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2019年の2019を目指して(7)

7月31日(水)晴れ、暑し。
 
 7月は行動範囲に多少の変化があった。
 足跡を記したのは1都1県(東京、神奈川)というところは変らないが、
 新宿区に出かけたので1市(横浜)5区(文京、港、千代田、渋谷、新宿)となった。

 利用した鉄道は、5社(東京メトロ、東急、東京都営地下鉄、横浜市営地下鉄、JR東日本)と変わらないが、
 路線は新たに都営新宿線と、東京メトロ副都心線が加わって、11路線、
 乗降駅は新宿三丁目が加わって13駅に増加した。
 乗換駅は5駅のままで変わらず。

 7月は江ノ電バスに乗ったので、利用したバス会社は4社(横浜市営、神奈川中央、相鉄、江ノ電)に増え、路線も1路線増えて16路線、乗降した停留所は2か所増えて14か所となった。〔76〕

 このブログを含めて31件の記事を書いた。内訳は、日記が6件、読書が7件、読書(歴史)が3件、『太平記』が5件、ジェイン・オースティンが3件、ラブレーが4件、映画が1件、詩が1件、推理小説が1件ということである。1月からの通算では、214件で、内訳は日記が39件、読書が38件、読書(歴史)が34、トマス・モア『ユートピア』が8、読書(言語ノート)が9、『太平記』が31、ジェイン・オースティンが16、ラブレーが9件、ダンテ『神曲』が20件、推理小説が4件、詩が5件、映画が1件ということである。コメントを1件頂いたので、1月からの通算では6件ということになる。〔187+32=219〕

 13冊の本を買い、10冊を読んだ。1月からの通算では74冊の本を買って、70冊を読んでいることになる。新たに紀伊国屋書店本店で本を買ったので、本を買った書店が3店となった。読んだ本を列挙すると:下川裕治『12万円で世界を歩く リターンズ』(朝日文庫)、西條奈加『みやこさわぎ お蔦さんの神楽坂日記』(創元推理文庫)、山口恵以子『あの日の親子丼 食堂のおばちゃん⑥』(ハルキ文庫)、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑫ 祇園探偵の事件手帖』(双葉文庫)、ジム・ロジャーズ『日本への警告』、宮下志朗『モンテーニュ 人生を旅するための7章』(岩波新書)、武田百合子『富士日記(上)――新版』(中公文庫)、ベーコン『ニュー・アトランティス』(岩波文庫)、中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)、倉田徹 張彧マン『香港 中国と向き合う自由都市』(岩波新書)
 前半は軽読書中心、後半になると古典的な書物が増えているように見えるが、読みだしたのは一緒でも、内容が重いと読み終えるのに時間がかかることが多いということで、意図的にこうなったわけではない。〔62+11=73〕

 『ラジオ英会話』の時間を21回聴いている。2回、聴き逃しているが、再放送を聴くつもりである。『遠山顕の英会話楽習』を15回、『入門ビジネス英語』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を13回聴いている。1月からの通算では、『ラジオ英会話』を132回、『遠山顕の英会話楽習』を87回、『入門ビジネス英語』を35回、『高校生からはじめる「現代英語」』を56回、『実践ビジネス英語』を85回聴いたことになる。
 『まいにちフランス語』入門編を15回、『まいにちスペイン語』初級編を15回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を15回、応用編を8回聴いた。〔『まいにちフランス語』応用編は今年の1~3月に放送されたものの再放送なので、数に入れていない。〕 1月からの通算では『まいにちフランス語』入門編を81回、応用編を44回、『まいにちスペイン語』入門編を31回、初級編を46回、中級編を52回、『まいにちイタリア語』入門編を49回、初級編を31回、応用編を52回聴いたことになる。〔781〕

 7月は「生誕100年記念 映画監督野村芳太郎」の特集上映のうち、『どんと行こうぜ』(1959、松竹大船)、『拝啓天皇陛下様』(1963、松竹大船)、『砂の器』(1974、松竹=橋本プロ)の3本を見た。これで1月から見た映画の通算は5本になった。『砂の器』はともかくとして、後は軽い映画が中心になっているが、軽い気分で見るようにしないと、なかなか映画館に足が向かないことも確かである。1年のうちに見た映画の数をできるだけ早く2桁に乗せたいと思うが、いつのことになるだろうか。〔3+3=6〕
 展覧会は2回見たきりである。9月初旬にすずらん通りの檜画廊で行われる早川修さんの「詩画?展」の案内を頂いているので、出かけるつもりであるが、それまでにどこかに足を運ぶことがあるだろうか。〔2〕
68」
 サッカーはニッパツ三ツ沢球技場で、天皇杯の2回戦:横浜FC対仙台大学と、J2の横浜FC対栃木SC、横浜FC対レノファ山口の合計3試合を見ている。1月からの通算では23試合を3か所(ニッパツ、日産小机フィールズ、保土ヶ谷公園)で見ていることになる。
 1106回のA、1107回のB、1108回のA、Bと4回ミニトトをあてている。これで1月以来、17回、当選を重ねているというと、景気良く聞こえるかもしれないが、7月についてみると、1104回、1105回、1109回を含め、18,300円をはたいて、7356円を得ているということで、出した金の半分も回収していないのである。〔43〕

 梅雨が長引いたせいで、5月、6月に比べて酒を飲むことが多くなり、体重がまた少し増えてしまった。酒を飲まなかったのは5日で、1月からの通算では68日ということである。8月はもう少し、酒を控えるようにしたいと思う。〔68〕

 今夜も夜更かしをしないことにするため、皆様のブログは訪問できません。明日からよろしくお願いします。
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『太平記』(273)

7月30日(火)晴れ

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)、脇屋義助を吉野から迎えて、一時勢力を挽回したかに見えた四国・中国の宮方であったが、義助の急死後、細川頼春を中心とする足利方の武士たちに破れてほぼ壊滅状態となった。天下は武家のものとなったかに見えたが、康永4年(1345)の天龍寺の落慶法要の際に、比叡山の抗議により、花園・光厳両上皇が法要の1日後に行幸されることで混乱を避けたというように、まだまだ世の中は安定とは程遠かった。

 備前の国の武士である三宅(児島)高徳は、後醍醐帝の時代から南朝に忠義を尽くしてきた武士である。脇屋義助が吉野から伊予に下向した際に、高徳もその麾下に参じたのであったが、義助の死後、その軍勢が離散したため、備前に戻り、本拠である児島(倉敷市児島)に隠れ住んでいたが、なお闘志は盛んで、上野の国から義助の子息である義治を招き、彼を大将として頂いて、宮方の旗を挙げようと考えていた。

 丹波の国の武士荻野彦六朝忠は、相模の国の海老名党の流れをくむ武士で、千種忠顕が六波羅を攻めたときにその軍勢に加わっていたが、その後、尊氏・直義兄弟に属していた。ところが、将軍(尊氏)に恨みを抱くようになっているという噂が聞こえてきたので、忠徳は彼に使いを送り、仲間に引き入れようとした。2人は、千種の六波羅攻め以来の知己なのである。それで朝忠も忠徳と呼応して立ち上がるべく手はずを整えていたところ、計画が露見して山陰地方における足利方の実力者である山名時氏が派遣された。時氏は3千騎を率いて、朝忠が籠っている高山寺城(丹波市氷上町の高山寺に築かれた城)を厳重に包囲し、兵糧攻めを仕掛けた。これには朝忠もたまらず、ついに降伏を余儀なくされた。

 児島の方にも備前・備中・備後3カ国の守護が5千余騎を集めて攻め寄せてきたので、高徳は、ここでは思うどおりの戦いをすることは難しいだろう。むしろ、都に押し寄せて、将軍尊氏、その弟の直義、執事として権勢をふるう高一族、外戚として栄えている上杉一族らの幕府の要人たちに夜討ちをかけるほうが得策であろうと考えた。しかし、いくら奇襲をかけるといっても、ある程度の人数が集まらなければだめだというので、あちこちに隠れ潜んでいる宮方の武士たちに回状を回したところ、あちこちから1,000余騎ほどの武士たちが集まってきた。これだけの人数が1か所に集まっていると怪しまれるということで、200余騎を大将である義治につけ、比叡山の東麓である東坂本に隠れさせ、別の200余騎を宇治(京都府宇治市)・醍醐(京都市伏見区醍醐)・真木・片野(交野)・葛葉(楠葉:真木・交野とともに大阪府枚方市内)に待機させ、いちばんの精鋭300余騎は、洛中と鴨川の東の白河の辺りに潜ませて、気づかれないように勢力を分散させながら、機会をうかがっていた。

 いよいよ翌日の夜に小幡嵩(こはたとうげ、宇治市木幡)に押し寄せて、尊氏、直義、高一族、上杉一族の館に、4つに兵を分け手夜襲をかけようと手はずを整えていたのであるが、この企てをどこで聞きつけたのか、侍所の長官(所司、前回に触れたが、山名時氏のはずである)の代官(つまり所司代である)の都筑という武蔵の国都筑郡(現在の横浜市都筑区、川崎市西部、町田市あたり)の武士が300余騎を率いて、夜討ちの際の案内をしようと忍び(間者、隠密)たちが待機していた四条壬生の宿を急襲した。忍びのものが不意を突かれたのは、どうも体裁が悪いが、児島高徳が忍びのものを組織していたというのは興味深いことがらである。立てこもっていた忍びたちは、かくなる上はと必死に防戦し、射矢が尽きたあとは腹を切って死んだのであった。

 このことを聞いて、都の周辺各地に隠れていた仲間の武士たちは、望みを失い離散することになった。高徳はせっかくの計画が無駄になり、やむなく大将である義治に随行して、信濃の国に落ちて行くことになった。

 さて、壬生の民家に集まっていたところを急襲されて、ほぼ全滅した忍びたちの中で、武蔵国の住人香勾(こうわ)新左衛門尉高遠というものが一人だけ、地蔵菩薩が身代わりになってくださったために、命が助かったのは不思議な出来事であった。

 所司代の率いる兵たちが、世の明けないうちに押しかけて、十重二十重厳重に包囲する中で、高遠一人は、その包囲を切り抜けて、血まみれの刀を手に、地蔵堂(現在の壬生寺)の中に駆けこんだ。どこに隠れようかと、あちこち見まわしていると、寺の僧と思しき法師が一人、堂の中から出てきて、高遠の姿を見て、「そのような姿では、どこに隠れても隠れ遂せるものではありません。この念珠(数珠)を、その太刀と取り換えてお持ちなさい」というので、それもそうだと、この法師の言うとおりにした。

 そうこうするうちに、追手の武士が4・50人ばかり押しかけて、四方の門をふさぎ、残るところを隈なく探し始めた。高遠は、もともと剛毅な性格で、少しも動じることなく、数珠を爪繰りながら、高らかに「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣」(偉大な仏の力で、悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に堕ちるのを救いたまえ)と「地蔵菩薩本願経」の中の句を唱えていた。追手の者たちは、これを見て、本物の参詣の人かと思って、あえて見とがめるものは一人もいなかった。「ただ仏殿のうち、天井の上まで隅々まで探せ」と大声で叫んでいた。

 すると、たった今、物を切ったように見える切っ先に血の付いた太刀を、袖の下に隠し持った法師が、堂の傍らに立っているを見つけて、「それ、これこそ落人だろう」と、取り手が3人走り寄り、いったん抱き上げた後で地面に転がして、高手小手に縛り上げ、侍所に渡すと、所司代がこれを受け取り、牢獄の中に厳重に閉じ込めた。

 ところが、翌日、見張り役はずっと目を離さず、牢の扉を開けることもなかったのに、この囚人はどこかに姿を消してしまった。監視の役人は不思議なことがあるものだと驚きながら、囚人がいた跡を見ると、霊妙な香りが漂っていて、あたかも天竺の牛頭山に産するという香木の栴檀のようである。囚人をとらえた兵たちが、皆、「左右の手、鎧の袖、草刷り(鎧の胴に垂れ下げて股を守る防具)まで霊妙な香りに染まってしまって、まだ香りが消えません」などと言っているので、「これは必ずや、ただ事ではあるまい」と、壬生の地蔵堂の扉を開き、本尊を拝顔すると、もったいないことに、六道の衆生を救済する地蔵菩薩のお体が、あちこちに刑罰の鞭のために血がにじんだ跡が黒くなって、高手小手に戒めた縄がまだお体を縛っているのが見えたのが不思議なことであった。

 地蔵菩薩を縛った3人の武士は、涙をこぼして泣いて、罪障を懴悔するだけでは足りず、すぐに髻を切って、発心修行のものとなった。香勾は順縁によって彼が平素から仏道を深く信じていたことが暗示されていると思われる)、その命を助かり、3人の武士たちは逆縁(仏道に背く悪事を働いたことが、かえって仏道に入る機縁となること)により来世で仏と会うことになった。仏が伝授された尊いお言葉の取り、仏はこの世、あの世にわたって我々の良き導き手であるのは、ありがたいことである。

 岩波文庫版の脚注によると、壬生寺の地蔵菩薩像は、伝定朝作だそうで、壬生寺にもこの高遠が地蔵菩薩に命を助けられた話は伝わっているらしい。私が昔務めていた会社の同僚が寺の息子で、自分の寺の本尊が定朝の作品ではないかということで、現在博物館で見てもらっていると話していた。その結果は知らないが、南北朝時代には、今よりも多くの平安仏が寺に置かれていて、定朝の作品もたくさんあっただろうと思うと、無常を感じざるを得ない。
 児島高徳という人物は、『太平記』の最初のほうの隠岐に流されることになった後醍醐帝の救出を企てたが、果たせず、やむなく帝の宿所の桜の木に「天句践を空しうするなかれ 時に范蠡無きにしも非ず」と書き付けた話がいやに有名になっているが、その後も、千種忠顕の六波羅攻め、足利尊氏との中国地方での戦い、越前での新田義貞の戦いと何度も顔を出している。彼の実在を証明する史料がないことから実在の人物ではないという説がある一方で、児島=小島繋がりで、『太平記』の作者として『洞院公定日記』に記されている小島法師と同一視する意見もある。それはともかく、物語の展開を導く狂言回し的な役柄として考えた場合には、それぞれの場面にただ居合わせるだけで、論評はするけれども、事態を動かすような働きはしないのは、実在・非実在などという問題以上に、この人物の存在価値を低くしているように思われる。作者の意図がどうであったのかについては、さまざまな解釈があるだろうが、どちらにしても、その意図はあまり成功していないのである。
 これで『太平記』25巻を終って、次回からは26巻に入る。事態の推移は作者の理解をこえたものになり、作者は様々な魔性の存在を念頭に置きながら、物語を進めることになる。

 体調は依然として回復しないので、皆様のブログを訪問することはやめさせていただきます。失礼がつづきますが、あしからずご了承ください。

日記抄(7月23日~29日)

7月29日(月)晴れ、暑し。関東甲信地方の梅雨明け。

 7月23日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:

7月23日
 『NHK高校講座 現代文』で取り上げていた井伏鱒二「山椒魚」の放送が終わった。高校の国語の授業らしく、丁寧に読んでみると、井伏独自の文体や、この作品の特徴がよりよく理解できる。

7月24日
 『朝日』の朝刊の神奈川版に7月11日に藤沢八部球場で行われた高校野球の県大会の1回戦:平塚農業対麻布大付属淵野辺高校の対戦の際に、バックネット裏で平塚農業OBの高木由一さん、麻布大付属OBの野村収さんというプロ野球で活躍した2人がばったり顔を合わせ、それぞれの後輩にエールを送りながら、野球談議に花を咲かせたという記事が出ていた。調べてみたところ、この試合、1回に13点を奪った麻布大付属がその後も得点を重ね、37‐0で5回コールド・ゲームで勝っている。
 野村さんはプロ野球全12球団から勝利を挙げた初めての投手として知られるが、1985年にタイガースが優勝した時の優勝投手でもあり、当時『デイリー・スポーツ』紙に連載されていた漫画『あゝたてじま人生』の副主人公(主人公は川藤幸三さん)であったことが印象に残っている。

 同じく『朝日』の水曜日のコラム「川添愛のことばスムージー」で川添さんが「翻訳できない『我』や『I』」という文章を書いており、日本語における一人称表現の多様性、英語の一人称の”I"の汎用性を対比させる議論を展開していたのが興味深かった。「ぼく、ドラえもん(のび太、スネ夫)」であり、「おれ、ジャイアン」、「わたし、しずか」で子どものころから一人称が使い分けられているというのは、すごいことではないかと思う。

 同じく、『朝日』に戦前から戦後にかけて東京の「ムーランルージュ 新宿座」の人気女優として活躍した明日待子(あした・まちこ、本名=須賀とし子)さんが、14日に老衰のため死去されたと報じられていた。99歳。
 有島一郎、三木のり平、森繁久彌、望月優子などが在籍したことで知られるムーランであるが、いよいよ生き残りは楠トシエさんくらいになってきた。ほかに、誰かいるだろうか。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)はフランス領ポリネシアを取り上げた。人口27万人の83%がポリネシア人、12%がヨーロッパ人、5%がアジア人で住民の98%がフランス語を話すという。中心地はタヒチ島のパペーテである。
 後期印象派のフランス人画家ポール・ゴーギャン(1848‐1903)は地上の楽園を求めて19世紀末にタヒチ島に渡り、この島をテーマにした数々の傑作を残した。以前にも書いたことがあるが、ゴーギャンの祖母であるフロラ・トリスタン(Flora Tristan, 1803- 44)は初期社会主義者、フェミニズムの先駆者であって、彼女とゴーギャンを描いたペルーの作家マリオ・バルガス=リョサの小説『楽園への道』によっても知られている。ゴーギャンは、祖母が社会運動のために財産を使い果たしたことを恨んでいたという話であるが、でも、偉大な祖母を持っていたということは彼にとって決してマイナスではなかったはずである。

 宮下志朗『モンテーニュ 人生を旅するための7章』(岩波新書)を読み終える。
 『わたしにはよくわかっている――旅の喜びというのは、それを端的にいうならば、まさに自分が、落ち着かず、定まらない状況の証人になれることにあるのだと。もっともそれは、われわれ人間を支配するところの、主たる性質なのでもある。」(97ページに掲載された『エセー』からの引用)
 モンテーニュのように読書と旅行と思索の日々を送ろうと若いころには思っていたものであるが、旅行に出かけるためには資金が不足している老後を送ることになってしまった。身から出た錆だから、まあしょうがない。

7月25日
 『朝日』朝刊のコラム「福岡伸一の動的平衡」は、2010年7月24日に亡くなられた森毅先生を偲ぶ「森毅先生との日々」であった。京都大学教養部で長く数学を教えられた森さんの風貌がよく描かれた文章であった――などと書けるほど森さんのことを知っているわけではなく、学生のゼミを組織するのに助言をお願いするというような用件で、理学部の友人に連れられて1度お目にかかっただけである。数学よりも学生運動の話ばかりうかがったという感じで(相手によって話題を選ぶのであろう)、こんな先生もいるのかと思ったことをおぼえている。
 数学の先生と言えば、わたしとほぼ同世代で、名古屋大学を出た元同僚が、教養部の数学の先生がぶつぶつぶつぶつ、昔の話ばかりしている。どうも不思議な先生だと思っていたら、その雑談が、本になって話題を呼んだという話をした。北杜夫が『ドクトルマンボウ青春記』でその思い出を書いた蛭川幸茂(1904‐99)が、新制への切り替え後、小学校の先生を経て、愛知学院大学の先生となり、名古屋大学でも教えていたのであった。大学の授業というのは、その時点でつまらないと思っても、後で思い出してみて意義深いものであることも少なくないので、慎重に選択・聴講すべきであると思う。

 神保町シアターで『拝啓天皇陛下様』(1963、松竹大船、野村芳太郎監督)を見る。軍隊を天国だと信じる無学で純朴な男(渥美清)の軍隊生活と戦後を、その戦友である作家(長門裕之)の目を通して描いた喜劇であるが、時に哀しみが湧きあがる時がある。同じ時期の松竹映画で、長門が出演した『秋津温泉』の舞台であった岡山県津山市が、この映画にも登場しているのは偶然であろうか。

 武田百合子『富士日記(上)――新版』(中公文庫)を読み終える。夫であった武田泰淳が富士山麓に構えた山荘に備えた家族日記で、泰淳と娘の花の書いた部分もあるが、百合子の書いた部分がいちばん多い。食べ物の話が多いが、泰淳の生活ぶり、竹内好、梅崎春生、大岡昇平らとの交友など、飾らない文章で記されていて興味深い。次の記述は、よく知られている:
 1985年8月13日(金) 池田前首相がガンで亡くなった。ほかの人は死なない。(138ページ)

7月26日
 新たに導入される大学への「共通テスト」の「英語民間試験」をめぐり、「詳細が不明確」であるとして高校長協会が文科省に要望書を提出したというニュースを『朝日』、『日経』がともに報じていた。
 現場の実態を踏まえずに、頭でっかちな改革を続けている文科省に、現場の不満が噴出しはじめたということであろうか。
 まさか、民間試験を導入すれば、日本人の英語の能力が向上すると(途中の過程の検証抜きで)単純に信じているのではなかろうね。何度も繰り返しているが、現在の高等教育をめぐる最重要課題は、大学入試の改革ではなくて、大学における教育そのものの改革である。大学時代の同級生に、日本の大学もアメリカのように、入るのはやさしく、出るのを難しくすべきだとからまれたことがある。アメリカの大学が入りやすく出にくいというのは、「神話」でしかない(「アメリカの大学」と一般化してしまうところに、この議論の危うさがある)が、しかし方向性としては、入試改革よりも教育改革に重点を置いて、入りやすく出にくくするというのは間違っていないと思っている。

7月27日
 NHKラジオ『朗読の時間』の菊池寛『満鉄外史』(第36~40回)を聞く。「満州国」が成立するまでの日本側での動きがよくわかるが、同時に言葉の上っ面と内実とを検討しないと、歴史的な事実は掘り起こせないものだということを実感した。

 横浜FCがジェフ千葉を3-1で破る。いよいよ強さが本物になってきた。
 1108回のミニtotoA,Bをともに当てが、賞金額は少ない。

 ベーコン『ニュー・アトランティス』(岩波文庫)を読む。近世の「ユートピア」あるいは、「ユートピア」全般を概観した書物の中で、この書物の評価は概して低いが、導入部の小説的な技巧など、見るべきところはいろいろあって面白い本だと思った。モアやカンパネッラの場合、一方で共産主義的な社会の体制、他方で科学技術振興と民衆への啓蒙という2点が「ユートピア」の特徴として描かれているが、ベーコンの場合は、キリスト教信仰や家族制度が果たす役割が強調されて、共産主義は退けられているかわりに、科学技術の振興と啓蒙の方はさらに強調されているという感じである。だからと言って、そう簡単にベーコンを切り捨てない方がいいと思う。

7月28日
 『朝日』の朝刊に「千葉大『全員留学』義務づけへ」という記事が出ていた。最低2週間以上の滞在を要求するとのことである。異文化体験には個人差があるから、どの程度の期間が望ましいとは言えないが、1学期間くらいは勉強して相手方の単位を取るくらいでないと「留学」の名に値するとは言えず、最低でも1~2か月以上の滞在が望ましいのではないか。もっともあまり長いと大学の課程を4年のうちに修了する(日本の大学生は就職活動があるから、4年といっても、実際に大学で勉強する期間はさらに短い)のは難しくなるという矛盾を抱え込むことになる。
 また、この種の改革は一つの大学だけで取り組んでも効果は薄く、(海外を含めて)志を同じくする複数の大学で行って、学生による大学間の移動を自由にしてこそ意味がある。しかし千葉大学としては他の大学との差別化を図ることによって、より優秀な学生を集めたくて実施しているのだろうから、これまた矛盾をはらむ施策といえるのではなかろうか。

7月29日
 『朝日』の朝刊に「ローマ字、なんのため?」という、日本語のローマ字表記をめぐる記事が出ていた。その中に梅棹忠夫が熱心なローマ字化論者であったという話が出てくるが、彼がそのような主張を展開したのは、ローマ字化したほうがタイプライターの使用になじみ、自分の考えをどんどんメモできるからであった。1955年の京都大学によるカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊に参加したとき、彼はすでにタイプライターを持ち込んで、フィールド・ノートをタイプで作成している。
 この記事の中で、デーヴ・スペクターさんは「日本の文字がローマ字だけにならなくてよかったですよ。だって味気ないでしょう。日本では漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字と4つもあって、選べる。ある意味でぜいたく。その分、迷うこともあるけど、わからないから面白いんです。」と語っている。これは梅棹とは正反対の意見であろう。
 昔、フランスからの独立闘争を戦うホー・チミンらの姿をとらえたドキュメンタリーを見たことがあるが、ベトナム労働党(当時)の指導者たちが、タイプライターを使って、指示を出したり、論文を書いたりしている姿が印象的であった。ベトナム語は、ローマ字化することによって、タイプライター使用を一般化したのである。古代のオリエント地方では、メソポタミアの楔形文字を受け入れながら、それを表意文字として使ったり、表音文字として使ったり、なかなか複雑な使い方をしていたというが、これは漢字を表意文字として使ったり、表音文字として使ったりする中国語の表記と同じであり、さらに、複数の文字体系を使いこなしている日本人にはきわめてわかりやすい、逆にアルファベットの表音性だけになれている人たちにとってはわかりにくい世界の事柄であろう。

 中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)を読み終える。京大法学部には昔、予備ゼミという助教授(現在は準教授)が担当する授業があり、私の知り合いのある人物が高坂正尭助教授の予備ゼミで『三酔人経綸問答』を読んだというようなことを話していたことがある。あまり強く印象に残っていないような口ぶりで、ずいぶんもったいないことをしたものだと思う。高坂がどのようにこの書物を読みといたかは、それに同意する、しないはともかくとして、興味ある問題であるからである。この人物、本ゼミは政治学の猪木正道教授だったのだが、高坂・猪木とは全く別の道を歩むことになった。高坂の師でもあった猪木正道(わたしと京都大学で同期の猪木武徳氏の父君である。武徳さんは経済学部)のそのまた先生は、河合栄治郎であり、河合と猪木の思想はだいぶん隔たっているという印象があるから(ただし、教育者として面倒見がよかったという点は共通している)、それはそれでいいのである。河合栄治郎のそのまた先生は、新渡戸稲造であるから、ますます師弟関係というものが融通無碍であることがわかる。もう一つ付け加えておけば、映画監督の大島渚は猪木ゼミの出身であった。

 季節の変わり目であるせいか、体調が悪く、本日も、皆様のブログへの訪問をやめさせていただきます。
 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(3)

7月28日(日)晴れ、暑し。

 18世紀の終わりか、19世紀の初めごろのイングランドでこの物語は展開する。ロンドンの北にあるハートフォードシャーの農村ロングボーンの地主ベネット氏にはジェイン、エリザベス、メアリー、リディアという、15‐6歳から22歳までの5人の娘がいた。頭はいいが皮肉屋のベネット氏の、物分りが悪い上に物知らずな妻であるベネット夫人にとって、この娘たちの結婚が最大の関心事であった。
 ロングボーンから遠くないところにあるネザーランド・パークという邸宅を、ビングリーという若く裕福な青年が借りることになったという知らせに、ベネット夫人は喜び、娘たちの一人の伴侶とすることを夢見た。この地方の中心地であるメリトンという町の舞踏会で、ビングリーがジェーンと2度踊ったことで、2人の結婚に望みを持つようになった。一方、この舞踏会に出席していたビングリーの友人で、彼よりもさらに裕福だと言われるダーシーという青年に、エリザベスは軽蔑的な態度をとられた。もともと明るい性格の彼女は、この件を笑い話として過ごしたものの、彼女の自尊心が傷ついたことは当然のことであった。これが「高慢」=ダーシーと、「偏見」=エリザベスの幸先の悪そうな出会いであった。
 ジェーンはエリザベスに、ビングリーへの思いを打ち明け、エリザベスはジェーンとビングリーの幸福を願ったが、その一方で、ビングリーの姉妹たちが、自分たちを見下すような態度をとっていることに警戒の気持ちを持っていた。その一方で、ビングリーはジェーンとの交際を深める気持ちを固めていた。
 ベネット家には、ルーカス家という新興地主の隣人がいて、両家は親しく付き合っていた。ルーカス家の長女のシャーロットは、27歳で、ベネット家の姉妹より少し年長であったが、物分りの良い女性で、特にエリザベスの親友であった。両家の女性たちは、舞踏会の印象を語り合ったが、ビングリーの評判は上々で、ダーシーの方は最悪であった。(以上第1部第5章まで)

 舞踏会ののち間もなく、ロングボーンの女性たちはネザーフィールドの女性たちを訪問し、それに対してネザーフィールドの女性たちも正式にお返しの訪問にロングボーンへとやって来た。ネザーフィールドのミセズ・ハースト(ビングリーの姉)と、ミス・ビングリー(ビングリーの妹)は、ミス・ベネット(ジェーン)の感じのいい(pleasing)態度に好意を持ったが、母親のベネット夫人は「何とも堪らない」(intolerable)人物であり、下の(3人の)妹たちは話しかける値打ちもないと見定めたが、上の2人とはもっと近づきになりたいと思ったので、2人にそのように告げた。ジェーンはこの申し出を喜んだが、エリザベスは2人の態度の尊大さにいい気分にはならなかった。それでも、ネザーフィールドの2人がジェーンにとにかく好意を示そうとしているのは、自分たちの兄弟であるビングリーがジェーンに好意を持っていることの反映だと察したので、それなりに意味があると考えた。と同時に、ジェーンがビングリーへの愛情をあからさまにしないこともうれしく思っていた。

 このことに対するシャーロットの意見はエリザベスと違っていた。シャーロットはジェーンが自分の気持ちを表に出さないことで、かえって機会を失ってしまうかもしれないという。「どんな愛情だって感謝の気持ちや虚栄心と決して無縁ではないのだから、愛情に何の手も打たないでほったらかしにしておくのは安全ではないと思うの。」(大島訳、47ページ、There is so much gratitude in almost every attachment, that it is not safe to leave any to itself. Penguin Classics edition, p.22)  最初のうちは、何となく好きになるというだけのことかもしれないが、相手の気持ちはなかなかつかみにくい。「だからね、大抵の場合、女は実際に感じている以上の愛情を見せといた方がいいのよ。」(大島訳、48ページ、a woman had better shew more affection than she feels. Ibid., p.23, shew はshowの古い形) エリザベスはジェーンはジェーンなりに一生懸命自分の気持ちを伝えようとしているのだというが、シャーロットは、ジェーンとビングリーが会ってお互いを理解する場面は限られているという。さらに、相手のことを理解せずに結婚しても、理解してから結婚しても、幸せになれる可能性は同じだと考えていると続ける。「結婚の幸福なんて全くの運次第だもの。」(大島訳、49ページ、Happiness in marriage is entirely a matter of chance. Ibid., p.24) 「双方の気質があらかじめ互いによく判っていても、また互いによく似ていても、だから二人の幸福が増すなんてことには決してならなくてよ。夫婦になってしまえば、いつだって互いに似ても似つかぬ者同士になろうと努めて、双方とも腹立たしい思いをするのが関の山なんだから。だからね、生涯を共にする人の欠点なんかなるべく知らない方がいいのよ」(大島訳、48‐49ページ)
 30歳近くなってきているシャーロットの現実的な意見にエリザベスは反発する。そんな意見は健全ではないし、シャーロットだって結局は健全な結婚をすることになるだろうという。健全な結婚だと彼女が考えるのは、男女がお互いを理解しあって、互いに尊敬と愛情を抱ける結婚をすることであった。
 エリザベスとシャーロットのどちらが正しいということは簡単に結論できないと思うが、エリザベスの考えのほうが作者自身の考えを反映していることは否定できない。この2人の結婚観の対立が、物語の今後の展開にどのように影響する事になるのかは、物語を読み進んで行く中で、気に留めておきたい事柄の一つである。

 さて、お話変わって、エリザベスを「まあまあってとこだな。だがこの僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね。」(大島訳、31ページ)などと酷評していたダーシーは、その次にあった時も、大した美人ではないと思ったのであるが、そう言いながらも、彼女の表情に時々見られる聡明な表情が気になりはじめた。彼女をこき下ろしたダーシーにとって、それは癪に障ることではあったが、彼女の姿や振る舞いにも魅力を感じさせる部分があることに気づき、特に「その態度に見られる飾り気のない茶目っ気ぶりにはどうしても心が惹かれた」(大島訳、50ページ) こうして、エリザベスが自分の姉の恋の行方に気をとられているうちに、彼女自身が男性の好奇心の対象となり始めていたのだが、そのことに彼女は気づかなかった。彼女にとってダーシーは、「どこへ行っても感じの悪い男であり、自分のことを踊りたいほどの美人だとは思ってくれなかった男に過ぎなかった。」(大島訳、51ページ)

 ダーシーは彼女のことをもっと知りたいと思うようになり、その手始めとして彼女が他の人たちとどのような会話をしているかを聞くことを心がけた。サー・ウィリアム・ルーカスの家で大掛かりなパーティーが開かれたときに、エリザベスも、ダーシーが彼女が話している時に、ダーシーがその話を聞こうとしていることに気づいた。シャーロットに向かって、ダーシーの不可思議な態度を話題にしているときに、彼が近づいてきたので、2人の間に言葉が交わされ、シャーロットの勧めで、彼女はピアノを引きながら、歌を歌うことになった。
 「彼女の演奏は素晴らしく上手いというものではなかったが、感じのいいものであった。」(大島訳、53ページ、Her performance was pleasing, though by no means capital. Penguin Classics edition, p.25) 彼女の演奏で一座が盛り上がり始めたときに、その妹のメアリーがぜひとも自分に演奏させてと言ってさっさとピアノの前に座ってしまった。彼女は、5人姉妹の中では最も容貌に恵まれなかったので、その分を才芸で補おうとしていたのだが、才能も趣味もないので、その演奏には何の魅力もなかった。

 ダーシーは、この夜があまり会話が弾まないままに過ぎていくことにいら立っていたが、彼の気づかないままに近くにやって来ていたこの会の主催者≂アー・ウィリアム・ルーカスにエリザベスと踊るように勧める。ダーシーを嫌っていたエリザベスは、そのダーシーが鄭重に申し込んでも、彼と踊ろうとはせずに、断った。しかし、「エリザベスは悪戯っぽい眼付を見せて、その場を離れた。ダーシーは拒絶されたからと言ってエリザベスに対して別に不愉快な感情を抱くこともなく、むしろ満更でもない気持ちで物思いに耽っていた。」(大島訳、56ページ)

 その様子を見かけたミス・ベネット(ビングリーの妹)が彼に話しかける。彼女は、ダーシーと結婚することを熱心に願い続けている女性である。退屈しているのだろうという彼女の問いかけに対するダーシーの答えは(彼女にとって)意外なものであった。「僕は綺麗な女性の顔に具わった一対の美しい瞳が与えうる大いなる喜びについて考えていたんです。」(大島訳、56‐57ページ、I have been meditating on the very great pleasure which a pair of fine eyes in the face of a pretty woman can bestow. Penguin Classics edition, p.27)
 当然のことながら、ミス・ベネットはダーシーがどの女性のことを考えているかを質問する。ダーシーは、(普通このような場合、答えないと思うのだが)大胆にも、エリザベスのことだと答える。まったく意外なこの答えに、ミス・ベネットはいつ、2人の結婚のお祝いをいえばいいのかと踏み込んだ質問をする。これに対して、ダーシーは「女性の想像力は実にすばやいですからね――賞賛から愛へ、愛から結婚へ、一足飛びなんだから。」(大島訳、57ページ、A lady's imagination is very rapid; it jumps from admiration to love, from love to matrimony in a moment. Ibid., p.28)と答える。これはしばしば引用される言葉のようである。ミス・ビングリーはさらにダーシーをからかい続けるが、彼は一向に動揺する気配を見せない。

 こうしてどうやら、ダーシーの方はエリザベスに対する気持ちを募らせ始めたが、エリザベスは知らぬが仏である。その一方で、メアリーがエリザベスから演奏の席を奪ったことは、後に尾を引くことになる。こうして、物語はすこしずつ動いてゆく。

 今夜もブログ作成に時間をとられて、遅くなってしまったために、皆様のところに訪問することは断念せざるを得ません。お許しいただければ幸いです。 

『映画監督 野村芳太郎」特集上映をめぐって

7月27日(土)晴れ

 本日、神保町シアターで『映画監督 野村芳太郎』の特集上映のうちの『砂の器』を見た。
 このブログは読書と映画鑑賞を2枚看板にしているのだが、今年に入ってから、ほとんど映画を見ていないし、映画批評も書いていないのは、成り行きとはいえ、羊頭狗肉の謗りを免れないことである。というわけで、7月6日から8月9日にかけて神保町シアターで特集上映されている野村芳太郎(1919‐2005)の特集上映中、『どんと行こうぜ』(1954)、『背景天皇陛下様』(1963)、『砂の器』(1974)の3本をやっと見たのでその感想をまとめておこうと思うのである。

 昨年の終わりごろから、どうも映画を見るのが億劫になって、新しい映画を見に映画館に足を運ぶことがなくなってしまい、かといって旧作も小津安二郎、清水宏、オーソン・ウェルズ、アラン・ロブ≂グリエといった数々の魅力的な回顧上映を見逃しているというくであったのだが、なぜか、この野村芳太郎の特集には足を運ぼうという気持ちになった。
 野村監督は小津安二郎、木下惠介、渋谷実という戦後の松竹映画を支えた3大巨匠が世を去ったり、松竹との縁が薄くなったりした時期に、一方で喜劇を中心とするプログラム・ピクチュアを量産し、その一方で正月などには豪華女優陣が顔をそろえた女性映画を作り、そのスタッフから山田洋次監督や森崎東監督などを輩出したことで知られる。この時期は、わたしが映画、それもプログラム・ピクチュアの魅力に取りつかれ始めた時期であり、そういう懐かしさがある。それとともに、ここで書いておく必要があるのは、野村が、松本清張の原作によるものを含め、社会派サスペンスの名作を多く監督したことである。

 今回の特集上映では、20作品が取り上げられているが、そのうち『張込み』(1958)、『影の車』(1970)、『砂の器』(1974)が清張の原作、橋本忍による脚本による作品であり、『ゼロの焦点』(1961)は清張の原作、橋本忍・山田洋次の脚本、『わるいやつら』(1980)も清張の原作、井手雅人の脚本で、清張と野村監督が中心になって設立された霧プロダクションと松竹の提携作品であり、『疑惑』(1982)も同様である。つまり20作品中6作品が、清張原作ということになる。このほかにも白崎秀雄原作(橋本忍脚本)の『最後の切り札』(1961)、黒岩重吾原作(新藤兼人脚本)の『背徳のメス』(1961)、松山善三脚本の『東京湾』(1962)も社会はサスペンスと言えそうである(本日、『砂の器』を見た後で、『東京湾』を見ようかと思ったのだが、時間の関係で断念した。あるいは、これからまだ上映予定があるので、折を見て出かけるかもしれない。)

 この中で、『影の車』は封切り後しばらくした時点で、『張り込み』は神保町シアターでの上映を見ている。映画の感想は、見た時点での鑑賞者の人生経験に影響されることが大きいということで、20代半ばで見た『影の車』にはあまり感心しなかったが、『張り込み』には大いに感心したものである。この両作品は、登場人物の過去の恋愛経験が、その後、ある事件をきっかけとしてよみがえるという共通点があるが、幸か不幸か、わたしにはそういう経験はまったくないので、人生経験の重なりといっても、もう少し別の要素が関係しているようである。あるいは、岩下志麻よりも、高峰秀子の方が好きだというような単純な理由かもしれない。『張り込み』は題名のように、東京で起きた殺人事件の共犯者を逮捕すべく、警視庁の刑事がその昔の恋人の住まいの向かい側にある旅館に張り込むという話なのだが、その昔の恋人、さらには犯人自身にもだんだん同情していく、刑事の一人は、自分のうまくいっていない恋人との関係を思い浮かべる…という話で、だんだん刑事たちが犯人たちに感情移入していく過程が、おそらくは原作とは別のこの作品独自のものではないかと思う。

 『砂の器』は確か『読売新聞』に連載されていた小説で、その当時、ぽつぽつとよんでいたという記憶がある。東京の蒲田で起きた殺人事件が、迷宮入りしかけるが、思いがけないところから、事件が解決に向かうという物語である。橋本忍、あるいは野村芳太郎なりの解釈が加えられていて、原作とは少し違った展開になっているようである。特に、映画の中で演奏される「宿命」というピアノ協奏曲が大きな意味を持ち、映画のストーリー展開や、俳優の演技以上の役割を演じているというところに特色がある。つまり、映像効果も含めて、総合芸術としての映画の芸術的な効果が最大限に発揮されている。作中の登場人物は犯人に感情移入している部分はあまりないが、音楽が犯人の感情の表現として大きな役割を演じているし、冬の厳しさ、春の暖かさなどを表現する背景の映像もまさに映画そのものの効果を発揮しているのである。

 夜も更けてきたので、ここでいったん打ち切らせていただきます。続きは、明後日の「日記抄」の中で書くことにします。皆様のブログを訪問できませんが、あしからず、ご了承ください。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(9)

7月26日(金)晴れ、暑し

 昔々、あるところに(といっても、物語の主な舞台はフランス西部のロワール川の流域と、パリである)にグラングウジェという陽気で、酒好きの王様が住んでいた。この王様は、ガルガメルというお妃を迎え、2人の間には、めでたく男の赤ん坊が生まれた。赤ん坊は、生まれるなり「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫び、それを聞いた父親が「やれやれお前のはでっかいわい」(Que grand tu as!)といったので、ガルガンチュワと命名されることとなった。
 ガルガンチュワはもともと大きな赤ん坊であったが、牛乳とぶどう酒とを飲んですくすくと育ち、元気に遊んでいた。5歳の時に、父親に向かって、衛生的な尻の吹き方について、韻文交じりの話をして、父親を驚かせ、その聡明さに感心したグラングウジェは、詭弁学者を家庭教師にして、勉強をさせることにした。
 こうして50年以上、ガルガンチュワは一生懸命に勉強したのであるが(巨人なので、時間も桁はずれの長さだったということらしい)、かしこくなるどころか、だんだん頭が悪くなっている様子なので、心配した父親は、ユーデモンという当世流に教育を受けた若者を呼び寄せて、ガルガンチュワと問答をさせた。ユーデモンがラテン語で明晰な弁論を展開したのに対し、ガルガンチュワはうんともすんとも答えることができず、グラングウジェは旧式の教育法の日を悟って、ユーデモンの師であるポノクラートにガルガンチュワを託すことになり、彼をパリに送り出す。
 パリに到着したガルガンチュワは、その巨大な体躯からパリ市民の間で大騒動を巻き起こすが、やがてそれも落ち着いたので、五百井世勉学に取り掛かることになる。しかし、ポノクラートは、その前に以前はどのように勉強・生活していたのか、実際にやってみろというので、ガルガンチュワは遅寝遅起き、牛飲馬食、勉強はほどほどで、遊ぶことに夢中というこれまでの忌まわしい生活ぶりを展開する。
 ポノクラートはあきれたが、急いては事を仕損じると、しばらくは放任し、その後、薬を飲ませて、これまで学んだことを全部忘れさせただけでなく、脳みその弱くなった部分を元に戻してから(そういう薬があったらいいと思う人は少なくないだろう)、新しいやり方での勉強に取り掛からせた。
 ガルガンチュワは早寝早起き、福音書を繰り返し、自分のものにするように、またギリシア・ローマの古典を現実と結び付けて学ぶようになった。頭だけでなく、体も鍛えようと、勉強の合間にはポーム(テニスとスカッシュの原型)をしたりして午前中を過ごした。食事中には、料理や調味料と結び付けて博物学が学ばれ、食後にはかるたやすごろくを通じて数学が学ばれた。また楽器の練習もした。

第23章 ガルガンチュワがポノクラートによって1日のうち1時間も無駄にならぬような規律で教育されたこと(ガルガンチュア、ポノクラートによって、ひとときも無駄にしない方法で、一日中教育される)(続き)
 昼食が済み、十分に腹がこなれると、ガルガンチュワは3時間あるいはそれ以上の間、また勉強に取り組み、朝のうちに読み聞かせられたことを繰り返したり、読みかけた書物を先に進んでもらったりして、それをノートに書き留めるのであった(この時代、紙は貴重だから、ノートには大事なことしか書かないのである)。第14章で詭弁学者のもとで勉強していたころはゴチック体で字を書いていたのが、ポノクラートのもとでは、ローマ字書体を教えられたとある、どこがどう違うのか、教えてほしいところである。

 それから彼は屋外に出て、盾持ちのジムナスト(体操の先生という意味だそうである、英語にもgymnasticsという語がある)という若い貴族に馬術を教わり、その後はさまざまな武術を練習する。そのほかに狩猟に出かけたり、水泳の練習をしたりする。こうして体を鍛えてから、また着替えて、宿所に帰るのであるが、その途中には沿道の植物を観察し、採集する。また古代の書物にこれらの植物がどのように記述されているかを検討する。
 家に帰ってからは、晩食の用意が出来上がるまで、以前に読み聞かせられたことのある文章を復唱し、それから食卓に着いた。(以前には、台所に覗き見に出かけていたのとは大変な違いである。)

 夕食は、昼食に比べて量が豊かであったが、昼食時と同じように、博物学的な会話が交わされ、それが済むと、文芸に関する有益で楽しい談話がつづいた。
 その後、神に感謝をささげてから、歌を歌ったり、音楽を演奏して楽しんだり、カルタやサイコロ遊びを楽しんだりして過ごすこともあったが、時折、学識ある人々や、異国へ旅をした人たちを囲む集いに出かけたりもした。
 夜が更けて寝所に引き上げるまえに、屋敷の中の一番空が見える場所に出かけて、天体を観測した。(これは前回、朝、起きたときに空を眺めるというのと呼応する。) さらにガルガンチュワはポノクラートを相手に、その日の学習内容を軽く復唱する。最後に、神に感謝の祈りを捧げて、就寝するのである。

第24章 雨天の入りにガルガンチュワは時間をいかに用いたか(雨模様の時のガルガンチュアの時間割)
 雨が降ったときの時間割は、午前中については湿気を除くために暖炉の火を盛んに燃やしたことを除けば、晴れた日と同じであった。午後は、武術の練習をする代わりの肉体訓練として、力仕事をしたり、絵画や彫刻を稽古したり、さいころ遊戯をしたりした。そのような遊戯をしながら、古代の文献にこの遊びについてどのような記述がされていたかを思い出していた。

 そうかと思うと工匠たちの職場を訪問してその様子を見学したり、公開講義などの知的な催しに参加したり、武術の道場で腕試しをしたりした。

 このように、さまざまな形で勉強をするだけでなく、月に一度は郊外に遊びに出かけ、自然に親しみながら、酒を飲んだり、その他の気晴らしをしたが、その際にも、ウェルギリウスの「牧歌」を暗唱したり、それをフランス語に翻訳したり、さまざまな知的遊戯にふけって時を過ごしたのである。

 このようなガルガンチュワの勉強の様子は、ルネサンス期の代表的な教育論の1つに数えられているが、それがガルガンチュワという王侯貴族の子弟の教育であること、どこまで実践の裏付けを伴うものであるかはあやしいことを割り引いておく必要があるだろう。それでも言語主義的な方法を批判し、人間の感覚や経験を重視すべきであるという主張には見るべきものがあると考えてよかろう。このようにして、ガルガンチュワは、次第にその学識を増して、立派な人物に成長していくが、彼の古郷では思いがけない事件が起きたのである。それがどのようなものかは、また次回に。

東川篤哉『かがやき荘西荻探偵局』

7月25日(木)晴れ、暑し。

6月26日、東川篤哉『かがやき荘西荻探偵局』(新潮文庫)を読み終える。
 
 商事会社で経理を担当していたミステリ・マニアの推理オタク小野寺葵、31歳;家電量販店の販売部につとめていた茶髪ショート・ヘア、方言女子の占部美緒、30歳;銀行に勤めていた黒髪・ツインテールでいまだに高校の制服を着る趣味がある関礼菜、29歳。3人のアラサー女子は、それぞれに趣味が高じて職場にいづらくなり(あるいは追い出され)、就職先の寮やアパートも追い出され、アルバイトを掛け持ちして食つなぐ(というよりも、趣味をあきらめていないので、出費が多いのである)日々、最終的に西荻窪のかがやき荘という一軒家をシェアハウスして生活している。

 このかがやき荘の持主というのが、中央線沿線で絶大な権勢を誇る法界院財閥の会長である法界院法子、この家はもともと法界院家の別邸で彼女が女子大に通っていたころに住んでいたのを貸に出したのである。かがやき荘の3人が家賃を滞納しはじめたので、自分の遠い親戚にあたる成瀬啓介という29歳の人物を見習い秘書に登用して、家賃の取り立てに出向かせる。ところが、出かけようとするその朝、法界院邸の離れに居候していたこれまた法界院家の遠い親戚だという真柴晋作という人物が謎の死を遂げるという事件が起きる。3人組は名探偵である葵の力で事件を解決して、それで家賃と相殺してもらえればと言い出す。意外にも法子女史は3人の申し出を受け入れ、3人は捜査に取り掛かる…というのが第1話:「かがやきそうな女たちと法界院家殺人事件」である。

 ある夜、美緒が見つけて持ち帰った洗濯機が夜になると動きだして、ぞうきんを洗っているという事件が起きる。その一方で、法子夫人の家庭教師をしていた女性の住んでいるマンションの一室で、怪しげな男の死体が発見される。この殺人事件を解決したら、当月分の家賃をタダにするということになるが、実はこの2つの事件は…というのが第2話:「洗濯機は深夜に回る」である。

 法界院グループに属する広告社の女性社長の、父親が週末になると出かけていくが、母親に隠れて浮気をしているのではないかという疑惑を解明することを3人組が頼まれ、3人が尾行を開始するが・・・というのが第3話:「週末だけの秘密のミッション」である。第1話、第2話が殺人事件だったのに対して、第3話は日常の謎と言っていい話になる。この父親が自動車の中のラジオでプロ野球の交流戦のタイガースとライオンズの試合の実況を聞いていて、ライオンズが中村選手の本塁打で同点に追いついたものの、延長戦の結果惜敗したなどという細かい話が出てくる。あるいは作者はライオンズは好きではないが、(おかわり君というあだ名こそ出していないものの)中村選手が好きなのかもしれないなどと勝手な想像をかきたてられている(実は私がそうである)。

 第3話までは3人組が(時には成瀬の助けを借りて)事件を解決するのだが、今回は、事件の当事者になる。
 葵がアルバイト先のコンビニから帰る途中で、《西荻向上委員会》の活動に身を投じているという中年の紳士に声をかけられる。会の発行する雑誌の表紙を飾ってほしいというのである。「男性経験の極端に少ない」(345ページ)葵を毒牙にかけようとする結婚詐欺師のたくらみでは…と残る2人は心配して…ということで第4話:「委員会からきた男」のストーリーが展開する。これまで探偵役として活躍していた葵が今度は探偵される側にまわる。どこかで読んだような話(解説の香山二三郎さんはカトリーヌ・アルレーなんて余計なことを書いている)の展開ではあるが、これまでの3話で刷り込まれている登場人物の個性がその中にうまくはめ込まれている。

 「類稀(たぐいまれ)な探偵力と、信じがたいほどの詰めの甘さ」(217ページ)を持つ3人組の活躍は、どうもこれからも続きそうである。この作者の作品としては、瀬戸内海の島で起きた事件を女性探偵が解決する『館島』(創元推理文庫)を読んでいるが、ここではまた別の面白さが感じられた。余計なことを書いているといったが、香山さんの言うように、この短編集は順を追って読んだ方が面白いし、登場人物への理解も深まる。続編も既に出ているようなので、文庫本になったらまた読んでみるつもりであるし、この作者の代表作らしい『謎解きはディナーの後で』も読もうと思っている。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(9)

7月24日(水)晴れ、暑し。

 コロンブスの新世界への航海に参加し、その後、地球上をさらに西へと進んで、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、その航海の途中で立ち寄った「太陽の都」の様子を、マルタ騎士団の団員の質問に答えて語る。
 「太陽の都」はタプロヴァーナ島(この物語では、スマトラ島のことを指していると考えられる)の中央に広がる草原の中の丘の上に建設され、七重の城壁を同心円状にめぐらした都市で、その中心である丘の頂上には神殿が位置する。この都市を支配するのは、「太陽」と呼ばれる神官君主で、すぐれた学識を持つ人物が選ばれるという一種の哲人政治が行われている。「太陽」は「権力」、「知識」、「愛」と呼ばれる3人の高官によって補佐される。「権力」は軍事、「知識」は科学、「愛」は生殖、教育、医療を司っている。
 住民たちは私有財産を持たず、家族をつくらず、集団で共同生活をしている。(一部の例外はあるが)全員が働くので、社会全体としては豊かであるが、個々人の生活はきわめて質素である。衣服は配給制、食事は共同で行われ、城壁内の役人が指定した場所で寝起きする。
 神殿の外壁や城壁には様々な絵が描かれていて、子どもたちの教育に利用されている。人々は教育を通じてその能力・資質を見出され、それぞれに適した職業に就くことになっている。

 次にジェノヴァ人は、マルタ騎士団員の問いに答えて、生殖について語る。
 「太陽の都」では女子は19歳になるまで男子と同衾せず、男子は21歳までは生殖行為を行なうことができない(モアの「ユートピア」では女子18歳、男子22歳であった)。この年齢に達する以前であっても、情欲に激しく悩んでいる場合には、必要な手続きのもと、教師や医者の監督下で性交することができる。男色は激しく非難され、それが重なると死刑になる。21歳まで一度も西欧をしなかった男子は、褒賞などを授けられ、賞賛を受ける。
 彼らは古代ギリシャ人(スパルタ人)のように、男女の別なく全裸で運動するので、教師たちはそれぞれの身体的な特性をよく知っており、誰と誰の組み合わせが最も適切であるかを判断できる。坂本鉄男は「古代スパルタ人の習慣にヒントをえたもので、ラテン語版には明確に『スパルタ人のように』と述べている。モアの男女の適合性の判断はこれとは違って、行為の前に『互いに全裸で紹介される』と述べている」(87ページ)と注記しているが、古代スパルタ人が本当に全裸で運動する習慣を持っていたかどうかは疑ってみる余地がある。マリー=ルイズ・ベルネリが『ユートピアの思想史』で述べているように、リュクルゴスの唱導によるといわれるスパルタ人たちのこの習慣は、プルタルコスの『リュクルゴスの生涯』(『英雄伝』と訳されることが多い『対比列伝』の一部)に記されたものであり、プルタルコス自身が、彼の時代にはそうでなかったと述べているものである。が、リュクルゴスの改革に基づいて展開された(と言われる)スパルタ人たちの生活ぶりは、プラトンの『国家』と並んで、近世以降のユートピア思想に大きな影響を与えるものであった。すでに述べた、共同で食事をするという習慣についても、実はプルタルコスにその記述があり、モアも、カンパネッラもその影響を受けたと考えてよいのである。

 彼らの夜の営みは、教師たちの監督のもとで行われ、占星術によって最もよい時間が選ばれている。かれらが子作りのために入念な配慮をするのは、「生まれながらの素質なくしては道徳的な力も育つことは難しい、性質の悪い人々は法を恐れるために善をするのであり、法が無くなるようなことがあれば公然とあるいは秘密裏に共和国を害するであろうといわれています。だから、生殖にこそあらゆる配慮がなされるべきであり、持参金とか一時的な貴族の称号などでなく、生まれつきの性質にこそ注意が払われるべきなのです。」(28ページ)という理由からである。

 ある女性が、男性との間に子どもを儲けることができないと、別の男性と結びつけられる。その結果、彼女が不妊であることがわかると、男性たちの共有物とされる。そのような女性は生殖の会議、食堂、寺院などで母となったことのある女性としての名誉を得ることはできない。すべて神官である役人たちは、幾日もの間普通の人々よりも多くの条件を守らなければ生殖行為を行わない。彼らは思索にふけることが多いために、動物的な本能が弱く、よい子孫を残すことが難しいからであるという。
 妊娠した女性は15日間は仕事をせず、その後は、軽い労働に従事する。分娩後は共同の場所で自分で育児をする。そして博物学者たちの意見による2年間ほどは授乳を行なう。離乳後は女児ならば女性教師の、男児ならば男性教師の監督下に委ねられ、ここで他の子どもたちと一緒に学習することになる。
 子どもの教育については既に述べられているが、7歳になると博物を、それから役人たちの意見により他の学問を学び、その後、機械学を勉強することになるという。子どもたちは、生まれるときの星回りにを気をつけて生まれてくるので、同じ年齢の子どもたちは特性においても発育においても性向においてもほとんど同じである。そしてこのためにこそ、共和国の中は常に調和が保たれ、人々は互いに愛し合い、助け合うのだという。

 人々の名前は、形而上学者(=太陽)によって、彼らの外見上の特徴により名付けられる(形而上学者が、形而下のこのような事柄にかかわるというのも奇妙な話である)。「こうして『美男』と呼ばれるもの、『大鼻』、『大足』、『やぶにらみ』、『でぶ』などと呼ばれるものもいるわけですが、やがて彼らが職業や戦争などで非凡な腕前を見せるようになると、その職業に応じて『大画伯』、『黄金のような画伯』、『卓越せる画伯』、『堂々たる画伯』などの姓が付け加えられ、『黄金のようなでぶ』などと呼ばれるのです。」(坂本訳、29ページ) このような姓は高官たちから授けられ、人々の拍手と音楽の演奏のうちにそれぞれの行為や職業にふさわしい冠とともに贈られる。金や銀には価値が見いだされない社会であるので、人々はこのような拍手喝さいを得ようと努力しているのだという。

 家族というものはないはずであるから、ここで言われている姓はただの呼び名であって、それ以上のものではない。カンパネッラ自身も言っているように、彼らの名前のつけ方は古代のローマ人に似ているようである。職業や身分が姓になるのは、昔の九州の豪族である少弐氏(代々、大宰府の少弐の職を世襲したのでこの名がある)の例のように、職業が世襲の場合にありがちなことだと思うのだが、カンパネッラはそうは考えていないようである。もっとも、彼が『太陽の都』を理想的な未来社会の青写真として書いているかどうかを巡っては、疑問に思われる点がないわけではない。生殖にまつわる習俗についてジェノヴァ人の話はまだ続くが、それはまた次回に。
 

『太平記』(272)

7月23日(火)朝のうちは雨が残っていたが、次第に晴れ間が広がる。

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国地方で抵抗を続けていた南朝勢力が鎮圧され、天下は武家のものとなり、公家の勢いは衰えた。そのため、朝廷の諸行事も行われない世の中になってしまった。
 京都の将軍足利尊氏と、その弟の直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めようとして、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(南朝興国5年、西暦1345年)8月の落慶供養には、光厳上皇が臨席されることになったが、比叡山延暦寺は款状を捧げて抗議した。これについて、朝廷では公卿僉議が行なわれ、坊城(勧修寺)経顕、日野(柳原)資明が意見を述べ、三条(中院)通冬は和漢の例を引いて天台と禅に宗論を指せるように提案したが、二条良基は末代における宗論の難しさを説き、判断は武家に委ねられた。
 武家は延暦寺の訴えを退け、落慶法要の準備を進めた。延暦寺は強訴を企て、興福寺に牒状を送って同心を求めると、朝廷は上皇の御幸を法要当日ではなく、翌日とすることで延暦寺の憤りを鎮めた。
 8月29日、天龍寺の落慶法要が行われた。光厳・花園両上皇はその翌日に御幸されたが、法要が勅会とならなかったのは不吉の前兆であった。

 なお、花園院、光厳院ともにその伝記によると、禅宗に深く帰依されており、花園院はその御所を禅僧である関山に与えられて、妙心寺とされ、光厳院は晩年を丹波の常照寺(現在は常照皇寺という)で過ごされた。飯倉晴武は、天龍寺の建立に際しての光厳院のご尽力について詳しく述べている(飯倉『地獄を二度も見た天皇 光厳院』、132‐135ページ参照)。

 ここで『太平記』の作者は少し脱線して、東大寺の大仏に関わる故事を持ち出す。
 仏像をつくり、寺を建てることは善根を施すことではあるが、願主がそのことによって自分はいいことをしたのだという驕慢の心を抱いてしまっては、仏教そのものも混乱することになるし、三宝(仏・法・僧)の維持も難しくなるというのである。中国南北朝時代の梁の国の初代皇帝である武帝は、中国に禅宗を伝えた達磨に向かって、「自分は、1700か所の寺を建て、10万8千人の僧尼に供養を施したが、功徳があるのか」と問うたのであるが、達磨は「無功徳」と答えたという。これは、本気で功徳がないといっているわけではなく、皇帝の心の中にはまだ驕慢の心が残っていることを悟らせて、人為的でない、自ずからの善の心を生じさせようとしたのである。

 さて、わが国の奈良時代に、聖武天皇は東大寺を造立されて、金銅16丈の廬舎那仏を本尊として、その開眼供養を行われようとした。〔うるさいことをいうと、東大寺を造立される時点で、聖武天皇は皇女であった孝謙天皇に譲位されて、上皇になられていた。東大寺の大仏は16丈ではなく、現在の計測では5丈3尺5寸である(造立の時点では、もう少し大きかったことは否定できないが…)〕 開眼供養の導師(主宰する僧侶)として、行基菩薩をお迎えしようとした。

 ところが、勅使を迎えた行基がいうことには、「天皇のご命令は重大であり、辞退する言葉もありません。しかし、このように重大な御願は、ただ神仏のお心に任せるのがよかろうと思います。それで、当日は香華を備え、偈頌(韻文体の経文)を唱えて、天竺から梵僧(インド人の僧)が到着するのを待って、それから供養を行なわれますように」とのことである。
 聖武天皇をはじめとして、朝廷の公卿たちは、すでに世の中は末法の世になっているどのように我々が真心を込めても、百万里の波頭をへだえた天竺から、急に導師が来て、供養を行うなどということはあるはずがないと、心中大いに疑っていたのではあるが、jほかならぬ行基が深慮を凝らして申し上げているのであるから、異議を唱えるわけにはいかないと、いよいよ開眼供養が明日に迫ったという日になっても、導師を決めないままでいた。

 すでに当日になったその日の朝、行基は自ら摂津国難波の浦(今の大阪湾)においでになり、西に向かって香華を供し、座具を敷いてそれを礼拝された。と、五色の雲が空にたなびき、沖合から一葉の船が波に浮かんでいるのが見えた。その上に乗っているのは天竺の婆羅門僧正である。まさに突然の出現であった。

 仏法守護の諸天善神たちは高僧の上にさす傘を持ち、難波の湊(津)の松は大雪が降ったときのように頭を下げる、それだけでも驚くべきことであるのに、妙なる香の香りがあたりに漂い、春を告げる難波津の梅の花が、一斉に開花してその香りを人々の袖にしみこませるほどに発散しているのかと思うばかりである。まことに不思議な景色である。二人の僧の出会いに立ち会うことになった人々は、改めて仏縁の深遠さを知ることになるのである。行基菩薩は、旧知の友人に会ったというようなご様子で、
 霊山の釈迦の御所(みもと)に契りてし真如朽ちせず合い見つるかな
(霊鷲山での釈尊の御説法の座で再会を約束したが、仏法の真理が不変であるようにお会いできたことよ。)
と歌をお詠みになった。すると、婆羅門僧正も
 伽毘羅会(かびらえ)に契りて起きし甲斐ありて文殊の御顔相見つるかな
(釈尊の故郷である伽毘羅会でお約束したかいがあって、文殊菩薩の化身(行基)のお顔を再び拝見できました。)
と返す。こうしてお二人は奈良に向かわれ、東大寺の大仏開眼供養を執り行われることになった。その供養の様子というのは口で語りつくせるようなものではない。天上界から降る花は風に盛んに散り乱れ、読経の声は空の上はるかに高く上っていく。上古にも、末代にもこのような供養はあり得ないというような盛儀であった。

 仏閣を築造し、仏像をつくるというのであれば、この東大寺の例に倣うべきであるのに、この天龍寺の場合には、比叡山延暦寺が盛んに横やりを入れ、最後には落慶供養を勅会とさせなかったのは異例の事態というべきである。僧侶も俗人も驕慢の心が兆したために、仏道を妨げる悪魔に付け入るスキを与えてしまったのであろうかと、人々はこの事態を怪しんだ。その結果(であるかどうかは、現代の目から見るときわめて疑わしいところであるが)天龍寺は落慶後20年のうちに2度までも焼けてしまったのは不思議なことであったと『太平記』の作者は結ぶ。

 実際問題として、東大寺も兵乱や災害のために何度か、大仏殿や本尊が焼失したことはあったのである。結局宗教と政治とが結びつくことが問題であって、問題は『太平記』の作者の認識をこえたところにあったのである。
 歴史的な事実としては、行基は東大寺の大仏開眼の時点ですでに入寂しており、開眼供養の導師となる可能性はなかった。また婆羅門僧正(菩提遷那)の来日は、大仏造立の前のことである。
 この二人がすでに過去に会ったことがあるという話だが、中国の天台太師智顗が南岳太師慧思と会見したときに、慧思がよく来られた、あなたとこの前会ったのは、釈尊が霊山で法華経を説かれたときであったなと言って迎え入れたという説話を思い出させる。宗教は、われわれの日常的な体験の世界を超えた世界であるが、あまりにも日常離れをした説話は信じられないところがある。
 
 本日は、皆様のブログへの訪問を休ませていただきます。あしからず、ご了承ください。
 

日記抄(7月16日~22日)

7月22日(月)曇り
 7月16日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

7月16日
 西條奈加『みやこさわぎ お蔦さんの神楽坂日記』(創元推理文庫)を読む。お蔦さんシリーズ第3作。

7月17日
 山口恵以子『あの日の親子丼 食堂のおばちゃん6』(ハルキ文庫)を読み終える。さらに望月麻衣『京都寺町三条のホームズ⑫ 祇園探偵の事件手帖』(双葉文庫)を読み終える。

7月18日
 NHKラジオ『高校生からはじめる「現代英語」』は”Wealth gap widening in last 10 years"(過去10年間に富の格差が拡大)という話題を取り上げた。国際的なNGOであるOxfamが今年のダヴォス会議に向けて発表した報告書によると
The number of billionaires rose to 2,208 last year. That compares with 1,125 in 2008, when the global financial crisis began.
The total assets of the world's 26 richest individuals equal those of the 3.8 billion poorest people.
(億万長者の数が昨年、2,208人に増えた。比較してみると、世界的な金融危機(リーマンショック)が始まった2008年には1,125人であった。/世界で最も裕福な26人の個人の総資産は、最も貧しい38億人の人々の総資産と等しい。)

 同じく『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
Never interrupt your enemy when he is making a mistake.
    ――Napoleon Bonaparte
             (French military and political leader, 1769-1821)
(敵が間違いを犯しているときは、決して邪魔をしてはならない。)

7月19日
 昨日に引き続き『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーから:
People are best convinced by things they themselves discover.
     ――Benjamin Franklin
(U.S. statesman, diplomat, inventor and scientist, 1706-90)
(人は、自分自身が発見した事柄に最もよく納得する。)
「やまびこ学校」の生徒の一人であった佐藤藤三郎さんが、無著先生に教わったことよりも、先生に言われて自分で調べたことの方が身についていると語っていたことが思い浮かぶ。

 ジム・ロジャーズ『日本への警告 米中朝鮮半島の激変から人とお金の動きを見抜く』(講談社+アルファ新書)を読む。安倍政権に防衛費を減らすように提言しているのは、まったくその通りだと思う。(アメリカ製の兵器を爆買いせずに、国産の兵器を買うとか、使うかどうかわからないというよりも、使わない方がいい兵器に金をかけるのではなく、自衛官の給料を増やせという程度のことも、最近は言う人がいなくなった。)
 「トランプは今、中国との貿易戦争に勝てば彼の利益になると本気で考えている。これは見当違いもいいところだ。トランプは歴史を知らないか、あるいは歴史よりも自分が賢いと思っているのだろう。」(105ページ)

7月20日
 各紙に、新たに人間国宝として7氏が推薦されたという記事が出ていた。「人間国宝」というと、川柳川柳師匠がその師匠である三遊亭圓生について書いていることを思い出してしまう:
 「圓生師がこんなことを言っていた。
 『私は、芸術院会員なら喜んでいただくが、あの国宝てえのは、いけません。どこかの島の婆さんが機を織ってたり、なんか焼物をしてる汚い爺さんが、泥なんかこねてる。私はあんなのと一緒にされたくありやせんな』
 実に園生らしい言葉だ。悔しいから、そんな憎まれ口を利いているが、本当に選ばれればホイホイ喜ぶに決まっている。」(川柳川柳『ガーコン 落語一代』(河出文庫)、155ページ)
 そういえば、内田百閒は芸術院会員に推薦されたが、「いやだからいやだ」と言って辞退した。

7月21日
 『朝日』の朝刊の「夏休み 学童の昼食」という記事を読んでいて、全国に約2万5千か所の学童保育施設があることを知った。ということは、小学校の数よりも多いということである。時代は変わるものだとつくづく感じさせられた。(小学校の数は明治時代から大体2万5千校前後であったが、近年急激に減少しているのである。)

 『日経』の朝刊に渋谷・池尻のロシア料理店「サモワール」のことが取り上げられていた。「小津安二郎がボルシチを食べ、寺山修司は亡くなる直前にウォッカだけを飲みに来た」という。

7月22日
 昨日の参議院選挙の開票結果が明らかになり、わたしの投票は1勝1敗であった。これは地方選挙と同じである。
 『朝日』朝刊の「天声人語」で大相撲と政治を結び付けた議論が展開されていたが、昔、尾崎士郎が横綱は大臣よりもえらい、自分は横綱になって土俵入りをしている夢を見ることがあるが、大臣になった夢を見たことはないというようなことを言っていたのを思い出す。今回の参議院選挙に元横綱の貴乃花さんを担ぎ出すという話があったが、国会議員などに落ちぶれてほしくはないという願い通りになった。(アイドルの場合はどうだろうか…?)

 英紙『フィナンシャル・タイムズ』から『日経』に転載された論説記事(トランプ大統領の)「計算ずくの人種差別発言」に、ローマ白銀時代の歴史家タキトゥスの「荒廃させ、それを平和と呼ぶ」という名言が引用されていた。アメリカだけでなく、日本の政治や社会の状況にも当てはまりそうな言葉である。
 The Penguin Dictionary of Quotationsで調べたところ、このタキトゥスのことばは彼の岳父の伝記である『アグリコラ』(Agricola)の中に出てくるもので、英訳ではWhere they make a desert they call it peace. という。ラテン語でどういうのかはまだ調べがついていない。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』にはロサンゼルスのグリフィス・パークの天文台が登場した。
Rebel Without Cause was shot here. (『理由なき反抗』はここで撮影されたのよ。)
 ジェームズ・ディーンの出演作で、『エデンの東』は3回、『ジャイアンツ』は映画館で1回と、TVで1回(この作品はテーマから見ても、配役から見ても注目すべき作品であるが、どうも冗長なので、テレビで見るほうが疲れない)と複数回見ているが、『理由なき反抗』は一度しか見たことがない。それでも結構細部をおぼえているというほど、印象的な作品であった。
 グリフィス・パークと『理由なき反抗』は、『ラ・ラ・ランド』でも効果的に回想されていた。

 神保町シアターで『どんと行こうぜ』(1959、松竹、野村芳太郎監督)を見る。脚本を野村と共同で、大島渚が書いている。大学の放送研究会の女子学生が、学生の実態を描き出す番組をつくろうと取材活動をしているうちに、生意気な学生に出会う。女子学生を牧紀子、生意気な学生を津川雅彦、放送局のプロデューサーである女子学生の兄を渡辺文雄、そのほかに大島の『愛と希望の街』で主演した富永ユキが出演している。バーの従業員とアルバイト学生たちが、バー内恋愛禁止に反対してストライキを始めるところとか、危ない感じの学生作家(大江健三郎をもじった名前であった)の執筆現場に牧紀子が同行して危機に陥る場面が見せ場になる。大島の『太陽の墓場』や、篠田正浩の『乾いた湖』と共通する部分がないわけではないが、全体としては明るい喜劇である。こういう作品も作られていたという点で価値を認めるべき映画である。そういえば、九条映子も出演しているし、ロカビリー・バンドの役柄でクレイジー・キャッツが姿を見せているのも一見の価値がある。

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(2)

7月21日(日)曇り

 イングランド南東部(というよりもロンドンの北にあると言ったほうがいい)ハートフォードシャーのロングボーン村の地主であるベネット氏にはジェイン、エリザベス、メアリ、キャサリン、リディアという5人の娘があった。母親であるベネット夫人にとっては、この5人の娘たちの結婚がいちばんの問題であった。一家の住まいの近くのネザーフィールド・パークという邸宅を、ビングリーという名の裕福な独身男性が新たに借りることになったという知らせを受けて、ベネット夫人は色めき立った。
 この地方の中心地であるメリトンの町で開かれた舞踏会に、ビングリーは自分の姉とその夫、妹と彼の親友だというダーシーという青年を連れて参加した。快活で愛想のいいビングリーはたちまち参加者たちの人気を集めたが、同行していたダーシーは彼が年収1万ポンドと噂される富豪で美男であったが、尊大な態度をとっていたために不評を買ってしまった。
 姉妹のうちで一番美しい長女のジェインは、ビングリーと二度踊る機会を得て、満座の注目を浴びたが、エリザベスは踊るのを休んでいるときに、それを見たビングリーがダーシーに彼女と踊るように勧めると、ダーシーが自分の相手にふさわしいほどの美人ではないと言って断るのを聞いてしまった。もともと明るい性格の彼女は、それを笑い話の種にしたのであったが、不快感は残った。〔以上、第1章から第3章までのあらすじ。今回は、第4章と第5章を取り上げる。〕

 ジェインは他人の前ではビングリーについてあからさまに褒めないようにしていたが、帰宅後、エリザベスと二人だけになると、彼がすばらしい、理想的な青年であるとほめだした。〔両親や、他の妹たちがいるところでは言わなかったというところに、上の2人の姉妹の家族に対する気持ちが現れている。〕 エリザベスは、ビングリーの美点を認めながらも、ジェインが美人であるために男性たちから関心を集めやすいことを指摘して、慎重にふるまうように言う。姉がビングリーを好きになるのはかまわないが、その姉妹たちに無警戒であるのは心配に思われた。ジェインは、ビングリーの姉妹たちは好感の持てる人びとだと考えていたが、姉よりも観察眼の鋭いエリザベスには彼女たちの高慢で人を見下す態度が気に入らなかったのである。

 ビングリーは商売で富を築いた父親から約10万ポンドの遺産を相続し、どこかに地所を買って地主としての生活を始めようと考えていたが、のんきな性格のためになかなか実行しないままになっていた。ビングリーは気さくで、おおらかで、素直な性格の持主であったが、自分とは違う性格のダーシーと固い友情で結ばれていた。ダーシーは気位が高く、不愛想で、気難しかったが、頭がよく、判断力に優れていたので、2人はよく補い合ったのである。
 この2人の性格は、彼らがメリトンでの舞踏会について持った印象にも表れていた。ビングリーが舞踏会はすばらしかったし、素敵な人々や、きれいな娘たちに出会ったと感想を述べたのに対し、ダーシーは大したことはなかったというだけであった。ミス・ベネット(ジェイン)について、ビングリーが「想像し得るどんな天使よりも美しい」(he could not conceive an angel more beautiful,p.18、大島一彦訳、40ページ)と言ったのに対し、ダーシーは「綺麗なことは認めるが、それにしても少しにこにこし過ぎだ」(大島訳、同上)というだけだった。しかし、ビングリーの姉妹二人が、ミス・ベネットは感じのいい(sweet)女性だと認めたことで、ビングリーは彼女のことを好きなように考えていいのだと結論したのである。

 ロングボーンから少しばかり歩いて行ったところのルーカス・ロッジと名づけられた邸宅に住んでいるサー・ウィリアム・ルーカスの一家と、ベネット家は親しく付き合っていた。サー・ウィリアムはもともとメリトンの町で商人をしていたが、町長(大島さんは市長と訳している。翻訳によって、市長とするものと、町長としているものとがあって、どちらでもいい)をしていた時に、国王への請願がみとめられて爵勲士(ナイト knight)に叙せられた(それでサー・ウィリアムとよばれるのである。「サー」と呼ばれるのは、従男爵(baronett)と爵勳士の場合である)。もともとは地主ではないのだが、土地と邸宅を買って、紳士(gentry)として生活するようになった。とはいうものの、低調で、礼儀正しく、世話好きな人物であった。夫人は善良ではあったが、「あまり頭が良すぎるほうではなかったので、ベネット夫人には貴重な隣人であった。」(大島訳、41ページ、この訳は、やや問題があるように思うので、他と比べてみると、「ルーカス夫人は平凡かつ善良な婦人で、あまり頭もよくなくて、ベネット夫人にはありがたい隣人だった。」(中野康司訳、33ページ)、「ルーカス夫人は、ごく善良な婦人で、ベネット夫人の頼もしい隣人となるには才気がありすぎて困るというほどでもなかった。」(阿部訳、26‐27ページ) 原文は
Lady Lucas was a very good kind of woman, not too clever to be a valuable neighbour to Mrs. Bennet.
で、直訳すると、「ルーカス夫人はきわめて善良のタイプの婦人であり、頭が良すぎるということはなかったので、ベネット夫人の貴重な隣人となることが得きた。」ということであり、阿部訳がいちばん文意をつかんでいるように思う。この作品を後まで読んでいくとわかるが、ベネット夫人は、娘たちの足を引っぱってばかりいるのに対し、ルーカス夫人はそれほど愚かではない。とにかく、お互いに親しく付き合える程度に、頭のよさも近かったということである。
 ルーカス夫妻にも子どもは複数いて、長女であるシャーロットは27歳で、聡明な女性であり、エリザベスと仲が良かった。〔エリザベスは20歳を過ぎたばかりの年齢であり、この両者は年齢が離れていることが、後で意味を持ってくる。〕 

 両家の令嬢たちは、舞踏会があるとその後で会って話しあうのが常であり、例の舞踏会があった次の日の朝も、ルーカス家の令嬢たちがあれこれ意見を交換するためにロングボーンにやって来た。ベネット夫人は(社交上)、ビングリーが最初にシャーロットと踊ったことを話題にする。これに対しシャーロットはビングリーは、二番目に一緒に踊ったジェインの方が気に入ったらしいと遠回しにいう。それだけでなく、ビングリーが当日の会場に集まった女性の中で一番美しいといったことを立ち聞きしたといい、自分の立ち聞きの方がエリザベスの立ち聞きよりも聞きがいのあるものであったと続ける。(表向きとは裏腹に、さまざまな火花が散っている。) ベネット夫人とエリザベスはダーシーのことを思い出さないわけにはいかない。ダーシーは不愉快な人物であるというと、シャーロットは、彼は親しい人としか口を利かないが、そういう場合には愛想がいいと話す。(シャーロットの方が広い情報網を持っている。) ベネット夫人は信じようとしないが、シャーロットは、ダーシーとエリザベスが踊ってほしかったという。不愉快な思い出を持ったエリザベスは踊ることなどとんでもないと答える。しかし、ミス・ルーカス(シャーロット⦆は、ダーシーが強い自尊心をもっているのはそれだけの理由があるからだといって、彼を擁護する。「こんな云い方をしてもよければ、あの方には高慢になる権利があるのよ。」(大島訳、44ページ、個人的な素質に恵まれ、家柄がよく、資産家でもあるということである。) エリザベスは、それには反論せず、「私だって、あの人が私の自尊心を傷つけさえしなかったら、いくらでもあの人の自尊心は恕(ゆる)してあげられてよ」(同上)と答える。ここは原文を引用すると、
 ”I could easily forgive his pride, if he had not mortified mine."
である。Pride and prejudiceのうちのprideという言葉が、ここで登場していることに注目しておこう。

 この章はここで終わってもいいのだが、オースティンは2つほど、ユーモラスな付け足しをする。一つは、ベネット家の三女であるメアリが、自尊心について余計な論評をすることであり、もう一つは、ルーカス家の息子(シャーロットの弟)が、もし自分がダーシーほどの金持ちならば、「いくらでも威張ってやるけどな。フォックスハウンドを一隊分飼って、毎日葡萄酒を一壜空けてやる。」(大島訳、45ページ) Penguine Classics版では、この個所に注記して、「この時代の男性の消費傾向の興味深い例である。狐狩用の猟犬というのは1750年ごろにさかのぼる、比較的近年の現象なのである」と述べている。12歳か13歳くらいの子どもが、勝手なことを言っているのだから、聞き流しておけばいいのだが、ベネット夫人が飲みすぎですとムキになって反論し、いつまでたっても議論は終わらなかったというところで第5章が終わっている。

 今回は第7章まで進むつもりだったが、第5章までで終わってしまった。『高慢と偏見』を代表するのが誰であるかがここまでで読み取れたはずである。本来ならば、結ばれるはずがない大地主のダーシーと、小地主の娘エリザベスが、次第に惹きつけられあう。この時点では、まだ両者の距離は離れている。地味目の恋愛小説を得意とするオースティンにしては、思い切り派手な設定である。『分別と多感』に登場したブランドン大佐の年収が2千ポンドということであったが、今回のベネット家は年収2千ポンドということで、同じ程度の地主である。それに対し、ビングリーは年収4千ポンド、ダーシーにいたっては年収1万ポンドというのだから、金持ちといっても規模が違う。ただしビングリーは土地所有者ではないから、遊び暮らしているだけである。ベネット家の当主やダーシーは地主であるから、それなりの仕事がある。
 第5章で、ベネット家の隣人であるルーカス家の人々が登場する。「擬似紳士(Pseudo-gentry)」であるルーカス家には、何人かの(物語を読んだ限りでは2人以上の)令嬢と、1人(以上の)令息がいる。家柄からいえば、格上の(ただし、ベネット夫人の出自が問題である)ベネット家の令嬢たちの方が美人ぞろいであるのは否定できないが、ベネット家ではエリザベス、ルーカス家ではシャーロットが抜きんでて頭がいいようである。(頭がいいというのは、どういうことかというのも問題だが、物語の進行につれて、作者オースティンが思い描く頭のよさがどのようなものかはわかってくる。) 善人だが、俗物的なルーカス家の人々は、ベネット家の人々と対立することもあるかもしれないが、決して、悪役でも敵でもない。かれらが物語の進行の中で果たす役割は、けっこう重要である(と、わたしは思っている)。
 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(19)

7月20日(土)曇り、時々雨

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア4カ国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活誌を調査した。これはその調査旅行の私的な記録である。
 調査に参加したのは、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛である。研究に協力しているタイのチュラーロンコーン大学のクルーム教授(動物学)の助手であるヌパースパット、通訳としてチュラーロンコーンに留学中の葉山陽一郎が現地で加わった。また、後からお茶の水女子大学の教授で植物分類学の津山尚が合流する意向を示した。
 一行はバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して報告を行った後、自動車の運転の練習を兼ねてカンボジアのアンコール・ワットを訪問、その後、タイ北部における調査の準備を進め、12月24日にバンコクを出発、ロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンを経てチェンマイに到着した。ここでチェンマイの営林局に人員の派遣を依頼し、ドーイ・インタノン地区の森林官であるサイヤンが一向に加わった
 1958年1月2日に一行は、タイの最高峰であるドーイ・インタノンに向けて出発、山麓のメー・ホーイの村に一泊した。登山の荷物を運ぶためのウマに加えて、バンコクのフランス大使館のイヴァノフの勧めにしたがってゾウを2頭傭い入れた。谷川に沿って山を登り、山中に住むカレン族と遭遇、彼らの居住地であるソップ・エップの対岸にキャンプを設営したが、かれらとは友好的な関係を築くことができた。

カレン族
 カレン族はもともとビルマ(ミャンマー)に本拠を持ち、最大の少数民族として、ビルマ5州のうちの1州=カレン州を形成している。それだけでなく、山を越えてタイの山岳部まで進出しているのである。ビルマでは、かれらは山地民とは言えないかもしれないが、タイでは山地民として、平地のタイ人たちとは距離を置いて生活している。しかし、両者の間に交流がないわけではなく、(チェンマイ県)チョームトーン郡の郡長によれば、かれらは政府に税金を納め、また彼らの中でタイ語ができる適当な人物が村長に任命されているという。ただし、かれらが国有林の中で畑作を行なっているのは、不法行為とみなされているようである。かれらは自分たちをクリスチャンだといい、実際に、チョームトーンにある教会から、ときどき牧師がやって来ているという。

鳥かごの家
 翌日、一行は対岸のカレンの部落を見に出かけた。戸数わずかに3戸であったが、水田が開かれ、スイギュウとブタがいた。「かれらもまた、水田耕作者という点では、平原の民となんら異るところはないのである。」(213ページ)
 「家は、木と竹で組んだ鳥かごみたいな家だった。高い床と、大きくおおいかぶさる屋根にはさまれて、ぺしゃんこの、かれらの居住空間があった。」(214ページ)
 服装は、直線截ちの単純なスタイルのものだった。男たちは、ひざの下までのズボンに、赤い上着を着ていた。女は、娘たちは長いワンピースの白いのを着ていたが、年配の女は、ししゅうのある黒いツーピースを着ていた。結婚するとすっかり服装がかわるのである。男も女もみんなハダシである。
 前夜、仲よしになった少女たちが、広場で輪になって踊りをおどって見せてくれた。川村はそれを映画におさめた。

桃源郷パーモン
 その日は、さらに谷川をのぼりつづけた。谷はしだいに狭く、道は険しく入り組んできた。落葉性の広葉樹にかわって、次第に常緑広葉樹が増えてきた。「景観は、だんだん緑が濃くなり、見かけの季節は、秋から夏にかわってきたようだ。」(214ページ) 日本の山とは違って、高くなるほど緑が多くなっているのは、山の上の方が下の方よりもずっと雨が多いからである。

 「夕方、突然に森が切れて、開けた場所に出た。それがパーモンだった。」(215ページ) この附近のカレンの大中心地で、全部で90戸のカレンがいるという。
 「しかし、まったくふしぎなところだ。平原のタイ族の最後の部落から、距離にして約30キロメートル、高さにして1000メートル以上も高い。しかも、その両者のあいだは、すきまもなく大森林で埋められているのである。こんな山奥の谷間に、こんなりっぱな大集落をかまえて、別種の人たちが住んでいようとは、だれが想像し得るだろうか。
 わたしは、シナの説話の中に出てくる桃源郷というのを思いだす。桃源郷というのは、きっとこんなところだったのだろう。平原の漢民族とは別種の、南中国の山地民の村だったのかもしれない。」(215‐216ページ)
 これは注目すべき見解ではないかと思う。

「犬のくそ」という名のしゅう長
 翌日はパーモンに滞在して、登山の準備をした。まだ1000メートルほどの高さをのぼっていかなければならず、また道がないので、ウマを使うことができない。そこでカレンを傭うことにして、しゅう長と交渉にあたることになった。
 やがて部下を連れてやって来たしゅう長の名は、ヌッ・キーマーといった。この名は、タイ人の役人につけてもらったのだそうだが、北タイのことばえ「キーマー」は犬のくそという意味だという。梅棹は、日本統治時代に、台湾やミクロネシアで日本の役人が現地の人たちにでたらめな名前を付けたという話を思い出す。「しかし、魔よけのためにわざと奇妙な名をつけるという例もあるから、この場合はちがうかもしれない。」(217ページ) 梅棹はここでは慎重な態度で、解釈を回避している〔「奇妙」と言えば、織田信長が、自分の長男には「奇妙丸」→信忠、次男には(頭の格好が似ているから)「茶筅丸」→信雄と名づけたという話もある〕。

 ヌッ・キーマーは精悍な顔つきのわりには、気の弱そうな男だったが、なかなかの駆け引きをやった。それでもサイヤンがうまく交渉したおかげで、11人の人夫を適当な価格で傭うことができた。ヌッ・キーマー自身が人夫頭として同行することになった。

カレンはめっぽう強い
 1月9日の早朝、キャラバンはパーモンのベースキャンプを出発した。
 梅棹たちは、カレンの男たちが荷物をどのように持ち運ぶかを見守っていたのだが、かれらがみんな自己流で好き勝手に荷物を持ち運ぶのに驚く。大丈夫かと思うのだが、どうも平気な様子である。かれらはもちろん、ハダシである。
 しばらくは田んぼの中の道を歩いたが、田んぼがなくなると、道もなくなる。カレンたちのうち先頭の2,3人は荷物を持たず、山刀で道を切りあけた。その後を輸送隊がゆき、最後に隊員が登る。隊員が登るころには、いくらか踏み跡がついて、道のようなものができていた。
 「カレンたちは、めっぽう強い。ずいぶん無理な荷の持ち方をしているのに、けっこう平気である。」(218ページ) しかし、それでもときどき、休む。荷を下ろして、木の根っこに座りこんで、手製の葉巻を吸う。やっとのことで隊員たちが追いつき、倒木に腰を掛けて休む。「カレンの一人が、立木の一本を、山刀でチョンチョントけずって、その一きれをわたしに渡し、口に入れるよと手まねでおしえる。つーんと強い香りが走る。ニッケイである。」(218ページ)
 森林官のサイヤンが有能なので、一行は登山を順調に進めることができるが、山そのものはなかなか手ごわい様子である。さて、この後、どうなるかはまた次回に。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(8)

7月19日(金)晴れ、暑し。

 グラングウジェ王と、その妃であるガルガメルの間に生まれたガルガンチュアは、子どものころから巨大な体躯を持ち、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、しかもなかなか聡明な子どもであったので、父王は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、長い年月をかけて(途中で、先生が死んでしまい、別の先生になったりしたが)、あまり効果が表れたようには思えず、むしろ頭が悪くなってきたように見えたので、新しい教育法で教育された若者と問答をさせてみたところ、全く歯が立たなかった。そこでこれまでの教育法の非を悟ったグラングウジェ王は、ガルガンチュワを若者の師匠であるポノクラートのもとで勉強させることにし、パリへと送り出した。
 パリに到着したガルガンチュワは、その巨大な体躯と、物見高いパリ市民の性癖とから、いろいろと騒ぎを引き起こしたが、どうやら落ち着いて勉強することになった。そこで張り切って新しい教育法による勉強に取り組もうとしたところ、ポノクラートは昔の先生のもとでどんな勉強をしていたかを再現してみろといい、ガルガンチュワは詭弁学者のもとでの遅起き、大酒のみ、大食い、遊び惚けて、ほとんど勉強はしないという生活ぶりを見せた。

第23章 ガルガンチュワがポノクラートによって1日のうち1時間も無駄にならぬような規律で教育されたこと(ガルガンチュア、ポノクラートによって、ひとときもむだにしない方法で、一日中教育される)
 『ガルガンチュワが、このような忌まわしい暮し方をしていたことがポノクラートに判ったので、もっと違った方法で学芸を身につけさせようと決心したが、自然というものは急激な変化を蒙る場合には非常な無理を伴うことに考えいたったので、しばらくの間は大目に見ることにした。」(渡辺訳、114ページ、宮下訳、189ページ)
 そこで、知り合いの腕のいい医師に相談すると、この医師はガルガンチュワに然るべき薬を飲ませて、この薬の力で、脳の変質したところや好ましからぬ兆候のいっさいをはらいきよめることができた。それだけでなく、ガルガンチュワは昔の先生から習ったことを全部すっかり忘れてしまった。
 それからガルガンチュワを、自分の知り合いのすぐれた学者のところにつれて行き、付き合わせたが、それによって彼は好奇心と向学心とをかきたてられたのであった。

 さて、新しい教育法でのガルガンチュワの勉強がはじまったが、彼は1日のうち1時間たりとも無駄にすることなく、文芸ならびに正しい学問の探求に精を出したのである。
 まず、朝はまだ暗い4時には目を覚ました。体を摩擦してもらいながら、小姓の一人が聖書の一節を朗読するのを聞いた。毎朝、聖書の朗読を聞くことで、ガルガンチュワはその信仰をより堅固なものとしたという。それから朝の排泄をしたが、その間にもポノクラートは、その前に教えたことを繰り返して聞かせ、特に難しい箇所を解説したりした。
 当時の便所は屋外にあったので、帰る道すがら、ポノクラートとガルガンチュワは空を眺め、天体の様子や空模様が前の晩と同じであるかどうか、これからどうなるかなどを見たり考えたりした。

 それが済むと(部屋に戻ると)、着物を着換え、くしけずって頭髪を整え(詭弁学者のもとにいたときは、櫛を使わずに手の指で髪を梳くだけだった)、身ごしらえをし、香料をつけたが、その間にも、まえの日に勉強したことを繰り返し聞かされるのであった。こうして身拵えが済むと、3時間ほどたっぷり、書物の朗読を聞かされた(宮下訳では、「講義が行われる」となっている。原文は、lectureであるが、フランス語のlectureは「講義」ではなく、「読書」、「朗読」という意味で用いられることが多い。)

 それから師弟はそれまで読んでいたことがらについて討論をしながら、屋外に出る。ブラック(Bracque)の辻(宮下訳ではコート。宮下訳には、「サン=ジャック門を出て、サン=マルセル門の方に少し歩いたところ。現在だと、パンテオン近くのエストラパード広場。「ブラック≂ラタン」というポーム場、すなわちテニスコートの前身があった」と注記されている、195ページ。ここでいう「コート」は、「テニスコート」の「コート」である)やそのほかの広場に出かけて、球投げ(jouoient à la balleとあり、辞書によるとjouer à la balleは「ボール遊びをする」、faire des ballesは「(テニスで練習のため)ボールを打ち合う」ことだから、ここは「ボール遊び」である)、打球戯(渡辺はジュ・ド・ポームとふり仮名をつけているが、原文はà la paulmeで、paulmeは現在のフランス語ではpaumeと書き、「テニスの前身」とされているが、より正確にはテニスとスカッシュの前身ではないか。この2つの競技は、paumeから分岐したのである。宮下訳では、「テニス」として、「ポーム」とふり仮名している。また、Urquhurt & Le Motteuの英訳では、long-tennisと訳されている)、さらに三角球戯(渡辺はピル・トリゴーヌとふりがなをつけている。原文はpile trigoneで、宮下訳では「三人キャッチボール」にピル・トリゴーヌとふり仮名をつけている。英訳ではpiletrigoneとして、鉄製の三角を円の中に入れて、それを渡す遊戯と注記している。だから、どうも球技ではなくて、三角形のものを3人で順番にそれぞれの周りに描かれた円の中に投げ入れ、投げ入れられると今度はそれを拾って、次の順番の人の縁の中に投げ入れるという遊びのようである)をして遊び、精神を鍛えたあとは、今度は肉体を鍛錬するのである。これらの運動は、適当に汗をかいた時点で切り上げられ、汗をすっかりぬぐい取り、体を摩擦して肌着を替え、静かに歩いて昼飯の用意ができているかどうかを見に行った。そして昼飯を待つ間も、ポノクラートとガルガンチュワは課業で覚えた金言名句を音吐朗々と立て板に水を流すように暗唱した。

 こうしているうちに、腹野減蔵(はらのへりぞう)殿(宮下訳では、「空腹先生」、英訳ではMaster Appetite,原文はMonsieur l'Appetit)が訪れてきたので(つまり腹が減ってきたということ)、それをきっかけとして食卓へと赴くのである。
 食事の初めには、葡萄酒が持ってこられるときまで、昔の武士の偉勲を伝えた愉快な物語などを読み聞かされた。この物語について宮下さんは、「当時、流行していた騎士道物語のことか。あるいはホメーロスなどのことか」(宮下訳、195ページ)と注記している。そして気が向けば、朗読が続けられたし、そうでないときには、いっしょに楽しくよもやま話をし始めた。その場合、食卓に供せられているパンや酒や水や塩や肉や魚や果実や草の葉や草の根、調味料などについて、古代の著者たちがどのような記述を残しているかが話題になり、場合によっては、そこで引用された書物を持ってこさせて議論をしたので、ガルガンチュワは教えられたことをしっかりと、何もかもおぼえこんでしまって、医者も顔負けするほどの物知りになったという。

 その後、朝のうちに読み聞かされた課業について議論をし、食事の終わりにマルメロの砂糖煮を食い納めると、ガルガンチュワは歯のかすをとり、手や目を洗い清めると、神を讃える詩編をいくつか歌って、神を讃えた(ミサを聴聞することではなく、聖書や聖歌の朗誦、朗詠によって神を讃えているところに、作者の宗教改革への共感を読み取るべきだという意見がある)。
 その後、カルタ札(宮下訳ではトランプ、原文ではchartes、英訳ではcards)が持ち出されたが、これは一勝負をするためではなくて、楽しみながら数学的な勉強をするためであったという。
 ガルガンチュワはこのように、カルタ遊びやサイコロ遊びを通じて数学を学び、次第にこの学問に上達していった。数学だけでなく、幾何学、天文学、音楽などもこのように遊びを通じて学ばれたという。それから、さまざまに歌を歌いながら、音楽を学んだ。楽器はというと、リュートや、スピネット(ピアノの前身となる楽器の一つ)、ハープ、9穴の横吹きフルート、ヴィオラ、トロンボーンの演奏を学んだ。(ここは、宮下訳にしたがって楽器名を記した。その方がわかりやすいからである。)

 この物語は24章まで、新しい教育法によるガルガンチュワの教育を描き、25章から新しい物語が展開する。それで、7月中に24章まで物語をたどっていきたいと思っていたが、どうもそこまでいきそうもないが、それはガルガンチュワに対する教育法が興味深いものであるためであるとご理解いただきたい。この時代、三次方程式の解法の発見に関わったジェロラモ・カルダーノ(1501‐1576)が賭博師でもあったというように、数学と賭博が結びついていたことも物語の背景となっていることも興味深い。

 皆様のブログを訪問する時間的余裕が確保できませんでしたが、あしからずご了承ください。

E.H.カー『歴史とは何か』(24)

7月18日(木)晴れたり曇ったり、気温上昇

 今回も前回に引き続いて、この書物の最終章である「Ⅵ 広がる地平線」を最後まで読んでいくつもりである。その前に、これまでに読んだ部分の概要をまとめておく。
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は現在の歴史家と、過去の諸事実との間の尽きることのない対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人との関係は相互的なものであり、歴史家もまた社会のなかの一個人であるから、現在の社会の一部である。それで、歴史は現在の社会と過去の社会との間の対話であるという性格をもつ。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史は(自然)科学と同様に、人間とその環境に関わる学問であり、その環境の改善を目指し、問題を提示し、その解答を与えるという点で科学と同じである。歴史的な問題の解釈は道徳的な判断を含むものであるが、道徳的な価値が歴史的に変遷するものであることも考慮しなければならない。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史研究は、過去の出来事をめぐる因果関係を探求するものであるが、その原因も結果も複数にわたるものであり、それらを重要性に即して選択し、整理する必要がある。その際の基準は過去と現在の関係だけでなく、未来へと向かう方向性も視野に入れて求められる必要がある。
Ⅴ 進歩としての歴史
 歴史研究の対象となるのは人間が自分たちの経験の集積によって達成した社会的進歩であって、生物学的な進化ではない。進歩は非連続的で、終わりのない過程と理解されるべきである。
Ⅵ 広がる地平線
 現代の歴史研究は、人間の自己意識の深化によって新しい局面を迎えている。

Ⅵ 広がる地平線(続き)
現代の歴史的転換
 カーは理性の機能および力が新しい領域に広がることが、現代世界への転換をもたらすと考えている。例えば経済の領域では、自由放任経済から統制経済への動きが顕著で、社会体制のちがいをこえて、経済活動が国家によって支配されようとしている。意識的な努力による社会改革が可能だという考えが支配的になっている。〔現在では、新自由主義的な政策が有力になってきて、市場原理の支配への回帰を目指している。これを一種の逆流と考えるか、むしろ自由放任経済が将来の方向性であるかは意見の分かれるところであろう。〕 人間は政治・経済・社会における制度を自覚的・合理的に統制できるようになってきているので、理性の役割が拡大してきている。

理性の役割の拡大
 現代の特徴は科学技術の進歩と教育制度の普及拡大を通じて、多くの人々が急速に高度な技術を身につけ、その結果として職業選択の自由が拡大していることである。カーはこのことによって、社会の「個人化」が進んだと評価している。〔これは1960年代の特徴であって、21世紀に生きる人びとは、AIに自分たちの職業を奪われる恐れを抱きながら生活している。〕 世界的な規模で技術的な進歩が展開している。

理性の濫用をめぐって
 しかし理性の役割の拡大には否定面もある。個人の自由が拡大する一方で、それぞれの個性が失われ、画一化と一様化が進むというのも現代社会の特徴の一つである。教育は個人の能力の伸長や機会の拡大を促す一方で、ある利益集団に都合の良い方向への社会の一様化を進める手段ともなりうる。マスメディアにも同様の二面性がある。どのような社会においても、支配的グループは、多かれ少なかれ強制的な手段を用いて大衆の意見を組織し統制する。これは理性の濫用である。
 このような事態に直面して、我々がとるべき方途は2つである。一つは進歩には否定面がつきものであることを認識し、その否定面の克服に取り組むことである。今一つは、逆戻りができないことを自覚して、理性の果たしうる役割を徹底的に意識することである。〔方途が2つあるようには受け取れない。〕

世界的バランスの変化
 20世紀における世界の変化の(人間の自己と社会認識の深化に加えての)もう一つの側面は「世界の形の変化」(220ページ)ということである。「大航海時代」を通じて、ヨーロッパの人間たちの世界は(それ以外の地域に住む人々の世界も)広がったが、20世紀に起きている変化はそれに勝るものであるという。第一次世界大戦の影響、ロシア革命や、世界各地におけるナショナリズムの高揚を受けて、欧米列強の植民地であったアジア・アフリカの諸国が独立し、工業化への道を歩んでいる。〔その後の事態の推移を見ると、歴史の歩みはそれほど単純なものではない。一方で社会主義体制が崩壊し、他方で第三世界の開発は不均等で先進国に肩を並べるところまで発展した国もあるし、停滞している国もある。〕 そのようななかで英国(英語社会)の地位は相対的に低下したが、それによって過去を懐かしむ傾向が増大することをカーは警戒している〔英語社会の地位は、情報化の進展に伴ってむしろ向上しているように思われる。しかし、その中での英語の変化を考えに入れる必要がありそうである。一方で、英語世界におけるアジア英語の進出、その一方で最近のBrexitをめぐる英国の政治と社会の混乱を含めて、この見通しは基本的には正しかったといえるのではないか〕。

地平線の拡大
 カーは彼が20世紀における「理性の拡大」と呼んだものは、「歴史家にとって特別の結果を生んで」(223ページ)いるという。その理由として、彼は「今まで歴史の外にあったグループと階級、民族と大陸とが歴史の中へ現れてきたことを意味する」(同上)という。これは「歴史」というものをどう考えるかという問題と関連する、きわめてラディカルな認識である。〔どうもはっきり言えないのだが、杉山正明さんが言っているように、(カーはその一つ:ヘロドトスにしか言及していないが)「歴史」には複数の起源がある。それが出会ったときに初めて「世界史」が成立したのだというのが杉山さんの意見であるが、要するに「歴史」というものを意識して知的生活を送っている人々と、まったくそういうことを考えずに、知的生活を送っている人々がいるということである。〕 ヨーロッパの中世においては、教会だけが唯一の制度であったが、その後の歴史の流れの中でもっとほかの制度が出来上がってきた、そのことにより「歴史」の対象とする範囲が拡大してきたというのがカーの意見である。さらに例えば、民衆の中の伝承を掘り起こして、歴史を再検討するというような試みも行われるようになってきた。

孤立するものは誰か
 カーは大学における歴史の講義の内容がどのようなものであったかという問題に足を踏み入れる。特に、彼の所属するケンブリッジ大学での歴史研究について踏み込もうとする。英国における歴史研究が、英語圏中心のものであったこと、過去400年にわたり、英語圏が世界の歴史的な動きの中で中心的な役割を担ってきたことを述べる〔異議のある人も出て来そうである〕。とはいえ、英語圏だけを世界史の中心としてみる見方は歪んだ見方であるという。「こういうポピュラーな歪みを正すことこそ、大学というものの義務であります。」(226ページ、異議なし!) 
 学生たちだけでなく、英国の歴史家たちが、英語圏以外の世界における歴史の動きに無関心であったのは恥ずべきことであるとカーは述べる。ここで、カーは、彼が最初に言及した英国の歴史家であるアクトンの歴史観について触れ、彼の考え方の中にあった「変化を歴史における前進的要素としてみる感覚と理性は変化の複雑な姿を理解するための私たちの案内人であるという信仰」(229ページ)を継承すべきであるという。

それでも――それは動く
 最後に、カーは彼の講演の少し前の時代、1950年代における様々な主張について言及する。一方に保守主義的な主張があり、他方に「ユートピアニズム」や「メシアニズム」の主張がある。〔このあたりのことを詳しく議論していると、かなり面白くなるのだが、今回は、素通りすることにする。〕 特にカーは、カール・ポッパーの「断片的な社会工学」(231ページ)という保守主義的な考え方に敬意を払いながら、より全面的な社会改革へと向かう試みを支持する。
 そう言いながら、彼は、英語社会における知識人たちが、「不断に動く世界に対する行届いた感覚」(233ページ)を失いつつあることを憂慮し、変化に対して、楽観的で開かれた姿勢を保つことを主張する。そしてあらためて、保守主義や、懐疑主義の様々な考え方をあらためて思い出しながら、自分は楽観主義を貫いていきたいと主張し、ガリレオ・ガリレイの次のことばをもって講演を締めくくる。
 「それでも――それは動く」(イタリア語:E pur si muove. 英語:Yet it does move.)

 最初の方で、カーは啓蒙思想→ホイッグ史観の<歴史は絶え間のない進歩の過程である>という考えに懐疑的であるような姿勢を見せながら、最後ではやはりその考えを継承する結論を述べている。実際のところ、わたしもカーの考え方に細部においてはいろいろ文句を言いたいことはあるし、最初に書いたように、清水幾太郎による翻訳は、再検討の必要があるという考えに変わりはないが、やはりカーと同様に歴史を進歩の過程と考えることに異存はない。それやこれやで、いろいろと勉強をさせてもらった読書であった。  

 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(8)

7月17日(水)朝のうちは雨が残っていたが、その後次第に晴れ間が広がる。

 コロンブスの新世界への航海に参加して、その後、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたイタリアのジェノヴァ出身(コロンブスと同郷)の船乗りが、マルタ騎士団の団員の質問に答えて、彼の世界一周の中で訪問した「太陽の都」の様子を語る。それはタプロバーナ島(スマトラ島と考えられる)の中心部の平原の中に建設された同心円状の城壁に囲まれた都市で、市の中央の丘の頂上に神殿が建っている。
 この都市を統治するのは「太陽」と呼ばれる神官君主で、学校教育を通じて優れた能力を持つと認められたものが選ばれる。かれは、軍事等を司る<権力>、学問を司る<知識>、生殖・教育・医術などを司る<愛>と呼ばれる3人の高官によって補佐される。
 住民たちは私有財産を持たず、家族をつくらず、集団生活をして、それぞれが役人によって決められた居室で寝起きする。神殿の壁と城壁には市民たちに知識を授けるための壁画等が描かれ、それは学校教育にも使われている。人々は学校教育を通じて、その能力と適性とを見出され、それぞれに適した職業に就くのである。

 「太陽の都」について語るジェノヴァ人の話はさらに続く。城壁に囲まれた環状地帯のそれぞれには、公共炊事場と食糧貯蔵場がある。仕事ごとに男女の年配者各1名が長となり、命令を下したり、仕事をなまけたり命令に背いたりするものを罰する権限を持ち、また仕事ぶりを記録している。勤務成績の評価を通じて、それぞれに適した作業が探索される。
 若者たちは40歳以上の年配者の身の回りの世話をする。ただ、夜の就寝時と朝は、当番のものがこの役割を引き受ける。若者たち同士では、お互いに助け合うことになっている。

 食事の際には第一テーブル群と第二テーブル群が並べられ、テーブルの片側に男子、反対側に女子が座って食事をする。あたかも修道院の食事のようだというが、修道院は男子のみ、あるいは女子のみだと思うので、なぜこのように書かれているのか疑問である。食事中は物音を立てないが、1人がテーブルについたまま歌うように朗読し、ときどき、係の指導者がその一節について何か話をする。集団が整然と食事をし、若者たちが手際よく給仕しているさまを見るのは素晴らしいことだとジェノヴァ人は言う。

 めいめいの仕事に応じて、料理、スープ、果物、チーズが分け与えられるのであるが、医者たちが料理係に料理の内容について指示を与える。指導者はいちばんよい部分を分けてもらうのであるが、その日の午前中の授業、学問の討論会、武芸などで一番の成績を上げた者の食卓には、指導者から食事の一部が分け与えられる。これはたいへんに名誉なことと考えられている。祭日には食事の時にも歌が歌われる。「太陽の都」では皆が仕事をしているので、なにひとつ不足するものはない。料理係と食堂長には賢明な老人がついていて、かれらが道路、部屋、什器、衣服、進退などの清潔状態を監督しているという。共同で食事をするというのは、モアの『ユートピア』と共通する考え方である。

 次にジェノヴァ人は、「太陽の都」の住民たちの服装について語る。彼らは一種の制服を着て生活しているのであり、その制服について細かく書かれている。不必要で華美な服装を嫌うのは、モアの『ユートピア』と共通するが、実際問題として、もしカンパネッラが一度でもスマトラを訪問したことがあれば、その暑さを考えて「太陽の都」の住民たちをもっと薄着にさせたであろうと思われる。それでも衣服は動きやすいように仕立てられ、年に4回衣替えが行なわれるという。「すべての人々は白ずくめで、毎月衣服は石鹸で、木綿類は灰汁で洗濯をします。」(坂本訳、24ページ) 

 地下室は全部工作場、調理場、穀物置き場、衣服置き場、食料品貯蔵所、食堂、洗濯場などに当てられている。ただし、沐浴は柱廊で行われるという。すでに神殿の周囲には柱廊が設けられているという記述があったが、城壁の周囲にも柱廊があるのかもしれない。そうしないと、「太陽の都」の多数の市民の入浴の必要に応じきれないからである。
 水は便所に直接流すか、便所に通じる溝に流すかする。
 土の環状地帯の広場にも井戸があって、ほんのちょっと仕掛けを動かすだけで水をくみ上げることができ、水はパイプを通じてほとばしり出る。この井戸についての記述には、たぶん、カンパネッラの願望も込められているのではないか。湧き水もあるが、貯水槽のなかにも、家々の樋から雨水を引き砂利をつめた濾過パイプを通して集めた水が大量に貯えられている。このような細心の配慮は、水の供給に苦労した人間の発想である。
 人々は教師と医師の命令でしばしば沐浴する。
 あらゆる手仕事は下の柱廊で、思弁的な仕事は絵画の描いてある上階の柱廊で行い、学習は神殿のなかで行われるという。
 各環状地帯の外側の柱廊には日時計、時鐘付時計、風向きを知るための風見が備えてある。 

 人々が食事など生活の多くの場面で共同生活を営み、みんながそれぞれの能力・資質に応じて働くので、社会全体としては豊かであるが、各人の暮らしは質素なものであるというのは、トマス・モアの『ユートピア』と共通する考えである。しかし、前回も書いたが、現実の社会を行政官・弁護士として観察していたモアと、修道院で生活し、さらには入獄していた寒波ねっらとでは、現実のとらえ方にかなりの隔たりがあり、そこから社会の描写の精粗の差が出ていることも否定できない。「太陽の都」に住む人々の暮らしぶりがある程度理解できた騎士団員はジェノヴァ人に人々の生殖について尋ねるが、それはまた次回に。

『太平記』(271)

7月16日(火)雨、午後になって次第にやむ。

 康永元年(この年4月に暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国の宮方の蜂起も鎮圧され、天下は武家のものとなり、公家は衰え、朝廷の諸行事も行われない世となった。将軍足利尊氏と、その弟の直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めるべく、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。康永4年(1345)8月の落慶法要には、光厳上皇が臨席されることになったが、比叡山延暦寺は款状(かんじょう)を捧げて抗議した。朝廷では公卿僉議が行なわれ、坊城(勧修寺)経顕、日野(柳原)資明が意見を述べ、三条(中院)通冬は和漢の例を引いて、天台と禅に宗論をさせるよう提案したが、二条良基は末代における宗論の難しさを説き、判断は武家に委ねられた。

 将軍尊氏と、その弟の直義が比叡山の奏状を見て、「いったいどういうことであろうか。寺を建て、僧を敬うからこそ、比叡山には特に支障がないように配慮して、天龍寺を建立したのである。天台も禅も同じ仏門に属する身として、比叡山としても喜ぶべきことであるのに、どうしてこのように異議を唱えるのか。もし彼らが神輿を担いで上洛してくれば、官軍をもって防ぐことになるだろう。もし神輿を置いて去って行けば、叡山僧の土蔵(の財物)を召し上げて、代わりの神輿をつくるまでだ。比叡山がどのように文句を言ってきても、落慶法要を予定通りに行うべきである」との意見を朝廷に申し上げた。

 武家の方針がこのようなものであったから、公家の方からはもはや異論は出なかった。洛中にやって来ていた比叡山の大衆は、彼らの捧げてきた款状は取り上げられずに捨てられて、面目を失って山へと帰っていった。三千人と言われる比叡山の衆徒たちが、これを聞いて怒るまいことか。かくなる上は強訴に及ぶべきであると、8月16日に、まず三社(日吉山王上七社のうち、大宮・二宮・聖真子を指す)の神輿を根本中堂に登らせ、当時延暦寺が管理していた祇園社・北野天満宮の門戸を閉じ、獅子舞と田楽法師を集合させた。さらに神人(じにん)、社司(しゃし)といった下級の神職たちも集まってきた。比叡山とその配下の寺社の安否、ひいては天下の一大事が起きるように見えた。

 そして朝廷と幕府の非を訴える牒状を各有力寺社に送った:8月17日に、剣(金剣→石川県白山市の金釼宮)、白山(同、白山日め神社、「め」は口偏に羊)、豊原(寺、福井県坂井市丸岡町)、平泉寺(福井県勝山市、現在は平泉寺白山神社)、書写(山円教寺、兵庫県姫路市)、法華(古法華寺、兵庫県加西市)、多武峰(妙楽寺、奈良県桜井市の談山神社)、日光(二荒山神社、栃木県日光市)、内山(永久寺、奈良県天理市)、大平寺(大平護国寺、滋賀県米原市)以下の末寺、373ヶ寺へ触れ送り、同じく18日に、四箇の大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺であるが、延暦寺から延暦寺に牒状を送るのは奇妙である)に牒状を送った。 
 天台宗の寺院ではない東大寺、興福寺、天台宗のなかでも延暦寺とは仲の悪い園城寺=三井寺に牒状を送るというのも変な話であるが、とにかく騒ぎを大きくしたいという魂胆が透けて見える。相手が信心深い尊氏だからよかったようなもので、信長のような相手だったら、焼き討ちされても文句は言えないところである。

 案の定、お公家さんたちが騒ぎ出した。比叡山から南都(奈良)へと牒状が送られたという噂が伝わってきたので、その返事が送られる前から、上皇にお仕えしている公卿たち、藤原氏の諸卿が、参列して申しあげたのは、「困ったことになりました。むかしから、山門の訴訟は非を道理としてしまうというのが常のことです。まして今回の申し立ては、前例のあることなので、どうなることかわかりません。上皇様においては早くご決断ください」ということである。光厳院は「たしかに、近年は天下が半ば乱れて、一日も静かになったことがない上に、山門と南都とが強訴におよび神輿と神木とがともに入洛するというのはもってのほかの事態というべきである」と仰せられ、すぐに院宣を出されて、「今度の天龍寺のことは、勅願の儀ではない。しかし結縁(仏道の縁を結ぶこと)のために落慶法要の翌日に臨幸される」ということを明らかにされた。比叡山側もこれになだめられて、神輿は坂本へと帰っていったので、宮中の警護の武士たちも一安心し、比叡山に連なる寺社も参詣人に門戸を開いたのであった。

 そこで、武家の側でも8月29日に落慶法要を行い、30日に上皇のご臨幸を仰ぐということで、8月29日には将軍尊氏と、弟の直義とが多くの武士たちを従えて威容を示しながら、参詣することとなった。
 尊氏・直義の参詣の行列の先頭に立ったのは、幕府の侍所の長官である山名時氏である。侍所は、御家人たちの統制・検断にあたる役所である。時氏は甲冑を身につけ、500余騎を率いて先頭を進んだ。
 2番目に、随兵(ずいひょう≂将軍を警護する武士たち)の先陣として、武田信武、小笠原政長、戸次(へつぎ)頼時(豊後の大友一族)、大和祐直(すけなお、伊東一族)、土屋範遠(相模の国=神奈川県平塚市の武士)、東常顕(とうのつねあき、千葉一族)、佐々木(京極)秀定(道誉の子、秀宗のことか)、佐々木(六角)氏綱、大平義尚(高一族)、粟飯原(あいばら)清胤(千葉一族)、吉良満貞(足利一門)、高師兼(師春の子)が皆、烏帽子に紐をかけて顎で結び、鎧を着て、太くたくましい馬に飾りをつけて、静かに小路を歩ませた。三番目を行くのは、太刀を帯びた警固の武士たち50人で、思い思いの直垂姿で、黄金づくりの(というのは金メッキをした)刀を佩用して2列で進んだ。
 
 四番に足利尊氏が小さい八葉の紋をつけた牛車に乗り、簾を高く巻き上げ、衣冠を正した姿で進んだ。
 五番に、三番の武士たちと同じく50人の警護の武士たちが進んだ。
 六番に、足利直義がやはり牛車に乗って進んだ。
 七番に、布衣(ほい)の役人(中級の官人たち)、南宗継(高一族)、高師冬が帯剣の役、長井広秀、永井時春が沓(くつ)の役、佐々木(京極)秀長、佐々木(加地)貞信が調度(弓矢のことらしい)の役、和田宣茂(のぶしげ)、千秋惟範(せんしゅうこれのり、熱田大宮司の一族)が笠の役でそれぞれ2人ずつ並んで順序正しく進む。

 八番に、高師直、上杉(扇谷=おうぎがやつ)朝貞(ともさだ)、高師泰、上杉(宅間)重能、上杉(犬懸)朝房、大高(だいこう)重成が皆布衣(ほい=通常の服装)で袍靴(ほうか=乗馬用のくつ)を履いて、2騎ずつ並んで進む。(ここで並んでいるのは、高、上杉という足利家の譜代の家臣の一族である。)
 九番にまた後陣の随兵、斯波氏頼(高経の子、足利一族)、千葉氏胤、二階堂行通(ゆきみち)、二階堂行元、佐竹師義、佐竹義長、武田盛信、伴野長房(小笠原一族)、三浦行連(ゆきつら)、土肥高真(たかざね、相模の土肥一族)、いくさ装束で甲冑を身につけているのは行列の前の方の武士たちと同様である。

 十番に外様の大名たちが500余騎、みな直垂姿で続く。
 十一番に諸大名の郎従3千余騎が、弓矢・武器を手に14町(1町は109メートル強)という、袖がすり合うような密集した長い行列を作って続く。騎馬武者の多さ、行列の様子、これまで似たことのないほどの規模であり、様子であった。

 翌日にはご結縁のためということで、花園院、光厳院の両上皇がまた天龍寺に行幸される。前日とはうって変わって、公卿6人、殿上人12人、前駆(ぜんく)、御随身(みずいじん=身辺警固の役人)、雑色(ざっしき=雑役をつとめる下役人)、牛飼にいたるまで、みな華やかな服装で行進したので、行列だけでなく、その周囲までもが明るくなったように感じられた。
 この日、舞楽が演じられ、楽人たちが左方舞「陵王」の序を演奏し、夢窓国師が自ら焼香されて、上皇方のご長寿と国家の安泰を祈念した。上皇をはじめとして、公卿殿上人にいたるまで、豪華な引き出物を山のように献じられたので、人々は目を見張ったのである。(果たしてどの程度のものであったか、真偽のほどは定かではない。) 両日の儀式の様子、それを見聞した人々の賞賛ぶり、まったく福徳と知恵を得る2つの行法を成就している人とは、この夢窓和尚をいうべきであると、皆が思ったのであった。

 比叡山からの横やりが入ったとはいえ、天龍寺は何とか落慶法要を済ませることができた。しかし、法要が勅会とならなかったことは不吉の前兆であると、『太平記』の作者は東大寺の大仏造立の故事を引き合いに出して、話を続けるが、その内容はまた次回に。法要に向かう尊氏・直義兄弟の前後を警護した武士たちの名前が列挙されているが、このような列挙は軍記物語の特徴の一つであり、一方で源平合戦で活躍した武士たちの子孫が、もう一方で戦国から江戸時代初期にかけて活躍することになる武士たちの先祖が名を連ねているのが興味深い。

日記抄(7月9日~15日)

7月15日(月・休日)曇り、時々雨

 7月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

7月9日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie" (フランコフォニーへようこそ)ではアフリカ大陸の南東400kmほどのところにあるインド洋の島国マダガスカル島(Madagascar)を紹介した。17世紀の半ばに、フランス人がこの島の南端に砦を築き、1896年にはフランス植民地となり、1960年に独立した。マダガスカル語とフランス語が公用語に指定されているが、
Selon les gouvernements, la politique linguistique a connu des changements radicaux et de 2007 à 2010 l'anglais était aussi une langue officielle. (政権交代のたびに言語政策が大きく転換され、2007年から2010年までは英語も公用語であった。
L'enseignement primaire est dispensé en malgache et dans le secondaire il l'est en français. Environ 20% des 25 millions d'habitants sont francophones. (初等教育はマダガスカル語、中等教育はフランス語で行われている。人口2500万人のうち、フランス語話者の割合は20%ほどである。)
 テキストの挿絵には、バオバブの木とキツネザルが描かれていたが、他に旅人木などもこの島に特有のものとして知られている。

7月10日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」に芥々という匿名子の「大学教育を考える」という文章が掲載されていた。内外の高等教育事情について十分な検討を加えたうえでの論考とはいいがたいのだが、大学を上位の「高度なプロフェッショナル人材の教育」を行うものと、それ以外のローカル経済圏での職業訓練的な役割を果たすものとに二分しようという構想に対し、そのような制度ではAI化には対応できない(職業訓練的な高等教育機関で要請される仕事の大半が、AI化によって消滅する恐れがある)として、「どのような子どもにも、考え行動し創造的な仕事へ向かう可能性にかける教育」を目指すべきであるとする。検討に値する主張である。

7月11日
 『朝日』の朝刊は「政治はいろいろなところにありうる」(田村哲樹)という言葉を紹介した鷲田清一さんの「折々のことば」、「経済学は「万能」の学か」と問いかける呉田という匿名子の『経済気象台』、「常に自分を疑えるか」という「福岡伸一の道徳的平衡」など、考えさせる内容を含むコラムが多かった。『日経』の1面のコラム「春秋」が、レオナルドとミケランジェロというルネサンスの二大巨匠がともにデッサンの重要性を強調していたこと、デッサンが人間の物の見方・考え方に及ぼす影響・効果について論じ、最近、東大が専門家を招いてドローイングの授業を始めたことを紹介していて、これも興味深かった。

7月12日
 『朝日』の連載エッセー「オトナになった 女子たちへ」で益田ミリさんが昔、実家で飼っていた猫の思い出を書いている。増田さんが猫を撫でているイラストに、「コロン コロンべえ コロちゃん コロッケ 呼び名いろいろ 君の名は」との文言が付け加えられている。たしかに、飼い猫は、飼い主の家族からいろいろに呼びかけられるものだ。同じ人間が同じ猫を別の呼び方で呼ぶことさえある。

 『日経』の「エコノミスト 360゜視点」という欄に、みずほ総合研究所の門間一夫さんが「日本の金アマリは『合成の誤謬』か」という文章を書いている。 先日来論議を呼んでいる金融審議会作業部会の報告書の内容について、高齢化社会を迎えた現在、時宜を得た内容だと擁護したうえで、次のように書いている。「…老後不安で過度に資産をため込めば合成の誤謬によりマクロ経済を収縮させてしまう、という指摘には違和感を覚えた。第一に、多くの人にとって、資産のため過ぎへの忠告は無縁の話と感じられるだろう。第二に、十分な資産を有している人にとっても、それを消費に振り向けるのかどうかは個人の自由であり、マクロ経済のために使えと言われる筋合いはない。」
 実は「合成の誤謬」という言葉がどのようなことを指しているのかわからなかったので、調べてみると、個別的には正しいことが積み重なっていくと、間違った結果を生み出すことをいうのだそうである。個人が老後の不安のために貯蓄をするのは、正しいことであるが、みんながみんな貯金をすると、マクロ経済が振るわなくなるという議論であるが、ちょっと待てというわけである。資金余剰という現象が起きていることは確かであるが、それがどの程度の規模のものであるかということが見極められていない、そこをはっきり見極めることが重要であるというのが門間さんの議論である。この問題については、経済の動きを見ながらもう少し考えていきたいと思う(あまりのんびりと考えている問題でもなさそうなのであるが・・)。

7月13日
 『日経』の土曜日の朝刊に連載されてきた本郷和人さんの『日本史ひと模様』が最終回となり、最後に取り上げられたのが足利尊氏だったので、『太平記』について書いている身としては、ちょっと嬉しかった。ただ、尊氏がなぜ征夷大将軍になれたのかというところに本郷さんの関心があるらしく、源氏の一門では足利氏が将軍になることができて、鎌倉幕府から同様に源氏一門としての扱いを受けていた武田氏や小笠原氏の方はどうだったのかという問題がうまく解決できていないというところで、話が行きどまっていて、尊氏について詳しいことが書かれているわけではないのが残念である。本郷さんは触れてい何が、足利氏(とその一族である今川氏、斯波氏、細川氏…さらに、新田氏とその一族である山名氏…)は八幡太郎義家の子孫であるが、武田氏や小笠原氏はその弟の新羅三郎義光の子孫であるというあたりも影響したのではないかと思われる。

 第1106回のミニtoto-Aが当たった。これで14回目の当たりである。しかし、当入金額を賞金が下回っているのだから、あまり喜べない。

7月14日
 本日は、フランス革命の記念日である。フランス革命がわれわれの生活にどのような影響を及ぼしているか、という話をする際に、よく引き合いに出すのはメートル法の制定ということであるが、それよりも、成人男性が長ズボンを着用にするということが定着したことの方が大きいかもしれない。フランス革命の際に、サンキュロットsans-culotteとよばれる共和派の活動家たちがいたというのは世界史で習うことだが、かれらは貴族の象徴である半ズボンculotteをはかなかったのでこの名がついた。
 その後、ナポレオン時代を経て、『会議は踊る』のウィーン会議で各国の代表たちのあいだで問題になったことの一つが、会議には長ズボンで出席するか、半ズボンで出席するかということであったという。結局、時代の流れは長ズボンに傾いていったのである。
 1960年の日活映画『あした晴れるか』(中平康監督)で、カメラマンの石原裕次郎が黒ぶちメガネの才女・芦川いづみとともに東京のあちこちを探訪することになる。芦川いづみがいつもスラックス姿なので、裕次郎が君はスカートをはかないのかと聞くと、芦川いづみが何も穿いていないようなことを言わないでよとやり返す。
 長ズボン・半ズボンというのが歴史的に変化してきたものだということで、最近の#Ku Too運動で問題になっているハイヒール着用の強制について思い出した。そもそも昔は、男性がハイヒールを履いていたのであって、世界史の本などを読むとルイXⅣ世のハイヒール姿にお目にかかるはずである。だから女子社員にハイヒールを履くことを強制する会社の男性幹部は、自分たちもハイヒールを履くべきではないか。世界が大分違って見えるだろうと思う。

 『朝日』の俳句欄に俳人の水野真由美さんが新興俳句運動で活躍し、「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という句でもっともよく知られる渡辺白泉(1913‐69)のことを書いていた。
 終戦という詞書のある句:
 新しき猿又ほしや百日紅
 8月15日ごろは百日紅の花盛りだろうし、これは実感だろう。サルマタ、サルスベリという言葉遊びは俳句の原点に連なる発想である。戦争中、古俳諧の研究を進めていたという研鑽の成果が現れていると見るべきである。さらにまた無季の句から伝統的な季語のある句への回帰もひそかに始まっていたのかもしれない。水野さんの文章には出てこないが、こんな句も作ったそうだ:
 玉音を理解せしもの前に出よ

7月15日
 昨日に続いてまた俳句の記事。『日経』の朝刊で京都産業大学の井尻香代子教授が「五・七・五 ラテンの風に舞う ◇アルゼンチンに渡った日本伝統の調べを追って◇」という、アルゼンチンにおける(スペイン語での)俳句の流行の記事を書いている。アルゼンチンには日系人が多く、俳句が早くからつくられ、四季のあるアルゼンチンの風土にあったうえに、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタケルのような有力な文学者が興味を示したことから、スペイン語で5・7・5音節の3行からなる短詩が俳句として定着することになったという。
Besa la luina
al beberla mi to che
en charcos de agua.
(口づけて驢馬は水面の月を飲む) 
 アルゼンチンといえば、7月9日~14日に放送されたNHKラジオ『高校生からはじめる「現代英語」」は「アルゼンチンの盆踊り」(”(’Bon' Dancing in Argentina)という話題を放送していた。遠くの国が、少し近づいてきた感じである。

 本日は、ログ作成に時間がかかったために、皆様のブログを訪問する時間が取れなくなりました。あしからず、ご了承ください。 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(1)

7月14日(日)雨が降ったりやんだり

 このブログではジェイン・オースティン(Jane Austen, 1775-1817)の6編の小説のうち5編(『ノーサンガー・アベー』、『分別と多感』、『マンスフィールド・パーク』、『エマ』、『説得』)をすでに取り上げてきたが、今回からいよいよ、彼女の最高傑作である『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, 1813)を取り上げることにする。『分別と多感』と同様、この小説の題名は主要登場人物の性格的な特徴と関連するのであるが、『分別と多感』が対照的な性格の姉妹の恋愛と結婚を描いているのに対し、『高慢と偏見』は高慢な男性と偏見にとらわれた女性の恋愛を描いている(それぞれ「高慢」と「偏見」を捨てることができるかが物語の核心となる)というところが、彼女の他の作品にはない趣向として注目される。誰が、「高慢」で、誰が「偏見」であるかは、物語を紹介していく中でおいおいにわかっていくはずである。
 
 この小説は次のように書き出されている:
It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife. (以下、英文の引用はPenguin Classics版による、引用箇所はp.5)
 有名な書き出しであるが、私の手許にある、各種の翻訳を見ると、次のように訳されている。
「独身の男でかなりの財産の持主ならば、必ずや妻を必要としているに違いない。これは世にあまねく認められた真理である。」(大島一彦訳、中公文庫版、15ページ)
「金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中にちがいない。これは世間一般に認められた真理である。」(中野康司訳、ちくま文庫版、7ページ)
「独身の男性で財産にもめぐまれているというのであれば、どうしても妻がなければならぬ、というのは、世のすべてがみとめる真理である。」(阿部知二訳、河出文庫版、7ページ)
 私なりに訳してみると、「かなりの財産を持っている独身の男性は、妻を迎えようとしているに違いないというのは、一般に認められている真理である」ということになるだろうか。文中、a good fortuneとあるのは、「相当な財産」ということで、その内容はまもなくより具体的に語られる。またin want ofは「欠けているものを求める」、「必要としている」という意味である。これら2点についてみていくと、大島訳がいちばん文意を伝えているように思われる。また大島訳が一番新しく、他の翻訳も参照しながらまとめられたということで、特に必要があると思わない場合は、大島訳に即して、物語を紹介していくつもりである。(他にも、岩波文庫、新潮文庫、光文社古典新訳文庫などに翻訳が収められているので、漸次入手して、検討の対象としていこうと考えている。)

 時は18世紀の終わりから、19世紀の初めにかけてのこと、イングランド南東部のハートフォードシャーのロングボーンという村の地主であるベネット家では、近くのネザーフィールド・パークという邸宅(parkは「庭園」であるが、公園になるくらい立派な庭園に囲まれた邸宅ということである)に新たな持主が入居したということが話題になっていた。なお、阿部知二訳では「ハーフォードシャー」となっているが、そう発音をする人もいるのである。しかし、阿部がparkを「荘園」と訳しているのは、ちょっと行き過ぎではないかと思う。たしかにこの時代の日本では、まだ領主が年貢をとりたてていたのではあるが…。

 新しい持主だという人物はビングリーという名で、4千ポンド、あるいは5千ポンドという年収があって独身だという。5人の娘たちを持つベネット夫人は、娘たちの一人を、新しく引っ越してきた人物と結婚させたいと考える。それに対して、夫のベネット氏は、無関心を装っている。物語を読むうちにわかってくることであるが、あらかじめ説明しておくと、代々の地主であるベネット氏は地主よりも低い階級の女性(ベネット夫人となる)と、彼女の美貌だけに惹かれて結婚したのだが、「頭のよさと皮肉なユーモアと無愛想と気紛れが奇妙に入り混じった人物」(大島訳、20ページ)である彼と、「物分りが悪い上に物知らずなお天気屋」(同上)の彼女は、あまりうまくいっていない様子である。うまくいっていないといっても、ベネット夫妻にはジェーン、エリザベス、メアリー、キャサリン、リディアという5人もの娘が生まれたのだから、険悪な仲というわけではないが、娘ばかりというのがまた問題であった。

 『分別と多感』でも問題になっていたが、英語ではentail、日本では「限嗣相続」という難しい言葉を使う制度があって、ベネット家ではEstate tail male(男子限嗣封土権)というやり方を踏襲してきたので、当主に娘しかいない場合には、一番血統の近い男子が相続者となる。大島さんも注記しているが、土地財産の継承に限嗣相続制を採用するかどうかはその一族の初代の意向次第で、すべての一族にあてはまるわけではない。とはいえ、ベネット家の決まりは決まりである。5人も娘がいて、誰も家屋敷を相続できないことが、物分りの悪いベネット夫人には不満であったが、だからなおのこと、娘たちを裕福な男性と結婚させることに執着していたのである。

 ベネット氏は、ビングリー氏のもとに挨拶に赴き、ビングリー氏もベネット氏の訪問の答礼にやって来た。ビングリー氏としては、みなたいへんな美人だと聞いていたベネット家の令嬢たちに一目会いたいと思っていたのだが、会ったのは父親だけであった。しかし、令嬢たちの方は、彼が青い上着を着て黒い馬に乗ってやってきたことを二階の窓から確かめていたのである。

 この地域の中心地である市場町のメリトンでの舞踏会(assemblies)がまもなく開かれることになっていて、ビングリー氏がロンドンから自分の仲間を連れて参加するということが土地の人々の間で噂され、ベネット夫人は自分の娘の機会がどのような影響を受けるか心配であったが、結局参加したのは、ビングリー氏、その姉と妹、姉の夫、それにもう1人の青年の5人だけだった。

 「ミスター・ビングリーは様子のいい紳士然とした若者で、見るからに感じのいい顔つきをしており、態度も気さくで気取りがなかった。姉妹はどちらも身なりや態度のぴたりと極まった洗練された婦人であった。義兄のミスター・ハーストはただ紳士らしく見えるだけの人であったが、友人のミスター・ダーシーは、その立派な上背のある身体つきと男前な顔立ちと気品のある物腰と、それに会場に入ってきて5分と経たないうちに弘まった年収1万ポンドという噂によって、たちどころに部屋中の注意を惹きつけた。」(大島訳、28ページ)

 ところがビングリーが快活で愛想がよく、参加している人のだれとでもうちとけて話し、女性とは踊ったのに対して、ダーシーのほうはビングリーの姉と妹とそれぞれ1回ずつ踊っただけで、後は誰の相手をしようともしなかった。そういう不愛想な態度だったので、彼の評判はすぐにガタ落ちになった。
 
 ベネット家の次女であるエリザベス・ベネットは、紳士の数が少なかったので、1回分の踊りを休まなければならなかった。その間、しばらくダーシーが彼女の近くに立っていたので、彼に踊りに加わるようにビングリーが勧めにやって来た時に、2人の間で交わされた会話が、彼女の耳に嫌でも入ってきた。

 踊りに加わるように言うビングリーに対し、ダーシーは自分は顔見知りとしか踊らないし、顔見知りでない女性たちの中で踊りたいと思うような美人は1人だけで、その1人(ベネット家の長女のジェーン)はビングリーの相手をしているから、踊るつもりはないと(いやにはっきり)拒絶する。ビングリーは、ジェーンの妹の1人(つまりエリザベス)がいるじゃないか、踊ってあげてもいいだろうというと、ダーシーは彼女の様子を見て、
「まあまあってとこだな。だがこの僕を踊りたい気にさせるほどの美人ではないね。それに僕は今、他の男達から相手にされないような娘達に箔をつけてやる気分ではないんだ。君は君の相手のところへもどって、せいぜいあの人の笑顔を楽しむほうがいいよ。僕なんかを相手にしていても時間の無駄だよ。」(大島訳、31ページ) ”She is tolerable; but not handsome enough to temper me; and I am in no humour at present to give consequence to young ladies who are slighted by other men. You had better return to your partner and enjoy her smiles, for you are wasting your time with me." (pp.13-14)
という。この時代の舞踏会(balls and assemblies)においては、男女が2回続けて組んで踊ったらば、相手を変えなければならなかった。だから男女の踊り手が足りている方がよかったので、ダーシーが踊るように勧められたのに、踊らなかったのは、かなり失礼な態度ということになる。

 聞いてしまったエリザベスの方は、もともと快活な性格だったので、こういわれたことをむしろ面白がって、周囲の人々に言いふらしたのであり、その結果、ダーシーの評判はますます下がったのである。
 こうして舞踏会は終わり、ベネット家の人々は、それぞれおおむね満足して帰宅することになった。ベネット夫人はビングリーとその姉妹がジェーンを褒めそやし、ビングリーがジェーンと2回も一緒に踊ったことに満足だった。ジェーンは母親ほどあからさまな喜びようを見せなかったが、この結果には満足であった。エリザベスは姉が喜んでいるのがよくわかって(姉思いだったので)満足した。メアリーは、誰かがビングリーの妹に彼女のことをこの辺りで一番教養のある娘(the most accomplished girl)だと言っていたのを聞いて、満足した(彼女は、5人のなかで一番器量が劣るので、その分、教養あるいは才芸の方面で秀でようと努力していたのである)。キャサリンとリディアは相手を変えながら、ずっと踊り続けることができたので、満足していた。

 ベネット夫人ならずとも、ジェーンとビングリーの関係がどのように発展していくか、気になるところであるが、物語はむしろ、エリザベスとダーシーのほうに焦点を当てていく。今回は61章(第1部が23章、第2部が19章、第3部が19章)からなる物語の3章までのあらましを紹介した。これからどのように展開していくかは、次回以降を御覧ください。 

 フランソワ・トリュフォー監督の映画『華氏451』の最後のほうで、主人公のモンテーグが書物を迫害する社会から逃れて、「本の人々」と呼ばれるグループに加わる。グループの人間はそれぞれ1冊の本を暗記しているのだが、その中に『高慢と偏見』を2人で暗記しているという2人組がいて、1人が「高慢」でもう1人が「偏見」だということになっていた。気になったので、(この作品はレイ・ブラッドベリーの小説の映画化である)原作を読んでみたところ、該当する部分はなくて、この場面がトリュフォーの独創であることが分かった。しかし、問題は、『高慢と偏見』は3部からなる小説だということである(日本語訳では上下2巻になっているものもあるが…)。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(18)

7月13日(土)曇り、午後になって雨が降り始める

 1957年11月から1958年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジアのタイ・カンボジア・ベトナム・ラオス4カ国を歴訪し、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌の調査を行った。これはその私的な記録である。
 調査に参加したのは、梅棹のほかに霊長類学の川村俊蔵、植物生態学の小川房人と依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛の5人である。タイのチュラーロンコーン大学、特に動物学のクルーム教授の協力を得て、その助手であるヌパースパットが参加、また同大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として加わった。
 バンコクで開かれた太平洋学術会議への参加、アンコール・ワットへの旅行などを経て、12月24日に一行は北タイに向かい、ロッブリー、ナコーン・サワン、ターク、トゥーンをへて、12月28日にチェンマイに到着、同地の営林局と交渉して森林官であるサイヤンの動向を得ることになった。総勢9名となった一行は、1958年1月2日、タイの最高峰であるドーイ・インタノン登山に向けて出発した。郡庁所在地であるチョームトーンをへて山麓の村メー・ホーイに到着する。ここで荷物を運ぶためのウマを雇い入れ、登山に備える。

第8章 最高峰に登る(続き)
ゾウを傭う
 「庭にゾウが来ている。くびの下に、木の鈴をつけている。歩くとそれがコロコロと鳴る。それは、不似合いにかわいい音である。」(205ページ) バンコクでフランス大使館のイヴァノフ氏からゾウを使うといいと助言されていたので、傭えるものなら傭ってみようと考えたのである。「ゾウの持ち主という人に来てもらった。ちょっと人を食ったような顔つきの、中年のおやじだった。かれは、ゾウを7頭もっている。そのうち、2頭を傭うことにした。ウマといっしょに行くのなら、オスのゾウでないとだめだそうだ。メスは、ウマをこわがる。賃金は、1日50バーツ。帰りの分はいらない。」(同上)

 ゾウは、(チェンマイ県)チョームストーン郡全体で20頭をこえないと聞いて、案外少ないものだと驚く。いちばんゾウが多いのは、ウッタラディット県だという(ウッタラディット県も北部の県で、スコータイ県の東北にあり、ラオスとの国境に接している)。野生のゾウが多いのはコーラート高原のスリンの近くで、チェンマイ付近のゾウはそのあたりで捕まえた野生のゾウが大部分である。ゾウの繁殖は難しい。ゾウの値段は、オスで1万6千バーツ、メスで1万9千バーツくらい、当時の日本円で30万円前後だから安いものだと梅棹は記している(しかし、当時の日本のサラリーマンの年収を考えると、それほど安いとは言えない)。
 「門のところにゾウがつないである。ゾウは、ヤシの葉っぱをたべる。葉柄の太いところを、たちまちバリバリと食ってしまう。ゾウの消化力は、さすがにすごい。」(206ページ)

秋か? 冬か? 夏か?
 いよいよ出発する。これまで自動車で移動してきた一行にとって初めての徒歩による移動である。
 村を出てすぐに冷たい谷川を渡り、道はすぐに上り坂になる。(特に午前中の苦手な)梅棹はたちまち、息切れしてしまう。「山ゆきの歩きはじめは、いつもこうなんだ」(206ページ)と梅棹は考える。考えるというよりも、自分に言い聞かせている感じである。(三高時代に山歩きに熱中して2回落第したという人物にしては情けない感じで、それもこれも彼の低血圧のせいであろうか。)

 あたりの風景は日本の秋山を思い出させる。「しかし、秋ではない。冬なんだ。これが雨緑林の冬なんだ」(207ページ)と梅棹はカレンダーを思い出して、自分に言い聞かせる。だが、彼を苦しめる暑さは日本で言えば夏の暑さである。秋か? 冬か? 夏か? 梅棹は混乱してしまう。〔春が抜けているのが、特徴的である。〕
 昼まえ、大きな谷川のほとりに出る。メー・クラーンの滝の上流である。梅棹は日本アルプスのどこかの山に登っているような錯覚を覚える。ドーイ・インタノンはその標高からいえば、日本アルプスのなかでは二流の存在にしかならないかもしれないが、高くないかわりに山が深い。梅棹は木曽の御岳と王滝川を思い出す。「メー・クラーンの谷は、王滝川だ。これは相当な大作戦である。」(207ページ) 予定していたよりも、日数がかかりそうだと気を引き締める。

ゾウはのっしのっしと歩く
 川岸にゾウ使いの小屋があって、ゾウたちはここで合流した。ウマの荷を減らして、ゾウの背に積みかえる。ゾウは50キロほどの荷物を載せる。
 最初にウマ隊。続いて徒歩の人間たち。最後にゾウという順序で出発する。ゾウ使いたちは、ゾウの頭の上に乗る。暴れると危険だからという理由で、隊員たちは乗せてもらえなかった。
 時々、川を渡りながら、川沿いの道を上り続ける。ウマは川を渡るのが下手だが、ゾウは造作なく川を渡っていく。

森の精霊たち
 「森林はしだいに深くなっていった。谷はだんだんせまくなっていった。上流に、かなり高いところに、大きな倒木が斜めにかかっているのが見えた。わたしは、ハッとした。人がいる。かれは、その高い倒木の上をすべるように渡った。また一つ、人かげが横切った。大きいのや小さいのやら、つぎつぎと彼らは丸木橋の上をすべり渡った。
 『森の精霊』だな。わたしはそう思った。ふつうの人間に、あんな軽わざができるわけはない。」(209ページ)
 彼らは一行があえぎながら登っている道を、非常な速さで駈け下りてきて、一行の近くまで来ると道を開けた。「かれらは、いままで見たことのない、ズンドウの、異様な服を着て、みんな大きなかごを背におうていた。負いひもは、ヒマラヤの人たちのように、ひたいにかけていた。みんなハダシだった。わたしたちが通りすぎるとき、道わきの草むらの中からわたしたちをじっと見つめる目は、澄んで美しかった。
 服装から、挙動、目つきにいたるまで、一見して平原の住民とは異なる種類の人間である。この人たちはなんだろう。サイヤン君はいった。
 『カリヤンです』
 タイでいうカリヤン族、ふつうはカレン族とよばれる人たちとの、これは最初の出会いだった。」(210ページ)

三重通訳
 その夜は、川岸の平地にテントを張って過ごすことになった。一行のキャンプ地の対岸にソップ・エップというカレン族の小さな部落があり、そこの子どもたちが一行のもとにやって来た。さらに部落のしゅう長もやって来て、お互いの友好関係を確認した。しゅう庁の子どもの病気を吉川ドクターが診察して投薬したことも友好関係に寄与したかもしれない。

 「かれらは陽気で、人なつこかった。娘たちは、歌を合唱した。わたしはそれを、いくつも録音した。こういう場合、録音機はいつでも非常な人気を博することを、わたしは経験上知っている。自分の歌を自分が聞くことができるという奇蹟に対して、かれらは、たいへんな興味と満足とを感じるものなのだ。かれらは、いくらでも歌った。」(211ページ、 「合唱した」と梅棹は気軽に書いているが、合唱なのか、斉唱なのか気になるところである。)

 かれらとの意思の疎通はなかなか大変だった。かれらのことばはカレン語である(厳密にいうとカレン諸言語のなかの、スゴー・カレン語とよばれる言語らしい)。一行の中にカレン語が話せる者は一人もいない。ソップ・エップのしゅう長は北部タイ語を話すことができる。しかし、ヌパースパットも葉山も北部タイ語はわからない。そこで北部タイ語と標準タイ語の両方ができるサイヤンの出番となる。そこで、一行の質問を葉山、(あるいは英語による質問の場合は)ヌパースパットが標準タイ語に訳し、サイヤンがそれを北部タイ語に直し、しゅう長がそれをカレン語に直すということになる。逆の流れももちろんある。この通訳の流れの中で、「会話はしばしばすり切れて、ずいぶん短くなってしまうのだが、それはやむをえないことだ」(212ページ)と梅棹は書いている。
 後に(1992)梅棹が書いた『実戦・世界言語紀行』(岩波新書)の中に、カレン語のことも出ている。「わたしはもちろんカレン語はわからないけれど、かれらの会話や歌をたくさんテープに録音した。やはり、声調言語で高低の区別がある。」(同書、115ページ)と記されている。カレン語はシナ・チベット語族に属するといわれるが、その言語学的な位置づけはわからない部分が多いようである。この後、しばらくカレン族についての記述が続き、彼らを荷物運びにやとって登山はさらに続くことになる。

 昨夜は作業中に寝てしまったりして、皆様のブログを訪問できずに失礼しました。これからも同じようなことがあるかもしれませんが、管理者が名実ともに老人らしくなってきたためとご推察の上、ご容赦ください。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(7)

7月12日(金)雨が降ったりやんだり

 昔々(実際は16世紀の話である)、あるところに(フランス国内の話と考えていい)、グラングウジェと呼ばれる陽気で、酒好きな王様がいた。かれはガルガメルという妃を迎え、2人の間に巨大な体躯を持つ男の子が生まれた。子どもは生まれ落ちるや否や「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」という産声をあげ、それを聞いたグラングウジェが「やれやれお前のは、でっかいわい!」(Que grand tu as!)と言ったことから、ガルガンチュワと名づけられた。
 ガルガンチュワは牛乳と葡萄酒をのんですくすくと育ち、5歳になると、なかなか賢い子どもであることがわかったので、グラングウジェは詭弁学者を家庭教師にして勉強を始めさせた。しかし、およそ54年間、途中で先生が亡くなってしまい、交代するというような長い期間にわたり、熱心に勉強したにもかかわらず、むしろ頭が悪くなっているように思われたので、新しい教育方法で勉強した若者と問答をさせることになった。問答の結果、ユーデモンという若者が見事なラテン語を話したのに対し、ガルガンチュワはうんともすんともいうことができなかった。そのため、グラングウジェはこれまでの教育が間違っていたことを認め、ユーデモンの師匠であるポノクラートを先生としてガルガンチュワを勉強させることにした。そして、当世風の勉強法と若者の暮らしぶりを知るためにもと、パリへ送り出すことになった。
 アフリカから送られてきた大牝馬に乗ったガルガンチュワは、パリに到着すると人々の注目の的となり、大騒ぎを引き起こしたが、特に自分の牝馬の首につける鈴にしようと、ノートルダム大聖堂の釣鐘を持ち去ってしまったので、パリ大学神学部からジャノトゥス・ド・ブラグマルドという先生が派遣されて、釣鐘を返還させたが、その際に珍妙な大演説をぶって、一座の人々を大笑いさせた。

第21章 詭弁学者の先生たちの監督下におけるガルガンチュワの勉強振り(ガルガンチュア、ソフィストの家庭教師たちの方法で勉強する)
 釣鐘が戻ってきたので、パリの市民たちは、ガルガンチュワがよいと思うだけ、いつまでも牝馬を世話しようと申し出た。ガルガンチュワはこれを喜んで、牝馬をパリ市民たちに託し、彼らは牝馬をビエールの森(=フォンテーヌブローの森を昔はこう呼んだ)で放し飼いにすることにした。(この牝馬は、この後、再びガルガンチュワの乗馬として登場する。)

 「さてそれから、ガルガンチュワは一所懸命にポノクラートの考え通りに勉強してゆこうと思ったのだが、ポノクラートのほうでは、まず手始めとして、いままでの慣れた遣り方でやってみるようにと命じたのであるが、これは、昔の師匠たちが長い間、どういう風にして彼をこのように間抜けで阿呆で無学にしてしまったかを知ろうとしたからである。」(渡辺一夫訳、106‐107ページ)
 「さて、ガルガンチュアは、ポノクラート先生の裁量にしたがって、一生懸命に勉強しようと思った。ところが先生の方は、最初はとりあえず、従来の方法で勉強してみなさいと命じた。以前の教師たちが、いったいどんな方法で、長いあいだに、ガルガンチュアを、これほどまぬけで、あほうで、無知にしてしまったのかを、しっかり把握したいと考えたのである。」(宮下志朗訳、162ページ)
 宮下さんは、すぐにポノクラートの流儀で勉強を始めずに、昔の流儀で勉強させているのかと不思議がっている。この疑問はもっともなことだとは思うが、要するに、その方が面白いということと、ガルガンチュワが熱心に勉強したという見せかけとは別の<内実>が明らかにされるという意味があると考えるべきではないだろうか。

 ガルガンチュワは夜が明けようと明けまいと、8時から9時の間に起きるようにしていた。これは以前の教育係が、Vanum est vobis ante lucem sergere.  「暁に先立って起き出ずるは空しきなり。」というダヴィデのことばを援用して命令したとおりのことを実行していたのである。
 パリは稚内よりもさらに緯度が高いところにあるから、冬は日の出が遅くなる。むかし、パリよりもさらに北に位置するエディンバラ(大体、モスクワと同じ緯度である)で冬至近くの時期を過ごしたことがあり、朝、いつまでたっても明るくならないので、気がめいったことを思い出す。「暁に…空しきなり」はヒエロニムスによるラテン語訳『旧約聖書』「詩編」(126‐2/『新共同訳』では127‐2)の一部(1行分)を引用したものである(渡辺訳の注では126‐2、宮下訳の傍注では127と記され、下記の『新共同訳』の訳文が示されている)。『新共同訳』では
 朝早く起き、夜おそく休み
 焦慮してパンを食べる人よ
 それは、むなしいことではないか
 主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
となっていて、早起きというよりも、世俗的な成功を焦るあまりに働きすぎの人々を戒める内容であると解釈できる。それを部分的に引用して、遅起きの口実にしているのである(もっとも、わたしも現在のところ、8時から9時の間に起きることが多い)。
 『旧約聖書』「詩編」はダヴィデ王がうたったものと考えられていたので、ラブレーは「ダヴィデのことば」と書いたのだが、『新共同訳』によると、この詩はソロモンの作品だという。宮下訳が「ダヴィデの箴言」としているのは、誤解を招きやすい(『旧約聖書』の「箴言」は伝統的にはソロモンの作品とされてきた)のだが、あるいは深い意図が込められているのかもしれない。

 それからガルガンチュワは、動物精気を高めるために、ベッドの中で飛んだり跳ねたり転げまわったりした。それから服装を整え、髪を手で梳かした。
 そして、体の中から出すべきものを出すと(このあたりのラブレーの記述はかなり詳しいが、詳しいということだけ書いて、具体的な内容は省略しておく)、肉料理を沢山含む朝食を腹いっぱい食べた。
 朝、起きてからろくろく運動もせずに、腹いっぱいに食べるのは体によくないのではないかとポノクラートがいうと、ガルガンチュワはベッドの上で動き回ったからこれで十分だと答えた。それに、アレクサンデル教皇も同じことをして長生きしたので、それに倣っているのだと付け加えた(このアレクサンデル教皇については、アレクサンデルⅤ世説と、Ⅵ世説とがあると渡辺は注記し、「アレクサンデルⅥ世となったロドリーゴ・ボルジア。チェーザレやルクレツィアの父」(宮下訳、165ページ)と宮下は注記している。ボルジア家はルネサンス・イタリアを代表する家柄の一つであるが、どんな人物を出したかについては、ご自分で調べてください。個々人の資質もさることながら、やはり家柄が問題になるところに、この時代が中世を完全には克服できていなかったことが読み取れそうである。ガルガンチュワはさらに、小原庄助さんではないが、朝酒の効用を説くのである(巨人の年齢は普通人とは比べられないのであるが、ガルガンチュワはすでに60歳近くなっているはずであるから、修行中の身とはいえ、酒を飲むことは一向に差支えない)。

 それから教会に出かけて弥撒(ミサ)を聴聞する。「教会で、ガルガンチュワは26か30回もミサを聴聞した。」(渡辺訳109ページ、そんなに聴聞しなくてもいいと思うのだが、ガルガンチュワがけた外れの存在であることを強調しようというのであろうか。そしてお祈りをしながら、宿所に戻り、ざっと小半時間ほど勉強はしたが、その魂は、台所の方へ飛んでいった。
 いよいよ、夕食ということになり、「ガルガンチュワは生まれつき粘液質だったので、食事の初めには、幾打(ダース)かの燻塩豚(ハム)や燻製の牛の舌や鮞(はららご=魚の卵、宮下訳ではからすみ)、豚腸詰(andouilles,宮下訳ではアンドゥーユとなっている。豚などの臓物をつめたソーセージである)など、その他酒の前触れ(avant coureurs de vin)となるようなものを食べた。/その間にも、4人の家臣が、代る代る休む間もなく、ガルガンチュワの口のなかへ、鋤匙(シャベル)に一杯芥子を盛り上げては投げ込んでいた。そして、彼は、腎臓を爽やかにするために、白葡萄酒を恐ろしいほどがぶがぶ飲んだ。それがすむと、季節季節にかなったお好みの料理を食べ、それから、お腹(なか)が張り切った時に喰うのをやめるのだった。」(109‐110ページ)

 豪快ではあるが、健康的とは言えそうもない食生活である。ガルガンチュワが肉食中心であるにもかかわらず、白葡萄酒をがぶがぶ飲んでいるというのは、今日の常識からすれば奇異であるかもしれない。

第22章 ガルガンチュワの遊戯(ガルガンチュアのお遊び)
 昼食が済むと、ガルガンチュワは食後の祈りをむにゃむにゃと唱え、その後、様々なゲームを始める。当時の様々な遊びが列挙される。このように、やたらと列挙するのは、ラブレーの表現の特徴の一つである。囲碁・将棋・すごろくの類の室内での遊びが列挙されていたかと思うと、だんだん、屋外の遊びにまで脱線してゆく。宮下さんは「さまざまな子供の遊戯が列挙されていて興味深いのだけれど、この章が、ソフィストの家庭教師のもとでのガルガンチュワという枠組みに収められたものであることも忘れてはなるまい」(宮下訳、169ページ)と書いているが、傾聴すべき意見である。

Après avoir bien jouè,sessè, passè et belutè temps, (渡辺訳では「思う存分遊んで、さらさらざらざらと時間を過ごすと」、112ページ、宮下訳では「こうしてたっぷりと遊びまくり、さらさらっ、ざくざくっと時間を過ごすと」、186ページ)、また酒を飲む。ほんの少しといっても、巨人のことであるから、普通の量ではない。そして酒盛りが終わると、2・3時間はぐっすりと眠ってしまう。目が覚めると、また酒を飲む。ポノクラートは、起き抜けにそんなに酒を飲むのはよくないというが、ガルガンチュワは生まれつき、喉が渇くたちなのでとかわす。それからちょっとばかり勉強をするが、すぐに外に出かけてしまう。

 戻ってくると、今日の串焼肉は何だろうかと台所に赴き、その後、たっぷり夕食を食べる。その際、近所の呑み助仲間を招き寄せ、酒を飲みながらのよもやま話の花を咲かせる。晩御飯が済むと、またゲームをはじめ、あるいは近所の娘さんたちを訪ねて行って、皆で夜食を食べ、飲みかつ喰い、またさらにまた飲みかつ喰った。それから翌朝の8時ごろまでぐっすりと眠るのであった。

 ガルガンチュワは詭弁学者の家庭教師の下で、一生懸命勉強したことになっていたのだが、実態はこんなものだったというネタ晴らしである。とはいうものの、羨ましいような時間の過ごし方である。もっともこれはガルガンチュワが巨人だからできることで、わたしを含めふつうの人間は、金もないし、体力もないから、羨ましがってみているだけ…ということになりそうである。
 さて、ポノクラートのもとで、ガルガンチュワはこれまでの、つまり上にのべたような暮らしぶりをやめて、新しい勉強法で勉強しはじめるのだが、いったい、どんな風に勉強するのか、興味深いところであるが、それはまた次回に。

E.H.カー『歴史とは何か』(23)

7月11日(木)曇り、午後になって雨が降りだす

 今回から「Ⅵ 広がる地平線」に入る。その前に、これまでの概要をまとめておこう。
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は現在を生きる歴史家たちが、過去の諸事実のなかから特定の事実を選び出す不断の過程の中から生まれる。この意味で歴史は現在と過去との対話である。
Ⅱ 社会と個人
 歴史家と過去の諸事実の間の対話は、歴史家も事実も社会的なものであるということから、社会的な性格をもつ。歴史は、現在の社会と過去の社会との対話である。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史は科学と同じように、人間とその環境との関係をよりよくしようとすることを意図して取り組まれ、過去の事柄についての仮説を検証し、それをより高次の仮説に練り上げていくという性格をもつ。歴史的な解釈は、道徳的な判断を含むものであるが、その道徳は歴史的に変化するものであることも念頭に置く必要がある。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史研究とは過去の諸事実の因果関係の解明を目指すものであるが、ある出来事の原因はいくつもあり、その一方で、それらには重要性の程度のちがいがあることを認識する必要がある。そして、その重要性は、過去と現在とだけではなく、未来も考慮しながら判断すべきである。
Ⅴ 進歩としての歴史
 歴史の進歩は、生物の進化と違い、人間たちが過去の経験に学んでより賢くなっていくことによって成し遂げられるものであり、ある特定の到達点があるのではなく、よりよい未来への不断の努力の集積によってなされるものである。

Ⅵ 広がる地平線
現代の新しさ
 カーは歴史は絶えず進んで行く過程であり、歴史家もこの過程に沿って生活し、研究を進めているのだと主張してきたが、彼が生きていた20世紀の中盤がきわめて変化の激しい時代であり、その結果として、人類の将来についての不安を抱く議論も盛んになっていることも認める。しかし、彼は人類の未来へ向かっての進歩を信じる立場から、議論を締めくくりたいという。
 そうはいっても、現代の歴史研究は、過去における歴史研究と比べると2つの点で目立った特徴を持つという。特にカーが関心を持つのは2つの事柄、「深さの変化」=(次に論じられる)人間の「自己意識の発展」と、もう一つは、(この章の後半部分で論じられる)「地理的な広がり」あるいは「世界の形」の変化である。

自己意識の発展
 カーは「自己意識の発展」の問題について論じるために、まず歴史についての注目すべき定義を述べる:「歴史というものは、人間が時の流れを自然的過程――四季の循環とか人間の一生とか――としてでなく、それに人間が意識的に巻き込まれ、また、人間が意識的に影響を与えうるような、そういう特殊的事件の連鎖として考え始める時に始まります。」(200ページ) 成り行きに任せるのではなくて、自分自身で環境に働きかける、その働きかけが歴史の起源だという。ブルクハルトのことばを借りると、歴史とは「意識の目覚めによって生じた自然との断絶」(同上)ということになる〔ブルクハルトは文化史学者であるから、自然と人間の文化との間の関係に敏感であったのだろう。しかし、自然と人間とを二分して対立させる考え方には生態学的な見地からすれば、問題があるという意見もあるだろう〕。

 私なりに説明を加えれば、人間が農耕に従事するようになり、四季の変化をより詳しく知る必要ができて、季節の変化と天文現象との観察から、年・月・日などという単位を工夫して暦を使うようになるし、自分たちの経験を蓄積するために、記憶に頼るのではなく、文字情報を集積するようになった。これは歴史的な記録の始まりである。いつ、どこで、何が起きたかの記録を集積すること≂歴史的な記録と、それらの出来事がどのような理由によって起きたかという歴史的な研究との間には、すでに述べられてきたように、かなり長い時間的な隔たりがある。 
 
 さらに、ここで述べられる「自己」という意識が定着したのは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を出発点とする哲学が広く受け入れられるようになった結果である。彼は人間を外界の世界の観察者であるだけでなく、自己自身の内部をも観察することができる主体と考えた。だから人間は、自分自身の主体であるとともに、客体でもある。
 しかし、人間が自分自身を客観視し、その深い内面を知りうるということを自覚しただけでなく、自然に対して先祖代々っ繰り返されてきた伝統的な対応をやめて、自然と伝統的な文明に対する新しい見方を確立すべきだと考えたのは、18世紀の後半、ルソーの登場以後のことである。ルソーは人間が自分たちの意図と意識とをもって社会を改造することができることを明確にした思想家であり、その後、アメリカの独立革命とフランス革命によって、それが現実のものとなったことにより、人々の意識は根本的に変化することになったのである。

ヘーゲルとマルクス
 ところが、アメリカの独立革命とフランス革命が起きた18世紀から20世紀までの社会の変化は、「長い緩やかな」(203ページ)ものであったとカーは言う。この社会の変化についての哲学を提供したのはヘーゲルとマルクスであるが、両者はともに矛盾を含んだ存在であった。
 ヘーゲルは歴史を世界精神の現実化の過程と考えているが、それは一方で宗教的な神の信仰に根ざし、他方で人間の理性の自覚的な働きに信頼を置くものであった。彼は個々人が自分の利益のために働くことを神の意志の枠内での働きとして肯定したアダム・スミスの考え方を継承して、自己意識の働きを肯定したが、その具体的な結果についてははっきりとしたことを述べなかった。
 マルクスはアダム・スミスとヘーゲルの両方の思想を継承し、世界は合理的な自然法則によって支配されていると考えたが、その一方で客観的な社会の発展法則を見抜いた人々の革命的な闘争によって社会が変革されるとも考えたのである。しかし、そうなると、そのような変革の思想を、運動の主体となる人々にどのように植え付けていくかという課題が残ることになる。「階級意識の形成は、もう自動的な過程ではなく、企てるべき仕事になりました。」(207ページ)

フロイトの重要性
 ここでカーは、個人と社会との関係を別の角度から探求しようとしたフロイトの思想に目を向ける。彼は人間を社会的な存在というよりも、生物的な存在と見ていたので、社会的な環境を人間の歴史的にあたえられたものと考える傾向があった。かれは個人が社会にどのように適応するかという問題、また人間の心理と行動における非合理なものに目を向けたことにより、実はマルクスの考えを補うことになったのだとカーは考えている。フロイトの思想の重要性は、人間の行動の背景をなす深層心理について解明しようとしたこと、各人の自己意識を歴史的に問うべきことを主張したところにあるというのである。このように人間の行動のこれまで知られなかった背景を探求することにより、現代の歴史研究は新しい局面を迎えることになったのだという。 

 では、その新しい局面として、歴史研究のどのような展開が予期され吏の華という問題についてはまた次回に。
 カーがこの本のもとになる講演を行ってから、58年という年月が経っている。彼の意識の中にあった東西の「冷戦」は終わったけれども、21世紀の前半を生きているわれわれは、もっと得体の知れない不安に取り囲まれているような気がするし、カーが捨てなかった未来と進歩への希望をどのように持ち続けるかをさらに厳しく問われているように思う。
 お話変わって、最近、中江兆民の『三酔人経綸問答』を、作中に登場する三酔人=南海先生・洋学紳士・豪傑君のなかの洋学紳士が主張する「進化の理法」が、カーの論難する「生物的進化と社会的進歩」を混同する議論に他ならないなあと思ったりしながら読み進めている。議論が不完全なことよりも、兆民がヨーロッパの思想の流れを意識しながら、議論を組み立てていることの方を重視すべきであろう。

トンマーゾ・カンパネッラ〔太陽の都』(7)

7月10日(水)曇りのち晴れ

 コロンブスの新世界への航海に参加し、その後、世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員の質問に答えて、彼が旅の途中で訪問した「太陽の都」の様子を語る。それはスマトラ島と考えられる島の中央にある平原の中にそびえる丘を中心として同心円状に城壁をめぐらして建設された都市で、丘の頂上には神殿が建てられている。
 この市を統治するのは「太陽」と呼ばれる形而上学者で、軍事を司る「権力」、学芸を司る「知識」、生殖と生活を司る「愛」の3人の高官によって補佐されている。都市の住民たちは私有財産を持たず、家族もなく、集団で生活している。神殿の外壁と城壁に蠅が描かれたり、模型がとりつけられたりして、世界のあらゆる事柄がそれを通じて学ばれるようになっている。子どもたちは集団で教育を受け、それぞれの能力・適性に応じて将来の仕事を決められていき、特に優れたものは役人となり、最も優れたものは「太陽」に選ばれる。

 もっともよく多くのことを知っているものが「太陽」に選ばれるというが、そんなにたくさんのことを知ることができるのかと、マルタ騎士団員は問う。「むしろ学問にたずさわる者は統治の方を知らないのではないか?」(19ページ) 学者は世間知らずで、実際問題には疎いというのはよく言われることである。
 ジェノヴァ人は自分も同じ疑問を抱いて、「太陽の都」の住民たちに質問してみたという。すると、かれらは、家柄がいいとか、有力な党派の後押しがあるからという理由だけで、無智なものを適任者として尊敬しているヨーロッパの人々よりも、自分たちのやり方の方が優れていると主張したという。学者による政治は、統治が下手である場合もあるが、「多くを知る人は決して残酷であったり、悪人であったり、暴君であったりすることはありません」(同上)というのである。これは、買い被りのようにも思える。

 次の議論の方がより重要である。ヨーロッパでは文法などの形式的な学問や、他の学者の学説をよく知っている人間が識者として重んじられているが、「太陽の都」の住民たちは現実の事柄についてよく知り、生き生きと頭脳を働かせる人々を重んじるというのである。それに「太陽の都」における教育方法はすぐれているので、ヨーロッパの子どもたちよりも、太陽の都の子どもたちの方が速く、多くのことを学ぶのだという。
 教育方法が優れている実例として、ジェノヴァ人たちのことばを知っている子どもたちに出会ったという。「この国では各国のことばを知っているものが常に3人ずついなければならないのです。」(21ページ) この個所は英訳ではかなり、坂本訳とは異なっていて、
 In this matter I was struck with astonishment at their truthful discourse and at the trial of their boys, who do not understand my language well. Iindeed it is necessary three of them should be skilled in our tongue, three in Arabic, three in Polish, and three in each of the other languages, and no recreation is allowed them unless they become more learned.
 (この点について、わたしは彼らの正直な議論と、わたしの言葉をよく理解しない少年たちの試用にびっくりしました。実際、少年たちのうち3人は私たちのことばに熟達すべきであり、3人はアラビア語、3人はポーランド語、その他の諸言語のそれぞれについて3人が熟達すべきであるとされているのです。そして、かれらがもっと学問を身につけるようになるまで、リクリエーションは禁止されるのです。) 坂本訳では、かれらが諸言語に通暁していることが強調されるが、英訳では諸言語を習得しようと努力していることの方が強調されているのである。〔trialは「試験」とも訳すことができるが、少年たちを通訳として起用して、実践の中で言語を学ばせようとする試みと解して、「試用」と訳しておいた。それにしても、英訳で、なぜポーランド語が出てくるのかは、よくわからない。〕

 少年たちは勉学の合間に、交代で田舎に出かけることがあるが、そこでは畑仕事をしたり、狩猟をしたり、体育競技をしたり、植物の名前を覚えたりして、無為に時間を過ごすわけではないという。このくだりはラブレーの『ガルガンチュワ物語』の第24章(まもなく本ブログでも取り上げることになる)の主人公ガルガンチュワのポノクラートのもとでの勉強ぶり、特に田舎に出かけた際の時間の過ごし方を思い出させるところがあるが、自由な環境で執筆された『ガルガンチュワ物語』の描写の方が精彩があることは致し方ないところであろう。 

 騎士団員はすべての公職について説明してほしいといい、それに公共教育が必要かどうかについて話すように頼む。この質問も英訳では違った形になっていて:
I really wish that you would recount all their public duties, and would distinguish between them, and you would also tell clearly how they are all taught in common.
(彼らの公共の義務、そしてそれらの間にどのような区別があるのか、そして彼らみんながどのようにして一緒に教えられているのかについてはっきりと話してくれないか。)
 ジェノヴァ人は、かれらの部屋、宿舎、寝台、便所は共同であり、6か月ごとに教師たちによって誰がどこの環状地帯のどの部屋で寝るかを指定されるという〔『ユートピア』には便所の話は出てこなかったと思って、英訳の方も見てみたが、英訳には便所に相当する単語は記されていなかった〕。古代スパルタの若者たちのような共同生活が営まれるのである。トマス・モアのユートピアの住民たちも、10年ごとに住居を変えると述べられていたが、「太陽の都」はさらに厳重な共産主義的制度が敷かれているのである。

 学芸は知的なものも、技術的なものも、男女の区別なく学習されるが、農耕、種まき、果実の収穫、放牧、脱穀、ブドウの取入れのような労力を要することや町の外に出なければならない仕事は男がするというような区別はされているという。またチーズ作りや乳しぼりのようなことは女性の仕事とされ、そのほかに女性たちは町の近くの菜園へ野菜をつくりに出かけたり、簡単な仕事をしに出掛けたりはすると語られる。座ったまま、あるいは立ったまま(移動せずに)でできる仕事は女性の仕事になっているので、鍛冶屋や武具づくりを除き、機織、裁縫、散髪、ひげ剃り、調剤、あらゆる衣服製造などは女性の仕事とされている。画才のある人間が絵を描くことは禁止されていない(画家としてなのか、余技としてなのかが不明)。ラッパや太鼓以外の音楽は女性の方が人を楽しませると思われているので、女性と子どもたちだけが演奏する。食事をつくったり食卓の準備をするのは女性であるが、給仕は20歳以下の男女の仕事であるという。トマス・モアの『ユートピア』では給仕は女性の仕事とされていたと記憶する。
 男女の分業については、カンパネッラの社会における分業の観察が十分だとは言えず、頭のなかだけで考えられているように思われる点が少なくない。今日では、彼の考えた分業のほとんどが否定されているといえよう。

 「太陽の都」の生活ぶりについてのジェノヴァ人の説明はまだまだ続くが、長くなりすぎると読みにくくなるかもしれないので、今回はここでやめておこう。『太陽の都』が、作者の強い好奇心・探求心を反映している部分がある一方で、彼が獄中にあったため社会の観察が十分ではなく、現実離れをした部分が少なくないことに気づかされた。現実離れというのは悪いことではないが、時と場合によっては現実を批判することを邪魔する場合がある。そういうことを考えさせられるのである。

『太平記』(270)

7月9日(火)曇り

 康永元年(4月に暦応から改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国地方における宮方の再起の企てが失敗し、天下は武家のものとなったように思われた。武家による土地の押領があちこちで起こり、公家の勢いは衰えて、朝廷の諸行事も行われない世となった。将軍足利尊氏とその弟直義は、先帝後醍醐の神霊を鎮めるべく、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立した。

 康永4年(この年10月に貞和と改元、南朝興国6年、1345年)7月に普請が終り、8月に光厳上皇が臨幸されて、落慶法要が行われることとなったが、この噂を聞いて比叡山延暦寺の大衆たちが心穏やかならず、騒ぎ始めた。その騒ぎが都まで伝わってきたので、延暦寺を統括する三門跡(梶井宮、青蓮院、妙法院)が鎮めるために比叡山に向かわれたが、若い僧兵たちがその宿所に多数押しかけて、門跡方をすぐに追い返してしまった。やがて延暦寺全山の僧が大講堂の前に集まって、方針を協議した。

 その結果、次のような主張に行き着いた。
 そもそも、王道の盛衰は仏法の正邪と関連がある。正しい仏法が信奉されれば、王道は栄えるし、そうでなければ衰える。したがって国家は正しい仏法を保護することによって繁栄すると考えるべきである。
 桓武帝が平安京を都とされた際に、都の将来を叡山に託され、伝教大師(最澄)が比叡山を開いて、帝城を守る仏法の砦とした。それ以来、長らく比叡山は仏法の法灯を守り、国家と都の両方を支えてきた。
 ところが、近年禅宗の法門が流行しはじめて、顕教と密教の教えは広く行われないようである。これは国が亡びる前兆であるだけでなく、仏法が滅亡する前兆でもある。誰がこのような事態を憂慮しないでいられようか。特にわが比叡山としては見逃すことのできない事態である。

 外国に先例を求めれば、南宋の最後の皇帝となった幼帝(1276年に元に降伏した恭帝のことを指すのか、1279年に崖山で入水した衛王のことを言うのか不明)は禅宗を尊んだために蒙古に天下を奪われてしまった。〔歴史的な事実かどうか定かではない。〕
 またわが国に礼を求めれば、武臣相州(=北条高時)は、禅宗を尊重したので、その一門は滅び、後醍醐帝に天下を奪われてしまった。前人の失敗を見て、後に続くものは注意すべきである。

 ところが聞くところによると、天龍寺の落慶供養に際して、この寺に勅願寺としての格式を与え、上皇が臨幸されるとのことである。もしこの風聞がほんとうのことであれば、帝にじかに訴え、疎石法師を島流しにし(夢窓疎石は国師と呼ばれているので、「法師」と呼ぶことで貶めているのである)、天龍寺の建物は犬神人(延暦寺の末社であった八坂神社で雑役に従事した下部)をもって破却すべきであると、公家に論議を促し、武家に触れ回るつもりである。もし結論が長引けば、すぐに日吉山王七社の神輿を担いで、内裏へと強訴を行なう所存である。
 以上のような結論が出たので、三千人の大衆たちは、口々にその通りだと同意したのであった。

 康永4年(南朝興国6年、西暦1345年)7月3日、比叡山のあちこちに住んでいる古参の僧たち30人が、歎願状を捧げて、宮中警護の衛府の詰め所(陣)へ参上した。その歎願状は(あまりにも長いので、ここでは詳しく内容を述べない)、正しい仏法を守ってきたのは比叡山延暦寺であり、天龍寺を特別扱いにするのは伝統に背くことであるので、天龍寺は破却して、夢窓疎石は島流しにせよという内容であった。

 この奏状を帝にお見せする前に、関白(この時点では鷹司師平)が内覧(あらかじめ内容に目を通すこと)したうえで、公卿たちが集まって、どのように取り計らうべきか僉議を行なうこととなった。
 先ず坊城(勧修寺=かじゅうじ)大納言経顕が、比叡山の言うことは理がないので、かれらの要求を却下し、首謀者を処分せよとの意見を述べた。
 これに対し、日野(柳原)資明が比叡山こそは正しい仏法を守って、国家に寄与してきた寺院なのでその主張は受け入れるべきだとの意見を述べた。
 3番目に三条通冬大納言が比叡山の主張の要点はどちらが正しい仏法を伝えているかということなので、比叡山側と、禅宗の側で宗論をさせたうえで決すればどうか、過去にもこのように宗論を行った例は内外ともに少なくないとまた別の意見を述べた。
 3人三様の意見が述べられたが、それぞれに得失があってにわかには決することができない。さらに身分の高い人々の意見はどうかということになったが、二条良基が口を開き、今は末法の世の中なので、優れた僧侶がいるわけでもないし、宗論をさせてもただ騒がしいだけということになるだろう。lこの問題をどのように解決すべきかは、武家に尋ねて、その結論に従って、(帝が)お決めになればいいだろうと述べた。結局、この意見が採用され、奏状は幕府に回された。

 比叡山延暦寺としては、その権威を維持するために、譲れない戦いを始めたわけである。ところで、後醍醐帝の菩提を弔うために建立された天龍寺をめぐっては、大騒ぎになったわけであるが、その後醍醐帝の命令により、北条一門の菩提を弔うために足利尊氏によって建立された鎌倉の宝戒寺については、『太平記』は触れていないし、成立をめぐる詳しい事情は不明のようである。なお、宝戒寺は天台宗の寺院である。延暦寺の僧たちが主張するように、北条一門は禅宗に帰依する人々が多かったが、金沢北条氏ゆかりの稱名寺は真言律宗の寺院であり、一門がすべて禅宗に帰依していたわけではなかった。
 また、ここで『太平記』の作者が二条良基を「二条関白殿」と書いているのが気になるところである。良基が関白になったのは翌年である貞和2年(西暦1346年)のことで、この時点ではまだ彼は関白を兼ねない、ただの右大臣であった。ちなみに、彼は1320年生まれだから、ずいぶん若くしてこの地位に就いたことになる、この後、南北朝時代の政治の動きにつれて、彼は関白をやめさせられたり、また復活したりを繰り返す。ただ、このブログをお読みの方は、すでにご承知と思うが、二条良基という人は連歌の大成者として、蹴鞠や和歌の名手として、また多くの仮名日記の執筆者として、つまり文化人として知られている人物であり、なかなか複雑な人格の持ち主であった。
 さらに、もう一つ注意しておいてよいことは、公卿の会議≂陣議には、帝はもちろんのこと、摂政・関白は出席しなかったから、おそらくこの時点で、右大臣であった良基がいちばん地位が高く、その意見が重みをもっていたということである。もっともこの種の公卿の会議というのは多数決ではない。各論併記で帝のところに持ち込んで、帝に決めていただくのであるが、上位者の意見の方が重みをもつことは容易に推測できる。さて、幕府がどのように結論を出したか、それに対して比叡山側がどのように対応したか、天龍寺の落慶法要はどのような次第となったかはまた次回に。

日記抄(7月2日~8日)

7月8日(月)曇りのち晴れ

 7月2日から本日までの間に経験あるいは伝聞したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:

7月1日
 『日経』の朝刊に日本の大学の中で最も高い割合で優れた研究論文を発表している大学と評価された沖縄科学技術大学院大学(OIST)のことが紹介されている。OISTは沖縄の振興や自立的発展を目的として2011年に創設され、2012年から本格的に動きだした5年一貫制の博士課程による大学院大学である。ドイツ出身のピーター・グルース氏が学長をつとめていることに見られる国際性や、国の支援による潤沢な研究資金、学生的な研究・教育体制などの特色が強調されいるが、では、どこの大学も同じような特色を持つことができるかというと、そうもいかないだろう。「すべての大学に予算をばらまく時代は終わり、特色ある研究に挑む大学を戦略的に育てる重要性を物語る」とこの紹介記事は結ばれているが、これだけだと、現行の高等教育政策を追認するだけの内容になってしまう。現行の高等教育政策の行き詰まりを打破する試みとして紹介しようというのであれば、もう少し別の角度から、この大学を見ていく必要があるのではないか。

 各紙の毎月1日号に『選択』という雑誌が詳しい広告を掲載している。この雑誌を講読するほどの経済的な余裕はないが、公国の見出しを追っているだけで、けっこう勉強になるように思う。7月号の広告で目を惹いたのは「中国『SF小説』世界的ブームの理由――体制批判と普遍的テーマへの共感」という記事で、今度、中国系の書店を訪問する際には、どんなSF小説が流行しているのか、自分の目で確かめてみようと思った。

7月2日
 『朝日』の朝刊コラム「折々のことば」に〔今の若い人たちは、『意味』より、『意味ありげ』を好いているのだ。」という里見弴のことばが取り上げられていた。
 里見弴(1888‐1983)は有島武郎、有島生馬の実弟で、白樺派に属する作家であったが、『白樺』主流とは違って享楽的な生活ぶり、作風を持ち、その一方で文章には厳しかったことが、上記によってもうかがわれる。里見の作品は読んでいないのだが、近いうちに探して読んでおこうと思う。里見に興味を持つのは、一つには小津安二郎との関係からである。
 小津は里見が戦争中も、その作風を曲げなかったことを評価し、志賀直哉を「大先生」、里見を「中先生」と呼んでいた。この「中」には深い意味がありそうで、小津の晩年の作品『彼岸花』、『秋日和』は里見の原作によるものである。また里見も小津の『戸田家の兄妹』を見てから、小津を認めたという。2人を知る人によって、いくつかのエピソードが書きとめられている:
(杉村春子をめぐって) 小津の死の年の正月、文学座は二度目の分裂騒動にゆれ半数近くの退団者を出した。この最中に一通の電報が届いた。
 「オレガツイテル サトミトン ボクモツイテル オヅヤスジロウ」(高橋治『絢爛たる影絵』文春文庫版、62‐63ページ)
 小津が1963年に死んだとき、「遺骸を納めた棺はスタッフに担がれ北鎌倉の家に戻った。小津家のシンボルのような小さなトンネルを抜けたところに里見弴が一人で立っていた。その前を通りながら里見が必死に涙をこらえているのが山内にわかった。/「あんなに冠婚葬祭を嫌う人なのに」/という思いが山内の胸に沈んだ。山内は里見の息子なのである。」(同上、314ページ、「山内」というのは里見の四男で松竹のプロデューサーであった山内静夫である。)

 『朝日』朝刊の「変わる大学入試」の特集記事で、2020年度から導入される予定の大学入学共通テストが、現行の大学入試センター試験の経験をどのように踏まえて導入されているかが、あまりはっきりせず、そもそも「何が問題で、なぜ変えなければならないのか』がはっきりしないまま、「改革」が進められているという東北大学の倉元直樹さんの意見が紹介されていた。大学入試をめぐる背景の事情が変化しているのに、「改革」の理由にはそれが反映されていないという倉本さんの意見に賛成であるが、それ以上に、今問題にすべきなのは入試の改革ではなくて、大学の教育そのものの改革であるということを繰り返し主張しておきたい。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans le francophonie"(フランコフォニーへようこそ)は、アフリカでもっともフランス語話者の数が多い国であるコンゴ民主共和国(La République démocratique du Congo)を紹介した。 かつてはベルギー領で、1960年に独立を果たしたが、複雑な民族構成と豊かな鉱物資源に恵まれていることから、内紛・内戦が絶えず、一時期はザイールと呼ばれていた。
 番組中では触れられなかったが、この国の首都キンシャサで生まれ、世界的に活動するようになった音楽グループベンダ・ビリリは映画にもなり、わたしもその映画を見ている。その一方で、このコンゴ民主共和国というのは世界でも有数の危険な独裁国なのである。

7月3日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote”のコーナーで紹介された言葉:
Never confuse a single defeat with a final defeat.
             ――F. Scott Fitzgerald (U.S. novelist, 1896 - 1940)
(たった1つの敗北を決定的な敗北だと、決して勘違いしてはならない。)

7月4日
 『朝日』朝刊の「私の視点」で桃山学院大学の尾鍋智子さんが、「ブラック企業」という日本における呼び方と、1960年代のアメリカでいわれた”Black is beautiful,"という標語との距離から生じる違和感について書いているが、アメリカの公民権運動に同時代人として接した人間として大いに共感させられる意見であった。

 同じ『朝日』朝刊に、やくみつるさんが「捕鯨もいいが、プロ野球球団 買い戻して‼」というヒトコマ漫画を描いている。大洋ホエールズの復活を願う野球ファンは少なくないことを感じさせるマンガであった。

7月5日
 『日経』朝刊の「ニュースな科学」欄に「増えぬリケジョ 環境が壁」という見出しで、政府の男女参画白書の内容が紹介され、理数系を先行する女子学生が少ない理由として、女子学生が模範とするような先輩の事例が乏しいことや、現在の女性の労働環境が影響していると論じている。ただ、女子だけでなく、男子もあまり理数系を専攻しようとしないのが現状ではないだろうか。理数系のほうが就職に有利だということが喧伝されていても、この調子だということをもっと掘り下げて考える必要がある。

7月6日
 『朝日』の「社説」で「女性と土俵」の問題が取り上げられていたが、わたしは、女性を土俵に上げないというのが協会の方針だとすれば、それはそれで認めるべきだと思う。その代わり、協会の外の社会の対応として、公益財団法人の地位は取り上げて営利団体として扱うこととし、天皇賜杯は返還させるということではどうだろうか。

7月7日
 『朝日』の朝刊に経済開発機構(OECD)が5年に1回実施している、国際教員指導環境調査(TALIS)の結果が「自信が持てない日本の教員 高水準の指導 自己評価『まだまだ』」という見出しで紹介されていた。日本の学校の教師たちの多くが自己の指導力にあまり自信を持っていないということは、教育を円滑に進めていくうえで好ましいことではない。(その一方で、自信満々にとんでもないことを教えている教師もいるのではないかという疑いも禁じ得ないのであるが…) OECDの教育・スキル局長であるシュライヒャーさんが指摘されているように、教師の多忙ということもあるし、日本の教育制度が教師に高い水準の成果を求めすぎているという問題もあるのだが、それ以上に、外国と比べて日本の青年の自尊感情が低いということに示されているように、日本の教育制度自体が被教育者の自尊感情を育てることに失敗しているという問題があるのではないかと思う。

7月8日
 『朝日』の朝刊にフランク・ロイド・ライト(1867‐1952)の設計した建築群がユネスコの世界遺産に選ばれたという記事が出ていたが、そのついでに、中国の(世界遺産登録数)がイタリアと並んで首位となったという記事も掲載されていた。この首位争いは世界の文化の歴史をどのように評価するかとからんでいると思うが、もっと別の問題がある。
 イタリア人のアレッサンドロ・ジョヴァンニ・ジェレヴィーニさんがエッセー集Dolcissimo italiano (2016)で書いていることだが、彼の故郷であるクレモナは伝統的な弦楽器製作の地として、2012年に無形文化遺産に登録されているのだそうだ。「『純クレモナ人』の私としては喜びよりも、登録の事実を知らなかったことによるショックと羞恥の方が大きかった。」(31ページ)という。ところが、日本で暮らしているジェレヴィーニさんはともかく、今なおクレモナで暮らしている彼の家族に聞いたところ、誰ひとりとしてそんなことを知らなかったそうだ。まあ、世界遺産になろうとなるまいと、クレモナが弦楽器製作の伝統を持つ都市であることは、世界中の知る人ぞ知る事柄であるから、気にすることはないのかもしれない。

 本日の記事を書きあげるのに時間がかかったため、皆様のブログを訪問できません。あしからず、ご了承ください。
 

6月31日

7月7日(日/七夕)雨が降ったりやんだり

 6月31日
腕時計の日付を
直し忘れていたので
6月31日という
ないはずの日を迎えることになった

すぐに直せばいいと
思うかもしれないが
「ないはずの日」を楽しむのも
悪くはない

7月のうちに
もう一つ年をとるのが
分かっているから

残り少ない
日々のうちに
「若さ」を楽しんでおきたいのだ

 7月1日に掲載したほうがよかったかもしれませんが、記事の配分の都合で本日掲載することになりました。あと1週間のうちに1歳年をとることになります。
 昨夜は、パソコンをいじっているうちに眠ってしまい、皆様のブログを訪問する時間がとれませんでした。どうも最近は、そういうことが増えてきたようで、やはり年をとったのだなぁと思います。失礼の段、ご容赦のほどを。
 それでも、皆様から頂いた拍手の数が37,000をこえました。これからも自分なりに頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(17)

7月6日(土)雨が降ったりやんだり

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、当時彼が在籍していた大阪市立大学の学術調査隊を率いて、東南アジア諸国を訪問し、熱帯地方における動植物の生態、人々の生活誌を調査・研究した。この書物は、その私的な報告である。
 今回から「第8章 最高峰にのぼる」を読んでいくことになる。北タイのチェンマイに到着した一行は、タイの最高峰であるドーイ・インタノン(海抜2,565メートル)に登ろうとする。〔ドーイ・インタノンの標高について、梅棹は「海抜2600メートル」(195ページ)と記し、書中の地図には2,516メートルと記載されている(196ページ)。〕 登山の様子を読んでいく前に、これまでの内容を確認しておこう。

第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス
第6章 謙虚に学ぶべし
第7章 ゆううつよ、さようなら
 東南アジアでの調査研究に参加したのは、隊長である梅棹のほかに、霊長類学の川村俊蔵、植物生態学の小川房人と依田恭二、昆虫学者で医者の吉川公雄、文化人類学者の藤岡喜愛である。バンコクに集合した一行は、共同研究の相手であるチュラーロンコーン大学の動物学者・クルーム教授と連絡を取り、第9回太平洋学術会議に参加する。その後、自動車による調査の予行演習としてカンボジアのアンコール・ワットを訪問する。その際、チュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として参加する。バンコクに戻った一行は、16ミリの撮影機が盗まれたりする災難に遭いながらも、北タイにおける調査研究の準備を続ける。クルーム教授の助手であるヌパースパットが同行することになる。また太平洋学術会議に参加していた植物分類学者の津山尚が現地での参加を申し出る。
 一行は1957年12月24日にバンコクを出発し、同日はロッブリー、25日にはナコーン・サワン、26日にはトゥーン、27日の夕方にチェンマイに到着した。

第8章 最高峰にのぼる
制服の知事
 梅棹は儀典係としての隊長の職務を果たすべく、チェンマイ県の県庁に知事を訪ねる。知事に調査への研究と援助を求めるためであり、その目的は達成された。知事というのは高い地位の人物であるにもかかわらず、彼は制服姿であった。「文官の場合、制服はむしろ威厳を増すよりも、その権威を裏切る効果の方が大きいように、わたしは思った。」(193‐194ページ)
 さらに営林局を訪問した。森林での調査の許可を得るとともに、一行に同行する専門職員の派遣を要請するためである。一行にはドーイ・インタノン地区の担当区の森林官であるサイヤンが同行することになった。

山麓へ
 一行は正月をチェンマイで過ごし、1月2日に、ドーイ・インタノンに向かって出発した。日本側隊員が6人、タイ側は新たに加わったサイヤンを含めて3人、総勢9人である(梅棹は「大世帯」と書いているが、それほどでもない)。
 ドーイ・インタノンはタイの最高峰であり、日本にいたときからその登山は計画のうちに組み込まれていたし、クルーム教授もそれを勧めていた。登山の対象としては大した存在ではないが、このように最も高い山に登るということは、自然探究者としては、非常に有効な方法だからである。「植物、動物、人間の生活の諸類型が、そこでは、短い距離の間に、垂直的に配列されているのを見ることができるからである。」(195ページ) それに技術的に困難ではなさそうなので、全員で登ることになった。

 チェンマイからピン川の本流の谷に沿って、西南の方角へ約60キロほど行ったところに、チョームトーンという町があり、それが山への入り口である。チョームトーンに向かう途中の道からドーイ・インタノンらしい山の姿が見えた。1時間ほどでチョームトーンに到着、わき道に入ると、道は途端に悪くなった。山裾にある農村であるメー・ホーイに到着。この村を登山の根拠地とする予定である。サイヤンの知り合いの学校の先生の家に泊めてもらうことになる。

冷静な被観察者 → 村の先生 → 二人の日本兵 → 秋の夜長をいかんせん
 翌朝(梅棹は、朝寝坊である)目を覚ますと、一行はすでに、村人たちの好奇心の対象となっていて、彼らが目覚めるまえから見物人に取り囲まれていることを知る。探検家は、常に冷静な観察者でなければならないが、同じように、冷静な被観察者でもなければならないということをあらためて確認する。
 
 彼らの宿の提供者は、村の学校の先生で、まだ若いが、誰に対しても礼儀正しく、愛想のいい人物であった。伝統と近代とを調和させる役割を担い、それを体現している彼の姿は日本の多くの学校教師に似ているように、梅棹は思った。

 ロールシャハ・テストにより各民族のパースナリティを研究している藤岡は、この村が気に入り、ここを調査地の1つにしようと考えた。そこで、一行はチョームトーンに戻って、郡長に調査への協力を依頼した。
 チョームトーンでは、終戦前にビルマのほうから2人の日本兵が逃げて来て、メー・ホーイの村でマラリアにかかり、2人とも死んだという話を聞いた。メー・ホーイには彼らの墓があるはずであるが、残念ながら、詳しく調べることはできなかった。

 メー・ホーイには電気が来ていないから、日が暮れると、することがない。梅棹はつい、
「秋の夜長をいかんせん」とつぶやき、言ってしまってから、今日は1月2日だったと気付く。「しかし、この気候はなんと日本の秋に似ていることか。ひんやりとさわやかである。わたしは、なんの疑いもなく、秋だと思っていた。そとでは、虫がないている。」(201‐202ページ)

メー・クラーンの滝
 村の近くに北タイ随一の名勝地として知られるメー・クラーンの滝がある。日本に持ってくれば、「その他大勢」の部類に入るような規模なのだが、タイではほかにあまり滝がないので、人気を集めているのだという。以前、この滝を見に来たことがある葉山は、いっしょに見物に来たタイ人学生の感激ぶりを語った。「ただ、滝が存在するということだけでも、かれらにとっては一つの驚異なのだ。」(202ページ)
 日本のように各種の絶景に恵まれている風土のほうが世界的に見れば例外的なのであろうが、その分、日本人は「風景観賞という点では、そうとうのすれっからしである」(203ページ)と梅棹は考える。「メー・クラーンは、残念ながらわれわれの心をとらえるには貧弱すぎた。滝の下の小さな茶店で、ココヤシの実を買って、その汁をのむ。わたしには、その味のほうが感動的である。」(203ページ) 梅棹には、人類学者、探検家・登山家の顔のほかにも、グルメの顔もあるのである。
 茶店の前に、バンコクのナンバー・プレートの付いた乗用車が止まっていて、上流階級に属するらしい夫婦の姿があった。しかし、ここに観光にやって来るのは裕福な人々だけではないらしい。葉山によると、この滝に向かう観光バスが運行しているのだという。話だけではない、実際に一行はその観光バスと出会うことになる。
 「タイは、たしかに貴族や金持ちだけの国ではない。ここは、庶民もまた、楽しみに参加し得る国である。そういう点は、インドなどとはひじょうに印象がちがって、むしろ日本に似ているようだ。日本との、社会構造や経済構造のちがいをこえて、この国には、何かしら大衆社会への基本的志向性があるような気がする。」(同上)
 最近のタイの政治・社会の動きを見ていると、「大衆社会への基本的志向性」という梅棹の指摘が、適切かどうかは議論の分かれるところであろうが、興味深い議論である。

人は見かけによらない
 森林官のサイヤンは無口で静かな男性で、一行はどちらかというと暗い印象を受けていた。ところがそのイメージを一新させる出来事が起きた。一行がメー・ホーイから上に登るための荷物の運搬用に馬を調達しなければならなかったが、小川、葉山とともに先行してその交渉を行ったサイヤンは、その判断の正しさと、処置の的確さとで、たちまち一行の信用を得ることになった。しかも、彼はときどき、ユーモアのセンスを発揮することがある。梅棹は営林局長の人選に感謝する。

 「タイには、しばしばこういうタイプの青年がいる。一見、たよりなげでいて、実際はひじょうにしっかりしている。こういう点も、インドあたりとはむしろ正反対のようだ。あそこではしばしば、風采は堂々として、ピンとひげをはやし、ものすごく能弁だけれど、実際のことの処理に当っては、まるで頼りにならない、というタイプの人物に、これまたしばしば出くわすので洗う。人は見かけによらないものだ。」(204‐205ページ)という感想を梅棹は持つ。

 4日の午後、調査隊が傭うウマが到着する。みんな小さなウマで、6頭のうち1頭だけが本物のウマで、あとはラバである。4頭は鞍をつけ、2頭はかごをつんでいた。

 こうして登山の準備はほぼ完了するが、この他に梅棹には試してみたいことがあった。バンコクでフランス大使館のイヴァノフ氏から勧められていたゾウを使うことである。さて、首尾よくゾウも傭って登山開始ということになるか、それはまた次回のお楽しみ。もう60年以上も昔の話なので、現在ではだいぶ様子が違っているところもありそうだ。調べてみたところでは、日本の旅行社がドーイ・インタノンへの旅行を企画・募集しているようなのである。随分、事情が違ってきたものである。
 

 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(6)

7月5日(金)曇り

 昔々、あるところにグラングウジェという名の陽気で酒好きな王様がいて、ガルガメルという妃と結婚し、巨大な体躯の赤ん坊を儲けた。赤ん坊は、生まれたときにおぎゃー、おぎゃーと泣く代わりに、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだので、グラングウジェは「やれやれ、おまえのはでっかいわい!」(Que grand tu as!)と言い、そこで、赤ん坊はガルガンチュワと命名されることになった。
 ガルガンチュワは牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、体が大きいだけでなく、なかなか賢い子どもだったので、父王は詭弁学者を家庭教師として勉強させたが、一向に賢くなった様子を見せないので、父王は心配して、新しい教育を受けた若者と議論をさせてみたところ、全く歯が立たなかった。そこで父王は、若者の師匠であるポノクラートにガルガンチュワを託すことになり、当世のフランスの若者たちの勉強ぶりを知るためにもと、パリに送り出すこととなった。
 ちょうどアフリカから巨大な牝馬が送られてきたので、その牝馬に乗ってガルガンチュワは出発し、パリに到着したが、巨大な体躯の持ち主だったため、野次馬たちに取り囲まれ、うるさくなったので小便の雨を降らせて追い払おうとしたが、そのため26万人を超える溺死者が出た。彼は大聖堂の塔の大釣鐘が気に入り、自分の牝馬の首につける鈴として利用しようと考える。釣鐘をもっていかれて困った市民と関係者たちは、ジャノトゥス・ド・ブラグマルド神学博士をガルガンチュワのもとに送り出して、鐘の返還を求めることになった。

第18章 大釣鐘をガルガンチュワから取り戻すためにジャノトゥス・ド・ブラグマルドが派遣されたこと(大きな鐘をガルガンチュアから取り戻すため、ジャノトゥス・ド・ブラグマルドが派遣される)
 「ジャノトゥス先生は、カエサル式に頭髪を刈り、古代風の式帽を被り、窯焼の果実と呼ばれる麺麭と酒蔵の聖水と言われる般若湯とで胃の腑に十分毒消しを施して、ガルガンチュワの宿へ出向いて行ったが、三人の赤鼻の式部事務官の犢(こうし)野郎を、はいしいはいしいと追い立てながら、惜しげもないほど垢だらけの無芸学部の先生方を5,6人ほど、ぞろぞろ後に従えていた。」
(渡辺訳、97ページ;宮下訳では145ページ)
 「カエサル式に頭髪を刈り」というのは、カエサル(シーザー)が禿だったといわれることから、禿げ頭でということであり、「古代風の式帽」というのは当時神学者たちが被っていた帽子のことだそうだ。大学の事務官のことをbedeau(x)というのをわざとvedeau(x)(犢)と表記している(いたずらである)。宮下さんは「赤鼻のうすのろ執行官」と訳している。「無芸学部」などという学部はもちろん、当時のパリ大学にも現在の大学にもあるわけがない。magistre es arts (学芸学部学士)というのにひっかけて、magistres inertesと言っているのを戯訳したものである。中世の大学の学芸学部は七自由学芸(文法・論理・修辞・算術・幾何・音楽・天文)を教え、専門学部(神学部・法学部・医学部)の勉学の準備をさせた。〔今はほとんどなくなったが、むかしわが国の一部の大学に学芸学部というのが設置され、たいていが旧制の師範学校の模様替えしたもので、全学生の教養教育と自分の学部の学生の教員養成とにあたった。〕 とにかく、何となく異様な連中がガルガンチュワのもとにやって来たということである。

 一行を出迎えたポノクラートは、何事かとびっくりしたが、無芸学部の先生の一人が、鐘を返してもらいたいのだといったので、どうしたものかとガルガンチュワに一部始終を語り、ガルガンチュワはポノクラートやその他主だった側近たちと協議のうえで、一向に飲みたいだけ酒を飲ませ、そのまま鐘を返すと、自分たちの手柄だとしてのぼせるかもしれないので、ジャノトゥス先生が演説をはじめるまえに関係者を呼んで鐘を返し、その上で鐘の返却を求める名演説を承ろうということになった。

第19章 釣鐘を取り戻すためにジャノトゥス・ド・ブラグマルド先生がガルガンチュワに向かってした演説(ジャノトゥス・ド・ブラグマルド先生、鐘を取り返すべく、ガルガンチュアに向かって演説する)
 さて、いよいよジャノトゥス先生が演説をすることになった。ラテン語混りのフランス語というと聞こえはいいが、実はかなりインチキなラテン語のようで、一番肝心の、鐘を返すべきだという論証の部分だけ紹介する。先ず原文:
 《Omnis clocha clochabilis, in clocherio clochando, clochans clochativo clochare facit clochabiliter clochantes. Parisius habet clochas. Ergo gluc. 》
 次に、Thomas Urquhart and Pierre Le Motteuxの英訳:
 Ego sic arugumentor, Omnis bella bellabilis in Bellerio   bellando, bellans bellative, bellare facit, bellabiliter bellantes: parisius habet bellas ; ergo gluc. (pp.65-66. )
 渡辺訳:
 ガンガラガント鳴ル鐘ハ皆、ガンガラガンノ鐘撞キ堂ニテ、ガンガラガント鳴ルベキモノナリ。華ノ都ノパリニハ鐘ノ音コソ響クナレ。シカリ而(シコウ)シテ、結論ハ必滅会者定離色即是空寂滅為楽!」(100ページ)
 宮下訳:
 〈鐘楼で、がんがらがんと揺れながら、がんがらがんと鳴る鐘は、がんらがんらの響きにて、ずんずるずんと足ひきずる者も、がんがらがんと揺さぶりぬ。花の都のぱりだから、鐘はたくさんあるのです。以上、証明終わり。とかなんとかいっちゃって>(150‐151ページ)

 鐘のことをフランス語でcloche、英語でbellというので、それをもとにいかにもラテン語のような文面をこしらえているのが原文、および英訳の味噌である。日本語訳は、鐘という言葉とガランガランという擬声語とを組み合わせて原文の趣向を再現しようとしているが、かなり苦戦しているように思われる。

第20章 詭弁学者がその羅紗を持ち去ったこと、ならびに他の先生方を相手に訴訟を起こしたこと(ソフィスト先生、毛織物を持ち帰る。そして他の先生方を訴える)
 ジャノトゥス先生の珍妙な論弁を聞いたポノクラートとユーデモンは大笑いし、「薊を喰った大ふぐりの驢馬を見た時のクラッススや、また食事のために用意しておいた無花果を喰っている驢馬を見て笑いすぎて死んだピレモンにも勝るとも劣らなかった。」(102ページ、宮下訳、155ページ) 当のジャノトゥス先生も笑いすぎて涙をこぼしてしまい、「一同のこのような有様は、ヘラクレイトスのように涕泣するデモクリトス、デモクリトスのように哄笑するヘラクレイトスといった姿であった。」(渡辺訳、102ページ、宮下訳、155ページ、 古代ギリシアの哲学者の中で、ヘラクレイトスは「泣く哲学者」、デモクリトスは「笑う哲学者」として知られる。

 ガルガンチュワは、論弁にどのように回答すべきかと意見を聞き、ポノクラートは、大いに笑わせていただいたので、お礼の品をいくつか差し上げるべきだと主張、その通りになったが、贈り物受けたジャノトゥス先生が、学部に向かってさらに謝礼を請求したために、話がもつれ、裁判沙汰になって、いつまでも決着がつかなかったという尾ひれがついた。

 さて、いよいよポノクラートのもとでのガルガンチュワの勉学がはじまるわけだが、それがどのようなことになるのかはまた、次回に。少し話は戻るけれども、パリっ子たちが、ガルガンチュワを囲んで騒ぐ場面で思い出したのは、はっきりした証拠がある中で日本でもっとも身長が高かった人物である松坂良光さん(1935‐62)を横浜駅構内で見かけたことである。238㎝という身長は人ごみのなかでもはっきり目立ったが、誰ひとり、野次馬然とついていく人間はいなかったと記憶する。横浜市民は、ラブレーの描き出すパリっ子たちよりもましである。

E.H.カー『歴史とは何か」(22)

7月4日(木)雨が降ったりやんだり

 今回で「Ⅴ 進歩としての歴史」を終えるつもりである。本論に入る前に、これまでの内容をまとめておこう。
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は現在を生きる歴史家と、過去の諸事実の間の不断の相互作用の過程であり、現在と過去との間の対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人とは相互的な関係にあり、歴史家もまた社会的な存在であるから、歴史には現在の社会と過去の社会との対話である、現在の社会にとって価値があると考えられるものが、過去の諸事実の中から選びだされるという性格がある。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史も科学も人間とその環境についての研究であり、人間とその環境のよりよい関係を実現するという共通の目的を持っている。また両者は仮説を検証して、さらに詳しい仮説を練り上げていくという研究の手続きにおいても共通している。また道徳の基礎となる価値は超歴史的なものではないことを考えるべきである。 
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史は過去の諸事実がなぜ起きたかを解明するものであるが、その原因としてあげられることがらは多様である一方で、それら多様な原因のなかでの重要性の大小も問題とされる。そのような判断は、現在と過去だけでなく、未来も視野に入れてなされる必要がある。
Ⅴ 進歩としての歴史
 歴史における進歩は、前の世代が経験によって得た技術を後代に伝えていくことによって実現するものであり、明確な始まりとか、終わりとかがあるものではない。進歩の方向性は未来も含めた広い視野において探られる必要がある。

Ⅴ 進歩としての歴史(続き)
「存在」と「当為」
 「存在」と「当為」というのは哲学用語で、「存在」は現実にあるものをいい、「当為」はその現実にあるものが理想としてそうあるべき姿をいう。
 カーは、現在存在するものはすべて正しいという考え方、さらにより新しいものはすべて正しいという考え方が、俗受けするし、支配的な考え方であると述べる。啓蒙時代から19世紀にかけての歴史家たちは、すでに何度も述べてきたように、歴史における進歩を信じていたので、人類の社会や文化は向上の道をたどっていくものと考えていた。ところが19世紀末の不安やペシミズムの風潮や、第一次、第二次世界大戦の経験を経て、歴史の意味を歴史の外に求めるような神学的傾向と、歴史的な懐疑主義の流れが有力になってきたというのである。これらの議論においては、「存在」と「当為」とが切り離されて論じられる傾向があるとカーは言う。そして、価値を事実から導き出すことはできない(歴史研究から社会をよくしていくための教訓を得ることはできない)というのである。しかし、歴史はそれほど価値のないものであろうか。過去の歴史家たちの著述に即して考えていこうとする。

 先ず18世紀英国の歴史家ギボンであるが、彼は『ローマ帝国衰亡史』において、東ローマ帝国とその首都であるコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)がイスラーム教徒による攻撃、またスラヴ人など周囲にいる「蛮族」の攻撃を受けたことをめぐり、イスラーム教徒については多くの紙面を割いているのに、「蛮族」についてはそうではないのは、けっきょく、イスラーム教徒がコンスタンティノープルを陥落させただけでなく、今日に至るまで地球上で大きな力を保持してきているからであると述べている。『総じて、歴史は人々が行なったことの記録であって、行ない損ねたことの記録ではありません。その限りでは、歴史は否応なしに成功の物語になるのです。」(187ページ)

 経済史家のトーニー(Richard Henry Tawney, 1880-1962) は次のように述べている:
 歴史家は「勝利を占めた諸力を前面に押し出し、これに敗れた諸力を背後に押しのけることによって」、現在の秩序に「不可避性という外観」を与えるものである(187‐188ページ)。勝てば官軍ということであろうか。
 トーニーはあまり納得していない様子であるが、カーはこれが歴史家の仕事の本質ではないかという。「歴史家はけ反対派というものを軽視することがあってはなりませんし、辛くも得られた勝利を独走のように描いてはなりません。時には、究極の結果に対して、敗者が勝者と同じ大きな貢献をしたこともあるのであります。・・・しかし全体として、歴史家は、勝者にしろ、敗者にしろ、何かを成し遂げた人々を問題にします。」(188ページ)

 さらに見ていくと、自分たちの社会をある程度まで組織化することに成功した民族が歴史の世界に登場する資格を持つのだと、カーはヘーゲルのことばを解釈しながら言う。〔この議論はかなり問題があって、例えば、インドは歴史を持たない国であるということがいわれ、それに対して、それは欧米人の偏見だというインド人の側の反論もあるが、16世紀の終わりごろに、ムガール帝国のアクバル大帝の一代記である『アクバル・ナーマ』が書かれるまで、この種の歴史は執筆されず、しかもこの執筆はイスラーム的な伝統の中でなされたことも考える必要がある。〕

 それからカーライルの発言を引き合いに出して、ある時代には適法であったものが、次の時代、あるいは別の時代には適法でなくなる例もあるという。つまり、歴史を判断する基準というのは、時代によって変化する、「もっとも役に立つ」基準だということである。〔「役に立つ」ということをどのように理解するかによって、例えば、歴史修正主義の問題も生まれてくるわけである。〕

「もっとも役に立つもの」
 もっとも役に立つものというのが何を意味するのかについては、広い視野に立って、歴史的な文脈を考え、妥協に妥協を重ねて決定される必要があるという。
 このように考えると、「存在するものはすべて正しい」という議論に付け入るスキを与えることになりそうである。しかし、待て、しばし。「歴史上には意味深い失敗というのがなくはありません。歴史には『成功の遅延』とでも呼ぶべきものがあります。今日の明白な失敗が明日の成功に対して決定的な貢献をするようになるかもしれません――つまり、自分の時代よりも早く生まれた予言者です。」(192ページ) 

 ルイ・ナポレオンのクー・デタについて抽象的な道徳的原理の見地からこれを認めたプルードンと、そのような原理を認めなかったマルクスのどちらが正しかったかという問題をカーは取り上げる。より長期的な見地からすれば、マルクスのほうが正しかったことは明らかであるとカーは論じる。〔プルードンが抽象的→普遍的な原理に依拠しながら、長期的な見通しを見誤ったという点が注目されるところであろう。〕 より多くの情報を得て、より広い視野から過去の諸事実を見ることができるほうが、より客観的な見方ができるはずであるが、その延長上に、眼前の事実だけでなく、それが向かうべき未来の方向性を見定めることによって、歴史はより大きな意味と客観性を持つようになるという〔そのままでは信じがたいところがある〕。「歴史が過去と未来との間に、一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とを持ちことになるのです。」(194ページ)というのもにわかには信じがたいところがある。

真理の二重性
 この章の最後に取り上げる問題として、カーは「事実と価値」との間にあるといわれている対立に触れておくという。価値は事実から引き出すことができないと論じる人びとがいるが、それはなかば真実、なかば虚偽であるという。価値の体系は事実から引き出されているという実例は枚挙にいとまない。ある時代にふつうの事柄、あるいはいいことがらであったかもしれないことが、他の時代には忌まわしい、否定されるべき事柄になっているような例はいくらでも見つかる。
 事実と価値について、カーはあまりはっきり言っていないが、両者の関係は相互的なものであると考えているようである。そして、「真理」という言葉が、インド=ヨーロッパ語族の様々な言葉で二重性を持っているという事実に読者の目を向けさせようとする。どの言語においても、「真理」は事実の判断と、価値判断の両方の意味を持っているというのである。歴史家は価値を離れた事実と、事実になろうと努力を続けている価値判断という2つの極の間のどこかに歴史的な真実のありかがあると考えて、それを探っているのだという。対象は静止しておらず、動いているので、見定めるのが難しい。とはいうものの、そうした流動的で見極めがたい事実の探索である歴史研究を通じてこそ、我々は自分たちの社会の性格をよりよく知ることができるのである。
 ということで、「Ⅴ 進歩としての歴史」を終り、いよいよ最後の「Ⅵ 広がる地平線」における議論を取り上げ、社会観と歴史観の問題について検討することになる。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(6)

7月3日(水)曇り

 コロンブスの新世界への航海に参加し、その後世界を一周してヨーロッパに戻ってきたジェノヴァ人の船乗りが、マルタ騎士団の団員に、世界一周の途中に訪問した「太陽の都」の様子を語る。それはスマトラ島と思しき島のなかの平原の中心部の丘に建設され、同心円状に設計された城壁に囲まれ、丘の頂上には神殿がそびえている。
 市を支配しているのは「太陽」と呼ばれる神官君主であり、「権力」、「知識」、「愛」という3人の高官に補佐されている。神殿の外壁と市の城壁には都市の住民たちに世界の様々な事物を教えるための模型が置かれたり、絵が描かれたりしている。彼らの間では私有財産というものがなく、すべての市民がお互いを家族のように考えて暮らしている。

 マルタ騎士団員は、「太陽の都」では役人はどのようにして選ばれるのかと問う。
 これに対しジェノヴァ人は、彼らの暮らしぶりがどのようなものかを知らなければ、役人の選ばれ方を理解することはできないといい、まず「太陽の都」の住人たちの生活について語る。「まず、男も女も戦いに適した服装をしています。だが、女性の上着は膝下までありますが男性のは膝の上までです。」(17ページ) 坂本さんは「上着」と訳しているが、英訳ではtogaとあり、古代のローマ人の服装が想起される。このような服装をしている理由は、もう少し後のほうで語られる。

 次にジェノヴァ人は、「太陽の都」における市民の教育について述べる。
 「すべての人々はあらゆる技術を身につけるように育てられます。」(17ページ) ここは英訳で読むと:
both sexes are instructed in all the arts together. (両性がともにすべての技芸を一緒に教えられます。)
 これまでも坂本訳と英訳とでは一致しない部分があったが、これは坂本訳がイタリア語版からの、英訳がラテン語版からの翻訳であることによるのではないかと思う。
 それから、この個所が、近代の教育理論と実践に大きな示唆を与えたコメニウスの『大教授学』の冒頭に出てくる「あらゆる人にあらゆる事柄を教える」という考えと共通する内容を持っている(コメニウスは、カンパネッラよりも少し後の時期に活躍した人物である)ことも注意しておいてよい。以前、モアの『ユートピア』を取り上げた際に、モアの年長の友人であったエラスムスが教育の主な対象として身分の高い人々を考えていたのに対し、モアがすべての市民を対象とする教育制度を考えていたことについて述べたが、カンパネッラの場合はさらにこの考え方を進めて、教育内容についても差別・限定を設けていないことが注目される(もっとも、実際問題として、あらゆる知識、あるいは技芸を身につけることは不可能である)。

 「子供たちは3歳になると4組に分かれて歩きながら言葉とともに壁に書いたアルファベットを習います。4人の老人が子供たちを引き連れて教育を施し、体を鍛えるために無帽ではだしのまま、遊戯をさせたり走らせたりします。これが7歳まで続きます。」(同上) 知的な訓練だけでなく、職業的な側面にも配慮がなされる。「また、仕立屋や画家や金銀細工師などの仕事場につれて行き、彼らの適性を見ます。」(同上) アルファベットなどとカンパネッラは気軽に書いているが、南アジアや東南アジアの諸言語の複雑な文字体系を知っていたら、どんなことを考えただろうか。ちょっと知りたいところである。
 「7歳を過ぎると全員が博物の授業を受けに行きます。授業は、専門の先生が4人いて、4時間のうちに4組が勉強をすませてしまいます。というのは、一つの組が体を鍛えたり、公共の奉仕に従事したりしているあいだに他の者たちは勉強をしているからです。」(同上) 子どもたちが組み分けされて、それぞれ別の指導者の下で別の作業をするというのは、現在の学校の授業と同じことで、別に奇異なことではない。博物というのは、日本でも戦前の中等学校の教育課程の中にはあったが、要するに生物と地学を合わせた教科である。この辺りも、細かい点を見ていくと、坂本訳と英訳とではかなり違いがみられるが、大ざっぱに把握しておこう。
 「それから10歳になると、全員は数学、医学その他の学問を学びはじめ、絶えず互いに議論をし競争し合います。それぞれの学問や技術には指導者がいてその判断によってもっとも得意な学問や技術の役人になります。」(17‐18ページ) つまり職業選択は世襲ではなく、子どもたちを育する過程で見いだされた能力・適性に応じて決められるということである。

 都市の商工業だけでなく、農業や牧畜についても教えられる。「田園に畑仕事や牧畜を習いにも出かけ、一番いろいろな技術を身につけ、しかもそれを上手にやれるものがもっとも高貴な者と考えられます。」(18ページ) 単一の業種に習熟するだけでなく、複数の仕事に従事できる方が尊重されるというのは興味深い考えである。
 ジェノヴァ人はさらに続けて、「ですから職人たちを無知と呼び、何も習わないでなまけていて、多数の召使を無駄に使い国家に損失を与えている人々を貴族と呼ぶ私共のことを笑っています。」(同上) 坂本さんは、この個所に注記して、モアも『ユートピア』の中で、当時の貴族の享楽的な生活ぶりを批判していると書いているが、この点での批判はカンパネッラのほうが鋭い。モアは、貴族よりもむしろ貴族に寄生して怠惰な生活を送る取り巻き連中のほうに批判の目を向けているのである。

 こうして教育を受ける中で、その能力・適性を見出されたものが役人に推薦されるのであるという。「役人となる者たちは評議会に推せんされ」(同上)と書かれているが、その「評議会」がどのようななりたちのどのような機関であるのかには触れていない。この辺りは、実際に有能な行政官であったモアに比べると、修道士であり、この書物の執筆中は獄中にあってその見聞が限られていたカンパネッラの想像力が十分に機能していないことを感じさせる。
 最高指導者である「太陽」になるためには、「数学、博物学、占星術などあらゆる学問を知っていなければなりません」(同上)という。「『太陽」になるには、誰にも優れて形而上学者、神学者であり、あらゆる学芸・学問の基礎と証明、事物の異同と必然性、世界の運命と調和、万物に対する神の力と叡智と愛、万物の順位および天・地・海との関連についてよく知っており、しかも予言者と占星術について深く研究していなければならないのです。」(18‐19ページ)という理由からである。さらに、「太陽」に就任するには35歳以上でなければならないということは、それなりの人生経験が要求されているということである。そして、この地位は、現任者よりも優れた人物が現われない限り永続的なものであるという。

 「太陽の都」はモアの「ユートピア」と同様、異教徒の社会である。「ユートピア」の住民がキリスト教世界とほとんど接触してこなかったのに対し、「太陽の都」はキリスト教世界とも交渉を持っているように描かれている。その政治形態は、「太陽」が形而上学者であることを求められている点で、古代のプラトンが考えたような哲人政治だともいえるし、一種の神権政治だともいえる。さらにカンパネッラはまだ魔術と完全に縁が切れていなかった科学の力もこの都市をささえていると考えている。次回は、この最高指導者である「太陽」と彼が知っていることを求められる学問との関係を述べた個所を見ていくことにする。 

『太平記』(269)

7月2日(火)曇り

 暦応5年(この年4月に康永と改元、南朝興国3年、西暦1342年)4月、吉野の後村上帝の命で新田義貞の弟である脇屋義助が西国の大将として、伊予に向かう。伊予では守護の大館氏明、国司の四条有資らの宮方が、義助の下向によって勢いを得た。しかし、5月に義助は発病し、間もなく死去した。義助の死を知った細川頼春(頼之の父)は、伊予の河江城の宮方を攻め、宮方は金谷経氏を後攻めの大将として日比の海上で戦い、次いで備後の鞆の浦一帯で戦ったが、その間に河江城は攻め落とされ、金谷経氏も千町原(せんじょうがはら)の合戦で敗走した。細川軍はついで世田城を攻め、9月3日、城は落ちて大館氏明は自害した。
 このように四国・中国の宮方の勢いが衰えてますます武家が優勢となり、京都でも公家の威勢は衰え、朝廷の諸行事も行われないような世となった。

 諸国から得られる収入の大部分を武家が自分のものにするようになった。それも軍用ということであれば致し方のないところなのだが、その武士たちは、ばさら(常軌を超えたような華美な贅沢)の趣向で、華やかな装いに身をこらし、山海の珍味を追い求め、茶の会、酒宴に多大の出費をして、遊女や田楽法師に莫大な財産を与えるというような様子だったので、国の財政は無駄遣いされ、人々は疲れて、飢饉、疫病、盗賊、兵乱がやむことがなかった。これは天災というよりも、国の政治があってなきが如しの状態だったために起きた人災であった。

 ところが、人々はみなおろかで、道を知る人はいなかったので、天下の罪は身から出た錆だと考え、自分を責めるような人はほとんどいないという有様であった。しかし、まったくいないというわけでもないので、ある人が、将軍足利尊氏のもとにやって来て、次のように述べた。「近年、天下の様子をながめておりますと、人間の力で天災を収束させることができるようには思えません。最近の天災はきっと、先帝(後醍醐帝)のご神霊のお怒りが深くて、国土に災いを下し、禍いをなされているのだと思われます。そこで、然るべき禅院を一箇所造営されて、先帝の御菩提を弔い参らせられましたならば(天皇に対する二重敬語に加えて、尊氏に対する敬語が使われているので、ややこしい)、天下も静謐に帰するでしょう。過去の例を見ても、保元の乱で敗死した宇治の悪左府(藤原頼長、左府は左大臣)に正一位太政大臣を贈り、政争に敗れて左遷された北野天神(菅原道真)にも同じく正一位太政大臣を贈り、保元の乱により配流された崇徳院、承久の乱後に配流された後鳥羽院にも尊号を贈っただけでなく、上皇の御所を都に移し奉ったので、怨霊が静まり、さらに国家鎮護の神になられたのです」。このことばを聞いて、将軍尊氏も、その弟の直義も深く感じるところがあり、寺院の建立を決心したのであった。

 そこで、朝廷から国師号を賜っている夢窓疎石を開山として、禅院を建立することとなり、大覚寺統ゆかりの亀山殿(京都市右京区嵯峨にあった後嵯峨院・亀山院の離宮)の跡と場所を定め、良材の産地である安芸・周防両国を造営の用度に当てて、天龍寺を造営した。その資金を得るために、中国との貿易を行なった(日本史で習う「天竜寺船」である)ところ、売買の利は莫大なもので、しかも船は安全に運航した。〔これはいわゆる朝貢貿易なので、途中で舟が難破したり、海賊に襲われたりしない限り、日本側が損をすることはないのである。〕 材木の運搬も、その材木を満載した船が海賊に襲われる恐れはなく、しかも追い風を受けて航行したのでうまくいった。本当に仏法守護の鬼神である天竜八部もこれを喜び、仏法守護の善神たちも加護されているように思われた。こうして仏殿、法堂、庫裏、僧堂、山門、惣門、鐘楼、方丈、浴室、輪蔵(りんぞう、回転式の経蔵)、雲居庵(うんごあん、天龍寺の塔頭)、七千余宇の寮舎、六十四間の廊下、建築の作業は日ならずして終り(実際は、後にも出てくるように康永4年に完工したのだから、そうでもない)、立派な寺が出来上がった。

 開山である夢窓国師という方は、生まれつき泉水に興味を持たれていたので(それだけでなく(造園の才に恵まれた方であったので)、寺の近くを流れる大堰川の流れ、これも近くの嵐山の風景も利用しながら、亀山十景と呼ばれる眺めを設計された。仏菩薩が仮現されたかに思われる普明閣(ふみょうかく、山門)、秋になると紅葉が水面に映って天の心が映し出されているかのように思われる曹源池(そうげんち)、嵐山の戸無瀬の滝は中国・黄河の龍門山の急流に金の鱗の魚が飛び跳ねているさまを思い起こさせ、これに向かい合って龍門亭という建物が建ち(これは失われていたが、平成12年(2000年)に夢窓国師650年遠諱記念事業で再建されたそうである)、亀山の頂上には九重の塔が建っていて仙人が住む海中の三山を捧げるように見える(どうも、イメージが見えてこない)、寺の門前の松並木である万松洞は雲が半ばまで立ち込めている、嵐山は釈尊が弟子たちに蓮の花をひねってみせたときに、大迦葉だけがその意味を理解して微笑したという故事を物語る拈華嶺(ねんげれい)であり、大堰川は声なくて声を聞く絶唱渓であり、この川にかかる渡月橋は銀漢(天の川)に登るように思われる、夢窓国師の発願で建てられた鎮守八幡宮である霊庇廟は仏が衆生に交わる場所である。寺の庭には各地から集めてきた石で霞や雲のかかる峰をあらわし、樹木を植えて風が吹いて立つ波の音を写す。中国宋代の画家である恵崇(えそう)の煙雨の図、唐代の画家である韋偃(いえん)の山水の景にも、まだなかったような上掲が出現したのである。康永4年(西暦1345年、10月に貞和と改元)にみごとに普請が終り、この寺を五山の第二に列して、公家にとっての勅願寺、また武家の祈祷所として1,000人の僧衆を置くこととなった。

 こうして天龍寺の堂や塔は完成したが、思いがけない事態が発生する。どんな事態が生じたのかはまた次回に。
 作者は名文を連ねて誇らしげに自分の知識を披露しているが、実際に見てもいない中国の風景を引き合いに出すような無理があって、読んでいるこちらとしては、どうも情景を描きにくい。天龍寺の庭は夢窓疎石が設計したとおりにほぼ残っており、曹源池はそのなかでも一番の見どころとされているので、『太平記』のことなど忘れて、自分の目で庭の美しさを鑑賞すればいいのではないかと思う。なお、天龍寺は現在は京都五山の第一の寺とされているが、足利尊氏の時代には第一位南禅寺(京都)、建長寺(鎌倉)、第二位天龍寺(京都)、円覚寺(鎌倉)、第三位寿福寺(鎌倉)、第四位建仁寺(京都)、第五位東福寺(京都)とされていたそうである。
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