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2019年の2019を目指して(5)

5月31日(金)曇り、時々雨

 5月は体調があまりよくなかったこともあり、ずっと横浜で過ごした。それでも結構頻繁に近場での外出はした
 これまでに足を運んだのは神奈川、東京の2都県、横浜市、渋谷区、千代田区、港区の4市区というのは変らない。
 利用した鉄道もJR東日本、東急、東京都営、東京メトロ、横浜市営の5社と変わらず。路線も東急が大井町線、東横線、目黒線、東京メトロが南北線、半蔵門線、JR東日本が京浜東北・根岸線、横浜線、東京都営が三田線、横浜市営がブルーラインの9路線と変わらず。乗り降りした駅は12駅(3月に1つ数え落としがあった)、乗り換えに利用した駅が5駅である。
 バスは3社(横浜市営、神奈川中央、相鉄)というのは変らないが、相鉄の浜13を利用したので、1路線、また明神台停留所で乗り降りしたので1停留所が増えた。〔1月が31,2月が10,3月が17,4月が8,5月が2で68ということである。〕

 この記事を含めて31件の記事を書いた、内訳は日記が5件、読書が7件、読書(歴史)が5件、『太平記』が4件、ジェイン・オースティンが4件、ラブレーが1件、ダンテ『神曲』3件、詩が2件ということである。コメントを1件、拍手を552頂いた。
 1月からの累計は153件で、内訳は日記が28件、読書が22件、読書(歴史)が27件、トマス・モア『ユートピア』が8件、読書(言語ノート)が9件、『太平記』が22件、ジェイン・オーステインが9件、ラブレーが1、『神曲』が20件、推理小説が3件、詩が4件ということである。コメントの累計は5件、拍手の累計は2667ということになる。
 須賀・藤谷訳の『神曲』、出井康博『移民クライシス』の紹介が終わったということで、ラブレーの『ガルガンチュワ物語』とカンパネッラの『太陽の都』を取り上げることにした。ジェイン・オースティンの『分別と多感』は10回で完結させる予定だったが、後半になって物語の展開が複雑になることも考慮して12回に延長することにした。どちらにしても6月中には終わるはずなので、次はオースティンの完成した長編小説でまだこのブログでは取り上げていない『高慢と偏見』を取り上げるか、サッカリーの『虚栄の市』を取り上げるか、どちらにしようかと考えているところである。毎月1冊は推理小説を取り上げることにしていたのだが、4月は適当な作品を見つけることができず、5月はヘロン・カーヴィックのミス・シートンものを取り上げるつもりだったが、その機会がなかった。第3作が出版されたらまた考えてみることにしよう。〔1月が33,2月が30,3月が31、4月が31,5月が32、通算では157〕

 9冊の本を買い、10冊を読んだ。1月から数えると、52冊を買って、50冊を読んだことになる。読んだ本を列挙すると:下川裕治『ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅』(中経の文庫)、望月優大『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)、安田峰俊『移民 棄民 遺民』(角川文庫)、ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(河出書房)、中町信『模倣の殺意』(創元推理文庫)、本郷恵子『院政』(講談社現代新書)、渡邉義浩『漢帝国~その400年の興亡』(中公新書)、山崎晴雄『富士山はどうしてそこにあるのか 地形から見る日本列島史』(NHK出版新書)、芳沢光雄『「%」がわからない大学生』(光文社新書)、赤坂憲雄『武蔵野をよむ』(岩波新書)ということである。〔1月が11,2月も11,3月、4月、5月はそれぞれ10で、通算では52〕

 『ラジオ英会話』を20回、『入門ビジネス英語』を8回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いた。1月からの通算では『ラジオ英会話』を91回、『入門ビジネス英語』を16回、『遠山顕の英会話楽習』を60回、『高校生からはじめる「現代英語」』を40回、『実践ビジネス英語』を60回聴いていることになる。
 このほかに『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』、『英会話タイムトライアル』、『世界へ発信 ニュースで英語術』も大体毎日聴いているが、数の中に入れていない。
 『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』初級編を12回、応用編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を12回、応用編を8回聴いた。1月からの通算では『まいにちフランス語』の入門編を55回、応用編を36回、『まいにちスペイン語』の入門編を32回、初級編を23回、応用編を36回、『まいにちイタリア語』の入門編を23回、初級編を31回、応用編を36回聴いていることになる。実際のところ、応用編についていけるのはスペイン語だけで、フランス語はかなりあやしく、イタリア語は全くダメというのが現状である。もう少し興味と努力を集中させた方がいいと思うのだが、時々ポルトガル語の時間を聞いたりして、拡散傾向がますます強まっている。〔1月は80,2月は109、3月は112,4月は117、5月は120で、通算では538ということになる。〕

 映画は1本も見なかった。出かけた映画館が1館、見た映画が2本のままである。どうも偶数月に見るというのが定着しはじめているようで、6月に1本以上映画を見るのはもちろんのこと、7月にも映画を見るように心がけなければならないだろう。〔3〕
 また美術展も見ていない。それで、これまた2回という数字が伸びていない。〔2〕

 J2のリーグ戦を2試合、なでしこリーグ2部のリーグ戦を2試合、なでしこリーグ2部のカップ戦を1試合見ているので、見た試合の合計は15試合ということになった。保土ヶ谷公園サッカー場に出かけたので、足を運んだグランドは3か所ということで、それぞれ増えているが、totoの方はずっとはずれを続けていて、当たった回数を増やしていない。〔1月が6,2月が4,3月が7,4月が5,5月が6で、これまでの合計は28である。〕

 研究会で発表をしたが、その内容についてはブログとは別の形で公にすることになるだろう。
 ドリーム・ジャンボは7等が当たっただけであった。バレンタイン・ジャンボと合わせて、7等10枚、6等1枚が当たっただけということである(もっと上のほうのあたりが出ても、誰が言うものか‼)。
 病気の方はだいぶよくなったが、それでも酒を飲まなかったのが26ということで、飲む日と飲まない日との逆転現象が起きている。〔1月が7,2月が5,3月が1,4月が14,5月が26で53ということである。〕 
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E.H.カー『歴史とは何か』(17)

5月30日(木)晴れ、暑し。

 今回も前回に引き続き「Ⅳ 歴史における因果関係」についてのカーの議論をたどる。その前に、これまでの議論を大ざっぱに整理しておく:
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史の研究は現在を生きている歴史家と、過去の諸事実との絶えざる対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人の関係は相互的な問題であり、歴史家は現代人として社会的な存在であるから、歴史研究は現代の社会と過去の社会との対話という性格をもつ。
Ⅲ 歴史の科学と道徳
 歴史は自然科学とは別のやり方においてではあるが、仮説を実証し、またもっと詳しい仮説を構築する過程であるという意味で科学であり、歴史を超えた道徳によって制約されるものではない(道徳もまた歴史的に変化する部分をもつ)。
Ⅳ 歴史における因果関係
 歴史の研究はある出来事がなぜ起きたかという原因の研究である。しかし、ある出来事が起きた背景には多くの原因が潜んでおり、それを整理してそれぞれの関係や重要性をはっきりさせる作業が付きまとっている。

Ⅳ 歴史における因果関係(続き)
ポッパーとバーリン
 さて、ここでカーは気が進まないといいながら、歴史研究における因果関係の考察を進めていくうえで落とし穴となると彼が考える2つの議論を取り上げる。それは『歴史における必然、別名、ヘーゲルの謂わゆる『奸計』」というものと、「歴史における偶然、別名、『クレオパトラの鼻』」というものである。

 前者はオーストリア出身で、英国に亡命したカール・ポッパー(Karl Raimund Popper, 1902 -94)による専門的、また一般向けの書物の中で展開された、ヘーゲルの歴史哲学と、1930年代に英国で盛んであったかなり浅薄なマルクス主義的な思想への反発に基づく(ポッパーの考えるところでは)決定論的な歴史哲学に対する反駁として提示されたものである。ヘーゲルは歴史を(神様の意図を背景として)精神がその自由を獲得・実現していく過程としてとらえ、その過程を通じて人類は文明を発展させていくものと考えた。これに対してマルクスは、精神ではなく人間の社会的な諸条件を重視し、その条件を変革しようとする闘争を通じて、人類は社会と文明を発展させると考えた。方や観念論、こなた唯物論という違いはあるが、歴史的な変化の背景にある動因を認めるという点では共通している、それを「奸計」と呼んだのである。

 後者は、これまでも何度か登場した(カーの論敵である)サー・アイザイア・バーリンのヘーゲルやマルクスの議論は、人間の自由意志の役割を無視しているという議論である。「クレオパトラの鼻」というのは、パスカルの『パンセ』に出てくることばであるが、
Le nez de Cléopâtre ; s'il eût été plus court, toute la face de la terre aurait changée. (クレオパトラの鼻: もしそれがもっと短かったら、地球の表面が変わっていたかもしれない。) この言葉は、些細なことが大きな影響を及ぼすという意味で使われているが、「クレオパトラの鼻が短い」というのはどういう意味なのか、釈然としないところがあるとOtiumさんがそのブログ「エスカルゴの国から」の2005年3月5日付の記事で述べている。いわれてみると、たしかに、釈然としない。
 ここでカーが問題にしているのはバーリンが歴史においては個人の個性や個性的な(自由意思に基づく)行動が、歴史を変えることがあるという議論であるように思われる。

自由意志と決定論
 人間には自由意志があるからと言って、なんでも思った通りに実現できるわけではない。かといって、歴史的な出来事は何から何まで初めからきめられたレールの上を歩むわけでもない。

思想上の「未練」学派
 ある出来事が避けられえなかったという議論に対する反発が強くなっているのは、思想上の(もっと正確にいえば感情的な)未練学派とでもいうべきものの勢いが強くなっていることのためだとカーは言う。その理由として彼は、ある政策的な決定をする際に、さまざまな選択の可能性が遺されていた時代に生きていた人たちが、今なお生きていて、その結果として実現しなかった選択を持ち出しているのだというが、それだけが理由でもないようにも思われる。

クレオパトラの鼻
 これは「歴史とは一般に偶然の連鎖であり、偶然の一致によって決定された、まったく気まぐれな原因によるとしか見えぬ諸事件の連続であるという理論」(144ページ)であるとカーは言う。これによると、アクティウム(現在のギリシアの沖合:清水はアクチウムと表記しているが、アクティウムとするほうが一般的である)の戦闘の結果は、歴史家が通常主張するような理由によるものではなくて、アントニウスがクレオパトラに夢中になったからだということになる。しかし、カーはアントニウスがクレオパトラに夢中になったのも因果論の中に含まれる現象であって、偶然ではないと論じる。〔ここでパスカルの言葉が効いてくる。〕

 本当の意味での偶然というのは、因果関係の連鎖を切断するような出来事であるが、それを考慮に入れたうえで、歴史家の仕事は原因と結果の連鎖を追求していくこと、その意味を求めることなのだとカーは主張する。では、歴史と偶然の問題をどのように考えていくかというのが次の問題になるが、それについてはまた次回に取り上げることにしよう。

 個人の行動が歴史的に意味を持ちうるということを言っているだけのことであれば、カーがバーリンの主張をムキになって論駁しようとしているのは大人げないようにも思える。『ハリネズミと狐』などバーリンの著作を読んで記憶する限りで、バーリンは歴史と個人のかかわりを重視する思想家であったし、それはそれで意味のある議論であると思うのである。 

トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』

5月29日(水)雨が降ったりやんだり

 準備不足であるのは否定できないが、思い立ったが吉日ということもある。2月23日まで41回にわたり紹介したトマス・モア『ユートピア』(Thomas More,Utopia,1516) に続き、近世の注目すべきユートピア文献の一つとされるトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』(Tommaso Campanella, Italian La Città del Sole, Latin Civitas Solis, 1602)を取り上げることにする。
 準備不足というのは手元にほとんど文献がそろっていないことである。マンスフォードやベルネリ、日本では川端香男里氏によるユートピア文献を概観した書物の他には、1967年に現代思潮社から出た坂本鉄男さんによる翻訳があるだけ(岩波文庫に入っている近藤恒一訳も入手したはずなのだが、なぜか手元にない)で、後はインターネットで情報を集めていくよりほかに、この書物について調べていく手だてはなさそうである。モアの『ユートピア』を取り上げたときに比べると、圧倒的に条件が悪い。

 著者であるトンマーゾ・カンパネッラ(1568‐1639)は、イタリアのカラブリア地方(イタリア半島の南の端、シチリア島を蹴とばすつま先に相当する部分である)で貧しい農家の子どもとして生まれ、子どものころから抜群の頭脳の持ち主であることを示したので、ドメニコ会の修道院で勉強することになり、そこで哲学をはじめとする学問に励む。ところが自然学にのめり込み、次第に修道会と教会の上層部から異端視されるようになり、迫害を受けるようになった。彼はまた当時スペインの支配下にあったカラブリアの独立と共和政の樹立をめざす運動を展開した。二重の意味で危険人物だったのである。それで投獄されたり、狂人を装って死刑を免れたりして、生き延び続けた。この『太陽の都』も獄中で書かれたものである。

 1628年に最終的に釈放された彼は、その後もガリレイの宗教裁判で弁護側に立ったりしたために、教会上層部からは反感を抱かれ続けたが、彼に同情的な教皇ウルバヌスⅧ世の計らいで、1634年にフランスに亡命し、最後はパリのドメニコ会修道院でこの世を去った。フランス滞在中に、哲学者・数学者であったピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi, 1592 - 1655)をはじめとする知識人たちと親交を結んだ。このガッサンディは古代のエピクロスの哲学を掘り起こし、デカルトと論争したことで知られるが(スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の中に、アリストテレスの亡霊の前でデカルトの亡霊とガッサンディの亡霊に論争してもらう場面がある)、ホッブズと親交があり、ニュートンにも影響を及ぼすなど、当時一流の哲学者の1人であった。ガッサンディの講莚に(モリエールとともに)連なった一人であるシラノ・ド・ベルジュラック(Savinien de Cyrano de Bergerac, 1619‐1655)の『太陽諸国諸帝国』(Histoire comique des etats et empires du soleil, 1662)にはガッサンディが登場するので、興味ある方は読んでみてください。

 さて、この『太陽の都』は、モアの『ユートピア』に比べて短いし、太陽の都に暮らす人々の生活ぶりもあまり詳しく描かれていない。獄中の不自由な条件の中で書かれたうえに、うっかり権力者の逆鱗に触れるようなことを描けば、首が飛んだり、火あぶりにされたりする恐れがあったので、これは仕方のないところであろう。それにしても、一時はイングランド王国大法官という高い地位にまで昇進した有能な官僚であるトマス・モアが最後は宗教論争の結果として処刑され、危険人物として迫害され続けたカンパネッラが、修道院で仲間たちの祈りの中で死んだというのは運命の皮肉と言わざるを得ない。

 この書物は(坂本訳によれば)「マルタ騎士団の修道士」と(「太陽の都」を訪問して帰還した「コロンブスの航海長をつとめたジェノヴァ人」の対話という形で進められる。「マルタ騎士団の修道士」というのはイタリア語でOspitalarioの訳語だと坂本さんは注記しているが、英訳ではa grandmaster of the Knights Hospitallerとなっており、マルタ騎士修道会の騎士と訳すほうが適切であろう。また航海長は英訳ではsea-captainであり、コロンブスの率いた船団のうちの1隻の船長と考えるのが適当ではないだろうか(もちろん、これは架空の設定である)。
 モアの『ユートピア』も基本的にはヒュトロダエウスとモア(およびピーター・ヒレス)の対話という形で進められているが、『ユートピア』の場合に比べて、対話としての精彩に乏しい。「マルタ騎士団の修道士」は、ジェノヴァ人の発言を促すだけで、ほとんど対話らしい対話は成立していない。ヒュトロダエウスの旅も、この航海長の旅も単独でなされたのではなく、集団の旅行であったことは、彼らがしばしば「われわれ」という言葉を使っていることで分かる。なお、ヒュトロダエウスがアメリゴ・ヴェスプッチの航海に同行して新世界を旅したと語られるのに対し、こちらがコロンブスの航海の航海長をつとめたという設定であることは興味深い。

 修道士の問いに答えて、ジェノヴァ人は言う:
「私がどのようにして世界を一周し、タプロヴァーナ島に到着し、そこに上陸せざるをえなくなったか、そして恐ろしい土人から逃れるために密林に身を隠し、やがて赤道直下の大平原に出たかはすでにお話ししました。」(5ページ)
 マジェランによってはじめられた世界一周の船旅(1519‐22)に同行したイタリア人アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta, 1491‐1534)の航海記(『マゼラン最初の世界一周航海』)の一部がフランス語訳で出版されたのが1525年のことだそうである(全体が知られるようになったのは18世紀にはいってからのことである)、この時代、情報の伝わり方にはかなりの偏りがあり、イタリアの修道士であるカンパネッラのところには太平洋についての情報は入っていなかったようである。旅行の大部分を省略して、問題となる場所だけの描写に語り手の語りを限定するのは、『ユートピア』も同様である。

 「タプロヴァーナ島」は、坂本さんによると、ラテン語ではスリランカのことを言い、モアの『ユートピア』ではそのように理解されているが、当時はスマトラ島と混同されていて、カンパネッラはスマトラ島のこととしてこの個所を書いているという。
 「恐ろしい土人」というのは今日では適切ではない表現とされるだろう。プロジェクト・グーテンベルク所収の英訳ではinhabitants(住民たち)となっている。

 そこで、語り手は大勢の武装した男女に出会う。彼らは語り手の使う言語を理解し、語り手は彼らによって『太陽の都』につれていかれたという。
 いよいよ次回から、「太陽の都」の組織やそこでの人々の生活についての詳しい話が始まることになる。ここで一つ、断っておきたいのは、この書物の標題で、これまでずっと『太陽の都』と訳されてきたが、イタリア語のcittà、あるいはラテン語のcivitasは「市」もしくは「都市」であって、「都」という意味はないことである。だから、『太陽の市』あるいは『太陽市』と訳すのが正しいと思うのだが、これまでずっと『太陽の都』と訳されてきているので、それに倣っていくことにする。この旨、お含みおき願いたい。

『太平記』(264)

5月28日(火)朝のうちは曇り、その後、雨が降りだす。

 暦応5年(この年4月に康永と改元されたが、幕府もそのことを知らなかったと言われる。南朝興国3年、西暦1342年)4月、新田義貞の弟である脇屋義助が伊予の宮方の要請により、吉野を発って瀬戸内海を渡り下向した。これにより守護の大館氏明、国司の四条有資などの宮方は大いに勢いを得たが、5月4日に義助は急に発病し、7日ほどで死去してしまった。義助の死を知った四国の足利方の大将軍細川頼春(頼之の父)は、伊予の河江(こうのえ)城の宮方を攻め、宮方は金谷経氏を後攻めの大将として日比の海上(広島県尾道市日比崎町の沖の海)で戦い、次いで備後の鞆の浦一帯でも戦ったが、その間に河江城は落とされ、金谷経氏も千町原(せんじょうがはら)の合戦で敗走した。

 足利方の大将である細川頼春は、千町原での一日中の戦闘が終わって、味方の軍勢の中の死傷者を点検してみると、700人以上ということであったが(7,000余騎の兵で、300余騎の兵と戦ったことを考えると、これは馬鹿にできない損害である)、敵のほうは270人までが戦死しているので(もともと300余騎だったのが、17人に減ったと前回出てきたので、数があわない)、ほとんど全滅したといってよい――ということで、士卒はみな気勢を上げ、勇みたった。
 この勢いに乗って、すぐに大館氏明が籠っている世田城(愛媛県西条市と今治市の境、世田山にあった)を攻略しようと、8月24日の朝早く、世田城のうしろにある山に登って、城をはるかに見下ろし、1万余騎(千町原のときは7千余騎だった)の自軍を七手に分け、城の四辺に押し寄せて、まず自陣を構えて包囲体制をとることになった。

 敵陣に向かい合って築く対陣(向かい陣)はすでに築き終わっていたので、四方から攻め寄せ、持ち盾を使って城から射かけられる矢を防ぎ、騎馬の侵入を防ぐための乱杭、逆茂木を取り除き、夜となく昼となく猛襲をつづけた。城内では、主な戦力として期待されていた岡辺出羽守の一族が、先日の日々の海上の戦いで自害していた。そのほかの勇士たちは、千町原の合戦で戦死している。
 矢も尽き、食糧も不足しがちになっていたので、これ以上防戦をつづけることも難しくなってきたために、9月3日の暁、大館氏明主従17人が、一の関口(第一の城門)に姿を現し、城のやぐらに取りついていた敵500人を麓のほうに追いやり、一度に腹を掻き切って、枕を並べて伏したのであった。

 大将たちのためにしばらく時間稼ぎで矢を射ていた兵たちも、今はこれまでだと思い定めて、あるものは敵と組み合って刺し違え、別のものは自分たちの詰め所に火をかけて、猛火の中に飛び込んで命を絶った。

 城内の武士たちがこのように一人一人のやり方で自害をとげたのであるが、その中で篠塚伊賀守一人だけは、自害しようなどというそぶりを見せない。大手の一関、二の関を開け放ち、ただ一人立っている。さては降伏するのかと思っていると、そうではなくて、紺の糸で脅した鎧に、龍の頭の飾りを正面につい行けた兜の緒をしめ、4尺2寸(130センチ弱)あまりの太刀を帯び、8尺(2メートル40センチ余)の金さい棒(表面にいぼの付いた鉄棒)を脇に挟み、「どこかでわしの名を聞いたことがあるだろう。いまこそは、近づいて自分が何者であるかを見定めよ。源平の合戦にその名を顕した畠山重忠の6世の孫、武蔵の国に育って、新田義貞殿に一騎当千の武士として頼りにされた篠塚伊賀守とは自分のことだ。自分を討ち取って、おまえたちの手柄にせよ」と大声で言い放ち、少しもためらうことなく100騎ほど控えていた敵兵たちのあいだに、走りかかった。その勢いがよく勇ましげに見えたのと、篠塚の勇名は知れわたっていたために、誰もそれをさえぎろうとしない。100余騎の武士たちは道を開けて彼を通したのである。

篠塚は馬に乗っているわけではなく、弓矢も持たず、ひとりだけで歩いているので、「どれだけのことがあろうか。近づくと面倒なことになるから、遠くから矢をいかけて射殺せ。戻ってきたら馬に乗って攻め立てて矢を射よ」と頼春の率いていた讃岐の藤原姓、橘姓、大伴姓の武士たち200余騎が後を追おうとする。
 篠塚はすこしも騒がず、小歌(南北朝・室町期にはやった短い歌詞の歌謡)を歌いながら、静かに歩いていたが、敵が近づいてくると、「ああ、御辺たち、近づきすぎて、首と胴とが喧嘩別れをすることになるなよ」などと、あざ笑いながら立ち止まる。敵が矢先を揃えてい駆けてくると、「わしの鎧には、おまえさん方のヘロヘロ矢が、突き刺さることはないだろう。まあ、物は試しだ、いて見なされ」などと、背中を見せて休憩をとる。篠塚は武勇に秀でた武士であったので、一人であっても、もしや討ち取れぬこともあるまいと跡を追ってきた200人余りの武士たちを、見送りのようにして、その夜の夜半ばかりに、今張の浦に到着した。

 ここから船に乗って隠岐島(愛媛県今治市の沖にある越智郡上島町魚島の沖島)に落ち延びようと考えて、舟がないかとみていると、足利方の軍船が乗り捨てられて、舟人だけが残っているのが何隻も沖に浮かんでいるのが見えた。これはしめたと喜んで、鎧を着たまま波の上を5町(500メートル強)ほどを泳いで、ある船にがっぱと飛び乗る。
 船乗りや船頭たちが何者だと騒ぐのを、騒ぐな。自分は宮方の落人で篠塚というものである。急いでこの船を出し、沖ノ島に送れとい射、舟人たちが20人がかりで沈めていた碇をやすやすと引き上げ、14・5尋ほどもあろうかという帆柱を軽々と押し立てて、舟の館の中で高枕をして、グーグーといびきをかいて寝てしまった。船乗りや船頭たちはこれを見て、「これは大変な力だ。ただの武士ではないだろう」と恐れおののいて、すぐに帆を揚げて、篠塚を沖ノ島に送り届けて、帰ってきたのである。

 これで24巻は終わるが、語り終えるにあたり、『太平記』の作者は次のような感想と逸話を書き添える。
 楠正成の怨霊と対決することになった大森彦七盛長は、ある僧侶のすすめにより大般若経の読誦を行なうことになったが、その効力は絶大で、亡霊が出現しなくなっただけでなく、脇屋義助、大館氏明、土居、得能にいたる四国の宮方の武将たちが命を失ったり、遁世してしまったのは不思議なことであったという。大般若経は想像以上の威力を発揮したことになる
 さて、怪異を呼び寄せる形になった大森の刀であるが、天下の霊剣であるから大森ごときが持っているべきではないと、足利直義に献上された。しかし、直義はその価値を認めず、特に賞玩することもなかったので、いつの間にか刀は忘れ去られてしまった。

 24巻は四国、特に伊予における宮方と足利方の戦いを描いている。地方の武士である大森盛長が、楠正成の亡霊と対等に渡り合ったというのは、すでに書いたように作り話だろうが、その背後にどのような歴史的事実を認めうるのであろうか。最後に篠塚が豪傑ぶりを見せるのは、軍記物語の常套で、勝敗が決したようなときになって、このような人物の活躍が描かれることが多い。最後の霊剣の話は、直義の合理主義者ぶりを描いているようでもあり、この刀を大事にしなかったことで、その後彼に襲いかかる悲劇的な運命をさし示しているようにも受け取れる。次回は、第25巻に入り、物語の舞台は都に戻る。

日記抄(5月21日~27日)

5月27日(月)晴れ、暑し。

 5月21日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

5月21日
 『朝日』朝刊の「オピニオン&フォーラム」に昨年3月に東京都目黒区で虐待死した船戸結愛ちゃん(当時5歳)の香川県在住時の主治医であった木下あゆみさんが「悲しいより悔しい」と自分の経験を語っている中で、結愛ちゃんが年齢のわりにお利口さんだという印象をもったと語っていたのが印象に残る。そのあらわれ方は違うが、理想の高い親ほど、子どもを追い込むということがいえるかもしれない。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)では、ルーマニア(Roumanie)を取り上げた。フランス語はルーマニアでは公用語ではないが、東ヨーロッパの中では特にフランス語と深い関係のある国だという。18世紀にルーマニアはフランスとの結びつきが始まり、その首都ブカレスト(ブクレシュチ)は「プチ・パリ」と呼ばれていたという。19世紀から20世紀にかけてパリで活躍したルーマニア出身の芸術家や作家たちも少なくない。彫刻家のブランクーシ、詩人のトリスタン・ツァラ、劇作家のウジェーヌ・イヨネスコなどがその中に数えられる。第二次世界大戦後、ルーマニアが社会主義体制に組み込まれても、このフランス語との縁は絶えなかったという。
 現在、ルーマニアのフランコフォンは人口の4分の1にあたる500万人と見積もられている。2006年には東欧で初めてのフランコフォニー・サミットが開催された。
 Emil Cioran, un poète roumain a écrit : ≪ On n'habite pas un pays, on habite une langue. Une patrie, c’est cela et rien d'autre.≫ ルーマニアの詩人エミール・シオランは言っている。「人は国にではなく、言語に住むのだ。それが祖国であり、他の何ものでもない。」
 シオラン(Emil Mihai Cioran, 1911-1995)は、第二次世界大戦後はフランスに住んだ。アフォリズム形式で虚無的な主張を展開する文章に惹かれて、何冊かその本を読んだことがあるが、どんな内容であったかほとんど記憶していない。私がその著作を一番多く読んでいるルーマニア人の著作家は、イヨネスコやシオランの友人でもあった宗教学者のミルチャ・エリアーデ(Milcea Eliade, 1907 - 1986)である。そういえば、学生時代に学生劇団である創造座が上演したイヨネスコの戯曲を見たことがある。

5月22日
 『朝日』朝刊の「オピニオン&フォーラム 耕論」は「東京の大学を目指すな」という政府の施策をめぐって3氏が自分の意見を展開している。東京といっても区部と三多摩とでは(さらに三多摩の中でも)条件が違うことがどれだけ政策立案者の頭に入っているのだろうか。むしろ大学設立に伴う利権あさりに、学生が入学して就職する見通しをしっかり立てずに、地方に大学を建てることの方が問題ではないかと思う。東京の都心部にいれば、大学の教育力が及ばないところを学外の諸施設を利用して補うことは可能だが、地方だとそれが難しくなるということも考える必要がある。

 ”Bienvenue dans la francophonie"は、今回はアルメニア(Arménie)を取り上げた。アルメニアは1991年にそれから独立したが、それ以前の19世紀終わりから20世紀初めに、オスマン帝国に住んでいた多くのアルメニア人が、ヨーロッパ、とくにフランスに移住した。現在もフランスにはおよそ50万人のアルメニア人が住んでいる。
 Les francophines ne représent que 7 % des quelque 3 millions d'Arméniens, mais on dit qu'en Arménie, un élève sur quatre apprend le français à l' école primaire. アルメニアの人口は300万人弱で、フランス語話者はそのうちの7%に過ぎない。しかし、現在アルメニアの小学生の4人に1人はフランス語を学んでいるといわれる。
 2018年に亡くなった歌手・俳優のシャルル・アズナブールはアルメニア人の両親のもと、パリで生まれた。本名はアズナブリアンというのだそうだ。

5月23日
 『朝日』の朝刊の「折々のことば」で鷲田清一さんが故・伊丹十三の「偏見を得ようとするなら、旅行するにしくはない」という言葉を引用している。現地の体験に裏打ちされた偏見ほど強力なものはないというのである。
 その一方で、『日経』の特集連載「令和の知をひらく」(4)で歴史学者の呉座勇一さんが歴史研究の発展の中で情報が更新されていく過程に目を向けず、「絶対の正解 求める危うさ」について語っているのもなかなか説得力に富んだ議論で考えさせられた。

 同じく『朝日』の朝刊に中国の少数民族である満州族(中国では満族という)の人々が祖先を祀る儀式を行っている写真が紹介されていた。満州族の人口は2010年の国勢調査だと約1000万人で、中国の55の少数民族の中で3番目に多いという。しかし、『紅楼夢』の作者の曹雪芹や劇作家の老舎が満族であるというように、言語的には漢族に同化されていることも事実である。満(州)語は中国語(漢語)とは違って、膠着語であり、語順など日本語と同じなので、かつては日本語と同系統の言語ではないかと考えられたこともあるが、現在でもそう考えている人は少ないようである。
 この記事には3番目とあるが、1番多いのがチワン族(壮族)で、満族と回(ウイグル)族が2位を争っているという情報もある(これは数え方によるのではないかと思う)。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』では8代目桂文楽が得意にしていた「かんしゃく」を英語に直したものを放送していた(先週の「馬のす」も文楽が得意にしていた噺であった)。この話は、財界の大立者であった益田孝の長男の益田太郎冠者が作った新作落語であり、太郎冠者にひいきにされていた文楽がそのご機嫌を取るために演じたという背景もあるようだ。

5月24日
 『日経』の朝刊に「縄文人の全ゲノム解読」として、縄文人の形質的な特徴が列挙されていたが、いくつかあてはまる点があるので、私もいくらか、縄文人の血を引いているということだろうと思った。

 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーより:
To love and win is the best thing. To love and lose is the next best. (from The History of Pendennis)
         ―― William M. Thackeray (British novelist, 1811 - 63)
愛して勝ち取るのがいちばんよい。その次によいのは愛して失うこと。

 『NHK高校講座 古典』では『大鏡』の中の「弓争い」の個所を読んだ。まだ出世する前の道長が、甥の伊周が催した弓の競技会に出かけて行き、弓の腕前で伊周を圧倒した逸話を通じて、彼の豪胆な性格を描き出すものである。この時代の貴族たちが弓を嗜んでいたということも興味深い。

5月25日 
 『日経』の朝刊に「外国人にニーズ」があることから、文部科学省が夜間中学を全政令指定都市に設置することを目指すという拡充案をまとめたそうだ。全国に20の政令指定都市の中で、夜間中学があるのは現在7市だという。果たして、全体にいきわたるのはいつのことになるだろうか。

 同じく『日経』に日本通運が来月から中国と欧州を結ぶ貨物列車を走らせるという記事が出ていた。どういう通路を通って荷物を運ぶのか、ちょっと興味がわくところである。

 『NHK高校講座 古典』は『大鏡』の2回目。藤原公任の「三船の才」の説話。道長が洛西の大堰川に文章(漢詩)、管弦、和歌の3つの船を浮かべて、それぞれ船上でその出来栄えを競わせた際に、どの船に乗るだろうかと興味の対象となった公任が、結局和歌の船に乗って、見事に歌を詠んで見せたが、この歌に匹敵するような漢詩を作れればもっとよかったのにといったという話(当時、漢詩を作ることが貴族の一番の教養とされていたので、権力者である道長に漢詩の船での栄冠を譲ったということである)。この場合「才」は「ざえ」と読むのだそうだ。講師の先生は、この本文中の二重敬語(最高級の敬語)の使い方に注目すべきであると指摘、二重敬語は天皇や上皇、摂政関白のような人々にのみ使われる用法であると述べていた。現在、一般の報道では二重敬語どころか、普通の敬語も使わない場合が多い(そのため、読み間違いをした――しなかったなどという騒ぎが起きたりもする)が、今後どうなっていくのであろうか。
 岩波文庫版の『大鏡』の校注者である松村博司によると、『大鏡』の作者は道長を「たましひ」のかしこさ、「心いぢ」の強さを兼ね備えた政治家の理想というべき人物として描き出そうとしているが、同時代の記録である『小右記』などに記された道長は直情径行の部分をもっているという。道長自身の日記(『御堂関白記』)、道長と一条天皇の間で奔走した藤原行成の日記(『権記』)もあるので、『大鏡』が描き出している世界の実像性と虚像性には様々な勝者をあてることができるのである。 

5月26日
 『日経』の日曜日の紙面に掲載されている「名作コンシェルジュ」で、映画評論家の柴山幹郎さんは、小津安二郎の『彼岸花』(1958)について「小津安二郎と山本富士子の相性は、こんなによかったのか」という賛嘆のことばから書きおこしている。この映画を私が見たのは、小津安二郎の伝記映画『生きてはみたけれど』(1983)が製作・上映されたときなので、今をさかのぼることかなり昔であったが、それほど山本富士子の美貌と演技に感心した覚えはない。いま、見ると、また別の感想があるかもしれないと、柴山さんの文章を読んで思った。高橋治の『絢爛たる影絵』には、こんなエピソードが描きとめられている。京都駅の駅長は小津の宇治山田中学時代の友人であり、二人が歓談していると、その脇を美しい女性が挨拶して通り抜けていった。あれは誰だ。山本富士子ですよ。小津のほうは山本富士子をそれと知らず、山本富士子のほうはそれと知って挨拶をして通り抜けた。これも名場面ではなかったかと思う。
 柴山さんは、山本富士子さんが当時の映画界を拘束していた五社協定のために映画界から締め出されたことを残念がっている。結果論になるかもしれないが、五社協定が日本映画界の衰退を加速したとも言えそうである。

5月27日
 『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie”では中東でもっともフランコフォンが多いレバノン(Liban)を取り上げた。
Le français garde dans ce pays une place privilégiée ; près de la moitié des Libanais le parlent ou le comprennennt. À l'école, deux Libanais sur trois choississent le français comme deuxième langue. (この国でフランス語は特権的な地位を保っており、レバノン人の半数近くがフランス語を話すか、あるいは理解する。学校では、3分の2のレバノン人がフランス語を第2言語として選択する。)

 レバノンにはマロン派とよばれるchretiens d'Orient(オリエントのキリスト教徒)の重要な共同体があり、現在も人口の40%ほどをキリスト教徒が占めている。彼らとフランスとの関係は古く十字軍遠征に遡る。フランス語は19世紀にフランスの修道会によりもたらされ、現在も主にキリスト教徒たちによって学ばれているが、最近では英語の影響力が強まっており、レバノンではアラビア語、フランス語、英語の3言語が合わせて使用されているという。2002年には首都ベイルートでフランコフォニー・サミットが開催された。

 ベイルートというと思い出すのが、昔々学生の頃に見たミレイユ・ダルク主演のフランス映画『太陽のサレーヌ』(Le grande sauterelle, 1967, ジョルジュ・ロートネル監督)である。ダルク演じる放浪の女子学生とハーディー・クリューガー演じるギャング崩れの男の恋模様を描いた作品。
 もうすこし年をとってから、ベイルート出身でアラブ世界で絶大の人気を誇る歌手ファイルーズ(1935‐)を知り、彼女の吹き込んだ音声を集めるようになった。彼女はロンドン、パリでも公演をしたことがあるが、現在は引退状態のようである。 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(8)

5月26日(日)晴れ、暑し。

 1811年に出版されたこの小説は、18世紀から19世紀へと移り変わろうとする時代のイングランドの南部を舞台に、理性的な姉エリナーと情熱的な妹のマリアンという2人の美しい、しかし対照的な性格の姉妹の恋の行方を描くものである。
 19歳を迎えたエリナーと16歳のマリアンの姉妹は、長年住み慣れたイングランド南東部サセックス州のノーランド屋敷を、義兄のジョンが相続することになったため、利己的なジョンとその意地悪な妻ファニーに追い出されるように、母親のダッシュウッド夫人、妹のマーガレットともに、南西部デヴォン州のバートン・コテッジという小さな家に移り住むことになる。母親の従兄弟であるサー・ジョン・ミドルトンが噂を聞いて一家に援助の手を差し伸べたのである。新しく移った土地で一家は、サー・ジョンの妻のミドルトン夫人、ミドルトン夫人の母親で世話好きのジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と新たに知り合う。ドーセット州デラフォード邸の当主であるブランドン大佐は30代半ばの独身者で口数が少なく重々しい感じであるが、思慮深そうである。かれはなぜか、マリアンに心を動かされている様子である。
 ある日、マリアンは散歩に出かけた途中でにわか雨に会い、急いで家に帰ろうとして足をくじき、近くのアレナム・コートに滞在しているウィロビーという青年に助けられる。20代半ばで、美男子でスポーツマンの彼と、情熱的なマリアンはたちまち意気投合し、その熱愛ぶりは周囲に知れわたるが、2人が婚約しているかどうかはわからない。
 ある日、サー・ジョンを中心にした物見遊山の行事の直前に、ブランドン大佐が急用だといってロンドンに発つ。それからしばらくして今度は、ウィロビーがアレナム・コートの主人であるスミス夫人の命令だといって、やはりロンドンへ発ってゆく。
 入れ替わりに、バートン・コテッジをジョンの妻ファニーの実の弟であるエドワード・フェラ―ズが訪れる。意地悪な姉と違って心優しく、頭のいい彼は、ノーランド屋敷にいたときからエリナーと心を通わせている様子であった。しかし、なぜか2人の出会いはぎこちなく、もどかしいものに終わる。
 その後、サー・ジョンの邸にジェニングズ夫人の親戚だというアンとルーシーのスティール姉妹がやって来る。愚鈍で下品な姉に比べると、妹のルーシーは美人で抜け目がなさそうな感じであるが、なぜかエリナーに近づこうとする。そして彼女に向かって、自分はエドワードと秘密裏に婚約しているという。エリナーは信じられないという気持ちでいっぱいであったが、やがてそれを受け入れざるを得なくなる。
 冬の社交シーズンを迎え、ロンドンに自分の家があるジェニングズ夫人はエリナーとマリアンの姉妹をロンドンに招待する。エリナーは不承不承、ウィロビーに会いたい思いで一心のマリアンは喜んで、この招待に応じる。ロンドンに到着すると早速、マリアンはウィロビーに連絡をとろうとするが、彼となかなか会うことができない。そのうちに、彼が別の女性と結婚することになっていることがわかって落胆に沈む。そんな時、ブランドン大佐がエリナーを訪ね、彼が自分の父親が後見していたイライザという娘に恋をしていたこと、彼女がマリアンに似ていたこと、イライザが不幸な結婚をしたのち、離婚・零落・窮死したこと、彼女の娘のイライザを後見したいたのだが、ある時彼女が保養地であるバースに出かけてウィロビーに騙され、捨てられたことなどを語る。
 姉妹の後からサー・ジョン・ミドルトンの一家、さらにスティール姉妹、ジョン・ダッシュウッド夫妻もロンドンにやって来る。俗物のジョンはサー・ジョン、ジェニングズ夫人、ブランドン大佐が金持ちだと聞いて、早速紹介を受け、またエリナーにブランドン大佐との結婚をしつこく勧める。彼を始めファニーも、その母のフェラ―ズ夫人もエリナーとエドワードの結婚には大反対であり、エドワードには裕福な娘のミス・モートンとの結婚を勧めようとしているのである。それで、ファニーもフェラ―ズ夫人もエリナーには白い目を向ける一方で、自分の婚約を何とか認めさせようと追従を並べて接近を図るルーシーには心を許しはじめている。ルーシーは自分の優越をエリナーに認めさせようと、エリナーを訪問して自分の成功ぶりを吹聴するが、エリナーは動揺しない。そこへエドワードが現われてその場は、ひどく気まずいものとなるが、大荒れにならずにルーシーもエドワードも去っていく。

 「エリナーとエドワードの再会からほんの数日後、トマス・パーマー夫人が長男を無事出産したと新聞に発表された。これは少なくとも、その事実をすでに知っている親族にとっては、大変興味深い満足な記事だった。」(336ページ)
 トマス・パーマー夫人⦅シャーロット⦆はジェニングズ夫人の次女である。すでに何度か登場して、その時すでに妊娠していることが語られていた。この出産のために、ジェニングズ夫人は産後の娘のそばにいようと思い、ハノーヴァー・スクエアのパーマー家にいることが多くなり、バークリー・ストリートの自分の家を空ける時間が長くなった。エリナーとマリアンはそのため、午前中だけでも自分たちだけで過ごすことができればいいと思ったのだが、ミドルトン夫人が自分たちの家で過ごすようにと熱心に勧めるので、コンディット・ストリートのサー・ジョン・ミドルトンの家で長い時間を過ごさなければならなくなった。
 熱心に勧めてきたわりにはミドルトン夫人は、エリナーとマリアンの姉妹に好意をもっていなかったし、彼女に招待されてこの家に移ってきていたアンとルーシーのスティール姉妹も同様であった。〔だったら、招待しなければいいのに、世間体を気にして「熱心に」招待するところが、偽善的である。〕 「エリナーとマリアンの存在は、ミドルトン夫人にもルーシーにも迷惑だった。ミドルトン夫人の怠惰とルーシーの活動の邪魔になったからだ。つまりエリナーとマリアンが目の前にいると、ミドルトン夫人は一日中何もしないでいることが恥ずかしくなったし、ルーシーのほうは、うまいお世辞を思いついてふりまくのが得意なのに、ふたりの前だと軽蔑されそうで、思うようにお世辞が言えなくなってしまうのだ。」(337ページ) それぞれ勝手な理由である。

 こうしてコンディット・ストリートのサー・ジョンの家は、嫉妬や不満が渦巻いていたのだが、ジェニングズ夫人は一向に気が付かず、若い女性たちが仲良く過ごしているものと思い込んでいた。そして自分が娘と孫をいかにうまく世話しているかという自慢話を事細かに説明するのであった。彼女の唯一の不満は、娘婿のパーマー氏が自分の孫(つまり彼の息子)がほかの赤ん坊と全く違い、世界一かわいい赤ん坊であるということを認めないことであった。

 エリナーとマリアンがジェニングズ夫人とともに初めてハーリー・ストリートのジョン・ダッシュウッド(義兄)宅を訪問した時、ジョンの妻のファニーの知り合いの女性が偶然立ち寄った。「他人というのは、ちょっとした手掛かりだけで勝手な想像をして、われわれの行動について誤った判断を下して、勝手にそう思い込んでしまうものだ。だからわれわれの幸不幸は、いつもある程度は偶然に左右される」(339ページ)というわけで、この女性は、「事実と可能性から著しく逸脱するような勝手な想像力を働かせてしま」(339ページ)い、エリナーとマリアンがジョン・ダッシュウッド氏の妹たちだとわかると、それならこの姉妹はここに滞在しているのだと思い込んでしまった。素子tこの誤解がもとで、その女性の家で催される音楽会への招待状が、ジョン・ダッシュウッド夫妻だけでなくエリナーとマリアンにも送られてきたのである。その結果、ファニーはエリナーとマリアンのために自分の馬車を差し向けるという面倒なことをしなければならなくなった。それ以上に、彼女たちを新設に扱っているふりをしなければならないという彼女にとって極めて不愉快なことをしなければならないことになった。「自分でも悪いと思っていることをする人間は、良い行ないを期待されると不愉快になるものなのだ。」(340ページ)  

 エリナーとマリアンは音楽会に出かけてが、この種のたいていの音楽会と同様に、大したものではなかった。エリナーは特に音楽好きというわけではないし、好きなふりをするつもりもないので、適当にあたりを観察していた。すると、過日、グレイ宝飾店で楊枝入れについて講釈を垂れていたうぬぼれの強そうな若い紳士がいるのに気付いた。しかも彼は義兄のジョンと親しそうに話していたので、後でジョンからその男の名を聞こうと思っていると、なんと2人が彼女のほうへやってきた。ジョンは、「ロバート・フェラーズ氏です」と彼をエリナーに紹介した。彼はエドワードの弟のロバートだったのである。「まさにルーシーが言っていたとおりの、呆れるほどの気取り屋だとエリナーは思った。」(342ページ)
 エリナーとの15分ほどの会話の中で、ロバートは自分の兄がかわいそうなくらい不器用で、そのため上流社交界になじめないのは、不幸にも個人教育(家庭教師による教育)しか受けず、パブリック・スクールに在学しなかったためであると説明する。「エリナーはロバートの意見に反対する気はなかった。パブリック・スクールの教育の利点をどう評価するかは別として、少なくとも、エドワードがルーシー・スティールの叔父であるプラット氏の家に預けられたのは間違いだったと思うからだ。」(343ページ)
ロバートは話題を転じて、「デヴォン州にお住まいだそうですね。ドーリッシュの近くのコテッジに」(同上)という。「この発言には2つの問題があり、まず、「デヴォン州に住んでいながら、ドーリッシュの近くに住まないというのは、かなりな驚きらしい」(343ページ)とエリナーは考える。デヴォンはギッシングが『ヘンリー・ライクロフトの私記』で讃えたように、温暖で、風光にすぐれ、保養に適した場所であるが、現在ではドーリッシュよりも、トーケイ(アガサ・クリスティーの誕生した土地である)の方が保養地として有名なようである。
 さらにロバートはコッテジという建築がかれの好みであるということについて熱弁をふるう。つい先日も知人がボノーミの設計図を3種類広げて、どれがいいか自分に決定してくれと見せてくれたが、3枚とも暖炉にくべて、3枚すべてをやめて、コッテジを建てろといったと自慢する。ボノーミ(1739‐1808)は有名な建築家だそうで、この発言はロバートの不遜さを物語るものであるようである。
 さらに、彼はコテッジがどのような建物であるかどうかを理解していないような発言をする。ケント州のダートフォードの近くに住む友人のために助言したという話をする(ダートフォードは実在の地名で、私も出かけたことがある。ここの町の中等学校は、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが在学したことで知られ、彼の名をつけた音楽センターがある)。エリナーは彼が一方的に自分の主張を語ることに辟易する。

 さて、ジョンもエリナーと同様、音楽には趣味がないので別のことを考えていた。そして帰宅すると、妻のファニーに、自分の義妹であるエリナーとマリアンを自分の家に招待してはどうかと持ち掛ける。自分の義妹を招待するのはごく当然のことではあるが、ファニーは猛反対する。そんなことをすればミドルトン夫人が気を悪くすることになるというのである。そして、その代わりにスティール姉妹を招くべきだという。このまったく筋の通らない議論にジョンは説得されて、スティール姉妹を招待することにする。そして心中「スティール姉妹をすぐに招待する必要があると思うし、妹たちは来年招待するということで、良心の呵責のほうもおさまった。でも同時に、ひそかにこう思った。来年は、エリナーはブランドン大佐夫人としてロンドンに来るだろうし、マリアンは大佐夫妻の客として来るだろう。だから来年はもう、妹たちをうちに招待する必要なくなるだろう。」(346ページ) 何事も、自分に都合よく運ぶと想像するところに、この人物のもう一津の性格的な特徴が示されている。(この種の人物は、それほど希れな存在ではなく、私の知人でもまったく同タイプだと思うような人物がいる。)

 こうしてファニーは「うまく切り抜けたことを喜び、かつ、自分の機転に得意満面となり、翌朝早速ルーシーに招待の手紙を書いた。」(346ページ) ルーシーに書いたというところが問題で、長幼の序を考えれば、アンに書くべきではないかと思う。そのあたり、すでに彼女が取り乱していることを読み取るべきなのかもしれない。もちろん、彼女は、ルーシーとエドワードの秘密裏の婚約については知らぬ仏なのである。
 とはいうものの招待を受けたルーシーは有頂天になり、ミドルトン夫人に招待されていた身の上であることは無視して、すぐにダッシュウッド邸に移ることにする。そして、招待の手紙をエリナーに見せたので、エリナーもルーシーとエドワードの結婚がかなり現実的なものになってきたと思いはじめたのであった。とにかく、意地悪の標本のようなファニーの心を動かし、取り入るのは大変なことだとエリナーは思うのであった。そして、ダッシュウッド邸に移ったスティール姉妹というよりも、ルーシーが、ファニーの心を征服していったという噂が次々に彼女の耳に入ってくるのであった。

 パーマー夫人は出産後2週間ほどすると、すっかりもとの元気を取り戻したので、ジェニングズ夫人も彼女の面倒をつきっきりで見る必要がなくなり、自分の家にいるようになった。そのため、エリナーとマリアンも元のように一日中、ジェニングズ夫人の家で過ごすようになった。
 ところがある日、娘の様子を見に出かけたジェニングズ夫人が急いで戻ってきて、エリナーに次のような話をする。パーマー夫人の赤ん坊に異常があると大騒ぎをしているので、これは乳歯が生える時の症状だから心配ないと言い聞かせたのに、ご本人が納得しないので医者を呼んだところ、やはり、同じ意見だったので、ご本人は納得した。ところが医者が帰る際に、ハーリー・ストリートのダッシュウッド家で大騒ぎが起きたという話をした(現在であれば、医師が患者の私事を他人に話はすべきではないのだが、むかしの話である)。
 ルーシーがファニーをはじめとするダッシュウッド家の人々にすっかり気に入られていることに心を許したアンが、彼女(とエリナー)だけが知っているルーシーとエドワードの婚約について、口に出してしまった。そのためにファニーが猛烈なヒステリーを起こし、姉妹を即座に自分の家から追い出してしまったというのである。

 ジェニングズ夫人はスティール姉妹と遠い親戚なので、ルーシーの味方をして、彼女とエドワードとの結婚には賛成である。エリナーはエドワードのことを気づかいながらも、この一件を冷静に見つめようとする。そしてマリアンにこれまでの事情を打ち明けるが、マリアンは姉がこれまでエドワードとルーシーの婚約を知りながら、ずっと平静な態度を保ってきたことを知り、自分の態度を改めようとする。こうして姉妹は心の底からお互いを理解する。

 翌朝、ジョンがジェニングズ夫人の家を訪れ、3人に前日の「恐ろしい出来事について語り、妻ファニーの現在の状態を報告した」(361ページ)。こういうことで、やって来るのが小心なジョンらしいといえるのかもしれない。ファニーはこの裏切りに衝撃を受けたが、「天使のような不屈の精神であらゆることに耐えてきた」(361ページ)という。彼の話には、ジェニングズ夫人もエリナーもマリアンもあきれ返るばかりなのだが、とにかくエリナーが相づちを打って、話を進ませる。
 さらにこの一件はエドワードの母親であるフェラ―ズ夫人に伝えられ、彼女はエドワードを呼んで、裕福なミス・モートンと結婚すれば自分の財産を分与すると言い聞かせたにもかかわらず、エドワードは頑固にルーシーとの婚約を破棄することを拒んだという。そしてルーシーのような身分の低い女性と結婚するのであれば、親子の縁を切るといったという。
 ジェニングズ夫人は(ルーシーとマリアンも)エドワードがルーシーとの婚約を覆さない決意を支持するのだが、ジョンは大資産家の長男に生まれながら、その特権を手放そうとするエドワードの心理がわからないという彼の主張を繰り返す。そして、財産を失うことになった彼に同情するといって、去っていくが、それをきっかけとして、遠慮の必要がなくなったジェニングズ夫人とエリナーとマリアンは、3人で喧々諤々の議論をつづけたのであった。

 ジェニングズ夫人はエドワードがルーシーへの愛に殉じようとする態度を賞賛したが、エリナーとマリアンとはルーシーがエドワードのそのような行為に値しない女性であることを知っていたので、エドワードの信義に篤い人柄をあらためて認識したのであった(しかし、そのことにより、エリナーの心の中の彼を愛する気持ちがまたもや頭をもたげることにもなった)。
 数日後、ジェニングズ夫人と外出したエリナーは、公園でアンと出会い、エドワードとルーシーの会話を立ち聞きしたという彼女から、事態の一部始終を知る。財産相続の望みを絶たれたエドワードはルーシーと別れようと言い出したが、ルーシーは彼についていくといったという。やがて、ルーシーからエリナーに手紙が届き、同じ趣旨が書かれていた。エドワードがどこかの教区の副牧師の職を得られればいいのだがと、そこには記されていた。その手紙を読んだジェニングズ夫人はルーシーの賢明さをほめたたえる。

 これまで50章からなるこの物語を5章ごとに紹介してきたが、36章から始まる今回から、3章ごとに変更することにした(したがって、今回紹介したのは36‐38章である)。これからの物語の展開は、逆転また逆転で、何が起きるかわからないところがあるのでちょうどいいだろうと思う。マリアンが愛したウィロビーは別の女性と結婚してしまい、エリナーが愛したエドワードもルーシーと結婚しそうな展開になってきた。果たして、この姉妹の恋の行く末は二人が二人とも、悲劇に終わるのであろうか。
 登場人物(特に悪役)の性格描写にいやに現実感があったり、イングランド南部の美しい自然の描写があったりするという魅力もさることながら、この小説の一番の魅力は最後まで、何が起きるかわからないところにあると思う。作者がどんなつもりでこの小説を書いていたかはわからないが、物語を紹介しているだけでも、そういう読者をじらそうとする作者の意図を感じて、それはそれで面白いと思うのである。(1度ならず、2度・3度と読んでいくと、今度は作者の立場に近づいた気分になって、また面白さが違って感じられるのである。) 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(11)

5月25日(土)晴れ、暑し。

第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス

 1957年11月から1958年3月(帰国は4月)にかけて、梅棹忠夫(1920-2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア4カ国を訪問し、熱帯における動植物の生態と人々の生活に関する調査研究を行った。この書物はその旅行の個人的な記録である。
 6人の隊員はバンコクに集合した後、第9回太平洋学術会議に参加して、自分たちのこれまでの研究成果を発表した後、自動車の運転の練習を兼ねてカンボジアのアンコール・ワットを訪問、その後バンコクに戻って、タイ北部における調査の準備を進める。タイには多くの華僑がいて、タイ社会に溶け込んでいる様子に梅棹は感心する。

第5章 熱帯のクリスマス(続き)
 バンコク滞在を通じて観察したタイ人の生活ぶりや気質、そのタイ社会にうまく溶け込んでいる中国人たち、それに比べると数も少ないし、うまく適応しているとは言えないインド人たちの姿を描いた後、梅棹は日本人たちの様子を記述する。

 日本人の生活
 「バンコクには、日本人もずいぶんいる。1000人くらいはいるのではないだろうか。大使館の中に、付属日本人学校があって、高瀬参事官が校長先生を兼ねている。日本から、ちゃんとした本ものの先生も赴任してきている。」(126ページ)
 調べてみると、バンコクの日本人学校は1926年に創立された日本人のための小学校を前身として、1956年に大使館内に開校したもので、この時点では大使館内に設けられてから間もなかったことになる。また、この当時はタイ王国の側からすれば治外法権的な学校であったが、1974年に泰日協会学校としてタイの法律に基づく私立学校となった。前身である磐谷国民学校にはごく短期間らしいが、浅丘ルリ子さんが在校していたことがあるそうである。

 バンコクの日本人は、外交官や商社関係の人が多く、「一種の貴族の生活」を送っている。「上等の住宅に住み、召使を何人も使って、自家用車をもっている。そして、夜は陽気な社交のときである。」(127ページ) それはコン・フランと呼ばれるヨーロッパ人やアメリカ人の社会と似ているという。人種的に見れば、日本人はタイ人に近いので、心理的にも文化的にも深い関係をもつ可能性があるのだが、そうする例は少ないという大使館の石井さんの発言を紹介し、同感の気持ちを記している。この石井さんというのは、この本の下巻で展開される梅棹隊長と吉川隊員のカンボジア、ベトナム、ラオス旅行に同行することになる石井米雄(1929-2010、東南アジア、特にタイの研究で知られ、京都大学東南アジア研究センターや上智大学の教授、神田外国語大学の学長などをつとめた)のことである。
 しかし、欧米人の場合にそうであるように、日本人のなかにも「貴族社会」から脱落した生活を送っている人がいることも書き留めている。〔現在では、かなり様相が変わっているようである。〕

 熱海温泉とお富さん
 梅棹はまた、”ATAMIONSEN"という看板を見つける。バンコクに「熱海温泉」とはどういうことだ。あとで商社の人に聞いてみるとトルコ風呂だという。東京あたりのをまねて作ったものだ。経営者は日本人ではないが、中で働いている女性には日本人もいるという。「とにかく、まことに奇妙なことだが、ここではトルコ風呂はれっきとした日本文化であると考えられている。」(130ページ) 梅棹はそういうが、それがトルコをはじめとするイスラーム圏の伝統的な公衆浴場(トルコ語ではハマーム)とも違うものであることも明らかである。

 「日本の商品はたくさん入ってきているけれど、日本文化は、あまりはっきりした形では入っていない。ただ、日本の映画は人気があるようだ。それから、歌謡曲はかなり入っている。」(120ページ) 梅棹はバンコクの街角で「お富さん」がタイ語で歌われているのを聞く。「お富さん」は春日八郎の1954年のヒット曲である。

 生理的欲求と文化的インポテンツ
 また日本料理店もある。それなりに本格的なものであるが、どうも日本の店の備えている垢ぬけのした清潔感が感じられないという。特に料理を盛る器が悪いことに梅棹は怒りさえ感じている。梅棹の人文研時代の秘書であった藤本ますみさんによると、彼は自宅では河井寛次郎の作品を使用していたし、研究室での昼食についても「食事は儀式の一つだから、お昼の弁当もそれらしく形を決めよう」と漆器店で食器を買ってきて使っていたという。

 しかし、タイに滞在する日本人の中には日本食を食べないではいられない日本人としての生理をもっている人もいる。梅棹隊の6人の中にはそういう人間がいないというのはどういうことかと、彼は自問している。ついでにいうと、私も外国で日本食を食べる気になることはない人間である。タイに出かけたとき、自由時間に同行者が日本料理を食べに出かけたのに、私はイタリア料理を食べに出かけ、まずいので閉口した記憶がある。もっと別の選択をすべきであったと、いまだにそう思う。

 熱帯のクリスマス
 「すでに12月である。熱帯の国にも冬が来た。」(133ページ) とはいうものの一向に冬らしい感じがしない。しかも、一行が訪れた年は、例年に比べて暖冬だったらしい。「ことしは、どうしたかげんか、むやみに暑い冬だそうだ」(同上)という奇妙なことになっている。
 季節は「冬」というよりは「乾季」であり、昆虫採集で捕まえる虫の数が減ってきたことから、季節が動いていることがわかるという。しかし、その割に蚊が多いのには閉口するともいう。

 そんな熱帯のタイでも、12月25日を迎えて、商店街はクリスマスの大売り出しをしている。雪の積もったモミの木や、トナカイの引くソリが飾り付けられているのは、どうも奇妙な感じである。「タイも日本も、キリスト教には転宗しないままで、キリスト教国からクリスマスだけを輸入した。こういう国々で、なぜクリスマスだけが容易に受け入れられるのか、それはちょっと面白い問題である。」(133-134ページ) そういいながら、北半球の日本と、南半球のタイとでは、受けいれ方に違いがあるのではないかとも考える。タイにおけるクリスマスの方が、日本よりもよほど外来性が強いのではなかろうかというのである。

 ラジオから、梅棹の耳に聞き覚えのあるメロディーが流れてくるが、なかなかその歌を思い出せない。「ジングル・ベル」の歌が、大変なスロー・テンポで流されているのでそれとわからなかったのである。「タイの人は、ソリ遊びやスキーを知らないのである。あの軽快なスピード感を知らないのである。」(134ページ) だからこんなにゆっくり、歌を演奏するのだという。
 知る人ぞ知る、梅棹は旧制三高時代の1940年に京都探検地理学会の樺太踏査隊に参加、犬ぞりの性能調査を行い、じっさいに論文を書いている。それは後に、日本の南極探検に利用されることになった。このあたりのことは『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた』(勉誠出版)の14ページに書かれているので、興味のある方はご覧ください。

 暑い熱帯のクリスマスが近づく中で、梅棹たちは、調査旅行の準備を進める。こうして第5章は終わる。

ラブレー『ガルガンチュワ物語』(1)

5月25日(金)晴れ、暑し

 今回から、ルネサンス文学最大の傑作といってよい、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を取り上げる。ルネサンスと書いたが、ラブレー(1483?-1553)はエラスムス(1466?-1536)やトマス・モア(1478‐1535)に比べると年少で、この作品は宗教改革がフランスにも波及して、国内がカトリックと改革派の内戦で騒々しくなっている時代に書かれている。
 (ルネサンスを代表する文学作品として、すでに取り上げたエラスムスの『痴愚神礼賛』とモアの『ユートピア』がそれぞれラテン語で書かれているのに対し、こちらはフランス語で書かれているというところに特色がある。少し乱暴な言い方をすれば、エラスムスとモアがラテン語で会話し、文通するような知識人を相手にその作品を書いたのに対し、ラブレーはもっと広い範囲の大衆を相手にしようとしたと考えられる。また、本の内容も、並外れた巨大な体躯をもつ王子の冒険物語という、大衆受けのする内容となっている。なお、作者はフランソワ・ラブレーという名前を出さずに、Alcofribas Nasier (François Rablaisのアナグラム=換字変名)と名乗っている。そのあたりに、エラスムスの弟子を自称したラブレーの多少の遠慮を認めるべきなのかもしれない。

 この作品の成立事情や意義については、渡辺一夫をはじめとする研究者によって詳しく述べられてきたので、詳しいことを知りたい方はそちらのほうを見ていただきたい。紹介にあたっては、岩波文庫の渡辺一夫訳を使用したが、これはちくま文庫の宮下志朗訳が手元に見つからなかったことによるもので、もし見つかれば、両者を参考にしながら紹介にすることになったはずである。また、英国のDavid Campbell社から出ているEveryman's Library所収のSir Thomas Urquhart and Pierre Le Motteuxによる英訳も適宜参考にしていくつもりである。

読者に〔巻頭の詩〕
 最初に作者が、読者にあてて書いた詩が載せられている。そこでは、読者が偏見をもたずにこの書物を読んでほしいこと、この書物は禍や病気を取り除くといった役には立たない(ラブレーは医者であったことを念頭においてほしい)が、読者に笑いをもたらすことは確かであるとの作者の気持ちが託されている。「笑うはこれ人間の本性なればなりけり。」と、この詩は結ばれている。

作者の序詞
 次に、「世にも名高い酔漢(さけのみ)の諸君、また、いとも貴重な梅瘡(かさ)病みのおのおの方よ」という穏やかならざる書き出しをもつ「作者の序詞」が続く。この書物の読者として想定しているのは、そういう快楽を求めて生きようとしている人々だというのである(さらに言えば、快楽に伴う痛みも経験し、知っている人々である)。
 次にプラトン(を引き合いに出すところが、いかにもルネサンスの作品らしい。「中世最後の人」であるダンテだったら、アリストテレスを引き合いに出すところである)の『饗宴』の登場人物であるアルキビヤデスが、自分の師であるソクラテスを「シレーノスの筥(はこ)」に譬えているところがあるという。このシレーノスの筥は、外見は他愛がないが、中には貴重な香料霊薬が入っているものである。同様にソクラテスも外見は醜くさえないし、その生活や行動にも賞賛すべきところはないが、その内面には「常にその神々しい知恵」が備わっていたのだという。
 何が言いたいのかというと、作者はどうも、この物語が読んで笑い転げるような滑稽な、また波乱にとんだ冒険物語であるとはいうものの、それほど軽佻浮華なものではないといいたいようなのである。つまり宗教、政治、経済についての作者の論評・意見も織り込まれているということらしい。後世の読者である私に言わせれば、宗教、政治、経済についての作者の意見は読者が自分なりに読み取ればいいので、ここでわざわざ断らなくてもいいという気がするが、そう言いたくなるような思いが、ラブレーにはあったということらしい。饒舌な前口上で、ときに読者を煙に巻きながらも、作者は酒を飲んだり、その他のこの世の快楽を味わったりすることの描写を通じても、人生の真実に迫ることができるのだという自分の意見を述べているように思われる。ダンテであれば、地獄に堕ちる原因と考えるような行為にも、それなりの意味があると考えるところに、ルネサンスの精神があるのである。

第1章 ガルガンチュワの系譜と、その由緒ある家柄について
 ガルガンチュワはパンタグリュエルの父であり、この父子の系譜は『第二之書 パンタグリュエル物語』に記されている。実は、『第一之書』は『第二之書』の好評に引き続き、『パンタグリュエル』のprequel (続編だが、正編よりも前の時代を扱うもの)としてかかれたと考えられている。
 この父子は旧約聖書(『創世記』 6.4.6)に出てくる巨人族の子孫であると、ラブレーは言い、その系譜を記した文書が発掘された経緯などを語っている(もちろん創作である)。ここで家系図を納めた箱の蓋にHIC BIBITUR (ここにて飲むべし)と記されていたというのが、ラブレーの人生観を語っていて、「飲む」は酒を飲むという意味と、人生の快楽を味わうというもっと一般的な意味とが込められているように思われる。家系だの、世の中の転変をめぐる作者のおしゃべりはむしろはぐらかしであって、現世中心、人間中心の考え方のほうに、作者の本心があるようなのである。

第2章 一基の古い墳墓中に見出された解毒阿呆陀羅経
 前記英訳ではThe Antidoted Fanfreluches: Or, A Galimatia of extravagant conceits found in an ancient Monument(解毒作用のある飾り:あるいは古代の墳墓で発見された突飛な思い付きのわけのわからないおしゃべり)と訳されている。渡辺訳が簡にして要を得ていることがわかる。
 発掘された文書の末尾に一種の謎詩がついていたと作者は語り、それを書き記している。渡辺一夫はこの詩の真意は十分にはわかっていないが、宗教改革運動、それに伴う国内外の擾乱、初期宗教改革運動者に対する迫害、平和将来の祈願などが内容となっているという点では意見の一致があるという。

第3章 ガルガンチュワが11か月の間母の胎内に宿っていたこと
 ガルガンチュワはパンタグリュエルの父親であるが、彼の父親はグラングージェという王であった(どこの国の王であるか、はっきりしない。物語の展開の中では、彼の居城はラブレーが生まれたといわれる、ラ・ドヴィニエール村に想定されていると、渡辺は注記している。ラ・ドヴィニエール村はシノンの近くだというからサントル・ヴァル・ド・ロワール地域圏の西の端の方のようである)。
 グラングウジェは、その盛りのころにはとあるから人生の第二期黄金時代のころは、陽気な人物で、酒飲みで、「好んで塩辛いものを喰った」(34ページ)。また彼は、蝶々(パルパイヨ)国王の姫でガルガメルという女性を妃に迎え、彼女はめでたく懐妊、なんと11か月の間妊娠し続けた。そんなことがあるはずはないという異見に対し、ラブレー(彼自身医者であるから、そんなことあるわけがないのは先刻ご承知なのだが)はいろいろと言を弄して、その可能性は否定できないという。ここは、主人公の並外れた性質を大げさに言い立てるために、そのように話を進めていると受け取っておこう。とにかく、まだ主人公は母親の胎内にいて、この世に生まれ出ていないというところで、今回は話を打ち切っておく。次回に、主人公誕生となるはずである。

E.H.カー『歴史とは何か』(16)

5月23日(木)晴れ、気温上昇

 今回から「Ⅳ 歴史における因果関係」に入る。その前に、これまでの内容を簡単にまとめておく。
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史の研究は、現在を生きている歴史家と過去の事実との絶えざる対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人の関係は相互的なものであり、歴史家もその時代の社会の中に生きている存在であるから、歴史は現在の社会と過去の社会との対話という性格をもつ。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史研究は人間とその環境の間で起きた出来事の説明を求めるという目的において、科学と共通する性格をもっており、そのより詳しく納得のいく説明を求め続ける過程という点でも科学と同様である。道徳的な価値には不変の部分があるが、歴史的に条件づけられた部分によってその価値が具体化されていることも無視できない。そのことを忘れて道徳的な判断を歴史に適用すべきではない。

Ⅳ 歴史における因果関係
歴史の研究は原因の研究
 この項は「ミルクを鍋で沸かすと、ふきこぼれます」(127ページ)と書き出されている。ここは「ミルク」ではなく、「牛乳」と訳すべきであろう。〔ある喫茶店に外国人男性が入ってきて”A hot milk, please.”と注文したところ、ウェイトレスが「あったかい牛乳をお願い」とキッチンに伝えたという笑い話があるが、それとは話が違う。〕
 出来事には原因があり、結果がある。歴史的な事実にも当然、その背景をなす原因がある。しかし、歴史的な著述の中でも、出来事の原因を問わずに、起きた事実だけを記述することの方が多くなっているように思われる。複雑な背景をもつ出来事に、簡単すぎる説明を与えることは避けるべきではあるが、歴史家の仕事はなぜ、その出来事が起きたのかというを問い続けることであるとカーは言う。さらにこの問いは、絶えず更新されるべきものであるともいう。

 <歴史の父>と呼ばれるギリシアのヘロドトスは、その『歴史』を、ペルシア戦争はなぜ起きたのかという問いから書きはじめたということに、カーは読者の注意を向ける。彼は「その著作の開巻第一、自分の目的を規定してギリシア人および野蛮人の行為の記憶を保存すること、『なかんずく、彼らの間の戦闘の原因を明らかにすること』」(128ページ)であると述べた。
 なお、英語のhistory(さらにはフランス語のhistoire)という言葉は、このヘロドトスの『歴史』の書き出しの部分に由来するのであり、また、ヘロドトスが「戦闘の原因」として「東西の文明の衝突」を挙げていることも知っておいてよいことであるが、カーの講演を聴いている人々は、そんなことは承知であるから、省かれているということであろう。カーが強調したがっているのは、歴史研究とは過去の出来事の原因を追究することだ、それを最初に提案したのが、ギリシア人のヘロドトスだということである。
 うっかり、ヘロドトスはギリシア人だと書いてしまったが、彼の出身地であるハリカルナッソスは小アジア(現在のトルコ)にあったギリシア人の植民市であり、ペルシア帝国がその版図を拡大していく過程で、その中にのみ込まれた。つまり、ヘロドトスはギリシアとペルシアの衝突の最前線にいた人物であるということも注目されてよい。ヘロドトスの主な活動の場はアテナイであり、ギリシア語で著述をしたのだから、やはりギリシア人というのが正しいのだろう。それに、彼は「ギリシア人および野蛮人」という中華思想ならぬ、中希思想のような書き方をしている〔岩波文庫に入っている松平千秋の翻訳ではさすがに「野蛮人」は使わずに、「異邦人」と訳している〕ことからもうかがわれる。ギリシア人は自分たち以外の人々をバルバロイと呼び、それが英語のbarbarianの語源になっていることもご存知の方は多いと思う。このあたり柳沼重剛『語学者の散歩道』(研究社、後に岩波現代文庫)の特に「ヒストリアはいつから歴史になったか」)から知ったことが多く、あらためて読みなおしながら書いた。柳沼は松平の学生だったことも付け加えておこう。

 自分の課題とする探求のために、ヘロドトスは地中海東部からアジアの内陸部にかけて広く旅行しながら、いろいろ情報を集めた。その結果、彼が自分で調べた部分についての情報は正確だが、彼が伝聞した情報についてはどうも怪しげだという評価がされてきた。むかしの歴史書というのは、日本や中国の場合でもそうだが、実際に確かめることのできる歴史的な事実の記述と説話的な要素が入り混じっている。ヘロドトスの書物も例外ではないのである。〔説話的な要素が悪いというのではなく、それはそれで昔の人の考えや気持ちを知るうえで、そちらのほうが重要な場合もある。実際のところ、私は歴史より説話のほうが好きである。〕

 その点、ヘロドトスの後、アテナイで活躍し、アテナイとスパルタの間の戦争についての『歴史』を書いたトゥキュディデスのほうが場当たりを狙わずに歴史的事実を忠実に再現しているという評価もあるが、彼は「因果関係について明確な観念をもっていなかったという非難を受けている」(128ページ)とカーは記す。巻末の注によると、この評価はF.M.コーンフォードのものだそうである。トゥキュディデスの場合、「歴史は繰り返す」という言葉が彼に帰せられているように(寺田寅彦の「天災は忘れたころにやってくる」と同じで、正確にそういうことを言っているわけではないが、トゥキュディデスの言っていることを要約してまとめると、そういう意味に受け取れるということである)、同じような重大な事件は歴史の中で何度も繰り返されるから、今、自分の目の前で起きている重大な事件(すなわちペロポンネソス戦争)を正確に記録しておけば、後世の役に立つだろうというのが動機となっていたようである。もちろん、だからこそ、原因の究明も必要だという考えも出てくるはずだが、そこまでは考えなかったということらしい。

 歴史とは、なぜその事実が起きたかという因果関係の探求であるというヘロドトスの考えをよみがえらせたのは、18世紀のフランスの思想家モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689-1755)であるとカーは言う(カーがそういっているということであって、私が確認したということではない)。モンテスキューは『ローマ人の偉大、興隆、没落の諸原因に関する考察』(Considérations sur les causes de la grandeur de Romains et de leur décadence, 1734)という考察の中で、「あらゆる王朝のうちに作用して、これを興し、これを保ち、これを亡ぼす、精神上および物質上の一般的諸原因がある」(128ページ)、そして「すべての出来事はこれらの原因に従う」(同上)というのをその出発点とした。その数年後、彼は『法の精神』(De l'esprit des lois, 1748)において、彼がすでに述べた考えをさらに一般化して、世界の中で起きている様々な出来事は、盲目の運命が生み出したものではなく、事物の本質に由来する何らかの法則あるいは原理に従って起きているのであると論じた。
 それから200年ほどの間は、法則あるいは原理が何に由来すると考えるかをめぐっては様々な議論があったが、歴史をつらぬック法則あるいは原理のようなものがあるという点では多くの人々の意見は一致していた。〔なお、ここで『ローマ人の偉大…』と訳されている書物は、『ローマ人盛衰原因論』という題名で岩波文庫に、『ローマ盛衰原因論』という題名で中公クラシックスに入っている。前者は、昔読みかけたことがあるはずだが、何が書いてあったか全く記憶がない。〕

 ところが最近10年間――ということは1950年代から60年代にかけてということだろうが、風向きが変わってきて、原因とか結果とか、法則とか原理とかいう言葉を避けるようになった。これには哲学からの影響もあるのだが、話が複雑になるので、原因という言葉を使い続けると、カーは述べている。

原因の多様化と単純化
 そこで、最近(カーの時代)の傾向として、歴史家がある事件の原因ということについて述べる際に特徴的なことが2つあるとカーは言う。第一は、一つの事件についていくつかの原因を挙げるのが普通だということである。経済的、政治的、思想的、個人的な原因を列挙するということになるだろうというのである。
 そこで第二の特徴が顔を出す。それらの多くの原因をだらだらと列挙するだけではだめで、それらの原因相互の関係を整理して、何がもっとも重要な原因であったかを論じなければならない。
 多くの人が原因をあげることと、その中で何が重要かを選び抜くこと、原因の多様化と単純化は、お互いに矛盾対立する作業であるが、その作業を進めていくことにより研究の前身が得られるのだとカーは述べている。

 今回は脱線を誘うような材料が多くて、あまり進まなかった。次回からは、もう少ししまっていこうと思う。
 カーは彼の時代には経済的な原因が重視される傾向があると書いているが、その後は、(少子高齢化に端的に表われている)人口学的な原因とか、(環境破壊などに現われている)生態学的な原因というような議論も出て来て、話はさらに複雑になっている。
 もう40年くらい前に、学生を指導していて、アナール学派の文献など多少かじっていた私が、人口学的な影響に目を向ける必要があるというようなことをいったら、その学生が経済的な影響を重視する他の先生の考えに影響を受けていたのか、でも経済的な影響も考えなければいけないのではないですかというようなことを言った。だったら、その経済的な影響を重視する先生を指導教官に選べばいいのに、私の指導下に入ってきたのは大いに迷惑であった。あるとき、いくつかの国々のGNP(その頃はGDPではなくGNPを重視した)を調べてこいと言ったら、GNPの成長率を調べてきたので、まったくこれでは役に立たないと呆れたことがある。経済的なことを重視するのであれば、経済についての正しい知識を持つべきなのである。まあ、厳しく指導しなかった私も悪いとは思う…。
 まったくの余談になるが、ヘロドトスの『歴史』の翻訳者として名を挙げた松平千秋は京大の西洋古典学の先生であった。松平という姓が示すように、彼は久松松平氏の末裔で、徳川・松平一門で構成する柳営会という会の責任者をしていたことがあるそうだ。久松松平氏は徳川家康の母お大の方(伝通院)が再婚して生んだ家康の異父弟たちの子孫である。
 

陶淵明「園田の居に帰る五首」より第三首 戯訳

5月22日(水)晴れ

種豆南山下 草盛豆苗稀
晨興理荒穢 帶月荷鋤歸
道狹草木長 夕露沾我衣
衣沾不足惜 但使願無違

豆を南山の下(ふもと)に種(う)えしが
草盛んなれば 豆の苗稀なり
晨(よあけ)に興(お)き 荒穢理(たがや)し
月を帶(つ)れ 鋤を担いて帰る
道狭く 草木長(の)び 夕露わが衣を沾(ぬ)らす
衣の沾(ぬ)るるは 惜しむに足らず
ただ願をして違(たが)うこと無からしめよ

山のふもとに 畑を作り
豆をまいたが 雑草茂る
朝早くから やせ土相手
月を仰いで 夜帰る
草木で狭い道すがら
夜露で着物が濡れかかる
着物が濡れても仕方がないが
ぜひとも成就しておくれ
畑で生きる わが願い

 5月8日に出井康裕『移民クライシス』の紹介・論評を終え、水曜日は新しい記事を掲載するつもりだったが、15日は研究会の予定があったので、陶淵明の詩の戯訳でお茶を濁すこととなった。本日こそは、新しい記事を書こうと思っていたのだが、19日の月曜日、20日の火曜日と体調を崩し、まだ本調子が戻らないので、先週に引き続き、陶淵明の作品を取り上げて日本語訳を試みた。幸い、体調も良くなってきてはいるので、来週は新しい取り組みができるだろうと思う。

『太平記』(263)

5月21日(火)風雨ともに激しかったが、次第にやむ。

 暦応5年(この年の4月に康永と改元されたが、多くの人が知らなかった、南朝興国3年、西暦1342年)4月、伊予の宮方の武士たちの要請を受けて、吉野から新田義貞の弟の脇屋義助が派遣され、守護の大館氏明、国司の四条有資らの宮方が勢いを得た。しかし、5月4日に義助は急病に倒れ、7日後に死去した。義助の死を知った足利一族の細川頼春(頼之の父)は、伊予の河江(こうのえ)城の宮方を攻め、宮方は新田一族の金谷経氏を後攻めの大将として、日比の海上(広島県尾道市の沖合)で戦ったが、風向きが変わったことで足利方が優勢となり、宮方の舟は伊予のほうに押し流された。

 夜になって、風が少し静まって来たので、宮方の兵たちは、どうも我々は運が悪かったようだ、そういう時は何をしてもうまくいかない。元出た港にこぎもどるのがよさそうだと言い出した。これに対して大将の金谷経氏は「運をはかり、勝ちを求めるは、自分の命を全うして功名をたてようとするもののすることだ。われわれは大将として脇屋義助殿にお出ましを頂いたのに、その義助殿がなくなられてしまい、もはや運に見放されているのだ。そこで捨て身の合戦をしようとしているときにあたって、運がいいとか悪いとか言っていられない。ここは一つ、敵の本拠である備後の鞆(広島県福山市)に奇襲をかけて、その城を落し、そこを拠点として中国地方各地から味方が集まってくれば、西国に勢いをふるうことができるだろう」と言い、その夜遅く、備後の鞆へと押し寄せた。

 鞆の城中はほとんど無勢であったので、残30人余りの武士たちはしばらく戦ったが衆寡敵せず全員討死した。宮方の武士たちは、この勝利で気勢を上げて、大炊島(福山市鞆町後地のことかという)を攻めの城に構え、鞆の浦に兵を集め、小豆島、武島(むしま)からも味方が到着するのを待っていた(小豆島の飽浦信胤、武島の安間=あま、小笠原一族が宮方に味方して、脇屋義助を伊予へ送り届けたことはすでに見た)。ところがそれよりも早く、足利方の兵が備後、備中、安芸3カ国から3千余騎で押し寄せてきた。

 宮方は大炊島を背にして、鞆の港の東西の泊に舟を漕ぎよせて、上陸しては戦い、不利になると海に戻るという戦法で、次々に控えの新しい兵士たちを出して戦った。足利方は小松寺(福山市鞆町後地にある万年山小松寺)に陣地を構え、浜の方面に騎馬の兵を出し、宮方の兵を蹴散らそうとする。互いに攻防入り乱れて、なかなか勝敗の決着がつかないまま十余日が過ぎたころに、伊予の土肥義昌の河江城が落城しただけでなく、細川頼春がその勢いに乗って、大館氏明の世田城(愛媛県西条市と今治市の境、世田山にあった)に攻め寄せたという情報が伝わってきた。氏明とともに戦ってきた土居、得能らの武士たちは、同じ死ぬのであれば、自分の国の伊予で死のうと、大炊島を去って、伊予に戻っていった。

 敗軍の士卒の数を数えてみると2千余騎であったが、その中で日ごろから手柄を立ててその名を顕している武士を300騎選び出して、騎馬で正面からぶつかり合う戦いを挑もうとした。これは細川頼春の率いる軍勢が自軍よりもはるかに多勢であることと聞いて、寄せ集めの軍勢ではかえって自軍の中の弱い部分に足を引っ張られて負けてしまうだろう。ただ一騎当千の武士たちを選び出して、敵の態勢をかけ破り、大将である細川頼春と組み合って刺し違えようというのがその考えである。
 そこでとにかく細川勢が伊予の国の奥に入ってこないうちに出発しようと金谷経氏を大将として、えりすぐりの兵300騎、みな曼荼羅を母衣(ぼろ=後方からの矢を防ぐために背負う袋状の布)にかけて決死の覚悟を示し、ふつうであれば吉日を選んで出陣するのを、生きて帰る事もないだろうと十死一生の日という大凶日にわざわざ出陣したのであった。

 一方、こちらは細川頼春である。7千騎の兵を率いて千町原(西条市千町辺りの地)に出てきて、敵の陣をうかがうと、広々とした野原に、新田の中黒の紋を記した旗が、1流れ差し上げられて、わずかに300騎ばかりの兵が従っているだけである。これを見た頼春は「伊予の国の宮方がこれほど小勢であるとは思わなかったが、いま見える兵の数が少ないのは、必ずや群を抜いてすぐれた兵をえりすぐって、大勢のなかをかけ破り、頼春に近づくことがあれば、組んで勝負をしようと企んでいるのであろう。小勢ではあっても精鋭が決死の覚悟で戦いを挑んでくる場合には、手に負えずにこちらが打たれてしまうかもしれない。敵が味方の陣を破ろうとしたら破らせて、その上で敵の退路を断て。馬の轡を揃えてかかってきたら、退却して敵の馬の脚を疲れさせよ。太刀での戦いになって一対一になったら、間合いを取って馬に鞭を当て、体をねじらせて矢を射て敵を射落とせ。敵が疲れたと見えたら、こちらは疲れていない新しい兵を出して取り囲め。近づきすぎて、敵に組み付かれないようにせよ。退却するときはバラバラになるな。敵が小勢だといって馬鹿にせず、1騎に10騎をもって対戦すべきである。飽くまで敵を疲れさせることを心がけて、疲れたところをやっつけろ」と指示をした。そして第1陣の兵を率いて出陣した。

 合戦の前には矢合わせをしたりするものであるが、この場合は両軍がいきなり戦闘態勢に入ってしまった。宮方の300騎はみな、弓矢を投げ捨て、打物つまり太刀打ちだけの戦いをめがけて、頼春の率いる兵たちを目指してまっしぐらに攻め寄せる。頼春の馬まわりは、讃岐の藤原氏の姓の武士たち:詫間、香西、羽床らの一族500余騎がいたが、大将の指示が行き届いていたので、左右へさっと分かれて、敵を通した。宮方の武士たちは、この500余騎の中に敵の大将がいるとは思わなかったので、彼らには目もくれずにそのまま駆け抜けて、二陣の敵に攻めかかる。
 二陣には讃岐の三木、阿波の坂西(ばんぜい)、坂東の兵が集まって、700騎ほどで控えていたが、宮方の強襲に散らされて、南の方の山に逃げ登る。これもまたはかばかしい敵ではないとみて、三陣の敵に襲いかかろうとする。

 三陣には詫間(香川県三豊市詫間町の武士)、香西(高松市香西の武士)、三木、寒川など讃岐の橘姓の武士たち、阿波、淡路に住んだ小笠原一門の武士たちが2千余騎で控えていたが、その中に攻め込んで、この中に大将がいるに違いないと、組打ちの戦いに持ち込んで、くんずほぐれつをつづけたが、300騎のうち283騎は討たれて、17騎だけが残った。
 その17騎というのは金谷経氏、河野通里、河野一族の得能弾正、日吉大蔵左衛門(今治市日吉に住んだ武士)、杉原与一、富士六郎、高市野三郎左衛門(今治市高市に住んだ武士)、河野一族の土居備中守、浅海六郎であった〔後の8人の名は挙げられていない〕。彼らは激しい戦闘をつづけたにもかかわらず、ほとんど大きなけがも負わず、疲れた様子もなかった。そして、一箇所に馬を集めて、敵の大将がどのような馬に乗り、物の具をつけているかがわからないので、誰が大将か見極めがたい。たいしたことのない軍勢と戦って討ち死にするよりも、ここは敵をうち破って生き延びることにしようと一決して、17騎の武士たちは方向を転換、7千余騎のなかをさっと駆け抜けて、1騎も討たれることなく、落ち延びていったのであった。

 金谷経氏の決死の覚悟を見抜いて、周到に対策を立てる細川頼春の武将としての見識も注目される。正面衝突しても両軍の兵力の差を考えると勝てるはずの戦いであるが、味方の被害は少ないに越したことはないのである。すでに何度も書いているが、頼春は『太平記』の4人目の主人公ともいうべき細川頼之の父であって、頼之は『太平記』の編纂に大きな役割を演じたという説もあるから、このあたり自分の父親のことを詳しく書かせたということもあるのであろう。
 その一方で、敵の大将を見つけ出すことができず、方針転換をして落ち延びていく金谷経氏の現実的な判断もいかにも『太平記』らしいといえる。 
 

日記抄(5月14日~20日)

5月20日(月)曇り

 5月14日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正等:
 「日記抄(4月23日~29日)」の中で、『千載和歌集』所収の歌では、平忠度の「さざ波や」と、平康頼の「薩摩潟」の2首くらいしか知っている歌はないと書いたが、もう1首知っている歌があった。それは源義家の「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」という歌である。奥州への入り口である勿来の「勿来」を「吹いてくるな」と読み解き、その名にもかかわらず山桜の花が道も狭く見えるほどにたくさん散っているなぁという歌である。義家は、この歌の他にあまり歌を詠んだという話を聞かない。

5月14日
 アメリカの歌手で、ミュージカルやサスペンス映画への出演でも知られるドリス・デイさんが13日、米カリフォルニア州カーメルバレーの自宅で肺炎のため死去された。97歳。彼女の出演作品で見ているのは、『カラミティ・ジェーン』(1953、デイヴィッド・バトラー監督)、『知りすぎていた男』(1956、アルフレッド・ヒッチコック監督)、『パジャマゲーム』(1957)、『先生のお気に入り』(1958)、『マーメイド作戦』(1966)で、この他、『ジャンボ』(1962)をテレビで断片的に見たという記憶がある。テレビの『ドリス・デイ・ショー(ママは太陽)』なども見た。どうしても、映画よりも歌の方が印象に残ってしまうのは、仕方のないところであろう。ご冥福を祈る。

5月15日
 日本映画を代表する女優として国際的にも名声を馳せた京マチ子(本名=矢野元子)さんが12日、心不全のため東京都内の病院で死去されていたことがわかった。日本映画を代表する女優というと、田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、京マチ子だと思っていたが、これで全員が死去されたことになる。さびしくてならない。
 ところがほかの3人に比べると、京さんの出演作はあまり見ていない。それでも調べてみると『雨月物語』(1953、溝口健二監督)、『赤線地帯』(1956、溝口健二監督)、『夜の蝶』(1957、吉村公三郎監督)、『玄海遊侠伝 破れかぶれ」(1970)、『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975、新藤兼人監督)を見ていることがわかった。とにかく、心からご冥福をお祈りするものである。
 5月15日付の『音・風・水』に『羅生門』(黒澤明監督)の予告編が貼り付けてあって、大いに喜んで鑑賞した。この予告編は当時大映の助監督だった加藤泰が作ったといわれる。予告編は、どうも助監督が作るものらしく、そういうことを知っていると、また映画を見る楽しみが増えるのである。

5月16日
 『朝日』の「天声人語」に万能の天才といわれるレオナルド・ダ・ヴィンチは飽きっぽく、物事を途中で投げ出す性格であったと書かれていた。その中に、レオナルドは学校教育を受けていないと書かれていたが、彼が少年時代を過ごした15世紀の組藩は、学校教育を受けない方が一般的で、学校教育を受けるのはかなり特殊な例であった。それに、レオナルドはアンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435?-1488)という当時一流の画家、彫刻家、建築家、鋳造家、金細工師のもとで修業しているので、教育については恵まれていたというべきである。ヴェロッキオの弟子の一人(弟子ではなくて、協力者だったという説もある)ボッティチェリで、レオナルドと仲が良かった。さらに、ヴェロッキオの弟子ペルジーノの弟子がラファエロ、もう一人の弟子ギルランディオの弟子がミケランジェロである。ヴェロッキオは美術工芸だけでなく、音楽などにも造詣が深く、弟子の才能を発見し、のばすことに長けていたといわれる。レオナルドの飽きっぽさは別にして、彼の「万能の天才」ぶりの一部は、師匠から受け継いだものであり、また時代の空気がそういうものだったということを忘れてはならない。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の木曜日の放送は落語をもとにした短い話を取り上げているが、今回は「馬のす」。釣りに行こうと道具を調べたら、天蚕糸が巻いていたので、近くにつないであった馬のしっぽの毛を抜いて代わりにした男に、その友人が「馬のしっぽを抜くと大変なことになる」と言うが、どんなことになるかは言わない。毛を抜いた男が心配して聞き出そうとするが、友人は酒をゆっくり飲みながら枝豆を食べて、一向に話そうとしない…。8代目(先代)の桂文楽が演じた噺で、今の落語家で演じる人がいるのだろうか。矢野誠一の『落語手帳』によると、文楽はこれを3代目三遊亭圓馬から教わったそうだ。サゲはあっけないのだが、そこまでもっていく文楽の間の取り方のうまさ、また枝豆を食べるしぐさなどは多くの人々が褒めている。文楽は3代目の円馬を大いに尊敬していたが、円馬については、名人だったという人と、それほどでもなかったという人がいて、意見が分かれている。

5月17日
 京都市東山区の鎌倉幕府の六波羅探題の政庁跡から、さらに古く、平氏政権の時代の六波羅のものと思われる石垣が出土したそうだ。六波羅に平氏一門の邸があったというのは文献には記されていても、考古学的に実証されていなかったが、これは大きな手掛かりになりそうだという。私などは、そんな昔から石垣というものが組み立てられていたことのほうに関心が行くのであるが・・・。

5月18日
 教育再生実行会議が高校の普通科の組織再編を提言した。現在の普通科が優位の高等学校の在り方は、社会の現実の反映という側面があり、現実を無視した「改革」によってどうなるというものでもないと思うのだが、そのあたり、どのように認識されているのであろうか。聞くところによると、この種の教育改革の集まりは、世間話に毛の生えたような(自分の娘がとか、甥がとかいうレベルの)教育についての知見に基づいて、あるいは外国の教育についての間違った情報に基づいて進められることが多いというので、そのあたりから「改善」していくことが必要であろう。

5月19日
 アメリカの作家ハーマン・ウォークさんが、17日にカリフォルニア州パームスプリングズの自宅で死去されたそうだ。103歳。ロシア系ユダヤ人としてニューヨークに生まれ、太平洋戦争への従軍中に書いた最初の小説を戦後に発表、作家生活に入った。51年の『ケイン号の叛乱』はベストセラーになり、ピューリッツァー賞を受賞した。この作品はハンフリー・ボガート主演で映画化されたのを私もTVで見ている。Marjorie Morningstarはナタリー・ウッド主演で映画化されたが、あまり話題にならなかった(日本での公開題名は『初恋』)。ただ、この小説を読んで面白かったと、渡部昇一が『知的生活の方法』の中で書いていたのをなぜか記憶している。

5月20日
 『朝日』の朝刊に「70歳まで働くなら七つの選択肢」という記事が出ていた。70歳までの就労促進に政府は乗り気らしいのだが、『日経』の朝刊には「高齢者雇用拡大 『体力面で困難』」という日商の中小企業調査の結果が掲載されていた。高齢者の雇用にしても、外国人労働者の受け入れについても経団連や経済同友会の意見が前面に出てくるが、大企業の利益代表であるこれらの団体が問題の本質に迫っているとは必ずしも言えない。中小企業の意見を代表する日商の積極的な発言をもっと期待したいところである。

 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francphonie" (フランコフォニーへようこそ)では、欧州連合(EU)のなかでのフランス語の位置について概観した。
 En Europe, avec 12% du total des cotoyens qui le parlent, le français se classe au quatrième rang après l'allemand, l'anglais et l'italien. En outre, les Européens parlant le français comme langue étrangère représentent 12% du total et se situent au deuxième rang, suivant les anglophones. En Europe, l'objectif est que tous les citoyens connaissent deux langues en plus de leur langue maternelle.
市民は全体の12%で、ドイツ語、英語、イタリア語に次ぐ第4位です。また外国語としてフランス語を話すEU市民は全体の12%で、英語に次ぐ第2位となっています。ヨーロッパではすべての市民が母語の他に2言語を身につけることが目標に掲げられています。
 EU内部ではフランス語よりも、イタリア語を母語とする市民の方が多いというのはちょっとびっくりした。英国がEUから離脱すると、この順位には変動が起きるだろうが、英国の他にアイルランドも英語国なので、英語がEUの公用語の地位を失うことはない。 
 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(7)

5月19日(日)晴れ

 18世紀末か19世紀のはじめごろのイングランド南部を舞台に、理性的な姉エリナーと情熱的な妹マリアンという対照的な性格を持つ2人の美しい姉妹のそれぞれの恋の行く末を描くこの小説は、ジェイン・オースティンが1811年に「一婦人」という匿名で出版した作品であり、その後200年以上の年月にわたって、多くの読者に読まれてきた。
 長年住み慣れたサセックス州のノーランド屋敷を、義兄のジョンが相続することになり、利己的な義兄と、彼に輪をかけて意地の悪いその妻ファニーに追い出されるように、エリナーとマリアンの姉妹は、母親(ダッシュウッド夫人)、妹のマーガレットとともにデヴォン州のバートン・コテッジに移り住むことになる。ダッシュウッド夫人の遠縁であるサー・ジョン・ミドルトンが一家に好意の手を差し伸べたのである。
 移り住んだ土地で、一家はサー・ジョンの妻のミドルトン夫人、その母親のジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというドーセット州デラフォード屋敷の主人ブランドン大佐と知り合う。娘2人を嫁がせた裕福な未亡人であるジェニングズ夫人は、その世話好きな性格から姉妹の良縁を望む。重々しいが、思慮深そうな感じのブランドン大佐は過去に不幸な恋愛をしたことがあるというが、なぜかマリアンに心惹かれる様子である。一方、ノーランド屋敷にいたときから、エリナーはファニーの弟で、姉と違って気立てがよく知性的なエドワードとお互いに憎からず思っていた。それに気づいたファニーは、弟がもっと裕福な女性と結婚することを望んで、この後ことあるごとに、2人の仲を裂こうとする。
 ある日、マリアンは近くのアレナム・コートという邸宅に滞在しているウィロビーという青年に、けがをしているところを助けられ、お互いに情熱的な性格の2人はたちまちに意気投合する。しかし、2人が婚約を交わしたかどうかは、周囲の人間にはわからないままである。
 10月も終わりに近づいたある日、ブランドン大佐が急にロンドンに出発する。どうも、みんながいろいろと推測している彼の秘密と関係のある用事らしい。それからしばらくして、今度はウィロビーがアレナム・コートの主人であるおばの言いつけで、ロンドンへ発ってゆく。
 ウィロビーと入れ替わるように、バートン・コテッジをエドワードが訪問するが、彼のエリナーに対する態度はぎこちなく、何となく元気がない。そして長く滞在することなく、去ってゆく。
 その後、サー・ジョンの邸に、ジェニングズ夫人の遠い親戚であるというアンとルーシーのスティール姉妹が招待されてやってくる。二人は、エドワードの家庭教師だった人物の姪で、驚くべきことにルーシーはエドワードと婚約してから4年たっているが、そのことはアン以外のだれにも秘密にしてきたという。彼女は、エリナーとエドワードの内心の動きを知っていて、エリナーに絡みつくように親交を迫る。
 ロンドンに自宅のあるジェニングズ夫人は冬の社交シーズンにエリナーとマリアンの姉妹を招待し、ウィロビーに会いたい一心のマリアンが承諾したため、エリナーも仕方なく、ロンドンに向かうことになる。ロンドンに到着すると、すぐにブランドン大佐の訪問を受けるが、ウィロビーに会うことはなかなかできない。あるパーティーで2人はウィロビーに出あうが、彼は2人から逃げ回る様子である。そして、ある日、ウィロビーから自分はほかの女性と婚約しており、マリアントの交際は終わりにするという手紙と、マリアンがウィロビーに送った手紙が送られてきた。

 エリナーはマリアンがウィロビーと婚約しているかどうかを確かめてほしいと母親に手紙を書いていたが、それにこたえるダッシュウッド夫人の手紙がマリアンのもとに届き、ますます彼女を落ち込ませる。そこへ、ジェニングズ夫人とボンド・ストリートであって2人の様子を聞いたというブランドン大佐がやって来る。彼はエリナーに向かって、自分の若いころの実らなかった恋の話を打ち明ける。大佐の死んだ父親はイライザという娘の後見をしていたが、彼女がマリアンとそっくりのロマンティックな性格の持ち主で、大佐と恋仲になったが、彼女の相続する財産が必要だった父親は、彼女を大佐の兄と結婚させた。不幸な結婚をしたイライザは、不定に走り、離婚し、零落して、海外で軍役についていた大佐が帰国したときは債務者監獄に入っていた。重病人でもあった彼女を、大佐は助け出したが、彼女はまもなく一人娘を彼に託して、世を去った。その一人娘(母親と同じくイライザという名前である)を大佐はひそかに養育し、兄が死んでデラフォード屋敷を相続してからは、他人のところに預けていたイライザを、ときどき呼び寄せていたので、隠し子ではないかという噂が立った。ところが前の年の2月にイライザは友だちとバースに遊びに行くといって、出かけ、そのまま失踪してしまった。その後、彼女を探す手がかりはなかったが、10月になって本人から手紙が届いたので、ロンドンに急行することになったのである。彼女は、ウィロビーとの間に子どもを儲けようとしていた。しかも、ウィロビーは彼女と何の連絡も取ろうとしていなかったのである。事情を知った大佐はウィロビーとの間に決闘を行ない、幸い、二人とも無傷であったので、この事件は表ざたにはなっていないという。ウィロビーの正体を知ってしまっただけに、大佐はマリアンの将来が心配で、いろいろと案じていたのだと、エリナーに打ち明けた。

 エリナーはブランドン大佐の話をマリアンに告げ、マリアンはそれを聞いてますます落胆する。エリナーは母親であるダッシュウッド夫人にもこのことを知らせたが、母親のいかりは娘にもまして激しいものであった。そして、2人に当分ジェニングズ夫人のもとに留まるようにと指示した。その方が気がまぎれるだろうという配慮であったが、マリアンはそれどころではなかった。また夫人は、2月にはジョン・ダッシュウッドがロンドンに行くという便りがあったので、義理の兄弟と会うのも悪くはないと考えていたが、それも姉妹の気持ちからすれば、迷惑な配慮であった。
 サー・ジョンやジェニングズ夫人、パーマー夫人(ジェニングズ夫人の次女)は一様にウィロビーを非難し、マリアンに同情したが、しまいにとってその同情はうるさくて仕方がないものに思えた。むしろ、ミドルトン夫人(パーマー夫人の長女)の無関心の方がありがたい気がしたほどであった。
 2月のはじめにウィロビーは結婚し、すぐにロンドンを去った。街頭で出会う恐れがなくなったので、エリナーは何とかマリアンを表に連れ出そうと考えた。マリアンは、家にこもりきりだったのである。
 ちょうどこのころ、スティール姉妹が、ホウボーン近くのバートレット・ビルディングの親戚の家に最近到着していたが、もっと立派な親戚であるコンディット・ストリートのサー・ジョン夫妻と、バークリー・ストリートのジェニングズ夫人の前に再び姿を現し、両家から大歓迎された。巧言令色のこの姉妹(特に妹のルーシーの方)は両家にとってなくてはならない存在になりはじめていたのである。
 しかし、この2人の出現はエリナーにとっては迷惑な話だった。彼女がまだロンドンにいることを知ってルーシーは早速、エリナーのもとを訪れ、敵意のこもった当てこすりを並べ立てる。そして、エリナーが兄のジョンを訪問すべきだということをにおわせる。姉のアンの方はデヴォンからロンドンまでstagecoachという大型の駅馬車ではなく、post chaise (ポスト・シェーズ)という小型の駅馬車で、デイヴィス博士という独身の牧師(らしい)と一緒にやって来た上に、彼の方が料金を多く払ってくれたことで有頂天になっている。

 エリナーはジェニングズ夫人のお供をして外出する際に、マリアンを連れ出すことに成功し、サックヴィル・ストリートのグレイ宝飾店に出かける。ジェニングズ夫人はほかに用があったので、2人だけで店でかたづけるはずの用を済ませようとしたが、先客が非常識なほど長くカウンターで自分の趣味について長広舌をふるっているのであきれ返る。紳士的な外見をしているが、「姿にも顔にも、正真正銘の生まれつきの卑しさがたっぷりにじみ出ている」(302ページ)とエリナーは思う(この人物が、物語の終盤で、「活躍」することになる)。そして、うぬぼれのぼせて得意顔のこの紳士は、「正真正銘のうぬぼれと、わざとらしい無関心さが入り混じったご満悦の体で立ち去った。」(同上)
 エリナーが早速用事を済ませて、店を出ようとすると、義兄のジョンにばったり出会った。「グレイ宝飾店での再会は、いちおう親戚としての情愛と喜びにあふれ、どうにか見苦しくないものとなった。」(303ページ) 例によって、ジョンはいろいろと無沙汰のいいわけを並べ、しまいにバートン・コテッジでの隣人たちのことを尋ねる(自分が義母や義妹たちの面倒をまったく見ていないので、その分、彼女たちの面倒を見ている他人のことが気になるのである)。「いや、私たちもそれを聞いてほんとにほっとした」(304ページ)などと恥ずかしげもなくいう義兄をエリナーは恥ずかしく思う。店の外でジェニングズ夫人に紹介されたジョンは、翌日、早速ジェニングズ夫人を訪問する、ファニーはほかに用事があるといって(また例によって言い訳をする、本当は、ファニーのほうでは成り上がりのジェニングズ夫人と会いたくないのである)、ひとりである。彼はジェニングズ夫人や、ちょうどやって来たブランドン大佐のことをじろじろと観察する。
 訪問を終えてジョンは、エリナーに、コンディット・ストリートまで一緒に出かけて、サー・ジョン夫妻に紹介してほしいと頼んだ。その道すがら、ジョンはエリナーにブランドン大佐のことをいろいろと聞きただす。彼が裕福な地主であることを知って、ジョンはエリナーに「おめでとう」というが、エリナーには何のことかさっぱりわからない。大佐の気持ちがマリアンにあることを知っているから、大佐が自分と結婚する可能性は皆無であるというのに、ジョンはしつこく「世の女性たちお得意の、あのちょっとした心づかいと秋波を送れば、彼の気持ちはすぐに決まるさ。君がその努力をしてはいけないという理由はない」(306ページ)などと結婚するように迫る。そして、「きみに以前好きな人がいたからといって――いや、つまりその、あの結婚は問題外だし、反対が多すぎて絶対に無理だ。きみは頭がいいからそれくらいわかるだろ。でもブランドン大佐ならきみにぴったりだ。彼がきみときみの家族を気に入るように、私も礼を尽くして応援するよ。この結婚にはみんな満足するはずだ」(同上)と続ける。
 そして、少し声を落して、ジョンもファニーも、ファニー(とエドワード)の母親のフェラ―ズ夫人も、エリナーの(エドワード以外の男性との)幸福な結婚を願っているのだというが、エリナーはもはや返事をする気持ちにもなれなかった。ジョンは続けて、エドワードには故モートン卿の一人娘で、3万ポンドの財産があるミス・モートンとの縁談が進んでいるという(どの程度進んでいるのか定かではない)。この結婚が成立すれば、フェラ―ズ夫人は年収1000ポンドの財産を与えるという。そしてフェラ―ズ夫人がまれに見る気前のよい人物であることを説明しようと、当座の金に困っているダッシュウッド家にすぐに200ポンドの現金を渡してくれたという。財産家の義兄がこんなことをいうのは不思議だとエリナーが問いただすと、ジョンは自分の家がじつに多くの出費に直面しているかを詳しく説明する。しかも、ジョンの一家は、ノーランド屋敷のあちこちに改造を施し、古くからの邸宅と庭園の景観をぶち壊そうとしているのである。
 さらにジョンは、エリナーに大佐との結婚を勧め、エリナーがいくらそんな可能性はないといっても、耳を貸さなかった。「この結婚はジョンにとってたいへん好都合なことなので、そう簡単に期待を捨てるわけにはいかないのだ。実際ジョンは、これからブランドン大佐と親交を深めて、この結婚の実現のためにあらゆる努力をしようと固く決意していた。自分が妹たちに何もしてあげなかったことに良心の呵責を感じているので、自分に代わって誰かが妹たちに何かしてくれることを切に願っているのだ。」(311ページ)
 それでもコンディット・ストリートのサー・ジョン宅への訪問は成功し、お互いに付き合って損のない人間であると認め合ったのである。

 やがてジョンとサー・ジョンとの交際は深まり、ファニーもミドルトン家を訪問するようになり、ミドルトン夫人とファニーはお互いを気に入る。しかし、ジェニングズ夫人はファニーがエリナーとマリアンの姉妹によそよそしい態度をとっていることことが気に入らなかった。
 これまでのいきさつからエリナーはエドワードに会いたくなかったが、その反面で、彼の消息を知りたいとも思っていた。ところが、ルーシーからエドワードがロンドンにやって来ていることを知り、また彼が彼女たちの留守中にジェニングズ夫人の家を訪ねて名刺をおいていったのを喜んだりした。
 吝嗇なジョン・ダッシュウッド夫妻には珍しく、彼らはサー・ジョン・ミドルトン夫妻を3か月契約で借りたハーリー・ストリートの立派な家に招待した。その席にはエリナーとマリアン、ジェニングズ夫人、ブランドン大佐、フェラ―ズ夫人、それにスティール姉妹が招かれていた。ブランドン大佐はジョンが出席を熱心に勧めてくるのにちょっとびっくりした。エドワードはなぜか欠席するという話であった。
 ルーシーは婚約者の母親に会うということで(ただし相手はそのことを知らない)緊張感を隠せず、そのことをエリナーに見せつけて優越感に浸ろうとするのだが、エリナーはエドワードとモートン卿の令嬢の縁談のことまで知っているので、落ち着き払って彼女に同情的な言葉をかける。
 「フェラ―ズ夫人は、やせっぽちの小柄な女性で、堅苦しいほど姿勢がよくて、意地悪なほど真面目くさった顔をしていた。血色が悪くて、目鼻立ちが小さすぎて、とても美人とは言えないし、生まれつき表情も乏しかった。でも幸いなことに、眉間の皺が尊大さと意地悪さという強烈な個性を示して、平凡な顔という不名誉からは救われていた。口数は少ないほうだった。ふつうの人と違って、自分が考えたことしか口にしないからだ。おまけに、その口から漏れたわずかな言葉のうち、たったのひと言もエリナーには向けられなかった。 フェラ―ズ夫人は、何としてもエリナーを嫌い抜いてやるという決意をもって、エリナーを睨みつけるだけだった。」(318ページ) なかなかの悪役ぶりである。ところが、睨みつける相手を間違えているので、やはり彼女も三枚目風になってしまう。

 いくら睨まれても、エリナーは平気な顔で(エドワードが秘密裏に婚約しているのはルーシーで、自分は関係がないので)辺りの様子を観察していた。ジョンは自分の家計が大変だといっていたが、豪華な食卓風景からはそんなことは全くうかがわれなかった。食卓の上のにぎやかさは大したものだったが、そこで交わされる会話の貧しさはひどいとエリナーは思った。
 食事の後、女性たちだけで客間に集まると、その会話の貧しさはいっそうひどいものになった。ダイニング・ルームでは男性たちが政治や、土地の囲い込みや、馬のならし方などの話題を取り上げていたのだが、女性だけになると話題はまずます乏しくなった。やがて、男性たちが戻ってきたが、会話は散々なものに終わる。

 しかし、フェラーズ夫人やファニーがエリナーに意地悪をする分、ルーシーは大事にされたので、彼女は自分とエドワードとの結婚はこれで大丈夫だと思い込む。それを聞かされたエリナーは一同が秘密の婚約に気づいていないことを思い出させようとするが、有頂天のルーシーは聞き入れない。それどころかファニーもフェラ―ズ夫人も素晴らしい女性だなどと言い出す。彼女が「フェラ―ズ夫人に一度嫌われたらおしまいだ」(329ページ)と勝利宣言をするが、その時にエドワードがエリナーを訪問しにやって来る。さらに、マリアンも部屋に現れ、一同は気まずい思いで別れる。

 この物語は、大部分がエリナーの視点で記述されているのは、すでにお分かりのことと思うが、彼女の忍耐強さ、冷静さは超人的なところがあって、好きは好き、嫌いは嫌いというマリアンのほうが人間的な感じがしてくる。実はもう一人、ひたすら自分の感情を押し殺している人物がいて、それはブランドン大佐であるが、そのような性格が姉と妹のどちらにふさわしいかは議論の分かれるところであろう。
 ジョンとファニー、フェラ―ズ夫人はあらゆる策を講じて、エドワードとエリナーの結婚を阻止しようとしているが、そのエドワードがルーシーと婚約しており、エリナーはそれを知って苦しい気持ちに耐えながらも、彼のことをあきらめようとしていることを知らないのである。さらに言えば、ジョンはブランドン大佐の気持ちがマリアンにあることも知らずに、自分が何でも知っているような気持ちになって、エリナーに彼との結婚を勧める。

 ブランドン大佐はジョンの妹一家に十分すぎるほどの愛情を持っているから、ジョンの世話焼きは余計なおせっかいである。
 E.M.フォースターがジョンを典型的な偽善者だと書いていることは以前にも紹介したが、私の意見では三枚目の悪役で、そういう俗物的な悪役ぶりが今回はいかんなく発揮されている。ここではあまり詳しく紹介しなかったが、偽善者というのにふさわしいのはお上品な暮らしぶりを好むミドルトン夫人のような人物をいうのであろう。
 このあたりの物語の舞台は、ロンドンのメイフェア地区など、ウェスト・エンドで展開されているが、スティール姉妹が身を寄せる親戚の家があるホウボーンはそこからかなり東の方にある。テームズ川は西から東に流れ、まあ大体において、ロンドンでは西の方が高級住宅地である。ホウボーンといえば、法廷弁護士たちの本拠である四法学院の所在地であるが、この物語はそのような裁判沙汰とは関係がなさそうである。なお、私は地下鉄ピカディリー線のホウボーン駅からヒースローに向かおうとして、スーツケースの留め金が外れて慌てたことがあるが、荷物ともどもなんとか日本に帰ってきた。

 モートン卿というのは、おそらく、サー・ジョンと同じく従男爵(バロネット)であろう。彼女が結構なお嬢様であれば、求婚者が大勢現れそうなものであるが、そうならないのは、あるいは何か隠された事情があるのかもしれない。  

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)」(10)

5月18日(土)晴れ、気温上昇

〔これまでの概要〕
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス

 1957年11月から1958年3月(帰国は4月)にかけて、梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として5人の隊員とともに、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を訪問し、熱帯における動植物の生態と、人々の生活についての調査を行った。この書物は、その調査旅行の私的な記録である。
 一行は、タイのバンコクに集合した後、チュラーロンコーン大学のクルーム教授の協力を得て、調査の準備を進める。また、第9回太平洋学術会議に出席して、日本における研究の報告を行い、その後、自動車の運転の演習を兼ねてカンボジアのアンコール・ワットを訪問、またタイに戻ってこの後の調査に備える。その一方で、バンコクでタイ語を学習し、人々の暮らしぶりを観察する。

第5章 熱帯のクリスマス(続き)
 宝くじとパチンコ
 タイの食堂で食事をしていると、数字ばかりが並んでいる新聞を熱心に読みふけっている太ったおじさんを見かけた。何を読んでいるのかと思っていると、同行している葉山君(チュラーロンコーン大学に留学中)が宝くじの当選番号の発表だという。タイの宝くじ熱は高く、売り場がたくさんあるし、食堂で食事をしていても、宝くじ売りがやって来て、売りつけようとする。〔これは昔の話で、私がタイに行ったのは2003年のことでもう16年も前のことであるが、その時は宝くじのことなど気づかなかった。むしろ英国のほうが宝くじが盛んだという印象がある。そういえば、梅棹も、タイでは宝くじのことを「ロッタリー」と英語で呼ぶと書いている。〕
 ある隊員が、日本のパチンコをタイに輸入すれば、流行するに違いないという感想を述べるが、「葉山君によるとこの名案は全然だめだそうだ。この国の為政者は、日本のことをよくしらべているから、パチンコのことなどはとっくに知っている。知っておればこそ、これはタイに有害と見たのであろう。パチンコは輸入禁止だそうだ。宝くじの売れゆきに影響すると見たのかもしれない。宝くじ公社の利権の行方は、タイの政局を決定する最大の要素だという説もある。
 さて、むこうのテーブルのおじさんは、当りくじではなかったようだ。新聞をたたんで、めしを食べだした。」(119‐120ページ)

 バナナを買いなさい
 同じ食堂で食事をしている2人のタイ人女性は食べ残した分を容器に入れて持ち帰っている。梅棹一行もそのまねをすることにした。タイ人は概して楽天的ではあるが、浪費家ではないと梅棹は思う。
 タイはゆったりとしたところがある。誰かが、タイは泥棒と乞食の多い国だといったが、とんでもない話である。乞食は非常に少ないという。
 ゆったりしている理由として梅棹は、コメが大量にとれることをあげる。そしてその米を輸出して、日本などからいろいろな工業製品を輸入しているのだが、最近は(1957年当時は)日本も豊作続きでコメがたくさんとれるようになって、タイから輸入しなくなった。これはタイの側からすると、重大なことである。
 梅棹が出会ったあるタイの知識人は、日本ではバナナがとれないということを知ると〔最近では南九州や沖縄で、シマバナナというバナナが栽培されているほか、バナナの栽培の試みが行われている〕、では、バナナを輸入すればいいと言い出した。「この恵み豊かな南国の人々にとっては、バナ ナもないなどという国は、救いがたいほどあわれな国に見えるのだ」⦅(122ページ)と梅棹は観察する。〔気になって調べてみたのだが、日本で消費されるバナナの大部分はフィリピン産である。また、世界第一のバナナ産出国はインドで、年間2910万トン、次が中国の1330万トン、以下インドネシア、ブラジル、エクアドル、フィリピンと続くのだそうである。この中でブラジルには出かけたことがあるが、バナナを食べたという記憶はあまりない。予備知識をもっていないと、気がつかないことはいくらでもあるのである。〕

 交通事故
 バンコクの交通量は多い〔これはいまでも多いはずである〕が、交通ルールはよく守られている。
 しかし、それでも交通事故は非常に多いようだと梅棹は観察する。その理由として、彼はタイ人の運転技術が日本に比べて「格段にへただ」(122ページ)ということを挙げている。梅棹自身がどのようにして自動車の運転免許を取ったかという話がこの後出てくるから、それを読んでから、この発言の当否を判断すべきであるかもしれない。〔タイの人が、「梅棹さんには言われたくない」というかもしれないという話である。〕
 交通事故の後の処理も物静かに終わる。少なくとも、梅棹が遭遇した事故の場合はそうだった。
 タイの人々はおとなしくて行儀がいい。豪傑笑いなどをすると、軽蔑されるだけである。「微笑みの国」である。

藍緑旅社
 梅棹の大阪市大における同僚である文化人類学者の岩田慶治(1922‐2013)がバンコクに帰ってきた。彼は民族学協会が派遣した稲作民族調査団の一員として調査研究をしていたのだが、一段落したのでもどってきたのである。まだ、研究調査を続けるつもりなので、費用節約のため、Hotel Nares(タイ語式に発音すると「ホテン・ナレーッ』)、中国名を「藍緑旅社」という中国人経営の安宿に泊まっている。梅棹一行がバンコク初日に泊まった安宿よりも、もう少し落ちるかもしれないという旅館である。
 岩田がこの宿に居ついているのは、主人の中国人が好人物であり、筆談で意思の疎通ができるということもある。宿の主人から「岩田先生」は絶大な信用を博しているようである。

 この話から、梅棹はバンコクの旅館や食堂はほとんど中国人の経営であるという話をする。バンコクの人口は、川向こうのトンブリー地区も合わせると150万人くらいだが、そのうち半数あまりは中国人であるという話もあるという。
 もともとタイ人と中国人とはあまり見わけがつかないし、中国人はタイの生活になじんで、タイ人と結婚する例も多いので、うまく溶け込んでいるように見える。

 そのほかに、インド人もいる(インド人とパキスタン人がいるはずだが、わからないという)。数は問題にならないくらい少ないが、目立つ存在である。階層的には低いのが多いようだと梅棹は観察している。

 第5章は学術調査とはあまり関係のない、バンコクの日常生活をめぐる記述が多く、中国人、インド人と来たので、次は日本人ということになるが、それはまた次回に回すことにする。近年では、日本の工場がタイに進出するなど、日本とタイとの経済的な関係は一段と進展しているように思われるが、タイの社会や日本とタイの関係などはあまり変わっていないような気もする。特に、タイの少なくとも支配層は日本の政治や社会についてよく研究して、知っているが、日本のほうではタイについてはあまり知らないという情報の非対称性は、この時代からあまり変わっていないように思われる。
 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(17‐2)

5月17日(金)晴れ、気温上昇

 1300年の春分が過ぎ、復活祭を迎えようとする頃、語り手の「私」(≒ダンテ)は「暗い森」に迷いこみ、天国の貴婦人たちの願いを受けて遣わされたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスのたましいによって救い出される。そして彼とともに地獄と煉獄、さらに「よりふさわしいたましい=ベアトリーチェ)に導かれて、天国を旅行する。そして見聞したことがこの叙事詩の内容として展開されることになる。
 「私」は「われを過ぎる者はみな、すべての希望を捨てよ」(第3歌第9行)と記された地獄の門をくぐり、さらに地獄の第1圏(洗礼を受けずに死んだ幼児たちと有徳の異教徒たちのたましいが静かに過ごしている)、第2圏(生前愛欲の罪を犯した人々のたましいがその罰を受けている)、第3圏(食悦の罪を犯した人々のたましい)、第4圏(貪欲の罪を犯した人々のたましいと浪費の罪を犯した人々のたましいが衝突を続けている)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々のたましいがスティクスの沼地に沈められている)の様子を見る。さらにディースの門をくぐり、地獄の第6圏であるディース城で異端の罪を犯した人々のたましいが業火に焼かれているさま、3つの冠状地にわかれた第7圏の第1冠状地で暴力によって人々を支配しようとした人々のたましい、第2冠状地では自殺した人々のたましいが毒々しい棘だらけの樹木になっていたり、その間を蕩尽者たちのたましいが地獄の狼の追跡を逃れて逃げ回っていたりする様子を、第3冠状地では瀆神者、男色者、高利貸たちのたましいが熱砂の上を火の雨に打たれて走り回っている様子を見た。地獄の第8圏へと進むために、ウェルギリウスは見るもおぞましい怪物であるゲーリュオーンを呼び寄せ、その背に乗って、私にも乗るように催促する。

 ゲーリュオーンのしっぽには毒があるため、その毒にあたらないように、ウェルギリウスは自分の前に座るよう、「私」に勧める。わたしはマラリアにかかったように悪寒を感じ、全身が震えたが、勇を鼓して怪物の背中に乗る。ウェルギリウスは「私」をしっかりとうしろからだき支えて、ゲーリュオーンに地獄の第8圏へと大きく旋回しながら降りてゆくように命令する。ゲーリュオーンはうなぎのようにその身をくならせながら、ゆっくりと下降しはじめる。

 下降しながら、私はこれまでに味わったことがないような恐怖に襲われる。
 周囲はみな空気ばかりとなり、
すべての景色は消え失せ、
見回せど、獣の体以外、何も見えなかった。

 獣は泳ぎながらゆっくりと進み、
ぐるぐると回りながら下降をつづけたが、私は
風に吹き寄せる風と同時に下から同時に下から吹き上げる風からそれがわかった。
(112‐117行、412‐413ページ)

 ゲーリュオーンはさらに下降をつづけ、地獄の第8圏が近づいてくる。
 やがて右のはるか下のほうに
谷の水が凄まじい轟きをたてて流れ落ちるのが聞こえてきた。
それで私は頭をつき出して下に眼を向けた。
 すると、落ちて行くのがいままで以上にこわくなった。
幾つもの火が見え、泣き叫ぶ声が聞こえたからである。
私はわなわなと震え、両脚で必死にしがみついた。
 いままでは見えなかったが、ようやく
旋回しながら降りて行くのが見え、大いなる責め苦が
四方八方から近づいてきた。
(118‐126行、413ページ) 地獄の第8圏に近づくにつれて、その様子が「私」の目に見えはじめる。すでに述べたように、地獄は憶測へと進めば進むほど重い罪を犯したたましいが置かれており、その罰はより厳しく、またたましいたちの苦しみはより激しいものになる。

 こうして、「私」はウェルギリウスのたましいとともに、地獄の奥深くの第8圏に降り立つ。
 ゲーリュオーンは降り立って、
私たちを谷底の切り立った崖の
際に下した。そして積み荷を厄介払いするや、
 弓弦(ゆづる)から飛び立つ矢筈[矢]のように消え去った。
(133‐136行、413‐414ページ)  悪の仲間であるゲーリュオーンは、天の意志に逆らうことはできないとはいうものの、この2人を運ぶことはその本来の性質から意に沿わない仕事のはずである。こうしていやいや仕事を終えた怪物は、即座にその場を去っていく。

 ここで、須賀敦子・藤谷道夫訳は終わるが、この後、「私」(≒ダンテ)とウェルギリウスは、地獄の第8圏と第9圏とを旅し、そして地球の裏側にある(とダンテが考えた)煉獄に達する。34歌からなる『地獄篇』の半分に当たる第18~第34歌が地獄の第8圏と第9圏との描写にあてられているのは、この2つの圏で罰されている罪は、欺瞞であり、ダンテが悪の本質を欺瞞に見ていたことがここからうかがわれると解説されている。

 以前に原基晶訳(講談社学術文庫)によって、『神曲』全体を読んだが、今回は、須賀敦子・藤谷道夫訳によって『地獄篇』の前半だけをその分、より丁寧に読むことができた。これ以外の翻訳や、英語訳などについても、いつか機会があれば読み進んでみたいと思う。 

E.H.カー『歴史とは何か』(15)

5月16日(木)晴れ、気温上昇

〔これまでの概要〕
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は現在の歴史家と過去の事実との絶えざる対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人との関係は相互的であり、歴史は現在の社会と現在の社会との対話なのである。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史は研究の手続きにおいて、科学的に研究される必要がある。歴史研究を進める際に、道徳的な問題にかかわることは避けられない。〔どのようにかかわるべきかという問題については、今回論じられる。〕

超歴史的な価値があるか
 歴史は何が善で何が悪かという道徳的な価値の問題にかかわるが、価値は歴史を超えたところで決められるものであろうかというのがここで論じられる問題である。この問題をめぐり、カーは自由と平等、正義と民主主義といった価値は歴史を超えたものであるが、その具体的な内容はその時代や社会によって違うという意見を述べている。〔財産所有のあり方は時代と社会によって多様である。したがって、どういう行為を盗みというかは時代や社会によって異なるということであろう。〕 だから抽象的普遍的な価値だけで、歴史的な事実に判断を下すことはできないのであるという。

価値の歴史的被制約性
 価値は歴史を超えた何者かによって与えられるのではなくて、歴史的に変遷する社会の中で作り出され、帰られていくものである。「社会から切り離され、歴史から切り離された抽象的な基準や価値というのは、抽象的な個人とまったく同様の幻想であります。真面目な歴史家というのは、すべての価値の歴史的被制約性を認める人のことで、自分の価値に超歴史的客観性を要求する人のことではありません。」(122ページ) 現代を生きる人間の価値観やそれに基づく行動は、やはり歴史的に条件づけられたものであって、そこから抜け出ることはできないのだという。〔この講演が行われ、本として出版されてから50年以上たっていることを考えると、カーの言うことの重さがわかる。〕

もっと科学的に
 歴史を科学から除外しようという意見は、科学者の側からではなく、歴史家や哲学者のような人文学者の側から出ていることに注目すべきだとカーは言う。その背景には、支配階級の広い教養を形成している人文学と、それに奉仕すべき(狭い領域の為だけに役立つ)技術者の技能としての科学という偏見が潜んでいるというのである。それに科学と歴史とを対立させて考えるというのも、英語圏だけの伝統であるともいう(必ずしもそうだとは思えない)。

 ここでカーは、C.P.スノウ(Charles Percy Snow, 1905 -80)が1959年に行った有名な講演『二つの文化と科学革命』(The Two Cultures,この講演も書物としてまとめられ、日本でもその翻訳が刊行されている)に言及している。 スノウはこの講演の中で、自然科学者と人文学者との間の断絶を指摘し、その克服を主張している。

 カーはスノウの主張を補強するように、(自然)科学も歴史も同じ目的を追求していることに気づくべきだと述べている。そして、彼の時代に、科学史および科学哲学に対する関心が増大してきていることを指摘している。「科学者、社会科学者、歴史家は、いずれも同じ研究の子となった部門に属しているのです」(125ページ)と言い切る。「つまり、どれも人間とその環境との研究であって、あるものは環境に対する人間の作用の研究であり、他のものは人間に対する環境の作用の研究なのです。研究の目的は一つ、自分の環境に対する人間の理解力と支配力とを増すことにほかなりません」(同上)と続ける。〔人間による環境破壊が顕著になっている現代から見ると、少し一面的な考えに思えるのではないか。〕
 カーは、歴史がもっと自然科学的な研究方法を取り入れるべきだとは思わないが、歴史も科学も、「説明を求めるという根本の目的でも、また、問題を提出し、これに答えるという根本の手続きでも同じ」(126ページ)であるという。これで「Ⅲ 歴史と科学と道徳」の問題については終わって、次に「Ⅳ 歴史における因果関係」で、どのように問題を提出し、それに答えていくかという、歴史研究の方法論を検討するという。これで、6つの部分からなるこの書物の半分を検討し終えたことになる。新書本1冊の中に、歴史哲学をめぐる重要問題が凝縮されており、これからも慎重に読み進めていくつもりである。 

陶淵明「『山海経』を読む」戯訳

5月15日(水)曇りのち晴れ

 我が家の書架から竹内実・萩野脩二『閑適のうた 中華愛誦詩選』(中公新書)を引っ張り出してきて、その中の陶淵明「『山海経』を読む」13首中の第1首を戯訳してみた。孟夏は太陰暦の4月であるが、現在の暦に直すと、5月の今頃になるはずで、季節のうたとしてふさわしいと思い、取り上げてみた。詩の中に登場する『山海経(せんがいきょう)』は空想の地理書であり、中国古代の神話・伝説が盛り込まれていて、中国周辺部の記事には奇怪なものが多い(平凡社ライブラリに収められているので、日本語で読むことができる)。本のなかでも触れられているが、陶淵明が読んだ本には郭璞(かくはく)という人が描いた絵もついていたようである。また詩の中には、『周王の伝』という書名も見られ、これは一般に『穆天子伝』と呼ばれる周の穆王に仮託した空想旅行記である。どうも陶淵明は、今でいうとSF小説やマンガのようなものを読むのが好きだったらしい。そう考えると、彼に親しみがわいてくる。

  讀山海経
孟夏草木長 遶屋樹扶疏
衆鳥欣有托 吾亦愛吾廬
既耕亦已種 時還讀我書
窮巷隔深轍 頗廻故人車
歡言酌春酒 摘我園中蔬
微雨從東來 好風與之倶
汎覽周王傳 流觀山海圖
俯仰終宇宙 不樂復何如

孟夏草木長(の)び 屋を遶(めぐ)りて樹扶(しげ)りに疏(しげ)る
衆鳥托あるを欣(よろこ)び 吾もまた吾廬を愛す
既に耕し已(すで)に種まく 時に還(また)わが書を読む
窮巷深轍を隔(とおざ)くるも 頗(なかなか)に故人の車は廻(たず)ねしむ
歓言し春酒を酌み わが園中の蔬摘む
微雨東より来たり こうふうこれに倶(ともな)う
周王の伝汎(あまねく)覧(み) 山海の図流観す
俯仰に宇宙を終(きわ)む 楽しまずして また何如(いかん)ぞや

初夏の草木は元気よく 我が家を囲み生い茂る
小鳥喜び巣をつくる そんな我が家が大好きだ
終わった終った農作業 本棚の本さあ読むぞ
就職促す便りなく 旧友だけが訪れる
一緒に春の酒を飲み 畑の野菜を口にする
東から降る小ぬか雨 付き添う風の心地よさ
空想旅行記読みふけり SFマンガに目を通す
宇宙の果てまで旅行して こんな楽しいことはない

 本日は、研究会のため、夜外出するので、皆様のブログを訪問できません。あしからずご了承ください。

『太平記』(262)

5月14日(火)雨

 暦応5年(この年4月の末に康永と改元されるが、ほとんどの人がそれを知らなかった。南朝興国3年、西暦1342年)4月、新田義貞の弟で、義貞の死後吉野方の中心的な武将の1人であった脇屋義助が、伊予の国(現在の愛媛県)の宮方の武士たちの要請によって下向することになった。伊予では守護の大館氏明、国司の四条有資らの宮方が、義助の下向によって力を得た。
 その頃、伊予の住人大森彦七盛長は、建武3年(1336)の兵庫湊川の合戦で楠正成に腹を切らせた功により所領を得ていたが、それを祝う猿楽の宴を催すと、鬼女が現れ、彦七に襲いかかるという怪異があった。また宴の最中、黒雲の中から正成を名乗る鬼が現れ、足利の天下を覆すために彦七の帯びている刀が必要だといって取り上げようとした。さらに3,4日して正成がまたも刀を奪いに来たが、その時は先帝後醍醐や、護良親王、新田義貞らの怨霊も一緒だった。その後、天井から手が伸びて彦七の髻をつかんで連れ去ろうとしたり、大きな蜘蛛が現れて彦七の家来たちを金縛りにしたりしたが、僧侶のすすめで大般若経を読誦すると怪異は収まった。

 脇屋義助は伊予の国の宮方の武士たちの大将として、伊予の国府(愛媛県今治市国分)にいたが、5月4日に急病に倒れ、7日ほど苦しんで、ついに息を引き取った。宮方の武士たちにとっては、大変な衝撃であった。
 義助の死が敵方に知れては大変だとひそかに葬礼を終え、悲しみを隠し、声を潜めていたのだが、いくら隠しても隠しきれるものではなく、いつの間にかこの知らせは四国の足利方の大将である細川頼春のもとに届いた。彼は、この機会を逃してはならないと思い、伊予、讃岐、阿波、淡路の軍勢約7千余騎を率いて、道前(どうぜん、愛媛県の中で現在の松山市周辺を道後というのに対し、今治市周辺を道前という)の境である河江城(こうのえのじょう、四国中央市川之江町にあった城)へ押し寄せ、この城に拠る宮方の土肥三郎左衛門義昌を攻めた。

 これまで義助に従ってきた武士たちをはじめ、伊予の宮方として長年名を馳せてきた土居、得能、伊予の武士である合田、二宮、日吉、太田、高市野(たけちの)、讃岐の三木、羽床(はゆか)、備前の三宅らの武士たちが、新田一族の金谷経氏を大将として、兵船500艘余りに乗って、日比(ひび、広島県尾道市日比崎町)の海上に漕ぎ出した。河江城を囲む足利方の兵を背後から攻める(=後攻めをする)つもりである。
 これを聞いた足利方の武士たちもそのままにしては置けないと、備後の鞆(広島県福山市鞆町)、尾道に船を揃え、土肥の城に向かおうとしていた備後、安芸、周防、長門の軍勢が兵船千艘余りに乗り込んでこれまた海上に船を進める。

 両方の陣営の兵船が海上で遭遇し、双方とも船べりをたたいて鬨をつくって気勢を上げる。潮の流れに乗り、また追い風を受けて、押し合いを繰り返す。その中で大館氏明の執事(家老)である岡部出羽守が率いる兵船17艘が、備後の足利方の宮兼信が左右に散開させた兵船40艘の中に分け入り、敵の船に乗り移って、相手に組み付いては海の中に引きずり込むという戦いを展開した。〔岡部氏は、もともと坂東の武士で、武蔵七党の猪俣党の流れをくむ。この一族で有名なのは、なんといっても源平の福原の戦いの際に、平忠度を討ち取った岡部六弥太であろう。宮兼信は備後一宮である吉備津神社の社家である。組み付いて生みの中に引きずり込むというのは、軽装でなければできない戦い方であって、この後の戦闘の描写を考えると、かなりの勇気を必要とするはずである。〕

 備後、安芸、周防の兵船(足利方である)は大きな船なので船首と船尾に櫓を立てて、そこから矢をしきりに射かける。伊予、土佐の舟(こちらは宮方であろうか)は小舟なので、逆櫓(さかろ、舟を前後自在に操るために船首と船尾の両方に取り付けられた櫓、『平家物語』の中でこの逆櫓をめぐって、源義経と梶原景時が言い争った逸話は有名である)を立てて、縦横に動き回る。両軍ともに、ここで討死して、海中に死骸を沈めることになっても、汚く生き延びて悪評を受けるよりはましだと、互いに一歩も引かず、週日激しい戦闘を続けていたが、急に強い東風が吹いてきて、宮方の舟を西へと引き戻し、足利方の舟を目指していた伊予へと到着させたのであった。

 大森彦七と楠木正成の怨霊との争いが長々と語られた後、話は一転して伊予の宮方と足利方、それに中国・四国一帯の両陣営の武士たちの水陸両方での戦いの描写となる。細川頼春は四国の足利方を率いて活躍した(この時点ではすでに死去している)細川定禅の従兄弟で、こちらの方が嫡流になる。林屋辰三郎が、楠正成、足利尊氏、佐々木道誉とともに、『太平記』の4人の主人公に数えた細川頼之はこの頼春の子である。
 河江城の後攻めに向かった宮方の兵船とそれを破って河江城を囲む味方に合流しようとする足利方の兵船の対決は、数に勝り、追い風を受けた足利方の勝利に終わったが、戦いはこれでかたづいたわけではない。宮方は逆襲の機会をうかがう。さて、どうなるかはまた次回に。

日記抄(5月7日~13日)

5月13日(月)曇り一時晴れ

 5月7日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

 前回、5月1日放送の『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅲ』でシャンポリオンによるエジプト象形文字解読について、象形文字が必ずしも表意文字ではなく、表音文字としても使われていることで、糸口をつかんだことが放送の中で触れられなかったと書いたが、8日の放送でこのことが取り上げられていたので、私の方が早とちりをしていたことがわかった。ここで訂正しておく。

 5月6日に保土ヶ谷公園サッカー場でなでしこリーグ2部の試合を観戦していた際に、隣の保土ヶ谷球場から「若き血に』という慶応の応援歌が聞こえてきたので、慶応高校がどこかと試合をやっているのだなと思い、しばらくして軟式野球の神奈川県大会の決勝戦らしいと気付いた。この試合、延長戦にもつれ込んで決着がつかず、5月8日に再試合ということになった。再試合では慶応が横浜創学館高校を3-2で破り、優勝と関東大会出場を決めたそうだ。横浜創学館の投手は2試合とも1人で投げ切ったそうで、その健闘は大いに讃えられていいだろうと思う。

5月7日
 NHKラジオ第二放送の『ラジオ英会話』の冒頭で、講師の大西泰斗さんが例によってダジャレを飛ばし「クロード・チアリ」といったが、年齢がわかるギャグである。1965年に日本で公開されたギリシア映画『夜霧のしのび逢い』(ヴァシリス・ジョルジアディス監督)は上映に際して、主題歌をクロード・チアリがギターで演奏する”La playa (浜辺)”と差し替えたことで、ヒット作となった。チアリさんはもともとフランス人で(現在は日本国籍を取得)あるから、ずいぶん国際的な改変をしたわけである。なお、この映画は1963年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされている。このときの受賞作は、フェリーニの『8¹/₂』であり、他に日本映画『古都』(中村登監督)と、ポーランド映画『水の中のナイフ』(ロマン・ポランスキー監督)もノミネートされていた。『夜霧のしのび逢い』という映画は、京都の美松劇場(大劇だったか名劇だったかは記憶にない)で見たのだが、タイトルの文字を見ていて、それがギリシア語だということに気づくのにだいぶ時間がかかったことを覚えている。

 望月優大『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実」(講談社現代新書)を読み終える。

5月8日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)ではベルギーの深刻な言語対立の問題が取り上げられた。1830年にベルギーがオランダから独立したとき、公用語はフランス語であったが、19世紀末にはオランダ語系住民の言語文化的な権利要求が高まり、二言語主義が導入された。しかし、市民生活におけるフランス語優位が続いたため、1930年代からは市井喜一言語主義が原則として定められた。さらに1993年の憲法改正によって連邦制国家となった。
Même après cela, le conflit linguistique a continué et les appels à l’indépendance de la Flandre ne cessent pas, ce qui provoque de fréquentes crises politiques.
その後も言語対立は続き、フランドルの分離独立を求める声が絶えず、しばしば政治的な危機を引き起こしている。
 英国の欧州連合(EU)からの離脱問題が話題になっているが、それ以外のEU諸国の国内の問題として分離独立の動きについても目を離すわけにはいかないようである。

5月9日
 『ラジオ英会話』に
They have big kites that are about six to ten tatami mats in size.
(6畳から10畳くらいの巨大な凧をあげる。)
という表現が出てきた。むかし、新潟県の物産展で、凧つくりの名人が作った魔よけの凧を駆って、部屋に飾っていたことがある。今でもどこかにあるはずである。ロンドンのニールズ通りというファイロファックスの店があったりする通りに、凧の専門店があったが、いつの間にか姿を消してゲームを売る店になっていたのを思い出す。

5月10日
 『日本経済新聞』朝刊に連載されている「令和を歩む」というインタビュー記事の第7回(最終回)で国立情報学研究所の新井紀子さんが、青年たちに「AIに勝る読解力養おう」という主張を展開しているのが読みごたえがあった。「これまでの研究でAIの限界がはっきりした一方で、多くの中高生がAIと同じように読解力が不足していることもわかった。読解力といっても文学の鑑賞ではない。教科書や新聞など事実について書かれた文意を正確に理解するちからだ」という。教師としての経験からいうと、文章を読み取る以前に、教師の指示をそのまま受け取らず、自分勝手に解釈して暴走する生徒・学生が少なくないといいう気もする。単なる不注意もあるし、指示を自分に都合よく曲解する場合もある。事態は複雑なのである。さらに言うと、私は新井さんの文学排撃論には必ずしも賛成ではない。国語の授業は(英語の授業も同様だが)、単なる言語スキルの授業ではなく、人生に対する仮想体験の場でもあると思うからである。また日本の(特に保守的な傾向が強い)自然科学者の中に、「情緒」の重要性を強調する人が多いことも気になっている。
 しかし、新井さんの「AIと差別化できる力は「創造力」だとする論もあるが、論理性や構成力のない思いつきはアイデア倒れになりやすい。型破りは基本の型が身についたうえで破壊するから型破り」なのであるという議論には賛成である。

 同じく『日経』の「私の履歴書」は、橋田寿賀子さんが日本女子大を出た後、早稲田に入学し、最初国文科だったのが、河竹繁俊の授業が面白いので演劇科に移ったこと、そこで同級生だった斎藤武市のすすめで松竹の脚本部研究生の試験を受けたが、その際に席が隣だった斎藤が答えを教えてくれたことなど、以前に彼女の自伝的なドラマであった『春よ来い』と重なる部分もあるが、Fact is stranger than fiction.ということであろうか、読みごたえがある。斎藤武市といえば、4月に彼の監督作品である『白い夏』(1957年)を見たところである。彼に比べると橋田さんは遅咲きだなぁと思う。

 「朝日川柳」に「虎の威を借りる狐が虎になる(京都府 松山望)」という句が載っていた。「これも一種の進化論なり」と下の句をつけてみた。「これも一種の」ではなくて、「いわゆる一つの」の方がいいかもしれない。

5月11日
 橋田寿賀子さんの「私の履歴書」の続き。1000人あまりだった脚本部の受験生は25人ほどに減り、その中から松山善三や斎藤武市は演出部に移っていった(助監督になった)そうである。橋田さんはまじめでハンサムな松山さんにひそかに恋心を抱くが、届くわけもなかったと記されている(松山善三は助監督時代に高峰秀子と結婚、後に監督に昇格。また脚本家としても多くの名作を手掛けた。「百万本のバラ」の訳詞者でもある)。
 
 「朝日川柳」の中の一句:「竹とんぼ俺も一応飛翔体(埼玉県 磯貝満智)」 こういう句は好きである。 

 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部第8節:横浜FCシーガルズ対静岡産業大学磐田ボニータの対戦を観戦する。静岡産業大学の男子チームは依然、JFLに参加していたので、その時代に横浜FCと対戦したことがあり、男女両チームともに横浜FCと対戦した大学チームということになる。前半押し気味に試合を進めながら、得点を挙げられなかったシーガルズは後半の立ち上がりに左から攻め上って、最後はMF平国選手が正面からシュートを決めて先制、さらに中盤にもFW高橋選手がシュートを決めて2-0で勝利した。これで勝率を5割に戻したことになるが、GKの望月選手、DFの小原選手など今年加入した選手が大分チームになじんできた感じがあり、これからの戦いぶりに期待が持てそうだ。

5月12日
 橋田寿賀子さんの「私の履歴書」は松竹京都撮影所時代、大庭秀雄監督の『長崎の鐘』の脚本を共同執筆して、ポスターに脚本家として名が出たこと、依田義賢のもとでの修行のことなどから、また大船へもどってきたあたりまでが辿られている。昨年、この『私の履歴書』に登場した草笛光子さんの回想では、この時代の映画界の表舞台の方が語られていたのに対し、こちらは裏方の世界が明るみに出されているという感じである。大庭は佐々木康監督の門下(佐々木監督は小津安二郎の門下)『君の名は』の監督として、また大島渚がその助監督だったことで知られている。もう少し大庭秀雄の映画を見てみたいとは思うのだが、なかなか機会がない。依田義賢は私の学生時代、京都で『骨』という詩の同人雑誌を主宰していて、そのころは、まだ依田の偉大さがわからなかったから、作品を持ち込もうとも思わなかったが、後で、一度でいいから話を聞いておけばよかったと後悔しているのである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第13節:横浜FC対FC町田ゼルビアの対戦を観戦する。前半守備の乱れで1点を失うが、後半に戸島選手のゴールで追いつき、引き分け。試合後に、現在は町田に在籍するジョン・チュングン選手が横浜側に、元町田で現在横浜にいるカルフィン・ヨン・アピン選手と戸島選手が町田側に挨拶に行っていたのはさわやかな風景だった。その後、U20の日本代表としてポーランドに向かう斉藤光毅選手の壮行イベントがあった。

5月13日
 『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"は今回はスイスを取り上げる。スイスは多言語の国で、4つの公用語がある。中部・東部にはドイツ語を第1言語とする人が63%いる。西部はスイス・ロマンドと呼ばれ、フランス語を第1言語とする人が23%いる。イタリア語は8%で、ロマンシュ語は0.5%である。(フランス語、イタリア語、ロマンシュ語はロマンス語派に属する。) また公用語以外を母語とする人口が増加していて、国民の22%をしめる。数があわないが、スイスの統計では「第1言語(優先的に使用している言語)」と「母語」を区別しているのでこうなるのだそうである。ロマンシュ語はまた方言に分かれていて、一部はイタリアの東北部でも使われているというようなことには触れられなかった。〔イタリアでは公用語としての地位を獲得していないが、日常じっさいに使用している人数はイタリアにおける方がスイスよりも多いようである。このあたりがこの2カ国の特徴をよく示しているかもしれない。〕

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(6)

5月12日(日)曇り

 ジェイン・オースティン(1775‐1817)が匿名で自費出版したこの小説は、仲がいいが対照的な性格の姉妹の恋の変転を描き、発表後200年以上たっても、依然として多くの読者を持ち続けている。
 イングランド東南部のサセックス州のノーランド屋敷で暮らしていたダッシュウッド夫人と、その娘で理性的なエリナー、情熱的なマリアン、そして末娘のマーガレットの3人は、義兄であるジョンが屋敷を相続することになり、利己的なジョン夫婦とともに暮らすことが苦痛になった。ダッシュウッド夫人の遠縁にあたるサー・ジョン・ミドルトンが、うわさを聞いて、母娘を自分の土地にあるバートン・コテッジという家を提供し、4人はイングランド西南部のデヴォン州に引っ越すことになる。ジョンの妻のファニーの実弟であるエドワード・フェラ―ズは内気な性格ではあるが、頭がよく心優しい青年で、エリナーと惹かれあっている様子である。
 デヴォン州に移った4人は、サー・ジョンの妻のミドルトン夫人、その母親のジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と知り合う。サー・ジョンは社交的、世話好き、ミドルトン夫人は上品な生活ぶりと自分の子どものことだけしか念頭になく、娘2人を良家に嫁がせたジェニングズ夫人は今度はエリナーとマリアンの良縁を願っていろいろと世話を焼こうとする。ブランドン大佐はドーセット州の大地主であるが、無口で重々しい感じの一方で、思慮深そうな様子を見せる。
 ある日、散歩に出かけてけがをしたマリアンは、近くの邸宅に滞在していたウィロビーという青年に助けられる。美男でスポーツマンであり、情熱的なウィロビーとマリアンはお互いに意気投合し、熱愛ぶりは周囲の人間に知られるところとなるが、2人が婚約したかどうかはわからない。ある日、ブランドン大佐は急用だといってロンドンへと去り、それからしばらくして、ウィロビーもロンドンに用ができたといって去ってゆく。
 ウィロビーと入れ替わるように、エドワードがバートン・コテッジを訪問する。しかしエリナーとの間はぎこちなく、よそよそしい感じで、1週間ほど滞在して去ってゆく。ジェニングズ夫人のもう1人の娘のシャーロット(パーマー夫人)が、夫であるパーマー氏とともにやって来る。この夫婦はウィロビーと同じサマセット州に住んでいて、その評判も少しは聞いているが、あまりよくは知らないらしい。かれらが去った後、ジェニングズ夫人の遠い親戚だというアンとルーシーの姉妹がミドルトン家の客としてやってくる。ほとんど何もいいところのない姉のアンに比べて、妹のルーシーは美人で抜け目がなさそうな感じであり、なぜか、エリナーと近づきになりたがっている。そして、彼女はエリナーに向かって、自分はエドワードと婚約していて、4年間その婚約を秘密にしてきたという。そして自分たちが結婚できるように力を貸してほしいというのである。
 冬の社交シーズンが近づき、もともとロンドンに自分の家があるジェニングズ夫人は(娘2人がすでに結婚しているので)、エリナーとマリアンをロンドンに招待する。エリナーは乗り気ではなかったが、ウィロビーと会えるだろうという希望に胸を膨らませたマリアンが承知してしまい、2人はジェニングズ夫人とともに、ロンドンで冬を過ごすことになる。

 デヴォン州からロンドンまでは3日間の旅であった。ジェニングズ夫人の家は大変立派で、家具調度類も整っていた。姉妹はもともと夫人の下の娘(シャーロット、パーマー夫人)が使っていた居心地のいい部屋をあてがわれた。ディナーまでの時間を利用して、エリナーは母親に手紙を書こうとするが、マリアンも手紙を書こうとしているので、母親に手紙を書くのであれば、1日、2日後からにした方がいいのではないかというと、マリアンは自分は母親に手紙を書くのではないといったので、エリナーは彼女が誰に手紙を書こうとしているのかを悟る。マリアンは簡単な手紙を書いて、すぐにそれを郵便に出す。その様子から、エリナーはマリアンが市内郵便でウィロビー宛に連絡を取ろうとしていることを確信した。この時代、ロンドンの市内郵便は1日に4回から8回の集配達があったそうである。いまは市内も市外も区別なく2回ではないかと思う。
 ディナーは終わったが、マリアンは落ちつかない様子で、誰か訪問者がいないか、待ちわびている様子であった。すると、たしかに来客があったが、それはブランドン大佐であった。訪問者はウィロビーにちがいないと思っていたマリアンはがっかりした様子を見せて部屋を出ていった。大佐は自分が歓迎されていないことに気づいた様子だったが、エリナーにマリアンは病気なのかとたずね、二人とも、他のことを考えながら、世間話を続ける。ジェニングズ夫人が部屋に入ってきて、ブランドン大佐がなぜ自分たちを訪問したのかを訪ねると、彼はパーマー氏の家のディナーでこの訪問が話題になったと答える。ジェニングズ夫人はなぜ大佐が急にロンドンに出かけたかの理由を聞こうとするが、大佐はその問いに答えず、ひきあげてゆく。

 翌朝、ジェニングズ夫人の家をパーマー夫人が訪問し、おしゃべりの後、みんなでボンド・ストリートに買い物に出かけることになる。(ボンド・ストリートはロンドン屈指の繁華街であるが、ジェニングズ夫人の家も、パーマー氏の家も、そこまで歩いて行ける場所にある。) 初めは嫌がっていたマリアンも、けっきょく説得されて3人と一緒に買い物に出かけるが、落ち着かずにあたりを見回してばかりいる。午前中おそくに寄託すると、マリアンは自分のもとに手紙か何かが届いていないかと熱心に探し回るが、何も連絡はない。エリナーの心の中には、ウィロビーとマリアンの関係について、またウィロビーの気持ちについて、疑いの念が深く沸き起こり、彼女はそのことについても母親にマリアンに問いただすように頼む手紙を書こうと思うのであった。

 ジェニングズ夫人の家で、姉妹はくつろいで過ごすことができた。社交的なジェニングズ夫人が呼び寄せる友人たちとのつきあいも、エリナーは我慢することができた。もっとも、夜になるとトランプゲームの他に何もしないのがエリナーにとっては不満であった。ブランドン大佐はほとんど毎日のようにやって来て、マリアンの顔を見て、エリナーと話をして帰っていった。エリナーとしてみれば、他の人々と話をするよりも、大佐と話をするほうが楽しいのだが、大佐がマリアンへの思いをあきらめていない様子なのが気になって仕方なかった。「大佐は明らかに、バートンにいたときよりも元気がなかった。」(230ページ)

 エリナーたちがロンドンにやって来てから1週間ほどたったある日、彼女たちが朝のドライブから帰ると、テーブルにウィロビーの名詞が置かれていた。どうも留守中に訪問を受けたらしく、エリナーは安心して元気になったが、マリアンは以前の落ち着かなさが戻ってきた様子である。それで、ジェニングズ夫人とエリナーが外出しようとする時も、自分だけは家に残ると言い張るのであった。しかし、エリナーが外出から帰って来ても、マリアンがウィロビーの訪問を受けたり、連絡を受け取った形跡はなかった。何も打ち明けないマリアンに対して、エリナーは心を開くように言うが、マリアンもまたエリナーの秘密主義を非難する。エリナーはエドワードとルーシーとの婚約の秘密を打ち明けるわけにはいかないのである。

 すると間もなく、ジェニングズ夫人が現われて、サー・ジョンの一家がコンディット・ストリートの家に到着したこと、彼女とエリナーとマリアンの姉妹とがミドルトン氏の家で開かれるパーティーに招待されたことを知らせる。サー・ジョンはバートンにいたときと同じノリで、舞踏会を開こうというのであり、ミドルトン夫人としてみれば、そんなに軽々しく舞踏会を開くべきではないという気持ちもあったが、押し切られたのである。
 舞踏会にはパーマー夫妻も来ていたが、パーマー氏は、姉妹がロンドンに来ているのは初めて知ったと奇妙なことを言い、そっけない様子であった。姉妹は疲れて、退屈して帰るが、その際に、この日の昼間にサー・ジョンがウィロビーに会ったので、招待したが、来なかったという話を聞く。 
 ジェニングズ夫人の家に戻って、エリナーは母親にマリアンがウィロビーと婚約しているのかどうかを尋ねる手紙を書くように頼む手紙を書こうとするが、その途中で、ブランドン大佐の訪問を受ける。大佐は、マリアンとウィロビーの婚約のうわさを聞いて、その真偽を確かめようとしてやって来たのである。エリナーは二人が愛し合っていることは間違いないし、手紙のやりとりをしていても驚かないと彼女の知る限りのことを説明する。大佐は、マリアンの幸福と、ウィロビーがマリアンの幸福にふさわしい人物になるよう努力することを祈るといって去っていく(この言葉の意味はあとで明らかになる)。エリナーは安心するよりも、大佐への同情の気持ちの方を強く感じる。

 それから3,4日たって、姉妹はあるパーティーに出ることになった。パーマー夫人の隊長が悪いために、母親であるジェニングズ夫人は同行できず、ミドルトン夫人が姉妹と同行した。まだウィロビーに会うことができないマリアンは、心ここにあらずという様子であったが、やむなく出席した。ミドルトン夫人がトランプゲームの席に着いたので、姉妹はその近くに席を見つけて坐った。
 ところが、彼女たちが座って間もなく、ウィロビーの姿が見えた。しかし、彼は姉妹の姿が見えるはずなのに、気づかないそぶりを見せ、自分の近くにいるとても洗練された感じの(ということは、美人ではない)若い女性と熱心に話し込んでいた。ウィロビーの存在に気付いたマリアンは大喜びで我を忘れて近づこうとするが、エリナーが必死に引き留める。
 とうとう、2人の存在に気付いた(もっと前から気づいていたのだが、無視できないことを悟ったという方が正しいのであろう)ウィロビーがやって来て、エリナーに話しかけるが、その態度にマリアンが怒りを爆発させかける。やっと、ウィロビーはマリアンと握手をしたが、マリアンの手紙に返事を書かなかったいいわけもせずに、ドギマギとした様子でその場を去り、また例の若い女性との話に戻っていった。
 マリアンはさらにウィロビーを問いただそうとするが、エリナーが辞めさせて、気分が悪くなったと言いつくろって、ミドルトン夫人とともに帰宅する。その夜のウィロビーの態度を見て、エリナーの疑いは強まり、マリアンを心配する気持ちはますます大きくなる。

 翌朝、まだ暗いうちに置き出したマリアンは泣きながらこれが最後の手紙になるとの思いで、ウィロビーへの手紙を書きはじめる。(日本よりも高緯度にあるロンドンの1月の朝は、遅い。それを思い出すと、陰鬱な気持ちがますます強くなる。) マリアンの落ち着かない様子に心を痛めたエリナーは、ジェニングズ夫人が余計なおせっかいを焼かないように、夫人の関心を自分に引き付けようとする。
 朝食が終わったときに、マリアン宛にウィロビーから手紙が届く。その手紙の性質を直感したマリアンは顔面蒼白になって、部屋を出ていく。エリナーも苦しい気持ちに襲われる。ジェニングズ夫人はそれに気づかず、エリナーにマリアンはまもなく結婚するはずなのに、なぜあんなにやつれて寂しそうなのかと質問するので、エリナーはマリアンとウィロビーの婚約は単なるうわさだと否定するが、ジェニングズ夫人は聞き入れようとしない。

 エリナーが部屋に戻ってみると、マリアンは1通の手紙を手にベッドの上でぐったりしており、近くに2・3通の手紙が散乱していた。2人は抱き合って泣いたが、少し落ち着いてから、エリナーはマリアンにあてられたウィロビーの手紙を読んだ。そこには、ウィロビーのデヴォン州での態度が誤解を与えたかもしれないが、自分はマリアン以外の女性と婚約していて、まもなく婚礼の式をあげる予定であると書かれていた。エリナーはマリアンがかれに対して誠実な態度を取り続けていたのに、ウィロビーの返事に見られる態度があまりにも厚顔無恥で残酷なものなので憤慨する。 
 その日も、姉妹はジェニングズ夫人と外出する予定だったが、エリナーはマリアンの体調が悪いことを告げて、姉妹で家に残ることにする。マリアンは嘆き悲しみながらも、ウィロビーとは婚約していなかったことを打ち明ける。エリナーはウィロビーの手紙に同封されていたマリアンからウィロビーにあてた手紙を読み、さらに怒りの気持ちを募らせる。一方、マリアンは、こうなった以上、ロンドンに留まるつもりはない、バートンに戻ると言い出す。

 帰宅したジェニングズ夫人は外出中に、ウィロビーがまもなく(マリアン以外の女性と)結婚するという情報を聞いて、憤慨した様子を見せる。食事中も、滑稽なほどマリアンに気を遣う様子を見せるが、マリアンは気がつかなかったので、事なきを得ていた。しかし、とうとうマリアンがそれに気づいてしまい、部屋に戻ってしまった。
 ジェニングズ夫人の話によると、ウィロビーの結婚相手は5万ポンドという財産を持ったミス・グレイという女性だそうである。収入のわりに派手な暮らしをしているウィロビーは金に困って彼女との結婚を決断したのだろうという。エリナーは、ジェニングズ夫人にマリアンはできるだけそっとしておいてほしい、サー・ジョンとパーマー夫人にマリアンの前で話題にしないようにしてほしいと頼む。そしてマリアンの様子を見に行き、なんとか彼女を寝かしつける。
 その夜、ブランドン大佐がやって来る。かれはマリナーの姿を探している様子だが、同時に、彼女が部屋の中にいない理由も知っているらしい。エリナーはマリアンが体調を崩している理由を話し、大佐はペル・メル街の本屋に立ち寄った際に偶然ウィロビーとミス・グレイの結婚についての話を聞いてしまったという。ジェニングズ夫人は、大佐にもマリアンと結婚する望みが復活したので、喜ぶと思ったのだが、彼はいつも以上に真剣な顔をしたままだった。

 この話は50章まであるのだが、半ばを過ぎたあたり、つまり第28章、第29章でマリアンとウィロビーの恋が破局してしまった。まだ結末までそうとうにあいだがあるのだが、どうなるのだろうか。それから、その傍らで、エドワードとルーシーの秘密の婚約を知ったエリノアがひそかに失恋の痛みに耐えているのである。マリアンはすぐにデヴォン州のバートンに帰りたいといったが、ロンドン滞在はまだまだ続く。それはまた次回に。
 物語の大筋とは関係がないかもしれないが、姉妹の母親であるダッシュウッド夫人が物語の始まった時点で40歳くらい、ブランドン大佐が35歳くらい、おそらくサー・ジョン・ミドルトンと姉妹の義理の兄のジョンもそのくらい、スティール姉妹の姉のアンが20代後半、ジョンの妻のファニーもそのくらい、ウィロビーとエドワードとパーマー氏が25/6歳、ミドルトン夫人もそのくらいだろうか、パーマー夫人とルーシーが20代前半、エリナーが19歳、マリアンが16/7歳ということらしい。
 物語全体を通じて、パーマー氏は物語の進行に関係する役柄という印象が強いが、ウィロビーとエドワードが未婚であるのに対し、既婚なので、エリナーとマリアンの姉妹に対し無関心、あるいは冷淡な様子を見せているのではないかと思う。というのは、後の方で、彼は姉妹が苦境に陥ったときに、親切な態度をとるからである。

 前回、ジェニングズ夫人の家は、ロンドンのポートマン・スクエアにあると書いた。25章にはそう書いてあるのだが、27章ではバークリー・ストリートになっており、その後はずっとそのままである。バークリー・ストリートはポートマン・スクエアから遠くない場所にあるので、まあ、大した問題ではない。ミドルトン夫妻はコンディット・ストリート、パーマー夫妻はハノーヴァー・スクエアに家をもっている。またジョン・ダッシュウッドはハーリー・ストリートに3か月契約で家を借りている。それぞれ、ロンドンの中心部の西側にある実在の地名で、比較的近くに存在するので、興味のある方はロンドンの地図で確かめてください。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(9)

5月11日(土)晴れ、気温上昇

〔これまでの要約〕
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
第5章 熱帯のクリスマス
 1957年から58年にかけて、著者である梅棹忠夫(1920‐2010)は大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスで熱帯の生態系とそこでの人々の生活にかかわる調査を行った。この書物は、その際に彼が経験したこと、考えたことの私的なまとめである。6人からなるこの調査隊はタイに到着後、第9回太平洋学術会議に参加し、その後、アンコール・ワットを見物、バンコクに戻って、北タイにおける本格的な調査に備えての準備に取り掛かる。

第5章 熱帯のクリスマス(続き)
 河の河
 タイは列強がアジアをその植民地にした時代にも独立を保ったことで、民族意識が高く、道路標識などもすべてタイ文字で書かれているために、外国人にとってはわかりにくい。しかも市民はほとんど英語がわからない。
 梅棹は、バンコクの大きな繁華街であるニュー・ロードという英語名を、タクシーの運転手が知らないことに驚く、タイ語では別の呼び方をするというのである。
 もっと驚いたのは首都であるバンコクというのが本来のタイ語の名称ではないことだという。タイ語ではクルン・テープという似ても似つかぬ呼び方をしている。バンコクはメナム(チャオプラヤー)川沿いの小さな村の名で、外国船の船員が上陸して、ここはどういう名の村かとたずねたところ、村人は自分の村の名を答えたのが、船員の方は町全体の名だと誤解したことが原因である。そういえば、メナム川というのも誤解で、この川の本来の名は「メーナム・チャオプラヤー」で「メーナム」の方が川という意味であるのを取り違えて、この名が定着してしまったのだと書いている(現在ではチャオプラヤー河という名称が多く使われていると思う)。

 発音練習
 一時期にせよ植民地だったことがある国とは違って、ずっと独立を保ってきた国を訪問する外国人は、その国の言語を学び、使って旅行するのが礼儀というものであると考えて、梅棹たちは「礼儀に従ってタイ語を学び、タイ文字を覚えることになった。まったく、たいへんな志を立てたものだ。」(113ページ)
 タイ語には声調が5つある。梅棹は声調が4つある北京官話をかつて学んだことがあるが、5つというのは初めてである。「それから、長短合わせて14種類の母音。それに子音における有気音と無気音の区別。だいぶん頭のいたいことになってきた」(同上、北京官話にも有気音と無気音の区別はある)。

 タイ文字研究
 一行は、英語で書かれたタイ語会話の本と、富田竹二郎『タイ語入門』を使ってタイ語の勉強を始めた。富田の本は大阪外国語大学(当時、現在は大阪大学外国語学部)のタイ語科の教科書として書かれたものなので、かなり難しい。タイ文字は音標文字であるが、その数が多く、読み方もなかなか複雑である。
 「タイ族はもともと雲南方面に国をつくっていたのだが、そのころは漢字を使っていただろうといわれる。その後、メナム平原におりてきて、13世紀末にスコータイ王朝のラーマカムヘン〔ラームカムヘーンと呼ぶ方が多いようである〕王の命令で、当時の先進国カンボジアのクメール文字を改変して、タイ文字をつくった。漢字をすてて表音文字を採用したのだから、大いにやさしくなったはずだが、おかげでわたしたちは苦労しなければならない。まったく、針金細工みたいなタイ文字の行列をながめていると、頭がくらくらッとしてくる。」(115ページ)

 しかも、現代のタイ語の中には、仏教と縁の深いパーリ語やサンスクリット語からの借用語がおびただしく入り込んでいる。それをもとの綴りのとおりにタイ文字で綴るのだが、発音はいまのタイ語の発音でするので、綴りと発音とがとんでもなく離れてしまうことになる。カンボジア旅行の際に一行が宿泊した国境の町アランヤ・プラテートはAranya Pradhesaと書くが、耳にはアランパテと聞こえる。さらにNagara Svargaをナコーン・サワンと読むというのには、ただ驚くばかりだという。だから、地名をローマ字表記してもあまり役に立たないだろう。一行がお世話になったチュラーロンコーン大学のクルーム教授の名前はKloom Bajropalaとローマ字表記されるが、Bjropalaは「パッチャラポン」と読むのだという。「とうてい信じがたい読み方である。」(116ページ)

 シナ食堂にて
 「勉強のかいあって、隊員たちのタイ語は目覚ましい進歩をとげた、と言いたいところだが、じっさいは必要にせまられて最小限のことばを覚えただけ、というのが真相である」(116ページ)。
 最小限という言葉が一番あてはまるのは、植物学者の小川で、彼の語彙は食べ物関係と数字だけに限られている。「つまり、食堂でめしを食い、支払いをすませるための必要最小限の語学である。/かれのタイ語は、ずいぶん強引な発音だが、気合いで通じる。」(同上)
 隊員たちは、なかば自炊生活を送っているが、シナめし屋で夕食を食べることがしばしばあったという。ピンからキリまである店の、ピンの方は招待以外あまり行ったことはないが、かなりキリに近い方には時々行ったようである。
 ときどき、大きな食卓を囲んで宴会をやっているタイ人たちの姿を見ることがあるが、その様子が日本人に似ていると梅棹は観察している。「日本人とタイ人となら、いっしょに飲んでもきっと調子があうだろう。」(117ページ)
 ただ、違うのはタイの場合は芸者が出てこないことだという。〔日本だって、芸者の出てくる宴会は今や例外的なものになっているが、この時代はまだそうでもなかったということであろうか。戦前に旧制高校を出た先輩の話を聞くと、旧制高校の宴会には芸者がやって来たそうであるが、戦後の新制大学のコンパに芸者が来たという話は聞いたことがない。〕
 タイの場合、宴会の後の二次会で、女性のいるキャバレーのようなところに出かけるのだというが、今は日本でも同じことをしているのではないかと思う。
 調査隊の隊員はこの種の遊興に興味のあるものはおらず、せいぜい、ときどき酒を飲むだけである。それも吉川蔵相が首をたてに振る時だけで、横に振ればあきらめざるを得ない。ビールはタイ製の「トラー・シン」というのを飲むだけで、日本製は高くて手が出ないが、タイ製で十分であるという。〔中国料理店という言い方をしないで、シナ食堂とかシナめし屋というところに、梅棹が戦前に大学を出た人間だということが示されているように思われる。わたしの先生方でも、そういう言い方をされる方が多かったと思う。〕

 タイ語の学習の話から、タイでの生活ぶりの話に話題が移り始めたところで、今回の紹介を終えることにする。その後、梅棹が1992年に書いた『実戦・世界言語紀行』(岩波新書)という本に、この調査旅行とタイ語(その他の東南アジア言語)のことも触れられているので、今日のある方はぜひ探してみてください。この書物の中で、梅棹は現代の中国語は「アルタイ化されたタイ語である」(同書、108ページ)という橋本萬太郎の説を紹介している。「タイ語と現代中国語の普通話とのあいだには本質的な差はないのである」(同上)ともいう。そう言い切っていいのかどうか、私にはわからないが、中国語についても、タイ語についても、私よりは知ることの多い梅棹がそういうのだから、そういうことを言う人がいるということくらいは記憶してよいのかもしれない。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(17‐1)

5月10日(金)晴れのち曇り

 1300年4月、道を見失い、「暗い森」に迷いこんだ語り手である私(ダンテ)はローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスの霊によって救い出され、地獄(引き続き、煉獄、さらに「よりふさわしいたましい」=ベアトリーチェのたましいに導かれて天国)を旅することになる。「すべての希望を捨てよ」(第3歌9行、45ページ)と記された地獄の門を通り、9層からなる地獄の第1圏(リンボ、洗礼を受けずに死んだ幼児と正しく生きた異教徒たちのたましい)、第2圏(愛欲の罪を犯した人々のたましい)、第3圏(食悦の罪を犯した人々のたましい)、第4圏(貪欲・浪費の罪を犯した人々のたましい)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々のたましい)、第6圏(異端の罪を犯した人々のたましい)、第7圏第1冠状地(暴力の罪を犯した人々のたましい)、第7圏第2冠状地(自己破壊の罪を犯した人々≂自殺者、蕩尽者たちのたましい)を見て、第7圏第3冠状地にたどりつき、そこで瀆神者たち、さらに男色者たちが生前の罪の罰を受けているさまを見る。2人の行く道が行きどまりになり、第8圏へと進むために、ウェルギリウスは怪物を呼び寄せる。

 ウェルギリウスによって呼び出された怪物は次のような姿をしていた。
 その顔は正直な人間の顔で
見かけはまったくの善人であったが、
残りの胴体はすべて蛇であった。
(10‐12行、407ページ) 怪物の名がゲーリュオーンであることが、この第17歌の97行になってやっと明かされる。それまでは、その名はわからないままである。ウェルギリウスはこの怪物に、彼らを第8圏まで運ぶよう交渉しているあいだ、第7圏第3冠状地で罰を受けているもう1群の人々≂高利貸たちの様子を見るようにとダンテに勧める。

 言われるままに、ダンテは罰を受けている高利貸たちの様子を見る。
 こうして第7圏の境界の上を先へ
わたしはただ一人進み、
苦しむ人々が座っているところまで行った。
 彼らの目からは苦痛が迸(ほとばし)り、その手を
ある時は火炎に、ある時は焦土にと、せわしく
上へ下へと差し出していた。
(43‐48行、409ページ)

 苦しみの炎がはらはらと舞い落ちる
何人かの顔に私は目を向けた。
誰一人、誰だか判らなかったが、誰もかれも
 小さな金袋を一つ首からぶら下げているのに
気がついた。財嚢には一つ一つに特定の色と家紋がついていた。
みなその財嚢で目を養っているように見えた。
(52‐57行、409‐410ページ) 高利貸たちは生前、金儲けに生きがいを見出していたので、死後に地獄に落ちても、その金を入れていた財嚢を見ることでわずかに慰めを得ているので会う。財嚢は腰から下げるものであるが、地獄で彼らは牛が鈴をつけるように、首から財嚢をつるしているのである。
 たましいたちの顔を見分けることはできないが、財嚢の色とそこに記された家紋によってダンテは、彼らがどの家柄に属しているかを知ることができた。フィレンツェの高利貸たちがそこにいたのは言うまでもない。その中からパードヴァの高利貸であったレジナルド(またはリナルド)・デッリ・スクロヴェンニがダンテに声をかけ、何をしているのか知らないが、さっさと失せろと邪見な言葉をかける。これは第15歌、第16歌に登場したたましいたちとは対照的な態度である。

 この声を聴いてダンテはもはやその場にいる必要はないと思う。
 これ以上長く居ると、つい先ほど
私を諫めた師の気を揉ませるのではと思い、
この(苦患に)打ちひしがれたたましいたちを離れてもとへもどった。
(76‐78行、411ページ) 戻ってみると、ウェルギリウスはもう、怪物の背にまたがっていて、ダンテに彼も背の上に上るように促すのであった。

 ダンテは黙っているが、彼自身の祖父と父も高利貸であったという話である。だから、彼自身の内面で相当な葛藤があったと想像できる。かれは時代の矛盾を背負う人であった。高利貸たちのたましいが地獄の上から降ってくる火の粉と、足もとの熱砂に苦しんでいる様子の描写を読んでいると、私はドイツの社会主義者フリードリヒ・エンゲルスがマルクスとの共著である『共産党宣言』のイタリア語訳の序文として1893年に書いた「イタリアの読者に」という文の最後の段落を思い出す。そこで彼は、封建的な中世から資本主義的な近代への移行の道のりを最初にたどったのはイタリアであり、そこに現れた中世最後の、新しい最初の詩人がダンテであったと述べる。そして、資本主義から社会主義への変革期にあたって、イタリアから新しいダンテが生まれることを期待して文章を終えている。エンゲルスがこのように書く以前に、イタリアのナショナリズムの高まりの中で、マンゾーニの文学作品や、ヴェルディの歌劇が生まれていた。エンゲルスがこれらの芸術的成果をどのように評価していたかも知りたいところである。
 こうして、ダンテはウェルギリウスとともに、地獄の第7圏を離れ、第8圏に向かうのであるが、第17歌の後半はその下降する飛行の様子を歌っている。次回は、その第8圏への飛行を歌った第17歌の後半と、第18歌~第34歌の概略を紹介して、この連載を終えることにする。

E.H.カー『歴史とは何か』(14)

5月9日(木)曇り

Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は過去の事実と歴史家の間の対話である。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人の関係は相互的であり、歴史は現在の社会に照らして過去の社会を理解し、また過去の社会から学んで現在の社会を理解する作業でもある。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史の研究方法には、科学の研究方法と共通するものが多く、歴史は科学であるといってよい。

歴史家は裁判官ではない
 「裁判官」というのはおそらくjudgeに対応する訳語だと思うが、ここでいわれているのは、(有罪・無罪を言い渡す裁判官という意味も含まれているとはいうものの)歴史家は過去の人物の行為の道徳性を裁く(いわば神様のような)存在ではないということであって「裁き主」とか「裁き手」とか訳す方がより適切ではないかと思う。
 前回取り上げた個所で、過去の特定の人物がどのような人間性の持ち主であるかということと、その人物の社会的な行為とを結びつけるべきではないと、カーは主張した。今回取り上げる箇所で、カーは続けて「公的行為に対する道徳的判断という問題については、もっと重大な曖昧さが現われて来ます。歴史家たるものはその登場人物に対して道徳的判断を下す義務があるという信仰には長い系譜があります」(110ページ)という。
 「長い系譜」についてカーは詳しく説明せずに、その(英国人の聴衆にとって)身近な部分である19世紀以降の英国の歴史家たちの見解を紹介していく。「19世紀のイギリス以上に、この信仰が強力であったことはありません」(同上)というのがそうする理由である。

 この書物の冒頭に登場した、『ケンブリッジ近代史』の編著者であるアクトンは、歴史的な事実の客観性と優越性を前提として、歴史的な事件に登場する人物に対して歴史家は、超歴史的な道徳的規範に基づいて、判断を下すことができると考えていた。このような考えは、カーの時代(1960年代前半)になっても時折、意外な形で姿を現すという。
 その例として、カーはトインビーとバーリンとの名をあげる。トインビーはムソリーニのアビシニア(エチオピア)侵入を道徳的に批判し、バーリンは「カール大帝、ナポレオン、ジンギスカン、ヒトラー、スターリンを彼らの行なった殺戮によって裁く」(101ページに引用)のが歴史家の義務であると強く主張しているという。
 カーはこれに対して、ケンブリッジの近代史の教授で(カトリックの司祭、ベネディクト会士)であったノールズ(David Knowles, 1896 - 1974)と、クローチェの言葉を引用して反駁を加える。カーの意見は、道徳的な評価は同時代人として下すべきであり、過去の人物に対して道徳的な評価を加えることはあまり意味がないということのようである。
 〔岩波新書の中では、ノールズについて、Rev.Michael Clive Knowlesと記されているが、Rev.はReverendの略記で聖職者に対する尊称、ノールズは生まれたときの名前はMichael Cliveだったが、僧職についてからDavidという名前に変えたというようなことが、ウィキペディアに出ていた。〕

道徳的判断の基準
 続いて、カーは歴史的な人物ではなく、事件についての道徳判断の問題に焦点を移す。そしてこちらの方が困難だが重要な問題であるという(「社会と個人」について論じた部分の趣旨と、このあたりの論旨とに食い違いがあるような気もする)。
 この問題をめぐって彼はまず、 「個人に対する道徳的断罪を熱烈に主張する人々は、無意識のうちに、集団や社会の全体のためにアリバイをつくることが多いのです」(113ページ)と指摘する。独裁者に追随した人々は、自分たちの責任について逃れるために、すべての罪を独裁者個人に帰することが多いというのである(これは、ソヴィエト史家であるカーの長年の研究実感がこもった言葉である)。
 歴史的な事件の進行は、特定の個人の性格や善意を超えているのであって、その展開や結果を個人の責任とすることはできない。とはいうものの、歴史的な事件の評価が道徳的な判断、より中立的な表現を使えば、価値判断を含むことは否定できないとカーは言う。

 さらに、歴史というのは特定の社会集団と、別の社会集団の闘争の過程であるから、どうしても「勝てば官軍」ということになる。「すべて歴史上の偉大な時代には、その勝利とともに、その不幸があるものです。」(114ページ) 勝った方が善で、負けた方が悪だとか、その逆だとか断定できるような絶対的な尺度をわれわれは持っていない。それに加えて、我々の生活の中では、さまざまな悪に直面して、できるだけ小さな悪を選ぶというような選択を迫られる場合もあることを忘れてはならない。
 東急の東横線に特急が走るようになった時(一種の「革新」である)、便利になったと思う人と、不便になったという人がいた。変化に適応する能力のある人は便利になったと思い、古いやり方に慣れ親しんで適応できない人は不便になったと思ったということである。「革新」によって社会が分断されることは、歴史上しばしば起こってきた。特に、この問題がもっともドラマティックな形で現れるのは根本的変化の時代である。

死骸の山を越えて
 そのような根本的な変化の例として、カーは1780年ごろから1870年ごろまでの産業革命を取り上げる。ほとんどすべての歴史家が、この変革を進歩と評価するはずである。その一方で、その否定面である農民が土地を奪われ追い払われたこととか、労働者たちの貧困とか、児童労働についても言及される。しかし、そのような否定面を克服する人道主義的な努力もなされたことも語られ、資本主義的な経営が変化したことも取り上げられる。このような歴史記述に対し、工業化はなかった方がいいと、産業革命を全面的に否定するような意見をいう人々はほとんどいない。〔ここで、カーはごくまれな産業革命否定派の代表者の1人として、チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton, 1874 - 1936)の名をあげている。日本ではブラウン神父が活躍する推理小説の作者として知られているが、物質主義・機械万能主義を批判する批評家でもあり、H.G.ウェルズの『世界文化史』をめぐって論争を展開したよしである。〕 産業革命に対するのと同じような議論を、ソヴィエト・ロシアの農民集団化、あるいは英国のインド植民地支配に当てはめて論じることはできない。しかも変化を生き延びる人間は少ない。「代償を払う人間が利益を得る人間と合致することはまれにしかないのです。」(117‐118ページ) 歴史の進行の中で、犠牲となった人々の数はきわめて多い。歴史家は、小さな悪と大きな悪との選択の問題に絶えず直面を迫られているのである。

 今回で、「歴史と科学と道徳」について論じた部分の検討を終えるつもりだったが、作業がはかどらず、もう1回、検討を続けることにした。歴史は多くの場合、敗者について語られることはあまりない(判官びいきという心性もあるにはあるが)というのは、小机城の遺跡を見るたびに思うことである。以前に書いたかもしれないが、小机城は長尾景春の乱の際に、太田道灌が包囲した城として知られていて、包囲された方のことはあまり知られていない。その後、後北条氏の城となったが、城主が北条一族の誰であったかを知る人はあまりいない(私もすぐには思い出せない)。
 ロシア革命から逃げて来た亡命者であるバーリンと、外交官出身でロシア革命の研究者でもあるカーが歴史研究の様々な面において意見の対立を見せているのは、すでに見た通りで、さらに言えば、そのような歴史家としての背景の違いが、彼らの思想に影響を及ぼしているというカーの主張の生きた証拠となっているのは興味深いことである。さらに言えば、カーの著作よりも、バーリンの著作の方が多く読まれているだけでなく、ソ連が崩壊した今日の目から、両者の論争を見直すのは意味のあることであろう。まだこの本を半分も検討していないのだが、検討を終えたら、今度はバーリンの『ハリネズミと狐』に取り掛かろうかなどと考えはじめているのである。

出井康博『移民クライシス』(3)

5月8日(水)晴れ

 今回は、この書物の結論部分である第9章「政財界の利権と移民クライシス」を取り上げるが、その前に、第1章~第8章の内容を簡単に紹介しておく。

第1章 『朝日新聞』が隠すベトナム人留学生の違法就労
 『朝日新聞』をはじめとする日本の主要新聞の大部分が配達員として海外からの留学生を使用しており、配達のために要する時間が法律で定められた週28時間を超える例が多い。
第2章 「便利で安価な暮らし」をさせる彼らの素顔
第3章 「日本語学校」を覆う深い闇
第4章 「日本語教師」というブラック労働
第5章 「留学生で町おこし」という幻想
第6章 ベトナム「留学ブーム」の正体
第7章 「幸せの国」からやって来た不幸な若者たち
第8章 誰がブータン人留学生を殺したのか

第9章 政官財の利権と移民クライシス
 実習制度は「ブラック企業」問題ではない
 2018年12月8日に改正入国管理・難民認定法(改正入管法)が成立した。改正入管法は2019年4月から施行されるが、新たに「特定技能」という在留資格を設け、外国人労働者の受け入れ拡大を目指すものである。
 新しい在留資格である「特定技能」には「1号」と「2号」とがある。1号は介護や建設、外食、飲食料品製造など14業種での外国人の就労を可能にするものである。日本で働ける期間は最長5年で、当初の5年間で最大34万5千人を受け入れる。2号は「熟練した技能」を持った外国人を対象とし、就労期間に制限がなく、5業種を見込んでいるが、受入数や実施時期は未定である。1号の場合には、実習生から資格を移行すれば最長10年の就労、2号では永住が認められる。外国からの単純労働者にも「移民」となる道が開かれる。
 改正入管法をめぐる国会審議の中で、野党の追及の中心になったのは「実習生制度」特に、その失踪問題であった。また報道の側も、この追及と歩調を合わせるかのように「ブラック企業が実習生を搾取している」という指摘を続けた。にもかかわらず、実習制度は見直されず、むしろ拡充された。問題の追及と報道は表面的なものにとどまり、実習制度は批判されながらも存続しているのである。

 拡大した官僚利権
 改正入管法成立の1年前の2017年12月に「外国人の技能実習の適正な実施及び技能実習生の保護に関する法律」(技能実習法)が施行され、実習生の受け入れが拡大した。それまで最長3年だった実習生の就労期間は5年にのび、「介護」分野での受け入れも可能になった。ここでは、「技能実習の適正な実施」や「実習生の保護」が謳われているが、制度の枠を広げるのが主な内容であり、新法施行後も実習生の失踪はさらに増えて、既にみたように改正入管法をめぐる国会審議の中でも問題になった。

 実習制度には途上国のための「人材育成」や「技能移転」という目的が掲げられているが、実習生の受け入れが認められる約80の職種は例外なく、人出不足に陥っていて、しかもたいした技能を必要としないものばかりである。母国での仕事と同じ仕事を日本でして、帰国後は復職するという規定も形骸化している。特に、新たに認められた「介護」の仕事など、実習生の母国では普及していないのである。

 その一方で、技能実習法により、監督機関として「外国人技能実習機構」が作られた。しかし、実習制度をめぐってはすでに、公益財団法人「国際研修協力機構」(JITCO)が存在するのであるから、屋上屋を重ねるというよりも、官僚機構にとって新しい天下り先を設けたというだけのことに過ぎないようである。

 誰が「ピンハネ」しているのか → ”オール・ジャパン〟の団体が享受する「甘い蜜」
 実習生の派遣をめぐり、営利目的の仲介は禁止されているが、それは建前に過ぎず、送り出し側にとっても、受け入れ側の監理団体にとっても高収入のビジネスになっているというのが実態である。しかも、報道などでは農協や商工会が監理団体になっているような誤解が見られるが、法律の規定は形骸化していて、監理団体は実習生の斡旋に特化した団体が多く、事実上、人材派遣会社と変わりない存在になっているという。
 なぜ、送り出し側と受け入れ側(監理団体とそのまた監視を行う機関)のピンハネがなくならないかというと、もともとこの制度自体がピンハネを目的として作られたものだからであると、著者はその経緯の詳細に触れながら論じている。」

   選挙に落選したり、政界を引退した政治家が(与野党を問わず)監理団体の運営に関わる事例も増えている。特に実習生を送り出している国とのつながりがある政治家がかかわっている例が目立つ。政官財の利権が絡んで、実習生への中間搾取がなくならないのだが、この問題はほとんど報道されない。

 「移民」受け入れの本丸「留学生の就職条件緩和策」 → <優秀な外国人材確保>という欺瞞と経済界の力
 「留学生の就職条件緩和」は、改正入管法の問題ほど話題にならなかったが、こちらの方が移民の受け入れに直結する「本丸」なのだと著者は主張する。
 留学生の就職条件の緩和は、安倍政権の主要政策の1つであると著者は評価する。2016年に現政権が打ち出した「日本再興戦略」(成長戦略)では留学生の就職率を「5割」へと引き上げる目標を打ち出している。同じく成長戦略として推進する「留学生30万人計画」で留学生を増やし、就職率も上げようというのである。
 特にこの問題について協力に発言をしてきたのは菅義偉官房長官である。菅氏は2018年8月に留学生の就職条件緩和が優秀な外国人材の確保に不可欠だと発言し、法務省がこれを受けて、就職条件緩和の方向性を打ち出し、マスコミの論調もおおむねこれを支持してきた。
 日本で就職する留学生には就労ビザが与えられる可能性が格段に大きくなる。安倍政権の後押しによって、留学生の就職率は上昇したが、まだ50%には達していない。そこで、さらなる方策が講じられた。
 日本で就職する留学生の9割は「技術・人文知識・国際業務」(技人国ビザ)を得る。このビザを獲得して日本に滞在する外国人は政策の後押しもあって急増し、2018年6月時点で21万2403人となっている。技人国ビザの更新は容易なので、事実上の永住権核といってもよい。このビザの取得者の急増は、日本が「移民国家」への歩みを進めている証であると著者は言う。
 ただし技人国ビザでは単純労働には従事できない。そこで、政府は法務大臣が独自に定める在留資格「特定活動」の範囲を拡大するのだという。そうなると単純労働への就職も可能になる。人手不足が深刻化し、外国人労働者をもっとも必要としているのは、肉体労働の現場である。留学生の就職条件の緩和は、優秀な外国人材の確保を表向きに掲げながら、実は外国人の単純労働者を確保するための手段であると著者は言う。このような政策の実施をもっとも強く望んでいるのは経済界である。
 ここで著者が、2018年に日本商工会議所(日商)が「大学等を卒業した日本人留学生」に特化した在留資格を要望していることに触れているところに注目した。この年に改正入管法が成立したときに、『日経』は経団連と経済同友会の意見を掲載していたが、日商の意見を掲載していなかった(連合のコメントも取り上げられなかった)ので、経済団体でもっとも利害関係があるのは日商だろうと思って不思議に思っていたが、やはり日商も働きかけをしていたことがわかった。

 とにかく、留学生は数年間にわたり日本語学校と大学の学費さえ払えば、日本で就職できることになる。母国の10倍近い賃金が得られるのだから、偽装留学生の希望者はますます増えるのに違いないと著者は予測する。そして、彼らが移民となる可能性は大きいという。
 事実上、「移民」と呼べる永住者は2018年6月時点で75万9139人を数え、この10年間で約27万人増加した。今回の法改正で、ますます増加するのではないかという。留学生→永住者が増えることに反対ではないが、彼らの職場と働き方が問題だと著者は論じるのである。

 偽装留学生の日本への引き留め策
 すでに述べたように2016年に安倍政権は留学生30万人計画を打ち出し、2020年に達成する予定だったのが、2018年の時点で留学生は32万人と目標を超過達成してしまった。ところが問題はその中身で、「出稼ぎ目的で、留学費用を借金に頼って来日する偽装留学生が大量に受け入れられた結果である」(286ページ)。
 留学生の64%が日本での就職を希望しているが、半数近くが就職先が見つからない、優秀な外国人材の就職を拡大しようというのが、就職緩和策導入の根拠となっているが、優秀な外国人材という時の根拠は学歴だけで、日本語能力は問われていない。就職緩和策をとっても、肝心の留学生が就職活動をするのに十分な日本語力を身に着けているとは言えない場合が多いのである。留学生や実習生だけでなく、外国人の就活生の周囲にもブローカーが介在することになる・・・というよりもすでに介在している。留学生にホワイトカラーの仕事をあっせんするように見せかけ、実際には単純労働の現場に送り込むような「偽装就職」が横行しているという。

 政府の本音は外国人を底辺労働に固定すること
 優秀な外国人材が向かうはずのホワイトカラーの仕事では人手不足は起きていない。本当に優秀な外国人材がやってくれば、日本人の職が奪われることにもなりかねない。政府が優秀な外国人材という時、そんなことを予期しているわけはない。
 多くの企業にとっては低賃金・重労働に耐えてくれる労働者が必要なのであって、日本語の能力はむしろ低い方がいい。
 しかし、そういう労働者が労働市場の底辺に固定すれば、日本人の労働者の賃金も抑えられる可能性がある(歴史は繰り返す)。それから、人手不足が緩和したときに、外国人労働者がまっさきに整理の対象になる可能性も大きい。2008年のリーマン・ショック後、日系ブラジル人労働者の失業問題が起きた記憶はまだ残っているはずである。同じことが、現在の留学生たちの身に起きないとは言えない。

 政府は「移民政策はとらない」と言いながら、その陰で実質的な移民は増え続けている。このようになし崩しの受け入れを続けていくことによって社会の分裂が進んで、修復がきわめて困難になった欧州諸国の轍を踏むことにならないだろうか。経済界には経済界の都合があって、外国人労働者の雇用を推進しようとするのは当然のことかもしれないが、それに追随して経済界以外の国民の利害との調整をはからないというのでは政府はその仕事をしているとは言えない。抜け道を増やすだけの緩和策がどのような結果を生むか、政府には長期的な見通しが必要だし、報道機関も検証機能を果たすべきであろう。

 第2章~第8章の内容も要約紹介するつもりだったが、どうも力尽きた感じで、章題だけで済ませることになってしまった。第2章と第3章については、5月1日付の当ブログで触れた記事を読んでください。この書物ではベトナムとブータンからの「偽装留学生」の問題が主として取り上げられているが、法務省の「外国人労働者」についての統計を見ると、数の多さでは①中国、②ベトナム、③フィリピン、増加率の高さでは①ベトナム、②インドネシア、③ネパールということで、留学生の就労について、法務省が統計を取っているという事実の奇妙さもさることながら、まだまだわれわれの目に着かない問題はあるだろうと思う。
 この後で、望月雄大『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)を読んだが、この本と合わせ読み、またこれら2冊の本で触れられている政府や各種団体のウェブサイトを見ていけば、外国人労働者と改正入管法の問題の概略はわかるのではないかと思う。

『太平記』(261)

5月7日(火)晴れ午後になって雲が多くなる

 暦応5年(この年4月に康永と改元、南朝興国3年、1342年)4月、新田義貞の弟である脇屋義貞が吉野の朝廷に大将の派遣を求める伊予の武士たちの求めに応じて派遣されることになった。彼は途中、高野山に立ち寄り、熊野水軍や南朝方に寝返った備前の飽浦(佐々木)信胤らの援助を得て、伊予に到着、守護の大館氏明、国司の四条有資(隆資の息)らの宮方がこれにより勢いを得た。
 その頃、伊予の住人大森彦七盛長は、兵庫湊川の合戦で楠正成に腹を切らせた功により所領を得ていたが、それを祝う猿楽の宴を開くと、鬼女が現れ、彦七に襲い掛かるという怪異があった。再度、猿楽の宴を開くと、その最中に黒雲の中から正成を名乗る鬼が現れ、足利尊氏の天下を覆すために必要だとして、彦七の所持する名剣を求めた。さらに3,4日して、正成が剣を奪いに来たが、その時は先帝後醍醐や、護良親王、新田義貞らの怨霊も一緒だった。正成の霊が現れるたびに、彦七はその要求を拒絶していたが、その後も天井から手が伸びて彦七の髻をつかんで連れ去ろうとしたり、大きな蜘蛛が現れて彦七の家来たちを金縛りにしたりした。このときは、名剣を鞘を残して奪い取ったかに思われたが、彦七の怪力に力を奪われた怨霊が刀を落してしまい、事なきを得た。

 この事件が終わって一段落がついたときに、盛長は「この化け物もこれ以上は出てこないだろうとと思う。そのわけというのは、楠には7人の影武者がいると聞き及んでいるが、こうやってわしのところに化けて出てきたことが7回に達した。これでおしまいだろう」といい、周囲のものもさようでございますねえとうなずいていたのだが、そのとき、空の上からしわがれた声で「けっして七人で終わるということはないぞ」とあざ笑う声がした。これはどうしたことだと驚いて、人々が空を見上げると、彦七の邸の庭に蹴毬をするために4本の木が植えてあった(その4本の木の囲んだ区画で競技をする)が、その樹木の1本のところに鉄漿で歯を染めた美しい女の巨大な首が、乱れ髪をさらに振り乱しながら、まぶしいほど華やかな笑顔を見せて、「恥ずかしい」と言って、後ろを向く。これを見た人は、あっと怯えて、同時に地に倒れ落ちたのである。

 このような怪物は、蟇目(大型の鏑矢を射る時に発する音)によって威圧されるといわれるので、毎晩、当番のものをおいて、夜中にずっと鏑矢を射させたのだが、矢を射るたびに、夜空の奥底からあざ笑うような声が聞こえ、空一面に響き渡る。それならばと、陰陽師に東西南北の門を封じて、怨霊が入れこめないようにしようと、各門に護符をはりつけさせたが、目に見えぬものがやって来て、その護符をとって捨ててしまった。

 どうもこうもない、どうしようかと彦七とその家来たちが思い悩んでいると、一人の僧がやって来て、次のように言った。「そもそも、今、現れ出ている怨霊たちは、修羅道に堕ちた者たちである。彼らの出没を封じるためには、大般若経を読むのが一番であろう。というのは須弥山の頂上に帝釈天が住んでいて、この世界を支配しているのだが、その支配を覆そうと阿修羅たちが闘っている。帝釈天が戦闘に勝てば、修羅たちは姿を小さくして、蓮の花の茎や根の中の穴に姿を隠す。しかし、阿修羅たちが勝つこともあって、その時は須弥山の頂上まで攻めのぼり、太陽や月、海洋の支配権を奪い取る。さらに須弥山の頂上にある帝釈天の城とその四方の峰各々にある8つの天を攻め落として、人間たちすべてを支配しようとすると、天上界で仏法を守護する神たちは、善宝堂と呼ばれる帝釈天の宮殿に集まって、大般若経を読誦する。すると、転輪聖王のもつ宝器である輪宝が降りて来て、剣と鉾とが雨のように降りそそぎ、阿修羅たちをずたずたに切り裂く。そういうことで帝釈天は忉利天(三十三天)を支配しているのであり、仏法を守る帝釈天でさえ、自分の力が及ばない場合には、法威をもってその法力で魔王を退ける。まして凡夫である我々の場合には、法力を借りずに怨霊の胎児はできることではない。」 
 これを聞いた彦七たちは、もっともだと思い、僧侶たちを呼び集めて、大般若経の全巻を昼夜6部まで読ませた。

 実際、大般若経を読誦させたことの効果によるのであろうか、5月3日の暮れになって、導師(この法会を主催する僧)が高座に上がって、祈願の趣旨を述べるために鐘を鳴らした時から、急に空が曇り、雲の上にあわただしい動きが起きているような気配がした。車が音を立てて走り、馬がかけていくような音がひっきりなしに聞こえた。矢が甲冑を貫く音が雨の降る音よりもひんぱんに聞こえ、刀剣が刃を合わせる際の光は、輝く星のように見えた。聴く人、見る人はただ肝をつぶし、寒気を感じて恐れおののいていた。この戦いの声が聞こえなくなって、空も晴れ渡ると、盛長の狂気はもとに戻り、正成の亡霊は、それ以後夢にも現れることはなかった。

 『太平記』は後半になると、登場人物がそれぞれ、私利私欲のために戦い続けることで、戦いの大義名分が見失われて混乱していくが、『太平記』の作者はそこに<魔>の介在を見ているようである。そう考えると、現実にはどのような小競り合いであったのかわからない伊予の武士大森彦七の身辺の出来事を、魔物と剛勇の武士の対決として長々と語るのにもなにがしかの意味が見いだされるように思われる。しかも、その魔物というのが、『太平記』の前半において、大義のために命を懸けて戦った知勇兼備の武将楠正成の亡霊であるというところにも何らかの意図が込められているように思われる。七人の影武者(正成自身と6人の影武者というのが正確らしい)というのは平将門にまつわる伝説であるが、ここでは楠正成について言われているのも興味深い。
 現実には、これから始まる四国における宮方と足利将軍方の武士たちの戦いの方が重要なはずであるが、この戦いは中国地方にも波及したりして、思いがけない展開を見せる。その詳細は次回に。

 これまでに読者の皆様から頂いた拍手が36,000に達しました。あつくお礼申し上げるとともに、これからもご愛読いただけるよう、お願いいたします。

日記抄(4月30日~5月6日)

5月6日(月・振替休日)曇り、ときどき晴

 4月30日から本日までに経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

 4月29日から5月5日までの1週間、NHKラジオの語学番組は前の週に放送した分を再放送したが、『NHK高校講座』の放送は先に進んだようである。

 4月23日
 ということで、4月30日にも放送されたNHK[ラジオ英会話』の導入部で、講師の大西泰斗さんが最近のテレビは4Kだとか5K だとか言っているが、テレビはやはり谷啓だという駄洒落を飛ばし、パートナーのローザ秋乃さんの失笑を買っていた。いまはなき谷啓の全盛時代に、ローザさんは生まれていたのであろうか。
 谷啓といえば、川島雄三の最後の作品となった『イチかバチか』の最後の方に、彼がちらりと出演して存在感を示し、その後の活躍を予見させていたことを思い出した。川島がもっと長生きしていたら、谷啓をどのように起用したか(あるいは起用しなかったか)というのは興味深い問題であると勝手に思っている。

4月24日
 この日に放送された(5月1日再放送の)『実践ビジネス英語』には興味深い表現がいくつか使われていた。
I hate to sound like a Jeremiah. (わたしは悲観論者のように思われたくはない。)
Jeremiahというのは『旧約聖書』に出てくる預言者の1人であるが、悲観論者という意味で使われることが多いようである。
They're talking about nightmare scenarios like the ccollapse of agriculture. (彼らは農業の崩壊といった悪夢のシナリオを話題にしている。)
 映画やテレビの脚本のことをシナリオというが、英語にはscenarioのほかに、screenplayという言い方もあって、こちらの方がよく使われるのではないか。シナリオというのはもともとイタリア語で(シェナリオと発音するのが正しいのであろうが)、辞書によると「①舞台背景、舞台装置、②風景、景色、③(映画の)脚本、シナリオ;〖演劇〗(コンメディア・デッラルテの)筋書き、④(一般に物事の)背景、状況;展開、筋書き」という意味だそうである。コンメディア・デッラルテというのは16‐18世紀にイタリアで人気を集めた仮面即興劇のことだそうである。

 『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅲ』では、ロゼッタ・ストーンを手掛かりにしたエジプトの象形文字の解読の話を取り上げているが、現在、ロンドンのBritish Museumにあるロゼッタ・ストーンを私は何度も見たことがあるし、店内の売店で関連のグッズをよく買ったものである(この石に刻まれている碑文をデザインしたスカーフやネクタイまである)。わりに簡単に見られるのがありがたいところである。

4月30日
 酒井敏『京大的アホがなぜ必要か』(集英社新書)を読み終える。題名は挑発的であるが、要するに、世の中の不確定要素は賢い人たちが思っているよりもはるかに多いので、常識にとらわれない発想をするアホがどうしても必要になるという議論である。

5月1日
 『NHK高校講座 コミュニケーション英語Ⅲ』はロゼッタ・ストーンの話の第3回。フランソワ・シャンポリオンが登場した。しかし、名前だけで、彼がどのようにしエジプトの象形文字を解読したかについて詳しいことは語られなかった。これは講師と出演者が詳しい事情を知らないからではないかと思われる。エジプトの象形文字は、中国の漢字同様、もともとは表意文字であったが、それだけで必要な情報をすべて記述することは不可能であり、表音的な手法を取り入れるようになった。ロゼッタ・ストーンの時代の象形文字は、表音的に使われている例が多くなってきていたと考え、シャンポリオンは固有名詞を手掛かりとして一つ一つの文字の音価を推定していって、解読に成功したのである。
 
5月2日
 『NHK高校講座 音楽Ⅰ』は「帝国主義と民族主義の音楽」として、19世紀末から20世紀の初めのヨーロッパの音楽状況を概観した。19世紀後半のヨーロッパの音楽界をリードしたのはドイツ、オーストリアの音楽家たちであったが、19世紀末になると、ヨーロッパの周辺部に、チェコのドヴォルジャーク、ノルウェーのグリーグ、ロシアのムソルグスキーらといった注目すべき作曲家が出現し始めた。彼らは、中心部で確立された音楽の技法を取り入れながら、自分たちの国・地方の民族的な音楽を取り入れて新しい音楽を創造していった。ということで、バルトーク、スメタナ、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ドヴォルジャーク、シベリウスの楽曲のさわりの部分が放送されたが、なかなか聞きごたえがあった。
 しかし、帝国主義の音楽ということになると、英国やフランスの軍国主義をあおるような大衆音楽・芸能の存在についても触れるべきではないかという気がする。
 
5月3日
 『朝日』の朝刊に堀江貴文さんの『僕たちはもう働かなくてもいい』(小学館新書)の広告が、「真の『働き方改革』とは 労働しないことだ』という惹句とともに掲載されていた。仕事はみな、機械がするようになって、人間は遊んで暮らしていいという世界が到来するという、むかしのフランス映画『自由を我らに』(ルネ・クレール監督)を思い出す。フランスの俳優兼映画監督のピエール・エテックスが1970年に来日した(日本国際映画祭で、彼の作品が上映されたので)際に、ルネ・クレールはある時期にはチャップリンに匹敵するような風刺喜劇をつくっていたのが、その後はだめになったと論じていたのを記憶している。だったら、彼がクレールを超えるような喜劇を作ってくれればよかったのだが、そうならなかったのが残念。そういえば、エテックスは『ル・アーヴルの靴みがき」に出演していた。戦前の日本の映画監督・脚本家であった伊丹万作が、ルネ・クレールの風刺喜劇には、風刺はあるが、思想がないという批判をしていたことも書き留めておくべきであろう。

5月4日
 『NHK高校講座 古典』では説話文学の中から『今物語』の藤原實定のエピソード、『NHK高校講座 国語総合』では大岡信の『折々のうた』の『新古今和歌集』に触れた個所を取り上げた。鎌倉時代の初めごろの王朝時代を懐かしむ空気の中で編纂された説話集、勅撰和歌集が取り上げられていたので、両者が補い合うような組み合わせだなと思った。

5月5日
 NHKラジオ第二放送の『私の日本語辞典』に京都大学で地学を教えている、火山学者で、『理科系の読書術』(中公新書)などの著書のある鎌田浩毅さんが読書について話をしていたが、傾聴すべき内容が多く含まれていた。①本は途中で読みたくなくなったら、そのままやめていい、②15分だけ集中して読め、③情報は(本から)3つ取ればよい、10冊本を読むとすると、2冊は自分の愛読する著者の本(気楽に読み流してよい)、7冊は真剣に読むべき本、残る1冊はどうも肌が合わないというので、投げ出してしまってもいい本という割合で考えるべきである(2:7:1の法則)、音楽的読書(始めから終わりまできちんと読む)と絵画的読書(好きな部分だけをつまみ食いして読む)とを使い分けるとよい、難解な本はまず小見出し(目次)だけ読めば、おおよその内容はつかめるのでそこからスタートすべきである、解説とあとがきを読んでから本文に取り掛かってもよいなどなど、読書経験の中で得られた様々な知恵が語られた。理科系に限らず、もっと広い範囲で適用できる読書術だと思う。今後の話も楽しみである。

5月6日
 あるところで、若い女性が友だちに向かって、令和繋がりで『万葉集』の本を読んでいるという話をしていた。何を読んでいるのかは聞こえなかったが、どうせなら、斎藤茂吉の『万葉秀歌』でも読んでほしいところである。この本は岩波新書から出ていたが、今はどうだろうか。「『万葉集』に戻れ」という短歌の革新運動を担った人物らしい萬葉観がうかがわれるはずである。古典中心の良書主義的な読書論の典型である小泉信三『読書論』(岩波新書)の中に、新しい本が出ると、その問題について書かれた古い本を読むという言葉が出てきたと記憶する。ただ、日本文化の伝統の中で、和歌(短歌に限らない)というものは、芸術(文学)の一環としてつくられてきたものでは(必ずしも)ないということも考えてよいことである。

 保土ヶ谷公園サッカー場でなでしこリーグ2部第6節、ニッパツ横浜FCシーガルズ対セレッソ大阪堺レディースの試合を観戦した。試合開始早々に横浜が1点を先制したが、その後PKを取られて1点を失い1-1で引き分けた。攻撃的なサッカーを心掛けてはいるのだろうが、もう一つスピードが乗らないのが問題である。

 下川裕治『ディープすぎる中央アジアシルクロードの旅』(KADOKAWA:中経の文庫)を読み終える。玄奘三蔵のインドへの旅を往復両方たどってみるという旅行記で、中国(西安→新疆ウイグル自治区)→キルギス→カザフスタン→ウズベキスタン?(玄奘は現在のアフガニスタンの地を通過したのだが、現在、アフガニスタンは入国できず)?パキスタン→インド→パキスタン→中国(新疆ウイグル地区→青海省→西安)と、鉄道、バス、乗り合いタクシーなどを乗り継いで旅をする(途中で日本に戻って、また旅行に出かけるというやり方で、いわば「区切り打ち」である)。西域の遺跡巡りだけでなく、漢民族支配の強化が進むウイグルの現状や、「一帯一路」の内実なども織り込まれていて、いろいろと考えさせる。 

付記
 5月から月水金はアンリ・ピレンヌの『中世の都市』、火木土はマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』を読み進むことにしているのだが、ピレンヌの方が断然面白いと思う(一つには、ダンテの『神曲』と重なる部分があるからだろう)。読書というのは、個人の境遇や性格が反映されるもので、わが道を行くという性格があるものだとつくづく思う。

 今回は、『新古今和歌集』の話題も取り上げたが、その選者の一人である藤原定家は源平の争乱の際にその日記『明月記』(紅旗(つまり平家の旗)征戎わがことにあらず」(平たくいえば、世間で騒いでいる戦争については私は関知しないということ)と書いたとされるが、これはあとからの書き込みであるという説もある。世間と距離を置くか、置くとすれば、どの程度の距離を置くかというのは、なかなか難しい問題である。

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(5)

5月5日(日・こどもの日)晴れ、気温上昇

 理性的な姉エリナー(分別)と、情熱的な妹マリアン(多感)という対照的な性格の姉妹は、長年暮らしたイングランド東南部サセックス州のノーランド屋敷を異母兄のジョンが相続することになったため、母親のダッシュウッド夫人の親戚であるサー・ジョン・ミドルトンの好意で、母親、妹のマーガレットとともに、西南部デヴォン州のバートン・コテッジに移り住むことになった。新しく住むことになった土地で、一家はサー・ジョンの夫人であるミドルトン夫人、その母親であるジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と知り合いになる。大佐はドーセット州デラフォード屋敷の主人で、無口で重々しい様子であるが、思慮深い人間で、なぜかマリアンに心を動かされたようである。
 マリアンはある日、散歩の途中でにわか雨に会い、足をくじいたところを、近くのアレナム・コートという屋敷に滞在しているウィロビーという青年に助けられ、お互いに一目ぼれをして、愛し合うようになる。愛し合っているはずなのに、二人が婚約したという様子がないことに、エリナーは不審を抱く。マリアンとウィロビーは楽しい日々を送っていたが、その一方で、ブランドン大佐は何か急用ができたといって、ロンドンへ去っていく。それからしばらくして、今度は、理由を告げずに、ウィロビーがロンドンへと去っていく。マリアンはすっかり落胆してしまう。
 ウィロビーと交代するように、姉妹の義理の兄であるジョンの妻ファニーの弟であるエドワード・フェラ―ズが一家を訪問する。姉と違って、心優しく、穏やかな性格のエドワードと、エリナーはノーランド屋敷にいたときから、惹かれあっていたのであるが、なぜか2人の仲はぎこちなく、恋人同士という雰囲気にならない。エリナーは彼の元気のなさが気になるが、牧師になりたいというエドワードに対して、家族のみんながもっと世の中で認められるような職に就けと考えているために、自立ができないからだと考えていた。
 ジェニングズ夫人の次女で、ミドルトン夫人の妹のシャーロット(パーマー夫人)が夫とともにサー・ジョンを訪問し、ダッシュウッド一家にも紹介される。エリナーはウィロビーと同じサマセット州に住むパーマー夫妻からウィロビーのことを聞き出そうとするが、あまりたいしたことは知らない様子である。彼女はこの夫婦が性格が違い、いつもいさかいを起こしていることを不思議に思う。

 パーマー夫妻はサマセット州に去っていくが、社交好きなサー・ジョンとジェニングズ夫人は、エクセターで偶然出会い、ジェニングズ夫人の遠い親戚だということがわかったというスティール姉妹を自分たちの邸に招待する。スティール姉妹はサー・ジョンのバートン屋敷を訪問し、子ども好きな様子を見せて、子どものことで頭がいっぱいのミドルトン夫人にも気に入られる。サー・ジョンはエリナーとマリアンにもこの姉妹と仲良くするように勧めるが、二人はあまり気が進まない。
 二人が実際に会ってみると、スティール姉妹の姉のアンは30歳近く、不器量で、頭も悪そうで(実際、悪い)、いいところは何もないが、妹のルーシーはまだ22/3歳で美人で抜け目のなさそうな感じであった。二人はこの姉妹とあまり付き合いたくないと思ったのだが、スティール姉妹の方は、二人と付き合うことに熱心な様子である。

 「もともとマリアンは、無礼、下品、無能、そして自分との趣味の違いにさえ我慢できないのだが、特に今の精神状態では、スティール姉妹を気に入るはずはなく、彼女たちからいくら話しかけられても仲良くする気はまったくなかった。エリナーは、自分が姉妹から好かれるのは、マリアンがいつも彼女たちに冷たい態度で接して、彼女たちの親しくなろうとする努力をいっさい受けつけないからだと思った。エリナーへの好意は、スティール姉妹の言動にすぐに表われ、特にルーシーは、あらゆる機会を逃さずエリナーに話しかけ、自分の気持ちを気軽に正直に話してなんとか親しくなろうとした。」(178ページ)
 二人一組だと思われている(実際にそんなことはなくても)二人のうちの一人が愛想がないと、もう一方に好意が集中するということは、ありがちなことではないかと思う。ここでエリナーは、妹をかばって自分ができるだけスティール姉妹の相手になろうとしているが、実は彼女も親しく付き合いたいとは思っていないのは既にみたとおりである。
 スティール姉妹の妹であるルーシーは、生まれつき頭はいいのだが、育ちが悪いというか、無教育だとエリナーは思う。この場合の教育というのは、学校に行ったかどうかということではなくて、自分で自分を磨く努力を続けたかどうかということであろう。(オースティンの小説を読んでいると、彼女がそれほど学校教育に重きを置いていないことがわかるはずである。)

 ルーシーのエリナーに対する態度には奇妙なところがあり、ある日、エリナーは、兄嫁の母であるフェラ―ズ夫人をよく知っているかどうかとたずねる。エリナーは「ほんとにおかしな質問」(179ページ)だと思って、一度も会ったことはないと答える。ルーシーは、なぜこんな質問をするのか、不思議に思う気持ちはわかるといいながら、自分がフェラ―ズ夫人のことを知りたいと思っている理由を説明する。彼女はエドワード・フェラ―ズと婚約しており、婚約を交わしてから4年たっているが、その間ずっとこのことは姉以外の人間には秘密にしてきたと打ち明ける。ルーシーの叔父は、エドワードの家庭教師をしており、その縁でルーシーはエドワードと親しくなったのだというのである。そして婚約の証拠をいろいろと、エリナーに見せる。ルーシーには全く財産がないことが、裕福な未亡人で、自分の子どもも資産家と結婚させたがっているフェラ―ズ夫人には気に入らないはずで、婚約を表ざたにはしていない。この4年間、次第にエドワードと会う機会は減ってきているが、気持ちは変わらないはずだ。結婚までは時間がかかりそうだが、その間、打ち明けた秘密は守ってほしいと頼み、エリナーは秘密を守ると約束する。
 ルーシーの打ち明け話に、エリナーはショックを受ける。エドワードの不思議な態度がこれで分かって、ひどく惨めな気持ちを味わうことになる。

 エドワードがエリナーを愛しているということは、エリナーだけでなく、彼女の母親も、マリアンも、そして意地悪な兄嫁のファニーもそう思っていたことである。だからエリナーの受けた衝撃は大きい。エドワード(とルーシー)の秘密を知った彼女であったが、そのことによる苦しみを誰かに打ち明けるということはしなかった。「彼女の自制心はすこしも揺るがず、快活な態度はまったく変わらなかった。」(193ページ) それでもエリナーは婚約の事実について、ルーシーからもっと詳しいことを聞きだそうと思い、その機会をうかがう。
 そしてその機会を得て、ルーシーから、彼女が早く結婚したがっており、そのために牧師となる資格を得て、どこかの教区牧師になることを望んでいることを知る。ルーシーはエリナーの義理の兄であるジョンがノーランドの聖職禄の推挙権を持っていることを知っており、現在の牧師が高齢であることから、その後任に推薦するように頼んでほしいというのである。エリナーは、ジョンの妻のファニーが反対するだろうから無理だと答える。いずれにしても、エリナーはルーシーの助けになるようなことは何一つできないというが、ルーシーは(おそらく、エドワードとエリナーの気持ちについても察知していて)エリナーにしつこく援助を頼むのである。スティール姉妹は、ミドルトン夫妻に取り入ることに成功し、彼女たちの滞在は予定よりもずっと長くなっていく。

 ジェニングズ夫人は2人の娘のどちらかの家で過ごすことが多かったが、彼女自身の住まいをロンドンのポートマン・スクエアにもっていて、毎年冬はその家で過ごしていた。1月が近づいてきたので、彼女はロンドンに行こうと思い、エリナーとマリアンを誘う。社交シーズンのロンドンで、しまいに結婚相手を見つけようという気持ちが込められている。招待を受けたエリナーは、1月に母親を残してロンドンに出かけるわけにはいかないと断る。ところが、ロンドンにいるはずのウィロビーに会いたい一心のマリアンがこの招待を受けてしまう。母親のダッシュウッド夫人も姉妹がロンドンに出かけることに賛成したので、二人はジェニングズ夫人と同行することになる。
 1月の第1週に、エリナーとマリアンはロンドンに出発した。ミドルトン一家も1週間ほど後にロンドンに向かう予定である。スティール姉妹もミドルトン一家に同行して、ロンドンに向かうことになっている。こうして物語の主要人物が皆(2月にならないとロンドンにやってこないというエドワードを除き)、ロンドンに集まることになる・・・。

 この作品は50章からなっていて、25章まで紹介し終えたので、ちょうど半分ということになる。エドワードの婚約者だというルーシーが現れたことで、翻訳者である中野康司さんのいう2つの三角関係の全貌が明らかになる。つまりエリノアとルーシーとがエドワードを争い、ウィロビーとブランドン大佐とがマリアンを争うという対称的な2つの三角関係である。新たに登場したルーシーは美人で頭もよさそうだが、どうも嫌味で、狡猾な女性として描かれている。エドワードはまだ未熟であった時期に、彼女の魅力に惹かれて婚約してしまうのだが、その後で、より優れた女性であるエリナーに会って軽はずみな婚約を後悔している様子である。しかし信義を重んじる彼は、ルーシーとの婚約を解消するようなことはせずに、エリナーとも距離を保ちつづける。彼が元気のない様子であるのは、そういう事情が絡んでいるのである。マリアンがロンドン行きに熱心なのは、ウィロビーに会える可能性があるからである。もともと彼女は、成り上がりの金持ちであるジェニングズ夫人が好きではないのだが、それが気にならないほど、ウィロビーのことを思いつめているのである。
 とはいうものの、ジェニングズ夫人の善意の押し売りは、お節介と思われることもあるのだが、物語を展開させるだけでなく、ユーモアをまぶせる役割も演じているというところに、作者の技量を見るのである。ユーモアといえば、スティール姉妹の姉のアンは道化役であるし、この作品の中では悪役の役割である姉妹の義理の兄のジョンとその妻のファニーのコンビも、いじわるが裏目に出たりして、悪役なりに滑稽なところがあって、そこにもこの作品の妙味がある。
 「聖職禄」というのは、イングランド国教会の牧師の職と財産を指す。牧師館の居住権と十分の一税(教会維持のため、教区民が所得の10分の1を納めた(かなりの重税である)、それに教会畑地による年収が保障される。当時11600ほどあった聖職禄の半数以上が、土地の大地主または国王に推挙権があった。オースティンは教区牧師の娘だったので、聖職禄をめぐる話がよく出てくる。
 ジェニングズ夫人の家のあるポートマン・スクエアは実在の地名で、ロンドン地下鉄のセントラル・ラインのマーブル・アーチ駅の東北の方角にある。スクエアは四角形の区画であるが、ポートマン・スクエアの東側を通っているのがベーカー・ストリートなので、一見の価値があるかもしれない(シャーロック・ホームズとワトソンが住んでいたとされるのは、もっと北の方である)。シャーロック・ホームズといえば、『バスカーヴィル家の犬』の舞台になったのも、デヴォン州で、この『分別と多感』の舞台から遠からぬ場所のようである。アガサ・クリスティーの『シタフォードの謎』は、コナン・ドイルの死後すぐに、おそらくはドイルへの弔意をこめて書いた作品であるが、これまたデヴォン州に舞台を設定している。というよりも、クリスティー自身がデヴォン州の出身であることを思い出すべきであろう。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行(上)』(8)

5月4日(土・みどりの日)晴れ、気温上昇、午後になって曇りから雷雨。気温が下がる。

〔これまでの要約〕
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生
 著者・梅棹忠夫(1920‐2010)は1957‐58年と、1961‐62年に当時在職していた大阪市立大学の東南アジアへの学術調査隊の一員として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの東南アジア諸国を歴訪した。この書物はその旅行の個人的な記録である。
 1957年の調査隊に参加したのは、隊長である梅棹のほかに、霊長類研究の川村俊蔵(食糧担当)、植物生態学の小川房人(隊員間の連絡・調整と自動車担当)、同じく依田恭二(装備類の管理担当)、医師で昆虫学者の吉川公雄(会計担当)、文化人類学の藤岡喜愛(渉外担当)である。
 バンコクに集合した6人は、第9回太平洋学術会議に参加して研究発表を行い、(特に川村の研究発表は)好評を博す。会議の終了後、一行は自動車の運転の練習を兼ねて、3台の車に分乗して、隣国カンボジアのアンコール・ワットの見物に出かける。この旅行にはチュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が加わる(その後の学術調査にも同行する)。梅棹はアンコール遺跡の規模に驚き、この遺跡を遺した古代クメール帝国の生態学的構造に関心を寄せ、後日の研究対象として取り上げたいと思う。バンコクへの帰り道は、3台のうちの1台=ハシゴ車が故障したり、ガソリンが足りなくなりかけたりして大変だったが、どうやらバンコクにたどりつく。

第5章 熱帯のクリスマス
 泥棒と仏さま
 今回から第5章「熱帯のクリスマス」に入る。一行が本格的にバンコクで生活を始めたのは1957年11月14日である。11月18日から太平洋学術会議が始まり、その終了後12月5日からアンコール・ワット見学に出かける。戻ってきたのは12月9日である。
 バンコクに到着して、車を車庫に入れると、小川が血相を変えてやって来て、「スプリングを取られた」という。カンボジア旅行には自動車のスプリングの予備はいらないだろうと思って、車庫に残しておいたのだが、鍵をかけていなかったために盗まれたのである。責任を感じた小川は、業者からスプリングを一時借用して、使用しなかったら返すという案を考えて、業者と交渉し、借用に成功する。
 不思議に思われたのは、5本あったスプリングのうち1本が遺されていたことで、これは数のあるものについては必ず1つを(仏さまのために)遺しておくというタイの泥棒のしきたりによるものだという。一行はさすが仏教国だと思う一方で、油断大敵と気を引き締め直した。

 銃砲類所持許可証 → 時間切れ、アウト → 堂々たる官僚主義
 調査隊の荷物は大使館の人が「奇蹟だ」というくらい、スムーズに税関を通ったのだが、全部が全部そうなったわけではない。鉄砲と火薬と弾丸、ラジオとテープレコーダーがなかなか出てこなかった。
 鉄砲を受けだすためには警察の銃砲類所持許可証がいる。その許可証をもらうために、まず鉄砲類輸入許可証がいる。その輸入許可証をもらうためには、日本大使館からの口上書が必要である。ラジオとテープレコーダーは別に所持許可証がいる。これ八広報局の管轄である。そしてこちらについてもまた口上書が必要である。あれこれの手続きを踏んで、12月3日に広報局の許可は得た。警察の方の許可もまもなく出るだろうと安心して、カンボジアへの旅行に出かけた。
 ところが、かえってきても、まだ許可は下りていなかった。12月11日に掛け合ったところ、担当者はもう3日待ってくれという。3日後に出かけると、その書類を作成して上司に回したという。急ぐなら、その上司に掛け合ってくれというので、上司のところに行くと、書類をまだ受け取っていないという。そして、書類がどうなったか経過を知らせるから、また来てほしいという…。

 一方、すでに許可証の出ているテープレコーダーとラジオについては、税関から受けだそうとしたら、所持許可証のほかに、無税通関の許可が必要だといわれる。そこで担当の藤岡は、無税通関の申請をした。ところが、「テープレコーダーとラジオを、無税で通すことはできません」と言われる。それなら、初めからそういえばいいと思うところである。
 しかしこのことについてタイの外務省から助け船が出て、外務省の儀典係からの公文書が届き、それで無税通関の件が許可になった。ところがそれで終わりにならず、税関では保証金を積むかわりに、日本大使館が保証するむねの公文書を持って来いという。それで大使館でそういう手紙を書いてもらった。
 12月19日に、鉄砲の方の許可も出た。藤岡が葉山と一緒に税関に出かけたが、税関は手紙の文面に不満であるという。しかし、葉山がタイ語で説明に努めた結果、税関長のサインがもらえるところまできた。
 「そのとき、けたたましくベルがなりわたった。お昼のベルである。ベルがなったら、もう何もかもおしまいだ。時間ぎれ、アウト。あとはまた、昼からにしてください。
 午後、藤岡たちはまた税関へ行った。サインはもらえた。税関のジャングルのなかを、あちこち引っぱりまわされた。そして、ついにグランド・シーツにくるんだ、鉄砲、ラジオ、テープレコーダーが出てきた。荷物は、税関の倉庫に、ちょうど、まる一月ねむっていたことになる。けっきょくわたしたちも、一か月かかってしまったのである。」(106ページ)

 「タイにおける非能率は、人間の問題というよりは制度と機構の問題ではないかと思う。」(同上) その点では日本に似ているともいう。「タイも日本も、むかしからの独立国であって、制度を改変しようとする力が外からあまり働かなかったからではないだろうか。」(108ページ) つまり、行政改革がまったく行われてこなかった結果ではないかというのである。
 しかし、日本でもタイでもそれからだいぶたってからではあるが行政改革が行われたので、この議論はやや古くなっているかもしれない。さらに「制度そのものからいえば、植民地であった国の方が合理的になっているかもしれない。」(同上)というのは、個別的な例を調べる必要はあるだろうが、旧植民地の多くが、宗主国の制度を機械的に輸入している例が多いことを考えると、的外れになっている例が多いのではないかと思われる。

 「ここはタイです」
 タイが植民地化せずに、独立を保ちつづけたために、国民の表情には自信が見られると、梅棹は観察している。
 ある日、国会議事堂前の大通りを、一群の青年たちが隊列を整えて、行進してくるのに出会ったので、車を停めて見物したという。フットボール選手のユニフォームを着て、ボールを抱えていた彼らは、練習試合にでも出かけるところであっただろうか。同行していた葉山によると、陸軍士官学校の生徒らしいという。
 梅棹は、彼らの隊列が整然としていたことではなくて、彼らひとりひとりの表情に「自信と誇り」(109ページ)が満ちていることに感動する。「これは、自分が自分の主人であるところの人間の顔である。他人に支配されることを知らない人間の顔である」(同上)という。このような表情にはアジアの他の国々ではお目にかかることはできない。「タイ」はもともと「自由」という意味であるが、タイ人は文字通り「自由の民」なのだという感想を持つ。タイのエリートたちは、官僚も、軍人も誇りに満ちているという。「むやみに威ばったりはしないけれど、自分たちのやり方については、確信をもっている。」(110ページ)と書き添えている。〔もっとも、だから非能率になるという否定面もあるわけである。〕

 梅棹がタイのお役所仕事に自分たちの時間と労力とを奪われているにもかかわらず、全体としてタイの人々に好意的な目を向けているところが興味深い。最近のタイにおける保守派とタクシン元首相を支持する勢力との対立・抗争などを梅棹がどのように見るか(というよりも、彼の生前からこの対立はあったわけであるが)というのは興味深い問題である。
 この第5章は、さらに続き、タイの言語や生活事情、タイにおける日本人社会の観察などが語られる。それらは次回以降のお楽しみということで…。 

ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(16‐2)

5月3日(金・憲法記念日)午前中は晴れ、午後は薄曇りと言ったほうが適切に思われる空模様である。気温上昇。

 ウェルギリウスの助けで、「暗い森」から脱出したダンテは、彼に導かれて、地獄を遍歴する。(その後で、煉獄、さらに「よりふさわしい」たましい=ベアトリーチェに導かれて天国を旅するが、そこまでこの翻訳は進んでいない。) 地中にある地獄の奥深くに進むにつれて、そこで罰を受けるべき罪は重くなり、したがって罰も過酷なものとなる。2人は、全部で9層からなる地獄の第7圏に到達する。第7圏は3つの部分にわかれているが、彼らは生前に男色の罪を犯したたましいたちが、その罰を受けている地獄の第7圏第3冠状地にたどりつく。たましいたちは焼けるように熱い砂の上を走り回っているのである。2人がこの冠状地に接する堤の上を進んでいると、かつてフィレンツェの有力な政治家であった3人のたましいに出あう。かれらはダンテの旅の成功と、その名声が続くようにと祈願し、さらにフィレンツェの市が嘆かわしい状態にあるのではないかと彼に問う。彼らには遠い未来のことは見通せても、直近の現在のことはわからないのである。

 「新参者と俄か儲け[虚業]とが
おおフィレンツェよ、汝の中に傲慢と無節操を植え付けたため、
汝はすでにその結果に泣いている」と、
 私は面をあげて[地上に向けて]叫んだ。
(73‐76行、380‐381ページ) コンタードと呼ばれる都市を取り巻いて広がるその領地が拡大した結果として、従来は市外に住んでいた封建貴族が市内に住むようになった。また市内に住んでいたが、政治的発言力をもっていなかったブルジョワジーの力が強くなってきた。ダンテがここで「新参者」と呼んでいるのはそのような人々である。また投機的な商業活動や、高利貸で富を形成する人々が目立つようになった。「にわか儲け」はそのような人々を指している。

 ダンテのこの言葉を彼らの問いに対する答えと受け取った3人は、ダンテの率直な物の言い方を賞賛し、さらに心を込めて、ダンテが地上に生還することを願う。
「・・・
いつの日か《私は(地獄に)行った》というのが、君の悦びとなる、
 そのとき、どうかわれらのことを(地上の)人々に話してもらいたい」
(84‐85行、381ページ) こう言いおいて、3人のたましいはあまりにも素早く、走り去っていった。そのため、ダンテは何も声をかけることができなかった。
 「いつの日か…」(Quando ti gioverà dicere " I' fui.")という84行は、ホメーロスの『オデュッセイア』にある「きっとこの苦しみは、いつの日か、思い出のタネとなるだろう」(第12巻212行)に端を発し、その後ギリシア・ローマの文学者たちによってさまざまに表現された思いを、受け継ぐものである。そして他ならぬウェルギリウスの『アエネーイス』のなかに「きっといつの日か、これらの苦難を思い出すことが喜びとなる日が必ずやって来る」(第1巻203行、原文はForsan et haec olim meminisse juvabit.)という主人公の部下たちに向けての演説がある。それにしても、”I' fui”(私は行った)という簡潔な表現の意味の深さは凄味がある。

 ウェルギリウスとダンテは、小川が滝となって流れ落ち、激しい音を立てている場所へとたどり着く。ウェルギリウスは、ダンテが腰に巻いていた縄を解いて、自分に渡すように言う。縄を受け取ったウェルギリウスはそれを深い淵の中に投げ込む。その真剣な様子に、ダンテは何が起きるかわからないという気持ちにかられる。ウェルギリウスはダンテの心中を読み取り、これから奇怪な存在が出現するであろうと予告する。

 偽りの仮面を被った真実の前では、
できるだけ唇を閉ざしているべきである。
さもないと故なくして嘘つきと非難されるからだ。
 しかしここで私は口をつぐんでいることはできない。
それで、読者よ、この『喜劇』にかけて誓うが、
――どうかこの詩が末長く愛されんことを――
 私は見た、あの濃い暗黒の大気を通して
どんなに肝の据わった者をも
驚愕させずにはおかない一つの姿[ゲーリュオーン]が昇ってくるのを。
(124‐132行、383ページ) ここでダンテは自分の叙事詩が『喜劇』であると初めて述べている。彼自身は叙事詩に題名をつける意図はなかったようであるが、後世この叙事詩はLa Divina Commediaと呼ばれるようになる。翻訳では、怪物の正体を「ゲーリュオーン」と補記しているが、ダンテはどんな怪物であるかは記さず、その正体を述べることを先延ばししている。とにかく、彼が見たことがないような怪物が水中から現れてきた。

 ということで、第16歌は終わる。前回も触れたように、須賀敦子・藤谷道夫訳は全部で34歌からなる『地獄篇』のちょうど半分の17歌までの翻訳である。つまり、あと1歌ということである。
 この翻訳は須賀が遺したノートをもとに、藤谷がその欠けているところを補ったり、間違いを正したりして、できるだけ須賀の考えを尊重して進められたものであるが、須賀のノートは彼女の若いころの作業であるために、先に進むにつれて誤訳が多くなるということから、ここで打ち切っているという趣旨のことが藤谷さんによる「はじめに」に書かれていた。『神曲』にはすでに生田長江(英語からの重訳)、山川丙三郎、野上素一、壽岳文章、平川祐弘、原基晶らの翻訳があるが、さらに翻訳が増えても構わないので、この翻訳の巻末で池澤夏樹さんが書いているように、藤谷さんが全訳に取り組み、完成する日が訪れることを期待すること大なるものである。(野上素一先生の授業には出たことがあるが、文全体の統一を図るために、本文中では敬称を省いた。ご了承のほどを。) 
 

E. H. カー『歴史とは何か』(13)

5月2日(木)午前中は雨が降ったりしたが、午後は晴れる。

Ⅰ 歴史家と事実
Ⅱ 社会と個人
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 歴史は科学ではないという議論は大きくいって、5つの論点をもっている
 ① 歴史は主として特殊なものを取り扱うのに対し、科学は一般的なものを取り扱う。
 ② 歴史は何の教訓も与えない
 ③ 歴史は予見することができない
 ④ 人間が自己を観察するので、歴史はどうしても主観的になる
 ⑤ 科学と違って、歴史は宗教上、道徳上の問題を含む
 これらの議論に対し、カーは歴史においても一般化は行われているし、政治・外交の場で過去の教訓に学ぶことは行われているから、①,②の批判は当たらないと論じている。

Ⅲ 歴史と科学と道徳(続き)
 未来に対する予言
 それでは歴史は科学ではないとする論者たちの第3の論拠である歴史は将来を予言できないという議論についてはどうだろうか。科学は法則によって未来を予言できるというが、それは蓋然性の問題であって、特殊個別の問題に対する正確な予言を可能にしていない〔天気予報が当たるとは言えないことを思い出せばよい〕。歴史の場合、過去の傾向から一般的な方向を導くことはできるが、それが個別の例に正確にあてはまらないのは、科学と同様である。ただ、人間の社会がきわめて複雑で、研究が十分に進んでいるとはいいがたいので、予言に困難があることは否定できない。
 
 歴史研究の主体と客体
 社会科学が自然科学と区別されるべきであるのは、研究する主体と研究の対象となる客体が同じ人間であり、第三者的な研究ができないだけでなく、社会の方も研究者に影響を及ぼしうるという議論がある。しかしその一方で、研究結果によって好ましくない方向性が現れれば、そこで別の方策を講じたり、方策を修正したりするのは当たり前の話である。
 もちろん、このように歴史の教訓を学んで講じられた方策が成功するとは限らない。カーは、ロシア革命の指導者たちが、フランス革命がナポレオンの登場によって終わった教訓を学んで、ナポレオンによく似ていると彼らが思ったトロツキーを排除して、スターリンを指導者としたが、その結果は周知のとおりである。
 歴史と、歴史を含む社会科学においては、観察者と観察される対象との間に相互関係があり、それは連続的で、変化するものであることを特徴として認識する必要がある。〔歴史が科学と言いうるのかどうかという議論から、少しずれているような気がする。〕

 物理学的世界との類似
 カーは、話題を転じて、「ここで、最近、一部の物理学者たちが、物理的宇宙と歴史家の世界との顕著な類似点を暗示するような調子で、物理学を論じていることに注意せねばなりますまい。」(103ページ)と述べる。
 ① 問題となるのは、物理学の研究結果の中に不確定性の原理が含まれているということである。現代物理学でいう不確定性が、宇宙の本質に備わっているのか、それとも、宇宙の本質に対する研究がまだ十分ではないので不確定に見えるのかという点をめぐってはまだ論争が続いている〔その後の経緯では、やはり不確定であるという議論の方が優勢のように思われる〕。
 ② 現代の物理学では、空間的な距離も時間的な経過も、「観察者」の運動に依存する尺度をもっているといわれる。観察者も観察対象も不動ではなく、両者の間にコンスタントな関係を設定することはできないというのである。18世紀から19世紀にかけて試合的であった古典的な知識理論は、知る主体と、知られる客体の間の明確な二分法を前提としていたが、もはやそれは成り立たないというのである。歴史を含む社会科学は、現実の社会とかかわる学問領域であるがゆえに、このような二分法とは相いれない性格をもっている。
 以上述べたように、現代の物理学の動向は、歴史研究にとって好ましい方向への示唆を与えるのではないかと思われる。

 歴史における神について
 一連の議論の最後に、カーは歴史は深く道徳の問題と絡んでいるために、科学一般とは違う、また他の社会科学とも違うという意見について、自分の見解を述べる。歴史家がどのような宗教を信じようと、信じまいと、それはそれぞれの人間の問題である。しかし、歴史に対する神の介入を認めるか、認めないかというのは重大な問題である。旧約聖書に出てくるように、神が侵略者のあいだに疫病を流行させたなどということを無条件に受け入れることはできない。歴史研究においては、人間の力を超えた、「見えざる手」や「世界精神」のようなものを認めてはならない。

 道徳について取り上げると、歴史上の人物の業績とその人間の道徳的な行、為は別問題であるという。その例として、カーは「ヘンリⅧ世は悪い夫であり、よい国王でありました」(109ページ)という例を挙げる(イングランドの絶対王権の強化に努め、宗教改革を行った国王に対するこの評価には、異論を持つ向きもあると思う。私自身も、トマス・モアを処刑したこの国王の政治姿勢にはあまり好感をもっていない)。善とか悪とかいう道徳的な判断を歴史に持ち込むのは、問題を混乱させるだけだという意味では、カーの主張には賛成できる。

 その一方で、東アジア世界における歴史、特に中国の歴史書は、司馬遷以来、伝記の重層的な集成という性格があるので、どうしてもこの道徳的な評価を含む傾向にある。例えば、司馬光の『資治通鑑』では唐の玄宗皇帝について、こんなことを書いている:「明皇すなわち玄宗は太平の世によりかかり、将来の危惧を想いやらず、耳目の楽しみに存分にふけって、歌舞音曲の芸能に趣向を凝らした。…」(ちくま学芸文庫、554‐555ページ)。このような指摘を読んでいると、政治倫理という言葉が盛んにいわれるように、政治と道徳の問題は簡単には切り離せない(カーの考えは単純すぎる)とも思われてくる。
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