FC2ブログ

2019年の2019を目指して(10)

10月31日(木)曇り

 10月は東京都(文京区)で一晩過ごしたのだが、動静をめぐる数字の変化はわずかなものである。
 足跡を記した都県は神奈川県と東京都の1都1県で変わらず。
 市区町村も1市6区と変わらず(横浜市;品川区、渋谷区、新宿区、千代田区、文京区、港区)
 利用した鉄道も6社(京急、JR東日本、東急、東京メトロ、東京都営、横浜市営)と変わらず。
 路線は12路線(東急大井町、東横、目黒;東京メトロ南北、半蔵門、副都心;JR東日本京浜東北・根岸、横浜;東京都営新宿、三田;京急本線;横浜市営地下鉄ブルーライン)と変わらず。
 乗り降りした駅は表参道駅が増えたので、16駅(石川町、御成門、表参道、神奈川新町、上大岡、関内、小机、渋谷、白金台、新宿三丁目、神保町、新横浜、反町、本駒込、目黒、横浜)となった。
 乗り換えに利用した駅は白金高輪駅が増えて、7駅(大岡山、自由が丘、白金高輪、永田町、東神奈川、日吉、三田)となった。
 利用したバスは4社(江ノ電、神奈川中央、相鉄、横浜市営)、17路線(横浜市営9路線、相鉄5路線、神奈中2路線、江ノ電1路線)、停留所は14か所と変わらず。〔85〕

 この記事を含めて31件の記事をブログに投稿している。1月からの累計は307件である。内訳は日記が6件、読書が8件、読書(歴史)が2件、『太平記』が5件、ジェイン・オースティンが4件、ラブレーが4件、推理小説が2件であり、1月からの通算では日記が57件、読書が67件、読書(歴史)が36件、モア『ユートピア』が8件、読書(言語ノート)が9件、『太平記』が44件、ジェイン・オースティン29件、ラブレー22件、ダンテ『神曲』20件、推理小説7件、詩が6件、映画が1件、未分類が1件ということである。
 コメントを1件頂いた。〔314〕

 10冊の本を購入し、2冊の本の贈呈を受けた。1月からの買った本の合計は(贈呈2冊を含めて)107冊である。また10冊の本を読んだ。1月からの読んだ本の累計はちょうど100冊である。
 10月に読んだ本を列挙すると:
 江戸川乱歩『怪人二十面相』(ポプラ文庫)、田中啓文『貧乏神あんど福の神』(徳間文庫)、細川重男『執権』(講談社学術文庫)、東海林さだお『ガン入院オロオロ日記』(文春文庫)、鈴木哲雄『酒天童子絵巻の謎――「大江山絵詞」と坂東武士』(岩波書店)、吉田夏彦『論理と哲学の世界』(ちくま学芸文庫)、田村隆一『詩人の旅』(中公文庫)、吉村喜彦『バー堂島』(ハルキ文庫)、佐高信『いま、なぜ魯迅か』(集英社新書)、中島義道『ウソの構造――法と道徳の間――』(角川新書)
ということである。
 これまで読んだ100冊の本について整理してみると、日本語(現代文)で書かれたもの80冊、日本語(古文)で書かれたもの3冊、英語からの翻訳9冊、フランス語からの翻訳4冊、イタリア語からの翻訳2冊、中国語、カタルーニャ語からの翻訳各1冊ということである。
 2冊以上著書を読んだ書き手を列挙すると(0.5というのは共著):
 東海林さだお3冊(『シウマイの丸かじり』、『ヒマつぶしの作法』、『ガン入院オロオロ日記』)
 椎名誠2.5冊(『おなかがすいたはらぺこだ』、『かぐや姫はいやな女』、『本人に訊く<壱>よろしく懐旧篇』=目黒考二との共著)
 内田洋子2冊(『イタリアのしっぽ』、『イタリア発 イタリア着』)
 ヘロン・カーヴィック2冊(『ミス・シートンは事件を描く』、『村で噂のミス・シートン』)
 下川裕治2冊(『ディープすぎるシルクロード 中央アジアの旅』、『12万円で世界を歩く リターンズ』)
 山口恵以子2冊(『食堂メッシタ』、『あの日の親子丼』)
 望月麻衣2冊(『京都寺町三条のホームズ⑪』、『京都寺町三条のホームズ』⑫)
 ジム・ロジャーズ2冊(『お金の流れで読む日本と世界の将来』、『日本への警告』)
 本郷和人2冊(『承久の乱』、『日本中世史の核心 頼朝、尊氏、そして信長』)
 田中啓文2冊(『ジョン万次郎の亡くしもの 浮世奉行と三悪人』、『貧乏神あんど福の神』)
まだあと2か月あるので、どのような展開になるか予測できないところもある。〔103〕

 『NHKラジオ英会話』を19回、『遠山顕の英会話楽習』を11回、『入門ビジネス英語』を7回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いた。1月からの通算では『ラジオ英会話』を187回、『遠山顕の英会話楽習』を116回、『入門ビジネス英語』を59回、『高校生からはじめる「現代英語」』を80回、『実践ビジネス英語』を120回聴いていることになる。このほかに夏休みの特別番組である”Let's Learn English in English"を5回聴いている。
 このほかに、『英会話タイムトライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『ボキャブライダー』、「世界へ発信 ニュースで英語術』も聞いているが、回数は数えていない。
 『まいにちフランス語』入門編を11回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』入門編を11回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を11回、応用編を8回聴いた。1月からの通算では『まいにちフランス語』入門編を112回、応用編を52回、『まいにちスペイン語』入門編を42回、初級編を58回、中級編を67回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を80回、初級編を31回、応用編を75回聴いていることになる。
 このほかに、『まいにちロシア語』と『ポルトガル語ステップアップ』は耳に入ってくるかぎりで聞いていて、話題を拾っている。『まいにち中国語』も耳に入ってくるかぎりで聞いているが、自分で考えている以上に多くの言葉を拾いあげることができるのはどういうことかと考えている。〔1092〕

 映画は1本も見なかったので、出かけた映画館は2館、見た映画は9本と変わらず。〔11〕
 展覧会にも足を運ばなかった。〔3〕

 サッカーはJリーグ2部を2試合、なでしこリーグ2部を1試合観戦している。10月5日のシーガルズ対鴨川オルカ戦では、小原由梨愛選手の、また10月27日の横浜FC対東京ヴェルディ戦では中村俊輔選手の見ごたえのあるゴールが見られた。1月からの通算では4か所の競技場で33試合を観戦していることになる。
 1128回のミニトトA、B、1130回のミニトトB、1133回のミニトトBをあてた。これで当選回数は24回ということになる。〔61〕

 アルコール類を口にしなかったのは6日である。
 ハロウィン・ジャンボの5等が当たっていた。もう一つ上が当たるとよかったのだがと、欲の深いことを考えている。
 
スポンサーサイト



細川重男『執権』(2)

10月30日(木)晴れ、温暖

 もともと伊豆の平凡な地方豪族に過ぎなかった北条氏が、鎌倉幕府の執権となり、その実権を握ったこと、にもかかわらず自らの家からは将軍を出さなかったのはなぜかという問題を、この地位に就いた2人の人物=北条義時と時宗を代表例として取り上げ、鎌倉幕府の権力構造の変化とそのなかでの北条氏の位置を検討した書物である。
 北条時政は、娘である政子が頼朝の妻となったことで、頼朝が以仁王の令旨に呼応して挙兵したときに、彼を支える中心人物となった。そのとき、彼には宗時、義時という2人の男子がいたが、彼が率いる兵力は決して大きなものではなかった。緒戦の山木攻めは成功したが、次の石橋山の戦いでは圧倒的な平家の軍勢の前に壊滅的な大敗を喫することになる・・・。もともと、北条氏はそれほどの動員力を持つ豪族ではなかったのである。

第2章 江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの
 北条氏庶家江間氏
江間小四郎義時
 鎌倉幕府を研究する際の基本文献である『吾妻鏡』を見ると、相模守に任じられる以前の義時は江間小四郎義時と記されている事例が多く、その後を通じても、江間義時と記されている箇所の方が、北条義時を上回っている。彼の後継者である泰時にいたっては、一貫して江間泰時と記されているのである。
 このことから、著者は義時が、北条氏の名字の地である北条の隣の江間を父親から与えられ、それを自分の苗字として名乗った、北条氏の庶家である江間氏の始祖であると考えている。〔嫡男以外の男子が別家して、自分の 本拠地の名を苗字として名乗ることは、この時代よく見られたことである。〕「平安末期から鎌倉初期にかけては、ちょうど苗字が個人に付いたものから家の名に変わる過渡期で、親子兄弟で異なる苗字を称することは普通のことであった。」(34ページ)

本家と庶家
 義時には宗時という兄がいて、この人物が北条時政の嫡子であった。ところが、石橋山の戦いでの大敗ののち、北条氏は時政・義時と宗時が別路をたどって逃げることにした(細川さんが32ページに書いているように、これは生き残りのための作戦である)。ところが宗時は逃げおおせることができずに殺害される。〔頼朝ご本人は「七騎落ち」といって、舟で安房の国に逃れる。「七騎」の内訳については諸説あるが、現在鎌倉にある安養院の前身の一つである田代寺を建立した田代信綱がその1人であったことは間違いなさそうである。安養院は坂東三十三か所の第三番札所なので、私も参拝したことがある。〕

 宗時が死亡したことで、義時が時政の後継者となったかというと、そうでもないのである。頼朝の乳母であり、後援者であった比企天野一門である比企氏が頼朝・頼家時代を通じて幕府内で大きな力を持っていたが、建仁3年(1203年)の打倒比企氏のクーデター「比企の乱」で北条時政が幕府の実権を握る。しかし、義時の次男である朝時には、母親を通じて比企氏の血が流れており、そのため、かつて比企氏が守護をつとめていた国々の守護職を継承できる可能性が大きかった。このため時政は朝時(北条氏名越流の始祖)を後継者と考えていたと細川さんは推測している。
 元久2年(1205年)に時政とその妻の牧氏が将軍実朝を暗殺して、平賀朝政を将軍にしようとした「牧氏の変」で義時は父である時政を追放し、北条氏の総領の地位を得る。しかし、名越流は自分の系統こそが北条氏の正統であると考え続けていたらしい。

 鎌倉殿家子
大物たちの大人げないケンカ
 『吾妻鏡』に記録された足利義氏と結城朝光の「大人げないケンカ」(47ページ)から、頼朝時代の鎌倉幕府において(少なくとも頼朝には)意識されていた御家人たちの階層秩序が明らかにされるという〔これは細川さんの独創ではなくて、すでに多くの研究者が指摘してきたことである。〕

門葉・家子・侍
 その階層秩序とは、門葉・家子・侍である。
 門葉というのは、頼朝と血縁関係のある源氏の武士。〔頼朝の弟の範頼・義経、八幡太郎義家の子孫である足利義兼、山名兼範、義家の弟新羅三郎義光の流れである甲斐源氏の大内惟義、加賀美遠光、安田義定、平賀義信、武田信光、血縁的には遠いが、源三位頼政の子で伊豆にいたため挙兵の時から頼朝とともにいた源広綱らが、この中に数えられている。細川さんは甲斐源氏の板垣兼信が自分もご門葉の一人だと主張した件を紹介している。このほか、頼朝の異母弟である阿野全成が記されていないし、清和源氏の流れということになると、上野の新田氏をはじめとして他にも多くの武士がいたはずである。〕

 また、「侍」とは、頼朝とは血縁のない家臣、つまり一般の武士団における郎従ということになる。となると、問題になるのは「家子」である。

頼朝親衛隊
 「家の子郎党」というように、家子とは、一般的には惣領との血縁をもつものを指す。ところが、頼朝期の鎌倉幕府では、一般の武士団では家子とされる一門を「門葉」と位置付けてしまったために、頼朝の家子は一般の武士団とは異なる形で形成されたと考えられる。『吾妻鏡』の記述をたどって考えると、御家人たちの中から頼朝と特に個人的に親しく、武芸に秀でたものを選んで組織された頼朝個人の親衛隊とでもいうべきものであると細川さんは考えている。

 この家子であったと考えられる武士には北条義時、結城朝光、八田知重、葛西清重、大友能直{島津・少弐(武藤)とともに鎮西(九州)三強の大豪族となる大友氏の始祖)、三浦胤義らである。

初期鎌倉幕府のヒエラルキー
 鎌倉幕府は、室町将軍の奉公衆や徳川将軍の旗本のような直轄の軍事力をもっていなかったと細川さんは言う。それで鎌倉将軍の軍事力というのは、各御家人の有する軍事力の集合体ということになる。だからこそ、頼朝は自分に直属する親衛隊を育成しようとしたと想像することは容易であり、それが家子であったと推測される。
 そしてその家子の先頭と位置付けられ、「家子専一」といわれたのは北条義時である。つまり、義時は頼朝鎌倉幕府および鎌倉武家社会において、その成立時から特殊な、しかも高い地位に置かれていたと推定されるのである。これが頼家期以降の義時の覇権確立にいたる最初の重要な根拠であったというのが細川さんの考えである。

 では、ここから義時はどのようにして鎌倉幕府、ひいては日本国内における覇権の確立に向かうのであろうか。それはまた次回。源実朝の暗殺の黒幕といわれ、承久の変と、その後、敗れた後鳥羽上皇を隠岐に配流したことで、悪役イメージが強い義時であるが、細川さんは別の義時像を考えているようである。それがどのようなものかは、次回以降のお楽しみということにしておこう。

『太平記』(286)

10月29日(火)雨

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年、ただし、史実ではその前年≂貞和3年の出来事である)、楠正成の子・正行が父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った。さらに11月には、住吉、天王寺で山名時氏、細川顕氏の軍を破った。これに対して、京都の幕府は高師直・師泰を楠討伐に差し向けた。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。
 翌年の正月5日に両軍は戦端を開いた。正行は四条隆資卿の率いる2万人余の野伏を本隊と見せかけて敵の目を欺き、その間に師直・師泰の本陣を急襲する作戦をとった。正行の率いる前陣は県下野守の率いる白旗一揆にその動きを察知されたが、この軍を蹴散らして、師直の陣に迫った。一方、武田信忠と戦った楠軍の後陣は、激戦の末に武田軍を退却させたものの、疲れ切ったところを小旗一揆に襲われ、さらに佐々木道誉の軍に攻撃されて、敗走せざるをえなくなった。

 楠正行の率いる軍はもともと小勢であった上に、後陣が敗走したので、戦場にとどまっている前陣の兵はわずか300騎に満たないという有様で、戦闘継続どころではないように見えたが、大将である楠正行、正成の甥(正行の従弟)である和田源秀は生き残っていたので、この戦いに死を覚悟して如意輪堂の過去帳に名を連ねた143人の武士たちは、一箇所に固まって、後陣が敗れたことを気にする様子もなく、ただひたすらに師直の本陣を目指して前進したのである。

 師直軍の方は、これまでの戦闘が有利に展開し、敵はすでに300騎に満たない小勢になっているので、勢いに乗って正行を討ち取ろうと、まず一番に細川清氏が500余騎を率いて正行軍に立ち向かう。しかし正行軍は、全くひるむことなく、細川清氏軍と激突し、双方入り乱れて戦ったが、細川の方が50騎余りの戦死者を出して、北の方に退却する。

 続いて細川と同じく、足利一族である仁木頼章が700余騎の兵を率いて戦いを挑むが、楠の300騎が中央を駆け抜けようとしたため、自陣を破られ、四方八方に兵が散らされて、攻撃どころではない。

 三番目に下総守護の千葉貞胤、伊予の武士である宇都宮貞泰、貞宗が両者合わせて500余騎で、楠軍の先鋒を崩して中に割って入ろうとしたが、楠軍は自在に隊形を動かして、相手の突破を許さない。3度衝突を繰り返し、その間に千葉・宇都宮軍は相当数の戦死者を出したため、これまた退却した。

 和田・楠の軍勢も100騎余りが討死したところで、各自それまで載っていた馬から下りて、馬をそのままゆかせ、徒歩立ちになった後、近くの田んぼの畝に腰を下ろして、箙(えびら=矢などを入れる筒)の中に入れておいた竹筒を出して、そのなかの酒を飲んだり、食料を入れた袋を取り出して中のものを食べたりして、英気を養っていた。ここで力をつけて、一暴れしてから死のうという覚悟が見て取れる。
 こういう決死の覚悟の兵を相手に戦うことになると(既にこれまでの戦闘の経緯でも明らかなように)、味方の損害は大きなものになるので、退路を開けて、逃げられるようにしようと、師直軍の数万騎の兵は正行たちの軍をあえて包囲しようとはしなかった。それで正行の一隊は、小勢になってしまったとはいうものの、退却しようと思えばできたのであるが、戦いをはじめるまえから、「今回の戦いで師直の首を取って帰還できなければ、自分の首が京都の六条河原にさらされることになったとお思いください」という覚悟のほどを吉野の朝廷で述べていたので、そのように述べた以上、あくまで初志を貫こうとしたのか、あるいは、ここで戦死するのが正行の運命であったのか、正行も和田源秀も一歩も退く様子を見せず、ただ師直に近づいて、勝負を決めろとお互いに声を掛け合いながら、ゆっくりと前進していく。

 足利一族で阿波・伊予・備後の守護である細川頼春(頼之の父であることはすでに書いた)、遠江・駿河の守護である今川範国(貞世=了俊の父)、高一族の高師兼、高師冬、南宗継、その弟の次郎左衛門尉、佐々木一族で近江守護の佐々木(六角)氏頼、黒田宗満(道誉の叔父)、土岐一族の土岐頼明、明智三郎、丹波の武士の荻野朝忠、但馬の武士である長九郎左衛門、備前の武士である松田備前次郎、相模の武士である宇津木平三、曾我左衛門、清和源氏ゆかりの多田院の周辺に住んでいた武士たちをはじめとして、師直の前後左右に控えていた武士たちが、声を上げ我先に楠の一隊を壊滅させようと襲いかかる。

 そのようなことで臆するような正行ではなく、しばらく戦闘を休んで体力を蓄えようと考えた時には、一度にさっと並んで鎧の袖を振り合わせて、すきまをなくし、相手が矢を射るがままにさせておき、敵が近づいてくれば同時にパッと立ち上がり、切っ先を並べて躍りかかる。まず最初にこの一団に近づいた南次郎左衛門尉が馬の左右の膝を横ざまに切られて落馬し、起き上がることができないまま討ち取られてしまった。南に負けずに駆け込んできた松田次郎左衛門は、和田源秀に近づいて敵を切ろうと下を向いたところを、和田が長刀の柄をのばして、松田の兜の鉢をはったと打つ。討たれて首を傾けたところで、額を突かれて落馬し、討ち取られた。

 このほか落馬して討死したものが50余人、膝や二の腕を切られて負傷したものが200余人、縦横に走り回る楠軍に追い回されて叶わないと思ったのか、7千余騎の兵たちはばらばらになって退却したが、そのまま淀、八幡をすぎて京まで逃げもどるものも出る始末であった(これはいくらなんでも大げさではないか)。

 決死の覚悟を決めているうえに、統制の取れている楠正行の兵に対し、足利方の軍はどうも足並みが乱れている。正行は師直の旗本の7千余騎を追い散らし、いよいよ師直の本陣に迫ろうとしているが、はたして師直と雌雄を決することができるだろうか。それはまた、次回に。
 正行とともに戦死の覚悟を決めて、過去帳に名を連ねた武士の数が143人で、今回はその倍数の286回というのは何かの因縁であろうか。今回登場する武士たちの中で、細川頼貞も今川範国も息子はすぐれた武将であったのに、父親の方はだらしがないという感じがする。伊予宇都宮氏は宇都宮市の二荒山神社の社家で、国司や守護に任じられたこともある下野宇都宮氏の流れで、戦国時代に毛利氏と戦って滅亡するが、日本で一番宇都宮という姓の多いのは愛媛県だという話である。
 

日記抄(10月22日~28日)

10月28日(月)晴れ

 10月22日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

10月19日
 横浜FCシーガルズ対愛媛レディーズの試合について0‐0の引き分けだと書いたのは、まだ結果が出る前のページを見て速断したためで、実際は2‐1で逆転勝ちしておりました。訂正させていただきます。

10月22日
 鈴木哲雄『酒天童子絵巻の謎――「大江山絵詞」と坂東武士』(岩波書店)を読む。源頼光に率いられた武士たちが酒呑童子(この書物では「酒天童子」としている)に率いられた鬼たちを退治するという説話を絵巻物にした(逸翁美術館所蔵)のは、東国の千葉氏であったと主張されている。同様に三浦介と千葉介が玉藻前という美女に化けた九尾の狐を退治したという説話は、三浦氏によって作られたのだという。この議論に触発されて、さらに研究が進むことを期待したい。

10月23日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The first condition of education is being able to put someone to wholesaome and meaningful work.
---- John Ruskin (Entlish writer and art critic, 1819 - 1900)
(教育の第一条件は、人を健全で有意義な仕事に就かせるのが可能であることだ。)
 ラスキンが「仕事」(work)という言葉を使っているということは、この言葉が、就職の見込みがなければ、学校でいくら勉強してもむだになるというようなレベルでの発言でないことを示唆している。とにかく、意義のある、世の中のためになる仕事を見つけなさい――ということではないかと思う。

10月24日
 『NHK高校講座 音楽Ⅰ』は楽器の演奏の手始めとして、リコーダーの演奏に取り組んだ。リコーダーにもいろいろな種類や演奏法があることがわかり、興味深かった。英国の楽器店に行くと、同じ縦笛でもtin whistleの方をよく見かけるが、これはアイルランド起源の楽器で、アイルランド語ではfaedogまたはfaedog stainというそうである。tinはここではブリキということであって、もともとブリキの管に穴をあけて作られた素朴な楽器であった。実は私もtin whistleを英国で買って持っている。

10月25日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』で、パートナーのヘザー・ハワードさんがアメリカよりも、日本での勤務経験が長く、自分の職場での充実した医療サービスに助けられているという話をしていたと思うのだが、その部分はテキストからは省かれている。以前にも書いたが、ヘザーさんは読売新聞社で発行しているThe Japan Newsの関係者なので、NHKの側でもいろいろと気を遣っているのかもしれない。

10月26日
 吉田夏彦『論理と哲学の世界』(ちくま学芸文庫)を読み終える。「この本では、哲学の歴史にはほとんどふれない。また、人生論のことも、正面きってはとりあげてはいない。その代わりに、論理学のごく始めの部分の紹介ということを一つの筋にしながら、話をすすめて行く」(14ページ)。著者は入門書だと断っているが、読み終えるのに2年ほどかかった。難しいけれども、面白い本である(難しすぎ、面白すぎる)。

 さらに田村隆一『詩人の旅 増補改訂版』(中公文庫)を読む。岡山県の山間部の温泉を訪問した記事があり、藤原審爾の小説『秋津温泉』(吉田喜重監督によって映画化された)の舞台のモデルとなった奥津温泉も取り上げられている。この近くに太平洋戦争中、谷崎潤一郎が疎開していて、その疎開先を、永井荷風が訪問しているときに、終戦を迎えた一部始終が紹介されている。映画『秋津温泉』を製作・主演した岡田茉莉子さんの芸名の命名者が谷崎潤一郎であったことを思いだすと、この話はいっそう面白くなるのではないかと思う。

 横浜FCシーガルズはアウェーで大和シルフィードに1‐0で勝って、なでしこリーグ2部の全日程を終えた。決勝点を挙げたのは、キャプテンの山本絵美選手である。最終順位は5位で、2位となって1部との入れ替え戦に進出した昨年度に比べると後退した感じではあるが、高橋美夕紀選手の成長や新人・久永望生選手の活躍など将来に希望を抱かせる材料もあるので、長い目で見守っていくことにしたいと思う。

10月27日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2リーグ第38節:横浜FC対東京ヴェルディの対戦を観戦する。どちらかというとヴェルディの攻勢が続いたが、前半25分にこの日ボランチで起用された中村俊輔選手がFW皆川選手からのパスを受けて左足で蹴ったミドル・シュートが決まり、横浜が1点を先制。まあ、このシュートを見ただけで入場料分の価値はあったと思う。その後後半に1点を加点し、ヴェルディの猛反撃を凌いで2‐1で勝利した。昔はいざ知らず、今では横浜FCの方が選手層は厚いので、自分たちのサッカーをすれば勝てる。そう思った試合であった。

 吉村喜彦『堂島バー』(ハルキ文庫)を読み終える。「バー堂島は、大阪・北新地のはずれ、堂島川に面したカウンター5席の小さな店」(7ページ)。あと4年で還暦を迎えるという主人公がこの店を開いてすでに8年になる。主人公と、この店に出入りする業者、常連の客たちの織り成すさまざまな人生劇が、春夏秋冬一幕ずつ開演される。
 作品中に京都の<拾得>というライブハウスが回想されているが、これは私の昔の下宿の近くにあったのではないかと思う。あるところで、俳優の伴勇太郎さんに<拾得>は私の下宿の近くにあるんですよという話をしたら、よくいくんですか?と問い返されて、実は一度も行ったことがないと答えたことがあった。伴さんは高林陽一の『餓鬼草紙』に主演していたほかに、1960年代から70年代にかけての大映映画に端役で出演されていた。1978年の『お吟さま』(熊井啓監督)以後出演記録がないので、亡くなられているのかもしれない。

10月28日
 朝、スポーツ新聞を見ていたら、1133回のミニtoto-Bが当たっていたことを知る。昨日、試合の途中経過を見たところでは、駄目だと思っていたのだが、最後の方でスコアが動いた試合があったらしい。23回目の当選である。

 『朝日』の「天声人語」は信楽焼を話題に取り上げていた。むかし、駅弁とともに売られていたお茶の入れ物である「汽車土瓶」も信楽焼だったそうだ。いま、内田百閒の『阿房列車』シリーズを読んでいるが、その中に登場する見送亭夢袋のモデルである中村武志が汽車土瓶について書いた文章があったのを思い出した。

 『朝日』の「記者解説」が嘉幡久敬記者の「後退する基礎研究」という記事を載せて、中堅国立大学への財政支援の必要を論じているのに対し、『日経』では日本私立大学連盟の前会長(早稲田大学の前総長)である鎌田薫さんが高等教育無償化制度の政策に関連して、「『国私格差』拡大の恐れ」があるという議論を展開しているのは、正反対の方向を向いているなぁと思った。
 もともと日本は教育への国の財政支出が少ないし、高等教育の領域では私立大学の果たす役割が大きく、しかもその私立高等教育機関の財政的な基盤があまりしっかりしていない。私は財政の専門家ではないから、しっかりした議論はできないが、現在の日本の高等教育を立て直すには、私立の高等教育機関を漸次的にでも国公立にして、財政基盤を整備することではないかと思う。私立大学が政府のひも付き援助を期待して生き延びようとするのは、悲劇しか生み出さないだろう。

 女優の八千草薫さんが亡くなられた。88歳。夫君であった谷口千吉監督(1912‐2007)ほど長生きでなかったのは、どういうことだろうか。あまり出演作を見ていないが、見た中では初期の出演作『プーサン』(1953、市川崑監督:映画は感心しなかった)での可愛さが印象に残っている。あとは『白夫人の妖恋』(1956、豊田四郎監督:白夫人の妹分の小青の役で、主演の山口淑子さんよりもよかった)、『グラマ島の誘惑』(1959、川島雄三監督)だろうか。見ていない作品が多いので、神保町シアターあたりで回顧上映をしてくれないだろうか。ご冥福をお祈りします。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(16)

10月27日(日)曇りのち晴れ

 エリザベスに求婚したコリンズ氏は、彼女が何度もはっきり断っているにもかかわらず、求婚はうまくいったと思い込んでいた。その理由は第一に、女性は本心では結婚を望んでいても、一度は断るものだという彼の考えがあったし、美人ではあってもたいした資産の持主ではないエリザベスに、教区牧師という地位とそれに伴う収入のある自分を拒否する理由はないと思っていたからである。
 エリザベスが朝食室から出て自分の部屋に足早に戻っていくのを見たベネット夫人は、(2人の結婚を望んでいたので)早速コリンズ氏の求婚の結果を聞こうと、朝食室に入っていった。求婚がうまくいったと思い込んでいたベネット夫人は、コリンズ氏の表情を見て自分の予想通りだと思い、祝福の言葉を述べた。それにこたえて、コリンズ氏はエリザベスは終始かたくなに求婚を断り続けたが、それは彼女の内気で控えめな心と、慎み深い性質のためだと思っていると答えた。

 それを聞いて、ベネット夫人はびっくりした。母親である彼女は、娘が手管としてではなく、本心から求婚を断ったのだということは分かった(エリザベスの頭の良さを、理解できない母親ではあったが、少なくとも娘の行動の意味は理解できたのである)。それで、コリンズ氏の見立てがどうもはずれているらしいといい、でも自分が彼女を説得するから安心してほしいという。「あの子は本当に強情な馬鹿娘でしてね、何が自分のためかが分ってないのです。でも大丈夫、私が分らせますから。」(大島訳、196ページ) 原文では
She is a very headstrong foolish girl, and does not know her own interest. (Penguin Classics Edition, p.108)

 今度は、コリンズ氏の方がびっくりした。もし、エリザベスが自分の考えていたような知的な美人ではなくて、ただの強情な馬鹿娘だったら、自分の幸福な結婚生活は期待できないという。どうか無理に結婚に同意させないでほしいと頼むのだが、ベネット夫人は耳を貸さない。夫であるベネット氏の書斎に出かけて、彼とともに2人がかりでエリザベスを説得して結婚に同意させようとする。そして夫に向ってコリンズ氏の求婚をエリザベス(リジー)が断ったことをつげ、なんとか、結婚するように説得してくれと頼む。

 一方、ベネット氏は落ちつきはらった様子で、2人の結婚はあまり望みのなさそうな話ではないかというが、ベネット夫人がうるさく言うので、リジーを呼び寄せる。
 そして、リジーがコリンズ氏の求婚を断ったというのは本当のことかと彼女に問う。エリザベスは、本当だという。
 ベネット氏は、結婚に同意しないならば、母親であるベネット夫人は彼女の顔を見たくないと言っているが、自分は結婚に同意するならば、リジーの顔は見たくないと思うと言い渡す。
 ベネット氏の意見が自分とは違うことを知ったベネット夫人は落胆したが、この結婚話をあきらめようとはせずに、さらにエリザベスに向って説得を繰り返した。しかし、父親が自分の味方であることを知ったエリザベスはそれを受け入れようとはしなかった。

 さて、一人取り残されたコリンズ氏であるが、この求婚の不成功によって多少自尊心を傷つけられたとはいうものの、もともとエリザベスを深く愛しているというわけではなかったので、それほど落胆もせず、むしろ彼女が母親の言うような馬鹿娘ならば、断られた方がよかったのではないかなどと思っていたりした。

 このように一家が大騒ぎしているときに、そんなことは知らずに、隣家のシャーロット・ルーカスがいつも通りに顔を出した。すぐに出迎えたリディアが、コリンズのエリザベスへの求婚が不首尾に終わったことをつげ、さらに続いて出てきたキャサリン(キティー)が同じ話をする。ベネット夫人は誰も自分に同情してくれないと嘆き、シャーロットにあなたはリジーの親友なのだから、なんとか彼女を結婚に同意するように説得してほしいという。

 娘たちは、母親になにを言ってもむだだということがわかっているから、黙ってしゃべりたいだけ喋らせていた。すると、コリンズ氏がやって来たので、ベネット夫人は娘たちに部屋から出るように言う。2人きりになって、ベネット夫人が話しかけようとすると、コリンズ氏は、この話はなかったことにしましょうと言い、これで、コリンズ氏のエリザベスへの求婚の件はすっかりかたづいた形になった。

 この作品ではコリンズ氏は喜劇的な役回りなのだが、それがよく出ている個所の1つが今回紹介した第20章である。もう1人の喜劇的な人物であるベネット夫人はエリザベスを強情な馬鹿娘というが、それはベネット夫人自身の昔の姿ではなかったのか…などと考えるとおかしくなってくる(年をとっても、その本質はあまり変わっていない。自分があまり気に行っていない娘ではあるが、相続人であるコリンズ氏と結婚してくれれば自分の地位は安泰だという欲得ずくの計算も加わっている)。
 この小説を始めて読むと、物語の展開がなかなか読めないのでこの章の出来事の喜劇性は理解できないかもしれないが、何度かこの小説を読み返していくと、その何とも言えない可笑しさがわかってくる。ただ、そうはいっても、教区牧師の妻という存在を、何か牧師館の備品のようなものとしてしか考えられず、エリザベスの人間性に考えが及ばないコリンズ氏のような人物は恋愛小説のヒーローにはふさわしくないのだという、作者の恋愛観についても着目しておく必要がある。相続のことだけを考えているベネット夫人の結婚観についても同様である。

 今回は、これまでのあらすじの紹介は省いた。それでも、コリンズ氏がエリザベスに求婚する経緯と背景については、わかるようにまとめたつもりである。

ルーカーヌス『内乱――パルサリア――(上)』

10月26日(土)晴れのち曇り

 『神曲 地獄篇』第4歌で、ウェルギリウスに先導されてダンテは地獄の第1圏であるリンボに到達する。ここには、善業の徳を積んだが、キリスト以前に生まれたために正しい信仰をもたなかった人々のたましいが置かれている。
 そして、ウェルギリウスが帰ってきたと、彼を迎える声が聞こえたかと思うと、ギリシアのホメーロスを先頭に、ローマ黄金時代の風刺詩人ホラーティウス、3番目にやはりローマ黄金時代の詩人オウィディウス、そしてローマ白銀時代の詩人ルーカーヌスが歩み寄ってくる。ウェルギリウスと会話した後、彼らはダンテを彼らの列に迎え入れる。

 ここに登場する詩人たちの中で、ルーカーヌス(Marcus Annaeus Lucanus,39-65)は比較的その名を知られることの少ない存在である。皇帝ネロに仕えた哲学者・政治家・悲劇作家であったセネカ(4?-65)の甥であり、一時はネロにその才能を愛されながら、後にはその共和主義的な傾向から、ネロの不興を買って自決を命じられる。このため、彼の現存する唯一の作品である『内乱』(De bello civili,通称は『パルサリア』 Pharsalia)は未完に終わるが、「何よりも、印象の強烈さ、パワフルさという点で、ラテン文学随一の作品ではないかと思う。まことに夭折の惜しまれる詩人であった。」(松本仁助/岡道男/中務哲郎編『ラテン文学を学ぶために』、204ページ、執筆担当者:大西英文)といわれる。
 白銀時代には、彼のほかにも叙事詩人であるスターティウス、風刺詩人であるマルティアーリス、ユウェナーリスなどの詩人がいるが、そのなかでルーカーヌスを選んでいるところに、ダンテの詩についての考え方を推測すべきである。もっともスターティウスはこの後、『煉獄篇』の最後の方に登場し、ウェルギリウスと感激の対面をして、天国に向かうことになる(彼は隠れクリスチャンだったという設定である)。
 さて、その『内乱』とは、どのような叙事詩なのであろうか。

第1巻
 戦(いくさ)を、私は歌おう、エマティアの野に繰り広げられた、
内乱にもましておぞましい戦を、正義の名を冠された犯罪を、
(1-2行、17ページ)
 詩人はこの長編叙事詩の主題が戦争(かつては同盟者であったポンペイウスとカエサルの間の内乱)であること、またそれが「正義の名を冠された犯罪」であるとの主張を述べる。この叙事詩の翻訳者である大西英文さんは、「特異なテーマ」(7ページ)としているが、当然すぎるほど当然な主張だと考えることもできる。

 さらに詩人は
 ああ、同胞よ、なんという狂気、かくも激しき、何という
剣の暴戻(ぼうれい)。
(8-9行、17ページ)
と、戦争の惨禍を歌う。
 ・・・深く抉(えぐ)られて
残るその傷は、骨肉相食む内乱の手のしからしめた業(わざ)。
(31-32行、19ページ)

 そして、そのような内乱の惨禍がネロの治世の前提であるがゆえにやむをえないことであったとも歌う(内乱に勝利したカエサルの死後、アウグストゥスが皇帝となり、その家系から皇帝を出して、ネロの治世へと至る)。
 だが、運命がネロ降臨の道をほかに見いだせなかったというのであれば、
〔神々の世界でも、ユーピテルがその王座に就くためには巨人族との戦いを経なければならなかったという神話に照らして〕
・・・これほどの代価で購った、
この犯罪、この悖逆(はいぎゃく)の罪ではあれ、諒としよう。
(33、37-38行、19ページ)
と、一応内乱の惨禍について納得する(あるいは、本当のところ納得していないのかもしれない)。

 そして、ネロに対する賛辞を並べた後、平和への願いをネロに託してのべる。
・・・願わくは、…人類が
武器を捨てて、おのが為を図り、諸民(もろたみ)が友愛の絆で
互いに結ばれ合い、平和が世界に隈なく行き渡って、
戦いを告げる神ヤヌスの鉄の扉を閉ざさんことを。
(62-65行、21ページ)
 ローマにあった双面神ヤヌスの神殿の扉は、戦争のときは開かれ、平和な時は閉ざされるのであるが、ローマ2代目の嘔吐される伝説的な存在ヌマ・ポンビリウスの時代を除き、ずっと開かれ続けてきたという歴史がある。
 そして、ネロは詩人にとってすでに神なのだから、この叙事詩の完成にとっての大きな力となるはずだとまで皇帝を持ち上げ、それからこの戦争の主題である「内乱」の原因について考察しようとする。

 未完であるとはいえ、10巻(当初の構想では12巻の予定だったと推測されている)からなり、岩波文庫版で2冊に及ぶこの長編叙事詩の最初の部分を紹介しただけであるが、これだけでダンテが古代を代表する5人の詩人の1人にルーカーヌスを選んだ理由の少なくとも一端、現実をその醜い部分も含めて見据える視点と、優れた表現力はお分かりいただけたのではないだろうか。
 次回は、「内乱」の原因、「同輩を許容せぬ」権力の本質に迫ろうとする叙事詩の展開を追うことにする。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(22)

10月25日(金)雨

 ガルガンチュワは、フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの息子で、生まれた時に「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことからこの名がついた。牛乳と葡萄酒を飲んで、生まれつき大きかった体はますます大きくなり、ポノクラートという先生についてパリで勉強したことで、武芸と学芸の両方に秀でた王子となった。
 グラングゥジェ王とその隣国のピクロコル王との間に小さないざこざがおこり、それをきっかけとしてピクロコル王の軍勢がグラングゥジェ王の領内に侵入し、略奪をほしいままにした。グラングゥジェ王は平和に事態を収拾しようとしたが、ピクロコル王が聞く耳を持たなかったので、やむなくガルガンチュワを呼び戻して事態の解決にあたらせることにした。
 ガルガンチュワはポノクラートや自分の近習の者たちを連れて帰国、自分の属する修道院のブドウ畑をピクロコル軍の略奪から守ったジャン修道士を呼び寄せ、とりあえず偵察隊を率いて敵情を探ることにした。ピクロコル軍側も偵察隊を派遣したので、両者は衝突、ガルガンチュワ側が勝利して、敵の隊長の1人であった臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)を捕虜にした。グラングゥジェはピクロコル側の非を説き、臆病山法螺之守を情け深く扱い、ピクロコル王を説得するために帰国させる。

第47章 グラングゥジェがその諸軍団を招集させたこと、ならびに臆病山法螺之守が青葡萄苗之介を殺し、次いで自らもピクロコル王の命によって殺されたこと(グラングジエ、軍団を動員する。トゥクディヨンはアスティヴォーを殺すも、ピクロコル王の命令により殺される)
 平素からグラングゥジェの国と同盟関係にあった国々(実際は村々)から、戦争による被害の復興のための金と、ピクロコル王の軍勢と戦うための援軍の申し出があり、多額の金銭と大軍が実際に集められた。
 しかし、ガルガンチュワはその申し出に感謝はしたものの、この度の戦闘は出来るだけ知略を働かせて、戦わずして勝つように心がけるつもりだと言った。ただ、領内の各地に駐屯していた軍団を呼び戻して、戦闘の準備をさせた。〔前後の状況から判断して、グラングゥジェ王の方が、ピクロコル王よりも動員力において勝るので、ピクロコル王に多少の分別があれば、この戦争ははじめから起こらなかったと考えるべきである。旧日本陸軍では基本的な組織である連隊の上に師団が編成され(戦時になると連隊と師団の間に旅団が編成されることもあった)、その師団の上に軍団が組織されていた時期があったが、その後廃止された。現在の自衛隊では師団の上に、方面隊が組織されていて、これが軍団に対応するものであろう(その一方で、「〇〇軍団」などとわりに安易に軍団という言葉を使う傾向があることも否定できないが…)。渡辺、宮下の翻訳がともに「軍団」という言葉を使っているが、兵員規模を考えると、あまり適切であるとは思えない。「部隊」くらいが適当であろう。

 さて、臆病山法螺之守はピクロコル王のもとに戻って、これまでの経緯を語り、グラングゥジェは立派な人物で戦闘を継続する理由はないし、味方の戦力はそれほど強大なので戦闘を続けても勝つ見込みがない(前哨戦に悉く敗れているというこれまでの経緯から見ても明らかである)から戦争は止めた方がいいと述べようとする。ところがその話の途中で青葡萄苗之介(アスチヴォー)が話を遮り、敵にたぶらかされてのそのような発言は裏切り行為だと叫ぶ。怒った臆病山法螺之守は青葡萄苗之介を殺し、それを見たピクロコル王の命令によって殺される。そしてピクロコル王は青葡萄苗之介の死骸を手厚く葬らせ、臆病山法螺之守の死骸を堀に捨ててしまった。この事件は、ピクロコル軍の内部に大きな動揺をもたらした。
 ピクロコル王の家臣の酒壺摑郎(グリップピノ―)は、自軍の士気は高いとは言えず、兵糧も軍中に行き渡っているとはいえず、これまでの戦闘で兵員もかなり減少しているので、心配である。そのうえ、敵には強大な援軍が到着しているので、城を包囲された場合の勝利はおぼつかないと諌言する。
 しかし、ピクロコル王は「貴様らは、ムランの鰻のような奴じゃ。皮をひん剥かれる前に、きいきい叫び居るわい。」(渡辺訳、218ページ、宮下訳、349‐50ページ、ムランはパリの東南、セーヌ川沿いの町で、何もないのにぎゃーすか騒ぐことを「ムランの鰻」といったそうである。ここでは何もないどころではなく、騒いで当然な場面であるので、ピクロコル王の発言はその非常識を際立たせるものになっている。)

第48章 ガルガンチュワがラ・ローシュ・クレルモー城中にピクロコルを襲い、右ピクロコルの軍勢を壊滅させたこと(ガルガンチュア、ラ・ロッシュ・クレルモーに籠城するピクロコルを襲撃して、その軍勢を打ち破る)
 ガルガンチュワは、父王から軍の全権を委ねられて出陣することになった。グラングゥジェは居城にとどまり、一族郎党を激励したうえで、勇敢に戦ったものには莫大な恩賞を与えると約束した。
 ピクロコル軍が占領しているラ・ローシュ・クレルモーの城は高いところにあり、守りも堅固であるので、どのように攻略すべきかと協議したところ、ジムナスト(ガルガンチュワに乗馬や武術を教えている青年貴族)が最初の攻撃に際してもっとも勇敢に戦うのがフランス人の特徴であるので、準備が出来たらすぐに攻撃を開始するのがいいと進言した。
 ガルガンチュワは全軍を原野に展開させ、予備兵団は丘の裾に待機させた。ジャン修道士は歩兵6個中隊、武装兵200名を率いて、沼地を渡り、城の南方に回った。

 ガルガンチュワ軍の攻撃に対して、城内のピクロコル軍は城を出て戦うか、籠城するか、どちらの策をとるかを決めることができなかった。しかし、ピクロコル王は前後の見境もなく、配下の武士数隊を率いて(城を出て)突撃しようとした。そのため丘をめがけて行われたガルガンチュワ軍の砲撃にさらされることになる。ガルガンチュワ軍は窪地に身を隠し、そのまま砲兵隊に思う存分活躍させた。城内のピクロコル軍の兵士たちは、盛んに矢を放ったが、ガルガンチュワ軍は身を隠していたので、矢はその頭上を越えた。場外に突撃した兵士たちは、砲火を浴び、それを生き延びてもガルガンチュワ軍と正面衝突して倒され、退却しようとするとジャン修道士たちに退路を阻まれたので、壊滅状態になっていった。

 敵の動きが止まったので、修道士は城の左手の丘陵を占領して敵の退路を断つように進言、ガルガンチュワは4軍団を派遣した。とはいうものの、いかにその数が減ったとはいえ、ピクロコル軍の主力と正面衝突しない限り、城は占領できなかったので、激しい戦闘が続き、ガルガンチュワ自身が砲兵隊とともに城壁の一角に赴いたので、城内の主力はここで集中的に防御にあたることになった。
 そのすきをついて、背後からジャン修道士が他の兵士たちとともに城壁をのぼり、手薄になった敵陣を破ってピクロコル軍に背後から襲いかかった。そして混乱した城内の兵士たちが降伏した後、城外に出てガルガンチュワ軍と合流しようとした。 城外で戦っていたピクロコル王は、背後からもガルガンチュワ軍が攻めてきたことに気づいて、部下ともどもちりぢりに逃げ出していった。こうして戦闘は終結した。

 グラングゥジェの平和主義も、ガルガンチュワが友好国に向かって言明したような知略もどこかへ行ったような激しい戦闘の結果、ガルガンチュワ軍が勝利を収めることになった。激しい砲撃をあびても、梅の実かブドウの粒をぶつけられたとしか感じなかったガルガンチュワの巨体と、その巨体に見合った怪力からすれば、それほどの兵力も必要としなかったのではないかという気がしないでもない(つまりラブレーは、かなりご都合主義的に物語を展開している)。
 些細な理由から始まった戦争だが、どうも大きな結果をもたらしてしまった。第49章以下では、その戦後処理の次第が語られることになる。さて、どのようなことになるのか。それはまた次回に。

細川重男『執権』

10月24日(木)曇り

 10月16日、細川重男『執権』(講談社学術文庫)を読み終える。すでに「日記抄(10月16日~21日)にも書いたように、鎌倉時代と鎌倉幕府の権力構造について手際よく説明した本だと思うので、少し丁寧に紹介してみることにする。また、全く違った問題意識と角度から、しかし坂東武士を対象として取り上げた鈴木哲雄『酒天童子絵巻の謎――「大江山絵詞」と坂東武士』(岩波書店)を10月22日に読み、細川さんの著作について多少訂正を必要とするのではないかという部分を見つけた。そのことも含めて、紹介を進めていくことにしたい。なお、この書物は2011年3月に『北条氏と鎌倉幕府』として講談社選書メチエから刊行されたものの文庫化である。多少の改変はあるが、基本的な内容・私見についての変更はないと「文庫版あとがき」に記されている。

 この書物は次のような構成を持つ:
はじめに――素朴な疑問
第1章 北条氏という家
第2章 江間小四郎義時の軌跡――伝説が意味するもの
第3章 相模太郎時宗の自画像――内戦が意味するもの
第4章 辺境の独裁者――四人目の源氏将軍が意味するもの
第5章 カリスマ去って後
おわりに――胎蔵せしもの

 この書物のいいところは、鎌倉時代と鎌倉幕府に関心をもつひとであればだれでも抱く「北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか?」という素朴な疑問をその問題意識としていること、そしてこの問いに対して十分に納得のいくような回答を提供していることである。その問題意識のありかについては、「はじめに――素朴な疑問」でちょっとした仕掛け付きで語られており、まず、この部分を詳しく読むことが重要になってくる。

 最初に「執権」という言葉についての定義が示されている:
[執権]
鎌倉北条氏が独占・世襲した鎌倉幕府の役職。幕府の主人である将軍(征夷大将軍)の後見役。政務代官とされ、幕府の政務を総覧した。

 確かに、「執権」は鎌倉幕府以外では見なれない言葉である。そして、その権限は鎌倉幕府の歴史を通じて変化しているとはいうものの、「鎌倉幕府の実権を奪い、主人である将軍(征夷大将軍)をも思いのままにスゲ替える支配者になりながら、ついに鎌倉幕府滅亡(以下、鎌倉滅亡とす)のその日までみずから将軍となることはなかった」(3ページ)のはなぜか、というのは多くの人が抱く「素朴な」疑問である。[将軍の方は、源氏将軍・摂家将軍{源頼朝、頼家、実朝、藤原(九条)頼経、頼嗣}、天皇家・親王将軍{宗尊親王、惟康親王(惟康王、源惟康)、久明親王}と異なった家系から迎えられているのに、執権の方は北条氏が独占している。直「摂家将軍」というのは摂政・関白となることのできる家柄(摂関家を略してこのようにいう。藤原道長・頼通の系譜につながる家柄で、この時代では九条家と近衛家しかなかった→後に、二条、一条、鷹司の三家が加わり、五摂家と呼ばれるようになる)出身の将軍ということである。]

 これに対するいちばん一般的な回答は、北条氏は鎌倉時代の武家社会と王朝(朝廷)身分秩序において低い地位しか占めていなかったからというものである。したがって、北条氏はなれるものならなりたかったのだが、なれなかったというのである。〔将軍になれるのは源氏出身者だけであるとか、それも清和源氏に限られていたのだという議論もあるが、それについては、取り上げられていない。たぶん、これは後付けの理屈だと思ったからであろうと推測する。〕

 細川さんは、この「通説」に異議を唱える。古今東西を問わず、権力というのは自己の権力の正統性を主張するものであるし、その正統性の議論を支持する人々がいなければ維持できないからである。〔つまり、北条氏の「執権」としての権力の獲得・維持にはそれなりの正統性の議論が裏付けとしてあったということである。〕 しかも、北条氏がその権力を維持した期間は相当長い。

 現在の学界では多少の見解の違いはあるが、鎌倉幕府の政治体制を
 源頼朝治世期を典型とする「将軍独裁」
 北条泰時治世期を典型とする「執権政治」
 権力が執権という鎌倉幕府の役職から北条氏の家督である得宗個人の手に移った「得宗専制」
の3段階に分けている。「得宗専制」がいつごろから始まるかをめぐって学説は分かれているが、いずれにしても、執権政治の段階から北条氏の権力者としての地位は継続しているのだから、かなり長い期間にわたり権力を維持していたことになる。とすれば多くの人々がそのことに異議を唱えず、納得していただけの理由付けがあったはずである。ではその「論理」はどのようなものであったのか。

 その「論理」を知るために、細川さんはさらなる疑問の解決を図ろうとする。
① 鎌倉北条氏は、そもそもどのような家であったのか。
② 「得宗」とはいったいどういう意味なのか。
③ 第7代将軍惟康は、なぜ、長い期間にわたって源惟康を名乗っていたのか。〔細川さんはこの事実をかなり重視しているが、いま一つ、その理由がわからないところがある。〕

 問題解決のために、細川さんは2人の執権、北条泰時と時宗とを選び出す。
 こう書いておいて、本論に取り掛かると見せかけて、細川さんは、泰時時代のある出来事を持ち出し、鎌倉武士(鎌倉時代の武士)の実像が、一般に思われているような立派なものでなく、野卑なものであったと論じる。そして、そのことから、鎌倉幕府の歴史は武士たちが自分たちの政権をつくっていくために試行錯誤を重ねた歴史であるという。「鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、それはすなわちムダな流血の連続であった。この歴史の奔流の中で、北条氏はいかに戦い、生き、何を築いたのか? 二人の主人公北条義時と時宗を通じてみてゆこう」(14ページ)。

 以上で、「はじめに」は終わるが、今回は、この次の第1章「北条氏という家」の内容まで紹介しておく。なぜ、そうするかというと、要するに北条氏はあまり系譜関係も定かではない、「兵力30騎以下、東国(東本州)にゴロゴロ存在していたその他大勢の武士団の一つ」(42ページ)であったと考えられる。
 「競馬にたとえるとわかりやすい。〔北条〕時政は三浦馬券・牧馬券と少しでも勝率の高い馬券を買い漁っていた。その中で、ご本人はあまり乗り気でなかったがブランド好きの長女にねだられて買った頼朝馬券が日本歴史上でも希な大穴馬券」(同上)となって、一大勢力を築くことになったのである。
 このように、わかりやすいかどうかは個人差があると思うが、比較的卑近なたとえを多用して、歴史的な事件を説明していくところにもこの書物の特色がある。

 それでは次回は、「将軍独裁」時代から、「執権政治」の時代への橋渡し役であり、何よりも承久の乱を乗り切った北条義時についての考察を見ていくことにしよう。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(22)

10月23日(水)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から雲に隠されたために、部分的ではあるが富士山が見えた。

 コロンブスと同じくジェノヴァの出身で、彼とともに新世界を探検し、その後、さらに西に進んで世界を一周してヨーロッパに戻 ってきた船乗りが、マルタ騎士団員に向って、旅行の途中で訪問した「太陽の都」と呼ばれる都市とその住民たちの様子を語る。
 「太陽の都」は、タプロバーナ島(スマトラ島と考えられている)の中央に七重の城壁をめぐらせて建設された都市である。その住民たちは高度な文明を持ち、世界についての多くの知識を蓄えている。私有財産はなく、住民たちは一つの家族として生活している。すべての住民たちが働いているので、労働時間は短く、国庫は豊かである。
 市を支配するのは「太陽」と呼ばれる神官君主で、形而上学者が選ばれ、軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。国の役人は教育によってその能力・適性を見出されたものの中から選ばれ、すべて神官である。教育はすべての子どもたちを対象として、市の中央にある神殿の外壁や、城壁に描かれた万物の図などを使って行われる。彼らは多くの新しい技術を持っている。
 彼らは占星術を使って多くのことを知っている一方で、その宗教はキリスト教とよく似た教義を有している。彼らは世界はこれからもっと大きな変化をとげるだろうと予言しているという…。

 マルタ騎士団員は、ジェノヴァ人の船乗りの発言の中の、星の大会合が巨蟹座で起きているという部分をとらえて、「巨蟹座は、金星と月の女性的表れなのだが、これはいったいどんなよいことをするのかね」(坂本訳、73ページ)と問う。
 ジェノヴァ人はその結果として点に豊穣をもたらし、地上では支配者の地位に女性がつくことになるのだという。そしてカンパネラの同時代のヨーロッパにおいても、イングランドのエリザベスⅠ世、フランスのカトリーヌ・ド・メディシス、スコットランドのメアリー、スペインのイサベラなど君主の座についていたり、実権を持っていたりする女性が多いことを指摘する。
 「そして、この時代の詩人は、自分の詩を次のように女から始めています。
 『我は歌う、女性を、騎士を、戦を、恋を、』」(坂本訳、74ページ)
 坂本さんも注記しているが、これはイタリアの詩人ルドヴィーゴ・アリオストLudvigo Ariosto (1474-1533)の代表作『狂乱のオルランド』(Orlando Furioso)の冒頭部分である。

 それから、彼の時代の世界で起きている様々な異変についての意見を述べるが、先を急いでいるので、詳しいことは述べられないといって話を打ち切ろうとする。
 そして最後に、「太陽の都」の住民たちが、自由意志を大へんに重視していることを強調する。そして人間の自由意思に基づく行動は、占星術によって理解できる星の影響力を凌ぐものであるという。「星は人間の感覚にやさしく変化を与えるものなので、理性より感覚に従ってしまうような人々は、星の影響を受けてしまうことになります。」(坂本訳、76ページ) 裏返しにしていえば、理性的な人間、意志の強い人間は、星の影響力を克服できるというのである。
 「ですから、ルーテルの死体から臭気を放たせた星座が、同時に当時のわれらがイエズス会やメキシコにキリスト教を普及させたフェルナンド・コルテスから、徳行の香気を発散させたのです。」(坂本訳、76ページ)ともいう。
 カンパネッラがカトリックの立場から発言していることは明らかであるが、フェルナンド・コルテスを「メキシコにキリスト教を普及させた」といって、彼が先住民を虐殺したことに目をつぶっているのは、独善的な評価である。


 そして、これから近い将来に起きるであろうことについては、また今度話すことにしたいと言って立ち去ろうとする。「異端は感覚的な行為で、星は感覚的な人々を異端へと導き、それに反し理性的な人々は、常に讃えられるべき第一の理性の持主たる神の真の聖なる戒律へと導かれるのであります。」(76ページ)と言い残す。
 騎士団員は引き留めようとするが、ジェノヴァ人は、今度こそは立ち去ってしまう。

 多少の謎(と、それ以上の思わせぶり)を残して、『太陽の都』は終わる。「太陽の都」という理想の都市国家の姿を描こうとしているようでもあり、ヨーロッパにこれから起きるであろう変革を予言しようとしているようにも読み取れる。
 マリー=ルイズ・ベルネリは「カンパネラのユートピアは、自然科学に指導的な役割を絶えた最初のユートピアである」(ベルネリ、182ページ)という評価を与えている。この自然科学の社会に果たす役割の強調は、イングランドのフランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』と共通するものであるが、両者が似ているのはこの点だけかもしれない…ということで、少しお休みさせていただいてから、ベーコンの『ニュー・アトランティス』の紹介に取り掛かるつもりである。

 本日、これから研究会があり、皆様のブログを訪問する時間的な余裕はなさそうです。明日は、病院に出かけて検査を受ける予定ですが、病院から戻った後、時間の許す限りで訪問させていただきたいと思います。それではまた、ごきげんよう!

 

『太平記』(285)

10月22日(火)雨が降ったりやんだり

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子・正行が父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏を破った(『太平記』ではこのように書いているが、史実としては、前年≂貞和3年の出来事である)。さらに11月、正行は、住吉、天王寺で山名時氏と細川顕氏の軍を破った。12月、高師直・師泰が楠討伐に向かった。死を覚悟した正行は、吉野に赴いて後村上帝に謁し、如意輪堂の壁板に一族の過去帳を書きつけた。
 翌年正月、高師直・師泰は大軍をひきいて京を出発し、摂津、和泉の各地に陣を敷いて、楠軍を待ち構えた。

 さて、正月の5日の早朝、南朝軍はまず四条中納言隆資を大将として、和泉、紀伊の野伏(のぶし、武装した農民や地侍)2万人を引き連れて、いろいろの旗を掲げ、飯盛山へと向かわせた。飯盛山は前回も出てきたが、室町幕府軍に属する白旗一揆が陣をかまえている現在の四条畷市と大東市の境にある山である。これは大旗、小籏両一揆を山から麓へと降りさせて、正行の本隊が四条繩手(現在は四条畷と書く)に向かうのを容易にするための作戦行動である。
 作戦は図に当たり、大旗、小籏の両一揆は、これを見て、楠軍の陽動作戦とは気づかず、これこそが楠軍の本隊だと思って、射手を分け、旗を進めて、坂道の中ほどまで降り下って、険しい要害の地で待ち構えて戦おうとしていた。
 楠正行、その弟の正時、従兄弟の和田高家(行忠とも)、高家の弟の源秀らは屈強の兵3000余騎を率いて、霞が立ち込めた中からすぐに四条繩手へと押し寄せ、師直軍の物見を兼ねた先駆けの兵を一気に蹴散らし、大将である師直に接近して、一気に勝負を決しようと躊躇することなく前進した。

 白旗一揆の大将である県下野守は、遠くで様子を見守っていたが、楠の紋である菊水の旗が一流れ、まっすぐに師直の陣営に攻め入ろうとしているのを見て、北の谷から駆け下り、馬から飛び降りて徒歩立ちになり、正行軍が騎馬で駆け抜けようとしているのを一文字の陣列で遮ろうとする。
 正行軍は大勢ではないが、白旗一揆はそれよりもさらに小勢であり、正行軍が騎馬であるのに、白旗一揆は徒歩立ちであるので、ためらうことなく突破しようとする。正行軍の3つに分けた軍勢のうちの前陣の500余騎が、ひたひたと相手に迫り、まず白旗一揆軍の秋山弥六郎(山梨県南アルプス市秋山の武士、甲斐源氏)、大草三郎左衛門(愛知県小牧市大草の武士)の兄弟2人がまっさきに進んできたのを射落とされる。
 山名の家来である居野七郎が、これを見て、敵に勢いをつけさせまいと秋山が倒れている上を飛び越えて、「ここをあそばせ」と左側の鎧の袖をたたいて、小躍りして進んだ(弓を射かけさせようという挑発であるが、危険な行為である)。売り言葉に買い言葉、お誂え向きだと楠軍は東西から矢を射かける。居野は雨の降るように射かけられた矢を何本もその体に受け、特に2か所深く突き刺さったところがあったので、太刀を杖にして、立ちどまり、その矢を抜こうとしているところに、和田源秀が駆け寄って居野の甲の鉢をしたたかに打つ。〔何で打ったのかは記されていないが、漱石の『猫』に出て来る「甲割」を使ったのかもしれない。〕 これにはたまらず、居野が四つん這いになってしまったところを和田の中間が走り寄って、その首を掻き切って差し上げる。

 これを戦端として楠の騎馬の兵500余騎と県の徒歩立ちの兵300余騎とが、喚きたてながら戦いつづけたが、移動が自由な平地での戦いであったので、騎馬の楠勢の方が有利であり、白旗一揆の兵300余騎ほどが戦死してしまい、県下野守も深手浅手5か所も負傷してしまい、これはかなわないと思ったので、残った兵たちをまとめて師直の陣へと退却した。〔自分たちの軍勢の方が少ないことを考えずに、馬を降りて徒歩立ちで楠勢を食い止めようとした県下野守の作戦は適切なものとは思えないが、正行軍の進撃を一時的にでも食い止めたという意味はあったと考えられる。〕

 白旗一揆が退却した後、この戦いで楠勢が疲れたことを見越して、甲斐・安芸の守護であった武田信武が700余騎を率いて進んだ。楠勢も(軍勢を3手にわけたうちの前陣が闘ったので)二陣の1000余騎を動員し、その軍勢が2手にさっと分かれて武田勢を包囲し、両者の間に激戦が展開されたが、7・8度の戦いのうちに武田勢は壊滅状態になり、楠勢もその大半が手負いの状態になった。

 小旗一揆の衆は四条隆資の率いている野伏たちが敵の本隊だと見過って、それに対して陣をかまえ、飯盛山の上から動かず、正面の主力軍の合戦をひたすら傍観していたのだが、楠の二陣が戦いに疲れ、飯盛山の麓のほうに戻って休もうとしているのを見て、楠勢と戦おうとするものが出てきた。
 長崎彦九郎資宗(北条氏に仕えていた長崎一族の武士であろうか)、備前の武士である松田重明、その弟の七郎五郎、息子の太郎三郎、松田小次郎、河匂(こうわ)左京進入道(武蔵七党の猪俣党の流れをくむ武士か)、高橋新左衛門、青砥左衛門尉(東京都葛飾区青戸出身の武士か)、美作の菅家(菅原の血をひく武士)に属する有元新左衛門、同じく広戸弾正左衛門、その弟の八郎次郎、その弟の太郎次郎以下、選り抜きの武士たち48騎が小松原からかけおりて、麓の敵を見下ろしながら戦いを始めたので、楠軍の二陣の1000余騎は、このわずかな敵に遮られて、進退に窮する様子である。

 ここまでの戦いの推移を冷静に見守っていたのが、このときすでに50歳を超えていた佐々木(京極)道誉である。彼は生駒山の南のほうに陣をかまえていたが、楠の軍勢の疲労度をはかり、おそらく前陣は捨て身の勢いで大将である高師直の陣に殺到し、他の相手には目もくれないだろう。ということは、前陣をやり過ごし、二陣を壊滅させて退路を断てばよいと判断して、その3000余騎の軍勢を三手に分けて、山からかけおりて楠軍の二陣に攻勢をかける。楠軍は勇敢にたたかったが、衆寡敵せず、自軍は疲れ切っており、佐々木軍は意気盛ん、かなわないとみて、残った兵は南のほうへと退却していった。

 こうして楠軍の二陣は壊滅したが、道誉の読み通り、正行の率いる前陣はまっすぐに高師直の陣営に突撃することになる。この後の正行の戦いぶりはまた次回に。
 今回取り上げた個所では、正行の陽動作戦に対し、それに気づいてすぐに対応しようとしたが、作戦のまずさで十分に戦えなかった県下野守、正面から勇敢に戦った武田信武、二陣の疲れを見て襲い掛かった小旗一揆の武士たち、最後に老獪な作戦を展開して楠の二陣を敗走させた佐々木道誉と足利幕府側の武将たちのさまざまな戦いぶりが描き分けられている。武田信武は尊氏の異母兄である高義の娘を正室に迎えたほどで、尊氏の信頼の厚い武士であった。武田信玄の先祖でもある。信武の次の代から、武田氏は甲斐の武田氏、安芸の武田氏と分かれることになる。

日記抄(10月16日~21日)

10月21日(月)曇り

 10月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

10月14日
 NHK『まいにちスペイン語』入門編「おもてなしのスペイン語」は昨年4月~9月に放送された番組の再放送であるが、登場人物が浅草で「孫の手」を買う場面があって
 Se llama "mago no te"
0 "mano del nieto".
 名前は「マゴノテ」、「孫の手」という意味よ。
という会話がなされるのだが、「マゴノテ」は、中国の女性の仙人である「麻姑の手」というのが本当の由来だという説が有力である。また、スペイン語圏ではこのようなものは見られないという話だったが、日本以外の外国でも同様のものが使われているようである。

10月16日
 『遠山顕の英会話楽習』の”Something New"のコーナーでは、幾つかDad Jokes (父親が子どもにいうお決まりのジョーク)を紹介していたが、そのなかに
 一緒にフライドポテトを食べながら世界地理がわかってきた子どもに
D: Do you know where the first french fries were cooked?
C:No, I don't. In France?
D: No, they wewere cooked in grease (Greece).
というやりとりがあった。grease (油)とGreeceの発音が同じであることに基づく洒落である。

 細川重男『執権』(講談社学術文庫)を読み終える。鎌倉時代に興味のある人は必読の本だと思う。私は、鎌倉時代よりも南北朝時代のほうに興味があるが、このブログでもそのうち、この本を詳しく取り上げるつもりである。

10月17日
 『朝日』1面のコラム「天声人語」が、この度の台風19号による水害との関係で、谷崎の『細雪』のなかの1938年(昭和13年)に起きた「阪神大水害」の描写の迫真性に触れていた。『細雪』という小説は、須賀敦子(1929‐1998)が学生に読ませていたという話を知って、読んでみようと思って読み始めたが、途中で投げ出してしまった。何度か映画化もされているが、原作に一番忠実だといわれる1950年(昭和25年)の阿部豊監督による映画化(新東宝:4人姉妹は山根寿子、轟夕起子、花井蘭子、高峰秀子)を見ただけである。須賀は西宮で育っているので、この作品に描かれた土地柄と時代の雰囲気には親しんでいたはずである。

10月18日
 10月17日付の当ブログで田中啓文『貧乏神あんど福の神』を取り上げたついでに、目黒の五百羅漢寺についても書いたが、遊助さんのブログ「気ままに起承転々天」でもこの寺について取り上げていたので、面白い偶然だと思った。
 この寺は17世紀の終わりごろに一切経(大蔵経)の出版で知られる鉄眼道光(1630‐82)の弟子である松雲元慶(1648‐1710)によって本所に創建された。本堂のほか、元慶の手に成る五百羅漢像を安置した羅漢堂、三階建ての建物の中をらせん構造の通路がめぐっていて、のぼりの通路と下りの通路とが交差しない三匝堂(俗にさざえ堂)などからなる大伽藍だったのが、幕末には衰微し、明治時代になると目黒に移転したのだそうだ。チベット探検で有名な河口慧海がこの寺にいたこともあるという。

10月19日
 天気が悪く、体調もあまりよくないので、小机フィールドのなでしこリーグ2部17節横浜FCシーガルズ対愛媛FCレディーズの対戦を見に行くのをやめた。そのせいでもないだろうが、試合は0‐0で引き分けだったそうだ。

 NHKラジオ『朗読の時間』では芥川龍之介の短編から「鼻」、「沼地」、「尾生の信」、「蜘蛛の糸」、「孔雀」、「蜜柑」を取り上げていた。以前に聞いたことのあるものの再放送である。心理描写の克明なこととか、文章表現の巧みさというものは感じるのだが、全体としてあまり感心しなかった。内田百閒が芥川から、漱石門下で目立つ存在は、鈴木三重吉のほかは、君と僕(つまり内田と芥川)だなといわれたことを書きとめているが、百閒の方がその言動においてどこか抜けていて、滑稽に思われる半面、骨太でたくましいところがある。そのうち、三重吉を読んでみようと思っていながら、ずっと読まずじまいである。死んだ母の書架に三重吉の本が何冊かならんでいたので、その頃に読んでおけばよかったなどと思っても、仕方がない。結局、読んだことがあるのは『古事記物語』だけである(これはなかなか面白かった)。

10月20日
 『朝日』の「古典百名山」に大澤真幸さんがマキアヴェッリの『君主論』を取り上げていた。ラブレーの『ガルガンチュワ物語』との関連で触れたことがあるエラスムスの『キリスト教君主の教育』が、この書物と対照的な主張をしているという指摘が気になっていて、両方とも読んでやろうと考えているのである。 

 夕食後、パソコンに向かったのはいいが、そのまま眠り込んでしまった。そのため、ブログ訪問ができなかった。体力の衰えを感じさせられる昨今である。

10月21日
 本日の『日経』に東京都南部を流れる呑川についての文章が掲載されていたのだが、十分に読まず、あとで新聞を買うのも忘れたのは残念なことであった。

 NHKラジオ『まいにちイタリア語』で、パートナーのエヴァさんが日本で歌舞伎を見て女形の役者がいることに驚いたと言っていた。オリヴィエの『ヘンリー5世』を見ればわかるが、シェイクスピアの時代の英国では女形が使われていたのである(もっとも、そのころの日本では歌舞伎は女性の踊りを中心としたものだった)。イタリアではそういうことはなかったのだろうか。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(15)

10月20日(日)曇り、一時晴

 19世紀が始まったばかりのイングランド、ロンドンの北にあるハートフォードシャーのロングボーンの地主であるベネット氏には、ジェイン、エリザベス(エライザ、リジー)、メアリ、キャサリン(キティ)、リディアという5人の娘があった。この家系の決まりで、財産は男系相続されることになっており、娘たちに財産が大した財産が残せないので、1人でも娘を裕福な紳士に嫁がせようというのがベネット夫人の願いであった。
 その願いにこたえるかのように、ロングボーンに近いネザーフィールド邸を北イングランド出身のビングリー氏という紳士が借りることになった。近くのメリトンの町で開かれた舞踏会でビングリー氏はジェインを見初め、ならびいる令嬢たちの中で彼女にだけ2回ダンスを申し込んだ。ジェインもまた、ビングリー氏を好ましいと思うとエリザベスに打ち明けた。
 一方、同じ舞踏会に出席していたビングリー氏の親友であるというダーシー氏はダービーシャーの大地主だということであったが、エリザベスに失礼な態度をとり、彼女にとっての印象を悪くしてしまったが、あとで考えてみると、彼女がなかなか魅力的な女性であることに思い至り、なんとか近づこうとしている様子であった。
 ロングボーンの邸の相続人であるコリンズ氏から、ケントの大地主であるレディ・キャサリン・ド・バーグの庇護により、教区牧師の職を得たので、ベネット一家と和解したいという申し出があり、彼が一家を訪問する。ベネット家の5人の令嬢のうち1人と結婚すれば、問題がいちばんすんなりと解決するのではないかというのが彼の考えで、ジェインに先約があるらしいということから、彼の白羽の矢はエリザベスにあたる。エリザベスはそのことをうすうすと感知して、この尊大で退屈な男性から逃れようとしている。
 メリトンの伯母の家を訪れたエリザベスは、ジョージ・ウィッカムという国民軍の中尉と知り合う。彼は子どものころからダーシー氏を知っているという。2人の間には様々な因縁があるようである。ネザーフィールド邸で開かれる舞踏会で、ウィッカム氏と踊ることを楽しみにしていたエリザベスであるが、彼はなぜか欠席し、彼女はまずコリンズ氏と、それからダーシー氏と踊る羽目に陥る。そして夜食の席では、上の娘たち2人の結婚を確信したベネット夫人が大声で自慢話をまくしたてて、周囲の顰蹙を買い、さらにその芸を披露したくてたまらないメアリーが歌いだして、エリザベスを恥ずかしがらせる。(以上第1巻第18章までのあらすじ)

 「翌日、ロングボーンでは事態が新たな段階に入った。ミスター・コリンズが正式に意嚮(いこう)を表明したのである。許された休暇は次の土曜日までだから時間を無駄にせずに事を済まそうと決心すると、いざという瞬間になっても、気持が臆して困惑するなどということは一切なく、このようなことには不可欠の仕来りであると自ら信じるあらゆる形式を逐一几帳面に踏んで事に乗出した。」(大島訳、186ページ。「ミスター・コリンズが…表明したのである。」の原文はMr. Collins made his declararion in form. 中野康司訳では「コリンズ氏がエリザベスに正式に結婚の申し込みをしたのである。」(ちくま文庫版、182ページ)、小尾訳では「ミスタ・コリンズが正式な結婚の申し込みをしたのである。」(光文社古典新訳版、190ページ)、阿部知二訳では「コリンズ氏が正式に申し込みをしたのである。」(河出文庫版、142ページ) declarationには「(愛の)告白」という意味があるので、「コリンズ氏が正式に愛の告白をしたのである。」というのがいちばん正確かもしれない。オースティンの他の作品を読めばわかるが、あるいはこの物語の55章、58章あたりを読めばわかるように、declarationは、あるいはその結果としての婚約は、2人だけで行われ、その後で父親(あるいは母親)の許可を受けるというのがふつうである。ところが、コリンズ氏の場合は(もちろん、エリザベスに、いろいろと自分の気持ちを打ち明けてはいるが)かなり大っぴらに告白しようというので、この辺りに彼の性格が現れている。そうしたことから、ここではdeclarationを「愛の告白」よりも、「結婚の申し込み」とするほうが前後の文脈にあっていると、中野さん、小尾さんは判断したようであるし、それは正しいように思う。大島訳が「意向」とすればいいのにわざわざ難しい字を使って「意嚮」としているのは、以上のことから納得がいかないところである。)

 その朝、朝食が済んで、部屋の中にコリンズ氏とベネット夫人、エリザベス、キャサリンの4人だけになったときに、ベネット夫人に向かい、エリザベスと2人きりで話がしたいのだが、席をはずしてくれないかと頼み、それと察したエリザベスがなんとか逃げ出そうとするのを制して、ベネット夫人は2人が部屋に残るようにする。ベネット夫人としてみれば、自分があまり気に入っていないエリザベスが、コリンズ氏のところにかたづいてくれればありがたいし、自分もロングボーンの邸に残ることができるので、渡りに船なのである。母親になかば命令口調で言われ、コリンズ氏の気持ちには気づいているので、できるだけ迅速かつ穏便に話を片づけよう(断ろう)と考えたエリザベスは、部屋に残ることにする。

 コリンズ氏はエリザベスに向って、まず彼女の美しさをほめ、自分が彼女の母親の同意を得て結婚の申し込みをしようとしているといい、「僕はこの家に入った途端、ほぼすぐにあなたを生涯の伴侶に選びました」(大島訳、188ページ、15章で、ジェインに結婚を申し込もうとして、ベネット夫人から、彼女はまもなく婚約するかもしれないといわれ、エリザベスに乗り換えたということは黙っている。もっとも、大抵の男はこういうことは黙っていることもたしかである)。
 それから彼は、牧師としての務めを果たすために結婚は必要である(教区民に対し、理想の夫婦の姿を見せる⇔といっているが、あとで見るところでは、コリンズ氏は教区民とはあまり接触せずに、地主の意向ばかり気にしている)、結婚によって自分自身の幸福が増す、第3に自分のパトロンであるレディ・キャサリン・ド・バーグが早く結婚しろといったということを、自分が結婚しようとしていることの理由として挙げ、その条件にかなった女性こそがエリザベスであるという(17章でエリザベスは「自分がハンズフォード牧師館の主婦に相応しい女として、ロウジングズ邸で、より望ましい客人のいないときに、カドリールの卓を囲む際の埋め合わせに相応しい女として、姉妹たちの中から選ばれた」(大島訳、159‐160ページ)と気づいている)。そして結婚後の経済的な問題や相続に関わることまで細かに述べはじめる。

 エリザベスは、まだ自分は返事をしていないのだから、先走らないでほしいと口を挟む。自分のことをいろいろと褒めてくれたことはありがたいし、結婚を申し込んでくれたこともお礼を言わなければならないが、自分としてはお断りしたいという。
 コリンズは(大体が自惚れの強い性質なので)エリザベスが承諾したいのだけれども、とりあえずは断っているのだと考える。「お嬢様方は、密かに受容れるつもりでいる男の申込でも、最初の申込に対しては断るのが普通なんです。」(大島訳、191ページ)
エリザベスの拒絶を彼女の手管だと誤解する。

 エリザベスは驚いて、自分は本気でお断りしているのだ、コリンズ氏が思い描いているような牧師の妻に相応しい女性ではないと、両者の性格の不一致について指摘しながら、再度断る。
 コリンズ氏は、彼女ほど牧師の妻に相応しい女性はいないのだといって、再度結婚を申し込むつもりに変わりがないことを告げる。それに自分が教区牧師という社会的にも経済的にも恵まれた境遇にあることを強調する。「僕の手があなたにとって受けるに値しないものだとは僕には到底思えないし、僕に提供できる家庭生活も至って望ましいものであるとしか思えないからです。」(大島訳、193‐194ページ、原文はIt does not appear to me that my hand is unworthy of your acceptance, or that the establishment I can offer would be any other than highly desirable.) そして、エリザベスに、今後自分以上の(経済的・社会的地位を持つ)男性が現れて結婚を申しこむ可能性はそんなにないとまで言う。

 押し問答を続けるうちに、エリザベスはだんだん苛立ってくる。自分を偽り続け、エリザベスの姿もありのままに見て、受け入れようとしない、コリンズに対し、うんざりしながらこう言い放つ。「はっきりと申しますけれど、私は立派な男の方を苦しめるのが上品であるような、その種のお上品ぶりを気取るつもりなど全然ございません。それよりもむしろ正直な女だと思っていただきたいのです。」(大島訳、194ページ)

 こうしてエリザベスは、どうすればコリンズ氏の結婚申し込みをはっきりと断ることができるかを考え続け、コリンズ氏の法は、もう一度申し込めばエリザベスは必ず申し込みを承諾するに違いないと確信して、人によって喜劇とも悲劇とも受け取られるようなすれ違いの一幕は終わるのである。 
 エリザベス(というよりも作者であるジェイン・オースティン)は、教区牧師という仕事を嫌っているわけではないし、相手が自分の信頼するに足りる男性であれば、喜んでその妻になるだろうが、コリンズが人間的に好きになれないから、断っているのである。その要素を無視して、自分には社会的な地位もあるし、経済的な収入もあるといっても、相手を説得できない。教区牧師といっても、教区民から軽んじられるようでは仕方がないし、収入があってその収入をどのように使うかも問題である。
 エリザベスへのコリンズ氏の結婚申し込みが逆転・成功する可能性はあまりないと思うが、ではこれからどのような展開になっていくか。次回は第20章、次第に第1巻の終りに近づいているが、第1巻はどのように終わるのかも含めて、予想してみてください。 

東海林さだお『ガン入院おろおろ日記』

10月19日(土)曇り、時々雨

 10月17日、東海林さだお『ガン入院おろおろ日記』(文春文庫)を読み終える。
 表題にあるように、東海林さんが肝細胞癌の手術のために、2015年11月から40日ほど入院した顛末を描く「初体験入院日記 Ⅰ がんと過ごした40日をふりかえる」、「初体験入院日記 Ⅱ 病院は不本意がいっぱい」、「初体験入院日記 Ⅲ ヨレヨレパジャマ族、威厳ヲ欲ス」の3篇が巻頭に掲載されている。しかし、それだけでなく、そのほかに、雑誌『オール讀物』の2014年4月号から2016年4月号に連載された「男の分別学」(ただし、2014年7月号、2015年3月号・5月号を除く)の内容であるエッセーと対談・鼎談が盛り込まれている。入院という大事件が間にはさまれているだけに、東海林さんのいつもの本に比べると、各篇の出来・不出来が目立つように思うが、それは仕方のないことだろう。全体として、東海林さん単独の文章にいつもの制裁が見られず、対談や鼎談になると元気が出ているような印象がある。

 「初体験入院」とあるが、東海林さんはそれまで2度、短期間の入院をしたことがあるそうだ。東海林さんは私よりも8歳年上で、短期2度、長期1度の入院ということは(早稲田大学漫画研究会以来の親友である福地泡介さん、園山俊二さんともに亡くなられていることを考えても)かなり丈夫なのではないかと思う。
 「がんと過ごした40日をふりかえる」は2015年11月13日に行われた手術の前後の様子を思い出して書いたもので、克明な日記的記録ではない。いつもながらの観察眼が光っているとはいえ、入院記らしい押さえた筆致が東海林さんのこれまでの文章にない迫力を持っていて、(そういうことにならない方がいいが)私がガンの入院手術を受けるようなことがあれば、その際の参考になる内容である(といっても、手術のおこなわれている4時間については、麻酔のためにまったく記憶がないのだが…そういうことを含めて参考になるのである)。
 手術後の病院内や、他の患者さんの様子、自分自身についての観察は、次第に落ち着きを取り戻していることが感じられて、これも読みごたえがある。

 このほかにも、「老い」を考える内容があり、医師として「認知症」に取り組んでいる新井平伊さんとの対談「認知症時代の”明るい老人哲学〟」は、東海林さんのこの問題についての関心が強く、出来るだけ多くの人とその関心を共有したいと考えていることを感じさせる。質問が的確なので、認知症といってもいろいろな種類があること、その予防や治療が進んでいることなど、わかりやすく教えられる。認知症がどういうものかを知ることが、明るい老後につながるというかなり啓蒙的な内容になっている。

 『オール讀物』1000号を記念して企画された、南伸坊さん、伊藤理沙さんとの鼎談「雑誌って面白い!」は『オール讀物』をはじめとした様々な雑誌の歴史を振り返る内容になっていて、主観的な感想・評価の列挙なのだけれども、それが面白い。対談の相手としては変人・奇人が面白い(自分たちのことを棚に上げている)といって、数学者の岡潔(1901‐78)のことを思い出している(東海林さんと岡との対面の様子は、『ショージ君のニッポン拝見』の中に描かれているが、話の内容についての克明な記録があるかどうかは知らない)が、たぶん、あの世で岡潔が怒っているだろうと思う。東海林さんだけでなく、南さん、伊藤さんも集まった3人の姿を描いているが、誰の絵が一番気に入るかというのも、その人の趣味が現れそうである(私は南さんの描いた3人の図が一番気に入っている)。

 それから、翻訳家の岸本佐知子さんとの対談「オリンピック撲滅派宣言 『スポーツって 醜いよね?』」は、この時期必読顔も知れない。オリンピックのマラソンと競歩を札幌で行うという話が目下話題になっているからである。すでに準備が着々と進められてきたのに、何をいまさらと怒っている方も多いとに思うが、そんな方に読んでいただきたい.スポーツをめぐってはいろいろな見方があり、これは外野席からの言いたい放題の放言集で、そういう意見もあることは留意してほしいと思うのである。
 たとえば、冬季五輪の種目であるリュージュについて、東海林さんは「なんであんな競技があるの。何の意味もないよね。だいいち運動じゃないでしょ。」(259ページ)と一方的に切り捨てている。さらにお二人は、東京でオリンピックを開く以上、江戸情緒を盛り込んで、ボート・レースは屋形船に芸者・太鼓持ちを乗せて行うべきだなど、かなりきつい冗談を展開している。岸本さんは大学時代にアーチェリーをやっていたという話で、東海林さんの草野球への熱中はよく知られているが、そのあたりはたくみにいい抜けられている。

 対談・鼎談が充実している一方で、東海林さんの個人技であるエッセーはやや精彩に欠けるように思う。それでも、東海林さんの体調がかなり回復してから書かれたらしい信州の「唐沢そば集落」の探訪記である「そうだ、 蕎麦食いに行こう』ではだいぶ調子が戻っているような気がする。東海林さんはそば通というよりも、「立ち食い蕎麦のほうにうるさい」(212ページ)のだと謙遜されているが、かなりそばにはうるさい方ではないかという感じがある。そして蕎麦だけでなく、食べる場所の雰囲気や吹いてくる「風」にこだわるところもなかなか楽しいのである。

 なお、この文庫本の「解説」を池内紀さんが担当されている。あるいは絶筆に近い文章かもしれないと思うのだが、ドイツ文学者の池内さんと、ロシア文学専修中退の東海林さんとが出会う機会がもう来ないと思うと寂しい。改めて池内さんのご冥福をお祈りします。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(21)

10月18日(金)雨が降ったりやんだり

 フランス西部を治めていたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれたガルガンチュワは、生まれた際に「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだのでこの名がついた。生まれつき巨大な体躯の持主であったが、葡萄酒と牛乳を飲んですくすくと育ち、いったんは誤った教育のおかげでうすのろになりかけたが、ポノクラートを師としてパリで勉学に励み、学問と武芸の両方に秀でた若者に成長した。
 グラングゥジェの領民たちと、隣国のピクロコル王の領民たちのあいだで起きた些細ないざこざから、それを口実としてピクロコル王の軍隊がグラングゥジェの所領に攻め入り、略奪をほしいままにするという出来事が起きた。グラングゥジェは何とか事態を平和に収拾しようとするが、ピクロコル王は聞く耳を持たず、やむなくパリからガルガンチュワを呼び戻して、侵略に対抗することにした。
 帰国したガルガンチュワは、自分の所属する修道院のブドウ畑をピクロコル軍の侵略から守ったジャン修道士を呼び寄せ、自分の家臣たちや、父王の家臣のうちで腕の立つものを率いて偵察に出かける。ピクロコル軍も偵察部隊を派遣し、両者が衝突したが、ガルガンチュワ軍が勝利し、ジャン修道士の活躍で敵の指揮官の一人であった臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)を捕虜にした。

第46章 グラングゥジェが捕虜の臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)を情け深く取り扱ったこと(グラングジエ、捕虜となったトゥクディヨンを人道的(ユメーヌマン)に扱う)
 捕虜になった臆病山法螺之守はグラングゥジェの前に引き出され、ピクロコル王がどのような意図目的をもって、何のためにこういう思いもかけないような戦乱を起こしたのかと訊ねられた。これに対し、ピクロコルの目標と計画とは、臣下の小麦煎餅売りに加えられた危害に報いるために、できれば全国土を征服することであると捕虜は答えた。〔第33章でピクロコル王の側近である弥久座公爵たちが広げた大風呂敷は、フランス全土などというものではなく、キリスト教世界とイスラム教世界の全体を対象とする巨大なものであった。〕

 これに対し、グラングゥジェはあきれ顔でいう。「これは望みが大きすぎるな。二兎を追うものは一兎をも得られぬものじゃ。」(渡辺訳、210ページ、宮下訳、339ページ)
 異教が支配していた古代ならばともかく、キリスト教のもとで国々が平和に共存するようになった時代にあってこのような侵略行為は許されないものであるという。この発言は16世紀というこの小説が書かれた時代を考えると、かなり微妙な意味を持つ。フランスをはじめ、スペイン、イングランドなどで絶対王権がその地位を固め、国王の支配する領域を拡大していた。とはいうものの、フランスとスペインの間には、後にフランスに合併されるナバラ王国があるという風に、まだまだ当時の国境は現在のものと同じではなかった。そして、イタリアやドイツではヴェネツィア共和国とかミラノ公国とか、ハンブルク自由市だとかいう諸領邦がまだ併存していた。もっとも領邦絶対主義という言い方もあって、それぞれの領邦の内部ではやはり権力が集中し、新しい秩序が築かれてきたことも否定できない。〕
 ピクロコル王にしても、グラングゥジェの国を侵略するよりも、自分の国をよく統治して強力にすることの方が利益は大きいはずだという。「己が家をよく治めれば、その繁栄を招くに相違なく、わが国を攻略などいたしては、みずから破滅に陥るを免れないことになるからじゃ。」(渡辺訳、211ページ、宮下訳、340ページ) 〔そういえば、現在日本政府はイエメン沖に自衛隊を派遣することを考えているとのことである。そんなことよりもまず、先に台風の被害からの復旧に全力を傾注すべきではないかと思われる。自分の家の嫁姑問題も解決できない政治家が外国のことに口を出すというのはどういう神経だろうか?〕

 グラングゥジェは、したがって、臆病山法螺之守には自国に戻って、国王に正しい道を進言してほしい、それで身代金は取らないし、武具や乗馬の類もそのまま返却することにしたいという。
 そもそも今回の騒ぎは「戦争」というよりも「騒擾」といったほうが適切な仲間同士のいざこざに過ぎない。その短所も水に流してしまえばよいというような性質のものであった。
 とにかく、何事も穏便に済ませるべきだ、済ませようというのがグラングゥジェの考えであり、やり方であった。

 そして、ジャン修道士を呼び出して、臆病山法螺之守を捕らえたのはジャンであるかどうかを尋ねる。ジャンは憶病山法螺之守から聞いたほうがいいといい、臆病山法螺之守はジャン修道士が彼を捕らえたという。
 グラングゥジェは捕虜の身代金が欲しいかと問い、ジャン修道士はそんなものはいらないという。そこで、敵の体調を捕虜にした褒賞として、ジャン修道士に6万2千枚の祝詞(サリュ)貨幣(百年戦争の時代、フランス王シャルルⅥ世治下の終わりごろから、イングランド王ヘンリーⅤ世・Ⅵ世がパリ地方を支配した時代に、英・仏両国に流用された貨幣だそうである。片面に聖母マリアが天使祝詞(Salut)を受ける姿が刻まれていた。Salut d'orは、約12フランに該当すると渡辺訳の略注に記されている。〔ヘンリーⅤ世というと、シェイクスピアの戯曲に基づいたローレンス・オリヴィエの映画が思い出される。第二次世界大戦中に作られたのに、カラー映画であるというところに、彼我の実力差を思い知らされる。日本映画も同じ時期に多くの傑作を生みだしてはいるが、『ヘンリーⅤ世』や『風と共に去りぬ』は作り出せなかったのである。ソ連の『イヴァン雷帝』第2部は部分的にカラーという変則的な作品だが、やはり、すごい傑作である。小津安二郎が日本占領下のシンガポールで『風と共に去りぬ』を見て、あかん、戦争は負けやといったという有名な話の意味を考えてほしいところである。〕

 グラングゥジェは、臆病山法螺之守にこのまま自分のもとにとどまりたいか、ピクロコル王のもとに戻りたいかを訪ね、臆病山法螺之守は、グラングゥジェの言う通りにしたいと答える。そこで、グラングゥジェは、ピクロコル王のもとに戻るように言い、豪華な引き出物を与え、ジムナストを隊長とする警固の武士たちを付き添わせて送り届けることにした。
 彼らが出発した後、ジャン修道士は自分に与えられた6万2千枚の祝詞貨幣を、グラングゥジェに返上した。これから何が起きるかわからず、先立つものはまだまだとっておいた方がいいというのがその理由である。グラングゥジェはその申し出を受け入れ、戦争が終わった後に、またジャン修道士と、戦功をあげた人々に然るべき褒賞を与えるつもりであるという。

 第47章まで取り上げていくつもりだったが、あまり調子がよくないので、ここで切り上げておく。あと12章というところまで来たので、今年中にはこの物語を紹介しきれるのではないかと思う。グラングゥジェとピクロコルとの争いもいよいよ、終わり近くなってきた。ここで問題なのは、この争い、あるいはその結果を通じて、ラブレーが何を言いたいのかということであるが、それはもう少し後まで読んで行かないと、見えてこないのである。 

田中啓文『貧乏神あんど福の神』

10月17日(木)曇り、今にも雨が降りだしそうな空模様である。と、思っていたら、夕方になって雨が降り出した。しかし、それほどの雨にもならないようだ。

 10月15日、田中啓文『貧乏神あんど福の神』(徳間文庫)を読み終える。
 ミステリー、ホラー、伝奇とさまざまな領域の作品を発表してきた著者による、徳間文庫書下ろしで、大坂西町奉行大邊久右衛門とその配下の同心村越勇太郎が活躍する『鍋奉行犯科帳』シリーズ(集英社文庫)、幕末の大坂・浮世小路で竹光づくりの傍ら、民間のもめ事を解結る雀丸の活躍を描く『浮世奉行と三悪人』シリーズ(集英社文庫)に続く、大坂を舞台とした時代物の小説である。これまでの2つのシリーズも伝奇性は強かったが、今回は、普段絵の中にいるが、折を見ては抜け出す疫病神キチボウシなどという奇怪な存在が登場し、もはや推理小説の範疇に入れるのは無理かもしれないが、これまでの行きがかりで、推理小説として取り上げていく。

 大坂の福島羅漢まえにある「日暮らし長屋」に逼塞する葛(かつ)幸助は、もとはさる大名のお抱え絵師だったのが、絵の修業をなおざりにして剣術に打ち込んだ結果、藩主に命じられて描いた肖像画の出来があまりに悪くてその怒りを買って浪人、大坂に出たものの絵の注文はほとんどなく、やむなく筆作りの内職で糊口をしのいでいる。幸い、こちらの方は評判がいいが、さほどの収入になるわけではなく、手間賃はすぐさま大家に家賃の滞納分を埋め合わせるために没収されてしまう。もっともこの大家さん、絵の腕前は定かではないが、剣術は達人級の幸助の人物を見込んで、昼となく夜となく、自宅で食事をさせているのだから、因業とは言えない。

 紙屑屋から二束三文で買い入れた安倍晴明と付喪神の絵の中に描かれた瘟鬼(おんき=疫病神)がネズミのような動物に姿を変えて、絵から抜け出しては、酒とスルメをせびるようになり、さまざまな凶事を呼び込み始めた。落雷で燃え上がった木の破片が飛び込んできたり、刃物を持ったごろつきが走り込んできたり、酔っぱらった相撲取りが暴れこんできたり、馬が走り込んできたりする…。そんなこんなで天井は焼け焦げ、竃には相撲取りの手形がついているという住まい、身なりはというと夏も冬も垢じみたぼろぼろの着流し一枚、顔が貧相で貧乏くさいということで、陰で…どころか面と向かって貧乏神と呼ばれている。(筆屋「弘法堂」の職人まわりの丁稚が鶴吉から亀吉に代わったとたんに、面と向かって『貧乏神』扱いされることになったのである。)
 妙徳寺は、現在は東大阪市額田町にあるが、昭和2年(1927年)までは大阪市福島区にあった黄檗宗の寺であり、江戸時代に五百羅漢を安置したので、羅漢寺とも俗称されたそうである。そういえば、東京の目黒区にも五百羅漢寺があって、もともとは黄檗宗の寺であったが、現在は浄土宗系だそうである。あまり私事は語りたくないが、実は私、大阪市福島区でも東京都目黒区でも働いたことがあって、不思議な因縁を感じるのである。

  ある晩、幸助がやっと飯にありついて寝ようとしていると、隣に住むおとらばあさんが近所の青土稲荷の森で殺人事件があったのを目撃したと駆け込んでくる。ばったり会ったらしい2人の人物の一方がもう一方を殺したのだが、「狐が狸のむじなになっている」という会話が聞こえたのだという。確かめに行ってくれというので出かけてみると、確かに死体を見かける。それだけでなく大坂西町奉行所の古畑という同心と鉢合わせをする。
 翌日、幸助の長屋を瓦版屋の生五郎が訪れ、紀州屋という瀬戸物屋に賊が入り、主人一家が皆殺しにされたという。この事件の様子を絵にしてくれという頼みである。幸助は本職の絵は下手だが、こういう絵はうまいのである。奉行所はこの紀州屋の事件にかかりきりで、青土稲荷の事件など後回しだというが、どうも2つの事件は関係しているのではないかと幸助はにらむ。
 そこへ筆作りの材料を持って現れたのが亀吉。なぜか筆の材料はどんな獣の毛を使い、どこから仕入れるのかなどと、幸助は訊きただす。
 朝から絵を描き、筆作りの下準備をして、よく働いた(当たり前だ!)と幸助が寝ようとすると、また生五郎がやって来て、絵入りの瓦版がよく売れたと、いくばくかの銭を幸助に渡す。さらに、青土稲荷の森で殺されたのは、ゲジゲジのガン太という小悪党であったという情報ももたらす。
 金が入ったので、酒を買おうかと表に出た幸助だが、ふと、気がかわって北の新地へと足を向ける。あるお茶屋の二階から小判が降ってくる。かくれ遊びだと称して小判をばらまいているどこかの若旦那が、小判をばらまいたその一枚がこぼれてきたらしい。福の神などと呼ばれるこの若旦那、一晩に千両をばらまいたこともあるという。そういうことが気に入らない幸助は、一両を返しに行き、福の神あるいはお福旦那と呼ばれる謎の男に会おうとするが、会ってみるとなぜか意気投合する。二人とも、ムジナと呼ばれる幇間を探している。そして、その男が現れる。幸助は、それを潮に引き上げるが、両名ともに、相手が敵か味方かはわからないが、タヌキとムジナ、あるいは青土稲荷の事件と紀州屋の事件とに繋がりがあると考えているようである。
 ということで第一話「貧乏神参上」は、貧乏神と福の神の出会いにより物語が大きく動き出す。この後は、読んでのお楽しみ。

 第二話に移る前に、第一話にも登場する筆屋・弘法堂の丁稚・亀吉が引き起こす珍騒動を描いた「素丁稚捕物帳 妖怪大豆男」という幕間劇が語られる。
 そして第二話は「天狗の鼻を折ってやれ」。幸助の部屋で首をつって死のうとしたが、梁が折れて助かったという男から、首つりにいたった一部始終を聞くうちに、鞍馬山の天狗に絡んだ、語りの一件が明らかになっていくという話。ここでも貧乏神と福の神の共同作業が展開する…。

 田中さんの作品は真実性というよりも虚構性の面白さ、時代と場所の設定を手掛かりにどのように奇想天外な物語を展開していくかというところに特色があり、貧乏神の幸助(亀吉の言うように、幸助ではなく、不幸助の方が似合っているかもしれない)と福の神のお福旦那というありそうもないコンビの設定が今後どのような物語を呼び込んでいくのかというシリーズ化への期待を抱かせる。これまでのところ、あまり活躍を見せない疫病神が、今後どのようにその姿を変えていくかも楽しみである。

 思ったよりもまとめるのに骨を折りまして、皆様のブログを訪問するための時間が無くなってしまいました。今晩はこれにて失礼させていただきます。

 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(21)

10月16日(水)曇り

 コロンブスと同じくジェノヴァの出身で、彼の新世界への航海に同行した後、地球をさらに西へと進んでヨーロッパに戻ってきた船乗りが、マルタ騎士団の団員に向かい、航海の途中で訪問した「太陽の都」の様子を語る。
 それはタプロバーナ島(スマトラ島と考えられる)の中央部の草原の中に、七重の城壁を同心円状にめぐらせて建設された都市で、「太陽」と呼ばれる神官君主によって統治され、都市全体が一家族のようにまとまっていて、全員が働き、さまざまな新しい技術を利用していることもあって、労働時間は短いが、豊かな国富を築いている。
 「太陽」は軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。「太陽」やこれら3人の高官を含めて、都市の役人たちはすべて教育を通じてその能力と適性を見出された人々の中から選ばれている。都市の中央にある神殿の外壁や城壁に様々な事物の絵画が描かれていて、教育に役立てられている。
 都市の周辺では農業や牧畜が営まれ、商業も行われているが、貨幣はあまり使われていない。
 彼らは霊魂の不滅を信じており、その他彼らの宗教は驚くほどキリスト教に似ているという。

 これらの話を聞いたマルタ騎士団員は、「自然の法則だけに従っているこの人々が、自然の法則にただ数々の秘蹟を附加しただけのキリスト教徒大変近い考えを持っているということは、真の法律とはキリスト教の法であり、濫用さえしなければ、世界の主となる法であることのよい証拠である」(坂本訳、71ページ)という感想を述べる。だから、新世界を発見したのがジェノヴァ人であるコロンブスであったとしても、「キリスト教徒たるスペイン人が世界を一つの法の下にまとめるために、世界の未発見の部分を見つけ出したのだ」(同上)とスペインによる新世界の支配を正当化する発言を行う。「これら太陽の国の哲人こそ、神によって選ばれた真理の証人とでも呼ぶべき人々なのだろう。」 (同上) キリスト教(カトリック)の教理こそは自然法に合致したものだというのである。

 カンパネッラはスペインによる新世界の支配をそのまま承認しているわけではない。「連中は金が目当てで新世界を求めて、出かけるが、神はもっと高い目的を考えておられるのだ。」(同上) 新世界に出かけるスペインの「征服者」たちが金銀など、世俗的な欲望の達成を求めて新世界に出かけ、そこの住民たちを征服し、略奪を行っている現実をは無視しているわけではない⦅彼の住んでいる南イタリアは、当時、スペインの支配下にあった⦆。
 「神は植物と人間を育てるのに太陽と地球を利用なさっているのだ。」(坂本訳、72ページ) アリストテレスとスコラ神学によれば、無生物は植物のために、植物は動物のために、動物は人間のために創られたはずである。カンパネッラの理解は、少し違うように思われる。

 ジェノヴァ人はさらに、「太陽の都」の住人たちが、占星術を通じて、また旧約に登場した様々な預言者や、その後の預言者たちの預言を通じて未来について大変なことを言っているという。「今世紀において、百年の間に世界が四千年の間に得たより多くの歴史を生み出し、この百年の間に五千年の間に出た本よりも多くの書籍が刊行され、磁石、印刷、鉄砲などが発明されましたが、これはすべて世界が一つになる大きな表れだと言っております。」(坂本訳、72ページ)
 ここで語られるのは、一般にルネサンスの三大発明(羅針盤、活版印刷、火薬)と呼ばれるものがヨーロッパ(とヨーロッパによって「征服」されることになる)世界をどのように変えたかということである。ルネサンスの最後の人といわれるのはジョルダノ・ブルーノであるが、カンパネッラをもって最後のルネサンス人とする意見もある。確かに、ある意味で世界は一つになっていくが、決してそれは幸福な結果をもたらしたとは言えないのではないだろうか。

 さらにジェノヴァ人は占星術の教えることとして、カシオペア座の中に新しい星が出現した後、「大会合が再び第一の三宮に戻ると、新しい大君主国家が出現し、法律や技術は改革され、新しい預言者が生まれ、大変動が起こるでしょう」(同上)という「太陽の都」の住民たちの預言を伝える。カシオペア座の中の新しい星というのは、有名なティコ・ブラーエの超新星のことであり(その後、この種の超新星は、銀河系内には誕生していない)、坂本注によるとカンパネッラは1611年にこのことを知ったという(現在ではSN1572、あるいは「ティコの超新星」と呼ばれるこの天体は、1572年11月11日にデンマークのティコ・ブラーエによって初めて観測され/ただし、それ以前に気がついていた人はいる)、1574年3月に人間の目では見えなくなった。カンパネッラは子どものころにこの星を見ているはずであるが、周囲の多くの人々と同じく、関心を持つことはなかったらしい)。中世の人々は、世界は永久に不変だと信じていたので、「新星」の出現はその信念を揺るがす大きな出来事だったのである。

 ジェノヴァ人の船乗りは、大きな変動が起きるだろうという「太陽の都」の住人たちの預言を伝えながら、その具体的な内容については述べずに、自分は用事があってこれから船に戻らなければならないので、これで失礼すると繰り返す。そう言いながら、「太陽の都」の住人たちは「今まで発見されない星を見るための望遠鏡と、星の動きの調和を聴くための聴音機のできあがるのを待っています」(坂本訳、73ページ)などと思わせぶりなことをいう。ガリレイが望遠鏡を製作したのは1609年のことだったそうで、カンパネッラはそのような新しい動きについても(獄中にありながら)知ろうとしていたことがわかる。

 マルタ騎士団員はさらに多くのことを聞き出そうとし、ジェノヴァ人の船乗りは、もう時間がないと話を打ち切ろうとする。こうしてこの書物は終りに近づく。あと1回で、(読んでいる方の中には失望される方もいらっしゃると思うが)この連載も打ち切りということになりそうである。さて、どのようなことが語られるか。 

日記抄(10月12日~15日)

10月15日(火)晴れたり曇ったりから本格的な曇りとなる。風が比較的強く、気温が下がってきた。

 台風19号で被害を受けた方々にお見舞いを申し上げるとともに、1日も早い復旧をお祈りします。

 10月12日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
10月11日
 イラストレーターの和田誠さんが7日に死去されていたと事務所が発表した。83歳。むかし、仲間内で、和田さんの似顔絵は実物よりもよく描かれているので、みんなが描いてくれと頼むが、山藤章二さんは辛らつな観察を交えるので、あまりみんな頼まないなどと話していたことがあった。実物よりもよく描くというのは、ご本人の性格の表れだったのであろう。ご冥福をお祈りしたい。

10月12日
 台風19号通過。夕方、伊豆半島に上陸し、小田原市付近を通過して北上したという。台風の東側の方が風は強いということで警戒したが、幸い大きな被害はなかった。
 18:22頃地震があった。横浜市では震度3とのことだったが、私の実感では震度2というところであった。それにしても風の強いさなか、あまり気持ちのよい揺れではなかった。

10月13日
 『朝日』朝刊のインタビューで萩生田文部科学大臣が教員の働き方をめぐり「休日のまとめ取りを」と提言している。休日をまとめてとるというのでは、普通の勤め人と同じことで、教育公務員特例法に規定された教員の働き方の意味が生きてこない。どうも素人の床屋談義を出ないたよりなさで、教育行政のトップがこの程度の認識しかもたないのでは、この大臣のもとで多くの教育問題が解決するという期待は持てない。

 NHKラジオ『私の日本語辞書』は、江戸時代の古本屋についての話で、彼らの書き残した日記などから当時の出版事情が分かるという。なかなか興味深かった。
 この番組で9月に日本の童謡について取り上げた際に、童謡作曲の先駆者の1人である本居長世(1885‐1945)が童謡歌手であった娘とともに澄宮(後の三笠宮)の誕生会に招かれて歌を歌った話が出てきたが、澄宮は当時「童謡の宮さま」といわれていて、童謡の作詞を手掛けられ、その詞がプロの作曲家によって作曲され、小学生たちに歌われたということもあったという話は出てこなかったようである。目黒不動の境内には本居長世の「十五夜お月さん」の歌碑が建てられていて、私も見たことがある。本居が近所に住んでいたことに因むのだそうである。

10月14日
 『朝日』の朝刊に2022年度からの高等学校の学習指導要領の改訂に伴い、国語の中での文学の取り扱いが軽視されるのではないかという問題をめぐり、文部科学省視学官の大滝一登さんと日本近代文学会理事の安藤宏東大教授の2人が意見を述べていた。結論的にいえば、大滝さんの意見は頭でっかちの理想論で、安藤さんの方が現場の現実に根ざした意見のように思われる。
 社会の中で言語を使いながら行動していくためには、論理だけでなく修辞の能力も必要であり、論理の力だけでは納得しないことの方が多い。それに、正しいことを上から目線でいわれて反発するというのはよくあるはずのことである。つまり論理的に思考し、行動すべきであるというのは理想論で、たしかにすべての人々がそうするようになればいいが、世の中には人間の論理よりも情動に訴えるような情報が飛び交っているのである。それどころか香港の例を見ればわかるように、自由な言論を暴力で押さえつけるということも起こりうる。そのためにどうするか、国語の授業での取り組みを強化すればなんとかなるというのは、机上の空論だといわれても仕方のないところであろう。
 安藤さんが言っているように、情報化社会の中で必要とされるであろう総ての能力を国語教育が引き受けるべきかというのは大いに疑問であり、数学や社会、情報など他の教科の中での取り組みや相互の教科間の
連携も必要であろう。しかし、それ以上に、学校教育だけが人間の基本的な思考様式の枠組みを作る…という考えから脱却することの方が必要ではないかと思う。
 昔、加藤周一の『山中人閒語』をよんでいて、大事なことは国民が「だまされないように」することだという意見に同感したことを覚えている。学校教育も、時と場合によると、国民を騙す装置になりうるということも視野に入れる必要がある。

10月15日
 NHK『ラジオ英会話』で取り上げられた表現の1つ:
I don't consider salary to be the top priority when it comes to choosing a job.
(仕事を選ぶ際には、給料が最優先事項だとは思いません。)
 それはそうだが、働きたいときに仕事がないよりもある方がいい。

 本日は19時からニッパツ三ツ沢球技場に横浜FC対ツエーゲン金沢の試合を見に出かける予定である。10月6日の対柏レイソル戦の切符を買い損ねたので、今回はぜひとも見に出かけたいと思い、切符も確保してある。観戦後に何か書き足すことがあるができるかもしれないが、今のところ、書くことはないので、今回はここで打ち切りとする。
 
 12日に予定されていた横浜FC対ツエーゲン金沢の試合が台風のために順延されたのを見に出かける。12日用のプログラムがそのまま配られていた。観客が2,500人あまりだったのは残念。
 横浜が前半にセット・プレーから1点を先行するが、金沢が同じくセット・プレーで1点を返し同点で折り返す。後半、金沢が1点をとったが、終盤に横浜が草野選手のゴールで追いつき、アディショナル・タイムも終わりごろに、PKのチャンスを得て、これを草野選手が決めて3‐2で逆転勝ちした。けがから復帰した草野選手の活躍は明るい希望を与えるものであるが、チームとしては攻撃の速さと厳しさ、特に中盤の選手の動きなどに課題を残した。

 田中啓文『貧乏神あんど福の神』(徳間文庫)を読み終える。新しいシリーズの第1作かもしれない。このブログで紹介するかどうか、考えているところである。  

『太平記』(284)

10月14日(月・休日)雨が降ったりやんだり、大分涼しくなった

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)、楠正成の子・正行が父の13回忌に際して挙兵し、8月(実際には貞和3年の8月)、河内藤井寺で細川顕氏の兵を破った。さらに11月、正行は住吉、天王寺で山名時氏と細川顕氏の兵を破った。12月、高師直・師泰が大将となって、楠討伐に向かった。

 京都の幕府から派遣された大軍が八幡に到着したという知らせが届いたので、楠正行とその弟の正時の2人は一族若党300余騎を率いて、12月27日に、吉野の皇居に参上し、四条中納言隆資卿を伝奏(てんそう、奏請を天皇や上皇に取り次ぐこと、またそれを任務とする役)として、後村上帝にお目通りを願い出た。後村上帝はこのとき、御年20歳ほど、正行も20代前半であった。
 正行がいうことには、亡き父の正成は先帝のお心に沿って、帝のために戦ってきましたが、力及ばず湊川で戦死をしました。そのとき、正成は自分を故郷に返し、一族郎党の若い武士たちを養って、再起を期すようにと遺言しました。いまや正行・正時は成年に達し、父の遺命に従い、武士の本分をつくそうと決心しております。この度の戦で高師直・師泰の首を取るか、あるいは正行・正時の首を取られるか、2つに1つの戦いです。どうか龍顏(天子のお顔)を拝して、戦地に赴きたいと思います。涙ながらに申し上げたのを、取り次ぐ隆資卿も涙を流しながら奏上したのであった。

 帝は、南殿(紫宸殿)の御簾を高く巻かせて、そのお顔を正行・正時一行にお見せになった。『太平記』本文には「玉顔殊に麗しく」(第4分冊、211ページ)と記されている。
 そして、これまで藤井寺と、住吉・天王寺の2度の戦いで幕府方を破ったことを賞賛され、その結果、幕府が大軍を派遣することになったことについて触れ、「今度の合戦は天下の安否たるべし」(第4分冊、212ページ、今度の合戦は天下の帰趨の分かれ目となるだろう)とおっしゃり、正行たちを励ますとともに、大局を考えて、自重して行動するように仰せられた。
 後村上帝にとって年の近い正行はまさに「股肱」の臣(手足のように重要な臣下)であったはずである。一方で、正行の決死の覚悟を知りながらも、もう一方でその自重を促したい気持ちも強かったに違いない。〔このとき、後村上帝は正行に弁内侍を賜嫁されようとしたが、正行が辞退したという話もあるが、『太平記』には記されていない。〕
 正行にも帝のお気持ちはよくわかる。そこで、とかくの返答をすることなく、そのままこれが最後の参内と思い定めて退出したのであった。

 正行、正時、すでに登場した和田源秀以下の面々は、これから臨むことになる戦いがきわめて困難なものになることを覚悟していたので、戦いに際しては一歩も退却することなく、一か所で戦死しようと、内内に約諾していた武士たち143人、後醍醐帝の御廟に参って、今度の戦いは激闘となるにちがいなく、戦死の覚悟を決めているといとまごいをして、如意輪堂の壁板に、それぞれの名字を過去帳として書き連ねて、その奥に
 返らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞ留むる
 (第4分冊、213ページ、梓弓の矢が二度と帰らぬように、生還しまいと過去帳に名を書きとどめる。)
と、一首の歌を書きとどめ、生前に行う仏事のためとして、それぞれの鬢の髪を少し切って仏殿に投げ入れ、その日のうちに吉野を発ち、敵陣へと向かったのであった。

 師直、師泰は淀、八幡で越年して、各国の兵が到着するのを待って、楠の本拠である河内に向おうと言い合わせていたのであるが、楠が逆に攻め寄せる覚悟を決めて、吉野の朝廷に参内して覚悟のほどを語り、河内の往生院(大阪府東大阪市六万寺町にある浄土宗寺院、往生院六万寺)に到着したという知らせが伝わってきたので、師泰が、まず(『太平記』の文脈では貞和5年ということになるが、実際は貞和4年)正月2日に淀を発って、2万余騎で、和泉の堺の浦(堺市の海岸)に陣をとる。
 翌3日の朝には、師直も八幡を発って、6万余騎が四条(四条畷市)に着く。
 このまますぐに遭遇戦になりそうだが、楠はおそらく自分たちの陣営の前に難所があるような位置取りをするだろう、したがってこちらから攻めていくと、敵の策に陥る可能性が大きい。向うから攻め寄せてきたら、策の打ちようがあるだろうと、全軍を5か所に分けて、鳥雲の陣という自在の隊形を組むことにした。

 東国の武士集団である白旗一揆(一揆は心を一つにして行動すること)は県下野守を旗頭として、その軍勢は5千余騎、四条畷市と大東市の境にある飯盛山に上り、その南の先端のあたりに控えていた。
 大旗一揆は、河津、高橋2人を旗頭として、約3千余騎、飯盛山の外側の峰である秋篠、外山の峰の東の先端のあたりに控えていた。
 佐々木道誉は、2千余騎を率いて生駒山の南の山に上り、正面に畳楯(面が広く大きい楯)を500帖突きならべ、足軽(軽装の歩兵)の射手800人を馬に乗せずに待機させ、山に上ってくる敵があれば、矢を射かけてその勢いを止め、その上で、こちらから騎馬武者を進撃させて追い散らそうと計略をめぐらしていた。
 対象である高師直は、約2キロほどうしろの方で、将軍の旗として輪違(高家の紋)の旗を立て、前後左右に騎馬の兵2万余騎、将軍の馬まわりを歩兵の射手がすきまなく取り囲んで、攻め込む余地がないような様子である。どんな武勇を誇る武士でも、この陣を崩そうとして戦うものはないように思われた。

 いよいよ四条畷の戦いが始まろうとしている。どのような展開になるかは次回以降を御覧ください。
 ここは『太平記』の最も有名な個所の一つであるが、最近では乃至政彦『戦国の陣形』(講談社現代新書)にこの戦いの様子がかなり詳しく分析されているので、関心のある方はご覧ください。この時代の合戦に中国の兵書に書いてあるような陣立てが使われていたかどうかは疑問だというのが乃至さんの意見で、したがって「鳥雲の陣」というのも『太平記』の作者の文飾ということになる。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(14)

10月13日(日)晴れ、三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 第1巻23章、第2巻19章、第3巻19章、合計61章からなるこの物語の第1巻18章の中ほどまでを読んできたわけであるが、今回は、これまでのあらすじに代えて、登場人物とその特徴を紹介してみることにしよう。

ベネット氏
 ロンドンの北にあるハートフォードシャー(人によってはハーフォードシャーと発音し、中野康司訳、阿部知二訳ではハ-フォードを採用している)ロングボーンの地主。「頭の良さと皮肉なユーモアと無愛想と気紛れが奇妙に入混じった人物」(大島訳、20ページ)。5人姉妹の中ではエリザベスを一番かわいがっている。
ベネット夫人
 メリトンの町の事務弁護士の娘(この時代、事務弁護士は地主よりも格下に見られていた)で、結婚して23年になる。「物分りが悪い上に物知らずなお天気屋」(大島訳、同上)で、娘たちの少なくとも1人が裕福な男性と結婚することを夢見ている。姉妹の中では末のリディアがお気に入りである。
ジェイン
 ベネット家の5人姉妹の長女。22歳くらい。いちばん美人で、気立てもよい。ロングボーンの近くのネザーフィールド邸を借りた青年紳士ビングリーと思いを寄せあうが、婚約には至っていない。
エリザベス(エライザ、リジー)
 ベネット家の5人姉妹の次女。20歳くらい。美貌という点では姉に劣るが、頭がよく、明るく茶目っ気のある性格である。ビングリー氏の友人であるダーシー氏から軽くあしらわれたことで彼に「偏見」を持っているが、じつはダーシー氏は彼女に興味を持ち始めている。ロングボーン・ハウスの限嗣相続人であるコリンズ氏から妻になることを期待され、ダーシー氏の執事の息子である国民軍士官のウィッカム氏とも親しくしている。本編の主人公である。
メアリー
 ベネット家の三女。5人のなかでもっとも器量が悪いので、その分を才芸で埋め合わせようと本の抜き書きをしたり、音楽の勉強をしたりしているが、才藝をひけらかそうとするあまり、出しゃばりのところがある。
キャサリン(キティー)
 ベネット家の四女。妹のリディアと一緒に行動することが多く、メリトンにいる伯母のフィリップス夫人の家に出かけ、この家にたむろしている士官たちを追いかけている。
リディア
 ベネット家の五女。15‐16歳。年は若いが一番背が高い。キャサリン同様、あまり頭はよくないが、母親のお気に入りで甘やかされて育ったため、怖いもの知らずの自信屋である。キャサリン同様、士官たちを追いかけている。
ダーシー氏
 ダービーシャーの大地主。28歳くらい。ペンバリー邸の当主。年収約1万ポンド(現在の1億円に相当する)。母は伯爵家の出身であった。情誼に篤く、判断力に優れているが、気位が高く、無愛想で気難しい性格のために、人々から敬遠されがちである。メリトンであった舞踏会でエリザベスに失礼なことをいうが、その後、彼女に興味を抱きはじめる。本編のもう一人の主人公である。
ミス・ダーシー(ジョージアナ)
 ダーシー氏の妹。16歳くらい。美人で才芸も豊かに身につけているという噂だが、まだ物語の中に登場してこない。
ビングリー氏(チャールズ)
 父親の代に商売で財産をつくった年収4千~5千ポンドの独身青年。ネザーフィールド邸を借りる。気さくでおおらかな性格で人々から親しまれるが、親友であるダーシーに心服している。ジェインと家族ぐるみでの付き合いを続けている。
ミス・ビングリー(キャロライン)
 ミセス・ハースト(ルイーザ)とともにビングリー氏の姉妹である。美人でロンドンの一流の私塾で教育を受けているが、他人を見下すようなところがある。それでも、ジェインとエリザベスは友人として接するが、ミス・ビングリーはダーシー氏と結婚したいと考えており、彼がエリザベスに魅力を感じていることを知って、エリザベスに敵対的な態度をとる。
ウィッカム氏
 メリトンに駐屯する国民軍の中尉。エリザベスと親しくなりはじめている。ダーシー氏の父親の執事の息子であり、その庇護で教区牧師の職をえることになっていたが、ダーシー氏の反対でなれなかったという。
コリンズ氏
 ケントのハンズフォード教区の牧師。ダーシー氏の叔母であるレディー・キャサリン・ド・バーグの庇護でこの地位に就くことができた。ロングボーン屋敷の相続人であり、そのことの埋め合わせにベネット家の5人姉妹のうちの1人と結婚しようと考え、エリザベスに白羽の矢をあてる。これまでの経歴から「自負心と追従、尊大と卑屈が見事に混じりあった人物になっていた」(大島訳、129ページ)。
レディー・キャサリン・ド・バーグ
 ケントの大地主でダーシーの叔母(母親の妹)。まだ噂だけで実際には登場していない。コリンズ氏はひじょうに立派な人物だといい、ウィッカム氏は「実に尊大で自惚れの強いひとです」(大島訳、152ページ)という。
ミス・ド・バーグ
 レディー・キャサリン・ド・バーグの一人娘。まだ噂だけで実際には登場していない。(登場しても実に影の薄い存在である。)
サー・ウィリアム・ルーカス
 ベネット家の隣人。爵勳士(ナイト)。もとはメリトンの商人で、市長をしたこともある。腰の低い俗物として描かれているが、悪い人間ではない。
シャーロット
 ルーカス家の長女。27歳くらい。あまり器量はよくないが、頭がよく冷静で、エリザベスの親友である。
ガーディナー夫妻
 ベネット夫人の弟夫婦。ロンドンのグレイスチャーチ・ストリートに居を構え、商売をしている。これまた噂だけで、実際には登場していない。グレイスチャーチ・ストリートはイングランド銀行の近くであるということを付け加えておく。ミス・ビングリーはこの一家がロンドンのシティに住んでいることを軽蔑しているが、シティこそは英国の資本主義の中枢となった場所であることを忘れてはならない。

 時は19世紀の初頭。イングランドでは産業革命が進行し、資本主義経済が次第に確立されていった。その一方で、英国はナポレオンのフランスと軍事的な緊張状態にあった。オースティンは地方の地主や牧師の娘の結婚の話を物語り続けていたが、そのような物語の中に、勃興する中流階級に属する人物の姿も描き出されているのは注目すべきことである。

 さて、物語はビングリー邸で開かれている舞踏会に戻る。エリザベスはウィッカム氏と踊るつもりで出席したのだが、ウィッカム氏はロンドンに用事ができたという理由で姿を現さず、コリンズ氏と踊ることになり、その後、気を許したすきにダーシー氏に踊りを申し込まれ踊ることになる。踊っている二人に向かい、ルーカス氏は、ビングリー氏とジェインとがまもなく結婚しそうだが、その披露の席でまた2人が踊るのを見るのが楽しみだというようなことをいう。ダーシー氏はびっくりした様子を見せる。コリンズ氏はエリザベスが止めるのも聞かずに、紹介なしにダーシー氏のところに挨拶に出かける。エリザベスにとっては冷や汗をかき通しの舞踏会になってきたが、事態はさらに悪い方向に進んで行く。

 舞踏会の後の夜食の席で、エリザベスは(本人にとって)運の悪いことに、母親の隣(のルーカス夫人)の隣に座ることになった。母親のベネット夫人はあたり憚らず、ジェインがビングリー氏と結婚するであろうという期待を語り、他人様に聞かれてはまずいようなことを大声で喋らないでほしい、特に向かい側に座っているダーシー氏に聞かれてはまずいようなことは話すなとエリザベスがたしなめたのだが、一層声を張り上げて、ダーシー氏がなんだといわんばかりの態度をとる。

 ベネット夫人のおしゃべりが一段落したと思ったら、今度はメアリーが余興に歌を歌いたいと言い出した。エリザベスは止めようとしたのだが、そんなことを聞く彼女ではない。案の定、ビングリー姉妹は軽蔑するような態度で歌を聞いている。エリザベスは父親に合図を送って、やっとメアリーの歌をとめさせた。しかし、父親のいい方も直接的過ぎて、今度はメアリーが気の毒になるくらいだった。しばらくして、コリンズ氏が牧師たるもののつとめについての演説を始めた。

 「エリザベスには仮に皆で前もって今晩は出来るだけ自分達一家の馬鹿を曝け出そうと取決めていたとしても、これほど溌溂と大成功裡に銘銘がその役柄を演ずることは不可能だったと思われた。」(大島訳、182ページ) とくにビングリー姉妹とダーシー氏に嘲笑の材料を与えてしまったことが残念で仕方なかった。「片やミスター・ダーシーの無言の軽蔑、片やビングリー姉妹の人を小馬鹿にしたようなせせら笑い、どっちがより耐え難いか――エリザベスにはどっちとも云い切れなかった。」(大島訳、183ページ)

 その晩の残りはエリザベスにとって楽しいことはほとんどなかった。彼女はコリンズ氏にしつこく付きまとわれ、彼と踊ることは拒否したものの、誰かほかの男性と踊ることはできなかった。コリンズ氏がエリザベスの歓心を買おうとしていることはいよいよ明らかになった。それでも、ときどき彼女の親友であるシャーロットがやって来て、コリンズ氏の話を引き取ってくれるのがありがたかった。一方、ダーシー氏から話しかけられるようなことはなかった。これは彼女が2人で踊っているときにウィッカム氏のことを話題にしたからだろうと、エリザベスは思った。

 舞踏会が終わった後、ロングボーンからの一行はいちばん最後までネザーフィールド邸に残っていた。これは馬車の用意が遅れたという口実による、ベネット夫人の作戦だったのだが、ミセス・ハーストとミス・ビングリーは早く帰ってほしいという態度をとり続け、ベネット夫人が話しかけてもろくに応えようとしなかった。コリンズ氏もいろいろと弁舌をふるったが、これまた効果はなかった。ダーシー氏は終始無言であった。エリザベスもビングリー姉妹同様に黙り込み、リディアはあられもない大あくびをしていた。
 いよいよ馬車の準備ができ、ベネット夫人はしつこいほど丁寧に、ビングリーたちを自邸に招待し続けた。ビングリー氏は明日ロンドンに出発するが、戻り次第、できるだけうかがいたいと快く請け合った。
 ベネット夫人は満足そうに馬車に乗り、ロングボーンに戻っていった。ジェインはビングリーと、エリザベスはコリンズと結婚することが確実に思えたので、彼女は大いに喜んでいたが、ジェインがビングリーと一緒になることを喜ぶ気持ちの方が強かった。

 ベネット夫人一人が大喜びで、他の人間は複雑な気持ちや、無関心や、その他さまざまな感情を持っている中で、第18章は終わることになる。このちぐはぐ名ところが、ユーモラスに描かれているのが、オースティンの特徴であり、同じようなちぐはぐさからくるユーモアといっても、ゴーゴリのような暗さはないので、それだけ読みやすくなっている。
 ジェインとビングリー氏、エリザベスとコリンズ氏の関係は、この後、ベネット夫人の予想を裏切って、思わぬ展開をとげることになるが、それはまた次回以降に。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(2)

10月12日(土)雨、台風19号が接近中。

 梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、1957年11月から1958年3月まで東南アジア諸国を歴訪し、熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌を調査した。これはその際の旅行の個人的な記録である。
 タイのバンコクに集合した6人の隊員(梅棹のほか、霊長類学の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄、人類学の藤岡喜愛)は、バンコクで開かれた太平洋学術会議に参加、カンボジアのアンコール・ワットを訪問した後、北タイのチェンマイに移動して、その周辺で予備的な調査を行った。
 1958年1月の終りに、梅棹は隊を2つに分け、藤岡、川村、小川、依田は北タイでの本格的な調査を続け、梅棹と吉川はバンコクに戻った後、カンボジア、ベトナム、ラオスを歴訪し、3月中旬にタイに戻るという計画を立てた。
 この計画に基づいて、梅棹は1月30日にチェンマイを出発、ところが自動車のディストリビューターの故障で1日を浪費、2日目の夕方にやっとタークに到着した。この市は18世紀にビルマの侵攻からタイを救い、トンブリー王朝を築いたタークシンのゆかりの地である。

第11章 配置を終る(続き)
 メナムに生きる
 タークを出発した梅棹と吉川、それにチェンマイでILO派遣職員の生駒弘の助手をしているソムウォンの3人はナコーン・サワンでメナム(チャオプラヤー)の本流を渡り、チャイナートで一泊することにした。(行きはロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンで泊っている。) 
 チャイナートはメナム(チャオプラヤー)川に沿った船着き場であるが、数年前に大火にあって、再建途上であり、家並みはみすぼらしかった。川の上を定期船らしい二階建ての船が航行し、岸にはかまぼこ型の屋根をつけた家船がひしめき合っていた。小舟を漕いでやってきた中年の女性に誘われて、その船に乗り込んで、家船の間を通り抜ける。家船の中では夕食の支度をしているし、川岸の家の板敷きの露台では女たちが水浴をしていた。人々はメナム(チャオプラヤー)とともに生活しているのである。

 地の底をゆるがすもの
 翌日、一行は「チャイナート計画」の現場を見に出かけた。チャオプラヤー河の流れをせき止めて巨大な灌漑用のダムを建設しているのである。このダムは日本のダムのように「落差」があるわけではないが、その「水量」は大へんなものである。米作国であるタイは、しばしば水不足に襲われ、そのために米が不作になることがある。チャオプラヤー河に灌漑ダムを、その下流域に灌漑用の運河を建設することは戦前から計画されていたが、戦後、国連の食糧農業機構(FAO) と世界銀行の援助で1952年から実行されることになった。梅棹が訪問した当時、ダムは完成間近であった。
 川を堰き止めるといっても、川上の交通をとめることはできないので、閘門のある水路が設けられていた。そこにはほとんど人はいなかった。しかし、音はしていた。「にぶい、単調な、しかしタイの大平原を地の底から揺り動かすような、力強い水音がしていたのである。/感慨はすでに始まっている。メナムの平原における米の収穫の急上昇は、すでに約束されているのである。平原は、地の底からゆり動かされたのである。」(24ページ)

 汚職の親玉
 ロッブリーからは道がよくなって自動車のスピードが上がった。70キロくらいのスピードで運転している梅棹たちの車を、他の車がどんどん追い抜いていく。
 ある分岐点で警官に車を停められた。ところが、同行していたソムウォンが何か話しかけると、警官は態度を変えて、そのまま自動車を通過させてくれた。あとで聞いたところ、この警官はタイ東北部のコーラートにいたときに汚職の親玉として、摘発・左遷された経歴があり、ソムウォンはコーラートにいたことがあるので、それを知っていたのだという。
 
 アジアの国々には度量衡の制度がはっきりしていない国があるが、タイではハカリの定期検査までやっている。しかし、ソムウォンによると、定期検査は店の主人が警官に適当な金品を提供するチャンスであり、警官にとっては小遣い稼ぎなのだという。
 「しかし、文明とはむつかしいものである。制度文物が整えば整うほど、その運用を司るものの手加減がものをいう場面がふえてくるのである。『文明は汚職の源』か。」(27ページ)

 午後5時にバンコクに到着。ソムウォンを実家に送り届け、大使館員の赤谷の自宅を訪問する。

 留守本部からの便り
 バンコクの日本大使館には日本からのたくさんの手紙が届いていた。組織委員長である大阪市大の吉良教授からは、いろいろな事務連絡や指示があった。
 文部省に研究費の申請をしており、本部との連絡はその点からも重要である。申請がみとめられるかどうかは、吉良の手腕を期待するほかに手だてはない。また、現地で調査をするうえでも留守本部から的確な指示があることはきわめて望ましい。現場では気づいていない間違いを指摘されることもあるので、研究の効果を高めるためにも必要なことであるという。
 〔この時代は写真撮影がほとんど手作業だった事が示すように、ここで書かれている技術的なことがらは、今日ではほとんど過去のものになっていると思われるので、詳しい内容は省略する。〕

 ゴリラ探検隊
 梅棹は吉良からの連絡で、京都・大阪の彼の友人知己たちが海外への調査に出かける計画を着々と進めていることを知らされる。
 川喜田二郎(1920‐2009、この時期には大阪市大の法文学部に在籍していた)は西ネパールに出かけようとしている。
 中尾佐助(1916‐93)はブータンの王妃姉妹が来日したのを機会に、ブータンに入国を目指している(1958年に実現して、日本人で初めてこの国に足を踏み入れた)。
 京大学士山岳会のチョゴリザ遠征も桑原武夫隊長のもと、実現しようとしている(これも1958年に実現、チョゴリザⅡ峰の登頂に成功している)。
 長尾雅人(1907‐2005、京大の仏教学の教授であった)はインドの仏跡調査に出発した(1959年に本格的な調査を行う)。
 さらに今西錦司(1902‐92)と伊谷純一郎(1926‐2001)は、アフリカのゴリラを調べ、その後、ヨーロッパやアメリカのサル学者と会うために、世界一周の旅に出るという。
 まったく、盛んなものだという感想を梅棹は持つ(自分自身もその一端を担っているわけであるが…)。

 2月5日、バンコクにおける宿舎である新聞処(日本大使館のインフォメーション・オフィス、ガレージの2階を借りているのである)で梅棹がシャワーを浴びていたら、赤谷が駆け上がってきた。
 「大へんですよ、今西先生がこられた。」
 今西が梅棹にとっていわば親分であることを赤谷は知っていたのである。
 アフリカに行く飛行機の乗り継ぎの都合で、臨時にタイで一泊することになったのだという。伊谷と一緒にグランド・ホテルに到着したというので、早速ホテルにジープを飛ばし、お互いにびっくりしあいながらも再会を喜んだ。
 6日に来ることになっていた飛行機が来なかったので、梅棹は今西たちと一緒にバンコク見物をした。梅棹たちも仕事で手いっぱいで、見物はほとんどしてこなかったのである。2月9日の午後、ホテルの前で両者は別れた。お互いの前途の幸せを祈りながら。

 犯人あがる
 北タイに出かける前に、一行の16ミリ・カメラが盗まれるという事件があったが、その犯人が捕まったという知らせが届いた。ところが、タイの法律では被害者が自分で出て行かないと裁判が成立しない。被害届は北タイでテナガザルの調査をしている川村の名で出しているので、このままでは裁判が始まらず、犯人の拘留期限が切れてしまう恐れがある。
 事情を知ったタイ警察の中尉は警察の手で川村を探し出すという。そして、数日後に、警察は川村のありかを突き止めて、川村は山を下り、チェンマイから飛行機で帰ってきた。このタイの警察の手際の良さに梅棹は感心する。梅棹からだけでなく、大使館からも感謝状を出してもらうことになった。そして梅棹一行は重大な経済的損失を免れたのである。

 石井留学生
 梅棹と吉川は、この後カンボジア、ベトナム、ラオスのいわゆるインドシナ3国を回る計画である。しかし、どの程度車で旅行できるのかということについては確かな情報がなく、特にベトナムからラオスに越えられるかをめぐっては現地に行ってみないと何もわからないようであった。
 また、通訳の問題もあった。この3カ国はそれぞれ別の言語を持っていて、その3言語ができるという人物はめったにいるものではない。日本大使館の高瀬参事官に相談したところ、外務省留学生の石井米雄(1929‐2010)を推薦された。〔のちに京都大学東南アジア研究センター→研究所で東南アジア研究者として活躍することになった人物である。〕 石井はチュラロンコーン大学で学び、タイ語は達者だし、ラーオ語もできる。外交官だから英語もフランス語もできる〔この時点ではどうだったかはわからないが、語学の達人を自称した石井は、カンボジア語もできるようになったはずである。なお、現在の外交官でフランス語ができるという人は少なくなったようである〕。しかし、石井は民族学協会の稲作文化調査団に同行してメコン流域を3か月間も旅行して帰ってきたばかりである。
 それでも石井はあっさりと同行を承知した。梅棹の行程は、稲作文化調査団とほとんど重ならないし、留学生の身分のうちに東南アジアの諸地域を見て回ることは、その後の活動にとって有益な経験となるはずである。カンボジアの半分ではタイ語が通じるので、問題はベトナム語ということになるが、その対策はベトナムについてから考えることにした。
 外交上の手続きも済ませ、自動車も整備して、2月12日にバンコクを出発することにした。

 これで第11章「配置を終る」が終わる。第12章「歴史の足あと」、第13章「ゾウと王さま」はカンボジア、第14章「コーチシナ平原」、第15章「チャムの塔」、第16章「大官道路」はベトナム(当時の南ベトナム)、第17章「大森林をゆく」、第18章「高原の朝」はラオスの旅行記である。第19章「最後の隊員会議」で梅棹・吉川はタイに戻って、他の4人と合流、帰国の途に就く。予告したように、ここでいったん紹介を休み、またしばらくして再開することにしたいと思う。
 タイには出かけたことがあるし、日本に来たタイの人の引率をしたこともあるので、身近な感じがあるのだが、カンボジア、ベトナム、ラオスということになると、向うからきた人と会って話したことはあっても、こちらから出かけたことがないので少し親近感が薄れるようなところがある。
 この書物に登場する人物で私があったことがあるのは梅棹だけである。ほかの人々とは、比較的身近にいた例が少なくないのに会っていない。石井米雄などはどこかですれ違っているはずであるが、きちんと話を聞く機会を持たなかったのは、失敗だったと思わないわけにはいかない。というわけで、しばらくは別の話題を取り上げるつもりである。
 

日記抄(10月8日~11日)

10月11日(金)朝のうちはまだ降っていなかったが、雨がかなり激しく降っている。台風19号が関東地方に接近、いろいろと心配である。

 10月8日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
10月8日
 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』にはいろいろと野菜の名前が出て来て面白かった。
 squashはカボチャ。pumpkinというのはハロウィーンでおなじみのオレンジ色の皮のもの。
 celeryはセロリ。
 cauliflowerはカリフラワー。それぞれ日本語の場合と発音がちがうところが要注意である。

10月9日
 『遠山顕の英会話楽習』の”Story Listening -- Little by Little!"のコーナーでは、O. HenryのA Strange Storyという短編小説を取り上げた。
 テキサス州のオースティンに父、母、5歳の娘の3人の家族が暮らしていた。ある日、娘が疝痛に襲われ、父親が薬を買いに出かけたが、そのまま行方不明になった。母親はその後、再婚してよそに移り、成人した娘は結婚して、もとの家に住んでいたが、その娘は5歳になった。ある晩、偶然にも、昔父親が薬を買いに出かけて行方不明になったのと同じ日に、5歳の娘が疝痛に襲われた。夫は、薬を買いに行こうとしたが、自分の父親が行方不明になったことを思い出した妻はそれを止めた。
 すると、突然ドアが開き、白髪で腰の曲がった老人が部屋に入ってきた。5歳の娘はそれがおじいちゃんだとわかった。老人はポケットから薬の瓶を引っ張り出し、薬をスプーンですくって娘に飲ませた。娘はたちまち回復した。
老人は言った:「ちょっと遅くなってしまった。市電を待っていたので。」(I was a little late, as I waited for a streetcar.)

 何とも不思議な話だが、この話を聞いていて、streetcarという単語から、別の話を思い出した。言うまでもなく、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』(A Streetcar Named, 1947)で舞台で上演された後、舞台と同じマーロン・ブランドの主演、ヒロインのブランチには舞台のジェシカ・タンディに代わり、ヴィヴィアン・リーが起用され、アカデミー主演女優賞(2度目)を受賞している。この劇が執筆されたとき、ニューオーリンズの町には”Desire"(欲望)という行き先を記した路面電車が走っていたが、1948年に廃線になったそうだ。ニューオーリンズ市では現在も4路線の路面電車が運行しており、セント・チャールズ線は創業以来ずっと運行を続けている路面電車としては世界最古だという。オースティンでは現在、路面電車は運行していない。
 死んだ父が、ジャズ好きで、ニューオーリンズに行きたいと言っていたが、一度くらいはその夢を実現させてやりたかったねと、今になって思う。しかし、まだこの市には行っていない。私はジャズには興味はないが、路面電車の方に興味がある。親子でも趣味は違うものである。

10月10日
 スウェーデン王立科学アカデミーは昨日、今年のノーベル化学賞を、リチウムイオン電池を開発した吉野彰さんと、米テキサス大のジョン・グッドイナフ教授、米ニューヨーク州立大のスタンリー・ウィッティンガム特別教授の3人に贈ると発表した。吉野さんは京都大学工学部に1966年に入学したのだそうで、同じ時期に、学部は違うが同じ大学で勉強していたわけである。何たる違い!と己の努力の不足を噛み締めながら、まあ自分なりに頑張ることにしよう。

 旭化成に勤めている吉野さんのノーベル賞受賞を報じる新聞の同じ紙面に、関西電力の幹部の辞任のニュースも載っていた。旭化成も、関西電力も京大出身者が多く就職している会社であるが、たいへんな違いである。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Wealth is the ability to fully experience life.
      ―― Henry David Thoreau (U.S. naturalist and writer, 1817 -62)
豊かさとは、人生を存分に体験する能力である。
『ウォールデン』を読んでいると、ソローが森で生活するために必要な斧をブロンソン・オルコット(『若草物語』の作者の父親)から借りていることがわかる。ソローの方が、オルコットよりも人生を楽しむ能力に富んでいたことは確からしい。

 サッカーの2022年W杯カタール大会アジア2次予選F組の日本対モンゴルの対戦はさいたまスタジアムで行われ、日本が6‐0で大勝した。C組ではイランが14‐0という記録的な大差でカンボジア(日本の本田圭佑選手が代表を務めている)を破った。これはイランで、初めて女子の入場を認める(男子の)サッカーの試合でもあった。
 これらの試合の結果を予想する1128回のミニtotoが当たりそうだが、5試合を予想するミニtotoではなく、13試合の予想を試みてもよかったのではないかと思っているところである。

10月11日
 1128回のミニtoto-A, Bが当たるが、両方を合わせて賞金は500円に届かず。勝敗を予想出来て当たり前という試合が多かったから、当然の結果ともいえるが、もう少し賞金が多くてもよかったと思うのは自然の感情であろう。

 台風19号接近中。嵐の前の静けさ…というのはいい気持ちのものではない。

 
 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(20)

10月10日(木)曇り、日暮れとともに雨が降りだす。

 巨人ガルガンチュワは、フランス西部(ロワール川の大支流ヴィエンヌ川の流域)を治めていたグラングゥジェとその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生に際して「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名を得た。牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、一時詭弁学者の手で教育されたためにうすのろになりかけたが、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートのもとでパリで勉強してからは、学問にも武芸にも秀でた若者に成長した。
 グラングゥジェの領民たちが、隣国のピクロコル王の領民たちといざこざを起こし、ピクロコル王の軍隊がグラングゥジェの領内に侵入し、略奪をほしいままにしたが、そんな中、ジャン修道士が奮闘して彼の修道院のブドウ畑だけは無事であった。平和のために働きかけが無駄に終わったので、グラングゥジェはガルガンチュワを呼び戻し、ピクロコル王との戦いに臨むことになった。父王の城に戻ったガルガンチュワはジャン修道士を呼びよせ、自ら敵情視察の偵察隊を率いて出陣した。偵察隊はピクロコル王の派遣した先遣隊と遭遇し、その隊長を討ち取ったが、慎重を期して待機の体制をとり、敵の動向を見守ることにした。しかし、ジャン修道士は敵を深追いしたために、捕虜になってしまった。

第44章 修道士が見張りの敵兵を倒したこと、ならびにピクロコル軍の分遣隊が打ち負かされたこと(修道士が見張りの兵士を倒し、ピクロコル軍の先遣隊は敗北する)
 ピクロコル軍の先遣隊は、ガルガンチュワの偵察隊と遭遇して隊長を失い、いったん退却したが、修道士を捕虜にした後、彼に2人の見張りをつけて、反撃のために前進を始めた。それを見て、ジャン修道士は自分が捕虜になったため、ガルガンチュワに加勢できないのを歯がゆく思っていたが、見張りの2人の兵士が戦争のしきたりをまったく心得ない様子なのを見てとり、敵に取り上げられなかった短剣を使って1人を倒し、それに気づいて命乞いをするもう1人の敵兵の首も刎ねてしまった。
 見張りの敵兵を倒した修道士は、馬に乗って、反撃のために前進していった敵兵の後を追った。すると、敵兵たちがガルガンチュワたちとの戦いに敗れて、逃走を始めているのに出会い、大多数のものは切り殺したが、敗北の報せを持ち帰らせる人数も必要だと、残りの兵たちは武器を取り上げたうえで命を助けてやったのである。
 そして、敵兵たちがスパイだと思って間違えて捕虜にした巡礼たちは、自由の身にしてやり、敵の指揮官の1人であった臆病山法螺之守(トウクディーヨン)は捕虜にして、引き立てたのであった。

第45章 修道士が巡礼たちを連れ戻したこと、ならびにグラングゥジェが懇(ねんごろ)な言葉をかけてやったこと(修道士、巡礼たちを連れ帰り、グラングジエが親切な言葉をかける)
 この前哨戦に決着がつくと、ガルガンチュワの一行は(ジャン修道士を除いて)明け方までにグラングゥジェのもとに戻った。一同が無事であったのを見てグラングゥジェは喜ぶが、ジャン修道士がいないので、どうしているかとたずねた。ガルガンチュワは、修道士が敵兵と一緒だといったので、グラングゥジェはそれでは敵の方がひどい目にあうだろうといったが、実際その通りの結果になったのはこれまでも述べたとおりである。

 グラングゥジェは一同をねぎらうために、朝食を準備させた。準備ができたので、ガルガンチュワを読んだが、ガルガンチュワはジャン修道士のことが気になって食べ物がのどを通らない。〔お姫様をさらわれた殿様が、「心配でわしゃ飯ものどを通らんよ」といっていると、家来が「だからお菓子を召し上がるんですね」と答えている昔の杉浦茂の漫画を思い出す。〕 
 そこへ突然、ジャン修道士が5人の巡礼と捕虜の臆病山法螺之守を従えて戻ってきて、冷たいワインをよこせと叫ぶ。そしてグラングゥジェの問いに答えて、これまでのいきさつを話し、一同は大いに安心して、飲み食いにはげんだのであった。

 グラングゥジェは5人の巡礼たちに、彼らは何者で、なんのためにこのようなところをうろうろしているのかとたずねた。巡礼たちを代表して旅野疲郎(ラスダレ)という巡礼が、自分たちは黒死病にかからぬようにサン=セバスチャン(ナントの近く、ロワール川の左岸にある巡礼地)にお参りしてきたのだという。グラングゥジェは巡礼たちが怪しげな説教師の言うことを信じて、迷信にとらわれ、巡礼などという余計なことをしていることをたしなめる。自分の住んでいる町でしっかり仕事にはげみ、子どもたちを教え育てれば、必ず良い報いがあるはずだと教え聴かせる。
 そして巡礼たちは、ガルガンチュワにつれられて広間に行き、腹ごしらえをさせられたが、グラングゥジェの説諭にいたく感心して、あのようなりっぱな殿様に治められる領民は幸せだという。いいかげんな説教師の説教よりも、グラングゥジェの言葉の方が自分たちの信仰を固めるのに役立ったというのである。
「――プラトンも、その『国家』第5巻でこう申して居る。王者が哲理に則るか、あるいは哲人が政事(まつりごと)を執るかいたす時には、国家は福楽を得るものだ。(とガルガンチュワは言った。)」(渡辺訳、210ページ、宮下訳、338ページ)

 それから、巡礼たちに食料と葡萄酒を十分なだけ与え、さらに馬をあてがい、カロルス銀貨を何枚かを生活費として渡して家郷に戻らせたのであった。ここでカロルス銀貨というのは、1488年にシャルルⅧ世によって鋳造された銀貨だそうであるが、宮下さんによると、当時の神聖ローマ帝国皇帝(スペイン、フランドル、ドイツの国王)であったカルロスⅤ世への当てつけとなっているそうである(「カロルス」というのはたぶんラテン語で、「カルロス」はスペイン語で、まちがえたわけではありません、念のため)。

 キリスト教的な徳と、ギリシアの哲人政治の理想を共に体現しているような王者としてグラングゥジェ、そしてガルガンチュワは描かれているのであるが、これはラブレーが師と仰いだエラスムスの「キリスト教的君主の教育」の理想を反映したものと考えられる。マリー=ルイズ・ベルネリは、ラブレーのこの作品の最終部分で描かれる「テレームの僧院」をそのユートピアの系譜の中に位置づけているが、ラブレーの政治思想はこのエラスムス的な哲人政治を根幹とするものであり、そのような支配のもとで、ブリューゲルの絵画に描かれているような民衆のユートピアが実現すると考えたようである(ということは、モアやカンパネッラの民衆自身が支配者となるユートピアとはどうも違う方向の政治思想が抱かれていたように思うのである。
  

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(20)

10月9日(水)晴

 コロンブスの新世界への航海に同行して、その後地球を1周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に向って、航海の途中立ち寄った「太陽の都」の様子を物語る。
 赤道直下のタプロバーナ島(スマトラ島と考えられている)の中央に広がる草原のまんなかに、70の城壁を同心円状にめぐらせて建設されたこの都市は,「太陽」と呼ばれる神官君主によって支配され、私有財産は否定され、市民たちは一つの家族として暮らしている。
 「太陽」は軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・医療・教育を司る「愛」の3人の高官たちによって補佐されている。最上位の4人を含めて、役人たちはすべて教育を通じて発見された能力・適性に応じて選ばれる。男女の総ての子どもたちが教育を受ける。市の中央にある神殿の壁と城壁には様々な絵が描かれたり、模型が置かれたりして、子どもたちの学習を助けている。
 市民たちは共同で食事をし、衣服は配給制、住居は割り当て制であり、すべての市民が働くことになっている。その代わり、さまざまな機械が導入され、労働時間は短く、市民たちは余暇を楽しんでいる。おもな産業は農業であるが、牧畜も盛んで、商業や外国との貿易も行われている。彼らは職業に応じた集団を形成し、その長が裁判官を兼ねている。
 生殖は男女の適合性を考えて計画的に行われ、赤ん坊は母親と一緒に過ごすが、その後は子どもたちは集団で育てられる。
 彼らは熱心に天体を観測し、世界の動きや彼らの運命を占っている。しかし、万物の中で人間だけは神の意志に従うのだと考えているという。

 ジェノヴァ人はつづけて、「太陽の都」の住人たちは霊魂の不滅を信じており、「人間は死ぬとその生前の功績により善霊か悪霊かに伴われる」(坂本訳、66ページ)と考えているという。賞を受ける場所は天で、罰を受けるのが地底だというのは確かではないがありそうなことだと言っているそうである(ダンテの『神曲』の地獄は、地球の内部に、煉獄は南半球に、天国は天にあると考えられていたことが思い出される)。
 このほか、彼らは人間に善人と悪人とがいるように、天使にも善い天使と悪い天使がいると信じているが、それらについては天が知らせてくれるのを待っている(つまり、頭から信じ込んでいるわけではない)。
 さらに、この世界以外にも別の世界があるということは疑問に思っているが、それを否定してしまうことは狂気の沙汰だと考えているという。〔カンパネッラは晩年、フランスに亡命して、哲学者のガッサンディと親交を結ぶが、そのガッサンディのもとで学んだシラノ・ド・ベルジュラックは『日月両世界旅行』を著している。それだけでなく、後編の『太陽諸国諸帝国』にはカンパネッラが登場するのである。〕
 世界の中に「無」は存在せず、万能の神はそのようなものの存在を許さないのだと考えているという〔古代ギリシアのパルメニデスの「あるものはあり、ないものはない」という基本命題を思い出させる。カンパネッラはイタリア半島の中でもギリシアの影響の強い南イタリアのカラブリアの出身であることと多少は関係しているかもしれない〕。

 「彼らは、存在すなわち神と無すなわち非存在を、万物の形而上学の原理と考えて」(坂本訳、67ページ)いる。罪は知識と意志の欠如のために起き、力と知識をたくみに使いこなすことによって人間は善をなすことができるという。
 さらに彼らは、神は最高の力であり、そこから最高の知識が生じ、その両者から最高の愛が生じるのだと考えて、三位一体の神を礼拝している[この3者が、「太陽」を補佐する3人の高官と対応していることも注目される]。しかし、彼らはキリスト教徒が知っているような命名された位格(ペルソナ)を知らない。とはいうものの、人間は不完全で無と無秩序とに向かうが、それを導くの完全な存在である神だと考えているのだという。

 ジェノヴァ人は、もっと話したいことはあるけれども、自分の乗っている船の出航の時間が迫っていて、急がないといけないと話を打ち切ろうとする。
 マルタ騎士団員は『太陽の都』の住民たちが、アダムの罪についてどう考えているのかだけは答えて行ってくれと頼む。
 ジェノヴァ人は「彼らは、この世界は大へん腐敗し、人間は理性よりも狂気に支配され、善人は苦しみ、悪人が支配している」(坂本訳、69ページ)と考えている。そうなったのは、昔、人類の間に何か大混乱が起きたからだろうと考えて、その混乱が何であったかを探っているという。さまざまな説明がなされ、それぞれ否定されてきたが、時代ごとに違う惑星の影響を受けていることと関係があるのではないかと思っているようである。

 彼らはこの大混乱がアダムの罪に基づくものだと考えているキリスト教徒は幸福であると考えている。ただ、彼らは父から子に受け継がれるのは罪ではなく、その罪に対する罰なのだと信じている。〔父親だけを問題にして、母親に触れていないところに、カンパネッラの男性優位主義があるが、それをいえば、「アダムの罪」というのも同様である。〕 時と場所、相手を選ばずに男女が性交するから、過ちを犯す子どもが生まれるのであり、さらにそれに教育を怠ったことが加わるという。そのため、「太陽の都」の市民たちは、生殖と教育とを極めて重視している。人間は神の摂理に従って生きているのだが、自分たちの能力が低いために、そのことに気づかずにいるのだという。「自分が他人にしてほしいと思うことを、自分でも他人にしてあげなさい」という聖書の教えをしっかり守ることが重要だとジェノヴァ人は言う(これは、ジェノヴァ人だけの意見なのか、それとも他人の意見に共鳴して言っているのか、よくわからない)。

 聖書中心主義と自然法重視の考え方の対立というのが宗教改革以後のキリスト教世界の主要な対立軸になっているように思われるが、カンパネッラは明らかに自然法重視の考え方に建っている。だから、基本的には異教的な世界である「太陽の都」にキリスト教的な道徳観を見出して、喜んでいるわけであるが、それをどのように評価するかは、読者の道徳観・宗教観の問題である。私はカトリックの学校で教育を受けたので、「自然法」という考えにはなじんでいるが、その「自然」が本当に「自然」であるのかは、疑ってみる余地がかなりあるのではないかと思う(私と同様に、カトリックの学校で教育を受けた渡辺一夫の書いていることを読んでも同じようなことを感じるのである)。 

『太平記』(283)

10月8日(火)曇り、一時雨、夕方が近づいて晴れ間が広がる。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)頃(歴史的事実としてはその前年の1347年)、楠正成の子・正行が父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った。さらに11月、正行は住吉、天王寺で山名時氏、細川顕氏の軍を破った。

 山名時氏の軍が敗走する際に、淀川にかかる渡辺の橋から川に転落するものが少なくなく、500名余の兵が川の中から正行の軍勢に引き上げられた。旧暦の11月26日といえば厳寒の季節であり、川から引き上げられても兵士たちは、寒さとけがのために命を失いそうであったのを、正行は乾いた着物に着替えさせ、薬を与えたりして、これらの武士たちに情を示した。恩を受けた武士たちのなかには、いつの日かこの恩に報いようと思う者、あるいはそのまま楠の麾下に投じるものなども現れた。

 この年、正行軍のために幕府軍は2度も大敗を喫し、畿内の各地に戦略拠点を築かれただけでなく、地方でも南朝に味方する武士たちが勢いを取り戻していると聞いて、足利尊氏・直義兄弟の慌てぶりは尋常のものではなかった。このような情勢のもとでは、足利一族の細川氏や、(新田一族ではあるが、足利一族に準じる存在である)山名氏の力と、各地から駆り集めた武士たちの力とでは、押さえられそうもないというので、尊氏の執事である高師直、その弟で侍所頭人である高師泰を両大将として、中国、四国、東山(とうせん)、東海の20余カ国から招集した武士たちを討伐に向かわせた。

 軍勢の手分けが決まり、まだ1日も経たないうちに、師泰は自分の手勢3千余騎を率いて、12月14日の早朝に淀(京都市伏見区淀)に着く。これを聞いて、淀に駆けつけたのは甲斐源氏の武田盛信、その一族の逸見時氏、源頼朝の重臣であった大江広元の子孫である長井宗衡、長門の守護で厚狭郡の豪族厚東武村、赤松円心の長男である赤松範資、安芸の土肥一族である小早川貞平、その他合わせて2万余騎、淀、羽束使(はつかし、京都市伏見区羽束師)、赤井(淀と羽束師の間の地)、大渡(おおわたり、桂川、宇治川、橘川が合流するあたり)の民家にあふれかえり、近くの寺の堂舎もいっぱいになった。

 その後、10日以上が経って、12月25日に武蔵守師直が手勢7千余騎を率いて、(京都府八幡市の)石清水八幡宮に到着した。この知らせを受けて駆けつけた武士たちは、足利一族の細川清氏(和氏の子、頼春の甥、頼之の従兄弟)、同じく仁木頼章、足利一族で遠江・駿河守護の今川範国(貞世=了俊の父)、甲斐源氏で甲斐・安芸守護の武田信武、師直・師泰兄弟の従兄弟の高師兼、武蔵・伊賀の守護で師直の猶子である師冬、高一族の南宗継、同じく次郎左衛門尉、伊予宇都宮氏の宇都宮貞泰、貞宗、佐々木(京極)道誉、佐々木(六角)氏頼、佐々木一族の黒田宗満(道誉の叔父)、美濃源氏の土岐頼明、その一族の明智三郎、丹波の武士である荻野朝忠、但馬の武士である長九郎左衛門尉、備前の武士である松田備前次郎、相模の武士である宇津木平三、同じく曾我左衛門、清和源氏ゆかりの天台宗寺院多田院周辺に住む源氏の武士たち、これらを主だった武士として、源氏に連なる大名が23人、外様の大名が346人、彼らの率いる軍勢の合計が8万余騎を数え、八幡、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)、真木、葛葉(ともに大阪府枚方市内)、宇戸野(高槻市鵜殿)、賀島(大阪市淀川区加島)、神崎(兵庫県尼崎市神崎町)、桜井(大阪府三島郡島本町桜井)、水無瀬(同水無瀬)の民家に入りきらず、大多数のものは野宿したのであった。

 いつもに比べて量は少ないが、本文はこの後正行・正時兄弟の行動に移るので、ここで切り上げておく。兵力では圧倒的に勝るはずの幕府軍が、楠軍に負けているのは、正行の知略と、その兵たちの決死の覚悟が幕府軍を圧倒しているからである。しかし、今度は、幕府側もエースというべき高師直・師泰兄弟を投入してきたうえに、これまで以上の大軍を動員してきている。これまでとは合戦も違う様相を示しそうである。
 武将の名前が列挙されるのは、軍記物語の習いであり、西洋中世の騎士道小説とも共通する特色として興味深いが、『太平記』の場合、列挙される人名が一方で源平の合戦の際に活躍した武士の子孫であることを思わせ、もう一方で、戦国時代の武将たちの先祖であることも思い出させるところに興趣がある。もっとも佐々木道誉の叔父とされる黒田宗満は、福岡の大名であった黒田家の先祖というわけではないとの話だから、慎重に対処する必要がありそうである。

日記抄(10月1日~7日)

10月7日(月)晴れたり曇ったり

 10月1日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
10月1日
 昨日、今日と『NHK高校講座 現代文』では鷺沢萠(1968‐2004)のエッセー「わたしという自分」を取り上げた。この文章のなかで鷺沢は「死にたくない」と書いているのだが、最終的に自殺してしまったということに、このエッセーを読んだ高校生のうち何人が知ってしまうだろうか。
 群ようこさんのエッセーの中に、彼女が引越しをした時に鷺沢が大型トラックを運転して手伝って、その姿が板についていたために、誰も彼女を作家だと思わず、トラックの運転手だと思っていたという話が出てくるが、私とは何者であるかなどと考えるよりも、体を動かすことの方が精神衛生にいい場面は少なからずあるように思う。

10月2日
 NHK,ラジオ『実践ビジネス英語』では”Poverty in America" (アメリカにおける貧困)というヴィニェットに取り組むことになった。
The documentary said between 40 to 47 million Americans live in poverty. {(登場人物が見た)そのドキュメンタリーでは、4,000万~4,700万人のアメリカ人が貧困生活をしていると言っていました。}
 気になって調べてみたところ、厚生労働省の「国民生活基礎調査」によると、2015年の時点で日本の貧困率は15.6%でアメリカについで世界第2位だそうである。

 今月から始まった幼児教育・保育の無償化に「便乗」して、一部の幼稚園が利用料や授業料を値上げしているという。無償化というのは、そもそも授業料をとらないことであるはずなのに、なぜ、こういうことが起きるのか?

10月3日
 アメリカのある大学にthe commencement speakerとして招かれた富豪が、卒業生たちの抱えている授業料支払いのためのローンを全額負担すると発表したというニュースを、『高校生からはじめる「現代英語」』で取り上げていた。この富豪というのはアメリカで最も裕福なアフリカ系アメリカ人(the wealthies African-Amerian in the U.S.)として知られるロバート・スミス(Robert Smith)氏で、大学というのはジョージア州にある歴史的に黒人(が多い)大学(historically black college in the southern state if Georgia)
であるモアハウス大学(Morehouse College)である。
 このニュースは以前、『世界に発信 ニュースで英語術』でも紹介されたことがあるが、アメリカにおける学生ローンの問題がきわめて深刻である中で、注目された出来事である。スミス氏は、さらに”pay it forward"(受けた恩は、後に続く世代に返してくれ(あなた方が将来成功したとき、今度はあなた方が若い世代を援助してあげて)」と述べたという。
 この大学の卒業生は400人ほどで、全米の学生総数に比べれば微々たるものであるが、今回のスミス氏の取り組みがさらに大きな広がりを見せることが期待される。モアハウス大学は公民権運動の指導者だったマーティン・ルーサー・キング牧師や映画監督のスパイク・リーの母校であり、その卒業生たちのこれからの活躍と影響力とが注目されるところである。

10月4日
 『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote."のコーナーで取り上げられた言葉:
 Wealth consists not in having great posessions, but in having few wants.
              ――Epictetus (Greek philosopher, c.50 - c. 130)
豊かさは、多くを所有することによってではなく、多くを欲しないことによって生まれる。
 エピクテトスはストア派の哲学者として知られる。一方にローマ帝国皇帝であったマルクス=アウレリウス、もう一方に乞食であったというエピクテトスというのは、ストアは哲学の広がりを表現するのによく使われる例である。漱石の『吾輩は猫である』の「2」で苦沙弥先生がエピクテタスの本をしばらく読んでいたが、机の上にたたきつけ、今度は日記を書きはじめる…という個所がある。もっと面白いのは、ラブレーの『第二之書 パンタグリュエル物語』のなかのエピステモンが地獄めぐりをして、エピクテトスに遭う件で、これは『ガルガンチュワ物語』の次に取り上げることになるから、多分来年には紹介できることになるだろう。

10月5日
 『朝日』の朝刊にカナダのケベック大学モントリオール校の非常勤教授であるエリザベト・バレー氏のベルリンの壁の崩壊後、皮肉にも難民の阻止等の名目で建設されてた(ている)「壁」の数は増大しているというインタビュー記事が掲載されていた。
 シュリーマンの『清国・日本旅行記』のなかに、中国で万里の長城を見に出かけたが、現地の人々はまったく無関心であるという記事があり、シュリーマンは長城の煉瓦を1つ持って帰ったなどと記されているが、現在の中国の国歌「義勇軍行進曲」には「長城」という語が含まれており、長城は国民の団結の象徴の意味を持たされている。70年足らずのうちに中国人の意識が大きく変わったことがわかる。
 ローマ帝国の皇帝であったハドリアヌスが2世紀の初めに築いた長城も有名である。これはイングランドの北部に残っているもので、スコットランド人は自分たちはローマ人に征服されなかったのだということを誇りにしているが、イングランド人のほうはだから、奴らは野蛮なのだと言っているわけである。
 ベルリンの壁は、民族の統一の重要性を示す遺物として、破壊後、世界各地に運ばれた。私もロンドンのドイツ人学校で、壁の残骸を見たことがある。しかし、現在、多くの場所で難民を阻止するために建造されている「壁」が名所になる可能性は極めて低そうに思われる。まして、アメリカの新しい国歌に「トランプの長城」が歌いこまれる可能性は皆無だろう。

 小机フィールドでなでしこリーグ2部横浜FCシーガルズ対オルカ鴨川の対戦を観戦する。前半の終わり近くに横浜の左SBの小原選手がゴール前に走りこんでミドル・シュートを放ち、これが決まって横浜が1点を先行、そのままこの1点を守り切って貴重な勝ち点3を挙げた。試合後のインタビューに小原選手と、GKの望月選手が呼ばれていた。両選手とも今年移籍してきたことを考えると、終盤になってチームがやっとまとまりを見せてきたことが示された試合だったとみることができる。

10月6日
 アメリカの俳優・歌手で1960年代から70年代にかけてアフリカ系アメリカ人女性を代表する存在として活躍したダイアン・キャロルさんが4日、ロサンジェルス郊外の自宅で亡くなられたことが報じられた。TVの連続ドラマ『ジュリア』での主演が有名だが、映画ファンといたしましては、オットー・プレミンジャーの『夕日よ急げ』(Hurry, Sundown)でジェイン・フォンダさんと共演していたことが忘れられない。(またこの映画には、まだ新人であったフェイ・ダナウェイさんが出演していることも記憶されてよい。) このほか、アナトール・りトヴァク監督の『さよならをもう一度』(フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』の映画化)で、クラブの歌手として主題歌を歌い、アンソニー・パーキンスを慰めていた場面も印象に残る。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FCと柏レイソルの対戦があったが、前売り券が売り切れで見に行くことができなかった。しかし、終了間際にCKから途中出場の草野選手がヘディングシュートを決めて決勝点を挙げ、勝利。順位は3位と変わらないが、まだまだ自動昇格に望みを残している。

10月7日
 デモ参加者のマスク着用を禁じる「覆面禁止規則」が制定された香港で、6日、この規則に反対する大規模デモがあり、数万人の市民がマスク姿で参加したという。「~してはいけない」という規則と、そんな規則は認められないという抗議のどちらが勝利を収めることになるのだろうか。もちろん、マスクをせずに堂々とデモができるほうがいいし、それよりも、デモをする必要がないくらいいい政治が行われることが一番望ましいわけである。

 『日経』のOpinion欄に『フィナンシャル・タイムズ』の米国版エディター・アット・ラージであるジリアン・テットさんが「知らない人とどう話すか」という論考を書いていた。熱帯生物学者マーク・モフェット氏の説くところによると、アリは人間に匹敵するほど複雑な社会システムを構築しているが、しかし恒久的な争いから抜け出せずにいるという。それはアリがにおいの異なる相手をすべて殺すという習性をもっているからであるという。人間がアリよりも優れているのは、自分の文化的なアイデンティティーを尊重しながらも、他のアイデンティティーについても攻撃することなしに受け入れることができるという点である。「われわれは自身の文化に誇りを持ちながら、その世界観が普遍的ではないことを認識することが必要だ。/知らない人と話したいなら、その人の目で世界を見ようとしなければならない。」 とはいうものの、アイデンティティーは多様である。子ども、老人、外国人、それぞれが簡単にはひとくくりにできないほどの多様性を持っていることがわかるはずである。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(13)

10月6日(日)曇り

 19世紀初めのころのイングランド。ロンドンの北にあるハートフォードシャーのロングボーン村の地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス(エライザ、リジ-)、メアリ、キャサリン(キティ)、リディアという5人の娘がいた。この家系の決まりで、財産は直近の男子が相続することになっていたので、家屋敷はベネット氏の死後は、遠縁のコリンズ氏の手にわたることになっていた。このため、幸い美人ぞろいの娘たちの1人だけでも裕福な紳士のもとに嫁がせることが、ベネット夫人の夢であった。
 ロングボーンの近くのネザーランド邸を、若い独身のビングリーという紳士が借りることになっただけでなく、そのビングリーがベネット家の長女のジェインに思いを寄せているらしい様子であった。一方、ビングリーの親友だというダーシーという紳士は、その高慢な態度でエリザベスを怒らせたのだが、その後、彼女の目の表情の魅力や物腰に関心を持つようになった。
 ロングボーンの邸の相続者であるコリンズ氏が、両家の和解のためと称してベネット家を訪問した。ケントの大地主であるレディー・キャサリン・ド・バーグの恩顧で教区牧師の地位を得た彼は、この際、ベネット家の令嬢の1人と結婚しようと考えたのである。そして、エリザベスをその相手に選ぼうとする。
 一方、エリザベスは、この地方の中心都市であるメリトンで、新任の将校であるウィッカムと知り合う。ダーシーの子どものころからの知り合いだという彼は、ダーシーの父親に気に入られて牧師禄を与えられるはずだったのが、ダーシーのためにその地位を得ることができず、軍隊に入ったのだという。ウィッカムに心惹かれたエリザベスは、ネザーランド邸で開かれる舞踏会で彼と踊ることを楽しみにしていたが、その前に最初の2曲をコリンズと踊ることを約束してしまった。(以上17章まで)

 舞踏会の開かれる当日、エリザベスはネザーフィールドの客間に入って、ウィッカムの姿を探したが、見つけることができなかった。リディアが将校の1人にたずねたところでは、ウィッカムはロンドンに用事ができて出席しないのだという。しかし、本当のところは、この会に出席している誰かと顔を合わせたくないのではないか。これを聞いてエリザベスは、その誰かはダーシーであると思い、彼とは親切に口を利くまいと決心する。

 そして舞踏会が始まり、約束通り彼女はコリンズと踊ったが、コリンズは踊りが下手で、いっしょに踊っていて冷や汗ものであった。その後、彼女は将校たちの1人と踊ったが、踊り終わって、久しぶりに会ったシャーロット・ルーカスと話していると、ダーシーに踊りを申し込まれた。「不意を衝かれたエリザベスは、自分でも気がつかないうちに承諾してしまった。」(大島訳、163ページ) 自分の油断を悔しがるエリザベスをシャーロットは慰める。そしてあまり軽はずみな行動をとらないように忠告もするが、いざ、踊ることになってみると、エリザベスはダーシーの相手をするということで、周りの人間が自分を見る目がちがってきているような気がした。2人は黙ったまま踊っていたが、エリザベスは思い切ってウィッカムの話題を持ち出そうとする。

 と、シャーロットの父のサー・ウィリアム・ルーカスが近づいてきて、2人の踊りをほめたうえで、ビングリーとジェインの結婚が近そうだと仄めかす。これにはダーシーが驚いた様子を見せる。彼が去った後、2人はお互いの性格をめぐる話をするが、ダーシーはそういう話はできるだけしないようにしようという。
 踊りが終わって、2人が分かれたあとで、ビングリーの妹のミス・ビングリーがエリザベスに近づいてやって来て、ウィッカムには気をつけろという。彼は自分の父親がダーシーの執事であったことを言わなかっただろうし、ダーシーとの間で起きたいざこざも、実は彼の方に非があることも言わなかったはずだと忠告する。〔ダーシーとの結婚を夢見ているだけでなく、彼のエリザベスへの思いをただ一人知っている彼女が、ここでそのままエリザベスをウィッカムと結びつくように仕向けようとしないのが、なかなか手が込んでいる。ウィッカムの正体について知らせても、エリザベスが彼女の忠告を無視して、そのまま交際を続ければ、あまりいい運命が待ち受けないだろうことは想像できる。そして、もしエリザベスが彼女の忠告に従って、ウィッカムと離れたあとで彼の正体を知れば、ミス・ビングリーに感謝しなければならなくなる。〕
 エリザベスは(ミス・ビングリーの戦術に引っかかって)ミス・ビングリーの片意地とダーシーの悪意を改めて噛み締め、今度は姉のジェインに向って、ダーシーとウィッカムについての意見を求める。ジェインの意見はビングリーから出たものなので、信頼に値しないと、エリザベスは考える。

 そこへコリンズがやって来て、彼が恩顧を受けているレディー・キャサリン・ド・バーグの甥であるダーシーがこの席にいることに気づき、ぜひ、挨拶をしたいと言い出す。紹介もなしに、直接名乗り出るなどというのは失礼の極みだとエリザベスはとめるが、自分は聖職者であるからそれだけの権利があるのだといって、出かけていく。この彼の接近にダーシーは驚いた様子であるが、それでも彼の自己紹介の押し売りを受け入れ、コリンズはダーシーが自分の相手をしてくれたことに満足して戻ってくる。

 第18章は長いので、まだ半分あまりが残っているが、今回はここで打ち切っておく。サー・ウィリアム・ルーカスはダーシーとの会話で、ビングリーとジェインの結婚の可能性に言及したが、これは言わない方がよかったことで、この発言をきっかけとして事態は大きく変わることになる。ミス・ビングリーの親切とも意地悪ともはっきりしない忠告は、エリザベスの「偏見」を強めるのに役立っただけのようである。コリンズがダーシーに話しかけるのも余計な行動であるが、これはそれほど大きな影響を及ぼさない。とにかく、発言者の意図と必ずしも結びつかない方向に、物語は動いていく。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(下)』(1)

10月5日(土)晴れ、気温上昇

 梅棹忠夫(1920-2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、大阪市立大学の学術調査隊を率いて、北タイを主なフィールドとする熱帯地方における動植物の生態と人々の生活誌に関する調査研究を行った。この書物は、その際の個人的な記録である。
 この書物は23章からなるが、前回までで、中公文庫版の上巻、1章から10章までの紹介を終えた。第11章「配置を終る」で梅棹は、他の隊員たちと別れて、いったんバンコクに戻り、それからカンボジア、ベトナム、ラオスという東南アジアの諸国の旅行に出かける。その旅行の次第を記したのが、第12章から第18章までである。第19章で調査隊は再度合流し、そして帰国する。第20章~第23章は1961年から1962年にかけて派遣された第2次の調査隊(岩田慶治を隊長とする)に梅棹が言わば客員として参加したときの記録である。
 したがって、この書物は大きく分ければ2つ、もう少し詳しく分ければ4つの部分から構成されている。第一次の調査隊が全員でバンコクから北タイに向かう行程を記した第1部(の前半)と、北タイにおけるドーイ・インタノン登山、メオ族の部落訪問、チェンマイでの行動を記した第1部の後半、そしてこれから展開されることになる東南アジア3カ国(カンボジア、ベトナム、ラオス)歴訪の第2部、最後に1961~62年の第二次調査隊における観察と感想ということである。

第11章 配置を終る
 配置を終る
 一行は垂直的に見るとタイにおけるメナムの平原から最高峰であるドーイ・インタノンの頂上まで、水平的に見るとタイ湾からビルマ国境までを踏破した。全員が参加したこの予備的な調査で、タイにおける自然と人文との大綱は一応把握したはずである。この予備調査のなかで、それぞれの専門領域の研究のために、最も都合のよい場所も見つけたはずである。これまでは全員で調査を続けてきたが、これからは各自がそれぞれの専門領域における特殊研究を行うことになる。

 植物生態学の小川房人、依田恭二の2人は植物班として、チェンラーイ、チェンセーン方面の森林の状態を見に行くことになる。さらにその後、より詳しい研究に取り組むことになる。この2人にお茶の水女子大の教授で植物分類学の津山尚が合流する。これまで川村と依田が使っていたハシゴ車を、これからは、この2人が使うことになる。
 文化人類学の藤岡と、霊長類研究の川村は便宜上できるだけ一緒に行動することにする。川村がテナガザルを観察しに山奥に行っている間に、藤岡は麓の村でロールシャハ・テストをやりながら、農村生活の研究をする。幸い、通訳も確保できた。彼らが使用するのは、藤岡と小川が使っていたいちばん小型のジープ、J3である。

 これからちょうど1か月間、4人は北タイの各地でそれぞれの仕事を続ける。そして2月の末にはチェンマイに集結し、いったんバンコクに戻ってから、東北タイのコーラート高原に移動し、3月中旬にはバンコクに帰る予定である。
 残る2人、つまり吉川と梅棹は、いったんバンコクに帰り、それからインドシナ半島の一周旅行に出かける。カンボジア、ベトナム、ラオスを通り、コーラート高原を経て、やはり3月中旬にはバンコクに戻る予定である。これまでと同じく、J11のワゴン車を利用する。

 1月26日、梅棹と吉川以外の4人は、チェンマイを発って、チェンラーイ、チェンセーン方面へと移動していった。1月30日、吉川と梅棹もチェンマイを発ってバンコクに移動することになる。チェンマイにおける止宿先であった生駒さんの助手のソムウォンが同行することになった。生駒さんに別れを告げ、ランプーン街道をひた走りに走る。

 峠の危機
 ランプーンからは山道で、峠越えにかかり、リー村の手前まで来たところで、ディストリビューターの故障で車が動かなくなった。ソムウォンがバスでチェンマイに戻って修理工を連れて戻ってくることにして、梅棹と吉川は車のそばでキャンプをして待つことになった。幸い、修理工は到着し、故障を直すと、次のバスで帰っていった。

 ジープ襲撃事件
 チェンマイとバンコクを結ぶ道路はほとんど走る車がない。
 めずらしく、一台のジープが後からやって来て、追い抜いていった。夕方、タークに到着して、バンコクからチェンマイにやって来た際に泊まった同じ中国人経営の宿に泊まろうとした。ところが、その宿の前には人だかりができている。どうしたのかと思ってたずねてみると、途中で彼らを追い抜いていったジープが山賊に襲われたのだそうだ。幸い、彼らの傷は浅かったらしい。

 英雄タークシン
 タークは18世紀の英雄、プラヤー・タークシンのゆかりの土地である。彼はこの地の出身であり、もともとラヘーンといったこの土地は、彼に因んでタークと改めたのである。
 プラヤー・タークシンは、アユタヤ朝に仕えた将軍であったが、王に嫌われて、タイ湾の東部海岸の町ラヨーンに逼塞していた。
 1767年、ビルマ軍の侵攻により、首都アユタヤがついに陥落し、アユタヤ王朝は崩壊する。このとき、タークシンはラヨーンから兵を起こし、敗残のタイ軍の兵士たちを集め、ビルマ軍を破って、タイの独立を回復したのであった。そしてチャオプラヤー下流のトンブリーに首都を定め、北部のランナータイ王国を併合して、ラオスにも宗主権を確立し、タイを巨大な国として統一したのであった。
 梅棹と吉川に同行していたソムウォンは、タークにあるタークシンの廟にお参りをしたいといい、実際にお参りして長い祈りを捧げていた。歴史上の人物に廟を建てるというのは異例のことであるが、おそらくはタイにおけるナショナリズムの産物であろうと梅棹は思う。
 しかし、タークシンの末路は悲惨であった。彼は狂気に陥り、各地で反乱がおきた末に、1782年に彼の武将であったチャオプラヤー・チャクリーが推戴されて新たに王位に就いた。タークシンは、この新しい王により処刑されたのである。「トンブリー王朝は一代で消え、都は対岸のバンコクに移された。いまのタイ王室、チャクリー朝(ラタナコーシン朝)のはじまりである。」(21ページ)

 この書物は、上巻の最終章である第10章よりも、下巻の最初の章である第11章まで紹介したほうがキリがいいと思ったので、今回下巻まで踏み込んでみた。あと1回、この第11章を紹介することにする。
 この書物が長いあいだ、多くの読者に読まれてきた一つの理由は、旅行の経緯とその印象だけでなく、タイをはじめとする東南アジア諸国の歴史について、詳しく説明を加えているためであろう。日本と東南アジアの関係は深くなっているのに、日本の世界史の授業ではあまり東南アジアの歴史と現在の社会については教えていない。だから、この書物を読むことで、その知識の不足を補おうとする人が少なくなかったらしい。東南アジア諸国の社会と文化はきわめて複雑で、簡単にまとめることができないが、できる範囲でまとめている梅棹の歴史的な記述の能力はなかなかたいしたものである。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(19)

10月4日(金)朝のうちは雨が残っていたが、その後晴れ間が広がる。気温上昇。

 ガルガンチュワはフランスの西の方を支配していたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生の折に「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことから、この名がついた。生まれつき巨大な体躯の持主であり、牛乳と葡萄酒を飲んでますます大きく育ち、しかもなかなか賢い頭脳の持ち主であった。家庭教師の選択を誤って、勉学が停滞したこともあったが、パリでポノクラートについて勉強したことで、学問にも武芸にも秀でた人物として成長してきた。
 グラングゥジェの領民たちが、隣国の住民たちと起こした紛争の結果、隣国のピクロコル王がグラングゥジェの領地に攻め入り、略奪をほしいままにするという出来事が起きた。そのなかで、ジャン修道士が自分の修道院のブドウ畑を守る活躍を見せた。グラングゥジェは平和を求めて、ピクロコルと交渉を行おうとしたが、ピクロコルは聞く耳を持たなかった。そこで、グラングゥジェはパリからガルガンチュワを呼び寄せた。ガルガンチュワは、ポノクラートやその他の家臣とともに故郷に向かったが、その間に遭遇したピクロコル軍に大きな被害を与えた。
 父王の城についたガルガンチュワは、ジャン修道士を呼び寄せ、本格的な攻撃に取り掛かる前に、手勢を率いて偵察を行うことにした。

第42章 修道士が戦友たちを激励したこと、ならびに立木へ吊りさげられてしまったこと(ジャン修道士、仲間を激励するも、木にぶらさがってしまう)
 約30名の偵察隊は、夜中のうちに出動したのであるが、ジャン修道士は仲間たちを激励して、まっさきに飛び出していく。
 ところが、途中に立っていた一本の胡桃(くるみ)の木の下を通ったところ、この木の太い枝の折れ口に、兜のひさしをひっかけてしまった。それにも構わずに、威勢よく馬に拍車を入れたところが、馬の方はやたら元気よく前の方に飛び出し、修道士の方は、まがった枝から廂をはずそうとして手綱を話し、片方の手で枝葉にぶら下がっていたが、馬が走り去ってしまったので、胡桃の樹からぶら下がったまま取り残されたのである。

 この有様を最初に見つけたガルガンチュワの従者のユーデモンが、旧約聖書に出てくるアブサロムそっくりだというと、ガルガンチュワは、アブサロムは頭髪をひっかけられたのだが、ジャン修道士は耳をひっかけたのだなどという⦅アブサロムはダヴィデの王子で、父王に反逆を企てて敗北、逃げる途中で頭髪を気に引っ掛けて身動きできなくなったのである)。
 ジャン修道士がそんなことをいっていないで、早く助けてくれというと、ガルガンチュワの馬術や武芸の師匠であるジムナストが助けに行ってやるぞと言いながら、それにしても言いぶら下がり方だなどと、さらに修道士を揶揄う。そして胡桃の樹に登って修道士を助け出す。

 無事、地上に降り戻った修道士は鎧兜を脱ぎ捨てて法衣だけになり(もともと鎧兜は、他のものにいやいや身につけさせられていたのである)、ユーデモンが捕まえてくれていた自分の馬に乗って、一行の他の人々とともに、先を急ぐのであった。〔ジャン修道士はかっこいいことを言って仲間を激励したのはいいが、自分が醜態を演じてしまった。そういうことはよくあることだが、それでもあまりめげない様子なのが、この人物のいいところである。〕

第43章 ガルガンチュワがピクロコル軍の小部隊と遭遇したこと、ならびに修道士が一路邁進之介(チラヴァン)隊長を殺し、次いで自ら敵兵に捕らえられたこと(ガルガンチュア、ピクロコルの小部隊に遭遇する。修道士はティラヴァン隊長を殺すも、敵兵に捕らえられる)

 ピクロコル王は酒杯(トリぺ)隊長が偵察にやってきたジムナストに切り殺された際に、逃げ帰ってきた兵士たちの話で、悪魔どもが味方の軍兵を襲ったということを聞き、激怒した。そして一晩中会議を開いたが、その折、青葡萄苗之助(アスチヴォー)と臆病山法螺之守(トゥクディ―ヨン)とは、ピクロコル王の軍勢の威勢は強大なので、悪魔は恐れるに足りないと結論した。ピクロコル王はそんな話をまったく信じはしなかったが、かといって、全く信用ができないと思うわけでもなかった。〔どっちつかずである。この王様がその時その時で、目先のことだけにとらわれて判断していることがわかる。〕

 それで一路邁進之介伯爵の引率のもとに1600騎を派遣して、土地の情勢を偵察させることにした〔ガルガンチュワの率いる偵察隊が30人というのと大変な違いである〕。それぞれが敏捷な馬に乗り、悪魔に出会っても大丈夫なようにと聖水をたっぷり浴びて出てきた。あちこち走り回って茂木らしい相手を見つけることができなかったが、羊小屋に隠れていた5人の巡礼がいたのを見つけて、彼らがいくら違うといっても、敵のスパイだろうと縛って引き立てていった。この巡礼たちというのは、第38章でサラダと一緒にガルガンチュワに食べられた5人の巡礼である。
 それからこの一隊はスイイ―のほうへと移動したが、その物音がガルガンチュワの耳に入ったので、彼は部下のものに次のように言った。
「 ――皆の者、いよいよ一合戦だが、相手の数はわれらの10倍以上だ。こっちから討って出るべきだろうなあ?
 ――情なや、(と修道士は言った、)ではどうすればよいと言われるのじゃ? 殿は、勇武剛毅によらずして、員数で人間を量られるのでござるかな?
 それから、こう叫んだ。
 ――突っこめ、突っこめ、阿修羅のごとくに、と。」(渡辺訳、199ページ、宮下訳321-322ページ)

 渡辺が「阿修羅のごとくに」と訳しているところを、宮下さんは「悪魔にかけて」と訳している。このほうが後のピクロコル軍の行動との関係で分かりやすい。彼らは、この叫びを聞いて、これはてっきり本物の悪魔だと考え違いをして、逃げ出し始めた。その中で一路邁進之介隊長だけは、長屋利をしっかりと抱えて、修道士の胸元めがけて突きかかった。ところが、不思議なことに、修道士の魔力の法衣に触れると、槍の穂先がこぼれてしまった。そこをすかさず修道士が棍棒で殴り掛かる。隊長は落馬して、あえない最期を遂げる。ジャン修道士はさらに、逃げる敵を追って、逃げ遅れた連中をとらえては打ちのめしていった。

 ジムナストは、このまますぐに敵を追跡すべきかどうかとガルガンチュワに問う。
 ガルガンチュワは、敵が退路を断たれるところまで追いつめるのは得策ではないと、それ以上の追跡をやめるように言う。敵をとことん追いつめず、むしろ退却の道を確保してやることの方が兵法の常道なのだという。
 ジムナストはこの言葉に納得はするが、ジャン修道士が敵を追いかけてそのまま行ってしまったと知らせる。
 それを聞いたガルガンチュワはひどい目にあうのは敵の方だといって、不慮の事態に備えて、現在地にそのままとどまることを命じる。

 さて、ジャン修道士は敵兵を打倒しながら、前進を続けていったのだが、一人の騎馬武者に追いつき、彼はその馬の知りに例の巡礼の一人を乗せていて、その巡礼が助けを求めて叫んだために、逃げていた敵兵たちは後ろを振り向き、追いかけてきたのがジャン修道士1人であることに気づいて、彼に打ちかかり、捕虜にした。とはいうものの、法衣の力で修道士は痛いともかゆいとも思わなかったのである。
 ガルガンチュワたちが追いかけてこないのは、彼らが退却したからだと判断した敵兵たちは、修道士を2人の兵士たちに見張らせて、反撃に向おうとした。

 ガルガンチュワは、敵が反撃に転じたことを察知して、迎撃の準備をすることを命じる。
 今回は、失敗もあるが、ジャン修道士の活躍が目立つ。捕虜になっても、ガルガンチュワの言うように、そのままではいないのがジャン修道士である。それはさておき、両方の偵察隊が再び正面衝突することになるが、さて、どうなるか、それはまた次回。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(19)

10月3日(木)曇り時々晴れ

 コロンブスの新世界発見の航海に参加し、その後、地球を1周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に向って、世界周遊の途中で訪問した「太陽の都」の概要を語る(コロンブスが新世界に到達してから、100年以上の年月を経て、この物語が書かれていることも念頭に置く必要がある)。
 「太陽の都」は赤道直下、タプロバーナ島(本来はセイロン島のことであるが、この時代の多くの人々と同様に、カンパネッラはスマトラ島のことだと考えていた)の中心部に広がる平原のなかに、七重の城壁をめぐらせて建設された円形の都市であり、「太陽」と呼ばれる神官君主によって支配されている。彼は軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖、教育、医療を司る「愛」という3人の高官によって補佐されている。これら4人の高官を含めて、この都市の役人たちはすべて、教育を通じてその能力・適性を認められた人々のなかから選任される。
 市の中央に建てられた神殿の外壁と、城壁には様々な絵が描かれたり、模型が備え付けられたりしていて、人々の学習に役立てられている。人々は男女の別なく、一定の年齢になったら組織的な教育を受ける。
 出産は男女の適合性を考えて、計画的に行われ、市の住民は一つの家族と考えられている。私有財産はなく、衣類は配給され、食事は共同で行われ、住まいは各人に割り当てられる。主要な産業は農業であるが、牧畜も行われ、また商業や航海も取り組まれている。ただし、貨幣はほとんど流通していない。
 神殿に仕えている24人の神官たちは、天体を観測して世界の動きを察知している。かれらもまた「太陽」の助言者である。

 「太陽の都」の住人たちにとって世界の構造、世界の滅亡とその時期、星は何でできているか、星にはどのような人が住んでいるのかを知るのは大切なことなので、とても綿密に調べているという。
 ここで重要なのは『新約聖書』でイエスの言葉として予言された世界の滅亡が本来異教徒であるはずの『太陽の都』の住人たちによって真剣に信じられているということで、これは、カンパネッラの終末論的な本音が漏らされていると解釈すべきであろう。実際、この辺りから、ジェノヴァ人の話す内容は、終末論的な性格を強く示しはじめる。「彼らはこの世の再生、いやおそらくこの世の終りを待っているのです。」(坂本訳、63ページ)

 また、彼がここで「彼らはアリストテレースの敵で、アリストテレースをえせ学者と呼んでいます。」(坂本訳、同上)と語っているのも重要である。『中世の覚醒』のなかでリチャード・E・ルーベンスタインは「時代によって、プラトンとアリストテレスの受容度が異なっていたことを認識するのが有用である」(ルーベンスタイン『中世の覚醒』、98ページ)と述べ、さらに「アリストテレスが重視される時代には、経済的な成長と、政治的な拡大主義と、文化的な楽観主義が知的な雰囲気を彩っている」(同上)のに対し、「プラトンが重視される時代は不安と渇望が渦巻いている」(ルーベンスタイン、同上書、99ページ)とその違いを要約している。確かに、『太陽と都』は不安と渇望のなかから生まれた書物ということができる。

 「太陽の都」の住民たちは、プトレマイオスやコペルニクスが惑星の運動を説明するために考えた偏心軌道や周転円の存在を否定し、独自の天体学説を構築している(現在の天文学から見れば、論じるに値するものではないので省略する)。ただ、「惑星は独自に動き」(坂本訳、64ページ)という表現に見られるように、カンパネッラは地球を含む惑星が生き物のような存在であると考えていたふしがある(つまりまだ機械論的な宇宙観に至っていない)。「彼らは、太陽に物質の原理を見出し、地球が出来上ったとき、太陽が南にある間に地球の北半球が力をつけてしまったので、太陽は地球の勢力を制するために北半球の上に昇っているとしています。」(坂本訳、65ページ)などという記述からも、このことがうかがわれる。

 カンパネッラの有機体的な宇宙論は、さらに次のように展開される。「彼らは2つの物質的原理を考えています。すなわち、太陽は父で、大地は母で、空気は濁った天、火は太陽より生じ、海は太陽により液体となった大地の汗であって、血が魂と肉体を結びつけているように、それが空気と大地を結びつけている地球は一匹の巨大な獣で、われわれ人間は人体に巣を喰う寄生虫のように、その獣の中にいるのである。」(坂本訳、65‐66ページ)
 しかし、人間は世界や星の意志に従うのでなく、神の御心に従っている。というのは人間は偶然的なものであるからだという(勝手な理屈という感じがしないでもない)。「だが、地球や星を手段として使う神の前では、人間は既知のものであり予測されたものなのであり、まさにこのためにこそ、神を主として父として全体として考える義務があるのだとしております。」(坂本訳、66ページ)

 この後ジェノヴァ人が語るのは、『太陽の都』の住人たちのものの考え方をめぐる神学的な議論が主となる。カンパネッラが修道士であったことを考えれば無理もないことであるが、今日の我々にとってはあまり関係のない議論である。その中に混じって、『太陽の都』の住民たちの意見に託して、じつはカンパネッラ自身の終末論的、あるいは少なくとも未来についての希望と悲観とが入り混じった予言が展開される。言葉だけを追っていると、真意を測りかねるような箇所も少なくないのだが、なんとかその意味を読み取っていきたいと思う。いよいよわかりにくくなってきたと思う方もいらっしゃるかもしれないが、あと5回か6回でこの本の紹介も終わると思うので、いましばらくお付き合いください。

ポール・ギャリコ『幽霊が多すぎる』

10月2日(水)晴れ、気温上昇、暑い日が続くが、風邪は完治しない。

 9月30日、ポール・ギャリコ『幽霊が多すぎる』(創元推理文庫)を読み終える。
 この『幽霊が多すぎる』(Too Many Ghosts, 1959)は『スノーグース』(The Snow Goose, 1941)、『雪のひとひら』(Snowflake, 1952)、『七つの人形の恋物語』(Love of Seven Dolls, 1954)、『猫語の教科書』(The Silent Miaow,1964)、『ほんものの魔法使』(The Man Who Was Magic: A Tale of Innocence, 1966)、映画『ポセイドン・アドベンチャー』の原作である『ポセイドン』(The Poseidon Adventure, 1969)など様々な作品を書きつづけたポール・ギャリコ(Paul Gallico, 1897-1976)の唯一の長編推理小説である。

 ギャリコはニューヨーク生まれの移民二世の作家であるが、この作品は1950年代のイングランド東部ノーフォークの16世紀に建てられたパラダイン館という貴族の城館が舞台となっている。第二次世界大戦後の英国では、福祉国家政策がとられた結果、相続税が厳しくとりたてられるようになり、貴族・上流階級の没落が顕著な現象になったというのは、アガサ・クリスティの作品などでおなじみの社会的な状況である。
 当主の死によって莫大な相続税を支払わなければならず、財政的に危機に陥ったパラダイン家は城館の東翼をカントリー・クラブとして開放し、当座の収入を確保することにした。しかし、その東翼でポルターガイストが悪戯を始めた。同じころに修道衣をまとい、フードを被って薄暗い廊下を音もなく歩きまわるという、この城館に古くから伝えられている尼僧の幽霊が、1世紀半ぶりに姿を現した。さらにこの城館の音楽室で、深夜ハープがひとりでに音楽を奏で始めるという怪異も経験された。そしてポルターガイストが東翼だけでなく、西翼にも出没するようになっただけでなく、ある晩餐の席で、この幽霊騒ぎにはおぞましい、危険な、命にかかわりかねない何かが潜んでいると思わせるような事件が起きたために、神霊研究家、私立探偵、悪霊祓い師、そして家屋除霊師という肩書を持つアレグザンダー・ヒーローを解決のために呼び寄せることになった。

 城館に住むパラダイン家の人々は当主のジョン・パラダイン卿(男爵)、その妻であるイーニッド、息子のマーク、娘のエリザベス(ベス)、パラダイン卿の妹のオナラブル・イザベル、故人となった弟の子であるフレデリック(フレディ)であり、そのほかに、彼らの客として隣人であるリチャード・ロッケリー卿(准男爵)と、ベスがロンドンで友だちになったというアメリカの外交官の娘で驚くほど美しいスーザン・マーシャルである。
 東翼のカントリー・ハウスの客というのは、下院議員のホレース・スペンドレー=カーターとその妻のシルビア、娘のノーリーン、隠居した服地商であるアルフレッド・ジェリコット、原子物理学者のエベラード・ポールスン、陸軍少佐のハワード・ウィルスンとその妻ヴィヴィアン、寡婦のジェラルディン・テイラー、水力発電技師のディーン・エリスンである。
 このほかにポルターガイストが大暴れした晩餐には、教区牧師のハリー・ウィザースプーンと医師のサミュエル・ウィンターズが招かれていた。
 探偵役のアレグザンダー・ヒーローは、英国に亡命してきたユグノー(フランスのプロテスタント)の子孫で、好奇心いっぱいで出しゃばりの通いの家政婦ハリス夫人(ギャリコの別のシリーズの女主人公でこの作品には「カメオ出演」している)の干渉をよそに、義理の妹であるレディ・マーガレット・カランダー(メグ)の助言を得ながら、捜査に当たる。後になって、メグもパラダイン邸に乗り込むことになる。

 ギャリコの名作といえる『本物の魔法使』は、ひと目を欺く<魔術師>たちのなかに、本物の魔法使いが紛れ込んできたために起きる騒ぎを描いているが、パラディン城館で起きる怪奇現象は本当に幽霊が起こしているものか、それともだれか現実の人間がそのように見せかけているのか。ヒーローが見抜いたように、「幽霊が多すぎる」。パラディン館を取り巻く様々な怪奇現象は、どうも複数の人物が関係して起きているもののようであり、彼らを取り巻く事情は複雑に入り組んでいる。
 そして、マークとリチャード(ディック)、さらには探偵役のはずのアレグザンダー・ヒーローまでスーザンの魅力に取りつかれるし⦅「いとこのフレディ」も忘れてはいけない⦆、ベスはディックを愛しているらしい、ディックの息子のジュリアンはベスの方を母親にしたがっている。ディックに思いを寄せる女性はほかにもいるかもしれず…。さらに、メグが継兄を見つめる視線には何やら異様なものがあると観察した人間もいる…。

 これは1950年代の終わりに書かれた、ほぼ同時代の状況を反映した小説であり、21世紀の今日になってみると、幽霊が出るというのはスキャンダルであるよりも、宣伝材料である。現実に、私も幽霊が出るということを案内に堂々と書いているホテルに泊まったことがある。そういう時代の変化を考えると、この作品で魅力的に思われるのは、さまざまな怪奇現象が果たして本物なのか、それとも誰かが仕組んだものなのかというなぞときよりも、入り組んだ人間関係やそのなかでの人々の思いの描写ではないかと思う。パラディン卿はカントリー・ハウスの経営を結構楽しんでおり、オナラブル・イザベルはカントリー・ハウスを不快に思っている。兄妹でも価値観が違う。そうしたことも、案外身近なことがらかも知れず、一見、浮世離れしたこの作品に現実性を与えているようにも思われる。そしてそういう現実性が、この作品のミステリーとしての骨格を支えているのである。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR