FC2ブログ

2019年の2019を目指して(4)

4月30日(火)雨が降ったりやんだり

 4月は2月、3月と同様にずっと横浜で過ごしたが、病院で診察を受けるために東京にも出かけた。しかし、新しく足を延ばした府県、市区町村はなく、1都1県、1市4区に行動範囲はとどまっている。
 新たに利用した鉄道会社はないが、JR東日本の横浜線を利用し、小机駅で下車、東神奈川駅で乗り換えをした。したがって、利用した会社は5社のままであるが、路線は1つ増えて9路線、乗り降りした駅も1つ増えて11駅、乗り換えた駅も1つ増えて5駅ということである。
 バスについても、新たに利用した会社はないが、横浜市営バスの39、相鉄バスの浜7の2つの路線を新たに利用し、14路線を利用したことになり、3か所の停留所を利用したので、通算では11か所を利用したことになる。〔1月が31,2月は10,3月は16、4月は8で65ということになる。〕

 この原稿を含めて、31件をブログに投稿した。1月からの通算では122件ということになる。 今月投稿分の内訳は、日記6件、読書5件、読書(歴史)6件、『太平記』5件、ジェイン・オースティン4件、『神曲』4件、詩1件ということである。1月からずっと見ていくと、日記が23、読書が15、読書(歴史)が22、トマス・モア『ユートピア』が8、読書(言語ノート)が9、『太平記』が18、ジェイン・オースティンが5、『神曲』が17、推理小説が3、詩が2ということである。
 コメントを1件、拍手を537いただいている。1月からの通算ではコメントが4件、拍手が2115ということになる。
 先月、書いたように齋藤慎一『戦国時代の終焉』の紹介を終えることができた。須賀敦子・藤谷道夫訳『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』も間もなく終わるはずである。出井康博『移民クライシス』の紹介にはそれほど長くかからないと思うので、新しくどんな書物を取り上げていくか、考えているところである。〔1月は33,2月が30,3月が31,4月が32で累計は126である。〕

 8冊の本を買い、10冊を読み終えた。1月からの通算では43冊の本を買って、40冊を読んでいることになる。読んだ本を列挙すると:司馬光『資治通鑑』(ちくま学芸文庫)、東海林さだお『シウマイの丸かじり』(文春文庫)、浅川晃広『知っておきたい入管法』(平凡社新書)、ヘロン・カーヴィック『ミス・シートンは事件を描く』(原書房:コージーブックス)、出井康博『移民クライシス』(角川新書)、『千載和歌集』(岩波文庫)、石田五郎『星の文人 野尻抱影伝』(中公文庫)、ヘロン・カーヴィック『村で噂のミス・シートン」(原書房:コージーブックス)、NHK取材班『外国人労働者をどう受け入れるか』(NHK出版新書)、酒井敏『京大的アホがなぜ必要か カオスな世界の生存戦略』(集英社新書)
ということである。移住労働者問題について調べているので、その方面の本を3冊読んだのと、ヘロン・カーヴィックのミス・シートン・シリーズが割に気に入ったのが今月の読書の特徴と言えよう。後、和漢の古典もそれなりに読んでいるが、西洋の古典も読む必要があるかもしれない。〔1月は11,2月も11,3月は10,4月も10、1月からの通算は42〕

 『ラジオ英会話』を20回、『入門ビジネス英語』を8回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を8回、『実践ビジネス英語』を12回聴いた。1月からの通算は、『ラジオ英会話』を71回、『入門ビジネス英語』を8回、『遠山顕の英会話楽習』を48回、『高校生からはじめる「現代英語」』を32回、『実践ビジネス英語』を48回聴いたことになる。
 『まいにちフランス語』入門編を11回、応用編を8回、『まいにちスペイン語』初級編を11回、中級編を8回、『まいにちイタリア語』入門編を11回、応用編を8回聴いている。1月からでは『まいにちフランス語』の入門編を43回、応用編を28回、『まいにちスペイン語』の入門編を32回、初級編を11回、中級編が28回、『まいにちイタリア語』入門編を11回、初級編を31回、応用編を28回聴いたことになる。
 英語はともかく、他の外国語の学習がおざなりになってしまっていて、何とかしなくてはならず、ポルトガル語まで手を広げられそうもない。〔1月が80,2月が109,3月が112、4月は117で、1月からの合計は418である。〕

 4月17日に神保町シアターで『白い夏』(1957、日活、齋藤武市監督)を見たので、1月から見た映画は2本となった。でかけた映画館は1館のみである。〔1月は0,2月が2,3月は0,4月が1で、合計は3である。〕

 美術展を見る機会はなかった。〔1月は0,2月は1,3月も1,4月は0、合計は2である。〕

 サッカーの試合を4試合観戦している。J2のリーグ戦が2試合、なでしこリーグ2部カップ戦が1試合、なでしこリーグ2部リーグ戦が1試合である。1月からの通算では10試合を見ていることになる(全国高校サッカー選手権が2試合、J2が5試合、なでしこリーグ2部が2試合、なでしこリーグ2部カップ戦が1試合)。また新たに小机フィールズに足を運んだので、出かけた競技場は2か所となった。totoの方はまったく当たらなくなっている。〔1月が6,2月が4,3月が7、4月が5でこれまでの累計は22である。〕

 4月の後半に、服用する薬の関係で酒をのまないように指示されたので、飲まない日が14日もできた。まだしばらくはのめそうもない。〔1月が7,2月が1,3月が5,4月が14で合計は27である。〕
スポンサーサイト



『太平記』(260)

4月30日(火)雨が降ったりやんだり

 暦応5年(この年4月に康永と改元、南朝興国3年、1342)4月、新田義貞の弟・脇屋義助は、吉野から伊予へと下る途中、高野山に参詣した。伊予では守護の大館氏明、国司の四条有資以下の宮方が、義助の下向によって勢いを得た。その頃、伊予の住人大森彦七盛重は、兵庫湊川の合戦で楠正成に腹を切らせた功によって所領を得ていたが、それを祝う猿楽の宴を催すと、鬼女が現れ、彦七に襲い掛かるという怪異があった。再度、宴を開くと、黒雲の中から正成を名乗る鬼が現れ、天下を覆すために必要だといって、彦七の所持する名剣を差し出せという。彦七は尊氏に忠義を誓った以上、渡せないと拒むが、さらに3・4日して、正成がまた剣を奪いに来た。この度は先帝後醍醐や、護良親王、新田義貞らの怨霊も一緒だった。

 正成の霊とともに、後醍醐天皇とそのために戦って戦死した武士たちだけでなく、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の戦乱、承久の乱で非業の死を遂げた武士たちの怨霊が姿を現したのだが、それは盛長だけに見える幻であって、他人の目には見えなかった。それで盛長が、左右を見わたして、「あれが見えるか」というと、怨霊たちの姿は消え去って、ただ正成の(霊の)声だけが聞こえる。これだけふしぎな出来事が起きても、盛長は動揺する気配を見せない。「『煩悩があると、種々の妄想が起きるという。どれだけ多くの化け物が出て来ても驚くものか。たとえ第六天の魔王たちがやって来ても、この刀を渡すわけにはいかない。そういう次第であるから、先帝が在位されていたころのように、手のひらを反すように発せられ、変更され、撤回された綸旨を賜っても効果はない。とっととお帰りください。この刀は将軍である足利尊氏に差し上げる」と言い捨てて、家の中に入った。
 すると正成(の霊)はこの言葉に大笑いをして、「この伊予の国が、もし都まで陸続きであったとしても、そう簡単には道を通させるものか。まして海の上ならば、通過させることは決してないだろう」というと、かれに従ってきた怨霊たちも一斉に笑い出した。そして西の方へと飛び去って行った。

 その後、盛長は狂乱状態になって、山を駆けまわったり、水の中に飛び込んでもぐったりする一方で、ひっきりなしに刀を抜いて振り回したり、矢を射たりするので、一族の物数百人が集まって(相談した結果)、盛長を一見四方の小部屋にとじこめ、それぞれが弓矢や太刀を身の回りにおいて、厳重に警戒し続けた。
 
 ある夜、またまた風雨が激しくなり、盛んに稲光がしたので、「それ、楠がやって来た」と警戒していたところ、予想していた通り、盛長が寝ていた枕元のふすまをがばと踏み破って、数十人が乱入した物音が聞こえた。彼の部屋を警護していた武士たちが起き上がって騒ぎ、太刀、薙刀の鞘をはずし、これは夜討ちにちがいない、敵はどこにいるのかと見たのだが、その姿が見えない。どうしたことだと思っていると、天井から、猿のように毛むくじゃらの長い腕が降りて来て、盛長の髻をとって空中に引き上げ、屋敷の破風(破風、ここでは八風という字があてられている)のところから空中に飛び出そうとしている。盛長はぶら下げられながら、霊の刀を抜いて怪物の肱の関節のあたりに3度切りつける。それで怪物が少し弱ったように見えたので、むんずと組んで屋根から廂の上に転がり落ちて、またそこで7度切りつけた。怪物の急所をついたのであろうか、脇の下から毬のようなものが抜け出してきたかと思うと、そのまま空高く飛んで行ってしまった。 

 警護の者たちは、ハシゴをかけて屋根の上に上り、乱闘の跡を見てみると、牛の頭を見つけた。これはきっと楠が乗っていた牛か、あるいは、その魂が宿ったものであろうかというので、この頭を中門の柱に吊り下げておいたところ、家じゅうが一晩中揺れ動いたので、粉々に打ち砕いて、そのまま水の底に沈めてしまった。

 その次の夜も、月が雲に隠れ、風が激しく、あやしい様子であったので、警護の者たち数百人、周囲十二間という侍たちの詰め所に集まり、徹夜で警戒しようと、囲碁、双六をしたり、連歌をしたりして遊んで時間をつぶしていた。
 ところが深夜になると、300人ほどいた警固の武士たちが、同時にあくびをして、何者かに取りつかれたかのように、居眠りを始めた。人々の中に禅僧がひとり混じっていたが、かれは睡魔に襲われず、灯の陰から様子をうかがっていると、大きなクモが一匹、天井から下がってきて、寝ている武士たちの上をあちこちと走り回って、また殿上の上に戻っていった。
 その後で、急に盛長がはっと目を覚まして、「心得た、そうはさせないぞ」と人と組み合っているような様子を見せ、上になり下になりして転がりまわっていたが、どうもかなわなかったのであろうか、「者ども、寄れ」と叫んだのだけれども、詰め所にいた数百人の武士たちはもとどりを柱に結び付けられたり、他人の手と自分の手とをしばりつけられたりしていて、起き上がることができないで、網に捕らえられた魚のようにばたばたしている。一人だけ眠らなかった禅僧が、あまりに不思議なことなので、近くまで走ってみると、力の強い武士たちが、細い蜘蛛の糸に手足をつながれて、身動きがまったくできないのである。

 それでも、盛長が「怪物を取り押さえたぞ。灯りをともしてこっちへ来い」と叫んだので、警固の武士たちは、やっとのことで起き上がり、ろうそくをともしてみると、盛長が押さえた膝の下に怪しげなものがあった。何かわからないが、生き物であるらしく、押さえた膝の下でうごめいているので、人々が逃がすまいと手を重ねて押し付けていると、大きな素焼きの陶器が割れる音がして、粉々に砕けた。それで、手をどけて詳しく見ると、野ざらしになっていた死人の首が、眉間の半ばから破れて砕けていた。
 盛長は、大きなため息をついて、すんでのことに奴に刀を取られるところだった。どんなことがあっても、盛長が生きているうちは、取られてはなるものか」と気負った様子で腰のあたりを探ってみると、刀はいつの間にか取られてしまって、鞘ばかりが残っている。これを見て、盛長は、「すでに妖鬼にたましいを奪われてしまった。武家方のご運も、今や頼りにならなくなってしまった。どうすべきか」と、顔色を変え、涙を流し、震えはじめたので、人々は身の毛がよだつような気分に襲われた。

 雨雲が晴れて、月が煌々と照らしはじめ、中門のあたりも明るくなってきたので、座敷の簾を高く上げさせて、外の様子を見ると、空中から手毬のようなものが、ちょっと光りながら叢の中に落ちた。なんだろうと思って駆け寄ってみてみると、盛長と組み合ったときに押し砕かれた首の残りの半分と、(この首が加えていたのが落ちたのであろうか)奪われたと思った刀が地面に落ちていた。どうも不思議なことである。そこでこの首を取り上げて火にくべたのだが、火の中から踊りだしてきたので、鉄を鍛えるのに使う大きな金鋏でしっかりつかまえて、ようやく焼き砕いたのであった。

 大局から見れば、どうでもいいような(どうせ作り話であることは明らかな)楠正成の亡霊と大森彦七の攻防が長々と続いている(あと1回分残っている)。怪談としては、面白いかもしれない(私は怪談は好きではない)が、両者ともに、主張は平行線をたどっているので、どのように決着がつくのか予想ができない。ただ、亡霊が手を変え、品を変えて刀を奪おうとするが、彦七の刀を奪えないというところに、何か意味があるように思われる。彦七が数百人の武士たちを従えていたというのには、誇張があるようで、そのくらいの力があれば、宮方の武士たちに対して相当な圧力となるはずである。 

日記抄(4月23日~29日)

4月29日(月)曇り

 4月23日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

4月23日
 『朝日』朝刊に「大学入学共通テスト」の国語に導入される「記述式テスト」の2回目の試行をめぐり、生徒の自己採点と採点結果のずれが大きく、改善策を講じたにもかかわらず、1回目よりもそのずれがかえって大きくなっていることが取り上げられていた。「記述式テスト」の導入をめぐっては、現場からのかなり強い反対があったにもかかわらず、無理に導入した経緯があり、なぜこのような結果が生まれたのかについては、詳しい検討が必要であろう。

4月24日 
 保育所不足の解消のための対策の一つとして推進されている企業主導型保育所の利用が進んでいないために、会計検査院が改善を指摘したことをめぐり、『朝日』と『日経』がそれぞれ社会面(の右上)で報道している。一方が「企業保育所 定員割れ次々/213施設調査 検査院、国に改善指摘」と懐疑的・批判的、他方が「企業型保育所 進まぬ利用/4割が定員半数割れ/助成で急整備、安定運営に課題」となんとか推進したいという気持ちが見てとれる見出しで、どっちがどっちだかすぐにわかる。

 この日の『日経』にアメリカの浮世絵収集家メアリー・エインズワースのコレクションが千葉市美術館で展覧されているという記事が出ていた。エインズワースは1906年に訪日、浮世絵の美に魅せられ、その後四半世紀にわたり浮世絵を収集、貴重な作品も少なくない。そのコレクションは、後に彼女の母校であるオバーリン大学のアレン美術館に収蔵されることになった。オバーリン大学は早い時期から男女共学や有色人種の入学などを推進した大学として知られる。
 ちなみに、日本の桜美林大学の創設者である清水安三はオバーリン大学の卒業生で、現在、オバーリン大学と桜美林大学は提携校となっているそうである。さらに言えば、オーバリンという名称はアルザスの牧師で社会事業家・教育家でもあったヨハン・フリードリッヒ・オーベルリーン(1740‐1826)に由来する。なかなか国際的である。

4月25日
 『千載和歌集』(岩波文庫)を読み終える。後白河院の院宣を受けて藤原俊成が編纂した第7番目の勅撰和歌集である。この和歌集に関連して、よく知られているのが、源義仲に追われて平家が都落ちする際に、一門の中で一人だけ平忠度が都に引き返し、俊成に自分の家集を託し、1首でもよいから勅撰集に選んでほしいと言って去っていったという逸話である。その後、平和が訪れた際に、俊成はこの『千載和歌集』を撰したが、忠度の言葉を思い出し、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」という歌を載せた。しかし、忠度が勅勘の人であることで名を記さず、詠み人知らずとしたという。実は、平家の一門で忠度以外にも同じような扱いになった人がいる(平行盛、平経盛、平経正)のだが、忠度があまりにも有名になってしまって、その他の存在はかすんでしまった。なお、この後の勅撰和歌集にも忠度の歌は選ばれ、合計11首が入集している。また、9番目(ということは『千載』『新古今』の後)の勅撰和歌集である『新勅撰和歌集』からは、晴れて「薩摩守忠度」と作者名が記されているとのことである。
 『平家物語』関連でいえば、忠度の一件よりも前、鹿ケ谷の陰謀でとらえられて島流しにされ、その後都に戻ることができた平康頼の「薩摩潟沖の小島にわれありと親には告げよ八重の潮風」という歌も選ばれている。実は、『千載和歌集』に収められている歌の中で私の記憶にあるのは、『平家物語』関連のこの2首だけで、その点は、有名な歌が多く入集している『新古今』とはだいぶ趣を異にする。しかし、久保田淳による校注は丁寧であり、索引がしっかりしているので、調べごとには便利である。
 実際のところ、俊成の
 百千(ももち)たび浦島の子は帰るとも藐姑射(はこや)の山はときはなるべし
{たとえ百千度浦島が海から帰って来ても、仙洞(上皇のこと、ここでは後白河院を指す)はときわにましますでしょう(=いつまでもご壮健でいらっしゃるでしょう)}
 という歌を見つけたのがうれしかった。この歌では浦島と「はこ」が掛けられているというのが注目点である。勅撰和歌集に浦島を詠んだ歌がどのくらいあるのか、これから探していこうと思う。

4月26日
 『日経』朝刊に英『フィナンシャル・タイムズ』紙のチーフ・エコノミスト・コメンテーターであるマーティン・ウルフ氏の「中国、高所得国になれるか/一党独裁の維持」という論説が掲載されていた。よその国の政治・経済に口を出すのは余計なおせっかいというべきことではあるが、中国のさらなる経済発展のためには、一党独裁の政治体制を改めることが必要だろう。そのようにかねがね思っていたのだが、私だけでの考えではないことをあらためて確認した。
 この論説で面白いのは、それに加えて、「習氏は後世に、中国を世界一に押し上げた人物と評されるようになるのか、中国版のブレジネフと呼ばれるようになるのか。旧ソ連のブレジネフ書記長はその保守性ゆえにソ連の体制を取り返しのつかないまでに荒廃させた」と書いている。フルシチョフが失脚し、ブレジネフが取って代わったのが、私の大学に入った年のことであり、長い長いブレジネフ時代を全部目撃していたので、よくわかる指摘である。TBSの放送記者としてモスクワに滞在した大蔵雄之助さんが『ソヴィエト見聞録』の中で、ブレジネフへの個人崇拝のひどさについて書いていた箇所を思い出す。個人崇拝と腐敗とで崩壊していった旧ソ連の歴史は他人事ではないように思われる。実は、歴史上、安倍晋三首相によく似た人物はルイ15世か、ブレジネフではないかと、ひそかに思っているのである(だから、次に首相をやろうという人物が出て来ない…?)。 

4月27日
 石田五郎『星の文人 野尻抱影伝』(中公文庫)を読み終える。野尻抱影(本名=正英:まさふさ)は横浜に生まれ、早稲田に学び、同じ学年に相馬御風、会津八一がいて、生涯の友人となる。旧制甲府中学(現在の甲府第一高等学校)、旧制麻布中学で英語を教え、研究社で編集者生活を送った後、文筆家として著作活動を続けた。特に天文関係の著作が多く、子ども時代に彼の天文学関係の啓蒙書をよく読んだものである(どちらかというと、天文学よりも、星の神話・伝説についての記述のほうに魅力を感じたかもしれない)。また、作家・大佛次郎(本名:野尻清彦)の長兄でもある。
 著者である石田五郎は天文学者で、岡山天体物理観測所に長く務めた。岡山に赴任することが決まったときに、ちょうど35歳だったので、ダンテの『神曲』の冒頭の
「人生の旅路なかばに 正しき道を失い
 わが身が暗き林の中にいるのを覚えた…」(257ページ)
という章句を口ずさんだというから、文学の方の造詣も深いのであろう。同じく中公文庫に入っている『天文台日記』は岡山での著作で、名著といわれる。

4月28日
 ヘロン・カーヴィック『こうもり傘探偵① 村で噂のミス・シートン』(原書房:コージーブックス)を読み終える。先週(4月20日)、続編である『こうもり傘探偵② ミス・シートンは事件を描く』を読んで、第1作も読みたくなったという経緯がある。ロンドンで美術教師をしているミス・シートンは、名付け親の女性の遺産贈与を受け、イングランド南東部のケント州にあるコッテージを手に入れる。ところが彼女が田舎の村に現れるや否や、この村では起きたことのないような事件が続出する…。しかもかなり規模の大きいドタバタが付きまとうことが少なくない。
 作者であるヘロン・カーヴィック(Heron Carvic, 1913 - 80)は本名をジェフリー・ルパート・ウィリアム・ハリスと言って、俳優としても知られる人物だそうである。このシリーズは、ウィキペディアの英語版によると、アガサ・クリスティーの"gentle parody"だという。特にミス・マープル物が意識されていると思われる。ミス・マープルは自分が名探偵であることを自覚している(彼女の甥はそれを認めず、叔母を危険な目に合わせたくないということだけ考えている)が、ミス・シートンにはそんな自覚は全くない。ミス・マープルは自分の周囲の様々なゴシップから事件解決のヒントを得ることが多いが、ミス・シートンの住むプラマージェンの村には悪質なゴシップ屋がいて、彼女の周辺には(彼女に関するうわさも含めて)とんでもない情報が飛び交うことがある。名探偵の自覚のないミス・シートンではあるが、彼女が描き出す絵の中には様々な事件を解くカギがなぜか現れる…。作者は英国人であるが、どちらかというとアメリカで好んで読まれているようである。

4月29日
 『日経』朝刊に、中・高生に理科系に進学してもらおうとして東大・京大・東工大で行われている様々な努力が紹介されていた。理科系の人材が必要とされている世の中で、若者が理科系に進学しようとしないのは奇妙な現象にも思われる。私などは、数学と物理ができなかったから、理科系に進まなかった(進めなかった)が、できることなら理科系に進んで技官として生涯を送りたかったと思う(実際は教官で生涯を過ごした)。そういう人間であるのに8年間ほど理科系の学校で教えたのだから不思議な巡り合わせである。(いや、待てよ、看護系の短大で教えていた年数を算入すると20年を超えることになりそうだ…)

 NHK取材班『外国人労働者をどう受け入れるか 「安い労働力」から「戦力」へ』(NHK出版新書)を読み終える。 
 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(4)

4月28日(日)晴れのち曇り、気温上昇

 ジェイン・オースティン(Jane Austen, 1775 - 1817)が1811年に匿名で出版したこの小説は、原題をSense and Sensibilityと言い、<分別>(Sense)に満ちた理性的な姉エリノアと、<多感>(Sensibility)で情熱的な妹マリアンという2人の姉妹の恋愛の行方を、イングランド南部の美しい田園風景と、それとは対照的に喧騒に満ちたロンドンとを舞台背景として描き出した作品である。
 イングランド南東部のサセックス州の地主ヘンリー・ダッシュウッドの死後、その先妻の子であるジョンが財産を相続した。財産というべきものをほとんど持たずに取り残された後妻であるダッシュウッド夫人と、エリノア、マリアン、マーガレットの3人の娘は、遠い親戚であるサー・ジョン・ミドルトンの好意でイングランド南西部のデヴォン州の農村にあるバートン・コテッジという新しいすみかに引っ越すことになった。ジョンの妻のファニーは「夫より何倍も心の狭い自己中心的な女性」(10ページ)であったが、彼女の弟のエドワード・フェラ―ズは聡明で心の優しい青年で、エリノアとお互いに惹かれあっているようである。
 新しく引っ越した土地で、一家はサー・ジョン・ミドルトンとその夫人、彼女の母親のジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と知り合う。裕福な商人の未亡人で、娘2人を上流の紳士に嫁がせたジェニングズ夫人は、世話好きでエリナーとマリアンに良縁が訪れることを望んでいる。裕福な地主であるブランドン大佐は、無口で重々しい感じで、過去につらい恋愛体験をもっているようだが、思慮深そうな人物であり、なぜかマリアンに心動かされた様子である。
 ある日、散歩に出かけたマリアンは、突然の雨で急いで帰宅しようとして足をくじき、近くのアレナム屋敷に滞在中の青年紳士ウィロビーに助けられる。美男で情熱的なウィロビーと、ロマンチックな恋にあこがれているマリアンはたちまち、意気投合し、2人の中は周知の事実となるが、なぜか、2人が婚約したという話は出てこない。ある日、急用だといって詳しいことを告げずにブランドン大佐はロンドンに去り、その後、今度はウィロビーがまたはっきりした理由も告げずに、やはりロンドンに去る。

 ウィロビーがロンドンに去って行った後、感受性豊かなマリアンはすっかり消沈し、悲しみに暮れる。ウィロビーからマリアンに何の連絡もないことを、エリノアは不審に思うが、ダッシュウッド夫人はあまり気にしない。2人が婚約しているかどうか、エリノアは心配するが、ダッシュウッド夫人はそのことにも楽観的な様子である。
 ウィロビーがデヴォン州を去って1週間ほどたったある日、姉妹が散歩していると、むこうから近づいてくる人影が見えた。それがウィロビーにちがいないと思ったマリアンは走り出し、ウィロビーではないと判断したエリノアは、マリアンが誤解を受けないようにと彼女の後を追って走って、その人影に近づいた。近づいてきたのはエドワード・フェラ―ズだった。かれはダッシュウッド一家を訪問するために、はるばるやって来たのである。
 マリアンは、せっかく久しぶりに会ったエドワードとエリナーの2人の様子が何となくぎこちなく、またよそよそしげであるのに不満を持つ。しかもエドワードはデヴォン州に来てから2週間たっていると語る。なぜ、もっと早く来なかったのかとマリアンは不思議に思う。エドワードが、風景の美しさを理解しないことにも苛立つ。しかし、エリナーはできるだけ落ちついて、エドワードと接しようと心に決める。

 バートン・コテッジに着いたエドワードはダッシュウッド夫人から歓迎され、うちとけた様子を見せ始める。しかし、それでもなぜか元気がないように見える。内気な性格のエドワードは母親のフェラ―ズ夫人が望むような政治家、法廷弁護士、軍人のような華々しい活躍をする職業に就く野心はなく、牧師を希望しているのだが、そのことで母親をはじめとする家族と折り合いが悪いのである。
 エドワードの話を聞いて、マリアンは「富や出世は、幸せとは関係ないわ」(128ページ)と言い、エリナーは「出世はともかく、富は幸せと大いに関係あるわ」(同上)と反論する。マリアンは「富」などはいらない、「普通に生活できるお金」(129ページ)があれば満足だというが、エリナーは、2人の意見はそれほど違うわけではない、マリアンの言う「普通に生活できるお金」と、彼女自身の言う「富」はたぶん、同じ意味だという。そして、「普通に生活できるお金」というのはどのくらいの額だと思うのかと尋ねる。
 「『年収1800ポンドから2000ポンドね。それ以上はいらないわ。』
 エリナーは声をあげて笑った。『年収2000ポンド! 私の言う『富』というのは、年収1000ポンドよ! ほらね、そんなことだと思っていたわ』」(129ページ)
 姉妹とエドワードとは、お互いの性格をめぐっても議論を続けたが、突然、エドワードは不機嫌になり、エリナーはその真意を測りかねた。

 翌朝、エドワードとエリナーを2人だけにしようとマリアンが気を利かせたにもかかわらず、エドワードは召使に預けた馬の様子を見に、村の方に出かけてしまう。そしてもどってくると、バートン谷の風景を賞賛する。しかし、マリアンのように風景を描写することができないのを気にやんでいる様子である。
 マリアンはエドワードがはめている指輪と、その指輪にはめ込まれた髪の毛に気づく。その髪の毛はだれのものだろうか? その問いは、エドワードを慌てさせ、暗い気分にさせる。(マリアンはだれのものかと思っただけだが、エリナーは自分のものだと思ってひそかに喜ぶ。愛情のしるしに髪の毛を与えるというのはこの時代のヨーロッパの習慣であった。フローベールの『感情教育』の終わり近くで、モロー夫人がフレデリックに自分の髪を切って与える印象的な場面がある。エリナーは彼に髪の毛を与えていないのだが、エドワードがどこかで手に入れて指輪にはめ込んでいると思ったのである。)
 その日の正午前にサー・ジョンとジェニングズ夫人がやってくる。世話好きの2人は、バートン・コテッジに来客があったと知って、その客を自邸に招待しようというのである。エドワードの姓がフェラ―ズであることを知って、2人はエリナーの恋人がエドワードであることに気づいたらしい。

 エドワードはバートン・コテッジに1週間滞在して、ダッシュウッド一家の人々がしきりに引き留めたにもかかわらず、立ち去って行った。滞在中は楽しく過ごし、実家にいてもロンドンにいても、楽しくはないというのに、去っていったのは不思議なことである。
 「エドワードが元気がなくて、その言動が率直さと一貫性に欠けるのは、彼が経済的に独立していなくて、財産を握る母親の性格と意向をよく知っているからだと、エリナーは考えた。1週間という滞在期間の短さや、どうしても帰るという決意の固さも、原因は同じだろう。経済的に独立していないためにいろいろな束縛があり、母親の意向に沿うように行動しなければならないのだ。義務と自由意思、親と子という、昔ながらの対立がすべての原因なのだ。こうした問題が解決され、対立が解け、フェラ―ズ夫人が態度を改めて、エドワードが自分の自由意志で幸せをつかめる日が一日も早く来ることを、エリナーは願った。」(143ページ) エリナーの願うエドワードの幸せは、彼女自身の幸せでもある。オックスフォード大学を出た後、何もせずに過ごしているエドワードは牧師になりたいのだが、家族がそれを望まないのである。何となく煮え切れないまま、かれはバートン谷を去っていく。

 「エドワードが去ったときのエリナーの振る舞いは、ウィロビーが去ったときのマリアンの振る舞いとまさに正反対だが、マリアンは姉の振る舞いを立派だとは思わなかったし、自分の振る舞いが間違っていたとも思わなかった。」(147ページ) しかし、マリアンは姉と自分との性格の違い、愛情のもち方の違いを自覚せざるを得ない。

 エドワードが去ってから間もない朝のこと、ダッシュウッド一家はサー・ジョンたちの訪問を受ける。ジェニングズ夫人の次女のシャーロットが、夫であるパーマー氏とともに訪ねてきたのである。シャーロット(パーマー夫人)は姉のミドルトン夫人よりいくつか年下(ミドルトン夫人が26/7歳だから、20代前半であろうか)で、小柄でぽっちゃりして、かわいらしい顔立ちで、陽気で明るい表女王をしている。ミドルトン夫人ほど優雅ではないが、かえって好感の持てるタイプであった。夫のパーマー氏は、25/6歳の重々しい顔つきの青年で、妻よりもずっと洗練されて落ち着いた感じだが、偉そうな態度が抜けない。何に出も好奇心を持ち、いつもにこにこしていて、愛想のいい妻とは何から何まで対照的である。善良だが、どうも退屈な人物の用である。サー・ジョンが次から次へと新しい人々を紹介し、社交を勧めるのに、ダッシュウッド一家の人々はうんざりしはじめている。

 次の日、エリナーとマリアンがバートン屋敷を訪問すると、パーマー夫人が上機嫌で彼女たちを迎える。彼女は冬の社交シーズンにロンドンを訪問するように、2人を招待するが、2人は辞退する。パーマー夫人は夫妻と同じくサマセット州に屋敷のあるウィロビーがマリアンと付き合っているという噂を知っていて、マリアンの趣味のよさをほめる。パーマー夫妻はいろいろなことで意見が合わない様子である。「エリナーは、パーマー氏をちょっと観察した結果こう思った。パーマー氏は自分を不機嫌で無作法な人間に見せようとしているけど、ほんとはそれほど不機嫌でも無作法でもないのではないか。もしかしたら、多くの男性と同様、美人を好むというあの説明しがたい性癖のおかげで、馬鹿な女と結婚してしまったために、少し気難しい人間になったのかもしれない。でもこの種の失敗は、どんな男性にもよくあることなので、いつまでもそれを気に病むはずはない。」(157ページ) この観察はなかなか興味深い。
 パーマー夫人は今度はクリスマスにサマセット州の邸を訪問を勧める。パーマー氏は下院議員に立候補して選挙運動中だという。エリナーは彼女に、ウィロビーのことを聞こうとするのだが、ウィロビーは野党の支持者なので、あまりつきあいはないという。〔この時代は、トーリー党内閣が続いていたので、おそらく、パーマー氏はトーリー党、ウィロビーはウィッグ党の支持者ということであろう。〕 パーマー夫人はロンドンのボンド・ストリートでブランドン大佐と出会って、ウィロビーとマリアンのことを聞いたのだという。大佐は、エリナーのことばかり褒めちぎっていたという(彼女の言うことはどこまで信用していいのかわからないところがある)。また、大佐に思いを寄せられたことは、マリアンにとって名誉なことだともいう。翌日、パーマー夫妻はソマセット州の自邸に戻っていった。

 思いを寄せる男性と別れた後の姉妹の対照的な態度、あるいは生活のために必要な年収をめぐる意見の違いなどに両者の性格があらわされているが、他にも対照的に描かれている部分がある。この時代の上流階級の女性には才芸に秀でていることが求められていたのだが、その才芸の中でエリナーは絵画、マリアンは音楽が得意だったように描かれている。そのような描写によって、オースティンは姉妹の性格の違いを際立たせようとしているようでもある。
 マリアンをめぐる2人の男性、ウィロビーとブランドンが姿を消したと思ったら、今度はエリナーに好意を寄せる男性であるエドワードが登場し、すぐに姿を消す。エドワードが何となく煮え切らないのには、エリナーが考えているのとは別の理由があり、それは物語の進行の中で明らかになる。ところで、エドワードはオックスフォード大学を卒業して牧師になろうとしているのだが、イングランド国教会の改革運動であるオックスフォード運動が起きたのは1833年であるから、この物語の30年くらい後のことになる。一世代の違いと考えてよいのだが、オースティンの小説は、そういう神学論争とは関係のない世界を描いているように思う。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』(7)

4月27日(土)雨が降ったりやんだり

〔これまでの要約〕
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生(カンボジア入国まで)

 著者・梅棹忠夫(1920‐2010)は、1957‐58年、1961‐62年に、当時在職していた大阪市立大学による学術調査の団員として、東南アジア諸国を歴訪した。この書物は、その調査旅行の個人的な記録である。
 第1次の学術調査に参加したのは、梅棹の他に霊長類の研究家である川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学者で医師でもある吉川公雄、文化人類学者の藤岡喜愛の5人である。バンコクに集合した6人の隊員は、第9回太平洋学術会議に参加した後、調査に利用する自動車の運転の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットを見物に出かける。川村と依田がハシゴ付き、藤岡と小川が小周りが利く小型、鍵のかかるワゴンには梅棹と吉川が乗り込む。それぞれ全輪駆動車である。隊員の他にタイのチュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として加わった。、
 一行は、バンコクから北、続いて東に車を走らせ、カンボジアとの国境で一泊、翌日、カンボジアに入国し、アンコール・ワットの南のシエム・レアップに到着した。

 アンコール・ワットの死と生 → 石の微笑
 シエム・レアップの町から、舗装道路(国境付近の道路は舗装されていなかったはずだから、観光地ということで整備されているのであろう)を北へ15分ほど車を走らせ、アンコール・ワットに到着した。
 「それは寺院というよりは、壮大な石の宮殿であった。堀をこえて、幅広い石畳みの通路があり、対岸の楼門風の入り口に通じていた。楼門の左右には、石の回廊が目のはば一ぱいにのびていて、回廊の屋根ごしには、寺院中央の大尖塔がのぞいていた。
 ・・・
 中央の塔は何階にもわかれ、それぞれ石の階段があった。わたしたちは、一階また一階とのぼっていった。階段の傾斜はしだいに急となり、とうとうロック・クライミングに近いありさまになった。わたしは足がすくんで、最後の一階をあきらめた。」(91ページ)
 梅棹は旧制中学時代から山岳部に属して活動していたが、結核で療養していた期間があったため、カラコルム・ヒンズークシ探検隊ではヒンズークシの方に加わり、登山はあきらめたという経緯がある。〔タイを旅行した際に訪問したトンブリーのワット・アルンの塔がやはり急な階段をもっていた。同行者は登って行ったが、私は上らずに写真をとっているだけだったのを思い出す。〕

 梅棹は、この建造物が石でできていることが信じられないと書いている。木造だったものが、石に変えられたような感じがするというのである。つまり日本の仏教寺院の建築と、どこかに通ったところがあるということで、これは仏教建築の性格を考えるうえで興味ある指摘かも知れない。
 「ここにはたしかに死のにおいがある。ここにおいては、生きて動いているものは何一つない。」(92ページ)という感想を梅棹は持つ。「何世紀ものあいだ、凝固したまま森の中にとじこめられてしまっていたのだ。」(同上)
 しかし、13世紀以来、アンコール・ワットを訪れるものがなかったわけではない。回廊には何世紀にもわたる参拝者たちが書き残した文字が並んでいる。「クメール文字があり、タイ文字があり、ローマ字があり、漢字がある。葉山君は、まえに一度ここに来たことがある。日本人の筆跡があるはずだという。かれは、おびただしい落書きのなかからようやくそれを見つけ出した。寛永9年(1632)正月、肥州の住人森本右近太夫の記すところのものである。17世紀のはじめ、かれはここに来て祇園精舎に参ったと思ったのであった。」(同上)

 回廊を抜けて、石柱に囲まれた部屋に入ると、人の気配がする。老婆がヴィシュヌ神の像に線香を備え、祈りを捧げていた。その姿を見て、「わたしは、はっとする。アンコール・ワットは死の宮殿ではなかった。アンコール・ワットは生きているのである。ここでは信仰がなお生きているのである。」(93ページ)
 一行は、さらに僧侶の姿と、かれらの僧院を見る。
 「これはひとつのおどろきであった。ここは遺跡ではなかったのである。アンコール・ワットには坊さんがいたのである。かれらはもちろん、現代カンボジアの国民的な宗教であるところの小乗仏教の僧であろう。それは、古代クメールの帝王たちの心をとらえたバラモン教や大乗仏教ではない。しかし寺は変らないのである。そして、寺とともに信仰もまた生きているのである。」(同上)

 さらに一行はジープを駆って、いくつかの遺跡を駆け足で見て回った。特にバヨンの遺跡の不思議な微笑をたたえた石の顔が著者の心をとらえた。古代クメール人たちの心の中はどのようなものであったのか、わからないが、もし時間があれば調べてみたいと思いはじめる。一行はいったん、シエム・レアップに帰り、また夜になってからアンコール・ワットを訪れた。村の子どもたちが松明をもって近づいてきたが、その光に照らされたアンコール・ワットは一層幻想的に見えた。

 将棋名人戦 → 趣味の昆虫採集 → ハシゴ車受難の日
 12月8日、朝7時に起きて、バンコクに帰ろうとする。金はおそろしく欠乏している。しかし、何とかバンコクに帰りつくだけのガソリンは調達できるだろうと思う。ところが、大平原を走行中、ラジエーターのファン・ベルトが切れたために、ハシゴ車がオーバーヒートして、止まる。予備のファン・ベルトをバンコクに置いてきたために、小川と葉山がシエム・レアップまで戻って買ってくることになる。2人がなかなか帰ってこないので、待つ間、吉川と藤岡が将棋を始める。それも「名人戦」と称して連続試合をやっている。

 梅棹は帰りはゆっくり昆虫採集をするつもりであった。あきれてしまうほどに多様な種類のチョウがいる。それまでにすでに、梅棹はVespidaeという濃いだいだい色のアシナガバチを、藤岡はドロバチに似た大型の美しいハチを採集している。川村も、依田も結構楽しそうに虫を追いかけている。ただ、標本にして保存する際に注意が必要である。
 午後4時15分、小川と葉山が戻ってくる。ファン・ベルトはあった。
 
 ファン・ベルトで手間取って、とうとう途中で日が暮れてしまった。その薄暗がりの中で、またもやハシゴ車が動かなくなった。現地の人々が集まってくるが、言葉が通じないので如何ともしがたい。
 「そのとき、奇蹟がおこった。村の若い男の一人が、タイ語をしゃべる。しかも、かれはまえに、バッタンバンで自動車修理工場につとめていたことがある。かれは、ボンネットの中をのぞきこんで、半時間ほどごそごやった。やがて、エンジンは動きだした。」(99ページ) バッタンバンというのはシソポンからプノンペンに行く道の途中、シソポンのすぐ近くにある町である。
 プノンペンからの道と、アンコール・ワット方面からの道の合流点であるシソポンに到着する。「シナ食堂でおかゆをたべる。」(同上) 10時、国境の町、ポイペットに到着する。「国境の警察は、もう寝ていた。蚊帳の中から起きて出てきたが、それでも、手続きをしてくれた。真夜中の国境を超え、11時半、アランヤ・プラテートの宿屋に着く。」 タイの税関は「通ってもよいから、手続きはあすの朝に来てくれ」(同上)ということで通してくれたのである。

 あくる朝、手続きを済ませ、10時半にアランヤ・プラテートを出発し、バンコクに向かう。「この帰りは、そうとうスリルがあった。ガソリンは、シソポンで補給しただけである。アランヤ・プラテートの宿料をはらうと、バーツ貨はほとんどなくなった。ガソリンは買えないのである。これで、ゆけるところまで行くほかはない。/どうやらぶじ、バンコク近くまで帰りついた。しかし、いちばんガソリンを食うのは、依田のハシゴ車だ。かれは、燃料計がゼロを指してから、20分くらい走った。いまとまるか、いまとまるかと、ハラハラしながら走った。すると、むこうの方にガソリン・スタンドが見えてきた。そこで、小銭をはたいて、ガソリンを買った。4.8リットル買えた。しかし、これでいい。バンコクまであと10キロばかりだった。」(100ページ)

 一行が、アンコール・ワット旅行を終えて、バンコクに戻ったところで、第4章は終わる。アンコール・ワットよりも、旅のスリルの方が面白いような気もする。ハラハラしながらも、どこかスリルを楽しんでいるような様子がうかがわれる。
 アンコール・ワットと、その回廊に日本人が遺した墨書(森本左近太夫のものを含めて14例が確認されているそうである)については、前回も紹介した石澤良昭『興亡の世界史 東南アジア多文明世界の発見』(講談社学術文庫)をご覧ください。特に「第11章 祇園精舎としてのアンコール・ワット」が、今回の個所と関連が深い。森本右近太夫(一房)は熊本藩を去って、平戸藩に仕えていたが、カンボジアからの帰国後、平戸藩を去って父親の生誕地である京都の山崎に隠棲していたとのことである。幕末の平戸藩主であった松浦静山の『甲子夜話』に、関連する話が登場することも比較的よく知られている。『甲子夜話』は平凡社の東洋文庫に収められている。月並みな補足かも知れないが、ジャングルの中の遺跡と、古代の人々が整備した道路跡を探し回る人々を描くアンドレ・マルローの小説『王道』は、彼自身の経験に基づいて書かれている。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(16‐1)

4月26日(金)雨が降ったりやんだり、急にまた寒くなってきた。

 ローマ時代の大詩人ウェルギリウスのたましいによって、「暗い森」から助け出され、地獄(と煉獄、そして「よりふさわしい」たましいに導かれて天国)への道のりをたどることになったダンテは、まず地球の中にある地獄を訪問する。地獄は逆円錐形をしており、下に降りていけばいくほど円周(圏)は小さくなるが、そこで罰を受ける魂たちの苦しみは大きくなる。地獄の門をくぐり、地獄の第1圏(リンボ、洗礼を受けずに死んだ幼児たちと、信仰をもたないが正しく生きた人々のたましい)、第2圏(愛欲の罪を犯したたましいたちがその罰を受けている)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)、第6圏(異端の罪)を見た後、彼らは第7圏に到達する。第7圏は3つの部分に分かれ、第1冠状地では暴力の罪、第2冠状地では自己破壊の罪(自殺者と、蕩尽者)を犯したたましいたちが罰を受けていた。第3冠状地では瀆神者たちのたましいを見た後、彼らとは別の罰を受けている男色者たちのたましいに出会う。その中の1人は、生前、ダンテの師であったブルネット・ラティーニであった。地獄に堕ちているブルネットではあったが、ダンテを励まし、その旅と詩業の成功を祈り、また自分の作品が地上の人々に読まれ続けることを望む言葉を残して去ってゆく。

 地獄の第7圏のたましいたちを苦しめている熱砂を避けて、ウェルギリウスとダンテは堤の上を進み、ブルネットと別れた後もさらに歩み続けたが、
 すでに私は、蜜蜂の巣が立てる羽音の呻(うな)りのように、
次の圏へと落ちゆく小川の立てる
ざわめきがきこえてくる地点にいた。
 そのとき三人のたましいが、あの苛烈な苦しみ[火]の
雨の中を通って行く隊列から
そろって離れ、駆けて来た。
 彼らは私たちに向かって来ると、ともに叫んだ。
「止まれ。君は着ているものからして
われらと同じ、背徳の地[フィレンツェ]のものと思えるが」
(1‐9行、377ページ) 中世の人々は、その服装でどこの市の市民であるかがわかったといわれる。3人のたましいは、同郷の人間が堤の上を歩いている(本来あり得ないことである)のを見かけて、懐かしさと驚きの気持ちから、ダンテに近づいてくる。

 3人のたましいが受けている罰は苛烈なもので、彼らの体の傷の惨たらしさは「思い出すだに、なおも心が痛む」(12行、377ページ)ほどであった。ウェルギリウスが、この3人が尊敬すべき人物で、ダンテが礼をもって接する必要があると注意を与える。3人は自分たちの生前の名望を知れば、ダンテも自分の名を明かすつもりになるだろうといい、自分たちの名を告げる。
 3人は賢明な政治家であり、軍人としても知られたグイード・グエッラ、有力なフィレンツェ市民であったテッギヤーヨ・アルドブランディ、政治家・外交官として活躍したヤーコポ・ルスティクッチであった。ルスティクッチは自分が男色に走ったのは、高慢な妻のせいだと(考えてみれば余計な)弁明をする。地獄に堕ちたたましいは、自分の非を認めず、自分の罪を他人のせいにするのである。

 彼らの上に火の雨が降りそそいでいなければ、ダンテは砂地に降りて、彼らを抱擁したいと思ったであろうが、「私の熱意も恐怖に負けてしまった。」(51行、379ページ) そして彼らに向かって、次のように述べる:
・・・ 「軽蔑どころか、あなた方の
お姿を見ると心に深い痛みが走ります。
この痛みが消え去るには長い時が必要でしょう。
・・・」
(52‐54行、379ページ) と語り、彼が敬意をもって、彼らの業績を記憶してきたという。そして、自分が使命をおびて、地獄、煉獄、天国を旅すること、天国に向かう前に、地獄の奥底(地球の中心にある)を見なければならないことを告げる。
 これを聞いて、3人のたましいは、ダンテの前途の成功を祈るのであった。

 繰り返しになるが、ダンテの『神曲』は全部で100歌からなり、『地獄篇』が34歌、『煉獄篇』が33歌、『天国篇』が33歌という構成である。須賀敦子・藤谷道夫訳はしたがって、『地獄篇』の半分(全体の6分の1)を訳していることになるが、第16歌までたどり着いたということは、後は第17歌を残すだけで、間もなく終わるということである。『徒然草』の「高名の木のぼり」の話もあるから、最後まで気は抜けないが、岡本かの子の「東海道五十三次」に出てくる作楽井老人の東海道五十三次の旅の終わりの方の宿場にたどりつくと、何となく寂しくなるという言葉の方が心に重くのしかかってくるように思う。

E.H.カー『歴史とは何か』(12)

4月25日(木)午前中雨、午後になって晴れ間が広がってきた。

Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は過去の事実と、現在の歴史家の間での対話であり、ただ事実を掘り起こせばいいとか、歴史は個々の歴史家の主観によって左右されるというような考え方は適切ではないと著者は論じている。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人とは相互的なものであり、過去の歴史的な事実は社会の中で起き、また現在の歴史家は現在の社会の中で生きている。このことを考えると、歴史は過去の社会と現在の社会との対話であるとも言いうる。
Ⅲ 歴史と科学と道徳
 科学者たちは仮説を立て、それを検証することによって修正し、また反駁を受け、さらなる仮説を組み立てるという循環的な過程により研究を進めているが、歴史家の研究も同様の過程をとる。

Ⅲ 歴史と科学と道徳(続き)
科学と歴史との間
 科学者が仮説を検証し、それによって新たな仮説を作り出すという過程は歴史家が歴史研究に取り組む過程と同じであるとカーは述べている。しかし、このような議論に反対して、歴史と科学の間には根本的な区別が設けられなければならないと説く人々もいる。彼らの議論を要約すると、次の5点にまとめられる。
 ① 歴史は主として特殊的なものを取り扱うのに対し、科学は一般的なものを取り扱う。
 ② 歴史は何の教訓も与えない
 ③ 歴史は予見することができない
 ④ 人間が自己を観察するのであるから、歴史はどうしても主観的になる
 ⑤ 科学と違って、歴史は宗教上および道徳上の問題を含む
 反対者たちの議論をこのようにまとめたうえで、カーは、その1つ1つに反論を加える。

一般化の意味
 歴史は特殊的・個別的なものを取り扱い、科学は一般的・普遍的なものを取り扱うという主張は、アリストテレスにさかのぼるといえるかもしれない。アリストテレスは、歴史に比べると、詩のほうが「一層哲学的」で「一層深刻」である、なぜなら、詩は一般的な真理を問題とし、歴史は個別的な真理を問題にするからであると述べている。これは何かの誤解に基づくものであるとカーは述べている。〔カーが問題にしているのはアリストテレスが『詩学』の第9章で述べていることで、彼がここで歴史を詩に比べて低く見ているのではないかという問題がずっと議論されてきたようである。『詩学』は、岩波文庫に松本仁助・岡道男訳では行っているほか、最近は光文社の古典新訳文庫から文字通り新訳が出たので、気になる方は読んでみてください。

 歴史的な事件はそれぞれ個別的なものであるから、一般性は持たないというが、それをいうのであれば、自然界の出来事もすべてがまったく同じわけではない。(古代ギリシアのアテネとスパルタの間で起きた)ペロポンネソス戦役と第二次世界大戦との間には大きな違いがあるが、両者はともに「戦争」と呼ばれている。現代の歴史家は、「革命」という語を、さまざまな出来事にあてはめて使っている。歴史家は特殊的なことがらを対象にしているのではなくて、そのような特殊的な出来事に共通する一般的なものを探し出そうとしているのである。歴史上の出来事の原因や動機は、一般的に理解できる理由によって説明される。

歴史と社会学の関係
 現在の社会学は、理論の方向に進みすぎる危険と、経験的な事実に固執しすぎる危険という正反対の方向の危険を抱えている。〔カーがこのように書いたのは1960年代の初めのことであるが、2020年代が近くなってもこの事情は変わらないというよりも、社会学にはもともと理論に傾きすぎる、あるいはフィールドと実証に傾きすぎるという危険があると考えた方がいいのではないかと思う(これも一般化の一種である)。〕
 社会は歴史的に形成されたもので、それぞれの社会はそのために独自性を持っている。それで、歴史と社会学とは相互に交流しあい、お互いが学びあう関係を築くことが望まれるという。

歴史の教訓について
 一般化の問題は、歴史の教訓という問題と結びついている。ある一組の事件から得た教訓を他の一組の事件に適用しようとするというのが、一般化である。歴史で取り扱う個々の事件はそれぞれ全くバラバラで、特殊なものばかりだというのは筋の通らない話である。人間が歴史から教訓を引き出して、それを役立てようとしたことについては、多くの例を挙げることができる。 
 ここで、カーは自分自身がイギリス代表団の下級団員として(第一次世界大戦をめぐる)パリの講和会議に出席した時の経験を語る(そういう経験があるというのはうらやましいことである)。「代表団の全員は、ヴィーン会議、すなわち、百年前に行なわれたヨーロッパ最後の大平和会議の教訓に学ぶことができると信じておりました。」(95-96ページ) [ここで「ヨーロッパ最後の」と記されていることの意味がどうもよくわからない。ヴィーン会議というのは、ナポレオンの没落後に、ヨーロッパの平和≒あるいは秩序を回復しようと、ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世、オーストリアの首相メッテルニッヒをはじめとする各国の代表が集まっ手開いた会議であるが、「会議は踊る」などと揶揄されてなかなか議事がまとまらず、そうこうしているうちに、ナポレオンがエルバ島を脱出して再び高帝位につき、反撃を開始したので、中断されたというものである。さて、ワーテルローで連合軍がナポレオンを破ったので、会議が再開され、ヨーロッパの新秩序が築かれた…というわけなのだが〕
 パリの会議の出席者の一人で陸軍省に勤めていたサー・チャールズ・ウェブスターという歴史家が、出席者たちがヴィーン会議から学ぶべき教訓を文章にまとめて、下級の代表者たちに教えてくれた。教訓はいくつもあったらしいが、カーが記憶しているのは2つである。①民族自決の原則を無視するのは危険である〔ヴィ―ン会議では、ポーランドなど独立を認められなかった国が少なくなく、その後の紛争の種になった〕。②秘密文書を紙屑籠に捨てるのは危険である。紙くずは必ずどこかの国の代表団のスパイが買うから、というのである。

 それはともかく、ギリシアの歴史、ローマの歴史、旧約聖書にしるされた古代イスラエルの歴史がその後の欧米の社会の制度や政治に与えた影響には計り知れないものがあるという。〔旧約聖書の(神によって)「選ばれた民」という考えが、植民地時代から現代にいたるアメリカ人の多くの言動に小さからぬ影響を及ぼしていることは確かである。〕
 そういいながら、著者は、読者に歴史のもつ二重性格を思い出させようとする:「過去の光に照らして現在を学ぶというのは、また、現在の光に照らして過去を学ぶということも意味します。歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者をさらに深く理解させようとする点にあるのです。」(97ページ)
 
 5つの論点に対するカーの反駁のうち2つを取り上げただけで終わってしまった。あと3つは次回に見ていくことにしたい。「教訓」としての歴史ということになると、中国や日本の歴史を引き合いに出して考えてみたい問題であるが、そういう応用問題は別の機会に取り組むことにしようと思う。徳川家康が『貞観政要』や『吾妻鏡』を愛読したというように、過去から学ぶというのは日本でも行われていたのである。(家康のえらいところは、自分で理解できる程度の本を選んで、何度も読み返して、それを役立てていたことではないかと思う。これは歴史というよりも読書論の問題である。)

出井康博『移民クライシス 偽装留学生、奴隷労働の最前線』

4月24日(水)曇り、時々雨

 出井康博『移民クライシス、偽装留学生、奴隷労働の最前線』(角川新書)を読み終える。
 今年の4月1日から、外国人労働者の受け入れが拡大された。昨年の10月時点で、日本で働いている外国人労働者の数は146万人を超えているというが、そのうち約29万人が外国人技能実習生、また30万人を超える留学生が働いている。「実習生と留学生とは、本来の意味で『労働者』とは呼べない。そんな実習生と留学生が、外国人労働者全体の4割以上に上る現実が、政府の建前と本音、そして嘘と欺瞞を象徴している。」(5‐6ページ)と著者は言う。〔建前と本音というよりも、二重基準(ダブル・スタンダード)あるいはそれ以上の多重基準かも知れないと私は思うのだが、それについては、別の場所で書く。〕

 入管法改正をめぐる国会での論戦は現実を踏まえない建前レベルで終わり、外国人労働者、特に働きながら日本語学校で日本語を学ぶという名目で入国してきた若者たちが、多くの日本人の人目につかない職場での低賃金の(法定限度を超えた)長時間労働に従事し、日本語の習得は十分ではないという現状、彼らの生活と意見とには目が向けられていない。この書物ではベトナムとブータンから来日した「留学生」におもな焦点をあてながら、日本人の大半が知らない(というよりも、その眼から遠ざけられている)外国人労働者の実態と、受け入れる側の問題を取り上げている。

 第1章「『朝日新聞』が隠すベトナム人留学生の違法就労」では、大新聞が外国人労働者問題について触れたがらないのは、彼らが新聞配達員として外国人留学生を使っているからだという事実を暴き出している。特に、『朝日新聞』は「朝日奨学会」の「招聘奨学生」制度により、外国人を受け入れている。「かつては中国に加え、モンゴルや韓国などからの受け入れが主流だったが、次第に希望者が減っていく。代わって増えたのがベトナム人だ。他の大手紙にも奨学会はあるが、外国人を組織的に受け入れているのは朝日奨学会だけだ。」(23ページ)
 近年、ベトナムでは日本へ留学する若者が急増しているが、その大半は出稼ぎ目的で、多額の借金を背負い来日する「偽装留学生」だという。しかし、『朝日』の奨学生については、偽装留学とはいえない。日本語学校の学費は負担してもらえるし、アパートも提供されるし、月10万円以上の給与も受け取れる。とはいえ、新聞販売事業の業績が悪化している中で、配達区域は広がる一方であり、配達時間が留学生に許される「28時間」を超えてしまうのはいつものことである。外国人の配達員には原付バイクを遣わせないなどの差別待遇も見られ、労働条件もよいとはいえない。
 留学生の違法就労は、『朝日新聞』だけの問題ではない。しかし、新聞配達の現場で留学生が増えたのは、朝日奨学会の「成功」によるところが大きい。新聞配達の留学生の違法就労の一方で、『朝日』の紙面では外国人労働者を擁護する記事が目立つとも著者は指摘する。電子版「GLOBE+」の連載記事ではベトナム人実習生を制度の被害者として描いているが、その一方で自分たちの新聞の配達現場の労働実態には触れていない。実習生制度を批判して、留学生の実態を無視するのはダブル・スタンダードではないか。
 一方、2016年暮れから『西日本新聞』が連載した「出稼ぎ留学生」は、偽装留学生の数がベトナムの次に多いとされるネパールからの留学生を取り上げて、反響を呼び、2017年には明石書店から『新 移民時代』という表題で単行本として出版された。以来、「出稼ぎ留学生」という言葉が定着し始めている。外国人労働者の雇用に熱心な財界の意向を強く反映する『日本経済新聞』は、「出稼ぎ留学生」という言葉を使っても、必ずそれが留学生のうちのごく少数であることを強調している。「偽装留学生」という言葉を使っているのは、『産経新聞』だけで、その理由は同紙が発行部数が少なく、東日本では夕刊を発行していないので、偽装留学生問題を抱えていないという事情があると著者は述べている。
 違法就労問題と、販売店の苦境の両方を解決する方途としては、夕刊の発行をやめることが考えられるという。それがなぜできないのか…というのが問題ではないか。

 第2章「『便利で安価な暮らし』をささえる彼らの素顔」では、新聞奨学生よりもさらに恵まれない環境にある「偽装留学生」たちの労働と生活の実態に迫っている。
 コンビニや飲食チェーンで働く外国人の姿をよく見かけるが、それは全体から見ればわずかな存在でしかないという。「たいていの偽装留学生は、日本語の全く必要とされない職場で働いている。コンビニやスーパーで売られる弁当や総菜の製造工場、宅配便の仕分け、ホテルの掃除などである。これらの仕事では、日本人が同僚になるケースは少ない。たとえ同僚となっても会話を交わすことはあまりない。だから日本語は上達しないのだ。」(58ページ) コンビニの外国人店員の「大半は留学生アルバイトだが、一定の日本語能力を身につけた者しか採用はされない。偽装留学生の『エリート〕層なのである。」(59ページ) 〔そうはいっても、コンビニで働く外国人の日本語の水準については、ばらつきがあるように思う。〕

 偽装留学生たちの多くは、借金をして留学費用を捻出している。本来、そのような人物には留学ビザは発給されないのだが、ブローカーが介在して書類をでっちあげて、ビザを発給にこぎつけるのである。2012年末の時点で留学生の数は18万919人であったのが、18年6月には32万4245人へと増加している。その一方で法務省は不法残留の多い中国、ベトナム、ネパール、ミャンマー、スリランカ、モンゴルについて留学ビザ申請時に経費支弁関係書類の提出を求めているが、その書類が信用できないのである。

 留学生については、その受け入れ先となり日本語学校が近年急増し、留学生の「売り手市場」となって、日本側での奪い合いが生じている。そのため、ブローカーは留学生1人を斡旋すると10万円程度のキックバックが受け取れるという。
 ところが実習生の場合は、ブローカーが実習生を斡旋する際に、日本で仲介する「管理団体」にキックバックを払う必要がある。留学生の場合と事情が逆なのである。したがって、ブローカーにとっては留学生の方が楽なビジネスということになる。
 さらにブローカーは留学生からも手数料を取っている。このため「留学生の斡旋ビジネスは、ベトナムでは1つの産業と呼べる規模なのだ。」(65ページ)

 こうしたブローカーへの手数料もあって、留学生の借金はさらに膨らむ。来日して働いても、容易に返済できるものではないし、日本での暮らしも仕事も楽ではない。「そんな偽装留学生たちを、日本はあの手この手で食い物にしている。」(同上)
 多くの留学生が暮らしている日本語学校の寮は、もともと別の目的のために建てられた古い建物の狭い部屋に数人が生活しているというような例が多い。徹夜のアルバイトが多いので、実際のところ、日本語学校での授業時間が唯一の睡眠時間といえるほどであるという。
 日本語学校で学ぶ留学生の間では、経済力だけでなく語学力も大きく異なり、二極化の傾向が見られるという。
 日本語学校の中には「良心的な」学校もあるが、たちの悪い学校もある。留学生の弱みに付け込んで、修了後の授業料を払わせるようなことをしている学校もある。〔日本語学校は学校教育法の第1条に規定する「学校」ではないから、施設というべきかもしれない。〕

 9章からなる本の最初の2章を紹介してみた。「留学生」をめぐる具体的な事実を記述した部分の大半を省略せざるを得なかったが、そこが読みごたえのある部分なので、ぜひ、この本を手に取って読んでみてください。今年に入ってから、この本の他に浅川晃広『知っておきたい入管法』(平凡社新書)を読んでおり、またNHK取材班『外国人労働者たちをどう受け入れるか』(NHK新書)を買っているが、まだ読み終えていない。少しずつでも、本を読み、身近なところから、外国人労働者の問題について調べ、考えていくつもりである。〔実は、私の家の近所に日本語学校があるのである。〕

『太平記』(259)

4月23日(火)晴れ、気温上昇

 暦応5年(この年4月末に康永と改元、南朝興国3年、1342)4月、脇屋義助は、吉野から伊予へ下る途中、参詣した。伊予では守護の大館氏明、国司の四条有資らの宮方が、義助の下向によって勢いを得た。その頃、伊予の住人大森彦七は、兵庫湊川の合戦で楠正成に腹を切らせた功によって所領を得ていたが、それを祝う猿楽の宴を催すと、鬼女が現れ、彦七に襲い掛かるという怪異があった。そこで猿楽の宴を一度は取りやめたが、4月15日に再び催そうとすると、海上に黒雲がわき、その中から鬼や、怪しげな武士たちが姿をあらわした。

 猿楽の見物に集まってきていた人々が皆肝を冷やす中で、雲の中から大声で、「大森彦七殿に申すべきことがあって、楠判官正成というものが参ったので候なり」というのが聞こえた。彦七は、このようなことに驚いたことがないような豪胆な武士であったので、少しも動ずる様子を見せず、「人死して再び帰る事なし。定めてその魂魄の霊となり、鬼となりたるにてぞあるらん。それはよし、何にてもあれ、楠殿は何事の用あって、今この場へ現れて、盛長を呼び給うぞ」と問うた。
 すると楠は、正成は生前、さまざまの謀をめぐらして、相模入道(北条高時)の一族を倒し、先帝(後醍醐帝)のお心を安らかにし、天下は帝のもとに統一されて、その下で末長いご治世を仰ごうとしていたところ、尊氏と直義とが、よからぬ野心を抱き、ついに帝の天下を傾けてしまった。このため忠臣義士は、戦場に倒れてその死骸を野ざらしにし、彼らすべてが修羅の眷属となって、怒りの気持ちをとめることは一刻たりともない。正成は、これらの忠義のために死した武士たちとともに、尊氏・直義が奪い取った天下を覆そうと計画をめぐらしたのだが、その成功のためには、貪欲・瞋恚(しんい=怒り)・愚痴という人間の三大煩悩を表わす三振りの剣を用いなければならない。
 そこで我々が激しく怒った眼を大きく見開いて、大三千界(=大宇宙)を見わたすと、願うところの剣は、運よく日本国内に3振りそろっていた。その一つは、比叡山の麓の日吉の大宮(山王権現)にあったのを、その神様に読経を捧げ、代わりに剣をもらってきた。もう一振りは、尊氏が持っていたのを、尊氏が寵愛する童に入れ替わって、もらい受けてきた。いま一振りは、御辺(貴公)がただいま腰にさしている刀である。
 ご存じないかもしれないが、その刀は、元暦2年(1185)に平家が壇ノ浦で滅亡した際に、悪七兵衛景清が海に取りおとしたのを、イルカが呑みこみ、そのイルカが讃岐の宇多津の沖で死んだ。かくして剣が海底に沈んで100年以上たって、漁師の網に引き上げられ、御辺のもとに伝えられたという曰くがある。
 御辺のさしている刀さえ我々の手に入れば、尊氏の天下を奪うことは、きわめてたやすいことであろうから、急いで進呈せよというのが、先帝のお申し付けであり、それを受けて正成が参ったのであると述べた。それとともに稲妻が東西の山に光り、雷鳴がとどろいて、今にもこの場に雷が落ちてきそうな様子であった。

 このようにいわれても、盛長は臆する様子もなく、刀の柄をぎゅっと握りしめて次のように言いかえした。さては、先日、女に化けて、自分をたぶらかそうとしたのも御辺たちの仕業であったか。御辺がまだ生きて折られたころには、盛長はいつもその御用を承っていたのであるから、どのような財宝であっても、それが必要であると承れば、惜しむことはしないつもりである。とはいうものの、この刀をくれ、それで将軍を滅ぼそうとおっしゃるのであれば、話は違って、差し上げるわけにはいかない。
 私は不肖者ではあるが、将軍尊氏の味方として、二心のないものとして知られている。それで恩賞もたくさんいただいたので、喜んでこの猿楽を催して楽しんでいるところである。勇士の本懐というのは心変わりをしないということにある。たとえ、自分の体がずたずたに引き裂かれ、骨を粉々にされても、この刀を差しあげるわけにはいかない、さっさとお帰りください。
 このように言い放つと、虚空をにらんで、正成(の霊)に立ち向かったので、正成は予期に反した盛長の言葉に怒り狂った様子で、「何とでもいえ、最後には取ってやるぞ」と叫び、また元の ように光を放ちながら、海上はるかに飛び去って行った。
 見物の老若男女は、これを見て、正成の霊に自分をつかみあげられて、空を飛んでどこかへ連れていかれるのではないかと恐怖心にかられ、親は子を呼び、子は親を引いて、あちこちに逃げ回ったので、この夜の猿楽も式三番(猿楽=能の最初に演じられる儀式的な3つの祝言曲)を演じただけで終わってしまった。

 それから3,4日した夜中に、雨がひとしきり降り、冷たい風が吹いて、ときどき稲妻が走ったので、盛長は、今夜もまたきっと楠が出て来そうな気配だ。先手を打って待っていようと思うと、屋敷の中門に敷き皮を敷かせ、鎧で武装を固め、大弓に実戦用の矢を2,3本抜いていつでも射かけられるようにして、これで準備はできた、怪物はまだ来ないか、遅いなあと待ち構えていた。

 予想通り、夜半を過ぎると、いったんは荒れ上っていた空がにわかに掻き曇り、黒雲がもくもくと湧きあがった。雲の中から声がして、「いかに、大森彦七殿はこれにおわするか。先日申しあげた剣のことであるが、新田(脇屋)義助がたまたま当国(伊予)に下ってきている。彼に威を加えて、早速功績をあげさせるためである。剣を急いで献上せよという帝の御命令があって、勅使として正成がここに参ったのである」という。
 この言葉が終わるか終わらないかのうちに、彦七は庭に出て声のする方に向かい、「今夜はきっとおいでになるだろうと思って、宵のうちからここで待ち設けていた。初めのうちは何でもない天狗華、怪物が化けて出てきたのかと思っていたので、詳しい事情を問わずにいた。いま、たしかに(帝の)綸旨を帯びて来られたと承ったので、本当に楠殿だと信じる気になった。そこで、話が長くなるが、私が不審に思っていることをお尋ねしたい。まず、一緒にやってこられている方々が多く見受けられるのだが、どなたであろうか。また御辺は、六道四生(ろくどうししょう=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天と胎生・卵生・湿生・化生)のどのあたりに生まれ変わっておられるのか。詳しく物語りください」と問うた。

 そのとき、正成は盛長の近くまで降りて来て、「正成とともに来られている方々は、まず先帝後醍醐天皇、護良親王、新田義貞、平忠正、源義経、平(能登守)教経、それに正成を加えた7人である。そのほか、数万人が加わっているが、些末な輩であるので名前をあげるには及ばない」という。〔平忠正は忠盛の弟、清盛の叔父で、保元の乱の際に崇徳院側についたために、清盛に斬られた。源平の合戦、特に壇ノ浦の戦いで敵味方であった義経と教経が一緒になっているのが奇妙でもあり、面白くもある。〕
 盛長は、「そもそも先帝はどの世界においでなのか」と問うと、正成は、「もともと摩醯首羅(まけいしゅら、大自在天)がこの世に姿を変えて現れた方なので、もとの世界に戻られて天魔王となっておいでである」と答える。〔摩醯首羅=大自在天はもともと宇宙をつかさどる神であったのが、この時代には魔王と混同されていたそうである。〕
 先帝に従っている人々はどこに属しているのかと、彦七が問うと、楠は、すべて修羅の眷属となってある時は天帝と戦い、ある時は人間の世界に生まれ変わって、怒りっぽく強情な人になっていると答える。
 それでは御辺はどのような姿におなりであるかと、大森が問うと、正成は、自分も最後の悪念が強かったので、その罪障のために千頭王鬼(せんずおうき)という鬼になって、七頭の牛に乗っている。疑うのであれば、その姿を見せてやろうと、松明を14・5本同時にさっと振り上げると、闇夜がたちまち昼のように明るくなった。

 その光の中で虚空をはるかに見あげると、雲の中に12人の鬼がいて、玉の輿を担いでいる[後醍醐帝は、帝であるから、その姿をあらわさないのである]。その次に護良親王が八大竜王の引く車に乗って従っている。新田義貞が3千騎の兵を率いて先陣をつとめ、源義経が500余騎を率いて後陣を支えている。能登守教経が雲の海に300余艘の兵船をこぎ並べているかと思うと、平忠正が赤旗を靡かせて駆け出てくる。さらに楠木正成は、生前そのままの姿ではあるが、頭の7つある牛に乗っている。このほか、保元平治の乱以後、南北朝時代にいたるまでの戦乱で命を失った武士たちの大群が雲霞のように密集している姿が見えた。

 大森彦七のもっている刀を奪おうとする楠の亡霊と、大森との戦いはこれで3度目だが、まだ決着せずに、これからも続くことになる。『太平記』の作者がどちらにも道理を認めずに、お互いの攻防を多少大げさな筆致ではあるが、客観的に描き出そうとしているのが興味深い。それにしても、怪異を前に一歩も引かない大森彦七の度胸はなかなかのものである。
 前回も書いたように、ここに記されている出来事が歴史的な事実であるとは思えないが、大森彦七の子孫は、その後も伊予の国に住んで、地方の名家として明治まで続くことになる。あるいは、現在でもその子孫という方がいらっしゃるかもしれない。楠正成の子孫と称する人は多いが、どこまで信じていいのかわからないところがある。たとえば、ゾルゲ事件にかかわった尾崎秀実と、その弟で評論家だった尾崎秀樹は正成の子孫だという話である。 

日記抄(4月16日~22日)

4月22日(月)晴れのち曇り、気温上昇

 4月16日から本日までに経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正など:

4月16日
 パリのノートルダム大聖堂で火災があり、尖塔が焼け落ちるなど多大の被害があったという。世界の文化にとっての重大な損失である。以前、国際会議で一度だけパリに行ったことがあり、その時に、見に出かけなかったことが悔やまれる。
 それで思い出したのだが、京都にかなり長く住んでいたのに、豊臣秀吉ゆかりの方広寺の大仏を見ることがないまま、1973年に火事で焼失してしまった。方広寺の木造の大仏は、秀吉時代のものではなく、歴史的にも、美術的にもそれほど価値のないものではあったが、そのうちに見る機会があるだろうと思っていて、不覚をとってしまった(有名な鐘と鐘に刻まれた銘文は見ている)。
 その後、新潟県の上越市に住んでいたことがあり、五智の国分寺に出かけようと思っているうちに、上越を去ることになって、去った後でも訪問する機会はあったのだが、出かけないままにずるずると時を過ごしているうちに、これまた火災で本堂を焼失してしまった。文化財を見る機会は逃してはならない。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』ではイースター・エッグが話題になった。ある女性が復活祭(イースター、Easter)の卵探しのために卵をたくさん染めているのだが、この行事に参加する子どもたちがあまりにも多いので、卵も多くなり、手に負えなくなっている。
It's getting out of hand. (手に負えなくなってきた。)
 イースターはキリストが復活した日とされ、毎年、春分の日のあとの最初の満月の後の最初の日曜日に祝われる。今年は、4月21日がその日に当たる。ローマ教皇グレゴリオXⅢ世(1502‐85、教皇在位1572‐85)がユリウス暦からグレゴリオ暦への変更を行ったのは、暦の上での春分点と天体観測による春分点がずれてきたことが大きな理由となっている。このことからも、イースターの意味の大きさがわかるはずである。卵はキリストの復活の象徴とされ、イースターには絵を描いたりして飾り立てた卵探しをしたり、卵をスプーンに乗せて競争するエッグ・レースをしたりする。
 以前、イースターの季節にロンドンに滞在していたことがあって、道行く人々が「ハッピー・イースター」とあいさつしているのを聞いて、やはり英国はキリスト教国であるわいと感心したのであるが、テレビを見るとアニメーションの「バックス・バニー」をやっていて、イースター・バニー(イースターの贈り物を届けて回るうさぎ)が仕事の量が多くてへばっているので、バックス・バニーが代わりに配ってやるといって、いたずらを始める…というような話を放映していた。キリストの復活を祝う一方で、適当に楽しんでいるのである。

4月17日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie"(フランコフォニーへようこそ)のコーナーで、現在のフランス共和国憲法第2条には
La langue de la République est le français. 
(共和国の言語はフランス語である。)と規定されているが、実はこの条文は1992年に、ヨーロッパ統合が進み、また移民の増加によって国内の多言語化が進む中で、フランスという国のアイデンティティーを確認するために、追加されたのだという。
 日本でこのような趣旨の憲法の修正が行われるかどうか、そういう日が来るかもしれないとコメントされている。

 病院に出かける。建物の前で枝を広げている樹木に、クスノキという説明の札がついているのに気づいた。司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で書いているが、クスノキの自生する北限は神奈川県であると本に書いてあるので、東京都では育たないと思っている人がいるが、東京都でも育つのである。そのことを知って司馬の知人は自分の家にクスノキを植えたという。たぶん、今ではかなり育っているはずである。

4月18日
 各紙の朝刊に、柴山昌彦文部科学大臣が中央教育審議会に小学校における教科担任制の導入(したがって教員免許についての改革を行う)、高校の普通科改革など教育制度の多面的な見直しを求める諮問を行った。諮問の内容を見ていると、もう結論が決まっているような感じがするのが、どうも問題である。最近は学校の先生の長時間勤務が問題になっていて、そのために教師を目指す若者が激減しているという。教育改革は、現場の教師の仕事を見直すということでもあり、仕事の内容や手続きが変わることで、その変化に対応するために時間を取られ、実際にはますます忙しくなる可能性が大きいということを忘れてはならない。

 その一方で、文部科学省は全国学力調査を実施。初めて英語の調査も行われたが、こちらについては結果が出たのを検討してみないと、意見は言えない。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の木曜日の放送は落語をもとにした短い話を放送しているが、本日は『芝浜』を取り上げていた。3代目の桂三木助が得意としていた噺で、魚屋が芝浜の海岸で財布を拾い、大喜びでどんちゃん騒ぎをするが、目が覚めてみると夢だといわれ、心を入れかえて一生懸命に働く…という展開である。かなり長い話を5分でまとめるのには無理があるうえに、かなり大きな間違いが2つあった。一つは、12月31日という日付で、この話が江戸時代の話とすれば、12月31日という日付はあり得ない。もう一つは、魚屋は裏長屋住まいの棒手ふり(店を持たずに、あちこちを売り歩く商人)であって、一生懸命に働いて店を構えるというのが話の大きな構成要素になっているのだが、初めから店を開いているように語っていたのは改悪である。

4月19日
 『日経』朝刊1面のコラム「春秋」に、「昭和」が「元禄」に相当するならば、「平成」は元禄の次の「宝永」だという磯田道史さんの意見が紹介されていた(宝永年間には富士山の大噴火があり、平成年間には東日本大震災が起きた)。この議論をさらに続けていくと、次の「令和」は宝永の次の「正徳」といういことになるという。果たして、令和の新井白石は現れるのであろうか…などと考えるより、一人一人の国民が自覚的な努力を続けることの方が、デモクラシーの時代にふさわしい政治的な行為のはずである。

 『NHK高校講座 古典』は6回にわたり漢の劉邦と楚の項羽の戦いを取り上げてきたが、本日はその第5回で、垓下で漢の大軍に包囲された項羽が包囲軍が楚の歌を歌っているのを聴き(四面楚歌の故事)、形勢が絶望的であることを悟り、最後の酒宴を開く場面を取り上げた。そこで項羽が作ったという詩:「力、山を抜き、気は世を蓋う」というのはあまりにも有名であるが、考えてみると、この詩をだれが語り伝えたのか、不思議なところがある。(『太平記』の楠正成の最後の言葉と同じ。)

4月20日
 『日経』の文化欄に中野稔「松本清張生誕110年」という文章が掲載されていた。松本清張(1909‐92)は、死んだ私の父親よりも6歳年長だから、1世代(以上)上の人であるが、同時代人という気がするので、「生誕110年」などといわれると、私も年をとったものだという感想を持ってしまう。中野の文章は、清張の文学が社会の闇を暴こうとしているところを評価しているが、私は彼の作品では、歴史小説の方が好きである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でなでしこリーグ2部第4節:横浜FCシーガルズと大和シルフィードの対戦を観戦する。大和は神奈川県大和市を本拠地とするチームで、神奈川県下のチーム同士の対決:神奈川ダービーである。試合開始早々、横浜がFW平川選手のミドル・シュートで1点を先行、その後はなかなか得点が挙げられなかったが、後半にCKから坂本選手がシュートを決めて突き放し、さらにFKを長嶋選手が決めて3ー0として、そのまま勝負を決めた。得点者が3人で、しかもそのうち2人は今年新加入の選手ということで、これからの戦いに明るい展望が開けているように思う。

 ヘロン・カーウィック『ミス・シートンは事件を描く』(原書房:コージーブックス)を読み終える。ロンドンで美術教師をしているミス・シートンは自分の名付け親からイングランド東南部のケントにあるコッテージを遺贈されたのだが、なぜか、彼女がコッテージに出かけると、村では事件が続出する。たぶん、1970年代の終わりから1980年代の初めごろという時代設定だと思うのだが、1950年代の英国の映画によくあったブラック・コメディー的な展開のミステリーである。

4月21日
 スリランカの教会・ホテル8施設で爆発事件が起き、200人以上の死者が出たという。事件の詳細については、よくわからないが、あってはならないことであることは確かである。
 SF作家のアーサー・C・クラークは仏教に強い関心を寄せ、晩年はスリランカで生活していた。彼の『海底牧場』では、仏教が世界中で支配的な宗教になるという設定になっているが、彼が仏教の中に見出した人類の平和への願いが、必ずしも実現しているとはいいがたいのは悲しいことである。
 スリランカは(セイロン)は、いろいろな物語の舞台として知られる国で、『今昔物語集』に登場するかと思うと、トマス・モアの『ユートピア』や、トンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』のような近世ユートピア文学にも登場する。セレンディピティーという言葉の起こりとなったセイロンの3人の王子の物語というのもある。そういう平和なおとぎ話の国という認識がテロによって崩されるのは残念なことである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第10節:横浜FC対ジェフ・ユナイテッド千葉の対戦を観戦した。前半、横浜は守備の隙をつかれて、ショート・コーナーから1点を失うが、後半になるとリズムが良くなり、ジェフの守備の乱れもあって、イバ選手が同点のゴールを決め、その後CKから田代選手がゴールを決めて逆転し、さらに17歳(二種)の斉藤光毅選手が左サイドからはシリコンで相手選手を交わしゴールを決めて3点目を奪い、勝利を決定づけた。2日連続で3得点の勝利というのはまことに気持ちがいい。

4月22日
 『日経』朝刊の文化欄に作家の縄田一男氏が「小説が語る元号と時代」という文章を書いて、「大化」から現代にいたる様々な年号と、その時代を描いた歴史小説を紹介している。その中で、南北朝時代は、南朝と北朝がお互いに独自の年号を唱えた(実態はもっと複雑)時代であるとして、この時代を描いた代表的な小説として鷲尾雨工(1892‐1951)の『吉野朝太平記』を挙げているのが興味深かった。吉川英治の『私本太平記』、山岡荘八の『新太平記』がともに、『太平記』の前半だけを取り上げているのに対し、鷲尾のこの作品(第2回の直木賞受賞作である)は、楠正成の子で、正行の弟である正儀を主人公として、『太平記』の後半部分に焦点を当てているようなので(実は読んでいない)、もっと注目されてよい作品であると思う。
 鷲尾の作品では、『若き徳川家康』を読んだだけで、河出文庫に『黒田如水』が入っているのは知っているが、まだ読んでいない。『吉野朝太平記』ほかの作品が富士見書房時代小説文庫に入っているそうなので、探してみようと思っている。
 縄田氏がいろいろな作家のいろいろな作品を取り上げているのは興味深かったが、吉川英治と松本清張の作品が一つも言及されていなかったのは、時代小説の歴史を掘り起こすということからいうと、少し公平を欠くのではないかと思う。

 今週の終わりから「10連休」が始まるので、各種の支払いを済ませたり、預金残高を確認したり、医院で診察を受けて薬をもらったり、片付けておかなければならない仕事がかなりある。4月に入ってから読み終えた本はまだ4冊で、あと8日で7冊の本を読み終えるつもりなのだが、果たしてどうなるか…。

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(3)

4月21日(日)晴れ、気温上昇

 原題をSense and Sensibilityというこの小説は、理性的でいつも冷静にふるまう(Sense = 分別)姉エリノアと、情熱的で感情の赴くままにふるまう(Sensibility =多感)妹マリアンという、対照的な性格の姉妹の、それぞれの恋の行方を描いている。時代は18世紀末から19世紀の初めというところ。物語はイングランド南東部のサセックス州で始まるが、やがて南西部のデヴォン州に移る。
 サセックス州のノーランド屋敷の当主であったヘンリー・ダッシュウッドの死後、ノーランド屋敷の相続人となったジョン・ダッシュウッドは、自分自身と「夫より何倍も心の狭い自己中心的な妻」ファニーの利己心のために、義理の母と、自分の義理の妹3人(エリノア、マリアン、マーガレット)を邪魔者扱いにする。しかし、ファニーの弟であるエドワード・フェラ―ズは心優しい性格で、エリノアと惹かれあっている(ように思われる)。
 ダッシュウッド未亡人は彼女の遠い親戚であるサー・ジョン・ミドルトンの申し出に応じて、3人の娘たちを連れて、デヴォン州のバートン・コテッジという小さな家に引っ越すことにする。そこで、彼女たちは、サー・ジョン・ミドルトンの夫人の母親で世話好きのジェニングズ夫人、サー・ジョンの親友だという無口で重々しい感じだが、思慮深そうなブランドン大佐と知り合う。
 ある日、散歩の途中で大雨にあったマリアンは、転んでけがをしたところを、近所のアレナム・コートという屋敷に滞在中だというウィロビーという青年に助けられる。美男子で情熱的なウィロビーとマリアンとはたちまち意気投合し、自分たち以外の世界には目もくれないという熱愛ぶりである…。その一方で、ブランドン大佐もなぜかマリアンに心を惹かれているようである。

 マリアンのけがが治ると、社交的で世話好きなサー・ジョンは舞踏会や舟遊びなどの様々な催しを開き、ウィロビーも招待されたので、彼とダッシュウッド一家の交際はますます深まっていった。「エリナーは、マリアンとウィロビーが愛し合うようになったことを驚きはしなかった。ただ、もうすこし目立たないように愛し合ってほしいと思った。」(75ページ) その気持ちをマリアンに伝えたのだが、自分の感情を抑えることはよくないことだと信じているマリアンは聞き入れようとはしなかった。ダッシュウッド夫人も、二人の熱愛の様子を「若い男女の情熱的な心に生まれた恋愛感情の当然の結果」(76ページ)だと思っていたので、そのままにしていた。

 エリナーにとって楽しい話し相手になってくれそうな人物はブランドン大佐だけだった。マリアンに無関心な態度を取り続けられている大佐にとって、これは人生で2度目の失恋だということがわかり、エリナーはますます彼に同情した。マリアンは常々、人間は一生に1回しか恋愛はできないと考えているので、大佐はその点からも問題外であるようであった。エリナーはそんなマリアンの「非常識」に眉をひそめていたが、大佐は、「若い人の偏見には愛すべき点があります」(79ページ)と理解を示した。どうも、彼が昔、思いを寄せていた女性は、マリアンに性格も考え方もそっくりであったらしい。

 マリアンとウィロビーの親密な関係にもかかわらず、二人が婚約しているかどうかは、周囲の人間にはわからなかった。マーガレットは2人が婚約しているというのだが、エリナーはそれを打ち明けられていないし、ダッシュウッド夫人もあえてそれを確かめようとしなかった。
 サー・ジョンが計画する催しの1つとして、ブランドン大佐の義兄が所有する屋敷とその庭を見物に出かけようということになった。
 ところが、その当日、出席者全員がサー・ジョンのバートン屋敷に集まって朝食をとっていると、ブランドン大佐宛に郵便が届く。それを読んだ彼は、すぐにロンドンに出発するという。大佐がいなければ、屋敷の見学はできない。しかし、彼が直面している用件は急を要するので、残念だが、見学は取りやめなければならない。
 サー・ジョンの提案で、計画を変更して、田園を馬車でドライブすることになる。まっさきにやって来たのは、ウィロビーの乗っている二頭立て二輪馬車(curricle)で、マリアンがすぐに乗り込み、一番早く出発して、戻ってきたのは最後であった。二人ともドライブを大いに楽しんだ様子であったが、どこに行っていたかについてはウィロビーは口を濁していた。

 好奇心旺盛なジェニングズ夫人は、2人がどこに行っていたかを探り当てていた。それはウィロビーが現在滞在しているスミス夫人のアレナム屋敷であった。(ウィロビーはやがて、この屋敷を相続する見込みなのである。) その話を聞いたエリナーは俄かには信じられず(面識のない人間の家に、その人間の在宅中に入りこむのは失礼だと考えて)、マリアンに本当かと問いただす。
 マリアンは、アレナム屋敷に入ったことを認め、あんなに楽しかったことは生まれて初めてだという。
 「『でも、楽しいことが正しいこととは限らないわ』とエリナーが言った。
 『いいえ、楽しいことは正しいことにきまってるわ。』」(98ページ)とマリアンは自分が正しいことを頑固に主張する。エリナーの言葉に多少は、正しさを認めたものの、やがて、アレナム屋敷でウィロビーと過ごす日々のことを考えて、彼女は嬉しそうに自分の見てきたことを語ったのである。

 ブランドン大佐が突然、ロンドンに出発していったことをめぐって、ジェニングズ夫人はいろいろな憶測を展開したが、エリナーはそれよりも、マリアンとウィロビーが婚約について異様な沈黙を守っていることの方が気になっていた。「たとえ婚約してもすぐには結婚できないかもしれないということは、エリナーにも容易に想像できた。ウィロビーは一応経済的には独立しているけれど、あまり裕福とは思えないからだ。サー・ジョンの推測によると、ウィロビーの地代収入は年6・700ポンドくらいらしいが、彼の生活ぶりは明らかにその収入以上であり、実際、ウィロビー本人がたびたび経済的苦しさをこぼしていた。」(102ページ) 2人の日ごろの行動や考え方と、この沈黙はあまりにも矛盾するものであり、エリナーはそのために、マリアンに婚約について直接聞く気にはなれなかった。

 ダッシュウッド一家に対するウィロビーの思いはますます深まっているようで、彼は毎日バートン・コテッジを訪れ、一家だけでなく、このコテッジにも強い愛着を感じている様子であった。ある日、ダッシュウッド夫人はウィロビーを翌日のディナーに招待し、ウィロビーは午後4時に伺うと答える。(午前中、ダッシュウッド夫人はミドルトン夫人を訪問する約束をしていたのである。)

 翌日、ダッシュウッド夫人はエリナーとマーガレットを連れて、ミドルトン夫人を訪問する。マリアンは用事があるからと同行を断る。ウィロビーと約束があるのだろうと推測したダッシュウッド夫人は、それを認める。
 バートン屋敷から戻ると、バートン・コテッジの前にはウィロビーの二頭立て二輪馬車が待機していた。しかし、予期に反して、マリアンが泣きながら今を飛び出してきて、3人には目もくれずに2階へ上っていく姿が見えた。今には、ウィロビーがいて、スミス夫人にロンドンに出かける用事を言いつけられたという。そしてあわただしく別れを告げて、急いで出ていった。
 エリナーはマリアンの恋の行方を心配するが、ダッシュウッド夫人は当面の難局を乗り越えれば何とかなると楽観的で、その一方でマリアンは何も言わないので、家族のものはあえて、ウィロビーのことを口にしないように努めるのであった。

 ブランドン大佐と、ウィロビーというマリアンを愛する2人の男性が、相次いでロンドンへと去っていき、物語はどうも違う方向に向かいそうである。次回はどのような展開となるか、ご期待ください。それにしても、この物語は、日本でいうと江戸時代の出来事であり、日本とイングランドの(歴史的につくられてきた)恋愛事情の違いの大きさを感じてしまう。
 なお、この作品で婚約というのは、2人の人間が結婚の約束をすることであって、それが表ざたになろうとなるまいと、社会的に認められようと認められまいと、関係ないのである。ためしに手元の英英辞典:Longman Active Study Dictionaryでengagementを調べてみたところ、”an agreement between two people to marry”と書いてあった。
 今回、紹介したエリノアの「楽しいことが正しいこととは限らないわ」というのは、The Penguin Dictionary of Quotationsという名言辞典に記載されているくらいだから、かなり有名なセリフのようである。原文はThe pleasantness of an employment does not always evince its propriety. あることに従事していることが楽しいからと言って、必ずしもその正当さが証明されるわけではない――というのが直訳で、原題の英国人はこんな持って回った言い方はしないだろうと思う。

 少し遅ればせになるが、ダッシュウッド母娘が住んでいるのはcottageで、「小さな家」などと辞書には記載されているが、この小説を読んでいる限りでは、かなり大きな家(少なくとも私の住んでいる2階建ての家よりは大きな家)である。この小説の前回紹介した第6章に、住まいについての描写があったのを省略してしまっていたので、ここで書き添えておく:「玄関を入ると、狭い廊下が家の真ん中を貫いて裏庭に通じている。入ってすぐに、廊下の両側に約9メートル四方の居間があり、廊下を進むと、台所、食糧貯蔵庫、洗濯場などの家事室と階段がある。二階に4つの寝室があり、屋根裏部屋が2つあり、部屋はこれで全部だ。」(42ページ) ちょっとしたものである。現在では、英国の住宅事情も変わってきているし、cottageに住むというのも贅沢になっているようであるが、それでも日本に比べるとゆとりのある住環境であるように思われる。

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』(6)

4月20日(土)晴れ、気温上昇

〔これまでの要約〕
第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議
第4章 アンコール・ワットの死と生(前半)

 梅棹忠夫(1920‐2010)は、1957年から58年にかけて、1961年から62年にかけて行われた学術調査隊の一員として、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスという国々を旅行した。この旅行記はその私的な記録である。
 1957‐58年の学術調査には梅棹のほかに、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学者で医師の吉川公雄、文化人類学者の藤岡喜愛が参加した。タイのバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して、めいめいが発表した後、北タイで熱帯における動植物の生態と、その中で暮らす人々の文化の調査を行うことになるが、それに先立って、自動車の運転の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットを訪問することになった。
 この調査は6人の隊員が3台の自動車に2人ずつ乗り込んで実施されることになっており、J3と呼ばれるハシゴ車には川村と依田、ワゴン車には梅棹と吉川、小回りの利くJ3には藤岡と小川が乗り込むことになった。また、タイのチュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が通訳として参加した。

第4章 アンコール・ワットの死と生(続き)
 カンボジアに入る
 いよいよ、タイとカンボジアのタイ側の国境の町、アランヤ・プラテートを出発し、カンボジアの国境の町であるポイペットに入った。葉山のタイ語のおかげで、比較的簡単に手続きは済んだが、それでも移民局と税関の手続きだけで半日がかかってしまったという。
 カンボジアの人々は、見たところではタイと変わらないように見えると梅棹は記している。「服装も、タイと形は似ているが、腰巻きがはるかに派手である。大きながらの花模様が目立つ。タイの、色彩感覚の無神経さを見なれてきた目には、これは強い印象を与える。」(87ページ)

 道はあまりよくない。そのくせ、道標は「いやに美しく、しっかりしていた。道標は、1キロごとに立っている。そして1つおきに、ローマ字で書いたのと、カンボジア文字で書いたのとが、交代に出てくる。カンボジア文字は、奇怪な蠕虫のおどりのようだ。」(同上)〔クメール文字という方が適切らしい。古い歴史を持つ文字で、611年に記された碑文が最古のものだが、実際に使用されていたのはもっと古いらしい。「奇怪な蠕虫のおどり」というのは、特徴をよく捕えた表現ではあるが、もう少し別の言い方はできないのかなとも思う。〕 シソポンという小さな町で道路は2つに分かれる。1つは、首都プノンペンに続く道であり、もう1つはアンコール・ワットの南にあるシエム・レアップに通じている。
 「カンボジアは…タイよりもいっそう人口希薄である。広大な原野が続く。4キロも5キロもあいだをおいて、小さな村がある。広い屋敷に垣根をめぐらして、バナナの植えこみの中に、床の高い農家の建物が見える。家の型式は、タイとはちがっている。横に長く、正面に階段がある。棟の両端に、小さな塔が立っている。」(同上)

 原野の動物たち
 「広い原野のあちこちに、高さ1メートルばかりの灰色の石が立っている。」(同上) 何かと思って詳しく見てみると、白アリの塔である。ハンマーでたたいてみても、まるで歯が立たなかったという。
 熱帯特有の小型のシカであるムンチャクらしい動物がすばらしいスピードで駆け抜けていく。カンボジアは未開発の自然が多く残っているので、熱帯アジアの野生動物の生態を研究するにはすばらしいフィールドとなるだろうと、梅棹は考える。
 その一方で、広大な沼沢地がスイギュウの放牧場として利用されている。梅棹はスイギュウの大群に圧倒される。
 前日と同様、暗くなってからようやく、シエム・レアップに到着する。

 クメール帝国の栄光
 アンコールの遺跡は、シエム・レアップ市の北にあるが、遺跡の方が、現在のシエム・レアップ市よりもはるかに大きい。遺跡の中ではアンコール・ワットが有名であるが、それはこの遺跡群の中の最も壮麗な寺院であって、他にもアンコール・トム(王城)やバヨンの寺院などのおびただしい遺跡が遺されている。アンコールの規模はパリの4分の3に相当するという。〔石澤良昭『東南アジア 多文明世界の発見』(講談社学術文庫、2018)によると、紀元1000年頃、世界最大の都市であったのはスペインのコルドバでその人口が約45万人、中国・北宋の首都であった開封が約40万人、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のトルコのイスタンブル)が約30万人、アンコール都城が約20万人、そして京都が約18万人くらいだったと推定されるという(同書、29ページ参照)。〕

 「アンコールは、エジプトのピラミッドやインドのタージ・マハルとともに世界の七不思議の一つにかぞえられている。」(90ページ、誰が数えたのであろうか。いろいろな人が七不思議を数えているが、ピラミッドと、タージ・マハルと、アンコールの3つがそろって選ばれている例は寡聞にして知らない。)
 ところが、〔これほどの巨大で壮麗な構築物をきずきあげたクメール帝国はいかなる国であったか。その社会組織や経済的構造については、いまなおなぞに包まれている部分が多い。」(同上)と梅棹は続けている。〔梅棹が、このように書いてから60年以上が経過して、研究によりかなりその歴史は明らかになっている。先ほど紹介した石澤さんの著書は『東南アジア』の歴史という表題であるが、その大部分はカンボジアとアンコール王朝の歴史であることも付け加えておこう。〕

 「クメール帝国」は13世紀になると衰え、北方から進出してきたタイ族に圧迫されて、アンコールも放棄して、東へと移る。とはいえ、現代のカンボジア人はかつて「クメール帝国」を築いた人々の子孫である。「かれらはいまでも、自らの国をクメール国と称し、彼らの話す言語は、今でもクメール語である。・・・アンコールは、現代においてもカンボジア王国のシンボルなのである。」(90ページ) 

 ところが、アンコール・ワットは、長い間、熱帯林の中に埋もれて、忘れられてしまっていた。アンコールの存在を世界に知らせたのは1860年にフランス人の探検家アンリ・ムオーがそれを「発見」してのちのことである。〔このあたりのことは、石澤『東南アジア』の第2章「アンコール王朝発見し物語」に詳しいので、興味のある方はそちらをご覧ください。〕

 梅棹の著書を読み返す一方で、石澤さんの本を探し、関係のありそうな部分を抜き読みして、今回で第4章の紹介を終らせるつもりだったのが、関係がありすぎて、ちょっとばかり抜き読みするだけではすみそうもなくなった。それで、梅棹の一行がいよいよアンコール・ワットを訪問するところから、タイへ帰国するまでの個所は、次回に回すことにした。
 梅棹がこの東南アジア旅行の前に書いた『文明の生態史観』は、歴史について考える時に見逃すことのできない書物だと思うが、石澤さんの著書も、例えば、東南アジアの歴史は、「発展史」ではなくて、「自己充実史」であるという指摘など、やはり無視できないものを含んでいるように思う。 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(15‐2)

4月19日(金)晴れ、気温上昇

 ローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスのたましいによって、ダンテは「暗い森」から助け出され、彼とともに地獄、煉獄という異界を、また「よりふさわしい」別のたましいに導かれて天国を訪問する旅へと出かける。この旅はダンテのたましいを救おうとする天国の貴婦人たちによって企図されたものである。
 こうして2人は地獄の第1圏から第7圏までを歩む。第7圏は3つの冠状地にわかれており、その第3冠状地では生前、男色の罪を犯した人々のたましいが熱砂の上を歩くという罰を受けていた。それらのたましいの中から、ダンテは彼のかつての師、ブルネット・ラティーニのたましいが、彼に声をかける。

 かつて自分が教えたダンテと地獄で再会することになったブルネット・ラティーニは、ダンテが特別の神聖な使命を帯びて異界を遍歴していることを見抜き、彼がその使命を果たすことができるように励ます。その一方で、彼に次のような警告を発する。
 しかし、古代にフィエーゾレから降りて来た
あの邪(よこしま)な忘恩の民は
いまも山と岩の性質を保ちつづけている。
 君が正しきことを行うがゆえに、君の敵となるだろう。
それも当然のことだ。すっぱいナナカマドの実のあいだに
甘いイチジクの実がなる道理はないからだ。
(61‐66行、349ページ) フィエーゾレはフィレンツェ近郊にある山上都市であるが、ローマ時代に反逆者カティリーナを支持したために、破壊された。その住民であったエトルーリア人たちは、ユリウス・カエサルがフィレンツェの町を建設した際に、山から下って、この町に移住したが、山の生活、すなわち、田舎くさく粗野で頑固な性格を保ちつづけたとされる。フィレンツェの道徳的な貴族階級はこの市に植民してきたローマ人の子孫であり、山から下りてきた人々と対立し続けたというのが、中世における伝説である。「以上の話が伝説であることはダンテ自身認めている」と、原基晶さんは注記している(原訳、『地獄篇』229ページ)

 なお、この個所を山川訳では、
されど古(いにしへ)、フィエソレを下りいまなほ山と岩とを含める恩を忘れしさがなき人々
汝の善き行ひの為に却つて汝の仇とならむ、是亦宜なり、そは酢きソルボに混りて甘き無花果の實を結ぶは適(ふさ)はしき事に非ざればなり
(山川訳、95ページ)
 また、原訳では
しかしあの邪悪な忘恩の市民どもは
古代ローマの時代にフィエゾレから降りてきたが、
今も山と岩の習俗を覚えていて、

おまえに対し、おまえの素晴らしき行いゆえに敵となろう。
それもまた道理で、渋いななかまどの実の間に
甘い無花果が実るのはふさわしくないからだ。
(原訳、228ページ) 原文で”li lazzi sorbi"を山川は「酢きソルボ」、原は「渋いななかまどの実」、須賀・藤谷は「すっぱいナナカマドの実」と訳している。わたしのもっている辞書にはlazzoも、sorboも探し出すことができなかったが、ナナカマドの実の成分からソルビン酸という酸が抽出されることを考えに入れると、まあ、たぶん、「すっぱいナナカマドの実」でいいのだろうと思う(日本に自生するナナカマドと西洋ナナカマドは別種だそうだが、そんなことまで付き合っていられない)。”il dolce fico"の方は「甘い無花果の実」で間違いない。

 ブルネットはフィレンツェ市に古の価値を実現しようとするダンテの努力が受け入れられず、彼が孤立するという運命を予言する。しかし、悪に染まったフィレンツェ市民たちから迫害されることは、かえって栄誉となるだろうという。ダンテはこの予言を受け止め、
私の良心が咎めない限り、運命の望む
いかなる巡り合わせも受ける覚悟ができています。
(92‐93行、350ページ)という。
 地獄にいる死者たちのたましいにとって、地上の人々が自分を記憶していることが唯一の慰めであるので、ブルネットはダンテに彼の著作『宝典』を広めるように依頼して、自分の仲間であるたましいたちのあとを追って走り去っていく。
その(走りゆく)姿は、ヴェローナの野で緑の優勝旗を
競って走る人たちのように見えた。その中でも、
 勝者のように見えた、敗者ではなく。
(122‐124ページ、352ページ) 『宝典』はオイル語(中世フランス語)で書かれた、百科全書的な著作だそうである。須賀・藤谷による中は、「勝者のように見えた、敗者ではなく」は、外見は勝者であるけれども、内実としては(地獄にいるのであるから)敗者であると解釈している。

 こうして、ダンテがかつての師と出会い、その師によって自分の運命を予言され、それを心に刻むというところで、第15歌が終わる。〔この詩を書いている時点で、ダンテは予言された、故郷からの追放という運命の渦中にあること、また『神曲』は旅を終えたダンテが書いているという設定になっていることをあらためて思い出してほしい。〕 彼はこの後さらに、第16歌で第3冠状地を移動している別の一群に遭遇することになる 

E.H.カー『歴史とは何か』(11)

4月18日(木)晴れ、気温上昇

Ⅰ 歴史家と事実
 歴史は過去の事実と現在の歴史家との対話であり、相互的な関係にあると著者は論じている。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人ともやはり相互的な関係であることを論じたのち、Ⅰで述べた歴史は過去の事実と現在の歴史家の対話という考え方を、歴史家もまたそれぞれの社会に属する存在であるということから、過去の社会と現在の社会の対話であるという考えを導き出している。

 今回は、「Ⅲ 歴史と科学と道徳」に入る。歴史の中に科学的な法則性が見いだされるかとか、歴史から道徳的な教訓を引き出す、あるいは歴史的な出来事や人物を道徳的に評価するということをめぐっては、盛んに議論されてきたし、いまでもそうである。この章の前半では歴史と科学、後半では歴史と道徳の問題が論じられる。

Ⅲ 歴史と科学と道徳
歴史は科学であること
 歴史は科学かという問題は、英語圏でのみ問題にされる問題であるとカーは述べている。英語以外のヨーロッパの諸言語では、「科学」という語には歴史が含まれているからであるという。〔これはどうも気になる発言である。確かにドイツ語のWissenschaft (科学)は<知識>という意味も含んでおり、それはラテン語のscientiaが「知識」という意味と「科学」という意味の両方を併せ持っていることと関係するのだが、英語のscienceだって、ラテン語のscientiaから派生した言葉ではないかと思うのである。この疑問に答えるかのように、カーは、18世紀の終わりごろからの英語圏における人間の、あるいは社会の「科学」をめぐる論争について概観を始める。〕

 18世紀の終わりごろから、科学的な方法は、人間の社会やその歴史についても適用できるのではないかという議論が展開されてきた[もともと医師であったウィリアム・ペティ(1623‐87)が『政治算術』など社会の分析に統計的な手法を持ち込んだのは、17世紀のことであるというようなことも考え合わせると、カーが関心を持っているのは、主に歴史に科学的な方法を持ち込むという問題である〕。
 19世紀の前半には、ニュートンの影響のもとに、人間の社会もまたシステムであるという考え方が広まった。さらに、ダーウィンの行ったもう一つの科学革命から、
 社会は一つの有機体である
 そして
 進化している
とする考え方が有力になった。

歴史における法則の概念
 自然科学者たちは観察された事実からの帰納によってさまざまな法則を発見してきた。社会に関する研究の領域でも、同じことが可能だと考えられるようになった。このような試みの先頭を切ったのは経済学者であり、グレシャムの法則(「悪貨は良貨を駆逐する」と要約される金本位制のもとでの経済法則の1つで、1560年にトマス・グレシャムという人がエリザベスⅠ世女王にこの趣旨の進言をしたことにより、この名がある。ただし、天文学者として知られるニコラウス・コペルニクスが1528年に書いた書物の中に同じような考えが見られることも広く知られている)やアダム・スミスの「市場の法則」〔スミスの主張のどの部分を指して言っているのか定かではない〕などが提唱された。その後、さまざまな「法則」が提唱されたが、自然科学的な批判に耐えないだけでなく、今日では社会科学者から見ても疑問だらけであるという。

 フランスの数学者〔物理学者でもあった〕アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré, 1854 - 1912)は1902年に『科学と仮説』(La Science et l'hypothèse ) という書物の中で、科学者が作る一般的命題は、さらに進んだ思考を結晶させ組織するために組み立てた仮説であって、それは証明され、変更され、反駁されることを免れないものであると論じた。科学的な探求の目的は厳密な包括的法則を打ち立てることではなく、新しい研究のための道を切り開くような仮説を作り出すことだというのである。
 このようにおおぜいの人々の循環的、あるいは相互的な努力によって発展していくという性格は、自然科学だけでなく、歴史研究についても当てはまるものであるとカーは論じている。

道具としての仮説
 「歴史家が自分の研究の過程で用いる仮説の地位も、科学者が用いる仮説の地位に驚くほど似ている」(85ページ)とカーは考えている。つまり、仮説は研究を発展させていくための「道具」であるというのである。そしてその例として、マックス・ヴェーバーを取り上げ、「プロテスタンティズムと資本主義との関係についてのマックス・ヴェーバーの有名な診断を取り上げてみましょう。以前なら、これを法則だと大騒ぎしたことでしょうが、今日では誰もこれを法則だと呼びません。これは一つの仮説であって、それに刺激されて研究が進むうちにいくらか変更はされましたものの、それがこの二つの運動に対する私たちの理解を広めてくれた点は疑いを入れません。」(85ページ) 〔ヴェーバーはピューリタニズムの役割を重視しているのだが、英国の経済史学者のR.H.トーニーはイングランド国教会の側から、『宗教と資本主義の興隆』という本を書き、イタリアの経済史学者でその後6回も首相になったアミントーレ・ファンファーニは『資本主義の歴史的発展におけるカトリック信仰とプロテスタンティズム』という本を書いている(この本は日本語にも翻訳されているはずであるが、すぐに検索できなかった)。それどころか、キリスト教国ではない、日本における資本主義の発展のエートスを探るべく、アメリカの社会学者ベラーは『徳川時代の宗教』という本を書いて、日本の明治以後の資本主義の発展に果たした、勤労・勤勉・禁欲といった儒教的な倫理の民衆レベルへの浸透の意義を評価している。このようにヴェーバーの影響の大きさには計り知れないものがあるといってよい。〕

 歴史における時代区分も仮説の一種であり、時代区分をめぐる議論も歴史を考えていくうえでの道具をめぐる議論として理解できるとカーは言う。〔ヨーロッパの「古代」の終わりは、西ローマ帝国の最後の皇帝が位を奪われた476年というのが一般的な知識であるが、『中世の都市』を書いたアンリ・ピレンヌのようにもっと後の時代に、転換点を求める研究者もいる。〕 時代区分の妥当性は歴史的な事実の解釈の有効性とかかわっているという。
 歴史における地域区分も同様に仮説の一種である。ロシアをヨーロッパの一部と考えるか、それを否定するかは、その人のもっている仮説によって左右されている。

 科学者が仮説とその実証、証明、変更、反駁の繰り返しを続けていく研究法と、歴史家の研究法の間に本質的な違いはないというのがカーの見解である。

 しかし、歴史は科学であるという考えには根強い反対もある。次回は、その反論と、反論に対するカーの再反論についてみていくことにしよう。

「春暁」――たわむれに訳す

4月17日(水)曇り

 春眠不覚暁
 処処聞啼鳥
 夜来風雨声
 花落知多少

 春眠暁を覚えず
 処処啼鳥を聞く
 夜来風雨の声
 花落つること知る多少

 ついつい寝過ごす 春の朝
 枕元にも 鳥の声
 昨夜の夜は 荒れ模様
 花はどれだけ 散ったやら

 本日は病院で診察を受けた。これまで見てもらっていた医師が転勤になり、他の医師に引き継がれることになっていたのだが、その先生が出張中で、若い医師が代理で診てくれたのだが、これがひどく丁寧で時間がかかった。その後、採血をした。栄養相談は込み合っているとのことで、今回はなしで済ませた。

 東京に出たついでに、神保町シアターで映画(「恋する女優 芦川いづみ デビュー65周年記念スペシャル」)を見た。14:15からの『真白き富士の嶺』(太宰治の「葉桜と魔笛」を原作として、芦川いづみと吉永小百合が姉妹を演じた作品である)を見たかったのだが、開映時間に間に合いそうもなかったので、その後の『白い夏』を見た。(『真白き富士の嶺』のチケットは完売だったそうだ。誰の考えることも同じらしい。) 『白い夏』上映に先立って、芦川いづみさんからのメッセージが放送された。『白い夏』は平凡な映画だが、昭和30年代初めの房総半島の漁村の風物が描き出されていること、主人公を取り巻く2人の女性を演じている芦川いづみと中原早苗がともに、若くて、魅力的だったのが印象に残る。

 疲れて、考え事をしたくないので、ノートをひっくり返して、孟浩然の「春暁」の訳詩を見つけたので、投稿することにした。ほかにも多くの人が、この詩の翻訳を試みているが、この訳では作者が一向に寝床から出ようとしていない様子であるのが、どこか私の性格を反映しているのではないかと思う。 

『太平記』(258)

4月16日(火)晴れ

 暦応5年(この年4月に貞和と改元、南朝興国3年、1342)4月、吉野の朝廷は伊予の国からの要請で、新田義貞の弟である脇屋義助を大将として派遣することになった。義助が四国へ下る途中を守ったのは、備前の佐々木(飽浦)信胤だった。足利方だった信胤は、将軍尊氏の執事として権勢を誇っていた高師直の従兄弟である高師秋の女を奪ったことで、足利方から離反し、南朝方についたのだった。
 義助は、吉野から伊予に下る途中、高野山に参詣した。伊予では、守護の大館氏明、国司の四条有資以下の宮方が、義助の下向によって勢いを得た。

 その頃、伊予の国では世にもまれなふしぎな出来事が起きた。この国に、大森彦七盛長という武士が住んでいた。大胆不敵な性格に加えて、並外れた怪力の持ち主であった。
 建武3年(1336)5月に足利尊氏が九州から攻め上り、新田義貞は播磨(兵庫県西部)から退却して、両者が兵庫の湊川で合戦したときに、大森一族は楠木正成の軍と激しく戦い、正成らを切腹に追いやるという戦功を立てた。このため、他に抜きんでた戦功を立てたことを賞されて、数か所を恩賞として与えられたのである。
 大森彦七盛長は、清和源氏の源満仲の次男で、摂津源氏の祖である頼光の弟、河内源氏の祖である頼信の兄にあたり、大和源氏の祖となった頼親の9世孫、宇野七郎と称した源親治の5世孫を称した。楠正成敗死の次第は『太平記』16巻10に語られているが、あらためてその箇所を読みなおしてみると、大森の名が出てこないのは奇妙である。
 恩賞として伊予の国に所領を与えられたことを喜んで、一族のものが集まって、猿楽(能・狂言のもとになった物まね芸や舞踊)をして楽しもうということで、近くのお堂の庭に桟敷をこしらえ、舞台を組み立てて、飾り立てた。これを聞いて、近隣の老若男女が群れを成して集まってきた。
 どうも気になるのは、湊川の合戦から6年もたっているのに、その恩賞を与えられた祝賀行事をするというのはつじつまが合わないということである。

 彦七もこの猿楽に出演することになっていたので、さまざまの衣装を下人たちに持たせ、楽屋に入ろうとすると、その途中で年の頃17,8歳ばかりの若い女を見かけた。その若い女は赤い袴に柳裏の五絹(表は白、裏は青の襲(かさね)の、五枚重ねの衣(女房の正装)を着て、耳脇の髪を削ぎ揃えていた。月の光を浴びて、なぜか一人でたたずんでいた。彦七は、思いがけず、このような田舎に、なぜこれほどの美人がいるのか、どこから来たのかと、目もまぶしいような思いをしながら、誰の桟敷に入るのだろうかとみていたのだが、この女房は、彦七に向かって、どこへ行けばいいのかを、誰に聞けばいいのかわかりませんと、心細そうに尋ねる。
 彦七は、すでに成人した女が、子どものように何も知らない様子を見せるのはどうもおかしいなと思いながら、それでもその言いようもなく美しい姿に夢中にさせられ、「こちらの方が道ですよ。どこの桟敷に入ろうかなどと考えないで、どこでもいいから空いているところに、お入りなさい」と言って、彼女のあとについて歩む。

 女の様子がいかにも頼りなげで、痛々しく思われたので、これは日ごろあまり出歩くことのない深窓の人であろうと思った彦七は、女に声をかけ、見物席まで背負って入って差し上げましょうと申し出る。女はそんなご迷惑はおかけできませんと一応は辞退したが、やがて彦七の背に負われる。『伊勢物語』6段の芥川の話を思わせる様子である(と、『太平記』の作者は書いているが、冷静に見ると、かなり状況は違っている)。

 思いがけず美女と同行することになった彦七は、心うきうきと足元もおぼつかない様子であったが、半町(1町は、約109メートル)ばかりあるいていくと、あれほどに美しい女房が突然、身長8尺(2.4メートル)ばかりの鬼に姿を変えた。その両眼は、血を溶かして鏡の表にまき散らしたように赤く、上下の歯は食い違って、その口は耳の根元まで広く裂け、眉は漆を何度も刷毛で塗ったようであり、左右に振り分けた髪の中から、5寸(15センチ)ほどの子牛の角に鱗がついて生え出てきた。
 彦七は驚いて、振りほどいて捨てようとしたところに、この怪物は、熊のような手で、彦七の髻(もとどり=髷を束ねた部分)をつかみ、空に飛び上がろうとする。彦七は、剛勇の武士であるので、これに組み付いて、泥深い田の中に転がり込んで、「盛長は怪物と組み合っている。者ども、助けにやって来い」と叫ぶ。既に楽屋に入っていた下人たちが、太刀やなぎなたの鞘をはずし、走り寄ってみると、怪物はかき消すように姿を消し、彦七は田んぼの中に突っ伏している。しばらく様子を見て、引き起こしたが、まだ呆然として落ち着いた様子でもないので、これは尋常のことではないと、その夜の猿楽の上演を中止したのである。

 このような異変が起きたからと言って、せっかくこれまで稽古を重ねてきた猿楽を、上演せずにおくのは惜しいと、4月15日の夜を迎えようというときに、以前に猿楽を上演しようとしたお堂の前に舞台を設営し、桟敷を並べたので、見物人が大勢集まってきた。猿楽の上演が半分ほど済んだ時に、はるかな海上に、猿楽の装束に使う唐笠(広さ8尺程度)ほどもある光物が2・300ほども出現した。夜の漁をする漁師たちの漁火かと思ってみていたところ、そうではなくて、一帯に黒雲が立ち込め、その中から、おそろしい鬼たちが、前後左右に並んで、玉の輿をかついであらわれた。その後に、いろいろな姿で武装した武士たちが100騎ばかり、よい馬を従えて、(輿に乗った人物を)警護している。近づいてきても、輿の上の人物の顔は見えない。黒雲の中でときどき稲妻が光り、猿楽を上演している舞台の近くの森の梢に止まった。

 さて、この黒雲の中から誰があらわれるか…というのは次回のお楽しみということにしよう(見当がついているという方は多いと思うが…)。大森彦七と鬼の対決は、これからしばらく続く。彦七の先祖の頼親の兄・頼光の家臣であったという渡辺綱にまつわって同じような話があるが、それよりも、こちらの方が手が込んでいるので、ご期待ください。すでに何度か指摘しておいたが、この話はどうもつじつまの合わない箇所が見られる。しかし、大森盛長という武士が伊予にいて、足利幕府のために戦ったというのは歴史的な事実である。
 それにしても、怪物が出てくるような事件が起きたにもかかわらず、猿楽の興行をやめないという大森一族のこだわりはなかなかすごい。猿楽という芸能・文化が地方にも確実に根を下ろしているというのは、もう一つの注目点となるだろう。吉川英治の『私本太平記』はその最後のところで、佐々木導誉の生き方は褒めたものではないかもしれないが、彼が愛好した芸能は後世まで残るだろうと登場人物に言わせている。そんなことを思い出すのである(記憶が正確ではないかもしれないが…)。 

日記抄(4月9日~15日)

4月15日(月)晴れたり曇ったり

 4月9日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

4月5日
 この日放送されたNHKラジオ『世界へ発信 ニュースで英語術』は「日本の”幸福度”58位に後退」というニュースを流していた。英語の表題が”Nordic Countries World's Happiest" (北欧諸国が世界で一番幸福)であるから、英語と日本語とで焦点の当て方が違っていることがわかる。
 番組の終わりに講師の高松珠子さんが、日本はどうすれば幸福度で上位になれるでしょうかと問いかけていたが、本文中に北欧諸国の人々が、彼らが自分たちの生活を幸福だと感じている理由として、”because of high-quality social welfare and education" (質の高い社会福祉と教育)と述べていることから答えは明らかである。もっと福祉と教育に国の予算を使ってほしいものですねえなどとコメントできない状況がわれわれを取り巻いているとすれば、困ったことである。

4月9日
 NHKラジオ『まいにちフランス語』の”Bienvenue dans la francophonie" (フランコフォニーへようこそ)のコーナーでは、フランス語がどのようにヨーロッパ以外の世界に広がっていったかが説明されていた。
A partir des grandes découvertes, l'expansion de la France à l’étranger a démarré et sa langue s'est r épandue à travers le monde. (大航海時代以降にフランスは海外進出を開始し、これに伴ってフランス語は世界中へ普及しました。)
 日本では「大航海時代」というが、les grandes découvertesは「大発見」である。フランスが植民地帝国を築く過程で、フランス語も世界各地へと広がっていったということである。

4月10日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで取り上げられた言葉:
I have never met a man so ignorant that I couldn't learn something from him.
    ---- Galileo Galilei (Italian physicist and astronomer, 1564 - 1642)
わたしはこれまで、学べるものが何1つないような無学な人間に、会ったことがない。
 ガリレイの言葉として、一番有名なのは”E pur si muove. (Yet it does move.=でも、それは動いている。) 彼が裁判にかけられて、地動説を撤回することを公言させられた後、つぶやいたとされる言葉である。

4月11日
 司馬光『資治通鑑』(ちくま学芸文庫)を読み終える。
 吉川幸次郎がその師である狩野直喜から「漏れ承った」話として、昭和天皇の弟の秩父宮が結婚されたときに、西園寺公望が「お読みにはなるまいが…」と言って、結婚祝いとして『資治通鑑』全巻を贈ったと書きとめている。

4月12日
 『日経』朝刊の文化欄に、民俗学研究家の水野道子さんが米沢藩士であった先祖が書き残した『孝子百ものかたり』という怪異譚集を現代語訳して出版したいきさつが記されている。この書物の中には、キツネの話が多く、それはキツネが身近に見かけられる動物であったからであろうと推測している。あるお寺の住職が、頭目株の狐が旅行に出かけるというので、巻物を預かり、帰って来てからそのお礼として、茶釜をもらったり、釈尊が説法している様子を見せてもらったりしたという話があるというが、他の地方で同様の話は、タヌキの御礼であることの方が多いのではないか。山形県になると、キツネは出るが、タヌキは出ないのであろう。早川孝太郎の『狐・鹿・狸』など、読み返してみたくなった。

 『朝日』の朝刊に大学の入学式が「黒一色」つまり、学生が皆、黒いスーツで出席することをめぐって、もっと個性を主張することが必要ではないかという議論が取り上げられていた。しかし、私が大学に入学したのは、もう55年ほど前だが、ほとんどみな、詰襟の学生服を着て入学式に参列していたから、やはり黒一色であったのではないかと思う。黒一色であるから、個性が押し殺されているという議論には無理があるのではないか、個性というのはもっと別の場面で発揮するものではないかと思わないでもない。

 NHKラジオ『エンジョイ・シンプル・イングリッシュ』の金曜日の放送は日本文学の古典を取り上げているが、今回は『枕草子』の2回目である。関根麻里さんが『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』が三大随筆といわれることについて触れていたが、岩波文庫の『千載和歌集』を読んでいたら、清少納言の歌に出会ったので、清少納言、鴨長明、兼好の3人の歌が、勅撰集にどのくらいとられているのかを調べてみた。清少納言は15首、鴨長明は25首、兼好が18首ということである。清少納言の歌が一番少ないけれども、彼l女の歌は『百人一首』にとられていることを忘れてはならない。(もっとも兼好は百人一首の成立よりも後の時代の人である。)

 『実践ビジネス英語』のLesson 1: The Benefits of Being Bilingual (6)では”Talk the talk with Heather Howard"として、講師の杉田敏さんとパートナーのヘザー・ハワードさんが対談している。ヘザーさんは娘さんをバイリンガルに育てようとしているのだが、6歳になる娘さんをバイリンガルに育てるための方法として、ヘザーさんは彼女と英語で話す、夫はおよそ70パーセントを日本語で話すというやり方をとっているという。特に気を付けていることとして、
I make a point of not correcting her.
(娘の間違いを訂正しないように心がけています。)
とのことである。いや、すぐに訂正すべきだという意見もあると思うので、その成り行きが注目される。

4月13日
 東海林さだお『シウマイの丸かじり』(文春文庫)を読み終える。『週刊朝日』2014年10月24日号~2015年7月10日号に連載された「あれも食いたいこれも食いたい」を1冊にまとめて、2016年11月に朝日新聞出版から単行本として刊行されたものの文庫化。
 表題のもとになっているのは、新宿の京王デパートの例年の行事である「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」に出かけた次第を描く「牛肉弁当、シウマイ弁当と化す」で、著者独特の屈折したユーモアがもはや名人芸の域に達していることを感じさせる。このほか、「『秋刀魚の歌』のさんまは」、「いつか『大豆感謝の日』を」、「改造版「カリフォルニア巻」」、「複雑な家庭、鱈一家」(鱈とたらこを親子として描いているが、たらこは鱈の一種であるスケトウダラの卵巣なので、厳密にいうとこの設定はおかしい)など、新しい料理や料理法、食材に挑戦する好奇心に加え、食をめぐる人間模様の観察、心理の洞察、擬人化を用いた食物の描写など、東海林さんの食とのかかわりの多様な側面をうかがい知ることができる。

4月14日
 『日経』の朝刊に「若手・技術者 賃上げ厚く」という見出しの記事が出ていた。技術者を目指す若者にとっては明るい希望をもたせる記事であろうが、世の中にはいくら頑張っても技術者にはなれない人も存在するのであって、無理してでも技術者になれというような風潮が沸き上がったら、困ったことになるのではないかと思う。採用条件がいいことと、自分自身のその職業への向き・不向きの両方をしっかり考えて、将来の就職は選ぶべきである。

4月15日
 浅川晃広『知っておきたい入管法 増える外国人と共生できるか』(平凡社新書)を読み終える。日本は世界第4位の移民大国だという事実を踏まえて、入管法改正以後の日本社会についての展望を見通している。「強制退去令書」の書式が示されたりしていて、日本に出入国し、また日本で暮らしている外国人をめぐるいろいろな疑問と、彼らをめぐる法律的な問題にわかりやすく答えようとしている。
 

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読(2)

4月14日(日)午前中は晴れていたが、午後になって雲が多くなってきた。

 18世紀から19世紀へと移り変わる頃の話。イングランド南東部のサセックス州ノーランド邸の当主ヘンリー・ダッシュウッドは2度目の結婚により、エリナー、マリアン、マーガレットという3人の娘があった。彼には先妻との間にジョンという息子がいて、彼の死後、ダッシュウッド家の財産はジョンに継承されることになった。後妻と3人の娘の行く末を心配したヘンリーは、その死に臨んで、後妻であるダッシュウッド夫人と、ジョンの義理の妹である3人の娘たちの面倒をよく見るように言い遺したが、利己的なジョンは、彼に輪をかけて利己的な妻ファニーの意見に従い、ダッシュウッド夫人と3人の義妹たちの面倒を見ようとしなかった。
 ファニーの実弟であるエドワードは、性格のいい青年で、エリナーと惹かれあう。だが、2人の間にはいろいろな障害がありそうである。妹で情熱的なマリアンは、姉よりもすばらしい恋への期待に胸をときめかせている。
 ダッシュウッド夫人の従兄弟であるイングランド南東部のデヴォン州の地主、サー・ジョン・ミドルトンが自分のもっているバートン・コテッジという家に住むことを勧めるので、ダッシュウッド夫人はエリナー、マリアン、マーガレットの3人の娘を連れて、デヴォン州に引っ越すことにする。

 豊かな牧草地に囲まれたバートン・コテッジは、ノーランド邸に比べると貧弱な住まいであるが、4人の家族(と3人の召使)が住むには十分な大きさで、ダッシュウッド夫人はおおむね満足した。
 翌日、一家が引越しの直後の荷物の整理に追われていると、家主であるサー・ジョン・ミドルトンが姿をあらわし、その日のディナーに招待する。社交的な彼の親切は、時として度を超すきらいがあるが、一家にとってはそれほどいやな気になるものではない。さらに翌日には、ミドルトン夫人があいさつに訪れた。彼女は美人で上品な女性であるが、夫ほどの率直さを持ち合わせず、退屈なところがあると思われた。しかし、長男を同行させていたので、一家とも打ち解けて話すことができた。

 サー・ジョン・ミドルトンの邸のディナーに招待された4人は、ミドルトン夫妻のほかに、サー・ジョンの親友だというブランドン大佐と、ミドルトン夫人の母親であるジェニングズ夫人に紹介される。ブランドン大佐は若くもなく、陽気でもないが、落ち着いた感じの人物であり、ジェニングズ夫人は「とても陽気で賑やかな、でっぷりと太った年配の婦人で、おしゃべりが大好きで、とても幸せそうで、少々品がなかった。」(49ページ)  この2人は、物語の展開の中で重要な役割を演じることになる。
 ジェニングズ夫人は裕福な商人の未亡人で、2人の娘(ミドルトン夫人と、この後で登場するパーマー夫人)はすでに結婚しているので、未婚の男女を結婚させることに情熱のはけ口を見出している(善意だがお節介である)。彼女はエリナーとマリアン、特にエリナーがサセックスに恋人を遺してきたのではないかなどと、冗談半分にからかい、それがエリナーには苦痛であったが、マリアンがエリナーを気づかうような視線をその都度向けてくることが、それ以上に苦痛であった。

 ディナーの後、マリアンが歌とピアノが上手だとわかり、みんなからの要望に応えて演奏することになる。彼女の歌とピアノは大喝采を受けたのだが、実際に音楽が好きで、心から楽しむことができるのはブランドン大佐だけらしいと、マリアンは思った。
 目ざといジェニングズ夫人は、ブランドン大佐の様子から、彼がマリアンに恋心をいだいているのではないかと思いはじめる。35歳で独身のブランドン大佐のことを、彼女は一方で心配し、他方でからかう喜びも感じている。
 マリアンは、ブランドン大佐が彼女を好きらしいという話を聞いても、年の差がありすぎると思うだけである(エリナーは19歳、マリアンは16歳か17歳という設定である)。それよりも、姉のエリナーのところに、エドワード・フェラ―ズが訪れてこないことの方が心配な様子である。それにエリナーとエドワードのつきあい方に、一向に情熱的なところが見かけられないのも不満に思っている。

 ダッシュウッド一家はしだいにバートン・コテッジでの生活に慣れ、日常生活のリズムを取り戻していく。ミドルトン一家の、夫は狩猟、妻は育児、そして夫婦での社交以外には、ほとんど無為というのとは対照的な生活ぶりである。
 この2つの家族の住んでいるバートン谷から分かれたアレナム谷の、バートン・コテッジから2.5キロほど離れたところに、立派な屋敷があって、ダッシュウッド一家が昔住んでいたノーランド邸を思い出させるのだが、その女主人は病弱で、世間とあまり付き合おうとしないということで、一家の方から訪問することはできないが、気になる存在であった。

 悪天候が続いた後に、晴れた空が見えたので、マリアンとマーガレットは散歩に出かけた。天気がいいのに気をよくして遠くまで歩いたが、突然、雨が降り出した。雨宿りをしようにもそんな場所がないので、家まで走って帰ろうとしたが、途中でマリアンが転んでしまった。下り坂を走っていたので、マーガレットは止まって彼女を助けることができず、丘のふもとまでたどり着いてしまった。
 マリアンが転んだ時、ちょうど猟から帰ってきた一人の若い紳士が彼女を助けに駆け寄り、彼女が足をくじいて立ち上がれないことを知ると、彼女を抱き上げて丘を下り、家まで彼女を運び込んだ。

 ダッシュウッド夫人は突然、若く、美男で気品にあふれた紳士が娘を連れて家までやって来たことに驚き、また感謝した。紳士は、ウィロビーという名で、アレナム谷に滞在していると名乗り、まだ降り続いている雨の中を去っていった。
 その日、雨が止むと、サー・ジョンがやって来て、マリアンがウィロビーに助けられた一部始終を聞き、ウィロビーがアレナム谷に滞在していると聞いて(マリアンと彼の間にロマンスが芽生えることを予想して)喜んだ。ウィロビーは狩猟と乗馬の名手であるという(マリアンにとってはそれはどうでもいいことである)。ウィロビーはアレナム谷に住む老婦人の親戚で、いずれはその財産を相続することになるらしい。彼自身はソマーセット州(イングランド南西部の州で、バートン谷のあるデヴォン州の北、ブリストルからだと南にある)に自分の小さな家屋敷をもっているという。さらに、かれがミドルトン家で開かれた舞踏会で夜通し踊り続け、翌朝には狩りに出かけたという話を聞いて、マリアンは目を輝かせる。「若い男性はそうでなくちゃ。何をするにも精力的で、節度なんかわきまえずに、疲れなんか知らないってふうでないと」(64ページ)。

 翌朝、ウィロビーはバートン・コテッジを訪問し、ダッシュウッド一家の歓迎を受ける。マリアンを助けただけでなく、ウィロビーが立派な青年だとわかったからである。ウィロビーの方でも、「このお見舞いの訪問中に、この一家の良識、上品さ、家族同士の愛情の深さ、家庭的な暖かさなどをしかと確信することになった。三姉妹の容姿の美しさはあらためて見るまでもなく、きのうひと目見てわかっていた。」(66ページ)

 マリアンとウィロビーは音楽とダンスが好きだという点で趣味が一致することがわかり、二人だけで話に熱中することになった。マリアンはウィロビーの性格と趣味とに魅力を感じたし、ウィロビーの方もマリアンとダッシュウッド一家に魅力を感じていることは明らかであった。二人はお互いに夢=中になるあまり、ほかの人たちへの礼儀を忘れるようになった。特にウィロビーが世間一般の礼儀を無視しがちなことに、エリナーは慎重さの欠如を感じて、心配になるが、マリアンは気にしなかった。

 ブランドン大佐は、ウィロビーと全く反対の性格であったが、やはりマリアンに恋心をいだいていることにエリナーは気づいた。サー・ジョンやジェニングズ夫人はマリアンとウィロビーの方に注意を移していたのだが、彼の気持ちが真剣なものであることにエリナーだけが気づいたのである。彼が立派な人物であることがわかっているので、彼女は大佐が自分の恋をあきらめてくれることを願わずにはいられなかった。大佐が以前に酷い失恋をしたことがあると、エリナーはサー・ジョンから聞いていたので、大佐に尊敬と同情の気持ちを向けたのである。そして、マリアンとウィロビーが大佐を軽んじるような発言をするのが気に入らなかった。

 物語の進行につれて、理性的な姉=エリナーと、情熱的な妹=マリアンの性格の対比が明らかになる。この物語をまだお読みでない方は、これからの展開を予想して見るのも楽しいだろうと思う。蛇足までに書いておくと、翻訳者である中野康司によれば、この物語は、姉妹の各々がそれぞれの三角関係を経験していく展開となるという。マリアンをめぐる三角関係は明らかであるが、エリナーの経験する三角関係はまだ描かれていない。
 映画化作品である『いつか晴れた日に』を見ていると、この姉妹は既に20代に達しているように思うのだが、実は、両者ともにまだ10代である。この時代の英国は小ピットのように24歳で首相になった人が出たくらいだから、いまよりもずっと、大人になるのが早かったということらしい。
 サー・ジョン・ミドルトンは従男爵(baronet, 最下級の世襲位階で、男爵baronの下、ナイトknightの上)ということらしい。ブランドン大佐は退役した軍人であるが、軍人の場合、その階級が退役後も称号として用いられる。ジェニングズ夫人は商人の妻なので、ミドル・クラスに属するが、娘2人は地主(上流階級)に嫁いでいるので、その交際範囲は上流階級(といっても下のほう)が主な対象である。彼女の娘のミドルトン夫人は母親が自分の昔の友人(ミドル・クラス)と付き合うのを嫌がっているという記述もある。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』(5)

4月13日(土)晴れ、温暖

 1957年から58年にかけて、梅棹はタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの諸国を大阪市立大学から派遣された学術調査隊の隊長として訪問し、調査研究を行った。その後、1961年から62年にかけて大阪市大が京都大学の協力のもとにタイに送った学術調査隊にも客員として参加した。調査の目的は熱帯における動植物の生態の研究であるが、人類学的な研究もおこなわれた。この書物は、これらの調査の際に梅棹が経験したこと、考えたことをまとめた個人的な記録である。

第1章 バンコクの目ざめ
第2章 チュラーロンコーン大学
第3章 太平洋学術会議

 参加したのは梅棹のほかに、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学者で医師の吉川公雄、文化人類学者の藤岡喜愛の5人である。6人はタイのバンコクに到着し、調査の準備を開始する。さらに、調査旅行に先立って、バンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加し、それぞれ発表を行ったが、その中で川村の研究は高く評価された。会議の後、一行は自動車旅行の練習を兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットに出かけることにした。この旅行にはチュラーロンコーン大学に留学中の葉山陽一郎が参加することになった。

第4章 アンコール・ワットの死と生
 山見ゆ
 1957年12月5日、午前8時に、一行は調査隊が本部として使用してきた日本新聞処を出発して、バンコク市街を離れ、ドンムアン街道を北上する。
 「農村は、果てしない水田のつらなりである。すべてを水が浸している。ところどころに、かたまって村がある。しかし、例によって水の中だ。村の、家の間から白帆が見える。北へ向かう道路だけが、川の堤のように、小高く、乾いている。道は、完全に舗装されている。交通量はかなりある。」(74ページ)
 ヒンカンというところで北タイに向かう街道から分かれて、東へと向かう。チャオプラヤー河の平原を抜けて、コーラート高原の南縁の丘陵地帯に沿って走る。「山々は、うつくしく、平らに連なっている。」(同上) なお、原文ではメナム河となっているが、チャオプラヤー河に訂正している。

 「山々は、降雨林性の熱帯森林でびっしりおおわれている。山波は、はるかに遠いけれど、その巨大な樹冠のもくもくとした重なりあいが、遠くからでもはっきり見える。」(75ページ) このあたりの観察力は見事なものである。わたしは、バンコクからアユタヤ(ヒンカンよりもバンコク寄りの地点で、西に折れてすぐのところにある)までしか行ったことがない。その時の旅行記を探し出して見ると、次のように書いてあった:「見渡す限りの平野で、田んぼが広がっている。道端に黄色い花をつけた樹木があるのはミモザではないかと思った(後で調べたところではミモザというのもいろいろな植物に対して用いられる呼び方なので、あてにならない)。」 わたしがタイを訪問したのは3月のことで、ミモザは3月ごろに花を咲かせるが、日本の3月とタイの3月では気温が違う。

 一行は車を停めて、目のまえに展開される景色に歓声を上げる。フィールドでの研究をしてきた彼らにとって、都会よりも自然を感じられる場所の方がなじみやすいのである。
 1時過ぎにナコーン・ナーヨックという町に到着する。昼食は食堂に入らず、パンを買って、車を走らせながら、交代で食べる。「2時45分、アスファルトの道は終わり、ラテライトの赤い土の道になる。しかし道は悪くない。いくらかガタガタするけれど、けっこうスピードは出る。50キロで飛ばす。」(76ページ)

 タイは退屈な国か
 梅棹はバンコクで、もう20年もこの地に住んでいるというある日本人から聞いた「タイは、じつに退屈な国ですよ。とにかく、北の端から南の端まで、どこへ行ってもまったく同じ景色なんだから」(76ページ)という言葉を思い出す。それを聞いた時、「ばかばかしい、同じ景色なものか」と思ったと、梅棹は書いている。
 「バンコクを出て100キロもゆかないうちに、すっかり景観がかわってしまったじゃないか。バンコクでは、山がなかったのに、いまは山が見えている。土の色だって、変った。メナム・デルタの黒っぽい色から、湿潤熱帯特有のラテライト系の赤褐色に変った。
 変ったのは、自然景観ばかりではない。人間の生活様式にも、いちじるしいちがいがあらわれてきた。メナムのデルタでは、見わたすかぎりの水田だった。ところが、このあたり、コーラートの丘陵ぞいには、水田は目だって少くなり、畑が展開している。わたしたちはすでに、ちょっと走ったばかりで、熱帯農業の二つの基本的な類型を目にしたことになる。一つは永続的な水田耕作であり、もう一つは、年々土地を転換してゆくところの畑作農業である。」(76‐77ページ)
 タイは決して退屈な国ではないと、梅棹は考える。(退屈だと考えるのは、そう考える人の頭の中身の方であるのかもしれない。)

 テスト旅行 → 移動研究室 → 三菱ジープ
 このアンコール・ワット行きは、自動車を利用する本格的な調査旅行の予備的なテストであるとともに、6人の隊員中、梅棹と吉川以外の4人は、北部タイに立てこもる予定なので、アンコールくらいは見ておいた方がいいだろうという梅棹の配慮も手伝って考えられたものである。

 学術探検隊に自動車を使うというのは既に前例がある。しかし、これまでの多くの場合、自動車は輸送手段であって、荷物と人間を運ぶものと考えられていた。梅棹は、自動車に研究用の備品を積み込んで、必要があればすぐに使えるようにした。また宿泊用の装備も積み込み、移動する研究室、移動する家という役割を持たせることにした。それが梅棹の構想であった。

 この用途に適した自動車として、梅棹は全輪駆動のジープに目を付けた。6人の隊員がそれぞれの車を研究室として使うこと、1人でずっと自動車を運転するのには無理があることから、2人で1台というのが最適であると判断した。ジープを3台買うのは不可能であるから、自動車会社から借用することにして、新三菱からジープを3台借用する許可を得た。

 3単位編成 → ワゴンと「淀君」 → 編隊行進 
 ジープの車種は3台とも違うものを用意してもらうことにした。J3と呼ばれる普通の小型ジープ。それから鍵のかかるドアがついているJ11というデリバリー・ワゴン。更にはJ6と呼ばれるハシゴ付きの台がついていて、5メートル半の高さまで登るようになっている(電力会社が電線工事用などに使うもの)を頼んだ。
 ハシゴ車は、川村と依田に割り当てられた。J3は藤岡と小川のもので、小回りが利くので、ちょっとした走り使いは、彼らの担当になった。J11には吉川と梅棹が乗り込み、他の4人とは別行動でインドシナ一周旅行に出かけることになっている。
 3台はそれぞれが独立した存在で、テント、炊事道具、バケツ、昆虫採集用具、タイ語の教科書など、1台ごとに1式を揃えた。
 それぞれの車には愛称を募集したが、ほとんど応募がなく、けっきょく、ハシゴ、J3、ワゴンという恐ろしくドライな名前で呼ぶことに落ち着いた。
 土埃で前を走る車が見えなくなるほどであったが、気をつけて走る以外には手だてはなく、日が暮れて、午後6時、真っ暗になる寸前に、国境の町であるアランヤ・プラテートに到着し、ホテルに一泊する。名前は仰々しいが、「実質は小さな木造のはたご屋である。」(86ページ) 台風に水浴びをする。「タイにはふろはない。」(同上)

 翌日、一行はいよいよカンボジアに入国するが、カンボジアでの見聞を記した箇所は、次回に紹介することにする。自動車を移動研究室にするというアイデアは、梅棹らしいものであるが、自分の目の前に展開している者を観察し、その特徴を捉えていく能力はそれ以上にすばらしいものではないかと思う。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(15‐1)

4月12日(金)曇り

 1300年のこと、「暗い森」に迷いこんだダンテは、彼のたましいを救うために天国の貴婦人たちの願いによりやってきたローマ時代の詩人ウェルギリウスのたましいとともに、地獄と煉獄、そしてその後、「よりふさわしいたましい」に導かれて天国を歴訪する旅に出発することになる。
 「われを過ぎるものはみな、すべての希望を捨てよ」(第3歌第9行、45ページ)と記された地獄の門を通り、彼らは地獄を流れるアケローンの川岸に到着、その後、地獄の第1圏であるリンボへと下る。地獄は地中にあり、第1圏から第9圏まで9つの層からなっているが、次第に狭くなり、第9圏がいちばん狭い。リンボでは、洗礼を受けずに死んだ幼児や、正しく生きた異教徒たちのたましいが静かに時を過ごしている。
 第2圏では愛欲の罪、第3圏では食悦の罪、第4圏では貪欲・浪費の罪、第5圏では高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯したたましいたちがその罰を受けている。
 第5圏を形作っているステュクスの沼を渡り、2人はディースの城に入ろうとして、悪魔たちに前途を阻まれるが、天の使いが現れて、彼らを先に進ませる。ディースの城は地獄の第6圏で、異端の罪を犯したたましいたちが罰を受けている。第7圏は3つの冠状地に分かれ、第1冠状地では暴力、第2冠状地では自己破壊(自殺・蕩尽)の罪を犯したたましいたちが罰を受けていた。ダンテとウェルギリウスは、第3冠状地にやってくる。

 いまや、堅固な堤の一方の上を私たちは進み行く、
その上には小川の靄がうっそうとかかっていて、
火の雨から水[小川]と両の堤を守っていた。
(1‐3行、346ページ) その堤は、地上にあるフランドル人やパードヴァ人たちが築いた堤防に似ていたが、高くもなく、厚みもなかった(その上を1人の人間が歩いていけるだけの幅しかなかった)。

 そのとき私たちは、岸[堤]に沿ってやって来る
たましいの一群に出会った。その一人一人が
新月の夕方、互いの顔を
 見合わせるように、私たちをしげしげと眺めるのだった。
そして、眉を寄せて私たちに目を凝らす様は、
老いた仕立屋が針の穴に糸を通そうとする時のようであった。
(16‐21行、347ページ) 第7圏の第3冠状地で罰を受けているのはこの世で男色の罪を犯した人々のたましいであった。彼らは絶え間ない動きを科せられている。「堤の上を歩いて行く者たちがいるという前代未聞の光景に、魂たちが好奇心に駆られて眺め入っているが、その見つめ方は他の地獄の囚人たちとは違う独特のものである。」(注釈、353ページ)

 そのようにせわしなく移動しているたましいたちの一人が、ダンテの姿を認め、
・・・わたしの服の裾を
捉えて叫んだ。「おお、なんという奇跡!」
 私に伸ばされた腕に驚いた私は
その焦げただれた容貌をじっと見つめた。
顔が焼け焦げていようと、
 彼が誰であるか見過つことはなかった。
私は手を彼の顔に差し伸べて答えた。「ブルネット先生、
あなたがここにおいでなのですか」
(23‐30行、347ページ) そのたましいは、ダンテの同時代のフィレンツェの偉大な知識人ブルネット・ラティーニ(1220年ごろ‐1294)であった。注釈で引用されているジョヴァンニ・ヴィッラーニの『年代記』の記述によれば、「フィレンツェ人を教化し、フィレンツェ人に話法を教え、知を施し、政治学に従ってわれわれの政府をいかに支え導くべきかを教えた師であった」(354ページ)という。彼は父親のような家族的な親密さをもって生徒と交わる人物として、ここで回想され、描き出されている。その偉大な先生が、このような場所にいらっしゃるとは、という信じがたい不釣り合いにダンテが驚き、残念に思う気持ちが、ここで使われている敬称のvoiに現れていると、注釈されている。(現在のイタリア語の二人称の敬称はLeiである)。 

 ラティーニは、彼がともに移動していた群れからはなれて、しばらくダンテとならんで歩むことを望む。ダンテは堤を降りて、さらにしばらく並んで座って、ラティーニと話したかったが、地獄の決まりがそれを許さないことを知り、弟子は堤の上を、師は堤の下を歩きながら、会話を続ける。ダンテは「せめてもと/尊敬をこめて歩く人のように頭を垂れて進んだ。」(44‐45行、348ページ)
 ラティーニはダンテに、なぜこのようなところまでやってくることができたのかを問い、ダンテはこれまでの経緯を語る。

 すると彼は私に向かっていった。「もし君が自分の星に従うならば、
君は必ず栄光の港につくことができる。
もしうるわしの世[現世]で私が君について感じたことが正しければ、
 もし私があれほど早く死ななかったら、
天がこのように君をひいきにしているのを見ていた以上、
君の仕事を励ましたことだろう。
(55‐60行、349ページ) ダンテが生きて、地獄を訪問しているのは、不思議な天の意志に導かれてのことであり、ラティーニはそのことを見抜いて、彼を励まそうとしている。「栄光の港」は天国のことである。

 2人の会話はさらに続くが、今回はここまで。第10歌で、ダンテは自分の先輩であり、親友でもあったグイード・カヴァルカンティの父カヴァルカンテを地獄に置き、ここでは自分の師というべきブルネット・ラティーニをやはり地獄に置いている。両者に対して、敬称を使っているという注記はもっともだとは思うが、どうもあまりいい趣味ではない。 

E.H.カー『歴史とは何か』(10)

4月11日(木)晴れのち曇り。

〔これまでの概要〕
Ⅰ 歴史家と事実
 歴史家は過去の事実とどのように向き合うかという問題をめぐり、歴史は過去の事実と現在の歴史家との対話であり、その関係は相互的なものであるという見解を述べている。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人の関係も相互的なもので、どちらか方に優先するというものではない。個人の性格が歴史に及ぼす影響力を過度に重視すべきではない。

歴史における数の重要性
 カーは歴史家としての経験に基づいて、2つの事柄が重要であるという。
 その第1は、歴史は、ある程度まで数の問題であるということである。カーライル(Thomas Carlyle, 1795- 1881)は『英雄崇拝論』(On Heroes, Hero‐Worships, and The Heroic in History, 1841)を書いて、その中で「歴史は偉人の伝記である」(The history of the world is but the biography of great men.と言ったりしたが、彼のもっとも偉大な著書である『フランス革命史』(The French Revolution, A History,1834)では次のように述べている:
 「2500万の人々を重たく締めつけていた飢え、寒さ、当然の苦しみ、これこそが――哲学好きの弁護士や豊かな商店主や田舎貴族などの傷つけられた虚栄心とかチグハグな哲学とかでなく――フランス革命の原動力であった。どこの国のどんな革命でも同じことであろう。」(69ページ)
 この言葉を裏書きするように、ロシア革命の指導者であったレーニンは次のように述べたという:
 「政治は、大衆のいるところで始まる。数千人がいるところでなく、数百万人がいるところで、つまり、本当の歴史が始まるところで始まる。」(同上)
 多かれ少なかれ無意識的に協力し、一つの社会的な力を形作っている諸個人の影響力は無視できない。彼らが不満をいだくときに、社会は姿を変える。すべての社会的な運動には少数の指導者と多数の追随者がいるが、その多数の追随者の存在が重要なのである。

人間の行為が生む不測の結果
 第2の問題は、人間の行為はその人物が当初に意図したような結果を生み出さないことがよくあるということである。さまざまな異なる思想の持ち主が、共通してこのことを述べている。
 アダム・スミスの「見えざる手」、ヘーゲルの「理性の奸計」は、個人の方は自分の欲望を満たしているつもりなのに、その自己は客観的に見れば社会のために働き、その役に立っているということである。〔このあたりの清水の訳分は、意味がとりにくいので、自分なりに解釈して書き改めた。〕
 マルクスは『経済学批判』の序文で「生産手段の社会的生産において、人間は自分たちの意志から独立な一定の必然な関係に入りこむ」(71ページ)と書いた。個々の労働者あるいは従業員は自分の生計を立てるために働いているのであるが、それが国家社会の経済活動の中に組み込まれているというわけである。
 トルストイは『戦争と平和』の中で次のように書いている:「人間は意識的には自分のために働きながら、人類の歴史的な普遍的な目的を達成するための無意識の道具になっている。」(同上)
 さらにカーは、この書物の中に何度か登場してきた歴史家のバターフィールドの言葉を引用する:「歴史的事件というものには、誰ひとり欲していなかった方向へ歴史の方向をねじまげるような性質がある。」(71‐72ページ)
 この言葉には、多くの人々が平和な繁栄した社会が続くことを望みながら、2度にわたって戦争を、また世界大恐慌を経験しなければならなかった世代の人々の実感が籠っている。
 社会は全体として同質な人々の集団ではなく、利害関係の対立する多くの集団を抱えている。その利害関係の対立から、意図せざる結果が生み出されることになるとカーは指摘する。個人の行為の背後にあるものは、その人間の意図とは別のものであるかもしれないことを、歴史家は見ていく必要があるという。

叛逆者をどう見るか
 社会には利害関係において対立する諸集団があるという観点から、カーは歴史における反逆者あるいは異端者の役割について議論を展開していく。「どんな社会にしろ、全く同質ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向かって自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。」(73ページ) 
 中世のイングランドでリチャードⅡ世に対して反乱を起こしたワット・タイラーにしても、近世のロシアでエカテリナⅡ世に反乱を起こしたプガチョフにしても(プガチョフの反乱をめぐっては、プーシキンが『大尉の娘』という小説を書いている)、彼らに従う大衆がいたから、反乱を起こしたのだということを見落としてはならない。
 思想的な反抗者であるニーチェの場合でも、(時代的には少し遅れるが)やはりその思想を受けいれる社会的な基盤が現れたからこそ、その思想の意義が認められるようになったのである〔この点をめぐっては、ハンガリーのマルクス主義哲学者ジェルジ・ルカーチが『理性の破壊』で述べている、資本主義が発展して、形成された財産の利子で生活する余裕がある社会階層が生まれたことと結びつける説明の方が説得力がある〕。

偉人をどう見るか
 叛逆者が歴史において果たした役割は、どこか偉人の役割と似たところがあるとカーは言う。偉人もまた社会的存在である。「偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した社会的現象なのであります。」(75ページ)
 カーは、ヘーゲルの次の言葉が、歴史における偉人の存在をよくまとめているという:
 「ある時代の偉人というのは、かれの時代の意志を表現し、時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することの出来る人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである。」(76‐77ページに引用)
 ヘーゲルは、別の本のなかで、歴史とともに歩んだ英雄の例としてナポレオンについて言及しているが、この点ではカーは少し意見が違っていて、ナポレオンやビスマルクのように既存の力に依拠して偉大な仕事を成しとげた人物よりも、クロムウェルやレーニンのように既存の態勢を打倒して新しい体制を築いた人々の方に創造性を認めるといっているが、クロムウェルの創始した制度も、レーニンの創始した制度も、その後姿を消していることを考えると、これは何とも言えない(そういえば、北アイルランドのベルファストにクロムウェル・ストリートという道路がある)。そしてカーは「偉人とは、歴史的過程の産物であると同時に生産者であるところの、また、世界の姿と人間の思想とを変える社会的諸力の代表者であると同時に創造者であるところの卓越した個人である」(77ページ)と自分自身の定義を述べている。

 Ⅰの終わりでカーは、歴史は過去の事実と現在の歴史家との対話であると述べたが、それを社会と個人の関係を掘り下げることによってさらに詳しく定義しなおし、歴史は過去の社会と現在の社会(に生きる歴史家)との対話なのであって、個人としての歴史家はその社会に影響されながら、また社会を変えようとしながら、歴史研究に取り組んでいるのだと述べている。 

 これでⅡ「社会と個人」が終わり、次回はⅢ「歴史と科学と道徳」という問題に取り組むことになる。
 

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(10)

4月10日(水)雨、寒さが戻ってきた。

 第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
 第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 第3章 沼尻の合戦 天正12年
 第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
 第5章 合戦の中に生きる人びと
 第6章 沼尻の合戦後の東国
 第7章 秀吉による東国の戦国処理
 第8章 「豊臣の天下」と「北条の夢」
  1 足利事件と「惣無事令」
  2 「御赦免」の影響

 戦国時代は、天正18年(1590)に行われた豊臣秀吉の小田原攻め→北条氏の滅亡をもって終わったと一般に考えられている。その小田原攻めの発端になったのは、天正17年の上野国名胡桃城(群馬県利根郡月夜野町)奪取であったとされるが、著者である齋藤さんはこれに異を唱え、天正12年(1584)に下野国南部で小牧・長久手の戦いと連動する形で、関東制覇の夢を追う北条氏と、北関東の領主たちのあいだで行われた沼尻の合戦の意義を重視する。この合戦の一方の当事者である北関東の佐竹義重や宇都宮国綱らと連絡を取っていた豊臣秀吉が、織田信雄、徳川家康に続いて、北条氏直も「赦免」し、豊臣政権下に取り込もうとしていた最終局面において起きたのが名胡桃城事件であったと考察している。「天正18年の小田原城攻めという大きな合戦を経なくても、関東は確実に豊臣政権に帰属していた。」(5‐6ページ)という。
 この書物の紹介も、今回が最終回となるが、第8章の3「豊臣秀吉の沼田裁定」はまさに、この名胡桃城事件にいたるまでの動きを追う内容である。

 3 豊臣秀吉の沼田裁定
 沼田問題
 天正16年(1588)11月の段階で、北条氏規が徳川家康の家臣である酒井忠次に送った書簡には、北条氏政が政務からは引退したと言って、秀吉の上洛催促に応じようとしないことに困惑しているという趣旨が記されている。ほぼ同じ時期に秀吉、家康が小田原に使者を派遣し、「沼田問題」、上野国内にある真田(昌幸)領の帰属問題についての北条方の回答を促している。
 これまでの経緯を整理すると:
 天正10年(1582)に北条氏直と徳川家康が戦った若神子の合戦の結果、甲斐と信濃は家康の、上野は北条の「手柄次第」(つまり自力で切り取ることを認める)ということになった。この戦いを最終的に家康が有利に終えることができたのは、上野北部にも勢力を持つ真田昌幸の功績が大きかったのだが、そのことを家康が軽んじて、上野における北条の切り取りを認めたために、昌幸はいったんは臣従した家康から離れ、上杉景勝や秀吉を頼り、所領の維持を図ることになる。氏直は沼田を何度も攻めるが、陥落させることができなかった。
 天正14年2月に秀吉が信濃の国の「矢留」を発し、昌幸はこれを受け入れ、家康に再び帰属することになった。一方で、家康と北条氏の間の若神子の戦いの和議の際の協定があり、他方で国郡の境目は秀吉の裁定という方針があったので、秀吉は上野国内の真田領について、両者の言い分を聞いたうえで、裁定を下すことを求められた。

 秀吉は北条方に有利な裁定を下す所存であったようである。問題に詳しい北条家臣として、板部岡江雪斎(1536‐1609)が上洛して事情を説明した。江雪斎は、若神子の合戦後の協定の内容について具体的な説明を行った。そして上洛の最中に沼田問題についての裁定が下された。
 上野国内真田領のうち3分の2は沼田城につけて北条氏政・氏直に割譲、残る3分の1の所領は城ともども真田昌幸に安堵。割譲する3分の2に相当する所領を家康が昌幸にあてがうという裁定であった。〔ということは、沼田城は北条に帰するが、その西の名胡桃城は真田に残すということのようである。〕

 ただし、この裁定には秀吉から条件が付けられた。「北条上洛」すなわち、氏政・氏直のどちらかが上洛することを約束する一札を提出することである。この一札の提出を受けてから、秀吉は上使を下向させ、境目を確定するというものであった。江雪斎がこの交渉の途中で細川幽斎(1534-1610)の歌会に出席していることで示されるように、敵対関係は薄らぎ、前途は楽観されていたようである。〔秀吉の裁定は予想通り、北条に対して有利なもので、無理難題を突き付けるという性質のものではないように思われる。〕

 「一札」と上使下向 → 北条氏政上洛せず
 北条側からの一札は即座には提出されなかった。天正17年(1589)6月5日に、北条氏直がようやく豊臣家の交渉窓口に書状を出す。「北条氏政が極月(12月)に小田原を出立する」というものである。22日には、上洛に伴う人数と負担金の手配が北条家でなされている。「一札」が提出されたので、秀吉からは沼田城を含む真田領3分の2を引き渡す上使が下向することになった。その命令は7月10日に発せられている。引き渡しは無事終了し、関東における「豊臣の天下」の完成まで、残すは北条氏政の上洛を残すだけとなった。

 北条氏政の上洛は、確実に準備されていた。領内に上洛資金の割り当てをする文書が残されているようである。しかしその準備は遅々としていて、危機感がない様子であった。一方、豊臣側では、上洛を待ちながらも、北条との戦いの準備も始めていた。

 小田原合戦への道
 天正17年11月の初めに、北条方の軍勢が真田の城一か所を攻め取ったと徳川家康の家臣である松平家忠がその日記に書き記している。これが名胡桃事件である。〔この経緯は盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書)にもっと詳しく記されている。また、名胡桃事件は北条氏邦の家臣の猪俣邦憲が起こしたとされるが、彼の独断で起きた事件とは思えず、真相は謎である。〕
 「北条家の誰かが最後の一歩のところで「北条の夢」を思い出したのであろうか。」(197ページ)と著者は書いている。

 この知らせを受けた秀吉は激怒した。11月の下旬に秀吉はこの事件の被害者である真田昌幸宛てに「たとえ氏政の上洛があったとしても、名胡桃事件の当事者の処罰がなければ北条を赦免しない」という趣旨の朱印状を送っている。〔秀吉としてみれば、裁定は最大限の譲歩のつもりだったはずである。それを踏みにじられたのだから、怒り心頭というのはよくわかる。秀吉はあまり怒らないが、怒り出すと手の付けられなくなるタイプの人間だったのではないか。そういう性格の人は、少なくないので、身近にいる人は、気をつけるが、北条の方ではそういうことに鈍感であったということであろうか。〕

 「ところが、そこに輪をかけて北条の不手際が加わった。〔朱印状が出された11月21日の〕翌22日に北条氏政・氏直からの使者石巻康敬(いしまき・やすまさ、1534-1613)が到着した。この使者は名胡桃事件の弁明の使者であった。使者だけが送られ、約束の氏政の上洛がなかった。このことに秀吉は激怒した。一時は使者石巻を誅罰せよとまで命令してしまう。」(198ページ) 
 大名間の戦争は禁止するという惣無事令に違反して、真田昌幸の属城である名胡桃城が乗っ取られたこと、北条氏政が上洛しなかったことが、小田原との開戦の理由となった。齋藤さんはこの点では氏政に同情的で、氏政は上洛の準備をしていたのだが、名胡桃事件に激怒した秀吉はもはや氏政の上洛を受け入れるつもりにならなかったとしている。
 11月24日に秀吉は氏直宛てに朱印状を送り、宣戦を布告する。上方の軍勢の出陣は翌年の2月10日、秀吉自身の出馬は3月1日。北条氏直が降伏を申し出たのが7月5日、6日に小田原城は開城し、11日に北条氏政・氏照兄弟が切腹して、戦国大名小田原氏は亡びる(北条氏規は大名として生き残り、その他、徳川幕府の旗本や、諸大名の家臣として、また帰農して生き延びた者は少なくない)。

 齋藤さんはこの後、「一通の手紙」という一節を付け加え、氏政の上洛に同行するはずだった北条家臣の小幡信定と、当時は豊臣秀次に仕えていた原一義という2人の武士の間に取り交わされた書信について語る。2人はもともと武田家臣として同僚だったが、その滅亡後、離れ離れになっていたのである。彼らが手紙で期待していた京都における再会はかなわなかったようである。
 「小田原での合戦で勝者に属した原一義のその後はわからない。豊臣秀次のその後を思えば、彼の生涯は平坦ではなかったろう。敗者に属した小幡家はその後、前田利家に仕えていた。
 時の勝者に影響されつつも、彼らは彼らの道を進み、政治の変化と同調せずに、新しい時代を迎えていた。自らの判断で選択した道を生きて。」(201ページ)

 確かに、この書物を読んでいて、気になるのは脇役というよりも、端役として登場している人物の運命である。調べてみると、その中でも私の身近に感じられる人物が何人かいるので、取り上げてみよう。
 真田昌幸はその生涯において一度も負けたことがない武将であるから始末に負えないというようなことを徳川家康が言っている箇所が山岡荘八の小説の中にあったと記憶する。真偽のほどは定かではない。私が勤めていた大学で、他の学部のある先生と話していたら、自分は真田昌幸・信之の子孫であるという話をされたことを記憶している。その人は真田という姓ではなかったから、真田家から他家に入った人の子孫ということであろう。
 板部岡江雪斎は鎌倉執権北条氏の最後の得宗高時の次男・中先代時行の子孫であるといわれる。もともと田中姓であったが、氏政の命により、板部岡の名跡を継いだ。北条氏の下で右筆・評定衆・寺社奉行として活躍、また外交にも手腕を発揮した。若神子の戦いの後の和議にも関わったので、この問題を説明するには適任であったと思われる。彼は詩歌や茶道にも造詣が深い文化人であり、上洛の際には秀吉にその人物を見込まれ、秀吉は手ずから茶をたててふるまったという。北条氏滅亡後は姓を岡野と改めて、秀吉のお伽衆となったが、秀吉の死後は自分の息子が家康に仕えていたことから家康に接近、関ケ原の戦いの際には小早川秀秋に東軍に寝返るように説得にあたったという。子孫は徳川幕府の旗本として、長津田、淵野辺の領主となった。彼の愛刀である江雪左文字は家康に献上され、その後紀州徳川家のものとなり、現在はふくやま美術館に所蔵されているそうである。
 横浜駅西口から三ツ沢グランド方面に向かうバスに乗ると、最初の停留所が岡野町である。この地名はこの一帯を埋め立てた保土ヶ谷の豪商であった岡野家に因んでいるという。保土ヶ谷の岡野家は、旗本の岡野家とどのような関係にあるのかというのが、年来いだいている疑問で、どなたかご存知の方がいらっしゃればご教示ください。
 損な役回りを演じた石巻康敬は、処刑は免れたものの、小田原に帰る途中で捕えられて、幽閉され、のちに本多正信の推挙によって徳川家康の家臣となる。彼の領地は現在の横浜市泉区にあったといい、その墓は横浜市登録地域文化財になっているそうである。
 戦国時代がどのような時代であったかを、その終末期の関東での様相を追いながら、具体的に描き出した書物であり、著者が「あとがき」で謝意を捧げている峰岸純夫さんの関東の戦国時代の始まりを描いた書物とともに、この問題に興味を持つ人々にとっては見逃すことのできない著書である。北関東に焦点が置かれているが、南関東の人間としても面白く読むことができた。著者が、その後の研究を踏まえて書いた「補論」が付け加えられているのだが、この部分についての論評は省いたことを付記しておく。

『太平記』(257)

4月9日(火)晴れ、温暖

 暦応5年(この年4月に康永と改元、南朝興国3年、1342)、吉野の朝廷では伊予の国(現在の愛媛県)からの要請で、新田義貞の弟の脇屋義助を大将として下すことになった。義助が四国へ下る途中を守ったのは、備前の佐々木(飽浦)信胤だった。足利方として行動していた信胤は、幕府で将軍の執事として権勢を誇っていた高師直の従兄弟にあたる師秋の女を奪ったことで、足利方から離反し、南朝方についたのだった。

 今回から第24巻に入る。第24巻は、第23巻に続いて、脇屋義助の行動を語るところから始まる。
 『太平記』の作者は暦応3年と記しているが、歴史的な事実としては暦応5年の4月3日、脇屋義助は南朝の後村上帝の勅命を受けて、西国征伐のために、まず伊予の国に下向することとなった。
 越前にいたころに義助が従えていた兵はかなり多かったのだが、越前、美濃の合戦に敗北したときに散り散りになったり、吉野へと落ち延びる最中にはぐれてしまったりで、吉野にたどりついた時には500騎に満たないほどに減っていたのである。

 さて、吉野をあけがたに出発して、紀州へと続く道を西へと進んだが、途中、高野山を通り、長年、高野山に参詣して来世で仏と出会う機縁を結ぼうと考えていたので、金剛峯寺に立ち寄り、仏を拝するとともに、源平の合戦時代にこの寺の周辺で起きた様々な出来事に思いを寄せるのであった。

 高野山から再び紀州路をたどり、紀州の千里浜(和歌山県日高郡みなべ町の海岸)を通りすぎて、田辺(現在の田辺市)の宿にたどりつき、ここに4,5日滞在して、渡海のための船を調達しようとした。すると、南朝方に心を寄せる熊野の新宮(熊野速玉大社)別当(長官)である湛誉、(有田郡湯浅町出身の武士である)湯浅入道定仏(俗名宗藤)、熊野の武士である山本判官、東四郎、西四郎らが、馬や武具、弓や、太刀、なぎなた、それに衣類となる布や兵糧米までも、競って運び込んできたので、船出の準備は十分に整ったのである。

 こうして順風が吹き始めたので、田辺に集まってきていた熊野の水軍の武士たちが、兵船300艘余りをこぎ出して、義助の一行を淡路島の南の武島(現在の兵庫県南あわじ市沼島=ぬしま)へと送った。この島には、安間(あま)、小笠原の一族が勢力を張っており、ともに宮方に心を寄せ、この地に城郭を構えていたので、義助一行を迎え入れて手厚くもてなしただけでなく贈り物をして、200余艘の船を揃えて、一行を備前の国の小豆島へと送った。以前にも書いたが、小豆島は現在は香川県に属しているが、古くは備前の国に属していたのである。
 小豆島には、新たに南朝に帰順した佐々木(飽浦)信胤と梶原三郎がいたが、備前の本土から移って来たばかりで、ほかに味方する武士もいなかったので、大きな船100余艘で、4月23日に伊予国今張の浦(愛媛県今治市、伊予の国府があった)に送りつけた。

 伊予の大館氏明は新田一族の武士で、後醍醐帝が比叡山から京都に戻られたときに、義貞とともに北国に赴くのではなく、帝に従って京都に赴き、足利方に降伏していたのであるが、後醍醐帝がひそかに京都を脱出された際に、それを聞いて直ちに吉野に駆けつけ、後醍醐帝にそのことを賞されて、伊予の守護に任じられ、そのため前年の春から伊予に居住していたのであった。

 また、吉野で後村上帝を支えている南朝の重臣・四条隆資卿の子息である少将有資が、伊予の国司に任じられて、前々年からその任についていた。また土居、得能、土肥、河田、武市、日吉といったもともとの宮方の武士たちは、東の方では讃岐の足利方の武士たちと戦い、南の方では土佐の足利方の武士たちと境界における戦闘を繰り返いしていたのであるが、大将として義貞が下向してきたことで、いよいよ勢いを得て、龍や虎がその暴れまわる所を得たような様子である。

 こうして伊予の宮方の兵の勢力がなみなみならないものであることが近隣に知れわたると、四国だけでなく、備後、安芸、周防、さらには九州方面までも武士たちのあいだに動揺が走り、「大変な事態になったものだ」と言わないものがいない有様であった。伊予の国にはそれでも10か所以上、足利方の城があったのだが、まだ宮方が攻撃してこない前に、うわさを聞いただけで城を捨てて逃げだしてしまった。

 新田義貞、楠正成、結城宗広、名和長年ら、有力な武士をすでに失っている南朝方としては、脇屋義助は切り札的な存在であるが、その義助を伊予に下したのは、この地が四国だけでなく、中国地方(特にその西部)や、九州ににらみを利かせることのできる要地であるからであろう。土地の有力豪族も南朝に心を寄せるものが多いので、反攻の拠点としては最も適した場所として選ばれたものと考えられる。これまでのところ、作戦は順調に進行しているが、果たして今後はどうなるか。それはまた次回。  

日記抄(4月2日~8日)

4月8日(月)午前中は雨、午後になっていったん晴れ間が広がるが、その後、また曇ってきた。夕方になってまた雨が降り出したが、その後はまたやんだ。どうも不安定な空模様である。

 4月2日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

3月31日
 NHKラジオ『私の日本語辞書』は「歳時記を読みなおす」の第5回=最終回で、しはす(師走というのは当て字である)、行火(あんか)、菊なます、虎落笛(もがりぶえ)、雪催い(ゆきもよい)、くしゃみ(くさめ)、ふぐ(ふく)を取り上げた。面白かった。

4月1日
 『NHK高校講座 現代文』では2回に分けて星野道夫「ワスレナグサ」を読むという。アラスカを中心に北極圏の自然と人々の暮らしを見つめた星野は、アラスカに定住することによって、旅行者としてみたのとは別の風景が見えるようになったという。
 講師がこのエッセーに関連して「知っていると思うと見落とすことがある」と話していたのが印象的であった。むかし、大学にいたころ、学生相手のガイダンスの際に、先生は学生のことを何でも知っているのだから、そのつもりで…というようなことを必ず言う同僚がいたが、さぞかし教師稼業がつまらなかっただろうと、いつも不満そうだった彼の顔を思い出すことがある(思い出したくないから、それほど多くはない)。新しい学生と接触することで、新しい知識を得るというのは教師としての喜びのひとつである。

4月2日
 『朝日』1面のコラム「天声人語」に新年号「令和」に関連して、その典拠となった文章の書き手だとされる大伴旅人の<なかなかにひととあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ>という歌が取り上げられていた。「いっそ人間をやめ、ずっと酒に浸れる酒壺になりたい。突拍子もない願望を歌にした人がいたものである。」 
 酒を愛した詩人というと、中国では陶淵明と李白、それにペルシアのオマル・ハイヤームが思い浮かぶ。ただし、陶淵明がわずかな酒でも楽しむというタイプであったのに対し、李白は大酒を飲まないではいられないタイプであったというような、酒飲みの中でのタイプの違いもある。旅人は、どちらに近かったのであろうか。
 オマル・ハイヤームには次のような詩がある:
 昨夜酔うての仕業だったが、
 石の表に素焼きの壺を投げつけた。
 壺は無言の言葉で言った――
  お前もそんなにされるのだ!
  (小川亮作訳、岩波クラシックス版、58ページ)
 こちらの方が虚無的である。ハイヤームは天文台長だったといわれ、こんな作品も残している:
 大空の極みはどこにあるのか見えない。
 酒をのめ、天(そら)のめぐりは心につらい。
 嘆くなよ、おまえの番がめぐって来ても、
 星の下(もと)誰にも一度はめぐるその盃(はい)。
 (同上、97ページ)
 
 旅人が大宰府で開いた「梅花の宴」で「…枝を手折り、雪にたとえ、酒杯にうかべる公卿」と「天声人語」の筆者は書いているが、これはとんでもない間違い。公卿というのはある基準以上のお公家さんをいうのであって、梅花の宴に集まった大宰府の役人や近隣の国々の国守・役人は公卿とは程遠い存在であった。ここは「官人」と書くべきである。

4月3日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』は新年度に入り、新しいビニェット”The Benefits of Being Bilingual"(バイリンガルであることのメリット)が始まった。英語しか話さない登場人物の一人が、英語で生活している日本人に対して言う:
Going back and forth between languages is a form of brain training that helps make the old gray matter more flexible.
(言語と言語の間を行き来するのは、一種の脳トレであり、脳の柔軟性を高めるのに役立ちますね。)

 この番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
I attribute my success to this : I never gave or took any excuse.
---- Florence Nightingale (English nurse, 1820 - 1910)
わたしの成功のもとはこれ、つまり、決して弁明をしたり、弁解を聞き入れたりしなかったこと。

4月4日
 『実践ビジネス英語』の会話の続き:
Even though the United States is a racially diverse country where over 350 languages are spoken, eight out of ten Ameriacns speak English only.
(アメリカは民族的に多様な国で、350を超える言語が話されています。それにもかかわらず、アメリカ人の10人に8人は英語しか話さないのです。 ) raciallyというのを文字通りに訳すと「人種的に」ではないかと思うが、アメリカでのraceという語の使い方は、日本でいう民族の方に近いので、このように訳したのであろう。
 その理由として、アメリカが広大な国であるために、多くの人々が英語以外の言語との接触の機会がなく、学習の動機も、機会もないこと、さらにアメリカ人が(他の英語を母語とする人々に比べて)ほとんど外国旅行をしないことが挙げられるという。
Did you know that only about 40 percent of Amerians own passports?
(アメリカ人の約40パーセントしかパスポートをもっていないことを知っていましたか?)
 日本人だと何パーセントくらいになるのだろうか。ちなみに私はパスポートを持っていたが、期限が切れてしまったので、今は持っていない。
 英国の場合、「英語は、ヨーロッパで話されているたくさんの言語の1つに過ぎない」ことと、「別の言語を知るのは、非常にスマートで役立つことがある」ことを多くの人々が忘れているとの指摘がされる。
 とはいうものの、英語がグローバル化の中で、世界中で最も有力な言語としての地位を築き上げていることは誰もが否定しないことである。英語を母語とする人々が、そのありがたみを自覚しないのはいいことであろうか…〔私にとって英語は母語ではないから、何とも言えない〕。

4月5日
 『実践ビジネス英語』の会話の続き:
 世界の中での英語の地位が高いので、英語を母語としない多くの人々がかなりの労力と費用をかけて英語を学習している。その一方で、アメリカの若者の半分近くが、民族的には少数グループの出身であるが、3世代目になると、自分の一族の言語が話せなくなるという。そのことを含めて、アメリカ人は英語以外の言語を勉強することがあまりない。
I was shocked when I heard that only about 20 percent of American students are studying another language. For European students, it7s over 90 percent.
(アメリカの学生の20パーセントほどしか別の言語を学んでいないときいた時には、衝撃を受けましたよ。ヨーロッパの学生の場合は、90パーセントを越えていますからね。)
 日本の場合は、ほぼ100パーセントが英語を学習し、高等教育を受ける者のやはり100パーセント近くが、第二外国語も勉強するはずであるが、問題はその中身である。
 会話はさらに進んで、世界中ではいくつぐらいの言語が話されているかという話題になり、
The current estimate is between 6,000 and 7,000. But 2,000 or so have fewer than a thousand speakers each. And just 15 account for half of those spoken in the world.
(現時点での推定数は、6,000から7,000の間です。でも、2,000ほどの言語は、話す人がそれぞれ1,000人未満ですよ。そして、わずか15の言語を話す人が、世界中の言語を話している人の半分を占めているのです。)
 ここでは15と言っているが、数え方の問題もあって、大体5千万人以上の話し手をもつ言語は20前後あるらしい。それから話し手が多いからと言って、それがそのまま国際社会における重要性と結びつくわけではないことも念頭に置く必要がある。ただ、ヒンディー語やアラビア語が今後、国際社会でその地位を向上させる可能性は大きいので、これらの言語とどのように取り組むかは、言語教育政策上の重要な課題になるはずである。

 同番組の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
He who loses wealth loses much ; he who loses a friend loses more, but he that loses courage loses all.
---- Miguel de Cerbantes (Spanish novelist and playwright, 1547 - 1616)
(富を失う者は多くを失う。友を失う者はもっと多くを失う。だが、勇気を失う者はすべてを失う。)
『ドン・キホーテ』の作者らしい言葉である。

4月6日
 小机フィールズでプレナスなでしこリーグ2部 第1節の横浜FCシーガルズ対スフィーダ世田谷戦を見に出かける。前半に橘選手のゴールで1点を先制するが、その1点を守り切れずに、後半に追いつかれて1-1で引き分ける。
 小机に出かける時は、これまで(優待パスがあるので)バスを利用していたが、今回は横浜線を利用して出かけた(帰りはバスを利用)。

 NHKラジオ『朗読の時間』は、土曜日の夜にまとめて再放送されているのを聞いているだけであるが、今回は「川端康成作品集」から「伊豆の踊子」を取り上げている。そういえば、高校時代の国語の先生の一人が川端康成がお好きだったらしく、よくその作品から出題されたことを思い出す。
 「伊豆の踊子」は20歳の一高生である「私」が伊豆を旅行中、旅芸人の一行と出会い、その中の最年少者である「踊り子」にひそかな慕情を感じて、半島を南下する旅についていくという話である。「私」の背負っている現実は必ずしも明るいものではなく、「踊り子」をはじめとする旅芸人の現実はさらに暗いものなのだが、彼らが共有する経験である伊豆の旅が不思議な明るさをもっている。そのあたりが作品の魅力だろう。
 伊豆は多くの作家の小説や随筆の中で取り上げられているが、個人的な好みをいえば、川端康成<梶井基次郎<井伏鱒二ということになる。
 常盤貴子さんの朗読がおせじにも上手とは言いかねるのが問題。

4月7日
 『日経』朝刊で(以前にも取り上げられていたが)、高校生の就活の「1人1社」という原則を見直そうという動きが報じられている。このやり方では、採用する側とされる側のミスマッチが多く、早期離職者が多いというのが企業の側が主張する見直しの理由で、学校側は必ずしも乗り気ではないらしい。
 まったく事情は異なるのだが、私が最初に教師として採用された学校の人事はミスマッチもいいところで、失恋してガックリ来ていたところに、男子学生ばかりの学校に就職させられたというのだから、上層部は何を考えていたのだろうかと、今でも思う。女子ばかりの短大に就職していれば、もう少しましな研究者になったことは疑いない。

 『日経』朝刊の「美の粋」欄では、「画家と女優(下)」として、梅原龍三郎と高峰秀子の結びつきをたどっていた。前回の小倉遊亀と越路吹雪の例に比べて、あまり似ているとは言えないというのが正直な感想である。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第8節:横浜FC対アビスパ福岡の対戦を観戦する。1万1千人を超える観衆が集まって、メーン・スタンドが満席になり、バックスタンドでの観戦。幸いに、前方のハマブルー・シートの券が買えたので、4列目というかなりいい条件で見ることができた。両チームともに後半にPKで1点を挙げ、1-1の引き分けという展開。不完全燃焼という印象が強い。
 横浜にゆかりのあるマスコットが集合する「HAMAキャラ大集合!」というイベントで、旭区のキャラクターの「あさひくん」、神奈川区の「かめ太郎」などのHAMAキャラが集合、ハーフタイムにピッチを周回したりしたが、相鉄のキャラクターである「そうにゃん」が一番気になった。絵本が出たりして、相鉄が力を入れて売り込んでいるキャラクターである。昨年限りで活動を停止するという話だったキャッチーくんが今年のホーム開幕戦で姿を見せたものの、今回は登場していないのが残念。

 夕方になって、地方選挙の投票に出かける。このところ、私が投票している候補者は落選する傾向があるので、何とか一人でも当選してほしいというのが正直なところである。

4月8日
 選挙の結果は「1勝1敗」であった。まずまずの結果ではなかったかと思う。

 NHKラジオ『遠山顕の英会話楽習』では、Tax Day (確定申告締切日、所得税申告納税期限日)の話題が取り上げられた。アメリカでは一般に4月15日なのだそうで、カナダも4月中に設定されているようである。

 3月27日に、元大洋ホエールズの内野手として活躍された近藤昭仁さんが亡くなられた。遅ればせながら、ご冥福をお祈りする。1960年に大洋が日本一になったときの中心メンバーの一人である。その頃は、川崎球場にフランチャイズがあった。大洋→横浜を応援し続けた川崎出身の司会者故・玉置宏さんが横浜にフランチャイズが移ったので複雑な気分だといっていたこと、私の同期生である彼の弟が、島田源太郎投手が完全試合を達成したゲームを見ていたのが生涯の思い出だと語っていたことなど、大洋の思い出は尽きない。なお、近藤さんの夫人は、かつて新東宝で女優として活躍された北沢典子(本名=近藤由紀子)さんである。わたしの知る限りで、そのことに触れたのは『スポーツニッポン』だけだった。昭和は遠くなりにけりである。

ジェイン・オースティン『分別と多感』再読

4月7日(日)晴れ、気温上昇

 ジェイン・オースティン(Jane Austen)の 『分別と多感』(Sense and Sensibility)は1811年に作者の兄夫婦が費用を出した自費出版の形で公刊されたが、「分別」(Sense)のあるしっかり者の姉エリナーと、「多感」(Sensibility)で情熱的な妹マリアンの2人の屈曲した恋愛の一部始終を描いたこの作品は、理性重視か、感情重視かという議論が盛んであった時代の雰囲気にも乗り、また2人の姉妹の性格描写と物語の展開の妙もあって、作者の出世作となった。1995年にエマ・トンプソンの脚本および主演(エリナー役)でアン・リー監督により映画化されたことでもわかるように(邦題『いつか晴れた日に』)その後、長く親しまれ、読み続けられている。なお、この映画ではマリアンをまだ新人であったケート・ウィンスレットが演じ、ほかにヒュー・グランド、アラン・リックマンらの俳優が出演している。この小説は、すでに当ブログで紹介したことがあるが、最近、読みなおしたので、またあらためて筋をたどっていくことにした。ここではちくま文庫の中野康司さんによる翻訳を利用することにする。

 イングランド南部のサセックス州の大地主ヘンリー・ダッシュウッドには先妻の間にジョン・ダッシュウッドという息子、後妻との間にエリナー、マリアン、マーガレットという3人の娘を儲けていた。ジョンは、ダッシュウッド家のノーランド邸の相続権を持つほかに、フェラーズ家という大金持ちの長女であるファニーという女性と結婚し、裕福な生活を送っていたが、父親のヘンリーには「生涯権」(その財産を一代限り享受できる権利)があるだけであり、彼の妻と3人の娘は不安定な立場におかれていた。

 そこで起きた事態をめぐってはE.M.フォースターが次のようにまとめている:
「ダッシュウッド氏は臨終の床に息子を読んで、義母と義妹たちの援助をすることを厳粛に誓わせた。息子はすっかり感動して約束し、妹たち1人1人に1千ポンド譲ろうと心中ひそかに決意するのだが、喜劇はここからはじまる。彼からこの鷹揚な意図を明かされた妻のジョン・ダッシュウッド夫人は、自分たちの幼い息子からそんな大金を奪うことを頑として認めない。そこで1千ポンドは500ポンドに減額される。しかし、これでもまだ多すぎる気がする。お義母さんに毎年決まった額をあげるほうが、御縁がつながる気がしない? そうだな、しかし縁はつづいてもむしろ大きな出費になりかねない、「あの人は体格がよく健康で、まだ40にもなってないから」。ときどき50ポンドあげるほうがいいんじゃないか、「お父さんとの約束は、それで充分果たせると思う」。それより、ときどき魚でもあげるほうがもっといいんじゃないの、そして、けっきょく何もしないのである。なにひとつ。無一文の女4人は、家具を運ぶ費用さえもらえないのだ。」{「イギリス国民性覚書」、小野寺健編訳『フォースター評論集』所収、岩波文庫、79‐80ページ)

 フォースターが問題にしているのはこういう残酷な仕打ちをする際に、「自分を騙し」てゆく精神性である。「悪いことをするのにさえ、時間がかかるのだ。」(同上、81ページ) それが英国人にかなりの頻度で潜在するというわけである。フォースターは、彼らは偽善者だろうかと問うているが、私に言わせれば、三枚目の悪役であって、偽善者ではない。ファニーについて作者は「夫を思い切り戯画化したような女性で、夫より何倍も心の狭い自己中心的な女性だった。」(10ページ)と書いている。彼女の底意地の悪さと、にもかかわらず演じてしまう三枚目ぶりに、これから何度か出会うはずである。そのファニーと若くして結婚したジョンが、大変な愛妻家だというのが、物語の滑稽感をいっそう増している。

 それはさておき、ファニー(ダッシュウッド夫人)の2人いる弟の上の方のエドワードは気立てのいい青年で、姉のエリナーと惹かれあう。ところが、彼の母親のフェラーズ夫人と、ファニーは、彼が立身出世をすることを望み、そのために彼が望まないような進路ばかりを強要し、その結果として、かれは就職をせずに、ぶらぶらしている。エドワードが定職につけるかどうか、エリナーと結婚できるかというのが、この小説のひとつの興味となる。
 もちろん、ファニーはエドワードとエリナーの結婚には反対で、いろいろと邪魔を始める。義母であり、エリナーの母であるダッシュウッド夫人「弟エドワードの莫大な遺産、2人の息子に立派な結婚をさせようという母フェラ―ズ夫人の固い決意、そして、エドワードを誘惑しようとする若い女性に降りかかる危険などについて、あてこすりたっぷりに話した。」(34ページ)

 ダッシュウッド夫人は、それまでノーランド邸に居候の状態であったが、この当てこすりを聞いて、(それまでも新しい家を探してはいたのだが)、家を出る決心をする。ちょうど、彼女の従兄弟であり、デヴォン州に住む、サー・ジョン・ミドルトンという人物がバートン・コテッジという自分の持ち家を貸そうといってくる。サセックスはイングランドの東南部にあり、デヴォンは西南部で、かなり距離が離れている。しかし、その方がいいのではないかとダッシュウッド夫人も、エリナーも考える。
 引っ越し先となるバートン・コッテジはデヴォン州の州都であるエクセターから北へ6,7キロのところだという(エクセターには私は出かけたところがある。こじんまりとしたいい町である。そこの古くからあるホテルに泊まったのだが、案内にこのホテルのこのあたりには幽霊が出るという噂があると書かれていたのを思い出す。残念ながら幽霊には会わなかった。)

 「『そんなに遠いところに引っ越すのでは、引越しの手伝いができなくてほんとに残念です』とジョンはダッシュウッド夫人に何度も言った。ジョンはほんとに良心の呵責を感じていた。引越しの手伝いをして、亡父との約束を果たそうと思っていたのに、引っ越し先が遠すぎて手伝いができなくなったからだ。家具調度類は全部船便で運ばれた。おもにシーツやテーブル・クロスなどのリンネル類、銀食器、陶磁器、本、それにマリアンの立派なピアノなどだ。ファニーは、荷物が運び出されるのをため息をついて見送った。姑一家の収入は自分たちと比べたら微々たるものなのに、あんな立派な食器類をもっていると思うと悔しくてならないのだ。」(38ページ)

 いよいよ義母と義妹たちがデヴォンに出発するというときに、ジョンが多少の援助を申し出るかというと、「生活費が家産でたまらないとか、世間的に地位のある人間は何かと予定外の出費があって大変だとか、しょっちゅう愚痴ばかりこぼしている。人に金をやるどころか、自分がもらいたいくらいだといっているかのようだった。」(40ページ) 
 
 恋愛と結婚が主題の小説であるが、生活費をどのようにして得るかという問題が絶えず、作中人物の行動に影響を及ぼしているところに、オースティンの小説の特徴がある。デヴォンに引っ越したダッシュウッド一家にどのような運命が待ち受けているか、エリナーとエドワードの恋愛がどうなるか、またマリアンにどのような出会いがあるかは、また次回に。 

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』(4)

4月6日(土)晴れ、気温上昇

 1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけて、著者・梅棹忠夫は大阪市立大学の派遣した学術調査隊の隊長として、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの諸国を歴訪した。また1961(昭和36)年から62(昭和37)年にかけて大阪市立大学が京都大学の協力のもとに、再び派遣した東南アジア調査隊にも客員として参加した。この書物は、それらの調査旅行の私的記録としてまとめられたものである。
 1957年~58年の調査には、著者のほかに、川村俊蔵、小川房人、依田恭二、吉川公雄の4人が大阪市立大学から、藤岡喜愛が京都大学から(大阪市立大学の講師兼任という形で)加わっている。熱帯における動植物の生態学的な研究が主な調査対象であるが、人類学的な調査も視野に入っており、さらにタイのバンコクで開かれた第9回太平洋学術会議に参加して、研究発表を行った。川村の「日本における霊長類の社会生活の研究」はその中でも特に注目を浴びた。

 この種の国際会議には、いくつかの遠足がスケジュールに組み込まれていて、部会ごとにコースの割り当てがあるが、会費を添えて申し込みさえすれば、他の部会の参加者でもそのコースに参加できる仕組みであった。そこで梅棹は、藤岡とともに人類学部会の遠足に参加して、バンコク近郊の農村を見に行くことにした。「学術会議は、決して宮廷舞踊や古典劇などの高級文化だけを見せようとしていたのではないのである。庶民生活の方も、存分に見せてくれようというのだ。」(66ページ) 梅棹もこれには感心している様子であるが、我々としても見習うべき態度ではないかと、読んでいて思う。

第3章 太平洋学術会議(続き)
 陸のない村
 バンコクから北へ1時間ほどバスで走り、そこから発動機船で水路を進む。「メナム下流地方には、クローンと呼ばれる灌漑用水路が縦横に走っている。これはその一つであった。」(66ページ) 水の上に村ができている。「すべての日常生活が、ここでは水の上で行われているのである。」(同上) 家はすべて水の上に建っている。交通はすべて舟であり、行商人が舟で生活物資やその他の品々を売りにくる。

 農民風俗
 「街道ふうの水路を離れて、ほそい横道にはいる。依然として、すべてを水がひたしている。両側は水田だ。イネは水の中からすっくすくと生えて、よく稔っている。水路と水田の境はない。水が何もかもをつないでいる。」(67ページ) 人間もニワトリも、水上生活を送っていて不自由のない様子である。「ところが、どうしても地面がないと生きられない動物がいる。・・・それはスイギュウである。」(68ページ)
 やがて、土のある場所に出たが、そこには寺があり、縁日のようで、大勢の人が集まって、露店が出ていた。タイの農民の風俗を見るのは、初めての経験であり、それはバンコクの風俗とはかなり違っていた。男女ともに伝統的な服装をしているが、年をとってくると女性も男性と同じような服装になるので、味気ないと梅棹は記している。寺では素人芝居の準備をしていた。

 豊かなる熱帯
 梅棹は、大使館の高瀬参事官に連れられて、もう1か所、バンコク近郊の農村を訪れる。そこはココヤシの森の中に、無数のクリークが走っている、やはり水の中の村であった。「家は簡素な板ばりで、杭の上に立っていた。あけっぱなしの室内に、腰まき一つのひとびとが住んでいた。」(69ページ)
 梅棹はその情景を見ながら、これまでに彼が詠んだタイについてのいくつかの印象記の中に、近代的大都市のバンコクのすぐ近くに、泥水を平気で口に含むような、不衛生で原始的な生活をしている貧しい村落があり、それはこの国の経済社会の二重構造を象徴するものだというようなことが書いてあるのを思い出す。「しかしそれは、貧乏ということではなくて、単に生活様式の差に過ぎないのではないか」(70ページ) 熱帯では、この方が暮らしやすいのだという。

 「簡素な板張りの家を見て、貧しい農民のイメージを描いてはいけない。わたしは、舟のなかから観察する。簡素な板ばりの家の屋根の上に、ラジオのアンテナが立っていることがひじょうに多いのだ。腰まきひとつの男を野蛮人だと思ってはいけない。腰まきの男と、海軍士官学校の制服をきた青年が、親しそうに話していたりするのである。腰まきの男は、王国海軍の未来の幹部の兄さんかも知れないのだ。」(71ページ)

 会議終る
 太平洋学術会議は無事終わり、参加者たちは解散した。梅棹たちはバンコクに残って、調査隊本来の仕事に取り掛かることになる。それは、タイ北部の学術調査であるが、その前に、自動車旅行の練習も兼ねて、カンボジアのアンコール・ワットまで出かけることにした。この旅行には大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)のタイ語科を出て、チュラーロンコーン大学でタイ文学を研究している葉山陽一郎が参加することになった。
 新しい段階に入るので、梅棹は隊員を招集して、各自の分担を決める。藤岡は「外務大臣」として、ビザの獲得や期間延長などの手続きにあたる。川村は「食糧庁長官」として、隊の食べ物を担当する。吉川は「大蔵大臣」として、資金の乏しい隊の会計事務を受け持つ。小川は「官房長官」として、隊員間の連絡、スケジュールの調整、会議の記録、大阪の留守本部への報告などの仕事をこなす。彼はまた、「運輸大臣」を兼ね、3台の自動車の調子に常に心を配る。依田は、「特別調達庁長官」ということになる。必要な物資を荷物の山の中から探し出す名人だからである。梅棹は、いちおう「総理大臣」ということだが、実際は何もすることがない。バンコクのニュー・ロードの本屋で本を買いこんで、調査旅行の予習に励んだ。

 今回は、本格的な調査の前のバンコク近郊の農村の観察が語られている。これも一種の予行演習で、都会と農村の生活を対比するあたりに、文化相対主義的な見解がうかがわれるところが興味深い。次回は、アンコール・ワット旅行の次第が語られているが、それだけでなく、梅棹以下の隊員がこの自動車旅行のために、いかにして自動車の運転免許を取ったかも語られている(脱線が多いのである)。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(14‐2)

4月5日(金)晴れ

 『神曲』の中でダンテは1300年4月5日のうちに、ウェルギリウスと出会い、異界への旅に出発しただけでなく、その夜には地獄の門を通り、第1圏、第2圏、第3圏までを旅している。それから819年後にわれわれはダンテの足跡を追っているわけである。

 「暗い森」に迷いこんだダンテは、かれのたましいを救うために、天国の貴婦人たちの願いに動かされてやってきたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスのたましいとともに、異界への旅に出かけることになる。
 「すべての望みを捨てよ」(第3歌、9行)と記された地獄の門をくぐった2人は、善人でも悪人でもないような中途半端な人間たちのたましいが、天国からも地獄からも受け入れられず、むなしく走り回っているさまを見る。そして、アケローンの川を渡るカローンの渡し船に、地獄に落とされるたましいが争って乗り込んでいるのを見る。
 次に彼らは地獄の第1圏であるリンボ、ここでは洗礼を受けずに死んだ幼児たちと、異教徒、正しく生きた人々のたましいが静かに時を過ごしている。さらに第2圏では、生前、愛欲におぼれる罪を犯したたましいたちが、嵐の中で空中を漂っていた。第3圏では食悦の罪を犯したたましいたちが、永遠に降り続く冷たい雨に打たれ、泥にまみれていた。第4圏では、貪欲の罪を犯したたましいと、浪費の罪を犯したたましいたちがそれぞれ渦をつくって、衝突を繰り返していた。第5圏のステュクスの沼には高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯したたましいたちが沈められていた。
 ステュクスの沼を渡った彼らは、地獄の上層と下層との境界であるディースの城門にたどりつくが、城の中にいた悪魔たちの妨害を受ける。やがて現れた天使によって悪魔が追い払われ、彼らは城内に入り、第6圏で、異端の罪を犯したたましいが棺の中で業火に焼かれているのを見る。つづいて達した第7圏は3つの冠状地にわかれており、その第1冠状地では暴力の罪を犯したたましいたちが、煮えたぎる血の川に沈められているのを見た。第2冠状地では自殺者たちのたましいが棘のある灌木の姿で森をつくり、蕩尽者たちのたましいが黒犬に追われて逃げまどっていた。彼らは不毛な砂地である第3冠状地にさしかかるが、そこでは瀆神者たちが火の雨に打たれていた。

 第3冠状地を熱水を湛えた小川が流れていた。ウェルギリウスの注意にしたがって、ダンテはその小川の岸を固めている石の上をあゆむ。「おまえの目はこの小川ほど/特筆すべきものをまだ見ていない。」(88‐89行、327ページ)とウェルギリウスはダンテに言うが、なぜ、これが特筆すべきであるのかは、よくわかっていないそうである。
 この川の水源となっているのは、地中海に浮かぶクレータ島のイーダ山中に立っている老巨人像であるとウェルギリウスは言う。
「 ・・・
 その山の中には老いた巨人が立っていて
その背を(エジプトの町)ダミヤートに向け、
自らの鏡としてローマを眺めている。
 彼の頭は純金でつくられ、
腕も胸も純銀でできている。
胸下から足のつけ根まで[腹部]は銅である。
 それから下はすべて混じりけのない鉄でできているが、
右足だけがテラコッタで、
左足よりも右足に重心を乗せて立っている。
 黄金の部分[頭部]を除き、どの部分にもヒビが入り、
どの亀裂から涙が滴り、寄り集まっては
洞穴の岩底に穴を穿つ。
 涙の流れは岩間を伝い、この谷まで流れ下って
アケローン、ステュクス、プレゲトーンとなる。
それからこれより下に降りていけないところ[地獄の底]で
 コーキュートスを形作る。その湖が
どのようなものかおまえも目にするだろうから、ここでは話さぬ」
(103‐120行、328‐329ページ)

 この部分は難解なので、わかったところ、私なりに意見が述べられそうな所だけ簡単に触れていく。
 地中海に浮かんでいるクレータ島は、ギリシア文明にとって絶えず重要な島であり続けていた。人類の最初に黄金時代があったという考えは、いろいろな民族の神話に見られるが、ダンテが知っていた(そしてなんとか両者をうまく結びつけようとしていた)のはギリシア(・ローマ)と旧約聖書の神話である。
 ギリシア神話ではウーラノス(天空)とガイア(大地)が最初に世界を支配するが、両者の子どもであるクロノス(サートゥルヌス)がウーラノスを殺して、世界の支配権を奪う。サートゥルヌスが世界の支配者であった時代が黄金時代である。しかし、かれもまたその子どもによって支配圏を奪われると予言されていたので、妻であるレアーとの間に生まれた子どもたちを呑みこんだ。しかしレアーは末子であるゼウスだけは呑みこまれまいと、クレータ島に匿って成長させ、やがてゼウスがクロノス(サートゥルヌス)と闘ってその支配権を奪ったという。問題は、このように世界を支配する神が交代したということだけでなく、それにつれて人類社会が堕落していったということである。それでゼウスが支配するようになって、銀の時代、青銅の時代、鉄の時代と人類の社会は変化し、次第に正義が行われなくなっていった(この間に、英雄時代という時代があったという説もある)。クレータ島の巨人像はこのような人類の歴史を示しているのだが、同じような話は、旧約聖書にもあることにお気づきの方もいらっしゃるはずである。

 その話は『ダニエル書』の2に出てくる。イスラエルの地にはダヴィデの子孫であるヨアキムを王とするユダ王国がかろうじてその命脈を保っていたが、カルデア(新バビュロニア)の王ネブカドネツァル(普通はネブカドネザルという)に滅ぼされ、王族や貴族たちはバビュロンに連れていかれた(これを捕囚という)。
 ある夜、ネブカドネツァル王は不思議な夢を見た。その意味を知りたいと思い、占い師、祈祷師、まじない師、賢者を呼び出して、自分の見た夢を解くようにという。彼らは王がどんな夢を見たかを言わないので、その意味を解くことができない。どうか、どんな夢を見たかをお聞かせくださいと頼んでも、王は頑として夢の中身を言わない。そして、解くことができなければ全員を死刑にすると言い出す。その話を聞いて、ユダヤから連れてこられた賢者の一人であったダニエルが、神に祈って、夢を解くことができた。

 王様、あなたは一つの像を御覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。
 それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、
 すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。 見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。
 鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。
(新共同訳、ダニエル書、2‐31~35) ダンテはこちらの話も知っていたはずであるが、別の話を採用しているというのはなぜか、興味は尽きない。

 ダンテは、この小川が、現世(地球の表面)から(地球の内部に)流れてくるのであれば、どうしてそれまでに目にすることがなかったのかを問う。ウェルギリウスは、2人が下りて来た道が限られた範囲しか目にするものではなかったと答える。
 ダンテはさらに、4つの川のうち、プレゲトーンとレーテーはどこにあるのかと問う。これに対し、ウェルギリウスはプレゲトーンは、ダンテがすでに見た煮えたぎる血の川に他ならないと答える。そしてレーテーは、今に見るだろうという(煉獄を流れているので、この『地獄篇(第1歌~第17歌)』の中には登場しないのである)。

 そして言った。「もうこの森を出る
ときが来た。私のあとからついてくるとよい。
焼けていない堤を通って行こう。
 その上ではあらゆる炎も消えるから」
(139‐142行) こうして、第14歌は終わる。

 今回は、表面的にたどっていくと、さまざまな神話・伝承が含まれ、また連想されて豊かなイメージを喚起するが、その意味するものがなんであるのかの理解には苦しむところがある。ダンテが、キリスト教の教義だけでなく、その時代に再発見されていたギリシアの哲学や神話、そして民間伝承も取り入れながら、自分の叙事詩の背景をなす世界観を形成していることが、うかがわれ、興味深い箇所でもある。

E.H.カー『歴史とは何か』(9)

4月4日(木)晴れ

〔これまでの概要〕
Ⅰ 歴史家と事実
 過去の事実を掘り起こしていけば、歴史の進む方向はわかるという19世紀的な楽観主義と、歴史家の主観によって歴史はどのようにでも解釈できるという懐疑主義、現代の要請に応じて歴史は修正できるというプラグマティズムを退け、著者は、歴史とは過去の事実と現代の歴史家との対話であるという考え方を提示している。
Ⅱ 社会と個人
 社会と個人は不可分のもので、どちらか一方が他方に優先するという性格のものではない。歴史家はその眼を通して、過去の事実を見るのであるが、その歴史家は、彼を取り巻く社会の影響を受けており、彼もまた歴史の産物であることを見逃してはならない。

Ⅱ 社会と個人(続き)
 歴史研究の対象
 ここで、カーは話題を変えて、歴史家の研究対象となるのは、諸個人の行動であろうか、社会的諸力の作用であろうかという問題に取り組もうとする。
 話の糸口として、カーはこの書物よりも数年前に発表されたアイザイア・バーリン(Isaiah Berlin, 1909 - 97)の「歴史的不可避性」という「才気に満ちた平易な論文」(62ページ)を取り上げる。この書物の中で、これからもバーリンの著作については何度も言及されることになるので、注意して読み進んでほしいと思う。バーリンは、哲学者であると清水は注記しているが、政治・社会思想家、思想史家として広い範囲で研究活動を続け、歴史哲学についても著作を残している。バーリンはラトヴィアのリガで、裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、6歳の時にペテログラード(1703年~1914年はサンクトペテルブルクと呼ばれ、1914年にペテログラードと改名。ロシア革命後の1924年にレニングラードと改名。ソ連解体後の1991年にまたサンクトペテルブルクに戻る)に移って、そこでロシア革命を目撃、家族とともに英国に移ったという経歴の持ち主である。どちらかというと、バーリンの所説に対し、カーは批判的であるが、自分とは意見が違うけれども、立派な研究者だという敬意を払い続けていることにも注意してほしい。

 バーリンの論文は読んでいないので、カーの言っていることからその内容を推測せざるを得ないのだが、この論文の中でバーリンは、T.S.エリオットの「巨大な非個人的な力」ということばをひきだして、自分の議論を展開させている。注意してよいのは、エリオットがアメリカ出身で英国で活躍した詩人・文芸批評家で、保守主義的な文化論・芸術論を展開した人だということである。だから、おそらくエリオットもバーリンも歴史における個人の役割を重視する立場で議論しているのであろうということである。カーの言うところによれば、「歴史における決定的要素は個人ではなくて、『巨大な非個人的な力』であると信じている人々を嘲笑」(62ページ)している――ということは、個人を歴史における決定的要素と認めるべきであると主張していることになる。
 『歴史における個人の役割』というのは、岩波文庫にも入っているロシアのマルクス主義思想家プレハーノフの著書の題名であるが、バーリンの思想史上の著作の少なからぬ部分がヴィーコ、ヘルダー、マルクスといった思想史上の巨人を取り上げている(ついでに言えば、プレハーノフについても賞賛している)のは、確かなことで、それだけ彼が歴史における個人の役割を重視していたことは間違いない。

 カーは「歴史で問題になるのは諸個人の性格や行動であるという見方」(62ページ)、彼自身の命名によると「悪王ジョン学説」(同上)を退ける。イングランド王ジョン(1167‐1216、在位1199-1216)は、John the Lackland(欠地王)などと呼ばれ、失政が多く、1215年にはついに、マグナ・カルタ(Magna Carta)を承認せざるを得なくなったイングランド王として知られる。
 古代の人々は、さまざまな出来事や制度をある優れた個人の業績だと考えたが、現代の複雑化した社会にこの考えを適用するのは間違いであるという。しかし、「歴史は偉人の伝記である」(63ページ)という考え方はなくならない。個人の役割を重視する歴史家であるC・V・ウェジウッド(Veronica Wedgewood, 1910 - 97)の著書が人気を集めているのはこのためである。歴史的な出来事をある個人の性格や意志の結果と考えるほうがわかりやすいので、この考え方は根強いものがある。
 
 この書物が出てから、半世紀以上の年月が過ぎ、今やバーリンの名声の方がカーを圧倒する時代になっていることに、お気づきの方もいらっしゃるはずである。私自身、ロンドン大学のある先生に、自由の問題を研究するのであれば、ミルの『自由論』と、バーリンの『自由論』の<積極的自由>と<消極的自由>の考え方をしっかりと咀嚼することが大事だという指導を受けたことがある。その先生は、労働党寄りの思想の持ち主であったが、保守的なバーリンの議論の意義を認めていた。森嶋道夫がその著作の中で、英国人には「敵ながら天晴れ」という思考様式があるということを書いていたが、カーとバーリンの関係などはその実例と言えそうである。(バーリンがプレハーノフをほめているのも、私が指導を受けたロンドン大学の先生がバーリンを認めているのもこの一例である。)

 個人の行動をどう扱うか
 カーはウェジウッドの提起した問題を2点に整理して、それぞれに反駁を試みている。
 ① 個人としての人間の行動は集団や階級のメンバーとしての彼らの行動とは違うものであり、歴史家は当然その一方を選んで論じることができる。
 ② 個人としての人間の研究は彼らの行為の意識的動機の研究である。
 ①については、個人と社会の関係は相互的であるという、すでに何度も述べてきたことから、両者を切り離し、その一方だけに着目して研究するのは適切ではない。ある人間の特別な性格を強調しすぎると文学になってしまうのではないかとも指摘している。
 ②は、人間の行為が無意識的なものであることを見落としており、意識的な動機に基づく行為がその通り実現するとは限らないという日常的な経験則からも妥当ではないと論じている。

 清水はウェジウッドと書いているが、日本ではウェッジウッドという方が一般的な表記であろう。そして、お気づきの方もいらっしゃると思うが、これは英国の有名な陶磁器業者である。ヴェロニカはその創業者であるジョサイア・ウェッジウッドの末裔であって、例えば、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンもウェッジウッドと血縁があるというように、彼女の周辺には有名人や有力者が大勢いたから、個人の役割を強調する歴史観を持ったとしても、不思議ではない。やはり彼女自身が、その環境の影響を受けているのである。

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(9)

4月3日(水)晴れ

これまでの概要
 第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
 第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
 第3章 沼尻の合戦 天正12年
 第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
 第5章 合戦の中に生きる人びと
 第6章 沼尻の合戦後の東国
 第7章 秀吉による東国の戦後処理

  天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡し、織田信長の影響力が関東にも及ぶことになった。小田原を本拠とする北条氏は氏政・氏直父子を中心として、信長と連絡を取り、関東の国主としての地位を認めてもらおうと工作を続けていたが、この年の6月に起きた本能寺の変で、信長政権が倒れたため、戦術の見直しを余儀なくされる。
 当時、関東では南から、関東における覇権を目指して北上する小田原北条氏と、佐竹義重、宇都宮国綱ら北関東の在来勢力が対立・抗争を繰り返していた。その戦いがもっとも大規模に展開されたのが、天正12(1584)年に下野南部の沼尻で起きた合戦である。この合戦は両者引き分けに終わるが、戦後処理の過程で、政治力に勝る北条氏がその支配領域を拡大することに成功する。
 信長の死後、台頭してきたのが、その武将であった羽柴(豊臣)秀吉である。彼は柴田勝家、信長の三男信孝を滅ぼしたのち、信長の次男信雄、信長の同盟者であった徳川家康の連合軍と戦うことになる。これが小牧・長久手の戦いである。局地的な戦闘では信雄・家康軍が勝利したが、動員力と政治力に勝る秀吉は、信雄、次いで家康を臣従させることに成功する。
 ここで注目されるのは、関東における沼尻の合戦と天下人の座をめぐって展開された小牧・長久手の合戦とが連携する性格をもっていたことである。すなわち、小田原北条氏と家康との間には同盟が締結されていたし、北関東の領主たちは秀吉と連絡を取り、その応援を求めようとしていた。
 天正13年に関白の地位に就いた秀吉は、その地位と、天皇の権威を利用して全国にその支配を拡大しようとする。その際に、関東で勢力拡大を追求し続けている北条氏を抑えることが重要課題になっていった。秀吉は、越後の上杉景勝を通じて北関東の領主たちを支援する一方で、新たに自分の陣営に加わった家康と、北条との同盟関係を利用して、平和裏に北条氏を臣従させようとするという両面作戦をとることになった。北条氏の側では、氏政の弟である北条氏規を秀吉のもとに派遣して、和平を求める一方で、もう一人の弟である氏照が伊達政宗と連絡して、佐竹氏攻撃を画策するなど、関東を統一するという夢をまだ捨ててはいなかった。

第8章 「豊臣の天下」と「北条の夢」 天正17年
  1 足利事件と「惣無事令」
 由良国繁・長尾顕長の抵抗
 天正16(1588)年8月、足利で合戦が起きた。足利城が舞台となっていることから、合戦の当事者は長尾顕長である。攻め手には北条氏照・北条氏邦が当たっている。
 長尾顕長(?ー1621)は上野の由良国繁(1550‐1611)の弟で、関東管領山内上杉家の重臣であった足利長尾氏の養子となっていたが、天正8(1540)年の時点では、北条氏政・氏直父子の側に属していたが、佐野宗綱の説得工作の結果、天正11(1583)年には北関東の反北条陣営に寝返り、沼尻の合戦後の天正13(1585)年には北条氏直に赦免されて、再び北条氏に属することになった。
 ところが、北条氏政・氏直が課した軍役に対して、顕長自身が参陣しなかったために、衝突が起きた。この事件をめぐっては、北条領内の問題であると考えるか、領主間の対立ととらえるかで処理の仕方が変わってくる。その一方で、京都では北条氏規が秀吉に拝謁していた。関東をめぐる情勢は依然として複雑であった。

 桐生・足利両城の破却
 長尾顕長だけでなく、実の兄である桐生の由良国繁も問題とされたが、彼は北条氏邦にとりなしを依頼し、桐生城を立ち退き、その結果、桐生城は破却され、彼自身は小田原在府とされた。
 顕長は逆意はないと申し開きをして、足利城を出て、足利城もまた破却された。彼も小田原在府となったものと推測される。
 金山城と館林城を拠点として、上野国東部から下野国南西部にかけて勢力を誇った由良国繁・長尾顕長の兄弟はこれにより、この地域における影響力を完全に失った。
 秀吉はこの問題を、北条領国内部の問題として取り扱い、介入することはなかった。

 老母の活躍
 しかし、由良国繁、長尾顕長は、内々に豊臣秀吉と連絡を取っていた。そして、兄弟の母は覚悟を決めて足利城に立てこもって、問題を大名間の領地をめぐる紛争として秀吉の裁定を仰ぐことを望んでいたが、かなわず、城を出ることになった。
 その後、天正18(1590)年に、由良国繁、長尾顕長兄弟は小田原に籠城していたが、秀吉は、老母の足利城での奮戦を忘れずに、彼女に堪忍分(生活費)として常陸国牛久を与える。(この領地は、その後、徳川幕府の旗本となった由良国繁の子孫が継承することになる。)

 鑁阿寺の禁制
 足利城の攻防の際には、その影響が及ぶことを懸念して、足利学校と鑁阿寺が北条側に禁制の発給を要請し、北条氏邦はこれを認めている。ところが、北条側の施策に落ち度があり、寺は被害を受けたので、寺側から抗議をしたところ、北条側は冷たい対応をして、寺は自分で自分を守るのが当然だという趣旨の回答をした。
 著者はここに、権力が平和を維持するのは当然だとする鑁阿寺側の「豊臣の天下」論(近世の論理)と、自分の身は自分で守れとする北条側の中世的な論理との対立を見る。注目すべき見解である。 

  2 「御赦免」の影響 
 反北条勢への上洛要請
 北条氏規の上洛により、北条氏政・氏直父子が「御赦免」され、豊臣・北条の敵対関係が取り除かれたことで、それまで秀吉と同盟関係を結んでいた北関東の諸領主の置かれた立場も変化してきた。
 天正16(1588)年に秀吉は佐竹義重・結城晴朝・太田道誉とその子息である梶原政景らに朱印状を送り、北条氏政・氏直の「御赦免」を知らせるとともに、彼らの上洛を要請している。

 石田三成と宇都宮国綱
 天正17(1589)年に宇都宮国綱は上洛するという連絡を行う。これに対し、石田三成が返書を送り、早急の上洛を求めている。この書簡の中で、著者は3つの点に注目している。
 ①北条氏は豊臣政権に包摂されたはずなので、国綱の不在に乗じて、その領地を奪うことはない。またたとえ奪ったとしても最終的には領土は保証される。
 ②宇都宮に先立って、北条氏照が上洛し、宇都宮に対して不利な申告をする可能性があるので、一刻も早く上洛すべきである。
 ③上洛に際しての進上物などの準備は無用なので、まずは上洛することが第一である。
 秀吉の態度が、かつての同盟者に対する庇護という姿勢から、天下人である秀吉の秩序に従い、速やかに上洛するようにという圧力へと変化していることが注目されるという。 

 伊達政宗への上洛要請
 秀吉は北関東、さらに東北地方の他の大名たちにも、地域的な紛争の停止と上洛の要請を続けた。
 天正16(1588)年には伊達政宗に対し、施薬院全宗から北条氏規が上洛したので、政宗も状況が許せば上洛してほしいとの連絡が届く。さらに10月には富田知信が政宗に上洛を要請する。東北地方の他の大名が上洛を明言しているので、先を越されると聞けにとって不利が生じると警告もされている(現実に津軽家と南部家の地位が逆転したのは、このような事情が関係している)。
 「北条氏政・氏直の「ご赦免」は上洛要請をより北へと拡大させる画期となった。「豊臣の天下」は確実に広がり、列島を覆いつくそうとしていた。」(192ページ)

 今回で、この書物の紹介を終えようと思っていたのだが、第8章の3が残ってしまった。この章の紹介は、書物全体の論評とともに次回にゆずることにしたい。今回は、北条氏政・氏直父子の「御赦免」をきっかけとして、秀吉の北関東・東北の大名・領主たちへの姿勢が変化したというところが注目点である。しかし、北条氏は大大名だけに一家の中でのまとまりがなかなか取れない。さて、どうなるか・・・。
 施薬院全宗は豊臣秀吉の側近の一人であった医者。富田知信(?ー1599)は信長・秀吉に仕えた武将で、伊勢・安濃津5万石の大名となった。武将としてよりも、外交手腕に優れていたといわれる。関ケ原の戦いの前哨戦である安濃津城の攻防戦で知られる富田信高は彼の長男である。秀吉は自分自身で外交を進めるのではなく、そういう能力のある部下や側近を使って、全国統一を進めていったようである。 

『太平記』(256)

4月2日(火)午前中は晴れていたが、午後になって雲が多くなる。

 暦応5年(この年4月末に康永と改元、南朝興国3年、1342)、吉野の朝廷では、伊予の国の武士たちの要請で、新田義貞の弟の脇屋義助を大将として派遣することになった。義助が四国に下る途中を守ったのは、備前の佐々木信胤だった。もともと足利方だった信胤が、南朝方に寝返ったのには理由があった。「事の根元を温(たず)ぬれば、この比(ころ)天下に禍(わざわ)ひをなす例の傾城(けいせい)ゆゑとぞ申しける」(第4分冊、66ページ、事の起こりをたどってみると、この頃に天下の災いの多くの原因となっていた、美女が絡んでいたのだといわれる)。菊亭という貴族の家に、若く美しい女性がいて、その女性のもとに高師直の従兄弟である師秋が通っていたのだが、その師秋が伊勢の守護になった際に、元からいる妻とともに同行させようとした。

 もとからの妻は、1日早く伊勢に向かった。菊亭家の女性のほうは、「今日出発します、明日出発します」などと言って、伊勢へ下るのが煩わしそうに見えたので、師秋も3日間は京にとどまって、せきたてたので、それではということで夜、輿を呼び寄せて、几帳で姿を隠しながら、人の助けを借りて輿に乗った。師秋はたいそう嬉しく思って、道中休むことなく進んで、その夜、まもなく伊勢路に入ろうというところまでやって来た。〔京から東に向かう街道は、近江の国の大津から草津のあたりで、琵琶湖沿いに北上する東山道と鈴鹿山脈の南を抜けて伊勢に向かう東海道とに分岐する。〕

 夜明け頃に、琵琶湖から瀬田川へのそそぎ口にかかる勢田の橋を渡っているときに、湖の方から突風が吹きつけて来て、輿のすだれを吹き上げた。輿の中にいたのは、年のほどは80歳くらいになるだろうか、額は皺だらけ、口には歯が一本も残っていないという老いた尼で、彼女は腰を二重にかがめて乗っていたのである。
 師秋は大いに驚いて、これはおそらく古狸か古狐が化けたのであろう。鼻を煙でいぶせ。大型の鏑矢を射かけてみよなどといったので、老尼は恐れおののいて、泣く泣くいうことには、自分は化け物ではなくて、菊亭の邸に年来通っている者である、師秋が通っていた美人が彼女を呼び寄せて、このように京都で寂しく暮らすよりも、自分と一緒に伊勢に下って話し相手になってくれないかと持ち掛けてきたので、誘ってくれるのはありがたいことだと嬉しく思い、昨夜、彼女のもとに出かけたところ、早く輿に乗りなさいといわれたので、そのまま乗り込んだだけのことですといった。
 師秋は、しまった、あの女に出し抜かれたか。菊亭殿に討ち入って、奪い取らないかぎり、伊勢に下ることはしまいと、尼を橋のたもとに捨て置き、空の輿とともに、また京都へと上ったのである。〔置き去りにされた老尼が気の毒である。〕

 師秋は、もともと思慮の浅い暴れん坊であったから、数百騎の兵を率いて〔いくら高師直の従兄弟でも、数百の武士を集められるわけではなかろう。ここは一桁誇張されていると見るのが妥当である〕菊亭殿へ押し寄せて、四方の門を閉ざしてしまい、残るところなく探しまわった。菊亭殿の住人達はいったい何が起きたのかと、主人も召使たちも慌てふためくこと限りなかった。
 どれだけ探しても、彼女を見つけることはできなかったので、彼女が住んでいたすぐ近くの建物にいた召使の童女を摑まえて、聞き出したところ、「その女性のところには、大勢の方々が通ってきていたので、どちらの方に匿われているのかは判断が難しいのですが、近頃は、飽浦三郎左衛門’つまり佐々木信胤)とかいう武士と、ことのほかねんごろになって、人目も気にしないような熱愛ぶりだったとうかがっております」と語った。

 師秋は、いよいよ腹を据えかねて、こうなった以上飽浦の宿所へ押しかけて討ち取ろうと相談しているという話を聞いて、飽浦は自分の罪科は逃れがたく、身の置き所がなくなってしまっただけでなく、かれに力を貸そうとするものも見当たらなかったので、長年足利方として積み重ねてきた武功を捨てて、宮方の旗を挙げようと決心したのであった。
 何者かが
  折り得ても心緩(ゆる)すな山桜誘ふ嵐に散りもこそすれ
  (第4分冊、70ページ、折り取ったと思っても油断してはいけない。山桜が風に誘われるように、女心は誘われるとなびいてしまうから。)
と、諷歌(そえうた、別の事柄を詠んで、裏の意味を相手に伝える歌)を詠んだのは、人のあだ心のことを言ったのであろう。
 この歌は、鎌倉時代後期の臨済宗の僧で、仏国禅師と諡された高峰顕日(1241‐1316)の「折えても心ゆるすな山桜誘ふ嵐のありもこそすれ」(新続古今和歌集)という歌の、修行に油断があってはいけないという歌意を男女関係を諷する意味に変えたのである。〔高峰顕日は鎌倉時代の人だが、『新続古今和歌集』は室町時代に編纂された和歌集で、二十一代集の最後のものである。諷歌の元歌になるくらいだから、もともとの歌は、かなりよく知られていたのだろうと推測される。〕

 かくして、第23巻は終わる。高師秋が見事に出し抜かれたという話であるが、第21巻に出てくる、高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕した話と同工異曲で、この話も作り話ではないかという気がする。しかし、佐々木(塩冶)高貞の話に比べると、(女性に騙されたうえに、瀬田の橋のたもとに置き去りにされた老尼は気の毒ではあるが)、この話は、わりに明るくカラッとしている。佐々木(飽浦)信胤が南朝方に旗幟を変えた真相は、謎ということにしておこう。
 『太平記』には佐々木信胤(京極)導誉、佐々木清高、佐々木(六角)時信・氏頼父子、佐々木(塩冶)高貞、佐々木(飽浦)信胤と宇多源氏佐々木一族の武士がかなりの数登場してきたが、一族としてのまとまりはまったくなく、ばらばらに行動しているのが興味深い。清和源氏の流れをくむ、足利一族、新田一族が(新田一族の中で、足利方に属している山名氏という例外はあるが)、この時点では一族でほぼ結束して事態に対処しているのとは対照的である。
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR