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2019年の2019を目指して(8)

8月31日(土)晴れ

 8月は猛暑に苦しめられ、あまり活動的に過ごしたとは言えないが、それでも7月に引き続き、ある程度の動きのあった月であった。
 足跡を記したのは神奈川・東京の1県1都というのは変わらないが、品川区にある目黒駅を利用したので、1市(横浜)、6区(品川、渋谷、新宿、千代田、港、文京)に出かけたことになる。
 京急を利用したので、利用した私鉄は6社(東京メトロ、東急、東京都営、横浜市営、JR東日本、京急)となり、路線も京急本線が増えて12路線、新たに神奈川新町と、目黒を利用したので乗降駅は15駅、乗換駅は先月から増えず5駅ということである。
 バスは7月から変わらず、4社、16路線、14停留所を利用している。〔81〕

 このブログを含めて31件の記事を書いた。内訳は日記が5件、未分類が1件、読書が11件、『太平記』が4件、ジェイン・オースティンが4件、ラブレーが5件、詩が1件ということである。1月からの通算では245件、内訳は日記が44件、読書が49件、読書(歴史)が34件、トマス・モア『ユートピア』が8件、読書(言語ノート)が9件、『太平記』が35件、ジェイン・オースティンが20件、ラブレーが14件、ダンテ『神曲』が20件、推理小説が4件、詩が6件、映画が1件、未分類が1件ということである。今月頂いたコメント、拍手コメントはなく、1月からの通算ではそれぞれ、6件、1件ということになる。〔250〕

 11冊の本を買い、10冊の本を読んだ。1月からの通算では85冊の本を買い、(以前に買った本を合わせて)80冊を読んだことになる。読んだ本を列挙すると:椎名誠『かぐや姫はいやな女』(新潮文庫)、小泉武夫『幻の料亭「百川」物語』(新潮文庫)、大島真寿美『香港の甘い豆腐』(小学館文庫)、ジャン=ガブリエル・ガナシア『虚妄のAI神話』(ハヤカワ文庫)、シモン・ジャルジー『アラブ音楽』(文庫クセジュ)、田中雄一『ノモンハン 責任なき戦い』(講談社現代新書)、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)、木元憲明『機動の理論』(SB新書)、伊藤邦武『宇宙はなぜ哲学の問題になるのか』(ちくまプリマ―ブックス)、金谷武洋『日本語と西欧語 主語の由来を探る』(講談社:講談社学術文庫)
ということである。7月と同様、月のはじめのうちは、軽い読み物が多かったのが、後半になると、だんだん重い内容の本が多くなっている。〔83〕

 『ラジオ英会話』を(7月に聴き逃がした分を含めて)18回、『遠山顕の英会話楽習』を9回、『入門ビジネス英語』を8回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を11回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』を150回、『遠山顕の英会話楽習』を96回、『入門ビジネス英語』を43回、『高校生からはじめる「現代英語」』を64回、『実践ビジネス英語』を96回聴いている。このほか、8月12日~16日に放送された特別番組”Let's Learn English in English"を5回聴いている。
 『まいにちフランス語』入門編を8回、『まいにちスペイン語』初級編を8回、中級編を7回、『まいにちイタリア語』入門編を8回、応用編を7回聴いている。1月からの通算では『まいにちフランス語』入門編89回、応用編44回、『まいにちスペイン語』入門編を31回、初級編を54回、中級編を59回、『まいにちイタリア語』入門編を57回、初級編を31回、応用編を59回聴いている。〔878〕

 シネマヴェーラ渋谷で『イヴの総て』(1950、FOX、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督)、『熱砂の秘密』(1943、パラマウント、ビリー・ワイルダー監督)、『三人の妻への手紙』(1949、FOX、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督)、『教授と美女』(1941、ゴールドウィン、ハワード・ホークス監督)の4本を見た。1月からの通算では2館の映画館で、9本の映画を見ていることになる。今年になってからずっと、日本映画しか見てこなかったが、8月になってやっと外国映画を見た。これまでのところ旧作ばかりだが、9月以降は新しい作品も見ていきたい。〔11〕
 新しく美術展等を見に出かけたということはない。〔2〕

 サッカーの試合を3試合観戦した。J2が2試合、なでしこリーグ2部が1試合という内訳である。1月からの通算では26試合を見たことになる。新しく出かけた球技場はない。1月からの通算では3か所に足を運んでいることになる。
 また、1111回のミニtoto-Aと、1112回のミニtoto-Aをあてたので、今月については2回、1月からの通算では19回分のミニtotoをあてていることになる。〔48〕

 酒を飲まない日は3日に終わった。1月からの通算では71日ということになる。〔71〕

 本日も、皆様のブログを訪問出来ません。失礼の段、ご容赦ください。 
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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(24)

8月30日(金)雨が降ったりやんだり

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920-2010)は当時彼が所属していた大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、5人の隊員とともに、東南アジア諸国を訪問し、熱帯地方における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。これはその旅行の私的な記録である。一行が主な研究場所として選んだのは、タイ北部の山岳地帯で、バンコクから北タイの中心都市であるチェンマイに移動した後に、予備的な調査としてタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登り、中国から移動してきた山岳少数民族であるメオ族と接触し、テナガザルの研究を目指す川村隊員のためにテナガザルの歌合戦を録音したりして、またチェンマイに戻ってきた。

第10章 ランナータイ王国の首都
 今回から第10章「ランナータイ王国の首都」に入る。タイの歴史の中でいくつかの王国が興亡を繰り返したが、ランナータイ王国もその一つであり、「ランナータイ王国の首都」=チェンマイである。

 大はずれのイメージ
 実際に訪問する前、梅棹はチェンマイをなんとなく山間の小都市という風にイメージしていた。日本でいえば奈良に似ていて、寺が多く、何となくゆったりしている。盆地だといっても、高い山からはすこし離れている。林業が盛んな産業都市だという事前のイメージもあったが、これもはずれで、しずかな、落ち着いた町である。人口がどのくらいなのかはっきりしないが、5万~10万というところであろうか。これでもタイでは第2の都市なのである。
 チェンマイは現在では20万人を超える人口を有しているようである。ただ、人口という点からいうと、ナコーン・ラーチャシーマーの方が40万人を超えていて、大きい町であるが、歴史的な伝統とか、都市としての格などを考慮して、チェンマイをタイ第2位の都市と考えているようである。この調査隊はナコーン・ラーチャシーマーを訪問していないが、この書物の75ページの地図にその位置が記されている。
 梅棹が訪問した時点では、チェンマイには大学はなかったが、1964年にチェンマイ大学が創設され、その後さらに3つの大学が設置されて現在に至っているようである。2011年から2014年までタイの首相であったインラック・シナワトラさんはチェンマイ大学の卒業生だそうである。そういえば、わたしの大学・大学院時代の友人の娘さんがチェンマイ大学の大学院に留学していたという話を聞いたことがある。彼女は私の別の友人の学生でもあったのだが、なかなか面白い人のようだ。

 架空インタビュー
 「チェンマイはまったく、静かな町である。自動車も少ないし、サームローも少ない。目抜き通路の交叉点には、青赤の信号灯もあるけれど、それも、車が走ってくるのを見てから、道ばたで巡査が操作する手動式のものである。それで間にあうくらい、すべてがのんびりしている。」(251ページ) いくらなんでも、今ではだいぶ違ってきているだろうと思う。

 タイ第2の都会だというのにのんびりしているのは、ここで事業を展開している企業がほとんどないからである。官庁もある。地方政庁のほかに、中央政府の出店がいろいろあるからである。

 のんびりしたところではあるが、チェンマイでは日刊新聞が2紙発行されているという。その一つに、梅棹たち一行の記事がでかでかと載った。「タイ語は読めないけれど、葉山君によると、日本の科学者の一隊がチェンマイを中心に研究活動を続けていること、ドーイ・インタノンに登ったことなど、なかなかくわしく報道されているという。山の頂上で、気温がマイナス3度に下がったことまで、ちゃんと書いてある。」(253ページ)
 ところが不思議なことに、一行のうちの誰一人として、この新聞社からインタビューを受けた者はいないのである。推測するに、チェンマイにはチュラーロンコーン大学の卒業生が何人もいて、葉山や隊に同行しているこの大学の助手であるヌパースパットは、かれらと会っていろいろ話をしている。つまり、新聞記者はそれらの話を伝え聞いて記事をまとめたということらしい。
 新聞社のほかに出版社もあったが、そこで出版されている書物はほとんどが仏教書であった。こういうところも奈良に似ているのではないかと思われた。

 国連職員の芸術家
 戦争中はチェンマイには3万人の日本軍が駐屯していたという。それが、梅棹が訪問した1958年にはたった3人だけになってしまっていた。「ひとりは、国連職員の生駒弘さんで、あとのふたりは、田中写真館の田中盛之助さんと、その娘むこの波多野さんである。近年まで、もうひとり歯医者さんがいた、この人は死んでしまった。」(254ページ) 下巻まで読んでいくとわかるが、この数はさらに減少する。
 梅棹の一行は生駒さんの家に厄介になっていた。生駒さんは60歳を超えていたが、この地方における漆工芸の指導のために、ILOから派遣されて、単身ここに赴任してきていたのである。生駒さんは人生を楽しむすべを知っている人のように思われた。彼は漆芸の図案のためと思って、チョウの採集を始めたのだが、その後、何かのためになるかと思ってそのほかの昆虫にも手を伸ばすようになったのだという。それだけではない、彼が長年あつめた昆虫の標本を、自分にはチョウだけあればいいといって、譲ってくれた。これは調査隊にとってありがたいことであった。

 工芸の都
 生駒さんは日本に留学したことのあるソムウォン君という助手兼通訳兼運転手に迎えられて、漆芸を教える施設へと出勤している。生駒さんはこの施設の校長というべき存在であるが、すべて日本語で押し通している。ILOに提出する報告書も日本語で書いているという。〔ILOは1919年に創設され、日本は当初からの加盟国であり、一時離脱したが、1951年に復帰している。ILOが国連の専門機関の1つとなったのは1946年であり、日本の国連加盟は1956年のことであった。〕

 北タイからビルマ、ラオスにかけて、ウルシはたくさん見いだされる。チェンマイはもともと、漆器の産地として知られていた。ところが、ビルマとの戦争に負けて漆器政策の技術者たちを連れ去られたために振るわなくなったのだという。もっとも、その前、13世紀末にチェンマイを建設したメンラーイ王が技術者をビルマから連れてきたことで、漆器の製作が盛んになったという経緯もあるのである。とにかく、生駒さんの努力によって漆器製造の水準は向上してきたようである。

 チェンマイにいる他の日本人はどうかというのはまた次回に紹介することにする。漆工芸のその後については、この書物の下巻に触れられている。梅棹の人文研時代の秘書であった藤本ますみさんの『知的生産者たちの現場』によると梅棹は自宅の玄関に河井寛次郎作の花瓶をおいていたというから、工芸品を見る目はかなり高かったはずである。そんなことも考えながら読んでみると余計に興味が増す。

 いろいろな事情で作業が遅れてしまい、皆様のブログを訪問する時間的な余裕がなくなりました。どうもそういうことが重なっていますが、あしからずご了承ください。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(14)

8月29日(木)晴れ、暑さが戻ってきた。

 フランスの西の方の地方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃ガルガメルの間に生まれたがルガンチュワは、生れ落ちるとすぐに、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたために、この名がついた。生まれつき巨大な体躯を持っていたが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか利発な子どもだったので、父王は詭弁学者を家庭教師につけて勉強させたが、うまくいかなかったので、現代風の新しい教育方法で勉強させようとパリに送り出し、その師ポノクラートの薫陶よろしきを得て、賢明な若者に育っていった。
 ところが、グラングゥジェの領地の羊飼いたちと、その隣のレルネの町の小麦煎餅売りたちの間でいざこざがおこり、レルネの王であったピクロコルが詳しい事情を調べもしないで、グラングゥジェの領地に攻め入り、略奪をほしいままにするという騒ぎが起きた。グラングゥジェは何とか平和を回復しようとするが、ピクロコルは聞く耳を持たない。しかも、悪いことに、ピクロコルの家来である弥久座公爵、刺客伯爵、雲子弥郎隊長の3人が、ピクロコルに、これに乗じて世界征服に乗り出そうというとんでもない計画を持ち掛ける。
 ピクロコルの軍隊は、ラ・ローシュ・クレルモーの城(もともとグラングゥジェの領地にある)を占拠しているが、この城は要害の地にあるので、少数の守備隊をおいてこの城を守らせ、残りの兵を2隊に分けて、1隊はグラングゥジェのもとに向かわせ、彼が集めてきた財宝を略奪する、もう1隊は西に進んでスペイン・ポルトガルを征服し、さらに北アフリカに進出して地中海を制圧する…というものである(今回はその続き)。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコルを最悪の危機におとしいれる)(続き)
 北アフリカのアルジェリア、チュニジアなどの国々を征服すると、また地中海を渡って、バレアレス諸島(つまり、マジョルカ島とメノルカ島)、(現在はイタリアに属している)サルデーニャ、リグリア地方を征服する。(現在はフランス領の)コルシカ島、(フランスの)プロヴァンス地方、(またイタリアに戻って)ジェノヴァ(リグリア地方に属しているはずである)、フィレンツェ、さらに「栄光に映ゆるローマを鎮定なさるのでござりまするぞ! 哀れや教皇殿は、すでに恐怖のために生色なしでござりますわい。」(渡辺訳、159ページ、宮下訳では260‐261ページ)

 こうして北イタリアを制圧すれば、南イタリアも容易に制圧できる。ナポリ王国、カラブリア地方、シチリア島(ここまではイタリア)、マルタ島も「悉く略奪の餌食と相成る」(渡辺訳、159ページ、宮下訳、262ページ)。さらにロドス島、キプロスなど東地中海の島々も手に入れ、エルサレムに到着する。「トルコ皇帝など、殿の御威勢の前では物の数でもござらぬからなぁ!」(同上)
-- Je (dist il) feray doncques bastir le Temple de Salomon.
 「ではわしは、(とピクロコルは言った。) ソロモンの寺を建立させようかな。」(渡辺訳、159ページ、宮下訳では「では、ソロモンの神殿なりとも建立いたそうか。」 262ページ) ここは、宮下訳の方が適切であろう。ソロモンの神殿は、ユダヤ王国の滅亡とともに破壊されたが、ヘロデが再建し、そのために「大王」と呼ばれるようになった。しかし、その再建された神殿も、ローマ帝国からの独立戦争の敗北とともに破壊される。ピクロコルには、信仰はないが、名誉欲はある。神殿をまた再建すれば「大王」と呼ばれることになるのを意識した発言である。 実際問題としてフランスの一地方の領主に過ぎないピクロコルが、トルコの皇帝と戦争をして勝てる見込みはほとんどないのである。

 3人は異口同音にピクロコルの意図を遮る。大事を行うに際しては、焦りは禁物だという。「オクタウィアヌス・アウグストゥスが何と申したか、御承知でいらせられますか? 「ゆるりと急げ(フェスティナ・レンテ)」でござりまするぞ」(渡辺訳、160ページ、宮下訳では「皇帝アウグストゥスが、なんと申したか、ご承知でしょうか。<急がば回れ>でございまするぞ。」262ページ) ソロモンの神殿を再建するのと、征服を続行するのと、どちらが焦りにみちた行為であるかは意見の分かれるところだろうし、そもそも、そうした机上の征服計画がうまくいく可能性はまったくないのである。3人は遠征を更に進めて小アジア(トルコからシリアの一帯)を制圧し、ユーフラテス川の川岸に到着することになるだろうという。
 ローマ帝国初代皇帝オクタウィアヌス・アウグストゥスと、田舎大名のピクロコルとでは、提灯に釣り鐘、まったく釣り合わない。

 ---- Voyrons nous (dist Picrochole) Babylone et le Mont Sinay?
 ----わしらは、(と、ピクロコルは言った、)バビロンもシナイ山も眺めることになるのじゃな? (渡辺訳、160ページ、宮下訳では263ページに相当) バビロンとシナイ山とではだいぶ位置がちがう。地理感覚が相当にくるっているが、これは、今までも同じことである。そもそもヨーロッパ、北アフリカ、中東の地理を正しく認識していない人間が世界征服を考えること自体が、笑える。
 3人は、これまで十分に暴れまわったのだから、そこまで欲張らなくてもいいという(だったら、はじめから暴れまわらない方がいいのである)。細かいことであるが、バビロンはユーフラテス川の岸にあり、チグリス川はユーフラテス川の東側を流れているから、チグリス川まで達するということは、バビロンを通過している可能性があるわけである。

 今度は逆にピクロコル王の方が待ったをかける。砂漠のなかを行軍するのだから、水分が補給できない。ローマ帝国末期の皇帝ユリアヌスとその軍勢は、砂漠のなかでのどの渇きのために命を失ったというではないかという。〔「背教者ユリアヌス」は、363年、ペルシア遠征で戦死」というのが宮下訳の263ページの割注。コンスタンティヌス大帝がキリスト教をローマ帝国の国教にした後、ユリアヌスがまたそれを廃止したので、「背教者」と呼ばれる。〕
 これに対する3人の答えが笑える。ここは、宮下訳で紹介しておこう:
 「しかと手はずは整えておきました。世界最高のワインを満載したる、9014艘もの大船が、シリア海経由で、ジャファ〔テルアビブの外港〕に到着いたしまする。そこにラクダが220万頭、ゾウが1600頭、控えておりまする。殿がリビア進軍に際しまして、シジルマッサ〔サハラ砂漠の町〕の周辺で狩猟をおこない、確保なさることになっております。加えましてメッカの隊商が総動員される手はずでございます。ワインの供給は十分ではございませんでしょうか。」(宮下訳、263‐264ページ、渡辺訳では160‐161ページ) 砂漠でワインを飲んだら、余計に喉が渇くのではないかと思う。

 「なるほど、そうかもしれぬ。だが、冷やして飲めなかったのだぞ。」(宮下訳、264ページ、「原文は単純過去形。ピクロコル王、すっかりその気になっている。」と265ページの傍注にある。渡辺訳では161ページ。)
 3人は、世界征服のためには、小さな快楽は捨てなければならないと説得に努める。「殿とその軍勢は、無事にティグリス河まで来られたのですから、何とも有難きこと、神に感謝せねばなりませんぞ。」(宮下訳、264ページ、渡辺訳、161ページ) 確かにローマ帝国はペルシア(パルティア)をその版図に含むことはなかったが、アレクサンドロス大王はペルシアも滅ぼして、今のアフガニスタンやパキスタンの一帯まで進出している。どうせ空想の世界であるから、さらに東に進んでもいいのである。

 ピクロコル王の妄想を煽り立てる3人の世界征服計画はまだまだ続く。どんなことになるかはまた次回に。

 朔日、病院に出かけたところ、予定していなかったホルター心電計の装着が加わったこともあり、たいへんに疲れてしまい、ブログの更新途中で眠り込んで、昨日分の原稿を完成できませんでした。これから、ゆっくりと完成させていきたいと考えておりますので、その旨ご了承ください。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(14)

8月28日(水)雨が降ったりやんだり

 新世界に到達したのち、地球を1周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、その航海中に訪問した「太陽の都」の様子をマルタ騎士団の団員に語る。
 「太陽の都」は太平洋中の島の中心部に広がる平原の中央の丘の上に、七重の城壁を同心円状に巡らせて建設された都市である。この都市は「太陽」と呼ばれる神官君主によって統治され、その「太陽」は軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」という3人の高官によって補佐されている。これらの高官を含めてすべての役人は、教育によりその能力・適性を見出された人々が任命されている。教育はすべての男女を対象として、男女別に集団で行われ、神殿の外壁と城壁に描かれた絵画が、子どもたちだけでなく大人たちに様々な知識を与えることに役立っている。
 この都市の人々は私有財産を持たず、全体として1つの家族として暮らしている。衣類は配給制であり、食事は共同で行われ、住居は割り当て制である。すべての人々がそれぞれの能力に応じて働き、そのため都市全体としては豊かであるが、人々は質素な暮らしを送っている。
 この都市の周辺の国々は、その豊かさをねたんでしばしば戦争を仕掛けてくるので、「太陽の都」の住人たちは、男女の別なく子どものころから軍事教練を受け、軍備を整えて常に戦争のために準備をしている。
 マルタ騎士団員の産業についての質問に答えて、ジェノヴァ人はまず商業について語る。商業はあまり盛んではなく、貨幣は外国からの訪問客のためのものであり、外国との交易は物々交換でなされるという。

 ジェノヴァ人は次に、「太陽の都」における農業について語る。
 「農業は大へん尊ばれ、耕されていない地面は手のひらほどもありません。」(坂本訳、46ページ、このように書かれているが、すぐ後で、放牧地がとっておかれていることが語られる。) モアの「ユートピア」におけるのと同様に、都市の住民たちが、農繁期には農村の人々に合流して農作業を行う。このようにすべての人々が働くことに加え、機械化と農耕方法の改善により、農業は豊かな収穫をもたらしているという。農業をめぐる技術としては、風力によって動く帆掛け車の使用(風がないときは家畜を使用する)が挙げられる。また彼らは大地を肥沃にするためにはその方がいいということで、肥料を使用しない(運動ではなく化粧によって自分を美しく見せている女性は虚弱な子どもを産むという怪しげな理由を取り上げて、こじつけている)。かれらには肥料を使わなくても豊かな収穫を生み出す秘法があるのだという(まさに怪しげな論法である)。風力の使用というのであれば、帆掛け車よりも、風車の建造の方が現実的ではないかと思う。

 「領土は一部が必要なだけ耕され、他は放牧に使われています。」(坂本訳、46ページ、前段で述べたように、耕されていない地面はほとんどないという記述と、この記述は矛盾する。) 牧畜もまた高い尊敬を払われているのだという。「馬、牛、羊、犬その他あらゆる家畜を飼育するこの貴い仕事は、アブラハムの時代のように極めて重んぜられています。」(坂本訳、46ページ) 「太陽の都」の住民はキリスト教徒ではないが、「アブラハムの時代」というようにキリスト教的な価値観がジェノヴァ人の発言には見られる。ユダヤ教の原型となる旧約聖書の根底に遊牧民の価値観が流れているのは、しばしば指摘されてきたことである。しかし、ここで「太陽の都」の人々が展開しているのは遊牧ではなく、定住民による放牧というヨーロッパ的な牧畜である。
 既に述べられたことの繰り返しになるが、この国には山や狩場があって、人々はそこで狩猟などの訓練を行う。

 航海術も大いに貴ばれている。かれらは「風も櫂も使わずに走る船」(坂本訳、48ページ)も持っているという。カンパネッラは自分はこのような船をつくることができるといっていたそうであるが、では、どのように走るのかというのは明かされていない。本当に秘密なのか、実ははったりなのか、それはわからない。もちろん、普通の帆船や手漕ぎの舟も使われている。

『太平記』(277)

8月27日(火)朝のうちは昨夜おそくから降り出した雨が残っていたが、その後は曇天が続く。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁王が践祚された(崇光帝)。このとき、院の御所に、子どもの首を犬がくわえてくるという怪異があった。
 その頃、仁和寺の六本杉で、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊が、天下を乱す謀議を企てるのをある僧が目撃した。その謀議とは、まず尊雲が足利直義の北の方の胎内に宿り、他の天狗も足利方諸将に取りついて大乱を起こすというものであった。

 夜明けとともに、一部始終を目撃した僧は京へ帰り、薬医頭(やくいのかみ)である和気嗣成にこのことを語った(岩波文庫版の脚注によると、『園大暦』には、足利直義室の出産に仕えたのは、嗣成の一族である仲成であったと記されているそうである)。
 4,5日すると、足利直義の北の方が、体調不良を訴えたので、医術の家である和気、丹波の両流の医師たち、本道(内科)、外鏡(外科)で評判の高い医師たちが数十人集められて、脈をとって診察することになった(数十人というのは、直義の権勢のほどを示すものであろうが、どうも大げさである)。
 ある医師は、この病気は風邪がもとで起きたものであるから、風邪薬である牛黄金虎丹、それに辰砂天麻円を合わせて、服用されるのがよろしいでしょうという。牛黄というのは牛の胆のうに生じる黄褐色の結石で、漢方では狭心症、胃炎、腎盂炎などの治療に用いるのだそうである。一方、辰砂天麻円というのは水銀と硫黄の化合物で作った薬だと脚注にあるから、こんなのを飲んだらかえって毒になるのではないかと思う。現在の知識からいえば、風邪ならば葛根湯、少しこじれた場合は小柴胡湯ということになると思う。どうも話が大げさに展開している。
 また別の医師は、病は気から起きるということで、気を鎮めるための薬湯である兪山人降気湯(ゆさんじんがごうきとう)、神仙沈麝円を合わせて服用するのがよかろうという。
 さらにまた別の医師は、この病気は腹の病気であるから、金沙正元丹、秘伝玉鎖円を合わせて服用すれば快癒するだろうという。それぞれの医師の見立てと処方がまったく異なるが、わけのわからない高そうな薬を勧めている点は共通している。

 そこへ、薬医頭の嗣成が、少し遅れてやって来て、脈をとってみたが、どういう病気か判断がつかない。この時代の医術では、病気の数は多いけれども、大別すると風邪、気、腹病、虚羸(きょるい、衰弱、疲労のことらしい)の4種類になる。すでに診断した医師たちの判断がまちまちで、診断をしたものの、どうもこの4種類のどれに該当するとも思われない。どうも不思議なことだと思っているうちに、仁和寺で雨宿りをしていたという僧が目撃した話を思い出した。それで、「これはご懐妊されたことを示す脈であるように思われます。それも男のお子様でしょう」と小声で言った。それを聞いた周囲のものは、あのおべっか野郎の嗣成がとんでもないことを言い出すものだ。北の方は40をすぎておいでになる。それで初産というのは信じられないことだと、嗣成を非難したのであった。

 それから月日が過ぎて、北の方が妊娠していることが明らかになったので、何ともわけのわからない病気だといって、高い薬を飲ませようとした医師たちは、みな面目を失い、嗣成だけが所領を頂くことになった。それだけでなく、やがて典薬頭(てんやくのかみ、宮中で医薬・医療にあたった役所の長官)に任じられたのであった。
 戦国時代から江戸時代にかけて宮廷医官をつとめた半井家は嗣成の子孫である。気象予報士の半井小絵さんはこの半井家の子孫だと言っているそうであるが、どこまで本当のことかはわからない。

 それでもなお、まだ本当に懐妊したのかわからない、その時になったらどこの馬の骨ともわからないような赤ん坊を連れてきて、これが生まれてきた子どもだと言いふらすのではあるまいか、などと嫉みそねむ者たちは言いあっていたが、6月8日の朝、北の方は出産し、安産だったうえに、生まれてきたのは本当に男の子であった。男子出産の際のしきたりとして桑の弓、蓬の矢で四方を射て、邪気を払った。このおめでたい報せはたちまち広がり、足利一門と一族、足利氏と同じく源氏に連なる人々、諸国の守護・大名は言うまでもなく、多少の地位のあるものは公家、武家とを問わず、鎧、腹巻、太刀、馬、車、薄い綾絹と、金糸で模様を織り出した錦などなど様々な引き出物を我先に持ち寄ってお祝いに参上したので、直義の邸は人々であふれ、家の中に入り切らない人々が路上に並ぶという有様であった。この後、この赤ん坊(如意王)の誕生が尊氏・直義兄弟の不和をひきおこし、天下が再び争乱に巻き込まれること、如意王自身の短い運命など知る由もなく、「大変な幸運のもとに生まれてきた赤ん坊であることよ」などと皆が噂したのであった。

 岩波文庫版で、兵藤裕己さんが繰り返し注記しているように、崇光帝の践祚は貞和4年のことであるが、直義に男子が生まれるのは貞和3年のことであり、『太平記』のこの辺りの記事は年代が乱れている。あるいは故意に、このような年代の入れ替えをしたのかもしれないが、そうした入れ替えを通して、『太平記』の作者は如意王の誕生が尊氏・直義の反目・抗争=観応の擾乱の原因であり、そしてそれは、宮方の怨霊の仕業であるということを、読者に印象付けようとしているようにも思われるのである。
 次回は、舞台も登場人物も変わって、楠正成の遺子正行の活躍を描く章段となる。

 明日は病院の予約があり、診察が終わったあとは映画を見ようかなあとも思っておりますので、更新が遅れ、またみなさまのブログを訪問する時間的余裕はなくなるだろうと思います。あらかじめ、ご了承ください。

日記抄(8月20日~26日)

8月26日(月)晴れ、次第に雲が多くなる

 8月20日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

8月20日
 『朝日』朝刊の「論の芽」は、「子どもの文系・理系は早く分けた方がいい?」という問題を取り上げていた。
 私自身は、数学と物理の成績が悪かったので、高校2年くらいの段階でどうやら理系に進学するのは無理だと思ったが、理系の勉強そのものは嫌いではなかった。受験のためという理由があったから、学習範囲は狭められたが、多様な領域を自由に選択できるという制度がもっと生きるようなやり方を工夫することが望ましい。その意味で、この欄に紹介されていた「大学の選抜方法や教育 もっと多彩に」という愛媛大学の隅田学さんの意見に賛成である。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)のコーナーではカナダのアカディアンについて取り上げていた。アカディアンとはフランスが北アメリカに築いた植民地アカディに入植した人々の子孫である。アカディは、カナダ、ケベック州の東、現在のノヴァスコシア州を中心とした地域に広がっていた。この地方の領有権がフランスから英国に移った後、この地のフランス人は強制退去させられたが、その後、またかつてのアカディを目指し帰還を始めたという。現在アカディアンはニューブランズウィック州で人口の3割を占めているという。
 『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅱ』のパートナーであるレイチェルさんが、高校時代の授業ではフランス語が一番面白かった、カナダではフランス語も公用語になっているという話をしていたので、『まいにちフランス語』と符合しているように思えた。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』は”The Straw Millionaire"(わらしべ長者)を放送しているが、その第2回 にsatsuma tangerineという語が出てきた。温州ミカンのことを英語ではこういうのである。ロンドンのtescoの果物売り場で、satsumaという言葉を目にした時のことを思い出した。

 ジャン=ガブリエル・ガナシア『虚妄のAI神話 「シンギュラリティ」を葬り去る』(ハヤカワ文庫)を読み終える。

 シネマヴェーラ渋谷で「名脚本家から名監督へ ビリー・ワイルダー ジョセフ・L・マンキウィッツ プレストン・スタージェス」の特集上映のうち、『三人の妻への手紙』(1949、FOX、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督)、『教授と美女』(1941、ゴールドウィン、ハワード・ホークス監督、ビリー・ワイルダー脚本)を見る。
 『三人の妻への手紙』は1949年度のアカデミー作品賞受賞作。映画的な手法もみられるが、全体的には演劇的な作品ではないかという気がする。翌年マンキウィッツが監督賞を受賞した『イヴの総て』のほうが見ごたえがある。ただ、この作品でカーク・ダグラスが高校の英語の先生というまじめな役をかしこまって演じているのが面白かった。
 『教授と美女』(Ball of Fire)は「白雪姫」を下敷きにしているところが奇想天外である。白雪姫はナイト・クラブの歌手(バーバラ・スタンウィック)、王子(ゲーリー・クーパー)と小人たちは辞書編集者、白雪姫はギャングのボスの情婦で、警察に追われていて、小人たちの所に身を隠すという設定になっている。

8月21日
 NHKラジオ『世界へ発信 ニュースで英語術』の時間で、最近のアメリカでは学校での銃乱射事件が多いために、bulletproof backpack(防弾バックパック=リュックサック)を使う子どもが増えているという話題を取り上げていたが、同じく『実践ビジネス英語』でも同じ話題が取り上げられた。
 日本ではバックパックという英語よりも、リュックサックというドイツ語の方がよく使われるのは珍しい例である。以前、小池東京都知事が何かの折に、aufhebenというドイツ語を使った際に、ドイツ大使館の人が、日本で使われているドイツ語はリュックサックだけかと思っていたとコメントしていたことを思い出した。(戦後のある時期には、アウフヘーベンという言葉はよく使ったのである。現在はどうか知らないが、古い『広辞苑』にはちゃんとこの語が出ている。)

8月22日
 横浜市はカジノを含む統合型リゾート(IR)を誘致すると発表した。以前にも書いたが、わたしはギャンブルには反対ではないが、IRの誘致には反対である。カジノとは、遠きにありて思うものであって、身近にあるのでは迷惑このうえない。

 シモン・ジャルジー『アラブ音楽』(文庫クセジュ)を読み終える。

8月23日
 『日経』社説は「社会人が学び続ける環境整備急げ」と主張している。ごもっともではあるが、単に職業的な技能を更新するために学び続けるというのでは十分ではない。人生について考え直したり、教養を身につけたり、趣味を拡大したりすることも含めて、生涯学習の充実を考えるべきである。 

8月24日
 『朝日』の朝刊「しつもん! ドラえもん」のコーナーで、コンピューターは1年半から2年で計算速度が2倍になるという「ムーアの法則」を取り上げているが、ガナシアの『虚妄のAI神話』でこれが法則として成立するかどうかについての疑問が述べられているのを思い出した。

 『朝日』の「ひもとく」のコーナーで「愛に生きる」として『嵐が丘』、『ロミオとジュリエット』、『ガラスの仮面』、『高慢と偏見』を取り上げていたが、このうち3作品がイングランド人作家の作品であることが注目されてよい。『ロミオとジュリエットは死んで神々しい伝説と化したが、本当は死ななくていい若者が社会に追いつめられて死んでしまう話である。大人が始めた戦争で死んでいくのはいつも若者なのだ。」というコメントが印象に残る。ロミオとジュリエットだけでなく、マキューシオも、ティーボルトも、パリスも死ななくていいのである。

 ニッパツ三ツ沢球技場で横浜FC対鹿児島FCの試合を観戦する。横浜が5‐1で鹿児島を破るが、ひやひやする場面もあったし、次節の試合ではレアンドロドミンゲス選手が累積警告のため出場できないなどの問題もあって、前途は楽観を許さない。

8月25日
 『朝日』の朝刊に「中高一貫校 『高校で入学』細る道」という記事が出ていた。中高一貫校では、上の学年の教育内容を前倒しして教えることが多いため、途中から編入してくると、授業についていくのが難しいことが主な理由のようである。もっとも、私の母校などは、戦後に創設されて以来、ずっと高校からの入学を認めてこなかった。教育内容の前倒しは、得意科目についてみればいいことかもしれないが、不得意科目はゆっくりやってほしいので、良しあしである。

 NHKラジオ『私の日本語辞書』は日本語教育の歴史について放送しているが、担当の秋山アナウンサーが「こそあど」というべきところを「そこあど」と言って、そのまま訂正しなかった。そんなレベルの日本語知識で日本語教育についてのインタビューができるのか、猛省を促したい。

8月26日
 『日経』に豊橋技術科学大学の大西隆学長が、日本の大学の国際的な評価における伸び悩みに神経をとがらせ、大学評価を過剰に強化しようとする政府の動きに対し、日本の大学には質の高さと層の厚みという強みがあると指摘、この点でのアピールを強めるべきだという議論を展開している。問題は、大学の質の高さということが、最高水準ということではなく、一定水準に達しているというところでとどまっていることではないかと思う。同紙の記者は「学びの質 高める原点忘れずに」とコメントしているが、大学生の相当部分が就職活動にかなりの時間を取られているという現実をどのように評価するかということも重要であろう。

 同紙に、国連児童基金(ユニセフ)が24日までに、アフリカ中部と西部で武装勢力の襲撃など治安悪化により190万人以上の子どもが学校に通えなくなったと発表したという記事が掲載されていた。主な問題はアルカイダなどの影響下にある反政府の攻撃だそうだが、彼らの教育観はどのようなものかということも気になるところではある。

 『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"はカナダのマニトバ州のフランコフォンについて取り上げた。この州は英語とフランス語を公用語にしていたが、1890年に英語だけを公用語とすることに変更された(その後、1960年代にまたフランス語も公用語とすることになった)。むかし、ある国際学会で、カナダのマニトバ州に興味があると言ったら、カナダ人の学者を紹介してくれて、彼の書いた論文をもらった記憶がある。そこから一歩、二歩と進まないのが、わたしの悪い習性である。

 田中雄一『ノモンハン 責任なき戦い』(講談社現代新書)を読む。このところ、読みたいと思うような本がなく、それならば少し重い本を読んでみようということで(まじめに勉強するというわけでもないが)大木毅『独ソ戦』(岩波新書)を読んでやろうと思い、その前に小手調べということで、この本を読んだ。旧日本陸軍の無責任体質とそのなかで展開した「まったく無駄な戦争」(10ページ)の経緯が辿られている。

 さらに大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』⦅(岩波新書)を読む。1日のうちに2冊本を読むのは久しぶりのことである。「絶滅戦争」と副題にあるが、この戦争は「絶滅戦争」という性格も持つ「複合戦争」であるというのが著者の見方である。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(7)

8月25日(日)晴れ、暑し。

 19世紀の初めのイングランド、ロンドンの北に位置するハートフォードシャーのロングボーンという農村の地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス、メアリー、キャサリン(キティー)、リディアという5人の娘がいた。この家系は男系相続の制度をとっていたので、ベネット氏の死後、一家の財産は近親の男性(コリンズと言って、間もなく登場する)に引き継がれることになっていた。それもあって、ベネット夫人にとっては自分の娘たちの1人を裕福な男性と結婚させることが望みであった。
 ロングボーンから近いところにあるネザーフィールドの邸宅をビングリーという北イングランド出身の裕福な男性が借りることになったので、ベネット家を始め、近隣の人々は色めき立った。この地方の中心の町であるメリトンで開かれた舞踏会に参加したビングリーはその社交的な性格のために、人々の人気を集めた。一方、この舞踏会に参加したビングリーの親友だというダーシーは、ビングリー以上に裕福だという評判にもかかわらず、その高慢な態度が人々の反感を買って、敬遠されてしまった。
 ジェインはこの舞踏会に参加している令嬢のなかで一番の美人だといわれ、ビングリーが2度、自分の相手に選んだのは彼女だけであった。一方、ビングリーからエリザベスと踊るように勧められたダーシーは、いっしょに踊りたくなるほどの美人ではないねと拒否したが、その発言を近くにいたエリザベスに聞かれてしまった。
 ジェインはビングリーに好意を持ち、ビングリーもジェインに関心を持つが、ジェインは自分の気持ちをはっきりと表明することを控えるようにする。エリザベスは、そんな姉の態度を好ましく思うが、エリザベスの親友でベネット家の隣家の令嬢であるシャーロットは、もっとはっきり自分の気持ちを出したほうがいいという意見である。エリザベスの容姿にけちをつけたダーシーであったが、彼女の表情や態度に魅力が潜んでいることに気づき、彼女に興味を持ちはじめる。そんなことにはきづかずに、エリザベスはダーシーに反感(あるいは偏見)を抱き続ける。
 ビングリーの姉妹たちと仲良くなったジェインはネザーフィールドに遊びに出かけ、その途中雨にあって風邪をひき、しばらく滞在しなければならなくなる。心配したエリザベスは服を泥だらけにしながら歩いて姉を見舞いに行き、そのままネザーフィールドに留まる。ビングリー姉妹、とくに妹のミス・ビングリー(キャロライン)は、ダーシーとの結婚を望み、またダーシーがエリザベスに関心を抱きはじめていることを知っているので、なんとかその関心を断ち切ろうとする。表面上の親しさ、礼儀正しさとは裏腹の駆け引きが展開される。(以上、第1部第10章の途中までのあらすじ。)

 エリザベスが人間の性格を研究することに興味があるということから始まった会話は、ビングリーとダーシーの間の友情の性格にまで発展し、ビングリーの発言にダーシーがちょっと気を悪くしたように思われたので、エリザベスは笑いを抑えた(このあたりに、エリザベスが賢明な女性であることが見てとれる)。ミス・ビングリー(キャロライン)は兄の不用意な発言を責める。
 こうして会話は終わり、人々はその前に取り組んでいた仕事に戻る。それが一段落すると、ダーシーはミス・ビングリーとエリザベスに向って、音楽を聞かせてほしいという。まず、ミス・ビングリーがピアノを弾き、その姉のハースト夫人が歌ったが、その間、楽譜をながめているエリザベスにダーシーが視線を向けていたので、エリザベスは不思議に思う(まさか、彼が彼女に関心を寄せているとは思っていないのである)。

 ミス・ビングリーはイタリアの歌曲を何曲か弾いた後、趣を変えて軽快なスコットランドの歌曲を弾き始めた。すると、ダーシーがエリザベスに向って、リール(reel :スコットランドのハイランドの軽快な舞踏)を踊ってみるつもりはないかとたずねる。エリザベスは返事をしなかったが、もう一度聞かれて、あなたが自分の趣味を軽蔑するつもりでそのようにおっしゃるのならば、軽蔑なさって結構ですが、自分はリールを踊るつもりはありませんと断る。この返事にダーシーが鄭重に対応したので、エリザベスはかえって戸惑う。エリザベスの態度には人のよさとか、茶目っ気といったものが含まれていて、はっきりと断られても、ダーシーは気を悪くしなかった。むしろ、彼女の親戚筋の身分が低くなければ、これは危険なことになるかもしれないなどと考えていた。
 このダーシーの心中を見抜いたのか、あるいは勘ぐったのか、エリザベスに対する嫉妬心をつのらせたのがミス・ビングリーである。

 翌日の朝、ミス・ビングリーはダーシーと2人だけで散歩に出かけ、ベネット家の悪口、ベネット夫人が下品であること、下の2人の娘(キャサリンとリディア)がメリトンに駐在している連隊の士官たちを追いかけていること・・・などを強調する。
 And, if I may mention so delicate a subject, endeavour to check that littlle something, bordering on conceit and impertinence, which your lady posesses. 「それから、たいへん微妙なことを申し上げてよろしければ、あなたの奥様のあの思い上がりと生意気と云ってもいいようなところを何とか押さえていただきたいですわ。」(大島訳、98‐99ページ) 「あなたの奥様」はエリザベスがダーシーの妻になったと仮定して、そう言っているのである。conceitは「自負心」とか「うぬぼれ」、impertinenceは「出しゃばり」とか「生意気」。会話の際にやたら自分の意見をさしはさむのは感じのいい態度ではないが、かといって、発言をなんでも肯定するのもつまらない。飽くまで程度問題である。

 ダーシーがもっとほかにいうことはないのかというと、ミス・ビングリーはなかなか面白いことをいう。ダーシーのペムバリーの邸宅には一家に関係する様々な人物の肖像画が飾られているが、判事であったダーシーの大叔父と、地方都市の事務弁護士であるフィリップス氏(エリザベスたちの伯父)は2人とも法曹関係の人物であるから、その肖像画を並べて飾るべきである、ダーシーが賞賛するエリザベスの目の美しさは、どんな画家も再現できないだろう・・・

 と、そのとき、2人の目の前にミス・ビングリーの姉のミス・ハーストと、ほかならぬエリザベスが現れる。エリザベスは3人と離れて、一人で散歩を続ける。もうすぐ自分の家に帰れるかと思うと、それが楽しみであった。ジェインはだいぶ回復していて、夕食後には、皆の前に顔を出せるようになりそうだということで、これもエリザベスにとってはうれしいことであった。

 夕食後、エリザベスは姉と一緒に客間に出かけた。ビングリー姉妹はジェインを愛想よく迎えたが、それ以上に喜んだのはビングリーであった。部屋が寒いために、ジェインの風邪がまたもや悪化してはたいへんだと、しばらくの間暖炉の火を燃やすことにかかりきりだったほどである。そのうち、ビングリーとジェインがネザーフィールドで開く舞踏会の話をしていたのを聞きつけたミス・ベネットは、ありきたりの舞踏会ではなくてもっと知的なものにすべきだなどと主張する。

 ミス・ビングリーはダーシーの注意をひこうと、部屋のなかを歩きまわるが、ダーシーは読書中の本から目を離さないので、エリザベスを誘う。そして、目を上げたダーシーに自分たちと一緒に部屋のなかを歩こうというと、ダーシーは断る。二人が秘密の相談をしているのならば、そのなかに加わるのは迷惑だろうし、歩いている姿が魅力的だと思っているのであれば、ここで座ってみている方がはるかに楽しいという。ミス・ビングリーはその回答に腹を立てるが、どのように復讐していいのかわからないという。エリザベスは、そう思うのならば、ダーシーをからかってやればいいというが、ミス・ビングリーはそんなことはできないという。誰からもからかいの対象にならないという特権を持つ人間がいるのかとエリザベスは反論する。

 ミス・ビングリーは自分のことを過大評価しているとダーシーは言う。しかし、どんなにすぐれた人物でも、他人を茶化すことを第一義と考えている人間にかかれば、からかいの対象になるだろう。エリザベスは、確かにそういう人はいるが、自分はそうではない。”I hope I never ridicule what is wise or good. Follies and nonsense, whims and inconsistencies do divert me, I own, and I laugh at them whenever I can. " 「私は賢いものや優れたものを揶揄ったりは致しませんもの。人間の愚行や馬鹿げたところ、気紛れや矛盾が私には面白くて仕方がないんです。ですからそういうものに出会ったときはいつでも笑わせていただきます。」(大島訳、107‐108ページ) しかし、そういう欠点はダーシーとは無縁なようだと付け加える。

 これに対してダーシーは、欠点は誰にでもある。しかし、その欠点のためにせっかくの理解力が物笑いの種になってしまうような欠点は避けたいという。
 そういう欠点の例として、エリザベスは虚栄心(vanity)とか、自負心(pride)が挙げられるのだろうかと問い返す。
 これに対し、ダーシーは次のように答える:
 ”Yes, vanity is a weakness indeed. But pride -- where there is a real superiority of mind, pride will be always under good regulation."「そう、虚栄心は確かに弱点です。でも自負心は――本当にすぐれた知性の持主であれば、常に自負心を抑えているものです。」(大島訳、108ページ) エリザベスは笑い出しそうになったので、それを隠すために顔をそむけた。
 この物語の表題が”Pride and Prejudice"であり、物語を通じてダーシーの”Pride"が問題になるのだから、このやりとりは意味深長である。

 ダーシーに対する人物調査はどんな結果だったかと、ミス・ビングリーは問う。エリザベスはダーシーにはまったく欠点がない、ご本人がそういっているのだから間違いないと答える。
 ダーシーはそれは誤解だという。自分にはいくらでも欠点があるが、理解力(understanding)に欠陥があるとは思われたくないのだという。他の部分については、融通性がなくて、世間の流儀に都合よく合わせることができない。「他人の愚行や悪行がなかなかすぐには忘れられないし、自分の感情が害されたときもそうです。…たぶん執念深い気質なんでしょうね。――僕はいったんあいつが嫌いだとなると永久に嫌いなんです。」(大島訳、108-109ページ) 〔ダーシーのこの性質の「被害者」となる人物が間もなく登場するので、ご注意ください。〕

 これに対して、エリザベスは執念深い性質というのは笑いの対象とするわけにはいかないといい、「私に関する限りダーシーさんは安全でしてよ」(大島訳、109ページ)と結論する。
 「僕が思うに、どんな気質にもその気質特有の悪しき傾向があるんですよ、生まれつきの欠点というか、どんな立派な教育をもってしても直せないような。」
 「だとするとあなたの欠点は人間を嫌おうとする傾向ですわ。」
 「あなたのは」とダーシーは笑いながら応じた、「すべての人間を故意に誤解しようとするところだ。」(大島訳、109ページ) はっきりとは表現されていないが、ダーシーの「高慢」(あるいは「自負」)に対するエリザベスの「偏見」が指摘されている。物語の骨組みが示される。

 仲間外れにされたミス・ビングリーが少し音楽を楽しもうといい、ダーシーも賛成した。「エリザベスに少し気を遣い過ぎている危険を感じ始めていたのである。」(大島訳、109ページ)

 物語はジェーンとビングリーの恋愛を描くと思わせておいて、次第にエリザベスとダーシーの2人を前面に押し出し、作者自身の人間観察や人生観の断片をこの2人を通して語っていく。この丁々発止の対話のなかで物語の概要が見えてくる(まだ、これから登場する人物は少なからずいるが…)。機知に富んだ会話は、ダーシーを次第にエリザベスへの深い思いに引きずり込みそうになる(もちろん、社会階層のちがいを考えて自制する、もう一人のダーシーもいる)。さて、物語はどのように展開していくのか…。
  

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(23)

8月24日(土)曇りのち晴れ

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は、大阪市立大学の学術調査隊の隊員とともに、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス4カ国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査研究を行った。これはその際の私的な記録である。
 一行の主な研究場所は北タイの山岳部で、1958年1月にタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登り、その後、北タイの中心都市であるチェンマイの西にそびえるドーイ・ステープの裏山に住む山岳少数民族であるメオ族を訪問する。メオ族は中国革命の余波を受けて、中国から東南アジアに移住してきているのである。その後、一行はビルマ(ミャンマー)との国境付近を目指して北上し、チェンダーオでテナガザルの歌合戦を録音する。チェンダーオの森は、戦前米国のカーペンターが霊長類の研究を行った場所で、その時とは条件は違っているが、研究場所の1つとして選ぶことになった。

第9章 類人猿探検隊(続き)
 人民をひきいる王の移住
 1月20日、一行はチェンダーオのキャンプをたたみ、また街道筋に戻ってファーンへと向かう。「街道は、むしろ北へゆくほど道がよくなった。そして、どういうわけか交通量も多くなる。ファーンは北部辺境の大中心なのであろうか。」(242ページ)
 街道からビルマとの国境に連なる山々が見えるが、この一帯がタイの最北部というわけではなく、一番北の町はメ-・サーイである。そしてそのすぐ東の、タイ、ビルマ、ラオスの3国が国境を接するあたりに古代タイ史の中心都市であったチェンセーンの町がある。

 「現代においては、タイの中心部は、はるか南のメナム(チャオプラヤー)下流地域に移ってしまった。しかし、その夜明けの時代においては、タイの歴史は主として、これら北タイの山間の盆地群を舞台にして展開したのであった。伝説によれば、8世紀のころ、雲南の大理府によるナンチャオ(南詔)王国の王子は、10万の男女をひきいて北方から移住してきて、メー・サーイに達した。チェンセーン市の建設は773年であるといわれる。武装兵団による征服ではなく、人民大衆をひきいての王の移住というモチーフは、古代タイ史にしばしばあらわれるところのものである。タイ族は、ここに最初の植民拠点を建設したのであった。」(243ページ)

 タイ族が中国南方の雲南地方に起源を持つことは確かなようであるが、ナンチャオ王国の王子というのは伝説に過ぎないようである。というのは南詔国はタイ族というよりも、チベット・ビルマ語族の国であったという説の方が有力なようだからである。なお、江戸時代の学者伊藤東涯の『制度通』のなかに、年号について触れて、「南詔国・安南国、少々年号あれども、数百年相続して年を紀することなし」(平凡社東洋文庫版、17ページ)と記されている。安南は現在のベトナムである。南詔国はともかく、安南はかなり長いあいだ年号を使用していた。1802‐1945の間存続した阮朝は一世一元の制度を採用していたのは、中国の明・清、明治以降のわが国と同様である。

 タイ族は先住のラワー族やカー族と戦い、さらにその背後にあったクメールおよびモンの帝国の影響力を排除しながら、次第に南下して、勢力を拡大していった。「チェンセーン王国はその後次第に発展し、13世紀以後のタイの諸王朝は、チェンマイのランナータイ王国も、スコタイ王朝も、アユタヤ王朝も、みんなこのチェンセーン王統から出たものであるとされているのである。」(244ページ) 現在のチャクリー王朝はアユタヤ王朝の王統に連なっているというので、やはりチェンセーン王統の血をひいているのではないかと思うが、なぜかそのことは記されていない。

 7777.7キロ
 昔の民族の興亡とはおよそ縁遠いような平和な様子で、北タイの農村は広がっている。街道に沿っていくつかの町がある。
 ファーンの町に入ると、一行の先頭の車を走らせていた隊員の依田が車を停めて、メーターが7777.7キロになったと知らせてきた。そのせいでもないだろうが、車を停めた近くに郡役所があり、執務時間は終わっていたが、郡長が役所の裏の官舎から出てきて、快く面会に応じ、チェンダーオの郡長からの紹介状を受け取ってくれた。

 農事試験場
 この郡長の管轄下にあるファーン郡には、温泉と油田というタイには珍しい天然現象がみられる。温泉はファーンの町から20キロばかり北西に入ったところの農事試験場のなかにあり、場長が温泉の管理人を兼任しているという。郡長は場長あての紹介状を書いてくれた。油田の方は、軍事施設なので、郡長が見学の世話をできないという。

 大変な悪路を進んで、途中で日が暮れてしまい、暗くなってからやっと農事試験場に到着する。その日は試験場の事務室に泊まった。
 翌日、試験場を案内してもらう。「試験場の設備はなかなかりっぱなものだった。コーヒーの苗圃があったが、これは御自慢の物のようだった。しかし、全体としては蔬菜園芸を主とする試験場である。ずいぶん広い面積にわたって、いろいろのものを栽培していた。ゆうべ、ここに着くなり、ここでできたというカリフラワーをもらったが、とてもおいしかった。」(247ページ) 
 調べてみると、チェンセーンに本社のあるブラック・アイヴォリー社が独自のコーヒーを商品化しているという(どういうコーヒーかは御自分でお調べください)。コーヒーの生産ではタイはベトナムに先行されているが、今後コーヒーの消費はかなり増えると予想されるので、タイのコーヒー生産も伸びていくかもしれない。蔬菜をめぐっては、あまり進展はないようであるが(もう60年以上の年月が経っている!)、カリフラワーの味についてグルメの梅棹が褒めているのだから、可能性はあるはずである。

 それにしても、かなり立派な施設がある一方で、そこへの道が整備されていないというのはどうも不思議なことだと梅棹は思った。場長の話だと、雨季など道路事情が悪化するので、半年は施設内に籠城することになるというのである。

 森の温泉
 温泉は事務所のすぐ裏にあり、プールのような形に漆喰で固めてあった。2キロほど上流の宣言からお湯をひいてくるので、途中ですっかり冷めてしまい、日本の温泉の常識からすると、かなりぬるい。
 それでも久しぶりの湯につかって、いい気持になっていると、隊員のひとりの川村が、「この季節には温泉にはヘビが集まるもんだ」などというので、すっかり怖気づいてしまう。〔川村はサルの研究家だから、サルと一緒に温泉に入ったことはあったかもしれない。〕 泉源地まで行ってみたが、かなり湧出量は豊富で、日本だったらすぐに開発の手がのばされるだろうと思う。日本とタイの入浴習慣の違いもあって、タイの人は温度の高い温泉を好まないのだという。

 国境付近まで出かけようと思ったが、道が悪いので断念する。試験場の署名簿に協力への感謝の言葉を記して、チェンマイに戻る。チェンマイの宿所である生駒邸にはバンコクから、植物分類学者の津山尚が到着して、一行を待っていた。しばらく一行とともに行動を共にする予定である。

 以上で第9章「類人猿探検隊」が終わる。次回からは第10章「ランナータイ王国の首都」に入る。1950年代の終わりごろのチェンマイの様子が、梅棹の目に触れるままに記されている。上下2巻からなるこの『東南アジア紀行』は第1章~第10章が上巻、第11章~第23章が下巻を構成し、下巻のなかで第11章~第19章が1957~1958年の東南アジア旅行、第20章~第23章が1961~1962年のタイ旅行の記録である。まもなく上巻が終り、下巻に入ることになり、梅棹の足どりはまた別の方向に向かうが、それはまたその時のお楽しみということで…。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(13)

8月23日(金)曇り、時々雨

 ガルガンチュワはグラングゥジェ王とその妃ガルガメルの間に生まれ、誕生後まもなく「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣き喚いたためにこの名がついた。もともと巨大な体躯の持主であったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、ますます大きく育った。しかもなかなか聡明な子どもだったので、父親は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、成果が上がらなかったので、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートという教師の下で勉強するために、パリに送り出された。今度は、彼はしっかりと勉強し心身ともにたくましく、知恵も豊かな王子に成長した。
 グラングゥジェの隣国はピクロコルという王が治めていたが、その領民であるレルネの町の小麦煎餅売りたちが、グラングゥジェの領内を通る時に、葡萄畑の番をしていた羊飼いたちと騒動を起こし、けがをした。小麦煎餅売りたちは、自分たちの非は一切隠したままでピクロコル王に自分たちの被害を述べたので、ピクロコル王は激怒し、軍隊を招集、グラングゥジェの領内に侵攻し、略奪をほしいままにした。突然の侵略に驚いたグラングゥジェは、ガルガンチュワを呼び戻す一方で、使者を派遣して、ピクロコルに和平・停戦を求めたが、ピクロコルは耳を傾けなかった。さらにグラングゥジェは小麦煎餅売りたちに対する補償の金品を送ろうとしたが、ピクロコル王はそれらを取り上げて、使者を追い返したのであった。

第33章 何人かの顧問官たちの早計浅慮がピクロコル王を最悪の危難に陥れたこと(司令官たちの速断が、ピクロコルを最悪の危機に陥れる)
 渡辺が「顧問官」、宮下が「司令官」と訳している語の原文はgouverneursで、辞書によれば、「司令官」であるが、Thomas Urquhart and Pierre Le Motteu による英訳ではstatesmen(特に指導的な「政治家」)と訳されており、前後の関係から見ても、ただの司令官ではないように思われる。「最悪の危難」がどのようなものかは、物語の展開を追っていけばわかる。

 なんとか和平をもたらそうと、グラングゥジェが送ってきた小麦煎餅を奪い取ってしまうと、ピクロコル王の前にduc de Menuail (渡辺訳では弥久座公爵、宮下訳ではムニュアーユ公、上記英訳ではthe duke of Small-trash)、comte Spadassin (渡辺訳 刺客伯爵、宮下訳 スパダサン伯、英訳 the Earle of Swash-buckler)、capitaine Merdaille (渡辺訳 雲子弥郎隊長、宮下訳 メルダーユ隊長、英訳 Captain Durtailleの3人がやって来た。
 彼らはピクロコルを、マケドニヤ王アレクサンデル(アレクサンドロス、アレクサンダー)以来の大征服者とする計画を立てたという。もともと小麦煎餅を売るか売らないかといういざこざから始まった村と村との間の対立であるが、この3人はそれをきっかけに大征服戦争を企画する。ここから彼らは「壮大」な世界征服の計画を展開する。それは古代の風刺文学作品を参考にして書かれたものであるが、トマス・モアの『ユートピア』のなかにある作戦会議中のフランス国王にいくら賢明な策を進言してもむだだというヒュトロダエウスの言葉に対する回答となっているという説もある由である。さらに、当時のフランス王=フランソワⅠ世の宿敵である神聖ローマ・ドイツ皇帝カールⅤ世の世界制覇政策をかなり具体的に風刺する内容ともなっているという。ばかばかしくもおかしい大計画であるので、できるだけ丁寧に紹介していくことにする。

 先ず隊長の1人に少数部隊をつけて、現在ピクロコル王の軍隊が占領しているラ・ローシュ・クレルモーの城を守備させる。それから全軍を2隊に分け、そのうち1隊をグラングゥジェの軍勢と戦わせる。攻撃を始めるや否や、グラングゥジェ軍は壊滅状態となるであろう。そして、グラングゥジェが集めてきた金銀財宝が手に入るだろうという。「かくして殿は、山と積まれたる金銀財宝を入手されまするが、何しろかの土百姓めは、現なまでざくざく持って居りまする。敢えて土百姓めと申しますしだいは、高潔なる君主は鐚(びた)一文も持たぬのが定法だからでござる。勤倹貯蓄などは土百姓のやることでござります。」(渡辺訳、158ページ) これは注目すべき発言である。念のために、宮下訳で同じ個所を引用すると:「金銀財宝が山ほど見つかりますぞ。/下人めは、現ナマをざくざっくと持っておりまするぞ。下人と申しますのも、君主は貴人にして、びた一文もたぬのが世の定め、蓄財などは、下人のなすことではござりませんか。」(宮下訳、258ページ) 
 渡辺が「土百姓」、宮下が「下人」と訳しているのは、vilainという語で、ふつう「見苦しい」とか「みっともない」とかいう形容詞として使うのだが、歴史上の用語として「(中世の農村に居住する)自由平民」という意味もあるそうである。なお、上記英訳ではClown (道化役者、ばか、古い意味として田舎者)と訳されている。
 ここで暗示されているのは、グラングゥジェが蓄財にはげんでいるのに対し、ピクロコルはそうではない、フランスの歴史の中では、蓄財によって裕福になった地方領主や商人がそれによって貴族にのし上がっていく(「法服貴族」とか「商人貴族」)現象がみられたが、そういう道を歩む地方人と、そうでない人々との対立があったということではないかと思う。

 さて、ピクロコル王の出兵のそもそもの目的はグラングゥジェの領民が自分の領民に加えた暴行に報復することであったのだから、グラングゥジェを討伐すればそれで話は済むはずであるが、3人の取り巻きたちは、勝つか負けるかわからないグラングゥジェとの戦いに勝ったつもりになって、それ以外にも、別の一隊を派遣して世界征服の戦いを始めさせようというのである。
 そのもう一方の別動隊は、フランス西南部の町村を侵略してまわる。そして海岸に出て船を徴発し、その船に乗って「海岸地方をば悉く攻略してリスボンヌに着き、征服者にふさわしき装備を更に整えるしだいと相成ります。笑止なる哉、イスパニヤの国は軍門に下ること必定でござるが、この国の奴どもは、たかが薄のろの土百姓どもにすぎませぬぞ!」(渡辺訳、158ページ)
 渡辺はなぜか「リスボンヌ」と記しているが、宮下はもちろん、「リスボン」と書いており、ポルトガルの首都である。この時期、「無敵艦隊」を擁して、世界に覇を唱えていたスペインを「たかが薄のろの土百姓」というのは、元気が良すぎる。

 そしてジブラルタル海峡を渡り、ヘラクレスの柱をしのぐような記念碑を立てることになるという。ヘラクレスの柱というのは、ギリシア・ローマ神話によれば、ジブラルタル海峡にそびえるアビラ山(アフリカ)とカルペ山(スペイン)はもともと1つの山だったのを強力の英雄ヘラクレスが2つに分けたといい、この2つの山を指す。さらにこの海峡を「ピクロコル海」と名付けることになるだろうという。ここまでくれば、当時アルジェを本拠として活躍していたオスマン・トルコの提督赤髯(Barberousse バルブルウース)太守も降参するだろうという。赤髯太守は、神聖ローマ帝国皇帝でスペイン・フランドル・オーストリア(とさらに多くの国・地方)の君主であったカールⅤ世と戦っていたが、1535年7月にカールⅤ世軍に敗れた。このあたり、この歴史的な事実を踏まえているという説もあるそうである。

 「とらぬ狸の皮算用」というのは、フランス語では何というのであろうか。(フランスにはタヌキはいない。) とにかく、戦争を始める前から、買った時の算段ばかりして妄想を膨らませていく。次回以降、さらに妄想が膨らんでいくので、行き先はどんなことになるのか、ご注目ください。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(13)

8月22日(木)曇りのち晴れたり曇ったり

 世界一周の航海をしてヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の航海士が、マルタ騎士団の団員の質問に答えて、航海中に訪問した「太陽の都」の様子を語る。
 それはある島の中心部に広がる草原のまんなかにある丘を同心円状の城壁で7重に囲んだ都市で、人々は私有財産というものを持たず、市民が一つの家族として暮らしている。
 最高指導者は「太陽」と呼ばれる形而上学者で、軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」という3人の高官によって補佐されている。かれら4人を含まて、この都市の役人たちは、教育を通じてその仕事に一番適していると思われる人々が選ばれている。
 生殖はすぐれた子どもを生み出すのにふさわしいと考えられる男女同士の計画的な結合によってなされ、子どもは離乳すると教師に預けられて教育を受ける。城壁の周囲に描かれたさまざまな事物の画や、展示された標本は子どもの教育を助ける。
 かれらは全員がそれぞれの能力・適性に応じて働き、必要なものを受け取る。住居は割り当て制であり、衣料は定期的に配給され、食事は共同で行われている。
 「太陽の都」を取り巻く4つの国は、この都市の裕福さをねたんでしばしば戦争を仕掛けてくる。そのため「太陽の都」は十分な武器を装備し、また市民たちは子どものころから男女の別なく軍事教練を受けている。戦争に勝利した後は、敗者である敵に公正な態度をとり、善政を施すのをむねとしている。

 マルタ騎士団の団員は、「太陽の都」の制度が「祖国を破滅に導くような政党派閥の発生を防ぎ、ローマやアテネにおけるごとき暴君出現のもととなる内乱を遠ざけるすべは見あげたものだ」(坂本訳、44ページ)と賞賛する〔戦争について質問していたのに、ジェノヴァ人の回答に対して、このように対応するというのも奇妙で、議論がかみ合っていない。坂本さんが「暴君」と訳している後は、英訳ではtyrantとなっており、「僭主」とするほうが適切かもしれない。この時代、イタリア、特に北イタリアでは都市国家が分立し、武力や民衆の「支持」を背景に独裁政治を行うものが少なくなく、古代の地中海世界を思わせる状態であったことも視野に入れておく必要があるだろう。〕

 そして次に、かれらの仕事(「太陽の都」における様々な産業)について質問する。
 ジェノヴァ人は、すべての市民が軍務、農耕、牧畜に従事する共同の義務を持っているか、それだけでなくそれらの仕事がもっとも貴いものとされ、仕事がよくできる人こそもっとも高貴な人であると考えられていること、各人が各人に最も適した仕事に配置されるようになっていることは、すでに述べたとおりであるという。骨が折れ、しかも有益な仕事、例えば鍛冶屋や石工などはもっとも人々の賞賛を受ける仕事であるという。
 仕事は適性に応じて決められるが、その際、健康に対しても十分な配慮が払われ、健康を害するような仕事には誰もつくことはない。骨の折れない仕事は女子に割り当てられる。

 すべての人々が思索的な仕事をするが、そのなかでもっともすぐれたものは講師になるという。講師は手仕事にたずさわる者より尊敬され神官になる。〔この個所は、坂本訳にはあるが、プロジェクト・グーテンベルクにおさめられた英訳にはない。頭脳労働が肉体労働頼も敬意を払われているという点に注目する必要がある。〕
 すべての人々が泳げるようになることを求められており、都市の壕の外にはいくつものプールが、都市の内部には泉水が作られているという。〔この部分は、英訳でも省略されていない。なお、モアの『ユートピア』でも軍事上の理由から国民の総てが泳げることが求められていた。〕

 次に、ジェノヴァ人はなぜか商業について語りはじめる:
「商業は都の人たちには余り役立ちませんが、貨幣の価値は認識されており、外交使節が、自分で運べない食料品をお金で買えるように貨幣が鋳造されています。また、世界各地から商人を招き、余分の品物を処分しますが、貨幣は受け取らずに自分たちがもっていない品物と取引します。」(坂本訳、45ページ)
 「太陽の都」は一種の計画経済をとっているから、市場は限られた範囲でしか開かれない。しかも自分たちで貨幣を鋳造しておきながら、海外からやって来た商人たちとは物々交換で取引するという。私は経済学には素人だが、その素人目に見ても、この辺りのやり方はおかしい。一方で、金や宝石を徹底的に軽蔑した取り扱いをしながら、その一方で外国との取引の際には活用するというモアの『ユートピア』のやり方の方が現実的である。

 いずれにしても、外交官や外国の商人たちとの交流はきわめて限定的である。それだけでなく、奴隷や外国人のために都市が悪い習慣に染まるのを恐れて、戦争で捕虜になったものは売り渡したり、市民と接触する機会の少ない作業に従事させることになる。「都の外では常に四隊の兵士が四つの城門から出て領土とそこで働く人々を見張っています。」(坂本訳、45ページ、市民が常に監視のもとに置かれているということである。) 
 その一方で、「外国人は大歓迎され、三日間、食事を供されたり、足を洗ってもらったり、都とその組織について説明を受けたり、大会議場や食堂に通されたりします。外国人を保護する役目の人々もおり、もし外国人が都の市民になることを希望すると、1か月は田舎で、もう1か月は都のなかで試験され、この結果市民に迎えられることが決まると、儀式と宣誓により市民として受け入れられます。」(坂本訳、45‐46ページ、上記英訳には「足を洗ってもらった後で、都とその組織について…」という風に記されている。この方がわかりやすい。)
 「太陽の都」は、この後で取り上げるつもりであるベーコンの「ニュー・アトランティス」と同様に、半鎖国状態を保っているように思われる。当時の国際社会において、このような半鎖国政策はそれほど珍しいものではなかったことも留意する必要があるだろう。
 次に、農業について語られることになるが、それはまた次回に。

 このブログを開始して以来、これが2500件目の記事ということになるようです。約7年にわたるご愛読ありがとうございます。これからも一日、一日、頑張っていきたいと思っておりますので、よろしくご支援ください。
 

蘇舜欽「暑中閑詠」戯訳

8月21日(水)曇り

暑中閑詠(蘇舜欽)

嘉果浮沈酒半醺
牀頭書冊乱紛紛
北軒涼吹開疎竹
臥看青天行白雲

水に浸した果物は なかなか冷えず浮き沈み
酒を飲むにもまだ日は高い
昼寝に敷いた床まわり 本を読みかけ読み散らし
結局辺りは 本だらけ
幸い北から涼しい風が 吹き抜けてくる 吹き抜ける
何本もない竹の間を
ああ、寝っ転がって空を見よう 青い空
白い雲見て 時過ごす

 蘇舜欽(1008‐1048)は北宋の詩人。官に就いたが公金を使用して宴会を開いたと訴えるものがいて、蘇州に退き、4万銭で古い別荘を購入して、亭を建て、滄浪亭と名づけた。「滄浪」という語は、戦国時代の楚の詩人屈原の「漁夫の辞」に基づく。この建物と庭園は現存していて、江蘇州蘇州市の名所になっている。

 夏の暑い日をどのように過ごすか、この詩の描いている作者の姿は何となく私に似ているようにも思えるが、インターネットでその画像を見ることができる滄浪亭と、わが陋屋とでは隔たりがありすぎる!
 私の尊敬する詩人のひとりである加島祥造が中国の隠者というのは、日本の隠者に比べてずっと肉食系でたくましいというようなことを書いていたが、確かにそうかもしれない。美しい顔で楊貴妃豚を食い――という川柳もある。もっとも、現今では(私を含め)日本人も豚を平気で食べるようになってはいるのだが…。

 今日は少し、しのぎやすいようですが、まだまだ残暑厳しい折、御自愛ください。

『太平記』(276)

8月20日(火)晴れ、暑し。その後、雲が多くなって、一時雨。

 貞和4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子興仁(おきひと)王が践祚された(崇光帝)。このとき、院の御所に幼児の首をくわえた犬が現れるという怪異があった。その頃、仁和寺の本堂で雨宿りをしていた僧が、天狗道に落ちた尊雲法親王(護良親王)以下の宮方の怨霊たちが、集まっているのを目撃した。

 天狗道に落ちた怨霊たちが集まってしばらくすると、房官(ぼうかん≂門跡寺院に仕える妻帯僧)と思しき一人が現れ、銀の銚子に金の盃を添えて、護良親王に飲み物を勧めた。親王は、盃を取り上げられて、左右のものを見わたし、3度に分けて盃のなかのものを飲まれて盃をおかれ、続いて峯僧正(春雅)以下の人々が、順々に飲んでいったが、酔いが回って浮かれ出すというような様子にも見えない(この人々は僧侶であるから、本来酒は飲まないはずである)。
 それからまたしばらくして、怨霊たちはいっせいにわめくような声をあげて、手足をばたばたさせ、首から黒い煙を立ち昇らせて苦しみ転げまわること約1時間余り、みな、火のまわりに集まった夏の虫がその日に焼かれて死んでしまったように、倒れ伏して動かなくなった。

 この様子を目撃していた僧は、あぁ恐ろしいことだ、天狗道に落ちると、焼けた鉄の塊を火に3度呑むことになるといわれているのはこのことであったのかと思っていると、約4時間ほどして、焼けた鉄を飲んで倒れていた怨霊たちがまた、息を吹き返しはじめた。そのなかで峯僧正春雅が、苦しそうな息遣いをしながら、「さても、この世の中を、どのようにしてまた大騒ぎさせたらよいものか」と他の者たちに問いかけた。
 すると、忠円僧正が末座から進み出て、「それは簡単なことです。あの直義は、他犯戒(たぼんかい=姦通などの邪淫の戒め)をしっかり守っていて、僧侶ではない俗人としては自分ほどこのような禁戒を犯さない者はないと深く慢心しております。われわれとしてはこの慢心に付け入って、大塔宮におかれては、直義の北の方の胎内に男子となってお生まれになってくださいませ。そうするならば、直義は、天下を自分のものとして、自分の子どもに譲り渡したいという欲心を起こすに違いありません。(こうして、いままでは結束が固かった、尊氏と直義の兄弟の仲を引き裂くことができるでしょう。)

 また、夢窓疎石の弟弟子で、妙吉侍者というものがおります。学道のほども修行のほども不足しているにもかかわらず、ご本人は自分ほどの学識のある者はいないと慢心しています。この慢心ぶりは、我々に付け入る隙を与えるものなので、峯の僧正様はその心の中に入りこんで、直義による政治を補佐し、邪法を大いに説き広めるようにしてください。
 智教上人様は、直義の側近である上杉重能、畠山直宗の心に取りついて、高師直、師泰兄弟を取り除こうとさせてください。
 この忠円は、高師直の心の中に入りこんで、上杉、畠山を滅ぼそうと策動します。
 こうすれば、尊氏と直義の兄弟の仲が悪くなり、師直が主従の礼に背くようになって、天下にまた大きな争乱が起きることになり、しばらくのうちは、我々は退屈することはないでしょう」と提案した。
 すると、大塔宮を始め、高慢な心、よこしまでおごった心の持主である天狗たちは、大天狗だけでなく小天狗まで大いに賛同し、「見事な企てですなぁ」とその計略の巧妙さに感心して喜んだ様子を見せるうちに、その姿は消えていった。

 天狗たちの謀議から、尊氏・直義兄弟の反目=観応の擾乱が始まるというのはもちろん『太平記』の作者の創作ではあるが、一定の歴史的な真実を反映していると考えるべきであろう。
 それはさておき、すでに見てきたように、中先代の乱のどさくさに紛れて護良親王を殺害させたのは直義であって(第12巻、これは直義を必要以上に悪役として描く、『太平記』の作者の創作であるという説もある)、その殺された護良が、今度は直義の子どもとして生まれ変わるというのは、なかなかの怪談噺である。優柔不断な兄尊氏を叱咤激励して、天下統一へと進ませる直義は、また禁欲的な性格の人物として描かれている。今回紹介した箇所で忠円が云うように、正妻以外に妻を持たないその当時としては珍しい人物であった。この時点まで直義には子どもがおらず、兄・尊氏が身分の低い女性に産ませた子どもである直冬を養子にしていた(そのことは、『太平記』ではまだ触れられていない)。直冬は、尊氏の嫡子である義詮よりも少し年長であったと考えられる。
 一方、尊氏には直冬は別として、正妻である赤橋登子との間に義詮(1330年生まれ)、基氏(1340年生まれ)という2人の子どもがいた(他にも男子がいたらしいが、出家している)。すでに義詮が、尊氏の後継として着々と成長して来ていたことも視野に入れておく必要があるだろう。
 さて、物語はどのように展開していくか、それはまた次回に。

 昨日も書いたように、今夜はみなさまのブログへの訪問ができませんが、これはシネマヴェーラ渋谷に映画を見に行くために時間がとれないということなので、特にご心配は無用です。明日からは、きちんと訪問するつもりです。

日記抄(8月13日~19日)

8月19日(月)晴(とはいうものの、雲がかなり多い)、依然として暑い。

 8月13日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:
 8月12日から18日までは、ラジオの語学番組は再放送で、NHK高校講座はなかったので、その分、時間の自由ができたはずだが、あまり生かすことはできなかった。

8月13日
 シネマヴェーラ渋谷で「名脚本家から名監督へ ビリー・ワイルダー ジョセフ・レオ・マンキーウィッツ プレストン・スタージェス」の特集上映のうち、『イヴの総て』(All about Eve, 1950, FOX、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督)と『熱砂の秘密』(Five Graves to Cairo, 1943,パラマウント、ビリー・ワイルダー監督)を見る。
 『イヴの総て』は、イヴ・ハリンドン(アン・バクスター)という若い女性が、ブロードウェーの人気女優マーゴ・チャニング(ベティ・デイヴィスの付き人になり、マーゴと起居を共にする中でその演技術を学び、また演劇界にコネをつくって、次第にマーゴを踏み台にして新進女優としてのし上がっていく姿を描く。この作品でアカデミー助演男優賞をとったジョージ・サンダースを始め、ゲイリー・メリル、セレステ・ホルム、セルマ・リッターという脇役陣の演技も見ものである。さらに売り出し中の新進女優という役どころで、当時の新進女優だったマリリン・モンローが姿を見せているが、今度は、イヴの大ファンだといって、その付き人になろうとする若い女(バーバラ・ベーツ1925‐69)が登場する幕切れも印象に残る。その若い女が、自分はイーラスマス・ホール・ハイ・スクールの卒業生で、この学校はバーバラ・スタンウィックやスーザン・ヘイワードが卒業した学校ですという。この高校はブルックリンに実在した学校で、この2人のほかにも、クララ・ボウ、メイ・ウェスト、(時代は下がるが)バーブラ・ストライサンドが学んでおり、映画関係以外では作家のミッキー・スピレーンとバーナード・マラマッド、変ったところでチェスの名人だったボビー・フィッシャーも卒業生らしい。なお、バーバラ・ベーツはこの学校の卒業生ではないが、マーゴ役はもともとクローデット・コルベールが演じる予定だったのが、けがのために出演できなくなり、代役としてバーバラ・スタンウィック、マレーネ・ディートリッヒ、スーザン・ヘイワードらの名が挙がっていたというから、わざとこの学校の名を出したのであろう。バーバラ・ページという女優さんはこの『イヴの総て』のラスト・シーンの演技が印象的で、将来を嘱望されたのだが、その後は伸び悩み、結局この『イヴの総て』が代表作ということになってしまった。人生、いろいろである。

 『熱砂の秘密』は、第二次世界大戦中に作られた一種の戦意高揚映画で、北アフリカ戦線でドイツ軍に敗れて逃げ回っている戦車隊の下士官(フランチョット・トーン)が、あるホテルに迷いこみ、追走してきたドイツ軍を欺くために死んだウェイターに成りすますが、この死んだウェイターが実はドイツ軍のスパイで…というスパイ・サスペンスで、戦後に作られた同種の作品に比べると速成感が否定できないが、なんといっても、エリッヒ・フォン・シュトロハイムがロンメル将軍を演じているというところが見もので(考えてみると、この映画の製作当時、ロンメルはまだ生きていた)、ホテルの主人をエーキム・タミロフ、メードをアン・バクスター、ドイツ軍の将校をペーター・ヴァン・アイクが演じているという配役も、考えてみればなかなかのものである。それにもう1人、イタリア軍の将軍の役を演じているフォーチュニオ・ボナノヴァは『市民ケーン』でケーンの2度目の奥さんに歌を教える先生を演じていた俳優である。

8月14日
 サマー・ジャンボの抽選日。もし10万円(以上)の賞金が当たったら、月末に京都で開かれる大学(院)時代に縁のあった先生のお別れ会に出席しようと思ったのだが、6等しか当たらなかったので、出かけられそうもない。

 サッカーの天皇杯の3回戦、ニッパツ三ツ沢球技場で開かれる横浜FC対横浜F・マリノスの試合は、入場券が買えなかったので、そのことも含めて、絶対に勝ってほしかったのだが、1‐2で敗れた。
 この3回戦の結果を占う、1112回のミニtoto-Aが当たったが、賞金額が少ないので、当たらないのと同じようなものである。

8月15日
 小泉武夫『幻の料亭 百川物語』(新潮文庫)を読み終える。この著者の書いたものは、自分の体験に基づくものの方が、このように調べて書いたものに比べて面白い。

8月16日
 『朝日』の朝刊にアフリカの食糧不足を解決するために、コメの栽培を進めようという記事が出ていた。アジア米とアフリカ米のいいとこどりをしたネリカ(New Rice for Africa)という新種の陸稲の開発によって、米食を普及させようというのである。この記事を読んでいて、昔、ロンドンのカムデン・タウンの屋台で食べた西アフリカ料理、肉や豆を焚きこんだ米料理を思い出した。

8月17日
 『朝日』の朝刊の「天声人語」欄に、新たな『学習指導要領』で高校の国語の内容が、実用文本位に大きく変化することになること(これまで主流だった文学教育の傍流化)を危惧する意見が記されていた。確かに、さまざまな文書をめぐる実際的な能力に関わる教育も必要ではあるが、それを国語の枠内で、文学教育を犠牲にして実施すべきかという問題と考えるべきであろう。つまり、社会科の公民分野の問題として公私の文書の書き方、読み方、あるいは保存・整理の問題などを教えるというのも一つの考えである。勘ぐってみれば、社会科のなかでこのような問題を批判的に取り上げるよりも、国語科のなかで規範的に取り上げるほうがいいという判断があるのかもしれない…などとも思う。
 「天声人語」が<文学派>の主張だけを取り上げて、<実用派>の意見を取り上げないのも不公平であるかもしれない。新井紀子さんなどは、高校の国語教育が鷗外の『舞姫』、漱石の『こころ』、敦の『山月記』という「エリート男性の挫折」を描いた作品を好んで取り上げることを問題にしているが、そのような紋切り型の読解力もまた問題ではないかと思う。
 〔『NHK高校講座 現代文』で、まさにこの『山月記』を取り上げていて、この作品を丁寧に読むとこんな面白さがあるのかと思って聴いているところである。根岸線の石川町駅の近くに、横浜学園の付属幼稚園があって、ここは昔の(中島敦・岩田一男・渡辺はま子が教え、原節子が学んだ)横浜女学校の跡地であり、そのことを記念する掲示もあるので、興味のある方はお探しください。
 中島敦という人は、自分自身の経験を作品化することが苦手で、本で読んだことを作品化する方向に活路を見出した作家であるが、そういうところは、芥川龍之介によく似ていて、彼が芥川賞の候補になりながら、受賞できなかったのは、日米開戦直後という世相や空気もあっただろうが、審査員の文学観の問題として追及を受けていい問題である。〕 
 中島敦の女学校時代の経験に取材したらしい小説を読むと、そこで想像されるよりも、現在残っている跡地の狭さが気になるのだが、あるいは移転する際に敷地の相当部分を売却したということかもしれない。

 横浜FCはアウェーでFC琉球に3‐1で勝利した。3得点を斎藤功佑、中山、松尾という若い選手の活躍で得たというところに期待が寄せられる勝利であった。

8月18日
 『日経』の日曜・朝刊の美術特集記事「ルネサンスの朝(4) 目覚めゆく独学と経験の天才」というレオナルド・ダ・ヴィンチの記事が興味深かった。というよりも、そこで紹介されている初期の未完の作品「東方三博士の礼拝」と彼の師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの作品を手伝った「キリストの洗礼」の図版がよかった。レオナルドにはヴェロッキオという師匠がいるのだから、彼を「独学」の天才と考えるのは認識不足と言わざるを得ない。たしかに、彼はいわゆる学歴はほとんどないが、この時代、大抵の人間がいわゆる学歴は持たず、むしろ、徒弟制度のなかで教育を受けていたのである。

 アメリカの俳優であるピーター・フォンダさんが16日に、肺がんによる呼吸不全のためロサンジェルスの自宅で死去されていたと報じられた。79歳。出演作では『ワイルド・ンジェル』(1966)、『世にも怪奇な物語』(1968)、『イージー・ライダー』(1969)、『さすらいのカウボーイ』(1971)、『ふたり』(1973)、『怒りの山河』(1976)、『アウトローブルース』(1977)を見ている。ということは、若い時代の作品しか見ていないということであるが、父親のヘンリー・フォンダ、姉のジェーン・フォンダとは別の意味で印象に残る役者さんであった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

8月19日
 『日経』朝刊に総合研究大学院大学学長の長谷川真理子さんが、「高進学率時代の大学教育」についての一文を寄稿していて、教える側と学ぶ側とが「双方向型」で交流し合う学習形態への転換が必要だとするもので、大いに示唆に富む内容である。
 わたしが受験生の頃は、まだまだ大学受験が困難な時代であったから、同期の連中と酒を飲んだりすると、その後の日本の大学の大衆化とその結果の変化などということは考えずに、日本でもアメリカの大学のように入るのはやさしく、出るのが難しいシステムにすべきだなどと絡まれることがある。しかし、(アメリカの大学が入るのはやさしく、出るのが難しいというのは一種の神話だというのは以前にも書いたことであるが)日本の大学は「入るのが難しく、出るのがやさしい」システムをとっくの昔に脱皮して、「入るのも、出るのもやさしい」システムになっている。まあ、それはそれでいいのである。だからこそ、大学教育の中身を充実しなければならない、という長谷川さんの議論には大いに賛成である(入試改革ではなく、大学教育の中身の改革こそが必要であるというのは、このブログで繰り返してきた主張である)。「双方向型」への転換というのも大いに賛成なのだが、それを実現する大学の財政的な基盤というのが心もとないのが気になるところではある。

 本日も、体調が十分ではないので、皆様のブログへの訪問を休ませていただきます。たぶん、明日もお休みということになります。失礼の段お許しのほどを。残暑厳しい折、御自愛ください。  

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(6)

8月18日(日)薄曇り、暑し。

 19世紀の初めのイングランド、ロンドンから少し北のハートフォードシャーのロングボーンという村の地主ベネット氏には5人の娘がいた。この家は先祖代々、男系相続であったので、ベネット氏の死後はその財産は、遠縁の男性(コリンズ氏と言って、間もなく登場する)に継承されることになっていた。そのこともあって、ベネット夫人にとっては、娘たちのだれか1人が裕福な男性と結婚することが最大の望みであった。
 ロングボーンから遠くないところにあるネザーフィールド・パークという邸宅を、北イングランド出身のビングリーという裕福な独身男性が借りることになったというので、夫人を始めベネット一家は色めき立つ。ビングリーは社交的な性格の好青年で、この地方の中心であるメリトンの町で開かれた舞踏会では人気を集めたが、彼が2度踊ることを申し込んだのはベネット家の長女であるジェインだけであった。一方、この舞踏会に参加したビングリーの親友だというダーシーという青年は、ビングリーよりもさらに豊かな財産の持主であったが、その高慢な態度が災いして人々から敬遠された。ベネット家の次女であるエリザベスは、ビングリーから彼女と踊るようにと勧められたダーシーが、踊るほどの魅力的な相手ではないねと断ったのを聞いてしまい、この人物に悪い印象を抱くことになったのである。しかし、そのように彼女を悪く言ったダーシーの方は、次第に彼女の魅力に気づきはじめ、好奇心を抱くようになっていた。
 ビングリーの姉であるハースト夫人と、妹のミス・ビングリーはジェインと親しく付き合うようになり、ある日、その正体でネザーランドに出かけたジェインは、途中で雨にあって風邪をひいて寝込んでしまう。姉の身を案じたエリザベスは雨上がりのぬかるみ道を急いでネザーフィールドに出かけ、泥だらけになって到着する。ビングリーとダーシーは、エリザベスの姉思いの姿に感心するが、ダーシーとの結婚を願い、また彼がエリザベスに好奇心を抱きはじめていることも知っているミス・ビングリーは機会をとらえては彼女のことを悪くいう。(以上第1巻第8章まで)

 エリザベスの見たところでは、ジェインの体調はだいぶ回復してきた。しかし、母親に見てもらって病状を判断してもらう方がいいと思ったので、ロングボーンに手紙を届けてもらい、その結果、ビングリー家の朝食が済むとすぐに、ベネット夫人が下の娘2人(キャサリン=キティーとリディア)を連れてやって来た。
 ジェインの病状が改善されていることがわかってベネット夫人は安心したが、その一方で、ジェインとビングリーとの結婚を策している彼女にとって、すぐに帰宅させることは好ましいこととは思われなかった。それでジェインはロングボーンに帰りたがったのだが、まだしばらく滞在したほうがいいと言い、ちょうど同じころにやって来たジョウンズ医師も同意見だったので、ビングリーにもう少し滞在させてくれるように頼んだ。
 
 ルーカス夫人はビングリーがネザーフィールドに長くとどまるつもりかそれとなく聞こうとしたが、その話がそれて、エリザベスが人間の性格の研究に興味を持っているというはなしにになり、性格研究には地方よりも都会の方が都合がよい、というのはそれだけ多くの人々に出会えるからだという風に展開する。ベネット夫人はダーシーが地方よりも都会の方が優れていると思っていると考えて、熱弁をふるいかけるが、エリザベスが話題をほかに向けようとして、ベネット家の隣人であるルーカス家の人々の消息をたずねる。ベネット夫人はサー・ウィリアム・ルーカスのことをほめたり、その娘のシャーロットのことを話したりするが、どうしても、ルーカス家の娘たちよりも、自分たちの家の娘たちの方が美人であるということに話題をもっていきがちである。
 ベネット夫人が用件を済ませて帰ろうとすると、末娘のリディアがビングリーにネザーフィールドで舞踏会を開いてほしいと頼む。母親のお気に入りである上に、伯母のフィリップス夫人のもとで士官たちにちやほやされてきたために、怖いものなしになっているのである。
 「ベネット夫人と二人の娘はやがて帰っていった。エリザベスは、自分と身内の振舞に関しては、ビングリー姉妹とミスター・ダーシーの批判と悪口に委ねることにして、すぐさまジェインの許へ戻った。しかしミスター・ダーシーは、ミス・ビングリーが美しい瞳を種にいくら揶揄っても、エリザベスの非難にだけはどうしても加わろうとしなかった。」(大島訳、88ページ)

 翌日、ジェインはさらにわずかではあるが快方に向かったので、エリザベスは夕食後、みなと一緒に過ごすことにした。ダーシーは妹あてに手紙を書いており、ミス・ビングリーはその様子を見守り、ハースト氏とビングリーはピケットというトランプのゲームをしており、ハースト夫人はその様子を見守っていた。〔ピケットpiquetというのは32枚の札を使うゲームだそうだが、詳細は不明。まあ、知らなくても済むことである。〕 

 エリザベスは針仕事をしながら、ダーシーとミス・ビングリーの間の会話にならない会話を聞いて内心で楽しんでいた(この時点で、ダーシーがエリザベスに興味があることに、エリザベスの方では気づいていない。一方、ミス・ビングリーはダーシーの関心の行方を知っているのである)。ミス・ビングリーは筆跡がきれいだとか、行がそろっているとか、いろいろと褒めるのだが、ダーシーの方はそんなことにはまったく気をとられない。ミス・ビングリーは、自分のことも手紙に書き添えてほしいと頼んだり、鵝ペンを削ってあげようと言ったりする。
 How can you contrive to write so even?
 「どうしたら、そんなにきれいに行を揃えて書けるのかしら?」(中野康司訳、83ページ)
 「どうしてそんな風に行を綺麗に揃えて書けるのかしら?」(大島訳、90ページ)
 長い手紙をすらすら書くのはどうしてかといわれたダーシーは、自分はむしろ書くのが遅い方だといい、近くでやはり聞いていたビングリーもダーシーは手紙を書くのが自分よりも遅いという。ミス・ビングリーは、ビングリーは早いかもしれないが、書き方がぞんざいだといい、ビングリーはそれは自分の考えの展開が速いので、手の方が追いつかないためであると弁解する。自分で書いたことが、自分でもあとで読み返すとわからなくなることさえあるという。〔考えたことをそのまま文字に写していくと、書いている手が考えに追いつかず、字が汚くなって、あとで見てもわからなくなるというのは、身に覚えのある人が少なくないと思う。少なくとも私はよく経験することである。そこで、どのようにして思い付きをきちんとした記録にとどめるか…というところが問題なのである。〕

 自分の手紙がどのような思考の表現であるかが、自分でもわからなくなるというビングリーの発言を謙遜(humility)と受け取ったエリザベスが次のようにいう。
 ”Your humility, Mr. Bingley," said Elizabeth, "must disarm reproof."
 「ビングリーさん」とエリザベスが言った。「そんなに謙遜されたら、悪口をいえなくなりますわ」(中野康司訳、85ページ)
 「ビングリーさん」とエリザベスが云った、「ご自分からそんなふうに謙遜なさったのでは、誰も非難のしようがありませんわ。」(大島訳、91ページ)

 これに対してダーシーが意見をさしはさむ。
 「見せかけの謙遜ほど欺瞞的なものはない」とダーシーが云った。「それはしばしば自説があやふやだからそういう態度をとるだけのことで、ときとして裏返しの自慢のこともある。」(大島訳、92ページ) 〔ビングリーの発言の解釈として、より適切なのは、ダーシーの発言の方であろう。エリザベスの発言の方が主観が入りすぎている。〕

 これに対して、ビングリーは自分の発言はどちらなのかと質問する。すると、ダーシーは裏返しの自慢のほうだといい、自分の字が乱暴だということと抱き合わせで、暗に自分の思考の回転が速いと主張しているのだと指摘する。さらに、朝、彼がベネット夫人に向かって言った自分は決断したら行動に移すというのも一種の自慢であるという。〔この辺に、ダーシーの頭のよさが表現されていると言えそうである。〕
 ビングリーは気を悪くして、自分は嘘偽りのないところを述べたのだというと、ダーシーは、そんなことはない、君は結構人の影響を受けて自分の決心を変えることは多い人物だという(物語の展開の中で、このダーシーの指摘は大きな意味を持つ。実際問題として、ビングリーはダーシーの影響を受けやすい人物として描かれている。)
 一座の人物たちの中で、ビングリーにだけ好意を抱いているエリザベスは、このようなダーシーの指摘にもかかわらず、ビングリーの性格と行為について善意に解釈する。

 「ダーシーさんの今の言葉で判ったことは・・・ビングリーさんは御自分の性質の真価を正しく示さなかったということですわ。ダーシーさんは、ビングリーさん御本人がなさったよりもはっきりとビングリーさんのよさを見せてくださったわけです。」(93ページ) ビングリーは、エリザベスのこの言葉に感謝しながら、彼女がダーシーの発言の真意をとらえていないのではないかと問い返す。
 ダーシーは、ビングリーが友人の説得に応じてすぐに自説を曲げるのはいいというわけではない、少なくとも方針を変更するにあたってはそれなりの理由が必要であるという。議論が白熱して来て、ビングリーもダーシーも少し感情的になってきたかもしれないと思い、エリザベスは自制する。
 ビングリーとダーシーとの会話は、親友同士の遠慮のないものであるが、その中に割り込んで自分の意見を論理的に展開するエリザベスの知性は相当なものである。どのようにして、ダーシーに気に入られようかと考えながら、結局、うるさがられているミス・ビングリーとは頭のよさにおいて格段のちがいがあるように思う。

 まだ第10章の途中であるが、今回はここで打ち切ることにする。暑さのため(だけでもないが)、生活が不規則になって来ていて、書いているうちに眠ってしまうというようなことがあるので、あまり無理はしないことにした。そういうわけで、皆様のブログの訪問も不本意ながら休ませていただくことにした。あしからず、ご了承ください。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(22)

8月17日(土)晴れ、暑し。

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス4カ国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌の調査を行った。この書物は、その際の私的な記録である。
 すでに第8章までを紹介し、第9章「類人猿探検隊」に入っている。第8章に記されたように、一行はタイの最高峰であるドーイ・インタノンに登頂し、その後再び北タイの中心都市であるチェンマイに戻った。第9章「類人猿探検隊」では、この都市の西側にあるドーイ・ステープという山の裏山に住むメオ族と接触した時のことから書きはじめられている。接触のため、チェンマイのカトリック教会の協力を求め、そのディマス神父が一行に同行することになった。中国から山伝いに移住してきたメオ族はアヘンの密栽培者であり、その結果、豊かな生活をしているが、その生活には荒廃した様子も見られると梅棹は観察した。

 空中社会
 メオ族の集落で、一行が宿泊した家は若い夫婦と子どもだけという家族構成で、一部にアンペラが敷いてあるほかは、土間でいろりが設けられていた。
 はじめのうちは警戒する様子を見せていたメオの人々もうちとけて来て、その夜は一行の宿泊先に押しかけ、探検隊の持ち込んだテープレコーダーをめぐって、われもわれもと録音→再生をせがむという歌合戦の様相を呈することとなった。彼らの歌はおそろしく単調であるが、彼らの鳴らしている楽器、特に「長い吹口のついたショウ(笙)のような楽器」があって、「これはなかなかさわやかないい音を出した」(234ページ)。
 
 以下の観察は興味深いので、少し長くなるがそのまま引用する。
「メオたちは、よく歌い、よく笑った。かれらは活力にみちている。かれらと話し、かれらと交歓してみると、かれらの生活は、すこしも荒廃しているようには思えない。現金収入のだぶつきによる退廃と見たのは、まちがいであろうか。
 わたしは、まちがっていたかもしれないと思う。素朴な、自給自足的に完結していた村が、急にたくさんの現金収入を得たときには、しばしば悲劇的な社会の解体と生活の退廃がおこる。しかし、メオたちは、そういう素朴な完結的社会ではないのである。こんな山の中にいるけれど、鉄砲づくりやアヘン生産を通じて、かれらはほかの社会と深くむすびついているのである。もちろん、かれらだって、はじめからそんな生活ではなかっただろう。しかしそれによって、二次的にもせよ、かれらは近代社会に対するきわめて特殊な適応をなしとげたのではあるまいか。それが、この100年ばかりのあいだの、かれらの急速な南進をうながした、エネルギー源の秘密かもしれない。そう考えると、メオ部落のもつ不思議な無残さも、消えてゆく民族の荒廃ではなくて、現に活力にみちて動いている民族の、開拓前線の不安定さなのかもしれない。
 かれらは、1000メートル以上の高いところにしか住まない。山頂や、稜線や、急斜面に、かれらは村をつくる。となり村といっても、谷をへだててはるかに遠い。山の上だけがかれらの領分である。1000メートルの等高線で切って、それ以下の部分を地図から消し去ってしまうと、あとにあらわれてくるのがメオの国である。メオは、貴州、雲南、広西、トンキン、ラオス、タイにまたがる広大な地域において、こういう奇怪な分散隊形の空中社会を展開させたのである。」(235ページ)

 メオ(ミャオ)族についての梅棹の記述は、以上で終わっているのだが、どうも気になるところがあるので、東南アジアにおけるその後の彼らの動きについて知りえたことを簡単に書いておく。タイでは、1960年代から70年代にかけて、メオ族を中心とする山岳少数民族の反政府ゲリラが政府軍と交戦、徹底的に弾圧された。それでも、ウィキペディアによると2002年の時点でタイには15万人ほどのメオ族が住んでいるという(梅棹が遭遇した時点から、その人口は増加している)。ただ、タイやラオスからアメリカなどに難民として流出したメオ族もかなりいて、アメリカにおけるメオ族人口は17万人というから、タイよりも多いことになる。ベトナム、ラオスを含めて東南アジアの多くのメオ族(その他の山岳少数民族)が、過酷な運命にさらされることになったのである。
 それはさておき、梅棹のこの紀行は、異文化に属する社会を、国民国家という枠組みのなかで考えていくことの無理も教えてくれるのである。

 類人猿探検隊
 チェンマイに戻ると、一行は、北部国境(タイとビルマ=ミャンマー)近くへの旅行の準備を始めた。チェンダーオを経て、ファーンまで行く予定である。小川、依田の森林班(植物生態学)と、川村のサルの研究場所を確定する必要がある。
 1月18日、チェンマイを発ってチェンダーオに向かった。(1月5日~12日にドーイ・インタノン登山、1月14日からメオ族の集落を訪問していたから、かなりの強行軍である。チェンダーオで一行は郡長と営林署長に会い、さまざまなアドヴァイスを得る。ドーイ・チェンダーオ山のふもとにある有名な寺に挨拶に赴き、その裏手にキャンプを張る。それもこれも川村の研究のフィールドを探すためである。

 隊員の1人である霊長類研究家の川村俊蔵(1927‐2003)は北タイにおける野生のテナガザルの生活を調べようとしている。いわゆる類人猿に属するサルは4種類しかおらず(最近ではボノボを入れて5種類ということになっている)、そのうち東南アジアに生息するのはオラン・ウータンとテナガザルの2種類である(後のゴリラとチンパンジーはアフリカにいる)。テナガザルはタイやビルマの森林に多く住むということで、張り切ってやって来たというわけである。
 川村は日本ではニホンザルの生態を研究する霊長類研究グループに属して研究を続けてきたが、今度はテナガザルの社会生活にも目を向けようというのである。彼が太平洋学術会議で研究発表をした際に、その研究に異常なほどの興味を示したアメリカのクーリッジ博士は、戦前にこの北タイの地域で霊長類についての調査研究を行ったカーペンター博士を中心とする調査隊のマネージャーだったという経緯がある(日本だと大規模な共同研究の場合、事務局が組織されることが多い。マネージャーというのはそういう場合の事務局長に相当する職掌であろう)。今回の調査はカーペンター・エクスペディションほど大規模なものではないが、かれらの研究をもとに、そこで見落とされたことや、その後の変化を見つけることならば専門家が1人しかいなくても十分に可能である。

 テナガザルの歌合戦
 第8章でそのしだいを記したドーイ・インタノン登山の際に、すでに一行はテナガザルについての調査に取り掛かっていた。登り道で立ち寄った集落ソップ・エップのカレン族の人々が、そのあたりでは朝、テナガザルが鳴くという。梅棹と川村は機材を運んで、その鳴き声を録音しようとした。行きは結局空振りに終わり、下山時にまたソップ・エップに立ち寄った時に録音に成功する。小長谷由紀・佐藤吉文編『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた』(勉誠出版、2011)の68‐69ページにこのときの写真が紹介されている。巨大な鉄製のお椀のような集音機の運搬が大変なので、隊員がそろっているうちにこの録音だけはしておこうと思っていたのだと語られている。

 「テナガザルはつづけて鳴いた。それはまるで、歌うような調子の、美しい声だった。
 けものの声というよりは、むしろ鳥のさえずりに似ていたが、はるかに丸味をおびて、ながくあとをひいた。ときには高く、あるいは低く、その調子はいろいろにかわった。なんという表情にみちた声だろうか。
 まもなく、その声に応ずるようにして、別の一群が鳴きはじめた。それから、さらにもう一群が加わった。声は、谷の対岸にこだまして、ソップ・エップの谷は、まるで歌合戦のようだった。」(240ページ)

 チェンダーオの森
 一行は、チェンダーオの森では、テナガザルにソップ・エップの谷の時よりももっと接近しようともくろんでいた。ドーイ・インタノン山中のソップ・エップの谷に比べると、ドーイ・チェンダーオの山すその森林の中ははるかに足場がいい。戦前にカーペンター・エクスペディションがお寺の一帯を主なフィールドに選んだのは、寺のおかげでこの辺りが一種のサンクチュアリ(聖域、殺生禁断の地)になっていて、猟師が入らなかったためである。戦後は事情が変わって、猟師が入り込むようになり、テナガザルは以前のようには寺の周囲には見られなくなったという。テナガザルは、人によく馴れるので、猟師はその子どもを捕まえて売ろうとしているのである。

 営林署の世話で、村の猟師が一人、朝早くキャンプにやってきた。今回も川村と梅棹が出かける。猟師はカメの甲羅のように集音機を担いで、先頭に立つ。川村は16ミリの三脚を担ぐ。森を進み、尾根を登っていくと、たくさんのテナガザルに出会うことができた。あちこちから声が聞こえ、川村と梅棹はテープレコーダーを回して、そのさまざまな鳴き声を録音した。
 カーペンターが調査を行った時とは、条件は変わっているにせよ、この一帯が調査の場所として有望であることに変わりはない。カーペンターは、テナガザルの群れは、オスとメスとそれぞれ一頭ずつに子どもがついたものという、人間の家族に似た構成になっていると結論したが、もっと大きい群れがあるという報告もある。川村が確かめようとしているのはその点である。

 どうやらテナガザル研究の見通しは立ったようである。しかし、植物の生態の研究のほうが残っているし、テナガザルについてもまだほかに研究の適地はあるかもしれない。一行はさらに北の地域を探索することになるが、そのあらましはまた次回に。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(12)

8月16日(金)曇り、午後になり次第に晴れ間が広がる。風が強く、暑さがわずかながら和らぐ。

 ガルガンチュワは、フランス西部の一地方を治めていたグラングゥジェ王と、その妃であるガルガメルの間に生まれた。「おギャー、おギャー」という代わりに「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と産声を上げ、それを聞いた父親が「やれやれお前のはでっかいわい!」(Que grand tu as!)と言ったために、このように命名された。
 もともと大きな赤ん坊であった彼は、葡萄酒と牛乳を飲んですくすくと育ち、巨大な体躯に加えて、なかなか賢い子どもに成長した。そこで、父王は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、効果がなかったので、新しい学問と教育法を身につけたポノクラートを教師として、パリで勉強するように故郷から送り出した。ポノクラートのもとでガルガンチュワはギリシア・ローマの古典、キリスト教の福音書、そして自然科学と技術について学び、またスポーツと武芸で体を鍛えた。
 ある年の秋のはじめ、ブドウの収穫時に、グラングゥジェ王の領地の羊飼いたちが、通りがかった隣の国の小麦煎餅売りたちといざこざをおこし、暴力をふるった小麦煎餅売りを懲らしめて追い払ったが、それを逆恨みした小麦煎餅売りたちは、彼らの王であるピクロコルに隣国の羊飼いたちの無法について報告し、ピクロコル王は事実をよく確かめもしないで、軍隊を招集してグラングゥジェ王の領地に攻め入った。
 ピクロコル王の軍勢は、略奪のかぎりをつくしたが、スイイーの村にある修道院のブドウ畑は、修道士ジャンの働きによって無事であった。隣国の王の侵攻の報告を聞いたグラングゥジェは、事態を円満かつ平和裏に解決しようとする一方で、パリに伝令を送ってガルガンチュワを呼び戻そうとする。

第30章 ウルリック・ガレがピクロコルのもとへ派遣されたこと(ウルリック・ガレ、ピクロコルのもとに派遣される)
 グラングゥジェはガルガンチュワを呼び戻す手紙を持った使者を派遣した後、ウルリック・ガレという家来を特使に任じて、ピクロコル王との交渉にあたらせ、侵略行動の理由の究明と軍隊の撤兵の要求を行なうことになった。
 ガレはすぐに出発して、ピクロコル軍の立てこもるラ・ローシュ・クレルモーの城に近づいたが、付近の住民に敵兵は凶暴だから慎重に行動したほうがいいと忠告されて、とりあえず一泊した。
 翌朝早く、使者としての用向きを伝えたが、ピクロコル王は城門を開こうとせず、前哨稜堡(宮下訳では城塞の塁道)のところまで出てきて、そこで使者の申し立てを聞こうとした。
 ガレは、そこで次のように弁じた。

第31章 ガレがピクロコルに向ってした演説(ガレがピクロコルに対しておこなった演説)
 ガレはまず、ピクロコル王のはっきりとした理由の説明のない軍事行動によって、何人かの人命が失われたことを指摘し、事の重大性を認識するように(ズバズバとというより、やんわりと)いう。

 そして、ピクロコルの国と、グラングゥジェの国、さらに近隣の諸国は、長いあいだ友好関係を保ち、そのことを盟約として尊重してきたはずであるのに、なぜこのような軍事行動を起こしたのかと問う。
 しかも、この諸国間の友好関係は国際的に羨望を集めているものであり、他にも加わりたいと思っている国もあり、国際的な平和に役立っているのに、なぜ、この期に及んで破棄するような行動をとるのかという。
 グラングゥジェの側では、ピクロコルの側に対していかなる軍事的な挑発行為もしてこなかったのに、なぜこのような侵略行為に及ぶのかを説明してほしいと畳みかける。侵略行動は人道にも神の教えにも背く行為である。神の教えに背く行為は、必ずや神の裁きを受けるであろう。これが一種の宿命であるにしても、その結果はよくないことは明らかであるし、それに、他の国や国民とその財産を巻き込むのはやめてほしいという。
 また、仮にグラングゥジェの側に非があったとしても、事態について調査を行い、外交交渉を行ってから、軍事行動を起こすのが筋というものではないか。
 直ちに撤兵して、グラングゥジェの国に与えた被害について賠償し、またその支払いまでに人質をおいていただきたいというのが彼の演説の内容であった。

第32章 グラングゥジェが平和を購うために小麦煎餅を返させたこと(グラングジエ、平和を購うためにフーガスを返却する)
 以上のように述べてガレは口をつぐんだのだが、これに対して、ピクロコル王は悪態をつくだけで、「小麦煎餅でも粉にしてやるわい」(渡辺訳、152ページ、宮下訳、「フーガスだってすりつぶしてくれるわい」、250ページ)と言い捨てた。渡辺が注記しているが、せっかく煎餅にしたものを粉にしてしまってはしょうがない。

 回答らしい回答を得られなかったがれは、やむを得ず、グラングゥジェ王のもとへ戻る。グラングゥジェは神がピクロコルの激怒を和らげ、力に訴えなくても道理をわきまえられるようにしてほしいと祈っていたのである。
 戻ってきたガレの姿を見て、グラングゥジェは首尾を尋ねた。ガレは答える。
 「道理も糸瓜(へちま)もございません。あの男は全く常軌を逸し、神にも見離されて居ります。】(渡辺訳、153ページ、宮下訳、「うまくいきませんでした。あの男は完全に常軌を逸しておりますし、神にも見放されておりまする。」、250ページ) 原文は
-- Il n'y a (dist Gallet) ordre; cest homme est su hors du sens et delaisse de Dieu. (古いフランス語なんでわかりにくいが、宮下訳の方が原文の文脈に忠実なのではないかと思われる。)
 
 ピクロコル側の言い分は全くわからないが、どうも「小麦煎餅」(あるいはフーガス)というところに、事件の真相を解くカギがありそうだということになり、事件を調査してみると、ピクロコルの国の人々からグラングゥジェ側が無理やりに小麦煎餅を若干奪い取ったこと、小麦煎餅売りのマルケが脳天に丸太棒をぶつけられたという事実が判明した。しかし、小麦煎餅の代金は支払ったのだし、マルケのほうがフロジェに先に手を出したことも明らかなので、全力で防戦に当たるだけの理由はあるように思われた。
 戦争の多くは「自衛のための戦争」である。だから、グラングゥジェ側としてみれば、すでに侵略を受けているのであるし、交戦するだけの根拠は十分に整っていると思われるのだが、グラングゥジェはなおも交戦に踏み切らない。
 「たかが何枚かの小麦煎餅だけの問題ならば、向うの得心の行くようにしてやることにしよう。戦端を開くなどということは、気に染まぬこと、この上もない。」(渡辺訳、154ページ、宮下訳では251‐252ページに相当)

 そこで4ダースか5ダース分の小麦煎餅を奪い取ったということがわかると、5輌分の小麦煎餅を作らせ、そのうちの1輌分は特別製の物を作って、マルケに与えるものとしただけでなく、彼には多額の治療代と、賠償金を支払うことにした。そしてガレをふたたび交渉に赴かせ、これらをもって平和の条件としようとした。ガレの言い分を聞いた、ピクロコル王側のトゥクディヨン(渡辺訳では臆病山法螺之守)はピクロコル王に提案の骨子を伝えたが、グラングゥジェは臆病風に吹かれてこのような措置をとったのであり、ピクロコル王側の出方を与しやすしとみている、強硬な態度をとって思い知らせてやるべきだと、余計なことを付け加える。そして兵糧が不足している折、使者の持参した小麦煎餅は没収し、自分たちの食料とするように進言する。ピクロコル王はその言葉を受け入れて、ガレが持参した大金や小麦煎餅を奪い取り、使者たちを追い返す。ガレはやむなく、グラングゥジェの元に戻り、この際、戦闘以外に平和の手段はないと復命するのであった。

 ピクロコルの好戦的な姿勢は、この時代のヨーロッパの国王たちが一般的にとっていたものであり、これに対し、グラングゥジェのあくまでも平和を望む姿勢は、ラブレーが師と仰いだ人文主義者エラスムスの思想を反映するものであるといわれる。トマス・モアの『ユートピア』やトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』でも戦争と平和の問題は大きく取り上げられているのは、別の所で論じたとおりである。戦争を無条件に肯定するか、自衛のための戦争のみを肯定するか、戦争全般を否定するか、意見は分かれるところであろう。ラブレーの考えは、自衛のための戦争は肯定するもののように思われるが、鎧を着こんだ上から僧侶の衣をきた平清盛を思い出させるところがないわけではない。
 ピクロコルは侵略を思いとどまろうとしないが、この結果はどうなるのだろうか。それはまた次回に。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(12)

8月15日(木/終戦の日)曇り、今にも雨が降りそうな空模様が広がっていたが、とうとう雨が降り出した。

 世界一周の航海を終えたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に、航海の途中で立ち寄った「太陽の都」の人々の暮らしの様子と、社会の制度について語る。
 それは太平洋に浮かぶ島の中心部の平原のなかに建設された都市で、丘の周囲に同心円状に城壁をめぐらして建造されている。都市を支配しているのは「太1陽」と呼ばれる神官君主で、すぐれた学識を持つ形而上学者が選ばれてその任に当たる。彼は軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。
 これらの高官を含めて役人は子どものころからの教育を通じて見いだされた能力・適性に応じて選ばれるのである。子どもたちは3歳になると、集団で組織的な教育を受ける。「太陽の都」の神殿の外壁や城壁には様々な事物の画や見本が描かれたり置かれたりして、教育の仕事を助けている。
 都市の人々は全体が1つの家族と考えられており、集団で生活し、衣類は配給制であり、共同で食事をし、また住居は割り当てによる。男女はそれぞれの体の特徴を主な手掛かりとして、計画的に結び付けられ、生殖をおこなう。私有財産というものはなく、全員が能力に応じて働き、必要なものを受け取っているのである。

 マルタ騎士団員は、次に戦争について話してほしいという。
 「太陽」を補佐する3人の高官の1人である「権力」は歩兵指揮官、砲兵指揮官、騎兵指揮官、工兵指揮官を従えている。そしてそれぞれの指揮官も、兵たちを訓練する教官たちを従えている。
 若者たちは12歳以前にもレスリング、競走、投石などの初歩的な訓練を受けているが、12歳を過ぎると、戦法や戦術、剣や槍の使い方、弓術、乗馬術、追跡法、撤退法、隊形の組み方などを教えられるようになる。男子だけでなく女子も実際の戦闘に備えて訓練を受ける。
 彼らはきわめて勇敢であり、人は死ぬと、現世での行ないに応じて来世で賞罰を受けると信じているために、死を恐れない。「そして人間として価値のない理性の敵対者を打ちこらすのにちゅうちょしません。」(坂本訳、36ページ) 〔これは、むしろ恐ろしさを感じさせる。〕

 2か月ごとに閲兵式が行われるだけでなく、彼らは毎日野原での騎馬演習、屋内演習、あるいは軍事講義に参加する。軍事講義ではハンニバルやスキピオなどによる、古代の軍事行動を記した歴史書が読まれる。読んだ後で、参加者全員が自己の意見を述べ、それに対し教官が講評を下す。

 マルタ騎士団員は、「太陽の都」の人々はいったい誰と戦争をするのか、それほど幸福に暮らしているのになぜ戦わなければならないのかと質問する〔これは的を射た質問だと思う〕。
 これに対し、ジェノヴァ人は「かれらはたとえ戦争がなくても、怠け者にならないためといつの日にか起るかも知れぬ事態に備えて、武芸と狩猟にはげんでいるのです」(坂本訳、37ページ)と答える。
 それに、この都市のある島の4つの国々がなにかと口実をつけては、侵略を意図しているという。領土上の紛争、宗教上の理由、あるいは過去の歴史的な経緯など、その口実はさまざまである〔なかなか真に迫っている〕。
 「太陽の都」の人々は、戦争が起きそうな事態に立ち至ると、会議を招集し、「法廷代理人」と呼ばれる神官を相手国に派遣して交渉にあたらせ、交渉がうまくいかないと宣戦を布告して戦争を始めるという。

 戦争がはじまると、「権力」が独裁的な指揮官となる。彼は重要な問題がある時だけ、「太陽」、「知識」、「愛」という他の高官に相談をする。そして市民全員が参加する代表議会が開かれて、戦争が正義の戦いであることが明らかにされた後に、戦闘が行なわれる。

 『太陽の都』はあらゆる種類の武器を武器蔵に所蔵しており、しかも市民たちはそれらの武器の使用に模擬戦を通じて親しんでいるという。彼らの戦術は大砲を生かしたもので、戦場に運んでいける野砲もたくさん装備している。カンパネッラは実際に戦争に従軍した経験はなかったはずで、戦争と戦闘についての記述はどうも空想的であり、実際的とは言いかねる。
 「征服されたり、進んで彼らの支配に入った国々は、ただちに、全財産を共有にし、太陽の都の役人と守備軍を迎え、次第に自分たちの指導者となった太陽の都の習慣に同化され、自分たちの子供を勉強させに太陽の都に送りますが、この場合、何の費用も払う必要はありません。】(坂本訳、42ページ)

 モアの『ユートピア』では彼自身が外交交渉にもかかわった経験から、国際紛争を(できるだけ戦闘を避けるために)外交によって解決すべきことが説かれていて、この点はカンパネッラの「法廷代理人」の選出・派遣というくだりと一致するが、モアのほうが自分自身の経験を踏まえての議論であるだけに詳しく、説得力がある。さらに、モアは血なまぐさい戦闘を避けるために、敵を欺く戦略や諜報戦を重視しているが、カンパネッラもスパイの果たすべき役割は重視する。しかし、彼はこの仕事に就く人間が生まれながらの適性や(いかにも、彼らしいのだが)生まれた時の星座などを考慮して決められているという点を重視して語っている。力点の置き方の違いに注目すべきである。

 最初に書いておくべきであったが、マルタ騎士団は正式名称をロドス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会といい、十字軍に関連して結成されたカトリックの騎士修道会である。現在は国家ではないが、この『太陽の都』が書かれた時代には、主権国家としてその名の通り地中海のロドス島、マルタ島を領有していた。だから、団員が『太陽の都』についていろいろと質問するのには、自分たちの領土の支配・経営に役立てようという意図があったと考えられる(それを計算に入れて、カンパネッラはこの対話を構想しているということである)。
 

富田武『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』

8月14日(水)雨が降ったり、晴れ間が広がったり、変りやすい空模様が続いている。しかし、暑いことに変わりはない。などと書いていたら、15:30ごろから激しい雨が降り出した。と思ったら、15:50ごろからまた晴れ間が広がった。

 この本を読み終えたのは2月18日のことであったが、その後、このブログとは別の場所にこの書物の批評を書こうとして悪戦苦闘を続けてきた。うっかりした批評が書けないと思う理由は、著者とは長年の付き合いがあるから――中学・高校を通じて6年間一緒に学んだ仲だからである。昨年、あるところで出身校の同期会があり、その際に、著者が自分は1年浪人して東大に入ったが、おかげで東大闘争に巻き込まれたと話していた。どうも、この本の出版を間近に控えての宣伝の意味もあったらしい。実際問題として、一年浪人して東大に入学した同期生はほかにも大勢いたのだが、その大部分は闘争とは無関係に卒業した(ように思われる)。「巻き込まれた」というのは煙幕で、本当のところ、自ら進んで渦中に身を乗り入れたというのが真相に近い(ように思われる)。この書物は、その間の事情も含めて、個人史的、あるいは個人の思想形成史的な色合いの強い内容を持っており、東大闘争の客観的な記録というようなものではない。『歴史としての東大闘争』という表題には、著者なりの東大闘争の歴史的な意義についてのこだわりがあることをあらかじめ認識しておく必要があるだろう。

 標題に関わっては、この書物のなかの「ぼく」は何者であるか、はっきりしているのは当然のことかもしれない。曖昧さを許さない形で著者がそれを語っている。しかし、「ぼくたち」ということになると、どうもはっきりしないものを感じる。それがどういうことかを、この書物の内容を追いながら、書いていくことにしよう。

 この書物は5章からなり、第1章「東大闘争の経過と思想的意味――『たった一人の反乱』まで」は著者が『季刊 現代の理論』2009年新春号に掲載した論文を再録したもので、東大闘争の経緯とその思想的な意義を問う内容である。ここでは医学部における卒業後研修をめぐる学生と当局の対立を発端として、当時の(現在も本質的にはあまり変わっていない)大学の内包する様々な問題をめぐっての対立の激化、闘争の広がり、政府の強硬姿勢と学生の動揺、「正常化」とその後の事態の推移が概観されている。特徴的なのは、著者がそのなかでの自分の立場と行動を詳しく語っていること、とくに1969年5月に立て看板という形で公表した「現時点での受験=進学を拒否する」といういちばんが再録されていることである。当時、東大の助手をしていた友人の一人が、この立て看板の話をしていたから、その反響の大きさはかなりのものだったと思われる。

 第2章「反戦運動と生き方の模索――闘争前の東大キャンパス」は、大学闘争以前の東大における学生運動、特にベトナム反戦運動の高揚を追いながら、そのなかでの著者自身の「反戦キリスト者」からマルクス主義への思想の歩みを振り返っている。
 この章では1967年2月11日の「建国記念日」反対の<同盟登校>について語っている部分が強い印象を残す。同じ日に、わたしは京都大学で反対闘争に参加したのであるが、その参加者は東大に比べて2桁は少なかったという記憶がある。両大学の学生及び教官の政治意識のありようのちがいを示すものとして記憶されるべきだと思う。

 第3章「ノンセクト・ラディカリズム論――共感と批判をこめて」は東大闘争終焉後に、著者が東大の大学院に入学した際に、それまでの思想的な軌跡を総括して、当時の仲間に配布した文書を書き直したものであるという。著者は学生運動、また大学闘争のなかで比較的存在感の薄かった党派≂フロントに属していたことが語られている。だから、ノンセクト・ラディカリズムに対する「共感と批判」に即して、自分の立場が語られているのである。また、この時期、アカデミズムのなかで生きていくことをいったんは選択しながら、大学闘争を経て別の道を選ぶことになったものは少なくない。私自身もそのなかで右顧左眄した一人であるが、あまりそのことについて回顧したいとも思わない。しかし著者は律義に、自分の選択について記そうとしている。

 第4章「その後の運動とソ連崩壊――『新しい社会運動』か」では1970~1990年代に著者がかかわった社会運動と、そのなかでの著者自身の経験が概観されている。東大闘争への著者のかかわりが、その後の人生にどのような意味を持ったかという著者の総括として読むことができる。

 最後に著者は第5章で「大学闘争はいかに研究されたか」と問い(ここではなぜか、「東大闘争」ではなく「大学闘争」が問題にされている)、社会学と歴史研究という2つの立場からのこの問題への取り組みについて論評しているが、大学の大衆化というより大きな状況も無視すべきではないのではないかと思う。大学の管理・運営をめぐる政権側の施策をめぐっての言及はされているが、大学の規模の拡大に伴う財政の問題や、大学入学者の増大に伴う大学の教育内容の不適切性の顕在化などの問題については詳しく取り上げられているとはいいがたい。しかし、これらの問題も決しておろそかにされてはならないものである。

 「ぼくたち」が具体的にだれを指す言葉なのかはっきりしないというのは、「東大闘争」と「大学闘争」とが同一視できない(「東大闘争」は「大学闘争」に内包されるが、「大学闘争」の典型例として、「東大闘争」を持ち出すことは危険であるかもしれない)からである。同世代のすべての人間が大学に進学したわけではないし、そのなかで東大に入学できた人間はごく限られた少数である。また「東大闘争」に参加した人間は、そのなかでまた少数である。とすると、著者の言う「ぼくたち」は極めて少数の例外的な存在ということになる。

 1969年の東大の入試が実施されなかったことの当事者(受験生)であった池上彰さんが、1968年に世界各地で広がった青年たちの闘争について、その政治的な背景を視野に入れながら論じている中で、闘争の求めたものも、その具体的な内容も多様であったことを指摘している。問題を政治的な背景から論じる(この点は、この書物の著者と一致している)だけでいいのかという問題はあるが、闘争の見せた多様性について着目しているのはさすがだと思うのである。わたしの知る限りで、各大学における様々な利害関係者の要求や闘争形態は多様であり、統一性を求めるのは困難であるように思われる。そのようななかで、自己の経験にこだわり続ける著者の態度はそれなりの見識を示すものであり、敬意を表すべきではあろうが、自分の経験を単純に一般化し、「ぼく」を「ぼくたち」に拡大することをもくろんでいるのだとすれば、それはすこし見通しが甘いのではないかと思う。

 そうはいっても、この書物全体を通じて、もう一つの「ぼくたち」の結束の強さというものを感じないわけにはいかなかった。それは著者と母堂を核とする家族の結びつきの強さであって、それについては本文に即して実感していただきたいのだが、かなり羨ましい気分にさせられたことを書き加えておこう。
 

『太平記』(275)

8月13日(火)曇り、一時雨

 貞和(じょうわ)4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月、光厳上皇の皇子である興仁(おきひと)王が践祚された(崇光=すこう帝)。その時に、子どもの首を犬が加えて御所にやってくるという怪異があった。このような出来事が起きたのだから、即位に伴う大嘗会は延期すべきであるという意見もあったが、坂上明清の意見に従って予定通り実施することになった。この儀式のための出費を強いられた民衆の不満は小さいものではなかった。

 また、このころ、仁和寺でも不思議な出来事が目撃された。仁和寺は京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派の本山で、仁和(885-889)という当時の年号を寺号にしていることからもわかるように勅願寺である。小川剛生さんの近著『兼好法師』によると、兼好はこの寺の近くに住んでいたのではないかということで、実際に『徒然草』にはこの寺にかかわるエピソードが少なからず収められている。

 諸国行脚の僧が、嵯峨(京都市右京区)から洛中に戻る途中、夕立にあって、雨宿りに立ち寄る場所もなかったので、仁和寺の六本杉の木陰で、やむのを待つことにした。しかし、雨は降りやまず、日も暮れてしまったので、どうしようかと不安な気持ちに襲われて、それならば、今夜は本堂の近くで夜明かしすることにしようと思って、本堂の付近で経文を唱えながら過ごしていた。
 余計な話であるが、現在では仁和寺には仁和寺御室会館という宿坊があって、泊まることができる(場所は寺から少し離れている)。一度泊まってみようと思うのだが、果たして実現するかどうか。

 深夜、雨が上がり、月が明るく照らし始めたので、目を凝らしてみていると、京都の西北にある愛宕山、東北の比叡山の方から、貴人の乗る四方輿に乗った異形のものが、空を飛んで集まってきて、この六本杉の梢に並んだ。
 愛宕山は山城と丹波の国境にあり、修験道の霊場で、古くから天狗が住むとされた。

 それぞれの異形のものの座が定まって、虚空にひかれていた幔をさっと引き上げたので、そこに居並ぶ人々が何者であるかを見定めることができた。上座に座ったのは後醍醐帝の母談天門院の一門の出身である峯僧正春雅で、香染め(丁子を煎じた汁で染めた黄を帯びた薄紅色)の衣に袈裟をかけた姿で、目は太陽か月のように光り、鳶のように見えるくちばしをしていたが、水晶の数珠を爪繰りながら、着席した。次に南都の西大寺の律僧で、正中の変でとらえられ処刑された智教上人、後醍醐帝の側近で正中の変で越後の国へ流罪になった浄土寺の忠円僧正が、春雅の左右に着席する。皆、生前の見慣れた姿ではあるが、眼の光は尋常ならず異様に光っていただけでなく、左右のわきから長い翼が生い出ていた。
 浄土寺というのは京都市左京区浄土寺町にあった天台宗の門跡寺院で、現在は地名だけが残っている。京都大学の近くであり、大学時代の友人知人で、浄土寺に下宿しているものが多かったので、この一帯はよく歩いた。地名にもかかわらず、浄土寺という寺がないのはどういうことかと不思議に思っていたものである。

 これを見ていた諸国行脚の僧は、自分もまた天狗道に落ちたのか、あるいは天狗が自分の目を狂わせているのであろうかと、茫然として、それでも目を離さずじっと見ていると、さらに五緒(いつつお)の車≂前方の簾に五筋の染革の緒を垂らした車(貴人が乗用する)でいかにも華やかな様子で現れた客がいた。台を踏んで降車する姿を見ると、大塔宮護良親王であったが、まだ還俗されずに僧侶の身で、天台座主という地位に就いていられた時の姿であった。それまで座っていた天狗たちは、みな席を立って蹲踞の礼=両膝を折ってうずくまり、頭を下げる礼をもって、親王を迎えた。
 天狗道というのは慢心した僧が落ちる魔界だそうである。この場面は『太平記』中もっとも有名な部分の一つであるが、宮方と思われる僧侶たちを天狗道に属している身の上として描く、作者のものの考え方に注目しておく必要がある。さて、天狗道に落ちた僧侶たちが、どのような話をするのか、それが天下の形勢とどのようにかかわるかはまた次回。
 浄土寺の話で考え着いたのだが、大学の授業で地域研究というか、大学のある地方・地域についての学習を課すことが望ましいのではないだろうか。その地域に詳しい人の話を聞くことも、自分で地域の歴史や現状について調べることも、それぞれ意味のあることだと思うのである。

 本日は、時間がないので、皆様のブログを訪問する余裕がありません。あしからずご了承ください。

日記抄(8月6日~12日)

8月12日(月)午前中は曇りで時々雨、午後になって晴れ間が広がる。依然として暑い。

 8月6日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:
8月6日
 『朝日』朝刊の「第二神奈川」のページに連載されている「列島を歩く」で、広島県三次市にある「伝説あやかり博物館」のことが紹介されていた。ここには『稲生(いのう)物怪録』という書物が所蔵されていて、江戸時代の中期1749年、旧暦7月に16歳の武家の少年、稲生平太郎が30日間にわたって怪異現象に見舞われた一部始終が記されているという。
 この記事に出ていなかったことを付け足しておくと、この本は角川文庫から出版されていて、比較的入手可能である。また、この本を直接取り上げたものではないが、杉浦茂の漫画『八百八狸』は、ここから発想を得ているようである。

 同じページに連載されている「謎解き 日本一」のコーナーによると、日本で一番クジラ肉の消費量が多いのは長崎県だそうで、これは意外であった。

8月7日
 『朝日』朝刊の「経済+」のコーナーで紹介されていたが、ムスリムたちがメッカ大巡礼(ハッジ)の際に着用するカンドゥーラという白い衣装に使われている生地はトーブと言って、ポリエステルなどの合成繊維を織って作られている由で、その4割が日本製、そのまた8割を石川県能美市にある小松マテーレという会社で生産しているそうである。

 南関東軟式高校野球大会で、神奈川県代表の三浦学苑高校が優勝、全国大会への出場を決めた。左腕のエース松原投手は、神奈川県大会の準決勝で完全試合を達成するなど、皇統を見せてきた。全国での活躍を期待したい。

 椎名誠『かぐや姫はいやな女』(新潮文庫)を読み終える。かぐや姫はいやな女だと目くじら立てて怒るのはどうかと思う一方で、それに対してまた目くじらを立てて怒るのもどうかと思う。

8月8日
 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』は、木曜日には落語に基づく英語の短い話を放送しているが、今回は「桃太郎」が取り上げられた。昔の子どもは大人が話す桃太郎の鬼退治の話を喜んで聞くうちに寝てしまったが、今のお子さんは、物語のすきをついて鋭い質問をして、物語の本当の趣意はこんなことだと親がびっくりするような解釈を展開する…とうとう親のほうが寝てしまうというお噺。文明開化の世相を背景に、落語やその背景にある庶民の生活が大きな変化を迫られた、その一端を映すお噺でもある。
 ところで、今ではあまり放送されなくなったが、先代の桃太郎が演じていた「桃太郎後日談」という噺もある。鬼ヶ島から帰ってきた桃太郎が、実は鬼の王様の娘が好きだと告白し、犬とサルと雉が間に立って話をまとめるという大人向けの話である。実は、よく調べていないのだが、こちらのほうは、江戸時代の戯作にネタがあるらしい。話はさらに続いて、桃太郎が三角関係に苦しむことになるのだが…そうなるとおとぎ話どころではない修羅場になって、子ども向きとは言えない。

 同じく『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Fortune favors the bold.
               ―― Virgil (Roman poet, 70 B.C. - 19 B.C.)
「運は勇者に味方する。」
 ところが、The Penguin Dictionary of QuotationsではFortis fortuna adiuvat.というラテン語の語句の英訳として、Fortune favours the brave.を挙げ、ローマ時代の劇作家で、ウェルギリウスよりも前の時代の人物であるテレンティウス(Terentius, 英語ではTerence, c190 - 159)のことばとしている。

8月9日
 昨日、文部科学省の「学校基本調査」(速報)が発表されたが、『朝日』ではこども園が急増しているなど幼児教育関係に重点を置いて、『日経』では「医学部入学、女子の比率増」など高等教育に重点を置いた紹介がされていて、両紙の関心のあり方がよく表れているように思った。

8月10日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第27節横浜FC対水戸ホーリーホックの試合を観戦した。このところ7連勝と勢いに乗る横浜で1万人を超える観衆が詰めかけていた。8連勝を狙いたかったのであるが、相手は今季好調の上、横浜とはJFL、J2を通じて最も多くの試合を経験している水戸ホーリーホックでそう簡単には勝たしてくれず、0‐0で引き分けに終わった。中村俊輔選手が途中出場して、それなりに見せ場を作ってくれた。もっと本格的にその技を見せてくれることを期待しよう。
 帰宅後、調べてみたら、第1111回のミニtoto-Aが当たっていた。

8月11日
 『日経』朝刊の「美のコンシエルジュ」は、織田信長が安土城で催したという西洋音楽の演奏会を再創造してみようという遊び心に満ちた試みである平尾雅子『王のパヴァーヌ』のディスク(マイスター・ミュージック、2004年録音)のことが紹介されていた。公正・演奏を担当した平尾さんはヴィオラ・ダ・ガンパの演奏家だそうだが、昔、京都にいたころに、ある催しでヴィオラ・ダ・ガンパを専門にしているという女性と話したことがあって、平尾さんよりも年配だったという記憶があるが、ひょっとしたらご本人であったのかもしれない。

 中国の『人民日報』の「中国語教室」を見ていたら、「今年の『七夕プレゼント』は花やチョコより宝飾品と口紅が人気」という見出しが目についた。いつの間にか、こんな習慣が定着したのだろうか。それにしても、贅沢だなぁ。
 また、「普段から芸術に接することは子供の学習に有益」という見出しもあったが、12日の『日経』に「革新生む『アート教育』」という高校生の美意識を掘り起こして、イノベーションの起爆剤にしようという試みが紹介されていた。

8月12日
 『日経』朝刊に早稲田大学教授の浜中淳子さんによる「2020年度の大学入試改革」をめぐり、「大学入試を変えることで高校教育を変えようとする手法には限界がある」という論説が掲載されていたが、高校生の大部分が定期テスト時以外は30分以下の自宅学習しかしていないという勉学の実態や、「無理せず進学」という考えが多いという進学先選びの実情を踏まえた、きわめて示唆に富む議論である。「入試改革に飛びつく前に、エビデンスと現場の声に真摯に耳を傾けながら、吟味することの方がよほど大事な課題であるように思われる。」というのがこの論文の結びであるが、日本の高等教育が全体として相当程度に充実している中で、「無理して神学」「ぜひ一流校に」という訴えが説得力を失っていることも認識すべきではないか。高大連携の問題だけでなく、もっと視野を広げて、大学(志望者)全入時代における生涯にわたる学習全般をどうするかという観点から、問題を改めて考え直す必要があるだろう。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(5)

8月11日(日)晴れ、暑し
 
 19世紀初めのイングランド。ロンドンの北の方にあるハートフォードシャーのロングボーンの村に住んでいるベネット家には5人の娘がいた。長女のジェインは5人のなかでもっとも美しく、また気立てもよかった。次女のエリザベス(リジー、エライザ)は姉に次ぐ美貌で、頭がよく、茶目っ気があって、父親のお気に入りであった。3女のメアリーは、姉妹の中では一番容姿に恵まれていなかったので、才芸と学問の習得に励んでいた。4女のキャサリン(キティー)と5女のりディーは浮ついた性格であったが、姉妹のなかで一番背が高いリディーは、それをいいことにいっぱしのオトナ気取りであった(年齢はジェーンが22歳くらい、エリザベスが20歳くらい、…リディーが15歳くらいということになっている)。そしてベネット夫人はそんなリディアを一番かわいがっていた。
 ベネット家の財産は、先祖代々のしきたりで男系相続になっていたので、ベネット氏が死ねば、その遺産は遠縁のある人物(この後で登場する)に相続されることになっていた。だから、5人姉妹の少なくとも誰か一人が、裕福な男性と結婚することがベネット夫人の一番の望みであった。
 折よく、ロングボーンの近くにあるネザーフィールド邸を、北イングランドの金持ちであるビングリーという独身男性が借りることになった。彼が引っ越してきてから、この地方の中心都市であるメリトンで開かれた舞踏会で、ビングリーはその明るい、社交的な性格で人々を惹きつけたが、彼がいちばん魅力を感じたらしい女性は、その一座で一番美しいとだれもが認めるジェインであった。一方、ビングリーと一緒にやって来たダーシーという男性は、ビングリー以上の財産の持主だということで人々の注目を集めたが、その高慢で不愛想な態度で、人々の不評を買った。エリザベスが、踊りの合間に休んでいると、それを見たビングリーがダーシーに彼女と踊るように勧め、ダーシーがまあまあだけれども、踊りたくなるほどの美人じゃないねえと言ったのを、聞きつけたエリザベスが、それを冗談めかして言いふらしたことで、ダーシーの不評はますます広まった。ジェインはビングリーに恋しはじめたが、それを表立って表現することは控えていた。エリザベスはそんな姉の態度を好ましく思っていた。
 ベネット家の隣人であるルーカス家の当主サー・ウィリアム・ルーカスは爵勳士に任じられた元メリトン市長で、ロングボーンに住むようになっていたのであるが、その一家とベネット家は親しく付き合っていた。ルーカス夫人とベネット夫人は同じくらいに頭が悪く、その娘のシャーロットとエリザベスはそれぞれ頭がよかったので、親しかったのである。(先祖代々の地主であるベネット家と、商人からの成り上がりであるルーカス家とでは、その奥底には火花が散るような対立関係があったことも想像できる。) ジェインのビングリーに対する態度をめぐっては、シャーロットはエリザベスとは反対に、ジェインはもっと自分の気持ちをビングリーに伝えるように努力すべきだと考えていた。(シャーロットはジェインやエリザベスに比べて年長で、彼女たちほどの美貌に恵まれていなかった)。その一方で、いったんはエリザベスのことを踊りたくなるほどの美人ではないといったダーシーであったが、いつの間にか彼女の悪戯っぽい眼や軽やかな動作に魅力を感じ始め、彼女に興味を抱き始めた。しかし、エリザベスはそんなこととは知らず、愛想のいい態度をとろうとはしない。
 ビングリーの姉妹であるハースト夫人とミス・ビングリーとは、ジェインと仲良くなろうとして、彼女をネザーフィールドに招待する。ところが、出かける途中でにわか雨にあったジェインは風邪をひき、そのままネザーフィールド邸に留まることになる。姉のことを心配したエリザベスは、雨上がりの泥だらけの道を歩いて、姉のもとにかけつける。ネザーフィールド邸の一同はびっくりするが、彼女を受け入れ、しばらくの間エリザベスも邸に留まることになる。

 エリザベスは姉を看病していたが、ハースト夫人とミス・ビングリーも様子を見ていた。晩餐の席で、姉の容体をビングリーが心配していることを、エリザベスは心強く思ったが、その一方で、彼の姉妹たちが、姉のことについて表面的な好意しか見せていないことも見抜いていた。晩餐の席のなかで彼女は場違いな闖入者でしかないことを自覚していたが、ビングリーの気持ちだけはありがたかった。ミス・ビングリーはダーシーのご機嫌取りに専心しており、ハースト氏は食べることに夢中であった。

 食事が済むと、エリザベスはまた姉の看病に戻った。すると、すぐにミス・ビングリーがエリザベスの悪口を言いだした(ミス・ビングリーはダーシーと結婚しようと考えており、ダーシーがなぜかエリザベスに魅力を感じ始めているのを知っているので、彼女の悪口を言い募るのである)。
 先ず非難されたのは、姉の見舞いのために徒歩でやって来て、衣服を泥だらけに汚していたことである。ビングリーはそれは姉を思ってのことだといい、ダーシーは、たしかに衣服を泥だらけにするのはいいことではないが、彼女が姉のために歩きつづけてきたことで、彼女の美しい瞳は運動のためにいよいよ輝きを増していたという。
 この方面での攻撃がうまくいかなかったことで、ミス・ビングリーは今度はベネット姉妹の家柄の低さについて攻撃を始める。ベネット家は代々の地主であり、ビングリー家は父親の代に財をなした成り上がりであることは棚に上げて、姉妹の母親が事務弁護士の娘であることをあげつらうのである。

 さて、ジェインの看病からエリザベスが戻ってくると、一同はトランプをしていた。エリザベスはトランプが好きではなかったので、一座に加わらず、そこにあった本を読むことにした(どうもオースティンはトランプが好きではなくて、それがヒロインの好みにも反映していたのではないかと思う)。
 ビングリーは自分の蔵書が乏しいことを弁解し、ミス・ビングリーはそれに乗じて、ダーシーのペムバリーの邸の蔵書が立派であることをほめる。そして兄(ビングリー)が同じように立派な屋敷を構えるようにとそそのかす。ビングリーは笑って取り合わない(妹たちの言うほど、それが簡単なことではないとわかっているからであろう)。
 それから話題は、ダーシーの妹のミス・ダーシー(ジョージアナ)のことに移る。ミス・ビングリーは彼女がきれいでしとやかであると賞賛し、さらにさまざまな才芸を身につけていると指摘する。そこから、話題は才芸のことに移る。ここで注意しておいてよいのは、オースティンの原文には「才芸」に相当する単語はなくて、accomplishedという語がつかわれていることである(そういえば、第3章でベネット家の三女のメアリーがthe most accomplishedだと噂されて喜んでいた。もちろん、この作品中にはaccomplishments=才芸という語も用いられている)。

 ビングリーが最近の若い女性は実によく才芸を身につけているというのに対し、彼の姉妹たちは反論する。そして彼女たちにとって心強いことに、ダーシーが、本当に才芸を身につけていると思う自分の女性の知り合いは6人くらいだという。例によって、ミス・ビングリーがそれに同意するが、エリザベスは
”You must comprehend a great deal in your idea of an accomplished woman."
「あなたの考える才藝を身に附けた女性というのは相当に程度が高いですわ。」(大島訳、76ページ)という意見をさしはさむ。
 これに対し、ダーシーは、程度が高いという意見を肯定する。ミス・ビングリーが、ダーシーの意見に補足するつもりで、必要とされる才藝を列挙するのに対し、ダーシーは「そういうものはみんな身に附けたうえで…しかもさらに、幅広い読書によって精神の向上をはかり、より本質的なしっかりとしたもの(something more substantial)を身に附けなければならない」(同上)というので、エリザベスは、そんな女性が6人もいるというのは信じられないという。
 ダーシーは、あなたは自分の同性に対して厳しいのですねと言い、(自分たちがその6人に入っている思っているのであろうか)ビングリー姉妹も大声で抗議しはじめたので、ハースト氏がうるさいから話をやめてくれと言い出し、話が途切れ、エリザベスはまた姉の看病に戻る。

 "Eliza Benett," said Miss Bingley, when the door was closed on her, "is one of those young ladies who seek to recommend to the other sex, by undervaluing their own; with many men, I dare say, it succeeds. But, in my opinion, it is a paltry device, a very mean art. 「エライザ・ベネットって」と、エリザベスが部屋から出て扉が閉まると、ミス・ビングリーが云った。同性を貶めることで自らを異性に売り込もうというあの手の女の一人ね。それがまた結構上手くいくのよね、多くの男に。でもそういうのは、私に云わせればけちなけちな小細工だわ、ひどく卑しい手口よ。」(大島訳、78ページ)

 これに対して、この言葉の主な対象であったダーシーは、その通りだというが、その言い方は、「同性を貶す」エリザベスを貶すミス・ビングリーに向けられているようでもあったので、ミス・ビングリーも黙ってしまった。

 エリザベスが戻ってきて、ジェインの容体があまりよくないといったので、ビングリーはジョウンズ先生を呼びに行こうといい、翌朝早く、医師を呼びに行くことになった。皆が、落ち着かない気分でその夜を過ごした。

 第8章が終わる。同床異夢というか、それぞれが別の思いを抱いて、ネザーフィールド邸での一夜を過ごす。この後の物語の展開を考慮に入れると、余計にオースティンの小説づくりのうまさが理解できる個所である。第9章では、娘の容体を心配したベネット夫人が見舞いにやって来る。彼女はできるだけ、ジェーンをネザーフィールド邸において、ビングリーとの仲を親密にさせたいという腹積もりなのであるが、事態はそれほど簡単ではない。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(21)

8月10日(土)晴れ、暑し。

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は、大阪市立大学から派遣された学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスを歴訪した。これはその東南アジア旅行の経験を記した私的な記録である。これまで
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス
第6章 謙虚に学ぶべし
第7章 ゆううつよ、さようなら
第8章 最高峰にのぼる
の各章を読んできた。今回から第9章「類人猿探検隊」に入る。
 1957年12月末にタイ北部のチェンマイに到着した調査隊は、翌年1月にタイの最高峰であるドーイ・インタノンにのぼる。下山後、一行は新しい取り組みを始める。

第9章 類人猿探検隊
 ディマス神父
 バンコクのフランス大使館でもらった紹介状をもって、梅棹はチェンマイのカトリック教会を訪ね、この町の西にそびえているドーイ・ステープ(山)の裏山にいるというメオ族の部落への手引きを依頼した。
 教会側は調査隊の願いを快く引き受けて、ディマス神父というかなりの年配のスペイン人神父を同行させてくれた。
 メオ族(中国では苗族)は、アヘンの密栽培者であり、いちおう政府の許可を得て栽培しているのだが、実際には許可されたよりもはるかに広大な面積にケシを作っている。そのため、外部の人間に警戒的だが、カトリック教会の人たちだけは、彼らの部落に接近する程度までに彼らの信頼を勝ち得ているのである。

 1月14日、一行は教会によってディマス神父と合流、ドーイ・ステープへの登山を開始した。あごひげをはやしたディマス神父は、キャラバン・シューズに小さなルックサック、それにベレー帽と登山姿である。「南ヨーロッパ人らしく、陽気で、気さくな人だ。」(227ページ)

 山の上まで車で行き、了解を取り付けていた山上の別荘の1つに荷物をおいて、一行は山道を歩き出した。ところが、通訳として同行してきた葉山陽一郎が猛烈な腹痛を訴えて登山できないと言い出す。やむなく彼にチェンマイに戻ってもらうことにしたが、このため通訳がいなくなってしまった。ディマス神父は英語はできない。タイ語、中国語、フランス語とスペイン語しかわからない(これだけ分かればたいしたものである!) やむを得ず、梅棹が大学時代に学んだフランス語で何とか話を通すことになった。梅棹のフランス語は、彼が旧制高校時代に三高(当時)と京都大学近くの日仏学館に通って「どちらかというと耳と口とで覚えたものだったから、ディマス神父がゆっくりしゃべるのを聞いているうちに、しだいに記憶がよみがえってきた。まあ、なんとかなるだろう。」(228ページ)

 この経験については梅棹の『実戦・世界言語紀行』(岩波新書、1992)にも触れられている。梅棹は旧制高校で理科甲類(英語が第一外国語)のクラスであり、おそらく第二外国語はドイツ語だった。それで、わざわざフランス語を習いに出かけたのである。なお、以前に書いたことがあるが、わたしも日仏学館にフランス語を習いに出かけたことがあって、その点においては梅棹の後輩ということになる。梅棹が旧制高校時代に学んだフランス語が初めて役に立ったのは、タイにおいてだったのであるが、そういえば私も、タイでフランス人の観光団にあったので、ボン・ジュールと挨拶をして、挨拶を返してもらったことがある。

 メオ族の移動
「常緑広葉樹林のなかの細い道をのぼった。道ばたに大きなシロアリの塔がいくつも立っていた。歩いているあいだは、暑くて汗びっしょりだが、休むと、さわやかな山の空気が流れてきた。」(同上) はるかにドーイ・インタノンが見える。
 4時間ほど歩いてメオ族の村に到着する。「急な斜面の木を切りはらって、そのまんなかたりに、10戸あまりの枯葉色の小屋が、斜面にしがみつくように建っていた。それは、なにかひどく無残なものを感じさせる風景だった。それは、新しい開拓地にときとして見られる種類の無残さである。破壊と、むき出しの生存だけがあって、生活の美的秩序がまるで欠けているのである。」(229ページ)

 ディマス神父によると、この村ができたのはつい数年前のことだという。メオ族の本拠は、中国の貴州省の山岳地帯だといわれている。そこから雲南、広西、北ベトナム、ラオス、そしてタイまで広がってきた。「インドシナ半島は、昔から民族移動のはげしいところである。メオは、そのなかでもっとも新しい移住者なのである。」(同上)
 インドシナ半島へのメオの移住は19世紀にはいってからのことであるが、概して平和裏に行われた。しかし太平天国の余波であった1860年代における移住は、先住のタイ族、ヤオ族との間に血なまぐさい闘争を巻き起こしたといわれる。
 ディマス神父の語るところでは、この辺りのメオ族は中国の新政権の誕生に伴って移動してきたものであるという。ディマス神父自身も戦前は中国にいて、山岳民の布教に従事していたのが、戦後はタイに移り、タイ北部の山岳地帯にやって来て、再びメオ族に出会ったというわけである。

 山中の武器製造所
 村のなかは人影が少なかったが、長老格らしい老人に、ディマス神父が中国語で話しかける(フランス語ほどではないが、梅棹は中国語も多少は理解した。中国語学習についても『実戦・世界言語紀行』のなかで触れられている)。老人は、梅棹一行のことを気にしていて、「日本人か」と質問したが、神父は否定した。日本人とは名乗らない方がいいというのが神父の意見である。戦争中、多くのメオ族が対日ゲリラに動員されたという経緯がある。老人は神父のことばにも関わらず、真相を察したようであったが、おそらくは神父のお客だということで、そのまま黙認した様子であった。

 村の家には小屋が付属していて、中に炉とふいごがあって、かじ屋の仕事場のように見えた。ディマス神父の説明では、彼らは下界から鉄材を買ってきて、ここで鉄砲を作っているのだという。鉄砲はかつてはレジスタンスのための武器であったが、現在は彼らの自衛の武器であり、また他の山岳諸民族に売って彼らの収入源にもなっているのである。

 一行は村のまんなかの広場に到着したが、小川隊員だけがいない。ドーイ・インタノン下山時につづいて2度目の行方不明である。30分ほどして小川が数人のメオ族の男たちに囲まれて村に戻ってきた。男たちは鉄砲をもっている。彼は焼き畑の様子を見ようと、山むこうの畑に出かけた。そこはもちろん、アヘン作りのためのケシ畑である。気がついた時には数人の武装した男に囲まれていたという。発砲されなくて幸いであった。

 山から続々とメオが帰ってきた。男たちは武装し、あるものは馬に乗っていたが、乗馬は巧であった。女たちは背に大きなかごを背負っていたが、カレンと違って、肩にかける背負い方をしていた。「男たちは、黒いズボンをつけ、女は色のししゅうのある、ひだの多いスカートをつけていた。そして、きゃはんをつけている。男はたいてい中折帽だが、子どもたちは中国ふうのお椀帽で、上にまんまるい赤の房がついている。女たちは帽子もターバンもかぶらず、くし巻きふうのまげである。みんな重たげな銀の首輪をつけている。」(232ページ)

 「すくなくとも男の服装は、あきらかにシナ文化の影響をおもわせる。」(同上)と梅棹は観察している。男の服装以外にもそのように考える材料はある(が、ここでは省略する)。

 アヘン収入のもたらすもの
 村の真ん中に、2軒のアンペラ小屋があって、そのうち1軒は役人が来た時に泊まるものだと説明されていたが、その中にいたのは若い中国人で、アヘンの密売のための集荷をしているのである。
 もう1軒は「店」で、本当に缶詰だの駄菓子だのを売っていて、これまた若い中国人の夫婦が経営していた。一行もこの店で夕食をとった。飯屋でもあるのである。
 驚いたのは、子どもたちが親たちから小遣いをもらって、この店で食事をしていることである。
 「おそろしい崩壊がおこっている。メオの子どもたちは、家庭で一家だんらんのうちに夕食をとるかわりに、店で「てんやもの」をたべてすますのである。」(233ページ) メオの親たちは、夕食どきに子どもに小ぜにをもたせて、「外でご飯をたべといで」と、追いやるのである。・・・メオ族自身は、ケシの栽培はしても、アヘン吸引の悪臭にはそまっていないようである。彼等の肉体は健康だ。しかしアヘンは、ほかのなりわいではとうてい考えられないような多額の現金収入をもたらすのである。その現金収入が、こういう社会的退廃をひきおこしたのにちがいない。これは、わたしにとってショッキングな経験だった。アヘンは消費者の人生を破壊するばかりでなく、こういう形で、生産者の生活をも破壊して行くのである。」(同上)

 現金がだぶついているのは、子どもたちが靴を履き、青年たちは腕時計をはめていることからも明らかである。若い娘たちは化粧をしているが、青年たちまでも化粧している。「これはもう、あきらかに異常である。」(234ページ)

 人民中国の成立の余波で東南アジアに移住してきたメオ族であるが、鉄砲を製造・販売したり、ケシを栽培し、アヘンの密売に関わったり、どうも油断できない存在である。そしてそのメオ族の村の様子に「無残さ」を感じたり、メオ族の子どもたちが夕食を「店屋物」で過ごす様子に彼らの生活の「恐ろしい崩壊」を見たりするところに、単なる観察をこえた梅棹の美意識や価値観の反映を見ることができる。次回も、北タイにおける彼らの実地研究の様子を追いながら、メオ族の問題も少し追いかけてみたいと思う。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(11)

8月9日(土/長崎「原爆の日」)晴れのち曇り、暑し。

 昔々、フランスの西の方を流れるヴィエンヌ川がロワール川に合流しようかという辺りの地方をグラングウジェという陽気で酒好きの王様が治めていた。この王様はガルガメルという妃との間に、ガルガンチュワという男子を儲けた。生まれたときに「おギャー、おぎゃー」ではなく「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と泣いたガルガンチュワは、生まれ落ちたときも大きな赤ん坊であったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、ますます立派な体躯の持主となった。
 ガルガンチュワの体が大きいだけでなく、なかなか賢い子どもであることを知ったグラングウジェは、詭弁学者を家庭教師にして学問を身につけさせようとするが、うまくいかず、新しい教育のやり方で教育し直すことを決心して、ガルガンチュワをパリに送り、ポノクラートという先生のもとで勉強させることにした。ポノクラートのもとでガルガンチュワは、一方では古典を、他方では自然科学と技術とを、実際的なやり方で楽しく学び、次第に賢く成長していった。
 さてお話かわって、グラングウジェの領地の隣にあるレルネという村に住む小麦煎餅売りたちが、町に煎餅を売りに出かける途中で、グラングウジェの領地の羊飼いたちが小麦煎餅を売ってくれというのを意地悪く拒絶しただけでなく、その中のマルケという男が、羊飼いの一人を打ち据えたために、羊飼いたちが反撃して、追い払うという事件が起きた。その際、小麦煎餅をちゃんと代価を払って買い入れたのであるが、小麦煎餅売りたちはそんなことは無視して、自分たちが商売の途中暴行を受けたということだけを、彼らの王様であるピクロコルに申し出た。これを聞いたピクロコル王は詳しい事情を調べもせずに、軍隊を招集し、グラングウジェの領地に侵入、略奪をほしいままにした。

第27章 スイイ-の一修道士が敵軍の略奪から修道院の葡萄園を救ったこと(スイイ-のひとりの修道士が、敵の略奪からブドウ畑を救う)
 ピクロコル王の軍勢は略奪を繰り返しながら、スイイーの村に近づいた。このスイイーというのは、すでに登場したシノンの近くに実在する村で、作者ラブレーが生まれたとされるラ・ドヴィニエール村の西南に位置しているそうである。村では黒死病が流行していたが、子の軍勢のなかの誰一人として、この病気にかかる者はいなかったというのは不思議である。
 スイイーの村には修道院があり、軍勢はこの修道院に襲いかかろうとしたが、修道院側は堅く門扉を閉ざしていたので、軍勢はそのブドウ園を襲って収穫を迎えていたブドウを争うとした。
 
 修道院では院長以下の面々がなすすべもなくおろおろしていたが、その中でジャン・デ・ザントムールという修道士がひとり、軍勢を追い払おうと立ち上がる。彼は「年は若く、元気は一杯、溌溂とし、陽気で、きわめて機転がきき、豪胆で、危難を恐れず、沈着果断、丈は高く、体は痩せ、耳まで裂かれたような大きな口事な鼻を具え」(135ページ)ていたが、ナナカマドの木の幹の芯で作られた槍のように長い十字架付きの棍棒を振り上げて、敵兵たちめがけて打ちかかった。怪力に物を言わせてあたるを幸いなぎ倒し、13,622人という多くの敵兵をあの世に送り込み、ブドウ園を守り抜いたのである。

 いよいよ、このシリーズで最大の人気役者のひとりであるジャン修道士が登場した。その陽気さと現実主義、怪力と剛勇とで物語を盛り上げることになる。ただ、修道士としては、やることがすこし荒っぽいのではないかと思わないでもない・・・。

第28章 ピクロコル王がラ・ローシュ・クレルモーを攻略したこと、ならびに開戦するにあたりグラングウジェは心残りを覚えて、なかなか腰をあげなかったこと(ピクロコル王、ラ・ロッシュ≂クレルモーを攻め落とす。グラングジエは戦端を開くことに悩み、ためらいを見せる)
 ピクロコル王の軍勢のうち、スイイーの修道院のブドウ畑を襲った一隊は、ジャン修道士の活躍により全滅してしまったが、それと別の方向に向かった本隊はラ・ローシュ・クレルモーの町に到着し、一泊した後、ここの城を攻略した。そして、この城に防御工事を施し、いざというときに避難場所として利用できるようにした。地理的に要害堅固な場所であったからである。

 さて、物語はピクロコル王の所からはなれて、ガルガンチュワとグラングウジェの方に戻る。ガルガンチュワはパリで勉学に励むとともに、体の鍛錬を怠らなかったのであるし、グラングウジェはその居城でのんびりとおとぎ話に興じたりしながら過ごしていた。
 そこへ、葡萄園の番をしていた羊飼いのひとりでピヨーというものが駈けつけて、レルネ王のピクロコルが、グラングウジェの領内で略奪を働き、領地を荒らした末に、ラ・ローシュ・クレルモー城に立てこもって、戦闘に備えているという次第を報告した。

 それを聞いて、グラングウジェはびっくりした。ピクロコルが領内に侵入してきた理由が皆目わからなかったからであり、平和主義者の彼は途方に暮れる。そこで、彼はあらゆる手立てを講じて平和を模索することとして、諮問会議を招集する。会議はピクロコル王のもとに使者を派遣して彼らの軍事行動の意図を尋ねること、また非常時であるので、ガルガンチュワに手紙を書いて国土の維持防衛のために帰国するよう促すことが決められた。グラングウジェもこれに賛同し、ガルガンチュワのもとに召使が手紙をもって向かったのである。

第29章 グラングウジェがガルガンチュワ宛にしたためた書簡の文面(グラングジエがガルガンチュアに書き送った手紙)
 手紙は、ピクロコル王が理不尽にもグラングウジェの領地に侵入し、その侵略行動の理由についてもはっきりしたことを述べないため、国土防衛のために戦わざるを得ない。被害を最小にとどめるために、帰国して自分を助けてほしい。勉学を妨げたくはないが、火急の時なので、よろしく協力してほしい旨が書き記されていた。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(11)

8月8日(木/立秋)晴れ、暑し。

 ジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に、世界一周の航海の途中で立ち寄った「太陽の都」の様々な制度と人々の暮らしぶりについて語る。
 「太陽の都」は太平洋上の島の中心部に広がる草原の中に、同心円状に城壁をめぐらして建設された都市で、「太陽」と呼ばれる神官君主によって統治されている。かれは形而上学者であり、軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖・教育・医療を司る「愛」という3人の高官に補佐されている。これらの高官たちを含めて、「太陽の都」の役人たちは、教育を通じて教師たちに能力・適性を見定められて任命された人々ばかりである。都市の中心に立てられている神殿の外壁と、都市の城壁の壁面にはあらゆる情報を授ける壁画が描かれたり、模型が置かれたりして、子どもたちの教育だけでなく、すべての人々の教養の形成に役立っている。
 私有財産はなく、人々は共同生活を行ない、必要な物資は配給され、人々は役人が指定した施設で寝起きする。市民全体が家族として暮らし、生殖は役人たちの指定によって結び付けられた男女の間で行われる。「太陽の都」では仕事を割り当てられることは名誉なことと考えられ、人々は喜んで働くので、奴隷というものは存在しない。

 ジェノヴァ人は、ヨーロッパでは事態は逆だという。ナポリには30万人の住人がいるが、そのうち5万人は働いていない。「働く者たちは、過度の労働のあまり精根を使い果し、怠け者たちは怠惰、貪欲、淫奔、高利のため身を滅ぼしています。」(坂本訳、32-33ページ)
 しかも、問題であるのは、この怠け者たちの方が威張っていることである。「この怠け者たちは多くの人々を召使いとして使ったり、貧乏にしておいたり、あるいは自分たちの悪徳の仲間に入れるなどして駄目にしてしまいます。この結果公務はおろそかにされ、田畑の手入れ、軍務、手工業はなおざりにされたり、いやいやながらおこなわれているに過ぎません。」(坂本訳、33ページ)

 ところが、「太陽の都」では人々すべてが働くので、労働は1日4時間で済み、あとの時間は「楽しく遊んだり、議論したり、本を読んだり、勉強したり、散歩したりして過ごしています。」(同上) 今日の言葉で言えば、ワーク・ライフ・バランスが保たれているというのである(これは、政治家たちの語る言葉だけは美しいけれども、実態としてはかなり過酷な状況にある現代の日本の労働事情を考えると、理想的な社会であるし、夢想にしか過ぎないとも言えそうである)。

 モアの「ユートピア」もすべての人々が働く社会であったし、『太陽の都』と『ユートピア』は他人の勤労に寄生して無為徒食する輩を批判している点では共通している。ただ、『ユートピア』での批判の矛先は、権力者や富豪に寄生している人々に向けられている部分が多いのに対し、『太陽の都』は、あまりはっきりとは書いていないが、権力者や富豪そのものを批判しているところに両者の認識の違いがある。そのことは、次のくだりを見れば明らかである。

 ジェノヴァ人は、「太陽の都」の人々の意見として、「極貧は人間を卑屈に、狡猾に、泥棒に、油断のならない者に、亡命者に、うそつきに、偽証人にしてしまうが、富裕もまた人間を傲慢、高慢、無智、裏切り者、愛情のない者、知ったかぶりなどにしてしまうのです」(同上)と述べる。それに対して、「太陽の都」は共産主義的な社会であるから、金持も、貧乏人もなく、これらの悪徳とは無縁である、このような社会のあり方はキリスト教と一致するという。

 このようなジェノヴァ人の報告に対して、マルタ騎士団員は「太陽の都」の制度は確かに結構なものであるが、婦人の共有という点は納得がいかないと、問題を掘り下げていく。確かに会話においては、男女の別、既婚・未婚の別なく人々は交わるべきであると古代の教父たちも述べている。しかし、寝床をともにするということになると話は別であると彼は言う(この辺りは、現在のイスラム教社会の女性の地位を考えると、より深く理解できる議論であろう)。

 ジェノヴァ人もこの疑問を受け止めて、これは飽くまで現在の彼らのやり方を紹介しているだけで、もし彼らがキリスト教に帰依するようなことになれば、現在の制度をやめて、一夫一妻制をとるようになるかもしれないと語る。「今までの所では、彼らは真の信仰を知らずに、ものごとを自然のままに扱っているので、これ以上自分自身を向上させる可能性はもっていません。」(坂本訳、35ページ) このようにジェノヴァ人に語らせているカンパネッラの真意について、彼自身が「太陽の都」の制度を一つの可能性という風に認識していたのか、それとも理想として考えていたが、そのように断言することを躊躇したのか、意見は分かれるところではないだろうか。
 そして、すべての市民が働くということをめぐり、年老いて意見番の役目を果たすようになった(そのほかに、他人のために役立つ働き方はできなくなった)市民は別として、すべての市民がそれぞれの役割を与えられて働いていることを強調し、生まれつき、あるいは自己のために障害を持つようになった人々も、それぞれに与えられている能力を生かして社会のために役立っているのだと述べる。
 『太陽の都』でカンパネッラが展開しているヨーロッパ社会批判と、「太陽の都」の姿は、『ユートピア』でトマス・モアが展開しているヨーロッパ社会批判と、「ユートピア」の姿と共通する点が多いが、修道士カンパネッラが獄中で書いた『太陽の都』のほうが社会体制に対する憤激が強く、その代わりに、実際の社会の実情を詳しく観察しているとはいいがたいところがあるというのは否定できないところであろう。マルタ騎士団員は今度は「太陽の都」における戦争について質問をする。『ユートピア』と同様に、『太陽の都』における戦争についての記述は、かなりの量に及ぶが、それはまた次回に。

『竹取物語』とお伽草子『梵天国』

8月7日(水)晴れのち曇り、依然として暑い。

 椎名誠さんの『かぐや姫はいやな女』(新潮文庫)を読み終える。かぐや姫が「いやな女」であるというのは、現代人であり、SF作家でもある椎名さんらしい感想であって、物語が成立した時代の婚姻制度を無視しているという、「はじまりはじまり」で椎名さんが議論したと書いている「若手女流作家」の意見もきちんと消化する必要があるが、かぐや姫の話は、そこで議論されているように伝承文学研究の文脈からだけでなく、国文学研究の文脈からも検討される必要があるというもう一つの問題もある。つまり、求婚者に様々な難題を科す美女(もしくは高貴な女性)という民話はあちこちにあるから、それらとの比較検討も興味深い作業であるが、『竹取物語』をめぐるなぞの解明というのも取り組むべき作業ではないかということである。

 『竹取物語』をめぐるなぞといわれていることの主なものを挙げると、物語の伝来に関わるなぞがある。例えば、浦島太郎の話は、『日本書紀』に浦島子として出てくるのを皮切りに、『万葉集』や『丹後風土記』、さらには『浦島子伝』などと古代の文献に多く記され、その後も様々な形で書き記されて、お伽草子のなかにも収録されているのだが、かぐや姫の方は、『竹取物語』が孤立して存在し(『今昔物語』に類話があるとはいえ)、お伽草子にも入っていないという特異性がある。
 さらにまた、『源氏物語』の「絵合せ」の帖には「物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』」として言及されているが、「物語は住吉、宇津保…」という『枕草子』201段には言及されていないのはなぜか、という問題もあるという。

 私が一番気になっているのは、『竹取物語』でかぐや姫が5人の貴公子たちの求婚を退けた後、帝が登場し、御殿に召し出そうとするが、かぐや姫がそれも拒み、とうとう帝がかぐや姫のところに押しかけていくと、彼女が姿を変化させて、そのことで帝も彼女が尋常の存在ではないことに気づいて、召し出すことをあきらめるというくだりである。その後、帝は、かぐや姫に何通か手紙を送り、かぐや姫もそれに返事をしたためるが、そのうちに彼女が月の世界に帰ることになる。帝はそれを阻止しようとするが、月の世界の人々には全く歯が立たない。かぐや姫は自分を養ってくれた翁と媼に不死の薬を残していくが、2人はそれを飲もうともせず、帝に献上する。しかし、帝も飲む気がしないので、富士山の頂上でこの薬を燃やさせたというのが結末になっている。
 何が言いたいのかというと、この物語の帝は、人間としての限界をわきまえた、非常に賢明な人物として描かれているということである。これと対照的に、横暴極まりない人物として描かれているのが、お伽草子『梵天国』に登場する帝である。

 『梵天国』は梵天王の娘を妻にした五条の中将という貴公子が、その妻が鬼にさらわれたのをとり戻すという規模が大きくて、波乱にとんだと言えば、褒めたことになるが、そのわりに荒唐無稽というか、中将が途中で突如、中納言になっているというように、語り手の側の不手際も目立つ物語である。〔王朝時代の官位は中将≦参議<中納言ということで、中将と中納言とでは官位の隔たりがある。〕

 五条の中将は清水の観音の申し子で、笛の名手であった。世を去った父母の追善のために笛を吹いていると、梵天王が現れ、その笛の音に感動したので、自分の娘を嫁がせるという。こうして中将は梵天王の王女と結ばれたが、時の帝がこの王女に関心を抱き、さまざまな難題を持ちかけて、王女を参内させようとする。『竹取』の帝は、かぐや姫が地上の存在ではないと悟って、彼女を自分のもとに置くことを断念するのだが、こちらの方は梵天王の王女という天上の存在であることを知ってますます彼女を自分のものにするという欲望が募るというのだから始末が悪い。

 それらの難題の一つ一つを、中将は王女の助言を得て解決していくのだが、最後に、梵天王の判を得るという課題のために梵天国に出かけることになり、その留守のうちに、鬼の国の国王に妻を奪われてしまう。そこで、今度は清水の観音の助けを得て、妻を取り返しに出かける。

 物語の結末は、言わないことにするが、中将が笛の手であるという芸能上の特徴を除くと、後は神仏の加護というような超自然的な力によって問題を解決していく。同じお伽草子でも、源頼光が大江山の酒呑童子を退治した話のように、神仏の加護を受けるにせよ、自分たちの力によって問題を解決していくというわけではない。問題解決の力を持った武士と、他力本願の公家という力の差がうかがわれるのである。大江山の酒呑童子の物語は、摂関政治の最盛期である一条天皇の治世の時代の出来事として描かれているというのも注目していいことかもしれない。

 横暴な要求によって中将とその妻とを苦しめた帝であるが、その横暴さそのものについての帰結は物語の中で記されていない。ただ、お伽草子らしいといえば、そういえるのだが、中将もその妻も、じつは神仏の仮に現れた姿であったということが語られる。そのことによって帝の権力も相対化されてしまうのだが、横暴なふるまいが道徳的に免罪されるというわけではあるまい。富士山の頂上から吹き出る煙が物語を締めくくる『竹取物語』と比べて、御伽草子『梵天国』は不満の残る展開のまま終わるのである。

『太平記』(274)

8月6日(火/広島「原爆の日」)晴れ、暑し。

 康永元年(この年4月に暦応から改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国、中国地方における宮方の反抗は鎮圧され、天下は武家方のものとなり、公家は衰え、北朝の朝廷においても朝廷の諸行事も行われない世となった。
 足利尊氏と直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めるために、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(南朝興国6年、西暦1345年)8月の天龍寺の落慶法要には、花園・光厳両上皇が臨席されることになっていたが、比叡山延暦寺の訴えに配慮して、8月29日の落慶の翌日に御幸された。法要が勅会とならなかったことは不吉の前兆であり、以後、天龍寺はたびたび火災に見舞われた。
 その頃、備前の三宅(児島)高徳は、丹波の荻野朝忠と結託し、新田(脇屋)義治を大将として挙兵を企てたが、計画が露見し、荻のは山名時氏に攻められて降伏した。三宅高徳は備前を脱出して京都へ上り、足利兄弟の夜討ちを企てたが、夜討ちの前日に事が漏れて幕府方に襲われ、宮方の兵の多くは自害し、高徳は大将新田義治とともに信濃へ逃れた。その折、壬生の地蔵堂に隠れた香勾(こうわ)高遠は、地蔵菩薩の霊験によって命を救われた。

 今回から、第26巻に入る。
 貞和(じょうわ)4年(南朝正平3年、西暦1348年)10月27日、後伏見院の御孫で(光厳院の皇子で)ある興仁王(おきひとおう)が16歳で皇位を継承されることとなり、同日、内裏で元服の式を挙げられた(崇光帝である)。三種の神器のうち宝剣と宝璽とを手にされて後、28日に萩原の法皇(花園院)の長子である直仁親王が東宮になられた。御年13歳であった。
 この個所は、かなり多くの注釈を加える必要がある。岩波文庫版の脚注によると、この26巻に記されている足利直義室の懐妊や、楠正成の遺子である正行の挙兵などの出来事は、貞和3年の事柄であるが、巻頭に貞和4年の崇光帝即位を記すことで、あたかもこれらの出来事が貞和4年に起きたことのように記されている(後で出てくる仁和寺の六本杉で起きた怪異との辻褄合わせである)。
 ところで、飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館)には、このあいだの事情をめぐり注目すべき記述がある。光厳院が自分の子である興仁王の後継者として、叔父である花園院の子の直仁親王を選ばれたのは、ご自分が皇太子時代に薫陶を受けた恩に報いるためであるというのが従来の説であったが、実は直仁親王は光厳院の子であることを院ご自身が証言された置文が存在するというのである。直仁親王の子孫に皇統を伝えるべしというのが光厳院のご意志であったが、岩波文庫の脚注にある通り、直仁親王は観応の擾乱のあおりで、観応2年(1351年)に廃太子されてしまった。その際に出家されたが、応永5年(西暦1398年)まで生きながらえられることとなった。

 新帝の御即位に伴い大嘗祭を行なうこととなり、卜部宿禰兼前(うらべのすくねかねさき)が新穀を献上する悠紀(ゆき)・主基(すき)両国を卜定する儀式を行い、国郡が決められて、悠紀・主基の祭田に稲穂を抜き取りに出かける使者が丹波に派遣された。その10月に行事所始めという、大嘗会を差配する役所の執務初めがあって、斎庁所という神饌を整える建物を建てようとしたときに、院の御所で不思議な出来事が起きた。
 まだらの犬が、3歳ほどの幼児の首を銜えて現れ、院の御所の南殿(南おもてにある正殿)の広縁の上に首を置いた。夜明けに、格子戸をあけた御所の侍が、箒をもってこの犬を追い払おうとしたところ、この犬は御殿の棟の上に上って西の方に向けて3度吠え、どこへともなく姿を消してしまった(犬が建物の壁をのぼるというのも不思議である)。

 「このような怪異な出来事は、死の穢れに触れることであり、今年の大嘗会を取りやめるべきである。そうでなくても、先例を参考にし、法令を探って方策を勘案したほうがいい」と法律を専門とする坂上・中原の両家の人々に意見を徴した。皆、「一年の触穢が適当でしょう」という意見であったが、その中で刑部省の大判事であった坂上明清の意見書に、法令からの引用をしながら、「神道は王道によつて用ゐる所なりと云へり。しかれば、ただ宜しく叡慮に在るべし」(岩波文庫版、第4分冊、166ページ、神の意向は王の意向の赴くところに従うといいます。ですから、ひとえに帝のお考え次第です)と意見を申し立てていた。帝も上皇も、この明清の意見書が気に入られて、そのとおりであると思われたので、今年大嘗会を行うことにすると、武家へ院宣を下された。

 武家(幕府)はこの命令に従って、国々へ大嘗会に備える新米を供出するように急き立て、強制的に取り立てた。ここに至る数年間というものは天下の兵乱が続いて、国土は疲弊し、人民は苦しんでいるところであるのに、帝の御位がしきりに交代し、大きな儀式が繰り返し行われているので、人々はそのための負担の大きさに苦しみ、これが仁政であるなどと思うものはいなかった。それで、こと騒がしい大嘗会であることよ、今年わざわざ行うこともないだろうにと、人々は陰で非難しあったのである。院の御所で起きた怪異な事件は、世にもまれな出来事であるというのに。

 崇光帝と光厳院が、怪異にもかかわらず大嘗会を延期しようとされなかったのは、宋学の影響のもとで合理主義的な考えをされたからであろう。その一方で、院の周囲の人々が怪異があるので、大嘗会を延期すべきだといい建てたのは、兵乱の影響で人々が疲弊し、困窮しているからである。つまり、ここには笑えない事情が秘められているように思われる。院の周辺の人々が、怪異などに託さないで、もっとはっきりと、人民が疲弊・困窮しているから大嘗会を取りやめるべきだといえば、崇光帝はともかく、光厳院は考えを改めたかもしれないのである。そしてこの意志の疎通の滞りが、人々の不満につながっていく。歴史というのは、こういう出来事の繰り返しに満ちているのかもしれない。
 『太平記』の著者は、宋学の合理主義の大義名分論の影響はともかく、合理主義のほうの影響は受けていないようで、さらなる怪異について、次に記すことになるが、それはまた次回に。

日記抄(7月30日~8月5日)

8月5日(月)晴れ、暑し。

 7月30日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:
7月30日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)のコーナーは、カリブ海のフランス語圏の国:ハイチ(HaÏti)を取り上げた。
 「ハイチ」は先住民の言葉で「山ばかりの土地」という意味であり、フランス植民地時代にはサン≂ドマングと呼ばれていた。
Avant la Révolution française, la colonie de Saint-Domingue fournissait les trois quarts de la production mondiale de canne a sucre. On l'appelait la . (サン≂ドマング植民地は、フランス革命前には世界のサトウキビの4分の3を生産し、「カリブの真珠」と呼ばれていた。)
 しかし、革命の人権思想に刺激を受け、トゥーサン・ルヴェルチュールが率いるドレイの反乱がおき、1804年に、ハイチは初の独立した黒人共和国となった。
 ハイチでは独立時からフランス語が公用語とされたが、1987年にハイチ・クレオール語も公用語となった。日常生活ではクレオール語、公的な場面ではフランス語が用いられる。ハイチの人口は1100万人ほどで、42%がフランコフォンである。

 『三銃士』、『モンテ・クリスト伯』などを書いたアレクサンドル・デュマ(父)(Alexandre Dumas, père, 1802-1870)の父親トマ≃アレクサンドル・デュマ(Thomas-Alexandre Dumas, 1762-1806)はハイチで、フランス人の貴族と黒人の奴隷女の間の私生児として生まれ、後にフランスにわたって軍隊に入り、王党派から革命派に鞍替えして、陸軍中将にまでなるが、ナポレオンとの反目から軍隊を去るという劇的な人生を送り、息子であるデュマの多くの小説のモデルとなっている。

7月31日
 『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophone"はカリブ海に面した、フランスの海外県・地域圏(DROM)であるグアドループ、マルティニーク、フランス領ギアナ、海外自治体(COM)のサン=バルテルミー、サン≂マルタンを取り上げた。これらの地域ではそれぞれクレオール語とフランス語とが社会の中で併用されている。グアドループの人口は45万人ほどでフランコフォンの割合は84%、マルティニークでは38万人の人口の81%、フランス領ギアナは29万人の人口の62%がフランコフォンである。

 ナポレオン・ボナパルトの妻ジョゼフィーヌはマルティニーク島の大農園主の娘として生まれた。ジョゼフィーヌの息子であるウジェーヌ・ド・ボアルネはバイエルンの王女オギュスタ=アメリ―と結婚し、その子どもたちも各国の王族・貴族と結婚したために、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ギリシャの王族の先祖となった。(ということは、現在の英国の王室にも、その血が流れているということである。)
 グアドループ生まれの詩人サン=ジョン・ペルスはノーベル文学賞を受章した。1985年に日本で公開された映画『マルチニックの少年』は同島出身の作家J・ゾベルの少年時代の回想を、同じくこの島で生まれ育った女流監督ユーザン・バルシーが映画化したもので、高く評価された。

 倉田徹 張彧まん『香港 中国と向き合う自由都市』(岩波新書)を読み終える。

8月1日
 4月に行われた全国学力テストの結果が公表され、「話す」、「書く」のスキルにおいて課題があることがわかったという。最近の英語教育は、「コミュニケーション」重視、発信型の英語のスキルを育てることを主眼として改革が進められてきたのであるから、この結果に対する受け止めはかなり深刻なものがあるのではないかと思う。『朝日』の解説記事は、「発信力も基礎も不足」という見出しでまとめていたが、これは違うのではないか。「基礎はできているが、発信力が不足」している生徒と、そもそも「基礎ができていない」生徒の2種類があるという受け止め方をすべきではないのか。詳しい調査結果がわからないので、踏み込んだ論評は控えるが、この結果を単純に論評すべきではないと思うのである。

8月2日
 『NHK高校講座 古典』は『論語』の3回目(3回放送)。政治をテーマにした章句を取り上げたが、その中の国を保つ柱として、「兵」、「食」、「信」を挙げ、そのうち一つを捨てるということになれば、「兵」を捨て、さらに一つを捨てるとなると、「食」を捨てる、一番大事なのは人々の「信」だというのは、山岡荘八の『徳川家康』で、今川の人質になった竹千代(→家康)が、今川の軍師である太原雪斎に呼び出されて、聞かされる話である。この話は、どうも岡谷繁実の『名将言行録』に出てくるらしいのだが、確認していない(この本を読んだ記憶はあるのだが、この話が出てきたという記憶はないのである)。なお、竹千代と雪斎のこのエピソードは昔、テレビの『少年徳川家康』に取り上げられていたから、ある年齢の人だと思い当たるのではないかと思う。

8月3日
 『朝日』の「塾が教えない 中学受験 必笑法」という記事で、おおたとしまささんが、「無理やり勉強させるのではなく、安心感を与えることが親の役割」と書いているのが、自分の経験から言っても、その通りだと思われる記事であった。知育・徳育を通じて、子供が自分の存在、親との関係を通じて、安心感を抱くということが一番の基礎だと思うからである。

 同じく『朝日』の「古典百名山」で平田オリザさんが二葉亭四迷の『浮雲』を取り上げているのを興味深く読んだ。「四迷は新しい文体を得たが、それで何を書けばいいのかが解らなかった。彼はロシア語に堪能で、当時、西洋近代文学の頂点を極めつつあったロシア文学に精通していた。それとの対比から、己の力のなさを自覚していたのだろう。四迷が再び小説を書くのはこの20年後になる。」
 もっともロシア文学の方でも、トルストイの『戦争と平和』にやたらフランス語の部分が出てくるというよう菜、表現をめぐる問題はあったのである。オースティンの『分別と多感』に出てくるマリアンが『アンナ・カレーニナ』のキティーに似ているところがあると思う(ただし、マリアンの結婚後がどうなったかをオースティンは詳しく書いていないのに対し、トルストイはキティーの結婚後を詳しく書いている)。この例のように、この時代のロシア文学には、民族性を突き抜けたある種の普遍的な人物造形に成功しているところがあるように思うのだが、それとこれとは別の問題なのであろうか。

 『日経』に土曜日ごとに掲載されている「詩人の肖像」で吉増剛造さんが取り上げられていて、ご丁寧に学校歴まで紹介されていたので、吉増さんが東京都立立川高校→慶応義塾大学という経歴であることがわかった。吉増さんは1939年生まれだそうで、とすると、高校1年の時に同じ学校の3年に東海林さだおさんが在学していたということになる。部活動などで一緒にならない限り、学年がちがうと接触する機会はほとんどないはずであるが、それでも2人のかなり違う個性が同じ学校で学んでいたことを考えると、楽しくなるところがある。

8月4日
 『日経』の日曜日の紙面のまとめ記事「このヒト」に登場していたマイクロソフトのCEOサティア・ナディラさんの「『何でも知っている』から『もっと学ぼう』に変わらなければ」という発言が心に残る。学ぶことは、自分の知識の量や精度を見極めて、その改善を図ることでもある。

8月5日
 『日経』1面のコラム「春秋」に、先日行われた学力テストで、封筒の表にメール・アドレスを書けば、相手方に郵便が届くという解答をした子どもがいたという話が書かれていた。しかし、長谷川町子さんが書いていたように「世田谷区のサザエさん」でファン・レターが届いた例もあったそうである。サービスは、常識を超えるものではないかとも思われる。

 『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"ではクレオール(créole)についての話題を取り上げた。この言葉は、スペイン語のクリオーリョ(criollo)を語源とし、当初は植民地で生まれたものを指して用いられていた。ナポレオンの妻となったジョゼフィーヌのように、植民地で生まれたヨーロッパ人がクレオールと呼ばれたのである。
 しかしその後、西欧文化と非西欧文化との接触によって生まれた新しい文化がクレオールとよばれるようになった。このクレオールの文化は、新しい文化の可能性を示すものとして世界的に注目されるようになった。
 クレオール語(Les langues créoles)とは、異なる言語を話す者同士が意思疎通の必要にせまられ、作り上げた言語(ピジン)が母語となった言語のことである。フランス語圏地域のクレオール語は、黒人の奴隷が使っていたアフリカの様々な言語と支配者の言語フランス語とが融合してできた混成語であるという。
 クレオール文化が世界的に注目を集めたのは、マルティニーク島出身の文学者たちの活躍によるところが多い。この島からはエメ・セゼール、エドゥワール・グリッサン、パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアンらの文学者が出現した。
 そういえば、ラフカディオ・ハーンもクレオール文化に興味を寄せて、マルティニーク島を訪問したことがあるそうだ。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(4)

8月4日(日)晴れ、暑し。

 18世紀の終わりから、19世紀の初めにかけてのイングランド。ロンドンの北の方にあるハートフォードシャーのロングボーンという村の地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス、メアリー、キャサリン、リディアという5人の娘がいた。ベネット夫人にとって、この5人の娘たち(長女のジェインが22歳くらい、末のリディアが15歳くらい)の結婚が最大の関心事であった。
 だから、ロングボーンの近くのネザーランド・パークという邸宅をビングリーという北イングランドの大金持ちの青年が借りて住むようになったという情報を得ると、ベネット夫人は娘たちの1人をその妻にしようと張り切り始めた。
 この地域の中心地であるメリトンの町で開かれた舞踏会に、ビングリーは結婚している彼の姉(ハースト夫人)、その夫(ハースト氏)、未婚の妹(ミス・ビングリー)、親友だというダーシーという人物を連れて参加した。気さくなビングリーは、人々の人気を集めたが、あまり人とうちとけないダーシーは、ビングリーよりも家柄がよく、裕福だという噂にも関わらず、不評を買った。ビングリーはジェインと2度踊り、二人は互いに好意を抱き合ったようであったが、ダーシーは、エリザベスが1人で踊らずにいるときに、彼女と踊るようにビングリーに勧められて、踊りたくなるほどの美人ではないと断ったのをエリザベスに聞かれてしまった。
 ジェインはエリザベスにビングリーを愛していること、彼の姉妹たちも好感の持てる人びとであると思っていることを告げるが、エリザベスはジェインのビングリーへの愛情を喜ぶが、彼の姉妹たちの他を見下すような姿勢を見ると姉の意見には同意できなかった。彼女は、ジェインがビングリーへの思いを伝えることに慎重であることを喜んでいたが、彼女の親友で隣人であるシャーロット・ルーカスは、もっと積極的に思いを打ち明けた方がいいのではないかという。エリザベスは姉とビングリーの恋のことで頭がいっぱいだったが、彼女の知らないところで、もう一つの恋が始まろうとしていた。彼女が踊りたいほどの美人ではないといったダーシーが、その後で、彼女の眼の美しさやその表情に魅力を感じ始めていたのである。
 そこで彼は機会をとらえては、彼女がどのような人物であるかを知ろうとしたが、最初に受けた侮辱で心を硬化させていたエリザベスは、彼に容易に心を開こうとはしなかった。ダーシーはミス・ベネットにエリザベスの美しい瞳について話してしまうが、そのため(ダーシーとの結婚を思い描いている)ミス・ベネットはエリザベスに敵意を燃やし始めたのである。(第6章まで)

 ベネット氏は年に2000ポンドの収入のある地主であったが、その地所は、限嗣相続のために、ある遠縁の人物(第13章から登場するコリンズ氏)の手に渡ることになっていた。ベネット夫人の父親はメリトンの町で事務弁護士(attorney)を開業していたが、娘のためには4,000ポンドの遺産を残したのみであった。ベネット夫人には姉と弟があり、姉はフィリップスという父親の事務弁護士の仕事の後継者と結婚して、メリトンに住み、弟はロンドンのシティーに住んで商人をしていた(弟のガードナー氏とその夫人は、物語の公判で重要な役割を演じることになる)。
 イングランドでは弁護士は法廷弁護士と、事務弁護士とに分かれ、上位裁判所で当事者のために弁論できるのは法廷弁護士だけである。オースティンの時代には、法廷弁護士はsergeantあるいはbarristerと呼ばれており、事務弁護士はコモン・ロー裁判所の場合にはattorney,衡平法裁判所の場合にはsolicitor,海事・宗教・検認・離婚裁判所の場合にはproctorと言ったが、1873年の裁判所法で、すべての事務弁護士をsolicitorとよぶようになった。(法廷弁護士の方もbarristerに統一された)。法廷弁護士になるには、法曹学院(Inns of Court)の一つで教育を受け、資格を授与される必要がある。これに対して事務弁護士になるには一定期間(通常5年)実務修習生として勤め、その後、事務弁護士協会の課する試験に合格しなければならない。物語の中でも触れられているように、両者の間には大きな階級的な差異があった。(現在ではそんなことはないようである。) とにかく、ビングリー姉妹は、ベネット姉妹の伯父が事務弁護士であるということで、彼女たちが上流の紳士と結婚する資格がないと考えている。もっとも、物語を詳しく読めば、ビングリー姉妹も、ベネット姉妹とたいした階級的な格差がないことがわかるはずである。
 ベネット夫人の義兄と弟は、自分の実力で社会的な地位を上昇させているミドル・クラスに属する人々であるが、ベネット夫人がそのような階級的自覚から縁遠い人物であることも注目しておいてよい。この前後で、彼女は軍人やその軍服姿にあこがれるが、この時代(ヨーロッパ大陸ではナポレオンが活躍していた時代)の英国の軍隊での出世は、その人間の出自と有力者の保護のあるなしによっていた。

 ロングボーンの村とメリトンの町の間の距離は2キロほどだったので(原文ではonly one mileとあるから、もっと短い)、ベネット家の姉妹は、このメリトンに住む伯母(フィリップス夫人)のところに、週に3・4回ほどは顔を出していた。特に、頭の空っぽな下の2人、キャサリンとリディアが熱心であった。
 ナポレオンに率いられたフランス軍が、いつイングランドに侵攻してくるかわからなかった時代なので、イングランドでは義勇軍が組織されていた。その義勇軍の連隊がメリトンに本部を置いて、この一帯に駐在することになった。フィリップス伯父が、この連隊の士官たちと近づきになったために、キャサリンとリディアは、士官たちの情報をたくさん仕入れることができ、そのことで2人の話題は独占されていた。ベネット氏は、そんな2人の娘をたしなめようとしたが、下の2人の娘たち、とくにリディアに甘いベネット夫人がそれを妨げた。

 ベネット家でそんな会話が交わされているときに、ジェインのもとへ、ミス・ビングリーから招待の手紙が届いた。退屈なので、訪問してほしいというのである。ジェインはネザーフィールド・パークまで馬車で行こうとしたが、ベネット夫人は騎馬で行かせようとした。もし雨が降れば、引き留められ、その結果としてビングリーと親密になる機会が増えるだろうという考えからである。
 その通り、ジェインは騎馬で出かけ、途中で雨に降られたので、ベネット夫人は自分の計略が図に当たったと喜んだが、ジェインは訪問先で風邪を引いて寝込んでしまった。そのために、ネザーフィールドで引きとめられたのだが、ベネット夫人はむしろそれを喜んだのである。

 風邪をひいたというジェインからの手紙を受け取ったエリザベスは、彼女の様子を見に出かけようとする。彼女は姉と違って馬に乗れないので、歩いて出かけようとする。わずか3マイルなので、その日のうちに行って戻ってくることはできるという。キャサリンとリディアがメリトンまで一緒に出掛けるというので3人はそろって出かけ、メリトンで2人と別れて、エリザベスはネザーフィールドに向かう。
 朝早く、衣服を泥だらけにしてエリザベスが現れたので、ネザーフィールドの人々は驚くが、彼女を迎え入れる。ビングリー姉妹は彼女の行動を軽蔑しながらも、いんぎんな態度で彼女を迎えた。ビングリーは姉思いの妹の出現を好意をもって迎え、思いやりの表情を浮かべた。ダーシーは運動で上気したエリザベスの表情の美しさに見とれながらも、わざわざこんなことをする必要があるのかといぶかっていた。朝食のことしか頭にないハーストは何も感じなかった。

 ジェインの容体はあまり好ましいものではなかった。やがて薬剤医師がやって来てひどい風邪であると診察した。エリザベスは姉の看病をつづけたが、3時になったので帰ろうとした。ミス・ビングリーが自分たちの馬車を出そうというので、彼女はその申し出を受け入れようとしたのだが、ジェインが心細がり、ミス・ビングリーもエリザベスに屋敷に留まるように勧めないわけにはいかなかった。エリザベスは深く感謝して、この申し出を受け入れ、召使がロングボーンに向かって、この旨を伝え、エリザベスの着替えを持ち帰ったのであった。

 第1部が23章、第2部が19章、第3部も19章、合計61章というこの長編小説の第1部第7章までやっと読み終えたことになる。ネザーランド屋敷に泥だらけで現れたエリザベスの姿はかなり異様なものであったはずだが、姉のジェインを愛しはじめているビングリーは姉思いの妹の姿を受け入れ、そのエリザベスに興味を持ち始めているダーシーは、彼女の上気した表情に魅力を感じてしまう(そういう女性の表情をそれまで見たことがないためでもあろう)。ビングリー姉妹はエリザベスの異様な姿を嘲笑するが、どうも効果は乏しいようである。ということで、物語はまだまだどこに行き着くかわからない展開を始め、しかも、これからまだ新しい登場人物が現れて、ますます複雑になっていくのである。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(20)

8月3日(土)晴れ、暑し。

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は、大阪市立大学の研究調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を訪問、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査を行った。これはその調査旅行の私的な記録である。
 参加したのは霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人と依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、文化人類学の藤岡喜愛である。バンコクに集合した一行は、第9回太平洋学術会議に参加して、研究発表を行い、その後、自動車の運転の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットを訪問した。この旅行から、タイのチュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として加わった。
 一行が主要な調査を行うのはタイ北部の山間部で、タイ側の協力者としてチュラーロンコーン大学の動物学のクルーム教授の助手のヌパースパットが加わった。12月24日にバンコクを出発、ロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンを経て、チェンマイに到着した。森林での調査を円滑に行うため、森林局の職員の派遣を要請し、森林官のサイヤンが同行することになった。サイヤンは有能で調査は順調に進むことになる。
 一行はタイの最高峰であるドーイ・インタノンの登頂を試みる。山の標高に応じて、植物、動物、人間の生活の諸類型が垂直的に配列されているのを見極めようというのである。山麓のメー・ホーイの村を出発し、1日の行程でカレン族の集落に出会う。カレン族の集落であるパーモンで、彼らの中から荷物運びを雇い、もはや、ウマやゾウが使えない登山を続行する。

第8章 最高峰に登る(続き)
タイの最高峰
 一行はこれまで登ってきた谷のつまりの鞍部までは比較的楽に達することができた。鞍部は見晴らしがよくて、パーモンの谷を一望することができた。鞍部からは再び、深い森の中に入った。シイ、カシ類を主とする常緑広葉樹林である。樹木の下ばえは少なく、歩きやすい代わりに急傾斜になやまされた。
 このひどい登りのなかで、依田は5人分に相当する仕事をしていた。目についた植物を採集し、温度・湿度を測定し、光度計で林内の受光量を測定する。歩きながらしじゅう写真を撮る。そして登山者として歩く。
 川村は銃を携行しているが、それが役立つようなことはない。鳥も少ない。ほかの隊員はただ歩くだけである。

 「2300メートルあたりから、わたしたちは蘚苔林(モス・フォレスト)に入った。すべてが、コケにおおわれているのである。木の幹から、木の葉の表面にまで、コケが生育している。そして、木の間からもれてくる逆光線をあびて、そのコケが一せいにかがやく。あたりは、金緑色のやわらかな光に包まれる。」(219ページ)
 「熱帯の山の、上の方は、いつも雲がかかっていて、常時湿度が飽和状態に近い。それでこういうものができるのである。」(220ページ) 梅棹は、1941年にポナペ島で同じような蘚苔林を経験している。しかし、そのときとは、規模が違うという。〔映画『南太平洋』はハワイのカウアイ島でロケーション撮影されたそうであるが、映画の中で「バリ・ハイ」として描かれている山の上の方には雲がかかっていたのを思い出す。〕

 「5時、ついに山頂に達した。山頂には、1メートルばかりの高さの石積みがあった。山頂附近は、文字どおり昼なお暗い大森林だった。どっちを向いても、コケを一ぱいくっつけた巨大な木がならんでいるばかりだった。展望は何もなかった。熱帯の山というのは、こういうものだろうか。2600メートルもあるタイの最高峰だというのに。」(同上)

「出たッ!」
 その夜は、山頂近くの小さな高層湿原のまんなかの島がすこし乾いているので、そこに2つのテントを張って、9人の隊員がすし詰めになって寝ることにした。同行したカレンたちは、テントをもっていないので、少し離れた森の中の斜面で、火を焚きながら夜を明かすことになった。

 午前1時ごろ、テントの近くで「ウォーッ」というほえ声が聞こえた。しばらくの間、緊張が続き、ほえ声は7・8回聞こえたが、声の主は姿を現さなかった。それはトラであったかもしれないし、ホエジカであったかもしれない。ドーイ・インタノン山群は野生動物の宝庫であるといわれているが、一行はこれまでほとんどそれらしき動物に出会わなかった。それでも、トラに出てこられるのは御免である。ホエジカなら、テントの近くに来てくれても差支えはなかったと梅棹は書いている。

絶対最低気温
 山頂の夜は、しんしんと冷えた。寝る前から気温は低かったが、夜が更けるにつれてますます気温は下降した。明け方の、午前6時、定時観測において、寒暖計は氷点下3度を示した。
 熱帯育ちのヌパースパットとサイヤンの両人は寒さに耐えきれず、起き出したが、外を見て、「雪だ」と叫んだ。
 雪を見たことのない2人は、地面が霜で真っ白になっているのを雪と勘違いしたのである。雪ではなく霜だと聞かされて2人はがっかりした様子であったが、それでもタイではこれまで霜が降りているのが確認されたことはなかった。ドーイ・インタノンに冬季に登ったのは、この一行が初めてだったのである。

 「氷点下の気温というのは、2人のタイ生まれの隊員にとっては、あきらかに初めての体験であったはずである。タイ国内では、いままでに実測された最低気温は、プラスの0.5度ということになっている。すると、マイナス3度というわれわれの観測値は、科学的に実測されたかぎりでの、タイにおける絶対最低気温の記録となったわけである。」(223ページ)

小川の「遭難」
 下りは急な坂をどんどん降りて行き、汗はかかなかったが、膝ががくがくになった。パーモンのベース・キャンプにたどりつくまで丸1日かかってしまった。
 ベースキャンプにたどりついたのだが、途中、森を抜けたところで、休閑地のカヤの草原の生産力測定をしてから帰ってくるといって一行から分かれた小川がなかなか帰ってこない。道はわかっているから、帰ってこられるはずなのに帰ってこないので、心配になって、サイヤン、依田、川村、葉山が見に行くことになった。暗闇の中に明かりが見えて、小川の居場所が分かった。完全な暗闇になったために、道がわからなくなって、火をおこして野営しようとしていたところだったという。何も起こらず、無事帰ることができたのは幸いだったが、その間、スイギュウの群れがこちらの様子をうかがっているのに出会ったのは恐ろしい経験だったそうである。

 翌朝、カレン族たちに金を払い、また荷物をウマに積んで、パーモンを去り、その日は、ソップ・エップで泊った。そしてまた1日を費やして、ジープの置いてあるメー・ホーイの村に帰りついた。結局、ドーイ・インタノン登山にまる8日をかけたことになった。

 こうして、最後で「事件」が起きたとはいえ、どうやらタイの最高峰ドーイ・インタノン登山を終え、この書物の第8章も終わることになる。次回からは、第9章「類人猿探検隊」に入る。まだ研究調査はロケハンの段階で、隊員が腰を落ち着けて研究する場所を探さなければならない。まず、サルの研究家である川村の研究場所を探すための移動が続く。また第9章ではビルマ(ミャンマー)から越境してきたカレン族とは別の山地民である、中国からやって来たメオ族との遭遇も描かれる。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(10)

8月2日(金)晴れ、暑し。

 昔々、グラングウジェという陽気で酒好きな王様がいた。かれはガルガメルという妃を迎え、赤ん坊が生まれた。その赤ん坊は、生まれるとすぐに、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫び出し、それを聞いた父親が「やれやれお前のはでっかいわい」(Que grand tu as!)といったことから、ガルガンチュワと命名された。
 ガルガンチュワはもともと大きな赤ん坊であったが、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、よく遊び、5歳になると、父親に向かって衛生的な尻の拭き方を韻文混りで語るなど、利発な子どもであることがわかったので、グラングウジェは、家庭教師をつけて勉強させた。ところが50年以上も熱心に勉強したのに、一向に賢くなるどころか、頭が悪くなったようにさえ思われた。
 そこでこれは教育方法が間違っていたのではないかと思ったグラングウジェは、新しい教育を受けたユーデモンという若者を呼び寄せて、ガルガンチュワと問答をさせたところ、ユーデモンが弁舌爽やかにラテン語で議論を進めたのに対し、ガルガンチュワは何も答えることができなかった。そこで、グラングウジェはこれまでの家庭教師をやめて、ユーデモンの師匠であるポノクラートにガルガンチュワを託すこととし、当今の若者たちがどのように教育を受けているのかを知るためにもと、パリへと送り出した。
 パリに到着したガルガンチュワは、その巨大な体躯のために大騒動を起こすが、やがて落ち着いてパリで勉強するようになり、ポノクラートの新しい、適切な教え方のために、敬虔な心を持ち、古典についての豊かな教養を現実の自然や社会と適切に結びついた形で身に着けた若者へと成長していった。
(と、ここで場面がかわる。)

第25章 レルネの小麦煎餅売りたちとガルガンチュワの国の住民たちとの間に大論争が起り、それが因(もと)で大戦争になったこと(レルネ村のフーガス売りとガルガンチュアの国の住民が大げんかを始め、ついには大戦争になってしまったこと)
 「頃は秋の初めで、葡萄の収穫(とりいれ)の時節だったから、[グラングウジェの]国の羊飼たちは、葡萄園の見張りをして、椋鳥どもに葡萄の果(み)を喰われぬようにしていた。」(渡辺訳、128ページ) 「さて、季節は秋のはじめである。ブドウの収穫期を迎えて、ムクドリにブドウの実を食べられないようにと、羊飼いたちは畑を見張っていた。」(宮下訳、212ページ)

 そこへ、レルネの村の小麦煎餅売りたちが10籠か12籠の馬籠に小麦煎餅を積み込んで(おそらくはシノンの)町に運ぼうと、通りかかった。レルネはシノン(Chinon)の町の近くにある村の名前、シノンはアンドレ≂エ≂ロワール県の都市である。(地図でフランス西部のロワール川流域を探せば見つかるはずである。) 小麦煎餅について、渡辺は「『小麦煎餅』とはfouaceの仮訳。小麦・卵・牛酪などで作った麺麭菓子の一種。レルネは、この『煎餅』の名産地としてトゥレーヌ州で知られており、『煎餅商組合』もあった由。」(渡辺訳、325ページ)と、宮下さんは「fouaceは、ガレットのようなものであったと思われる。南仏方言ではfougasseというが、最近、日本でも『フーガス』として認知されてきているので、これを訳語とした」(宮下訳、213ページ)と注記している。トゥレーヌ州というのはパリ盆地南西の旧地方名で、現在のアンドレ≂エ≂ロワール県を中心とした地域である。

 羊飼たちは、金を払うから市価で煎餅を売ってくれと丁寧に頼んだ。この小麦煎餅とブドウの実を一緒に食べると格好の朝食になるからである。ところが、煎餅売りたちは、この頼みを拒否しただけでなく、羊飼いたちを口を極めて罵った。羊飼いたちとしてみれば、これは意外な対応であり、羊飼いの一人であるフロジェという若者が、なぜ、そんな態度をとるのかと穏やかに質問した。すると、小麦煎餅同業組合の旗持頭(grand bastonnier de la conrairie des fouaciers)をつとめるマルケという人物が出て来い、俺の煎餅をくれてやるからと言ったので、フロジェが煎餅をくれるのだと思って銀貨を手にして近寄ったところ、マルケは鞭をふるって、フロジェの両すねを横ざまに払い、激しく叩きのめした。フロジェは驚いて、自分が抱えていた丸太棒をマルケに投げつけ、それでマルケは落馬して気絶してしまった。羊飼いたちや近くで作業をしていた農夫たちがこの騒ぎを聞いて駆け付け、煎餅売りたちに追いつき、彼らから煎餅を3・4籠分奪い取った。しかし、その対価は支払ったし、おまけに胡桃を100個と、白ブドウを3籠分も与えてやった。すると煎餅売りたちは、マルケを馬に乗せ、もと来た道を戻りながら、今に見ろとばかりの棄てセリフを残した。〔マルケについて、宮下さんは「フーガス作りの信心会の旗がしら」(宮下訳、214ページ)と訳しており、confrérieは「信心会、同業者信心会」と辞書にあるが、同じ辞書により古い意味として、「協会、団、組合」と記されているので、渡辺訳の方が適切ではないかと思う。もっとも宮下訳でも意味は十分に通じるので、これは解釈の問題である。〕

 羊飼いたちは、小麦煎餅とブドウをおいしく食べ、意地悪な煎餅売りたちを笑いものにした。フロジェの両すねの傷もブドウの汁で洗ったところ、すぐに治った。

第26章 レルネの住民たちがその王ピクロコルの指揮によってガルガンチュワの羊飼たちの不意を襲ったこと(レルネの住民、ピクロコル王の命令で、ガルガンチュアの羊飼いたちを急襲する)
 レルネに戻った煎餅売りたちは、取るものも取りあえず、この村のカピトリ城に赴き、この城の主であるピクロクルⅢ世という王に哀訴した。自分たちがどのような態度をとったかについてはまったく触れず、ただ自分たちの被害――壊された籠や、しわくちゃにされた頭巾や、ズタズタにされた着物…を見せて、これらはすべて表街道のスイイー村の先辺りで、グラングウジェの羊飼いたちと農夫たちによってなされた仕業であると述べ立てたのである。

 これを聞いた途端にピクロコル王は激怒し、どういう事情でこのような事態に至ったかを調べようともせずに、その全領土から自分の家来たちを招集した。そして着々と戦争の準備を始めた。自分たちの領民たちがグラングウジェの領民たちから受けた仕打ちの仕返しをしようと考えたのである。大急ぎで武装を整える一方で、敵情を偵察しようと、アングウルヴァン(渡辺訳では風喰い頓馬)を隊長とする300騎の軽騎兵を派遣した。その結果辺りはまったく平和であることがわかったので、全軍が急いで出発することとなった。〔すぐに軍隊を動かさずに、使節を派遣して、交渉により事態の解決を図るべきであろう。〕

 ピクロコル王の軍隊は行動を起こし、グラングウジェの支配する地域に入りこみ、略奪をほしいままにした。どうしてこんなことをするのかという住民の訴えに対して、煎餅菓子の食べ方を教えてやるのだということしか答えることをしなかったのである。

 小麦煎餅をめぐる小さな村の住民同士の小競り合いが、大戦争に発展する、あるいは大戦争として描かれる。これは地域的な紛争であるかもしれないし、ヨーロッパの覇権をめぐる神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世と、フランス王フランソワⅠ世との争いを暗に風刺しているという説もある。とにかく物語は、思いがけない方向へと移ってきた。さて、この「大」戦争の展開はどのようなことになるのであろうか。それはまた次回に。
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