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トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(10)

8月1日(木)晴れ、暑し。

 コロンブスの新世界への航海に加わり、その後、地球を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に、旅の途中で訪問した「太陽の都」の様子を語る。それは草原のまんなかにある丘の上に同心円状に城壁をめぐらして建設された都市で、「太陽」という形而上学者である神官君主によって統治されている。かれは軍事を司る「権力」、科学を司る「知識」、生殖や教育・医療を司る「愛」という3人の高官によって補佐されている。
 これらの高官たちを含めて役人は、教育の中で能力・適性を見極められ、その仕事にふさわしいと考えられた人々が起用される。神殿の外壁や城壁に絵が描かれたり、模型が展示されるなどして、子どもと人々の教育のためには様々な配慮がされている。
 私有財産は認められず、衣服は配給制、住居は役人の指定した場所で共同で寝起きし、食事も共同の食堂で行うなど、共同生活が徹底している。
 マルタ騎士団員の問いに答えて、ジェノヴァ人は「太陽の都」における生殖について語る。かれらは身体の適合性を基準として、市の役人たちである教師たちの命によって結び付けられ、星回りのいい時期を選んで生殖行為を行なう。育児は共同の場所で行われ、離乳後の子どもたちは集団で保育・教育される。
 彼らは外見上の特徴や、その功績によって名づけられる。人々の賞賛と拍手の中で姓を与えられるのはたいへんな名誉とされる。

 マルタ騎士団員は、彼らが嫉妬を感じないのか、また生殖行為に参加できなかったり、ほしいものが手に入らない場合には苦しまないのかと問う。
 これに対してジェノヴァ人は、まず彼らにはほしいものが手に入らないということはないと答え、次に、生殖行為は個人的なことではなく、公共のための行為として宗教的に考えられており、かつ役人たちの決定には従わなければならないので不平を言う者はいないという。自分に不相応な野心が満たされないことを、為政者のせいにする人物が出ないように、プラトンはくじ引きを使うことを勧めているが、「太陽の都」は日ごろの運動の結果、男女ともに健康的な美しさを備えているので、相手に対して不満を抱くものはないという。
 「顔に化粧したり、かかとの高いサンダルをはいたり、そのかかとの高い木靴を隠すために裾の長い着物を着たりすることは、死刑に価する罪なのです。」(坂本訳、31ページ) 
 「太陽の都」の人々は、女性の化粧やその他の見せかけをよくしようとする工夫は、すべて彼女たちの怠惰の所産であり、そのような怠惰こそが女性たちを堕落させ、虚弱にしているのだという。

 ある男性が女性を好きになって、いっしょに会って話をしたり、贈り物をしたりすることは認められるが、この組み合わせが子どもが生まれるのに好条件を備えていないときは、女子が妊娠しているか、不妊であることがわかった場合以外にはこの2人の交わりは認められない〔何か変な話である〕。「このため彼らは大体において友情より生まれる愛しか知らず激しい情欲にかられた愛などは知りません。」(31‐32ページ、そういえるかどうか、あやしいところがある。)

 物質は尊ばれない。名誉のしるしとして授けられるものを除き、「太陽の都」では欲しいものは何でも手に入るからである。優れた仕事をした人々に栄誉を与える日には、人々は華やかに着飾る。
 人々は平素は白い服を着ていて、黒いものは物のかすとして嫌われている。ここで「黒いものを好む日本人はここの人たちから憎まれています。」(32ページ)という不思議な挿入がある。これはカンパネッラが彼の地理学上の記述のよりどころにしたジョヴァンニ・ボテーロ(Giovanni Botero, 1543 - 1617)の『宇宙報告書』(Relazioni universali)の中に「日本人にとって楽しい色は黒と赤であり、苦しみと喪の色は白である」と記されていることによるものであること、この考え方は、広くヨーロッパに行き渡っていたことを坂本さんが注記している。

 彼らにとって高慢は大罪であり、他人に奉仕することが奨励される。したがって、ある人がある仕事に任命されることは名誉なことと考えられている。「かれらは自分自身の世話をするのに十分なばかりか、むしろ十分すぎるため、奴隷などは持っていません。」(32ページ) これと対照的に思えるのが、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』の中の(これから出てくる部分≂52章に出てくる)ジャン修道士のことば「己が身のことすら取り締まれませぬ拙者に、どうして他人様を取り締まれましょうかい?」(渡辺一夫訳、230ページ、「自分自身もまともに管理できないこのわたし、他人様を管理できるはずもありません。」、宮下志朗訳、371ページ) 宮下さんによると、これは「自分の家庭を治めることも知らないものに、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」という『新約聖書』の「テモテへの手紙1」のことばも想起させるそうである。ジャン修道士は『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の全体を通して最も魅力的な人物の一人で、第4の書でパンタグリュエルの一行が乗り込んだ船が難破しそうになった時に、船を救おうと目覚ましい働きを見せる。哲学者のメルロー=ポンティがこの場面を念頭において、理性はジャン修道士のように勇敢に働くべきであるというようなことを言っていたと記憶する。偉そうなことを書いたが、私は、勤務先で自分は自分のことも管理できないから、他人様のために奉仕する役職は無理だと繰り返していたが、自分がしたくないことを他人に押し付ける習わしに押し切られて、いろいろな役職につかされた過去をもっていて、どうも自らの生き方の不徹底を反省させられるのである。反省といえば、自分の家庭の嫁姑問題も解決できずに、夜な夜な外食してばかりいるのに、憲法を改正するとかなんとか言って、よその国の紛争にも集団的自衛権を口実にかかわろうとしているどこかの国の総理大臣にも思いだしてほしい言葉である。

 実際問題として、ある人間が自分の問題を自分でしっかりと処理しているかどうかは、判断の難しい問題であり、ラブレーはその点で厳しく、カンパネッラは甘い見方をしていたように思われる。ただ、自分自身の能力については厳しく評価し、できるだけ自分の面倒は自分で見るが、他人のことには干渉しないという生き方が、一番いいのではないかと思う。
 
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