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2019年の2019を目指して(9)

9月30日(月)曇りのち晴れ

 9月の間に新たに行動半径を広げるということはなかったが、三田駅で乗り換え、神奈川中央交通バスの1路線を新たに利用したので、その分で数字が動いている。
 足跡を刻んだのは1都1県(東京・神奈川)、1市6区(横浜市/品川区、渋谷区、新宿区、千代田区、文京区、港区)である。
 利用した鉄道は6社(東京メトロ、東急、東京都営、横浜市営、JR東日本、京急)、12路線(東急東横線、目黒線、大井町線/東京メトロ南北線、半蔵門線、副都心線/東京都営三田線、新宿線/JR東日本根岸・京浜東北線、横浜線/横浜市営地下鉄ブルーライン/京急本線)、
 乗降駅が15駅(石川町、御成門、神奈川新町、上大岡、関内、小机、渋谷、白金台、新宿三丁目、神保町、新横浜、反町、本駒込、目黒、横浜)、乗換駅が6駅(大岡山、自由が丘、永田町、東神奈川、日吉、三田)ということである。
 バスは4社(横浜市営、神奈川中央、相鉄、江ノ電)、17路線(横浜市営9路線、相鉄5路線、神奈中2路線、江ノ電1路線)、14停留所ということである。

 この記事を含めて31件の原稿をブログに投稿している。1月からの合計は276件ということになる。内訳は日記7件、読書10件、『太平記』4件、ジェイン・オースティン5件、ラブレー4件、推理小説1件ということである。1月からの合計では、日記が51件、読書が59件、読書(歴史)が34件、トマス・モア『ユートピア』が8件、読書(言語ノート)が9件、『太平記』が39件、ジェイン・オースティンが25件、ラブレー18件、ダンテ『神曲』20件、推理小説が5件、詩が6件、映画が1件、未分類が1件ということになる。いただいたコメント、拍手コメントはなく、それぞれ通算では6件、1件のままである。〔282〕

 10冊の本を買い、10冊の本を読んだ。1月からの買った本の通算は95冊、読んだ本の通算は90冊である。
 9月に読んだ本を列挙すると:マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』(岩波文庫)、椎名誠 目黒考二『本人に訊く<壱>よろしく懐旧篇』(集英社文庫)、本郷和人『日本中世史の核心 頼朝、尊氏、そして信長』(朝日文庫)、杉山利恵子『フランス語でつづる私の毎日』(三修社)、東海林さだお『ヒマつぶしの作法』(SB新書)、ピエール・ミュッソ『サン=シモンとサン=シモン主義』(文庫クセジュ)、愛川晶『高座のホームズみたび 昭和稲荷町落語探偵』(中公文庫)、遠藤ケイ『鉄に聴け 鍛冶屋列伝』(ちくま文庫)、寺尾紗穂『南洋と私』(中公文庫)、ポール・ギャリコ『幽霊が多すぎる』(創元推理文庫)
ということである。〔93〕

 『ラジオ英会話』を18回、『遠山顕の英会話楽習』を9回、『入門ビジネス英語』を9回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』を168回、『遠山顕の英会話楽習』を105回、『入門ビジネス英語』を52回、『高校生からはじめる「現代英語」』を72回、『実践ビジネス英語』を108回聴いたことになる。このほか8月の特別番組”Let's Learn English in English"を5回聴いている。
 『入門ビジネス英語』の9月30日からの後期の放送は、これまでのように4月~9月の放送分の再放送ではなく、2017年4月~9月の放送分の再放送なので、数に入れることにした。上記のほかに、『英会話タイムトライアル』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『世界へ発信 ニュースで英語術』、『ボキャブライダー』の時間も聞いているが、数に入れていない。
 『まいにちフランス語』入門編を12回、『まいにちスペイン語』初級編を12回、中級編を7回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を8回聴いている。1月からの通算では『まいにちフランス語』入門編を101回、応用編を44回、『まいにちスペイン語』入門編を31回、初級編を58回、中級編を67回、『まいにちイタリア語』入門編を69回、初級編を31回、応用編を67回聴いたことになる。
 このほかに、『まいにちロシア語』と『ポルトガル語講座』もできるだけ聞くようにしていた。〔978〕

 映画を見に出かける機会はなかった。このため出かけた映画館は2館、みた映画は9本にとどまっている。〔11〕
 早川修さんの個展を見に出かけたので、出かけた展覧会は3回ということになる。〔3〕

 サッカーの試合を4試合観戦した。J2が2試合、なでしこリーグ2部が2試合である。合計では30試合を観戦していることになる。1124回のミニトトBをあてたので、当てた数の合計は20回ということになる。〔50〕
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日記抄(9月24日~30日)

9月30日(月)朝のうちは曇っていたが、次第に晴れ間が広がる。

 9月24日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

9月20日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Curiosity is, in greeat and generous minds, the first passion and the last.
    ―― Samuel Johnson (English lexicographer and author, 1709 - 84)
(好奇心は、賢明で心の広い人たちにとって、最初の情熱であり、最後の情熱である。)
 lexicographer(辞書編纂者)というのは、ジョンソンが最初の本格的な英語辞書Dictionary of English Language; を編纂したからである。ちなみにこの辞書のなかでlexicographerについては次のように説明されている:
A writer of dictionaries, a harmless drudge. (辞書の書き手、無害かつ辛気臭い仕事をこつこつとやり遂げる人)

9月24日
 『朝日』、『日経』両紙に、英国の老舗の旅行会社であるトーマス・クック社が倒産したという記事が出ていた。近代ツーリズムの祖といわれるトーマス・クック(1808‐1892)の創始になり、幅広く事業を展開してきたが、インターネットによる予約が盛んになるなどの新しい動きに対応できず、最近の政情不安や不況も手伝ってついに店じまいということになった。英国のレスターの駅の前にトーマス・クックの銅像が建てられているが、小さな像であり、いたずらが絶えないような様子であったことを思い出す。

9月25日
 NHK『ラジオ英会話』の問題:「彼女は割り勘にしようと言い張った。」の英訳は
 She insisted on going Dutch.
 go Dutchは「各人自分の分を払う、割り勘にする《特に食事代を》」(研究社『リーダーズ英和中辞典』)ということであるが、Dutchが出てくる慣用表現はほかにもあるようである。
 オランダ人には英語の上手な人が多いといわれるが、大学院時代に時々話をしたオランダからの留学生は日本語が上手であった。

 ピエール・ミュッソ『サン=シモンとサン=シモン主義』(文庫クセジュ)を読み終える。

9月26日
 『まいにちロシア語』応用編の『ロシア縦断紀行』を聞くともなしに聞いていたら、「ヴォルガはカスピ海に注ぐ」(Волга впадает  в Каспийское Море)という表現が出てきた。これはチェーホフの短編小説「文学の教師」に登場する誰でも知っているような当たり前のことしか言わない地理の教師の言葉なのだそうである。現在のロシア語では、誰かの発言に対して、それはもう誰もが知っているよと注意するようなときに、この言葉を使うのだという。
 しかし、実際にヴォルガ川がカスピ海にそそぐ場面を見たという人はそれほど多くないだろうし、実際に見てみたら感想は違うだろうというのが、番組のなかでいわれていたことである。
 わたしは新潟港から小樽までフェリーで旅行したことがあり、「信濃川が日本海にそそぐ」場面も見ているが、それほど感動したという記憶はない。

9月27日
 フリードリヒ・グルダ、イェルク・デームスとともにウィーン三羽烏といわれたピアニストのパウル・バドゥラ≂スコダさんが25日にウィーンで亡くなられたという記事を見かけた。1961年のことだったと思うが、来日されたときに、紅葉坂の県立音楽堂で演奏を聞いたという記憶がある(両親が音楽が好きだったのである)。
 大学につとめていた時の同僚の一人が、デームスに師事した人であり、グルダの2人目の奥さんを知っているという人もいた。1960年代に比べて、世界は確実に狭くなっていたのである。

 午後、東京に出かけ、病院で下肢静脈超音波検査を受ける。医師の意見では、足がむくんでいるのが気になるのだそうだ。

9月28日
 遠藤ケイ『鉄に聴け 鍛冶屋列伝』(ちくま文庫)を読み終える。自分自身も鍛冶屋のまねごとをしているという著者が、新潟県三条市、福井県越前市(旧武生市)、兵庫県三木市をはじめとして、全国の鍛冶の名匠をたずねては入門し、その技を描き出そう(イラスト入りである)という試みである。
 私の最初の職場で先輩だった先生の1人が、退職後、福井県の製鉄遺跡の調査を始められて、その様子がOB会の冊子に報告されていたことがあるが、まとまった本になったかどうか気になっている。

9月29日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」に関口存男の「いったい若い者のやらかす無意味なことほど意味深いものはありません」という言葉が取り上げられていた。鷲田清一さんが解説しているが、ここで無意味なことをやらかした若い者というのは関口自身であったというのがこの言葉を考える際に重要な点である。
 内田百閒の数少ない長編小説の1編『居候匆々』は、百閒が務めていた法政大学における内紛を、学生の目から描いた作品で、百閒自身と思しき教師も登場する。この紛争の一方の背景にいたのが関口で、彼らが追い出そうとした教師の1人が百閒だったというのもよく知られている話である。

 寺尾紗穂『南洋と私』(中公文庫)を読み終える。
 後半、サイパン家政女学校を創設した青柳寛孝という人物の足跡が丹念にたどられているが、この人は新潟県の上越市(旧高田市)の寺の出身で、渡辺海旭(武田泰淳の叔父で、芝学園の創設者でもある)の弟子であったという。

9月30日
 まだ9月であるが、ラジオの語学番組は新学期に入った。今学期も『ラジオ英会話』、『遠山顕の英会話楽習』、『入門ビジネス英語』、『高校生からはじめる「現代英語」』、『実践ビジネス英語』、『まいにちフランス語』、『まいにちスペイン語』、『まいにちイタリア語』を聴いていくつもりである。

『朝日』の長官に2020年度からの入試開花腕、大学が受験生の自ら学ぼうとする「主体性」を評価するよう文部科学書府から求められているというが、入試ではなく、教育の過程でそのような力を養えばいいのではないかと思う。それにこういう態度は、個人個人の個性の一部であって、横並びで身に着けさせようというのはどうかという気もする。

 同じ『朝日』の長官に「町中華 愛される理由」という記事が出ていた。
 「町中華の再強打線!」というイラストと、その「打順」(餃子がトップ・バッター、「中華そば」が4番、「ワンタンメン」が9番打者…)が面白い。そういえば、この記事の中で振られれている、「五十番」は王貞治さんの実家を含む一族が経営している中華料理店のグループであるが、横浜駅西口にあった店をはじめ、最近、見かけることが少なくなってきているのは気になることである。
 長期にわたって根強い人気を持つ野球漫画『キャプテン』に登場するイガラシ君の実家がそういえば、中華料理店であった。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(12)

9月29日(日)曇り

 19世紀の初めごろのイングランド、ロンドンの北に位置するハートフォードシアの地主ベネット氏にはジェイン、エリザベス、メアリ、キャサリン、リディアという5人の娘があり、男子はいなかった。この家系の決まりで、財産は男子が相続することになっていたので、娘達は財産は相続できず、それが不満なベネット夫人は、娘たちの誰か1人でも、裕福な男性と結婚してくれることを願っていた。
 長女のジェインは、ベネット家の住むロングボーンの近くに邸宅を借りた北イングランドの金持ちであるビングリー氏とその姉妹たちと付き合い始め、エリザベスもその仲間に入る。ビングリー氏の親友であるダーシー氏も、ビングリーの邸宅に滞在していて、ダーシー氏とエリザベスの初めての出会いの印象は最悪なものであったが、その後、なぜかダーシー氏はエリザベスの茶目っ気のある表情豊かな目とその姿かたちに魅力を感じ始める。一方、エリザベスは、そんなことに気づかず、ダーシー氏に初めての出会い以来の偏見を抱いたままである。
 ベネット家の財産を継承することになるコリンズ氏は、幸運にもケント(ロンドンの東南の州)の教区牧師の職を得たが、それをきっかけに、ベネット家を訪問して、和解しようとする。実は彼には、美人ぞろいで気立てもいいという噂のベネット家の令嬢の1人と結婚して、相続の埋め合わせをしようという腹積もりがあったのである。そしてどうも彼が白羽の矢を立てたのはエリザベスらしい。
 ベネット家の下の2人の娘であるキャサリンとリディアは、近くの町に駐屯する軍の士官たちを追いかけまわしているが、ジェインとエリザベスは(コリンズ氏も共に)彼女たちと町に住む伯母を訪問した折に、ウィッカム氏という新任の士官と出会う。どうも彼はダーシー氏と知り合いらしい。伯母の家に招待を受けて、ウィッカム氏と再会したエリザベスは、ウィッカム氏がダーシー氏と子ども時代一緒だったこと、牧師になりたいという彼の希望が(牧師禄の推薦権を持つ)ダーシー氏のために断たれたことなどを語る。(以上第1巻第16章の途中まで)

 エリザベスとウィッカム氏の会話は続く。ダーシー氏には15・6歳の妹がいて(かなり年齢差があることになる)、父親の死後は、教育係の女性とともにロンドンに住んでいる。美人で、才芸にも長けているという(ウィッカム氏はこの件をめぐって1つ大事なことを話していない――話すわけにはいかないのだが、それはあとで明らかになる)。
 エリザベスは、性格のいいビングリー氏がなぜ、あまり性格がいいとは思えないダーシー氏と親密なのかわからないと、その理由をウィッカム氏にたずねるが、ウィッカム氏もはっきりしたことがわかるわけではない。
 ホイストをしていた組のゲームが終了し、人々が一緒になったときに、ホイストで負け続けたコリンズ氏に対し、同情する声があった。しかし、コリンズ氏は、自分はレディー・キャサリン・ド・バーグのおかげで十分な収入を得られる地位に就いたので、このような些細なことを気に病むことはないと平静さを装う。

 レディー・キャサリン・ド・バーグという名を聞いて、ウィッカム氏が反応する。ベネット家の身内であるコリンズ氏はレディー・キャサリン・ド・バーグと縁者であるのかと、エリザベスにたずねる。彼女は、どのようないきさつからかは知らないが、最近になって恩顧を受けて教区牧師に任じられたというだけで、古い付き合いではないはずだと答える。
 すると、ウィッカム氏は、レディー・キャサリン・ド・バーグの姉のレディー・アン(すでに亡くなっているらしい)がダーシー氏の母であると、打ち明ける。レディー・キャサリン・ド・バーグの令嬢であるミス・ド・バーグは莫大な財産を相続するはずであるが、いずれ従兄であるダーシー氏と結婚して両者の資産は1つになるだろうというのがもっぱらの見通しであるという。
 エリザベスは、ミス・ビングリーはダーシー氏と結婚したがっているが、そのような見通しを持たれている強敵がいたのでは、望みは薄いだろうと思わず頬を緩めるのであった。

 コリンズ氏はレディー・キャサリン・ド・バーグの人物像を過大に評価するのではないか、彼女はかなり尊大な人物ではないかというエリザベスの問いに対し、ウィッカム氏は「実に尊大で自惚れの強いひとです」(大島訳、152ページ)とそれを肯定する。(物語の進行のなかで、レディー・キャサリン・ド・バーグご本人が登場するので、エリザベスの推測、ウィッカム氏の評価が正確なものかどうかは、読者自身で判断できるはずである。)
 その後、夜食が始まるが、その席はきわめてにぎやかだった。リデイァは例によって騒々しく、コリンズ氏はもったいぶった話をつづけたが、ウィッカム氏は誰にでも好感を与えるような態度でほかの人々と接していた。

 翌日、エリザベスはジェインにウィッカムとの間で交わされた話題を話した。ジェインはエリザベスが語ったことを信じようとせず、ダーシー氏とウィッカム氏との間に何か誤解があるのではないかと推測する。そしてもし、ダーシー氏がウィッカム氏がエリザベスに語ったような人物でビングリー氏が騙されているとすれば、悲しいことだと考える。(頭がよく働くエリザベスと、気立てがよく、できるだけ周囲の事柄を善意に解釈しようとするジェインとの性格の対比が際立つ。)

 二人が話していると、ビングリー氏が彼の姉妹とともにやって来て、次の週の火曜日に彼の邸宅で開かれる舞踏会に招待する。主宰者が直接招待にやって来たことに、ベネット夫人は大喜びするが、ビングリー氏の姉妹は、ジェインとは親しく話をしたが、エリザベスにはほとんど話しかけず、あとの人々は無視して、さっさと帰ったのであった。
 ジェインはビングリー氏とその姉妹からもてなしを受けることを想像し、エリザベスはウィッカム氏とたっぷり踊って、その姿をダーシー氏に見せつけてやろうと考え、ほかの姉妹たちはそれほどはっきりした期待はしていなかったが、舞踏会を楽しみにしていた。
 気分が浮き立っていたエリザベスはコリンズ氏に、あなたも舞踏会に出席するのかと質問する。コリンズ氏は牧師の職にあるものとして、このような社交の場に参加することは当然の仕事であるといい、参加するだけでなく、最初の2回のダンスをエリザベスに申し込む。エリザベスは藪をつついて蛇を出す結果になってしまったことを後悔したが、騒ぎ立てると面倒なことになりそうなので、おとなしくしていた。それから当日までは、雨が降り続き、ベネット家の人々は動きを封じられることになる。  

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(27)

9月28日(土)曇り

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、川村俊蔵(霊長類学)、小川房人(植物生態学)、依田恭二(植物生態学)、吉川公雄(昆虫学、医師)、藤岡喜愛(文化人類学)の各隊員とともに、主として北タイを調査地として、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌とを研究した。これはその調査旅行の個人的な記録である。
 1957年11月にバンコクに集合した一行は、第9回太平洋学術会議に参加し、その後、カンボジアのアンコール・ワットを訪問、12月末にバンコクを出発して北タイに向かう。1958年1月にタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登頂、途中、ビルマから越境してきた山岳少数民族であるカレン族と遭遇した。その後、中国から南進してきた山岳少数民族であるメオ族の集落を訪問、また川村の研究対象であるテナガザルの生息地をたずねて回る。予備的な調査が終わって、タイ北部の中心的な都市であるチェンマイに戻り、本格的な調査のための準備を始める。

第10章 ランナータイ王国の首都
 日本の影絵芝居
 チェンマイの町には何軒かの映画館があったが、映画館の前にはスチル写真を見る若者たちが大勢集まっていた。映画は市民に人気のある娯楽のようであった。
 「映画はもちろん、タイでたくさんつくっている。スチルを見ているかぎりでは、日本の映画とひじょうにふんい気が似ている。都会の、上層中産階級あたりの生活を背景にしたメロドラマふうのものが多いのではないだろうか。外国映画も入ってきている。多いのは、インド映画と日本映画だ。ほかに香港映画もアメリカ物も入っている。」(277ページ)
 インド映画はおとぎ話めいた歌物語、日本映画はチャンバラものが多いと梅棹は観察した。これらの観察がどの程度、正確なものかは確認の必要がありそうだ。タイの恋愛ドラマが現実離れをしているというのは、しばしば指摘されてきたことらしく、「都会の、上層中産階級」などという設定が、当時のタイの社会でどの程度現実性を持っていたのかは、たしかに疑わしいところである(現在のタイは、かなり豊かになっているので、ありえないことではないだろうが…) もっとも、例えば、『君の名は』のようなこの時代の日本のメロドラマがどの程度、日本社会の現実を反映していたかも考えてみる必要があるかもしれない。映画は観客の夢の反映でもあるし、そのような夢も社会心理としての現実ではある、とはいうものの現実と夢との距離は程度問題である。

 さて、梅棹たちはある晩、タイ映画を見に出かけた。香港の映画会社との合作で、『スラナーリー』という題のカラー映画であった(この時期、日本ではまだ白黒映画がほとんどだった。1956年に東宝が香港のショウ・ブラザーズと合作で作った山口淑子主演の『白夫人の妖恋』は、そういえばカラーであった)。タイの映画は、大抵はカラーであるが、奇妙なことにサイレントが多いという。これは、フィルムを買えば、現像は売り手の方でやってくれるが、録音は自前の設備を必要とするからであろうと梅棹は推測している。

 梅棹たちが見た映画はトーキーであったが、タイ語がわからないので、筋がつかめない。あとで、各自が推測するストーリーを話し合ったが、みな違うことをいう。通訳として参加していた留学生の葉山が本当のすじを解説してくれた。それは外敵の侵入に対し英雄的に戦った、タイの女傑の話であった。『スラナーリー』というのは、その女傑の名前だったのである。物語の詳しいことはあとで語られる

 ところで、タイ語で映画のことを「ナン・ジープン」というが、「ナン」というのは、昔からあるタイの影絵芝居であり、「ナン・ジープン」は「日本の影絵芝居」ということになる。
 タイに映画をもたらしたのは、マラヤでゴム園を経営していた渡辺治水という人物であり、彼は1904年に日本に帰国したとき、ちょうど日露戦争の記録映画が大当たりをとっているのを見て、さっそく映画の上映機材一式とフィルムを買って帰り、その年の10月にバンコクで興行した。これがタイにおける最初の映画興行であったという。
 なお、チェンマイで最初に映画の興行を行ったのは、田中老人であった。彼は戦前、市内で映画館を経営していたのだという。これらのことは田中純一郎の『日本映画発達史』にも記載されているとのことである(田中『日本映画発達史』は中公文庫に入っていたことがあるので古本屋で探してみるといいかもしれない)。

 踊りのけいこ
 一行が止宿しているILO職員の生駒さんの家の隣が私立の、日本でいうと中学校と高等学校を合わせたような段階の私立学校であって、その生徒たちはなかなか陽気に学校生活を過ごしている様子であった。タイの学校には戦前の日本の学校にあったような厳しい道徳主義のリゴリズムが見られないようであるのはいいことだと梅棹は感じる(梅棹という人は、小学校6年のところを5年で中学に入学し、中学校5年のところを4年で高等学校に入学し、高等学校3年のところを2年落第して5年在学したという人だから、戦前の日本の小学校や中学校の雰囲気は嫌いだったのであろう)。

 その学校の女子生徒たちが、夜になると、学校に残って踊りの稽古をしている。タイの伝統的な舞踊であるが、タイの民族衣装ではなく、通学服のままで踊っても、けっこう見ていて楽しめる。踊りよりも、衣装の方に重点があるような日本舞踊に比べると、タイの踊りは楽しいものだと思う。日本は芸術的にすぐれた国であるが、踊りはだめだというのが梅棹の意見である(梅棹が京都の人で、子どものころから都踊りだのなんだの見なれているということを考慮すると、この意見は重みをもつ)。
 メー・ピンの橋のたもとに仏教会館が建つので、その落成記念式に奉納する踊りの練習をしていたのだそうである。

 3人姉妹
 生駒さんの家の台所では、2人のタイ人女性が働いていて、1人は中年のおばさん、1人は少女だった。おばさんの方は身なりもよく、態度物腰も上品で、召使風には見えない。実は彼女は、生駒邸の本来の持主で、生駒さんに自分の家を貸して、自分はその家政婦にやとわれ、同じ敷地の中にある姉の家からこの家に通ってきているのである。
 梅棹はその姉の家にも遊びに出かけたが、都市の住宅といっても、農村の住宅と基本的なつくりは同じで、2階建てで、1回は物置などに使われ、家族は2階で生活している。ここでも、天井はなく、屋根裏がむき出しになっている。
 しかし、住宅の構造以上に興味深かったのは、家族の構造である。おばさんとその姉さんのほかにもう1人姉妹がいて、やはり同じ場所に家を持って暮らしている。もともと、3人姉妹の親が3人にそれぞれの家を建て、3人が結婚するとそれぞれの夫がこの家に移り住んだのだという。一種の母系家族であるが、一世代ごとに財産分けをして、解散してしまい、「家」が連綿と続くということにはしないのだそうである。

 憲兵曹長とその家族
 市民の家庭生活の内部を除くことは旅行者には難しいが、それでも何とかしてみようと、梅棹は生駒さんの助手のソムウォンに相談して見ると、彼は自分の友達の1人に話をつけ、梅棹は吉川と2人でその家に遊びに出かけた。

 相手の家族は、師団司令部に勤務する30歳ぐらいで憲兵曹長の夫、同年配の妻、5歳の男の子、3歳の女の子という4人暮らしだった。先に述べた生駒さんの家の家政婦(であり家主)の姉の家と同様総板張りで、台所は戸外にあった。床はあるが、屋根がない。台所に水道はなく、水は裏の井戸から組む。水くみは、夫の仕事であるという。

 梅棹と吉川は、昼食をごちそうになった。北タイでは、主食はもち米であるが、この家では南タイと同じように、普通のご飯が出た。魚料理や鶏料理が出て、どれもトウガラシがすごく利いているが、甘からず、塩辛くもなく、梅棹はおいしいと思った(料理の感想は個人で違うものなので、こういう感想もあるのかということを記憶にとどめればよいだろう。私はバンコクでもち米のご飯も食べたが、同じようにおいしく食べたという感想がある)。

 この家を訪問して驚いたのは、憲兵曹長が大型の自家用車を持っていることであった。彼は現役の早朝なのだから、朝は憲兵隊に出勤する。しかし、午後に勤務を終わってからは、この車を使ってハイヤーの営業をする。そういう官吏の兼業は、タイでは珍しいことではないのだという。
 「へやの中のかべには、軍服と、MPのヘルメットがかかっていた。かれは、さっぱりしたアロハ・シャツに着かえて、夕方の仕事にとりかかった。憲兵は、運転手に早がわりした。ハイヤーの注文がきているのである。結婚式の迎えにゆくのだそうだ。」(285ページ)

 女将軍の奮戦
 数日来、歯ぐきをはらしている藤岡が、どうにも我慢ができなくなって、歯医者の看板の出ている家に飛び込んだ。診察室には若い美人が1人いた。藤岡が「ドクターにお目にかかりたい」というと、その女性が、「私がドクターです」といったので、藤岡は驚いたが、彼女のおかげで、歯痛はたちまち治ってしまった。
 考えてみれば驚くような話ではない。日本でも女医は珍しい存在ではないし、当の藤岡の夫人だって医師なのである。日本ではあまり知られていない事実だが、東南アジア諸国では共通に、女性の教育程度は高く、社会の各方面における女性の進出がみられる。〔東南アジアの女性の社会的な地位や教育程度が低いと思い込むことが、日本社会における女性の社会的な地位や教育程度に対する考え方を反映しているということなのかもしれない。〕

 タイの歴史を見ていくと女性の役割が極めて大きいことに気づく。時として彼女たちは本当に戦場に出て、武器を取って戦うこともあった。チェンマイでは、15世紀の半ば、チェンマイの王は当方のプレー氏を攻略するために兵を出したが、遠征軍を指揮していたのは、王の生母であるマハーテウィー女王であった。そして迎え撃つプレーの太守もターオ・メークンという女性であった。両軍とも女将軍に率いられた戦争というのも、世界の歴史の中で珍しいのではないだろうか。

 他にも女性が活躍した例は少なくない。1549年、タビンシュエティー王に率いられたビルマの大軍は、当時のタイの首都であったアユタヤを包囲し、アユタヤ王マハー・チャクラパットは、奮戦よくビルマ軍を退け、タイの独立を維持する。この時、王妃および王女たちは,力闘のすえ戦死したという。
 梅棹が見た映画『スラナーリー』もそのような女性の奮闘が国を救った例を描いたものであった。
 1826年、ヴィエンチャン(現在のラオスの首都である)王アーヌは、宗主国タイに反旗を翻し、コーラート(タイの東北部)に侵入する。コーラートは陥落し、住民たちは強制移住させられるのだが、その途中、コーラートの太守の妻スラナーリーは、ラオス軍の兵士たちを酒に酔いつぶれさせておいて、夜中に女たちを指揮して反乱を起こし、ラオス軍を全滅させたのである。「映画で、女傑スラナーリーを演じたのはタイきっての名女優といわれる人だそうだ。」(287-288ページ)

 タイは日本よりも早く女性の首相を出現させたし、確かに女性の活躍が目立つ国である。ただ、女性が活躍するといっても、どのような方面で活躍するかというのも問題だし、その地位にあって何をするのかというのも問題である。さらに言えば、女性といっても様々な社会階層に分かれていて、その利害関係は一枚岩ではないのである。

 余計な話を一つ付け加えておけば、西洋史でも「ペティコートの戦い」と呼ばれる「七年戦争」(1754-1763,7年と呼ばれるのは本格的な戦闘が1756年から始まったからである)というのがあって、オーストリア継承戦争で敗れたオーストリアのマリア・テレジア女帝が、フランスのルイXV世の愛妾であったポンパドゥール侯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝とともに、宿敵であるプロイセンのフリードリヒ大王に対して起こした戦争をいう。戦争は苦戦を重ねたもののプロイセンの勝利に終わるが、敗れたオーストリアはさらなる戦いを予期して教育に目を向け、ウィーンに理科系の中等学校であるテレジアーヌム(オーストリア風の発音ではテレシアーヌム)という学校を設置する。またポンパドゥール夫人は没落貴族の子弟を対象とする理科系・軍事系の学校を設置し、これがフランス革命後に華々しい展開を見せるグラン・ゼコールの基礎をなす。ポンパドゥール夫人の設立した学校のなかで教育を受けたのがナポレオンである。エリザヴェータ女帝は戦争終結前に死去しているが、モスクワ大学を設立したから、3人はそれぞれ教育の歴史の上では輝かしい貢献をしたことになる。

 今回をもって、梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』の紹介を終るが、下巻に収録されているこの書物の第11章「配置を終る」で、この旅行記ははっきりと区切られているので、あと1回、下巻に入りこんで紹介をつづけ、その後しばらくお休みということにしたいと思う。

 一昨日の当ブログで、本日あたりから風邪も治るだろうし、いつも通りに皆さまのブログを訪問するつもりだと書いたのですが、まだ自重を要する体調なので、もう少し、訪問を延期させていただきます。

愛川晶『高座のホームズみたび――昭和稲荷町らくご探偵』

9月27日(金)曇りのち晴れ

 愛川晶『高座のホームズみたび――昭和稲荷町らくご探偵』(中公文庫)を読み終える。

 西伊豆の禅寺で仏像の写真を撮っていたカメラマンの鈴木さやかは、老住職との会話から、この住職が昔、落語家であったことを知る。落語家が僧侶に転身した理由とは…それは8代目の林家正蔵(彦六)が得意にしていた「一眼国」という噺と関係があるのだという。
 
 昭和54(1979)年のこと、新宿区神楽坂にある寄席・神楽坂倶楽部では正蔵が「一眼国」を演じていた。この日、トリを務める佃家傳蔵の弟子である佃家梅蔵と花蔵は下手の袖でその話を聴きながら感心しきりであったが、そろそろ自分の師匠が楽屋入りをする時間だと思って楽屋に戻ろうとする。師匠との相性が悪く、真打にはなったものの一門の由緒のある名前を継がせてもらえなかった梅蔵と、対照的に、異例の速さで真打に昇進することが決まっている花蔵であるが、2人の仲は良い。その花蔵が過日、師匠からけいこをつけてもらった「一眼国」を演じたところ、好評だったというが、本人としては気になっていることがあるという。それは一部の地方でいわれている男の子と女の子の双子は、心中の生まれ変わりだという迷信で、実は花蔵自身がその双子の片割れなのだという。

 さて、この後、傳蔵一門をさまざまな事件が襲う。その事件に取り組むのが、一日だけ8代目の正蔵に入門し、署長に強く慰留されて思いとどまることになったという平林貞吉(さだよし、落語との関係でみんなが「サダキチ」と呼んでいるという尾ひれがつく)巡査部長である。さらに、実は、たいへんな名探偵だという稲荷町の師匠が推理を働かせる…。

 というわけで、シリーズ3作目のこの作品、それなりに面白いのだが、実は、ここで取り上げたのは、どうも惜しいミスが目立つからである。それを列挙するつもりで、昨夜、原稿を書きかけたところで眠ってしまい、皆様に失礼をしたしだい。名誉挽回にはならないが、一つ一つ書いていくと:
 16ページ、「一眼国」で香具師が六部に珍しい話はないかと聞く際に、六部について説明している個所の「法華経を六十六回書写して、六十六か所の霊場に一部ずつ納めて歩く巡礼者」というのは、訂正を要する。そもそも、作者は66という数字が何を意味するのかが分かっていない。これは66国2島という日本の昔の地方行政制度によるもので、それぞれの国(と島)には一宮が置かれている。その一宮に般若心経(法華経ではない)を治めて歩いたのが六十六部、略して六部である。一宮というのは、国司がその国に赴任して最初にお参りをする神社のことで、次が二宮、三宮と続くのだが、面倒なので、そういう格式の高い神社をまとめて総社というのを建立するようになった。例えば越前の国の一宮は気比神社であるが、国府は越前市(武生)にあり、総社は越前市に作られた(そんな手間をかけるくらいなら、京都から越前市に移動する途中で敦賀にある気比神社にお参りすればいいと思うのだが…)。

 話が横道にそれた。41ページに、梅蔵の父親は昭和17年に大学の教育学部を卒業して、翌年3月に召集を受け、二等兵として大陸に渡ったというが、これははっきり誤り。そもそも昭和17年に大学の教育学部というのは存在しない。教育学部が発足したのは戦後の昭和22年であり、しかもそれは一部の大学においてであり、その他の国立大学で学校の先生の養成課程として設けられたのは学芸学部であった。昭和17年の時点で小学校の先生の養成機関であったのは師範学校である。師範学校を卒業して、二等兵として大陸に渡るというのも、あまりありそうな話ではない。なぜなら、師範学校卒業までに軍事教練を受けているから、下士官として召集を受けているのではないかと思う。

 57ページの「大安売り」口演の終わり近くで、力士が突き飛ばした「行事」は「行司」の誤り。たぶん、編集者の見落としであろう。かなりひどいミスである。

 95ページ、「ちりとてちん」は江戸落語「酢豆腐」の上方版と書いているのは明確な誤り。上方落語の「ちりとてちん」が東京に輸入されて「酢豆腐」になったのであり、東京の落語でも柳派の落語家例えば、5代目の柳家小さんなどは「ちりとてちん」として演じていた。多くの落語は、もともと上方のものだったのを、誰かが東京に移したという来歴を持つものが多く、その逆はあまり見られない。「酢豆腐」を得意とした8代目桂文楽の高座、その8代目にかわいがられた5代目小さんの「ちりとてちん」のちがいに注意を払わないのはともかくとして、この噺の上方起源(朝ドラにもなったではないか)に気づいていないのは、それこそ「酢豆腐」の謗りを免れない。

 というようなことで、それなりに面白いミステリーではあるのだが、つや消しな部分が多かったということを書きたかったのである。
 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(18)

9月26日(木)曇りのち晴れ

 フランスの西の方の地方を治めていたグラングゥジェ王の子として生まれたガルガンチュワは、生まれた時に、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたことからこの名がついた。もともと巨大な体躯の持主だったうえに、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、一時期は詭弁学者の教育の結果、うすぼんやりとした若者になりかけたが、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートのもと、パリで勉強を続けた結果、学問にも武勇にも秀でるようになった。
 ある年のブドウの収穫の季節に、隣の地方を治めているピクロコル王の領民たちと、グラングゥジェの領民たちとの間でいざこざがおこり、短気なピクロコル王はその真相を突き止めようともせずにグラングゥジェの領内に軍隊を送り、略奪をほしいままにした。その中でスイイーの修道院のジャン修道士が一人で奮戦し、ピクロコル王の軍隊を撃退するという出来事もあった。
 グラングゥジェはピクロコルに使者を送り、平和を求めたが、ピクロコルが応じなかったので、パリからガルガンチュワを呼び寄せることにした。ガルガンチュワは帰還の途中で、ヴェード川の近くにあった敵の要塞を粉砕するなどの戦果を挙げて、父王の居城に戻ってきた。喜んだグラングゥジェは帰還を祝う大宴会を開いた。

 第39章 ジャン修道士がガルガンチュワに歓待されたこと、ならびに晩飯を食べながら談論風発に及んだこと(ガルガンチュアに歓待されたジャン修道士、夕食のさいに熱弁をふるう)
 いよいよ宴会が始まり、ガルガンチュワが料理を食べ始めると、グラングゥジェはピクロコルとの間に起きた戦争の一部始終を語り、その中でジャン修道士が修道院のブドウ畑をいかにして守ったかという話をして、彼の手柄を賞賛した。ガルガンチュワは今後の方策についても彼と相談してみたいと思い、彼を呼びにやったが、間もなくしてジャン修道士はグラングゥジェがさしつかわしたラバに乗り、十字架をつけた棍棒を携えて、やって来た。

 一同は大いにこの修道士を歓迎し、またジャン修道士の方も大喜びであった。「これくらいやさしい、また愛嬌のある人間はまたといなかった。」(渡辺訳、182ページ、宮下訳、295ページ)
 修道服を脱いでくつろいだらどうだという一同の勧めに対し、ジャンはこの修道服を着ていてこそ、酒もうまいし、体調もいいのだと拒否する。すでに夕食を済ませてきたが、だからといって、これ以上は食べないというわけでもないと、ジャンは料理を口にしながら、あれこれと喋り捲る。

第40章 何が故に修道士は世間から疎まれるのか、また何が故にその或る者どもは他人よりも大きな鼻を持っているのか(修道士は、なぜ世間から遠ざけられているのか、またなぜ、あるものは、鼻がみんなより大きいのか)
 ガルガンチュワの従者であるユーデモンは、世間一般の修道士は人々から嫌がられ疎まれているのに、ジャン修道士はそうではないのはなぜだろうという。
 これに対しジャン修道士は、修道士というのは、「浮世の糞便、すなわち罪業を種にして喰っているからだ」(187ページ)そして、人目忍所(隠れ家)として、修道院に閉じこもり、社会生活からは遠くへだてられた暮らしをしている。世間のために役立つ労働をするわけではなく(すべての修道士がそうであるわけではない)ために世間の人々から疎んじられるのだという。

 だが、全く世間の役に立たないわけではなく、人々のために祈っているのではないかと、グラングゥジェは言う。
「――とんでもないこと、(とガルガンチュワは答えた、)釣鐘を無闇矢鱈に打ち鳴らして、四隣界隈を悉く悩ますというのが本当のところでございましょう。
――まことに左様、(と修道士は言った、)弥撒(ミサ)も朝の祈禱も夕べの祈禱も、鐘の音で景気をつければ、半ばすんだのと同然でござりますて。」(渡辺訳、188ページ、宮下訳、304ページ)
 これは修道院の活動の形骸化を風刺した個所として知られている。渡辺の友人でもあったカナダ人の外交官で、歴史研究家であったE・H・ノーマンが安藤昌益についての研究書『忘れられた思想家』の中でこの個所を引用していたと記憶する(記憶だけだからあてにならない)。
 ガルガンチュワは、修道士たちが自分ではわかっていない聖人伝や聖歌の類を無闇にたくさん唱え立てるが、意味も何も分かっていないのだから、祈禱でなく茶番と呼ばれるべきだろうと、同時代の修道会の活動の批判を続ける。身分の上下にかかわらず、真のキリスト教徒たるものは、神に祈ることにおいて分け隔てがあるわけではない。ジャン修道士は偽信の徒ではないがゆえに、自分たちの仲間なのだという。〔この個所は、解釈が乱れるところで、大筋だけを紹介しておいた。詳しいことが気になる方は、本文をお読みください。宮下訳の注など、ジャン修道士の性格を考えるうえで役に立つはずである。〕 ジャン修道士は、よく働き、ブドウ園を守る。
 すると、ジャン修道士はそれだけでなく、猟をしてウサギを捕まえたりするという。

 それにしても、ジャンの鼻はなぜそのように大きいのかということが問題になる。グラングゥジェは、神様の御心によるものだといい、ポノクラートは、鼻の市に真っ先に駆け付けたからだろうといい、ジャン自身は乳母の乳房が柔らかかったからだという。(要するに結論らしいものは出ていない。ジャン修道士の華が大きいことだけを記憶すればよい。) そしてジャン修道士は、ぶどう酒と、ぶどう酒に浸して食べる焼きパンとを頼む。

第41章 修道士がガルガンチュワを眠らせてしまったこと、ならびにその時禱日禱について(修道士、ガルガンチュアを眠らせてしまう。また彼の時禱書と聖務日課書について)
 一同は晩飯を済ませてから、当面の事態に対してどう対処するかを話し合ったが、夜中に少人数で偵察を行い、敵軍がどのような防御態勢を敷いているかを探ることにし、それまでは休息して更に英気を養うことにした。しかし、ガルガンチュワは、どうやっても寝付かれなかった。
 そこで、ジャン修道士が、自分は説教を聞いているときか、祈祷をしている時でないと眠れないのだといって、『旧約聖書』の「詩編」のなかの改悛の7編(6番、32番、37番、51番、101番、129番、142番)を2人で朗誦することを提案する。この思い付きはガルガンチュワの気に入ったので、さっそく2人は朗誦を始めたが、(32番の)「・・・・スルモノハ幸イナリ」のところへくると、2にんともねむりこんでしまった。しかし、ジャン修道士は修道院で夜明け前の祈りになれていたから、その時になると目を覚まし、他のものを起こしたのであった。そして、気付けにまた葡萄酒を飲もうというので、ガルガンチュワは、それは健康によくないという(ポノクラートに師事する前は、ガルガンチュワも朝起きぬけに一杯やっていたことはご記憶だと思う)。ジャン修道士はさらに、自分の日禱書をひもとけば、気分も晴れてくるという(この日禱書というのは本の形をした酒びんだという説もあるし、祈祷をしたり聖歌を歌ったりすると喉が渇くという意味でいわれているという説もあるそうである)。

 結局、炭焼き肉が山のように、またこってりしたスープとパンも用意されたので、修道士は大いに葡萄酒を飲み、何人かの物はその相手をしたが、何人かはこれを控えた。
 それが済むと、一同は武装を整え、嫌がる修道士にも鎧兜で身を固めさせたが、修道士としては修道服と棒以外の物は欲しくなかったのである。出撃するのはガルガンチュワ、ポノクラート、ジムナスト、ユーデモン、グラングゥジェの家の子郎等のなかでも勇猛果敢なもの25人、それにジャン修道士で30人ということになる。それぞれ鎧兜に身を固め、馬に乗り、長槍を持ち、馬の尻には火縄場を一挺ずつ載せていた。

 ガルガンチュワ一同にジャン修道士が合流してピクロコル王の軍勢との決戦の時が近づいている。ジャン修道士のおしゃべりのかなりの部分は物語の進行と関係がないので省略したが、彼がどのような人物であるかを知るのに役立つはずである。ここで展開されている修道院批判は、さらに物語の終わりの方で再び取り上げられるだけでなく、新しい修道院の建設という結果をもたらす。さて、次回に続く問題はジャン修道士本人は望んでいないのに、みんなが鎧兜を着用させたことであるが、その結果はどうなるか…? 

 一昨日から風邪をひいてしまい、そのため昨日の記事は不十分なままに終わってしまいました。またみなさまのブログを訪問できず、失礼いたしました。体調の方はどうやら快方に向かっており、(明日は病院に出かけるので、時間がとれませんが)明後日以降は、記事の方も訪問もいつも通りに続けられそうですので、ご安心ください。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(18)

9月25日(水)晴れ、気温上昇

 コロンブスの航海に同行して新世界にわたり、その後、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に向かい、航海中に訪問した「太陽の都」の様子について、聞かれるままに語る。それは赤道直下のタプロバーナ島(スマトラ島と考えられている)の中央に広がる平原のまんなかに建設された七重の城壁を持つ円形の都市である。
 都市は「太陽」と呼ばれる神官君主によって支配され、彼は軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。彼ら高官を含めて、都市の役人は住民たちのなかから教育を通じてその能力・適性を見出されたものが選ばれる。都市の中央にある神殿の外壁や、城壁には様々な事物の画が描かれたり、模型が置かれたりして、人々の教育に役立てられている。
 人々はそれぞれの適性に応じた職業に就いて働き、私有財産というものは持たず、住居は割り当て、食事は共同で行われ、衣服も配給制である。農産物や牧畜の生産物は非常時に備えて貯えられている。人々の間に貧富の差はないが、国庫には豊かな富が築かれている。同じく非常時に備えて、絶えず軍事教練が行なわれている。
 神殿の上部には24人の神官がいて、天体観測を行い、占星術を通じて世界の動きを知り、「太陽」と協力して都市の政治を動かしている。

 彼らの間では4つの大きな行事があって、これは太陽が白羊座(牡羊座)、巨蟹座(かに座)、天秤座(てんびん座)、磨羯座(やぎ座)に入る時に当り、演劇が上演されるほか、満月や新月の時にもいろいろな祝賀の行事が行われるという。都市の発展のために貢献した人は、死後にその名前を英雄名簿に記載されたり、記念像を立てられたりする。
死体は土葬にされず、悪疫を防ぐため、また偶像崇拝の懸念を残さないために火葬にされる。偉人たちの像や絵画は一部の人々しか見ることはできない。
 朝夕に四方に向けて祈りがささげられるが、祈りの文句はただひとつしかなく、健康な体と健全な精神と幸福を自分とすべての人々のために祈り、最後に「神の御心にとって最善と思われるごとく」という句で締めくくられる。

 日時は、恒星年でなく太陽年に基づいて分けられているが、太陽年の方がどのくらい早いかも常にしらべられているという。
「太陽年」というのは、太陽が春分点を通過してから、次に春分点を通過するまでの時間で、365.242日くらいであるのに対し、「恒星年」というのは地球が恒星に対して、太陽の周りを1周する時間をいう(と坂本訳の注にはあるのだが、どうも意味不明である)。とにかく、こちらは、365.25636300日ほどになるそうである。
 彼らは天体観測と計算を通じて、新しい天文学をきずきあげ、「プトレマイオスを讃え、たとえアリスタルコスとフィロラウスの方が早くそれを考えついたとはいえ、コペルニクスを賞賛しています。」(坂本訳、62ページ) ここはかなり微妙な書き方になっていて、アリスタルコスは、コペルニクスに先立って地球中心説を唱えたギリシアの天文学者であるが、天動説か地動説かという問題は一切触れずに、学者の名前だけ出しているのである。

『太平記』(281)

9月24日(火)曇り

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)ごろ、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った。
 その頃、円成という僧が、かつて壇ノ浦の海に沈んだ宝剣を、伊勢で発見したと称し、日野資明のもとに持参した。卜部兼員から三種の神器の由来を聞いた資明は、兼員に命じて剣を平野社の神殿に籠めて祈らせると、はたして伊勢から宝剣が奉られる夢を足利直義が見た。8月18日、宝剣は朝廷に迎えられたが、坊城(勧修寺)経顕が、黄粱の夢の故事を説いて上皇を諫め、剣は卜部兼員のもとにさし戻された。『史実では、正行の挙兵は貞和3年のことである。〕

 河内の国藤井寺の合戦で、細川顕氏は不甲斐なくも楠正行の軍に敗れて退却したのであったが、勝った正行の軍勢は勝ちに乗じて、幕府の影響力の及ぶか及ばないかというあたりに出没しては、挑発行動を繰り返していた。とはいうものの、迎え撃つべき幕府方も、年内(旧暦なので冬である)は寒さが厳しく、兵たちも手がかじかんで盾を落すということがあると考えられたので、しばらくは出兵は控えられていたのであるが、あまりに長いあいだ、楠の行動をそのままにしておくと、その軍勢の勢いがますます強大なものになるかもしれないと、11月23日に軍評定(いくさひょうじょう)が行われ、その結果、同25日に山陰地方に勢力を持つ守護大名である山名時氏と、四国に地盤を持っている細川顕氏の2人を大将として、6千余騎を住吉、天王寺方面に差し向けたのであった。

 細川顕氏は9月に正行と対戦して敗走し、天下の物笑いの種となったことを生涯の屈辱と感じていたので、四国の武士たちを集めて、今度の合戦でまたも負けるようなことがあれば、万人の嘲弄を招くだろう。以前の恥をすすぐために、決死の覚悟で戦おうと言い聞かせ、檄を飛ばした。これを聞いた阿波の武士である坂東・坂西(ばんぜい)、讃岐の藤原氏、橘氏、伴(大伴)氏の末流の武士たちは500騎ずつで一揆(誓約して一味同心した武士集団)を結び、大旗、小籏、下濃(すそご≂上方が薄く、下になるほど濃く染めた)の旗、3流れの旗を目印として3手に分かれ、戦いに際しては一歩も引かずに討死しようと、一味同心の誓いとして神水(じんすい=神前に供えた水)を飲んで出陣した。その勢いがはなはだしいさまは誠に思い切った姿であることだと、さわやかに見えた。

 大手の大将である山名時氏は1000余騎で住吉に陣をとり、搦手の大将である細川顕氏は、800余騎で天王寺に陣をとる。正行は、敵にゆっくり準備をさせて、住吉、天王寺に城郭を構えられてしまうと、住吉には摂津一宮の住吉大社があり、天王寺には四天王寺があって、それぞれ神、仏を相手として弓を引き、矢を放つ恐れがある。日を置かずに直ちに押し寄せて、住吉の敵を追い散らし、ただ攻めに攻め立てて、わずかな時間のうちに追い破ることができれば、天王寺の敵は、戦わずして退却するだろうと、26日の夜明けのころに、500余騎をひきいて、まず住吉の敵を追い出そうと、石津(大阪府堺市石津町)の民家に火をつけ(毎度のことであるが、いくら戦争だからといって、火をつけられて焼き払われたのでは、住民としては迷惑このうえない)、瓜生野(天王寺の南、今の大阪市平野区瓜破(うりわり)から住吉区遠里小野(おりおの)にかけての地)の北の方から押し寄せた。

 山名時氏はこれを見て、「敵はまさか、一方からだけ攻めてくるということはないだろう。こちらも軍勢をわけて迎え撃とう」と、赤松円心の次男である貞範に、摂津、播磨の軍勢を率いさせて、800余騎で、海辺の方から攻めて来るであろう敵勢を防ごうと、住吉の裏の南に陣を取らせた。また、光厳院に無礼を働いて処刑された土岐頼遠の弟である頼明、土岐一族の明智兵庫助(ということは、明智光秀の先祖であろうか)、佐々木(六角)直綱らが3000余騎を率いて、阿倍野の東西両所に陣を張った。
 搦手の大将である細川顕氏は、自分自身の手勢のほかに、四国の兵5千余騎を率いていたが、わざと本陣を離れず、大手の軍が闘い疲れたところで、控えの新しい軍勢として入れ替わろうと、天王寺に控えていた。
 大手の大将である山名時氏は弟の兼義、土岐の家来である原四郎太郎、四郎次郎、四郎三郎ら1000余騎で、楠の軍勢の馬が蹴立てる土ぼこりを目印に、敵の戦法と戦おうと、瓜生野の東の方にかけ出して行った。

 楠正行は、敵の馬の蹴立てる土ぼこりを見て、敵は軍勢を4手に分けていると見抜き、もともと数が多くない自軍を幾つにも分けてしまったら、不利は否めないともともと5手に分けていた自軍をまた一つにまとめて、瓜生野に攻め寄せる。この辺りは野原が広がり、馬を進めるのは容易であったから、ふつうの戦のように両方の陣営が矢を放ち、鬨の声を上げてから本格的に戦うというような暇も有らばこそ、敵味方6千余騎が入り乱れて戦う遭遇戦となった。約1時間ほど両者が切り結び、そこで鬨の声を上げていったん4,5町ほど引き返し、自陣、敵陣を見わたせば、両方ともに半数余りが死傷していた。

 この後、いったん休止した戦闘が再開されるが、どのような展開となるかはまた次回に。楠正行は父親の正成のように大局を見る力はないが、個別的な戦闘では戦上手ぶりを見せる。山名時氏の軍勢の動きに合わせて、自軍の陣容を修正するあたりにその才能が表れている。それに、率いる兵士たちの統率は取れているし、何よりも決死の覚悟ができているところが強みである。さらに現在の大阪市の南方、堺市一帯というのは父祖以来勝手知ったる土地である。
 幕府軍にとって惜しまれるのは、楠軍との敗戦でそれなりに教訓を学んでいるはずの細川顕氏ではなくて、対戦経験がまだない山名時氏のほうを大手の大将にしたことである。楠軍のような精鋭部隊を相手にする場合は、大軍で(矢が届くくらいの距離で遠巻きに)包囲していくのが一番いいのだが、山名は敵襲を警戒するのあまり自軍を分散させて、かえって楠正行に勝機を与えてしまったように思われる。細川が楠軍とは、山名軍と交代で戦おうと考えたのは、それなりに筋の通った作戦であったが、果たして目算通りに事は推移するのであろうか。

日記抄(9月17日~23日)

9月23日(月・秋分の日・休日)晴れたり曇ったり、風が強い。

 9月17日から本日にかけて、経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
9月17日
 杉山利恵子『フランス語でつづる私の毎日』(三修社)を読み終える。10年ほど前に買った本であるが、途中でどこかに紛れ込んだりして読み終えるのに時間がかかった。
 L'étè qui s'enfuit est un ami qui part.
Victor Hugo, Toute la lyre
 過ぎ去る夏は、立ち去る友である。
     ヴィクトル・ユゴー『竪琴の音をつくして』
 いまの時期にふさわしい詩句ではないかと思う。『竪琴の音をつくして』(1888)は彼の死後に編纂された選詩集だそうである。

9月18日
 『朝日』朝刊の「特派員メモ」で宮嶋加菜子記者が中国の四川省涼山イ族自治州で見かけたという銀行の看板について、「徳積みカネ 道徳的?」という文章を書いている。住民に現代的な生活習慣を身につけさせようと、徳を積んでそれをポイントとしてためていくという独特のシステムだという。宮嶋記者はこのような制度に違和感を感じているようであるが、近世の中国で行われていた一種の善行表である功過格の現代版とも考えられるのではないか。中国人のものの考え方が儒教一色で説明できるものではなく、仏教や道教の影響も考えなければならないというのは、よく言われることであるが、ここでは道教的な陰徳思想の現代化が図られているとも見ることができるのではないか。

 同じく『朝日』の「ひと」欄に、アラスカのデナリ(マッキンリー)で遭難した植村直己さんの鎮魂のために、30年間気象観測を続けた登山家の大倉喜福(よしとみ)さんのことが紹介されていた。このヒト、椎名誠さんの怪しい探検隊(いやはや隊)のメンバーでもあるのだが、近ごろ、あやしい探検隊は雑魚釣り隊に編成替えされているので、そちらの方で名前を目にすることはなくなっている。

 台風15号による被害の復旧のための取り組みが遅れていることをめぐり、菅官房長官は政府は適切に対処していると、後手に回っているという指摘に反論しているそうである。しかし、次期首相を目指すのであれば、ここは素直に後れを認めるほうがいいのではないかと思う。誰かさんと違って、目のまえの事実がしっかり見えている、把握しているということを示すにはその方が適切な態度である。

9月19日
 東海林さだお『ヒマつぶしの作法』(SB新書)を読み終える。これまでにあちこちに書いた文章のアンソロジーであるが、読んだという記憶があるものは、意外に少ない。

9月20日
 別府葉子さんのブログを見たら、昨日、東京でのコンサートがあったということを知った。このところ、ブログ訪問を怠っていたので、行き違いになってしまった。またの機会を待つことにしよう。
 
9月21日
 三ツ沢陸上競技場でなでしこリーグ2部の横浜FCシーガルズ対ちふれエルフェンさいたまの対戦を観戦した。前半は一進一退で0‐0のまま折り返し、後半にちふれが1点を先行したが、その後、左サイドから駆け上がった小原選手のクロスを高橋選手がヘッドで決めて横浜が追いつき、そのまま引き分けた。現在6位で、なかなか上位に上れないが、少しずつチーム力は整備されているように思われる。他チームから移ってきた(1部を経験した)選手たちと、もともとからいる、あるいは下から上がってきた(1部を経験していない)選手たちとの意識の差をどのように埋めていくかが、課題となるだろう。
 三ツ沢陸上競技場は第1回の国民体育大会の主会場であったが(その功労者であった平沼亮三元横浜市長の像がグランドの前に立っている)、現状は十分に施設が整っているとはいいがたい。

9月22日
 台風17号が直撃しなかったので、墓参りに出かける。これから自分自身のことも含めて、墓をどうしていくかというようなことについて、帰り道、考えていた。
 東急の目黒線から大岡山で大井町線に乗り換えたのだが、やって来た急行が溝の口行きで、昨日「忘れえぬ人々」についてブログに書いたばかりのところなので、奇遇だなあと思った。

 町田でゼルビアと対戦した横浜FCは前節同様0‐0の引き分けに終わった。暫定2位になったが、まだ試合の残っている山形が琉球と引き分け以上だと3位になる。
 1124回のミニ‐toto Bが当たった。久しぶりである。

9月23日
 腕時計の電池が切れていて、そのため(だけでもないが)寝坊した。電池を入れかえてもらい、2秒ほど遅れていたのも元通りになった。 

 『日経』の朝刊に立教大学の中原淳教授が大学教育と、大学卒業後の職業生活で要求される能力の「段差」が拡大しており、大学教育の大幅な改善が必要だという論説を書いている。中原さんの言うように、大学のゼミ等で議論をするだけでなく、経営課題解決の実践に携わることが必要であるというのは正しいが、もう一つ、4年生の大学で学生が勉強する期間を実質的には3年以下にしてしまっている就職活動の在り方を考え直すことも併せて必要であろう。(今の大学教育で必要なのは、大学の教育内容そのものの改革と、就職活動の見直しであって、入試改革ではないというのは、これまで繰り返し述べてきたことである。今回の入試「改革」などはその意味ではエネルギーの無駄遣い以外の何物でもない。)
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(11)

9月22日(日)曇り、16時ごろから雨が降りだす。

 19世紀初めのイングランド、ロンドンの北のハートフォードシャーのロングボーンの村に住む地主であるベネット氏には、ジェイン、エリザベス、メアリ、キャサリン、リディアという5人の娘がいた。この家系の決まりで、一家の財産は家族につながる男性に相続されることになっていた。そのことが不満なベネット夫人にとって、娘たちの少なくとも1人が裕福な男性と結婚することが最大の望みであった。
 折よく、一家の住まいの近くのネザーフィールド・パークをビングリー氏という北イングランド出身の紳士が借りることになった。この地方の中心都市であるメリトンで開かれた舞踏会で、ビングリー氏はその気さくな人柄で人気を集めるが、集まった女性たちのなかで一番気に入ったのは、ベネット家の長女であるジェインであった。ビングリーの親友だというダーシー氏という人物が、この舞踏会に参加していたが、彼はビングリーよりもさらに裕福だという噂にも関わらず、その高慢な態度で人々から敬遠された。ビングリー氏から踊るように勧められたベネット家の次女であるエリザベスについて、わざわざ相手に選ぶような美人ではないといったのが、本人の耳に入り、その発言が広まったことも彼の不評を増した。
 ジェインはビングリー氏の姉妹たちと付き合うようになったが、ネザーフィールド・パークを訪問した際に風邪をひき、姉の看病に出かけたエリザベスもそのまましばらく滞在することになった。いったんはエリザベスと踊ることを拒否したダーシー氏であったが、なぜか彼女の魅力を感じ始め、関心を寄せるようになっていた。しかし、エリザベスはそんなことには気づかなかった。
 ベネット家の財産を相続することになっているコリンズ氏が、ケント州の大地主であるレイディ・キャサリン・ド・バーグの恩顧を受けて教区牧師の職を得たので、和解したいといってロングボーンを訪問した。実は彼は5人の姉妹のうちの誰か1人と結婚するつもりであり、ジェインは近々婚約するかもしれないと聞いて、順番でエリザベスと結婚しようと考え始めた。
 姉妹は、メリトンに住む伯母のフィリップス夫人を訪問し、そこで新任の士官であるウィッカム氏を紹介される。彼はダーシー氏と知り合いのようである。姉妹、特にエリザベスはウィッカム氏に好感を抱く。(以上第1巻第15章までのあらすじ)

 フィリップス夫人を訪問した際に、翌日の晩の士官たちとの食事の席に、姉妹とコリンズ氏も同席するよう招待されたので、彼らはその通りにメりトンに出かけた。コリンズ氏はフィリップス夫人を相手にいろいろしゃべっていたが、姉妹のほうはそんな話を聞くにもならず、時間をつぶしているうちに、ウィッカム氏を含む士官たちが姿を現した。姉妹は、彼らの中ではウィッカム氏がいろいろな点で抜きんでた存在であると思った。ウィッカム氏はエリザベスの隣に席を占めた。

 トランプ用のテーブルの準備ができると、フィリップス夫人とコリンズ氏、それに士官たちがホイストを始めた。(第14章でコリンズ氏は、レイディ・キャサリン・ド・バーグのカドリールの席に呼ばれることがあると言っていた。カドリール→ホイスト→ブリッジというトランプ・ゲームの変化の中で、この時代=19世紀の初めにはカドリールをする人と、ホイストをする人の両方がいる過渡期であったことがわかる。コリンズ氏は時代の変化に適応しようとしているが、なかなかうまくいっていないことが、このゲームについての取り組み方で示されているようである。) 

 ウィッカム氏はホイストのテーブルには加わらず、エリザベスとリディアがいたテーブルにやってきた。はじめのうちはおしゃべりなリディアが彼との会話を独占していたが、ゲーム(トランプ=カード・ゲームであることは確かであるが、その中のどういうゲームであるかは書かれていない)に熱中し始めたので、エリザベスは落ち着いて話をすることができるようになった。エリザベスは彼から、ダーシー氏のことを聞き出したかったが、まさか質問するわけにもいかずに(このあたりに彼女の常識をわきまえた振る舞いが描き出されている)ほかの話題を口にしていると、ウィッカム氏のほうからダーシー氏の話題を持ち出してきた。ネザーフィールドはメりトンからどのくらい離れているのだろうかと尋ね、さらに、ダーシー氏はいつごろまでネザーフィールドに滞在しているのだろうかと質問してきたのである。(あまり顔を合わせたくないからこのような質問をしたのであるが、エリザベスはウィッカム氏に好意を持ち始めているので、そのことを察知できない。)

 そろそろ1か月になると答えてから、エリザベスはダービーシャーに彼の持っている土地について質問をした。この話題を途切れさせたくなかったのである。ウィッカムは、彼が大地主であることを認めで、彼とは子ども時代から一緒に過ごしてきたから、自分以上に彼を知っている人物はいないはずで、そのため身近すぎて公平な判断はできないだろうという。
 エリザベスは、メリトンの界隈ではダーシーはその尊大さのために嫌われていると、彼女らしくきっぱりと断言する。ウィッカムは、彼と会うのを避ける理由はないが、目下のところ仲が良くないので、会わないようにしているのだという。ただ、自分はダーシーの父親(先代)から恩顧を受けてきたのだが、その息子からはつらい仕打ちしか受けていない。とはいうものの、その父親に対する敬愛から、息子へのはっきりした敵対は避けてきたのだという。「エリザベスは、話がいよいよ面白くなってきたので、熱心に耳を傾けていたが、だいぶ微妙な話なので、それ以上立入ったことを訊く訳には行かなかった。」(143ページ)

 それからウィッカムは自分が州(どの州であるかは明示されていない)の聯隊に入ることにした理由を、この聯隊であればよい社交の場が得られそうだったからだという。(第7章で義勇軍の連隊militia regimentがハートフォードシャーにやって来て、メリトンに司令部をおいたと記されていた。この時代の英国はナポレオンのフランスと対立していたために、正規軍のほかに義勇軍をおいていたのである。この時代の軍隊は、後援者がいれば地位を得ることができるという組織であったという。『マンスフィールド・パーク』でヒロインの兄が、推薦によって海軍少尉に任官するというのは正規軍の話であるが、義勇軍でも同様であったらしい。ナポレオンのフランス軍は実力主義だったから、まともに戦ったらフランス軍の方が強かったのである。)
 彼はある不幸のために、社交の場を求めているのだという。その不幸というのは、もともと彼は牧師になることを目指していて、ダーシーの父親が遺言で、彼が推挙権を持つ牧師禄のなかで最上のものを自分に割り当てていたのを、ダーシーが異議を申し立てて、他の人物に与えてしまったのだという。自分の父親はもともとエリザベスの義理の伯父であるフィリップス氏と同じ職業(事務弁護士)をしていたのが、先代のダーシーのために執事の職に就いたのだという。先代は自分の実子と同様に、ウィッカムにも目をかけていたのだが、ダーシーにはそれが気に入らなかったらしいというのである。そして彼には浪費癖があるだの思慮がないだのと、「あることないことを口実にして」(大島訳、145ページ)牧師禄を与えなかった。それに対して、ウィッカムはかっとなりやすい性質なので、いろいろといいかえしたかもしれないが、ダーシーの方は、さらにそれを根に持って現在に至っているのだという。
 それを聞いて、エリザベスはダーシーのウィッカムに対する仕打ちをひどいと思い、その仕打ちに耐えている彼を立派だとも思う。 

 第1巻第16章は、他の章に比べてかなり長く、これまで紹介しただけでまだ半分あまりにしかなっていない。ウィッカムとダーシーというエリザベスをめぐる2人の男の関係が、ウィッカムの口を通して語られる。この後、さらにダーシーの家系について語られ、その家系の一員であるレイディ・キャサリン・ド・バーグの恩顧に与っているコリンズ牧師の卑小さもおのずと明らかになって来るが、それだけに物語は複雑な様相を呈し、さらに予測のつかないものとなっているのである。
 昨日の『朝日』の「古典百名山」では桜庭一樹さんがこの作品を取り上げ、主人公2人が自分の意志を持っていること(高慢)、偏見を捨てて、自分を変えようとしていることの2つのことが、「青春という眩しい季節の中で描かれる」ところにこの作品の魅力があると書いている。前半については、特に異存はないが、「青春という眩しい季節」というのには、主人公たちは少し年をとっていると思う。この作品で、その眩しい季節にあるのは、キャサリンとリディアであって、ジェインやエリザベスは、もう少し分別の付いた年頃の女性として描かれている。そこに魅力があるのではないか。
 いま、手元にないので、うろ覚えになっているが、『家族・私有財産・国家の起源』という本のなかで、エンゲルスは、ドイツの小説が「初恋」を描くのに対し、フランスの文学は「不倫」を描くことが多いのを、結婚をめぐる社会的慣習という側面から説明している。それをいえば、英文学、特にオースティンの小説はまさに「結婚」が問題になっている。相手の地位や財産といったものがひどく分別くさく計算された、男女の恋愛が描かれる。『分別と多感』でもエドワードの牧師禄がエリナーとの結婚の条件として重視されていたが、ウィッカムとエリザベスとの対話でも同じような経済的な条件をめぐる会話がされている。それを面白いと思うか、思わないかは個人の自由である。

国木田独歩「忘れえぬ人々」

9月21日(土)曇り

 「忘れえぬ人々」は明治31(1898)年4月に『国民之友』に発表され、明治34(1901)年3月に民友社から発行された著者の第一短編集『武蔵野』におさめられた国木田独歩(1871‐1908)初期の代表的な短編小説である。

 若い無名の作家である大津弁二郎はある年の3月、川崎から八王子へ向かう徒歩旅行の途中、溝の口の亀屋という旅人宿に泊まった。「春先とはいえ、寒い寒い霙(みぞれ)まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜(よもすがら)、真闇(まっくら)な溝口の町の上を哮(ほ)え狂った。」(新潮文庫版、133ページ) そんな夜、彼はたまたま隣室に泊まっていた無名の画家である秋山松之助とおそくまで語り合った。

 話の種も尽きたころ、秋山は大津の持参している原稿に目をとめる。それは「忘れえぬ人々」と題されていた。その原稿を読もうとする秋山に対し、大津は自分でそのなかに書かれていることの趣意を語った方がよさそうだといって、話しはじめる。

 「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」というのが、大津の文章の書き出しである。
 大津の説明によると、親・子・朋友知己・恩師・先輩などは、忘れ得ぬ人であるだけではない、忘れて叶うまじき人(その人を忘れてしまうことが人倫の道に背くような人)といわなければならない。ところが、「ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。」(137ページ) そういう人を、大津は「忘れえぬ人々」として書き連ねたというのである。

 大津がそのような人々として最初に取り上げたのは、彼が19歳の時に体調を崩して東京の学校をやめて帰郷する際に、瀬戸内海を航行する船の中から見かけた、小さな島の小さな磯で何かを拾っていた一人の人物であった。
 次に彼が挙げたのは、5年ほど前に弟と一緒に九州旅行に出かけた際に、阿蘇山に登った後に山麓の窪地の宮地という集落に日が暮れた後やっとたどり着いた時のことで、「宮地やよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡を馬を引きながら歩いて行った若者である。
 三人目は四国の三津が浜に一泊して汽船便を待った時に、この港を散歩していて出会った琵琶僧である。港の人たちは誰もこの僧
を気にもかけないのだが、大津はこの琵琶僧を眺めて、その琵琶の音に耳を傾けた。「この道端の狭い軒端の揃わない、しかも忙(せわ)しそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しない様でしかも何処(どこか)に深い約束があるように感じられた」(143ページ)のである。

 ここまで話してきて、大津は静かにその原稿を置き、しばらく考えていた。続きを促す秋山に対し、彼はこうして思い出して話していくと、きりがなくなり、たぶん夜が明けてしまうだろうと言う。なぜ、彼がこれらの人々を忘れることができないかというと、それは「憶い起すからである」(同上)という。なぜ、憶い起すのか。彼は言う。
「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながら又た自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでいる不幸(ふしあわせ)な男である。」(144ページ)
 夜、一人で灯火に向かっていると、この生の孤立を感じて耐えがたいほどの悲哀の気持ちが湧き上がってくる。すると、彼の強い主我の角がぽきりと折れてしまって、なんだか人懐かしくなってくる。昔の思い出や友達のことを考え始めるのだが、その時、「油然(ゆうぜん)として」(同上)彼の心に浮かんでいるのはこれらの人々であるという。
 「油然」というのは、盛んに沸き起こることであるという。彼ら、大自然のなか、あるいは町のなかで見かけた人物の姿である。いや、もっと正確にいえば、これらの人々の姿を見た時の、周囲の風景の中に立っているこれらの人々の姿である。環境と一体となって、大津の目に入って来る人々の姿であるという。大自然の中に生を受け、やがてまたそのなかへ帰っていく人々の姿であるという思いが彼の胸を一杯にして、ときには涙を流すこともあるという。そのときほど、心の平穏を、自由を感じるときはない。吾と彼が一体となった感動に身をゆだねるのだという。
 大津は秋山に、この主題をめぐり思う存分書き記してみたいと語る。必ず、天下の人々の共感を得られずはずだと付け加える。

 2年後、大津は故あって東北のある地方に住んでいた。溝の口の旅宿で初めて遇った秋山との交際は全く絶えていた。ちょうど時は3月であったが、雨の降る晩のこと、大津は一人机に向かって瞑想に沈んでいた。
「机の上には2年前秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋の主人(あるじ)』であった。/『秋山』では無かった。」(145ページ)

 この作品に初めて出会ったのは、高校1年の時の国語の授業の中でのことで、紹介されたのは全部ではなく、三津が浜の琵琶僧の個所などは省略されていた。高校1年生だと(個人差はあるだろうが)、この作品で独歩が何を主張したいのかについて、深く考える気持ちは生まれにくいのではないか。
 独歩と柳田国男とが親友であったという知識は、高校生自分から持っていたのだが、両者の影響関係を考えるうえで、「忘れえぬ人々』が意味を持つのではないかと考え始めたのは、30歳を過ぎてからのことであった。今、考えてみると、作中の大津、あるいは作品を書いた独歩と同じ20代の後半の時期に、この作品について深く考えていたら、今、ここで書いているのとはもっと別の意見が生まれたのではないかと思うと、残念な気持ちがする。私は横浜市に住んでいるので、溝の口というのは見知らぬ地名ではないし、1970年代の後半には、亀屋のモデルになった旅館が残っているなど、溝口はまだまだ昔の様子を留めていたということもある。どうも、この作品とは出会い方が悪かったのである。

 柳田国男という名前を引き合いに出したが、この作品で大津が忘れることができない人々は、すべて個人として作品中に現れている。大津と、「忘れえぬ人々」との関係は、個対個の関係であって、共同体とか日常生活とかいうものは(無意識のうちに視野におさめられているのかもしれないが、少なくとも意識的には)、問題になっていない。そのような「忘れえぬ人々」は、おそらく前近代に属しているのだが、近代に生きる「僕」がそれを懐かしく思う理由は、そのような時系列に即して意識されるべきなのであろう。というのは、彼は同じ短編集の表題作である「武蔵野」のなかで、武蔵野の周辺部にある場所の「生活」と「自然」、「田舎」と「都会」との境界性の魅力について触れている。地理的な境界性として意識されているものは、前近代と近代との境界性としても意識されるのではないかと思われるのである(やはり「武蔵野」のなかには、「布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか」(26ページ)という現在の川崎市に属する、武蔵野の周辺部の自然と生活に触れた部分もある。柳田が前近代にも探りを入れようとしているのに対し、独歩はただそれを見るだけという違いは、この親友同士の間にもあったと考えるべきではないのかと思われる。

 調度2週間前の9月7日付の『朝日』紙上の連載記事「古典百名山」で平田オリザさんが、独歩の「武蔵野」について論じて、彼は新しい風景描写の文体を見出したのだが、その文体によって描くべき対象を見つけるのに苦労したのだと書いているのは、興味深い指摘であった。大津が船を待っていた三津が浜はおそらくは、漱石の「坊つちゃん」が松山に向かう際に、また松山から去る際に船に乗った港であり、溝の口の近くで育ったのが大貫晶川(谷崎潤一郎の親友であった)と岡本かの子の兄妹であったことなどを考えると、この指摘はより興味深くなるのではないか。
 「忘れえぬ人々」もまた、独歩という作家のもっていた多面的な可能性、潜在的な豊かさを示すものなのではないかと思うのである。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(26)

9月20日(金)晴れ、気温上昇

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年の秋から1958年の春にかけて、当時彼が在職していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、川村俊蔵(霊長類学)、小川房人(植物生態学)、依田恭二(植物生態学)、吉川公雄(昆虫学、医師)、藤岡喜愛(文化人類学)の各隊員とともに、北タイで熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の現地調査を行った。(梅棹と吉川は、さらにカンボジア、ベトナム、ラオスを歴訪した。) これはその調査旅行の私的な記録である。
 1957年11月にバンコクに集合した一行は、第9回太平洋学術会議に出席した後、カンボジアのアンコール・ワットを訪問、この年の暮れに北タイに移動し、1958年のはじめにタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登り、その間、タイの山岳少数民族の1つでありビルマから越境してきたカレン族と接触、その後、チェンマイの近くにそびえるドーイ・ステープの裏山に居住する、中国から越境してきた少数民族であるメオ族とも接触した。現地調査の適地を求めてさらに北方へと旅した後、一行はチェンマイに戻ってきた。チェンマイはかつてのランナータイ王国の首都であり、タイ第2の都市とされている(人口からいえば、第3位である)。

第10章 ランナータイ王国の首都(続き)
 山上の聖地
 チェンマイ市の西北の角から、ドーイ・ステープへの道が通じていて、ドーイ・ステープにはドライブ・ウェイが設けられ、頂上近くまで自動車で行けるようになっている。ドーイ・ステープの上には寺があり、ドライブ・ウェイはその寺に参詣するためのものである。ドライブ・ウェイの終点から寺までは、長い石段があり、石段の両側には、ナーガがくねっていた。

 寺の外観も内部も、金ぴかで、梅棹の趣味には合わない。内陣の壁画には釈迦の一代記が描かれているが、日本で見かける看板画よりもへたくそだとしか思えない。「寺は、ごく新しい。すくなくとも新しく修理されている。しかも、ずいぶん費用をかけているに違いない。金をかけるなら、なぜもう少し芸術的なものをつくらないのだろう。」(268‐269ページ)

 しかし、と梅棹は反省する。宗教は芸術ではない。この寺がチェンマイの多くの市民から深くあがめられていることは否定できない。多数の参拝者が敬虔な祈りを捧げていて、その姿はある種の美的感動を呼び起こすに足るものであるという。
 この寺があがめられているのは、ランナータイ王国のクーナー王の時代にスコータイの王によって仏舎利がもたらされ、この寺に納められていると信じられているからである。〔仏舎利というのは釈迦の遺骨であるが、東アジア諸国の仏舎利塔の場合、大抵は宝石や経文を釈迦の遺骨の代わりにおさめているということらしい。その中で、名古屋の覚王山日泰寺にはタイのラーマⅤ世チュラーロンコーン王から贈られた真舎利が収められているというのは有名な話である。〕
 
 「山の上からの眺望は、文句なしに美しい。目の下に、緑に包まれたチェンマイ市があった。大平原は、果てもなくつづき、薄むらさきのもやの中に消えている。」(269ページ)

 ドーイ・ステープの麓にワット・チョット・エート(七つの塔の寺)という、チェンマイ市の建設者であるメンラーイ王によって建立された寺がある。山頂の寺院に感心しなかった梅棹であるが、こちらの寺院の建築と美術の美しさには感動したと記している。熱心な仏教信者であったメンラーイ王はビルマにおける仏教の都であるパガンを訪問し、パガンのマハボディ寺院を模してワット・チョット・エートを築いたのだという。そして、マハボディ寺院は、インドのボダガヤの寺院を模したものであったという。メンラーイ王はタイに、ボダガヤを再現しようとしたのであった。〔梅棹は「パガン」と書いているが、現在は「バガン」というようである。バガンは、カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに世界の三大仏教遺跡に数えられ、ユネスコの世界遺産にも指定されているそうである。私が調べた限りで、バガンにマハボディ寺院というのはなかったようで、梅棹が「ボダガヤ」と表記しているインドのブッダガヤにマハボディ寺院があるので、そのあたり、文献を読み間違えた可能性がある。〕

 ところが、この寺は現在でも僧が住んでいて、彼らが住んでいる本堂をたずねてみると、やはり、中は金ぴかであったという。いつ、タイの寺院が金ぴかにつくられるように変化したのかについて、調べている余裕はないと、梅棹は匙を投げている。〔ただ、今はいい風情になっている古寺も昔は、金ぴかだったのかもしれないし、そのあたりは趣味の問題も手伝って難しい問題ではないか。私もタイの寺院は訪問しているから、それが多くの日本人の美意識からすれば、醜悪に思われることはわかるけれども、奈良の大仏だって、作られたときは金ぴかであったことも念頭に置く必要があるのではないか…とも思う。〕

 お墓はない
 梅棹がある寺の前を通りかかったら、賑やかな音楽が聞こえてきた。なにかと思ったら、数年前に死んだ高僧の葬式だという。タイでは、人が死んだあと数年間、棺のなかに死体を安置したままにしておき、火葬する。墓というものはなくて、火葬の後遺骨は、そのまま寺においておくか、自分の家に持ち帰るのだそうである。日本のような檀家という制度もない。
 タイの仏教には宗派というものはなくて、大部分の寺がマハーミニカイという一つの宗派に属している。ごく少数の寺、僧の割合にして3パーセントほどがタマユットニカーイという少数派に属している。これはラーマⅣ世モンクット王が王太子であった時期に僧侶となった際に始めたものだそうである。それで、タイの王室はこの派に属しているのだという。〔そういうことが起きるのは、2つの派の間の隔たりがあまり大きくないということだと思うが、そのあたりのことは記されていない。なお、ラーマⅣ世モンクット王というのは、ミュージカル「王様と私」の一方の主人公であるシャムの王様のことである。〕

 国民皆僧
 タイの町では、額縁屋をよく見かける(今でもそうだろうか)。額縁だけでなく、それと一緒に絵や写真も売るのであるが、その中で一番人気があるのは王様と王妃であり、さまざまな写真が用意されている。それから孫文の人気が高い。これは華僑が買うのであろうか。毛沢東でも蒋介石でもないところに微妙な含みがあると梅棹は見た。
 そのような額縁屋の店先で、サングラスをかけ、僧衣を着て、サンダルをはいた一人の若い僧の写真を見かけることがよくある。この坊さんが国民から尊敬を集めていることが見て取れるので、ある時、調査隊に同行しているチュラーロンコーン大学の助手であるヌパースパットに、これはだれかと聞いてみたところ、王様=当時のプーミボン国王であることが分かった(「サングラス」をかけ、というところで、わかる人にはわかったはずである。この本の61ページにも、プーミボン国王は目が悪いので、いつもサングラスをかけられていると記されている)。国王さえも、僧侶になる。タイは国民皆僧の国である。そして、タイでは、国民の信教の自由は保証されている(と、梅棹は書いているが、イスラーム教徒はどうもそうではないのは、最近の事情が語る通りである)が、王様には信教の自由はない。王様は仏教徒でなければならない。(国民の信教の自由とは別に、元首の信仰する宗教について定めている国は少なくない。だから、これは奇異なことではない。) とにかく、男はともかくもいっぺん坊さんになると梅棹は書いている(では女性はどうなのか、と到底ないところに、彼の限界を見てもいいのかもしれない。現在の世界で、徴兵制は時代遅れであるが、それでもその時代遅れの徴兵制を敷こうとすれば、男女平等に適用すべきであるというのが世界的な「流れ」らしい)。梅棹の知っている人物も、就職口が見つかったので、新しい就職をする前に僧侶としての修業をすることになったという例を、彼は挙げている。

 中央市場
 戦前からチェンマイに住んで、写真館を経営している田中さんに連れられて、梅棹は市場を見に行った。それは途方もなく大きなものであった。中央市場といっても、卸売りではなく、l小売り市場でタラートという。
 あらゆる店があるが、八百屋、魚屋などの生鮮食料品店は、タラート以外にはない。その一角に衣料品店がずらりと並んでいるが、その店員はどうもインド人ないしパキスタン人が多いように思われた。繊維品はインド系商人の手に握られているようなのである。
 田中さんは市場の理事長に紹介しようと言ってくれたが、あいにく理事長は不在であった。理事長というのは、実は、昔のチェンマイ王家の当主であって、田中さんとは無二の狩猟友達だという。王家と中央市場の結びつきといえば、チェンマイの建設者メンラーイ王も、都市の建設とともにタラートを作っている。「実は、当時においては、都市を建設するということは、事実上はタラートを建設するということであったかもしれない。」(これはタイに限ったことではなさそうである。)

 あと1回で、『東南アジア紀行(上)』は終わる。しばらく休んで、下のほうを紹介していきたいと思う。梅棹がこの旅行を行ったのは60年以上前で、私がタイに出かけたのは15年以上前である。その後、様々な変化があるとは思うが、変化した部分と、どうも変わっていない部分を比べながら読み進むのも面白い。またタイに出かけたいとはあまり強くは思わないのであるが、下川裕治さんの本などを読んでいると、また別の側面を発見することがあるので、これからも興味は持ち続けていくつもりである。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(17)

9月19日(木)晴れ、気温上昇

 ガルガンチュワはフランスの西の方の地方を支配していたグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、生まれ落ちるとすぐに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだため、この名がついた。もともと巨大な体躯をもって生まれてきたが、その後も牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと成長し、また一時詭弁学者の手で教育されたために、薄のろになりかけたが、パリに出て(ルネサンスの)新しい学問と教育方法を身につけたポノクラートのもとで勉強するようになってからは、学問にも武芸にも秀でた若者となった。
 一方、グラングゥジェの領地の住民たちが、隣のピクロコル王が支配する領地の住民たちといざこざを起こし、そのためにピクロコル王がグラングゥジェの領地に侵入し、略奪を行うという事態が生じた。そこでグラングゥジェはガルガンチュワをパリから呼び戻した。ガルガンチュワは、敵情を偵察した結果、ピクロコル軍は統制の取れない追剥集団に過ぎないと判断、ピクロコル軍の要塞を攻撃したが、ガルガンチュワの乗馬である大牝馬の大量の放尿とガルガンチュワの怪力のおかげで、この砦に立てこもるピクロコル軍を全滅させてしまった。

第37章 ガルガンチュワが頭を梳(くしけず)って頭髪のなかから砲弾をばらばら落したこと(ガルガンチュア、髪をとかして、砲弾をばらばらと落とす)
 こうしてガルガンチュワの一行はヴェード川を渡り、しばらく進んで、グラングゥジェの居城に到着した。城内では彼らの到着を今か今かと待っていたのである。
 いよいよ若君が到着すると、父王をはじめ、人々は大喜びで迎えたのであったが、母であるガルガメルは喜びのあまり、命を落としたという話もある(が、あまり当てにならない)。

 確かなことは、ガルガンチュワが衣服を着換え、櫛で頭髪を梳いていると(その櫛は巨大な象牙をそのまま歯に使うほど巨大なものであった)、ヴェードの森の城を崩した時に、城中から打ち込まれた砲弾が髪のなかからばらばらと落ちてきた。これを見て父王グラングゥジェは、てっきり虱だと思ったので、次のように言った。
 「――やれやれ、息子。そちはモンテーギュ学寮の鷂虱(はしたかじらみ)を、ここまでも持ってきよったのか? 左様な学校へ入れるつもりはなかったのじゃが。」(渡辺訳、175ページ、宮下訳、284ページ) 
 そこで、ポノクラートは、これは虱ではなくて、ヴェードの森の要塞を攻撃した際に、敵が発砲してきた砲弾であると説明し、極端にきびしい規律を課すことで知られた(悪名高かった)モンテーギュ学寮などに、大事な若君を送り込むわけがないと釈明する。「あすこの連中は、私も知って居ります通り、ひどく残酷で不潔な奴らでございますからな。・・・もし私がパリの王様でしたら、天地神明に誓い、必ずあの学寮へは火を放ち、あのような人間らしからぬ振る舞いが眼前で行われても平気な顔をしている学長や教員どもをば、悉く火焙りにしてつかわすでござりましょう!」(渡辺訳、175‐176ページ、宮下訳、284‐285ページ)
 パリ大学は12世紀中ごろにその形を整えたが、ローマ教皇によって大学としての認可を得たのは1211年のことである。1257年にロベール・ド・ソルボンによってソルボンヌ学寮が作られ、その後100を超える学寮が作られた。モンテーギュ学寮は1314年に作られ、ジュネーヴの宗教改革家であるジャン・カルヴァンやスコットランドの宗教改革家であるジョン・ノックスなどが学んだ一方で、ルネサンスを代表する人文主義者であるエラスムスなどはこの学寮の雰囲気を酷評している。エラスムスを師と仰ぐラブレーが、このようにモンテーギュ学寮を非難しているのも無理からぬことである。この学寮はフランス革命期に廃止され、宮下さんによると現在では記念のプレートが残っているだけだそうである。

 そしてポノクラートはガルガンチュワがヴェードの森の城を攻め滅ぼした武勇を語り、「私の意見では、わが軍に事有利なるうちに追撃いたしてはいかがかと存じまする。そもそも好機の女神と申すものは、額のほうに頭髪を全部生やして居りまして、行き過ぎましたら最後、二度と呼び戻すことができませぬし、後頭のほうは禿でございまして、決して振り返ってはくれぬのでございますから。」(渡辺訳、176ページ、宮下訳、285,287ページ)
 フランス語原文では
Iceulx je suis d'advis que nous poursuyvons, ce pendent que l'heure est pour nous, car l'occasion a tous ses cheveulx au front: quand elle est oultre passee, vous ne la povez plus revocquer; elle chauvre par le darriere de la teste et jamais plus ne retourne.
Thomas Urquhart and Perre Le Motteuxの英訳では
My opinion is, that we pursue them whilest the luck is on our side, for occasion hath all her haire on her forehead, when she is past, you may not recall her, she hath no tuft whereby you can lay hold on her, for she is bald in the hind-part of her head, and never returneth again.
 occasionが「好機の女神」と訳されているのは、女性名詞だからである。英語ではtake [seize] time [an occasion] by the forelock 〔機会を逃さない、機会に乗じる《機会にうしろ髪はないとの言い伝えから》という慣用表現があるが、フランス語でこれに相当する言い回しがあるかどうかは知ることができなかった。

 これに対して、グラングゥジェはその通りだと答えながら、すぐに攻撃に取り掛かるのではなく、今はまずガルガンチュワ一行が帰還したのを歓迎する酒宴を開こうという。ということで、家畜や野獣の焼き肉を中心に豪華な料理が食卓に供せられた。「食物は豊富で、何一つ欠けているものはなく、しかもそれが、グラングゥジェの料理人の醤油味見助(フリップソース:宮下訳では「ソースなめ助」)、煮詰太郎(オーシュポ:宮下訳では「シチュー煮太郎」)、葡萄汁擂蔵(ピルヴェルジュ:宮下訳では「ブドウ酢作太郎」)らの手で、おいしく調理されたのである。/ジャノとミケル(宮下訳ではジャノ・ミケルとなっており、「巡礼田吾作」と仮訳されている)と乾杯之介(ヴェルネット:宮下訳では「飲み干し之介」)とが、酒のお酌を立派に相勤めた。」(渡辺訳、177ページ、宮下訳、288ページ)

第38章 ガルガンチュワがサラダと一緒に6人の巡礼を食べてしまったこと(ガルガンチュア、サラダといっしょに6人の巡礼を食べてしまう)
 ここで物語は少し脱線して、ナント近くのサン=セバスチャン詣でから戻るところであった6人の巡礼の話になる。宮下さんによると、このような脱線は騎士道物語などの定石だという。わが『平家物語』や『太平記』でも物語の展開に関係のない故事説話がやたら長々と挿入される部分があるのと、何か共通するものがあるのかもしれない。
 サン=セバスチャンの町はロワール川の左岸にあり、そこから彼らは(ロワール川からヴィエンヌ川へと)川沿いに内陸部に移動してきたのであるが、戦闘に遭遇して身を隠すために、グラングゥジェの菜園のレタスとキャベツの間の、エンドウ豆のつるの上に隠れていた。
 ガルガンチュワは、少々喉が乾いたように思い、サラダにするレタス(渡辺訳では萵苣=ちさとなっているが、今時、そんなことを言われても誰もわからない)はないかとたずねたところ、ここのレタスが大きくておいしいと聞かされ、それではと自分でレタスを取りに来た。そして好きなだけ手に入れて持ち帰ったのだが、レタスといっしょに6人の巡礼たちも持ってきてしまったのであり、運ばれている巡礼たちはこれから自分たちはどうなるのかと恐ろしさに息を殺し、身をすくめていたのである。

 ガルガンチュワは食べる前にレタス(と巡礼たち)を水で洗い、どうすればいいのかと巡礼たちが相談しているうちに、レタスを巨大な料理皿へ乗せて、油や酢や塩などでまぶして、むしゃむしゃ食べ始め、巡礼を5人まで飲み込んでしまった。6人目の男は、レタスの陰に隠れていたが、彼のもっている巡礼杖が上に出ていたために、グラングゥジェはレタスのなかにかくれているカタツムリの角だと思い、ガルガンチュワに食べないようにといった。ガルガンチュワは、カタツムリは今が旬だといって、レタスごと巡礼を食べてしまい、さらにピノー・ワイン(vin pineau)をがぶがぶと飲んで、夕食を待ち構えた。〔グラングゥジェとピクロコルの領民たちのあいだにいざこざが起きたのは、ブドウの収穫時のことであったが、カタツムリの旬はブドウの収穫時と重なるのだそうである。ピノー・ワインというのは、ロワール川流域で作られるワインのことだと理解しておけばいいようである。〕

 巡礼たちはガルガンチュワの口のなかで、かみ砕かれたり、胃の中にのみ込まれたりしないように逃げ回った挙句、どうやら歯の土手のところに逃げ場を見出した。ところが、巡礼たちの一人がガルガンチュワの虫歯の穴を巡礼杖でつついてしまったために、ガルガンチュワは痛みに耐えかね、ついに巡礼たちを爪楊枝でほじくり出してしまった。このとき、夕食の支度ができたという小姓のユーデモンの声が聞こえたので、ガルガンチュワは夕食の席に向おうとしたが、その前に歯の痛みに苦しんだ憂さ晴らしだといって小便を垂れた。ブドウ畑の中に逃げ込んでいた巡礼たちは、今度はこの小便の洪水に襲われ、命からがら逃げだしたのであった。〔それにしても、ガルガンチュワの体はどれだけ巨大なのか、想像を絶するところがある。この後、巡礼たちが再びガルガンチュワたちのところにやって来て、両者の間に会話が交わされる場面があるが、こちらの場面では、はたして会話ができるものなのかどうかと思うくらい、ガルガンチュワの体の大きさは誇張されて描写されている。〕

 さて、夕食の席でガルガンチュワたちは英気を養うのであるが、その場に、27章で大活躍、自分の修道院のブドウ畑をピクロコル軍の略奪から守ったジャン修道士が呼び寄せられることになる。どんな風に話が進むことになるか、それはまた次回に。

 ブログ開始以来、皆様から頂いた拍手が38,000を越えました。厚くお礼申し上げるとともに、これからもよろしくお願いします。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(17)

9月18日(水)9:30ごろから雨が降り続いている。

 コロンブスにしたがって新世界に渡航し、その後、さらに西へと進んで世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に彼の世界旅行のなかで訪問した「太陽の都」の様子を語る。
 それは、赤道直下のタプロバーナ島(スマトラ島と考えられている)の中央に広がる平原のなかの丘を中心として七重の城壁をめぐらして建設された都市であり、「太陽」と呼ばれる神官君主によって統治されている。
 都市の住民たちは私有財産を持たず、全員が働いている。都市全体が家族と考えられ、衣類は配給され、共同食事が実施され、住居も割り当て制である。都市の中心にある神殿の外壁と、都市を囲む城壁には世界中の様々な事物の画や模型が展示され、子どもたちや人々の教育に役立っている。
 「太陽」は軍事を司る「権力」、学問を司る「知識」、生殖、教育、医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。これらの高官を含めて都市の役人たちは教育のなかでその能力と適性を見出された人々が選ばれる。農業や牧畜が主な産業であるが、商業も営まれている。しかし、国内ではほとんど貨幣は使われていない。
 様々な職業ごとにその頭≂指導者が置かれ、彼らは仕事を指導するだけでなく、裁判官でもある。

 罪を犯してもそれを悔いて、自首したものは減刑される。彼らは団体行動をとっているので、裁判官にある罪を立証するためには5人の証人が必要とされるという。証人が5人集まらない場合、被告は釈放されるが、2度にわたって2人ないし3人の証人から告発されると、2倍の刑罰を科せられてしまう。
 「法令は数少なく、青銅板に書かれて、神殿の扉や円柱に掲げられています。」(坂本訳、57ページ) プロジェクト・グーテンベルクの英訳では、
They have but few laws, and these short and plain, and written upon a flat table and hanging to the doors of the temple, that is between the columns. (彼らはごくわずかな法律しかもたず、そしてそれらは短く平明なもので、平らな金属板の上に記され、神殿の扉のところに、ということは円柱の間に、掛けられています。)
 法律が青銅板に記されているというのは、古代ローマの「十二表法」が青銅の板の上に記されていたという話を思い出させる。

 注意してよいのは、この法令のなかには神や世界、道徳についての定義も記されているということで(それでは全く平明なものにはならない)、「忘恩」、「怠惰」、「無智」などについても裁判によって罰が下されるが、「この処罰は刑というより大へん穏やかで、全く薬のようなものです」(坂本訳、同上)とある。カンパネッラは法律や裁判は簡単であるべきだと考えながら、実はその範囲を道徳にまで広げているのであって、これは矛盾といわざるを得ない。〔ついでにいえば、「十二表法」はローマ市民の世俗的な権利と義務に関わる法律で、市民生活の総てに関わるものではないが、その分、量的には少ない。〕

 騎士団員は、神官、いけにえ、宗教について話してくれと頼む。
 最高位の神官はこれまでも話されてきたように「太陽」である。彼の配下の役人たちはすべて神官で、彼らの仕事は「人々の良心の浄化」(坂本訳、58ページ)であり、人々は役人に、役人たちは3人の高官に、3人の高官は「太陽」に自分自身と他人の罪について告白し、それによって「太陽」は都ではどんな種類の過ちが負いかを知り、必要な措置を考える。「太陽」は神にいけにえを捧げて祈り、それが自分や人々の罪をあがなうのに必要であれば、公開の祭壇上で神に向かって自分と市民全体の過ちを告白する。しかし、特に過失を犯した当人の名前は言わない。こうして彼は人々が同じような罪科を2度と犯さないように注意するように諭し、市民全体を許す。
 いけにえの方法は、無意志の動物ではなく、同朋のために自分を犠牲にしてもいいと思う善良な人物を募り、彼はわずかな食べ物をとるだけで、町の罪が償われるまで祈りと断食を続ける。20日から30日たって、神の怒りが鎮められると、彼は地上に戻り、神官になるという。いけにえは自らを市にゆだねるのだが、神によってその命を奪われることはない。

 「このほか、神殿の上部には24人の神官がいて、真夜中、正午、朝、夕にいくつかの聖歌を神に詠唱します。この神官は、星を眺め、天文観測儀で星のあらゆる運行と、星が生ずるあらゆる影響を調べるのが役目で、この結果、彼らは、どの国でどんな変化が起こったか、あるいは、起こるに違いないかを知っています。」(坂本訳、59ページ) カンパネッラは占星術を信じているので、天文を観測することによって、世の中の動きがわかると考えている。彼らは神と人間との間の仲介者の役を果たし、大体において彼らの中から「太陽」が選ばれるという。
 彼らは神殿の上部にいて、食事の時以外は地上に下りてこない。「女との交わりも健康のためにほんのときたまおこなうだけです。」(坂本訳、同上) ということは、神官は男性だけが任命されるということであり、カトリックの聖職者と違って女性との性交は認められているということでもある。「太陽」は毎日彼らのところに上っていき、彼らが都と世界のあらゆる国々について調べたことを話し合う。神殿の中では、いつも1人の神官が神に祈りをささげていることになっている。彼らは1時間ごとに交代するので、合計で24人いるわけである。

 この後で、「太陽の都」の住人たちの信仰生活が語られる。話しているジェノヴァ人、それを聞こうとしているマルタ騎士団員、そしてその会話を書いている著者自身の距離感がいまいちつかみにくく、このあたりがトマス・モアの『ユートピア』に比べて読んでいて不満を感じるところである。また読んでいて、矛盾しているところや、混乱しているところがないわけではないが、私なりに説明できそうなところは、説明してみたつもりである。それでもまだどうもおかしいとお思いになるのであれば、文句は私ではなく、カンパネッラ自身の方に行っていただきたい。もちろん、翻訳の問題もあるし、私の解釈が間違っていることもあるが、やはり獄中という不利な条件の中で、この書物を書き続けたカンパネッラの頭の中が、混乱していたと考える方が自然なのではないだろうか。 

『太平記』(280)

9月17日(火)晴れ、気温上昇

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁王が践祚された(崇光帝)が、折しも院の御所に、子どもの首を犬がくわえてくるという怪異があった。
 その頃、仁和寺の六本杉で、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊が天下を乱す謀議を企てるのを、ある僧が目撃した。その謀議とは、まず尊雲が足利直義の北の方の胎内にやどり、他の天狗も足利方諸将に取りついて大乱を起こすというものだった。直義の北の方はまもなく懐妊して男子を生んだ(史実は貞和3年)。
 またその頃、楠正成の子正行が、父の十三回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った。
 その頃、円成という僧が、かつて壇ノ浦の海に沈んだ宝剣を、伊勢で発見したと称し、北朝の宮廷で重きをなしていた大納言日野資明のもとに持参した。卜部兼員から三種の神器の由来を聞いた資明は、兼員に命じて剣を平野社の神殿に籠めて祈祷させた。

 その翌日から、兼員はこの剣を平野社の神殿に安置し、12人の社僧(神社に仕える僧侶。この時代は神仏が分離していなかった)に大般若経を読ませ、36人の巫女に長時間にわたって神楽を舞わせた。その読経の声、巫女たちが踊る際に振る鈴の音は仏の耳に届くのではないかというほどはっきりとに聞こえ、何か不思議な出来事が起きてもおかしくはないような雰囲気であった。また神前には様々なお供え物をして奇瑞が現れるように祈り続けていた。

 その祈祷が21日間に達しようかというとき、足利直義が不思議な夢を見た。内裏の神祇官と思しき場所に、百官が列座し、音楽が演奏されている。直義が居合わせた執権(政務担当者)大納言の坊城(勧修寺)経顕に問うたところ、伊勢神宮から宝剣を進上するというので、中儀の節会(中程度の儀式)を行うことになったのだという答えである(経顕は、この後また登場する)。南の方から光が照らしてきて、仏教守護の諸神に守られて宝剣が近づいてきた。
 目を覚ました直義がこの夢を周囲のものに語ると、人々は天下が静まる兆候だろうと口々に慶賀したのであった。

 この夢のうわさが洛中に広がったので、卜部兼員は、急いで夢の記録を書き、日野大納言のもとにもっていった。大納言はこの夢窓の記録をもって、上皇の御所に参上した。どうやら、伊勢から進上された宝剣が本物であることに間違いがないという確証を得たので、8月18日の早朝に、諸卿が参列して、宝剣を受け取った。翌日、この剣を持参した僧侶である円成を、順序を飛び越えていきなり僧都(僧綱の第2位、僧正の下、律師の上)に任じられ、河内の国の葛葉の関所を恩賞として与えられた。

 ところが、この頃、朝廷で上皇や帝に対して忌憚なく意見を申し述べることのできる公卿というと、日野(柳原)資明と坊城(勧修寺)経顕の2人であったが、この2人はどうも仲が悪く、一方がこういえば、他方がああいうという関係でことごとに言い争っていた(既に、第25巻で天龍寺の落慶法要に光厳上皇が行幸されることに対し、山門から異議が出たことをめぐり、2人は論争している)。

 今回の宝剣をめぐる一件は、日野大納言が中心になって進められたので、坊城経顕としてはどうも面白くない。光厳上皇のもとに参上して、次のように申し立てた。今回の宝剣の件は日野大納言と、その取り巻きによって起きたものである。「佞臣朝に仕えて、国に不義の政(まつりごと)有り」(岩波文庫版、第4分冊、195ページ、よこしまな家来が朝廷に仕えると、国の政治が正しく行われない)というのはこういうことをいうのである。
 壇ノ浦で沈まれた安徳天皇は実は八岐大蛇の生まれ変わりで、奪われた宝剣をとり戻して、竜宮に戻られたのである。それから160年ばかりの年月が過ぎ、世の中が平和で人々が豊かに暮らしていた時期ではなく、戦乱に明け暮れている今のような時期にどうして宝剣が出現したのであろうか。瑞祥を喜ぶ前に、天下の平和と安定を望まれるのが帝として取るべき態度であろう。
 また直義の夢を理由として宝剣を信用されるというのであれば、夢ほどあてにならないものはない、「聖人に夢無し」(第4分冊、196ページ、聖人は雑念に煩わされないから、つまらない夢を見ない)というではないか、と言い、「黄梁の夢」という中国の故事を語り始めた。

 昔、中国に大した才能もないのに立身出世と復帰を願う若者がいた。楚の国では優れた才能を持つ人材を求めていると聞いて、出世の糸口をつかもうと、旅立った。途中、趙の都である邯鄲(河南省)の旅館に泊まったが、同じ宿に泊まっていた呂洞賓という仙人が若者の心中を見抜いて、一つの枕を貸し与えた。
 若者がこの枕で寝たところ、楚の王様から招待の使者が到来して、宮殿に招き、若者と話し合ったところ、その意見に感心し、彼を大臣・大将の地位に就ける。それから彼は力を増して、国王の王女を妻にめとり、王の死後は後継ぎがいなかったために、国王の地位を得る。王位に就いた彼は楚国の国力を充実させて、天下に号令するようになるが、ある日、妃と王子とともに舟遊びをすると、妃と王子が海底に落ちてしまう…。
 夢のなかで50年間が過ぎたはずが、夢から覚めてみると、まだ宿で炊きはじめていた粟飯がまだ炊き上がっていなかった。若者は富貴栄華も一時の夢に過ぎないことを悟り、故郷へ帰っていったという。これを邯鄲午炊の夢というのである。
 また葛葉の関は、長年、奈良の寺院が領有している場所であるのを、理由なく、(どこの馬の骨ともつかぬ)円成に与えるのはいかがなものかと思われる。また奈良の僧兵たちが強訴に及んだりすると面倒である。「淪言汗の如し」(天子の言葉は汗のようなもので、いったん出されたら撤回できないものである)というが、「過ちて改むるに憚ることなかれ」(『論語』学而篇の句。間違いは躊躇せずに訂正しよう)ということもあるので、帝の裁定を直ちに撤回されて、奈良の僧侶たちが抗議に来る前にやめた方がいいだろうと、詳しく異議を申し立てたので、上皇はそれもそうだなあとお考えになり、すぐに院宣を撤回された。宝剣は平野社の神主である卜部兼員に預けられ、葛葉の関はもとのとおり、南都の寺院に属するものとされたのである。

 小川剛生「公家社会と太平記」(市澤哲〔編〕『太平記を読む』、吉川弘文館、2008、所収38‐62)によれば、この事件は『太平記』にしか書きとめられていないものの、裏付けとなる卜部兼員の書状が発見されていることもあって、実際に起きた事件と考えられるという。剣の真贋は別の問題として、『太平記』の作者がどちらかというと日野資明寄りで、坊城経顕の方が横車を押しているという書きぶりであることが指摘されているが、読者の皆さんはどのように受け取られたであろうか。黄梁の夢の話などは、それだけ取り出してみれば面白いけれども、話の流れから言えば、まったく余計である。
 次回はまた、楠正行と足利方の戦いの展開となる。

日記抄(9月10日~16日)

9月16日(月・休日)雨が降ったりやんだり、午後になって晴れ間が広がる

 9月10日から本日までに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
9月10日
 
9月11日
 『朝日』朝刊の連載記事「語る ――人生の贈りもの」には柄本明さんが登場中であるが、子どものころ、友達と遊んでいたら、川島雄三監督の撮影隊に出会ったという記憶がある。あとで父親に聞いたら、それは三橋達也主演の『純潔革命』という映画で、実際にその映画を見たら自分たちが映っていたと記憶していた。ところが、最近また見直してみたら、自分たちは映っていなかったという。
 『純潔革命』という映画は見ていないが、川島の映画には市中の風景が取り込まれていることが多いので、興味深いエピソードではある。

9月12日
 本日の『朝日』の朝刊の神奈川版を見たところ、横浜市は2月から3月ころに、すでに統合型リゾート(IR)の検討を始めていたと市議会で副市長が答弁したそうだ。その間、市長はこの問題は「白紙」だと、まさにしらを切っていたことになる。騙された市民が馬鹿なのか、だました市長が悪いのか。

9月13日
 『朝日』朝刊の「ひと」の欄に、ベトナム人学生に独自の方法で日本語を教えているというグエン・ドク・ホエさんのことが紹介されていた。ベトナム語には中国語からの借用語彙が多く、それは日本語のなかの漢語とも共通する場合が多いので、それに着目して教えているという。これは、日本人が中国語や韓国語、ベトナム語を勉強する際にも有効な方法ではあるが、同じ語源から派生した言葉がちがう意味を持つことがあり、注意を要する。

9月14日
 『朝日』朝刊の「朝日川柳」の欄に「入閣に登竜門と花道と 香川県・桑島正樹」という句が掲載されていた。むかしは、官庁の課長補佐という職が、「登竜門と花道と」のポストと言われていたと記憶する。

 本郷和人『日本中世史の核心 頼朝、尊氏、そして信長』(朝日文庫)を読み終える。わかりやすく、面白い歴史記述を目指して、あえて人物中心のアプローチをとったという。ただ、中世人と現代人の心理はまったく同じものではないので、このやり方にも限界があることも承知しておいてほしい。
 ずっと『太平記』を読んでいるので、尊氏(と直義の兄弟)について触れた個所を一番面白く読んだ。『太平記』は尊氏・直義兄弟を始め、後醍醐天皇、護良親王、楠正成、佐々木導誉、高師直など個性豊かな人物が多く登場するのだが、吉川英治が『私本太平記』のなかで、(十分に成功しているとは言えないが)登場させている毛利時親のような影の人物(楠正成に兵法を教えたという説もあるが、どちらかというと宮方と足利方の間で中立の立場を保とうとしていた)や、あるいは民衆を代表するような架空の人物群を歴史家は登場させるわけにはいかない。

9月15日
 『日経』に今回の内閣改造について6カ国の日本への特派員の意見を聞いた結果が掲載されていたが、米『ウォール・ストリート・ジャーナル』のランダース氏の「内閣より国家安全保障局長の人事に注目する」、「経済腰折れへの対応が試金石だ」という意見がいちばん鋭いと思った。今回の人事では誰が何大臣になったかということよりも、今井首相秘書官が補佐官も兼務するようになったというのと、北村滋内閣情報館が国家安全保障局長になったというのがいちばん大きな変化ではないか。サッカーで、得点ができないと、GKやCBが前の方に出てくるということがよくあるが、今回の人事はまさにそれだなと思っているのである。

 そのサッカーの話。15時から三ツ沢陸上競技場でなでしこリーグ2部第11節、横浜FCシーガルズ対ASハリマの対戦を見る。ニッパツ三ツ沢球技場の前を通ったのだが、18時からの横浜FC対大宮アルディージャの試合を前に、開場を待っている人が大勢いた。前半は0-0で終わったが、後半に横浜がPKで1点を先制、しかし、後半80分にハリマが1点を返し、このまま引き分けるかと思われたが、終了間際に横浜の高橋選手が左サイドからゴールを決めて、これが決勝点となり、勝ち点3を挙げた。観客数が1200人を超えたというのは初めてのことではないかと思う。

 その後、ニッパツ三ツ沢球技場に移動して、横浜FC対大宮アルディージャの試合を観戦した。今年最高の12,000を超える観客が入場したので、席を見つけるのに苦労した。一進一退の攻防が続いたが、0-0で引き分けとなる。これで横浜は山形に抜かれて3位に後退した。

9月16日
 『朝日』朝刊の「折々のことば」は「我々はすべて弱さと過ちからつくりあげられている。われわれの愚行をたがいに宥しあおう。これが自然の第一のおきてである。」というヴォルテールの言葉を取り上げている。
 私はイエズス会の学校で6年間勉強したが、学校を卒業して数十年たって、デカルトとヴォルテールがイエズス会の学校で学んでいること、いわば私の大先輩であることを知った。以来、私はこの2人を自分の大先輩であると思って、それを一つの心の支えにしている。

 『日刊スポーツ』のコラム「政界地獄耳」に、台風15号が首都圏に猛威を振るったのが9日(月)であり、被害の予想ができたのに、官邸は8日に関係閣僚会議を見送ったことが、被害を大きくしたと記されている。調べてみると、首相は8日に下村博文議員の次男の結婚披露宴に出席し、9日には沖田芳樹内閣危機管理監、関田康雄気象庁長官と会見している。だから情報も得ているし、時間的な余裕も十分にあったのである。内閣改造を延期してでも、9日に災害対策本部を立ち上げるべきだったという批判にどうこたえるつもりなのか。ご本人は、これから出席する国連総会や、何とか実現するつもりの日朝会談のことで頭がいっぱいらしいが、台風の通過から1週間たって、被災地の復旧が進まず、千葉県の停電がなお10万戸とか、11万戸とか言われている事態にどう向き合うのだろうか。

 『朝日』と河合塾の共同調査「開く日本の大学」によると、2020年度から始まる大学入学共通テストで英語の民間試験を活用することについて、「問題がある」と考える大学が65%に上ることがわかったという(それよりも、高校の9割近くが問題を感じており、高校の校長会が文部科学省に再考を促していることのほうが重要であろう)。今回の「改革」は英語の4技能(読む・聞く・話す・書く)を評価するために民間試験を活用するというのだが、「読む・聞く・話す・書く」というのが具体的で明確な目標として示されていないというところに問題がある。8月13日にはこの問題をめぐり高校の先生や生徒が「入試改革中止を」というデモを文科省前で行ったそうである。改革を望むのならともかく、中止をというのはかなり異常な事態であり、たとえその人数が100人ほどであったとしても無視すべきではない。萩生田文科相は「実施が前提」という態度を崩さないようだが、そのような硬直した態度では、不測の事態に対応することは難しいのではないかと思われる。 
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(10)

9月15日(日)曇り、ときどき小雨

 19世紀初めのイングランド、ロンドンの北の方にある農村ロングボーンの地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス、メアリ、キャサリン、リディアという5人の娘があった。この一家の決まりで、土地その他の財産は一族のなかの男性に相続されることになっており、ベネット氏の財産は、遠縁のコリンズ氏の手にわたることになっていた。そのことがどうしても納得できないベネット夫人にとって、娘たちの少なくとも1人が、裕福な男性と結婚することが望みであった。
 そこへ、ロングボーンの近くにあるネザーフィールド・パークを北イングランド出身の裕福な独身男性であるビングリー氏が借りるという話が持ち上がった。実際に屋敷を借りることになったビングリー氏は、気さくな青年であったが、その姉と妹は自分たちの財産を鼻にかけるところがあり、ビングリー氏の親友であり、彼以上の大金持ちだというダーシーという男性はそのことのためにひどく高慢な印象を人に与える人物であった。
 この地方の中心都市であるメリトンで開かれた舞踏会で、ビングリー氏はジェインがすっかり気に入り、2度ダンスを申し込む。一方、ビングリー氏からエリザベスと踊るように勧められたダーシーは、わざわざ踊るほどの美人ではないといってその勧めをはねつけるが、その後で、彼女の表情、特に目の美しさに惹かれるようになる。一方、ダーシーが自分と踊ることを拒否するのを聞いていたエリザベスは、彼の気位の高さに嫌悪感を抱くようになる。
 ロングボーンの相続者であるコリンズ氏がベネット家を訪問し、相続の問題をめぐる長年の係争の和解を申し出る。その内容はよくわからないが、一家は彼を迎え入れる。ケント州の大地主であるレイディ・キャサリン・ド・バーグの恩顧を受けて、教区牧師の地位を得たというコリンズ氏は尊大なところと卑屈なところが奇妙に入り混じった俗物的な人物である。(以上第1部第14章までの大まかなあらすじ)

 コリンズ氏は、多くの欠点を持っていて、オックスフォードだか、ケンブリッジだかわからないが(この時代のイングランドにはこれ以外に大学はなかった)どちらかの大学を出ていたが、それは卒業に必要な期間出席していたというだけのことで、勉強もしなければ、交友によって自分の至らない部分を克服していくということもしなかった。とにかく運良く、レイディ・キャサリン・ド・バーグの知遇を得たことで教区牧師になることができたのであった。〔ヨーロッパの大学というのは普通、三大専門職=司祭もしくは牧師、医師、法律家になるための教育機関なのだが、19世紀前半のイングランドの場合、医師になることはできず、法律家になるためには別のところで勉強しなければならなかった。だから、大学というのは、牧師になるための準備期間であるか、あるいはただ単に紳士となるための社交場という意味しかもっていなかったのである。〕

 「今や立派な家と十分な収入が確保出来たので、ミスター・コリンズは結婚するつもりであった。」(大島訳、129ページ) ベネット家に対して和解を申し入れたのも、美人で気立てがよいという噂のベネット家の5人の姉妹のうちの誰かと結婚するつもりだったからである。
 そして実際にその5人姉妹に会ってみても、気持ちは変わらなかった。5人の仲で一番年長で一番美しいジェインと結婚しようと思い、ベネット夫人にそれとなく胸中を打ち明けてみたところ、ジェインは近々婚約するかもしれないと仄めかされたので、年齢的に2番目で、美しさからいっても2番目のエリザベスに乗り換えたのであった(どうもエリザベスは彼女自身の価値をなかなか認めてもらえないところがある。いや、ダーシーはどうやら彼女の価値を認め始めたのであるが、エリザベスの方がそれに気づかないので、話がいろいろとややこしくなりはじめる…)。

 リディアはメリトンにいる伯母のところに出かけるつもりであったことを忘れなかった。そして、メアリを除く3人の姉妹も彼女と一緒にメリトンに出かけることになる。自分の書斎からコリンズ氏を追い払いたくて仕方なかったベネット氏は、彼に4人姉妹と同行して出かけてほしいと頼む。家のなかで書斎だけが落ち着いてくつろぐことのできる場だと思っていたベネット氏にとって、その書斎まで押しかけてくだらないおしゃべりを長々と繰り広げるコリンズ氏は邪魔で仕方がなかったのである。

 メリトンに到着した4人の姉妹とコリンズ氏は、姉妹とは顔なじみの士官であるデニー氏と一緒に歩いている見知らぬ青年の風貌と物腰に強い興味を抱く。デニー氏は、その青年が自分たちの連隊に士官(中尉)として着任してきたウィッカム氏だと紹介する。ところがそこに、ビングリー氏とダーシーが馬に乗って通りかかり、ダーシーとウィッカムはお互いの姿を認めてびっくりした様子を見せる。エリザベスはそのことを不思議に思う。

 姉妹の伯母であるフィリップス夫人の家に到着すると、デニー氏とウィッカムは立ち寄るように勧められたにもかかわらず、そのまま帰っていった。士官たちと盛んに付き合っているフィリップス夫人は、知り合いの士官たちに、近いうちにウィッカムも招待して楽しく時間を過ごそうと持ち掛け、士官たちもそれに応じる。そこで、姉妹とコリンズ氏はまたまたフィリップス夫人を訪問することに決める。

 ジェインはビングリー氏と出会ったことで、この男性と心を決めるのだが、エリザベスはどうやらコリンズ氏の結婚申し込みの対象となり、また本人は気づいていないけれどもダーシーから興味を持たれ、この後を読めばわかるように、他の男性からも思いを寄せられたり、彼女の方から興味を持ったりする。ジェインの方が美人だという設定からすれば、不思議かもしれないが、そこが物語のヒロインたるゆえんである。さて、どうなるか。
 本来ならば、もう少し詳しく、また多く内容を紹介するところですが、本日はサッカーの試合を見に出かけたために時間が無くなり、その余裕がありません。またみなさまのブログを訪問する余裕もありませんので、失礼させていただきます。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(25)

9月14日(土)曇り

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、当時彼が所属していた大阪市立大学の組織する学術調査隊の隊長として、川村俊蔵(霊長類学)、小川房人(植物生態学)、依田恭二(植物生態学)、吉川公雄(昆虫学、医師)、藤岡喜愛(文化人類学)の各隊員とともに、主としてタイ北部を調査地として熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。この書物は、その調査旅行の私的な記録である。
 バンコクに集合した一行は、太平洋学術会議への参加、カンボジアのアンコール・ワットへの旅行を経て、自動車で北タイに向かい、タイの最高峰であるドーイ・インタノンに登山、その途中、ビルマから越境してきた山岳少数民族のカレン族に遭遇した。その後、チェンマイからドーイ・ステープに登り、中国から越境してきた山岳少数民族のメオ族と接触した。その後、北のビルマとの国境付近まで移動しながら、テナガザルの生態を研究するための適地を探し、またチェンマイに戻ってきた。
 前回から第10章「ランナータイ王国の首都」に入っている。「ランナータイ王国の首都」とはチェンマイのことであり、チェンマイではILOから派遣されて漆工芸の指導に当たっている生駒弘さんの世話になっている。

第10章 ランナータイ王国の首都(続き)
 明治の日本男児
 当時、チェンマイには日本人は3人しかいなかった。生駒さんと、この地で写真館を開いている田中盛之助さん、その娘婿の波多野さんである。〔この書物の下巻を読むとわかるが、その後生駒さんは日本に帰国、田中さんは亡くなられた。〕 この項では田中さんのタイ移住以後のことが記されている。
 チェンマイの町は昔は、1.5キロメートル四方の城壁で囲まれた城市であった。城壁はなくなったが、その周囲にめぐらされていた濠は残っている。田中さんの写真館はその東濠の堤防沿いに建っている。
 田中老人はそのとき84歳で、鹿児島出身で、台湾からアモイを経て、タイにやって来たのが明治35・6年(1902・03年)ころのことだったという。日本で身につけた写真の技術がものを言って、バンコクで写真館を開いて成功していたのだが、知人がチェンマイの総督に就任したのをきっかけにチェンマイに移り住んだのだという。
 チェンマイで写真館を開き、タイ人と結婚して、そのまま居ついてしまった。戦争中は収容所に入れられたりしたが、戦後また事業を再開した。波多野さんを娘婿に迎えたが、子どもたちの大半はタイ人になってしまい、タイ語しか話さない。一人だけ、日本人として生きる道を選んだ孫が、バンコクの日本大使館で領事事務をしていた。しかし、田中さん自身は自分は日本人だという自覚が常にあったようである。

 たき木で走る汽車
 戦争中はチェンマイは日本軍の一大基地で、日本軍はビルマ戦線への大補給路をつくる計画を立て、軍事道路の建設に取り掛かった。田中さんはこの計画は無謀だといって、当時のチェンマイの知事と一緒に日本軍の司令官である山内中将に進言したが、取り合ってもらえなかったそうである。しかし、結局工事は、インパール作戦に間に合わないことがわかって、放棄されることになった。

 とはいうものの、チェンマイが北タイの交通の中心であることは確かで、各地に向けて定期バスが出ている。またバンコクとの間に鉄道路線が通じている。梅棹はチェンマイ駅まで行ってみたが、終着駅らしい雑踏はなく、閑散としていた。バンコクとチェンマイ間を結ぶ列車は1日に1本しかないという。
 「フォームには、バンコク行きが入っていた。列車はなかなかりっぱだった。機関車も客車も、みんな日本製だった。駅の構内に、おびただしい木の山があった。汽車の燃料である。ここの汽車は、木をたいて走るのだ。むりもない。タイには石炭は出ない。しかし木は、いくらでもあるのだから。」(261ページ)
 この時代、日本でもまだ幹線以外では蒸気機関車が走っていたことを想起すべきである。

 半世紀のうつりかわり
 チュラーロンコーン大学の助手で、この調査に参加していたヌパースパットが大学の仕事の都合でバンコクに戻ることになった。通訳として協力していた日本からのチュラーロンコーン大学留学生の葉山陽一郎もバンコクに戻ることになった。2人の送別会を開いた翌日、葉山は飛行機でバンコクに帰っていった。2時間もあればバンコクに着くはずである。
 梅棹は、田中老人がバンコクからチェンマイにやって来るのに2か月余りかかったという話を思い出す。当時は鉄道はなく、道路もなく、ターク(ラヘーン)経由でメー・ピンを川船でさかのぼったのだそうである。1か月分の食料を準備していったのだが、途中で食料がつきかけて、野鶏やシカを撃ち、タケノコを掘って来て塩をつけて食べたという。
 日本の近代化に比べて、タイの近代化はさらに急激なものであったということを梅棹は実感する。江戸時代の日本は五街道など陸の交通は整備されていたが、20世紀の初めになってもタイには幹線道路は整備されていなかったのである。

 女は髪を長くしている
 北タイの人はバンコクあたりの人に比べて色が白い。またチャオプラヤー河の下流域の人々とは違って、女性は髪を長くしている(現在では全体的に髪を長くする方が普通ではないかと思う)。
 田中老人が初めてタイに来た頃は、バンコク近傍の女性はみんなザンギリ頭だったという。チェンマイに来てみると、女性がみんな髪を長くしているのに感激してしまったという。あるいはそれがチェンマイで結婚して、そのまま居ついてしまった理由なのかもしれない。〔フランソワーズ・サガンの原作でヒロインを演じたジーン・セバーグ(日本ではセバーグという呼び名が定着してしまったが、シーバーグという方が正しいようだ)の短い髪形が話題を呼んだ『悲しみよこんにちは』が日本で公開されたのは、梅棹帰国後の1958年4月のことであった。この映画のヒロインの名にちなんだセシル・カットが日本でも流行することになる。〕

 風俗習慣だけでなく、言語的にも北タイはバンコクあたりとはだいぶ違うようだと梅棹は観察する。ドーイ・インタノンとかドーイ・ステープとかの「ドーイ」は「山」という意味であるが、バンコクあたりでは通用しない言葉だという。
 民族的にいえば、広い意味でのタイ族であることは間違いないが、むしろ東北タイやラオスの人々と近く、ラーオ族の一派ということができる。チャオプラヤー下流域の人々については、シャム人という言い方もされるという。田中老人が盛んにラーオ人という言葉を使うので最初のうちは奇異な感じをうけたものだが、田中老人のいい方の方が正しいのである。
 現在でこそ、ラオスという国が存在するが、ラオスはフランスがタイからメコン以東の地を強奪した結果生まれた国であって、カンボジアやベトナムよりも、タイの方に近いのは当然のことなのであると梅棹は言う。

 ランナータイ王国の首都
 タイ人もラーオ人も、先祖は同じで、広い意味でのタイ族の国は、もともと今の雲南省にあり、ナンチャオ(南詔)と呼ばれた。8世紀のころには唐に対抗するほどの勢力を築き、13世紀まで続くが、1253年に元のクビライ汗に征服されて独立国としての歴史を閉じる。
 しかし、それ以前からタイ族の南進は始まっていた。大きな川の谷に沿って、彼らはしだいに移動していった。あるものは紅河(梅棹はホンコイと書いているが、ベトナム語ではソンコイ、中国語ではホンホーのはずである)に沿って今のトンキン地方(ベトナム)に入り、あるものはメコンに沿ってラオスに入った。あるものはサルウィーン(サルウィンと表記する例の方が多いようである。中国では怒河というそうだ)に沿ってシャン(ミャンマーの州の一つ)に入って、シャン族となった。そして、あるものはメコン上流からメナム(チャオプラヤー)の流域に入って、これが現在のタイ人の先祖ということになる。

 すでに述べたように、8世紀のころ、ナンチャオの王子がタイの北部にチェンセーン市を建てたという伝説がある。このチェンセーンの王統から、スコータイ王国、アユタヤ王国、それにチェンマイのランナータイ王国の3王国が建国され・並立したという。
 前進するタイ族の全面には、高度の文化を持った2つの帝国が立ちはだかっていた。一つは東部タイからカンボジア、ラオスの大部分を領有し、アンコールを都とするクメール帝国であった。もう一つは、西部タイから南ビルマに広がり、ペグーを都とするモン帝国であった。

 1259年に即位したチェンセーン王国のメンラーイ王は、チェンマイ市の建設者であるとともに、ランナータイ王国の建設者でもある。メー・ピン(梅棹はチャオプラヤー河の支流という書き方をしているが、こちらの方を本流とする見方もある)の流域にはモン帝国に属するラワー族のハリプンチャイ王国があったが、メンラーイ王は1281年にその首都ランプーンを陥落させた。メンラーイ王はランプーンの北にチェンマイを建設したが、自身はもう一つの都であるチェンラーイに留まっていた。チェンマイがランナータイ王国の首都となるのは14世紀半ばのことである。〔ランプーンは第7章の終わりのところで、「ミス・タイの都」として登場している。〕

 メンラーイ王とほぼ同時期に、スコータイ王国には偉 な王ラーマカムヘーン(ラームカムヘーンと表記するのが一般的)が現れ、クメール帝国の版図にまで支配を広げ、ついにアンコール・トムまで占領する。しかし、王の死後、スコータイ王国は衰え、アユタヤ王国に併合されてしまう。こうしてランナータイ王国とアユタヤ王国は直接国境を接することになり、両者はしばしば紛争を起こすことになる。

 1556年、ビルマのバイナウン王は北からランナータイに侵入し、チェンマイを包囲する。奮戦空しくチェンマイは陥落し、独立国ランナータイの260年の歴史は終わる。のち、16世紀末に、この地はアユタヤ王国に接収され、以後、チェンマイは統一タイの一部となったのである。

 スコータイ王国のラームカムヘーン王は政治家として優れていただけでなく、タイ文字を始めて考案するなど、文化的な面でも大きな業績を残し、タイの三大王の1人に数えられているという。ラームカムヘーン王とチュラーロンコーン王というのはわかるが、あと1人はだれだろう。
 この書物の最初の方で、梅棹の「文明の生態史観序説」を読んだというタイの大使館員から「あなたは、歴史をやっている梅棹さんですか」(23ページ)と質問される個所があるが、タイの歴史について、北タイを中心にまとめ直す作業には梅棹の歴史的な好奇心のありかが、見事に示されているように思われる。

 昨夜はパソコンに向かっているうちに寝てしまい、またまた失礼いたしました。明日(9月15日)はサッカーの試合を見に出かけますので、同じような失礼がるかもしれません。予めご承知おき願います。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(16)

9月13日(金)曇り、中秋の名月は見られそうもない

 フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃ガルガメルの間に生まれた王子ガルガンチュワは、生まれ落ちた時にオギャーオギャーとは鳴かずに、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだのでこの名前が付いた。もともと巨大な体躯の持主だった彼は牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか聡明で、一時中だるみの時期はあったが、ポノクラートという良師に出あってパリで勉強をしたおかげで、学問にも武芸にも秀でた若者に成長した。
 グラングゥジェの領地の羊飼いたちと、隣の地方を治めるピクロコル王の領地の小麦煎餅売りたちがいざこざを起こし、事の次第をしっかり調べもせずに、ピクロコル王がグラングゥジェの領地に攻め入ってほしいままに略奪を行うという事件が起きた。ピクロコル王はそのまま、グラングゥジェの領地のなかのラ・ローシュ・クレルモーの城を占領し、彼の家臣である弥久座公爵、刺客伯爵、雲子弥郎隊長の勧めを受け入れて、世界征服の野望を抱き始めた。一方、グラングゥジェはパリで勉学中のガルガンチュワを呼び寄せて、問題の解決にあたらせることにした。

第34章 ガルガンチュワが故国を救うためにパリの町を去ったこと、ならびにジムナストが敵軍に遭遇したこと(ガルガンチュア、救国のためにパリを離れる。ジムナスト、敵に遭遇する)
 父親の手紙を受け取ったガルガンチュワは、すぐに帰国の決心をした。折よく、ビエールの森(フォンテーヌブローの森は古くはこのように呼ばれていた)で放し飼いにされていた、彼の乗馬である牝馬も戻ってきた。ガルガンチュワはパリを離れて、馬を急がせ、シノンから南下してヴィエンヌ川にかかる尼御前(ノンナン)橋を渡った。この橋は近くにあるフォントヴロー女子修道院が通行税をとっていたので、この名があるのだそうである。ガルガンチュワに随行するのは家庭教師のポノクラート、盾持ちで馬術の先生でもあるジムナスト、小姓に取り立てられていたユーデモンらで、宿場で馬を乗り換えては、急いで主君についていった。残る家来たちは書籍や理学研究器具などを一切合切まとめて持ち帰るため、普通の日程で後に続くことになった。

 パリイー(ラブレーはParilléと書いているが、現在ではParillyと書くそうである。シノンとラ・ドヴィニエール、さらにはレルネを結ぶ街道に面した街だというが、なぜか宮下訳の476ページの地図には記載がない)に到着したガルガンチュワは、顔見知りの農夫から、ピクロコルが、ラ・ローシュ・クレルモー城を占拠し、酒杯(トリペ)将軍の率いる大部隊を派遣して、この一帯を略奪させているということを聞く。
 どうすればよいのかガルガンチュワは思案に暮れるが、ポノクラートの勧めにしたがって、かねてから父王と同盟を結んできたラ・ヴォギーヨンの城主のもとに赴くことにした。
 一行を温かく迎えたラ・ヴォギーヨン城主は、彼らの味方をする気持ちであったが、その前に、誰か部下のものを派遣してあたりの様子を探り、敵情を偵察させ、それに基づいて作戦を練ろうという考えであった。そこで、ジムナストが偵察に出かけることを志願したが、念のため、この辺りの地理に詳しい案内人が必要だということで、ラ・ヴォギーヨンの盾持ちの粋山優之介(プルランガン)がついていくこととなった。その間にガルガンチュワとその部下たちは、のどを潤し、少々腹ごしらえをしただけでなく、牝馬にも飼い葉をあてがったのである。

 ジムナストたちは、馬を進めていくうちに、敵の兵たちが略奪強盗を働いている現場に行き当たった。かれらは2人からもとれるものをとろうと寄って来たので、ジムナストは一緒に酒を飲もうと言い出し、持参した酒筒のなかの葡萄酒を飲んで見せた。そこへ酒杯(トリぺ)隊長がやって来たので、ジムナストは彼に酒を飲むように勧める。怪しんだ隊長は、おまえは何者かとたずね、ジムナストが自分はあわれな悪魔だというと、悪魔にしてはいい馬に乗っているといって、馬を奪おうとする。

第35章 ジムナストが手際も鮮やかに酒杯(トリぺ)隊長および他のピクロコル軍の者どもを殺したこと(ジムナスト、身のこなしも軽く、トリぺ隊長やピクロコル軍の兵士を殺してしまう)
 この問答を聞いていたピクロコル軍の兵士たちのなかには、ジムナストを本当に悪魔が化けて出てきたのだと思い込んでしまい、そのなかの1人で民兵団の隊長であった人野善助という男は、祈祷書を取り出して、悪魔祓いの呪文を唱えたが、ジムナストは一向に立ち去らないので、ピクロコル軍の兵士たちのなかには気味悪がって戦列からはなれるものが出てきた。

 馬術の名人であるジムナストは、馬の上で体操競技のあん馬のような妙技を展開し、それを見ていた兵士たちのなかには、これは確かに人間ではないと思って、逃げ出すものがさらに多く出た。相手が浮足立っているのを見届けたジムナストは、彼の剣を抜いて切りかかり、多くの者を打倒した。それでも酒杯(トリぺ)隊長はジムナストの隙を見て切りつけたのだが、あっさりと切り捨てられてしまった。こうして相当な戦果を収めたが、ジムナストは深入りは禁物とラ・ヴォーギヨンを目指して帰途に就いた。

第36章 ガルガンチュワがヴェード浅瀬の城を壊したこと、ならびに一同が浅瀬を渡ったこと(ガルガンチュア、ヴェード浅瀬の城を壊し、一同は浅瀬を渡る)
 帰ってきたジムナストは、自分たちの偵察の一部始終を語り、相手は軍律をいっさい心得ない強盗追剥山賊の類に過ぎないし、そういう統制の取れない軍隊を破ることは容易であるから、敢然として進撃すべきだと主張した。
 そこでガルガンチュワは、すでに紹介した側近の面々を従え、その大牝馬にまたがって出陣した。途中、昔聖マルタンが、この地で休んだ時に立てた法杖がそのまま大木になったと信じられている聖マルタンの樹を見つけ、それをなんの苦も無く引き抜いて、枝葉を取り除き、使いやすいような形にしてしまった。
 その間に、ガルガンチュワの牝馬は放尿したが、それが大変な量だったので、ヴぇードの浅瀬をめがけて流れ下る洪水をひきおこし、ピクロクル軍の兵士の相当部分が逃げ切ることができずに溺死してしまった。ヴェードの浅瀬の城にはまだ少しばかり兵士が残っていたが、早く退却したほうが身のためだというガルガンチュワのことばを聞かずに、その巨体をめがけて大砲を始め、軽砲だの火縄銃だので弾丸を発射しまくった。一方、それが砲弾だとは知らず、蠅だと思ったガルガンチュワは、ポノクラートに教えられて初めて砲弾だと気付き、例の大木を使って、城を完全に破壊してしまった。こうして城の中に残っていたピクロコル軍も全滅してしまったのである。
 さて、グラングゥジェの居城に達するには、ヴェードの浅瀬を渡る必要があったが、先ほどの大牝馬の放尿の結果の洪水で、溺れ死んだピクロコル軍の兵士たちの死骸が転がっていて、馬を進めることが難しい。馬は死体を怖がるからである。しかし、ジムナストが先導して、一同は浅瀬を無事渡ることができた。

 こうしてガルガンチュワはパリから、父親の許に戻ることになるが、さて、父親との対面はどのようなことになるか、その後、戦いはどのように推移するかはまた次回に。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(16)

9月12日(木)曇り

 コロンブスの新世界への旅に参加し、その後さらに進んで地球を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、その途中で訪問した「太陽の都」の様子について、マルタ騎士団の団員に語る。
 それはタプロバーナ島の中央部に広がる草原のなかの丘の上に七重の城壁を同心円状にめぐらせて建設された都市で、すべての人々が働き、私有財産を持たず、共同生活を送っている。かれらの暮らしぶりは質素であるが、全体としては豊かな富を蓄えているという。
 「太陽の都」を支配しているのは「太陽」と呼ばれる神官君主で、軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・医療・教育を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。このような高官を含めて政府の役人たちはすべて教育を通じて、それぞれの能力・適性を見極めることにより選び出されている。
 彼らの食べ物は自然の理法にしたがって選び出され、季節ごとに最もふさわしいものが選ばれる。おもな産業は農業で牧畜も行われているが、商業は主として外国向けである。

 騎士団員の学問と役人について話してほしいという要望に応えて、ジェノヴァ人はさらに多くのことを語る。
 新月と満月には、20歳以上のものがすべて参加して大評議会が開かれる。ここで参加者たちは1人1人、この都市で欠乏している(必要とされている)ものは何か、どの役人が有能で、どの役人はそうではないかについて意見を述べる。
 それから8日ごとに、役人全員の会合がある。太陽と、その3人の補佐の高官のほかに、補佐の高官のそれぞれ3人の部下、補佐の高官の部下のそれぞれ3人の部下がこの会合に参加するので、1+3+3×3+3×3×3=40(人)ということになる。役人たちにはそれぞれ専門の仕事があって、「権力」は軍事を、「知識」は学問を、「愛」は食糧、生殖、衣服、教育を司る。このほか、男女はそれぞれ組に分けられているので、それらの組の組長(=組頭)、十人組組頭、百人組組頭などもいる。〔英訳によると、十人組の組頭、五十人組の組頭、百人組の組頭がいることになっている。〕 かれらは国家の福祉に必要なことがらについて議論をし、あらかじめ大評議会で指名された人々のなかから役人を選ぶ。「太陽」と3人の高官は毎日必要事項について相談し、選挙で定められたことやその他の重要事項を確認したり、訂正したりする。くじ引きは、どちらに決めるべきか迷った場合以外には用いられない。一般の役人は人々の医師に基づいて開戦されるが、筆頭の4人は、自分たちで会議を開いて、自分たちよりも知識があり、すぐれた才能を持つと認めた者に地位を譲ることを決めたとき以外には交代することはない。実際に、このような人物が現れれば、交代は快く行われるが、交代が行われることはまれであるという。

 学問の各分野の指導者たちは、形而上学者である「太陽」とともに、「知識」のもとに属している。かれらのなかには、文法学者、論理学者、博物学者、医者、政治学者、経済学者、道徳学者、天文学者、占星学者、幾何学者、宇宙学者、音楽家、遠近法画家、数学者、詩人、雄弁家、画家、彫刻家などがいる。〔英訳によると、文法学者、論理学者、物理学、医学、天文学、幾何学、宇宙学、音楽、遠近法画家、算術、詩、修辞学、絵画、彫刻となっている。〕
 「愛」の部下には、生殖、教育、衣服、農業、食糧、牧畜、家畜、調理などの指導者がいる。
 「権力」の部下には戦術家、鍛冶屋、武器製造家、銀細工師、造幣技師、技術家、隠密頭、馬術頭、闘技家、砲術家、投石術家、裁判官などがいる。

 坂本訳では、ジェノヴァ人は引き続き、かれらの間での裁判について語るのに対し、英訳では、マルタ騎士団員の裁判についての問いに答えて、この問題を取り上げるという体裁になっている。
 「太陽の都」の住民たちは、それぞれの仕事の頭の支配に服していて、かれらの間で起きた問題は、裁判官でもある仕事の頭によって取り扱われるという。もっとも重い罰は死刑であり、追放刑、笞刑、譴責、共同食堂での食事禁止、神殿への立ち入り禁止、婦女との交際禁止、また計画的な犯罪の場合、目には目をというように自分の犯した犯罪と同じ罰を受けることもあり、喧嘩のような計画的でない犯罪の場合は軽い罰が与えられる。3人の高官はこれらの刑を軽減することができ、「太陽」は裁判には関与しないが、恩赦の申請を受け、恩赦を行うことができる。これは彼だけの権限である。

 「太陽の都」には謀反を起こした敵をとじこめる塔以外に、牢獄はない。裁判は記録されず、裁判官と「権力」の前で被告に有利な事実と不利な事実が述べられ、裁判官により直ちに判決が下される。裁判が記録されないというのは、現在の眼から見ると、おかしいように思われる。裁判官が、職掌としての裁判官なのか、先にいう組頭が兼ねているものなのか、詳しいことが説明されていないので、わかりにくい。
 もし、判決を不服として上告されれば、翌日、「権力」によりもう一度判決が下され、さらに上告されれば、その翌日、つまり3日目に「太陽」が判決を下すが、この場合、恩赦が下されることがある。しかし、それは市民の合意を得てからのことで、ずっと後のことになるという。〔「太陽」は裁判に関わらないと書いておいて、結局最後には裁判が「太陽」のもとに持ち込まれるようになると書いているのは、首尾一貫しない。〕
 死刑執行人という職掌はないので、死刑は市民全員の手で行われることになる(この時代、死刑執行にあたる人々は差別の対象であったことを認識する必要があるだろう)。市民が犯罪者に石を投げて殺したり、火あぶりの刑にしたりする(カンパネッラの同時代人のジョルダノ・ブルーノが異端として火あぶりにされたことは有名である。石を投げて殺す処刑は現在でも一部のイスラーム教圏の土地では行われている。カンパネッラが自分も火あぶりにされるかもしれない身の上で、こんなことを書いているのは理解できないところがある)。

 まだまだ裁判についてのジェノヴァ人の話は続くが、書いているカンパネッラが獄中にあって、しかも死刑を宣告されている身であることが手伝ってか、どうも記述が首尾一貫しない。この後、社会の犯罪者に対する取扱いの問題、自主とか今日の司法取引にかかわるような問題、裁判の手続きや、訴訟に関わる法律の問題などが語られている。法律家であったトマス・モアよりも囚人であったカンパネッラの方が裁判について詳しく書いているのは、立場のちがいとはいえ、いろいろと考えさせる問題である。

椎名誠 目黒考二『本人に訊く <壱> よろしく懐旧篇』

9月11日(水)晴れのち曇りのち雨

 椎名誠 目黒考二『本人に訊く <壱> よろしく懐旧篇』(集英社文庫)を読み終える。

 「椎名誠旅する文学館」がネット上で開設されることになり、椎名さんと古くから(『本の雑誌』の創刊・運営や、「怪しい探検隊」など)つきあいのある目黒さんに初代の名誉館長になってほしいという話が持ち込まれたのだそうだ。その際に、椎名誠の全著作を現在の段階ですべて読み、その裏側の事情、作者の意図などについてインタビューすることが提案されたという。椎名さんとの古くからの付き合いということで言えば、『哀愁の街に霧が降るのだ』に描かれたアパートの共同生活の仲間、木村晋介さんや、沢野仁さんのほうが古いのだが、全著作を読んで論評するというような作業に一番向いているのが本好きをもって鳴らす目黒さんであることは明らかである。

 話を持ち掛けられて目黒さんは条件を出した。一つは、もしつまらなかったらそれを正直に言うことにするがそれでもいいかということである。実際に、この対談の中で、読み返してみたらつまらなかったと面と向かって言っている場面が何度かある。椎名さんのほうでは、インタビューの日は、その後、新宿に出て池林房で軽く飲んでから麻雀をするという条件を出した。この2つの約束のもとに2011年8月から2013年4月まで「椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二」が配信されることとなった。その結果は、2016年10月に単行本として椎名誠旅する文学館から刊行された。その単行本化されたものに加筆・修正して今回、文庫本として発行されたものである。

 取り上げられているのは『さらば国分寺書店のオババ』(1979)から「はるさきのへび」(1994)までの77冊で、この調子で続けていくと確実に4巻までは続くことになり、そこで椎名さんの出版ペースに追いついているのだが、さらに彼が本を書きつづければ、5巻目以降も出版されることになるだろうという。目黒さんによると、彼の厳しい批評についても椎名さんがじっと聞いたことにより、彼をえらいと思ったという(椎名さんのことだから、逆上してこの野郎…ということにならなかったのは、たしかにえらい)。

 こうやって列挙されてみると、椎名さんの本は(特にエッセー・旅行記類は)たいてい読んでいるつもりだが、けっこうよ見落としがあることに気づく。目黒さんが「もしも未読の作品があったら、お読みいただきたい」(8ページ)と言っている言葉に、素直に従うことにしたいし、また私と目黒さんとで意見の違う個所も洗い出していきたいと思う。

 ということで、今回、ざっと読んで印象に残った箇所を取り上げておく。
 『わしらは怪しい探検隊』が初期の傑作であり、初期東ケト会(東日本何でもケトばす会)の活動がもっと書かれてもよかったという目黒さんの意見には大賛成。自分ではたいしたことがないと思っていても、他人から見ると傑作だという作品があるものだが、、この本もその1つだったのかもしれない。「椎名と沢野とニゴリ眼高橋と、それとデパートニューズ社の先輩である山森さんの4人。これが最初のメンバーなんだけど、ニゴリ眼高橋とはその後、会ってるの?」「いや、あってないなあ」(55ページ)というのは、探検隊および椎名さんの性格を解明する鍵となるような対話であるかもしれない。

 『哀愁の町に霧が降るのだ』(1981~82)に描かれた小岩でのアパート共同生活の時代に、椎名さんは夫人である渡辺一枝さんと会っているのだが、そのことが書かれていない(『新橋烏森口青春篇』には描かれている)。作中でも指摘されているし、この対談でも言われているが、主人公の恋愛を入れるのはどうも物語の雰囲気に合わないような気がしたというのは半分くらい本当で、もう半分くらいはテレもあるのではないかと思う。

 『新橋烏森口青春篇』(1987)では、椎名と木村と沢野が実名であるのに対し、菊池や菊入、小安など、『銀座のカラス』では実名で登場する人物が仮名になっているのはどういうことだという目黒さんの問いに対して、椎名さんは「覚えていない」と政治家みたいな答え方をしている。椎名さんの描く菊入君というのはなかなか個性的で、椎名さんの文章を紹介した私の文章を読んで、菊入君が好きになったという知人がいるほどである(残念ながら故人になってしまった…)。

 『風の国へ・駱駝狩り』(1989)では世界で最も暑い村に出かけたことが書かれていて、目黒さんが「椎名は世界で一番寒い村にもいったから、一番寒いところと暑いところへ行ってるんだ。すごいね。」(256ページ)と感心している。たしかにすごい。
 ネットでノルウェーの大学について調べていて、トロンハイム大学というのが世界で一番北にある大学だということを知って吹聴していたら、じゃあ、一番南にある大学はどこかと聞かれて、答えられなかった(今でも知らない)記憶がある。知っているのではなくて、出かけたことがあるというのははるかにすごい。〔調べてみたら、世界で一番南に本部のある大学はアルゼンチンのティエラ・デラ・フエゴ大学だそうである。〕

 全体として目黒さんのツッコミはなかなか鋭くて、椎名さんが書き落としたところや、わざとはぐらかしたところをあからさまにしているところが少なくない(それでも、友人だから、多少の手加減はあるのかもしれない)。この書物には、椎名さんの初期の習作や、息子さんの岳さんの手記なども掲載されていて、創作者としての椎名誠の成長の過程や、内部の事情などもうかがい知ることができる。ただ読んで楽しんでいるだけの読者の好奇心を満たすというだけに終わらず、実は新しい文学的な創造の機会をうかがう人たちに読んでもらって、自分の才能を伸ばすための踏切台として利用してほしい書物である。

 昨日予告したとおり、本日は病院に出かけ、待っている時間が長く(その間に、本日取り上げたこの本を読み終えたのであるが)、疲れたので、皆様のブログへの訪問を省かせていただきます。また明日お目にかかりましょう。)

『太平記』(279)

9月10日(火)晴れ、気温上昇

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)光厳上皇の皇子興仁王が践祚された(崇光帝)。折しも院の御所に、犬が子どもの首をくわえてくるという怪異があった。その頃、仁和寺の六本杉で、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊が、天下を乱す謀議を企てるのをある僧が目撃した。その謀議とは、まず尊雲が足利直義の北の方の胎内にやどり、ほかの天狗も足利方諸将にとりついて大乱を起こすというものだった。直義の北の方はまもなく懐妊して男子を生んだ(史実は貞和3年)。またその頃、楠正成の子正行が、父の13回忌に際して挙兵し、8月、河内藤井寺で細川顕氏の軍を破った。

 この年(貞和4年ということらしい)、昔安徳天皇が壇ノ浦の戦いの際に海底に沈めた宝剣が出現したと伊勢の国から奏上するものがあった。伊勢の国の山中の寺に住む円成という僧が、伊勢神宮に千日参詣を志して修行を続けていると、海中に光るものを見つけ、それが自分の近くに寄ってきたので、取り上げてみると、三鈷柄の剣(さんこづかのつるぎ=握りの部分が三鈷の形をした剣)であった。円成は不思議なものだと思って、それをもって伊勢神宮に参詣すると、そこにいた少年が急に神がかり状態になって、この剣は三種の神器の1つである宝剣なので、内裏に進上せよと言った。

 伊勢神宮の神官たちが神託に従うようにと言ったので、円成はこの剣を錦の袋の中に入れてまず奈良に向かい、春日大社に参篭したが、なんのお告げもなかったので、次に長谷寺に詣でたところ、一人の公家に出会い、伊勢からきた僧を都につれてくるようにとの夢のお告げがあったといわれる。その公家に伴われて、円成はその公家がつてを持っているという前大納言日野資明のところに参上する。

 資明卿はこの話を聞いて、事の重大さから慎重に対処すべきだと判断し、円成には褒美を与え、剣は自分の邸の庭に祀られている春日神社の祠に安置した。(日野氏は藤原一門であるから、当然氏神として春日神社の神霊を祭っているのである。) 三種の神器の故実は、神代のことであり、そういうことは『日本書紀』を家学とする者にたずねるのがいいだろうと考えて、平野神社の神職で、神祇官の大副(次官)である卜部兼員(うらべのかねかず)を呼び寄せた。

 資明卿の質問に答えて、兼員は、日本の神話について語りはじめ、三種の神器の1つとされる宝剣がもともと素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した際に、その尾のなかから発見し、天照大神のもとに献上したものであること、後に天子の宝物となったが、第10代の帝崇神天皇の時代に伊勢神宮に献納した。ところが、その後日本武尊が東国を鎮定に旅立つにあたり、進捗があって伊勢神宮でこの剣を手にして東へと向かうことになった。東国で賊徒たちが野原に火をつけて命を焼き殺そうとしたときに、この剣で草を薙ぎ払い、事なきを得たので、草薙剣ともいうようになった。また、剣の柄を握った時の小指から人差し指までの長さが十束(8~10センチ)なので、十束剣(とつかのつるぎ)ともいう。天武天皇の御宇の朱鳥元年(西暦686年)にまた宮中に戻されて以来、宝剣として大事に伝えられてきた。

 兼員の話を聞いて、資明卿は、剣についての話のあらましは大体自分も知っていたが(日野家はもともと実務家・学者の家柄であるから、知らないわけがないのである)、十束の剣という別名は知らなかった。実際に剣を調べてみれば、すぐにわかることだといって、春日神社の祠から錦の袋に入れた剣を取り出して、その長さをはかってみたところ、たしかに十束あった。
 資明卿は、これは確かに宝剣だと思われるが、今までの事柄だけでは帝も信用されないだろう。この剣のおかげで何か不思議な出来事が生じないと信用されまい。ここは一つ、御辺のもとにこの剣をおいて、何か不思議な出来事が起きるように祈ってはくれないだろうかという。
 兼員は、今は末法の世のなかですから、そんな不思議は起こりますまい(きわめて現実的な考えである)。しかし、この剣に然るべき祈祷をすれば、もしかすると高貴な方々のどなたかに夢のお告げがあるかもしれませんと云って、剣を預かって帰っていった。

 前回、楠正行が登場して、足利方の軍勢を撃退し、これからまた戦闘の記述が続くのかと思いきや、三種の神器の1つである宝剣が出現した(瀬戸内海の海底に沈んだものが、伊勢湾で見つかるというのは、どうも不思議な話である)という騒ぎに、話が移ってしまった。卜部兼員の話のなかでは、「中世神話」と呼ばれる、この時代の人々が信じていた神代の物語が、かなり詳しく展開されているのだが、ここでは物語の進行上、できるだけ簡単にまとめたつもりである。それでも、自分の知っている話とは違うと思われた方もいらっしゃると思う。特に草薙剣は熱田神宮にあるはずなのに、他にもあったのかというような疑問は誰しもが抱くはずである。そういう方は、御自分で関係する資料をお調べください。とにかく、宝剣をめぐる顛末はまだ続くが、それはまた次回に。

 明日(9月11日)は病院に出かけますので、更新が遅れます。皆様のブログ訪問にも影響が出るかもしれないことをご了承ください。

日記抄(9月3日~9日)

9月9日(月)曇り、その後次第に晴れ間が広がり、気温上昇。三ツ沢グランドの陸橋付近から富士山が見えた。

 台風15号で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。
 9月3日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

8月31日
 金谷武洋『日本語と西欧語』を読んでいて感じたことで、書き漏らしていたことがあるので補っておく。
 渡部昇一『日本語のこころ』によると、「気持ちが外向きで攻撃的になっているほど、日本人は漢語を使う」(122ページ)という。また、「演歌、民謡、フォークソング、童謡など日常生活と密着した歌では和語が圧倒的に使われるが、軍歌や旧制高校の校歌や寮歌には漢語がちりばめられている」(同上)とも、渡部は指摘しているという。金谷さんは、旧制高校の校歌や寮歌には一般大衆を見下したようなエリート主義が漂うと補っているが、旧制高校の寮歌の中には和語が多く使われているものも少なくないので、これは大ざっぱな議論とみるべきであろう。
 そういうエリート主義の代表例として金谷さんが挙げている一高寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」について、金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌 (下) 学生歌・軍歌・宗教歌篇』(講談社文庫)が次のように記しているのが興味深い。「矢野(勘治)が最初に作った歌詞は「玉の杯 花を受け 緑の酒に 月宿し……」といった和文調のものだったのを、曲をすでに作っていた楠正一から注文が出て、当時の三菱ヶ原を幾夜か逍遥しつつ構想を練ったものと伝える」(金田一、21ページ)。矢野と楠のその後について書いていくと長くなるので、ここでやめておくが、楠が楠正成の子孫であるという話があること、また彼の子息が南極越冬隊長をつとめた楠宏氏であることは書き添えておきたい。
 和語が平和的で、漢語が攻撃的だという主張も少し独断的なのではないかと思わないでもない。「すめらみこと、いやさかー!」などと唱えている人が平和的だとはどう考えても納得できないのである。

 それからこの書物の第4章「日本語文法から世界を見る」には古典ギリシア語やサンスクリット語に見られる「中動相」についての考察がある。古典ギリシア語の中動相については、以前当ブログでも取り上げたことがあって、興味深く読むことができた。

9月2日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)のコーナーでは「インドのなかのフランス」と呼ばれるポンディシェリ(Pondichéry)が取り上げられた。フランス東インド会社によって交易拠点とされ、18世紀には特に繁栄したが、1954年にインドに返還されたという。1938年に製作され、同年日本で公開されたレオニード・モギー監督の映画『格子なき牢獄』(Prison sans barreaux)の最後の方で、感化院を出所したネリー(コリンヌ・リュシェール)が向かうのが、ポンディシェリーであったのを思い出す(一部の資料にインドシナと書いてあるが、インドシナではなくて、フランス領インドである)。

9月3日
 同じく、「フランコフォニーへようこそ」では、旧仏領であったベトナム、カンボジア、ラオスを取り上げた。
 Le Vietnam, le Cambodge, le Laos et une partie de la province du Guangdong, en Chine formaient autrefois une colonie apppelée Indochine française. (現在のベトナム、カンボジア、ラオスと中国広州の一部は、かつてフランス領インドシナとよばれるフランスの植民地であった。) これらの国では、今も一部の街並みや建築物にフランス領当時の名残がみられるが、フランス語は一般には通用しなくなっているという。フランコフォニー国際組織(OIF)の統計によると、この地域のフランコフォンはベトナムで人口の0.7%(67万人)、ラオス、カンボジアではそれぞれ人口の3%(19万人と44万人)とされている。

 この番組でも述べられていたが、現在では英語の方が一般に人気があるし、通用するようである。私とほぼ同年配のベトナム人と話していたら、子どもの頃はフランス語を勉強させられ、その後、旧ソ連との友好関係が進んだためにロシア語を勉強し、今は英語が主流の外国語になった。どれも本当には身についてはいないということであった。私などは小学校のころから英語を勉強しているが、いまだに会話には不自由している。
 この点でいうと、ラオスの方が達者なロシア語を話す人が多いようである。旧ソ連がアジアに築いた影響力にはあなどれないものがある。

9月4日
 「フランコフォニーへようこそ」では、ベトナムを取り上げた。ベトナム語にはフランス語からの借用語が多くみられ、例えば「駅」という単語はベトナムではgaというそうだが、これはフランス語のgareに由来する。ベトナム語のxà phòngとはsavon,つまり石鹸のことだそうである。
 ベトナムで用いられているクオックグーというローマ字表記法は、17世紀にフランス人のイエズス会宣教師が発案したもので、フランス植民地時代にこの文字の普及が奨励されたが、それほど普及せず、独立後の政権によって広められ、大衆の識字化に貢献したという。
 番組では触れられていなかったが、クオックグーの前は、チュノム(字喃)という漢字から考案された民族文字が漢字と併用されて用いられていたのである。その方が日本人にとってみるとなじみやすいが、ローマ字化することによってタイプライターの使用が可能になったので、ベトナムの人にとっては良かったのであろう。

9月5日
 ドイツ文学者でエッセイストとしても活躍された池内紀さんが8月30日に亡くなられていたと報じられた。78歳。新聞や雑誌に書かれた随筆類を読んだという記憶はあるが、本格的な著作に触れたことはないのが残念である。ご冥福をお祈りします。

9月6日
 『日経』の朝刊に京都国立博物館連携協力室長の浅湫毅さんによる「仏像 美のひそむ場所 十選」という記事が連載中であるが、本日はその第6回として、西往寺の「宝誌和尚立像」(京都国立博物館寄託)が紹介されていた。宝誌和尚(418‐514)は中国の南北朝時代に活躍した僧侶で、仏教を崇拝したことで知られる梁の武帝が画家に命じてその肖像を描かせようとしたところ、和尚は自ら顔を裂いて下から観音の姿を現し、それが自在に変化したので、ついに画家は描くことができなかったという逸話に基づき、和尚の顔が2つに割れてその真ん中から十一面観音がのぞいているという不思議な木像である。この像は東日本に作例の多い、鉈彫(なたぼり)という技法で作られているのも特徴的で、もともとは伊豆の寺にあったものだと伝えられているそうである。
 この記事では触れられていなかったが、宝誌和尚は日本国の未来を予言したといわれる「野馬台詩」の撰者として日本では知られている。「野馬台詩」は一種の謎詩で、説明していると長くなるから、どういうものか興味のある方は、御自分で調べてみてください。

 NHKラジオの『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』は、大江山の酒呑童子の話を放送しはじめた。むかし、京都の町に酒呑童子を首魁とする鬼たちが出没して、人をさらったり、都を荒らしたりして害をなしたので、時の帝は源頼光に退治を命じたというところまで。頼光には四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と藤原保昌が同行するのだが、なぜか、この英語版ではそれぞれの姓を省略、四天王という言葉も使わなかった。
 幼稚園時代に、金太郎の劇をやった際に、金太郎を発見・スカウトして頼光の家来とする碓井貞光の役を演じたことを記憶している。幼稚園時代の私はチビだったから似つかわしいとは思えないのだが、セリフを覚えられそうな子どもが他にいなかったからお鉢が回って来たのではないかと今にして思う。
 これから放送される部分がどういう展開になるかわからないが、「お伽草子」では頼光たちは酒呑童子を騙して退治することになり、退治される際に酒呑童子が「鬼神に横道なきものを」というのが印象に残っている。鬼神は嘘をつかない、それなのに、おまえたちは嘘をついた…という抗議である。
 源頼光が登場するということは、当時の帝は一条帝であり、関白は藤原道長であるということになりそうである。ただし、御堂関白などとよばれるけれども、道長は関白にはならなかった。

9月7日
 『朝日』朝刊の「古典百名山」で平田オリザさんが国木田独歩の「武蔵野」を取り上げていた。彼が新しい文体を発見した一方で、その文体によって描くべき対象が見つからず、苦闘を重ねることになったという指摘は興味深かった。近代日本の作家のなかで誰が好きかということになると、わたしはやはり国木田独歩が好きである。自分のなかにあるいろいろな可能性をどのように現実化するかをめぐって、悩み続けた彼が好きである。

 この日、用があって京浜急行の神奈川新町駅を利用したことは、すでに書いた。5日に起きた事故については、この日の『朝日』の朝刊に(おそらく他紙にも)詳しい分析記事があり、トラックが道の選択を誤り、高さ制限がある道を避けたために事故現場に近づいたという神奈川県警の推測はおおむね正しいと思うので、余計なことは書かないことにする。ただ、トラックが迷い込んだらしい京急の仲木戸駅と神奈川新町駅の間の線路沿いの道は、私も歩いたことがあり、たっつんさんのブログ「杜を訪ねて 第2章」でも取り上げられた笠のぎ稲荷神社に面した道であることを付け加えておく。神奈川新町駅は、神奈川郵便局の、仲木戸駅は神奈川警察署の最寄り駅である。仲木戸駅とJRの東神奈川駅は100メートルくらいしか離れていないが、名前が違うので、そのことに気づかない人がいる。京急では、仲木戸をあらためて京急東神奈川にするという案を考えているらしいが、京急には別に神奈川駅もあるので、あまりいい案だとは思えない。むしろJRの方が東神奈川を仲木戸に変えるほうがすっきりするのではないか。
 仲木戸駅の近くに吉田大飯店という中華料理店があって、むかしよく出かけたが、今でもあるかと思って調べてみたところ、やはり現在も営業しているようである。また、機会があったら食べに行こうと思う。

 すずらん通りの檜画廊で早川修さんの詩画?展「維新伝心+(プラス)」を見る。早川さんは京都の伏見稲荷の近くにお住まいだそうだが、年に1回ぐらい、この檜画廊で独特の画を展示している。今回は、幕末・維新に関係した人物の姿が絵画化されているが、わたしは西郷隆盛の像が一番気に入った(犬がかわいかったのである)。
 坂本龍馬の妻・お龍が一時、働いていたという田中家は旧神奈川宿・青木本陣の料理屋で、一度小学校のクラス会がここで開かれた際に、担任の先生から、君たちはまだここで会を開くにはまだ年が若いとお叱りを受けたことを思い出す。「楽しいスケッチ」のハドソン・テラスさんは私より5歳ほど年少らしいが、個展でお目にかかった際に、やはり一度だけ田中家に出かけたことがあると言われていた。
 早川さんの個展のアンケートで、幕末維新期の人物で誰が好きかという項目があって、しいて言えば勝海舟だと書いておいた。咸臨丸でアメリカに行った際に、勝はひどい船酔いにかかって船室から出られなかったが、アメリカに着いたら結構元気になって、アメリカ人と会話を楽しんでいたという。どうも調子のいい奴だ。とはいえ、船酔いにはならなかったが、会話が苦手だった福沢諭吉が勝のことをあまりよく書いていないのは、気持ちとしてわかるところがある。Nobody's perfect!

 J2第31節、横浜FCはニッパツ三ツ沢球技場で難敵ヴァンフォーレ甲府と対戦、こちらが得点すると追いつかれるという展開で前半は1-1、後半も2‐2となったが、72分にCKのチャンスを得てゴール前の競り合いからMF松尾選手がゴールを決めてこれが決勝点となった。これで2位を確保した。

 NHKラジオの『朗読の時間』では林芙美子の『浮雲』を取り上げている(この日はその第26~30回)。成瀬巳喜男による映画化は見ているが、どうも原作を読む気はせず、朗読を聞く気にもならない。小説家としての林芙美子よりも、詩人としての林芙美子の方が好きなところがあり、井伏鱒二の「サヨナラだけが人生だ」という詩も、旅行に同行していた林芙美子の言葉がヒントになっているという逸話も心に残っている。

9月8日
 本日の『朝日』朝刊のコラム「天声人語」に、カジノを含むIRの建設をめぐる横浜市議会における林市長の答弁が詳しく取り上げられていて、たしかにコラム子の言うように「味わい深い」内容だと思った。9月4日の同紙の神奈川版によると市長は「丁寧に説明」というのを繰り返したという。最近の日本語では「丁寧に説明」というのは、自分の意見を一方的に何度でも繰り返すという意味に受け取れそうな感じになって来ていて、先行きがいろいろと心配である。特に、ギャンブル依存症の人が増えるのでは、という質問に対し、市長は医学部のある横浜市立大学に「医療面を中心に大きな役割を果たしてもらう」と回答したそうで、役割を果たしてもらうというのであれば、ご自身が診察を受けるほうがいいのではないかと思わないでもない。

9月9日
 本日は重陽の節句である。そこで、杜甫の有名な「登高」を例によって<戯訳>してみる。本来は、旧暦の9月9日、あと1か月ほど遅い時期にふさわしい詩なのであろうが、最近は地球温暖化で、10月上旬になってもまだまだ暑さが残るようになってきたから、これはこれでいいのだと思うことにする。

 風急天高猿嘯哀 渚清沙白鳥飛廻
 無邊落木蕭蕭下 不藎長江滾滾來
 萬里悲秋常作客 百年多病獨登臺
 艱難苦恨繁霜鬢 淩倒新停濁酒杯

 小高い丘の上に来て 見あげる空はより高く
 サルの鳴き声 風に乗り 心に悲しく 響きいる
 遠くに見える川岸の 砂の白さが目に染みて
 飛び回っている鳥たちは 何を見ながら何を鳴く
 広がる森は限りなく 寂しき心 映すよう
 散りゆく落ち葉も数知れず 静かに静かに地に落ちる
 遠くはるかな源を 離れて流れる長江の
 流れはゆったり いつまでも 流れ流れて去ってゆく
 ふるさと遠く 一人旅 今年も既に秋となり
 やがて迎える 冬想い 募るばかりの悲しさに
 五十をすぎて長生きを 喜べぬのは多病ゆえ
 足取り重くただ一人 それでも丘に足運ぶ
 乱れた世の民 みな同じ 不運重なり 苦労を続け
 恨む言葉は呑みこんで 白髪頭を 気にするばかり
 もはやなすすべ ほとんど尽きて 憂さを晴らしに濁り酒
 飲もうにも医者にとめられて 菊の盃も形ばかり

 この詩には吉川幸次郎の詳しい評釈があるが、自分で訳してみて、ずいぶん愚痴っぽい詩だなぁと思った。あるいは私自身が愚痴っぽくなっていることが反映されているのかもしれない。この9月から新しい放送に入った『NHK高校講座 古典』と『国語総合』の漢文の先生が、漢文の簡潔さの魅力について話していたが、七言律詩を16行の詩に訳すことになったことで、それも実感した次第である。それでも、杜甫と違って、量は減らさなければならないが、酒を飲めるのは幸福と思うべきであろう。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(9)

9月8日(日)晴れたり曇ったり、一時雨。台風15号が接近中といわれるが、今のところ、あまりそんな気配は感じられない。などと思っているうちに、次第に雲が濃くなってきた。16:30ごろ、雨が降り出した。

 19世紀の初めごろのイングランド、ロンドンの北の方にあるハートフォードシャーのロングボーンの地主ベネット氏には、ジェイン、エリザベス(エライザ、リジー)、メアリー、キャサリン(キティ)、リディアという5人の娘があった。この家系の決まりで、ベネット氏の財産はいちばん近い男性の親族であるコリンズ氏に引き継がれることになっており、そのこともあって、娘たちの少なくとも一人を、裕福な紳士と結婚させることがベネット夫人の願いであった。
 折しも、ロングボーンの近くのネザーフィールド・パークという邸宅をビングリーという裕福な若い紳士が借りることになった。この地方の中心であるメリトンの町で開かれた舞踏会に友人のダーシーと、自分の姉のミセズ・ハーストとその夫(ミスター・ハースト)、妹のミス・ビングリーを連れて参加したが、快活で愛想のいいビングリーは参加した人々の人気を集めることになった。そしてその彼が、2度、ダンスの相手に選んだのはジェインであった。一方、ダーシーはビングリー以上の金持ちであるという評判にも関わらず、その尊大な態度で不評を買った。しかも、ビングリーから一緒に踊るようにと勧められたエリザベスについて、それほどの美人ではないねと言って拒絶したことで、エリザベスの気を大いに悪くさせた。
 ミセズ・ハーストとミス・ビングリーは自分たちの邸にジェインを招待し、訪問に応じて邸に向かう途中で雨に降られたジェインは風邪をひいて倒れ、姉思いのエリザベスは看病のために自分もネザーフィールド・パークに滞在することになる。
 いったんはエリザベスをそれほどの美人ではないといったダーシーであったが、彼女の瞳の美しさや表情に魅力に関心を持ちはじめ、そのことをミス・ビングリーに打ち明けていたので、ダーシーに思いを寄せているミス・ビングリーは、なんとか2人を離間させようと動き回る。(と云っても、エリザベスはダーシーの関心に気づいていないのである。)
 ジェインの病気が快復したので、姉妹はロングボーンに戻ったが、今度は、この屋敷を、次の相続人であるコリンズ氏が訪問し、これまでつづいていたベネット家とコリンズ家の確執に終止符を打ちたいと申し出る。コリンズ氏は、幸運にもレイディ・キャサリン・ド・バーグの知遇を得て、ケント州のハンズフォードの教区牧師に任命され(生活の安定をえ)た。それで、ロングボーン屋敷を訪問したいというのである。現れたコリンズ氏は背は高いが風采は上がらず、もったいぶった様子の一方でお世辞を振りまいてばかりいる人物であった。(以上第1巻第13章までのあらすじ)

 夕食の席から召使たちが引き下がってしまうと、ベネット氏はコリンズ氏の人物を見定めるために、適当な話題≂レイディ・キャサリン・ド・バーグはどのような人物であるかについての彼の説明を聞くことにした。すると、コリンズ氏は滔々とレイディ・キャサリンを礼賛しはじめた。この話題になると、ただでさえ物々しい彼の態度が一層物々しくなった。彼女は寛大で、親切であり、自分の暮らしについても様々な配慮をしてくれるという。コリンズ氏はしばしばこの貴婦人の邸であるロウジングズ・パークに招かれており、トランプのカドリールの人数が足りない時などには、声がかかるのだという。牧師館と、ロウジングズ・パークとの間には狭い小道が1本あるだけで隣接しているという。〔カドリールquadrilleというのは4人で40枚の札を使ってするゲームで、17‐8世紀に流行したという。ということは、この時代にはすでに時代遅れになりかけていたようである。この後、4人が2人2組に分かれて行うホイストwhistが盛んになり、それがさらにブリッジにとってかわられることになる。〕

 レイディ・キャサリンには一人娘がいて、彼女の財産を継承することになるという。ベネット夫人はこの娘(ミス・ド・バーグ)が財産を相続するという話をうらやましがる。〔ベネット家は男子の相続のみを認めるしきたりであるのに対し、ド・バーグ家は女子の相続も認めるしきたりであるということらしい。〕
 このミス・ド・バーグはコリンズ氏の口を借りれば、非常に美しいが(後でエリザベスが見たところでは、特にどうということもない容貌である)、病弱で、優れた素質を持っているにもかかわらず、芸事については上達に至らなかったと、彼女の家庭教師から聞いたという。

 ”Has she been presented? I do not remember her name among the ladies at court?"
「もう拝謁はお済みなんですの? 宮廷に出られた淑女方の中にお名前は見かけなかったようですけれど」(大島訳、124ページ)
「その方はもう王宮の謁見はおすみになったのですか? 王宮に伺候なさった貴婦人方の名鑑にお名前はなかったようですが」(小尾芙佐訳、上巻、125ページ)
「宮廷での拝謁はなさったんですの? 宮廷の淑女名鑑にお名前は見えなかったようですが」(中野康司訳、上巻、118ページ)
「ご拝謁はおすみなのですか。宮廷においでになったかたのうちに、お名前を見たおぼえがありませんけど」(阿部訳、94ページ)
と、ベネット夫人が尋ねる。presentというのは国王にお目にかかることであり、こうしてその人物は上流の社交界の一員として認められたことになる。ベネット夫人は耳学問ではなくて、the Court List(宮中人名録)といったものを読んで、この種の知識を得ているらしい。

 コリンズ氏の説明によると、やはり病身であるために、ロンドンに住むことができない。このことをめぐり、コリンズ氏はレイディ・キャサリンにそのために宮廷は"its brightest ornament"を奪われたといったところ、大いに喜ばれたという。この表現について、「もっとも輝かしい光彩」(大島訳、124ページ)、「もっとも輝かしき光彩」(小尾訳、125ページ)、「最高の名花」(中野訳、118ページ)、「もっともかがやかしい飾り」(阿部訳、94ページ)と訳している。〔阿部訳がいちばん原文そのまま、中野訳がいちばん飛躍した訳し方になっている。〕 もったいぶった様子で冴えないコリンズ氏であるが、女性に対するお世辞には自信があるという〔まったく嫌な奴だ‼〕
 そういうお世辞はその場でとっさに出るものか、あらかじめ考えておくのかとベネット氏が口を開いて、尋ねる。大抵の場合は、その場の状況から自然に出るとコリンズ氏は答える。どんなお世辞でもできるだけ自然に出たもののように見せたいと考えているとも言い添える。
 ベネット氏は、コリンズ氏が彼が予期していたような"absurd"であると思った。この表現について、「いかれ者」(大島訳、125ページ)、「滑稽きわまりない人物」(小尾訳、126ページ)、「滑稽を絵に描いたような人物」(中野訳、、「ばかげた男」(阿部訳、95ページ)と訳されている。こうしてベネット氏は表情には出さないが、コリンズ氏をくだらない人物だと心の中で見下し、ときどき、それがわかりそうなただ一人の人物であるエリザベスの方に視線を送るのであった。〔このような皮肉交じりの態度は、いかにもベネット氏らしいものであるが、それが裏目に出ることもあるかもしれない。〕

 その後、彼はコリンズ氏を客間に案内し、娘たちのために何か朗読してほしいと頼んだ。1冊の本が差し出されたが、それが巡回図書館から貸し出されてきたものであることを見てとったコリンズ氏は、自分は小説の類は読まないのだといって、他の本を読むと言い出す。巡回図書館(circulating library)は18世紀から19世紀にかけて盛んであったが、そこで多く読まれたのは小説であった。これに対して、5人の娘たちのうちの特に軽佻浮薄な下の2人、キティーとリディアがびっくりした様子を見せる。そこで何冊かの本が持ってこられたが、コリンズ氏が選んだのはフォーダイスの説教集(Fordyce's Sermons)であった。この書物は1766年に出版されたジェイムズ・フォーダイス(James Fordyce)という人物の『若い女性向けの説教集』(Sermons to Young Women)というもので、そのなかでは若い女性は小説などを読むべきではないという内容が盛り込まれているという。後に、女性の権利を主張したメアリ・ウルスタンクラフトらによって厳しく批判された書物でもある。リディアはすっかり退屈してしまい、ジェインとエリザベスが止めるのも聞かずに、母親に向けて勝手に世間話を始める。さすがのコリンズ氏も、これには大分気分を悪くしたと見えて、このような書物は若い女性向けに書かれたものであるが、当の若い女性はあまり好まないようだというようなことをいう(そこまでわかっているのであれば、朗読しない方がいいのではないかとも思う)。

 ベネット氏は、コリンズ氏とバックギャモン(西洋すごろく)をしようと言い、ベネット夫人と上の娘たちはコリンズ氏にもっと本を読んでくれと頼んだが、コリンズ氏は別に気分を悪うしたわけではないと弁解しながら、結局ベネット氏とバックギャモンをすることになったのである。〔バックギャモンという遊びは私も買ってきてやってみたことがあるが、あまり面白いと思わなかったので、投げ出してしまい、今ではどんな規則でどんな遊び方をするのかも忘れてしまった。〕 コリンズという男性が経済的にも社会的にもそれなりの地位を得ることができたにもかかわらず、退屈で面白くない人間であることが、ベネット家の人々、少なくともベネット氏とエリザベスにはわかってきたようである。ところが、コリンズ氏はそんなことには気づかずに、自分の考えを実行に移しはじめる。それがどういうことなのかは、また次回に語ることにする。〔ある人にとって退屈な人物が、他の人にとって興味深い人物であることはありうるが、コリンズ氏についてみると、どうも誰にとっても退屈な人物である可能性がかなりある。〕

 本日は、原稿を書いている途中で眠ってしまい、時間が無くなって、皆様のブログを訪問する時間をとることができなくなりました。あしからず、ご了承ください。

日記(9月7日)

9月7日(土)晴れ、次第に雲が多くなってきた。

 9月5日に京浜急行の神奈川新町駅の出口付近の踏切で起きた衝突事故は、比較的身近で地理的にてもなじみのある場所で起きたうえに、神奈川新町の駅を利用しなければならない用事があって、やきもきしていた。どうやら京浜急行の運行が復旧したようなので、神奈川新町駅近くの神奈川郵便局に保管されている郵便物を取りに出かける。
 横浜駅で特急に乗った時に、次の停車駅が京急川崎か、神奈川新町なのかはっきりせず、乗ったり下りたりした(快速特急ならば京急川崎だが、ただの特急ならば神奈川新町なのである)。結局、神奈川新町であろうと判断して乗り込んで、間違いではなかった。驚いたのは、神奈川新町の駅を降りたところ(まさに、この場所の踏切が、事故の現場であった)にテレビカメラだの報道記者だのが何人か待ち構えていたことで、その1人につかまってしまい、インタビューを受ける。事件をめぐって考えていることはいろいろあるのだが、余計なことは喋るべきではないと思ったので、横浜駅での停車駅についてのアナウンスがわかりにくかったことだけ話しておいた。
 インタビューを受けたというのはなんと24年ぶりで、24年前というのはロンドンでタンザニアの演劇演出家の講演を聞いた後、BBCの記者につかまってしまい、英語はろくろく喋れませんというようなことをしどろもどろに話して、勘弁してもらった冷や汗ものの体験であった。

 神奈川新町の駅の所在地は亀住町で、神奈川郵便局の所在地は新浦島町であり、この辺りは昔東海道の旅人が浦島伝説の地としておとぎ話を思い出しながら、通りすぎた場所である。(もっとも、「新町」という名称が示すように、この辺りは東海道の神奈川の宿から新たに発展した街であり、新浦島町は明治以後の埋め立て地である)。そういう歴史的なゆかりのある場所で起きた、今回の事件はまことに痛ましく、二度と同じようなことが起きないことを切に祈るものである。また事故で負傷された方々の一日も早いご回復をお祈りする。

 昨日の『日本経済新聞』のコラム「春秋」に、事故の現場近くに柑橘類が散乱していたのが、痛ましい思いにさせられたというようなことが書かれていたが、その柑橘類は片付けられていた。それで、そのコラムで芥川龍之介の短編小説「蜜柑」の話が引き合いに出されていたので、余計なことではあるが、思いだしたことを書いておく。この話は芥川が横須賀にあった海軍機関学校で教えていたころの話で、彼が乗ったのは横須賀線であり、実はこの話をラジオの『朗読の時間』で聞いた時に、横須賀線を昔蒸気機関車が走っていたという(考えてみればごく当たり前の)話に気づき、さらに、彼が目撃した奉公のために東京に出ていくらしい小娘が窓から弟たちに蜜柑を投げてやったというできごとが、おそらくは横須賀から列車が出発して、それほど間もない場所で起きたのであろうというようなことを、私自身の横須賀線体験を重ね合わせながら、考えていたのである。もっとも、わたしは横須賀線の、特に逗子から先の方の区間は数えるほどしか乗ったことはない。
 中学と高校の6年間、横浜から横須賀市内にある学校に通った(方向が逆である)が、横須賀線ではなく、京浜急行を利用していた。そんなこんなで、京浜急行は、なじみの深い会社なので、一日も早く元通りに復旧してほしいと思う。利用者としての立場からそう願う。

 さて、この後、京急本線から都営地下鉄浅草線になる電車に乗って、三田で三田線に乗り換えて神保町に出て、すずらん通りの檜画廊で早川修さんの詩画?展「維新伝心+」を見て、また横浜に引き返し、J2第31節の横浜FC対ヴァンフォーレ甲府の試合を観戦(というよりも、ゴール裏で見たので、応援の方が適切かもしれない)し、3‐2で勝利したのを見届けたのであるが、それらのことについては9月9日の「日記抄(9月3日~9月9日)」で書く方がいいような気がするので、ここでは省くことにする。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(15)

9月6日(木)
 フランスの西の方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃ガルガメルの間に生まれた赤ん坊は、生まれるとすぐ「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだことで、「ガルガンチュワ」と名づけられた。もともと巨大な体躯の持主だった彼は、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか聡明な生まれつきであった。一時期、詭弁学者の手に委ねられたことで、頭のめぐりが悪くなったこともあったが、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートのもとで、聡明かつ武芸に秀でた若者に成長してきた。
 ところが、隣の国の領民たちと、グラングゥジェの領民たちが紛争を起こし、その原因をしっかり調べることもなく隣国の王ピクロクルが、グラングゥジェの領地に侵入し、略奪をほしいままにした。グラングゥジェは相手に譲歩を示して平和を模索したが、ピクロクルは聞く耳を持たず、ラ・ローシュ・クレルモーの城を占領して交渉に応じようとしなかった。グラングゥジェはパリで勉強しているガルガンチュワを呼び戻すことにしたが、その一方でピクロコルの家来たちは、自分の主人に世界征服への野心を吹き込んでいた。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコル王を最悪の危機におとしいれる)(続き)
 ピクロコル王の佞臣、弥久座公爵、刺客伯爵、雲子弥郎隊長らは、ラ・ローシュ・クレルモーに少数の兵を残して、その他の兵を2手に分け、一方はグラングゥジェとの戦いに向かわせ、もう一方はスペイン、ポルトガル、西地中海、イタリア、東地中海、さらにはメソポタミアまでも征服するというものである。
 一方の隊がメソポタミアまで遠征しているときに、グラングゥジェ討伐に向かったもう一方の隊は、何をしているのかとピクロコルが問う。こちらのほうは北フランスとフランドル地方を制圧した後、今度は南下してリヨンで、地中海の海上制覇を終えたもう一方の隊と合流し、さらに南ドイツからオーストリア、モラヴィアを経て、ボヘミアに終結することになるだろうという。さらに、リューベック。ノルウェー、スウェーデン、デンマークを制圧して氷海に出ると、また南に進んでスコットランド、イングランド、アイルランドを服従させ、今度はバルト海を渡って、北ドイツ、ポーランド、リトワニア、ロシア、ワラキヤ、トランシルヴァニヤ、ハンガリヤ、ブルガリヤ、トルコを撃破し、コンスタンティノープルに到着する(現在のイスタンブール、当時のオスマン・トルコの首都である)。なお、この世界征服の予定経路は宮下さんによると、当時の神聖ローマ帝国皇帝カール(カルロス)Ⅴ世の計画と重なるものだという。

 すっかりその気になっているピクロコルは、コンスタンティノープルに急いで出かけるという。トレビゾンドの皇帝にもなりたいからという理由である。トレビゾンドは、現在ではトラブゾンというが、トルコの東部・黒海沿岸の都市で、1204年に十字軍がコンスタンティノープルを占領した際に、この地に逃れたビザンティン(東ローマ)帝国の王子によってトレビゾンド帝国が創建された。領土は限定的であったが、通商で栄えた。しかし、1453年に東ローマ帝国が滅びた後、1461年にやはりオスマン・トルコによって亡ぼされた。渡辺・宮下ともにこの点については触れていないが、トレビゾンドの皇帝ということで、東ローマ帝国の皇帝を意味しているのではないかと思う。(神聖ローマ帝国皇帝が、東ローマ帝国の皇帝にもなれば、古代のローマ帝国の統一・再建がなされたことになる。)

 ピクロコルはさらに、トルコ人やマホメット教徒たちはそのままにしておいていいのかと問い、一同は「殺さで何の戦かな」(162ページ)などと言って、虐殺をそそのかす。「奴らを片づけたうえで、その財宝領土を、忠実(まめ)に仕えましたる者どもにお授けくださりませ。」(渡辺訳、162ページ) ピクロコルは鷹揚にこの申し出を受け入れ、かれらにカラマニヤ、シリヤ、パレスティナを与えると約束する。空約束だから景気がいいのかもしれない。

 それを聞いていたピクロコルの古参の家臣である用意肝腎(ニケフロン)卿という貴族が、捕らぬ狸の皮算用になりはしないだろうかと疑念を述べる。戦争の後凱旋してくつろぐことが目的であるのならば、戦争をせずにはじめからのんびり過ごしたほうがいいのではないかという。この忠言に対してピクロコルは聞く耳を持たず、出撃を命じる。
-- Sus, sus (dict Picrochole), qu'on despesche tout, et qui me ayme si me suyve! ⦆
――いざいざかかれ、(とピクロコルは言った、)万事取り急ぎ用意いたせい。者ども続けい、わしを思ってくれる者どもは!(渡辺訳、164ページ)
「突撃、突撃!」と、ピクロコルがかけ声をあげた。「用意万端ととのえよ。われのことを思う者よ、続け!」(宮下訳、268ページ)
 なお、宮下さんによると、このピクロコル王の言葉は、古代ペルシア、アケメネス朝のキュロス王が、小アジアのリディア王国との戦いで叫んだ言葉だそうである。キュロスはこの戦いに勝利して、リディアを滅ぼすことになる。勇壮で壮大な遠征計画と、実は極めて小規模な競り合いに過ぎない戦いの経緯の対比が見事な対照をなしている。ピクロコルの引き起こした戦争の結末はどのようなものと相成るか、次回以降をお待ちください。

 明日は東京まで出かけて、最終日になってしまった早川修さんの展覧会を見て、横浜に戻ってから横浜FC対ヴァンフォーレ甲府の試合を観戦、その間に別の用事も片付ける予定にしていて、皆様のブログを訪問する時間がとれるかどうか、おぼつきません。失礼があるかもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(15)

9月5日(木)曇り

 新大陸への旅からさらに西に向かい、地球を1周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に向って、旅の途中で訪問した「太陽の都」の文物について語る。
 それはタプロバーナ島(スマトラ島と考えられている)の中央に広がる平原のなかに建設された都市で、7重の城壁を同心円状にめぐらせて建造されている。都市の支配者は「太陽」と呼ばれる神官君主で、形而上学者であり、軍事を司る「権力」、科学を司る「智慧」、生殖・教育・医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。かれらを始め、都市の役人はすべて子供のころからの教育を通じて、その能力・適性を見出された人物が選ばれている。
 「太陽の都」の住民たちは高い水準の科学的な知識と技術を有し、それらがすべての市民に教育を通じて普及されている。都市の中心にある神殿の外壁と、城壁には様々な事物が図や模型によって展示され、教育に役立てられている。
 すべての住民たちが働き、私有財産というものはないので、人々の暮らしは質素であるが、都市全体としては豊かである。衣類は配給制で、食事は共同で行われ、住まいは割り当て制である。住民全体が家族と考えられ、生殖は男女の相性に基づく計画的な結合により行われる。
 貨幣は存在するがまれにしか使われず、物々交換が主流である。農業は様々な新しい技術を導入して改良されており、農繁期には都市からも人が派遣されて、すべての市民が参加して作業が行われる。牧畜も盛んである。

 マルタ騎士団員は次に彼らの食生活について尋ねる。また彼らの寿命はどのくらいなのかともきく。
 これに対するジェノヴァ人の答えは最初は謎めいている。太陽の都の住民たちは、一人一人の寿命よりも、全体の命を大事にしていて、「太陽の都」は占星学的によい組み合わせを選んで設計されているという。
 「太陽の都」の住民たちは、もともと草食であり、以前は残酷だという理由で動物を殺したがらなかったが、「感覚と生命をもつ植物を殺すことも同じく残酷であることに気づいてからは、無智なものは高貴なもののために作られているのだと考えるようになり、今では何でも食べます」(坂本訳、49ページ)。しかし、牛や馬のような生産活動に役立つ家畜は殺したがらない。
 食物も体に役立つものと役立たないものをはっきり区別し、医学的な知識にしたがって摂取する。「一度肉を食べると、次は魚、それから野菜、それから再び肉へ戻るという具合に順ぐりに食べ、胃腸に負担をかけたり弱めることはしません。」(坂本訳、49‐50ページ)
 老人は消化のよいものを1日に3度、子どもは1日に4度、一般の人々は2度食べる。

 人々は少なくとも100歳までは生き、まれには170歳、さらには200歳まで生きるものもいるという。
 飲酒は大へん控えめで、葡萄酒も特に必要以外は19歳未満のものには与えられず、それ以上の年齢の人々も水で割って飲む。男性も女性もこの通りにするという。
 カンパネッラはヨーロッパの読者を想定してこの物語を書いているのであり、実際問題としてこの時代に東南アジアの熱帯地方でワインが飲まれていたとは考えにくい(そもそも熱帯ではワイン製造用のブドウが栽培できない)。
 人々は季節に応じて、担当の医者の処方にしたがって最も体に適したものを食べる。かれらはまた多くの香料を使うという(インド亜大陸や東南アジアは中世から、香料の産地であったことが念頭に置かれているのであろう。また、実際に東南アジアの料理はスパイスを多く使っているように思う)。

 人々は朝、起きると髪をとかし(ラブレーの『ガルガンチュワ』の主人公は指で髪を梳いていたのが、その後櫛で髪を梳かすようになる。ここでは、どちらかは触れられていない)、冷水で顔を洗い、それから花薄荷(ハッカ)やパセリや薄荷を噛み、それを手の中にこすりこむ(インドあるいは東南アジアの習俗の伝聞が影響しているのかもしれない)。老人は香を用いる。
 人々は東に向かってキリスト教徒の主の祈りのような短い祈りを唱え、それから家を出て、老人の世話や、会議や、公共の仕事をしに出掛ける。それから最初の勉強に赴き、次に神殿に出かけ、運動に出かけ、それから少し座って休息をとり、その後食事をとる。ずいぶんいろいろなことをすると思うのだが、それというのも朝、早起きだからであろう。カンパネッラは修道士であったから朝は早く、そのことが反映していると思われるが、実際に東南アジアの人たちは早起きのようである(日中は暑いから早起きをする必要がある)。

 このように医学的な知識を生かした食生活を送り、規則正しく暮らし、よく運動しているので、「太陽の都」の人々は痛風や坐骨神経痛などにはならないという。かれらの間にみられる病気や、その療法については、詳しいことは省く。かれらは体を清潔に保ち、病気の治療には薬草のほか、占星学の知識も利用するという。
 彼らは料理は得意であるが、ナポリ人のように氷で冷やしたものを飲まないし、また逆に中国人のように熱いものも飲まないという。「なぜならば、自然の体温を保つため、濃い体液を防ぐ必要はなく、夏や疲れた時には、にんにくの潰したもの、酢、いぶきじゃこう、薄荷、めぼうきなどで自然の体温に元気をつけますが、これらの香料を食べて体が熱くなっても別段どうといったことはしません。何故なら、香料を食べすぎることはありませんからね。」(坂本訳、62ページ) 
 彼らは7年ごとに、「何の苦痛も伴わない素晴らしい方法で、若返りの秘法」(坂本訳、同上)を行うという。
 自然の治癒力を信じるかと思うと、伝統的な民間療法も使われており(そのいくつかは今日でも行われている)、占星学が仄めかされているかと思うと、秘法があるともいう。まことに雑多であるが、この雑然としているところがカンパネッラの特色であろう。前回も書いたが、秘法というのが本当に存在したのか、それともカンパネッラのただのハッタリだったのか、今となってはわからない。

 次に騎士団員の質問に答えて、ジェノヴァ人は学問と役人について詳しく述べるが、その内容はまた次回ということにしよう。
 

マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』

9月4日(水)曇り

 9月2日、マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』(岩波文庫)を読み終える。カタルーニャ語で書かれた文学作品の翻訳を読むのは、これが初めてのことである。
 マルセー・ルドゥレダ(Marcè Rodoreda, 1908 - 1983)はバルセロナ生まれで、スペイン内戦後、フランス、さらにスイス(ジュネーヴ)で執筆活動を続けた作家である(晩年はカタルーニャに戻っている)。ジョージ・オーウェルの『カタロニア賛歌』あるいは、チェリストのパブロ・カザルスの伝記を読めばわかることであるが、スペイン内戦のなかでカタルーニャは人民戦線の拠点となった地方であった。この作品はスペイン内戦を描いたジュアン・サラスの『不確かな栄光』とともに、現代カタルーニャ文学の傑作とみなされている。
 物語はヒロイン(ナタリア=クルメタ)の一人称の語りで展開されている。内戦の影響を受けながら揺れ動くバルセロナ市民の生活を女性作家ならではの視点で、描き出している。

 1930年代初めごろ(スペイン第二共和政の初期)のバルセロナ、グラシア街のケーキ屋で働く十代の少女ナタリアは、友人のジュリエタに誘われて、ダイヤモンド広場で開かれるくじ引き大会に出かけ、そこで「お猿さんみたいな目を」(11ページ)したキメットという若い男に一緒に踊ろうといわれる。彼は彼女をクルメタ(小鳩ちゃん)と呼び、それ以外に彼女の呼び方はないと決めつける。何でも自分の思い通りにしようとする彼から、彼女は逃げだそうとするが、うまく逃げきれない。

 ナタリアはそれまで付き合っていたペラと別れて、キメットと付き合うことにしたのだが、そんな彼女の事情はまったく察しようとせずに、キメータは自分の意見を彼女に押し付けようとする。「俺がいいと思うものをいいいと思えるようになるんだ、…好きにならなきゃならないんだ。お前はなにもわかっちゃいないからだ」(19ページ) どっちがものがわかっていないかは、物語を読めばわかる…というよりも、読んでいくうちに読者の意見が分かれてくるはずである。(2人の意見の違いは、なかなか興味深い。例えば、キメットは彼の父親がガウディーが市電にはねられたときに病院に担ぎ込んだ1人だということもあって、その建築を絶賛しているが、ナタリアはサグラダ・ファミリアは「カーブや尖(とんが)りが多すぎる」(同上)と思っている。それで、キメットが上記の発言をするわけである。) 二人が通りがかりに足をとめる食料品店が後で意味を持つことになる。

 母親は早く死に、父が再婚したために家のなかでは孤立しているナタリアには、それでもアンリケタおばさんといういい相談相手がいた。彼女は街角で冬は焼き栗と焼き芋、夏はピーナッツと茹で豆を売っているのである(焼き芋の芋が、ジャガイモなのか、サツマイモなのか、ひどく気になる)。おばさんはキメットは(家具づくりの)店を持っているが、ペラは雇われ(コック)だし、キメットの方が生活力があるから、結婚するなら彼の方だという。ただ、あとになって(二人が結婚してから)、キメットの母親には気をつけた方がいい、また自分の考えていることをキメットに悟られないようにした方がいいとも助言する。

 二人は結婚し、キメットの呼ぶように、みんながナタリアではなくて、彼女をクルメタとよぶようになる。そしてアントニという男の子、次にリタという女の子が生まれる。
 ところが、ある日、二人の住むアパートにけがをしたハトが迷い込んでくる。それがきっかけでキメットは鳩を飼い始める。鳩を増やして、売りつけて、儲けようというのである。鳩はどんどん増えて、二人のアパートまで次第に鳩に侵入されるようになった。国内の対立が激しくなり、金持は家具を飼ったり、修理したりしなくなって、キメットの仕事は立ち行かなくなる。鳩も売れない。

 クルメタはアンリケタおばさんの紹介してくれた邸にお手伝いとして働きに出かけることになる。ある時、その屋敷の奥様に頼まれた買い物をするために食料品店に出かけるが、彼女を迎えに来ていたキメットは、その店が正直ないい店だといい、自分たちの鳩のための豆をここで買うように言う。
 鳩は増え続け、キメットは鳩をもっと増やして儲けることを考え、夢を膨らませているが、クルメタは働き続けて疲れ切っている。
 アンリケタおばさんは言う:「キメットは三つがい鳩がいたら、そのうち二つをだれかにあげちゃってるじゃないか、ただ何かあげるのが好きだからって理由で…それなのにお人よしのあんたはこんなに一生懸命働いて……」(129ページ)

 スペイン内戦が次第に激化して、キメットはその友人たちとともに民兵隊に志願すると言い出す。クルメタは必至で止めようとするが、キメットは聞く耳を持たない。クルメタは家のことで、手伝っててほしいことがいくらでもあるのに、キメットは自分の仕事を手伝えと命じるだけである。我慢の限界に達したクルメタは、鳩たちの産卵を邪魔し、鳩たちを追い出そうとし始める…。
 内戦の激化のために、生活物資やサービスが次第に途切れ始める。キメットは前線に動員され、クルメタは屋敷の仕事を解雇される。邸の方にお手伝いを傭う金がなくなってしまったのである。クルメタとアンリケタおばさんは市役所の清掃婦の仕事を見つける。その一方で、鳩は次第にいなくなり、残った鳩も野生化していった。

 久しぶりに会ったジュリエタは民兵になっている。艦砲射撃でクルメタの父親が死ぬ。アンリケタおばさん、アパートの下の部屋の食料店主、ジュリエタ、みんながばらばらのことを言う。ある日、キメットとその友人がアラゴン戦線で戦死したという知らせと、遺品の腕時計を受け取る。アパートの屋上に登ったクルメタは、昔飼っていた鳩が屋上で死んでいるのを見つける。

 内戦が終わり、キメットの友人だった男性も銃殺されたりする。2人の子どもを抱えて生きていく当てのないクルメタは自殺を考えるが、以前に豆を買った食料店の店主に家政婦として雇われる。そしてやがて、彼と二度目の結婚をする。2人の子どもたちは新しい父親になつき、それから時間がたって…長男のトニは兵役に就き、長女のリタは近所のバルの主人と結婚する。リタの結婚式があった日の夜…クルメタは思い出に誘われるように昔住んでいたアパートやダイヤモンド広場を訪れる…。

 クルメタは2回結婚し、何かに熱中するとほかのことが見えなくなる最初の夫は、家族を捨てて内戦に参加、戦死するが、2人の子どもを残す。仲のいい友人たちは一緒に戦いに参加したが、彼のもとで働いていた徒弟はフランコ将軍側で戦い、生き延びる。裕福で温厚で誠実な2度目の夫のほうが似合いの伴侶のようにも思われるが、彼は戦争の影響で子どもを作ることができなくなっている。2度の結婚にはなにがしかの寓意が込められているようにも思われるが、それを読み取るだけの文学的素養は私にはない。〔アンリケタおばさんは、キメットの方が甲斐性があるから夫としていいといったが、あるいはペラの方がよかったかもしれないという思いは最後まで残っているように思う。二度目の夫はペラに似ていると、ヒロイン自身がみとめている。〕

 作者はこの作品が恋愛小説であるという。また、カフカ的な小説であるともいう。この本の原題はLa plaça del Diamant (スペイン語ではLa plaza del Diamante)であるが、英語ではThe Time of the Doves (鳩たちがいた時代)となっており、作者自身ももともと「クルメタ」という題名でこの小説を書きはじめたということで、作中での「鳩」の存在は大きい。鳩は平和の象徴だといわれるし、離れて見ていればかわいい鳥である。しかし、実際に鳩が増えてその匂いや、特に糞になやまされている人も多い。むかし、英国の町で過ごした時に、鳩に餌をやっていたが、餌をやるひとと、鳩に餌をやるなという人との対立があったことを思い出す。語り手が勝手にクルメタ(小鳩ちゃん)と名付けられ、それが一般的な呼び名になってしまったり、彼女の暮らしの中に鳩が入りこんでくる状況は、カフカ的であるといえるかもしれない。

 ただ、この作品の特徴としてすぐに気づくことは、一方で幻想的でありながら、豊かな現実の断片を取り込んでいること、さまざまな色彩、音、においを描き込んでいることである。例えば市場に買い物に出かける場面:
「肉、魚、花、野菜、いろんなものの臭いが入り混じって漂ってくる。私に目がなくっても、市場に近づいているってことはすぐにわかっただろう。・・・私は市場の臭いの中に入っていく。市場の叫び声の中に入っていく。そして買い物籠と女の人たちの押し合いへしあいの流れのなかを目指して。青の腕カバーと胸まである前掛けをつけた行きつけのムール貝屋のおばさんがすくっては何杯も何杯も袋に入れていくムール貝やそのほかの貝は、真水でなんども洗ってあるのに、まだ抜けきらない海の香りをあたりにふりまいている。」(87‐88ページ)
 あるいはこの個所に続く、「空気」の描写:
「私はまだあの日の冷たい空気を覚えている。あの空気は思い出しこそするけれど、二度と味わうことのできない空気だった。二度と。やわらかい葉っぱのにおいや花のつぼみのにおいと混ざり合った空気、逃げて行ってしまった空気、そのあとやってきたどの空気とも全然違っていたあの日の空気。」(89ページ)
 おそらく作者にとってそうであったのとは違う意味で、ヒロインにとってもスペイン内戦は心の傷を残したのである。ジュリエッタやペラのように物語の途中で姿を消し、その後の消息も語られないまま二度と姿を現さない人物もいる。それがスペイン内戦の真実であったのかもしれない。解説で語られているように、キメットはアナーキストの民兵に身を投じたらしいが、アンリケタおばさんは王党派である。あまり裕福だとは言えない生活のなかで、思想のちがう人々がお互いを支えながら生きている…しかしそれにも限度がある。

 「解説」で翻訳者の田澤耕さんが書いているところによると、コロンビア出身のノーベル賞作家であるガブリエル・ガルシア=マルケスはこの作品を高く評価していたそうである。昔、ガルシア=マルケスがインタビューの中で、あなたの小説には幻想的な場面が多いのはどういうことかという問いに、中南米ではそれが現実なのだと答えていたことを記憶しているが、スペイン内戦というのも同じように幻想的であり現実的であったのかもしれない。幻想にしても、現実にしても、美しくもあり、醜くもある。庶民的なグラシア街に「ダイヤモンド広場」というのは奇妙だが、このあたりの土地を買って開発した宝石商が、自分の商売にちなんで命名したからだという。しかし、その名の華やかさと物語の展開=ヒロインとバルセロナの民衆の運命の変転とは巧みにバランスをとっているようにも思われるのである。

『太平記』(278)

9月3日(火)曇り、昼頃から雨が降りだす

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁王が践祚されたが(崇光帝)、折しも院の御所に、子どもの首を犬がくわえてくるという怪異があった。その頃、仁和寺の六本杉で、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊が、天下を乱す謀議を企てるのをある僧が目撃した。その謀議とは、まず尊雲が足利直義の北の方の胎内に宿り、他の天狗も足利方の諸将にとりついて大乱を起こすというものだった。直義の北の方はまもなく懐妊して男子を生んだ(史実は貞和3年のことである)。

 楠正行は、父親である正成が、先年、新田義貞を助けて足利尊氏と戦うために、湊川に下ったときに、「自分には思うことがあって、今度の合戦には必ず討死する覚悟である。おまえは故郷である河内国へ帰って、後醍醐帝がこれからどのような運命をたどるかを見守り続けるのだ」と言い含めたその教えを忘れず、正成が戦死した建武3年(1336)以来、自分が成長して力を蓄え、父とともに戦死した郎従たちの子孫もまた成長するを助けながら、なんとかして、父の敵を討ち、亡くなられた後醍醐帝のお怒りを鎮めたいと、苦しい気持ちの一方で、将来に期すものがあった。

 歳月は瞬く間に移り変わり、年を経て、正行はすでに25歳となった(岩波文庫版の脚注にあるように、計算上は22歳になるはずである)。貞和3年は特に、父正成の13年の遠忌にあたるので、仏に供え物をし、僧に布施をするなどの仏事を作法通りに行い、それが済むと、もはや命が惜しいという気持ちは全くなく、500余騎という自分に従う郎従を連れて、ときどき、住吉、天王寺辺に出撃を繰り返し、さらに淀川沿いの大阪北部の土地である中島の民家を焼き払ったりして、尊氏の軍勢を挑発しては、その攻撃を待ち構えていた。

 尊氏は正行軍の動きについて知ると、「楠の軍勢の規模は、それほどたいしたことはあるまい。これにわれわれの勢力範囲を侵略されて、京都においてさえも驚き騒ぐものが出ていることは、天下の嘲弄をあび、武将として恥じるべきことだる。急いで現地にはせ向い、退治せよ」と、足利一族の細川顕氏(頼貞の子、阿波・讃岐・河内などの守護)を大将として、宇都宮貞宗(伊予宇都宮氏)、佐々木(六角)氏頼(近江守護)、長(ちょう)左衛門(但馬の武士で、以仁王の家臣であった長谷部信連の子孫)、赤松範資(円心の長男、摂津守護)、その弟の赤松貞範(範資の弟で美作守護)、河内の武士である村田、佐々木一族の楢崎、阿波の武士である坂西(ばんぜい)、坂東、美作の武士である菅家の一族など、合計3千余騎を、河内の国に派遣した。この軍勢は8月14日(史実は貞和3年9月17日)に藤井寺(葛井寺とも書く。大阪府藤井寺市にある真言宗寺院。本尊の千手観音像は国宝であり、西国33か所の第5番の札所でもある)に到着した。
 細川顕氏は足利一門の細川一族では有力な武将で、すでにその活躍ぶりが描き出された定禅(じょうぜん)の兄である(この時点では、定禅はすでに死亡しているものと思われる)。彼の子孫は、細川一族のなかで奥州家と呼ばれ、後の肥後の大名細川氏につながっていく。

 この藤井寺から、楠の館まで7里という距離があったので、たとえ急に襲ってくるとしても、明日か明後日のことになるだろうと、京都からやってきた軍勢は油断して、あるいは物の具を脱いで、またあるいは馬の鞍を下ろして休んでいた。そこへ誉田(こんだ)の八幡宮(大阪府羽曳野市誉田にある、世界遺産に指定された誉田御廟山古墳=伝・応神天皇陵の南にある)のうしろから、山陰に沿って、楠の紋である菊水の旗が見えたかと思うと、鎧兜で完全武装の兵700余騎が、しずしずと馬を歩ませて押し寄せてきた。「それ、たいへんだ、敵が攻め寄せてきた。馬に鞍をおけ、鎧兜をみにつけよ」と慌てふためいているところに、正行がまっさきに進んで、大声で武士たちを指揮しながら、攻め込んできた。

 大将である細川顕氏は、鎧を肩にかけたが、まだその胴を締める上帯を締めることができず、太刀を帯びるための時間もないように見えたが、村田の一族が、本格的な武装をせず、小具足(小手・脛当・脇立の類)を身につけただけで、だれの馬とも見定めず、身近なところにいた馬にすぐに打ち乗って、群がり押し寄せる敵の軍勢の中にかけ行って、必死になって戦った。あっぱれな戦いぶりであったが、それに続こうとするものがなく、大勢の敵の中で孤立して包囲され、村田の一族6騎は同じ場所で枕を並べて討ち死にしたのであった。

 しかし、その間に、顕氏も武装を終え、馬に打ち乗って、それに従う兵は100余騎、しばらくは持ちこたえて戦った。楠方は小勢であり、味方は大勢である。たとえ、進んで攻撃を仕掛けようとしなくても、このまま持ちこたえていくだけで、だれも逃亡したりしなければ、この戦闘で京都からやってきた足利方が敗れるはずはないのに、四国、中国からかき集めてきたとるに足らない葉武者たちが、前のほうで必死になって戦っているのに、自分たちは逃げ出してしまったので、後ろからの支えを失って、大将も、勇敢な兵士たちも同じように退却せざるを得なくなった。

 正行は勝ちに乗じて、鬨の声も高らかに敗軍の足利勢を追い続け、顕氏は天王寺、渡辺(現在の大阪城附近)では、正行の軍勢に追いつかれて、あわやという形勢になったが、佐々木(六角)氏頼の弟の氏泰が引き返して楠勢と戦い戦死して、時間を稼いだ。さらに赤松範資、貞範兄弟も「命を名に替へて討死せん」(岩波文庫版、第4分冊、176ページ)と、取っては返し、取っては返し、7,8度までも踏みとどまって戦った。〔このあたり、歴戦の赤松一族らしい戦いぶりである。〕 楢崎も主従3騎が戦死し、粟生田小太郎(あおうだこたろう(埼玉県坂戸市粟生田出身の武士)も馬を射られたために戦死した。このように踏みとどまって戦ったり、(逃げ遅れて戦わざるを得なくなった)武士たちの犠牲により、さらに楠も深追いを避けたために、足利幕府が派遣した軍勢は、どうやら京都に逃げ帰ることができたのであった。

 決死の兵をひきいる楠正行と、数を頼んでのんびり構えている細川顕氏の対決は、正行の圧勝に終わる。ただ、『太平記』の作者が、顕氏が率いる軍勢の多数が生かされなかったと記しているところが注目される。ごく常識的にいえば、戦闘は、数が多い方が有利なのである。ここではその数の多い足利方の「油断」の方に焦点を当てている。それとともに、情勢が不利だと思うとすぐに逃げ出してしまう「葉武者」たちの振舞にもこの時代の武士たちの様子が示されているようである。

 話が横道にそれるが、昔京都の新京極通に菊映という映画館があって、日本映画、主として東映や日活の作品を、封切り上映された後に上映していた。さらに昔、小林信彦さんが修学旅行で京都にやってきたときに、この映画館で映画を見たそうで、それにしても「菊映」とは変な名前だと書いていたが、これは菊水映画劇場の略称で、同じ名前の映画館は大阪の十三や、神戸の新開地にもあった。つまり菊水は楠の紋に由来した命名なのである。菊水といえば、そういう日本酒の銘柄もあるのをご存じの方もいら写るはずである。

 次回は、また話が別の方向に展開する。どのような展開になるかは、またその時に。

日記抄(8月27日~9月2日)

9月2日(月)晴れ、気温上昇

 8月27日から本日までに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
8月27日
 『朝日』の朝刊に、日本私立大学連盟の会長に就任された慶應義塾の長谷山彰氏の増谷文生記者によるインタビュー記事が掲載されていた。「データに基づく議論を」というのは大前提として必要なことであるが、そのデータをどのように解釈するかをめぐっての議論もしっかり進めてほしい。

 同じく『朝日』にイランで「サッカー観戦の女性逮捕 波紋」という記事が出ていた。サッカー観戦に出かけた女性たちが逮捕されたことをめぐり起きる事件を描いたジャファル・パナヒ監督の『オフサイド・ガールズ』が製作されたのが2006年の話であるから、この15年近くの間、何も変わっていないことになる。

 伊藤邦武『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』(ちくまプリマ―ブックス)を読み終える。宇宙人がいるか、いないかも哲学の問題であることなど、新しい視角が得られる。

8月28日
 『朝日』の「日米中100年 日本の道のり」という特集記事の紹介に、毛沢東の執務室で撮影されたらしい毛沢東と田中角栄の写真が掲載されていたが、毛沢東が相当量の書籍や資料に囲まれて執務していたことがうかがわれて興味深かった。その勉強振りには感心させられる一方で、にもかかわらず、なぜ彼が多くの過ちを犯したかということも考えた(勉強ばかりしていてもだめだということか)。

 東京の病院に検診に出かける。今日から横浜市内でTICAD7が開かれ、安倍首相は東京から横浜にきているが、わたしは逆に横浜から東京に出かけるということである。頸動脈の超音波検査をしたところ、左の頸動脈にプラークがあるということで注意するように言われる。さらにホルター心電計で心電図をとることになり、検査室に2度も出かけることになった。診察が終わったら、映画を見に行こうと思っていたのだが、すっかり疲れてしまって、そのまま横浜に戻ることになった。

8月29日
 『朝日』のスポーツ欄に28日に行われた女子ゴルフのニトリレディスのプロアマ戦でノーベル賞受賞者の本庶佑さんと渋野日向子プロが一緒にコースを回ったという記事が出ていた。本庶さんは渋野プロのプレーを見ていて、その将来性に着目していたそうだ。それはともかく、77歳の本庶さんの今年のベストスコアは80だそうで、渋野プロに80歳までにエージシュート(年齢と同じスコアでコースを回ること)は必ずできると言われていたという。私はゴルフのことはよく知らないが、年齢を考えると相当な腕前だと思うのだが、どうだろうか。

 昨日取り付けた心電計をはずしにまた病院に出かける。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Keep away from people who try to belittle your ambitions. Small people always do that, but the really great make you feel that you, too, can become great.
---- Mark Twain (U.S. writer, 1835 - 1910)
(あなたの大きな夢を軽視しようとする人たちとは、距離を置くこと。小人は常にそうするが、真に偉大な人たちは、あなたも偉大になれると思わせてくれる。)
 人生を振り明けると「小人」と付き合わされた時間がほとんどで、「真に偉大な人たち」とはごくごくわずかな時間しか接触できなかったと思わざるを得ない。

8月30日
 『朝日』の朝刊に遠山真学塾代表の小笹直人さんが新しい小学校学習指導要領で小学校の算数の計算問題を減らして、文章問題を増やしたり、どういうことか説明させる問題を増やしたりしているのは、考えて問題を解く能力の向上を目指しているのであろうが、かえって低学年のうちに算数の授業がわからずに置いてけぼりにされる子どもを増やす結果になるのではないかとの危惧を述べていたのは、注目すべき意見である。実際にこの危惧が的中するかどうかはわからないが、政策を立案する側も、現場の先生の側も、その危険性は念頭においておく方がいいだろう。(何よりも、子どもの「考える力」というのは、大人と同じように、あるいは大人が期待するように「考える力」ではなくて、それ以上のものだということを考えに入れる必要があるのである。)

8月31日
 金谷武洋『日本語と西欧語 主語の由来を探る』(講談社学術文庫)を読み終える。著者は函館ラ・サールで受けた教育が忘れられず、大学卒業後、カナダのケベック州にわたり、日本とケベックの交流に尽力してきたという。日本人の外国語学習、そして外国人の日本語学習の障害になっていることの一つは、教育にたずさわる人々が日本語の文法についての体系理解を欠いていることであるという(この点はまったく同感である)。日本語は英文法では説明できない。日本語には過去・現在・未来というような自制(テンス)はなく、あるのはアスペクトである。水村美苗さんは『日本語が亡びるとき 英語の世紀のなかで』という書物のなかで、日本語について外国人に説明するときに、日本語には主語がないといっていると書いていたが、この著者の議論はさらに進んで、日本語だけでなく、英語(やその他の西欧語)にも実は主語というのはないのが本来の姿だと述べている。日本語と英語だけでなく、その他さまざまな言語を引き合いに出しながら、文法研究や外国語教育の問題点を洗い出している論争的な書物である。
 日本語には主語・述語の関係というようなものはないと(おそらく)最初に主張したのは三上章(1903‐1971)であるが、この書物にはその三上の旧制三高時代の同期生であった今西錦司が、三上がいなかったら自分の進化論はなかったと言ったことが記されている。実は私は、この書物を読み終えるのに3か月余りかけてしまい、途中で記憶が入違って、今西を梅棹忠夫だと思いこんでいた。考えてみれば、梅棹は進化論を唱えていないのである。記憶というのがあてにならない、何度も確認する必要があるということをあらためて思い知った次第である。

 横浜FCはアウェーでモンテディオ山形と0‐0で引き分け、勝ち点を52として、2位に浮上した。

9月1日
 朝、NHKラジオの『基礎英語ゼロ』を聞いていたら、緑色なのになぜblackboardというのかという小学生の疑問が取り上げられていた。私の小学校時代は黒い黒板が主流で、緑色の黒板はまだちらほらとしか現れていなかったなぁと昔を思い出していた。
 グレン・フォードがアカデミー主演男優賞を受賞した映画『暴力教室』の原題がBlackboard Jungleであったことを思い出した。この時代、黒板は黒が主流だったし、映画もまだ白黒のほうが多かったはずである。

 『朝日』の「社説余滴」で、各務滋記者が「市場化する学習支援」という見出しで、貧困児童への学習支援事業に教育産業が参入し、この活動をずっと続けてきた地域のNPOの存在を脅かしていることについて論じている。しかし、取り組みを進めていくという意味では、教育産業の参入は好ましいことかもしれないし、記者が憂慮しているような事態が起きるかどうかはもう少し様子を見てみないとわからないのではないか。
 この記事を読んだ後で、厚生労働省のホームページを検索してみたのだが、貧困児童を対象とした学習支援は厚生労働省の取り組んでいる施策の中で特に強調されているものではないように思われる。だったら、むしろ、厚生労働省に対してもっとこの問題を重視しろというのが先決ではないかという気がするのである。しかも、「本来は公教育が果たすべき役割を民間の善意が補う事業だ」とも書いているのだから、何か、こぶしの振り上げ先と、振り上げ方を間違えているような気がしてならない。
 教育や福祉の分野における民営化・市場化の動きに憂慮すべきものがあるという意見には反対ではないが、もう少し施策の現実の展開を見守っていかないと、見当はずれの物言いになってしまうのではなかろうか。

 同じ『朝日』の夏休み明けの子どもの危機を取り上げた「居場所 きっとあるよ」という特集記事で、制服向上委員会の橋本美香さんが「「不登校」言い換えませんか」と発言しているのは、「登校拒否」を「不登校」と言い換えても、事態の改善には至らなかったという経緯を踏まえてのものかどうか、ちょっと疑問に思った。言い換えだけで問題が解決すれば、これほど簡単なことはない。

9月2日
 マルセー・ルドレック『ダイヤモンド広場』(岩波文庫)を読み終える。生まれて初めて読んだカタルーニャ語からの翻訳小説である。この作品については、また稿を改めて紹介することにしたい。

 横浜駅西口でカジノ反対の街頭宣伝が行なわれていた。反対の声が広がり、高まっていくことを期待したい。 

 ラジオの語学番組は9月が最終放送月であるが、NHK高校講座は新しい放送が始まっている。足並みがそろっていないところが面白いと言えば、面白い。

 
 
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