコンは知識を持っていたのである。

 そういうと、モアだって法廷弁護士であり、大法官であったというかもしれないが、モアとベーコンとの間には100年余りの時間の隔たりがある。モアが『ユートピア』を書いた直接のきっかけはイングランドと(当時ハプスブルク家の支配下にあった)フランドルの間の羊毛をめぐる貿易紛争の解決のための外交交渉であったことはすでに書いたが、モアにはそのように国家の利害を代表する法律家・外交官としての側面と、国境を越えた人文学者という側面とがあり、『ユートピア』では後者の側面が強く出ている。たしかに、彼の社会批判の矛先は主要にはイングランドの社会に向けられてはいるが、ヨーロッパ全体を視野に入れているし、未知の社会への好奇心をあからさまにしている。そして彼とともにユートピアについての話を聞くピーターはフランドル人なのである。対してベーコンは、モアの首を刎ねたヘンリーⅧ世の娘であるエリザベスⅠ世女王と、その後継者であるジェームズⅠ世に仕えた法律家であり、その間、1588年にイングランドはスペインの無敵艦隊を壊滅させて、海洋帝国への道を歩み始めていた。まだ大陸に未練を残していたヘンリーⅧ世時代と、世界を見る目が大きく違っているのである。

 翌朝予定されていたよりも早く、例の杖を持って彼らの船を訪れた役人が彼らを迎えにやってきた。そして彼らを異人館(the Strangers' House)に受け入れようと思うが、その前に下検分してもらいたいので、早めにやってきたのだという。一行は、彼の厚意に感謝し、語り手を含む6人が上陸したが、島の人々から礼儀正しい歓迎を受けた。
 異人館はきれいな広々とした建物で、ヨーロッパのものよりも青みがかった色のレンガ造りだった。「しゃれた窓があり、ガラスのもあれば、油に浸した亜麻布のもあった。」(川西訳、13ページ、この時代、まだガラスは高価でガラス窓は少なかった)。
 彼らは建物の中の広間に通され、船の中には何人がいるのかを尋ねられる。一行は51人で病人は17人だというと、約1時間後に戻ってきて、19部屋の準備が整えられていると告げた。そのうち4室は他よりもよい部屋で、一行の中の主だった4人が1人で使用するために提供され、残りの15室は2人ずつで使用するということらしかった。「どれもこぎれいな明るい部屋で、優雅な調度が備えられていた。」(川西訳、13ページ) その後、細長い、寮のような建物に案内された〔川西さんが「寮」と訳している語は原文ではdortureで、辞書を探しても見当たらない、現在の英語では使われていない語のようである〕。これは一行の中の病人のために準備されたものと思われたが、40部屋もあって、一行の必要を上回る数であった。案内者は病人は回復すれば異人館の方に予備の部屋があるので、すぐに移動できるとも言った。

 そして、その日とその翌日の間に、船から荷物とともに、この宿舎に移動してほしいということ、その後3日間は外出せずに宿舎にとどまってほしいということを告げた。また一行の世話をするために6人のものを配置したので、何か用があれば、その6人に言いつけてほしいとも言った。一行は、彼にいくらかの謝礼を渡そうとしたが、彼は微笑みながら、それは二重取りになると言って受け取らずに去っていった。

 「間もなく食事が出た。パンもおかずも大変なごちそうで、私の知っているヨーロッパのどの学寮の食事よりも良かった。」(川西訳、14ページ) ここは原文も挙げておこう。
 Soon after the dinner was served in; which was right good viands, both for bread and meat; better than any collegiate diet that I have known in Europe. (Susan Bruce ed.,Three Early Modern Utopias, p.156.)
 川西訳では「食事」とあるが、dinnerはより正確には「正餐」で、昼食か夕食であり、この場合は、前後の文脈を考えて昼食になると思われる。また川西さんはmeatを「おかず」としているが、より正確には「肉」で、肉を主体とした(当然付け合わせとして野菜もついている)料理が出されたということである。collegiate dietを川西訳では「学寮の食事」としているが、ブルースはinstitutional meal (大学や修道院などの制度化された食事)と注記している。学生食堂でバラバラにとるような食事ではなくて、先生も学生もそろって一緒に食べる食事である。
 3種類の飲み物が提供された。1つは葡萄酒(wine of the grape), もう1種類は「エールに似ているがより透明な色の穀物酒」(a drink of grain, such as is with us our ale, but more clear)、それから「当地の果物から造った、シードルの一種で実に口当たりの良い、爽やかな味の飲物」(a kind of cider made of a fruit of that country; a wonderful pleasing and refreshing drink)であった。なんだ、3種類とも全部アルコール飲料ではないか⁉(と、私は現在、アルコール飲料の摂取をとめられているので、不満をこめて書く)。未知の世界の文物について想像して書くとき、やはり既知の事柄の影響を免れ得ない。葡萄酒はまあいいとしよう。2番目に「穀物酒」としてベーコンが考えているのは要するにビールの類である。イングランドのale (aleとbeerのちがいについては、御自分で英和辞典を引いてお調べください)よりも透明な穀物酒ということで、極東の方へ行くとまったく別の穀物酒(例えば日本酒)が飲まれているということは想像できなかったようだ(ベーコンは三浦按針の同時代人ではあるのだけれども…)。それから、川西さんは「サイダー」と書くと、日本では炭酸飲料になってしまうというので、「シードル」というフランス語を訳語として使っているが、英語ではサイダーといい、英国では(アイルランドでも)ふつうに飲まれているアルコール飲料である(実は私はこれが好きである)。なお、洋ナシを発酵させて作った酒をperryという。
 トマス・モアの『ユートピア』の中にユートピア人が食事の際に飲む飲物としてwine made of grapes or else of apples or pears, or else it is clear water (Bruce ed., op.cit., p.52、なお、この書物に収録されている『ユートピア』英訳は、ロビンソン訳である)という記述があり、 モアの方はビール類が抜けているかわりに水が入っている。現在の英国では、昼からビールを飲むこともあるが、水を飲むほうが一般的だと思う。そのほか、病人のためにまっかなオレンジ(scarlet oranges)が出された。また白い丸薬を1箱くれた。この丸薬を就寝前に飲めば病気の回復が早くなるのだという。

 こうして、語り手の一行は漂着した未知の土地への上陸を認められた。まだどの程度滞在できるのか、どのような待遇を受けるのか、未知の部分はあるが、これまでのもてなし具合からするとそう悪い待遇を受けそうにもないし、またこの土地の文化もかなり高そうである。翌日、一行は船から荷物ごと、異人館に移ることになるが、さて物語はどのように展開していくか、また次回のお楽しみとしよう。 

『太平記』(289)

11月19日(火)晴れ

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った〔史実は1年早く、貞和3年のことである。以下同じ〕。正行はさらに11月、住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書き付けた。明くる正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。力尽きた、楠正幸・正時兄弟は自刃した。

 四条畷の合戦で1日のうちに、和田・楠の兄弟4人(正行・正時・和田高家・源秀)、一族23人(和田橘六左衛門ら)、相従う兵343人は戦死を遂げ、その首を京都の六条河原にさらされた。奥州から2度も大軍をひきいて京都に向かい宮方のために気を吐いた北畠顕家卿は暦応元年5月に和泉の堺で戦死し、武将として宮方を率いていた新田義貞は暦応元年閏7月に越前で戦死、畿内から遠く離れた場所に山塞をかまえて宮方として戦っている武将はいても、全体を統率するような優れた武将がいなくなってしまった中で、楠正行は2度も足利方の軍勢を破って気を吐き、後村上帝の信頼も厚い存在であったのが、ここに戦死を遂げてしまったのは、いよいよ宮方の運の傾く前兆であるかに思われた。

 一方、一度は肝を冷やす思いをしたとはいうものの、敵の主力を壊滅させた師直・師泰軍はこの勢いに乗じて、河内の楠の館を焼き払い、吉野の南朝の帝を生け捕りにしようと、師泰は正月8日に、6千余騎を率いて、和泉の堺を発って、石川河原に向かい城を築く。師直は、3万余騎の軍勢を率いて、14日に、大和の平田を発って、吉野の麓へ押し寄せた。

 師直の軍勢が近づいてきたという情報を得て、四条隆資卿は(自身ダミーの別動隊を率いて、四条畷の合戦に参加していたのであるが)、急いで急ごしらえの御所に参上して、「残念ながら正行は戦死いたしました。明日、師直が勢いに乗って皇居に襲いかかってくると噂されております。この吉野というところは防備がおろそかで、我々には十分な兵力もありません。取り急ぎ、今夜のうちに天川(奈良県吉野郡天川村)の奥、穴生(あなう、五條市西吉野町賀名生、もと「穴生」と書いたが、朝廷の行在所として「賀名生」と改められる)のあたりにお逃げください」と申しあげた。
 そして、三種の神器を内侍典司(ないしのすけ、後宮の内侍の司の次官)に持たせ、馬の準備をさせると、帝はなにがなんだかわからず、夢でも見ているようなお心持で、御所を出発され、女院(帝の母の阿野廉子)、中宮など皇族の方々、さらに女官や貴族たちも取る物もとりあえずに、慌てふためき、倒れ迷い、慣れない山道を更に山奥へと進んで、残雪をふみながら、吉野の山奥へと達したのである。

 後村上帝にとって吉野の山の中は、心をとめるような場所ではなかったはずであるが、すでに長年暮らされていた上に、これから向かう先がさらに山の中ということで、これまで以上に住みにくい場所になるだろうと思われ、涙を流されるのであった。そして、蔵王堂の南にある勝手神社の前を通り過ぎられるときに、馬からお降りになって、草深い祠に向かい祈1願をされ、涙ながらに次の歌を詠まれたのである:
 たのむ甲斐なきにつけても誓ひてし勝手の宮の名こそ惜しけれ
(第4分冊、236ページ、戦勝祈願をした甲斐もなく、勝つという名の勝手神社の名折れであることよ。)

 中国の例を調べてみると、唐の玄宗皇帝が安禄山の乱に遭って蜀に行幸したという例がある。わが国の古い例では天武天皇が、天智天皇の皇子である大友皇子との対立から、吉野山に隠れられたという例がある。これら2つの例は、逆臣によって天子が都をはなれさせられたけれども、最終的には戻って(ただし、『太平記』の作者は知らなかったのかもしれないが、玄宗皇帝は退位させられている。日本とちがって中国の皇帝の生前退位はきわめて異例である)よい政治を行ったという例であるので、このままで終わることもあるまいと、古の出来事と比べ合わせてお考えになる点はありながらも、付き従う人々が、泣き悲しむ様子を御覧になると、帝の御心は休まることがなかった。

 こうして周章と傷心のうちに吉野の朝廷の人々は、更に山奥へと落ちていくのであるが、追ってくる高師直たちはどのような行動に出るのかというのは、また次回に。『太平記』を読んでいると気付くことであるが、帝の身辺に持して、三種の神器を運んだりしているのは女官であって、男性の侍従ではないということで、これは現代の即位礼が過去の先例を踏まえていないということになるのではないかと思うのである。



日記抄(11月12日~18日)

11月18日(月)晴れ

 11月12日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

11月11日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』では登場人物が宮崎県を旅行した。その中で、主人公たちが参拝した鵜戸神宮が「下り宮」(=階段のはるか下のほうに社殿があるという形の神社)であるという話が出てきた。そういえば、私が以前参拝した群馬県の貫前(ぬきさき)神社(上野一宮である)も「下り宮」だったと思って調べてみたところ、この2つの神社と熊本の草部吉見(くさかべよしみ)神社を日本三大下り宮ということがわかった。

11月12日
 『朝日』の朝刊によると、非英語圏の英語力に関する民間の国際調査で、日本は100か国中53位と順位を下げたそうだ。英語教育の改革が叫ばれ、実施されている中で、国際順位が下がっているというのは、その改革が間違った性格をもっているということにまだ、政策形成に携わる人たちは気づいていないらしい。

11月13日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』に”We're social animals, after all"(私たちは結局のところ、社会的動物ですから)という表現が出てきた。パートナーのハワードさんが、社会的動物というとミツバチやアリ、サル、そして人間などが挙げられるということを言っていたが、それぞれの社会の性格が微妙に違うことも考えるに値することである。

11月14日
 『実践ビジネス英語』の”Word Watch"のコーナーでは”standing desk"を取り上げた。長時間座ったままの姿勢でいるのは健康に害があるというので、standingdeskあるいはstand-up desukと呼ばれる机を導入する基調が最近増えてきているのだそうだ。高さの調節ができず、ずっと立って仕事をするための机と、調節が可能で座って仕事をすることもってすることもできる机とがあるという。税務署に確定申告に出かけると、このstanding deskに出会うので、私はあまりいい印象をもっていない。

11月15日 
 『朝日』朝刊に「赤狩り生きた元俳優 102歳の警鐘」として、往年のハリウッド女優マーサ・ハイヤーさんのインタビューが出ていた。1940年にグリア・ガースンとローレンス・オリヴィエの主演で『高慢と偏見』が映画化されたときに、メアリーの役を演じた女優である。(この作品でジェインを演じたモーリン・オサリヴァンは『ターザン』のジェイン役で知られる女優であるが、ミア・ファローの母親であるのはご存知の方も多いはずである。) 『風と共に去りぬ』でメラニー役は、オリヴィア・デ・ハヴィランドが演じたが、彼女はその前に、スクリーン・テストを受けていた…というような話題はかなり豊富な人である。
 ハリウッドの赤狩りがここで問題にされているが、日本でも戦争中や、戦後の一時期に、同じようなことがあって、新劇の主要な俳優がほとんど舞台に立てなかったことがあることも忘れてはならない。舞台に立てなくなった滝沢修が、長谷川一夫と山田五十鈴の劇団の裏方に入って、役者たちに演技指導をしているのを見た山田五十鈴の父親が、「あの人上手いねぇ、なんで舞台に立たないんだろう」といったという話がある。

11月16日
 『朝日』の「古典百名山」で大澤真幸さんが親鸞の『教行信証』を取り上げていた。以前、五島美術館でこの本の断簡を見て、非常に丁寧な書体で書かれているのに感動した記憶がある。私は字を書いていても、すぐにぐちゃぐちゃになってしまうので、こういう字を書く人は尊敬するのである。

 横浜FCはアウェーでファジアーノ岡山と対戦、前半に挙げた1点を後半の岡山の猛攻をしのいで守り抜き、2位を確保した。24日に愛媛FCに勝てば、2位が確定してJ1に自動昇格となる。最後の1試合、頑張ってほしい。

11月17日
 体調が悪くて、夜は寝ていたため、皆様のブログの訪問を省かざるを得なかった。ご了承ください。

 『朝日』の朝刊・地方欄に日本総研の主任研究員である藻谷浩介さんがIRをめぐる「造ること自体ばくちの計画」であると、様々な根拠を挙げて、この計画の問題点を指摘していた。以前にも書いたが、日本各地にテーマ・パークが作られた時、アメリカでは成功例よりも失敗例のほうが多いということが見落とされていたと思っているので、IRを推進しようとしている人はこの文章を読んで考え直してほしいものである。

11月18日
 体調はだいぶ良くなったが、ブログ訪問は限定的になりそうで、悪しからずご了承ください。

 平松洋子『かきバターを神田で』(文春文庫)を読み終える。この本の最後のほうに、ラピュタ阿佐ヶ谷(館名は書いていないが、明らかにラピュタである)で川島雄三監督の『とんかつ一代』を見たことが記されていて、ひょっとすると一緒の回だったのかななどと考えたりした。この映画は川島の最後から2番目の作品で、この後社会派喜劇の『イチかバチか』を演出したのちに、急死する。作品の完成度という点からいえば、『とんかつ一代』のほうが高いが、『イチかバチか』には新しい喜劇の創造への強い意欲が感じられる。川島がもう少し長生きしていれば、どんな展開になったかということをどうしても考えてしまうのである。

 東京落語の「長屋の花見」は、二代目蝶花楼馬楽が上方落語の「貧乏花見」を東京に移したもので、作品としての成立は明治になってからのことであるが、噺としては江戸時代の花見の設定である。(「貧乏花見」は明治以後の設定になっているようである。)貧乏な長屋の住人たちが大家さんの音頭取りで、花見に出かける。毛氈はござ、酒はお茶、卵焼きは沢庵というような支度である〔「長屋の花見」が大家さんの音頭取りであるのに対し、「貧乏花見」は長屋の衆の衆議一決であるとか、「長屋の花見」は男だけで出かけるのに対し、「貧乏花見」は男女混成で出かけるとかいう違いは、東西の文化・気質の違いを示すものとしてよく取り上げられる〕。安倍首相の「桜を見る会」のニュースを聞いて、来年は、有志を集めて「長屋の花見」をしてやろう、できるだけみすぼらしい格好で出かけて騒ごうと思っていたのだが、本家「桜を見る会」が取りやめになってしまったので、この計画も練りなおさざるを得ないようである。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(19)

11月17日(日)晴れ

 前回(11月10日掲載の18回)で、第1巻23章が幕を閉じて3巻からなるこの小説の第1巻が終り、物語は第2巻に入る。しかし、時間の流れも舞台も大きく変化するわけではない。このため、多くの翻訳では第2巻第1章などとせずに、そのまま第24章としていることが多いようである。
 ロンドンの北・ハー(ト)フォードシャーにあるロングボーンの地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス(エライザ、リジー)、メアリー、キャサリン(キティー)、リディアの5人の娘があった。ベネット家では相続方式として限嗣相続、それも男系を採用していたので、一家の土地や財産は遠縁にあたるコリンズという人物が継承することになっていた。それで、娘たちのうちの1人でも、裕福な紳士に嫁ぐことが、ベネット夫人の念願であった。
 ロングボーンの近くのネザーランドの邸を借りたビングリーという青年紳士は、ジェインに思いを寄せ、教区牧師の地位を得て生活が安定したコリンズはベネット家との和解のしるしとして、エリザベスを妻としようと考え、彼女に求婚するが、尊大さと卑屈さが入り混じったコリンズの性格を好きになれないエリザベスはこの申し出を断る。コリンズはなんと、ベネット家の隣に住むルーカス家の長女であるシャーロットに求婚し、シャーロットはそれを受け入れる。ベネット家の人々は様々な反応を示すが、自分の家と財産とがコリンズとシャーロットに相続されることを考えて、ベネット夫人は気が休まることがなかった。またビングリーの一家はベネット家に挨拶を告げずに、ロンドンへと去っていった。ビングリーの友人で、彼以上の大富豪だというダーシーは、舞踏会でダーシ―は、ある舞踏会でエリザベスと最悪の出会いをしたことから、彼女は彼に偏見を持ち続けているが、ダーシーの方では瞳が美しく、茶目っ気のあるこの女性に魅力を感じ始めている。それに気づかないエリザベスは、ダーシーの幼いころからの知り合いだというウィッカムという国民軍の士官と知り合い、仲良くなりはじめている。(以上第1巻23章までのあらすじ)

 ジェインが長いこと待ちわびていたミス・ビングリー(キャロライン、ビングリーの妹)からの手紙が届き、ビングリー一家がこの冬(社交シーズンである)はロンドンに滞在することが記されていた。それにあてつけがましく、ビングリーとダーシーがいよいよ仲良くなり、ビングリーはダーシーの家に泊まっているうえに、彼の妹とビングリー姉妹も親交を深めているので、ビングリーとミス・ダーシーとの結婚は大いにありうることだ、ミス・ダーシーのような素晴らしい女性はほかにいないなどと書かれていた。ミス・ビングリーはダーシーとの結婚を望んでいるので、まず兄をミス・ダーシーと結婚させようと策をめぐらしている様子である。
 ジェインはこの手紙を読んで、自分のビングリーに対する思いは片思いだったと思いこもうとするが、エリザベスにはビングリーが本当に好きなのはジェインだとしか思えなかった。ビングリーは周囲の人々に操られているだけなのだと思ったのである。そういってジェインを慰めようとしたが、ジェインの心はなかなか晴れなかった。無神経なベネット夫人はビングリーのことでたびたび愚痴をこぼし、それがジェインの心をいっそう傷つけていることに気づかなかった。

 エリザベスは姉が誰のことも悪く受け取ろうとせずに、みないい人だと受け取りたがる、天使のような(really angelic)人だと初めて分かったと姉に打ち明ける。彼女は姉に比べて物事をはっきり見るので、世の中に善人は少ないと考えている、長所も分別も見かけだけでは信頼できない、最近もそういう見掛け倒しの例に2つほどであったと付け加える。特にシャーロットの結婚の一件はわけがわからないという。
 それに対しジェインは、シャーロットにもコリンズにもそれなりの長所があることを説いて、エリザベスを納得させようとするが、エリザベスは「ミスター・コリンズは自惚の強い、もったいぶった、度量の狭い、愚かな男よ」(大島訳、239ページ)と反論する。そんな男性と結婚する女性の気持ちが知れないというのである。
 ジェインは、エリザベスの二人に対する言い方は厳しすぎるとたしなめる。「女自身の虚栄心」(大島訳、240ページ、原文、
It is very often not but own vanity that deceives us. Penguin Modern Classics版、134ページ、わたしたちを騙すのが私たち自身の虚栄心だってことはよくあることだわ)と、あくまで謙虚である。
 エリザベスは負けていない。「男が女にそう思わせるのよ。」ビングリーを陰で操っている人々が、2人の仲を裂かせようとしているのだと主張し続ける。 
 
 ベネット夫人は真相を深く考えようとせず、ビングリーがロンドンに去って戻ってこないことがな篤できない様子である。それに対しベネット氏はジェインはどうやら失恋したらしいが、おまえはどうなのかとエリザベスを揶揄ったりする。ウィッカムと恋仲になって振られてみてはどうかというが、エリザベスはあまり本気になった様子を見せない。〔それにしても、いくら自分のお気に入りの娘だからといって、こういう皮肉を言うのは、いい趣味とは思われない。〕
 ウィッカムはベネット家に出入りしては、ダーシーの悪口を言い、ベネット家の人々はそれに付き合ってダーシーの悪口を言ったが、ジェインだけは何かダーシーの方にも事情があるのだと考えて、その仲間には加わらなかった。(以上第2巻第1章=24章)

 コリンズは結婚の準備と整えると、自分の教区のあるケントへと旅立っていった。
 2日後の月曜ぎ、ベネット夫人の弟のガードナー氏がベネット家を訪問した。
 ガーディナー氏はロンドンのシティに住む裕福な商人で、ベネット夫人よりも段違いにすぐれた人物であった。またその夫人も聡明で、気品があり、姪たち、とくにジェインとエリザベスから慕われていた。
 ベネット夫人は、義理の妹に向かってここを先途と、彼女の日ごろの鬱憤をぶちまけた。ジェインの方は仕方ないにしても、エリザベスがこんな良縁を断ったのは許せないというのである。ガーディナー夫人はジェインとエリザベスからの手紙でおおよそのことを知っていたので、この話題には深入りを避けたが、エリザベスと2人になると、ジェインの恋がうまく行かなかったのを残念がる。そして気分転換のためにジェインをロンドンの自分の家に連れていくことを提案する。ジェインはロンドンへ行くことを承諾する。

 ガーディナー夫妻の滞在中、ベネット家にもしばしば近くのメリトンの町に駐在している部隊の士官たちが客として呼ばれてきたが、その席でエリザベスとウィッカムとが親しげに話している様子にガーディナー夫人は気づいた。また、ガーディナー夫人は結婚前にダービーシャーに住んでいたことがあり、ウィッカムがこの州の出身であったこと、ダーシーの父親と知り合いであったことなどで大いに話が弾んだが、しかし彼女はなにかこの人物に警戒すべきものを感じていた。(以上第2巻第2章=25章まで)
 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(4)

11月16日(土)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 紀元前1世紀のローマ、カルタゴとの戦いに勝利するなど、軍事的な勝利によって国家の規模が拡大する中で、強力な指導者を求める動きが強くなって、共和政が動揺を始めていた。そのなかで、東方での戦争に勝利した閥族派のポンペイウス、スパルタクスの反乱を鎮圧した大富豪のクラッスス、名門の出身ながら民衆派の指導者であったマリウスの義理の甥にあたることから民衆の支持を集めているカエサルの3人が第一次三頭政治を組織して(紀元前60年)、ローマに安定をもたらす。しかし、クラッススがパルティアとの戦いで敗死した(紀元前53年)ことから、残る2者の対立が激化する。ガリアの地にあるカエサルに対し、ローマにあったポンペイウスはカエサルを警戒する元老院への同調を強める。このような背景から、この叙事詩の主題となった「内乱」が始まる。
 詩人は「内乱にもましておぞましい戦、正義の名を冠された犯罪」(第1巻第2行、17ページ)とこの叙事詩の主題を示し、彼の時代の皇帝であったネロに叙事詩の完成への助力を求めたあとで、内乱の原因についてあれこれと探索する。その中で、「同輩を許容せぬ」権力に焦点が当てられ、過去の英雄ポンペイウスと、日の出の勢いのカエサルという両雄のあり方が、「樫の古木」、「雷電」に譬えられて描き出される。
 ガリアにあったカエサルは、警告、制止するローマの幻影を振り切って、ルビコン川を渡る。境界の都市であるアリミニウムに侵攻したカエサルに、ローマを追われた「舌を金で売る」蛮勇クリオが合流する。

 クリオは、(もともとは閥族派であったが、莫大な負債で窮地にあったところをカエサルに助けられ、その味方に転じたのである)自分が元老院でカエサルに有利な提案をしたものの、追放されてしまった次第を語り、ポンペイウスと元老院がまだ十分な準備を整えていないうちに、ローマに侵攻して支配権を奪おうと勧める。
「・・・兵乱で法が沈黙を強いられた今、
我らは祖国の家居(いえい)から放逐され、追放の憂き目をみている。もっとも、
それは望むところ。あなたの勝利が我らを(再び)市民にしてくれよう。
敵の一派が、いまだ兵力の増強も叶わぬまま、戦戦恐恐としているうちに、
遅滞を断ち、ただちに行動を。備えある者には、遷延(せんえん)は禍(わざわい)となるのが常。
(第1巻277行‐281行、35ページ)
 ガリアにおける連戦連勝の勢いをそのままに、ローマに進軍・陥落させることは容易なはずだ。ポンペイウスと権力を二分することなどできない。
・・・もはやあなたには
世界を二分し、分かち合うことはできぬ。あなたにできるのは、
ただひとりそれを支配すること」。(第1巻290‐292行、36ページ)

 この言葉を聞いて、兵士たちは騒ぎ始めるが、カエサルは決意をいっそう固め、兵士たちに静粛を命じると、彼らに向かってその決意を述べ、兵士を鼓舞する演説を行う。カエサルの軍は、ガリアにあって、ローマのために戦ってきた。しかるに、ローマは彼らを追放処分にした。ローマにいるマルケッルス、カトー(小カトーである)、ポンペイウスらは恐れるに足りない相手である。特にポンペイウスは、閥族派の頭領としてローマを恐怖によって支配したスッラの弟子である。いまこそ、正義を取り戻すために、ローマに進軍するのだ。
「・・・我らには、
必ずや神々も味方したまおう。武器を取り、我らが目指すのは
鹵獲の品でもなければ、王権でもないからだ。
我らは排撃するのだ。隷属へと靡く都から、暴君を。」
(第1巻352‐355行、40ページ)
 「鹵獲」というのは敵の軍用品などを奪い取ることであり、カエサルはローマ攻略が正義をとり戻すことを目的としていて、略奪や権力への野望によるものではないという。この辺りは真意が測りにくいところがある。

 兵士たちはさすがに、ローマに進軍するというカエサルの決意を聞い躊躇の色を見せるが、百人隊長ラエリウスが忠誠と、ローマの破壊をも辞さぬ覚悟を語って兵士たちを煽る。
「・・・我らには、当然のことながら、
あなたの命に従いたいという誠の願いもあり、命を遂げる、
それに劣らぬ大きな力もある。あなたが討てと命じる喇叭(ラッパ)の合図を聞けば、
討つ敵が誰であれ、わが同胞(はらから)とは思わぬ。・・・
(第1巻377‐380行、42ページ)
・・・
あなたがどの城壁を毀(こぼ)って地に敷くのを望もうと、
この腕で破城槌を押し進め、石壁を瓦解させて見せよう、
破壊せよとあなたの命じるその都が、よしローマであろうとも」。
(第1巻389‐391行、43ページ)
 このはげしい言葉に、兵士たちは全員歓呼して鬨の声をあげた。

 こうして、兵士たちが自分の決意に同意したことを確認したカエサルはガリア全土に展開する部隊を呼び寄せる。
 カエサルは、戦が兵士らにそれほどまでに歓迎され、
運命が順風を送って後押ししていると見て取るや、
フォルトゥナの歩みを優柔不断で遅らせまいと、
ガリア全土に展開させていた部隊をただちに呼び寄せ、
八方から旗幟を前進させて、ローマを目指した。
(第1巻398‐402行、なぜか、下段の行表示が400の後、415になっている)
 本来ならば、ガリアの地で戦うべき兵隊たちが、ローマに進軍しようとするカエサルの軍に合流するために大挙してひきあげてくる。フォルトゥナ(Fortuna)は「運命の女神」(運命という語が女性名詞だということによる)であるから、「運命…フォルトゥナ…」というのはどういうことかと思って原文と英訳とに当ってみたが、大西さんが「運命」と訳しているのは、一般的な名詞としての運命であり、「フォルトゥナ」と訳しているのは、運命の女神という意味であるので、この訳詩わけは適切なものであるようだ。
 申し遅れたが、ガリアというのは、大体、現在のフランスにあたる(この叙事詩を読んでわかるように、北イタリアも含まれている)。フランス人はガリア人Gauloisの子孫だと思っている。ガリア人はケルト系の民族であったと考えられているが、フランス語はローマ人の話していたラテン語の流れをひいている。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(25)

11月15日(金)晴れ

 ガルガンチュワは、フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの子で、生まれ落ちてすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名がついた。もともと大きな体躯の持主であった上に、牛乳と葡萄酒をたくさん飲んでますます大きく成長し、パリに出て、新しい学問と教育方法を身につけたポノクラートという先生について勉強したおかげで、学芸にも武勇にも秀でた若者となった。
 グラングゥジェ王と、隣国のピクロコル王との間に些細なことから戦争がおこり、グラングゥジェ王は平和に事態を解決しようとしたが、うまくいかないので、ガルガンチュワを呼び寄せた。帰郷したガルガンチュワは、ポノクラートや自分の修道院のブドウ畑をピクロコル王の軍隊から守ったジャン修道士たちの助けを借りて、ピクロコル軍を破り、平和を取り戻す。
 この戦争で手柄を立てた部下たちに、ガルガンチュワは恩賞を与え、最後にジャン修道士への褒賞が残ったが、ジャン修道士はこれまでになかったような種類の修道院を建ててほしいという。そこで、ガルガンチュワはロワール川沿いのテレームという場所に大修道院を建設することにする。

第53章 テレミートたちの僧院はどのように建てられ、いかなる財源を与えられたか(テレーム修道院は、どのように建築され、どのような財源があてられたか)
 この章の章題はComment feust bastie et dotée la abbaye des Thelemitesであるので、渡辺のように「テレミート(テレームの僧院人々)たちの僧院」と訳すのが、字義通りということになるだろうが、宮下訳の方がわかりやすいことも否定できない。

 ガルガンチュワはこの大修道院に莫大な額の寄進をしたうえに、近くの川の航行税や土地の地代によって、その維持を容易にした。
 修道院の建物は6角形をしていて、その隅に当るところに円塔が築かれていた。〔『旧約聖書』「創世記」には神が6日間で世界を創造したとあり、また、6は完全数の一つである(完全数とは、それ自身を除く約数の和に等しくなる自然数のことを言い、6のほかに28、496、8108、33550336…などがそうである)。いま、思い出したのだが、フランス本土のことをhexagone(六角形)という。〕
 またそれぞれの塔は、地下の酒蔵(cave)も含めて6層であった。

 「この建物は、ボニヴェ城、シャンボール城、シャンチイー城よりも、はるかに壮麗だった…」(渡辺訳、234ページ)、「それはボニヴェ城、シャンボール城、シャンティー城よりもはるかに壮麗な建物だった」(宮下訳、378ページ)。宮下訳における訳注によると、「テレームの修道院」は当時のフランス王フランソワⅠ世が建造させたシャンボール城と、ブーローニュの森にあった通称マドリッド城であるという。シャンボール城は現在でもロワール川の流域の城巡りの中心地となっており、読者の皆様の中には、あぁあの城かと思われる方もいらっしゃると思う。

 建物の北側には大図書館が設置され、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、フランス語、イタリア語、イスパニヤ語の書籍を収めていた。宮下さんは、ここでも収蔵されている書籍が6言語で書かれており、6の原理が貫かれていることに注目している。なお、渡辺訳、宮下訳共に「イタリア語」としているが、原文はTuscanであって、「トスカーナ語」という方が、より正確である。イタリア語の「標準語」の歴史に即していえば、イタリア語がダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの言語であるトスカーナ方言を中心に発展してきたことは確かだが、ここで、ラブレーがイタリア語という言い方をしていないことは気にしておいてよい。それをいえば、イスパニヤ語(渡辺訳、宮下訳では「スペイン語」)というのも同じような事情があり、日本ではふつうスペイン語というが、上智大学の外国語学部では「イスパニア語」学科といっているくらいで、スペインの言語事情も複雑である(スペイン語といわずに、カスティーリャ語といえばいいのだが、そういうと、なんのことだかわからないという人が多い・・・私も多少はスペイン語をかじったので、イスパニアではなくてエスパーニャという方が性格ではないかなどと言い出すときりがなくなる…)。

 そして大修道院の東の塔から南の塔にかけての間の廊殿には「古代の武勲の数々、様々の物語、山川の有様などが、あらゆるところに描かれていた」(渡辺訳、235ページ)。これはカンパネッラの「太陽の都」の神殿の壁や、城壁に書かれた万物の絵に先行する例といえるのかもしれない。そして正門には、次章に記すような銘文が記されていた。

第54章 テレームの僧院の正門に記された銘文(テレーム修道院の大きな扉に記された碑文)
 銘文(あるいは碑文)には、まず、この修道院の門内に入ってほしくない人々が列挙されている:
 入ってほしくないといわれているのは、偽善的な僧侶、法律家、高利貸し、詭弁学者たちであり、
 次に歓迎する人々が列挙されているが、それは:
 高貴な騎士たち、福音を説く人々、高貴な家柄の女性たちであって、
 「聖なる福音」と「深い信仰」が好ましい属性として強調されているところが印象的であると宮下さんは注記している。

 さて、テレームの大修道院の様子がこれから第55章、56章と続いて描き出されて、57章で大団円となる。『ユートピアの思想史』の著者であるベルネリは、テレームの大修道院を一種の「ユートピア」として、彼女の著書の中に加えたが、これまで見てきたように、グラングゥジェ王とその王子ガルガンチュワによって統治されているフランス西部地方こそがラブレーにとって「ユートピア」なのであり(この時代のフランス王であったフランソワⅠ世がシャンボール城を築いたことでもわかるように、ロワール川流域地方はフランスの中心的な地方であった)、それはモアがイングランドとウェールズとを彼の『ユートピア』のモデルとした以上に確かなことである。だから、テレームの修道院は、ユートピアという理想空間(モアにおける「ユートピア」は必ずしも理想空間ではない)では、修道院もどのような姿をとるかという思考実験として読むべきであると思う。テレームの大修道院の現実化、あるいはその後継者となるような施設があるのか、ないのかを、探ってみることも、必要なことではないかと思うのである。

木村茂光『平将門の乱を読み解く』

11月14日(木)曇りのち晴れ、温暖

 11月13日、木村茂光『平将門の乱を読み解く』(吉川弘文館:歴史文化ライブラリー)を読み終える。
 武士の最初の反乱といわれる平将門の乱(正平5年 <935>~天慶3年<940>)は日本史上まれに見る大事件であった。その理由として著者は、将門が「新皇」を宣言して、坂東8か国の国司を任命し、新たな「王城」の建設を企てるなど、皇統に関わる事件であったこと、これに対して朝廷の側が「王土王民」(地上にあるすべての土地は、天命を受けた帝王のものであり、そこに住むすべての人民は帝王の支配物であるという思想)の考え方を振りかざしてその鎮圧に向かったという2点において、注目すべき性格をもつと考えている。さらにもう一つ、注目すべき事柄として、将門が「新皇」を宣言した時に、それが菅原道真の霊魂と八幡大菩薩の意志に基づくものであると根拠づけられていることが挙げられている。この両者はともに、律令体制のもとでその地位を確認された神格ではないというところに、新しい秩序の創造への意志がみとめられるのである。

 この書物では、平将門の乱の歴史的あるいは宗教史的な意義が問題として取り上げられ、この時代における政治制度や社会の変化、そのなかでの国家的な神器体系の変化、さらに王土王民思想に代表される国家的イデオロギーの発現などに焦点があてられる。将門の乱の経緯や、将門の武士としての性格、合戦の具体像については詳しくは論じられていない。また、この事件の解明に当たって重要な史料は『将門記』であるが、不完全な形でしか伝わっていないので、慎重な取り扱いが必要であることが述べられている。以下、この書物の構成を紹介しておくことにしよう:

「平将門の乱」とは何か――プロローグ
平氏一族内紛の要因 「女論」か「遺領争い」か
 一族内紛の要因はなにか
 筑波山西麓の政治的位置
 乱後の筑波山西麓の政治的位置
 平氏一族内紛の要因
国府襲撃と平将門の政治的地位 「移牒」と「営所」の評価を中心に
 「国府襲撃」事件の経緯
 将門の政治的地位(1)――「移牒」の性格を中心に
 将門の政治的地位(2)――「営所」の性格を中心に
「新皇」即位と八幡神・道真の霊
 「新皇」即位の歴史的意義
 平安京における道真の怨霊と八幡神
 関東における道真信仰
 平将門の乱と中世的宗教秩序の形成
 「新皇」即位と八幡神・道真の霊
「新皇」即位と王土王民思想
 9世紀後半・10世紀前半の王権の揺らぎ
 「新皇」即位と天命思想・皇統意識
 「新皇」即位と王土王民思想
 「新皇」即位の歴史的意義
「冥界消息」と蘇生譚の世界
 『将門記』の「冥界消息」
 「冥界消息」中の識語と構成
 将門の子孫の冥界譚と伝説
 将門の「冥界消息」と将門の乱
「新皇」将門の国家構想――エピローグ

 今回は、「『平将門の乱』とは何か」の末尾に、簡単にまとめられたこの乱の経緯を更に簡単に紹介して、次回からこの書物の内容を本格的に検討していきたいと思う。 
(1)平氏一族の内紛
 平将門は、桓武天皇の曽孫とされる高望王の孫で、父良持は鎮守府将軍であった。〔平氏は源氏と並んで有力な賜姓皇族であり、桓武天皇の子孫である桓武平氏のほかに、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏があるが、桓武平氏のほかは振るわなかった。桓武平氏はさらに、葛原親王の子である高棟王の子孫で公家として続いた流れ、高望王の子孫で武家として活躍した流れなどに分かれる。ちなみに国語の教材に出てくる歌物語『平中物語』の主人公平貞文は桓武天皇の皇子仲野親王の曽孫である。〕 将門を含めて、この一族は9世紀後半東国の治安維持のために派遣された「一種の辺境軍事貴族」であったと評価されている。
 将門は若いころ、摂関家の藤原忠平(菅原道真左遷事件の主犯で若くして死んだ時平の弟)に仕えたことがあったようだが、都でしかるべき地位に就くことができず、再び関東に戻り下総国猿島郡石井(いわい)を本拠にしていた。ところが延長年間(923~30)になると、一族との間に不和が生じ、内紛が勃発する。はじめは伯父良正と血縁関係のある源護らとの間に筑波山西麓で戦闘が続いたが、これらの合戦で、もう一人の伯父国香らが死に、良正は、上総国にいた兄弟(将門の伯父良兼の参戦を要請、このため戦線は一挙に拡大し、常陸・下総から下野国国境付近まで広がった。
 この間、源護の告訴状によって将門は京都に召喚されたが、運よく恩赦に会い、無事下総国に戻ることができたので、再び、良兼との合戦が始まった。全体として戦いは将門に有利に展開し、良兼も死亡して、事態は沈静化するかに見えた。
 ところが、武蔵の国で内紛が起き、将門はその調停に向かったが、武蔵介である源経基(清和源氏の家祖であるが、将門の乱の経緯に関してみる限り、武門の棟梁としての面影は見られない)が、将門と武蔵の権守であった興世(おきよ)王と将門が自分を打とうとしていると誤解、急遽上洛して2人の謀反を太政官に奏上した。すぐに、元の私君太政大臣藤原忠平から事の真相をただす文書が届いたが、将門は無実であるとの申し開きに成功した。
 これに続き、今度は、常陸の国で豪族の藤原玄明(はるあき)と、介の藤原維幾(これちか)が対立し、玄明が将門を頼って逃げてくるという事件が起きた。〔常陸国は親王任国なので、介というのは実際上の長官である。〕 維幾は将門に玄明を追捕するように移牒(書状)を送ったが、将門は応えなかった。それどころか、玄明が維幾の悪政を述べて味方するように訴えたのに同意して、維幾に対して、玄明を追捕すべきではないという書状を送り、結局、両者の間に戦闘が起きて、将門軍は常陸国府軍を破り、維幾らは捕らえられ、国司の印と国倉(国富の財源を収めた倉)の鍵を将門に奪われてしまった。これは明らかに国家に対する反乱と見なされる。
 将門のもとに身を寄せていた興世王はこの際、関東全域を支配して、しばらく様子をうかがってみてはどうかと将門に反乱の拡大を勧め、将門も自分は桓武天皇の子孫であるからゆくゆくは京都まで支配したいと述べて、下野、上野の国府もおそい、それぞれ国司を追放して、その印を手中に収め、両国も支配下におさめた。

 このようにして彼が上野の国府に入り、態勢を整えていた時に、ある巫女が八幡神が菅原道真の霊を通じて将門に天皇の位を与えるとの託宣を下し、これを知った興世王は大いに喜び、将門もそれを受け入れて、都の藤原忠平に自分が「新皇」として即位するという書状を送るに至る。こうして彼は東国国家の建国に踏み切った。
 朝廷は仏神に将門の調伏を願う一方で、将門に殺された平国香の子である貞盛と、下野の豪族藤原秀郷は将門と対立し、両者は天慶3年に対戦、当初は風上にあった将門軍が優勢であったが、風向きが変わって戦況が一変し、貞盛・秀郷連合軍が将門を破り、その首級を挙げた。
 こうして反乱は平定されたが、将門については様々な伝説が語り継がれていったのである(その一端が、この書物で取り上げられている「冥界消息」である)。

 この書物は
①平氏一族の内紛の原因は何であったのか
②将門はどのような政治的な地位を持っていたために、国府の襲撃などの行為を起こすことができたのか
③将門の「新皇」即位に際して、八幡神と道真の霊魂が登場したことにはどのような政治的・思想的な背景があったのか
④将門が「新皇」に即位したことにはどのような歴史的意義があったのか
⑤『将門記』の最後には、彼の「冥界消息」が記されているが、これにはどのような思想的な背景があるのか。
といった問題を取り上げて論じるものであるという。その具体的な内容については、次回以降で検討を加えることにしたい。

 平将門というと、思い出すのは(もう60年以上昔のことなので、はっきりした記憶はないが)、私よりも48歳年長の義理の伯父が日本史学者として昭和天皇に自分の研究について進講した経験を話してくれたことである。どんな話をしたか、ということについてはすでに記憶がない。ただ、その後で、昭和天皇が伯父に次のような質問をされたという話が記憶に残っている。「平将門は悪い奴である(まあ、そんな下品な言い方はされなかっただろうが)のに、なぜ、神として祭られているのか」という質問である。この質問が、伯父の進講内容とどのようにかみ合っていたのか、という点で疑問が残るのだが、一般論としては鋭い質問である。この木村さんの著書を読んでいると、平将門の乱がその時代の朝廷を震撼させた際に、天皇やその周辺の人々が抱いた危機感が、昭和天皇にまで伝えられているような気がした。 

 10月30日(水)は細川重男『執権』、11月7日(木)は梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』、今回は木村茂光『平将門の乱を読み解く』と、違う本を取り上げているが、これはブログを書こうという段になると、『執権』が見当たらないというお粗末な舞台裏に基づくものである…それで、具体的にどういうことになるかはわからないが、適当に掲載間隔を工夫しながら、これら3冊の本の紹介を続けていくつもりなので、ご了承ください。

ベーコン『ニュー・アトランティス』(2)

11月13日(水)曇り

 ペルーから出帆してこの時代には南海(the South Sea)と呼ばれていた太平洋を横断し、中国か日本にむかおうとしていた語り手の船は、はじめは順調に航海していたが、風向きの変化によって前進できなくなり、北の方の未知の方面に押し流された。ようやく、陸地を見つけて接近したところ、立派な市街地が見えた。上陸しようとしたが、そこの住民たちに上陸を阻まれた。

 上陸するなというのはどういうことか、これからどうしようかと、船の中で相談していると、陸地から8人ほどが舟に乗って語り手たちの船の方に向かってきた。そのなかから1人、両端が青い黄色い杖(cane)である職務杖(tipstaff)を持った人物が、疑う様子を見せずに船に乗り込んできた。川西訳では「両端に青いキャップのついた黄色の杖」とあるが、原文を見ると、端が青くなっているとは書かれているが、キャップ云々の語句はない。tipstaffというのは一般にそれほど長い杖ではないようである。

 語り手たちの一行のうちの1人がこの杖を持った男に近づいたので、男は、彼に小さな紙の巻物を渡した。そこには古代ヘブライ語(ancient Hebrew)、古代ギリシア語(ancient Greek)、正確な公用ラテン語(good Latin of the School)、そしてスペイン語で次のように書かれていた。「何人たりとも上陸は許されぬ。滞在延長許可のない限り、16日以内にわが国の沿岸から退去できるように準備せよ。その間、水、食糧、病人への援助を望むならば、あるいは船が修理を要するならば、必要とするものを書面で提出せよ。恵みにかな"うものは与えられるであろう。」(川西訳、8‐9ページ、the good Latin of the Schoolというのは、Oxford World Classics版のSusan Bruceの注によれば、「学者の使うようなラテン語」ということ、最後の「恵みにかなうようなものは与えられるであろう」の原文はyou shall fave that which belongeth to mercyで、この場合のmercy は「困っている人に対する親切」と理解すべきであろう。したがって、困っている人たちへの親切に属するような事柄は我々も援助するだろうというような意味と受け取ることができる。)
 この巻物は、広げずに下に垂れている天使(cherubins)の翼と、その傍らに十字架を描いた図柄の刻印で封印されていた。cherub (複数形はcherubs, or cherubim)というのは9階級のうちの上から2番目の階級に属する天使をいうが、ベーコンはcherubinsと書いているので、何か他の意味があるのかもしれないが、手掛かりを与えてくれるものがないので、このまま先に進むことにする。とにかく分かったのは、この島の住民たちがキリスト教を信じているらしいということである。
 この巻物を手渡すと、その役人らしい人物は船をおり、その従僕だけが、船の中の人々の回答を受け取るために、残った。(少し前のところでは、役人らしい人物は一人で乗船してきたと書いてあるので、ここは前後で矛盾している。)

 そこで語り手たち、船の中の人々は相談を始めたが、期待と不安とが入り混じってなかなか結論が出せなかった。上陸を拒否されたうえに、すぐに離れるように言われたのには困惑したが、その一方で、島の人々がヨーロッパの様々な言語を知っていること、親切さ(humanity、川西訳では「人情味」としている)を持っていること二は安心した。特に彼らがキリスト教を信じていることが人々を喜ばせた。
 彼らは返事をスペイン語で書いた(ラテン語で書かなかったところが、興味深い)。そこには船については異常はない(修理を施す必要はない)、あらしにあったのではなく、逆風と凪に船旅を妨げられただけだからである。戦中には病人が多数いて、重病なので、上陸できないと生命の危険にさらされることになる。それから必要物資を詳しく書き連ね、自分たちの船には多少の物資を積み込んでいるので、援助に対する返礼は可能であると記した。そして、やって来た役人とその従僕にも贈り物をしようとしたが、彼らは受け取ろうとしなかった。〔彼らにはこのような贈り物を受け取る習慣はないことが、この後でわかる。ベーコンが収賄汚職の件で逮捕・投獄された経歴の持ち主であることを考えると、この辺りは注目される。〕

 返事を送ってから3時間ほどすると、今度は身分が高そうな人物が小舟に乗り、もう1艘の舟に乗った部下たちを連れて近づいてきた。そして、弓の射程距離までやって来ると、こちらから迎えの船を出すようにという合図が送られたので、語り手たちの船の中で2番目に地位の高い人物が4人の人々を引き連れて、救命ボートで出かけて行った。
 やって来た高官は、語り手たちの一行がキリスト教徒であることを確かめ、次に海賊ではないことを確かめて、そうではないことを乗員の全員に宣誓させた。それから、高官に随行している人物の1人が、高官が彼らの船に乗船しなかったのは、伝染病に対する警戒からであると説明し、船の中の病人たちの病気は伝染病ではないらしいという船の乗員たちのことばを聞いて、高官は引き返していった。その後、病人についてのやりとりをした随員が船の中に乗り込んできた。彼は「手にオレンジのような、しかし色は赤茶色の、その地の果物を一つ持っており、素晴らしい芳香を放っていた。これは伝染を予防するためだった(ようである)。」(11ページ) そして、翌朝早く、迎えをよこして、一行を健康であるか病気であるかを問わずすべて、島の異人館(The Strangers' House)に迎え入れると予告した。別れしなに、船の人々は彼に、なにがしかのピストール金貨を渡そうとしたが、彼は「一つの仕事に二度報酬はいただけません」(12ページ)といって、受け取ろうとしなかった。つまり、彼らはその仕事に対して十分な報酬を得ているので、賄賂の類を要求するようなことはないということのようである。

 こうして船に乗っていた人々は、上陸を許されることになったが、その後のことは、また次回に紹介することにしよう。船の中で多くの人々が苦しんでいた病気は、おそらく(この時代の多くの航海者たちが苦しめられた)壊血病であったと思われる。これはビタミンCの欠乏によって起きるのだが、当時はそんなことには考えが及ばなかった。ビタミンCを豊かに含む柑橘類は壊血病の治療に役立つのだが、ベーコンは果物が含む栄養ではなくて、その芳香が、また治療よりも予防に役立つと考えていたように受け取れる記述が興味深い。この種の因果関係を見極めることがどのくらい難しいことであるかを示す一例だと思うのである。

『太平記』(288)

11月12日(火)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実は貞和3年のことである。以下、すべて史実では1年早く起きた事柄である)。さらに11月、正行は住吉、天王寺で、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。あくる正月5日、正行は四条畷の合戦で師直軍を追い詰めたが、上山左衛門の身代わりで師直は難を逃れた。

 さて、楠正行は、多年の宿願である高師直の首を取ったと喜んで、その首をよくよく見てみると、師直ではなかったことが分かったので、大いに怒ってその首を傍らに打ち捨てたが、彼の弟の次郎正時が「(だまされたという気持ちはわかるが)そうはいっても、(主君の身代わりになって死ぬという)剛勇の志は立派なものではないですか。ほかの首とは区別して置いておきましょう」と彼の小袖の袖を切りとって、上山の首を包んで、少し高いところに置いた。

 楠方の河内の武士であった鼻田与三は膝がしらに矢を深く射られて、動くこともままならぬまま立っていたが、この様子を見て次のように叫んだ。「さては師直は討ち取られなかったのだ。どうも安心できないな。師直はどこにいるのだろうか」と、兜の中に髪が乱れかかるのを払いのけながら、血眼になって北の方角を見つめた。すると、輪違の高家の紋を示す旗が一流れ見えて、その近くに身分の高そうな老武士の姿が見え、その近くに7・80騎の武士たちが控えていた。
 「あそこにいる武士は、たしかに師直と思われる。さあ、出かけて行って討ち取ろう。」 すると、楠一族の和田橘六左衛門という武士が引き留めていった。「少し考えてみた方がいいぞ。功を焦って、大事な敵を撃ち漏らすということがあってはいけない。敵は騎馬で、こちらは徒歩である。こちらが追いかければ、向うは逃げるだろう。そういうことになれば、我々はとても追いつき、討ち取るということはできない。だから策をめぐらせるべきだ。われわれがわざと退却をする様子を見せれば、敵は調子に乗って追いかけてくるだろう。敵を近くにおびき寄せておいて、その中で師直だと思われる武士の馬の脚を薙ぎ払い、落馬したところで首をとればよい。」 戦死せずに残っていた50人あまりの武士たちは、この意見に同意して、楯を背中に宛てて、退却する様子を見せ始めた。

 高師直は老練な武将なので、この程度の作戦に引っかかって、馬を進めるというようなことはしなかったが、彼の猶子である師冬(実は師直の従弟である)は西側の田んぼの中に300騎ほどの部下を率いて待機していたところ、敵が退却する様子を見せたので、全滅させてしまおうと兵を率いて襲い掛かった。楠勢は決死の覚悟をしていたので、師冬の軍勢を近づけるだけ近づけさせておいて、一気に反撃し、大きな被害を与えた。師冬はこれはかなわないとみて、退却したが、もといた陣から20町以上(約2.2キロ)も遠くに移ったのである。

 こうして楠軍と師直との間隔は、再び1町(約100メートル)あまりに縮まり、いよいよ思っていた敵を追い詰めることができたと、楠軍の武士たちの気は急くのであるが、これまでの戦いの疲れと、戦いで受けた傷が災いして、思うように体を動かすことができない。しかも楠軍は徒歩立ち、師直軍は騎馬である。とはいっても、10万余騎と呼号していた師直・師泰の軍は四散してしまい、師直の旗本には7・80騎ほどしか残っていないのだ、と勇を鼓して前進しようとする。和田、楠、野田(河内国丹比郡野田荘=堺市内の武士)、禁峯(きんぷ、不詳)、大和の三輪神社の神主である関地西阿(せきじのせいあ)、その子息の良円、河辺石菊丸(かわのべのいわきくまる、大阪府南河内郡赤坂千早村川野辺に住んだ武士)らが、じりじりと前進を続ける。

 このように何があっても動じることがなくひたひたと迫ってくる決死の軍勢に恐れをなして、さすがの師直も退却しようという気配を見せ始めたときに、九州出身の武士で鱸四郎という強い弓を矢継ぎ早に射る名手が馬から飛び降りて、逃げていった武士たちの捨てていった箙、尻籠(しこ、箙も尻籠も矢を入れる容器である)を拾い集めて、(矢を集めて)楠軍に向け散々に射かけた。和田源秀は7か所も傷を負った。楠正行も何本も矢を受けた。さらに一騎当千と頼みにしてきた武士たち113人も何か所にも傷を受けてしまっていた。

 馬はすでに解き放してしまった。戦いで疲労は限界に達している。いまはこれまでと思ったのであろうか、楠正行と、その弟の次郎正時、和田源秀の3人は立ちながらお互いに刺し違えて、倒れ伏した。吉野の如意輪堂の壁板に名を連ねた143人のうち、63人がまだ生き残っていたが、「今はこれまでだ。さて、皆の衆、同じ冥土に赴こう」と同時に腹を切って果てたのである。

 正成の甥、正行の従弟、源秀の兄である和田新兵衛行忠(別の個所には高家となっている)はなにを考えたのだろうか、たった一人で、鎧の一そろいを着て、右の脇に太刀を挟み、敵の首を一つもって左手で下げて、この頃はやっていた小歌を歌いながら、徒歩で東条(大阪府富田林市、楠の根拠地)の方角へと歩いて行こうとした。
 これを見た安保肥前守忠実(武蔵七党の丹党の武士、埼玉県神川町出身)がただ一騎で追いかけて、「和田、楠の人々はみな自害されたのに、見捨てて一人で落ちのびようとするのは見苦しく思われる。戻ってきて、勝負しなさい」と声をかける。和田はにっこりと笑って、「戻って勝負するのは簡単だ(自分の方が勝つにきまっている)」と4尺6寸の大刀が血まみれになっているのを打ち振って走りかかる。忠実は、一騎打ちでの勝負では敵わないと思ったので、馬の首をめぐらせて逃げ出す。忠実が止まると、行忠はまた落ちて行く。落ちて行けば、忠実はまた追いかけて、討ち取ろうとする。追えば返し、返せば止まり、とうとう1里(約4キロ)あまりを進む間、お互いに討たれぬままであり、次第に日没が近づいてきた。どうやら、討ち取ることはできないままに終わりそうだと忠実が思っていると、同じく丹党の武士である青木次郎(埼玉県飯能市の武士)と小旗一揆に加わっていた長崎彦九郎の二騎が箙に少し矢を残して追いついてきた。彼ら2人は新兵衛を自分たちの左手において、馬上から矢を射かけたので、新兵衛はその体に何本も矢を受け、ついに忠実に首を取られたのであった。

 こうして四条畷の戦いは、楠正行軍の全滅で幕を閉じた(もっとも、その前に、後陣の兵は逃げかえっているので、楠一族の活動は今後も続くことになるのである)。まことに壮絶な戦いぶりであったが、南北朝の力関係を逆転させることはできなかったのであり、吉野の後村上帝が正行に言われたように、生きて戻って帝を助けることを考えた方がその後の情勢の変化を考えるとよかったのではないかと思われる。実際に、正行の戦死後の吉野の朝廷は大へんな状況に陥るのであるが、それはまた次回に。 

日記抄(11月5日~11日)

11月11日(月)朝のうちは雨が降った後が残っていたが、次第に晴れ間が広がる。と、思ったら、午後になってまた雲が多くなってきた。16:30ごろからまた雨が降り出した。

 11月5日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

10月30日
 中島義道『ウソの構造』(角川新書)について触れたなかで、書き落としたことがあるのを付け加えておく。ある発言や行動について、あとになってそのつじつまを合わせるようなことがなされた場合、それは当事者が嘘をついている可能性が高いという意味のことが書かれているが、鋭い観察ではないかと思う。

11月5日
 『NHK高校講座 現代文』は、宮沢賢治が妹との死別の悲しみを歌った「永訣の朝」を取り上げた。この放送は昨年も聴いた記憶がある。番組を聴いていて2つの(あるいは正反対のことかもしれない)事柄を考えた。
 「現代文」あるいは「国語総合」の中で取り上げる<現代詩>は、俳句や短歌に比べると、少し古い作品が多いのではないか(これは印象なので、実際に調べてみたら、違う結果が出るかもしれない)ということである。もっと前衛的な作品を取り上げてもいいのではないか…という気もする。〔私は中学・高校時代に(ずっとではないが)境野勝悟先生に国語を習ったが、先生は俳句をよくされていたので、その部分は(特に)生き生きとした授業をされていたという記憶がある。飯田蛇笏の俳句がいいという話をされたのを覚えているくらいである。蛇笏は井伏鱒二と仲が良かったと後で知って、もう少し熱心に蛇笏のことを調べておけばよかったと思っている。〕
 もう一つは、新しい高校国語の学習指導要領の中での文学の後退が憂慮されているが、文学作品を取り上げないことによって、実は明治から昭和戦前(あるいは戦後のある時期)までの日本語の文章が読めない日本人が多くなるのではないか。それによって、日本の歴史や伝統を誤解する人々が多くなるのではないかということである。かくいう私も、幕末維新期の文章などはすらすらとは読めない。幕末維新期の日本について、現代の研究者や小説家の書いたものを読んでも、本当の幕末維新期の日本の姿はわからないのであって、自分でその時代の文献を読んだり、生活誌を掘り起こしたりする必要がある。そういうことがますます困難になることが心配である。

11月6日
 『朝日』朝刊の「天声人語」に英国でベトナムからの密入国者の大量死の事件が起きたことが取り上げられていたが、日本にやって来る技能実習生もベトナム人が多いことが想起される。先進国に移住して成功する人もいるが、成功できなかった人の方が多いようである。よく言われることだが、成功例は大いに宣伝されるけれども、失敗例はあまり多くの人に知られない。しかし、実は失敗例の方が多いという事例は少なくないのである。

 同じく『朝日』朝刊の「耕論」のコーナーで、萩生田文部科学相の「身の丈」発言をめぐり、松岡亮二さんの「『教育格差』のデータを無視」、竹内洋さんの「近代日本の建前が崩れた」、斎藤孝さんの「受験にはそぐわない言葉」という3つの意見が掲載されていた。この件については前回の「日記抄」の10月29日の項に私の意見を書き、それについてのコメントもいただいた。私の意見は斎藤さんの見解に近く、それに対するコメントは竹内さんの意見に近いのではないのかと思う。松岡さんの意見は2つのこと、1つは文部科学相の発言が教育格差を指摘するいくつかの研究結果を無視してなされていることと、もっと大きな文脈でいえば、安倍政権の教育政策が実証に基づいて(evident-based)設計されたものとはいいがたいものであることを述べているのではないかと思う。これら2つのことについては、また論じる機会があるだろう。

 前回の「日記抄」の10月31日の項で、『日経』の記事に基づいて、コーヒー豆には主としてレギュラー・コーヒーに使われるアラビカ種と、インスタント・コーヒーに使われるロブスタ種の2種類があるということに触れて、缶コーヒーに使われるのはどっちだろうと書いたのだが、この日の『朝日』に「缶コーヒー 甘くて苦い 50年」という記事が出ていたので、その答えが書いてあるかと思って読んだのだが、書かれていなかった。この辺りに、『朝日』と『日経』の記者の興味のもち方の違いが出ているように思う。

11月7日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介されたことば:
After crosses and losses, men grow humbler and wiser.
    ―― Benjamin Franklin
( U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706 - 90)
(数々の試練と喪失の後で、人はより謙虚により賢くなる。)

11月8日
 デフォー『ロビンソン・クルーソー(下)』(平井正穂訳、岩波文庫)を読み終える。一般によく知られている、ロビンソンが孤島で暮らす物語を上巻として、英国に帰ったロビンソンがまた島を訪問し、その後、彼が一時農場を経営していたブラジルを経て、喜望峰まわりでアジアの各地を歴訪、中国からヨーロッパへと戻るという続編を下巻としている〔だから世界一周はしていないのである〕。続編を読むのはこれが初めてだが、宗教や道徳の問題、特に宗教的寛容の問題が盛んに取り上げられているのは前編と同様である。デフォーはピューリタン(清教徒)であり、その意味で、『ロビンソン』はジョン・ミルトン(John Milton, 1608-74)の『失楽園』(Paradise Lost, 1667, 74)やジョン・バニヤン(John Bunyan, 1628-88)の『天路歴程』(The Pilgrim's Progress, 1678)の系譜につながるのだが、デフォーはこの2人に比べると新しい時代に生きたこともあって、作品の中の世俗的な傾向がより強くなっているといわれる。そのことと、宗教的な寛容の問題は関係するのではないかと思う。 

11月9日
 『朝日』の朝刊に、新しい大学入学共通テストで導入される、記述式問題にもいろいろな懸念が寄せられていることが報じられていた。採点者を1万人確保しなければならないというのが不安材料の一つであり、さらにその仕事ぶりがどのようなものかも問題になりそうである。

 松下貢『統計分布を知れば世界がわかる』(中公新書)を読み終える。
 一見、バラバラに見えるデータでも、それらをたくさん集めてグラフにしてみると、ある傾向や規則性、特徴が見えてくる。このような作業を統計分析という。特に著者はデータの分布に注目する。分布には、身長のように正規分布をするもの、体重のように対数正規分布をするもの、地震の大きさのようにべき乗分布をするものなどがある。著者は物理学者であるが、社会現象を含めて、われわれが日常出会う事柄の総てに物理学は取り組まなければならないという寺田寅彦の考えを継承して、さまざまな社会の問題、特に最近問題視されている「格差」の問題に、統計分布の分析から迫ろうとしている。
 先日、亡くなった八千草薫さんが里見美禰子役で出演していた『夏目漱石の三四郎』(1955、新東宝、中川信夫監督)では、土屋嘉男が寺田寅彦をモデルにしているといわれる野々宮宗八を演じていたが、日常出会う事柄の総てと物理学は取り組まなければならないという寺田の考えが述べられていて、そこのところだけいやに感心した記憶がある。

11月10日
 来年度からの大学入学共通テストにおける英語の民間試験活用が中止されたことをめぐり、『朝日』は大学側の対応、『日経』は民間団体側の対応を取り上げているのが、両紙の特徴をよく表していると思った。

 横浜FCはアウェーで徳島ヴォルティスを1‐0で破り、2位に浮上した。あと2試合、なんとか勝ち抜いて自動昇格を果たしてほしい。
 第1135回のミニトト‐Aが当たった。

11月11日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』を聴いていて、ポップコーンのことをスペイン語ではpalomitas (複数形、1粒のポップコーンはpalomitaだが、1粒だけ買う人はいないから、複数だけ覚えればいいのである)という。
 気になったので調べてみたが、フランス語ではpop-cornをそのまま使うようである。あるいは、別の言い方の方が一般的かもしれないので、ご存知の方はご教示ください。
 などと書いたが、私はまず、ポップ・コーンを買って食べることはないだろうから、覚えなくてもいいのではないか――とも思う。 
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(18)

11月10日(日)晴れ、温暖

 19世紀の初めのイングランド、ロンドンの北に位置するハートフォードシャーのロングボーンという村の地主ベネット氏にはジェイン、エリザベス(エライザ、リジー)、メアリ、キャサリン(キティー)、リディアという5人の娘があった。この家系の決まりで、財産は男系相続であったので、ベネット氏の財産は5人姉妹には継承されず、そのため5人のうち1人だけでも裕福な紳士に嫁ぐことがベネット夫人の念願であった。
 ジェインはロングボーンの近くのネザーランドの邸宅を借りたビングリーという北部出身の紳士と親しくなり、その姉妹とも交流するようになる。ビングリーの親友だというダーシーという紳士は、ビングリー以上の大富豪だという噂であるが、その高慢な態度に反感を抱く人々もいる。エリザベスは舞踏会で彼が自分に対し失礼な発言をしたのを聞いていて、偏見を持ち続けている。しかし、ダーシーの方ではエリザベスの美しい瞳と茶目っ気のある態度に次第に関心を寄せるようになっている。
 ロングボーンの財産の相続人であるコリンズという青年が、ケントの大地主であるレディー・キャサリン・ド・バーグの恩顧を受けて教区牧師の地位を得たのを機会に、ベネット一家と和解したいとロングボーンを訪問する。安定した地位を得た彼は、美人で気立てがいいという評判のベネット家の5人姉妹のうちの1人と結婚して、事態を収めたいと考えている。そして、エリザベスに白羽の矢を立てる。だが、エリザベスは、この尊大さと卑屈さが入り混じり、退屈な男性を好きになれない。
 エリザベスはロングボーンの近くのメリトンの町で、この地に駐屯する国民軍の将校であるウィッカムという青年に出会い、好意を持つ。彼はダーシーと子どものころからの知り合いで、牧師になりたいと思っていたが、ダーシーの干渉でその地位を得られなかったのだという。ビングリーの借りているネザーランドの邸で開かれた舞踏会でエリザベスはウィッカムと踊るところをダーシーに見せつけようと思っていたのだが、なぜかその会にウィッカムは現れず、最初の2回分をコリンズと踊ることになる。そして、ぼんやりしていたところ、ダーシーから踊ることを申し込まれ、2人で踊ることになったが、彼の前に立たされてみると、「何やら自分が偉くなったような気がして驚いた」(大島訳、164ページ)。ダーシーのエリザベスへの気持ちと、彼女がウィッカムに惹かれていることを知っているミス・ダーシー(キャロライン)は、ウィッカムの父はダーシーの執事だったのだと彼女に「忠告」する。夕食の席でベネット夫人はルーカス夫人に向かい、自分の上の娘2人が近々結婚することになりそうだと大声で自慢し、さらにダーシーに対して失礼な態度をとり、エリザベスをひやひやさせる。
 コリンズがエリザベスに求婚し、エリザベスは断るが、さらに執拗に迫ってくるコリンズの態度に辟易する。そして父親の助力を借りて、やっとコリンズに求婚を断念させる。メリトンの町でウィッカムにあったエリザベスは、彼が自制してダーシーと会わなかったという言い訳を聞き、ますます彼に好意を持つ。一方、ジェイン宛にミス・ビングリーから手紙が届き、ビングリー家がロンドンに移ったと知らされる。エリザベスの気持ちが自分に向かってこないことを悟ったコリンズは、ベネット家の隣のルーカス家の長女であるシャーロットに興味を移し、そして彼女に求婚して、成功する。親友であるシャーロットから、結婚の話を聞いたエリザベスは驚く。(以上22章まで)

 シャーロットからコリンズと結婚すると聞かされたエリザベスは、家族のものにどのようにしてその話をするか考えていたが、それよりも早く、シャーロットの父であるルーカス卿がベネット家を訪問した。娘に頼まれて彼女とコリンズとの結婚について報告するためである。ベネット夫人と妹たちは耳を疑い、そんなことは起こりえないと言い張ったので、エリザベスはやむなく、シャーロット本人からそのことは聞いたといって、お祝いの言葉を述べ、ジェインもすぐにそれに加わった。
 ようやく事態を呑みこんだベネット夫人は大いに腹を立て、エリザベスとは1週間ほど口を利こうとせず、ルーカス夫妻に礼儀正しく接することができるようになるのに1か月ほどかかり、シャーロットをどうにか許せるようになるのには数か月を要した。

 これに比べると、ベネット氏の方は落ちついた態度でこの知らせを聞いた。そしてシャーロットは頭のいい女性だと思っていたが、自分の妻と同じくらい馬鹿で、エリザベスよりもはるかに馬鹿だということが分かったと皮肉な感想を述べた。〔ベネット氏は地主(上流階級に属する、といってもその最底辺に近い方にいる)、事務弁護士(中流階級に属する)の娘である現在の夫人とその美貌に惹かれて結婚したのだが、その結果は決して幸福なものではなかった(まったく不幸なものでもなかった)ということが、事態の推移と関係している。〕
 ジェインはこの結婚を喜び、二人の幸福を願い、エリザベスがそれは無理な話だといっても聞く耳を持たなかった〔他人の悪い面、否定的な面に目を向けないのが、ジェインの特徴で、オースティンはそのことをあまり肯定的に見ていないが、それはそれでいいことではないかと、私は思う〕。
 キャサリンとリディアはコリンズが牧師であり、軍人ではないので、噂話のタネ以上には、この婚約を受け取ることができなかった。〔メアリーのことが書かれていないのには、作者の計算があるのだろうか?〕
 「ルーカス令夫人は娘に良縁を得たことが嬉しくて、その喜びをベネット夫人に見せつけてお返しが出来ることに勝利感を覚えずにはいられなかった。」(大島訳、226ページ) それでいつも以上にベネット家を訪問することになり、そのたびにベネット夫人から嫌味を言われるのだが、そうされても一向に訪問をやめようとしないくらいに有頂天になっていた。
 エリザベスとシャーロットの間には、一種の気まずさが漂い、これまでのように親友同士として接することが難しくなった。エリザベスはその分、姉のジェインを力強い身内と感じるようになったのだが、そのジェインはビングリーの去就に心を悩ませていた。ジェインがミス・ビングリーに宛てて出した手紙に一向に返事が届かなかったからである。

 コリンズからベネット氏宛に礼状が届き、結婚についてド・バーグ令夫人の賛同を得たので、できるだけ早く結婚式を挙げるつもりで、そのためにまた訪問することになると知らせてきた。ベネット夫人はコリンズの再訪に対して不機嫌な態度をとり、ビングリーの話題が出るとき以外は、その態度をとり続けたのである。ビングリーについてメリトンの町では、この冬にはもうネザーフィールドには戻らないといううわさが飛び交っていたが、ベネット夫人としてはその噂は信じたくないものであった。この噂には、エリザベスも心を痛めていた。彼女としてみれば、ビングリーのジェインに対する気持ちを疑いたくはないのだが、彼を取り巻く環境が彼の足をハートフォードシャーへと向けさせないのではないかと思ったのである。
 しかし、それ以上に心を痛めていたのは、不安定な状況に置かれているジェインであった。彼女はそういう自分の苦しい気持ちを他人に見せようとしなかったが、困ったことに母親がやたらとビングリーのことを話題にするので、それによって余計に心を痛めたのである。それでもなんとか、切り抜けたのはジェインの温厚な性質(steady mildness)の賜物であった。

 結婚式を挙げるためにコリンズがまたロングボーンに戻ってきたが、彼がシャーロットと睦まじそうに話しているのを見るたびに、ベネット夫人は自分をこの屋敷から追い出そうとする相談をしているのではないかと邪推する始末であった。第23章は、次のようなベネット夫妻の会話で終わる。
"If it was not for the entail I should not mind of it."
"What should not you mind?"
"I should not mind any thing at all."
"Let us be thankful that you are preserved from a state of such insensibility."
(Penguin Classics Edition, p.128)
「限嗣相続なんてものがなければ、私も何とも思わないんだけれど。」
「何を何とも思わないって?」
「何もかもまったく何とも思いません。」
「それならお前は限嗣相続のおかげでそんな認知不全症に陥らなくてすんでいるわけだから、感謝しなくては。」
(大島訳、231ページ)

 ここで「限嗣相続」と訳されているentailは権利者の直系卑属のみに継承される相続の形式であり、ベネット家の場合、そのなかの男系相続(tale male)を採用しているから、コリンズが相続することになるのである〔この件については、以前にも書いた。大島訳の121ページの注はこの点では不十分である。〕 だから「限嗣相続」だけを問題にするのは十分な理解とは言えない。これはベネット夫人の理解不十分を描いた箇所なのだが、ひょっとすると、オースティン自身が十分に理解していなかった可能性もある。
 こうして、ベネット夫人のいらだちと、不安定な状況に置かれたジェインの心労を描いて、この小説の第1巻は終わる。コリンズはシャーロットと結婚することになったが、ジェインの恋の行方はどうなるのか、エリザベスはどのような運命をたどるのか、さらに妹たち3人の動きも気になるところで、物語は第2巻へと続いていくのである。

 シャーロットは27歳だという設定だから、コリンズよりも年長のはずである。一方、エリザベスは、作中でも年齢を明かそうとしないが、20歳だから、この2人が親友だというのはちょっと無理があるという気がしないでもない。とにかく、年齢の違いを反映して、結婚についての考え方が違うというのもうなずけるところである。それにしても、(姉のジェインほどではないにしても)美人のエリザベスに断られた後、不美人のシャーロットに求婚するというコリンズの態度は、焦っているとしか言いようがない。もっとも、就職が決まって有頂天になっているような場合には、そういうこともありがちなのかもしれない。何度か触れられてきたように、シャーロットは頭がいいので、それなりの計算をして、コリンズの求婚を受け入れたのであるが、心からコリンズを尊敬できるとは思っていないところが問題である。 

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(3)

11月9日(土)晴れ、温暖。

 元老院、政務官、民会の3者からなる共和政によって成立していたローマであるが、カルタゴとの戦争に勝利し、その後も領土の拡大が続く中で、すぐれた軍事指導者が同時に政治的な指導者として期待されるようになってきた。紀元前1世紀にはいると、従来からの門閥を背景に勢力を築いたスッラと、民衆の支持を得て台頭したマリウスの抗争が続き、この戦いに勝利して独裁権を確立したスッラの後、次の世代の軍閥が台頭した。すなわち、ポンペイウス、クラッスス、カエサルである。彼らは互いに連合することで元老院を抑え、三頭政治によってローマを動かした。しかし、クラッススがパルティアとの戦争に敗れると、この均衡が破れ、ポンペイウスとカエサルの間で内乱がはじまることになる。ローマ白銀時代の詩人ルーカーヌスの未完の叙事詩『内乱』はこの両雄の戦いを描いた作品である。
 ラテン文学史では、キケローが暗殺された翌年(前42年)から、オウィディウスの没年(後17年頃)の約60年間を「黄金時代」と呼ぶ。この時期が、後に「アウグストゥス」の称号を得るオクターウィアーヌスの政界での活動期とほぼ一致するので、「アウグストゥス時代」とも呼ばれる。この時代の初めごろは、ウェルギリウス、ホラーティウスらの詩人が活躍し、後半になるとオウィディウスの独壇場となる(この3人がいずれも『神曲』『地獄篇』に登場する6大詩人のうちに含まれていることを思い出してほしい)。
 紀元後14年、アウグストゥスは病死した。この年から、五賢帝の最後の皇帝であるマルクス・アウレーリウス帝の治世の終る180年までの文学を「白銀時代」という。これはギリシア以来の下降史観に従った、理想的な「黄金時代」の直後の時代を呼ぶ名称であるが、「それを単に劣った時代、と解釈するのではなくて、それなりの価値、魅力をもった時代、と考えるほうがよい」(松本仁助・岡道男・中務哲郎編『ラテン文学を学ぶ』、180ページに述べられている小林標さんの見解)のである。

 この叙事詩は「内乱にもましておぞましい戦、正義の名を冠された犯罪」という古代ギリシア・ローマの文学の伝統の中では特異な主題を取り上げるものだと、冒頭でルーカーヌスは宣言する。そして彼の時代のローマ皇帝であり、この時点では彼の庇護者でもあったネロへの助力を乞う呼びかけがあり、内乱の原因についての探索が展開される。中でも「同輩を許容せぬ」権力に焦点が当てられ、過去の英雄ポンペイウス、昇竜の勢いのカエサルという両雄のあり方が、前者は「樫の古木」、後者は「雷電」という比喩によって示される。

 クラッススが戦死した時、ポンペイウスはローマにあり、カエサルはガリアに兵を進めて、その地の経営にあたっていたが、兵を結集してローマに戻ろうとする:
はやすでにカエサルは、来たるべき大乱と兵戈(へいか)を心に期し、長駆して、
凍てつくアルペスを越えていた。小流ルビコンの
川岸に達した時、軍を率いるその彼に、暗い夜の闇を通して
まざまざと、悚然(しょうぜん)とした祖国の巨大な幻影が見えた。
(184‐187行、29ページ)
 この時代、イタリア半島西北部を西に流れてリグリア海にそそぐアルノ川と、東北部を東に流れてアドリア海にそそぐルビコン川の2つの川が、イタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界であるとされていた。それで、軍隊を率いてこの境界線を越えることは、祖国への反逆と見なされたのである。
 祖国の幻影は、カエサルに向って、軍を率いて進むことができるのはここまでだという。しかし、カエサルは、自分をローマの敵としたポンペイウスこそ、討伐されるべきだと言い放ち、
・・・決然、戦の遅滞に終わりを告げ、
蒼惶(そうこう)と、水かさ増した小川を渡って、旗幟を前進させた。
(204‐205行、30ページ)
 大西英文さんの翻訳は、いやに難しい言葉を使うところがあり、それが適切とはいいがたい場合があるのが問題である。アルプスといえばいいのに「アルペス」といい、「悚然」というのも見なれない表現である。「蒼惶」というのは「慌てふためくさま」で、ここは慌てて川を渡ったというのではなくて、急いで川を渡ったという意味に受け取るほうが適切であろう。気になるので、プロジェクト・グーテンベルクで英訳を見たところ、
And bids his standards cross the swollen stream.(そして彼の軍旗が水かさの増した流れを横切るように命じる。)
とあって、「蒼惶」に相当する表現はない。(ラテン語原典にはあるのかもしれない。)
 このルビコン川が、現在イタリア半島を流れるどの川であるのかをめぐっては議論があるそうだが、フィウミチーノ川と呼ばれていた川をあてるのが一般的で、この川が現在ルビコーネ川と呼ばれている由である。全長30キロ余り、川幅はいちばん狭いところで1メートル、広いところで5メートルほどというから、たしかに小川である。
 この川を実際に見てきた柳沼重剛によると「ルビコン川というのは、今そこへ行ってみるとがっかりするほど小さな汚い川だ」(柳沼「賽は投げられたか」、『語学者の散歩道』、42ページ)だという。カエサルの言葉として有名なものの1つである「賽は投げられた」(iacta alea est)はこのときの言葉で、スエトニウスの「ローマ皇帝伝」の中の「カエサル」(柳沼は「カイサル」と表記している)の第32節に出て来るのだそうだ。しかし、この言葉が発せられた状況を知るためには、第31節から読んだ方がいいと書かれている。

 さすがのカエサルも軍を率いてルビコンを越えることを躊躇して考えていると、不思議なことがおこった。「身の丈が人なみはずれて高く、姿かたちもきわめて美しい男が忽然と現れ、座って葦笛を吹いているのだ。これを聞こうとして、大勢の牧童たち、それに兵士たちまでが部署をはなれて駆け寄った。その兵士たちの中にはラッパ手の連中もいたが、その美しい巨人は、その一人からラッパを取り上げるや川にむかって走り、胸いっぱいに息を吸い込んで、進軍ラッパを吹きながら向こう岸へと渡った。するとカイサルが云った、≪さあ、行こうではないか。神々のお示しとわれらの敵の呼ぶ所へ。賽は投げられたのだ≫」(以上32節) (柳沼、前掲、44ページ) 
 ルーカーヌスの書いていることは、にわかに信じがたいが、スエトニウスの記述も信じがたいところがある。とにかく、カエサルの率いる軍隊はルビコンを渡った。英語でcross the Rubiconというと「あとに引けない決定的な行動に出る」、「重大な決断をする」という意味で使われる表現になっている。

 小さな源を発し、細流となって下る紅のルビコンは、
炎熱の夏の盛りのころおい、川床を這うがごとくに流れる小流。
だが、ガリアの野とアウソニアの野とを截然と分かつ
国境と定められた。・・・〔しかし、冬なので、水量は増していた〕
・・・まずはじめ、騎兵の隊列が、水勢を受けとめるべく、
流れに向かって筋違いに配置され、次いで、残りの軍勢が、
勢いをそがれ、流れゆるやかとなった浅瀬を渉り、楽々と川を越えた。
(213行‐221行、31ページ)

 そして、ルビコンのすぐ近くの町であるアリミヌムに侵攻した。町の人々は、ガリアにすぐ近くにあるこの町があることを嘆いた。カエサルはローマに近づき、嵐の前の静けさがイタリア半島を覆った。しかし、運命(フォルトゥナ、fortuna)がこの静けさを破ろうとする:
・・・だが、
陽の光が冷たい夜の闇を払うや、見よ、運命が
兵乱に及ぶべきか逡巡する将の心に開戦煽る松明を投げ込み、
兵乱へと駆り立てる刺激を加えて、羞恥の躊躇(ためら)いを残らず
払拭した。将の動乱を正義の戦にしようと、フォルトゥナが腐心し、
兵戟の大義名分を見出してやったのだ。都が二分する中、
元老院が不和を煽る護民官らを、グラックス兄弟の先例を誇って
威迫した挙げ句、法を枉げて、放逐したのである。すでに
進軍をはじめ、都に迫る(カエサルの)旗幟を追うその彼らに、舌を金で売る
蛮勇のクリオが同道した。
(261‐270行、34‐35ページ)
 護民官であったクリオ(Curio)が合流することにより、カエサルの軍は、たんにポンペイウスと対立する将軍の軍ではなく、ローマの民衆の利害を代表する軍となった(もともと、カエサルはマリウスの妻の甥であるから、民衆派であったのである)。クリオについて、上記英訳ではbold, prompt, persuasive (大胆で、機敏で、説得力がある)と表現している。大西訳の「蛮勇」というのと少し違うように思う。さて、クリオを味方に加えて、カエサルは、この後、どのような行動をとるか。それはまた次回に。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(3)

11月8日(金)晴れ、温暖

 10月12日に掲載した第2回の中で、この書物の紹介をしばらくお休みすると書いた。本当はもう少し休んで再出発するつもりだったのだが、他に書くことが見つからないので、とりかかることにする。

 1957年の11月から1958年の3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、東南アジア諸国を訪問した。この書物は、その際の私的な記録としてかかれたものであるが、東南アジアの自然・社会文化について概観した書物がない時代に発表されたので、多くの読者を獲得した。現在では東南アジアについての書物は多く出されているが、読み返してみても、古典的な価値を失わない著述であると思う。
 この調査隊は、特に北タイを中心的な調査地として選び、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。旅行の前半の様子を記した上巻では、バンコクで開かれた太平洋学術会議への参加、カンボジアのアンコール・ワット訪問、そして北タイにおける予備的な調査の様子が紹介されていた。下巻の第11章「配置を終る」で、梅棹隊は2手に分かれ、藤岡喜愛(文化人類学)、川村俊蔵(霊長類研究)、小川房人(植物生態学)、依田恭二(植物生態学)の4人は北タイにおける調査を続行、梅棹と吉川公雄(昆虫学、医師でもある)の2人は東南アジアのカンボジア、ベトナム、ラオス3カ国を周遊して調査をすることになった。梅棹と吉川には、外務省留学生の石井米雄が通訳を兼ねて同行することになった。

第12章 歴史の足あと
 第12章「歴史の足あと」はカンボジア旅行の前半を記録したものである。

 特別便所
 「2月12日、バンコク出発。カンボジアに向かう。/こう書くと、その日のうちにでも国境越えになりそうだが、例によって、出発まえはゴタゴタして、日本新聞処を出たのは午後4時である。とにかく、いくらおそくなっても、その日のうちに出発してしまわなければだめだ。あすに延ばしても、あすはあすでまた別なゴタゴタ がおこって、けっきょくまた午後4時ころになるにきまっている。」(35ページ) いざ、出発ということになると、○○を忘れたとか、△△を家(職場)に置いてきたとか、戸締りはどうだとか、いろいろな問題が気になって、出発を遅らせたり、また戻ったりする。そういうことは私にもあるので、よくわかる出発の様子である。特に留守番がいないので、いろいろと気になることがあったはずである。まして、外国から別の外国へ出かけるのだから、たいへんである。

 バンコクから北の方角に車を走らせ、ヒンカンで東におれて、カンボジア、さらにベトナムへと向かう。出発が遅かったので、まだタイ領内のナコーン・ナーヨックに泊まる。そこの中国人のおばさんの経営する宿屋に一泊する。おばさんは戦争中の話をして、自分の宿屋が将校宿舎だったと語る。戦争の話を持ち出されたので、一瞬ドキリとしたが、日本軍の将校たちはいい人たちばかりだったようで、よほど偉い人が泊まる時でないと使わせないという特別便所を開放してくれた。
 同じ宿屋に泊まっているのはタイ人の山林業者がいるだけだった。「その人から、コーラート高原地方の森の話をきいた。テナガザルもいる。野生のゾウがたくさんいるということだった。」(37ページ) 石井が通訳したのだろうが、自分たちの調査の役に立つような情報を常に求めていることがわかる箇所である。

 大草原の孤独の旅
 翌日、一行はカンボジアとの国境に向かう。前年の12月にアンコール・ワットを訪問した際に通ったのと同じ道であるが、その後2か月のうちに、乾季はいっそう深まり、ラテライトの道路の、コーヒー色の砂ぼこりは、ますますひどい。
 国境に達する前に、日本の稲作調査団の大型トラックと行合う。石井に東京外国語大学でタイ語を教えた河辺利夫が乗り込んでいたのは奇遇であった。しばらく話をして別れる。

 「午後3時、わたしたちは国境を越えて、カンボジアに入った。/丘の多いタイ側とちがって、カンボジア領は、広大な草原のつらなりである。道は、ひどく悪い。」(37ページ)
 国境を超えると、日本と同様に車が左側を走るタイとは逆に、カンボジアでは車は道路の右側を走ることになる。運転にいよいよ慎重にならざるを得ない。シソポンで道が分かれ、一方はアンコール・ワットを経由してトン・レ・サップ湖の東北を走り、もう一方はバッタンバンを経由して、トン・レ・サップ湖の西南を走る。12月に走ったのとは別の、バッタンバンに向かう道を行くことになる。

 バッタンバン市
 6時過ぎにバッタンバン市に到着する。「バッタンバンは、大きな、立派な町だった。蛍光灯の街灯が美しくかがやき、通りはにぎやかだった。首都のプノムペンのほかに、カンボジアにこれほどの町があろうとは思ってもいなかった。」(39ページ)
 一行は、カンボジアがフランスの植民地だった時代に、フランス人用に作られた施設であるバンガロウを探して泊まる。
 翌日、梅棹は町を歩く。町は川に沿うていたが、その川は(乾季なので)大方干上がっていた。しかし雨季になれば、大トン・レ・サップ湖の一部となり、この町も湖港の一つになるのだろうと梅棹は推測している。

 町並みはフランス風であるが、中国人の存在が目立つ。商店街はみな、中国人の店である。「ここは、まるで中国である。カンボジア人なんか、どこにいるのかわからない。おびただしい中国人だ。ここは、フランスの植民地であったというよりは、中国人の植民地であったのかもしれない。」(40ページ)
 バッタンバンはポル・ポト派の拠点だったので、梅棹が訪問した時と、現在とではかなり様子が違っていることが推測できる。

 クメール文字
 「町で話されていることばは、もちろんクメール語である。商店の看板も、すべて漢字とクメール文字とがならべて書いてある。新聞も、雑誌も、クメール語である。
 タイからカンボジアに入って、きわ立って変ったと思うことの一つは、文字である。針金の知恵の輪細工みたいなタイ文字は姿を消して、蠕虫がおどっているようなクメール文字になった。」(40ページ)
 クメール語の本(入門書ということであろう)は日本ではまったく手に入らず、バンコクでも入手できなかった。バッタンバンまで来てやっと1冊、クメール文字によるクメール語と、英語・フランス語の対訳のパンフレットを手に入れることができた。
 「クメール文字は、与える印象はタイ文字とまったくちがうけれど、よく見ると、その構造はひじょうによく似ている。じつは、似ているはずである。タイ文字は、クメール文字を改変してつくったものといわれている。そして、そのクメール文字は、インドのデーヴァナーガリー文字からの変形である。」(41ページ) タイ文字を考案したといわれるのは、スコータイ王朝の第三代の王であったラームカムヘーンである。タイの歴史のなかでもっとも偉大な国王の一人に数えられるラームカムヘーンについて、梅棹は第10章で言及しているが、なぜかこの部分ではその名前を出していない。
 文字は共通の起源をもっているが、クメール語とタイ語とは言語系統から見れば、まったく別の言語である。タイ語は、シナ・タイ語族に属するが、クメール語は、南アジア語族に属するとされている。
 やっと本を手に入れることができたくらいであるから、梅棹一行は一言もクメール語を知らないのであるが、幸いなことに、バッタンバン市ではまだタイ語が通じるのである。本屋の店先にタイ語の本が大量に出回っていて、本屋の話では、10日間に300冊くらいは、タイ語の雑誌が売れるという。
 これも、現在では同じ状況が続いているとは考えられない現象である。

 歴史の足あと
 バッタンバンでタイ語が通じるのには訳があって、バッタンバンは、戦争中はタイ領であったのである。1941(昭和16)年にタイ国軍とフランスのインドシナ軍が衝突し、その際に、日本のあっせんによって(あるいは圧力によって)、フランスからタイに、領土を割譲させた。戦争中に、タイはカンボジアからの2州のほかに、ラオスから2州、マラヤから4州というふうに、周辺の領土を併合した。 この辺りの詳しい事情は私も知らないが、タイは日本の同盟国であったので、一種の役得である。しかし、もともとこの書物の第10章に記されているようにラオスはタイの一部であったという経緯があり、戦争中のタイの領土拡張には簡単には理解できない部分があるように思われる。バッタンバンはタイ語でプラタボーンと呼ばれることになり、日本の領事館も設置されたという。

 「しかし、日本の敗戦とともに、みんな御破算になってしまった。タイは、これらの併合領土をさっそくにもとの国に返還した。それはまことにあざやかな返しっぷりであった。」(42ページ) この辺りも、梅棹の記述のとおりなのか、疑ってみる必要があるかもしれない。とにかく、梅棹は、タイとカンボジアという隣り合った国が、この時点ではタイが西側陣営、カンボジアが中立という国際的な立場の違いとともに、反目の歴史を経ながらも、実はお互いに交流に、相互に影響しあってきたことを述べている。
 このような対立は、梅棹の訪問から60年以上の時を経た現在でも尾を引いていて、ASEANなど東南アジア、あるいはより広い意味での極東アジア諸国の国際関係にも影響を及ぼしている。タイはなかなか外交術にたけた国であるが、カンボジアも決して負けてはいないところがあって、経済的な開発が進んでいないからといって、軽視してはいけない存在なのである。梅棹は政治や外交についてはあまり多くを語ろうとしてはいないが、東南アジア諸国の指導者と国民の政治的な力量を軽んじていないことは、この書物を読んでいて感じられることの一つである。

 次回、さらにカンボジアの旅が続く。読んでいて気持ちがいいのは、梅棹はナショナリストであるが、他国のナショナリズムにも敬意を払っていること、タイにはタイの、カンボジアにはカンボジアのナショナリズムがあると考えていることである。いまのところ、カンボジアでは中国人(というよりも華人とか漢人とか言ったほうがいいのかもしれないが)の存在だけが目立っているが、カンボジアのナショナリズムのありかもおいおい明らかになってくるはずである。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(24)

11月7日(木)曇り

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルとの間に生まれ、誕生後すぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名前が付いた。もともと巨大な体躯の持主であった上に、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、一時、詭弁学者を家庭教師として勉強したために勉学が停滞したとはいうものの、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという学者を師としてパリで勉強するようになってからは、学芸にも武勇にも秀でた若者となった。
 グラングゥジェの領民たちが、隣国のピクロコル王の領民たちといざこざを起こし、かんしゃくもちのピクロコル王が事態を確かめもせずにグラングゥジェの領内に攻め入って来て、略奪をほしいままにするという事件が起きた。それで、グラングゥジェは平和裏に解決しようとするが、ピクロコルは耳を貸さなかったので、やむなくパリからガルガンチュワを呼び寄せて、ピクロコルの軍隊と対決させる。ガルガンチュワはポノクラートやその他の近臣たち、ピクロコルの侵略から自分の修道院の葡萄園を守ったジャン修道士らの助けを得て、ピクロコルの軍隊を打ち破り、平和を回復する。そして、グラングゥジェとガルガンチュワは、平和の回復に功績のあった部下の者たちに恩賞を与える。

第52章 ガルガンチュワが修道士ジャン・デ・ザントムールのためにテレームの僧院を建立させたこと(ガルガンチュア、ジャン修道士のために、テレームの修道院を建立させる)
 気になるので、もとのフランス語と、英訳とで章題を記しておく:
Comment Gargantua feist bastir pour le moyne l'abbaye de Theleme.
How Gargantua caused to be built for the Monk the Abbey of Theleme
 渡辺訳でも宮下訳でもジャン(・デ・ザンドムール)という名前を入れているが、フランス語原文、英訳共に名前はない。
 ジャンの身分であるが、修道士(仏moine, 上にmoyneとあるのは古い表記、英monk)である。
 渡辺訳は「僧院」、宮下訳は「修道院」と訳しているが、フランス語原文のabbaye,英語のabbeyは正しくは「大修道院」である。〔余計なことを付け加えると、スタンダールの”Chartreuse de Parme"は「パルムの僧院」と普通訳されているが、chartreuseはカトリックの修道会の一つであるシャルトル―会の修道院を指す語だそうである。〕

 功績のあった人々には褒賞が与えられ、残ったのはジャン修道士だけになった。そこで、彼をもともと彼が所属していたスイイーの修道院長にしようと思った。ところが、彼はそれを拒絶した。そこで、ガルガンチュワはスイイーの修道院よりも大きい、ブゥルグイの修道院、あるいはサン・フロランの修道院、本人が希望するならばその両方の修道院長にしようと提案した。しかし、ジャン修道士は修道士たちの世話をしたり、取り締まったりするのはまっぴらだと、きっぱり拒絶したのであった。

「――なぜかと申しますに、(と彼は言った、)己が身のことすら取り締まれませぬ拙者に、どうして他人様を取り締まれましょうかい?」(渡辺訳、230ページ) 宮下訳では
「と申しますのも」と、彼は述べた。「自分自身もまともに管理できないこのわたし、他人さまを管理できるはずもありません。」(宮下訳、371ページ)となっている。原文を示すと:
Car comment (disoit il ) pourroy je gouvener aultruy, qui mois mesmes gouvener ne sçaurois?
英訳では
For how shall I be able (said he) to rule over others, that have not full power and command of my self:...
 まったくだ!と思い、組合の委員長のような仕事を押し付けられそうになった時など、この言葉を思い出し、断ろうとしたことがよくあるが、うまくいったことはあまりない。なお、渡辺訳で、ジャン修道士は「拙者」と自称しているが、修道士であることを考えると「拙僧」とか「愚僧」あるいは「貧道」などという訳語も考えられる。ただ、ジャン修道士のこれまでの描かれ方からいうと、「拙者」というのがふさわしいという気もする。

 ジャン修道士は、それでも自分に多少の功績があってそれに報いようと考えるのであれば、自分の考えているとおりの(第)修道院(abbaye)を建ててほしいという。この願いが気に入ったので、ガルガンチュワはロワール川の河岸にあるテレームという国の全土を提供した。渡辺一夫は、場所に注目して「大体、アンドル川、シェール川、ロワール河に灌漑されて、良種の牝牛を産する豊かな牧場地帯(ラ・シャペルとブレエモンとの間)を指すもののようである」(渡辺訳、369ページ)と注記し、宮下志朗は名称に注目して、ギリシア語の「意志(テレーメ)」という語、またこの作品に影響を与えたとされる『ポリフィルスの夢』で主人公の案内役を務める2人の女性のうちの1人:テレミアという存在(これも意志を象徴する存在である)との関連に読者の注意を向けようとしている(宮下訳、373ページ参照)。人間の行為における善と悪を考える際に、当事者の自由意思を強調するのが、エラスムスの立場であったことを想起すべきであるのかもしれない。

 ジャン修道士はガルガンチュワのこの申し出に対して、「他の一切の僧院とは裏腹な修道院を設立してもらいたい」と請願した(渡辺訳、231ページ、宮下訳、372ページ、「ほかの修道院とは正反対の修道院」)。
 ジャンの言い分はガルガンチュワを大いに喜ばせた。と、すると、まず修道院には塀をめぐらさないことになるのだなという。それから女性が修道院に入ってきたら、あとを掃き清めるというのもおかしい習慣なので、むしろ修道士や修道女が入ってきたら後を掃き清めることにしたいという〔この辺りで、この修道院の構想が現実の裏返し、夢想であることがわかってくるはずである〕。
 それから一般の修道院では総てのことが自国どおりにおこなわれる仕来りになっているので、修道院には日時計の類は一切設けず、何事も、その時その時の潮時に従って行うこととした。
 「何が無駄になると申して、時刻を数えることくらい、ほんとうの時間の浪費になるものはない」(渡辺訳、232ページ)とガルガンチュワもこの方針には乗り気である。

 さらにまた、この修道院に入ることができるのは、外見も心の中身も優れている男女であると決めれらた。またこの修道院では一般の修道院とは違って、男女の区別を設けず、両者が一緒にいなければならないと決めることにした。さらにこの時代の修道院では、1年間の修練期間を減ると、あとは一生涯その修道院にとどまらなければならないことになっていたが、それもやめることにした。加えて、世の修道士(女)たちは、純潔、清貧、服従の3つの誓約をしなければならないのに対し、この修道院では結婚もできるし、各自が財産を蓄え、自由に生活ができるものとした。それから女子は10歳から15歳まで、男子は12歳から18歳までがこの修道院に入ることのできる年齢とされた。

 こうして、ガルガンチュワとジャン修道士によって、新しい種類の修道院を建てることが構想された。さて、この構想はどのように展開していくのであろうか。それはまた次回。

ベーコン『ニュー・アトランティス』

11月6日(水)晴れ、温暖

 トマス・モア『ユートピア』、トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』に引き続き、近世ヨーロッパにおける代表的なユートピア文献の一つであるフランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1st Baron Verulam, Viscount St. Albans, 1561 - 1626)の『ニュー・アトランティス』(New Atlantis,1627)を取り上げる。岩波文庫所収の川西進訳に基づいて紹介し、不審箇所はOxford World's Classics所収のSusan Bruce の編集した英語版を参照するつもりである。

 多くの方々が、モアやカンパネッラの名は知らなくても、ベーコンについては近世の哲学の流れの中で、<演繹法>を唱えた大陸のデカルトに対し、<帰納法>を唱えた英国の哲学者としてその名をご記憶なのではないかと思う。ベーコンの職業は(モアと同様に)弁護士であったし、(これもモアと同じく)大法官という地位にまで昇進した官僚でもあったから、哲学者としてその名を記憶されることは、ご本人の本意ではないのかもしれない。

 実際に読んでいけばわかることであるが、この『ニュー・アトランティス』はモアやカンパネッラの作品とはかなり違ったところがある。相違点はいくつもあるが、一番大きいのは『ユートピア』と『太陽の都』が著者の直面している社会に対する批判、関心を出発点としているのに対し、『ニュー・アトランティス』ではそのような社会的関心が希薄だということである。これはどういうことであろうか。
 岩波文庫版には、ベーコンの専属司祭兼文筆助手であり、ベーコンの死後遺稿として残された『ニュー・アトランティス』を出版したウィリアム・ローリー(William Rawley, 1588? - 1667)によるベーコンの伝記が掲載されているが、それによると、彼はケンブリッジ大学在学中にアリストテレス哲学に触れたが、それが人間の生活に利益となるものを生み出さないという理由で否定的に評価したという。しかし、『ニュー・アトランティス』には彼の時代のイングランドの社会や人々の生活に対する彼の意見はあまり記されていない。これは、この書物が未完に終わったことによるのかもしれないが、ベーコンが科学技術の発展によって社会の問題点や困難は解決できると思っていたからではないかと考えられる。そんなことを前置きにして、紹介をすすめて行きたいと思う。

 『ユートピア』は書き手であるモアがアントワープに滞在した折に知り合った、ラファエル・ヒュトロダエウスという人物から、ユートピア島の様子についての話を聞くという演劇的な形式、『太陽の都』はマルタ騎士団の団員が世界を一周して戻ってきたジェノヴァ人の船乗りから太陽の都の様子についての話を聞くという対話形式をとっている。これに対して、『ニュー・アトランティス』は正体不明の語り手が、自分の経験≂ニュー・アトランティスへの漂流と滞在中の見聞を語るという一人称の形式をとっている。そして、どのようにして語り手が、ニュー・アトランティスにたどりついたのかをかなり詳しく語っているのも、前二者には見られない特色である。

 「ペルー(そこには丸一年滞在した)を発った私たちは、南海〔太平洋の旧称〕経由で、中国と日本をめざして出帆した。」(川西訳、7ページ)
 マガリャンイス(マゼラン)の世界一周航海が1519年から1522年にかけてのことであり(途中、1521年にマゼランはフィリピンで死亡している)、その後、アンドレス・デ・ウルダネータという人物がモルッカ諸島への探検隊の生き残りとして単独で1525年から1528年にかけて世界一周をとげ、次いでドレイクが1577年から1580年にかけて世界を一周している。さらにその後、マルティン・イグナシオ・デ・ロヨラという人物が1580‐84年、1585‐89年にかけて東回りと西回りで世界一周を達成、モアの時代に比べると、100年以上たっているベーコンの時代には、世界の様子はかなりよくわかっていた。

 12か月分の食料を準備して出発し、最初の5か月余は順風に恵まれていたが、その後、風向きが変わって北の方に漂流し、食糧も底をついてきた。危機に陥った乗組員たちは神に祈り、助けを求める。どうやら陸地らしいものが見え、太平洋のこの辺りは未探検の領域なので不安はあったが、前進を続けた。「次の日の夜明けには、それが陸地であることは明らかになった。」(川西訳、8ページ) 港は立派な外見をもっているので安心して上陸しようとすると、数人の人々が棒を持って現れ、一行の上陸を阻止しようとした。「といっても大声を挙げるわけでも、荒々しい態度を見せるわけでもなく、ただ近づかぬよう何か警告の合図をしていた。」(川西訳、同上)

 語り手の一行は、上陸を阻止されそうであるが、この土地の人々はなぜ、一行の上陸を阻止しようとしているのか、また、一行は無事に上陸できるのであろうか、物語は最初から波乱含みである。これから後の展開はまた次回に。
 難破しかかった語り手の一行が神に祈りをささげて救いを求めるということに示されるように、この作品はキリスト教が前面に出ている。『ユートピア』と『太陽の都』がカトリック的な自然法の支配する、異教の国であり、住民たちがキリスト教について聞くと、興味を抱くと描写されているのに対し、(この後読んでいけばわかることであるが)ニュー・アトランティスの住民たちはキリスト教徒である。キリスト教について書いたついでに触れておくと、川西さんがローリーを専属司祭と訳しているのは、イングランド国教会と同じ系列に属する日本聖公会では牧師という言葉と司祭という言葉とを併用していることによると思われる。ベーコンはイングランド国教会の信者であったことは言うまでもない。

 マゼランが太平洋を発見したのが1520年11月の下旬で、1521年の3月の中旬にフィリピンに到着していることを考えると、5か月あれば、太平洋は渡れるはずである。物語の船は、かなりぐずぐずしている。ところで、今回紹介した箇所でも触れられているが、太平洋の北の方はあまり探検が進んでおらず、例えばハワイ諸島は1778年にクックが訪問するまで、ヨーロッパ人には未知の島であった。
 世界一周の話のついでに書いておくと、現在『ロビンソン・クルーソー(下)』(平井正穂訳)を読んでいるのだが、これはロビンソンが彼の島を再訪し、その後世界を一周して英国に戻って来るまでの話である。そこでロビンソンは1695年に英国を出発して、1705年に戻ってくることになっている。彼がもといた島で、そうとうな時間を過ごしていることを考えても、かなり手間をかけた旅行である(まだ詳しくは読んでいない)。

『太平記』(287)

11月5日(火)晴れ、温暖

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月に河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った(史実としては、前年の貞和3年の出来事である。以下同じ)。11月に正行はさらに、住吉、天王寺で山名時氏、細川顕氏の軍を破った。事態を重く見た京都の幕府は12月に高師直・師泰兄弟を楠討伐に向かわせた。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。
 正月5日、正行は四条隆資を大将とする別動隊を本隊と見せかけて相手の目を幻惑し、みずからは3千騎の精鋭を率いて高師直の本陣に迫った。しかし、その動きを察知した県下野守の率いる白旗一揆の軍と衝突、これを退けると、甲斐源氏の武田信元の軍勢と戦い、これも斥けるが、前陣と後陣とが分断され、後陣は小旗一揆に攻撃された後で、佐々木道誉の軍に襲われて四散してしまう。
 正行の率いる前陣の兵は300余騎になってしまっていたが、あくまで高師直の本陣をめがけて突撃しようとした。そして足利一族の細川清氏、同じく仁木頼章、さらに千葉貞胤と宇都宮貞泰・貞宗兄弟の連合軍を撃退する。正行の軍が休憩をとって決死の覚悟を決めているのを見た幕府軍は、包囲の一角を開けて、楠軍が落ち延びやすくしたのだが、正行の気持ちは変わらなかった。
 そこで細川頼春らの7千の兵が正行の軍を包囲して襲いかかったが、楠軍の反撃によって四散させられた。

 正行の率いる軍勢の決死の勢いにたじろいで、高師直が一歩でも退こうものなら、そのまま勢いに押されて京都までも敗走するところであったが、師直もさるもの、踏みとどまって大声で、逃げるな、留まって戦えと叫んだ。味方は大勢、敵は小勢、師直はここに踏みとどまっているぞ。もしおまえたちが、京都にまで逃げもどったら、将軍尊氏にどのような顔を合わせるのか。「運命天にあり。名を惜しまんとは思はざらんや」(第4分冊、223ページ、運命は天にある。名を惜しもうとは思わないのか)と目を怒らせ、歯噛みをして命令をし続けた。こう言われたので、恥を知るほどの武士たちはなお、師直の周辺に控えていた。

 そこへ(光厳院に不敬を働いたことで処刑された)土岐頼遠の弟の土岐頼明(周済房=すさいぼう)の部下の兵たちが三山に打ち負かされ、頼明自身も膝頭に傷を負って血にまみれ、師直の前を挨拶もせずに退いていこうとしたので、師直が「おまえは日ごろ大口をたたいていたくせに、何とも見苦しいありさまである」と言葉をかけられ、どうしてそんなことがあろうか、討死するまで勇戦して見せようと馬を引き返し、敵の中に駈け入って討ち死にした。これを見て紀州の武士である雑賀次郎(和歌山市雑賀町出身の武士)も敵陣に駆け込み、戦死した。

 そうこうするうちに、すでに楠と師直の間は、わずか半町(約100メートル)あまりとなり、もう少しで楠の宿願であった師直を討ち果たしてその首級をあげることも目の前に見えてきたのであるが、(源頼朝の重臣であった)大江広元の子孫である長井一族の武士である上山左衛門が師直の前に立ちふさがり、八幡太郎義家殿以来、源氏に代々執事として仕えて、武功隠れもない高武蔵守、ここにありと名乗って、討死し、その間に師直は遠くへ逃げてしまい、楠はその本意をかなえることができなかった。

 師直の軍勢中には多くの武士がいた中で、上山一人が師直の身代わりになって戦死したのには理由があった。もともと上山は楠が急襲してくるとは思わずに、師直とおしゃべりをしようとその陣営を訪れたていたのだが、敵襲に会い、自分の陣営に戻って物の具を身につけるだけの時間があろうとは思われず、そこで師直のもとにあった物の具を借用に及んだのである。 師直のそばに仕えていた武士が、それは大将師直のものだと制止したのであるが、師直は、自分の身代わりになって命を捨てようという覚悟のできている武士に対しては、いくら高価な鎧でも与えるのが当然であると上山の行為を認めた。そのことに感激して上山は命を捨てたのである。その一方で、鎧を惜しんだ若党は、敵襲に際してまっさきに逃げたとのことである。

 『太平記』の作者はこの後、秦の穆公が腹を減らしたために自分の馬を食べた三百人の家臣のものの罪を許し、かえって薬酒を与えたところ、楚の三百人が感激して穆公が危地に陥ったのを助けだしたという故事を紹介し、武将がその士卒に温情をもって接すれば、士卒も感激してその恩に報いるのだと論じている。〔ここでは師直の行為が肯定的に描かれていることにも注意しておく必要があるだろう。〕

 楠はもう少しのところで、師直を討ち取ることができなかった。軍勢は減っており、楠自身も戦いに疲れている。さて、どうなるか、それはまた次回に。


日記抄(10月29日~11月4日)

11月4日(月・振替休日)晴れ、温暖

 10月29日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
 
10月29日
 来年度から大学入試で使われる英語の民間試験をめぐる萩生田文部科学大臣の「身の丈に合わせて」頑張ればよいという発言が格差を是認するものだと批判を浴びていると報じられている。受験生を励ますつもりで言ったのかもしれないが、大学受験を他人事のように考えているのも批判を浴びた理由であろう。このブログで再三、述べているように現在の日本の高等教育の問題は、受験のシステムを変えることによっては解決せず、教育の内容と方法を一新して、大学生がもっと勉強するようにすることだと思っているから、入試改革にはあまり関心がないのだが、この発言で気になったことがもう一つあるので書いておきたい。
 それは一般的な議論として、目標というのは少し高めに設定するものではないかということである。現在、piglet11さんのブログ『日本百名城の旅』で取り上げられている毛利元就について、子どものころのこんな逸話が語られている。ある家臣が厳島神社に参拝したというので、何を祈願したのかと元就が聞くと、若様が安芸の殿様になるように祈りましたと答えた。そこで元就が、なぜ、天下の主になるように祈らなかったのだ、この戦国の世では天下の主になることを望んで、やっと一方の主になることができ、一方の主になることを望んで一国の主となるのがようやくというのが実際の姿である。まして、一国の主となることを目指しても、なんになるのかといったので、家臣は感心して、今の発言を忘れないようにといったという。文部科学大臣がいうように「身の丈に合わせて」努力していたら、どんな結果が出るかわかったものではないのである。

 『朝日』朝刊の「耕論」では秋が短くなったのではないかという問題をめぐって3人の論者が意見を述べているが、気象予報士の森田正光さんの「秋の始まりは遅くなっていますが、むしろ短くなっているのは冬です」という意見だけが傾聴に値するものだと思った。地球温暖化がどのような気象の変化をもたらしているのか、少し立ち入って調べてみようと思ったのである。

 『NHK高校講座 現代文』では昨日、本日と長谷川眞理子さん(行動生態学者、自然人類学者で総合研究大学院大学の学長)の「ヒトはなぜ人になったのか」という文章を読んだ。国語というよりも理科の授業のような感じではあったが、人類の進化についての研究が、我々が中学・高校生だったころに比べると急速に発展してきたことがわかり、教えられるところが多かった。

10月30日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」で佐高信さんの近著『いま、なぜ魯迅か』(集英社新書)の著者インタビュー(『青春と読書』11月号掲載)が取り上げられていたので、この本を買って読んでみた。魯迅の著作と思想についても論じられているが、魯迅とかかわりがあったり、その影響を受けた日本人の軌跡が多くたどられている。
 一番印象に残ったのは、この本の第2章で、佐高さんが中学を卒業する間際に担任が希望を調査したことがあって、集団就職するはずの女生徒が「進学」の方に手を挙げたという逸話である。そして、教師に向かって「だって希望でしょ」といったという。
 魯迅の短編小説「希望」は(現在はどうか知らないが、かつて)中学校3年生の国語教科書に掲載されることが多く、また中国でも教科書に掲載されている作品で、そのため、日中での授業を比較した本も書かれたし、読んだことがある。そういうことよりも、私の印象に残っているのは、大学の2回生の時に、尾崎雄二郎先生の中国語初級の授業を受けていて、その終わりの方でこの作品を中国語で読んだことである。私は高校時代から大学時代の初めにかけて竹内好の翻訳で魯迅を読みふけり、大いに影響を受けたのだが、その竹内の翻訳にいろいろと問題があることをこの授業を通じて学び取ることができた。もっとも、翻訳に細かい間違いがあるからといって、竹内の業績が否定されるものではないし、(その後、大学院時代に彼の講演を聞いたこともあって)竹内は私の尊敬する人物の1人であり続けている(尾崎先生も私の尊敬する大学の先生の1人であり続けている)。
 魯迅を通じた日中のかかわりを論じた本であるから、この書物には当然、竹内好のことも取り上げられている。「竹内さんは、『対立物』というか、『敵対者』『対峙者』をつねに頭の中におき、それへの目くばりを忘れなかった人である。例えば『毛沢東を知るためには国民党史をやらなければならない』といっていたそうだし、日常的には、左翼のニュースを反共的立場で速報するからという理由で『読売新聞』を講読していた」(122ページ)という。この態度が後継世代に引き継がれなかったことを佐高さんは問題視している(継承されなかったから、改めて掘り起こそうということである)。

 さらに中島義道『ウソの構造』(角川新書)を読む。日本の社会全体でも学校教育の中でも、子どもや若者に嘘をつくなと教えているが、実際には、むしろ嘘をつくことを強要しているようなところがあるという問題を哲学者の目からカントの「根本悪」といった概念を持ち出して論じている。著者の意見にかならずしも賛成はしないが、教えられるところの多い書物ではある。

10月31日
 『日経』の朝刊に「コーヒー豆9年ぶり安値」という記事が出ていた。コーヒーには大別して、主としてレギュラー・コーヒーに使われるアラビカ種と、インスタント・コーヒー向けのロブスタ種の2種類がある。アラビカ種の主産地はブラジル、コロンビアなど、ロブスタ種の主産地はベトナム、インドネシアなどであるが、ブラジルでもロブスタ種の生産量が急増しているという。それで「ロブスタ種の上値はしばらく重そうだ」というのだが、私はインスタント・コーヒーは飲まないからあまり関係のない話である。さて、缶コーヒーの原料になるのはどちらなのであろうか。

 沖縄の首里城で火災が発生し、正殿や北殿などの主要な建造物が全焼した。パリのノートルダム大聖堂の火災といい、今回の火災といい、言葉を失う事件である。

11月1日
 来年度始まる大学入学共通テストで、英語民間試験の活用を見送ることを、萩生田文部科学大臣が言明した。2月に民間試験の活用について日本財団が行った世論調査では、活用を支持する意見が多かったようであるが、現場や英語教育の専門家の反対意見が次第に強くなって、世論に浸透したものと思われる。グローバル社会に向けての外国語教育が果たして本当に英語教育の改革だけでよいのか、英語といっても多様な英語がある中で、どのような英語を学校教育の中で重視していくのか、4技能を等しくということが本当に適切な目標なのか、個性化とどのようにバランスをとるのかなど、問題点を議論していたらきりがないかもしれないが、英語教育の問題はこの際徹底的に議論しておくことも必要であろう。

11月2日
 『東京新聞』の「民間試験強硬路線の背景」は今回問題になった民間試験活用の方針の背景には、安倍政権のもとで推進されてきた教育の民営化路線があると論じている。ただ単に英語教育の問題、あるいは大学入試改革の問題としてでなく、より根本的な教育政策の問題として論じていて、読む価値がある。

 同紙の連載漫画『ねえ ぴよちゃん』(青柳貴子)には、単純な面白さがあって、各紙の連載漫画の中では一番好感が持てる作品である。本日掲載の917回では主人公の少女が友人におじいちゃんの家で最高においしい柿を食べさせてあげると友人を連れ出し、その柿の木にのぼって枝に座り、ここで食べる柿が最高というと、木にのぼれない友人が木の下で「むり」というというもので、まことに単純。しかし、元気が感じられて面白い。 

 NHKラジオ『朗読の時間』で山本周五郎短編集として「人情裏長屋」の第2回~第6回を聴く。短いながら、周五郎の特色がよく出ていると思った。横浜のシネマ・ジャック&ベティの近くに周五郎が一時期よく通ったという蕎麦屋があって、そこでソバを食べたことがあるが、あまりうまいとは思わなかった。周五郎は、食通ではなかったのだと、思う(別にそれは重要なことではない)。

11月3日
 『日経』朝刊の「文化時評」は「思春期を揺さぶる「文学」が危ない」(宮川匡司)という論説が掲載されている。私が詩を書くようになったのは、中学校の教科書に掲載されていた金子光晴の「かっこう」という詩を読んだのがきっかけといってよいから、国語の授業が文学への興味をかきたてるという事実は否定しないけれども、学校の授業の影響力を過大視しすぎるのもどうかとは思う。
 ただ「論理国語」という新設科目にはうさん臭さが付きまとう。最近、ほぼ2年がかりで吉田夏彦『論理と哲学の世界』を読み終えた一方で、飯田隆『日本語と論理』(NHK新書)は2か月ほど置いたままになっている。論理は、「国語」を通してよりもむしろ、「数学」を通して教えるほうが有効だと思うのである。これはもっと論拠を整えてから論じるつもりなのだが、日本語の「文法」をめぐる教育の在り方に、諸悪の根源があると思うのである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第39節横浜FC対Vファーレン長崎の対戦を観戦した。この試合を含めて残り4試合、全勝でJ1への2度目の昇格を勝ち取りたい横浜にとっては負けられない試合である。中村俊輔選手がボランチで先発、MFで齋藤功佑選手、FWで斉藤光毅選手というWサイトウの先発、斉藤光毅選手と皆川選手の2トップは初めての試みで、そのあたりに必勝の意気込みが感じられた。なかなか得点できなかった横浜ではあるが、前半40分にゴール前での攻防から齋藤功佑選手がゴールを挙げ先制、後半には長崎のCKからカウンター攻撃で斉藤光毅選手がゴールを決めて得点差を開き、そのまま2‐0で試合を終了した。これで暫定2位に浮上。最後までこの調子で頑張ってほしい。

11月4日
 『朝日』の「折々のことば」で鷲田清一さんが「空間の中に静止する一点の位置を決定するだけでも3つの数字が必要である」という寺田寅彦の言葉を引用して、「人に無理やり共通の軸をあてがうより、その差異やコントラストに着目するほうが、人は生きやすいに決まっている」と書いているが、この文章を読んで、むかし林竹二の講演を聞いたことを思い出した。林が現場の先生方に向かって、どの子どももそれぞれの価値をもっているのだという話をしたところ、先生方から、「でも、できることできない子がいるでしょう」と反論されたという。その「できる子」と「できない子」というのが、単一のはかりで子どもをはかる(鷲田さんの言葉を借りれば、「共通の軸をあてがう」)ことであり、いろいろな秤を使うこと、それによって、どの子どもにも長所があるのだから、その長所を見つけてやろうというようなことを林は言いたかったのだろうと思う。で、反論した先生方の方としては、現場の教師は忙しいから、そんな悠長に子どもの長所を見つけてはいられません、それに子どもの長所だと思ってほめたことが、見当はずれな賞賛であって、不幸な結果を招くことだって少なくありませんというようなことを言いたかったのではないかと思う。
 11月2日の記事で山本周五郎のことを書いたが、彼は小学校の時に担任の先生から小説家になりなさいと言われて、小僧として奉公しながらも勉強を重ね、作家として成功したのだそうである。しかし、先生から励まされて努力した結果、成功したという話を書く人はいるが、成功しなかったという話を書く人はあまりいない。問題はそこにあるのではないかと思う。

 『太陽がいっぱい』でアラン・ドロン、モーリス・ロネと共演した女優(・歌手)のマリー・ラフォレさんの訃報が届いた。彼女の代表作の1つが『国境は燃えている』(1965、ヴァレリオ・ズルリーニ監督)で、これはトマス・ミリアン扮するイタリア軍の(下級)将校が、慰安婦たちをそれぞれの配属先に送り届けようとするが、戦局の推移に影響されてうまくいかない・・・という話である。この映画に出演しているラフォレさんをはじめ、アンナ・カリーナさん、レア・マッサリさんという女優陣がすごい(こんな美人ぞろいだったら、戦争に行きたくなる⁉) それから、この映画のラスト・シーンがいろいろと考えさせられる(男の方は、女が何度も自分の方を振り返ることを期待しているのだが、女の方は振り返らずにまっすぐに前に進んでいる)。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(17)

11月3日(日・文化の日)曇り

 19世紀初めのイングランド、ロンドンの北の方にあるハートフォードシャーのロングボーンという村の地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス(エライザ、リジー)、メアリ、キャサリン(キティー)、リディアという5人の娘がいた。この家系の決まりで、財産は男系で相続されることになっており、娘たちの1人でも裕福な紳士と結婚してくれることがベネット夫人の願いであった。
 ジェインはロングボーンの近くのネザーフィールド邸を借りたビングリー氏という青年紳士に心惹かれ、ビングリー氏も彼女に思いを寄せている様子であり、彼の姉妹たち、ジェインとエリザベスの間にも友人同士の付き合いが始まる。一方、ビングリー氏の親友だというダーシー氏という大富豪の青年はエリザベスと最悪の出会いをするが、その後、彼の方ではエリザベスに魅力を感じ始めている。
 ベネット家の財産を相続することになっているコリンズという青年がロングボーンを訪問する。彼は教区牧師の地位を得たので、ベネット家と和解したいというが、本心としては美人で気立てがいいという5人姉妹のうちの1人と結婚することが目的である。そして彼はエリザベスに白羽の矢をあてる。そのエリザベスは、近くのメリトンの町に駐屯する国民軍のウィッカムという士官と知り合う。彼はダーシー氏の悪い面を知っているようで、彼のうわさでエリザベスと盛り上がる。
 ネザーフィールド邸で開かれた舞踏会で、エリザベスはウィッカムと踊ろうと楽しみにしていたのだが、彼は出席せず、コリンズと最初の2曲を踊ることになり、さらにダーシーに踊りを申し込まれ、承諾してしまう。その後、エリザベスはコリンズに付きまとわれて自由に行動できなかっただけでなく、母親の非常識なおしゃべりにも苦しめられる。
 翌日、コリンズはエリザベスに結婚を申し込み、エリザベスはそれを断るのに苦労する。自惚れの強いコリンズは、彼がエリザベスに好かれていないことがわからないのである。結局父親の助けを得て、ようやく断ることができる。(以上第1巻20章まで)

 コリンズの求婚をめぐるもめ事はどうやら終わったが、その後、気まずい雰囲気がつづいたのは言うまでもない。しかしコリンズはエリザベスにしつこく付きまとうことをやめたかわりに、ミス・ルーカス(シャーロット)にその矛先を向けたようであった。エリザベスは、予定されていた土曜日よりも早く、コリンズが訪問を切り上げることを期待していたのであるが、彼はそのまま居座っていた。

 姉妹は、メリトンに出かけて、エリザベスはウィッカムと会うことができた。ウィッカムはダーシーと会うことは避けた方がいいので、わざと舞踏会を欠席した、その方が多くの人々を不快にさせずに済むといったので、エリザベスは彼の自制心を高く評価した。
 彼女たちがウィッカムともう一人の士官に付き添われて帰宅した後、ジェインのもとにミス・ベネットからの手紙が届いた。手紙を読んで、ジェインは一瞬表情を変えたが、努めて平静を装うとしていた。エリザベスは気になったので、その後2人きりになった時に手紙の中身について尋ねた。

 その手紙によると、ビングリーはロンドンに赴き、姉妹も彼に続いてロンドンに移ったこと、ネザーフィールドに戻ることはないということであった。ミス・ビングリー(キャロライン)の手紙には、彼女がジェインとの別れを惜しむ一方で、兄のビングリーがダーシー氏の妹であるミス・ダーシーと結婚することを望んでいることが記されていた。

 ジェインは手紙の文面をそのまま受け入れようとするが、エリザベスはビングリーのジェインに対する気持ちに変わりはなく、ミス・ビングリーはダーシー氏と結婚したいという自分の願望をかなえたいために、兄とダーシー氏の妹の結婚を望んでいると書いているのだと姉を納得させようとする(ミス・ビングリーはダーシー氏のエリザベスへの思いについて知っているために、このようなことを書いているという側面もあるが、その点をエリザベスは見落としている)。

 二人は相談して、母親であるベネット夫人にはビングリー一家がロンドンにたったことだけを話し、ネザーフィールドに戻るつもりがないことは打ち明けなかった。ベネット夫人は落胆はしたが、すぐに気を取り直して、彼らがロングボーンを訪問した時のもてなしについて考えたりしていた。

 その日、ベネット家とルーカス家は一緒に夕食をとることになっていて、このときもミス・ルーカスはコリンズ氏の相手を引き受けてくれた。エリザベスはそのことでミス・ルーカスに礼を言うが、ミス・ルーカス(シャーロット)は実はコリンズ氏の気持ちを自分の方に引き付けて、エリザベスの方に戻らないようにしようとたくらんでいたのであった〔エリザベスとシャーロットは親友であったが、親友だからといって、こういう問題で同じ気持ちを抱くとは限らないのである〕。コリンズ氏と別れるとき、シャーロットは自分の彼との結婚の望みはかなり強いと思ったのだが、彼女の予期していた以上に事態は急に進んで行く。

 翌朝早く、コリンズ氏はロングボーン邸を抜け出すと、シャーロットに求婚し、彼女はそれを受け入れた。2人はすぐに、サー・ウィリアム・ルーカス夫妻の承諾を求め、夫妻は喜んで結婚を認めた。27歳で結婚の見通しが立っていなかったシャーロットの結婚は一かにとって望外の喜びだったのである。一方シャーロットは、結婚を承諾したものの、極めて冷静な気持であった。「教育があっても財産のない若い女にとっては、結婚は喰いはぐれないための唯一の恥ずかしくない手段であり、幸福が得られるかどうかはいかに不確かであろうと、貧乏を免れるための予防策としては最も快適なものに違いなかった。その予防策を今や手に入れたのである。すでに27歳で、美貌にも恵まれなかったシャーロットは、この幸運を沁じみと噛締めた。」(大島訳、218ページ)

 シャーロットはエリザベスにはこのことを自分で打ち明けようと思ったので、婚約の件は黙っているようにとコリンズ氏にくぎを刺した。土曜日の朝早く、コリンズ氏は出発することになっていたので、金曜日の夜に一家に別れを告げた。ベネット夫人のまたご訪問くださいという社交辞令に対し、彼は近々またお邪魔しますと言って、一家を驚かせた。そしてケントへと戻っていった。

 翌朝、エリザベスはシャーロットからコリンズ氏と婚約したと聞かされて驚く。彼女は気を取り直して、シャーロットの説明を聞くが、シャーロットが「選んだ運命ではほどほどの幸福も不可能だと思われるだけに、ひどく胸が痛んだ。」(大島訳、223ページ)

 物語は急転、コリンズ氏はシャーロットと結婚することになる。ジェインとビングリー氏の関係はいったん打ち切られ、エリザベスはダーシー氏の思いは知らず、彼に偏見を持ち続け、ダーシー氏と反目しているというウィッカムに好意を抱いている。物語はこの後、どのように展開するか、下の3人の妹たちの身辺に何か起きるかもしれないし、依然として目が離せないのである。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』(2)

11月2日(土)朝のうちは曇っていたが、その後晴れ間が広がる。温暖。

 わずか26歳で皇帝ネロによって自殺を命じられ、この世を去ったローマ白銀時代の詩人ルーカーヌス(Lucanus, 39-65)の未完の叙事詩『内乱』(De bello civili, Pharsalia)は、紀元前1世紀半ばに起きたローマの内乱=「樫の古木」に譬えられる過去の英雄ポンペイウスと、「雷電」に譬えられる昇竜の勢いのカエサルの覇権争いを題材として、歴史的な事実を踏まえながらも詩的な創作を交え、共和制であったローマの帝政への道を開いたこの戦いを壮大な悲劇的過程として描いたものである。
 第1巻の冒頭、詩人は「内乱にもましておぞましい戦(いくさ)、正義の名を冠された犯罪」(第2行、17ページ)がこの叙事詩の主題であることを示し、内乱とその戦禍の悲惨さを歌うが、それも、彼が仕えていた皇帝ネロの輝かしい統治の前提であると考えればやむを得ないと述べて、その援助を求めている。〔本心からそう思っていたというよりも、そのように歌って、皇帝のご機嫌をとろうとしていたと考えるべきだと思う。〕

 皇帝を賛美した後で、作者はこの叙事詩の主題である「内乱」の原因がなにかを突き止めようとする。
これほどの大事の原因(もと)を解き明かそうと、心は逸(はや)る。わが前に
開けるは遠大な業。民を狂わせ、戦に駆り立てた原因は何か、
世界から平和を奪った原因は何かと。
(70‐72行、21‐22ページ)
 まず挙げられるのは、「嫉み深い/宿命の連鎖」(72-73行、22ページ)であり、これまでも多くの場面で繁栄と自壊とが繰り返されてきたと述べる。「陸と海の覇者」(83行、22ページ)であるローマの場合、他民族の敵視と嫉妬ではなく、みずからの中に戦闘の原因が生み出されたのだという。

 歴史に即して言うと、紀元前60年にローマではポンペイウス、クラッスス、カエサルの第1回三頭政治が開始される。ポンペイウスは黒海南岸のポントスの王で小アジアに勢力を持っていたミトリダテスⅥ世、さらにセレウコス朝シリアを滅ぼし、ユダヤを征服してローマの勢力を拡大し、軍人として絶大な影響力を持っていた。クラッススは経済力豊かで、スパルタクスの反乱を平定した保守派の重鎮であった。この2人に比べると、カエサルは民衆派として、民衆の人気はあったが、その実力においては劣っていたが、とにかく、前二者と手を組むことで、ローマの元老院を圧倒する力を確保できた。元老院を中心としたローマ共和政への愛着を持っていたルーカーヌスは、この三頭政治に対し批判的であり、内乱への端緒と考えている:
・・・惨禍の
原因は、ローマよ、三人の主の共有物となった、ほかならぬお前であり、
民の破滅へと向けられた権力の、死を呼ぶ不吉な盟約であった。
おお、心を一にして協和しがたい者たち、度を超す権力欲に
盲目となった者たちよ、互いに力を交え、ともに世界を支配することに、
何の喜びがあるという。
(84―89行、22-23ページ)

 権力を求める者たちの協力関係は、決して永続するものではないと、詩人は歌う:
・・・おしなべて
王権を共にする者らに信義はなく、天に二日なくして、権力は
ことごとく同輩を許容せぬものであり続けよう。どの民であれ、
他の民の例を信じぬがよく、宿命の例を遠い過去に求めるまでもない。
(91-94行、23ページ) ローマの歴史はそのような実例にみちているというのである。

 しかし、この三頭政治は意外に長続きする。それにはクラッススの存在が大きかった。
 たまゆら不協和な協和は存続し、首領たちの意志ならぬ
平安はたまゆら持続した。来たるべき戦を遅らせる唯一の障壁として
クラッススが立ちはだかっていたからだ。
(98-100行、23ページ)
 それでもこの間に、三頭の一角としての地位を得たカエサルは、ガリア、ブリタニアに遠征をおこない、次第に軍人としての力も蓄積していった。ところが、紀元前53年にクラッススがパルティアとの戦いに敗れ、戦死したことで三頭政治の一角が崩れる。このことで
ローマの狂気は堰を切った。
(107行、24ページ)
 アルサケスの民(パルティア人)たちは、ローマを敗北させただけでなく、その内乱のきっかけを作ったのである。しかも、カエサルの娘で、ポンペイウスの妻になっていたユリアが折あしく、世を去る。生きていれば、2人の間をとりなしたかもしれない彼女の死は、いよいよ両者の衝突を確実なものとしたのである。

・・・ほかのだれも
容認できなかったのだ、カエサルには己の前を行く者が、
ポンペイウスには己に並ぶものが。武器を取る大義で
何れがまさっていたか、それは量りがたい。おのおのに偉大な判者が付き、
大義を代弁して庇護していたからである。勝者の大義は
神々の心に適(かな)い、敗者の大義はカトーの心に適った。
(124-129行、25ページ)
 「勝者の大義は…」という個所の原文は、Victrix causa deis placuit, sed victa Catoni. 英訳はThe victorious cause pleased the Gods, but the conquered one pleased Cato.) 岩波文庫の大西英文さんの訳では「大儀」となっているが、文脈からすれば「大義」の方が適切だと思われる。ローマ史に歴史を残したカトーという人物は2人いるが、ここで引き合いに出されているのは、この叙事詩にも登場する小カトー(Cato, 95-46 B.C.)の方だろう。小カトーが、ダンテ『神曲』の『煉獄篇』で煉獄の守護者として登場していることも注目してよいことである。 

 詩人は続けて
・・・だが、
並び立つ両雄とはいえ、伯仲の間(かん)というわけではなかった。
(129-130行、25ページ)と両者の対比に取り掛かる。ポンペイウスは
・・・過ぎし昔の盛運をひたすら恃んで、新たな
力を蓄えることもしない。大いなる名声の影として佇(たたず)む。
その様を喩えれば、実りをもたらす畑地の中に高く佇立する
ひともとの樫の古木。
(135-138行、26ページ)  「大いなる名声の影として佇む」と訳された箇所の原文はStats magni nominis umbra. 英訳はThere stands the shadow of a glorious name.である。

 これに対して、「カエサルにはそれほどの名声も、/それほどの声価もなかった。」(144-145行、26ページ)が、野心と戦意にみちて将来への野望に突き進んでいる。
その様を喩えれば、雲間に陣風吹いて発せられた雷電。
(152行、27ページ)
 この両者の勢いの差がこの後の展開に影響することになる。が、単に2人の首領たちの対立・反目だけでなく、民衆たちの動きも関係していたという。ローマの戦勝の結果としてこの都市には豊かな富が流入し、民衆の生活も贅沢になり、その考え方も変わっていった。
それはもはやかつての、静謐な平和を喜ぶ民でもなく、
武器を置き、自由に慈しまれて暮らす民でもなかった。
ここから些細なことで怒り狂う人心が生じ、
窮乏にかられた犯罪を軽視する弊風が生じた。
(171-174行、28ページ)
 賄賂が横行し、法が順守されず、信義の退廃が生まれ、「ここから多くの者に利をもたらす戦が生まれたのだ。」(183行、29ページ)

 このように、ルーカーヌスは内乱の原因を支配層の側にも、民衆の側にも求めている。彼が元老院の支配する共和制を最善のものと考えていることが、このような見方に反映しているとも思われる。さて、ガリアにいたカエサルは、いよいよ行動を起こそうとするが、それはまた次回に。原文と英訳の紹介はに拠った。
 昨日は、夜、パソコンに向かおうとしたところで寝入ってしまい、皆様のブログを訪問する時間的な余裕がとれませんでした。これからもこのような失礼を重ねることがあろうかと思いますが、睡眠不足は健康によくないので、ご寛恕のほどをお願いします。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(23)

11月1日(金)晴れ、気温上昇

 ガルガンチュワはフランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの王子として生まれ、生まれ落ちてすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだためにこの名がついた。生まれつき巨大な体躯の持主であった上に、葡萄酒と牛乳を飲んですくすくと育ち、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという先生のもとで勉強した結果、学芸と武勇の両方に秀でた若者になった。
 グラングゥジェの領民たちが、ピクロコル王の治めている隣国の領民たちと些細な衝突を起こし、それをきっかけにピクロコル王が軍隊を率いてグラングゥジェの領内に侵入し、略奪をほしいままにするという事件が起きた。グラングゥジェは平和的に問題を解決しようとしたが、ピクロコルが一行に応じないので、やむなく、パリで勉学中のガルガンチュワを呼び戻して事態の解決にあたらせることになる。急いでパリから故郷に戻ったガルガンチュワは、先生のポノクラートや、武芸の師匠であるジムナスト、それにピクロコル王の侵略から自分の修道院のブドウ畑を守ったジャン修道士らの協力を得て、ピクロコル王の軍隊を戦闘の末に壊滅させる。

第49章 逃走したピクロコルが不運に襲われたこと、ならびに戦後ガルガンチュワがしたこと(闘争したピクロコル、不運におそわれる。そしてガルガンチュアが戦後におこなったこと)
 戦いに敗れたピクロコル王はシノンの町の東の方にあるリール=ブーシャール方面に逃げていったが、途中で馬が躓いたので怒って馬を切り殺してしまい、そうなると自分の乗馬が無くなったので、近くの水車小屋から驢馬を拝借に及ぼうとして、粉屋たちから袋叩きにされた上にみぐるみはがれて、代わりにこれでも着ろとぼろぼろの仕事着を渡されたのであった。
 宮下訳の476ページにピクロコル戦争関係の地図が掲載されているのを見るとわかるが、彼の居城は戦争中立てこもっていたラ・ロッシュ=クレルモーの城の西側にあり、逃げるのであれば、西の方に逃げるのが普通だと思うが、東の方に逃げていったのは頭の中が混乱していたためと解釈しておこう。

 こうしてあわれなかんしゃくもちの落人は逃れていった。そして(ヴィエンヌ川と同じくロワール川の支流である)アンドル川を、ポール・ユオーの村で渡る時に、自分の身の不運を語ったところ、年取った魔法使いの女に飛んでくるはずはないが、ニワトリヅル(コクシグリュcocquecigrues、英訳ではCocklicranes)がもしも飛んできたら、彼の王国は戻って来るだろうと告げられた。その後、彼の消息は途絶えている。
 しかしながら、作者が聞いたところでは、ピクロコルはリヨンの町で日雇い人足かなにかになっていて、外国人とみると、ニワトリヅルが飛んできたという噂を聞いたことはないかなどとたずねまわっているとのことである。

 さて、ガルガンチュワの方は自分たちの部隊の人数を調べたが、戦死者はごく少数であることが分かった。そして兵士たちに食費を支給して食事をとらせ、ラ・ロッシュ=クレルモーにおける一切の略奪行為を禁止するとともに、食後、城の前の広場に集まれば、半年分の給与を支払うと伝えさせた。
 以上の手はずを整えたガルガンチュワは、ピクロコル軍の敗残の兵士たちをすべて広場に集合させて、演説を行うこととした。

第50章 敗残軍の兵士に向ってなされたガルガンチュワの告諭(ガルガンチュア、敗軍の兵に演説する)
 原文ではLa contion que feist Gargantua es vaincus で古いフランス語なので、辞書に載っていない単語があったりして、わかりにくい。英訳ではGargantua's speech to the vanquishedとなっている。
 ガルガンチュワは、ピクロコル軍の兵士たちに向って、敗残の兵たちに寛仁を施すことが、自分たちの父祖のやり方であったし、自分もその方針を踏襲するという。そしてピクロコル軍の兵士たちは、ガルガンチュワ軍の兵士たちの護送のもとに、郷里に戻ることとし、その費用として各自に3か月分の手当を支給するという(自軍の兵士たちには半年分で、ピクロコル軍の兵士たちには3か月分というところが戦争の結果を反映しているように思われる)。

 王国はピクロコル王の年少の王子が継承することにするが、国内の王族・貴族の後見が必要であろう。また、行政官が横暴をきわめる恐れもあるので、それらの行政官の監督としてポノクラートをその任に当たらせることにする。そして王子が自分で王国を統治できるところまで成長するまで、この監督は続くものとする。
 今回の戦争に関わった人々にたいしての処罰を望まないが、その端緒となる事件の当事者である小麦煎餅売りたち、特に事件の首謀者であるマルケはガルガンチュワ軍に引き渡すべきである。また、ピクロコル王に世界征服の野望を吹き込んだ側近の人々も引き渡すことを望むという。

第51章 戦終って勝利者たるガルガンチュワ軍の人々の論功行賞が行なわれたこと(戦後、勝利したガルガンチュア軍の論功行賞がおこなわれる)
 こうしてガルガンチュワの演説が終わると、要求通りに謀反人たちseditieuxが引き渡されたが、第33章でピクロコル王に世界征服の野心を吹き込んだ弥久座(ムニュアイ)公爵、刺客(スパダン)伯爵、雲子弥郎(メルダイユ)隊長の3人は戦闘開始前に逃亡しており〔悪いだけではなく、要領のいい奴らである〕、小麦煎餅売りたちの中でも2人が戦死していたので、この中には含まれていなかった。
 引き渡された捕虜たちに対して、ガルガンチュワは危害を及ぼすようなことはせず、彼が新たに設けた印刷所で印刷プレスのレバーを引っ張る役割を申しつけたのであった。

 それから戦死者を手厚く葬り、負傷者を病院で療養させた。また戦争の結果生じた町や家屋の損害を然るべき手続きを経て補償した。さらに占領地に城塞を建設し、軍隊の一部を駐留させた〔城塞の建設に誰が駆り出されたのかというのが問題であるし、占領地の治安を維持するためと称して、戦勝者側がその軍隊の一部を駐留させるのはよくあることである〕。
 それから自軍の兵士たちはもとの駐屯地に戻したが、特に戦功のあった隊長たちは、グラングゥジェのもとへ自ら伴っていった。戦勝を喜んだグラングウジェ王は大宴会を開き、多大な褒賞を与えた。そしてポノクラート以下の特に功績のあった面々にはそれぞれの領地をあたえた。

 さて、論功行賞がまだ行われていないのが、ジャン修道士で、彼に対してはどのような褒賞が与えられるのかは、また次回。
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