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2019年の2019を目指して(6)

6月30日(日)雨が降ったりやんだり

 6月も5月同様、特に遠出もせずに過ごした。それで、足跡を記したのは:
 1県1都(神奈川、東京)
 1市4区(横浜、文京、港、千代田、渋谷)
と変わらず(5月のまとめの記事で、文京区を書き落としていた)。
 利用した鉄道も
 5社(東京メトロ、東急、都営地下鉄、横浜市営地下鉄、JR東日本)
 9路線(東京メトロ:南北線、半蔵門線/東急:東横線、目黒線、大井町線/都営:三田線/横浜市営:ブルーライン/JR東日本:根岸・京浜東北線、横浜線)
 12乗降駅(本駒込、横浜、白金台、神保町、上大岡、関内、石川町、新横浜、御成門、渋谷、反町、小机)
 5乗換駅(永田町、日吉、大岡山、自由が丘、東神奈川)
 バスが3社(横浜市営、神奈川中央交通、相鉄)、15路線、12停留所と変わらず。〔68〕

 この記事を含めてブログに30件を投稿した。内訳は、日記が5、読書が9、読書(歴史)が4、『太平記』が4、ジェイン・オースティンが4、ラブレーが4ということである。1月からの通算では、日記が33、読書が31、読書(歴史)が31、トマス・モア『ユートピア』が8、読書(言語ノート)が9、『太平記』が26、ジェイン・オースティンが13、ラブレーが5、ダンテ『神曲』が20、推理小説が3、詩が4ということである。合計では183ということになる。いただいたコメントはなし、拍手は465、1月からの累計はコメントが5、拍手が3132ということである。〔1月が33,2月が30,3月が31、4月が31,5月が32,6月は30なので、187ということになる。〕

 9冊の本を買い、10冊の本を読んだ。1月からの通算では61冊の本を買って、60冊を読んでいることになる。本を買った書店は2店のままである。読んだ本を列挙すると:又井健太『レトロ雑貨夢見堂の事件簿』(朝日文庫)、アンリ・ピレンヌ『中世の都市 社会経済史的試論』(講談社学術文庫)、今野紀雄『統計学 最高の教科書』(サイエンス・アイ新書)、山崎雅弘『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』(集英社新書)、鈴木透『食の実験場アメリカ』(中公新書)、東川篤弥『かがやき荘西荻探偵局』(新潮文庫)、美濃部美津子『志ん生の食卓』(新潮文庫)、山口恵以子『食堂メッシタ』(ハルキ文庫)、田中啓文『ジョン万次郎の失くしもの 浮世奉行と三悪人』(集英社文庫)、シェイクスピア(福田恒存訳)『夏の夜「の夢・あらし』(新潮文庫)
ということである。読んだ本のなかでは、ピレンヌの『中世の都市』と、美濃部美津子『志ん生の食卓』が面白かった。後者では5代目古今亭志ん生がただ酒が好きなだけで、酒豪でも食通でもなかったという実像が語られていて、そこが面白かったのである。

 NHK『ラジオ英会話』を20回、『入門ビジネス英語』を7回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生から始める「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いている。1月からの通算では、『ラジオ英会話』を111回、『入門ビジネス英語』を23回、『遠山顕の英会話楽習』を72回、『高校生から始める「現代英語」』を48回、『実践ビジネス英語』を72回聴いていることになる。
 このほかに、『英会話タイムトライアル』、『ボキャブライダー』、『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『世界へ発信 ニュースで英語術』も大体毎日聴いている。
 また『まいにちフランス語』入門編を11回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』初級編を11回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を11回、応用編を8回聴いている。1月からの通算では、『まいにちフランス語』入門編が66回、応用編が44回、『まいにちスペイン語』入門編を31回、初級編を31回、中級編を44回、『まいにちイタリア語』の入門編を34回、初級編を31回、応用編を44回聴いたことになる。
 このほかの言語の番組も時々聴いているが、『まいにちロシア語』入門編の講師をしている鴻野わか菜さんの話ぶりがおもしろい。
 語学番組のほかに、『NHK高校講座』の『古典』、『現代文』、『国語総合』、『英語表現Ⅰ』、『コミュニケーション英語Ⅱ』、『コミュニケーション英語Ⅲ』、『倫理』、『現代社会』、『政治経済』、『音楽Ⅰ』を聴くようにしている。高等学校の学習指導要領に準拠しての内容であろうが、とくに社会科系の3科目は、最近の政治経済の動向や、私が大学を卒業したころの思想動向なども盛り込まれていて、いろいろと参考になる。そのほか『私の日本語辞典』を時々聴いている。

 6月は映画を1本も見なかった。このところ偶数月には映画を見ていたのだが、それもなく、今年になってから見た映画は2本、足を運んだ映画館は1館のままである。
 展覧会にも足を運ばず、こちらも依然として2回出かけただけである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2の試合を3試合、なでしこリーグ2部の試合を2試合(カップ戦)観戦した。1月からの通算では20試合を見たことになる。内訳はJ2が10試合、なでしこリーグ2部がリーグ戦5試合、カップ戦3試合、全国高校サッカー選手権が2試合ということである。これまで(6月は出かけなかったが)、ニッパツのほかに、小机フィールズと保土ヶ谷公園サッカー場に出かけている。
 1097回のミニtoto-Bと、1101回のミニtoto-Aが当たった。さらに1103回のAも当てた。ミニtotoをあてたのは今年に入ってから13回ということである。〔1月が6,2月が4,3月が7、4月が5,5月が6、6月は8で、累計は36である。〕

 梅雨入りしたので、酒類を飲むことが多くなった。今月の禁酒日は10日と減少した。1月が7,2月が5,3月は1、4月は14,5月は26,6月が10で今年に入ってから、63日ということである。 
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梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(16)

6月29日(土)雨

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、彼が当時在籍していた大阪市立大学の派遣する学術調査隊の隊長として、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオス4カ国を歴訪、熱帯における動植物の生態と人々の生活誌についての調査研究を行った。この書物はその際の私的な記録である。

 今回も前回に引き続き、タイのバンコクからチェンマイにいたる道のりを自動車で踏破する「第7章 ゆううつよ、さようなら」を見ていく。その前に、これまでの内容を簡単にまとめておく。
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス
第6章 謙虚に学ぶべし
 第7章 ゆううつよ、さようなら

 学術調査に参加したのは、梅棹のほか、霊長類学の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛の5人である。一行は1957年11月にタイのバンコクに集合し、北部タイにおける調査研究の準備に取り掛かる。その間、バンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加し、これまでの研究についての報告を行い、また自動車の運転の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットを訪問した。
 調査研究には日本大使館、チュラーロンコーン大学(特に動物学のクルーム教授)、タイ政府の林野庁の協力を得た。チュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として参加、クルーム教授の助手のヌパースパットも加わったほかに、太平洋学術会議に参加していた植物分類学者でお茶の水女子大の津山尚が参加を申し出た。
 12月24日にバンコクを出発、川村と依田が乗るハシゴ車が先頭、次に藤岡と小川の乗るいちばん小さい(小回りの利く)J3、最後に梅棹と吉川の乗るワゴン車が続く。3台とも三菱の全輪駆動車である。24日はクメールの遺跡が残るロッブリーに泊まり、25日はナーン川とピン川の合流点であるナコーン・サワンに到着・宿泊した(梅棹はナーン川を「メナム河」本流、ピン川を大支流と書いているが、現在ではナコーン・サワンから下流をチャオプラヤー河というのが一般的なようである)。26日にはピン川に沿って北上し、木材の集積地であるタークに泊まり、27日にその営林局を訪問する。モンスーン林の中を通り、トゥーンに到着し、ここで一泊することにした。

第7章 ゆううつよ、さようなら(続き)
古き、良き時代の町
 「トゥーンの町は、街道から橋を渡って対岸にあった。それは、旧街道にそうて発達した、小ぢんまりした街道町だった。対岸に新街道ができて、車はみんなそっちを通るようになったのだ。わたしたちももし、ここで泊ろうという気をおこさなければ、こんなところに、こんな美しい町がひっそりとかくれていようとは、想像もしなかったにちがいない。それほど、トゥーンの町は小ぎれいで、落ち着きがあった。タークよりもはるかに小さいが、もっときちんとしている。しっかりした木造二階建てが、道の両側にきっちりと立ちならんでいた。日本でいえば、木曾路か甲州路のどこかの宿場にでもありそうなたたずまいである。
 ・・・すべてが、清潔で、きちんとしていた。もしこの町が、古いタイのいなか町の典型であるとすれば、わたしたちは、こういう町をつくり得たタイという国の過去を、そうとう高く評価しなければならないのではないだろうか。」(186‐187ページ)
 「木曾路か甲州路」というあたりに、登山家でもある梅棹の経験がうかがわれ、また町の清潔さから、過去の社会の評価を行うところに彼の歴史観の一端を垣間見ることができる。 

道路建設
 28日は、トゥーンを出て峠にかかった。これまた、同じようなカサカサの森がつづいた。
 当時のタイは、1956年に始まった第2次5か年計画の最中で、道路が盛んに建設されていた。特に梅棹一行の通る道は、バンコクとチェンマイを結ぶ、タイ第一の幹線道路なので、道路の手入れがよくされていることに梅棹は感心している。工事を急いでいるのは、雨季になると工事が難しくなるからかもしれないし、間もなく国王陛下の行幸があるからかもしれないと推測する。「王様の行幸があると道がよくなるというのは、世界中の法則なのかもしれない。」(189ページ)

「この附近ウシ多し」
 自動車旅行をしていて気づくのは、道路標識が親切で丁寧なことであるという。これは自分で車の運転をして旅行しているから気づくことで、わたしのようにバスに乗ってぼんやりしていると気付かないことである。その数多い道路標識の中で、「いちばん傑作なのは、三角形の板にウシの画がかいてある標識だ。これは『この附近に放牧中のウシ多し』という意味である。じつのところ、ウシにはまったく閉口する。道はよいし、人通りは少ないし、ドライブにはおおむね快適なのだが、ウシとスイギュウの群れはどうにもならない。」(189ページ)
 とくにスイギュウには気をつけろと、バンコクで注意されてきた。衝突したりすると、へこむのは自動車のほうだという。

ミス・タイの都
 峠を越えて、リーの村に到着する。小さい村であるが、営林局の詰め所があって、若い森林官が駐在している。
 一行のうち、川村はすでにサルの分布の聞き込みという研究作業を開始している。彼の今回の研究対象はテナガザルであるが、この辺りの山でもテナガザルは珍しくないという。(すでに、立ち寄ったタークの営林局ではテナガザルを買っていて、100バーツ≒1800円で売るという。安いので、帰りに買うことにしたと記されている→実際に買って日本に連れて帰ることになる。サルだけならば、ロッブリーでもたくさんのサルを見かけたことが記されている。) 

 リーからもう一つ峠を越えると、しだいに平原になる。北タイの盆地に入ったのである。
 「ラムプーンおよびチェンマイを中心とする北タイの盆地群は、タイ国の中にあっても、一種特別の地域を形成している。歴史的にも、それはメナム平原のシャム族の国家とは別の国である。古くは、ラムプーンを中心とするモン族のハリプンチャイ王国の領土であり、後には、チェンマイを中心とするランナータイ王国の版図だったのだ。わたしたちは、今その北部タイの中心部に入りつつある。」(191ページ)

 一行はラムプーンの町で休憩する。ラムプーンはタイではチェンマイとともに美人の産出地として有名なところである。毎年の美人コンクールでミス・タイに選ばれるのは、この町かチェンマイのどちらかの代表であるという。ミス・タイに選ばれると土産物屋の看板娘になる例が多いという。残念ながら、看板娘に出会うことはできなかったが、たしかに街を行く女性たちが清楚でたおやかだという印象を受けたと梅棹は記している。

 ラムプーンからチェンマイまでは、美しい並木のある、立派な舗装道路が続く。この日(1957年12月28日)の明かりがつく頃、一行はチェンマイにつく。国連職員としてこの町に派遣されている生駒さんの家に厄介になることになる。

 第7章は標題と内容があまり一致しないが、タイの地方都市の歴史とその様子が書きとめられていて興味深かった。今回をもって、第7章の紹介を終り、次回からは第8章「最高峰にのぼる」を見ていく。一行はタイの最高峰であるドーイ・インタノン(2,576メートル)にのぼり、標高によって変化する動植物の生態を観察し、また山岳少数民族と出会ったりする。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(5)

6月28日(金)曇り

 昔々、あるところにグラングウジェという陽気で酒好きの王様がいて、ガルガメルという妃と結婚して、ガルガンチュワという巨大な体躯をもつ王子を生んだ。この王子は生まれるなり、オギャーオギャーとなくのではなく、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と叫んだので、それを聞いた父親が「やれやれお前のはでっかいわい!}(Que grand tu as!)といったので、この名前が付いたのである。
 ガルガンチュワは牛乳と葡萄酒を飲み、よく遊んで、なかなか賢い子どもに育っていった。特に5歳になったときに、父王に向かって衛生的な尻の拭き方について、短詩を交えて滔々と弁じたので、父王はすっかり感心して、有名な学者を家庭教師にして勉強を始めさせることにした。
 ガルガンチュワは先生の言いつけをよく聞いて、一生懸命勉強したが、54年間かけて勉強しても一向に向上したという様子を見せず、むしろぼんやりしたうすのろになってしまったように見えた。それを心配した父王が知り合いに相談したところ、教育法が悪いのだということになり、当世風(つまりルネサンス風)の勉強をした若者と議論させてみればいいということになった。
 そこで12歳のユーデモンという若者がガルガンチュワと議論をしたが、はっきりとしたラテン語で堂々と議論するユーデモンに対して、ガルガンチュワはうんともすんとも答えることができない。かくして議論は終わり、グラングウジェはガルガンチュワをユーデモンの師であるポノクラートについて勉強させることに決め、最近の若者の勉強の仕方を知るためにもパリへと送り出すこととした。

第16章 ガルガンチュワがパリへ送られたこと、
 ならびに彼を乗せた大牝馬の話、
 ならびにこの牝馬がボースの牛蠅を退治したこと
 (ガルガンチュア、巨大な牝馬に乗って、
 パリに派遣される。またこの牝馬が、
 ボース地方の牛にたかるハエを退治したこと) 
 この頃、アフリカに住んでいるグラングウジェの友だちである王様が、象6頭分くらいの大きな体を持つ、巨大な牝馬を送ってきた。グラングウジェは喜んで、息子をこの牝馬に乗せてパリに送り出すことにした。
 さて、祝い酒を汲んでから、ガルガンチュワとその新しい師匠ポノクラートと、両者の弟子や側近や従者たちは、新たにガルガンチュワの家来に加わったユーデモンももちろんその中に混じって、パリへと出発した。

 こうして一同は街道すじをパリへパリへと東に向かった(そんなことは原文には書いていないが、こう書いておいた方がわかりやすいだろうと思う)。そしてオルレヤン(と、渡辺一夫は書いているが、オルレアンと表記する方が普通だと思う)の北のあたりにたどりついたが、そこには広大な森があった。森があるだけならいいのだが、杜のなかにはたくさんの牛蠅やら馬蜂(アブ)がいて、この近くを通りかかる牛馬、驢馬、騾馬に対して大きな害を及ぼしていた。
 ガルガンチュワが巨大な牝馬に乗ってやって来るのを見ると、牛蠅や馬蜂は一斉に襲いかかってきたが、牝馬のほうは少しも騒がずそのしっぽを振って、草刈り男が草を刈るように、森の樹木をすべて打ち倒してしまった。それでこの土地は、今日に至るまでパリにとっての穀倉地帯となるような豊かな田園に姿を変えたのである。
 これを見たガルガンチュワは、うれしくなって”Je trouve beau ce "(これは見事なものだな)と言ったが、この言葉が元になって、この地方はBeauce(ボース)と呼ばれるようになった(ラブレーが作り出した冗談である)。

 そして一行は、いよいよパリに到着したが、ガルガンチュワは2・3日休養をとり、お伴の人々と飲み食いを楽しみ、またパリにはどんな学者がいるのか、またどんな酒が飲めるのかを調べたのである。

第17章 ガルガンチュワがパリ市民に披露目の挨拶をしたこと、
   ならびにノートルダム大聖堂の大釣り鐘を取り去ったこと
   (ガルガンチュア、パリ市民に、とんでもない
   入会金を払う、そして、ノートル≂ダム教会の
   大きな釣り鐘を持ち去る)

 休息をとって体力も回復したので、ガルガンチュワはパリ市内の見物に出かけたが、何せ彼の体が巨大なので、それを面白がって群衆が集まってきた。「なにしろ、パリの市民たちは、じつに阿呆で、野次馬気質があり、生まれつきのらくらしている連中だから、そのお蔭で、大道曲芸人や、聖人の遺物を担いで贖宥符を売る連中や、首に鈴をつけた騾馬や、四つ辻のまんなかにつっ立った琵琶法師などのほうが、歴とした福音伝道師よりも、人を沢山に集められることになるしだいだ。」(渡辺訳、93ページ、宮下訳では139ページに相当)
 ここは2つのことを読み取るべきであろう。フランス人はparisien(ne)とprovincial(e)に二分されるというが、ラブレーの時代はフランソワⅠ世国王の下で、絶対王権が成立しつつあり、それまでは地方ごとの文化や制度が容認されていたのが、制度も文化も次第に集権化しはじめる時代であったということである。そのような歴史的状況を踏まえたうえでで、provincial(地方人)から見たparisien(パリっ子)の軽薄さ、俗悪さへの批判というのがその一つであり(ラブレーは地方人である)、「聖人の遺物を担いで贖宥府を売る連中」つまり、カトリック教会のなかの守旧派の子分たちと、「歴とした福音伝道師」=「新約聖書」の「福音書」に帰り、教会を改革を訴える人たちとの対比である。煉獄のたましいがより早く天国に行けるという贖宥符の販売をルターが批判したのが1517年のことであり、おそらく1534年に出版されたこの本のなかに贖宥符売りの姿が描かれているというのは、注意しておいてよいことである(なお、宮下さんはわかりやすく「免罪符」と訳している。カトリック教会では「贖宥符」のほうを使うこと、渡辺一夫が暁星学園の出身であることにも注目しておこう。)

 大勢の野次馬に取り囲まれたガルガンチュワは、ノートルダム大聖堂の塔の上に腰を下ろして一休みしなければならなかった。そして「この野郎どもは、ここで披露目の挨拶なり歓迎の礼返しなりをしろというのだな」(渡辺訳、94ページ、宮下訳、139ページ)といって、冗談には冗談の返礼をしてやろうととんでもないことをする。つまり、「見事なその股袋(ブラゲット)をはずして、その一物を宙に抜き出し、人々めがけて勢い劇しく金色の雨を降らしたので、そのためにおぼれ死んだ者の数は、女や子供を除いて26,0418人であった。」(渡辺訳、94ページ、宮下訳、140ページ)
 細かく見ていくと更に問題は多くなりそうだが、この場面は『ガリヴァ旅行記』(中野好夫訳の表記による)の第1部「小人国渡航記」5章の皇妃御所から火事が出て、ガリヴァーが小便をして消したというより怪しげな連想を導きそうな部分に影響を与えているようである。ガリヴァーはこの一件で立場を悪くするのであるが、ガルガンチュワの場合はそういうことはない。
 パリっ子たちは大騒ぎを起こすが、ガルガンチュワはそんなことにはおかまいなく、ノートルダム大聖堂の塔の釣り鐘が気に入ってしまい、それを自分の牝馬の首につけて見たらどうかということを考え始める。そこで、鐘を宿へ持ち帰ってしまう。
 パリ市民は驚き、恐れおののくが、とにかく、鐘を返してもらおうと考え、パリ大学神学部の最長老の教授にガルガンチュワのもとに赴いて鐘の返還を求めるように依頼することになったのである。そしてこの任に当たったのがジャノトゥス・ド・ブラグマルド神学博士という先生であった。

 ノートルダム寺院の火災という事件の後にこの個所をよむと、かなり複雑な気分になるが、ガルガンチュワの「無邪気」なふるまいが大騒ぎを引き起こす。さて、ジャノトゥス・ド・ブラグマルド神学博士はどのようにして鐘の返還を要求するのか、それはまた次回に。
 依然として体調が完全に回復したとはいえず、今回も皆様のブログの訪問は省略させていただきます。季節の変わり目時、御自愛ください。

E.H.カー『歴史とは何か』(21)

6月27日(木)曇り、夕方になって雨

 今回も引き続き、「Ⅴ 進歩としての歴史」を見ていく。その前に、これまでの内容についた大まかにまとめておく:
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史研究とは過去の諸事実のなかから、現代を生きる人びとにとって価値があると思われるものを選び出す作業であり、その意味において現在と過去との対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人とは相互的な関係にあり、歴史家もまた社会の構成員であるから、歴史研究は現在の社会と過去の社会の対話であり、過去の社会に照らして現在の社会を理解する作業である。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史研究は仮説を立ててそれを検証し、より高次の仮説を作り上げていくという性格において、また人間と環境の関係についての研究であるという点において共通性がある。道徳的な価値もまた歴史的なものであり、それによって歴史を評価することはできない。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史研究は過去の事件がなぜ起きたかという因果関係の研究である。そしてそれらの事件の連鎖がどのような方向に向かうかということも関心の対象となり、次に取り上げる歴史における進歩の問題が浮かび上がる。
Ⅴ 進歩としての歴史
 歴史における進歩は、生物の進化とは違い、過去の経験の蓄積を伝えていくことによってなされている。進歩はある理想の社会の実現に向かうもので、その社会が実現すれば歴史は終わると論じる人びともいるが、それは間違いである。歴史は未来に向かって限りなく前進していくものと考えるべきである。

Ⅴ 進歩としての歴史(続き)
歴史における方向感覚
 歴史を通じて社会が進歩しているという考えは、現在を生きている人間は未来の世代がより良い社会に生きるように努力することと結びつく。と考えると、社会がどのような方向に向かって進歩しているのかを客観的に見定めることができるのかという問題にぶつかる。しかし、社会の一員である各個人が、どのように社会を客観視できるといえるだろうか。社会と個人との関係は相互的で、主体≂客観という二分法を用いることはできないのである。
 そうはいっても、社会がある方向に向かって変化していることをカーは否定していない。ヘーゲルは人間の社会が自由の拡大という方向に向けて変化を重ねてきたことを正しく洞察したが、その背後に世界精神という神秘的な存在を想定し、また歴史の進歩を現在で終わるものと考えるという過ちを犯したという。これに対して、トックヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805- 59、フランスの社会理論家、政治家、名著『アメリカのデモクラシー』で知られる)は平等の発展を人間の歴史における特徴であり、さらにこの傾向が未来までつづいていくことを予言している。〔最近、講談社学術文庫から宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の思想家』という本が出ている。わたしはまだ読み終えていないが、読んだ限りでは、なかなか面白い本なので、読んでみてください。なお、宇野さんによるとトックヴィルというのは英語読みで、フランス語読みだとトクヴィルだそうである。それから、これは私の意見だが、トクヴィルの偉大な点は、単に平等とかデモクラシーがその時代の傾向だというだけでなく、大衆民主主義が社会の凡庸化というような弊害も持っていることも予見しているところではないかと思う。〕
 マルクスはヘーゲルの影響を受けていたので、歴史には終りがあると考えたが、それでも階級のない社会という歴史の終わりを未来の出来事と想定したのである。アイルランドの古代史学者ジョン・バグネル・ベリー(John Bagnell Bury, 1861-1927、清水はビュリーと表記しているが、ベリーのほうが正しいようである)は『進歩の観念』(The Idea of Progress, 1920)において、進歩の観念とは、「過去と未来の予言との綜合を含む理論」(182ページに引用)と論じている。未来だけが、過去を解釈する鍵を与えてくれるのだとカーは言う。これはなかなか厳しい議論である。歴史研究は未来を正しく予見したときに、その客観性を示すことができるということだからである。

過去と未来との対話
 それではある歴史家が、他の歴史家に比べてより客観的であるということができるのはどういうことであろうか。過去の諸事実の中から重要な事実を選ぶ際に、より正しい基準を持つことができるということである。さらに、そのためには、「その歴史家が、社会と歴史とのうちに置かれた自分自身の状況からくる狭い見方を乗り越える能力――・・・半ばは、いかに自分がこの状況に巻き込まれているかを認識する能力・・・――を持っているということ」(183ページ)が必要であり、より長期的な見方ができることが求められるという。さきに述べたトクヴィルが貴族(侯爵)の出身であったが、民衆とデモクラシーの台頭を予見することができたというのは、こうした能力を発揮した例と言えるだろう。
 多少個人的なことを書けば、わたしの生涯を通じて最も大きな出来事は大学を中心とする高等教育の大衆化ということであったが、私が大学時代に習った先生たちについてみると、「大学紛争」が一過性の出来事だと思って、それが非常に大きな教育の変化の一部であることを認識できなかった先生が多かったように思う。私自身、自分が教師になって経験を積むことで(つまり長期的に経験を重ねることで)見方が変わってきたのである。

 それで、歴史は過去と現在との間の対話であると述べたことをあらためて、むしろ、「歴史とは過去の諸事件と次第に現われて来る未来の諸目的との間の対話と呼ぶべきで」(184ページ)あるという。社会の発展につれて、未来の目標とされるものも変化してくる。そのことが過去の見方にも反映されるというのである。例えば、19世紀を通じては選挙権の拡大というように、政治的な目標が追求され、そこから政治史が関心事になっていたのが、経済や社会保障に関心が移ると、そうした面が歴史の関心事になってきたのだという。これは見方が変わったというだけでなく、やはり人間の社会に対する洞察が進歩したからであるとカーは論じる。

 そして歴史は進歩するという考え方こそが、歴史記述に重要性の基準を与え、本当のものと偶然的なものとを区別する標準を与えるものだとカーは論じる(そんなに簡単に区別できるかどうかは、疑問に思われないでもない)。

 「進歩としての歴史」を今回で終わらせるつもりだったが、もう1回分検討を続けることにする。カンパネッラの『太陽の都』を読んでいると、その社会観が、モアの『ユートピア』に比べるとむしろ後退しているような印象を受けることについてはすでに別のところで書いたが、それがモアとカンパネッラの個人的な能力や資質によるものなのか、16世紀のイングランドと16‐17世紀の南イタリアの社会的な環境の違いによるものなのかは、考えてみなければならない問題だと思う。このような問題はあるにしても、社会は、大きな目で見れば進歩しているし、その進歩の方向も変化しているというカーの見解にはおおむね賛同できると思うのだが、皆さんはどうお考えだろうか。
 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(5)

6月26日(水)晴れ

 コロンブスとともに新世界への航海に出たジェノヴァ出身の船乗りが、その後地球を一周してヨーロッパに戻ってくる。そして航海中に訪問した「太陽の都」について、マルタ騎士団の団員に語る。〔コロンブスもジェノヴァ人であった。〕
 「太陽の都」はタプロバーナ島(本来はセイロン島のことであるが、カンパネッラはスマトラ島を想定しているようである)の中心部の大平原の中にある、同心円状に城壁を設けて設計された都市である。都市の中心に丘があり、その頂上に神殿が建てられている。
 市を支配しているのは、「太陽(ソーレ)」と呼ばれる神官君主であり、「権力」、「知識」、「愛」という3人の高官によって補佐されている。神殿の外壁や城壁には都市の人々に知識を授けるために、世界の様々な事物の模型や絵が置かれたり、描かれたりしている。

 騎士団員は、太陽の都には他にどんな官職があるのか、教育や生活方法はどのようなものか、国の政体は共和国か君主国か、それとも寡頭制国家であるのかを尋ねる。〔プロジェクト・グーテンベルクで公開されている英訳版では、政体についてmonarchy(君主制)、republic(共和制)、aristocracy(貴族制)と記されている。〕
 「太陽の都」の住民たちは、もともとインドに住んでいて、モゴール人をはじめとする略奪者、暴君たちの支配と暴虐を逃れてやって来たのだという。そして彼らは、「理想的な方法で共同生活をすることにした」(14ページ)という。

 共同生活の出発点となっているのは家族生活の否定で、「すべて所有観念というものは、自己の家を持ち自分の妻と子供を持つことから生じ、ここから利己主義が生まれる」(同上)との考えから、「婦人共有制」(同上)を実施している。「婦人共有制」は上記英訳ではcommunity of wives(妻たちの共同体)と訳されている。このような発想はプラトンに見えるよしであるが、カンパネッラは彼の同時代人であるジョヴァンニ・ボテーロ(Giovannni Botero, 1543-1617) がインドのマラバール地方に住んでいたとされる戦闘的部族ナイリについて書いていることをヒントにしていると、翻訳者の坂本鉄男は注記している。
 「すべてのものは共有になっており、必要なものの配分は役人の手に委ねられています。こうして、食糧のほか学問や栄誉やいろいろな娯楽なども共有で、決して何物も個人の所有にはできないようになっています。」(14ページ) 人間は自分の子どものためというような利己心を捨てたときに、公共のための愛だけが残るのだという。

 これに対して騎士団員は、プラトーンが提唱した少数の哲人による政治という考え方を、その弟子であるアリストテレスが、知性の点では劣っても多数者による判断のほうが間違いは少ないといって批判した例を引き合いに出し、利己心を否定し、公共のための愛だけを強調することによって、人々が働くなるのではないかとの疑問を投げかける。この議論は高収入者に高い税率で税金を課す累進課税制度は、能力が優れ、勤勉な人々の勤労意欲をそぐのではないかという議論を想起させるところがある。

 これに対してジェノヴァ人は「私はむずかしいことを議論することはできませんが、ただ、彼らがびっくりするほどの愛国心を持ち、それは私有財産に意を用いなかったといわれている時代のローマ人以上であることをお伝えしておきましょう。」(15ページ)と答える(騎士団員の問いに対する答えになっているとは思われない)。彼は親族や友人を持ち、その利益や便宜を思うことが、腐敗や不正を生むのだという主張を繰り返す。

 しかし、マルタ島騎士団員は納得しない。かれは家族の愛や、友情というものを重んじる立場に立っているからである。これに対しジェノヴァ人は、「太陽の都」の住民たちのあいだの友情はきわめて強いものだと答えて反論する。彼らの間ではあらゆるものが共有で、不相応なものは一切所有しないように役人たちが見張っているから、贈答などの習わしはないという。しかし、必要なものはすべて手に入れることができる。「友情は戦争とか病気とか学問などで互いにつけあったり教えあったりするうちに生ずるのです。」(16ページ) さらに「若者はすべて『兄弟』と呼び合い、自分より15歳以上年上の人は『父』であり、15歳年下の人は『息子』なのです。そして兄弟の関係を乱さないようにあらゆることに注意を払っている役人もいるのです」(同上)と付け加える。

 役人はどのようにして人々に関わるのかという騎士団員の問いに対して、ジェノヴァ人は、「私たちが持っているあらゆる道徳ごとに役人がい」(同上)るのだという。〔「道徳」よりも「徳目」とするほうが適切であろう。〕 役人たちには「自由」、「寛容」、「貞潔」、「力強さ」、「刑事・民事裁判官」、「勤勉」、「真実」、「慈善」、「感謝」、「慈愛」などの名がつけられている。〔英訳では「自由」に対応する語としてliberalityが挙げられており、これは「自由」ではなく、「気前の良さ」、「公明正大」ということである。〕
 これらの役人には子ども時代に学校に通っている頃、これらの徳に向いていると判断された人物が任命されるという。旧ソ連などの「社会主義」国では、少年団で頭角を現した人物が指導者に選ばれていたことを思い出させる。しかし、泥棒や殺人のような重大な罪を犯すものは、「太陽の都」にはいないので、犯罪として告発されるのは、意地悪や嘘をつくことなどである。このような罪に問われた者たちは、共同の食事の場に加わる権利や、婦人と肉体関係を結ぶ権利などを奪われる。

 ジェノヴァ人の語る「太陽の都」の様子は、かなり管理主義的な社会であり、「婦人共有制」のように男性優位の社会であることも気になるところである。(そういうことは想像できないが)重大な犯罪が起きないのはいいことであるとはいうものの、人々が意地悪や嘘つきまで監視しあう社会というのは、かなり住みにくい社会ではないかと思う。共同体の構成員が一緒に食事をするという制度はモアの『ユートピア』と共通しているし、他にもモアとの共通点は見いだされるはずである。

 このところ、体調が悪いので、今夜は皆様のブログへの訪問を休ませていただきます。あしからず。
 

『太平記』(268)

6月25日(火)晴れのち曇り

 康永元年(この年4月、暦応より改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国の宮方の武士たちの動きが抑え込まれて天下は武士のものとなり、公家は昔の力を回復することができず、朝廷の諸行事の行なわれない世となった。『太平記』の作者は戦乱の中で廃れてしまった行事を列挙し、その中からこれまで1~8月の行事を取り上げてきたが、今回は残る9~12月の行事を見ていくことにする。

 九月は、
重陽(ちょうよう)の宴(えん)、
陰暦九月九日。九は陽の数字で九が重なるから重陽という。もともと中国の邪気を払うための風習だったものが日本に渡来し、長寿を祝う菊花の宴となった。
伊勢の例幣、
例幣は朝廷から毎年の例として神に捧げる幣帛のことで、伊勢神宮に勅使が遣わされる。
祈年(としごい)、
『広辞苑」によると毎年陰暦慰2月4日、神祇官および国司庁で五穀の豊穣、天皇の安泰、国家の安寧を祈請した祭典とある。なぜ、9月のところに出てくるか不明。
月次(つきなみ)、
6月のところにも記されていた。神祇官で諸社へ御幣を奉る儀である。
神嘗(かんなめ)、
天皇がその年の新穀を伊勢神宮に奉る祭。かつては陰暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授け、9月17日に奉納していた。明治12年(1879年)からは(太陽暦で)月遅れの10月17日に行われている。明治7年(1874年)から昭和22年(1947年)までは祝日であった。現在では祝日ではないが、宮中および伊勢神宮ではこれまで通りの行事が行われている。
新嘗(にいなめ)、
帝に新穀献上の儀であるが、これは11月の項にも記されていて、本来、11月の行事のはずである。
大忌風神(おおみかざかみ)、
岩波文庫版の脚注に4月、7月の広瀬・龍田社の行事で、ここは誤りと記されている。
鎮花(はなしずめ)、
3月にも行われている。疫神を鎮める祭である。
三枝(さいぐさ)、
4月にも行われている。率川神社の祭である。
相嘗(あいなめ)、
新穀を神に供える儀、
鎮魂(たましずめ)、
帝の長寿を祈る儀、
道饗(みちあえ)の祭あり。
道饗は6月にも行われているが、京の辻の神を祭る儀である。

 十月は、
掃部寮、夏の御座を徹して、冬の御座を供ず。
4月1日に冬の御座から夏の御座に変えたのであるが、今度は冬になったので冬の御座に取り替えるのである。
兵庫寮、鼓笛(つづみふえ)の声を発(おこ)し、
次の年の2月まで朝夕鉦鼓を鳴らす儀である。
刑部省(ぎょうぶしょう)、年終(ねんしゅう)断罪(たえづみ)の文を進(たてまつ)る。
刑の執行などを奏上する。
興福寺の維摩会(ゆいまえ)、
 興福寺が藤原氏の氏寺であるのはご存知であると思う。10月10日から7日間にわたって、維摩経を講讃し、供養する法会。維摩経は初期大乗仏典で、戯曲的な展開の中で、旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗仏教の軸となる「空」の考えを高揚したものであるといわれる。この行事が朝廷によって尊重されていたことに注目しておこう。
競馬(くらべうま)の負方(まけかた)の献物(こんぶつ)、
5月の上賀茂神社の競馬で負けた方が品物を献上する。
大歌始(おおうたはじ)めあり。
大歌所を招集する儀である。大歌所というのは、平安時代にわが国の伝統的な歌舞を伝承、管理するために設置された役所だそうである。

 十一月は、
朔日(ついたち)、内膳司(ないぜんのつかさ)、忌火(いんび)の御飯を供(くう)ず。
これは6月にも行われた。清浄な火で炊いた御飯を帝に奉る儀である。
中務省、御暦(ごりゃく)を奏す。
6月のところに、間違って記載があったが、翌年の暦を帝に奏する儀で、11月1日に行われた。
神祇官の御贖(おんあがもの)、
山科、平野、春日、杜本、梅宮、大原野の祭、
春日、大原野の各神社の祭は2月に、山科、平野、杜本、梅宮の各神社の祭については4月にも行われた。
新嘗(にいなめ)、
帝が行う新穀収穫祭。現在の勤労感謝の日の本来である。
神嘗会(かんなめのえ)、
新穀を伊勢へ奉る祭。
賀茂の臨時の祭あり、
宴会。

十二月は、
朔日より同じき(十)八日に至るまで、内膳司、忌火の御飯を供(くう)ず。
11月は朔日だけであったが、今回は、ずっとこれが続く。
御体(ごたい)の御卜(みうら)、陰陽寮(おんようりょう)、来年の御忌を勘録(かんろく)して、内侍にこれを進る。
帝のご健康運を占って、直接にではなく、女官にこれを知らせる。内侍司も官僚機構の一部なので、四等官制が敷かれていたのであるが、長官(尚侍)は実際問題として帝の妃のようなものであったし(『源氏』の朧月夜の君を思い出せばいい)、次官(典侍)も上・中級貴族の娘で、『讃岐典侍日記』の作者の例などを見ればわかるように、尚侍と同じく職掌としては形骸化していたので、ここでいう内侍は三等官の掌侍であったようである。掌侍の首位にいるのが勾当の内侍で、新田義貞の妻になった女性がこの地位にあったことはすでに述べた。
荷前の使(のさきのつかい)、
諸国の貢物を歴代の帝の山稜に奉る儀、
御仏名
仏名経を講じる法会。過去・現在・未来に現れる(であろう)仏の名を呼ぶことによって功徳を得ようというものであるが、室町時代に絶えてしまったようである。
大寒の日、土牛童子を立て、
陰陽師が疫病を祓うため、内裏諸門に牛と童の土人形を立てる。
晦日、宮内省、御薬を奏する。
大祓、
6月にも行われるが、万民の罪けがれを清める神事である。
御髪上(みぐしあげ)、
帝、東宮の髪のくずを焼く儀、
「金五四隊に列をなして、院々の燈(とぼしび)を焼(た)いて白日の如し。沈香火底に座して笙を吹く」と云へる追儺の節会、今夜(こよい)なり。
「金五四隊に…」というのは中唐の詩人王建の「宮詞」によるものだそうである。金五は「金吾」で天子の護衛兵。追儺(=悪鬼を追い払う儀式)を歌った作品のようである。追儺はわが国では、大晦日に行われ、後に節分の行事となった(陰暦は立春正月であるが、大晦日と節分とは必ずしも同じ日ではないというのが面白いところである)。『太平記』とほぼ同時代に書かれている『徒然草』にこれらの行事について結構詳しく記されているので、読み比べてみるのも面白いかもしれない。

 このような行事が滞りなく行われることが国家の安寧のために大事であるが、それが行なわれなくなった。これはゆゆしきことで、「されば、仏法も神道も、朝儀も礼節も、かつてなき世になりにけり」(岩波文庫版、第4分冊、119ページ)と『太平記』の作者は嘆いている。しかし、古いものが衰えているのと入れ替わって、新しい文化が生まれているかもしれないので、そのあたりを見ていないところに『太平記』の作者の限界も見いだされるのではないかと思う。

日記抄(6月18日~24日)

6月24日(月)雨が降ったりやんだり、午後になって晴れ間が広がったかと思ったが、また雨が降ったりやんだりに戻った。

 6月18日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:
6月14日
 NHKラジオ『まいにちロシア語』を聞くともなしに聞いていたら、ロシア連邦のタタールスタン共和国の首都、カザンの話題が取り上げられていた。カザン大学は1804年に創立されたロシアで4番目に古い大学で、番組中でもその名を挙げられた数学者のロバチェフスキー、文豪トルストイ、革命家レーニンの母校である。番組中ではその名を挙げられなかったが、文学者のゴーリキーもこの大学に入ろうとしたのだが、入学を許可されず、ただ、この町で送った青年時代の経験が『私の大学』になったということを、同名の作品の中で書いている。

6月18日
 山形県南部、新潟県北部を中心に強い地震があった。遅ればせではありますが、被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。

 『朝日』の朝刊を見ていたら、『週刊朝日』6月28日号に佐藤愛子さんが田辺聖子さんを追悼する文章を書いていることがわかった。前回、どうしているのか心配だと書いたが、取り越し苦労であった。

6月19日
 『朝日』朝刊にピーター・マクミランさんによる芭蕉の「目にかかる時やことさら五月富士」という句の英訳が掲載されていた。
 マクミランさんによると、この句は『伊勢物語』第9段に記されている「時知らぬ山は富士が嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」(『新古今和歌集』には在原業平作として収められている)を踏まえたものだという。英訳の中で、Famous Fuji of summer! とあるのには、多少疑問がある。というのは陰暦5月は確かに「夏」ではあるが、まだ梅雨の時期であって、ここでは梅雨の雨がやんで晴れ間が広がり、富士が見えたことを喜ぶ気持ちが込められていると思うからである。
 この歌を含む『伊勢物語』の「東下り」の段はよく知られていて、私も高校時代に習った記憶がある。ただ、富士山を詠んだ歌としては、西行の『風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな」のほうが好きである(こちらも『新古今和歌集』に収められている)。

 NHK『まいにちスペイン語』を聴いていたら、サッカーのオフサイドのことを、スペイン語ではfuera de juegoということを知った。他の言語では何というのであろうか。

6月20日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は朔日から、”21st‐Century Skills"(21世紀スキル)という新しい話題に入った。就職希望者が身につけていることが望まれるスキルの変化が話題となり、ある登場人物が
It seems to me that our education system isn't doing enough to teach listening and questioning skills.
(アメリカの教育制度は、聞くスキルと質問するスキルを教えるために十分なことをしていないように、わたしには思えます。)
 アメリカよりも、日本のほうがこの問題は深刻ではないかと思う。
 
6月21日
 『NHK高校講座 倫理』では「現在の実存哲学」としてヤスパース、ハイデッガー、サルトルの思想について取り上げた。前回、実存主義思想は、内にこもるだけの思想ではないはずで、講師のとらえ方は狭いのではないかと書いたが、今回の授業で、それが早とちりであることに気づかされた。ただ、実存主義を思想として紹介するだけでなく、その広い範囲にわたる影響について論じてもよかったのではなかろうか。例えば、三島由紀夫は(確か『全共闘との対話』においてであったと思うが)「私の大嫌いなサルトルは」と言っている。大宅壮一が戦後の一時期、猿取哲という筆名を用いていたのも面白い話である。

6月22日
 NHKラジオ『朗読の時間』:菊池寛『満鉄外史』の第11回から第15回の再放送を聞く。満鉄の事業の所轄官庁の問題をめぐっての疑問から総裁の地位を固辞し続けていた後藤新平が児玉源太郎の急死によりようやく就任に至った経緯から、今度は中村是公総裁時代のエピソードに話が飛んだ(途中の個所を省いたらしい)のでわかりづらかった。省略するのはいいが、省略した箇所の概要でも説明してくれた方がありがたい。中村是公は学生時代、夏目漱石や狩野享吉と自炊仲間だったことがあり、その時代のことは(脚色を交えて)『吾輩は猫である』の苦沙弥と迷亭、鈴木藤十郎(どうも是公がモデルになっているらしい)の会話の中で懐かしそうに回想されている。是公が満鉄総裁として、彼の学生時代のその雰囲気を社内に持ち込もうとしたことは確かなようである。

 ニッパツ三ツ沢球技場で、なでしこリーグ・カップ第7節:横浜FCシーガルズ対大和シルフィードの対戦を観戦した。試合に先立って、なでしこリーグ通算150試合出場を達成した小原由梨愛選手の表彰が行なわれ、200試合出場を目指すという本人の決意が語られたが、この日の試合には出場しなかった。前節のスフィーダ世田谷戦で途中退場しているので、たぶん、その時のけがが全治していないということであろうと思う。試合は、押し気味ではあったがなかなか得点できない横浜が、前半の終わり近くなってMF久永選手のゴールで得点し、その1点を守って勝利した。
 1011回のミニtoto-Aが当たった。今年になって11度目の当たりである。

6月23日
 『日経』の文化欄に載っていた大竹明子さんの「須賀敦子、三十代の偉業」は須賀が30代であった時期に、多くの日本文学作品をイタリア語に翻訳していたことを紹介する内容で、特に近現代作家の25作品を翻訳したNarratori giapponesi moderni (1964、『日本現代文学選』)が興味深いという。作家と作品の選定も面白いのだが、一番新しい作品が庄野潤三の「道」であることだけ取り上げておく。以前にも書いたが、須賀は年齢や文学歴からいって、「第三の新人」世代に近かったようである。
 それよりも興味深かったのは、「パリの早口のフランス語になやまされていた私は、イタリアに来て、ほっとした。まだほとんどその国のことばを知らなかったのだが、イタリア語のゆるやかさ、音楽性がたいそう身近で、やさしい感じをうけたのである、そのせいか、自分にもわけのわからぬ、速さ、自然さで、イタリア語をおぼえることができたように思う」という須賀のことばである。人によって、外国語との相性は違い、それは主観的なものかも知れないが、大事にした方がいいと思うのである。

6月24日
 『朝日』朝刊の「天声人語」が先日亡くなられた映画編集者の岸富美子さんの生涯と仕事の軌跡を、その著書である『満映とわたし』によりながらたどり、『日経』朝刊の「春秋」は本日が美空ひばりさんの死後30年、『二十歳の原点』の著者高野悦子さんの死後50年であることを思い起こしている。大正生まれの岸さんがいちばん長く生き、昭和も戦後生まれの高野さんがいちばん早く世を去ったのはどういうことであろうか。
 映画監督として多くの名作を残したロバート・ワイズ監督は、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』や『偉大なるアンバーソン家の人々』の編集者であったので、ジュリー・アンドルーズがガートルード・ローレンスを演じた『スター!』について、オーソン・ウェルズの影響があるというようなことを書いた批評家がいたが、実はワイズのほうがウェルズよりも年長なので、影響関係についてはもっと慎重に論じる必要がある。『スター!』については、ガートルード・ローレンスというよりも、サー・ノエル・カワードの伝記映画のような趣があったという印象を語っていた旧友がいて、この作品でカワードを演じたダニエル・マッセイ(レイモンド・マッセイの息子)の演技は語り草になっているのだが、聞くところによると、ダニエルの名付け親が実はノエル・カワードだったとのことである。

 『日経』朝刊の記事によると、日本財団が4~5月に全国の17~19歳の男女を対象として行った調査によると、その47%が学校の英語について「役立った」と答えているが、その内容に詳しく立ち入ると、読むことには役立ったが、話すことには役立っていないというものが多いそうである。「国は英語によるコミュニケーション能力の向上に取り組んできたが、教育効果の実感は乏しいようだ」とこの記事は結ばれていた。「読み書き」もコミュニケーションの一部ではあるのだけれどもね。

 米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』に「もし大学がテストの得点だけをキャンパスの定員を埋めるために使ったら?」という記事が出ていた。「研究者たちはわが国の最も入学選考の難しい大学がSATの得点だけをもとにして入学者を決めればどのようになるかと思いを巡らしている。彼らの回答は、大学はもっと裕福な学生、白人、男子が多くなるだろうというものである。」
 英紙『フィナンシャル・タイムズ』に掲載され、『日経』6月19日号に転載されたエドワード・ルース「米社会 偽りの能力主義」という文章もこの記事と同じ論旨(「能力主義のあるべき姿と正反対になっているのが今の実態だ」)のように思われるので、気になる方は読んでみてください。「能力主義のあるべき姿」というのも不思議な表現だとは思うけれどね。 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(12)

6月23日(日)曇り、一時雨

 18世紀末から19世紀初めにかけての時代のイングランド、東南部サセックス州の地主であるヘンリー・ダッシュウッドが死去し、その先妻の息子であるジョンが財産を相続したため、後妻であるダッシュウッド夫人は、19歳になる長女のエリナー、16歳の次女マリアン、13歳の三女マーガレットの3人の娘を連れて、彼女の従兄弟であるサー・ジョン・ミドルトンが提供するデヴォン州のバートン・コテッジという小さな家に移ることになった。ジョンの妻のファニーは利己的で意地が悪く、彼女たちを追い出した張本人でもあったが、その弟であるエドワード・フェラ―ズは心の優しい、頭のいい青年で、エリナーと惹かれあっている様子であった。

 デヴォン州に移った一家は、世話好きで明るいサー・ジョン・ミドルトン、上品な生活と子どものことしか頭がないその夫人、ミドルトン夫人の母で世話好きなジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというドーセット州デラフォード邸の主人であるブランドン大佐と知り合う。ブランドン大佐は無口で重々しい感じだが、思慮深そうな人物で、なぜかマリアンに惹かれている様子である。
 ある日、散歩の途中で負傷したマリアンは、近くのアレナム・コートに滞在中の青年ウィロビーに助けられ、それがきっかけでたちまち恋に落ちる。ウィロビーはサマセット州に小さな家屋敷をもっているのだという。

 マリアンとウィロビーの熱愛ぶりは、周囲の皆の知るところとなったが、そんなある日、サー・ジョンを取り囲む一団が行楽に出かけようとする直前になってブランドン大佐がロンドンに出かけるといって去っていく。それからしばらくして、ウィロビーがアレナム・コートの主人であるスミス夫人の命令でロンドンに行かなければならないといって去っていく。
 ウィロビーと入れ替わるようにして、エドワードがダッシュウッド一家を訪問するが、エリナーに接する態度はぎこちなく、何となく落ち着かないまま、すぐに去っていく。
 ジェニングズ夫人の遠縁であるというアンとルーシーのスティール姉妹が、サー・ジョンのバートン屋敷に滞在することになる。美人で世間知に長けているらしいルーシーは、なぜかエリナーに接近し、彼女を当惑させるが、それもそのはずでルーシーはエドワードと婚約しているというのである。エリナーには信じられない、信じたくもないことであったが、動かせない証拠がいくつもあった。

 姉妹は、ジェニングズ夫人の招待で冬の間、ロンドンのジェニングズ夫人の家に滞在することになる。やっとのことでウィロビーに会ったマリアンは、彼に無視され続けた挙句、別れの手紙を受け取ることになる。かれはミス・グレイという裕福な別の女性と結婚するというのである。
 エドワードがルーシーと婚約していることを知らず、彼がエリナーと結婚したがっていると思っているファニーと母親のフェラ―ズ夫人はエドワードには裕福な令嬢との結婚を進め、エリナーには様々な嫌がらせをする。しかし、ルーシーとエドワードの婚約が露見して、彼はフェラ―ズ家を廃嫡され、家を追い出されてしまう。ルーシーとの約束を重んじようとするエドワードのうわさを聞いたブランドン大佐は、自分が推挙権を持つデラフォードの聖職禄をエドワードに提供することを決心し、その伝言をエリナーに頼む。エリナーはエドワードが定職を得たことを喜ぶが、彼とルーシーの結婚が確実になったことを考えると喜んでばかりではいられない。

 姉妹はロンドンを去ることになるが、バートン・コテッジに帰る途中の滞在先でマリアンが重病にかかり、エリナーとジェニングズ夫人の看護でやっと回復する。滞在先をウィロビーが訪れ、彼の不行跡を詫び、それでもマリアンを愛しているといって去ってゆく。バートン・コテッジに戻って、ダッシュウッド一家の生活ぶりが元に戻りかけたときに、フェラ―ズがルーシーと結婚したというニュースが飛び込んでくる。実際に彼が結婚したという情報に接して、ずっと冷静にふるまってきたエリナーは動揺を隠せなくなった。 (以上前回まで)

 「エリナーはいまつくづく思い知った。それがいかに確実なことだとわかっていても、不快な出来事を予想するのと、それが確かな現実になるのとでは、たいへんな違いがあるということを。」(492ページ) エリナーは自分が、内心では、何か事件が起きて、エドワードとルーシーがわかれることになるかもしれないと期待していたことに気づくのである。そして、エドワードとルーシーが結婚して、デラフォードの牧師館で暮らしている様子を思いめぐらす。「ルーシーは質素なひどい生活をしながら、体裁だけは立派に見せようと必死にやりくりをし、けちけちと倹約していることを人に知られないように絶えず気をつかい、何事においても自分の利益だけを考え、ブランドン大佐やジェニングズ夫人や、あらゆるお金持ちの知人たちに気に入られようと、涙ぐましい努力をしていることだろう。」(493ページ) その一方で、エドワードの姿はどうしても想像できず、彼が幸福でも、不幸でも、どちらでも気に入らず、結局彼のことは忘れようと努力するのであった。

 ところが、誰かが手紙でエドワードの消息を伝えてくれると思っていたのに、いつまでたってもそのような手紙は届かない。エリナーが母親にブランドン大佐に手紙は書いたかとたずねると、母親は大佐が自分でやって来ると伝えてきたと答える。大佐に会えば詳しいことがわかるだろうと彼女は思う。

 と、そこへ、馬に乗った紳士がやって来た。どうも予想していた大佐ではないようだ。エドワードである。落ち着いて出迎えなければ…とエリナーは自分に言い聞かせる。母親もマリアンも、マーガレットさえも同じ気持ちである。
 型通りの挨拶が住むと、沈黙の時間が流れる。
 エリナーは思い切って、尋ねる。
 「フェラ―ズ夫人はいまロングステイプルにいらっしゃるのですか?」(496ページ)
 エドワードは何と答えていいのかわからない。やりとりの結果、エドワードの婚約者だったルーシーは、突如、エドワードの弟のロバートと結婚してしまったことがわかった。ダッシュウッド家の下男がエクセターで見かけた、フェラ―ズ夫妻というのはロバートとルーシーだったのである。〔ロングステイプルはエドワードの家庭教師であり、ルーシーの叔父である人物が住む場所なので、2人がここに向かったのであろうと、エリナーは推測していた。ロバートとルーシーとが結婚した理由は、この後いろいろと推測されているが、ロバートのほうがフェラ―ズ夫人にお気に入りであるということをご本人がひけらかし、そのことにルーシーが魅力を感じたことが大きな理由だと考えられる。〕

 エリナーは自分がどこでどうしているのかがわからなくなったほど動揺していたが、自分を取り戻すと「もうその場に座っていられなかった。走るようにして部屋を出て、ドアが閉まったとたん、うれしさがこみあげてわっと泣き出した。この涙は永遠に止まらないのではないかとさえ思った。」(497ページ)
 それを見たエドワードは物思いに沈んでしまい、何を話しかけても答えようとせずにしていたが、「そのまま何も言わずに部屋を出て、村の方へと歩いて行った。」(同上)
 ほかの者たちはただびっくりして、あれこれ推測をする以外にすることがなかった。〔現代のドラマであったら、エドワードとエリナーが抱き合ってもいい場面である。ところが、物語はもうワンクッションをおいて、終末に向かう。この辺りに物語の時代性が現われている。〕

 その日の夕方、歩きまわった末に心を落ち着けたエドワードは今回の来訪の真の目的であるエリナーへの結婚の申し込みを行ない、すぐに承諾を得た。
 母親の意向で世間を狭く生きることを強いられてきた(そのくせ出世を期待されていた)エドワードは、未熟な青年であった時代に唯一の心の安らぎだと思えたルーシーと軽率にも婚約してしまったのであったが、その後、ルーシーの中に見ていた理想の女性の姿を見失い、エリナーと出会ったことで自分の理想の女性を見つけたと思ったものの、ルーシーとの婚約に縛られて、それをあきらめていたのであった。
 それにしても、見栄っ張りである点は共通しているが、尊大なロバートと、狡猾なルーシーがどのような打算に基づいて結婚に至ったのかには謎が残った。
 2人の結婚が認められたとはいえ、2人の財産の利子と聖職禄を合わせた1年に350ポンドの収入では、安定した楽しい生活が送れるとは思われなかった。〔ダッシュウッド一家は母親と娘3人、下男と女中合わせて3人の7人構成であるが、年収500ポンドで暮らしていたはずである。ただ、教区牧師となると、支出もけた違いに多くなることは否定できないだろう。〕

 4日ほどして、ブランドン大佐が一家を訪問した。彼は病床にあったマリアンの看護のためにダッシュウッドウッド夫人を迎えに行った際に、マリアンへの思いを夫人に打ち明けていたが、デラフォードの邸に戻った後も、36歳という自分の年齢と、17歳というマリアンの年齢を比べたりして、なかなか明るい気持ちになれなかった。それでも一家を訪問してマリアンの回復ぶりを見たり、彼女から暖かく歓迎されたり、ダッシュウッド夫人の励ましを受けたりして、元気を取り戻していった。エドワードとブランドン大佐とは、お互いをよく知りあうようになり、互いへの敬意を深めるのであった。

 ロンドンに戻ったジェニングズ夫人からは、ロバートとルーシーの結婚への驚きと(特にルーシーの背信へ)の怒りを記した手紙が届いた。そしてルーシーがありったけの金を持ち出してしまったため、アンがエクセターに帰れなくなってしまったので、ジェニングズ夫人が5ギニー(1ギニーは1ポンドが20シリングであった頃の、1ポンド1シリング=1.05ポンドに相当する計量通貨単位で、特別の場合に使った)を渡してやったという。ジョンの手紙はもっと深刻な調子で書かれていた(読者の側からすると、こちらの方が滑稽な感じがする)。かれはロバートとルーシーの結婚を知って、フェラ―ズ夫人とファニーが大いに傷ついたと述べ、エドワードが適当な詫び状を書いて、勘当を解いてもらうようにと勧めていた。

 エドワードは詫び状を書くよりも、ファニーにとりなしてもらって、母親に会って話をすることを選び、勘当を解かれるとともに、エリナーとの結婚の承認を得た。と言っても、長男の地位を回復することはなく、1万ポンドの財産分与を得ただけであったが、これだけの財産があれば、エリナーとの結婚に支障はなかった。こうして、その年の秋の初めに、2人はバートンの教会で結婚式を挙げた。ブランドン大佐の好意で修繕と改装が行なわれた牧師館には、両方のほとんどすべての親戚と友人たちが訪ねてきた。フェラ―ズ夫人もやって来た(ロバートとルーシーがやって来たかどうかは書かれていない)。
 エリナーとマリアンの義兄であるジョンもやって来て、ブランドン大佐とマリアンとを結婚させるために働きかけることを勧めたりした(ブランドン大佐のマリアンへの思いはダッシュウッド家のみんなが知っていることであり、問題はマリアンの気持ちなのだということにジョンは気づいていないだけでなく、自分の気持ちを一家に押し付けようとしている)。

 ロバートは、ルーシーの勧めで母親に詫びを入れて、再び彼女の愛情をとり戻し、ルーシーもフェラ―ズ夫人のお気に入りとなったが、表面的にはうまくいっているように見えても、ジョンとファニー、ロバートとルーシーの夫婦間にはさまざまな衝突やいがみ合いがあり、ロバートとルーシーとの間には夫婦げんかが絶えなかった。「それらを別にすれば、フェラ―ズ夫人と両夫婦の仲むつまじさはまさに羨ましいばかりだった。」(522ページ)〔このあたりオースティン一流の皮肉のこもったユーモアが感じられる。〕

 さて、19歳になったマリアンはブランドン大佐の愛を受け入れて、結婚することを決心した。ウィロビーとの恋に破れたあとは、隠棲と勉学の生活を続けようと思っていたが、母や姉、義兄(ジョンではなくて、エドワードの方)の気持ちも手伝って、新しい愛を受け入れることにしたのである。そして「新しいつとめを引き受け、新しい家庭に入り、妻として、一家の女主人として、村の大地主の奥様として新しい生活を送ることになったのである。」(524ページ) 〔この作品を映画化した『いつか晴れた日に』では、アレナム・コートから遠く、ウィロビーが大佐とマリアンの結婚式をながめている場面があったと記憶する。ちょっと無理な設定ではないかと思うが、映画らしい工夫である。〕

 この結婚によってブランドン大佐は昔の元気と明るさを取り戻し、マリアンもそれにより夫をいよいよ愛するようになったのである。一方、ウィロビーは資産家の令嬢であるミス・グレイと結婚したことにより、アレナム・コートの主人であるスミス夫人の許しが出て、アレナム・コートを相続することが決まったが、そのことがあっても、マリアンのことを思い出さないことはなかった。
 ダッシュウッド夫人は一時考えたようにデラフォードに引っ越そうなどとせずに、バートン・コテッジにとどまった。そしてサー・ジョンとジェニングズ夫人にとって幸いなことに、マリアンが結婚した後に、3女のマーガレットが今度は適齢期(16歳になったはずである)を迎えたのである。
 長女と次女との結婚を経ても、ダッシュウッド一家は仲の良い一家であり、エリナーとマリアン、そしてエドワードとブランドン大佐はその後長く仲良く暮らしたことを付け加えて、物語は結末を迎える。

 予定よりも少し時間がかかったが、『分別と多感』の紹介・論評を終える。展開が冗長であったり、人物の描き方が類型的であったりする欠点はあるが、この物語は、最後まで姉妹のそれぞれが誰と結婚することになるのか(しないのか)という波乱があって、結末が見えにくいのが読者を最後まで引き付ける。登場する中で最も優れた女性として描かれているのがエリナーで、次がマリアン。男性についてはいちばん優れているのがブランドン大佐で、次がエドワード。一番と二番がそれぞれ結婚するという終末はなかなか巧妙な設計に設計されている。
 それに理性的な姉のエリナーが最後で自分の感情を抑えられなくなり、情熱的なマリアンが最後には理性的な判断でブランドン大佐との結婚を選ぶというところに運命の逆転がある。さらに言えば、一生に一度しか恋はできないという恋愛哲学を主張していたマリアンが2度の恋をし、エリナーのほうが一生に一度の恋を貫くというのも逆転である。姉妹と言えば、アンとルーシーのスティール姉妹はうわべを取り繕うのはじょうずだが、肝心なところで失敗する。
 仲の良い姉妹の愛情、あるいは(ここではあまり詳しく紹介しなかったジェニングズ夫人の次女シャーロットの夫であるパーマー氏のように、美人だが頭の悪い女性と結婚してしまった男の喜悲劇というモチーフは、オースティンの次回作であり、彼女の最高傑作である『高慢と偏見』にも引き継がれることになる。
 ウィロビーが住むサマセット州はデヴォンシャーから見ると北、ブランドン大佐のドーセット州は南東にあるというのも注意してよいところ。ドーセット州は19世紀後半に活躍した作家トマス・ハーディーの故郷で、彼がその多くの作品の舞台としている。この州の州都であるDorchesterはハーディーの小説に登場するCasterbridgeのモデルだといわれる。  
 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(15)

6月22日(土)雨が降ったりやんだり

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、大阪市立大学が組織した熱帯の動植物の生態、人々の生活誌に関わる学術調査隊の隊長として、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を歴訪し、調査研究を行った。これはその研究旅行の私的な記録である。
 今回は前回に引き続き、この書物の第7章「ゆううつよ、さようなら」をとりあげる。「ゆううつ」なバンコクの日々に別れを告げ、調査隊は1957年12月24日にバンコクを出発し、北タイのチェンマイに向かう。道中の様子を見ていく前に、例によってこれまでの内容をおさらいしておこう。
 第1章 バンコクの目ざめ
 第2章 チュラーロンコーン大学
 第3章 太平洋学術会議
 第4章 アンコールワットの死と生
 第5章 熱帯のクリスマス
 第6章 謙虚に学ぶべし
 第7章 ゆううつよ、さようなら
  1957年11月にバンコクに集合した一行は、日本大使館、チュラーロンコーン大学(特に動物学のクルーム教授)の協力を得て、期待における調査研究の準備を進める。その前に、バンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して研究成果を発表し、その後調査研究の際に使用する自動車の運転の練習を兼ねてカンボジアのアンコールワットを訪問した。
 学術調査隊の隊員は梅棹のほか、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小沢房人と依田恭二、昆虫学者で医師でもある吉川公雄、人類学の藤岡喜愛である。アンコールワット訪問から、チュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として参加、クルーム教授の研究室の助手であるヌパースパットが同行することになった。さらに太平洋学術会議に参加していた植物分類学者の津山尚が現地での調査に参加を申し出た。
 1957年12月24日、一行は3台のジープに分乗してバンコクを出発、ロッブリーで一泊した。25日、いったんチャオプラヤー河からはなれて、丘陵地帯の東側を迂回して北上、またチャオプラヤー河の流域の平原に出て、川を渡り、ナコーン・サワンに一泊した。

 街道の茶屋
 ナコーン・サワンの宿はチャオプラヤー河(梅棹はメナムと表記)の河岸にあり、沢山の舟が水路を上下している様子を目の当たりにして、この川がタイの流通の大動脈の役割を果たしていることを実感する。
 一行はここで2つに分かれる川の西のほうの流れであるメー・ピンに沿って北上することになる。「田んぼと、森と、まばらな木立が、果てしもなくつづいた。みのりととり入れの季節で、田んぼは黄色にかがやいていた。」(175ページ)
 「街道すじの旅は、なんといっても気が楽である。人口は希薄だとは云っても、しばらくゆくと村があり、100キロに1つくらいは、ちょっとした宿場がある。町というほどではないにしても、いくつか店がならび、食堂がある。バスも、トラックも、それからわたしたちも、こういうところで一休みする。そして、お茶にしたり、ひるめしにしたりする。」(同上)
 立ち寄っためし屋の主人が日本語で声をかけてくる。彼はひょっとすると、戦争中に脱走して、そのままタイに住み着いた旧日本兵であったのかもしれない。久しぶりに日本人にあって、どれだけ懐かしかったかもしれない人間を、深い話もせずに、先を急いでおいてしまったことに、彼は後悔の念を覚える。
 26日の夜はタークのはたご屋で泊まる。

 タークの街角で
 一行は宿の前にあった中国人の食堂で朝食をとりながら、町の様子を見る。裸足で托鉢に歩いている僧侶たち、自転車で通学していく女子高校生たち、その女子高校生たちとあまり年恰好が変わらないように見える天秤棒にかごをつけて、野菜などを売っている物売りたち。
 「タークの町は、静かな、いい町だ。…ここはすでに、山岳地方の町である。山の地方らしく、チークやそのほかの良質の木材をふんだんに使って、がっちりした二階建ての家が並ぶ。」(177ページ) 〔これまでに出てきたいくつかの町と同様に、タークはターク県のムアンターク郡にあり、この県の県庁・郡庁所在市である。ラヘーンと呼ばれた時代もあるが、木材の集積地として発展し、また政治的にはスコータイ王朝時代にはその西の前衛基地であった。〕
 朝食後、一行はこの町にある営林局を訪問する。

 営林局長 → 標本と哲学
 営林局を訪問して、一行は林野庁次官からもらってきた公文書を差し出す。
 営林局長は、この一帯の山林を監督する政府の代表者であるが、少しも威張った様子を見せず、この辺りの山林についての知見を述べ、調査の助けになるような手配をテキパキと片付けた。
 木材の標本を見せてほしいというと、すぐに出して見せてくれ、おもなものを分けてくれというと、小さなきれっぱしで一そろいの標本をつくって、紙に包んで渡してくれた。
 営林局の裏には植物園が作ってあって、沢山の植物が集められていた。
 植物園を見学しながら、梅棹はタイの人々は多様なものを集めて保存することに長けているのではないかという感想を持つ。林野庁で見かけたタイ全土の木材の整然たる標本棚や、カサーッセット農科大学の昆虫標本の収集と整理は立派なものであった。

 「しかし、理論的研究は、この国において、たいへん進んでいるとは私は思わない。昆虫標本はあるけれど、その分類学的研究はまだ未開拓である。生態学の論文なども、ごく少ない。それだけに、収集品の不釣合いなみごとさに、おどろかされるのである。」(180ページ) このような理論的な研究の貧弱さは、タイにおける哲学の欠如ということと関係するかもしれないと梅棹は考える。タイの最高学府であるチュラーロンコーン大学でも哲学は研究・教育されていないのである。〔私が調べた限りで、現在でも事情は変わっていないようである。〕 タイ人の思考力は具体的・現実的な世界で大いにその能力を発揮するのではないかと彼は考える。

 〔19世紀英国の経済学者・ジャーナリストで現在も刊行されている『エコノミスト』誌の編集者であったウォルター・バジョットは『世界のすべての国民の中で、イングランド人はおそらくもっとも純粋な哲学者が少ない国民である」という言葉を残しているが、梅棹がここで言っているのは、それとも違うように思われる。〕

 洗濯板の道
 タークを過ぎてからも、舗装はされていないけれども、ラテライトの砂が敷き詰めてあり、道幅も随分広い道が続く。しかし、道の表面に、道に直角に、無数に細かい波ができていて、洗濯板の上、あるいはそろばんの表面の上をh知るような感じになる。車を40キロくらいで走らせると、車は猛烈に振動するが、60キロくらいにスピードを上げると、車は滑らかに走る。
 そうはいっても、「洗濯板」はしばしば危険である。自動車が、まるでスキーのクリスチャニアのように、尻を振るのである。とにかく不思議であり、不気味でもある。

 森林国の核心部に入る
 「道は、10メートルほどの幅で、丘をこえ、森林をつっきって、走っている。森は、道の両側を、切れ目もなく埋めつくしている。私たちは、森の底をのぞき込んで見る。しかし、森のかなたにはまた森があるだけだ。森のほかは、なんにも見えない。わたしたちはようやく、森林国タイの核心部に入ってきたようだ。」(183ページ)
 とはいうものの中部タイの森林は、熱帯のジャングルとしてはあまりにも明るい。森の中でも露出計の針の示度は、ひなたとあまり変わらない。
 木々の緑は目立って少なくなり、森は褐色の落葉樹の森になっている。落葉広葉樹の森で、かなりの木々がその葉を落としているので、明るいのである。梅棹は日本の秋を連想し、そして、12月のタイを旅していることをあらためて思い出す。

 燃えるモンスーン林
 熱帯の森林というと、「昼なお暗い」うっそうとした樹木の茂る森林を思い起こす人が多いけれども、それは一年中平均して雨が降る、季節による変動の少ない「熱帯降雨林」の特徴であって、熱帯の森林全般の特徴ではない。タイでも、南方の半島部に行けばそういう森林が見られるはずであるが、中部タイは、1年がはっきりと雨季と乾季とに分かれているので、樹木は雨の全く降らない乾季を、葉をすっかり落として蒸散量を極度に少なくすることによって乗り切ろうとする。この型の森林を「モンスーン林」あるいは「雨緑林」と言い、タイ、ラオス、ビルマなどの森林の大部分はこちらのほうに属している。

 樹木の種類はたいへんに多い。どれもよく似ていて、フタバガキ科に属するものが多いという。
 あちこちで山火事が起きているが、乾燥しきった落ち葉と、下ばえの草と、灌木が燃えるだけで、木はすこしも燃えていない。山火事はあちこちで起きているし、瞬く間に広がっていくが、長続きしない。多くの人が気づかないまま、火は勝手に燃え、消えていくのである。

 「村もなく、田んぼもない。行けども行けども森林があるばかりだ。」(186ページ) 3時過ぎに一行はトゥーンの分岐点に到着する。右(東)はラムパーンに通じ、左は峠を越えてチェンマイ盆地に至る。少し早いが、トゥーンで泊まることにする。〔トゥーンは県庁所在地ではないようである。〕

 熱帯における気象、動植物の生態、人々の暮らしなど、実際に見てみないとわからない部分があることが知られる一方で、学校に向かう女生徒の姿など日本と共通点がなくもないことを梅棹は観察している。さて、目的に近づいて、どのような新たな発見があるだろうか。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(4)

6月21日(金)曇り、暑し。

 昔々、あるところに、グラングウジェという陽気で酒好き、塩辛いものが大好きという王様がいた。この王様はガルガメルという妃を迎え、2人の間に子どもが生まれることになった。その子どもは11か月という長い間、母親の胎内で過ごした挙句、その左耳から生まれ、生まれるとすぐにオギャーオギャーではなく「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」とわめき、それを聞いた父親が”Que grand tu as"(やれやれお前のはでっかいわい!」と口にしたことから、ガルガンチュワと名づけられた。
 巨大な赤ん坊として生まれたガルガンチュワは、牛乳と葡萄酒を飲んですくすくと育ち、やがて、他の子どもと同様に様々な遊びをして遊んだが、5歳になったとき、父親に詩のごときものを交えて、衛生的な尻の拭き方の話をして感心させた。

第14章 ガルガンチュワが1人の詭弁学者からラテン文学を教えられたこと(ガルガンチュア、ソフィストにラテン文学を教わる)
 グラングウジェは、息子であるガルガンチュワの頭のよさに気づき、マケドニアのフィリップ王が息子であるアレクサンデルの頭のよさに気づいて家庭教師としてアリストテレスを呼んで、息子の教育に当たらせたことを引き合いに出し、ガルガンチュワに家庭教師をつけて本格的に勉強させようと考える。

 そこで、家臣一同は「チュバル・ホロフェルヌ先生と名づける詭弁哲学大博士」(85ページ、宮下訳では124ページ)が紹介され、ガルガンチュワの教育に当たることになった。ガルガンチュワはこの先生からまず、厚紙に貼った「イロハ」を教え込まれ、その結果、逆に暗唱できるほどになったが、そこまで上達するのに5年3か月かかった。さらに『ドナトゥス文典』やその他の書物を読んで聞かされたが、そのために13年と6か月と2週間とを要した。
 ガルガンチュワが示した頭のよさは、自分の身の回りの問題を実際的に解決することで示されたのであるが、彼につけられた家庭教師は伝統的で、書物中心主義的な教育観の持ち主で、その考えをガルガンチュワの教育にも持ち込んで実践した。展開されたのは不適切で、非能率な教育であった(abcを覚えるのに5年3か月というのだから並大抵の非能率ではない。教えられるのが、巨大な体躯を持った子どもだったとしてもである)。

 ただ非能率は先生の教育観・教育方法からだけではない。ガルガンチュワを取り巻く時代の技術水準が低かった(印刷術がまだ発明されていなかった――物語の終わり近くになると、印刷術が発明されたことへの言及がある)ことにも起因している。そう付け加えるだけでなく、ラブレーは巨大な体躯の持ち主であったガルガンチュワの使っていた筆記用具の巨大さも描写している。
 「しかし、ご注意願いたいことは、こうする間にも、ゴチック文字の手習いを教えこまれて、書物を全部筆写したが、それと申すのは、まだ印刷術が行なわれていなかったからである。
 そして、ガルガンチュワは7千斤以上も目方のあるでっかい矢立を携えるのを常としたが、その筆筒は、エネーの教会の親柱と同じくらい太くて大きかった。その上にまた、商売用の酒樽ほども入る墨汁壺が、太い鉄の鎖で、これにぶら下げてあった。」(86ページ、宮下訳、125‐126ページ、宮下さんはさすがに「墨汁壺」ではなく「インク壺」と訳している。)

 それから様々な先生の注釈付きの文法書をしっかり学習したが、このためには18か年と11か月以上を要した。そして内容をしっかり習得して、本の内容を逆に暗唱できるほどであったし、母親にもその学習ぶりを披露した。それからまた別の本をよんだが、そのために16年と2か月かかった。あまり時間がかかりすぎて、その途中で先生が亡くなってしまったほどであった。
 そこでまた、ジョブラン・ブリデ先生という名の別の先生が教えることとなったが、ガルガンチュワはこの先生からもしっかりと学問を教わったのであった。

第15章 ガルガンチュワが他の教育家たちに託されたこと(ガルガンチュア、他の教師たちに託される)
 このようにガルガンチュワは先生のもとで一生懸命勉強していたのであるが、父王グラングウジェは、そのように一生懸命勉強しているにもかかわらず、あまり進歩の色が見られず、それどころか「頭が変になり、薄のろになり、すっかりぼんやりして、ぼけてしまった」(87ページ、宮下訳、128ページ、こちらは「頭が変で、まがぬけて、ぼんやりして、すっかりばかになってしまった」となっている)ことに気づいた。

 そこで心配したグラングウジェは、知り合いに相談したところ、先生も悪いし、その先生が使っている本も悪い、教え方も悪いということを知らされた。そしてその証拠が見たければ、当世の若者で、わずか2年ほど(ガルガンチュワはすでに54年ほど勉強しているのである)勉強したものを呼んで、ガルガンチュワと対決させてみればいいだろうといった。
 この提案が気に入ったグラングウジェは、知り合いが推薦してきたユーデモンという若者を召し出して、ガルガンチュワとの討論の場に立たせる。ユーデモンはまだ12歳にもならない若年であったが、臆する様子も見せず、主人の許しを得たうえで、ガルガンチュワを賞賛する演説をして、自分もまたその臣下になりたいという趣旨を堂々たるラテン語で述べた。

 一方、ガルガンチュワはうんともすんとも返答することができず、ついには泣き出してしまったので、父王はこれまでの教育が間違ってきたことをはっきりと悟り、彼に新しいやり方の教育を授けることを決心する。そして、ユーデモンの師匠であるポノクラートがこの役目を仰せつかることになり、「当世のフランスの若者たちの勉強ぶりを知るためにもと、打ち揃ってパリへ赴くことに話がまとまった」。(90ページ、宮下訳、132ページ)

 こうして、ガルガンチュワは父親の居城を離れて、パリに出かけ、新しい教育を受けることになる。だが、教育を受けるまえに、道中とパリでいくつかの事件に出会う。それがどんなものであったかは次回のお楽しみということにしよう。

E.H.カー『歴史とは何か』(20)

6月20日(木)曇りのち晴れ、その後また雲が多くなる。三ツ沢グランドの陸橋付近で富士山のシルエットが見えたが、今の季節としては珍しいことである。暑くて、考え事をするのが億劫である。

 今回も前回に引き続き、「Ⅴ 進歩としての歴史」の内容を検討していく。その前に、これまでに読んできた部分の概要をまとめておく:
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史研究は、現在を生きている歴史家と過去に起きた諸事実との絶え間のない対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人とは相互的な関係にあるから、歴史研究には現在の社会と過去の社会との対話という性格もある。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史と(自然)科学は、ともに人間とその環境に関する探究であり、仮説を立てそれをより精緻なものに更新していくという性格をもっている。超歴史的な道徳的価値は存在しないので、歴史研究に道徳的判断を持ち込むべきではない。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史研究は過去の事件がなぜ起きたかという因果関係の探求である。そしてそれはそれらの事件の連鎖が未来のどのような出来事へとつながっていくのかという問題と関連してくる。
Ⅴ 進歩としての歴史(前回までの内容)
 歴史にはある方向に向かって進む変化(進歩)があるのかないのかというのが歴史研究における問題の一つである。

Ⅴ 進歩としての歴史
生物的進化と社会的進歩
 啓蒙思想家たちは、人類を自然の一部であり、自然の法則にしたがうものと考える一方で、人類の進歩も信じていた。しかし、自然は容易に変化するものではないので、この2つの信念を両立させることは困難であった。
 ヘーゲルは自然は変化しないが、人類の歴史は進歩すると考えて啓蒙思想家たちの歴史観の直面していた壁を打ち破ろうとした。
 その後、ダーウィンの進化論が有力になり、自然も人類の社会も共に進化するということで、問題は解決したかに思われた。しかし生物の進化と社会の進歩とを同一視するのは明らかに間違いである。生物の進化の根元にあるのは遺伝の法則であり、歴史における進歩の根元にあるのは社会的な獲得であって、両者は同一のものではない。遺伝による進化は極めて長い年月を経て起きるものであるのに対し、社会の変化は人類がその経験の蓄積を通じて達成するものである。「歴史というのは、獲得された技術が世代から世代へと伝達されえて行くことを通じての進歩ということなのです。」(169ページ)

歴史の終りということ
 次に、歴史の進歩には明確な始まりや終りがあるという風に考える必要はないし、またそう考えるべきでもないとカーは論じる。進歩には終りがあるという考えは、魅力的であるかもしれないが、ヘーゲルの場合も、マルクスの場合も、(前回引き合いに出したフクヤマの場合も)、歴史そのものによって否定されてきた。むしろ歴史は自由に向かう人類の限りない歩みであるというアクトンの考えのほうに、カーは好意を寄せる。しかし、カーの意見がアクトンと違うのは、進歩の向かう先がまだ本当には見えていないところにあると考えている点である。

進歩と非連続性
 常識的に考えても、歴史的な進歩というのは「逆転も逸脱も中断もなく一直線に進んできた」(172ページ)ものではありえない。実際にこれまで起きてきた様々な文明の興亡を見ても、進歩もあるし、退歩もあったことは明らかである。進歩の仮説を引き続き持ち続けていくためには、進歩の非連続性ということを考えに入れる必要があるとカーは言う。

獲得された資産の伝達
 では、歴史的行為という点からみて、進歩の本質的な内容はなんであるのかという問いに、カーは議論を進める。市民の自由や権利の拡大、富の平等の促進といった価値の実現のための努力は、それ自体としては歴史の進歩を実現しようとするものではなく、それが歴史の進歩とどのようにつながっているのかを判断するのは歴史家の仕事であるという。(だからと言って、そのような努力の意味を否定しているわけではない。)

 歴史における進歩が先人たちの経験と知恵の継承・伝達であり、その限りにおいて、進歩とか反動とかいうことは空虚な言辞ではないという点で、カーは(これまでその意見をさんざんに批判してきた)バーリンとも意見の一致をみていると述べる。とはいえ、その進歩の内容がどのようなものであるのかに見えにくいものがあることも確かである。さらに、目に見える技術の進歩や、生活の変化に比べて、社会の制度のほうが立ち遅れているのではないかという疑問もわいてくるというのである。しかし、はっきりと目に見えるものではないが、人間は次第に、自分の可能性を少しずる広げているのではないかというのがカーの言う「進歩」の意味のようである。

 最初にも書いたが、本日は暑くて、考え事をするのには不向きである。最近、山崎雅弘『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解きかた』(集英社新書)を読み進んできて、本日、読み終わったところである。あまり面白くなかった。山崎さんの議論がつまらないというのではなくて、この本で批判を受けている歴史修正主義的文献の内容があまりにも一方的で学問的な意義が欠如しており、つまらないということである。山崎さんが対象のくだらなさはともかくとして、歴史修正主義の特徴とみられることがらについて、しっかり把握している点については評価してよいだろう。また、この『歴史とは何か』という書物の現在取り上げている部分で、「進歩」として考えられていることの文脈で、歴史修正主義の考え方を検討してみるのも意味のあることかもしれない。
 たしか、小泉信三の『読書論』(岩波新書)の中に、新しい本が出たら、古い本を読み返せと意見が紹介されていたと記憶するが、『歴史戦と思想戦』を読む一方で、ヘロドトスの『歴史』を読み返している。ヘロドトスの書物は、歴史というよりも説話ではないかという批判もあるかもしれないが、そのような説話の叙述を通じて、彼が歴史についてどのような考えをもっていたかが浮かび上がってくることも否定できない。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(4)

6月19日(水)晴れ、暑し。

 南イタリアのカラブリア地方出身の修道士であったトンマーゾ・カンパネッラが17世紀の初めに書いた『太陽の都』は、16世紀に書かれたトマス・モアの『ユートピア』、17世紀初め、カンパネッラとほぼ同時代のヴァレンティン・アンドレアエの『クリスティアノポリス』、フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』とともに近世の『ユートピア』文学を代表する作品と見なされてきた。
 この書物は、コロンブスの新世界への航海に参加した船乗りが、その後世界を一周してヨーロッパに戻り、マルタ騎士団の団員に航海の途中で彼が立ち寄った「太陽の都」について語るという対話の形で書かれているが、船乗りのほうが一方的に喋っていて、騎士団員のほうの影は薄いという印象は否定できない。
 「太陽の都」はタプロバーナ島(本来はセイロン島を指すが、カンパネッラはスマトラ島を想定しているらしい)の中にある草原の中心部の丘の上にきずかれており、それぞれ城壁をめぐらした7つの環状地帯からなる円形の都市である。丘の頂上には神殿があり、そこに神官たちが住んでいる。
 都を支配するのは「太陽」とよばれる神官君主であり、彼は形而上学者でもある。彼は「権力」、「知識」、「愛」と呼ばれる3人の高官に補佐されている。「権力」は軍事を司り、「知識」は学芸と教育を監督している。

 「神殿の外壁と、神官が説教をするとき声が散らないように垂らすカーテンには、あらゆる星が順序よく描かれており、それぞれ3行の韻文で説明されています。」(10ページ) 英訳のほうが詳しく、わかりやすい。「…3行の短い韻文によって表現された、さまざまな明るさと、それぞれ違った力を持ち動きをする星の絵があります。」 星の力というのは、(まだニュートンの出現以前の話であるから)引力ではなくて、占星術的な星の作用を示すのであろう。

 「第一の城壁の内側には、エウクレイデスやアルキメデスが書き残したものより多い数学の図式が、その定義や定理とともに描かれています。外壁には世界地図と、あらゆる地方の地図がそれぞれの慣習、風俗、法律などの説明とともに描かれているほか、各国語のアルファベットがこの都の住民のアルファベットと並べて書かれています。」(10-11ページ)
 エウクレイデスはアレクサンドリアの数学者で、ユークリッドという英語による呼び方で知られる。アルキメデスはカンパネッラの生まれ育ったカラブリアから海峡を挟んだ南イタリアのシチリア島に住んでいたヘレニズム時代のギリシア人数学者である。「各国語のアルファベット」というのは英訳では「さまざまな住民の使用しているアルファベット」となっている。同じ言語を別の文字で書くこともあるから、こちらの方が表現として適切であろう。
 
 第二の城壁の内側には鉱物が標本と絵で示され、それぞれ2行の韻文で説明されている。城壁の外側にはあらゆる種類の湖沼、海洋、河川が描かれ、葡萄酒、油、酒類の説明があって、その効果や原産地や特質が説明されている。そして年代物の酒類を入れた瓶がならんでいて、ほとんどの病気をこのなかの酒類を飲ませることで治してしまうという(結構ですねえ!)。

 第三の城壁の内側には草木、外側には魚類の絵が描かれ、また城壁の上の砦には素焼きの鉢が置かれて、そこに植物の実物が植えられている。草木も、魚類もそれらが星、金属、人体の各部分との類似について注意が払われているというあたり、占星術的、あるいは錬金術的な世界観が反映されているように思われる。

 第4の城壁の内側には鳥類、外側には爬虫類と昆虫が描かれ、それぞれの性質、大きさ、習性などが説明されている。
 第5の城壁の内側には地上の動物が描かれているが、その数の多さに驚かされるという。動物は実物大で描かれているので、城壁からはみ出て、その上の砦にまで絵が届いているものもある。城壁の外側については触れられていないが、おそらく外側にも地上の動物が描かれているものと考えられる。

 第6の城壁の内側には、すべての種類の技術とそれを発明した人、世界各地でのそのさまざまな使い方が描かれている。外側には、立法者、学問の創始者、武器の発明家のすべてが描かれている。その中には、モーゼ、オシリス、ジュピター、マーキュリー、マホメットさらにはイエス・キリストと十二使徒が描かれていた。このほか、シーザー、アレキサンダー大王、ピュロス、それにすべてのローマの偉人も描かれている。
 ここで「太陽の都」の住民たちが、ユダヤ教→キリスト教の聖者たちだけでなく、古代エジプトの神であるオシリス、ローマ(さらにはギリシア)の最高神であるジュピター(ユーピテル、ゼーウス)、ローマ神話の神々の1人であるマーキュリー(メルクリウス、ギリシア神話ではヘルメス)、イスラーム教の予言者であるマホメット(ムハンマド)、さらにシーザー(カエサル)をはじめとする古代ローマの偉人たち、マケドニアのアレキサンダー(アレクサンドロス)大王、ローマの敵対者であったエピルス国王のピュロスなど、異教に属する人々をも尊重していることが興味深い。ルネサンスは古代の発見の時代であるが、また異教の優れた部分を再評価する時代でもあったのである。

 船乗りは、「太陽の都」の住民たちが、世界の歴史についてよく知っている(現代のわれわれの目から見れば、実はまだまだ知らない部分が少なくない)ことに感心するが、住民たちは、彼らが世界の全言語を知っていること、そして全世界に使者を派遣して、すべての国民の事情を探っていることを説明した。「私はこうして、シナには我々よりも早く大砲と印刷術があったことを知りました。」(13ページ) 〔当時、ヨーロッパからアジアに派遣された宣教師たちによって、中国やインドの文化についての情報が伝えられていた。それは、ヨーロッパの人々に自分たちの文化についての再検討を迫るような内容を含んでいたのである。〕
 驚くべきことは、彼らの知識の膨大さだけでなく、その知識が子どもたちによく伝えられていることである。「また、こうしたことについての教師もいて、子供たちは10歳になるまでに絵を通じて遊びながらにすべての学問を習得してしまうのです。」(同上) 

 船乗りは次に、3人の補佐役的高官の最後の一人である「愛」について語る。「愛」は生殖について監督し、男女を立派な子どもを残すように結合させる。「彼らは、犬や馬の種族には注意するくせに、自分たちの種族の向上には全然気を使わないわれわれを笑っています。」(13ページ)というのは、トマス・モアの『ユートピア』を想起させる記述である。〔しかし、人間の種としての向上ということが旧「優生保護法」のような非人道的な施策の根拠となっていることなど、我々は必ずしもモアやカンパネッラの発想には同意できないような材料も持ち合わせているのである。〕
 「『愛』はこのほか、教育、医術、薬学、種まき、果実の収穫、家畜の飼料、食物および衣・食・性に関するあらゆることを司り、こうした技術を専門とする大勢の男女の教師を部下に持っています。」(同上)

 「太陽の都」における重要事項は、「太陽≂形而上学者」、「権力」、「知識」、「愛」の4人の協議によって決められるが、最終的な決定者は「形而上学者」であるという。
 このような意思決定は、プラトンの哲人政治に影響された考えであるともいえるし、キリスト教的な神権政治であるともいえよう。両者の結合がカンパネッラの課題であったとも思われるのである。しかし、モアの『ユートピア』を読んだ後で、カンパネッラの『太陽の都』を読むと、時計の針が逆に回ったような、ルネサンスの精神が後退したようなちょっと寒々とした印象を受ける。そのくらい、想像力が貧弱に思われるのだが、読者の皆さんはどうお考えだろうか。

『太平記』(267)

6月18日(火)朝のうちは晴れていたが、次第に雲が多くなってきた。

 康永元年(この年4月に暦応から改元、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国の宮方が敗走して天下は武家のもとに帰し、公家は衰え、朝廷の諸行事も行われない世となった。『太平記』の作者は、行われなくなった行事を列挙していて、これまで4月までの行事を見てきたが、今回は引き続いて5月から8月にかけての行事を見ていくことにする。

 五月は、
 三日、六衛府(ろくえふ)、菖蒲(あやめ)幷(なら)びに花を献(たてまつ)る。
 六衛府は広辞苑では「りくえふ」とよんでいる。左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の6つの衛府である。菖蒲は季節の花であるが、この花を献上するのは、次に出てくる上賀茂神社の競馬(くらべうま)の準備の一つである。
 四日は、走馬(はしりうま)の結番(つがい)幷びに毛色を奏す。
 五日の競馬(くらべうま)で走る馬の組み合わせと毛色を奏上するということであろう。
 五日、競馬。
 競馬は二頭(時には十頭)の馬を直線コースの馬場で勝負を争った行事である。もともと宮中の武徳殿で行われていたのが、堀河帝の寛治7年(1093)に上賀茂神社に移して行うようになった。現在は太陽暦の5月5日に行われている。後醍醐帝の前に低位にあった花園院の日記『花園天皇宸記』の正中2年正月13日(1325年1月28日)の記事として、皇位継承をめぐり持明院統と大覚寺統の両派がそれぞれ自派に有利な裁定を求めて鎌倉に使者を派遣しあっている様子について、「世に競馬と号す」とあるのはよく知られている。岩橋小弥太『花園天皇』(吉川弘文館、人物叢書)ではなぜかこのエピソードは省かれているが、それは岩橋なりの皇室への敬意の表明であろう。
 日吉の祭、小五月会(こさつきえ)、最勝経を講ず。
 小五月会は日吉大社や春日大社で5月9日に行った祭礼だそうである。

 六月には、
 内膳司(ないぜんのつかさ)忌火(いんび)の御飯を供(くう)じ、
 これは清浄な火で炊いたご飯を帝に奉る儀である。
 中務省(なかつかさしょう)、御暦(ごりゃく)を奏す。
 これは6月ではなく、11月1日に行われる行事であると岩波文庫版の脚注に記されている。次の年の暦を帝に奏する儀である。確かに6月に翌年の暦を奏上するというのは早すぎる。
 造酒司(さけのつかさ)の醴酒(ひとよざけ)を進(たてまつ)る。
 一晩で酒を造り、それを7月まで毎晩帝に差し上げるのだそうである。
 神祇官の御体(ごたい)の御卜(みうら)、
 「帝の体を卜する儀」と岩波文庫版の脚注にはあるが、これだけでは何のことかわからない。帝の健康運を占う儀式ということであろうか。
 月次(つきなみ)、
 神祇官で諸社に御幣を奉る儀、
 神今食(じんこんじき)、
 月次の後、帝が天照大神に神饌を供する儀、
 道饗(みちあえ)、
 京の辻の神を祭る儀、
 鎮火(ひしずめ)の祭。
 京の火災を防ぐ儀。
 神祇官、荒世和世(あらよにこよ)の御贖(おんあがもの)を奏す。
 除災の服を献じる儀。
 東西(やまとかわち)の文部(ふんひとべ)、祓(はら)への刀(たち)を奏し奉る。
 東西の文部は、東の史と西の史。渡来人の阿知使主(あちのおみ)、王仁の子孫で、史(ふひと)の姓(かばね)を賜って、朝廷の記録や外交文書作成に従事していた。祓は大祓(おおはらえ)で、百官の罪穢を払う。12月にも行う。6月の大祓を水無月祓という。そういえば、むかしつとめていた職場で、部局長は必ず年末にお祓いを受けてくるしきたりであったことを思い出す。

 七月は、
 朔日の告朔、
 「告朔」は正月、四月にも行われている。帝が百官の勤怠を記した文を閲覧する儀である。
 広瀬、龍田の祭に向かふべき五位の定め、
 広瀬神社、龍田神社の祭礼に派遣される勅使を五位の官人のなかから選任する。
 女官の補任帳、
 文殊会(もんじゅえ)、
 文殊菩薩を供養し、貧者救済の布施をする法会である。
 盂蘭盆(うらぼん)、
 先帝の御願寺へ送る盆供を帝が拝する儀、
 相撲の節(すまいのせち)。
 諸国の相撲人の勝負を帝が見る節会。
 その位置づけや意義は現代とは異なっているが、盂蘭盆会が行なわれていた一方で、七夕祭りがここで挙げられていないのは注目されてよいのではないか。

 八月は、
 上丁日(かみのひのとのひ)の釈奠(せきてん)、
 上丁日の釈奠は2月にも行われた。大学寮で儒教の聖人を祭る儀である。
 明くる日の内論議(うちろんぎ)、
 これは正月にも行われているが、仏法をめぐる論議である。
 官の定考(こうじょう)、
 地下官人の評定の儀、
 駒引(こまひき)、
 諸国の馬を帝が見る儀、
 八幡(やわた)の放生会(ほうじょうえ)、
 八幡は石清水八幡宮のこと。放生会は仏教の殺生戒に基づいて、捕らえられた生類を買い集めて放ちやる儀式で、陰暦8月15日に行われた石清水八幡宮の放生会は有名だったのだが、神仏分離の結果、石清水祭に形を変えたが、2004年に有志の力によって「石清水八幡宮放生大会」として神仏集合の形での祭が復元・実施されてきているそうである。
 仁王会(にんおうえ)、
 鎮護国家・天下泰平の祈願のために宮中で仁王経を講讃した法会だそうである。
 季の御読経、
 これは2月にも行われている。宮中で大般若経を転読する法会である。
 北野の祭。
 北野天満宮の例祭は現在でも8月4日に行われている。永延元年(987)に一条天皇からの勅使を迎えて以来、国家的な行事として行われていた。

 前回同様、列挙されている行事、祭礼の中には現在も続いて行われているものもあるし、そうでないものも多いが、明治維新以前の諸行事の多くが神仏習合したものであったことを知ることは、歴史的な知識として貴重なものではないかと思う。  

日記抄(6月11日~17日)

6月17日(月)晴れ

 6月11日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

6月11日
 田辺聖子さんが亡くなられたことをめぐっては、前回も書いたが、彼女の作品で一番印象に残っているのは金物問屋につとめていたころの体験に基づいているらしい『私の大阪八景』の幕切れの個所である。『朝日』では川上弘美さんと瀬戸内寂聴さんがそれぞれ追悼の言葉を述べていたが、田辺さんと仲が良かったはずの佐藤愛子さんの談話がなかったのが気になった。あるいは他紙で弔意を表明しているのかもしれないが、ちょっと不安になったことである。

6月12日
 病院で診察と栄養指導を受ける。両方とも研修のための見学者付きであった。いまは現場見学の季節なのであろうか。

 『スポーツニッポン』に栃木県の佐野市がクリケットによる町おこしを行なっているという記事が出ていた。野球の原型の一つとされるクリケットは、野球以上に「見る」よりも、自分たちで「する」ほうが楽しいスポーツではないかと思う。旧英連邦諸国、特にインドやパキスタンでは非常に人気のあるスポーツであり、世界的に見てもその競技人口には無視しがたいものがある。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
I quote others only in order the better to express myself. (from Essays)
         ――Michel Eyquem de Montaigne
(French philosopher and essayist, 1533 -92)
私が他の人たちの言葉を引用するのは、自分自身の考えをより適切に表現するためにほかならない。
「・・・私は昔から引用の多い本が好きであった。第一にそれは一冊の本をよむと何冊も本を読んだようになって”得〟な感じがしたからであろう。プリニウスの『博物誌』とか、ロバート・バートンの『憂鬱症の解剖』とか、モンテーニュの『エセー』とかの本がかもし出している重厚なムードが今なお私をとらえて離さない。」(白上謙一『ほんの話』、現代教養文庫、68‐69ページ)
 白上はさりげなく書いているが、プリニウスの『博物誌』や、バートンの『憂鬱症の解剖』を読んでいるというのはたいへんなことである。私も図書館でAnatomy of Melancholy を借りて読みかけたことがあるが、やたら古典ギリシア語の引用文が多くて、それだけで読むのをあきらめた記憶がある。

6月13日
 E.H.カーの『歴史とは何か』でバートランド・ラッセルの「強烈な階級的偏見を示す彼の唯一の言葉」(166ページ)について言及したが、ラッセルは貴族の出身ではあったが、大体において革新的な思想の持ち主であったことを前提にして理解されるべき言葉である。むかし、大学で教えていたころに、ラッセルはベトナム戦争に反対して、80歳を超えてから座り込みをして逮捕されたことがあるという話をしたところ、保健婦として勤務経験があったという女子学生がそういう人のことをもっと詳しく教えてくださいと言って来たことがある。

6月14日
 『朝日』朝刊のコラム「経済気象台」にフランスの人口学者であるエマニュエル・トッドの日本人に対して「もっと社会の秩序を緩くして、…お行儀が悪くなること」を許容しないと、人口減は解決できないだろうという意見が紹介されていた。自由と多様性の尊重が社会の中に広く行き渡らないと人口は増えないというのである。一方で、日本人のお行儀が悪くなっているという現実はあるのだが、それがまだまだ許容されていないということかもしれない。これは議論の必要のある問題ではないだろうか。

 NHK『ラジオ英会話』で深海魚の話題が出たが、番組の終わり近くでパートナーのローザ秋乃さんがチョウチンアンコウが好きだと言い出して、この魚のことを英語でanglerfish(釣り人の魚)ということを知った。

 『NHK高校講座 倫理』では「本当の自己を求めて」という題目で、実存主義について取り上げた。理性中心主義への疑問から、キルケゴール、ニーチェの思想について論じたのだが、そのように実存主義思想の内省的な側面を強調すると、サルトルやカミュの思想には続かなくなるのではないかと思った。「ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる。すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる。」(カミュ『シーシュポスの神話』、新潮文庫、24ページ)というのは、講師が展開している「本当の自己を求めて」とは別の次元の思想的営為ではないかと思う。

6月15日
 「朝日川柳」に掲載された神奈川県の和泉まさ江さんの句:
 人知れず微笑まんかな樺の忌
 樺美智子さんが生きていれば、81歳ということになる。もし、生きていれば当時を回想してどんなことを語るのだろうか、その答えを知るべくもない。
 樺さんの父親である社会学者・樺俊雄はオルテガの『大衆の反逆』を日本語に翻訳した最初の人物であった(ただしドイツ語からの翻訳)。父と娘の間でどんな対話があったのかというのも気になるところではある。

どんな可能性が広がっていたのだろうか
若者の命はどこまでも伸びていくわけではないが
それでも未知の可能性を
秘めている

深い感情には
それが探り当てた
風土があると
誰かが言った

風土は自明のものだとは
言うまい
目の前の出来事を
見逃してしまうことはあまりにも多い

だがその探り当てる
努力を 何者かが断ってしまった
死者は いつまでも 若い

 『朝日』朝刊に「漱石 若者への文学論」として、夏目漱石が雑誌記者の質問に答えて語った文学論が発見されたと報じられていた。興味深いのは、その中で、漱石がフローベールの『ボヴァリー夫人』について言及していることで、19世紀における新しい文学の流れについて、漱石がかなりしっかりとした見通しをもっていたことがわかるのではないかと思う。

 同じ『朝日』朝刊に桜庭一樹さんが「古典百名山」の一座としてスウィフトの『ガリヴァー旅行記』を取り上げていたのが興味深かった。漱石がスウィフトをよく読んでいたことは、彼の作品を見れば明らかである。しかし、スウィフトについて言いたいことは、漱石に及ぼした影響というようなことではなくて、彼が桜庭さんの言うような職業作家ではなくて、アイルランド国教会の高位聖職者であり、かつ同時代の傑出したpamphleteer(パンフレット執筆者)であったということである(この辺りの事情は中野好夫『デフォーとスウィフト』に詳しい。この本は昔持っていたのだが、古本屋に売ってしまったので、どこかでまた見つけてやろうと思っている)。ダブリンの聖パトリック大聖堂に行けばわかることだが、ガイドはスウィフトの話ばかりしている(この寺院に葬られている人物の中には、ボイル=シャルルの法則で知られるボイルもいるというのにである)。スウィフトがこの大聖堂のDeanであったのだから、当然と言えば当然なのだが、『ガリヴァー旅行記』がいかに多くの人々に読まれているかを示す証拠と言えるだろう。スウィフトは当時のアイルランドを支配していたイングランドの経済政策に反対し、その反対意見が『ガリヴァー』にも反映されているのであるが、同時に政府のアイルランド政策に反対するpamphleteeとして果敢に戦ったのであった。ただし、その反対意見が、アイルランドの民衆の意向を反映するものというよりも、そういう民衆の動きを察知して、よりよい取り組みを求める在地地主の立場を反映するものであったことも念頭に置く必要があるだろう。

 『日経』の読書欄のコラム「半歩遅れの読書術」の中で、坂井修一さんが「英語の警句にはっとする」という見出しで、
Plain women know more about men than beautiful ones do. (美人でない女のほうが、美しい女よりも、男についてよく知っている。)という加島祥造『英語名言集』(岩波ジュニア新書)に収められたキャサリン・ヘップバーンの言葉を紹介している。坂井さんがいうように、誰の言葉かという但し書きがあるとないとで説得力が違ってくる言葉ではある。
 加島祥造は大学で英語を教えながら、『荒地』に参加した詩人であり、クリスティーをはじめとする推理小説作品の翻訳者であり、晩年はタオについての本を書くなど、多彩な活動を展開した人物である。以前にも書いたことがあるが、わたしが目標としている詩人は加島と城米彦造の2人である。2人とも長生きしたので、その点も見習いたいと思っている。 

6月16日
 名古屋の伯母が亡くなったという知らせを受けた。伯父の連れ合いであるから血のつながりはないが、母の女学校時代の同級生であり、母が死んだときには電話をもらったこともあって、身近に感じられる存在であった。いよいよ身辺が寂しくなってきたという気持ちを拭い去ることはできない。

 今野紀雄『統計学 最高の教科書』(サイエンス・アイ新書)を読み終える。この度の老後2000万円問題をめぐってもいえることだが、政治家も「有識者」もあまりに統計学に無知でありすぎる。麻生さんは提言を却下することで事態を収拾するつもりらしいが、その審議会の任命責任は、誰にあるのであろうか。却下は自分自身に対する不信任である。

6月17日
 『朝日』朝刊の「天声人語」に手術の成功率99.5%という外科医の話が取り上げられていた。そのお医者さんは、自分の不手際で死なせてしまった患者の名前と、その原因についてのメモを自分の机のガラス板の下において、いつでも自戒の材料にしているということである。
 大学の教育学部で教えていたころに、教育実習生を引率して付属学校に出かけたことがあり、そこの校長先生(と言っても、同僚なのである)が、子どもに嘘を教えてはいけないと強調していたことを思い出す。患者を死なせるというのと、子どもに嘘を教えるというのでは罪の深さは違うとは思うが、教師が子どもに嘘を教えるというのは決して少ないことではない。教師も医者も、良心的に一生懸命やっていますというだけで、言い訳として通る職業ではないのである。(専門的な腕を磨かなければいけないし、集中力を切らしてもいけないということです。)
 私が生徒→学生だった頃に先生から教わったことで、今になってみると、あいつ、嘘を教えやがったと思うことは少なくないし、自分が教師として嘘や、間違ったことを教えてしまったという拭い去ることのできない記憶も一つや二つではない。それは世間一般の「常識」が誤っているからかもしれないし、時の文部科学省の責任であるかもしれないし、学校の責任であるかもしれないが、たいていは教師の不勉強あるいは不注意ゆえの落ち度である。
 しかし、もっと問題であるのは、それが再生産されることである。私がむかし教えた学生で教育実習に出かけて、間違ったことを教えているのを実習校の先生から注意されて、それでも態度を改めなかった例があったことである(これは、本人の問題としては、どこがどう間違っているのか、納得がいかなければ相手の先生と議論すべきであったし、どう贔屓目に見ても、ご本人が間違っていたことがわかっていた、その場に居合わせた私が頭を下げるべきだったと今になって思う)。その学生が今はどこかの学校の校長になっているのだから、学校教育で教師が教える(あるいは、文部科学省や学校が教えようとしていること)について、教わる側が鵜呑みにしない、批判的な見方を持つことがいかに大切かわかるだろうと思う。(ここで、大戦中に女学校・専門学校の教育を受けた田辺聖子さんの『私の大阪八景』を読むことをお勧めしたい。牧野紀之さんが『先生を選べ』という本のなかで、「学校教師の教えていることの80%は間違いである」(同書90ページ)と書いているのは、ちょっと行き過ぎかなぁと思わないでもないが、社会も学問も変化するので、学校で教わったことが間違っていたとわかることは少なくないのである。)

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(11)

6月16日(日)晴れ

 18世紀から19世紀に移り変わろうとするイングランドで暮らす、ダッシュウッド一家には3人の美しい娘がいた。長女のエリナーは19歳で、理性的で(分別)自制心がある女性であったが、次女の16歳になるマリアンは情熱的で(多感)自分の思うままにふるまうことを好んだ。エリナーは、義理の兄で利己的なジョンの妻であるファニーの弟のエドワード・フェラ―ズと親しくなる。エドワードは俗物的・拝金的なフェラ―ズ一家の中で、ただひとり、優しく知性的な人物である。一方、マリアンは近くに滞在している青年ウィロビーと親しくなる。かれは情熱的な人物で、マリアント相思相愛になったように見える。
 住み慣れたサセックス州のノーランド屋敷を、義理に兄夫婦に追い出されたダッシュウッド一家は、母親であるダッシュウッド夫人の従兄弟であるサー・ジョン・ミドルトンの世話で、デヴォン州のバートン・コテッジに住むことになったが、そこでミドルトン夫人の母親で、サー・ジョンに輪をかけて世話好きなジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と知り合う。大佐は無口で重々しい感じだが、デヴォン州で一家が知り合った中では一番立派な人物に思える。彼は過去に不幸な恋愛をしたことがあり、その時の恋人の面影を宿すマリアンに心惹かれている様子である。
 その年の晩秋に、ブランドン大佐は急用だといってロンドンに向かい、そのしばらく後に、ウィロビーもロンドンに去っていく。それと入れ替わるようにエドワードが現われるが、何か元気のない様子で落ち着かず、長く滞在することなく去っていく。ジェニングズ夫人の遠縁にあたるというアンとルーシーのスティール姉妹が、サー・ジョンに招待されて姿を現し、ルーシーはエドワードと婚約しているとエリナーに打ち明ける。エリナーはすぐには信じなかったが、それには十分な証拠があった。
 ジェニングズ夫人はエリナーとマリアンをロンドンの自分の家に招待し、ロンドンでウィロビーに会いたい一心のマリアンが承諾したため、エリナーも不承不承ロンドンに向かうことになる。しかし、マリアンはウィロビーに会うことはできず、会っても冷たい態度をとられ、自分はほかの女性と婚約しているという別れの手紙を届けられる。スティール姉妹もロンドンに到着して、ジョンとファニーたちに歓迎されるが、調子に乗ったアンがエドワードとルーシーの秘密の婚約を暴露してしまい、エドワードは母親のフェラ―ズ夫人から廃嫡されてしまう。エドワードがルーシーとの婚約を大事にして勘当になった経緯を知ったブランドン大佐は、彼に自分が地主であるドーセット州のデラフォードの教区牧師の聖職禄を提供する。こうしてエドワードとルーシーの結婚は疑いもないもののように思われた。
 復活祭が近づき、エリナーとマリアンは、ジェニングズ夫人の次女であるパーマー夫人の招待で、ジェニングズ夫人とともにサマセット州のパーマー氏の邸に滞在することになる。ブランドン大佐も一緒である。ところが、マリアンが病気にかかり、生死の境をさまようことになった。ブランドン大佐がダッシュウッド夫人を呼びにデヴォンシャーに向かうことになって出発したが、どうやらマリアンの病気は快方に向かった。そこに現れたのはウィロビーで、彼が経済的な困難から愛情のない結婚を選んでしまったが、本当に愛しているのはマリアンだけであるとエリナーに告白して去っていく。

 今回は45章から47章までを追っていくことにする。
 「ウィロビーが立ち去ったあとしばらくのあいだ、彼の馬車の音が消えたあともしばらくのあいだ、エリナーの頭にはさまざまな思いが――それぞれ異なってはいるけれど、すべて悲しみに彩られたさまざまな思いが渦巻いて、しばし妹のことさえ忘れたほどだった。」(458ページ) 
 彼の告白を聞くまで、エリナーは彼を軽蔑し、憎んでいたが、彼にも同情すべき点があり、マリアンに対する愛情が真実のものであることを知ると、その気持ちも変わっていった。
 気を取り直したエリナーは、マリアンのところに向かい、マリアンが期待通りに元気を取り戻しているのを見て安心した。そこにまた馬車のやってくる音が聞こえた。一刻も早く、マリアンの回復を知らせ、母親の不安を取り除こうと、彼女は玄関に急いだ。
 ダッシュウッド夫人は不安と恐怖の思いで到着したが、エリナーからマリアンが回復しているという知らせを聞いて、今度は喜びと幸福感で言葉をいうことができなくなり、エリナーとブランドン大佐に抱きかかえられて、客間に入り、やっと落ち着きを取り戻すと、マリアンに会いたがった。
 マリアンに会ったダッシュウッド夫人はその回復を喜んだが、娘の病状を考えて、マリアンに静かに休むように言い、エリナーに代わって自分が看護すると言い張った。エリナーは久しぶりに床についたが、これまでに起きた様々な出来事のために頭がさえてしまい、一睡もできなかった。
 マリアンはその後ますます快方に向かい、ダッシュウッド夫人はそれを喜んだが、その一方で、エドワードに対する思いで塞いでいるエリナーの様子には気づかなかった。

 ある日、エリナーと2人きりになったダッシュウッド夫人は、ブランドン大佐がマリアンを愛していると彼女に打ち明けたことをつげ、2人が結婚することになればこんなにうれしいことはないという。自分にとって好ましいことはすべて都合よく創作してしまう母親の想像力に苦笑しながらも、エリナーはこの結婚に反対ではない。しかし、まだまだ時間はかかりそうだと慎重な態度を崩さなかった。

 母親の到着から4日もたたないうちに、マリアンの病状は好転し、パーマー夫人の化粧室まで行けるようになった。そこで、彼女はブランドン大佐にこれまでの礼を言った。やせ衰えたマリアンの姿を見た大佐が、その姿の中に、彼の昔の恋人であったイライザの零落した姿を重ね合わせているのではないかと、エリナーは思った。
 さらに一日、二日すると、マリアンは十分に回復し、それを見たダッシュウッド夫人はデヴォン州の自分の家に帰ると言い出した。マリアンの様子がまだ心配なので、ブランドン大佐の馬車を借りることになり、ジェニングズ夫人と大佐を残してダッシュウッド一家はデヴォン州のバートン・コテッジに出発することになった。マリアンは、ジェニングズ夫人にたいして、これまで取っていた非礼を詫びるかのように、熱烈な感謝と心からの敬意と愛情のこもった別れの挨拶をした。
 しばらくして、ブランドン大佐もひとりで自分の邸のあるデラフォードに出発した。

 ダッシュウッド母娘は、2日間かかってバートンに戻った(39章には「長旅になるが一日で行ける距離だ」と書いてあり、病み上がりのマリアンを気づかってゆっくり旅行したことがわかる)。
 バートンに戻ったマリアンはどうしても、ウィロビーのことを思い出さないではいられない様子であったが、以前と違って自制している様子が見られた。そして彼女は昔の元気を取り戻していった。
 エリナーはウィロビーから告白された話をマリアンにいつ伝えるか思案していたが、ある天気のいい日に、2人で散歩に出かけることになり、歩きながら、マリアンが自分のこれまでの態度を反省するといったのをきっかけとして、ウィロビーの告白を伝える。マリアンは感謝して、母親にもその話をするようにと頼む。

 エリナーからウィロビーの話を聞いたダッシュウッド夫人は、ウィロビーに同情したが、ブランドン大佐の方がマリアンの結婚相手としてふさわしいという彼女の考えに変わりはなかった。
 その夜、マリアンは母と姉にウィロビーについての彼女の考えを語る。彼が自分の収入を上回るような贅沢な暮らしを続けていたことに幻滅したというのである。母親も外見だけでウィロビーを評価した軽率さを反省する。エリナーは一家の皆が自分の過去の過ちを自覚したことを喜ぶ。
 母親がマリアンの看病に出かけていた間、知り合いの家に預けられていた末娘のマーガレットが戻ってきて、一家は、規則正しく日課をこなす昔の生活に戻り始めた。

 しかし、エリナーはエドワードの消息が気になって仕方がなかった。マリアンの病気のことでジョンと手紙のやりとりをした際に、エドワードは消息不明だと書かれていただけで、他に何の情報もなかった。ところがある時、別の形でエドワードについて知ることになった。
 ある日、用事を言いつかったダッシュウッド家の下男のトマスが戻ってきて、使いの報告をした後で「フェラ―ズ様が結婚されました」という。これを聞いてマリアンは、すぐに姉の様子を見るが、姉が顔色を失ったのを見て自分も椅子に倒れ込んでしまう。ダッシュウッド夫人はどちらを先に介抱すればいいのか戸惑うが、とにかく2人はどうやら元気を回復する。
 そしてエリナーはトマスに、彼が知り得た情報について細かいことを質問しはじめる。彼が出かけたエクセターの旅館の前で馬車に乗ったルーシーを見つけ、あいさつしたところ、ダッシュウッド一家によろしくと言われたという。ミスター・ダッシュウッドの方ははっきり見えなかったという。〔このトマスの発言で、彼がルーシーをミス・スティールと呼んでいるのがちょっと気になる。この時代の習わしでは、このようにミス+ファミリー・ネームで呼ばれるのは長女だけのはずで、アンならばわかるが、ルーシーをミス・スティールと呼ぶのはおかしい。あるいは、その点にトマスという人物を登場させる際の作者の仕掛けを認めるべきなのかもしれない。トマスが報告の中で、ルーシーについて「あの方は昔からとても愛想がよくて、なんでもはっきりとおっしゃって、とても礼儀正しいお方です。」(488ページ)とか、「あの方はもともとたいへんな美人ですし、とても満ち足りたご様子でした」(490ページ)と好意的な発言をしていることも注意しておいてよい。〕

 エドワードの結婚の報せを聞いて、エリナーが憔悴してしまった様子にダッシュウッド夫人は、自分が普段は冷静な姉娘にあまり愛情を注いでこなかったことを後悔する。情熱的なマリアンの方に注意を向けるのあまり、事態の推移に冷静に耐えていたエリナーの秘めていた情熱に気づいてこなかったのである。

 この作品で残っているのは48~50章だけとなった。さて、どのような結末が姉妹を待っているのであろうか。理性的な姉と情熱的な妹という組み合わせであったのが、ずっと耐えていた理性的な姉の情熱が表に出始め、失恋を通じて成長した妹が理性的に物事を見る目を持ちはじめる。対照的な性格の姉妹が、歩み寄りはじめるということで、物語はいよいよ終幕に近づいている。
 この小説を読んでいて、登場人物の中で女性はよく描かれているが、男性については多少弱さがある、少なくともエドワードについてはもう少し掘り下げた描写が必要ではないかと思った。ブランドン大佐とウィロビーについてはそれなりに彼らの人間性や行動の理由については描かれているのだが、エドワードはどうも影が薄い。この作品ではマリアンの恋愛のほうに読者の注意が向きやすいのもそんなことが関係しているのかもしれない。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(14)

6月15日(土)雨

 1957年11月から58年3月にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア4カ国の動植物の生態、人々の生活誌に関わる調査を行った。この書物はその私的な記録である。
 今回から、この本の第7章「ゆううつよ、さようなら」(「ゆううつ」と書いて、「憂鬱」と書かないのが梅棹流である。そういえば、サガンの『悲しみよこんにちは』が出版され、日本に紹介されたのは1954年のことで、その題名が梅棹の脳裏をちらとかすめたのかもしれない)に入る。その前に、例によって、これまでの内容を紹介しておく:
 第1章 バンコクの目ざめ
 第2章 チュラ―ロコーン大学
 第3章 太平洋学術会議
 第4章 アンコール・ワットの死と生
 第5章 熱帯のクリスマス
 第6章 謙虚に学ぶべし
 この学術調査に参加したのは梅棹のほかに、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学の吉川公雄(医師でもある)、文化人類学の藤岡喜愛の5人で、チュラーロンコーン大学の動物学の先生であるクルーム教授の協力を得、彼の助手であるヌパースパットが北タイでの調査に参加することになった。また、チュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として研究を手伝うことになり、植物分類学者の津山尚が現地での参加を申し出た。
 一行はバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して、それぞれの研究発表を行い、その後、調査研究のための自動車運転の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットを訪問した。その後バンコクに戻った一行は、北タイにおける研究調査の準備を進めるが、さまざまな障害に手間取る。しかし、大使館やチュラーロンコーン大学の協力もあって、準備は整っていく。

 ゆううつよ、さようなら
 1957年12月24日、「なにがなんでも、きょうは発つ」(160ページ)と決めたその日、午前7時に出発予定が、備品の不備が見つかって、なかなか出発できない。それは解決したが、荷物の積みすぎで、ハシゴ車(川村と依田が乗車)のスプリングがのびてしまっている。自動車会社の人に聞いたところ、「そろそろ行けば、なんとかもつでしょう」ということなので、2時20分に宿舎を出発する。
 「さあ、走るのだ。『バンコクのゆううつ』よ、さようなら。いよいよこれから始まるのだ、わたしたちの仕事が。楽しい自然との語らいが。」(161ページ) トップをハシゴ車が走り、2番はJ3(一番、小型のジープ、藤岡と小川が乗車)、ラストはワゴン(梅棹と吉川が乗車)。ところが、ハシゴ車はそろそろどころか、大変なスピードを出して走っていく。ついていくのがやっとである。

 「ウワバミです」
 5時、ヒンカンの茶店で休憩をとる。ヒンカンは第4章にも登場する地名で、北タイへ向かう道路と、カンボジア方面に向かう道路とか分岐するところである。
 6時、サラブリーに到着する。ここで夕食を取り、宿を探して泊まろうかと考えていると、一行に同行しているヌパースパット君の大学時代の同級生がジープに乗って現れ、さらに北のロッブリーまで行くことを勧める。道はいいし、宿もいいのがあるというのである。日は暮れて、月は出ていない。暗闇のなかを走る。
 突然、先頭の車が止まり、依田が下りて、懐中電灯を持って辺りを調べている。事情を聞くと、大蛇が道を横断しているのを見たのだという。どうも大蛇を轢いたらしい。しかし、何も見つからない。ウワバミは逃げたようである。
 9時15分に、ロッブリーに着く。中国人の経営する宿に宿泊する。

 丘の上で歴史をながめる
 どうも荷物が重すぎるようなので、不急のものをまとめて鉄道便でバンコクに送り返す。
 「ロッブリーは、ちょっとした都会である。軍都として、最近に発展した町だということであった。」(163ページ) ウィキペディアで調べてみたところ、ロッブリーは県・郡の名前で、市街地についてはテーサバ―ムアン・ロッブリーというのだそうだ。ムアンロッブリー郡の人口は20万人を超えているというから、たしかにちょっとしたものである。

 最近発展したと書いておいて、実はロッブリーには古い歴史があることを、梅棹は付け加えている。市の真ん中には小高い丘があるが、その丘は砂岩を積んで築いた人工の丘である。丘の上には榕樹が生い茂り、その榕樹の枝にはたくさんのサルが腰かけていて、人間たちを見ている(最近では、ロッブリーはサルの町として知られるようになり、毎年11月にサル祭が開かれるそうである)。
 丘の上には寺というよりも、神殿と言ったほうがぴったりくるような建物がある。参拝人がいて、線香が立てられているが、本尊を見ていると、これは仏さまではなく、ヒンドゥーのヴィシュヌ神のように思われるという(既にもともと大乗仏教の寺院であったアンコール・ワットに、南方仏教の信者である現代のカンボジアの人々がお参りしている例を見ている)。 
 「丘の南に、巨大な石造の塔が3つ、堂々とならんでいるのが見える。クメールの遺跡である。・・・
 この町は、もともと10世紀末までは、先住民族モンの帝国の中心地だったのだ。その頃、クメール王の征服を受け、ロッブリーはクメールの町となった。クメールの都はもちろんアンコールだが、ここ、ロッブリーは、東北タイからメナム平原にかけてうちたてられたクメールの覇権の、西の拠点だったようだ。当時、タイ族はまだはるか北のかなた、雲南山地にいた。タイ族が、この地方からクメールを追っぱらうのは、ずっと時代が下って、15世紀も半ばをすぎてからである。」(164‐165ページ)

 山賊地帯
 ロッブリーからメナム(チャオプラヤー)本流に沿って北上する道路はまだ建設されていないので、一行は東の丘陵地帯の間を遠回りして北タイへの道をたどることになる。しばらくは立派な舗装道路が続いていたが、間もなく相当な悪路をゆくことになる。一行は物見高く、何か珍しいものがあるとすぐに車を停めるので、行程は一向にはかどらない。このあたりには山賊がいて、定期バスさえ、襲われることがあるという。どうも物騒な話である。

 この後、話が脱線して「全員免許証をとれ」「四度目の合格」「激突!」「午前中はハンドルを握らない」とタイに赴く以前に、隊員たちがいかにして自動車の運転免許証(それも小型車ではなく普通車の免許である)を短期に取得したか、その中で、梅棹がもっとも免許取得が遅れたこと、大阪で事故を起こし、三菱から提供された自動車を破損し、代わりの自動車の提供を受けたこと、朝が苦手の梅棹は午前中はハンドルを握らないことにしたことなどが、記されている。

 丘陵地帯の迂回路を抜けて、一行はまたチャオプラヤーの平原に出た。タクリーの町の警察の派出所で道を聞いたところ、夜道は危ない、途中で誰かが手を挙げても無視して通り過ぎるようにと注意された。やはり山賊は出るらしい。しかし、幸いに無事に通り抜けて、チャオプラヤー河を渡り、ナコーン・サワンに着いた。

 ナコーン・サワンはすでに北タイに属する町で、ピン川とナン川が合流してチャオプラヤーになる地点にあり、古くから交易の拠点として栄えたというが、そういうことは次回に詳しく書くことにする。一行が目指すのは、北タイの中心都市チェンマイであるが、そこまではまだまだ時間がかかりそうである。梅棹のタイ調査旅行はいまから60年以上昔の話であり、その頃と現在とでは、地名の呼び方が変化している例があるので、そういう点にも気をつけながら、読み進んで行くつもりである。
 私がタイに出かけたのは2003年のことで、ついこの間のことのように思っていたが、もう15年以上も昔のことになってしまった。その頃、バンコクに地下鉄は開通していなかったが、道路は非常に立派になっていた。現在では、さらにインフラは整備されてきているはずである。 
 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(3)

6月14日(金)午前中は晴れていたが、午後になって曇り空になった。

 昔々(ということにしてあるが、作者が生きていた16世紀のことと考えて構わない)、あるところに(ということにしてあるが、主な舞台は作者が暮らしていたフランスのことと考えて構わない)グラングウジェという王様がいて、陽気で、塩辛いものを肴にして葡萄酒を飲むことが好きな人物であった。彼は、ガルガメルというお妃を迎え、やがてお妃は子どもを身ごもったが、その子どもは11か月間も母親の胎内にいた挙句、母親の左の耳から生まれ出るという不思議な生まれかたをした。そして生まれてすぐに、おぎゃーおぎゃーではなくて、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」と大声で叫び、これを聞いた父親のグラングウジェは、「やれやれお前のはでっかいわい!」(Que grand tu as!)といったので、人々は、この子どもを「ガルガンチュワ」と命名しなければならないといった。
 並外れた巨大な体躯の持ち主であったガルガンチュワは、17913頭というたくさんの乳牛の乳を飲み、また葡萄酒を飲んですくすくと育っていった。(以上第10章までの大まかなあらすじ)

第11章 ガルガンチュワの幼年時代(ガルガンチュアの幼年時代)
 「ガルガンチュワが3歳から5歳になるまでは、その父親の命令通りに、あらゆる適当な規律に従って養育されたが、この時期は、その国の幼い子供たちと同じようにして送られた。つまり、飲んだり・食べたり眠ったり、食べたり・眠ったり・飲んだり、眠ったり・飲んだり・食べたりしていたことになる。」(渡辺訳、69ページ;宮下訳、99ページ)
 それだけでなく、ガルガンチュワは表に出て、ときには泥だらけになって遊んでいた。子どもの遊びの世界は大人には理解しにくいものであるが、ラブレーはそれを描き出すために、「昔から民間で用いられ、今日でもそのいくつかは通用しているような慣用句や俚諺格言の類を故意に羅列したものである」(渡辺訳:訳者略註、293ページ)という技法を使っている。また渡辺が「本章の描写は、特に、ブリューゲルの「格言」と題する群像画を思わしめる」(同上)と記しているのも注目されるところである。
 そして、人々は、ガルガンチュワが、「その国の幼い子供たちと同じように遊ぶようにと、皆は、ミルバレーの風車の翼(はね)できれいな風車の玩具を作ってさしあげた。」(渡辺訳、72ページ;宮下訳、104ページ)
 Myrbalayesを宮下さんは「ミルボー」と呼んでいる。ヴィエンヌ県のポワティエの北の方にある町で、こういうことが書かれているということは、この当時風車で有名だったようである。ラブレーが生まれたのはアンドレ≂エ≂ロワール県のシノンの北にあるラ・ドヴィニエールと推定されているというが、アンドレ≂エ≂ロワール県はヴィエンヌ県の東北に隣接している。この物語の舞台になっているのはフランスの西側のロワール川とその支流の流域の一帯であるのは、作者がこの地方になじみが深かったからであろう。

第12章 ガルガンチュワの玩具の馬(ガルガンチュワの木馬)
 人々はまた、ガルガンチュワが乗馬の名手になるようにと、見事な大木馬をつくってやったが、ガルガンチュワは喜んでその木馬に乗って遊んだのである。それだけでなく、他にも丸太棒や木材車を馬に見立てて、自分のそばにおいて寝かせていた。そこが自分の厩のつもりである。
 ある時、2人のあまり裕福でない貴族がグラングウジェを訪ねてきたが、他にもお客がたくさんいたので、馬をつなぐ厩を見つけることができず、ガルガンチュワに厩はほかにないかと聞いたところ、彼の木馬の厩につれていかれて、大笑いの仕儀となった。

第13章 尻を拭く妙法を考え出したガルガンチュワの優れた頭の働きをグラングウジェが認めたこと(グラングジェ、ある尻ふき方法を考案したガルガンチュアのすばらしいひらめきを知る)
 さて、ガルガンチュワが5歳の終わりに近づく(つまり、間もなく6歳になろうかという)頃、父親のグラングウジェはカナール人との戦争に勝利して凱旋したその足で、ガルガンチュワに会いに来た。カナール人というのは、中世伝説中に時折現れる空想国の住民である。この書物の第50章に、この国の国王が他国の領域を侵犯したので、グラングウジェが懲罰のために戦闘を開始したしだいが語られることになる。
 親子が喜びの体面をした後、盃を傾けながらよもやま話にふけったのであるが、その際に、父親は侍女たちに、自分の息子を小綺麗にまた清潔にしておいたかと、念を入れて質問したのであるが、ガルガンチュワ自身が、そういうことには特に気をつけたので、自分くらい清潔な男の子はいないと答えた。
 そして父親の質問に答えながら、自分が用便の後の様々な尻の拭き方を工夫・実験してみた次第を詳しく語り、さらに、その際の感想を韻文で表現したので、グラングウジェは自分の息子の聡明さに感心してしまった。
 この章について(特にガルガンチュワがひねり出す「詩」について)渡辺は「翻訳不能」を繰り返しながら、巧みな「戯訳」を示している。宮下は自分自身の翻訳を示しながら、先行する渡辺訳の巧みさについての解説を加えるというなかなか凝った訳業を展開しているので、ぜひ、渡辺訳と宮下訳を読み比べて楽しみながら読んでみてください。

 わが子がいかに聡明であるかを知ったグラングウジェは、早速家庭教師をやとって彼の教育に当たらせるが、その効果は…子どもらしく生き生きと遊び暮らしていたガルガンチュワがどのような生徒に変貌するかという第14章以下の内容については、次回に取り上げていくことにする。

E.H.カー『歴史とは何か』(19)

6月13日(木)晴れ、暑し。

 今回から「Ⅴ 進歩としての歴史」に入る。結論的なことを先取りして書いてしまえば、人間には未来に向かって進歩する能力が備わっているというのがカーの確信であって、だからこの章題が設けられているのである。ソ連の歴史の研究家であったカーの見解を、ソ連の崩壊後の世界に生きているわれわれがどのように見ていくかを考えながら、この章を読んでいくつもりである。が、その前に、これまでの内容をまとめておこう。
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史研究は現在を生きている歴史家と、過去の諸事実との絶え間のない対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人との関係は相互的なものであり、歴史家も特定の時代の特定の社会の一員であるから、歴史には現在の社会と過去の社会の対話という性格があることになる。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史研究は、環境と人間の関係についての探求という点で、(自然)科学と共通する性格と目的をもっている。歴史について超歴史的な道徳的な価値を持ち込んで判断してはいけない。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史研究はある事実がなぜ起きたかという因果関係の探求を忘れてはならず、その中で、さまざまな事実がどのような未来に向かって起きているものであるのかを明らかにすることが重要である。

Ⅴ 進歩としての歴史
過去に対する建設的な見解
 この章をカーは、パウィック(Frederick Maurice Powicke, 1879- 1963) がオックスフォード大学の近代史欽定講座の教授に就任した際に、もしわれわれが過去に対してある建設的な見解をもたなければ、ミスティシズムかシニシズムのどちらかに陥ってしまうだろうと語ったことから始めている。〔どうでもいいことかもしれないが、パウィックはオックスフォード大学の近代史講座の教授であった一方で、彼の本業は中世史であり、有名なラシュドールの『中世の大学』の著述における協力者でもあった。)

 この言葉をめぐり、カーは「ミスティシズム」というのは歴史の意味は歴史の外にある、神学や終末観の領域に属するものであるという考え方で、ベルジャーエフやニーバーヤトインビーのような著述家の著作を指しているのだと思われるという。翻訳者である清水幾太郎が、なぜ「ミスティシズム」という語を用い、「神秘主義」と訳さなかったのかはわからないが、終末観を神秘主義の中に含めることに抵抗があったからかもしれない。ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ(1874-1948)はロシアの哲学者(神学者、歴史哲学者、政治哲学者)で、もともとマルクス主義者であったのが、十月革命を経て反共主義に転向、パリに亡命して、神秘主義に基づいて文化や歴史を研究した。二ーバー(Reinhold Niebuhr, 1892‐1971)はアメリカの神学者で、自由主義的な立場から社会問題についての発言をつづけた。トインビー(Arnold Joseph Toynvee,1889‐1975)は英国の歴史学者で、第一次世界大戦の経験を通じて「われわれは歴史の中にある」という実感に目覚め、文明国の歴史をまとめた『歴史の研究』(1934‐61)という大著を著した。3人とも、私が学生だった頃は影響力のある思想家だったが、現在ではそれほどでもないような気がする。とにかく、ここではカーが、この3人を「ミスティシズム」とひとくくりにしていることだけに注目しておく。
 もう一つの「シニシズム」は「ミスティシズム」に比べると日本語として定着しているように思うが、「犬儒主義」とか「冷笑主義」とか訳すよりも、たしかにこちらの方がわかりやすいかもしれない。カーはこの立場を、「歴史は何の意味も持っていない、あるいはどれも甲乙のないたくさんの意味を持っている、あるいは、何でも好きな意味を歴史に与えることができるという見方」(161ページ)と説明している。
 今日における最も人気のある歴史観は、この2つであるかもしれないが、歴史研究家としてはこの2つの見解を受け入れるわけにはいかず、残るのは「過去に対する建設的な見解」ということになる。パウィックの真意はわからない(カーがこの講演を行った時点でパウィックは生存していたので、確かめることは可能だったはずであるが)ので、カーは自分なりの解釈を述べるという。

 アジアの古代文明同様、ギリシア・ローマの古典的な文明は歴史について無関心であったとカーは言う。確かに(既に述べたように)ヘロドトスはペルシア戦争の原因を探るという形で、正しい歴史研究の方向性を示したが、彼の後に続く歴史家はいなかった。トゥキュディデスは「自分が述べる事件より以前の時代には何一つ重要なことは起こらなかったし、今後もなにひとつ重要なことは起こらないであろう、と信じて」いた(162ページ)。古代の詩人たちは過去に黄金時代があり、その後の時代を経て、また未来において黄金時代が復活するという循環史観を信じていたので、過去から現在を通じて未来に至る歴史という意識はなかったとカーは論じる。以上の考えには、アジアの古代文明、例えば中国における歴史記述をどのように評価するかとか、旧約聖書の歴史記述の位置づけ(この点をめぐっては、この後の節で、カー自身が議論している)とか、あるいは古代の歴史観は循環史観ではなくて、衰退史観であったのではないかとか、いろいろな異論が提出されそうであるが、ここでは指摘だけにとどめる。
 ただ、例外をなすのはウェルギリウスであると、カーは言う。ウェルギリウスは『牧歌』第4篇では黄金時代への復帰という古典的な姿を見せているが、『アエネイス』では、循環的な見方を突き破りそうな気配を見せているという。「われ果てしなき領土を与えぬ」(163ページ)というのは、非古典的な発想で、そのために、彼はキリスト教の予言者と見なされるようになったのだという。『アエネイス』はギリシア軍によって亡ぼされたトロイアの王子であるアエネーアスが漂泊の果てにイタリア半島にたどりつき、のちにローマへと発展することになる国の礎石を築くという叙事詩であるが、その中で、ローマが帝国へと発展していく過程が予言されている。「われ果てしなき領土を与えぬ」というのは、『アエネイス』第1歌の第279行に出てくる表現で、神々の王者であるユーピテルが、自分の娘である女神ウェーヌス⦅アエネーアスの母親でもある⦆に、アエネーアスの子孫の運命として語る言葉である。世界に平和と正義をもたらすローマの使命という考えは、ウェルギリウスからダンテに引き継がれていくことになるのは、『神曲』を読めばわかることである。

歴史における進歩の概念
 歴史的な過程が進んで行く前方に一つのゴールを仮定することによって新しい要素=目的論的歴史観を導き入れたのは、『旧約聖書』であり、それを継承したキリスト教徒たちであった。(カーは「ユダヤ教徒」という表現を使っているが、旧約の民がユダヤ教という教団を形成する以前から『旧約聖書』は複数の著者によって書き進められてきたはずで、その最初から、目的論的な考えがあったわけではないことも注意しておく必要がある。)
 「こうして、歴史は意味と目的とを持つことになったのですが、その代わり、現世的性格を失うことになってしまいました。歴史のゴールに到達するというのは、おのずから、歴史の終りを意味します。すなわち、歴史そのものが弁神論になったのです。これが中世的歴史観でした。」(163ページ) 「歴史の終り」などというとフランシス・フクヤマを思い出すが、最後の審判によって神の意志が最終的に実現するというのが<歴史の終り>である。〔フランシス・フクヤマが言っている「歴史の終わり」は、冷戦が自由主義陣営の勝利によって終結したことで、社会制度の発展が終り(社会制度の最高の形態である自由な制度が世界を支配することで)、その意味での歴史が終わるというものである。しかし、最近では、彼は自説を修正しているようである。〕 
 
 ルネサンスは人間中心とか、理性優先というような古典的な見方を復興し、その一方で、ユダヤ教からキリスト教に継承された神の国の実現という未来についてのオプティミスティックな見方をとった。このため、時間についての考え方が一変して、それが親切で創造的なものと考えられるようになったという。それを示すものとして、ローマの詩人ホラチウス(ホラーティウス)の「時の流れとともに減ぜざるものあらんや」という詩句と、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)の「真理は時間の娘である」という言葉が対比されている。

 この書物の前の方でその名前をあげたモンテスキューやヴォルテールのようなフランスの啓蒙思想家たちは、合理主義者であるとともに、ユダヤ教的キリスト教的目的論は依然として保持していた。歴史はある一方に向かって前進していると考えたが、その一方でその方向に現世的な性格を与えた。「歴史は、地上における人間の状態の完成というゴールに向かう進歩である」(164ページ)と考えられるようになった。
 英国でも、ギボンは「世界の各時代は、人類の真の富、幸福、知識、美徳さえも増してきたし、今も増しつつあるという快い結論」(164ページ)を拒否していない(ギボンが『ローマ帝国衰亡史』の西ローマ帝国の滅亡について扱った第38章でこのように書いていることをめぐって、彼の真意を疑う人もいるが、カーはこれがギボンの本心から出た発言であると考えていると注記している)。
 この流れを受けて、進歩への信仰が最高潮に達したのは、英国の繁栄期においてであったとカーは論じる。(いわゆる「ホイッグ史観」と進歩への信仰の関係については、「Ⅰ 歴史家と事実」ですでに述べられている。) 19世紀の英国の歴史家たちの多くは、科学技術の無限の進歩が人類の幸福を増進すると信じてやまなかった。そういう楽観主義が第一次世界大戦によって打ち破られたのは既にみたとおりである。
 第一次世界大戦後の傾向としては、西洋の没落(シュペングラーの書物の題名)というのはなじみ深い言葉となった。バートランド・ラッセルは(でさえも、という方がいいかもしれない)「全体として、百年前に比べると、今日の世界はかなり自由が少ない」(166ページ)と発言したが、これは貴族の生まれであるラッセルの階級的偏見を映し出したものであるとカーは言う。そして文明の没落に関するすべての議論は、「昔の大学教授は女中を使い慣れていたのに、今では自分で食後の洗い物をしている、ということを意味するにすぎない。」(166ページ)という意見に賛意を表する。ある人々にとっては進歩であるものが、他の人々にとっては没落であったり、堕落であったりするかもしれない。そういうことからすると、もう少し問題を掘り下げて、納得のいく進歩についての見方を探し出す努力をすべきであろうという。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(3)

6月12日(水)曇り、夜になって雨

 南イタリアのカラブリア地方出身の修道士であったトンマーゾ・カンパネッラが書いた『太陽の都』は、トマス・モアの『ユートピア』、ヴァレンティン・アンドレアエの『クリスティアノポリス』、フランシス・ベーコンの『ニュー・アトランティス』と並び、近世ヨーロッパにおけるユートピア文学の代表作の一つと考えられてきた。
 この作品は、コロンブスの新世界への航海に参加したジェノヴァ出身の船乗りの一人が、その後、世界を一周してヨーロッパに戻り、その際に訪れた(現在のスマトラ島の中に設定されているらしい)「太陽の都」の制度について、マルタ騎士団の団員の質問に答えて語るという形で展開されている。
 語り手の一行は、航海の途中、「太陽の都」につれていかれたが、それは広い平原の中にある丘の上に建設された円形の都市であり、城壁で囲まれ、その頂上には神殿があった。

 ジェノヴァ人の話によると、神殿は完全な円形で、周囲には壁がなく、その代わりに太くて非常に美しい円柱に囲まれているという。神殿の中央には祭壇が置かれ、その祭壇には巨大な天球儀と地球儀が置かれている。また円天井には、空の主な星がすべて描かれ、それぞれ名前が記されているとともに、地上の物体との関係が3行の韻文で書かれている。天球儀と地球儀とが宇宙の仕組みと、それが地上の出来事にどのようなかかわりをもっているかについて示しているというのである。そして神殿には40人ほどの神官が住んでいるという。また屋根の上には風の方向を示す風見があって、36の風を区別することができ、それぞれの風がどのような天候をもたらすかを知らせる。また、非常に大切なことを金文字で書いた本が収納されているという。

 騎士団員は次に、この国がどのように統治されているかを説明してほしいという。
 ジェノヴァ人は、彼らには1人の神官であり君主である人物がいるが、それはヨーロッパで「形而上学者」と呼ばれる存在であるという(一種の哲人政治が考えられているらしい)。彼は「太陽」(Sole)と呼ばれている。
 彼は全市民の精神的・政治的指導者で、あらゆることがかれによって決定されるという。(つまり、独裁制である。)

 『太陽』には3人の補佐役的高官がいる。この3人は「ポン(Pon)」、「シン(Sin)」、「モル(Mor)」と呼ばれている。それぞれが「権力」(Power)、「知識」(Wisdom)、「愛」(Love)を意味している。

 「権力」は、戦争、平和、軍事一般を司り、戦時には最高権力者となるが、「太陽」を凌ぐ存在ではない。「権力」は将校、戦士、兵士、弾薬・糧秣、築城、攻略などを監督する。
 「知識」はすべての学問、文芸、工芸の博士や教師を監督し、学問と同じ数の責任者を部下に従えている。つまり、占星学者、宇宙学者、幾何学者、論理学者、修辞学者、文法学者、医学者、博物学者、道徳学者などである。「知識」はすべての学問について記したただ1冊の本をもち、これをピュタゴラスとその弟子たちのような方法で全市民に読んで聞かせる。また、城壁のない外壁全部と、砦の上にもあらゆる学問を絵で描かせている。

 ピュタゴラスはギリシアの数学者、哲学者で、南イタリアのクロトンにあったギリシア人の植民地で学園をひらいた。カンパネッラの故郷の近くであったので、カンパネッラはピュタゴラスを同郷の先人として尊敬していたようである。1冊の本にすべての知識が集約されているというのは、知の体系を閉じた、すべてを知ることが可能であると考える発想で、現代の科学観とは異なるものである。現在のようにさまざまな学問領域が提唱され、学会が乱立している状況をカンパネッラは想像していなかったと思われる。また、彼が列挙している学問領域はまだまだ中世の七自由学芸という区分を脱していないようである。

 モアの『ユートピア』と比べると、社会の現実についての観察や批判があまり見られず、理想社会の描き方も観念的で具体性に乏しいという印象をもつことは、前回にも書いたが、その代わり、カンパネッラにも独創的な発想が見られることも言っておかないと不公平であろう。彼の独創的な発想の一つである、あらゆる学問を絵で描かせて、市民にそれを知らせるというのは、今日の視聴覚教育の先駆的な発想といえよう。具体的にどのような絵が描かれているのかについては、次回に紹介することにする。また、もう1人の高官である「愛」の仕事についても次回以降に紹介することにする。

 今日は、病院に出かけたので、更新が遅れ、またみなさまのブログを訪問する時間的余裕がとれませんでした。あしからず、ご了承ください。

『太平記』(266)

6月11日(火)朝のうちは晴れていたが、次第に雲が多くなる。

 康永元年(この年4月までは暦応5年、南朝興国3年、西暦1342年)秋、四国・中国地方で抵抗していた宮方の軍勢がほとんど滅亡し、武家方の時代となったが、人々が願っていたような平和は訪れず、依然として不穏な情勢が続き、荘園からの収入が得難くなった公家は衰え、朝廷の諸行事も行われなくなった。

 衰微したとして列挙されている朝廷の諸行事のうち、前回は1月と2月の行事を紹介したので、今回はその後の月に行われていた行事を見ていくことにする。

 3月には
 3日の御燈(ごとう)
 これは帝が北斗七星に燈明を捧げる儀と岩波文庫版の脚注で説明されている。ところがWikipediaによると、捧げる対象は「北辰」であり、北辰は北極生のことを指すが、北斗七星とも混同されるという。北辰信仰はもともとは中国の民間行事であるが、仏教と結びついて日本に伝来し、仏教の行事として執り行われたようである。燈明を捧げるというのは、帝が北辰菩薩をまつる寺に行幸されて行なわれたのである。この行事は3月と9月に行われていたようである。今では廃絶しているが、民間の星まつりなどは、この影響を受けた行事だとも考えられるという。

 曲水(ごくすい)の宴、
 これは普通は「きょくすい」とよんでいる。これも中国から伝わったもので、屈曲して流れる小川の流れに盃を浮かべ、詩をつくり酒を飲む宴会であるが、日本ではわざわざ人工の川をつくって行う例が多かったようである。

 薬師寺の最勝会(さいしょうえ)
 金光明最勝王経を読誦して、教学の興隆、国家の安泰、帝の無事息災を祈って行われる法会であり、1月に宮中の大極殿で行われる御斎会(前回取り上げた)をはじめ、各寺院で行われたが、薬師寺のものは特に大規模であった。長く中絶していたが、2003(平成15)年に復活し、今日に至っている。現在では5月に行われている(暦が違うということもある)。

 石清水の臨時の祭
 石清水は石清水八幡宮のこと。「臨時の祭」であれば、年中行事の中に列挙する必要はないと思うのだが、なぜかここに記されている。

 東大寺の授戒
 この時代、僧侶になるためには三戒壇と言われる東大寺の戒壇院、筑紫・大宰府の観世音寺、下野の薬師寺で僧侶としての戒律を授けられなければならなかった。その後、そのほかにも戒壇ができた。) ここで授戒は3月の行事となっているが、現在、東大寺では6月に一般の授戒(結縁授戒)、10月に僧侶のための授戒を行なっているそうである。

 同日、鎮花(はなしずめ)の祭を行る。
 鎮花祭(ちんかさい)と呼ぶ方が一般的である。陰暦3月は落花の時期であり、それと時を合わせるかのように疫病が流行することが少なくなかったので、これを鎮めるために宮中で行疫神(ぎょうやくじん)である大神・狭井(さい)の二神を祭った神事であり、神社でも行う。大神・狭井両神社では現在は4月18日に行われている。調べてみたところでは、武蔵一宮の大宮氷川神社では4月5日、6日、7日に行われているそうである。ここで花というのは桜の花のことである。

 同日、東大寺の華厳会。
 周知のとおり、東大寺は南都六宗の一派である華厳宗の大本山であるが、この行事は現在では行われていないようである。

 4月は、朔日の告朔。
 これは1月のところですでにふれた。百官の勤怠を記した文を帝が閲覧される行事である。

 同日、掃部寮(かもんりょう)、冬の御座を徹して、夏の御座を供(くう)ず。
 これは説明の必要がないだろう。この時代の暦(陰暦)では4月から夏になる。

 主殿司(とのもつかさ)、始めて氷(ひ)を貢じ、兵衛府、御扇(みおうぎ)を進(たてまつ)る。
 これも説明の必要はなさそうである。帝のご生活も夏向きになっていくということである。

 山科、平野、松尾(まつのお)、杜本(もりもと)、当麻(たいま)、当宗(まさむね)、梅宮(うめのみや)、大神(おおみわ)の祭、広瀬、龍田の祭。
 山科神社は京都市山科区にある神社で、4月と11月の上巳に祭礼が行なわれていたそうである。
 平野神社は京都市北区にある神社で、二十二社の一社であり、4月と11月の上申の日に祭礼が行なわれていたという。現在では4月2日に1回だけ例大祭が行なわれている。
 松尾神社は全国にあるが、その総本社で、二十二社の一社である京都市西京区の松尾大社のことであろう。松尾祭はかつては3月中卯日に出御、4月上酉日に還幸ということであったのが、現在は4月から5月にかけての日曜日を選んで行われているそうである。
 杜本神社は大阪府羽曳野市と、柏原市にあるが、羽曳野市の方と考える説が有力のようである。この神社の祭礼については延喜式に記載があるというが、その後衰微したという。
 奈良県葛城市にある当麻寺は神社ではないが、4月14日に(明治期から2018年までは5月14日だった)当麻曼荼羅と中将姫に関する練供養会式が行われているそうである。
 当宗神社は、大阪府羽曳野市にある誉田(こんだ)八幡宮の境内社で、もとは独立の神社だったのが、明治時代に現在地に移ったのだそうである。誉田八幡宮は誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)のすぐ南に位置している。祭礼についてはわからない。
 梅宮神社は京都市右京区にある梅宮大社のことで、二十二社の一社であり、また橘氏の氏神としても知られる。梅宮祭は四月の上酉の日に行われていたが、現在では5月3日に行われているそうである。
 大神神社についてはすでに出てきているが、奈良県桜井市にあり、二十二社の一つであり、また大和一宮でもある由緒ある古社である。この神社のホームページを見てみたところ、大変にお祭りの多い神社であることがわかった。鎮花祭が4月18日に行われていることも確認できた。
 広瀬大社は奈良県北葛城郡河合町川合にある神社で、二十二社の一社に数えられ、大和盆地を流れる多くの川の合流点にあることから水の神として、後述の龍田大社が風の神とされるのと並んで、信仰を集めてきた。2月11日のお田植え祭が有名であるが、4月と7月にも大忌祭が行なわれているそうである。
 龍田大社は奈良県生駒市にある神社で、二十二社の一社であり、風の神とされ、古くから信仰を集めてきた。4月3日に滝祭が行なわれるそうである。
 ということで、ここまで出てきた寺や神社は、古くからの由緒があり、祭礼や行事のために朝廷から使いが派遣されることになっていた(が、戦乱のためにそれも途切れてしまったということが言いたいのであろう)。

 5日は、中務(なかつかさ)省、妃(ひ)、夫人、嬪、女御の夏の衣服の紋を申す。
 妃、夫人、嬪、女御は女官なので中務省に属すと岩波文庫版の脚注で説明されている。「夏の衣服の紋を申す」の意味がよくわからないのだが、要するに衣替えをする際に、自分の紋を申告するということであろうか。
 同日の準蔭(じゅおん)の位記。
 先祖に準じ位を賜る儀と岩波文庫版の脚注に記されている。

 7日、擬階奏す。
 地下官人の名簿を上奏する儀。
 地下というのは御所の清涼殿の南面の殿上の間に昇ることを許されない官人、家格の人々をいう。大体は5位とか、6位とかいう身分の人々であった。

 8日、灌仏。
 釈迦生誕像に香水をそそぐ法会。これは朝廷の行事ではなくなったが、寺院などで現在も行われている。そそぎかけるのは香水ではなく、甘茶に代わっている。

 10日は、女官、春夏の時の飾り物の紋を奏す。
 5日にも同じような行事があったが、こちらはその時よりも身分の低い女官たちが飾り物=衣服の文様について報告するということらしい。

 内の弓場(ゆば)の埒、
 御所の中の弓場に競馬の埒をつくる。

 斎内親王(いつきのひめみこ)の御禊(みそぎ)。
 賀茂の齋院が禊をされる。

 酉の日、賀茂の祭、
 これは現在の葵祭である。

 男女(なんにょ)の飾り馬、
 男女官人が飾り馬を見る儀。

 東大寺授戒の使い、
 東大寺の授戒は3月に行われたはずなので、ここで使いが派遣されるのは奇妙である。

 牽駒(こまひき)、
 5月の節句に供する馬を帝が見る儀。

 神衣(かんみそ)、
 伊勢神宮の神服を奉納する儀、

 三枝(さいぐさ)の祭あり。
 率川(いさがわ)神社の祭である。これはすでに出てきたが、奈良市内にある率川神社の三枝祭は国家の祭として大宝律令にも記載されているそうで、ゆりまつりとも呼ばれ、現在では6月17日に固定されているそうである。なお、率川神社では「さいくさのまつり」と呼んでいる。

 中申日(なかのさるのひ)、日吉の祭礼、二つの時は後。
 中旬の申の日に日吉大社の祭礼がある。10日間のうちに2度申の日がある場合には、後の方の日程を選ぶ。
 賀茂も同じ。
 賀茂神社の祭礼は中酉日に行われるが、同じように日程を選んでいるということである。

 前回は1,2月の行事を検討したのに続き、今回は3月と4月を検討した。現在は廃れてしまったものがある一方で、今でも続いているもの、形を変えてつづいているだけでなく、我々の身近な行事となっているものなど、いろいろであることは同じ。もう少し速度を速めたいとは思うが、なかなか思うようにいかない。とにかく数が多く、いちいち調べているだけで疲れる。すべての行事に出席されるわけではないが、勅使を派遣されるなど、それに付随する用務がある。現在とは形が違うとはいえ、帝の関わられる行事が多いのは同じであって、上皇が譲位を決意されたのも無理のない話であると、改めて思うのである。

日記抄(6月4日~10日)

6月10日(月)雨

 6月4日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 少し古い話になるが、5月6日の『ラジオ英会話』で
What does "Edomae"mean?
・・・Edo is the old name for Tokyo, and "mae" means "in front of." Basically, it refers to sushi made in the Tokyo style.
「えどまえ」とはどういうことですか?
「えど」は東京の昔の名称で、「まえ」は「なにかの前」という意味です。簡単にいえば、東京風に作られたすしのことを指しています。
 簡単に説明する場合には、これで構わないが、もともと、江戸前というのは「江戸前面の海」ということで、夏にここで取れる鰻を江戸前産として賞味したことに始まると辞書にはある。江戸前の海でとれた魚介類をネタにして握ったことから江戸前の寿司という言い方ができたのである。

6月1日
 『NHK高校講座 国語総合』では夏目漱石の「夢十夜」を取り上げた。漱石が明治41(1908)年の7月から8月にかけて『朝日新聞』に連載した作品で、朝日入社後の作品としては、『虞美人草』、『坑夫』、「文鳥」に続くものである。あまり途切れずに連続して作品を発表しているうえに、その内容・傾向も多彩で、作家としての漱石の想像力の豊かさにも感心させられる(その反面で、もっとゆっくり構想を練って作品に取り組んでほしかったという気持ちもする)。この後9月から、『三四郎』の連載が始まり、次第に彼の作風は固定していくように思われる。
 今回の放送では、第1回と第2回(6月2日)とで第1夜、第3回(6月8日)と第4回(6月9日)とで第6夜を取り上げるという。それぞれ「こんな夢を見た」という書き出しで始まる、幻想的な作品であるが、その幻想の内容も多彩で、第1夜は語り手が、死ぬ間際の女に100年待ってくれと言われて待ち続けるという話、第6夜は語り手が鎌倉時代の仏師である運慶の仁王を彫る様子を見物して、帰って来て自分も仁王を彫ろうとするが…という話である。
 放送を聞いていて、なぜか魯迅の『野草』を思い出した。魯迅は日本留学中に漱石や鷗外の作品をよく読んでいたというので、「夢十夜」も当然読んだはずである。影響関係について詳しく見てみてもいいかもしれない。

6月3日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"はエジプト(Ègypte)を取り上げた。オスマン・トルコの総督(パシャ)であったムハンマド・アリーがフランス式の行政、教育、軍隊制度を導入した。
En outre, les ingénieurs et les scientifiques qui citer par exemple, Champolion qui a déchiffr é les hiéroglyphes ou Lesseps qui a fait construire le canal de Suez.
また、ナポレオンに同行した技術者や学者たちが、この国の近代化に貢献した。例えば、ヒエログリフを解読したシャンポリオン、スエズ運河を建設したレセップスなどである。
 厳密にいうと、これは正しくない。シャンポリオンはナポレオンのエジプト遠征に同行したわけではなく、同行した技術者や学者たちが持ち帰ったロゼッタ・ストーンやその他の資料を手掛かりとして、解読に成功したのである。また、レセップスによるスエズ運河の建設はナポレオンⅢ世時代の出来事である。
 19世紀後半からは、フランスの修道会が次々にエジプト国内に学校を建設し、エジプトの指導者を養成した。当時英国の統治下にあったエジプトで、フランス語を使うことは、エジプトのエリートたちの文化的な抵抗だったのである。しかし、1956年のスエズ戦争が歴史的な断絶を呼び起こし、フランスは影響力を失い、フランス語も圧倒的に後退した。現在、フランス語話者は5万人ほどで、主に上流知識階級に限られているという。

6月4日
 ”Bienvenue dans la francophone"はマグレブ(Maghreb)諸国(チュニジアTunisie, アルジェリアAlgérie,モロッコMaroc)を取り上げた。今回は全体の概観で、次回から個々の国を取り上げることになるようだ。この地域は先住民ベルベル人(アマジグ人)が居住していたが、7世紀以降アラブ人が進出、19世紀以降はフランスの支配下に置かれ、フランス語が普及した。独立後はそれぞれアラビア語化政策が進められてきたが、フランス語は現在でも教育、ビジネス、行政などで広く用いられている。
 いまでもあるかどうかは知らないが、ロンドンにMaghreb Bookshopという書店があり、滞在中、よく通ったことを思い出す。書店主とも顔なじみになった。それでこの地域には親近感がある。その前後どちらだったかは記憶が定かではないが、ラジオで『アラビアン・ナイト』について解説する番組があり、その中で、『アラビアン・ナイト』に登場するマグレブ人には魔法使いが多く、そのことは、この地域がアラビアの人々から見ると僻遠の、得体のしれない土地であったことを反映するものだと説明されていたことを覚えている。欧米の人から見るとまた見方は違うだろうし、地理的な(また心理的な)遠近がその土地に住む人々の印象を左右するというのは、よくあることである。

6月5日
 ”Bienvenue dans la francophonie"は、マグレブ諸国の中からまずチュニジアを取り上げた。チュニジアは、古くフェニキア人が植民したカルタゴの所在地であり、古くから文明の発達した地域である。
 映画『パットン大戦車軍団』の最初の方で、カルタゴの遺跡を見て主人公のパットン(ジョージ・C・スコット)が感慨にふけっている場面があるが、現在残っている遺跡は、カルタゴの滅亡後、ローマ人が建てた市の遺跡ではないかと思う。
 チュニジアは1881年から1956年までフランスの保護領であったが、その後もフランスとこの国の関係は良好であった。しかし、2010年から2011年にかけての≪ジャスミン革命révolution de jasmin ≫(あるいはアラブの春 printemps arabe)ののち、イスラム政権が成立して、アラビア語化が進んでいるようである。
 小学校2年生からフランス語の、4年生からは英語の授業が始まり、国民1100万人のうち600万人ほどがフランス語を話すという。
 海外滞在中に近くの研究室にいたので、会えば挨拶をしたり、メールのやりとりをしたりしたチュニジア人がいたが、今は特に交流はない。もちろん、私の場合フランス語でなく、英語を使っていた。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
The man who does not read good books has no advantage over the man who can't read them.
               ――Mark Twain (U.S. writer, 1835-1910)
優れた書物を読まない人は、それらを読めない人より勝っているわけでは決してない。

 又井健太『レトロ雑貨夢見堂の事件簿』(朝日文庫)を読む。

6月6日
 『朝日』朝刊のコラム「松本佐保の地球儀志向」で松本さんは「宗教は本来排他的なものではなく、隣人を包摂する包括的なもののはずである」と論じているが、ユダヤ教のサドカイ派やファリザイ派を念頭において、隣人を愛せというイエスの言葉を想起すれば、隣人を愛せというほうがその時点において、少数派であったことがわかるはずである。隣人を愛せというのは民族宗教の中から世界宗教を志向する言葉として理解されるべきなのではないか。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の木曜日の放送は落語を基にした短い話を取り上げているが、今回は「酢豆腐」。黒門町の師匠と言われた8代目桂文楽が得意とした噺である。この番組ではこのところ、「馬のす」、「かんしゃく」など文楽が得意とした噺ばかり取り上げているが、担当者が文楽のファンなのであろうか。

6月7日
 『朝日』の「天声人語」に「ヒールの高い靴が職場で強制されるのはおかしい。そう訴える運動が広がっている」と記されていたが、6月6日付の英紙Guardianに”Japan's Women are right: high heels need kicking out of the workplace"(by Summer Brenann)(日本の女性たちは正しい:ハイヒールは職場から去ることが必要だ)という記事が掲載されていたから、日本よりも早く海外で取り上げられたことになる。

6月8日
 『朝日』の朝刊にアメリカに設置されている中国の対外宣伝・教育機関「孔子学院」がスパイ活動への懸念から次々と閉鎖されているという記事が出ていた。スパイ活動がどうのこうのということよりも、1970年代の半ばには「批林批孔」などという運動を展開し、孔子ではなく、孔丘と呼び捨てにしていたのが、中国の指導者たちは、いつどのようにして、またどのような理由で評価をあらためたのかの方が問題ではないかと、私は思う。

 同じ『朝日』の「ひもとく」の欄で<学者芸人>のサンキュータツオさんが「五代目古今亭志ん生」を取り上げていたのが面白かった。五代目の高座には2度ほど接したことがある。今村信雄が「熟柿のような」と形容したとおりの顔で、「風呂敷」を演じていたのをかすかに記憶しているが、それを聞いたころの私にこの噺の面白さが完全に理解できなかったのは致し方のないことである。
 ここで紹介されている本のなかで平岡正明が、志ん生と並び称された8代目桂文楽について、「江戸の文化や体制の崩壊」の中での「社会的弱者」を演じるのを得意としたと論じているというのが印象に残った。映画『集金旅行』を見ていて、気づいたことであるが、「女ながらもまさかの時は、主に代わりて槍を持つ」という『よかちょろ』という歌(落語の題名にもなっている)はどうも長州の歌らしく、だからこそ、その歌を歌って喜んでいる若旦那に対して、父親が腹を立てて勘当すると騒いでいるのだと思ったものである。

 NHKラジオの『朗読の時間』の土曜日の再放送で菊池寛の『満鉄外史』を聞いた。菊池寛のことだから、本当に彼が書いたのか、自分の子分に書かせたのか定かでないところがあるが、多少なりとも資料的な価値があると思うので聞くことにした。(私の伯父の一人が満鉄につとめていたこと、個人的に満鉄調査部に興味があることも手伝っている。)
 フランキー堺さんが亡くなったときに、横浜のシネマ・ジャック&ベティで特集上映をやったことがあって、その時に菊池寛と綾部健太郎(後に運輸大臣、衆議院議長)の友情物語である『末は博士か大臣か』を見たことがある。菊池の『半自叙伝』を読むと、この映画の虚実がよくわかって面白い。この映画ではまた、菊池と芥川龍之介(仲谷昇、適役であった)の友情にも焦点が当てられていた。芥川賞を創設したくらいだから、その友情は深かったのである。ちなみに初期の『サザエさん』に菊池寛が出てくるのは、長谷川町子の一家が菊池寛に恩義を感じていたからで、そのあたりの事情は彼女の『サザエさん打ち明け話』に出てくる。

6月9日
 NHKラジオの「私の日本語辞典」では富士常葉大学名誉教授の竹林征三さんが「先人が残した治水の名言に学ぶ」の第2回で、武田信玄による富士川の上流の治水について語っていたのが興味深かった。信玄が築いた堤防は中国の四川省の都江堰に学んだもので、その治水技術を伝えたのは、天竜寺の僧であったと考えられるという(信玄は臨済宗の僧侶たちと親しく交わっていた)。また越中の佐々成政が信玄をまねて、常願寺川の治水に取り組んでおり、彼が肥後に移っ手、秀吉の不興を買って切腹させられたのちに、成政の治水工事の責任者だった大木土佐守が加藤清正に仕えており、信玄と清正はこの人物を介してつながるという。2つの類似の出来事をつなぐ人物を探していく探求の方法が竹林さんの得意とするところらしいが、それですべてが語りつくせるものでもないだろう。話し方が性急で、なんでもいっぺんに話してしまおうとするのを、聞き手が一生懸命整理しているのが、別の意味で興味深かった。自分が何か話をするときにも気を付けるべきことであろう。
 
6月10日
 アンリ・ピレンヌ『中世の都市 社会経済史的試論』(講談社学術文庫)を読み終える。面白かったが、著者の意見に全面的に賛成というわけではない。他の研究者の本も読んで、考えを深めていこうと思う。

 ”Bienvenue dans la  francophonie"はアルジェリアを取り上げた。1830年から1962年までの132年間、フランスはアルジェリアを併合していた。独立直前のアルジェリアには100万人ものフランス人が移住していた。当時の現地アルジェリア人は700万人であったというから、大変な数である。独立時に本国に引き上げてきたフランス人は「ピエ・ノワール」(pieds-noires)と呼ばれている。
 独立にいたるまでの8年間の激しいアルジェリア戦争は、今も深い傷を残している。フランスとアルジェリアの外交関係は現在も疎遠で、アルジェリアはフランコフォニー国際組織にも加盟していない。 
 しかし、フランスでは移民の出身国としてアルジェリアがいちばん多く、二世、三世も多く、人的交流は盛んである。ノーベル賞作家アルベール・カミュは、フランス領アルジェリアで生まれ育った。彼の代表作『異邦人』はアルジェを舞台にした作品である。フランスで活躍するアルジェリア人も少なくない。
 アルジェリアの独立戦争は私が物心ついた後のことだったので、はっきりした記憶がある(それどころか、それ以前のインドシナ戦争についても記憶が残っている。以前にも書いたが、フランスは第二次世界大戦終了後も、ずっと戦争を続けていたのである)。『シェルブールの雨傘』など、アルジェリア戦争を遠景にしたフランス映画は少なくないし、何よりも独立戦争を描いた『アルジェの戦い』(ジッロ・ポンテコルヴォ監督)は学生時代に強い印象を受けた作品である。そういえば、マルチェロ・マストロヤンニがムルソーを演じた『異邦人』(ルキノ・ヴィスコンティ監督)も学生時代に見ている。

 いま(10日15:15)知ったのだが、作家の田辺聖子さんが亡くなられたそうだ。それほど作品を読んでいるわけではないが、読書量と言い、執筆量と言いすごい人だったと思う。ご冥福をお祈りしたい。

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(10)

6月9日(日)曇り、夜になって雨。気温が下がる。

 理性的で自制心に富む19歳の姉エリナーと、情熱的で思い通りにふるまおうとする16歳の妹マリアンの姉妹は、長く過ごしてきたサセックス州のノーランド屋敷を、義理の兄であるジョン・ダッシュウッドが相続することになったため、母親であるダッシュウッド夫人、妹のマーガレットとともに、デヴォン州のバートン・コッテジという小さな家に移り住むことになった。母親の従兄弟で、デヴォン州の地主であるサー・ジョン・ミドルトンが、一家に住まいを提供したのである。一家は、世話好きなサー・ジョン・ミドルトン、上品な暮らしぶりと自分の子どものことしか眼中にないその夫人、彼女の母親で裕福な商人の未亡人であるジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友で無口で重々しい感じだが、思慮深そうなブランドン大佐などの人々に出会う。大佐はなぜか、マリアンに心惹かれている様子である。
 ある日、マリアンは散歩に出た際ににわか雨に会い、急いで家に帰ろうとして足をくじき、近くのアレナム屋敷に滞在しているというサマセット州の地主ウィロビーに助けられる。美男で情熱的なウィロビーとマリアンとはたちまち恋仲となり、辺りを憚らない熱愛が続く。10月のある日、ブランドン大佐は急用ができたといってロンドンへと向かうが、それからしばらくして、今度はウィロビーもロンドンに向かう。
 ウィロビーと入れ替わるように、ジョンの妻ファニーの弟であるエドワードが一家を訪問する。意地悪な姉と違ってエドワードは内気だが心優しい青年であり、エリナーはエドワードに思いを寄せているのである。しかし、エドワードの彼女に対する態度はぎこちないままで、しばらくしてバートン・コッテジを去っていく。
 その後、サー・ジョン・ミドルトンの邸にジェニングズ夫人の遠縁にあたるというアンとルーシーのスティール姉妹が招かれて滞在する。ルーシーは、なぜかエリナーになれなれしく接近し、ある日、姉のアン以外のだれにも打ち明けていないが、自分とエドワードとは婚約しているのだという。エリナーは信じることができなかったが、婚約を裏付ける幾つもの証拠があった。
 翌年の1月、姉妹はジェニングズ夫人の招きで、彼女がロンドンのバークリー・ストリートに持っている家に招待される。エリナーは嫌だったのだが、ウィロビーに会いたい一心のマリアンに押し切られたのである。しかし、マリアンはウィロビーに会うことができず、やっと見かけた彼は別の女性といっしょで、やがて、自分は別の女性と結婚するという手紙をよこす。
 エリナーはファニーやその母親のフェラ―ズ夫人から、エドワードとの結婚を妨害するような嫌がらせを受けるが、やがて、エドワードがルーシーと婚約していることが発覚する。自分の息子を裕福な令嬢と結婚させ、立身出世させようとする母親が婚約の破棄を求めたのに対し、聖職についてささやかな家庭の幸せを築くことを願う息子は、婚約破棄を拒否する。それでフェラ―ズ夫人はエドワードの廃嫡を決めるが、そんな経緯に同情したブランドン大佐は、自分が推挙権をもっているデラフォードの聖職禄をエドワードに与える意向をエリナーに伝える。これでエドワードとルーシーが結婚できる条件が整った。ジョンやジェニングズ夫人はブランドン大佐がエリナーを妻に選ぼうとしていると想像しているが、大佐の気持ちが彼の過去に愛していた女性と似ているマリアンに向かっていることを知っているエリナーは、否定し続ける。ロンドンでは何も得るものがなかった姉妹は、デヴォンに帰ることにするが、マリアンの体調がよくないので、ジェニングズ夫人の次女であるパーマー夫人の招待に応じて、サマセット州のパーマー氏の邸でしばらく過ごし、そこからデヴォンに帰ることに決めた。

 今回は42章から44章までを紹介する。
 エリナーはロンドンを去る前に、もう一度だけハーリー・ストリートのジョン・ダッシュウッド家を訪問した。別れのあいさつのためである。本当は行きたくないのだが、そうするのが礼儀だから出かけるのであり、訪問される方の対応も形式的である。ジョンはエリナーに、「バートンの近くまでの長旅を、自分の出費なしで行けるなんて運がいいね。それに一両日中に、ブランドン大佐もあとからクリーヴランドへ行くそうで何よりだ」(412ページ)と自分勝手な祝福の言葉を送る。旅費の件はいくら義理の兄妹だからと言って口に出すような話題ではないし、ブランドン大佐とエリナーの関係はただの友人関係に過ぎないのだが、エリナーたちを冷遇して後ろめたい気持ちがあるジョンは、彼女の良縁によってそれが埋め合わされてほしいのである。そしてファニーは、近くにおいでの折は、いつでもお立ち寄りくださいと気のない招待の言葉を贈った(弟のエドワードの件で、すっかり元気がなくなったことも手伝っている)。ジョンはさらに、「いつでもすぐにデラフォードに行くよ」と再会の約束をした。
 エリナーは、ジョンの一家に加えて、ルーシーまでもがデラフォードに会いに来てほしいと、彼女のデラフォード行きを期待するような発言をするのをおかしく思った。彼女は、ルーシーと結婚したエドワードが住むデラフォードには足を踏み入れるつもりはなかった。

 4月初めに、ハノーヴァー・スクエアのパーマー家と、バークリー・ストリートのジェニングズ家の一行がそれぞれの家を出発、途中で合流した。一行はパーマー夫人(シャーロット)と新しく生まれた赤ん坊のことを考えて、2日かけてゆっくりと旅をした。パーマー氏とブランドン大佐は、あとから出発して、1日遅れでクリーヴランドのパーマー家に到着することにしていた。マリアンもエリナーもロンドンを離れることでほっとしていた。
 一行は、3日目の正午前にパーマー氏のクリーヴランド屋敷に到着した。
 「クリーヴランド屋敷は広々とした現代風の建物で、芝生の斜面に建っていた。パークと呼ばれるような広大な庭園はないが、ふつうの庭としてはかなり広く、同程度のお屋敷につきものの植え込みや、並木におおわれた小道がある。」(414ページ) この小説が書かれ、描き出しているのはジョージ朝時代(1714‐1830)のイングランドの社会なので、「現代風の建物」は「ジョージ朝様式の建物」と考えていいだろう。現在の英国でまだしっかり残っているレンガ造りの建物のかなりの部分がこのジョージア朝様式で建てられている。建物や庭の様子から、パーマー氏が裕福だが華美を好まず、地主として標準的な暮らしをしていたことが読み取れる。(自分で設計図を書いて喜んでいる、エドワードの弟のロバートとはかなり違う。)

 それなりにロマンティックな気分を味わえる庭に出会ったので、マリアンはすぐに散歩に出かける。そしてもどってくると、パーマー夫人たちが散歩に出かけるところだったので、さらに散歩をつづける。しかし、ディナーの後、土砂降りの雨になったので、またもや散歩に出かることはあきらめなければならなかった。
 パーマー夫人は来客たちに愛想よくふるまい、心のこもったあけっぴろげな態度も手伝ってエリナーに好印象を与えた。ただ、彼女が何にでも面白がってばか笑いをするのは気に入らなかった。
 翌日、ブランドン大佐とパーマー氏が到着し、家の中はようやくにぎやかになった。エリナーは、パーマー氏が思っていたよりも紳士的な人物であり、ジェニングズ夫人が言うほどに自分の赤ん坊に冷淡ではなく、むしろ子煩悩であることを発見したが、美食家で不規則な生活を送っていることには感心しなかった。そしてパーマー氏に比べると「エドワードの寛大な性格と、素朴な趣味と、内気さが思い出されて、その満足感に浸るのも悪くはなかった。」(417ページ) 何度か書いてきたように、パーマー氏とエドワード(とウィロビー)は25歳くらいという設定になっている。そしてパーマー氏は、フェラ―ズ夫人が息子にそうなることを望んでいる政治家なのである。それでも、エリナーは、パーマー氏よりも、エドワードの方が優れた男性だと思ってしまう。ルーシーと結婚するはずだと思っていても、やはりどこかに未練が残っているのである。

 エドワードが教区牧師として住むことになるデラフォードの牧師館の改修工事について、ブランドン大佐はエリナーにいろいろと意見を求めた。しかし、そのように親しく話しあっているときでも、大佐の視線はマリアンの方を向いていた。散歩の好きなマリアンは、夕方、急に冷え込んできたときに外に出たため、露に濡れて、しかも衣類を乾かさなかったために、風邪を引いたのである。それで、みながいろいろと治療法を試してみるように言ったが、すぐによくなるといって、耳を貸そうとせず、最後にエリナーがやっと説得して、一番簡単な治療法を一つ、二つ試しただけであった。

 しかし、マリアンの病状は回復せず、呼ばれてやってきた薬剤医師(この時代のイングランドでは、医師と薬剤師は専門医の場合を除いて兼ねられていた)のハリス氏が、悪質な風邪で伝染するかもしれないが、数日で治るだろうといったために、赤ん坊の感染を心配したパーマー夫人はパーマー氏の親戚の家に移ることになる。パーマー氏もしばらくして妻のもとに移ったが、ブランドン大佐と、ジェニングズ夫人はマリアンのためにクリーヴランド屋敷に留まることにした(邸の主人たちの方が出てしまい、お客の方が残るという不思議な事態となったのである)。
 ジェニングズ夫人は、自分がダッシュウッド姉妹を招待したのだから、母親代わりになって看病するのは当然だといい、エリナーは彼女の言葉に感激して、彼女を心から好きになった。「実際ジェニングズ夫人は、看病の疲れをエリナーと分かち合ってくれて、あらゆる場面で積極的かつ活動的に協力してくれたし、看護にかけてはエリナーより経験豊富なので、本当に大助かりだった。」(421ページ)

 いったんは快方に向かうかに見えたマリアンの病状は悪化し、熱に浮かされた様子になった。心配したエリナーは母親を呼ぼうと思い、ブランドン大佐に相談すると、彼は自分が迎えに出かけると申し出る。深夜であったが、大佐は必要な手はずを整えてバートンに向けて出発する。
 翌日もマリアンの病状は回復しなかったが、昼頃になって変化が現れ、快方に向かい始めた。午後4時にやって来たハリス氏は、彼女が予想以上に回復したと断言する。ようやく落ち着きを取り戻したエリナーは、母親がやって来るのを待ち構えていた。その夜は寒い嵐の夜となった。午後8時ごろ、エリナーは馬車が到着する音を聞いた。母親とブランドン大佐が到着するにはまだ早い時間である。不思議に思いながら、客間に入ると、そこにたっていたのはウィロビーであった。

 エリナーはウィロビーの姿を見ると驚き、すぐにその場を立ち去ろうとするが、ウィロビーがそれをさえぎる。マリアンが一命をとりとめたことを聞いて、ウィロビーは自分がダッシュウッド姉妹の考えているほどの悪党ではないことをわかってもらおうと思ってここにやって来た、自分の行為についてマリアンに許してもらいたいのだという。
 若くして経済的に自立したウィロビーは、自分よりも収入の多い仲間たちと付き合っていたために生活ぶりが派手になり、借金がかさんで、裕福な女性と結婚して生活を立て直す必要があった。そんな時に、マリアンに出会ってその魅力に負けて、彼女の幸福などは考えずに、自分の楽しみを追求しようとしてしまった。ところが、(ブランドン大佐の昔の恋人の遺児で、大佐が後見していた)イライザ・ウィリアムズを誘惑して妊娠させた上に捨てた一件が、アレナム屋敷の主人で(その遺産を相続することがウィロビーにとって生活再建のために重要である)スミス夫人に発覚し、追放されてしまった。しかし、ミス・グレイと結婚できるという見通しがあったので、彼女と結婚したのである。マリアンから逃げ回り、ミス・グレイの言うとおりに別れの手紙を書き、マリアンを苦しめてしまったことの後悔はいまでも残っている。マリアンへの自分の気持ちは真実なものであったし、これからも変わらないだろうと告白し、それを彼女に伝えてほしいという。なぜマリアンの病気を知ったのかというエリナーの問いに、サー・ジョンと偶然に出会い、彼から聞いたと告げる(本来ならば、絶好の関係なのだが、マリアンを心配するあまりにウィロビーに打ち明けたらしい)。そのことでウィロビーはますます苦しんだというのである。エリナーはウィロビーが虚栄心と浪費癖を身につけてしまったために、自分のマリアンへの愛を全うすることができなかったのだと心の中で考える。
 悔恨の気持ちを残しながら、ウィロビーは去っていく。

 次回は、45~47章、そして次々回には48~50章を紹介することになる。この連載を読んで、作品に興味を持った(これから読んでみよう)という方は、今後2回は読むのをご遠慮ください。これからの展開は、そうとう波乱に満ちていて、どうなるかを知ってしまうと、ご自分でお読みになる時の楽しみが半減どころか、ほとんどなくなるからである。したがって、もう読んだことがある方か、これからも読むつもりはないという方だけ、お読みいただければ幸いである――ということになる。

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(13)

6月8日(土)朝のうちは雨が残っていたが、その後次第に晴れ間が広がる。

 梅棹忠夫(1920‐2010)は1957年11月から1958年3月にかけて、大阪市立大学から派遣された学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア諸国を歴訪した。これはその調査旅行の私的な記録である。
 今回は前回に引き続き、第6章「謙虚に学ぶべし」の内容を追う。その前にこれまでの概要を記しておく。
 第1章 バンコクの目ざめ
 第2章 チュラーロンコーン大学
 第3章 太平洋学術会議
 第4章 アンコール・ワットの死と生
 第5章 熱帯のクリスマス
 第6章 謙虚に学ぶべし
 この調査研究に参加したのは、梅棹のほかに、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学研究の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛の5人である。1957年11月に6人全員がバンコクに集合、チュラーロンコーン大学のクルーム教授と連絡を取り、また第9回太平洋学術会議に参加して、それぞれの研究分野に関わる報告を行った。
 その後、自動車による調査旅行であるため、運転の練習を兼ねてカンボジアのアンコール・ワットを訪問する。通訳として、チュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が加わる。バンコクに戻った一行は北タイにおける動植物の生態と生活誌の研究のための準備に取り組む。太平洋学術会議に参加していたお茶の水女子大教授で、植物分類学者の津山尚が調査への研究を希望する。またクルーム教授の研究室からヌパースパット助手が参加することになる。現地の研究者や行政官たちと協力しながら研究を進めるというのがこの隊の方針である。

 謙虚に学ぶべし
 一行はタイ側の諸機関の協力を得るために全力を尽くして奮闘する。それはタイのナショナリズムへの配慮からだけではない。タイでは山林はすべて国有林である。全国の広大な森林を、全部林野庁が管理している。その許可が得られなければ、雑木1本も伐採できないのである。
 さらに、タイの大学はすでにタイの自然についての研究を蓄積している。「森林に入って、樹木を見ても、我々にはどれも見なれぬ樹種だ。タイ人の学者にたずねれば、たちまち学名を教えてくれる。わたしたちこそ、謙虚に彼らに学ばねばなるまい。」(150ページ)
 そして、チュラーロンコーン大学を通じて、林野庁に接近した。
 林野庁に協力してほしいことは、適当な林学者を一行のために派遣すること、関係ある全営林局に対して、便宜取り計らい方の公文書を発行することである。

 童顔の高官
 すでに梅棹は王宮に招待されたとき、クルーム教授から林野庁のえらい人を紹介してもらっていた。この人物が一行のために何もかも取り計らってくれることになった。「相当の年配なのだろうが、にこやかな童顔で、とても若く見えた。」(150‐151ページ)
 そのうち、林野庁から日本大使館に連絡があり、林野庁に出かけると童顔の人物と別の人物が現れ、彼とは別の人物を紹介してくれた。今度は童顔の人物に会えるのかと思って、会いに出かけると、またもや別の人物であった。とにかく、林野庁の2人はスタッフの派遣については準備してあり、公文書が発行され次第合流できるという。そのスタッフというのは植物課のテム氏で、彼はタイの森林植物のエキスパートとしてその名を知られており、心強く思ったのだが、その時点で北部のチェンマイにいてなかなかバンコクに戻ってこない。あとで彼が戻ってきて分かったのは、一行に合流すべくチェンマイで待っていたというのである。行き違いであることがわかったが、すでに彼は別の用務に着くことになっており、協力はできなくなってしまっていた。
 そうこうしているうちに、テム氏のところに、林野庁の次官が梅棹たちに会いたがっているという連絡が届く。なんだろうと思って出かけてみると、以前に出会った童顔氏が公文の紹介状の束をもって待っていた。(つまり、童顔氏は林野庁の次官だったのである。) 

 イヴァノフ氏の忠告
 バンコクにいるコン・フラン(欧米人)は独自の社会をつくっていて、大体において一行はこの人たちとは没交渉だったのだが、なぜかフランス人とは何度も接触があった。
 日本大使館の赤谷さんは、フランス大使館のペラン書記官と仲がよく、一行をごちそうしてくれたりしたが、調査計画を聞いて、大使館にいるタイ、ビルマの研究家で、特にシャン地方に詳しいというイヴァノフ氏を紹介しようといった。イヴァノフ氏はパリの東洋語学院を出たフランス外務省の職員である。

 イヴァノフ氏はペランさんから話を聞いて、わざわざ一行のところに会いにやって来た。彼は北タイからビルマのシャン州にかけて、よく歩いており、少数民族についてもよく知っていた。
 自動車を走らせることができない山地で、どのように荷物を運ぶかという問題について、彼は象を借りて使えと助言した。
 「ゾウをお使いなさい。1頭1日50バーツくらいだ。たいして高くはない。特に、ドーイ・インタノンにのぼるには、ゾウなしではとてもむつかしい」(154ページ) 
 一行は、この助言に従って、ドーイ・インタノン登山の際にゾウを借りることになるが、それはこの後の話である。ドーイ・インタノンは標高2600メートルほどの、タイの最高峰である。
 そのほか、革のくつよりも、ズックのキャラバン・シューズの方がいいとか、カレン族などの部落を訪問する際には、何かお土産物をもっていく方がいいというような実際的な助言もしてくれた。
 さらに、チェンマイにカトリックの坊さんがいて、近くの山岳地帯にいるメオ族(ミャオ族=苗族)に布教しようとしている。その坊さんに頼めば、調査のための便宜をはかってくれるだろうという。そこで、フランス大使館を訪問した一行は、その坊さん宛の紹介状を書いてもらう。

 盗難事件
 ある日の早朝、撮影に出かけようとした川村がちょっと目を離したすきに岩波映画から借りてきた16ミリの映画撮影機と露出計とフィルムを盗まれた。朝の苦手な梅棹は、早くから起こされて、そのことでも不機嫌になる。撮影機がなくては困るので、川村は借金をして安い撮影機を買うことにした。

 警察とテレビ
 とにかく、大使館に連絡をして、それからタイの警察にも届け出をした。市民に協力をよびかけようというので、あれこれ交渉した結果、タイ・テレビが「日本の科学者たちの盗難事件」についてのニュースを流してくれた。機材が見つかるかどうかはわからない(下巻で、機材が発見され、犯人が捕まったしだいが語られる)。ゆううつだが、とにかく北に向けて出発しなければ、調査を始めることができない。

 次回、一行はいよいよバンコクを出発して、チェンマイに向かうことになる。[第7章 ゆううつよ、さようなら」の旅が始まる。 

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(2)

6月7日(金)曇りのち雨

 作者は昔の話だととぼけているし、架空の国で起きた出来事のように取り繕ってはいるが、物語が展開するのは16世紀のフランスだと思ってまず間違いない。前回を書き終えた後で探してみたら、宮下志朗さんの翻訳も出てきたので、適宜参照する。またGarnier-Flammarionから出たフランス語版も手元にあるので、私のフランス語力で分かる限り利用していく。主人公の名前を、渡辺一夫が「ガルガンチュワ」、宮下志朗さんが「ガルガンチュア」としていることなど、細かいちがいに注意しながら、話をすすめていこうと思う。

 とある国に、グラングウジェという王様がいて、その若いころには陽気で血気盛ん、酒(ワイン)好きであった。また酒にはこれがいちばんというわけで、塩辛いものが大好きでもあった。だから塩豚や燻製の牛の舌、腸詰(ソーセージ)などたくさん貯え、自分で楽しむとともに、領民たちにもふるまっていた。
 元気はつらつ、精気に満ち満ちていた自分に蝶々国からガルガメルという美しい姫君を迎え、喜び勇んで夜のつとめに励んだ結果、ガルガメルは子どもを懐妊することになったが、その子どもは母の胎内に11か月もの長きにわたって留まっていた。(以上第3章までのあらすじ)

第4章 ガルガンチュワを胎に宿したガルガメルが臓物料理を鱈腹喰ったこと(宮下訳では:ガルガンチュアを妊娠したガルガメルが、トリップをたっぷり食べたこと)
 グラングウジェのもっている牧場の牛たちが、丸々と太ったころ合いを見て屠り、謝肉祭の最終日に間に合うように塩漬けにして、牛腸料理を食べながら酒を飲む大宴会を開くことになった。とにかく、料理の量が多いので、近くの村々から大勢の酒飲みたちを集めて大盤振る舞いをしたのである。
 グラングウジェは、大勢の人々が集まったのに喜んだが、妻のガルガメルには臓物料理は体によくないから、ほどほどにするようにしろと言い渡した。しかし、ガルガメルはその戒めもなんのその、臓物料理を大量に食べまくった。
 「食後、一同は打ち連れて柳が原に赴いたが、そこの茂った草原で、楽しい銀笛(フラジョレ)や穏かな風笛(コルズミューズ)の音に合わせて、心も軽く舞い踊ったのであり、一同がこのようにして打ち興ずる有様は、天来の慰楽と思われたしだいだった。」(39ページ、宮下訳では53ページ)
 ここで銀笛と訳されているflageolletz(flageolet)はフルート族の木管楽器だそうで、Sir Thomas Urquhurt & Pierre Motteuxの英訳ではthe merry Flutesとなっている。なお、宮下訳では「フラジョレット」である。風笛と訳されているcornemuseはバグパイプの一種で、宮下訳では「バグパイプ」、Uruquhurst & Motteuxの英訳でもpleasant Bagpipesとなっている。ただフルートとバグパイプと訳してしまうと、ちょっと時代の色が薄れるような気もする。
 ここは(国は違うが)ほぼ同時代のピーター・ブリューゲル(父)の農民が踊っている絵を思い出しながら読んでほしいところである。

第5章 酔っ払いが管を捲く(酔っぱらいたちの会話)
 「それから一同は、そこで、小昼餉(おやつ)を食べながら打ち語らい始めた。さて、酒徳利がすいと通り、燻塩豚(ハム)がちょこちょこと走りまわり、盃がぴょいぴょい飛び歩き、酒壺がちんかんと鳴り始めた。」(渡辺訳、39ページ)
 「それからみんなは衆議一決、この場所で、軽くなにか食べることにした。
 それでもって酒びんが歩き、ハムが小走りし、グラスが飛びまわり、カラフがちんちんと鳴り始めたのである。」(宮下訳、54ページ)
 このあたりのラブレーの表現力は見事としか言いようがない。上記Uruquhurst & Motteuxの英訳では、原文にはないような表現まで悪乗りして付け加えている。
 この後の酔っぱらいたちの会話は、翻訳では区切って示されているが、原典では改行もなくベタで組まれているそうで、たしかに誰が何を言ったのかわからないようになっている方が酒席の会話らしい。(Garnier-Flammarion社の版では、改行されている。) 昔のフランス語と、ラテン語が入り混じり、さまざまな職業の人々がそれぞれうんちくを傾けたり、言葉遊びをしたりする訳しにくい会話で、渡辺は「本章は性質上、ほとんど翻訳不可能と思われたが、敢えて試訳してみた」(273ページ、訳者略註)と書いているとおりである。それで、会話を切るとることはいっそう難しいので、興味のある方は、ご自分でお読みくださいということにして、先へ進むことにする。

第6章 ガルガンチュワが奇怪至極(きっかいしごく)な誕生をしたこと(ガルガンチュアがとても変な生まれかたをしたこと)
 こうして一同が他愛のない話に打ち興じていると、ガルガメルの下腹が痛み出したので、グラングウジェは陣痛だと思い、優しく妻を慰めて、赤ちゃんが生まれてくるまではしっかりしていないといけないと言い聞かせた。苦しむのは一時だけのことだ、聖書にも「女、産まんとする時憂いあり、その期至るによりてなり。子を産みて後は苦痛を覚えず」(47ページ)とある。ガルガメルはこの言葉に慰められるが、グラングウジェが調子に乗って、この子を産んだ後でもう一人子どもをつくろうといったので、ガルガメルは私がいま、苦しんでいるのにそんなことを言うなんて薄情だとつむじを曲げる。
 いよいよ陣痛がひどくなり、産婆さんがやって来て薬を処方したのだが、その結果、子どもは出るべきところから出られなくなり、母親の左の耳から出てきておぎゃー、おぎゃーではなく、「のみたーい! のみたーい! のみたーい!」(50ページ)≪A boire! a boire! a boire!≫(p.65) と叫んだ。あたかも、周囲の人々に飲酒を勧めるような産声であったという。
 そんな生まれかたをする赤ん坊の例があるかと、異議を唱える人がいるかもしれないが、そういう人は大プリニウスの『博物誌』を読みなさいと、作者は居直っている。(ガルガンチュワが奇怪な生まれかたをした経緯について作者はかなり詳しく書いているが、詳しいことをお知りになりたい方は渡辺訳か、宮下訳の当該箇所を御覧くださいと書いておく。)

第7章 ガルガンチュワに名前がつけられたこと、また彼が葡萄酒を飲んだこと(ガルガンチュアの命名の由来、ならびに彼がワインを飲んだこと)
 父親のグラングウジェは、他の連中と酒を飲んだり冗談をいったりしてふざけていたが、自分の息子が「のみたーい!」と大きな異例の産声を上げるのを聞いて、「やれやれお前のはでっかいわい!」≪Que grand tu as!≫  (補っていえば、「おまえの喉は」ということである)と言った。これを聞いた周囲の人々は、父親がその子どもの誕生を知って発した最初の言葉がこういう言葉である以上、古代ヘブライ人の例に倣って、その子にガルガンチュワGargantuaと命名すべきであると主張した。この名前をグラングウジェも、ガルガメルも大いに気に入り、二人は赤ん坊をあやすためにぐびリぐびりと葡萄酒を飲ませ、それから赤ん坊を洗礼泉に連れて行って、よいキリスト信者の習慣通りに、洗礼を受けさせた。
 巨大な赤ん坊であるガルガンチュワに授乳する乳母を探し出すことは無理に思われたので、17913頭の牝牛があてがわれることになった。こうして彼が生まれて1年10か月ほどになると、外へ連れ出すことになり、1台の美しい牛車が作られ、ガルガンチュワはこの車に乗ってあちこち行き来することになった。牛乳だけではなく、葡萄酒も飲んだが、その飲み方は年齢にかかわらず堂に入ったものであったという。

第8章 ガルガンチュワに、いかなる衣装を着せたか(ガルガンチュアの衣装)
 外に出るようになったガルガンチュワのために、父親は白と青を当色(とうじき)としたさまざまな衣装をつくってやった。赤ん坊とはいえ、巨大な体躯の持ち主だったので、そうとうな量の布や毛皮が使われた。

第9章 ガルガンチュワの当色紋所(ガルガンチュアの当色)
 ここで作者は、グラングウジェが「神々しい歓喜」という意味を込めて、白と青という2つの色を選んだということをめぐり、長広舌をふるう(エラスムスの『痴愚神礼賛』のような<練習弁論>の模作であろうかと、宮下さんは述べている)。

第10章 白い色と青い色とは何を意味するか(白い色と青い色とは、はたして何を意味するのか)
 前章の議論の続きを長々と述べた挙句、青い色は空の色であるがゆえに神々しい物象を表わし、白い色は歓喜と快楽とを表わすのだと締めくくる。青はともかく、白の方の説明が不十分であるようにも思われるが、そんなことは物語の展開とは関係がないということであろう。

 こうして、ガルガンチュワが生まれ、すくすくと育っていった。次回は第11章「ガルガンチュワの幼年時代」から、その異色の育ち方を語ることにしよう。ある部分は詳しく紹介し、別の部分はきわめて荒っぽく取り上げるという気まぐれな紹介・解説をしているが、今後もこの調子で話をすすめていくつもりなので、御承知おきください。 

E.H.カー『歴史とは何か』(18)

6月6日(木)晴れ、暑し。

 今回も前回に引き続き、「Ⅴ 歴史における因果関係」についてのカーの議論をたどる。これまでの彼の議論を大ざっぱに示すと、次のようになる。

Ⅰ 歴史家と事実
 歴史研究は現在を生きている歴史家と、過去の諸事実との絶え間のない対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人との関係は相互的なものであり、歴史家もそのような個人であるから、歴史は現在の社会と過去の社会との対話ということになる。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史研究においては過去の諸事実の中から問題を見つけ出し、そのよりよい解決を見出していくという作業が続けられており、それは科学研究の手続きと同じ性質をもつものである。そのような研究の中に、超歴史的な道徳的価値による判断を持ち込むべきではない。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史上の様々な出来事にはそれぞれの原因があると考えられるが、その原因は1つの限定されるものでなく、歴史家は一方で様々な原因を探し出し、他方でその中でどれが重要なのかを考える二重の作業に従事しなければならない。

Ⅳ 歴史における因果関係(続き)
歴史における偶然とは何か
 歴史的な出来事の原因と結果を探す作業を続ける歴史家たちに対し、個々人の自由意志や偶然の働きを重視する歴史家たちの意見を取り上げ、それを批判した後に、カーは話題を転じて、歴史における偶然の役割についての最近の議論をまとめてみようという。
 最近と言いながら、カーが2人の古代の歴史家を取り上げているのは奇妙である。まず取り上げられているのは、ギリシア生まれでローマで著作活動を行ったポリビオス(またはポリュビオス、Πολυβιος,Polybius, 204? - 125?)である。彼はマケドニア戦争に従軍してローマの捕虜となったが、連れていかれたローマでは小スキピオの家庭教師として優遇され、ローマがなぜ強大な国家となったかを論じた『歴史』という書物を著した。百科事典類にはこのように説明されているので、次の記述とどうもつじつまが合わない。
 それは、歴史上偶然の問題を初めて体系的に論じたのはポリビオスであるが、なぜこのようなことになったのかについての背後の理由を見破ったのはギボンであるという指摘である。「ギリシア人は、自分の国が衰微して一地方になってしまった時、ローマの勝利を共和国の長所のせいとは見ずに、その幸運のせいと見た。」(146ページ) これはギボンの『ローマ帝国衰亡史』の第38章からの引用だとされているが、私が探した限りで、第38章(西ローマ帝国滅亡後の5世紀から6世紀にかけてのガリア(フランス)、ヒスパニア(スペイン)、ブリタニア(イングランド)の状況を記している)には、ポリビオスへの言及はないように思う。ここはポリビオスが悪いのか、ギボンが悪いのか、カーが悪いのか、清水幾太郎が悪いのか、わからないので、すっきりしないけれども、意味不明な個所として今後の研究課題としておく。
 次にカーはタキトゥスを取り上げ、彼も「自国没落の時代の歴史家でありましたが、チャンスについて長々と述べ立てた古代第二の歴史家でありました」(同上)という。タキトゥス(Publius Cornelius Tacitus,56?‐120)はクラウディウス帝時代に生まれ、五賢帝の3人目であるハドリアヌス帝の時代に死んでいるので、彼の著作にローマ帝国衰亡を憂い、共和国時代の気風の回復を希求する気持ちが満ちているとはいえ、「自国没落の時代の歴史家」であったというのが正当な評価であるかどうかは意見の分かれるところであろう。タキトゥスの著作の一部、特に『ゲルマーニア』はラテン語と日本語の対訳でも読んでいるが、全体としての彼の著作の基調がどのようなものかはわからないので、この点についてもすっきりしない点が残る。

 歴史における偶然性の問題を強調する傾向は第一次世界大戦後に強くなったとカーは述べている(第二次世界大戦後はさらに強くなったということでもある)。ここでカーがフランスにおける実存主義的な歴史哲学の傾向について述べている一方で、アナール学派のような歴史研究上の動きについては触れていないのが気になるところではある。
 いずれにせよ、「歴史的事件の絶頂でなく、その谷底を進んで行く集団や国民にあっては、歴史におけるチャンスや偶然を強調する理論が優勢になるものです。試験の成績なんか宝籤のようなものさ、という見解は、いつも劣等生諸君の間で人気を博するものであります」(147‐148ページ)とカーは言う。これは嫌味に聞こえる。

 歴史における偶然性の強調に対し、歴史的な出来事を貫く法則性の意義を擁護しようとした最初の人物はモンテスキューであったのではないかとカーは言う。この章の最初の方で、歴史における原因・因果関係の追究の意義について説いた最初の人物がモンテスキューであったことに触れていたのはご記憶であろう。モンテスキューは歴史における偶然の出来事を認めながらも、それ以上に大きな法則が作用していると論じ、同じことをもう少し複雑な言い方でマルクスも述べているという。
 その一方で、我々が偶然だと思っている出来事は、実はその背景についてわれわれが無智なだけであって、実は我々がまだ知らないような法則に支配されて起きているという意見もある。しかし、カーは、歴史における偶然の問題は、もう少し別の考え方をすることによって解決されるのだと述べている。その考え方とはどういうものか。

ロビンソンの死
 「歴史は、歴史家による事実の選択ならびに整理を俟って初めて歴史的事実になる」(151ページ)ということをカーは、これまでも繰り返し述べてきたという。ある出来事が歴史家によってその意義を認められれば、それは歴史的事実に昇格するということを理解すべきだというのである。歴史家が事実だけでなく、その原因を掘り起こ僧とする場合にも、同じようなことがいえる。「歴史家と原因との関係は、歴史家と事実との関係と同じ二重の相互的性格を帯びて」(151ページ)いるという。「原因が歴史的過程に対する歴史家の解釈を決定すると同時に、歴史家の解釈が原因の選択と整理とを決定」(同上)するというのである。
 ジョンソンという人物が酔っ払い運転の結果、煙草を買うために道路を横切ろうとしたロビンソンという人物をひき殺したという事件については、さまざまな説明がなされうるが、それが偶然の結果で無意味だということにはならないとカーは論じている。

現実的なものと合理的なもの
 したがって、歴史とは「歴史的意味という点から見た選択の過程」(153ページ)であるとカーは論じる。歴史家の仕事は歴史的な諸事実の中から、どのような因果関係を選び出すかということに他ならないというのである。
 原因には合理的原因と偶然的な原因とがあるとカーはいう。合理的な原因は歴史的に一般化できるが、偶然的原因は一般化できない。そのような合理的な原因の探求こそが歴史家の仕事である。さらにまた、歴史的な因果関係をめぐる議論の鍵になるのは、目的という観念であるという。そして目的は特定の価値と結びつく。歴史は、過去から続いている伝統を未来に伝えていく作業であり、その選択を決定の基準が価値であるという。問題は歴史はどのような価値を実現する方向に向かっているのかということになり、それが次に取り上げる問題であるという。

 暑さで作業が難航し、原稿をまとめることで精いっぱいだったので、皆様のブログを訪問できません。今夜はゆっくり休むことにします。皆様もお気をつけてお過ごしください。

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』(2)

6月5日(水)曇り、午後になって晴れ間が広がる。

 『太陽の都』(イタリア語 La Città del Sole, ラテン語 Civitas solis)は南イタリアのカラブリア出身のドメニコ会士トンマーゾ・カンパネッラ(Tommaso Campanella)がその感覚論的な思想と、南イタリアのスペインからの独立を目指す政治的な運動へのかかわりから逮捕され、獄中で書いた理想社会の素描である。最初、イタリア語で書かれ、後にラテン語でまとめられた。坂本鉄男と近藤恒一によって日本語訳が公刊されているが、近藤訳が手元にないので、坂本訳(現代思潮社、1967)を使用し、プロジェクト・グーテンベルクに収められている英訳(The City of the Sun)を適宜参照しながら、紹介を進めていく。
 この作品は世界一周の航海から戻ってきた「コロンブスの航海長をつとめたジェノヴァ人」を客に迎えて、「マルタ騎士団の修道士」(修道士というよりも「騎士」という方がふさわしいと思う)が、ジェノヴァ人がその航海の中で立ち寄った「太陽の都」についての話を聞き出そうとするという対話形式で進められている。航海の途中で起きた「太陽の都」訪問以外の出来事についてはすでに話が終わっているという設定である。
 ジェノヴァ人はタプロバーナ島(本来、この名称はセイロン島を指すものであるが、カンパネッラはスマトラ島と取り違えているというのが定説のようである)に漂着し、島の中の大平原にたどりついたが、そこで大勢の武装した男女に出会い、彼らによって「太陽の都」につれていかれる。〔細かいことかもしれないが、英訳ではa large crowd of men and armed womenとなっており、そのまま訳せば、「大勢の男たちと、武装した女たち」ということになる。アマゾネスのような存在を考えればよいのだろうか?〕(以上前回までのあらまし)

 ジェノヴァ人の語るところでは、広い平原の中に一つの丘があり、都の大部分はその丘の上に建てられている。とはいえ、都市の周囲を囲んで幾重にも建設されている城壁は、丘のふもとの外遠くまで広がっている。都市の直径は2マイル以上で、周囲は7マイルある。丘の斜面に建てられているので、平地よりもずっと多くの家が建っているという。〔都市の規模として小さいようでもあるが、これをカンパネッラの想像力の欠如によるものと考えるか、それとも小規模な都市こそが理想であると考えていたのかは議論の分かれるところであろう。どちらにしても、島国として構想されているモアの『ユートピア』に比べると、平原上の都市というのはスケールが小さく、『ユートピア』が複数の都市と農村おを含んでいたのに対し、こちらは単一の都市だけから成り立っているというのも特徴的に思われる。〕

 都市はそれぞれ違った惑星の名前が付いた非常に大きな7つの環状地帯からできている。〔7つの惑星というのは、五大惑星(水星、金星、火星、木星、土星)と太陽と月と考えられるが、後にガリレイを支持したことでも知られるカンパネッラのことなので、すでに地球が惑星であると考えていたために、わざと、ぼかした言い方をしているのかもしれない。とにかく、「太陽の都」が円形をしていて、同心円状に建設された城壁で囲まれているということがわかる。なお、この後でドイツ人のアンドレアエによって書かれた『クリスティアノポリス』の都市も、幾重にもめぐらされた城壁で囲まれているが、円形ではなく四角形で設計されている。〕
 なお、坂本は「七つの大城壁に囲まれている町」の話は、ヘーロドトスの『歴史』にも出てくるが、 の書いた大モゴールが占領したインド北西の都市カンパネルの記述に、この町が7つの城壁に囲まれているとあるのが直接的には影響を及ぼしていると考えられると注記している。またダンテの『神曲 地獄篇』第4歌106‐7行目に「われらは一つの高貴な城の傍らに着けり。城は高き城壁にて七重に囲まれ」とあるのもカンパネッラは読んでいたであろうという(なお、ここに示されたダンテの訳文は山川訳とは一致しないので、坂本が独自に手掛けたものであろう)。
 私の知る限りでローマと、リスボンとエディンバラが「七つの丘」からなる都市といわれるが、実際にはもっと多くの丘があるようである(エディンバラしか行ったことがないので、はっきりしたことはわからない)。古代ギリシアのポリスの一つであったテーバイには7つの門があったといわれるし、7つのなんとかを備えた都市というのは少なくないようである。

 7つの環状地帯を往来するために、東西南北4本の道路と4つの門がある。城壁が幾重にもめぐらされているので、この町を攻略することはきわめて困難である。しかも城壁はきわめて堅固で、砦、塔、大砲を備え、外側には濠をめぐらしているから、一ばん外の城壁を突破することすらできないのではないかと思われるという。〔ユートピアの住民たちが、できるだけ戦争を避けているのに対し、こちらは防衛のためとはいえ、かなり戦闘的である。〕
 環状地帯のおのおのには立派な建物が環状に連なっていて、その上には僧院の柱廊に似た円柱が並び、その上にまた小さな砦が作られている。こうして一つ一つの環状地帯と城壁を通って行くと、丘の頂上は平地になっていて、その真ん中に大きなすばらしい神殿(英訳ではtemple)が建っているという。

 次回は、神殿の様子についてのジェノヴァ人の話を取り上げることになる。トマス・モアの『ユートピア』は現実のイングランド(とウェールズ)の社会を下敷きにし、また風刺して描き出されているからそれなりの現実感をもって読むことができるのだが、『太陽の都』はきわめて理念的・抽象的に描き出されているように感じられる。さて、これからどうなるか。 

『太平記』(265)

6月4日(火)晴れたり曇ったり。

 今回から第25巻に入る。第24巻で、伊予の宮方の勢力の要請を受け、吉野から新田義貞の弟である脇屋義助が下向、一時、宮方の勢いが増すが、その義助が急死、その機を逃さず足利方の四国の大将軍である細川頼春が伊予に攻め込み、河江城、世田城を攻略、伊予における宮方の守護であった新田一族の金谷経氏も戦死して、四国では足利方の優位が固まった。

 年号は暦応から康永と改まった(南朝興国3年、西暦1342年)その秋、四国・中国で一時勢いをふるった宮方の軍勢の鎮圧され、足利幕府の勢威が、京都の市内に行き渡り、地方の国衙(国府の公領)や荘園も本来の領主である公家の手許に戻り、国の税と年貢の輸送も滞ることなく行われるだろうと、都の人々はほっとしたり喜んだりしていたのであるが、実際には運送の途中での略奪は止まず、領主の荘園支配は復活せず、天下はただ武士だけが幅を利かせている状態が続いたので、都の人々はこれからの暮らしも大変だと思わざるを得なかった。

 そもそも天子は、国内のすべての政治を取り仕切り、全土を支配される存在であると『太平記』の作者は言い、本来の太平の御代であれば、天子が行なうべき年中行事を列挙する。〔このあたりに『太平記』の作者の保守的なものの考え方がよく出ていると思うし、列挙された中には、現在では廃れてしまったものもある一方で、現在の宮中どころか、一般家庭でも行われているものもあるので、一つ一つ、丁寧に紹介してみることにしたい。〕

 先づ正月は、平旦の天地四方拝、
 (平旦=早朝に帝が天地四方の神を拝する儀。)
 屠蘇百散(とそびゃくさん)、
 (薬を浸した酒を飲む儀。屠蘇は中国・三国時代の魏の名医であった華佗が処方したといわれ、山椒・防風・白朮(白朮)・桔梗・蜜柑皮・肉桂皮・赤小豆(『広辞苑』によったが、出典によって異同がある)などを調合したものを紅絹の三角形の袋に入れて味醂に浸して作る。中国では唐の時代に飲まれていたようだが、現在ではこの風習はない。わが国では平安時代にすでに飲んでいたことが確認されるという。)
 群臣の朝賀、
 (元旦に大臣以下諸臣が大極殿で行う新年の拝賀。一条天皇の正暦4年(993)を最後として行われなくなったそうだ。)
 小朝拝(こちょうはい)、
 (公式の朝賀の後、殿上人が清涼殿で行う拝賀。朝賀が行なわれなくなってからは、それに代わる儀式となった。)
 七曜(しちよう)の御暦(ごりゃく)
 (暦の奏上の儀、七曜は肉眼で見える惑星を五行と対応させた火星・水星・木星・金星・土星と、太陽・月(陰陽)を合わせた7つの天体で、これが一週間の曜日のもとになっている。御暦というのは、毎年11月1日に陰陽寮の暦博士が作成した翌年の暦を、中務(なかつかさ)省の役人が帝に献上する儀式なのだが、『太平記』の作者は元旦の行事と記している=どうも勘違いをしたものらしい。)
 氷(ひ)の様(ためし)、
 (氷室の氷の出来ぐあいを奏する儀。)
 腹赤(はらか)の御贄(みにえ)。
 (大宰府から献上の腹赤=鱒を内膳司が奏する儀。サケとマスの区別がはっきりしないので、はっきりしたことは言えないが、九州でも瀬戸内海にそそぐ川には遡上するサツキマスであろうか。あるいはサケかもしれないと思うのは、サケが定期的に遡上する川の南限は太平洋側では、九十九里浜に注ぐ栗山川であり、日本海側では江の川の支流の濁川であるとされる。ところが、福岡県嘉麻市の遠賀川流域には日本で唯一の鮭神社があることも広く知られている(地元の話では、昭和初期まで近くの川にサケが遡上していたということである)。マスであれば、京都のもっと近くで取れるというよりも、陸封型のマスならば珍しくもないはずなのに、大宰府から献上するというのは、儀礼的な性格の方が優先しているからであろう。)
 式兵(しきひょう)二省、内外官の補任(ぶにん)帳を進(たてまつ)る。
 (式部省、兵部省が京官・地方官の名簿を作成し、提出する儀。)

 立春の日は、主水司(もんどのつかさ)、若水を献(たてまつ)る。
 (この時代の暦は立春正月主水司はもともと、「もひとりのつかさ」と言い、「もひとり=飲み水」と氷の調達、かゆの調理に関わる役所であった。もともと主水司から立春の日に帝にたてまつった水を「若水」と呼んだのだが、後には立春の日の早朝に初めて汲む水を若水というようになり、さらに、立春ではなく元旦に汲むようになった。)
 卯日(うのひ)の御杖(みつえ)、
 (上卯の日に邪気を払うまじないの杖を奉る儀)
 告朔(こうさく)の礼、
 (毎月朔日=ついたちに帝が百官の勤怠を記した文を閲覧される儀。「立春」「上卯」は必ずしも元日ではないが、またここで元日の行事に戻っている。)
 中東両宮の御拝賀、
 (中宮・東宮の拝賀。これも元日に行われたはずである。中宮は皇后の別称であるが、一条天皇の時代に皇后と同格の妃として道長の娘の彰子が中宮になった例もある。この時代、つまり南北朝時代の北朝の諸帝にはそもそも中宮が定められていなかった。東宮が皇太子の別称であることは現在も同じ。)
 東寺の国忌、
 (醍醐帝后隠子の忌日。岩波文庫版では隠子と記されているが、穏子が正しいらしい。関白藤原基経の娘で、醍醐帝の中宮となり、村上帝を生んだ。天暦8年1月4日(ユリウス暦954年2月9日)崩御。ということはこの「国忌」は1月4日である。) 
 叙位の儀式、
 (叙位は位階を授けること、その儀式である。桓武天皇のころから、この儀式は1月7日の白馬の節会(後述)の日に行われるようになった。)
 白馬(あおうま)の節会。
 (帝が白馬を見る儀。さきに述べたように1月7日に行われる。) 

 8日は、大極殿の御斎会(ごさいえ)、
 (大極殿で「金光明最勝王経」を講説させる法会。「金光明最勝王経」は「金光明経」というのが一般的で、「法華経」、「仁王経」とともに護国三部経の一つに数えられるというから、国家の安寧を願う行事であろう。)
 踏歌の節会、
 (祝言を唱えての舞踏。)
 女叙位(にょじょい)、
 (女官に位階を授ける朝廷の儀式。特に注記されていなかったが、隔年に行われたそうである。)
 外官(げかん)の除目(じもく)、
 (地方官を任命する儀)
 秋冬の馬料(めりょう)、
 (律令制の下で、官人に給与された令外の禄(給与)の一種だという。今日でいうとボーナスのようなものであろうか。)
 殿上(てんじょう)の内論議(うちろんぎ)、
 (御斎会結願の日に行われた仏法論議の儀)
 七種(ななくさ)の御粥(おんかゆ)
 (正月七日の行事のはずであり、ここで8日の行事と記されているのが奇異である。)
 宮内省の御薪(みかまぎ)、
 (燃料の薪を奉る儀)
 諸司(しょし)の大粮(おおがて)、
 (月俸を給する儀。)
 射礼(じゃらい)、
 (宮中で正月17日に行われていた歩射の競技であるという。
 賭弓(のりゆみ)、
 (射礼の翌日の正月18日、弓馬殿(ゆばどの)に出御された帝の御前で、左右の近衛府、兵衛府の舎人らが射術を競い、勝った方が舞楽を奏して、賭物(のりもの)を受け、負けた方は罰盃を強いられたという行事である。)
 年給の帳、
 (任官者推挙の儀)
 神祇官の御麻(みぬさ)。
 (ぬさ=幣というのは、祈願をし、真辰巳・けがれをはらうために神前に供える幣帛だそうである。その幣を神に捧げ、罪をあがなう儀である。)
 晦日(つごもり)は、御巫(みかんなぎ)御贖(おんあがもの)を奉る。
 (巫者が除災の人形=人形を奉った。晦日は1月30日、当時の暦では1月は30日までだった。)

 二月には上丁日(かみのひのとのひ)の尺奠(せきてん)、
 (大学寮で聖人を祀る儀。これは儒教の行事である。)
 大原野、春日、率川(いさかわ)の祭、
 (大原野神社の祭、春日神社の祭、率川神社の祭。大原野神社は平安京に都が移ったときに、藤原氏の氏神である奈良の春日社(現在の春日大社)を勧請したもので、京春日と呼ばれる、春日神社については説明する必要はないだろう、率川神社は奈良市本子守町にあり、もともと大神神社の境外摂社であるが、中世以降は春日若宮神宮によって管理され、興福寺とのつながりが深かったという。)
 京官の除目、
 (京官は平安京に勤務する官人たちのこと。すでに1月に除目があったのに、2月にまた除目があるというのはどうもよくわからないが、そう書いてあるのだから仕方がない。)
 祈年(としごい)の祭、
 (五穀豊穣を祈る祭)
 三省考選の目録、
 (式部・民部・兵部の三省が官人を評定した目録を献ずる儀。)
 列見(れっけん)の位禄(いろく)、
 (叙位候補者を大臣らが引見する儀。)
 季(き)の御読経(みどきょう)、
 (宮中で「大般若経」を転読する儀。大般若経は大部の経典なので、その一部をパラパラと読んでいくのが転読である。)
 仁王会(にんおうえ)。
 (「仁王般若経」を講読して祈願する法会。「仁王般若経」は仏教における国王の在り方について述べた経典だそうである。

 2月まで見てきたが、これ以上続けるのが難儀なので、今回はここまででやめておく。『太平記』の時代に戦乱の結果として多くの行事が廃れてしまうことになり、そのことを作者は嘆きながらこの個所を書いているのだが、事態がよく整理されているとはいいがたいのは、すでに見てきたとおりであり、中には『太平記』の時代のはるか以前に廃れたものもあることもお分かりになったと思う。逆に屠蘇とか、七草のように、我々の暮らしの中に溶け込んでいるものもあるので、一つ一つさらに詳しく見ていくと、新しい発見がありそうである。次回は3月以後の行事についてみていくことにする。

 色々調べながら書いたのだが、かなりあやしい箇所もあると思うので、疑問点や不審点をお知らせいただければ幸いである。其れから、本日は、この記事の作成のために労力を使い果たしたので、皆様のブログを訪問できません。あしからずご了承ください。

日記抄(5月28日~6月3日)

6月3日(月)晴れ

 5月28日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:

5月27日
 『朝日』朝刊で「狂言」について取り上げ、その笑いの「奥深さ」について述べている。このことに関連して思い出すのは、『戦国乱世の文学』の中で杉浦明平が狂言の「鬼瓦」について論じている個所である。登場する大名が都の「鬼瓦」を見て、その顔立ちが故郷に残してきた女に似ていると思って涙を浮かべるという話で、田舎者の洗練されない美意識を物笑いにしているようでもあり、田舎者である大名の心優しさを温かく見守っているようにも受け取れる。演じ手の解釈と演技、観客の気持ちの持ち方でどのようにも解釈できるところにその奥深さがあると思うのである。

5月28日
 内田百閒(1889‐1971)が1936年から1944年にかけて手帳に書き付けていた日記が『百鬼園戦中・戦後日記』として、彼の誕生日である5月29日に発行され、また手帳は6月2日まで百閒の故郷である岡山市の吉備路文学館で展示されるとMSNニュースが報じた(これを書いている時点で、展示は終わっている)。日記の記述は1日3行程度と短いが、彼の目に映った世相や、彼自身の身辺の出来事や心情が記されているという。彼の小説はほとんど読んだことがないが、「阿呆列車」をはじめとする旅行記や、身辺随筆、漱石や三重吉、芥川についての思い出などは好んで読んできた。この日記も読んでみたいが、上下巻ともに4860円もするというので手が出そうもないのが残念である。

 戦前戦中に宝塚歌劇の男役として活躍し、その後、映画『無法松の一生』(1943、稲垣浩監督)の吉岡夫人を演じたことで知られる園井恵子さん(本名・袴田トミ 1913‐45)は、戦争中丸山定夫の移動劇団桜隊に属して活動していたが、その本拠地であった広島市で原爆投下に出会い、間もなく放射線障害で死亡したということは、このブログでも8月6日の項で何度か触れた。その彼女がこの度、歴代のスターやスタッフを顕彰する「宝塚歌劇」の殿堂に加えられることになったと『朝日』の朝刊に出ていたので、better late than never (遅くても何もしないよりはいい)だと思った。一昨年亡くなった月丘夢路さんは、宝塚での後輩であるだけでなく、1941年の宝塚映画『南十字星』で園井さんと共演しているはずで、何か思い出を語っている資料か映像がないかなと思って探しているのだが、まだ見つかっていない。

 渡邉義浩『漢帝国――400年の興亡』(中公新書)を読みおえる。漢字、漢文、漢民族などという言葉からもわかるように、中国歴代の王朝の中で漢は現在の中華人民共和国を含めてその原型=古典中国としてのイメージを保ちつづけた。特に官僚機構の整備の中で儒教を国教化していったことが注目されるという。ただし、その儒教との関係は(儒教といってもその内実は多様であるので)それほど単純なものではなかった。さらに儒教による政治の問題点が後漢になると表面化し、それを克服して新しい政治を作り出そうとしたのが曹操であり、法を厳しく運用するなど送葬と同じような政策をとりながらも、漢と儒教の枠を守り、漢の復興を目指したのが劉備を輔佐した諸葛亮であったという。
 この書物の後半で取り上げられている党錮の禁をめぐっては、最近ちくま学芸文庫から出た司馬光の『資治通鑑』の抄訳の中で比較的詳しくその経緯が論評されているので、併せて読んでみると面白いだろうと思う。

 関東高校軟式野球大会で決勝戦まで進出した神奈川県の慶応高校は延長11回の熱戦の末、3‐4Xで高崎商業に敗れ、優勝を逃した。

5月29日
 『日経』の朝刊に逗子開成中学校や鎌倉女学校の創立者であり、漢詩人でもあった田辺新之介(松玻と号す、1862-1944)の業績をたどっているという袴田潤一さんの文章が掲載されていた。田辺は開成中学の教師として斎藤茂吉を教えたことがあり、山形県から東京の中学に入った茂吉はこの先生の教え方に導かれて、英語に眼を開かれたという。茂吉の子息である斎藤茂太さん、北杜夫さんともに故人になっているのであるから、ずいぶん古い話だ。(斎藤茂吉は開成だが、北杜夫は麻布という組み合わせで、これは橋本龍伍が開成で、その息子の龍太郎が麻布というのと同じ組み合わせだねなどと、くだらないことを考える。)

 山崎晴雄『富士山はどうしてそこにあるのか 地形から見る日本列島史』(NHK出版新書)を読む。「富士山は陸上で3枚のプレートが重なり合い、その結果、プレート境界と火山帯とが交差するところに噴出しているのです。富士山はまさに世界に二つとない不二の山なのです」(72ページ)という。しかし、その美しい姿も長い、変化をつづける地球の歴史の中では一瞬のものに過ぎないとも付け加えている。

 さらに芳沢光雄『「%」が分からない大学生 日本の数学教育の致命的欠陥』(光文社新書)を読む。数学はただひたすら暗記すればよいというのではなく、一歩、一歩理解しながら積み上げていかなければならない教科である。ところが現在の教育制度のもとでは、理解の遅い生徒は「やり方」を優先する暗記だけのごまかした教育になれてしまって、頭を使うことをしなくなっている。その結果、どのような事態が起きているか、これからどうすべきかを論じた書物である。
 あとがきを読んで、著者の祖父芳沢謙吉が1925年に北京で結ばれた日ソ基本条約の全権大使であり、(犬養毅の娘婿でもあって)犬養内閣の外相をつとめたことを知った。さらに調べてみると、芳沢謙吉は旧制高田中学(現在の新潟県立高田高校)の出身だそうである。何事も粘り強く頑張れというのが、どうも芳沢家の家訓のようである。ちなみに、芳沢謙吉の外孫の一人が緒方貞子さんだとのことである(緒方さんは須賀敦子さんや渡辺和子さんとともに聖心女子大学の一期生だったというから、これまた古い話である)。

5月30日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
A quotation at the right moment is like bread in a famine.
                         ―― The Talmud
(時宜を得た引用句は、飢饉におけるパンのようなものである。)
 「タルムード」は神がモーセに与えたもう一つの口伝律法であるとされ、「エルサレム・タルムード」と「バビロニア・タルムード」の2種類があり、ヘブライ語で書かれた後者はユダヤ教の多くの宗派で聖典とされているという。ここで引用されている言葉が、どちらからの引用であるかわからないというのは困ったことである。

5月31日
 赤坂憲雄『武蔵野をよむ』(岩波新書)を読み終える。昨年の秋に買って読んでいる途中で、どこかに紛れ込んでしまい、なかなか見つからなかったのをやっと探し出して読み終えたのである。国木田独歩の『武蔵野』を彼の佐々城信子との恋愛・結婚・破綻、田山花袋、松岡(柳田)国男との交流なども視野に入れながら、読みなおす書物である。長いこと、独歩がこの文章を書いたのは東京都の西の方の武蔵野市あたりのことであろうと思っていたが、実はその頃彼が渋谷に住んでいたということを知って驚いた記憶がある。(その後、ある大学で教えていた時の学生で自己紹介をして、ぼくは武蔵野市で生まれ育ったので、江戸っ子ですといったのがいて、もっと驚いた。) 独歩の旧居の近くで少年時代を過ごした大岡昇平と、彼の武蔵野へのこだわり(『武蔵野夫人』という小説を書いている)についても触れられていて、大岡の子ども時代を過ごした家がもともと水車小屋であったことも記されている(吉田健一は、大岡は渋谷の水車小屋で生まれた人間であるというようなことを書いているが、大岡の時代にはすでに水車はまわっていなかった)。吉田は古い付き合いのある友だち同士の気安さで大岡の悪口を(帝国大学のフランス文学科を出ているのにフランス語がろくろくできなかったから、新聞記者の試験に落ちたとか)いろいろと書いているが、大岡がそれをどのように受け止めていたかについて書けるほど、私は大岡の作品を読んでいないのが残念である。〔当時の総理大臣の息子だったのに、親に反抗して「闇屋」をやったり、「乞食」の真似をしたりしていたことを自ら言いふらしていた吉田の悪口をいうのは簡単なことではないとは思う。〕

6月1日
 『朝日』の朝刊に「なでしこリーグ プロ化構想」をめぐる記事が出ていた。最近の国際試合でなでしこジャパンが欧米勢に苦戦を続けていることを考えると、その底上げのためには、なでしこリーグの強化が必要だというのはわかるが、運営費・集客に課題があるという。いまのなでしこリーグ1部は日テレベレーザとINAC神戸の2強が抜け出ていて、なでしこジャパンの選手もほとんどがこの2チームから選出されており、それ以外のチームがいかにこの2強に迫るかというところから努力を積み重ねる必要があるだろう。
 この日、三ツ沢グランドでなでしこリーグ2部カップ戦第7節の横浜FCシーガルズ対オルカ鴨川FCの試合を観戦したが、観客は420人と発表されていた。2部のしかもカップ戦ということを割引しても、さびしい数字である。

 西区の浅間神社のお祭りらしく、バスの中まで祭囃子の笛の音が聞こえてきただけでなく、浅間下のバス停付近には大勢の人が出ていた。

 1097回のミニtoto-Bをあてた。一番最近にあてたのが1075回であるからずいぶん間が空いたことになる。賞金額は少ないが、これを起点にしてまたコツコツと当てて行こうと思う。

 横浜市内の新杉田と金沢八景間を結ぶ自動運転列車であるシーサイドラインが、新杉田駅で逆走事故を起こし、15人の方々が重軽傷を負ったという。横浜市民の一人であり、この交通システムを利用したこともあるので、どうも他人事とは思えない。けがをされた方々の一日も早いご回復を祈るとともに、事故の原因の徹底的な究明を求めるものである。 

6月2日
 『日経』朝刊の「美の粋」の欄は「洛外を描く(上)」として、速水御舟(1894-1935)の短い京都時代における作品、浅井忠(1856-1907)が創始した関西芸術院の活動などを紹介している。関西芸術院の本拠は聖護院にあるとのことで、私は11年間の京都時代の半分以上を聖護院の近くで過ごしたが、ついぞ、そんなことは知らなかった。知らないこと、気づかないことはあまりにも多い。

 昨日に引き続き、ニッパツ三ツ沢球技場に出かけ、J2第16節横浜FC対FC琉球の対戦を観戦した。横浜のタヴァレス監督が解任され、下平隆宏監督が引き継いでから3試合目であるが、ホームでの初試合である。前半は一進一退の攻防が続いたが、後半になると琉球が横浜の守備の乱れをついて1点を先制、ここで横浜はレアンドロドミンゲス選手を投入し、それで全体の動きがよくなり、コーナーキックの際のもつれで琉球の守護神カルバハルが負傷退場(このためアディショナル・タイムが8分という異例の長さとなった)したこともあって、瞬く間に2点を挙げて逆転、そのまま逃げ切って勝ち点3点を挙げた。伊野波選手、松井大輔選手などベテラン選手が老巧さを見せたうえに、中山選手、斎藤功佑選手、草野選手ら若手も見せ場を作り、今後の戦いに希望をいだかせた試合であった。

 自分のブログを書くことに時間を取られて、多くの方々のブログを訪問する時間をとることができなかった。あしからずご了承ください。
 
6月3日
 『日刊スポーツ』に来年の4月から横浜高校が女子生徒を受け入れるという記事が出ていた。すでに制服も決めて、入学志願者向けのパンフレットを作製・配布中だということである。横浜高校は、神奈川県外の人だと公立だと思っている人がいるが、むかしの神奈川県立横浜第一中学校の校長であった黒土四郎が創設したという経緯はあるものの、学校法人徳心学園の経営する私立学校である。その創設の経緯で、戦前の中等野球の強豪校で苅田久徳、若林忠志という2人の野球の殿堂入り選手を輩出した本牧中学を合併したこともあってか、伝統的に野球が強いのはご承知のとおりである。 

 漫才師の横山たかし(本名:山高孝)さんが7月1日に多臓器不全のため亡くなっていたことが報じられた。70歳。いまは亡き横山やすしの弟子で、金ぴかのスーツを着て、金持のおぼっちゃまじゃ、皆のもの笑えよ…と相方のひろしさんを相手にほらを吹いた挙句、それがみんな本当のことではないことがばれてしまい、赤いハンカチを出して泣くという舞台は、TVでおなじみであった。今度はあの世で、みんなを笑わせてほしいとご冥福を祈るものである。 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(9)

6月2日(日)曇り

 作者ジェイン・オースティンが1811年に匿名で出版したこの小説は、18世紀から19世紀にかけてのイングランド南部を舞台に、理性的な姉エリナーと、情熱的な妹マリアンという2人の対照的な性格をもつ姉妹のそれぞれの恋愛の展開を描くもので、200年以上にわたって多くの読者を獲得してきた。
 これまで8回をかけて、50章からなるこの小説の38章までを紹介してきたが、これまでのあらすじを紹介しているだけで相当な量になるので、今回は、主要登場人物の紹介に重点を置いて、紹介してみることにする。
 エリナー・ダッシュウッドはノーフォーク州の旧家ダッシュウッド家の長女であり、19歳であったが冷静で頭がよく、時として感情的になる母親のよい相談役となることができた。義兄であるジョンがダッシュウッド家を相続することになり、ジョンとその妻のファニーから冷たい仕打ちを受けたことから、母親がその従兄弟であるサー・ジョン・ミドルトンの好意で彼の持ち家であるデヴォン州のバートン・コテッジという小さな家に移ることになる。彼女はファニーの弟であるエドワードに好意を寄せており、彼も彼女を愛しているように思われるのが、ノーフォークを去る時の心残りであった。デヴォンに移ってから、一家はミドルトン家の人々のほかに、ミドルトン夫人の母親のジェニングズ夫人やサー・ジョン・ミドルトンの親友だというブランドン大佐と知り合う。デヴォンにエドワードが訪ねてくることがあったのだが、なぜか2人の仲はぎこちないままである。彼が去った後、ジェニングズ夫人の遠い親戚だというアンとルーシーの姉妹が現れるが、彼女たちはエドワードの家庭教師だった人物の姪で、ルーシーはエドワードと秘密裏に婚約しているという。エリナーには信じられないことであるが、どうもそれは疑いのないことらしい。
 エリナーの妹のマリアンは16歳で姉に劣らず頭はよいが、情熱的で自分の感情の赴くままに行動する傾向がある。デヴォンに移って間もなく彼女は近くの邸宅に滞在しているウィロビーという青年と知り合い、情熱的な恋におちいる。しかし、ウィロビーはある日突然にロンドンに去ってゆく。
 冬の社交シーズンに姉妹は、世話好きなジェニングズ夫人に招待されて、彼女のロンドンの持ち家に滞在することになる。ウィロビーと会うことだけを楽しみにロンドンに出てきたマリアンは、彼がマリアンを避けており、別の女性と親しくしているだけでなく、婚約していることを知り、さらに彼が結婚したことで打ちのめされる。
 エドワードとの仲を疑われて、ファニーやその母親のフェラ―ズ夫人から冷たくされていたエリナーであるが、エドワードとルーシーの秘密裏の婚約や、それを知らないフェラ―ズ夫人が裕福な貴族(厳密には貴族ではないらしい)の令嬢とエドワードとの結婚を画策していることなどを知っているために、動揺を見せずに過ごす。ファニーはダッシュウッド姉妹への当てつけに、自分のロンドンの住まいにアンとルーシーの姉妹を招くが、そこで安心のあまり、アンがエドワードとルーシーとの秘密の婚約のことをばらしてしまう。起ったファニーは姉妹を追い出し、さらにエドワードを呼んで母親と二人でエドワードに婚約を破棄するように迫るが、エドワードが翻意しないので、廃嫡を申し渡す。

 さて、そのエドワードは、フェラ―ズ家の長男で内気だが、頭も気立てもよい青年である。彼が政治家か軍人になって華々しい活躍することを望む母親や姉の期待にこたえようとせず、ただ家庭の幸福と静かな私生活を送りたいと思っているため、家族との折り合いがよくない。特に弟で野心的なロバートからは馬鹿にされたり「同情」されたりしている。オックスフォード大学入学前に住み込みで勉強を教えてもらった先生の姪であるルーシーと婚約し、その婚約を破棄しようとしないために、廃嫡される。そのため、豊かな生活を送る可能性が消えたからと、ルーシーに婚約破棄を申し出るが、ルーシーはそれを拒絶し、貧しくても二人で生きて行こうという。そこで、どこかの教区の副牧師の職を探そうとしている。
 マリアンの相手であったウィロビーはサマセット州に小さな屋敷をもち、デヴォン州の伯母のところに時々遊びにやって来る、美男子で気品があって情熱的で、スポーツマンであるが、どうも派手な生活のために家計状態がよくないようである。叔母の命令でロンドンに去り、あまり美人ではないが洗練された感じの女性と婚約・結婚することになる。彼にはまだ謎が残されている。
 ブランドン大佐はドーセット州デラフォードの地主で35歳くらい、無口で重々しい感じだが、思慮深そうな人物である。若いころにイライザという娘と不幸な恋をしたことが彼の人生に暗い影となっている。イライザによく似た面影をもつマリアンに思いを寄せるが、マリアンは一顧だにしない。イライザの遺した娘(イライザ)の後見をしていたが、その娘の方のイライザにウィロビーが子どもを産ませたことを知り、マリアンのことを心配していたが、ウィロビーの結婚を知り、今はマリアンが彼女の受けた打撃から回復するのを見守ろうとしている。
 もう一人の重要人物であるルーシー・スティールは美人で、頭はいいが無教養で、その分狡知に長けている格好の悪役である。エドワードの思いが実はエリナーに傾いていることを知り、そのことを計算しながら、ジョン・ダッシュウッド夫妻やフェラ―ズ夫人に近づくが、不美人で、頭も悪く、いいところのない(多少お人好しなのが長所かもしれない)アンという姉の軽率な行為でエドワードとの秘密の婚約がばれてしまう。しかし、エドワードが無一文に近い状態になったことを知っても、まだ結婚に向けて努力しようという(フェラ―ズ家の莫大な財産の一部だけでも相続する望みがあるうちはあきらめないということであろうか)。
 これらの主要登場人物のほかに、エリナーとマリアンの姉妹(あるいはさらにルーシー)の結婚のために骨を折ろうという世話好きのジェニングズ夫人と、その娘婿であるサー・ジョン・ミドルトンが、姉妹の周辺でいろいろな波紋を起こす。

 「エリナーとマリアンのロンドン滞在はすでに2か月以上になり、ロンドンを去りたいというマリアンの気持ちは、日ごとに募るばかりだった。」(380ページ) エリナーもロンドンを去ってデヴォンに戻りたいという気持ちに変わりはなかったが、マリアンの体調を考えると長旅は無理だと思っていた。善意からではあるが、ジェニングズ夫人は2人がデヴォンに戻るのには反対であった。
 ジェニングズ夫人の次女であるパーマー夫人(シャーロット)がイースター休暇で自分たちのサマセット州クリーヴランドの邸に帰ることになり、自分の母親のジェニングズ夫人とともに、姉妹も招待したのである。エリナーは、パーマー夫人だけでなく、マリアンの一件を知って、姉妹に対して礼儀正しい態度をとるようになったパーマー氏のすすめもあるので、この招待を受諾する。パーマー氏は国会議員の選挙運動中であるのか、国会議員になったのか、この物語でははっきりしないが、26・6歳ということはエドワードやウィロビーと同年配の紳士である。

 マリアンはパーマー氏の邸がウィロビーの住む屋敷と同じサマセット州にあることから、当初は嫌がるが、母親の住まいの近くであると説得されて、承知する。万事賑やかな方が好きなジェニングズ夫人は、姉妹がまたロンドンに戻るように説得するが、姉妹はデヴォンに帰るという気持ちを変えない。ジェニングズ夫人はブランドン大佐に2人で「2匹の猫みたいに、暇そうに座ってぽかんと顔を見合わせる」(382ページ)ことになるのではないかと言って、誰かに求婚するように彼に仄めかす。
 そのジェニングズ夫人の期待に沿うような出来事が起きた。
 ある日、版画の模写をしようとしていたエリナーに大佐が近づき、何事か話すと、彼女の顔色が変わった。どうも重大な話らしいのだが、内容がよく聞き取れないし、不可解なやりとりがあったようである。ジェニングズ夫人は大佐がエリナーにプロポーズしたのだと思い込んだのだが、それにしてはどうも彼女の聞き取った内容のつじつまが合わない…。

 実は2人の対話は次のようなものであった。エリナーの友人であるエドワード・フェラ―ズがルーシーとの婚約のために、フェラ―ズ家を勘当されたというが、愛し合っている2人を親の欲目で引き裂くなどというのはとんでもないことである(大佐自身が、親によってイライザとの仲を引き裂かれた過去がある)。エドワードの行為には非難されるべきところはないし、彼は好青年だと思うし、エリナーの親戚ということもあるので、彼のために何かをしてあげたい。自分が地主であるデラフォードの聖職禄が空席になったので、後任としてエドワードを推薦したい。教区牧師としての年収は200ポンドくらいで、ささやかなものだが、このことをエドワードに伝えてほしいというのである。エリナーはエドワードの幸運を喜びながらも、彼がこのことでルーシーとの結婚を確実なものにすると思うと複雑な気分になった。それでも大佐に感謝の気持ちを伝えるのであった。

 ブランドン大佐が出ていくと、彼がエリナーにプロポーズしたのだと思い込んでいるジェニングズ夫人がやって来て、しばらく混乱した話が続くが、とにかくエリナーは一人になって、エドワードに手紙を書こうとする。そこへエドワードご本人がやって来る。エリナーから、ブランドン大佐がかれに聖職禄をあっせんするという話を聞いて、エドワードは喜び、エリナーに感謝するが、彼女は御礼はブランドン大佐にこそいうべきだという。そしてエドワードを送り出すが、彼がルーシーと結婚すると思うと心が締め付けられるような気分になる。
 ジェニングズ夫人が戻ってきて、やっと誤解が解けて、ブランドン大佐がエドワードに聖職禄を提供するという話であったことが分かる。このことでエドワードとルーシーの結婚が確実になったと思ったジェニングズ夫人は、今年のマイケルマス(9月29日、英国ではQuarter Day=四季支払日の1つ)までに、2人の新居を訪問することになるだろうと喜ぶ。

 エドワードはセント・ジェイムズ・ストリートのブランドン大佐の家を訪ねてお礼をいうと、すぐにその足でルーシーに聖職禄のことを知らせる。エドワードもルーシーもこの件で大変な喜びようであった。
 さて、エドワードとルーシーの秘密婚約を知った際にそのショックで倒れてしまったジョンの妻ファニーを、いちおう家族なので見まいに行こうとエリナーは思った(本当は行きたくないのだが、世間体もあるので、出かけようというのである)が、誰も(と言ってもマリアンとジェニングズ夫人だけだが)行きたがらず、エリナーがひとりで出かけることになった。
 ハーリー・ストリートのジョンの家に出かけると、留守だといわれて帰ろうとすると、ジョンが出てくる。そして、ブランドン大佐がエドワードのために聖職禄を世話したという噂を聞いたが、本当かとたずねる(第24章で、ルーシーがエリナーに、ジョンからノーランドの聖職禄に推挙してもらえないかと頼んでいるので、ジョンも大佐と同様に、聖職禄の推挙権をもっているはずである)。
 ジョンは200ポンドの年収が見込める聖職禄の推挙権であれば1400ポンドでは売れるはずだといい、「こんな常識的な基本的な問題で、こんな手抜かりをするなんて信じられん!」(404ページ)とまで言う。地主として教区の人々のことを考えれば、適任者を選ぶために推挙権を保持していることが望ましいとは考えないのである。34章で彼は邸内の木々を切り倒して愛する妻のために温室を建てるといっていたが、先祖代々の財産にどんどん手を入れている様子である。
 さらにこのことで、ファニーやフェラ―ズ夫人が傷つくといけないから、しばらく黙っていてほしいという。エドワードが不幸な結婚をすることをファニーやフェラ―ズ夫人は悲しむだろうというのである。彼女たちは家柄とか財産だけが結婚における幸福の指標であり、それ以外のことを幸福の指標とは考えていない。エドワードが自分たち望むような人間として生きてほしいとひたすら思うことだけが愛情だという彼女たちの考え方にまったく同調している様子である。そして、フェラ―ズ夫人はこれ以上もなく愛情深い母親であり、ファニーはやさしい女性であると断言し続ける。
 こうなってくると、エリナーはあきれてものが言えなくなる。さらにエドワードとの結婚をまとめようと思っていたミス・モートンとエドワードの弟であるロバートとの結婚話をすすめようと思っているという。エドワードとロバートの性格の違いは、これまで読者の目に明らかなほどに描き出されてきているし、エリナーだけでなく、ルーシーも(エドワードからの伝聞によってではあるが)2人の性格が違うということを認識しているのだが、ジョンは2人の間に「もちろん違いなんてあるわけないさ。ロバートはもう事実上長男だからね。そしてほかの点では、二人とも大変な好青年で、どちらが上だともいえないし」(406ページ)などというので、エリナーはいよいよあきれ返る。
 つまり結婚は男女の社会的な地位や財産のつり合いも大事だが、それ以上に2人の性格や趣味が一致することが望ましいというのがオースティンの結婚観であり、そんなのは当たり前だと思うかもしれないが、それがわが国では江戸時代の終わりごろに生きていた女性作家の考え方だということを頭に入れてほしいのである。ジョンやファニーやフェラ―ズ夫人が悪役として描かれているのは愛し合う男女の正確や趣味の問題を考えずに、社会的地位や財産のことだけを重視して本人の意思を無視した結婚を押し付けようとしているからである。
 さらにジョンは、フェラ―ズ夫人がルーシーに比べれば、ある女性(エリナーのこと)の方がエドワードの伴侶としてはよりふさわしいといったとうちあけ、さらに、ブランドン大佐に近づくようにという。この見え透いたお世辞と促しに、エリナーがうんざりしていると、運のいいことにロバートがやって来る。ジョンはしばらくロバートと話し、それからファニーを呼びに出かける。

 2人きりになったので、エリナーはロバートについて改めて観察する機会を得た。「ロバートは自分の軽佻浮薄な生き方と、兄の誠実な生き方のおかげで、母親の愛情と気前よさを不当にも独占することになり、誠実な兄の方は感動となったわけだが、エリナーの目の前にいるロバートの態度は、軽薄なのんきさと、おめでたい自己満足を絵に書いたような感じであり、エリナーはロバートの顏と心をいちだんと疎ましく感じることとなった。」(408ページ)
 ロバートはエドワードが聖職禄を世話されたという話をエリナーから聞き出し、彼が牧師になって小さな牧師館で生活する様子を想像するだけで笑わせられると、ばか笑いを始めて、エリナーをあきれさせる。彼女は非難の眼差しを向けるが、ロバートはそれに気づかない。
 ロバートはエドワードの今後の運命に同情し(心の中では嘲笑し続け)、ルーシーについても「ただの野暮ったい田舎娘で、品もないし、洗練されてもいないし、特に美人でもなかったね。よく覚えてるさ、兄貴が夢中になりそうなタイプだ。」(410ページ)と切り捨てる。そして、自分の出番があれば、兄とルーシーとを別れさせることができたのにと残念がる。

 ロバートがそう言い切ったときに、ファニーが部屋に入ってきた。今回の騒動が彼女の身に応えたことは明らかで、いつもと違って部屋に入ってくるときも落ち着かない様子であったし、彼女のエリナーに対する態度はやさしげであった。「実際ファニーは、エリナーとマリアンがもうすぐロンドンを去るということを知ると、「あら、もっとたびたびお会いしたいと思っていたのに」と残念がる言葉さえ口にした。これはファニーとしてはたいへんな努力であり、夫のジョンは一緒に部屋に入ってきて、妻の言葉に聞きほれていたが、その言葉の中に、妻のこのうえない愛情深さと奥ゆかしさを感じ取っているようだった。」(411ページ)

 義理の兄妹が顔を合わせ、表面上は仲良くするが、義理の兄であるジョンの方はひたすら自己満足にふけっているというところで、41章が終わる。42章で、姉妹はロンドンを去り、ソマセット州にあるパーマー夫妻のクリーヴランド屋敷に落ち着くが、そこでまた事件が起きる。その事件についてはまた次回に語ることになる。
 ジョンはこの後も登場するが、あまり重要な役割は果たさない。ロバートがルーシーについて言った言葉は、本当にルーシーを見てそう思ったのか、先入観からそう見えたのか、あるいは姉のアンと妹のルーシーを見間違えたのか、解釈の分かれるところであろう。ミス・モートンというのは名前だけ物語に登場して、その言動は一切描かれないので、どんな女性か想像してみるのも楽しいだろう。もし、作中人物が言っているように、貴族の娘であれば、ミス・モートンではなく、レディ・モートンと呼ばれるはずなのに、そうでないところがあやしい。貴族というのは、男爵以上を言い、従男爵というのは世襲の地位であるが、貴族ではないけれども、一般には貴族に類する存在と考えられているので、おそらくは従男爵の令嬢ということであろう。それから、結婚、結婚と騒いでいるが、誰かが愛想ついでにあの女性が結婚相手を探しているのですが…などと言っているのに、その財産に眼がくらんで飛びついただけで、実際はすでにほかの男性と縁談が進行中などということもありうるわけである。このあたりいかようにも想像できるので、ご自分の経験や小説・ドラマ等で得た知識をフル活用してお楽しみください。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(12)

6月1日(土)曇りのち晴れ

 梅棹忠夫(1920‐2010)は、1957年から1958年にかけて大阪市立大学の学術調査隊の隊長として東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの諸国を歴訪し、熱帯地方の動植物の生態とそこで生活する人々の民族誌の調査を行った。これはその調査旅行の個人的な記録である。
 今回から第6章「謙虚に学ぶべし」に入る。その前に、これまでの概要を記しておく:
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス

 梅棹以下、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学研究の小川房人、依田恭二、昆虫学者で医師の吉川公雄、ロールシャッハテストで人間の性格を探ろうとする文化人類学者の藤岡喜愛の5人が隊員として加わり、1957年11月にタイのバンコクに全員が集合した。チュラーロンコーン大学のクルーム教授の協力を得て、一行はタイ北部を中心とした調査に取り掛かろうとするが、その前にバンコクで開かれる第9回太平洋学術会議に参加して、それぞれの研究発表を行う。特に川村による日本の霊長類研究についての報告は大きな反響を呼んだ。
 学術会議の終了後、一行は自動車の運転の練習を兼ねて(この研究調査は、隊員全員が自動車で移動し、自動車を自分の研究室として活用するという狙いをもっている)、カンボジアのアンコール・ワットを訪問する。バンコクに戻った一行は、調査の準備をしながら、バンコクにおける人々の生活の様子を観察する。熱帯におけるクリスマスが近づく中で、一行は研究調査の準備を進める。

第6章 謙虚に学ぶべし
 ナムマンガッ!
 カンボジアへの旅行での経験をもとに、一行はタイ北部における調査のための準備を進める。自動車、特にカンボジア旅行でトラブルが多かったハシゴ車の整備が不可欠であった。自動車は三菱製であったが、バンコクのトヨタの工場が同じ日本人だからということで、一手に引き受けてくれた。それでも、一行はあちこち買い物に走り回って不足している備品や資材を買いそろえなければならなかった。その過程で、一行は声調が5つもあるタイ語の難しい発音に悩まされる。

 スパイのやりそうな手だ
 特に困ったのが、調査のために必要とされる地図の入手である。タイの地理を詳しく記した地図は日本では手に入らない(現在ではどうだろうか?)。道路地図は手に入ったが、北タイで調査を行う山岳地帯の地図が手に入らない。タイの陸軍省では詳しい地図を作成しているが、その地図は分売しないというし、全部購入すると効果になるので購入できない(約16,000円というからそれほど高価だとも思わないのだが、この探検隊としては、その後の出費に備えて支出をためらったということであろう)。要約、米軍に話をつけて、米軍が作成した100万分の1の航空図を入手できることになったが、手違いがあって、届いたのは別の文書であった。幸い、スパイ扱いされることもなく、無事に本物の地図を手に入れることができた。この時代でも日本では、全国各地の5万分の1の地図が入手できたはずで、大変な違いである。

 キング・コプラ
 奥地での調査をめぐっては、いろいろな人からいろいろな注意を受けた。そこで動物園に出かけて、タイの野生動物についての予備知識を得ることにした(私がタイに出かけたときに知ったことであるが、バンコクの動物園と国会議事堂とは向かい合っている。なかなか面白いと思った。日本の国会議事堂も上野に建てた方がよかったかもしれない)。「テナガザルなんかはあいきょうがあってよいけれど、野牛はあんまりありがたくない。」(141ページ) 
 その野牛より恐ろしいのがヘビ→毒蛇である。毒蛇にかまれたら30分以内に血清を注射しないといけないから、チュラーロンコーン大学の近くにあるパストゥール研究所でヘビの血清を分けてもらった。研究所内で飼育されているヘビ=コブラとかキング・コブラを見ていると、ますますゆううつになった。「キング・コブラというやつは、自分に自信があるから、スイギュウみたいな大きな動物でも追っかけるのだそうだ。その調子では、ジープでも追っかけてくるかもしれない。ゆううつだな。」(143ページ) 

 没落貴族の植物学者
 植物学者でお茶の水女子大学教授の津山尚が一行を訪ねてきた。彼は太平洋学術会議に参加していたのだが、その後、タイ北部のチェンマイで調査を行い、バンコクに戻ってきたのである。茶やツバキの類を特に専門にしているというが、珍しい植物を見かけると、すぐに突進するので、同行者がハラハラするという。学術会議中は一流ホテルに寝起きしていたのが、それが終わると、岩田慶治も泊まっている中国人宿の藍緑旅社に移ることになった。彼も一向に合流したいという。植物分類学の専門家が同行することには誰も異議を唱えない。しかし、彼は、宿屋で寝たばこの末、ベッドに大穴を開けるという失態を演じ、弁償金を支払うこととなった。

 女子学生とミスター・ブラック
 梅棹はチュラーロンコーン大学をしばしば訪問したが、文学部と理学部に女子学生が多いことに感心した(日本の大学ではまだそれほどではなかった時代の話である)。しかも、そういう女子学生は成績優秀で、クルーム教授の研究室には研究員が5人いるがそのうち4人は女性だという。たった1人の男性研究員を梅棹隊に派遣するのはクルーム教授としても不便なのだが、結局その男性研究員(その時点では助手=今の呼び方では助教クラスだったのが、まもなく講師クラスになるという)ヌパースパットという青年が同行することになる。色が黒く、ミスター・ブラックと呼んでくださって結構だと本人がいう。

 土足ではふみこめない
 1957年にバンコクでは太平洋学術会議が開かれ、また日本から民族学協会の稲作文化調査団と、梅棹たちの大阪市大学術調査隊が来訪、その後デンマークからも学術調査隊が来ることになっていた。東南アジアにおけるフィールド研究を行う際にバンコクは格好の根拠地となるというのがその理由である。しかし、その当時タイはピブーン政権が崩壊し、サリット元帥が政権を握るという状況の変化の中で、戒厳令が敷かれていたのだから、ことは容易ではない。
 いろいろと心配する人もいたが、梅棹はチュラーロンコーン大学をはじめとする現地の協力と参加を得ることによって事態を乗り切ろうとする。お互いに協力し合って、解決できる問題も多いと考えているのである。
 
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