FC2ブログ

2019年の2019を目指して(3)

3月31日(日)晴れ(雲が多い)

 3月は、2月同様ずっと横浜で過ごしたが、墓参りと研究会で東京に出かけた。このため、足跡を記した都県は神奈川、東京で変わらないが、市区町村は渋谷区が新たに加わり、5市区町村となった。
 横浜市営地下鉄(ブルーライン)と、JR東日本(京浜東北・根岸線)を利用したので、利用した鉄道が2社増えて5社、路線についてはさらに東急の大井町線を利用したので、3路線増えて8路線となった。上大岡、関内、石川町、新横浜、御成門、渋谷の6駅で乗り降りしたので、乗降駅は10駅となった。また大岡山と自由が丘で乗り換えたので乗換駅は2駅増えたが、渋谷駅が乗降駅のカテゴリーに移ったので、こちらは1駅増えて4駅ということになった。
 利用したバスの会社は3社と変化ないが、新たに横浜市営25、87、相鉄浜11の3路線を利用したので、3路線増えて12路線となった。乗り降りした停留所は8か所でこちらは変化していない。〔1月は31,2月は10,3月は16、累計は57〕

 このブログを含めて31件を投稿した。内訳は日記が6、読書が3、読書(歴史)が8、読書(言語ノート)が3、『太平記』が4、『神曲』が5、ジェイン・オースティンが1、推理小説が1ということである。1月からの累計は91で、内訳は日記が17、読書が10、読書(歴史)が16、トマス・モア『ユートピア』が8、読書(言語ノート)が9、『太平記』が13、『神曲』が13、ジェイン・オースティンが1、推理小説が3、詩が1ということである。いただいたコメントはなし、拍手が564、拍手コメントはなしで、1月からの累計は、コメント3件、拍手が1578ということである。
 3月中に白川静『漢字』の紹介・論評が終り、齋藤慎一『戦国時代の終焉』もまもなく紹介・論評が終わるというところまでこぎつけた。須賀・藤谷訳の『神曲』も5月中には終わるのではないかと思う。梅棹忠夫『東南アジア紀行』と、E.H.カー『歴史とは何か』は長引きそうで、そのことを考えて、これから紹介する本は軽めなものを選んでいきたいと思っている。〔1月が33,2月が30,3月は31、累計は94〕

 3月に買った本は8冊だけで、毎月10冊以上を買ってきた記録がここで中断されたことになる。1月からの累計は35冊である。本を買った書店は2店で、変わらず。しかし、読んだ本は10冊で、これは2月から持ち越した本があるためである。1月からの読んだ本の合計は30冊ということになる。
 それぞれの著者・表題・(叢書名)を列挙すると:『新古今和歌集』(岩波文庫)、大竹聡『多摩川飲み下り』(ちくま文庫)、岡谷公二『沖縄の聖地 御嶽』(平凡社新書)、重松伸司『マラッカ海峡物語』(集英社新書)、鈴木宏子『古今和歌集の創造力』(NHK BOOKS)、山脇由貴子『告発 児童相談所が子供を殺す』(文春新書)、エリー・アレグザンダー『ビール職人の醸造と推理』(創元推理文庫)、船橋洋一『シンクタンクとは何か』(中公新書)、椎名誠『おなかがすいたはらぺこだ。』(集英社文庫)、徐航明『中華料理進化論』(イースト新書Q)ということだる。〔1月が11,2月も11,3月は10,1月からの累計は32〕

 『ラジオ英会話』を20回、『遠山顕の英会話楽習』を12回、『高校生からはじめる「現代英語」』を9回、『実践ビジネス英語』を13回聴いている。1月からの通算では『ラジオ英会話』が59回、『遠山顕の英会話楽習』が36回、『高校生からはじめる「現代英語」』を24回、『実践ビジネス英語』を36回聴いたことになる。
 『まいにちフランス語』入門編を12回、応用編を7回、『まいにちスペイン語』入門編を12回、中級編を7回、『まいにちイタリア語』初級編を12回、応用編を8回聴いている。1月からの通算では『まいにちフランス語』入門編が32回、応用編が20回、『まいにちスペイン語』入門編が32回、中級編が20回、『まいにちイタリア語』初級編が31回、応用編が20回ということになる。
 『入門ビジネス英語』も聴いているが、昨年度4月~9月放送分の再放送なので、数に入れていない。4月から放送される番組も、2016年度に放送されたものの再放送なので、数に入れるかどうか迷っているところである。また、今年こそ、ポルトガル語の勉強を本格化しようと思っているのであるが、さて、どうなるか。
 NHKラジオ第二放送が23:40で終わってしまって、『NHK高校講座』が放送されないことが多くなっているのが残念である。〔1月が80,2月が109,3月が112、合計301〕

 3月はまた、映画を見に出かけることがなかったので、1月からの通算では1館で1本を見ているのみである。4月から、少しずつでも見る数を増やしていこう。〔1月は0,2月は2,3月はまた0で、合計2〕
 ハドソン・テラスさんの「楽しいスケッチ」展を見に出かけたので、2月と合わせて、展覧会に出かけたのは2回ということになる。〔1月は0,2月は1,3月は1で合計2〕

 サッカーは、3月3日に、J2第2節:横浜FC対モンテディオ山形、16日に第4節:横浜FC対アルビレックス新潟、23日に第5節:横浜FC対FC岐阜の対戦を、3月21日になでしこリーグ2部第1節:横浜FCシーガルズ対バニーズ京都SCの対戦を観戦しているので、4試合を見たことになる。すべてニッパツ三ツ沢球技場で行われた試合である。観戦した試合の合計は6試合となる。
 1073回のミニtoto-A、1075回のミニtoto-A, Bをあてた。その後、まったく当たらなくなっているのが問題である。1月からの累計では10回あてたことになる。〔1月が6,2月が4,3月が7で合計は17〕

 アルコール類を口にしなかったのは5日で、2月の1日に比べるとだいぶ増えている。(今日もこれを書いている時点では口にしていないが、後で飲む予定である。) 〔1月が7,2月が1,3月が5、累計は13〕 
スポンサーサイト

エリー・アレグザンダー『ビール職人の醸造と推理』

3月30日(土)曇り

 9月28日、エリー・アレグザンダー『ビール職人の醸造と推理』(創元推理文庫)を読み終える。原題はDeath on Tapでそのまま訳せば「樽出しの死」ということになるだろうか。樽はもちろん、ビール樽である。

 アメリカ合衆国の北西の隅を形成するワシントン州の山のなかにあるレヴンワース(Leavenworth)はその中心部がドイツのバイエルン(バヴァリア)地方の村を模して建設されている、「アメリカ太平洋岸北西部のバイエルン地方」で、ビールづくりが盛んである。この町で一番のブルワリー(ビール醸造所)兼パブである<デア・ケラー>を経営するクラウス家の長男マックの嫁であるスローンがこの小説の語り手であり、主人公でもある。

 1970年代にドイツから移住してきたオットーとウルスラのクラウス夫妻はドイツ流の技術と長年の努力の結果、今日の地位を築き上げた(もともとこの地方はドイツ系の住民が多いのである)。孤児として、里親の家を渡り歩いて育ってきたスローンはその料理の腕を見込まれて、クラウス夫妻の長男であるマックと結婚した。それから15年間というもの、アレックスという息子も生まれ、幸せな日々が続いていたのだが、ある日、マックが彼女の事務所で雇ったばかりの23歳のウェイトレス(ヘイリー)と浮気をしている現場に出あう。

 10年前に買った家族のための家からマックを追い出し、彼女は外に出て働くことにする。マックの弟であるハンスの口利きで、町で新たに開業しようとしている<ニトロ>で働くことにする。<ニトロ>の経営者であるギャレット・ストロングは、シアトルでエンジニアとして働くかたわら、ビールの自家醸造(ホームブルーイング)を楽しんでいたという。レブンスワースに住んでいた彼の大叔母のテスが亡くなったことで、彼女の住まいを相続し、そこを改造して、この町で初めてのナノブルワリーを始めようとしているのである。大手のビール醸造業者に対して、地ビールの小規模な醸造業者をマイクロブルワリーと呼び、それよりもさらに小規模な醸造業者をナノブルワリーという。規模が小さい分、新しい味や原料を自由に試せるという利点があるのだそうだ。

 <ニトロ>の開店の日、事務室が荒らされて、何か書類が探されたという形跡があった。ギャレットは、それを警察に届けるなという。ホップ業者を自称するヴァンという男が、ホップを売り込みに来る。かれは<デア・ケラー>を知らないという。どこか、おかしい。
 開店の日には3種類のビールを用意した。シトラスの風味とホップの香りが豊かなパカーアップIPA、濃厚で甘みのあるブラックチェリー・スタウト、夏向きのライト・エールであるボトル・ブロンド(それぞれモデルはあるだろうが、実際に存在するビールではなさそうだ)。どれも好評である。店には、同業者たちもやってくる。まず<デア・ケラー>のクラウス一家。ブルーインズ・ブルーイングの経営者のブルーイン・マスターソンと醸造責任者のエディ、愛想のいいブルーインと、職人気質で不愛想なエディという対照的な組み合わせである。飲みすぎそうなブルーインをスローンがなだめていると、ヴァンがやってくる。彼が持ってきたホップを使ったビールを飲んでほしいとスローンがいうと、なぜかエディーがそれに反応する・・・。そこへマックが、あろうことか、ヘイルを連れてやってくる。ヘイルに対して、なぜか食って掛かるのはエディーである。どうやら騒ぎは収まったが…。

 翌日、<ニトロ>に出勤したスローンは、醸造所のタンクの中にエディーの死骸を見つける。彼女は、すぐにマイヤーズ警察署長に連絡を取る。署長は女性で、この町で育った「古顔」である。彼女は、醸造所の床に落ちていたライターを拾う。それはマックの持ち物であった。さらに、発酵槽から彼の指紋が見つかったし、犯行時のアリバイもない・・・ 彼の浮気を憎むスローンではあるが、自分の息子の父親が殺人犯だとは信じたくない…。幸い、この町の人々の大部分の気心は知れている。彼女はあちこちで事件の周辺を探る…。

 この後の展開は読者の想像にお任せするが、町の情報はすべて握っていないと気が済まない観光協会の運営者にして不動産屋というエイプリル・アブリン(彼女は町をすべてバイエルン風に改造する情熱に取りつかれているとともに、途方もない言いふらし屋である)がストーリーをかき回す一方で、マイヤーズ署長は手堅く捜査を進めていく様子である。様々なうわさが飛び交うが、偽の情報をわざと紛れ込ませる人物がいるかもしれない…。

 推理小説としてみた場合、登場人物、特にマックとヘイリーの性格と行動が十分に描きこまれているとはいえず、それが事件とうまくかみ合っているようには思えないのが欠点ではないか。しかし、それを補って余りあるのが、ビールづくりに関わる描写で、ホップが重要な役割を演じているところにこの作品の推理小説としての独自性が感じられる。「ホップの生産は太平洋北西部、特にヤキマ・ヴァレーのような太陽の降り注ぐ温暖な地域で急成長中のビジネスだ。クラフト・ビールが全国で絶大な人気を博すにつれ、ホップの需要は一気に高まった。・・・醸造業者が現在直面する一番大きな問題は、ホップの仕入れ先を確保することらしい。・・・大きなビール会社が人気の品種を抱え込んでいるため、小さな醸造業者が代表的なホップを仕入れるのはほぼ不可能な状況になっている。ホップの契約には将来数十年にわたるものもあり、そのせいでホップ不足が起き、新しい品種への需要が高まっている…(145-146ページ) 私が調べたところでは全米のホップの7割以上が、ワシントン州で生産されているようである。

 ビールの度数は5%か6%くらいだが、この作品中には10%というドッペルボックをはじめ、様々なビールが登場する(小説だから、そのままうのみにはできないにしても、欧米のビールが日本より多様性に富んでいることは事実である)。それにビールを使ったり、使わなかったりする、料理の工夫の描写も面白い。ビールのつまみは、軽いものというのが通年だが、軽いものであるからこその工夫もあるのである。
 私自身はというと、尿酸値を気にしてビールはほとんど飲まないようにしているのだが、それでも、ワシントン州には金とひまがあれば出かけてみたいという気を起こさせる小説である。作者はこんなことも付け加えている:「ヤキマ・ヴァレーのワイナリーは、賞も獲得する見事なワインの生産地として世界じゅうに知られている。…この地域には、50を超えるワイナリーとブドウ園があるが、職人が作るワインと、収穫祭や週末ごとのイベントなど、さまざまな催し物を求めて、世界各地から多くのワイン愛好家が訪れる。」(106ページ) 

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(14‐1)

3月29日(金)曇り、肌寒い。

 「暗い森」に迷いこんでしまったダンテは、天国の貴婦人たちの願いによって彼を救い出すためにやってきたローマ黄金時代の大詩人ウェルギリウスのたましいと出会い、かれに案内されて地獄と煉獄を、さらによりふさわしいたましいに導かれて天国を訪ねる旅へと出発する。
 地獄の門をくぐった彼らは、地獄の第1圏(洗礼を受けずに死んだ幼児たち、正しく生きた異教徒たち)、第2圏(愛欲の罪を犯したたましい)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)と地獄の奥深くに下ってゆく。そしてスティクスの沼を渡って、地獄の上層と下層の境界であるディース城の城門にたどりつく。
 悪魔の妨害を天使の力ではねのけて、ディース城内に入った2人は第6圏(異端の罪)を通り、第7圏へと降りる。その第1冠状地では暴力の罪を犯した人々のたましいが、熱くたぎる血の流れの中に沈められ、第2冠状地では自殺した人々のたましいが樹木になって嘆き悲しみ、蕩尽者たちのたましいが雌犬に追いかけられ、噛み千切られていた。逃げ惑うたましいに枝を折られ、嘆いている灌木は、自分がフィレンツェの市民であったことを告げる。

 生まれ故郷への愛に心を
動かされたので、私はちらった枝を寄せ集め、
もはや口をきかなくなったあの木に戻した。
(1‐3行、323ページ) そして、2人は第2の冠状地から、第3の冠状地へと移動する。

 そこは草木が一本も生えていない平らな砂地で、自殺者たちのたましいが作っている森に囲まれていた。
 おお、神の復讐よ、私の眼に
示されたものを読む人たちのすべてが
いかにあなたを恐れることになろうか。
 裸のたましいたちの群れが、ここかしこに
悲惨な様子で泣いているのが見えたが、
群れによって異なる掟に縛られているようであった。
(16‐21行、324ページ) 第3冠状地では、反自然の罪を犯したたましいたちが、その罰を受けている。その罪を反映して、この第3冠状地は荒涼とした殺風景な様子をしている。たましいたちは、彼らが生前に犯した罪の種類によって、3つの集団に分けられている。仰向けに寝転がっているのは、天を侮辱しようとした瀆神者たちであり、身を丸くすぼめて地にうずくまっているのは高利貸、絶えず歩きまわっているのは男色者であった。

 まわりを歩きめぐっている者がいちばん多く、
寝て苦しんでいる者は最も少なかったが、
神罰に対する(不平の)口数はいちばん多かった。
 その砂地全体の上にゆっくりと
風のないときの山に降る雪のように、
大粒の火の雨が降りそそいでいた。
(25‐30行、324ページ) 13‐14世紀のフィレンツェでは、男色者がいちばん多く、2番目に高利貸が多かったことが、この個所で示されていると注記されている。瀆神者・冒瀆者たちが、数は少ないが、不平・不満は最も多い。
 3つの集団が紹介される順序は、罪の重さとは逆で、男色・高利貸・瀆神と罪は重くなっているはずであるが、重い方から軽い方へと紹介されている。

 火の雨は砂の上に落ちて、新たな発火作用を起こし、たましいたちをさらに苦しめていた。多くのたましいたちが火の雨を振り払おうと手を動かしていたが、その中に火を恐れる様子も見せずに、傲然とした態度で砂の上に横たわっている巨漢が見えた。この巨漢は、ギリシア神話に出てくるカパネウスのたましいであることが、彼の口から語られる。かれはゼウスを冒瀆した罪で雷に打たれ、地獄に堕ちたのである。ゼウスは異教の神であるが、キリスト教の神の予型と考えられていたと注記されている。
 地獄に堕ちたたましいたちが、一様に描かれているわけではなく、それぞれに個性をもつ存在として描き出され、しかも依然として神に対して反抗し続けているたましいが登場するところに、ダンテの思想の一端をうかがうべきなのであろう。とにかく、勧善懲悪といった一筋の縄だけで、この作品を解釈することができないのは確かである。
 焼けた砂の上を避けて、2人は慎重に歩み続ける。彼らはこの後、何に出会うのであろうか。 

E.H.カー『歴史とは何か』(8)

3月28日(木)晴れのち曇り

〔これまでの概要〕
Ⅰ 歴史とは何か
 19世紀の歴史家たちは、歴史はある方向に向かって無限に進歩していくものと考えていたので、歴史家の仕事は過去の事実を掘り起こすことだと信じていた。しかし、過去の事実を掘り起こすのは現在の歴史家であり、そこにはその歴史家の考えが反映されていると考えるべきである。それで、著者は歴史とは過去の事実と現在の歴史家との対話であるという考えを提案している。
Ⅱ 社会と個人
 社会と切り離された個人は存在しない。近代社会の特徴は、個人が重視されるようになったことであるといわれるが、社会の方もそれに応じて変化していることを見逃してはならない。歴史家もまたそのように変化している社会の中の個人であり、それぞれの時代や社会環境に影響されながら、歴史を見ている。

Ⅱ 社会と個人(続き)
 時代の流れと歴史家
 カーは、グロートとモムゼン、トレヴェリアンとネーミアという4人の歴史家たちが、それぞれの時代と社会の影響のもとにその歴史研究を進めたということを説明してきた。彼らは生涯にわたって、ほぼ一貫した立場を取り続けてきたが、歴史家の中にはその人物が生きた社会の変化の影響を受けて、考え方を変えていった人物も見られる。
 その代表例として、カーはドイツの歴史家であるマイネッケ(Friedrich Meinecke, 1862-1954)の名をあげている。マイネッケは『世界市民主義と民族国家』(Weltbürgertum und Nationalstaat, 1907)〔ウィキペディアでは「民族国家」ではなく「国民国家」と訳されている〕では、書物が書かれたヴィルヘルム時代に先立つ、ビスマルク時代に成立したドイツ帝国をドイツの民族的理想の実現であると考え、民族主義は普遍主義の最高形態であると論じた。次に、ワイマール時代に書かれた『国家的理性の観念』(Die Idee der Staatsräson in der neueren Geschite, 1924)〔この書物では、1925年発行とあるが、ウィキペディアで調べたところでは1924年となっていた〕ではワイマール時代の価値観の分裂の中での当惑が書物の中に反映され、ナチスに迫害されていた時代に書かれた『歴史主義の成立』(Die Entstehung des Historismus, 1936)では存在するものはすべて正しいと考える「歴史主義」を斥けながら、歴史的・相対的なものと超合理的・絶対的なものとの間を動揺している。第二次世界大戦後、前の大戦以上に壊滅的な敗北を経験したマイネッケは『ドイツの破局』(Die Deutsche Katastrophe, 1946)〔一般には『ドイツの悲劇』と訳されている〕では歴史は盲目で仮借ない偶然に翻弄されているとの考えを吐露している。それぞれの時代の様相に影響されつつ、かれの歴史観は変化しているのである。

 次に、カーは(英国の読者にとって)より手近な例として、すでに登場したハーバート・バターフィールド(Herbert Butterfield, 1900-1979、この書物の「19世紀の歴史観」の中に登場している)を引き合いに出す。彼は1931年に出版した『ホイッグ的な歴史解釈』(The Whig Interpretation of History)〔これも既に述べたが、越智武臣ほかによって『ウィッグ史観批判――現代歴史学の反省』という邦題で1967年に未来社から翻訳が出版されている。この本は昔、大学の図書館から借りだして研究室に置いていたが、大学をやめるときに図書館に返したので、手元にはない〕で大成功を収めた。この書物の中で、バターフィールドは「ホイッグ史観」を批判し、「現在との関係において過去を研究する」(57ページ)ことにその一番の問題があると述べた。〔そうではなくて、後知恵的に歴史を解釈することはよくないといったのだという見解もある。〕 
 ところが、国際的なファシズムに対する戦いである第二次世界大戦中の1944年に発表した小著『イギリス人とその歴史との協力』(The Englishman and His History)ではホイッグ的な伝統をよしとして、それを守り抜くことの重要性を論じている。
 この2人の歴史家の変化は、歴史家自身も歴史の流れの中に置かれていることをよく物語っている。

 歴史の産物としての歴史家
 19世紀の歴史家たちは、歴史を進歩の過程と考えていた。ところが、国際情勢が変わったことで、それほど将来に希望が持てなくなると、この考えは衰えていった。
 第一次世界大戦後、トインビー(Arnold Joseph Toynbee, 1889 - 1975)は直線的歴史観に代えて、循環理論を持ち出した。カーはこの考え方を「没落期社会の典型的イデオロギー」(59ページ)と酷評し、さらに「絶望的な試み」「失敗」(同上)と切り捨てている。その後の歴史家たちは、歴史には何の一般的な型もないと考えるようになってきている。
 このような歴史観の変化は、その歴史観を抱く歴史家たちを取り巻く社会の変化と関係しているというのがカーの考えである。「ある社会がどういう歴史を書くか、どういう歴史を書かないかということほど、その社会の性格を意味深く暗示するものはありません。」(60ページ) とカーは説いている。
 この主張を裏付ける例として、カーはオランダの歴史家ガイル(Pieter Geyl, 1887 - 1966)〔ドイツ語読みをすれば、確かにガイルであるが、オランダ人なので別の読み方をするのではないかと思う〕の「ナポレオンの功罪」(Napoleon, For and Against, 1948)という表題で英訳されている論文について取り上げる。そこでは19世紀のフランスの歴史家たちのナポレオンに対する評価が、19世紀におけるフランスの政治生活および政治思想の変化と闘争との姿をどのように反映しているかがたどられているという。歴史家たちの思想は、他の人々と同様に、時間的及び空間的な環境によって作り上げられているのだという。なお、ガイルはトインビーの批判者として有名な歴史家だそうである。

 人間は自分自身の社会的、あるいは歴史的な状況を認識することのできる能力を持っているが、その能力をどのように生かしていくか、自分がどのように巻き込まれているかを見極めたうえで、どのように対処するかはそれぞれの個性の問題である。歴史家は個人であるとともに、歴史および社会の産物である〔別に歴史家に限ったことではない〕。

 歴史哲学の根幹にかかわる問題を論じたこの書物を、社会学者の清水幾太郎が訳しているということで、訳語などいろいろと問題があるのではないかと思うが、その点については今回はあまり触れなかった。マイネッケの歴史研究については、林健太郎をはじめとして日本でも多くの研究者がいるはずで、そういう人たちの意見を聞きながら、翻訳作業を進めていくべきではなかったかと思う。トインビーの著書は私も持っていたが、研究室を引き払うときに、知人にゆずってしまったので、手元にはないし、そのことをあまり悔やんでもいない。

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(8)

3月27日(水)晴れ

これまでの概要
第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
第3章 沼尻の合戦 天正12年
第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
第5章 合戦の中に生きる人びと
第6章 沼尻の合戦後の動向
第7章 秀吉による東国の戦後処理
 1  佐野領の北条領国化
 2  徳川家康の立場

本能寺の変{天正10(1582)年6月}をきっかけとして、織田信長に代わり、豊臣秀吉が台頭し、天下人として全国統一を目指すことになった。その頃、関東地方では、小田原を中心として、関東の平定という「北条の夢」を負い北上を続ける北条氏政・氏直父子と、北関東に古くから地盤を築いていた佐竹義重、宇都宮国綱らの領主たちとの抗争がつづいていた。
 天正12年(1584)に秀吉は、信長の次男・信雄と徳川家康の連合軍と小牧・長久手で戦う。同じ時期に、北条氏政・氏直父子と佐竹・宇都宮らとが、下野(栃木県)南部の沼尻で戦いを交える。北関東の領主たちは秀吉と連携し、氏政・氏直父子は家康と同盟関係にあり、この合戦は中央における小牧・長久手の戦いと連動する性格をもっていた。
 小牧・長久手の戦いにおける戦闘で信雄・家康連合軍は勝利に終わったが、大局的には政治力と軍事力で勝る秀吉側が優勢を保ち、やがて信雄、さらに家康との間で講和が結ばれ、信雄、家康は秀吉に臣従する形となる。他方、沼尻の合戦は引き分けの形で和平が結ばれるが、氏政・氏直父子はその後の戦後処理をたくみに進め、関東地方の統一を目前にするところまでこぎつける。しかし、その北条氏の勢力拡大は、安定した平和を築こうとする秀吉の大義名分と衝突するものであった。秀吉は上杉景勝を通じて、関東北部の領主たちと連携して戦闘に備える一方で、新たに自己の陣営に加わった家康を通じて、北条との平和交渉を進めるという和戦両様の作戦を展開することになる。

 今回は、第7章「秀吉による東国の戦後処理」の後半を見ていく。
 3 豊臣秀吉の東国政策
 関白任官と天下静謐
 天正13(1585)年7月11日、羽柴秀吉は関白となる。これにより、秀吉の権威は確固たるものとなった。これ以後、かれは全国を統治する権限の由来を、この地位と結びつけるようになった。彼が遺した書簡には、天皇の命により、「天下静謐」を実現するという意思が記されている。
 具体的にどのような手立てを講じるかというと:
 ①国軍境目総論については、双方の主張を調査のうえ、天皇の命として秀吉が裁定する。
 ②軍事紛争は天皇の命令により即座に停止を命じる。
 ③このことに違反した場合、秀吉が成敗する。
 これはその後、豊臣平和令として一括されるようになる諸政策のうちで、「惣無事令」と名づけられている施策の原型となるものと考えられる。これ以後、秀吉は自分の裁定に従わぬものを成敗するという方針を掲げて、統一政策を推進することになる。

 関東停戦令 → 山上道牛と停戦令の伝達
 秀吉の天下静謐の論理は、関東にも適用される。天正14(1586)年に佐野家に出された文書によってこのことは確認できる。
 この内容を盛り込んだ文書は佐野家の家臣である山上道牛によって北関東の領主たちに伝達・回覧されたが、北条氏政・氏直父子に伝えられた形跡はない。
 同じ天正14年5月以降には、蘆名・伊達・田村三家に対し「和睦」が伝達された。奥羽地方にはこれとは別の発令があったこともうかがわれる。これらのことから「惣無事令」の発令は「総括的に出されたのではなく、個別的・限定的に出されたと考えられる。一般に中世の法は総括的に出されるものはない。「惣無事令」もこの系譜を引いているのである。」(163ページ)
 その一方で、「北条氏政・氏直には「惣無事令」の気配すらない。」(同上)

 関東惣無事
 徳川家康は天正14(1586)年10月27日に大坂城で羽柴秀吉と会見した後、三河に戻り、さらに浜松帰着は11月20日だった。上洛中から北条氏政・氏直父子とは連絡を取っていたと考えられる。浜松に帰る前の11月15日付で北条氏政へ書簡を送っているが、おそらく秀吉による天下静謐を命じる直書に添えたものであったと推測され、氏政・氏直父子に熟慮を促している。家康に課せられていたのは、関東に軍勢を出さないで無事に済むように事態を収拾することであった。

 4 北条の対豊臣和平交渉
 北条の戦闘準備
 関東へは軍勢を出さないように、無事に済むようにということは、逆にいえば、軍勢を出す事態も想定してのことである。
 天正15(1587)年の豊臣・北条交渉については明らかではないが、事態は平和的な方向に向かっているわけではなかった。
 北条方の動きとしてはっきりしているのは、小田原城と、各地の支城の普請をして、防備を固めていることである。さらに軍事動員も発令され、軍事物資が調達されていたこともわかる。

 一方豊臣方の動きはよくわからないが、天正15年前半は九州の島津攻めを行なって、島津義久を降伏させ、7月14日に大坂城に凱旋している。9月には聚楽第が完成し、大坂城から居を移している。関東問題は先送りされ、天正15年後半から動き出す。

 北条の方針転換
 天正16(1588)年になると、それまで戦争の準備をしていた北条側は一転して、戦闘の回避に向かう。天正16年2月に、北条氏政の意を受けた家臣の笠原康明が京都で秀吉の侍医であった施薬院全宗と接触、全宗は氏政の弟の氏規にあてて上洛を待つという書簡を送る。氏政の書状には、氏規の上洛について記されていたと考えられる。こうして、北条氏は北条氏との和平交渉にその路線を変えたように見えた。

 北条氏規の上洛の遅れ → 巨額の上洛資金
 しかし、北条家の方針は完全に一本化したわけではなかったようである。得に下野国内で活躍していた氏政の弟氏照は、秀吉との和平路線に批判的だったらしい。かれは伊達政宗との交渉を活発化させ、両者で佐竹義重を挟撃する交渉を進めていた。

 その一方で対豊臣和平交渉重順調には進まず、間に入っている徳川家康は我慢を強いられた。豊臣方は、交渉が決裂すればすぐに北条攻めに踏み切る準備を進めているのである。
 5月21日に、家康は氏政・氏直宛てに3か条の起請文を突き付けた。そこで家康は、秀吉に対して自分が北条父子のことを悪くいったという事実はないこと、今年中に氏政の兄弟の誰かが上洛すること、それができなければ氏直の妻である徳川の娘を返すように(つまり同盟を破棄する)と申し送った。
 これに対し、北条側は氏規を上洛させることを決めて、その資金を調達した。しかし、資金集めを始めて1か月たってもまだ上洛は実現しない。〔ここで氏政・氏直父子と、家康の意識が完全にずれていることが推測できる。北条の法は、自分たちの体面を重んじて、それなりの準備をして送り出すことを考えているのに対し、家康の方は、そんなことはどうでもいいからできるだけ早く臣従の形を整えろといっているのだが、北条の方は臣従ということがどうも納得できていないのである。〕

 氏規の上洛に際して、北条家では大規模な資金集めが行なわれた。その際、家臣の負担をできるだけ減らすことが心がけられたようである。北条一族と家臣団との関係は微妙であり、上洛資金として必要だと考えられていた費用は巨額であった。

 赦免と御礼
 天正16(1588)年8月10日に北条氏規は岡崎に到着した。京都には8月17日に到着し、相国寺に宿泊したことが記録に残っている。8月22日に大坂城で対面。このために秀吉は諸大名に出仕の命令を下していた。「諸大名が居並ぶ対面の間はさぞや威圧的であったろう。秀吉が意識した政治的場面はこの座に集中的に表現されていたはずである。」(177ページ) 29日に氏規は関東に戻る。

 この後、9月2日に秀吉は関東の諸領主に朱印状を送って、北条氏は「御赦免とした」と告げている。このことで「基本的に関東地方全域が豊臣政権に属したとみなされる。秀吉は関東における敵対関係を丸ごと飲み込んでしまった。」(179ページ) 関東地方の政治状況は豊臣家による平和の下で新時代を迎える。「『豊臣の天下』は次のステージに進んだ」(180ページ)のである。

 ただ、このステージに進んだことで、秀吉の天下統一事業が完成したわけではないのはご承知の通りである。全国統一と平和を求める「豊臣の天下」の論理と、関東の覇者になるという「北条の夢」の対立は、根本的には解決されていないのである。この問題は第8章「『豊臣の天下』と『北条の夢』」 でよりはっきりした形をとることになる。それはまた次回。

 笠原氏は後北条氏の最初からの家臣で、小机城が後北条氏の手に入ったときに、その最初の城主となったのが笠原信為であった。その後、後北条氏の一族が代々の城主となったが、笠原一族は小机衆の中心として活動した。一族の中には、徳川幕府の旗本になった者もいたようである。北条氏規は子どものころ、今川氏に人質に送られていた時に、家康といっしょだったので、交渉係を務めることが多かったのだが、その氏規に交渉を任せきりにしてしまうところに、北条氏の甘さがあったとも考えられる。家康が直接に秀吉と会っていることを考えると、氏政か氏直のどちらかが上洛すべきだったと思うのである。」 

 本日は、これから研究会に出かけるので、皆様のブログへの訪問は失礼させていただきます。ごきげんよう。 

『太平記』(255)

3月26日(火)朝のうちは雨が降っていたが、昼頃から晴れ

 康永元年(この年の4月に暦応から改元、南朝興国3年、1342)8月、故伏見院の33年の遠忌の仏事を終えて帰る光厳上皇、光明帝の行列に、笠懸を終えて宿所にもどろうとしていた土岐頼遠、二階堂行春らが行き合い、二階堂は直ちに下馬して畏まったが、土岐は、下馬を命じる公家たちをあざ笑い、かえって、「院」を「犬」に見立てて矢を射るなどの狼藉に及んだ。足利方の勝利に大功のあった土岐頼遠であったが、足利直義はこの狼藉に激怒し、夢窓疎石の取り成しにもかかわらず土岐は六条河原で斬られた。

 吉野の南朝の方では、伊予国(愛媛県)から専使(特別の使者)がやって来て、然るべき大将を一人こちらに遣わしてくだされば、南朝のために戦いましょうと奏上してきたので、脇屋刑部卿義助を派遣しようということで朝廷の意見はまとまった。しかし、吉野から伊予に向かう道はすべて足利方が抑えているので、どうしたらよいかと思っていると、備前の国の住人である佐々木三郎左衛門信胤の下から、早馬による使いが到着して、先月の23日に、備前の小豆島に押し渡り、南朝方に味方する兵をあげ、この島に勢力を張っていた足利方の武士たちを少々討ち取り、京都と連絡する船の水路を塞ぎましたと云って来た。吉野の公家たちは、これを聞いて、大将が伊予に向かって出発する道が開け、そのことで分かるように天の運がわれわれに味方しはじめたのだろうと大喜びをしたのであった。

 この佐々木信胤という武士は、飽浦(あくら)信胤とも言い、『平家物語』巻十に描かれた藤戸の戦いで活躍した佐々木次郎盛綱の子孫で、『太平記』の中にすでに何度か登場してきた。すなわち、『太平記』14巻で足利一族の細川定禅の呼びかけに呼応して京都の後醍醐天皇に対する反乱を起こした武士であり、16巻には、宮方と足利方が激突した湊川の合戦で、「佐々木筑前守こそ、西国一の精兵」(第3分冊73ページ、「精兵」は弓を強く引く兵)と言われ、宮方の本間孫四郎に対抗する代表選手に選ばれた人物である(その後、どうなったかは、16巻をご覧ください)。そして備前、備中の足利方の有力武士としての地位を築き、幕府に対して恨むようなことはなかったはずであるのに、このように宮方に寝返ったのはいかなることであろうか。弧の物語にも同じような例がいくつか見られたが、美人をめぐる争いが原因だったのである。

 その頃、西園寺家の庶流で清華家のひとつである菊亭家出身の若々しく美しい女房(ここでは貴族に仕える女性という意味であろう)がいた。もともと軽い性格であり、特に思い定めた相手というのはいなかったので、誘いを寄せる人は多かったが、実際には相手もなく、誰に頼ったらいいか判断がつかずに日を過ごしていた。しかし、なかなか入ることの難しい宮中で生活していたとはいえ、玉すだれの隙間から風のように入ってくる恋の便りはないわけではなく、幕府の中で権勢をふるう高一族の一人である師秋(師直の従兄弟)が通ってくるようになり、人知れず言い交した仲という状態が続いていた。

 初めのうちは人目を忍んでいたのだが、後になるとすっかりしまりがなくなって、不都合にも宮中を退出して実家にばかりいたので、宮仕えの方もなおざりになって、菊亭家の当主である左大臣(該当する人物は不詳であると、岩波文庫版の脚注に記されている)も、その跡継ぎも、事情を知ってしまい、「中をさえぎるうっとうしい人目よ」という状態から、さらに「人目を気にせず、白昼堂々と通うことを許された」状態へと関係は進んだのであった。

 さて、高師秋には、ずっと以前から妻としていて、子どももたくさん生まれていた鎌倉出身の女性がいた。こちらの女性はもともと田舎ものであったために、嫉妬深く、しかも気性が荒く、夫婦喧嘩をすると指にかみついたりした。とはいえ、子どもの母親なので、捨てては置けないと思って長年連れ添って暮らしてきたのである。ところがその師秋が、伊勢の守護に任じられることになり、2人の妻をともに連れて伊勢に向かうことになった。

 前半は佐々木信胤が足利方から宮方に寝返ったことを記しているが、後半はその理由になった幕府の要人高師秋の妻を信胤が奪い取ったという話の前半部分だけなので、どうも話がうまくつながっていないように思われるが、次回で話がつながるので、そう思ってお付き合いください。
 実は今回、一ばん驚いたのは、現在では香川県に属している小豆島がこの時代には備前の国に属していたということである。小豆島は長く、本州に属していたのであるが、今回登場する佐々木(飽浦)信胤が、四国の武士である細川師氏に滅ぼされたために、その後は小豆島は四国に組み込まれることになったとのことである。 

日記抄(3月19日~25日)

3月25日(月)晴れ後曇り

 3月19日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、これまでの記事の補遺・訂正等:

3月19日
 3月17日にロック歌手の内田裕也さんが亡くなった。妻であった樹木希林さんの跡を追うような亡くなり方だった。内田さんというと、思い出すのが、吉川潮さんの『完本・突飛な芸人伝』(河出文庫、2006)に出てくる吉川さんと(これまた故人になった)月亭可朝師匠のやりとりである。
 「飲んでいるうちに前科の話になって、逮捕されたり、取り調べを受けたことのある芸人が何人いるか数えてみた。大阪は可朝を始め、横山やすし、結城哲也、間寛平、桂きん枝と豪華な顔ぶれだ。ところが東京は落語家の名前が出ない。二、三人いることはいるのだが、無名だし罪状もたいしたことない。
「色物は東京ぼん太(昭和61年死亡)と左とん平が賭博で逮捕されてますが、イマイチですね。東京はだらしねえなあ。それに比べて大阪は人材が豊富だ」と、私。
「そういうの人材いいまっかいな」
「この逮捕された連中を集めて会を開くというのはどうでしょう」
「そらオモロイわ」
 ひょうたんから駒が出た。
「会のタイトルは『警察が恐くて芸人ができるか‼』でどうでしょう」
「『私たちは立派に更生しました』というのもええで」
「ゲストに大麻不法所持の桑名正博と暴行の内田裕也を呼んで歌ってもらいましょう。花柳幻舟に踊ってもらうのいいな」
「後援に弁護士と保護司を付ける」
「最後にみんなで『網走番外地』を合唱するいうんはどうや」
 いろんなアイデアが飛び出した。
 酒席の座興でなく、私は本気で企画を立てるつもりだった。」(吉川、21‐22ページ)
 ここで名前が挙がった方々の多くが故人になられている。諸行無常。あの世でエンマ大王が演芸大会を開いて悦に入っているかと思うと、まことに悔しい。

3月20日
 NHKラジオの『英会話タイム・トライアル』で、”Which is easier to learn, the shamisen or the shakuhachi?”と、邦楽の話題が飛び出した。会話の中で、尺八をJapanese flluteと言っていたのが、どうも引っかかった。尺八は縦笛だし、フルートは横笛である。そうかといって、縦笛のクラリネットやオーボエはリードをつけて演奏するが、尺八にはリードはない。そのあたり、どのように説明していくかが難しい。
 三味線といえば、100歳を超える長寿であった私の伯母は、三味線の師匠であったが、若いころは西洋音楽を勉強していたようである。和洋両方の音楽の素養があるというのは、なかなかまねのできないことだと思う。

3月21日
 墓参りに出かける。本日は彼岸の中日なので、人出が多かった。
 墓参りを終えて、急いで横浜に帰り、ニッパツ三ツ沢球技場で、なでしこリーグ2部第1節の横浜FCシーガルズ対バニーズ京都SCの試合を見る。思っていたよりも移動に時間がかかり、前半15分くらいのところからの観戦となった。昨年、今一歩のところで一部昇格を逃したシーガルズは、2部の得点王だった大瀧選手と、キャプテンを務めていた加賀選手などかなりのメンバーが去ったので、今年はどんな戦いぶりになるのか気になっていたが、チームのまとまりもよく、明るい雰囲気で試合を進めていたので、安心した。後半風上になったのが幸いしたか、高橋選手のゴールで1点を先取し、そのまま、守りに入るというのではなく、最後まで攻め続けて相手チームの反撃を許さず、勝ち点3をとった。追加点が取れなかったことを除けば、まず上出来のスタートではなかったかと思う。

 重松伸司『マラッカ海峡物語』(集英社新書)を読み終える。マラッカ海峡はマレー半島とスマトラ島の間の海峡であるが、東南アジアにおける海上交通の要衝として知られてきた。ここでは海峡にうかぶ島であるペナン島の歴史をたどり、その中で、この島に入植・定住・移住した中国人、インド人、アルメニア人…という多様な人々の足跡を追いかけている(日本人ももちろん、含まれている)。対象そのものについての興味もかきたてられるが、多文化共生ということを考えるうえでも参考になる書物であろう。

3月22日
 鈴木宏子『古今和歌集の創造力』(NHK BOOKS)を読み終える。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』をボロクソにけなし、『万葉集』への回帰を主張した正岡子規の議論から、近・現代の短歌は始まっているのだが、『古今和歌集』にはそれなりの創造性と意義があったのではないかということが詳しく論じられている。特に和歌における技巧が工夫されたことがその後、大きな影響を持ったように思われる。技巧にとらわれず、素直に見たまま、感じたままを歌にしろなどと言われても、なかなか創作はできないものである。そのあたりのことを考えている人、悩んでいる人には大いに参考になる本であろう。

3月23日
 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第6節:横浜FC対FC岐阜の対戦を観戦した。開幕からホームでは1勝もできず、アウェーで1勝しただけの横浜は、52歳の三浦カズ選手をFWで先発起用、ほかに、伊野波選手、松井大輔選手、レアンドロドミンゲス選手とJ1で活躍した選手を先発起用。今季初出場の三浦カズ選手の動きはなかなか良かったが、決定的なチャンスを作るに至らず。前半は一進一退の攻防が続いて両チーム無得点。後半、横浜は三浦カズ選手に代えて、イバ選手を投入。次第に横浜が優勢になり、57分にイバ選手がPKを決めて先制。さらに85分にはイバ選手から受けたボールを松浦選手が決めて勝利を決定づけた。

3月24日
 山脇由貴子『告発 児童相談所が子どもを殺す』(文春新書)を読み終える。最近の児童虐待→死をめぐって、児童相談所を増やすことが、その対策として議論されているが、果たしてそれが本当に効果的な方策なのかということを考えさせる本である。しかし、2016年9月に発行されたこの本が、まだ版を重ねていない。ということは、児童虐待の問題は、多くのひとが重大だとは思っていても、直視することはできない→したくない問題であるということかもしれない。

3月25日
 昨日、児童相談所が抱えている様々な問題を告発した山脇由貴子さんの書物を読み終えたところで、本日の『朝日』朝刊の「フォーラム」の欄では児童福祉司の専門性を取り上げていた。千葉県野田市の虐待死事件を担当した児童相談所の児童福祉司たちは社会福祉士の資格を持っていて、県の福祉職職員として採用されていたという。山脇さんは、児相の児童福祉司たちが県の行政職からの横滑りで、専門性もあまりないし、すぐにほかの職場に移っていくという事例が多いことを問題にしているのだが、福祉職として採用されていて、相当の資格を持っていても問題の解決に役立たないということになると、いよいよ問題は深刻である。さまざまな職業に携わる人々の中での専門性ということが、どうもあまり真剣に考えられている様子がないと思われるのは、同じ新聞の「専門職大学」⁉をめぐる記事を読んでいても感じられることである。これらの問題については、これからもしつこく追いかけていくことにしたい。
 

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』(3)

3月24日(日)晴れ
 1957年から58年にかけて、また1961年から62年にかけて、著者である梅棹忠夫は東南アジアにおける学術調査に参加し、熱帯における動植物の生態や、この地域に暮らす多様な人々の生活を調査した。この書物はその私的な記録である。
 既に読んだ、第1章「バンコクの目ざめ」では1957年の11月に、梅棹を隊長とする大阪市大の学術調査隊6人がバンコクで勢ぞろいするまでの過程が記されている。
 また第2章「チュラーロンコーン大学」では、タイで学術調査を行うようになった経緯、その際のタイ側の対応の中心であったチュラーロンコーン大学と、同大学のクルーム教授との協力関係、そして大阪市大の学術調査隊の結成の経緯とその構成、準備の様子が記されている。隊員は梅棹のほか、霊長類研究の川村俊蔵、植物生態学の小川房人、依田恭二、昆虫学者の吉川公雄(医師でもある)、人類学の藤岡喜愛という構成である。調査隊は、北タイにおける学術調査が主な目的であるが、その前にバンコクで開かれる第9回太平洋学術会議に出席するという仕事もある。第3章は、その学術会議の様子を報告する内容である。

第3章 太平洋学術会議
 太平洋学術会議
 1957年11月18日に、第9回太平洋学術会議が始まった。この会議は、「太平洋地域に関係のある科学上の諸問題について、各国の協力を促進する、という目的をもって設けられた国際会議である」(55ページ)。きわめて大規模な会議で、「太平洋に直接の海岸をもつ国はもちろん、ほかにヨーロッパ各国も参加している」(56ページ)。「400人以上もの外国人科学者が、うま、バンコクに集まってきている。日本人だけでも、30人をこえる。」(同上) これでも多いとは言えない。アメリカなどは、180人も参加してきているという。

 予行演習
 エカッフェ〔アジア極東経済委員会 Economic Commission for Asia and Far East、1974年にエスカップ:アジア太平洋社会経済委員会 Economic and Social Commission for Asia and the Pacific: Escapと改称された。国連の一機関で、1947年以来本部はバンコクにある〕のサンティくム・ホールでの開会式の後、会議の詳しいプログラムや、発表予定の論文の要旨などを受け取る。もっと早く受け取れるかと思っていたが、ギリギリでの受け取りとなった。「最後までハラハラさせたけれど、けっきょく間にあった。それでいいのである。」(57ページ)

 「会議そのものは、チュラーロンコーン大学であった。約20の専門分科会にわかれていて、大学の教室が、各分科会に割り当てられていた。・・・私たちも、それぞれの分科会に属していた。小川と依田は「植物生態学」だった。吉川は「昆虫学」に出た。藤岡は「民族誌」というところに入っていた。川村とわたしは、「動物学」だった。」(同上)
 吉川の発表「温帯アジアにおける狩猟蜂の比較社会学」が初日にあたっていたので、発表前夜に、彼らが宿所として使っている日本新聞処の2回で、予行演習をやった。

 動物学部会
 川村と梅棹の発表は同じ日に割り当てられていた。参加者は約20人で、日本とタイのほかに、オランダ、アメリカ、ニュージーランド、カナダ、台湾、ソ連、マラヤ、フィリピン、シンガポールなどの学者が参加していた。
 梅棹の講演題目は「戦後のアジアにおける日本の生物学的探検隊の活動について」であり、川村の方は「日本における霊長類の社会生活の研究」という日本の霊長類の研究グループによるニホンザル研究の現状を紹介する内容であった。「こういう概括的・紹介的なものを用意していったことは、この会議の性質からいって、よかったと思う。」(59ページ)

 両方ともかなり反響を呼んだように思われた。戦後、日本がヒマラヤ、カラコルムなどに十指にあまる学術探検を重ねて成果を上げてきたことは、欧米の学者たちを驚かせたようであった。
 川村の発表は非常に高く評価され、アメリカのクーリッジ博士が立って、「これはまことにユニークな研究である」と賞賛の言葉を述べたという。〔クーリッジ博士が何者かは、この本のあとの方に出てくる。〕

 発表そのものは楽だったが、その後、時間をかけてみっちりと質疑応答をするのにはかなり苦労したらしい。「川村はえらい人気で、質問の時間が不足で、とうとう場外までつれ出されて、一群の学者たちにとりかこまれて質問を受けるというありさまだった。」(60ページ) 発表が成功に終わったので、バンコクまでやって来た責任のひとつを果たしたことになる。

 王さまの御招待
 太平洋学術会議の参加者たちは、王宮に招待を受け、王宮の庭で、プーミボン・アドゥンヤナデート国王と、シリキット王妃にお目にかかる機会を得る。参加者が正装をしているのは言うまでもないが、チュラーロンコーン大学の教授たちは、「海軍帝国みたいな服を着ている。それが、タイ王国官吏の礼装なのである。」(61ページ) 梅棹は、戦前の日本における植民地の官吏たちのことを思い出す。「朝鮮総督府や台湾総督府では、文官もみな海軍軍人のような服装だった。台北大学の教授たちも、腰に短剣をつっていたものだ。」(62ページ) 〔プーミボン国王は2016年に亡くなられた。タイの学校には国王と王妃のかなり大きな肖像が掲げられていたことを思い出す。
 戦前の日本では官吏や軍人には大礼服というものが定められていた。梅棹が植民地のことだけに気づいているのは、こういうしきたりを植民地のほうがよく守っていたということかもしれない。〕

 伝統芸術の会 → 比較剣法学のすすめ
 学術会議に参加したおかげで、タイの伝統的な演劇や舞踊を鑑賞する機会を得た。タイの民族舞踊、宮廷舞踊、さらに「コーン」と呼ばれる古典劇を見た。劇は『ラーマキエン』という、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』のタイ版であった。〔梅棹が、『ラーマーヤナ』のあらすじを知っているというのは、なかなかすごい。〕 俳優が仮面をつけて無言で演じているという観察も興味深い。

 そのあとの出し物は、芸術よりもスポーツと言う方がいいものであった。
 まずタックロー。これは東南アジア各地域で行われ、現在、セパタクローと呼ばれてアジア大会の正式種目にもなっている競技で、セパタクローのセパはマㇾ―語で「蹴る」、タクローはタイ語で「籐製のボール」のことであり、手を使わずに足でバレーボールをしているように見える競技である。日本でも競技する人が多くなり、日本セパタクロー協会ができるようになるところまでは、梅棹も予想できなかったのではないか。

 次がタイ式ボクシング〔現在はムエタイと呼ぶのが普通になっている〕。「選手は、試合をはじめるまえに、隅に正座して、合掌して礼拝を行う。それから、大きな身振りでいくつかの型を行う。ちょうど、日本のすもうの土俵入りに似ている。」(64ページ) これもなかなか興味深い着眼である。
 
 「最後にチャンバラがあった。武器は、日本刀とそっくりの刀をしている。そして、そのチャンバラの型も、どうも日本のものに似ているのである。青眼の構え、大上段もある。そのうちに、小川がいった。「やァ、八双の構えだ」」 
 さきに紹介したとおり、かれは剣豪小説の権威である。かれがいうのだから、きっと ほんとうだろう。」(54‐55ページ)
 それから梅棹は、この類似がどのような起源をもつのかについて考えをめぐらす。タイ人が自ら編み出したものであろうか、それともひょっとして日本人から学んだものであろうかと考える。「17世紀初頭、タイの首都アユタヤには、たくさんの日本武士が流れて来ていて、日本人町をつくっていたことは、よく知られているとおりである。」(65ページ) そして、タイの剣法のあまり洗練されているとは言えない姿も、寛永以前の戦国武士の剣法そのものをしているのかもしれないなどと考える。「わたしは、隊員の小川君の剣豪伝研究が一段と進んで、比較剣法学という未開拓の学問を創始して、この問題に解決を与えてくれればよいと願っている。〕(65ページ) 比較剣法学というのはそういうことである。

 少し私見を述べれば、剣術というのは刀の切れ味と関係があり、この時代には日本刀の切れ味の鋭さは全アジア的に有名であった。タイの刀がどのようなつくられ方をしているかとか、切れ味はどうなのかということも、考えに入れる必要がありそうである。もう一つ、じつは17世紀というのは既に鉄砲が実戦に用いられていた時代であるが、その一方で、フランスではダルタニャンとかシラノ・ド・ベルジュラック(2人とも実在の人物である)のような、日本では宮本武蔵や柳生十兵衛のような剣豪が出ていた。日本とフランスで、同じ時期に「剣豪」が出現したというのは興味ある符合ではないか。 〔この話は、実は私が大学で教えている際の講義中に好んで語ったネタのひとつである。〕 タイにも、後世に語り継がれるような剣豪がいたのであろうか。

 ということで、1回につき1章という心づもりだったのが、3章を語り終えるのに2回かけることになる。まだまだ前途は遼遠である。

日記(3月23日)

3月23日(土)雨が降ったりやんだり、肌寒い。

 米大リーグのシアトル・マリナーズのイチロー選手が引退を表明したということで、各紙がその紙面のかなりの割合を割いている。イチロー選手というと、思い出すことがある。

 まだ彼が日本のプロ野球でプレーしていたころの話である。日本ハム・ファイターズがまだ東京ドームをフランチャイズにしていたのだから、かなり昔と言っていいのかもしれない。とにかく、割引券を手に入れたので、日本ハム対オリックスの試合を内野席で観戦した。比較的凡戦だったのだろうか、試合そのものの記憶は全くないのであるが、唯一覚えているのは、後半になってイチロー選手がバッターボックスに立った時に、私の前の列に座っていたおばあさんが突然席を立って、ゆっくりゆっくりと出口のほうに歩いて行ったことである。ドームの内野席の構造のために、おばあさんが私の視界を遮って、イチロー選手が全く見えなくなってしまい、確か凡退したのであるが、どのようなバッティングをしたのかはわからずじまいであった。別に私はイチロー選手のファンではないが、どんなバッティングをするのかには興味がある。随分、罪作りなおばあさんであったと今でも思い出すたびに腹が立つのである。

 彼女の年齢の女性が、たった一人で野球を観戦するというのは異例である。多分、切符を譲られたとか、そんな事情があって、野球のヤの字もわからないのに、ドームに足を運んだのであろう。だから、勝敗の行方とは関係がないかもしれないが、やはり観戦の見せ場になるはずの場面で、時間を気にして席を立つということになってしまった。野球の試合で席を立つのは、試合の流れが一息ついた時を見計らうべきで、そんなことはおかまいなしに、しかも他の観客の迷惑を顧みずに去っていったのは、何とも言いようがない。切符がもったいないということだったかもしれないが、彼女が野球の試合を見たことの方がもったいなかったのではなかったかと言いたくなる一件であった。

 *  *  *  *
 『日経』の読書欄のコラム「半歩遅れの読書術」に井上章一さんが「二宮金次郎『負薪読書』のネタ元は?」という文章を書いている。二宮金次郎、のちの尊徳が薪を背負いながら本を読んで歩いているという像が小学校の校庭に置かれていたという記憶をもつひとは少なくないはずだが、このような尊徳像は、1891(明治24)年に幸田露伴が発表した『二宮尊徳翁』という書物の口絵に描かれたのが最初で、実際の尊徳の伝記には描かれていないそうである。(井上さんには『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』という著書がある。) 

 この二宮金次郎の姿は、もう少し前に日本に入ってきたジョン・バンヤンの『天路歴程』(The Pilgrim’s Progress, 1678)にヒントを得ているのではないかというのが井上さんの説。
 これに対して、岩井茂樹さんが『日本人の肖像・二宮金次郎』という本のなかで、前漢の政治家である朱買臣が若いころに、薪を背負いながら本を読んだ(しかし、この時代にはまだ紙が発明されていなかったはずだ!)という逸話が元になっているのだという異論を唱えた。井上さんはこの説に半ば賛同しながらも、やはり自説が捨てきれない…というのは、『天路歴程』の口絵として主人公が荷物(原罪)を背負い、本(聖書)を読んでいるという図が描かれているという、口絵として使用されているという符合があるからであると書いている。

 幸か不幸か、『露伴全集』も『天路歴程』も、私の書架に並んでいる。『露伴全集』を検索してみる気は起きないので、『天路歴程』だけ見ることにする。
 バニヤン『天路歴程 正篇』(池谷敏雄訳、新教出版社)で使用されているのは、ディケンズの『オリヴァ・トゥイスト』などの挿絵を描いたジョージ・クルックシャンク(George Cruickshank 1792- 1878)のものである。この翻訳の39ページには「基督者嘆きの叫びをあげて逃げる」という説明とともに、本を手に、荷物を背負った男の姿が描かれている。これに対応するのは、次の40ページ(本文の冒頭)の「この世の荒野を歩いていくと、私はふとある場所に出たが、そこには一つの洞穴があった。私は眠ろうとそこで横になった。眠るうちに一つの夢を見た。夢を見ると、見よ、ぼろを着た一人の男が、自分の家から顔をそむけ、手には一冊の書物を持ち、背には大きな荷を負って、とある場所に立っていた。よく見ると、彼はその書物を開いて読むのが見えた。読むうちに彼は涙を流して身を震わせた。もう耐えられなくなり、悲しげな声で叫び出して言った。どうしたらよかろう。」という個所である。こうしてキリスト者(=クリスチャン)は滅亡の都を去り、天の都へと向かう巡礼の旅に出発する。

 明治20年代の日本で読まれた『天路歴程』の口絵がクルックシャンクのものであったかどうかは、井上さんがその点に言及していないので、不明である。ただ、クルックシャンクの挿絵をもとにして考えるかぎりでは、井上さんの議論には無理が感じられる。右手で本を持ち、左手で顔をおさえて、書物の右の方を向いて嘆いている『天路歴程』の像と、二宮金次郎の近縁性を見出すには、かなりの想像力が必要ではないかという気がする。ということで、前漢の時代にはまだ紙は知られておらず、歩きながら本を読むなどという芸当はできなかったということを差し引いても、金次郎の像のモデルとなっているのは朱買臣であるという岩井説の方に分があるように思う。

 日本でよく読まれているルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』や、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』が影響を受けているという話はさておいても、『天路歴程』がそれなりに面白い物語であることは認めるが、ダンテの『神曲』に比べてみると、やはり月とスッポン、提灯に釣り鐘(どうも譬えが俗で済みません)であるというのも正直な感想である。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(13‐2)

3月22日(金)晴れ、午後になって雲が多くなってきた。

 「暗い森」の中に迷いこんだ語り手(ダンテ)は、進退に窮しているところを、天国の貴婦人たちの願いで彼の魂を救うためにやって来た、ローマ時代の大詩人ウェルギリウスのたましいに助けられ、彼に導かれて地獄と煉獄を旅することになる。(さらに「よりふさわしい」魂に導かれて、天国をも訪問するのである。)
 地獄の門をくぐった彼らは、地獄の第1圏(リンボ:洗礼を受けずに死んだ幼児や、異教徒であったが、正しく生きた人々のたましい)、第2圏(愛欲の罪)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)と地獄の奥底へと向かって進み、第5圏のステュクスの沼を渡って、地獄の上層と下層との境界であるディース城にたどりつく。
 ディース城をまもっていた悪魔たちの妨害で、彼らは行く手を阻まれるが、天の使いが悪魔たちを追い散らしたので、さらに第6圏(異端の罪)を通り、第7圏にたどりつき、その第1冠状地で暴力によって人々を支配していた人々のたましいが煮えたぎる血の川に沈められているのを見、第2冠状地に達する。そこでは地上で自殺した人々のたましいが木になっている。ウェルギリウスは、その中の1人、神聖ローマ帝国皇帝フェデリーコⅡ世の顧問として活躍したが、失脚して投獄されているときに自殺したピエロ・デッラ・ヴィーニャのたましいからその生前の行ないについての話を聞く。

 ピエロのたましいの話が中断したので、ウェルギリウスはダンテに、何か聞きたいことがあれば今のうちに質問するようにと促す。ダンテは「哀れみに/心しめつけられるあまり、何も話せ」(83‐84行、295ページ)ないといって、ウェルギリウスがさらに質問することを望む。ウェルギリウスはピエロに向かって、どのようにしてたましいがこのような木に姿を変えるのか、このような状態から抜け出すことができるのかと質問する。

 ピエロは答える。自殺者のたましいが肉体を離れると、(地獄の第2圏にいて、たましいたちの行き先を決めている)ミーノースの尾によってこの第7圏に送られ、
 この森へ落ちてくるが、定まった場所があるわけではなく、
偶然のおもむくままに飛ばされる、
スぺルタ小麦のごとく、落ちたところで芽を出す。
 か細い若枝で立ち上がると、やがて野生の植物に成長する。
すると、ハルピュイアどもがその葉をついばみにやって来て
苦しみを作り出すと同時に、苦しみの窓[はけ口]を作り出す。
(97‐104行296ページ) スペルタ小麦は、どこででも容易に自生し、成長の早いのが特徴の植物である。それで、魂が堕ちてたどりついたところどこでもすぐに成長していくというのである。
 最後の審判の際に、死者たちは自分の肉体を探しに地上に戻るが、その中で自殺者は肉体を地獄まで引きずって灌木の枝に吊り下げることになる。2人がさらに詳しいことを尋ねようとしていると、突然の騒音が彼らを驚かす。

 すると、左手から真っ裸で全身掻き傷だらけの男が二人、
森の枝という枝を折りしだきながら
死にものぐるいで逃げて来た。
(115‐117行、297ページ) 現世における足の速さが、あの世でも再現されているのか、シエノ人ラーノが先を行き、パードヴァ人ジャーコモ・ディ・サンタンドレーアがかなり遅れて走ってきたが、息が上がってしまったのか、茨の中に逃げ込んで身を隠そうとした。しかし、それも無駄だった。
 鎖を解かれた猟犬のように、
すばやく駆けて来る貪婪な黒い雌犬の群れで
二人のうしろの森は埋め尽くされた。
 犬たちは茂みに身を潜めていた男にかみつき
一片また一片と千々に引き裂くと、
まだ苦痛にうごめく肉片を加えて立ち去った。
(124‐129行、297ページ) 凄惨な場面である。

 ウェルギリウスはダンテを、ジャーコモのたましいが食いちぎられた場所である灌木の茂みへと連れてゆく。
茂みは空しく血を吹く無数の折れ口を通して泣いていた。
(132行、297ページ) 黒犬に追われて逃げまどっているのは蕩尽者たちである。彼らは、自殺者とは別の意味で、自らを滅ぼした人々である。彼らが逃げまどいながら、もともと人間であった木々の枝を折り、茂みを荒らして、他人のことは考えずに先を急ぐのは、その自己中心的な性格を表わしている。黒犬が雌であるのは、この時代、雌犬の方が雄犬よりも獰猛であると考えられていたからだそうである。

 ウェルギリウスは、血を吹きながら、泣いている灌木に近づいて、その灌木が生前何者であったかを問う。彼は古いフィレンツェの町の市民であったことを語る。しかし、彼が誰であったかはわからないままである。訳注には「この自殺者が誰なのか同定されていない。もともと、作者自身が身元がわからないように語らせているため、詮索にはあまり意味がない。人物が誰かよりも重要なことは、当時、非常に多くのフィレンツェ人が首つり自殺を遂げていたという事実である」(311ページ)と述べている。

 第13歌は、ダンテの生まれ故郷であるフィレンツェの人物をまたもや登場させて、終わる。地獄の、それも下層にやって来ているのであるから、当然といえば当然であるが、第13歌の雰囲気は暗く、その中で、故郷を思い出すというのは縁起の良くない話である。あまりすっきりしないままに、2人は第7圏の第2冠状地を通り過ぎ、次の第14歌では第3冠状地に足を踏み入れることになる。それはまた次回に。
 

E.H.カー『歴史とは何か』(7)

3月21日(木/春分の日)曇りのち晴れ、強風

〔これまでの概要〕
Ⅰ 歴史家と事実
 19世紀の歴史家たちは、歴史はある方向に向かって進歩しているという考えを暗黙の裡に抱いていたので、「歴史とは何か」と問うことなく、過去の事実を掘り起こしていけば、それが歴史になると考えていた。しかし過去の事実を掘り起こすのは、現在の歴史家であり、歴史は過去の事実と現在の歴史家の対話であると考えるべきである。
Ⅱ 社会と個人
 社会から切り離された個人は存在しない。近代社会の特徴は個人が重視されるようになったことであるといわれるが、そういう個人も社会的な存在であることをやめたわけではない。

Ⅱ 社会と個人(続き)
 過去は現在を通して
 歴史家もまた一人の個人である、とはいうものの、彼は自分の時代の、自分を取り巻く社会に属する個人である。彼の考えは意識的、無意識的に彼の時代や社会を反映するものである。したがって、彼は過去の事実をそのような自分の属する時代や社会に制約された目で見ることになる。彼は、過去から現在へと続く、歴史的な流れの中の存在であり、この意味で、歴史家は歴史の一部である。

 歴史家が過去から現在へと続く流れの中のどの位置に立っているかが、過去に対する彼の資格を決定するという定理は、歴史家が、彼の時代と遠く隔たっている場合でも同じようにあてはまるものである。
 古代史を研究する際の古典的な著作としては、英国の歴史家であるグロート(George Grote, 1794- 1871)の『ギリシア史』とドイツの歴史家であるモムゼン(Theodor Mommsen, 1817-1903)の『ローマ史』であるが、それぞれ、著者は自分の置かれた立場から、対象となる時代を捉えているという。
 グロートは1840年代の英国の急進的なミドル・クラスの功利主義的な見解でギリシアを見ているので、アテナイの政治家であるペリクレスはベンサム主義的改革者の役割を果たし、アテナイは(この時代の英国がそうであったような)一大帝国として描かれ、その一方で彼が工場労働者階級の問題を避けていたのと同じように、アテナイの奴隷制の問題については触れていないとカーは述べている。
 モムゼンは1848年から49年にかけてのドイツ革命の敗北に打撃を受けた自由主義者の1人であった。それで彼が実現できなかった改革の野望をローマの政治家たちに託し、彼らを改革を実現する英雄として描き出したのであった。カエサルの理想化も、キケロの雄弁家ぶりも、このようなモムゼンの英雄への憧憬の産物なのである〔実際問題として、カエサルとキケロは政治的に対立していたのだから、両者をともに肯定的に描くのは、勤王の志士と新選組をともに肯定的に描くようなものではないかと思ったりする〕。

 保守主義者ネーミア
 グロートとモムゼンは、カーが講演を行なった時点においても過去の人物であったが、次に彼は彼の同時代の人物を取り上げて、彼の議論を補強しようとする。この講演で既に触れたG.M.トレヴェリアンがホイッグ的な歴史観の伝統に連なる人物であり、その立場から18世紀におけるホイッグ、トーリー二大政党の成立の過程を見たのに対し、彼と対立する立場からこの時代を捉える研究をした人物であるネーミア(Sir Lewis Bernstein Namier, 1888‐1960)の例をあげる。
 ネーミアは第一次世界大戦後の学界に登場した英国最大の歴史家であると考えられている。しかもその立場は鮮明である。「ネーミアは真実の保守主義者――一皮剥けば、75パーセントは自由主義者であるというようなイギリスの典型的な保守主義者ではなく、この100年以上を通じてイギリス歴史家の間にその類を見なかったような保守主義者」(51ページ)であったという。
 19世紀中葉から1914年(第一次世界大戦勃発の年)まで、英国の歴史家は歴史的変化は必ず良い方向に向かうものであるという考えにとらわれ続けてきた。ところが1920年代になって(第一次世界大戦が終わって)、変化は悪い方向に向かうこともある(その方が多い)という保守主義が頭をもたげてきた。
 ネーミアの保守主義は、彼が欧州大陸出身(オーストリア・ハンガリー、現在のポーランドで生まれた)であるために、19世紀英国の自由主義的な伝統の影響をまったく受けなかったことによって、より確固としたものとなっているとカーはいう。第一次世界大戦後の世界の変化は、自由主義の衰退、保守主義と社会主義の対立という新しい思想状況をもたらした。
 ネーミアは保守主義の立場から歴史研究を展開したが、その際に「支配階級が、秩序ある、かなり静的な社会のうちで、地位および権力を合理的に追求する力があった最後の時期」(52ページ)を研究対象として選んだ。ジョージⅢ世(1738‐1820、在位1760‐1820、ただし1811年から20年までは王太子であるジョージ(後のⅣ世)が摂政(regent)をつとめた)の時代である。〔1714年から1830年まではジョージⅠ世からⅣ世までの国王が君臨していたので、この時代をジョージア時代という。英国に行くと、この時代の建物あるいはそれを模したジョージア様式の建築というのをよく見かける。また、わたしの好きなジェーン・オースティンがその作品を発表したのが、ジョージⅢ世の時代である。英国人の郷愁として残る「古き良き時代」のひとつなのである。〕
 また彼は、イングランド革命(清教徒革命ともいう)、フランス革命、アメリカの独立戦争、ロシア革命といった「近代の創造的な大革命」(53ページ、かならずしも同意されない方もいらっしゃるかもしれないが、カーがこのように評価しているという事実そのものが重要である!)は無視して、「1848年のヨーロッパの革命、すなわち、挫折した革命、高揚するリベラリズムの願望の全ヨーロッパ的な後退、武力に直面した場合の思想の、兵士と向き合った場合の民主主義者の空しさという事実」(同上)を書き記す道を選んだのである。そしてそのことで、「政治という真剣な仕事の中へ思想が入りこむのは無益であ」(同上)るという教訓を説こうとした。
 カーは、ネーミアの考えの当否は、示そうとしていない。ただ、「歴史家は、歴史を書き始める前に歴史の産物」(55ページ)なのであるという彼の主張を裏付ける実例として、(中欧のユダヤ系の家に生まれ、英国に定住することになった)ネーミアの歴史観が、彼の歴史上の立ち位置に由来するものであるという例を加えていると述べることで、この節を締めくくっている。

 私があまりよく知らない歴史家の生涯や業績が取り上げられていて、大いに勉強になった。カエサルとキケロをめぐっては、昔々見た手塚治虫による長編アニメーション『クレオパトラ』(この作品中ではカエサルとキケロではなくて、シーザーとシセロという風に英語読みされていた)の中のローマの元老院でやりあう場面を思い出したりした。で、元老院で乱闘が起きたりしたり、クレオパトラがブルータスに「政治献金」をしたり、手塚も、彼の時代の目で、ローマ共和政末期の政争を見ていたと考えると、カーの議論の説得力が増すようにも思える。 

白川静『漢字』(6)

3月20日(水)晴れ

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字はもともと象形→表意文字であったが、仮借という表音的な方法を取り入れることによって文字体系として成立した。このような感じという文字体系は、殷王朝のもとで、もともと沿海族であった殷人たちによって作り出されたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象のなかには、それを作り出した古代の人々の神話的な世界観が遺されている。
3 神聖王朝の構造
 殷王朝は軍事と祭祀とを中心とした神聖王朝であった。中国の古代神話は国家神話として成立した。
4 秩序の原理
 殷王朝は神話と祭祀をその秩序の原理としていたが、それに代わった周王朝では天命という考え方が原理となった。裁判は証拠主義ではなく、神判によって行われていた。
5 社会と生活
 殷周の社会はすでに定着的な農耕社会であり、王室に服属する職能集団がその他の生産活動に従事していたが、そのような秩序が崩壊すると、商人として自活するものが現れてくる。

6 人の一生
出生について
 人間の誕生とともに、霊が宿ると考えられた。霊は鳥と関連付けて考えられることが多かった。
 『詩経』の小雅斯干には生まれるこの夢占屋、生まれたことの扱い方まで歌いこまれている。男子が生まれると、牀’しょう)の上に寝かせて裳(も)をつけ、璋(しょう)をもたせて祝う。女の子ならば地に臥せ、下衣を著せ、瓦器をもたせて、父母の厄介者になるなよと言い聞かせる。女子を地に臥せるのは、もともとは女子を地霊に接しさせて、その生成力を身につけさせるためであった。
 新しく生まれた霊の力は弱いので、生まれた子を後ろから保と呼ばれるもので包んで祖霊を継承し、その力が安定するようにした。

文身の俗
 生まれることを産といった。生まれるとすぐに、墨などで子どもの額にXを書いた。それは神が宿るという印であった(このように印を書き加えることが文身で、必ずしも刺青ではないようである)。このようなことは子どもが一定の年齢になるごとに行われた。「彦はおそらく成人のときの文身であろう。人生の新しい段階に達するたびに、新しい世界への加入式として文身が施されたのである。
 文身はもともと沿海民族、夷系の習俗であった。文献時代になると、その習俗は廃れるが、南方では多く残っており、苗系諸族はいまもない文身の俗をもっているという。さらに、古い中国の文献によれば、日本にも昔はこの俗があった。しかし、『日本書紀』景光紀には蝦夷の文身の俗を珍し気に報告した記述があり、この書物が編纂された奈良時代には文身の俗が絶えていたことがわかる。

 「文身は受霊のしるしとして、またその霊を守るためのものとしてかかれた身体装飾としての意味をもち、そのゆえに文は聖なるものであった。」(167ページ)
 文化伝統という意味をもつようになったのは、その後のことである。

成人と婚礼
 中国の古代には自分の名を名乗らない習俗があった(かなり最近までそうだった。日本でもそうだったから、『源氏物語』の登場人物のほとんどが本名がわからない。特に女子の名前はわからない。清少納言の本名はわからないし、徳川家康の最初の正室である築山殿の本名も不明である)。「名を知られることは、自己の人格が、相手に左右され、支配されることだと考えられた。」(167ページ)

 成人式は「冠」と呼ばれた。また元服ともいう。「婚」という字をめぐっては様々な解釈があるがそく、酒を酌み交わして制約をするということではないかと白川は言う。
 「婦」という字の「帚」はほうきであるが、神殿を清めるための束茅(そくぼう=かや)で、嫁入り先の氏族神に新しい加入の許可を得るために、神殿を清めたのである。「家廟につかえることは、婦の最も重要な任務であった。」(172ページ) 〔亡き母が、毎朝、仏壇を拝んでいたのを思い出す。〕

 「結婚が、異なる氏族間の氏族神の交流であり、連帯であり、和合であるという関係から、婦人のつとめは、宗廟の祭祀にいそしむにあるとされた。・・・婦人が宗廟をまもるという伝統は、あるいは古く母系制の時代に発するものかも知れない。」(174ページ)

家族の倫理
 「父」という字は斧をもつ姿を示し、家父長制度のもとでの父親の絶大なる権威を表わす。これに対し母は「たらちねの」母の姿で描かれる。「権威と慈愛とが、家族の倫理の基本であった。」(176ページ) 倫理の倫の旁である「侖は相対の上に全体の秩序が構成されるという、美しい関係を意味する字であった。倫・綸・輪・淪などが、これに従う字である。」(176ページ)

 「道徳の道は道路の修祓、徳は眼の呪力によって他者を支配することを意味した。」 そういう古い意味が失われて、それが道徳的な意味に転じていくのは、社会生活の変化に伴う意識の変化に本づくのである。社会生活の変化が、その意義内容や価値概念を改めてゆく。」(176‐177ページ)

死喪の礼
1 「出生によって新しい肉体に寄託した霊は、死によってまたその肉体を脱し、いずこかへ立ち去ってゆく。古代の人々は、実際にそのように考えたのである。霊の来たることが生であり、霊の去ることが死であった。・・・霊は永遠なるものであるから、霊には復活ということが可能であった。死喪の礼は、復活の儀礼からはじまる。」(180ページ) 

 「復活という概念からいえば、遺体は鄭重に保存すべきであると考えられた。死は新しい世界への出発であるというので、その胸には分身が加えられた。」(186ページ) 「復活に備えるために、その陵墓は地下深く作られた。」(同上) 
 「送葬ののち、また多くの儀礼を経て、死者の霊は宗廟に帰る。」「宗廟に帰った霊を、祀るものは子であった。」(187ページ)

 「霊の住むところは、鬼神の世界である。鬼は人鬼。神…は、・・・自然神をいう。鬼は畏るべきものであった。」(187‐188ページ)
 「霊は永遠なるものであった。循環してやまぬものであった。そこから神仙の思想が生まれる。・・・永世不死の仙の世界は、『荘子』においては精神の絶対自由を説く世界としてかかれたが、そこにはもはや、鬼神に対する恐れの感情がない。神の世界は終わり、現実の精神がそれに優位する。文字が神の世界から遠ざかり、思想の手段となったとき、古代文字の世界は終わったといえよう。文字は、その成立の当初においては、神とともにあり、神と交通するものであったからである。」(188ページ)

 つまり、漢字はもともとは神と交流するための手段として機能していたのが、人間の精神を表現する手段となったことで、新しい時代を迎えることになったというのである。しかし、そのような漢字の人間化は白川の関心の対象でないということであろう。『漢字』はこうして新しい局面を迎えたというところで、この書物は終わっている。

 これでどうやら、この書物の紹介を終えることになる。殷から周、西周から東周(春秋時代)という時代の変遷の中で、漢字の意味が、その時代の人々の考え方を反映して変化してきたということを理解できていただければ、わたしの紹介作業も徒労ではなかったということになる。
 個々の漢字の成立をめぐる白川の考えに対しては異論がある――というよりも、白川の学説は長く少数派であった――今でも本当のところはそうだろう――ということをめぐっては、これまでも触れてきた。実際、漢文や中国思想の専門家と白川についての話をする機会が少なからずあったが、「大好き」(好きということと、指示するということはまた意味が違う)という人から、「あれは妄想だ」という人まで、評価は極端にわかれている。ただ、有難いことに、私が白川を読んでいるということで、だいぶ彼らの私に対する評価が上がったことは否定できないので、関心のある方々は、ぜひ、白川の本を読んでいただきたいと思う。漢字にどんなドラマが潜んでいるか――私の論評では十分に紹介しきれなかったが――探ってみたいという方は、この書物をふくむ、白川の業績と取り組むことをお勧めしたいと思うのである。

 最後に一言。3月12日の『朝日』の”WEB RONZA"欄で紹介されていた酒井吉廣「日本から見えにくい中国経済の本質」は「発展度が違う5億人の沿岸部と9億人の内陸部を一国の経済として中央でコントロールすること自体が壮大な試みで、当面は深刻な事態には直面しないだろうが、先を見通すのは難しい」と論じているそうだ。沿岸部=殷、内陸部=周という白川の描いた図式をそのまま受け入れれば、「中国四千年の歴史」はその中でこの対立を抱え続けてきたということになる。知り合いの中国研究家は、中国の格差問題を見るにつけ、研究するのがいやになって仕方がないとこぼしていたが、研究というのはそういう感情に支配されるものではないのであって、まあ何とか研究を続けてほしいと思う。
 

『太平記』(254)

3月19日(火)曇り

 暦応5年(この年4月に康永と改元、南朝興国3年、1342)2月、兄である尊氏とともに武家政権の中心人物であった足利直義がその頃流行していた病に倒れたが、光厳上皇が石清水八幡宮に願書を納めたかいがあってか、事なきを得た。その年の8月、故伏見院の33年の遠忌の仏事を終えて帰る光厳上皇、光明帝の行列に、笠懸場から帰ってきた土岐頼遠、二階堂行春らが行き合い、二階堂は直ちに下馬して畏まったが、土岐は、下馬を命じる公家たちをあざ笑い、かえって「院」を「犬」に見立てて、矢を射るなどの狼藉に及んだ。〔実際は33年忌ではなくて、26年忌だそうである。〕

 その頃、兄の尊氏に代わって、直義が政治のいっさいを取り仕切っていたが、その直義はこの事件を聞いて、大いに驚いた。そしてその罪を考えると、父母・妻子・兄弟姉妹の三族を死刑に処しても足りぬほどであり、笞・杖・徒・流・死の5種の刑を全部与えてもいいほどのものである。直ちに犯人たちを召し出して、車裂きにしようか、さらにその死骸を塩漬けにしようかなどと評定を行なったのであった。頼遠や行春らは、その噂を聞いて、どうも大変なことになったと思ったのであろうか、行方をくらまして、それぞれみな自分の本国に逃げ帰ったのであった。そういうことであれば、やがて討手を差し下すべしという沙汰が下ったので、二階堂行春は、覚悟を決めて上洛し、自分に非はないと申し開きをしたので、事情を詳しく調べたうえで、讃岐の国に配流されたのであった。

 頼遠はというと、自分の罪科を逃れることは難しいと思ったので、美濃の国に立てこもって、幕府に対する謀反を起こそうかと一族や家臣たちと相談したが、(それまで武家方で散々に暴れまわった前科があるので)味方になるような宮方の武士はなく、同意する一族もなかったので、こっそり京都へのぼり、臨済宗の高僧で尊氏・直義兄弟からも帰依を受けていた夢窓疎石に泣きつき、「なんとか命だけはお助けください」ととりなしを頼んだ。
 夢窓疎石は、天下の大知識(人々を仏法へと導く偉大な僧)である上に、今上帝(光明帝)の仏法の師として、武家からも篤い尊敬を受けていたので、大罪を犯したものであっても、何とかその命だけは助けてやろうと考えて、いろいろととりなしてみたのであるが、直義は「この事件を寛大に処しては、今後の悪い前例となるだろう」と、ついに頼遠を召し出して、六条河原で首をはねてしまった。

 頼遠の弟に、出家して周済房(俗名は土岐頼明)というものがいて、これも斬首すべしとの判決を受けていたが、狼藉の現場に居合わせなかったというはっきりした証拠が出てきたので、死刑の罪を免れて本国(美濃)へと帰っていった。
 夢窓和尚が、武家に対して、「そうはいってもなんとか」ととりなしを試みたものの、うまくいかなかったことを嘲笑して、何者かが、狂歌を一首、天竜寺(京都市右京区嵯峨にある臨済宗天竜寺派の本山)の脇壁に書き付けた。
 いしかりしときは夢窓に食らはれてすさいばかりぞさらに貽(のこ)れる
(第4分冊、62ページ、うまい食事はすべて夢窓に食われ、酢菜(すさい)だけが皿に残っている。斎(とき)と土岐、酢菜と周済、皿と更にをかけている。)〔岩波文庫版の脚注にもあるように、足利尊氏が後醍醐帝を弔うために、夢窓疎石を開山として天龍寺を建立したのは、事件の後の貞和元年(1345)のことであるが、事件の前の暦応2年(1339)頃から建築の作業は始まっていたようである。〕

 このときの習俗は、都が一変して蕃夷の地になった時期のことであるから、人々は院とか、国皇とか言うことを知らなかったのであろうか。「土岐が院の御幸にであって失礼を働いた罪で切られてしまった」と誰かが噂していると、馬に乗って通りかかった人物が、「院と出会ったときでさえも、馬から下りなければいけないとすると、将軍に出会ったときには、地面に這いつくばるべきであるのか」などと言ったりした。(そのくらい人心が混乱していたということであろう。)
 土岐頼遠の処刑のあと、武士は公家に遠慮し、公家は武士を恐れたために、混乱がますます増幅したという逸話を『太平記』の作者は記す。とにかく前例が覆されて、何が起きるかわからない時代になってしまったと作者は嘆いたり、呆れたりしている。

 土岐頼遠の狼藉事件(前回に述べたように当時の資料で確認できる実際に起きた出来事である)について、飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』には、『太平記』流布本に従ったのであろうか、「車は路上に転倒し光厳院は投げ出されて、馬に乗っていた供の公卿殿上人も皆落とされ、院は駆け寄った供奉の西園寺公重と一緒に涙を流したという」(152ページ)とある。そのような光厳院であってみれば、直義を頼もしく思われたのは当然のことであろう。
 西園寺公重は、建武2年(1335)に起きた彼の兄公宗の中先代の乱に呼応した反乱計画を密告した人物で、そのため兄に代わって西園寺家の北山第(現在の金閣寺)の主人となったが、この事件の前に、公宗の子である実俊(というよりも、彼の背景にいた女性たち)に追い出されている。このあたりの事情はなかなか複雑である。
 光厳上皇は21代集の中の17番目の勅撰和歌集である『風雅和歌集』を親撰されたことで分かるように、京極派の優れた歌人であったことでも知られ、そちらの方からの研究も少なくない。政治家としての光厳院について、飯倉は「院政をはじめてからの光厳院は、すべてにわたって真摯に立ち向かっていた。公家に対しても、武家にも仏教界にも強く応じていた。仁徳をもってあたるという花園上皇の教えを固く守っていた」(飯倉、前掲、135ページ)と書いているが、どうも時代が悪かったのである。
 今回、直接、引用はしなかったが、西野妙子『光厳院』から教えられるところが多かった。

日記抄(3月12日~18日)

3月18日(月)晴れ

 3月12日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、以前の記事の補遺・訂正等:

3月12日
 『朝日』に、「介護生産性向上へ指針」との見出しで、厚生労働省が11日、「介護サービスの生産性向上を目指す」として事業者向けのガイドラインを公表したという記事が出ていた。介護サービスの質の向上というのはいいことだが、「生産性向上」とはどういうことだろうか。杉田水脈議員の「LGBTには生産性がない」という発言の<怪我の功名>で一般に「生産性」への関心が高まったが、その中で、日本経済の生産性の低さが明らかになったというのは、むしろ「藪をつついて蛇を出して」しまったとも受け取ることができる。

3月13日
 幼保無償化をめぐる法案が審議入りしたことが、『日経』で取り上げられていた。この施策をめぐり、中室牧子さん(慶応大学准教授)は「3~5歳の無償化にも所得制限を設けるべきだ。一律の無償化は高所得世帯への所得移転になり、格差が拡大する」と述べ、池本美香さん(日本総研主任研究官)は「幼児教育無償化は政策の妥当性に欠ける。政府は待機児童や保育士不足といった課題の解決を優先すべきだ。このまま無償化すれば新たに働きに出たり、有料の延長保育を利用したりする人が増えていっそう深刻になりかねない」、小黒一正さん(法政大教授)は「日本ではすでにほとんどの子どもが保育園や幼稚園に通っている。無償化をしても新たな人的資本の蓄積にはつながらない。恩恵も高所得世帯に偏りがちだ。それならその予算を介護職員の賃上げにあてるのは一つの考え方だ」と、3人とも議論の立て方は違うけれども、批判的・慎重な意見を述べている。政府・財界に近い論調が多い『日経』で政府の施策に対して、このような意見だけが並ぶというのも珍しいのではないか。

3月14日
 『朝日』のコラム「福岡伸一の動的平衡」で、生物学者の福岡さんが「『パイの日』に考える数学」という見出しで、3月14日は日本ではホワイト・デーだが、アメリカでは「Π(パイ=円周率)の日だというマクラを振ったうえで、円周率が3.05よりも大きいことを証明せよという問題がある大学の入試に出題されたことを取り上げている。円に内接する正多角形を描いて、その外周を求めていけばよい。アルキメデスはこの方法を用いて円周率を計算したと福岡さんは書いている(アルキメデスは、円に外接する正96角形と、内接する正96角形を用いて、円周率は3¹/₇と3¹⁰/₇₁のあいだにあると計算した)。正多角形の外周は三角関数を使えば解けるという。そのことから三角関数を高校で教えても無駄だという議論に対して異議を唱え、「人類が世界を捉えるために編み出した思考を学ぶこと。つまり数学を学ぶことは文化史を学ぶことである。それが不要というのは、悪しき近視眼的発想であり、歴史修正主義のひとつに他ならない」とまで非難している。数学のなかには、人間の文化の発展史が凝縮しているというのは生物の個体発生は系統発生の短い繰り返しであるという「反復説」に通じる議論であり、いかにも生物学者らしい意見だなと思った。
 なお、ギリシア文字のΠは日本の特に数学の授業では「パイ」と呼ぶのが一般的だが、ギリシア語では「ピー」と読むのが正しいようである。
 三角関数とは関係がないが、荷物を片づけていたら、高校時代に使っていた(というよりも、うまく使い切れなかった)計算尺が出てきた。私が大学に入学し、大学院を経て就職すると、すでに関数電卓の時代になっていたことを思い出す。

3月15日
 NHKラジオ『まいにちスペイン語』応用編「”もっとニッポン” ¡Japón por dentro !」はスペイン語圏の人々を案内してきた日本人のカップルであるアリサとナオトがめでたく結婚し、城崎温泉を訪ねるが、そこで旧知のプエルトリコ人女性リタと出会っただけでなく、これまでに出会った他の人々にも出会うというストーリーが展開している。
 Puerto Rico es una isla del Caaribe. Los puertorriqueños son ciudadanos estadounidenses desde 1917 aunque su lengua es el español adem ás inglés. Se les conoce como "boricuas". (プエルトリコはカリブ海にあります。1917年以来、プエルトリコの人々はアメリカ合衆国市民という位置づけになっています。でも話している言葉はスペイン語と英語です。また彼らはboricuaとして知られています(彼らのことをboricuaと言います)。
 プエルトリコのスペイン語は、語末のsを省く傾向がある。Nos vemos entonces.(それでは、またお会いしましょう) というのが Noh vemoh entoncehという風になる。また一般的なスペイン語ではQué haces tú aqui? (ここで何をしているの?)となるところが、プエルトリコではQué tú haces aqui?という語順になるそうである。

3月16日
 『日経』の1面コラム「春秋」は、古典ギリシア語には<能動態>と<受動態>のほかに<中動態>という文法があったことを紹介している。「能動とも、受動とも断定できない状態」に使い、現代の例を考えると、アルコール依存などによる暴力がそれにあたると国分功一郎さんの『中動態の世界』という書物からの知見、さらに暴力をふるうアルコール依存者に対する支援の試みについて紹介している。
 それはさておき、<中動態>とはどういうことか。田中道太郎・松平千秋『ギリシア語入門 改訂版」は「中動相は、能動相と受動相との間の中間的な機能をもつ相であるともいえるが、その本来の意義はむしろ能動相である。」(52ページ)と記している。これに対して、池田黎太郎『古典ギリシア語入門』は「ギリシア語の特徴の一つに中動態があります。これは能動態と受動態の中間の用法で、動作の対象に自分がかかわっていることをあらわします」(44ページ)と書いている。フランス人であるシャルル・ギローの『ギリシア文法』によると、「ギリシア語の動詞には能動、受動、中動の3つの態がある。中動態は、行為を行なうものがその行動に特別のかかわりをもつか、あるいはその中心であることを表わす。したがって中動態はフランス語の「代名態」に照応することがある」(以下略、79ページ)ということである。ギリシア語を何度か勉強しているのだが、ここまで行きつかなかったので、今度機会があれば、もっと深く理解できるようにしたいと思う。

 土曜日の『日経』に連載されている本郷和人さんの「日本史ひと模様」は、今回は木曽義仲を取り上げている。義仲は平家を破って都に入ったが、後白河上皇やその側近の貴族たちとうまくやって行けず、粗野な田舎者だといわれて没落への道を歩んだ。本郷さんはその義仲に同情的で、「平家物語」巻8の「猫間」の義仲と後白河上皇に近い猫間中納言(藤原光隆)のやり取りをめぐり「この場面、猫間と義仲のどちらに感情を寄せるかで、読み手の差異が明らかになる」と書いている。「彼は純朴すぎた。…なまじ京都に行ったばかりに破滅した。」
 「けれど、そんな義仲だからこそ、愛された。代表は松尾芭蕉である」とも書いている。「芭蕉はしばしば義仲寺(大津市)に遊んだ。大坂で亡くなったが、義仲の墓の隣に自身を埋葬せよと指示した。東北の風景を共感をもって凝視した俳聖は、「えびす」の無念を理解したに相違ない」とこの文を締めくくっている。
 芭蕉が尊敬した先人であり、義仲の同世代人であった西行が義仲を歌っていることに本郷さんが触れていないのはやや物足りない(触れていると文章が長くなりすぎるという理由からかもしれない)。
 木曽と申す武者、死に侍りにけるな
 木曽人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
(岩波文庫版、『山家集』、255‐256ページ)

 同じ『日経』の読書コラム「半歩遅れの読書術」に井上章一さんが「『ハイジ』にみる19世紀スイス」という文章を書いている。スイスは伝統的に、男はヨーロッパ各地の王侯に傭兵として雇われ、女は家内工業に従事して生計を立てていた。ところが産業革命の結果、伝統的な家内工業が打撃を受け、失業した女性たちは19世紀の中ごろからは、ヨーロッパ各地に出稼ぎに出かけるようになる。主に裕福な家のメイドになどになった。慣れない土地での暮らしでホームシックになるものも多く、「スイス病」という言葉ができたという。このような女性たちを描いた文学作品は少なからずあったのだが、その中で『ハイジ』だけが残ったというのである。物語の背景にこのような事情があったと知ると、また別の感想も生まれるのではないかと思う。

 ニッパツ三ツ沢球戯場でJ2第4節の横浜FC対新潟アルビレックスの対戦を見る。序盤に1点を先行されたが、前半のうちに1点を返し、後半も再三チャンスを作ったが攻めきれず、逆に終盤に1点を失って敗れる。前途ますます多難。

3月17日
 『朝日』の「しつもん! ドラえもん」は映画撮影の際に使う、カチンコを取り上げていた。
 高橋治が書いているが、昭和20年代の松竹の撮影所で、撮影の際に監督の「よーい、スタート」の声にこたえてカチンコをたたくのは、4人か5人ついている助監督の中の最下位の一人であった。『麦秋』までの小津作品では今村昌平がカチンコをたたいていたのが、『東京物語』では高橋がたたくことになったという。
 高橋とほぼ同時期に同じ松竹の助監督になった山田洋次監督は、最初にカチンコをたたいたのが、川島雄三の作品だと書いていたが、たぶん井上靖原作、月丘夢路主演の『昨日と明日の間』ではないかと思う。川島はこの後日活に移るので、山田監督が川島と一緒に仕事をしたのは、この一度だけに終わったのは、ちょっと残念である。

 『日経』の一面のコラム「春秋」はサクラの季節が近づいているということで、西行の「願はくは花の下にて春死なん」という歌を取り上げている。彼がそのころに死にたいといったのは「如月の望月のころ」であったが、それを現在の暦に直すと3月21日に当たると書いている。しかし、われわれが「旧暦」と呼んでいるのは江戸時代の末にできた天保暦で、西行の時代の儀鳳暦とは同じものではない。同様に、西暦の方も、西行の時代は現在のグレゴリオ暦ではなくて、ユリウス暦が使われていた。だから、3月21日と断定はできないのであって、そのあたりのいつかということであろう。

3月18日
 1面のトップに「日本に留学…バイト漬け」という日本語学校の生徒の実態を取り上げた記事を載せている『朝日』と、「外国籍児の就学徹底 編入学年こだわらず 文科省通知へ」という見出しを掲げたトップ記事を掲載している『毎日』と、ルノー会長インタビューをトップ記事にしている『日経』をコンビニで買ったのだが、その店員が外国人の研修生で漢字が読めず、レジで戸惑っていたのも日本の現状の一端だろうと思った。

 『朝日』の朝刊1面には「保育園落選 今春も4人に1人」という見出しで自社による調査結果が記され、『毎日』の26面には「保育所 7人に1人落選」という見出しで共同通信による調査が紹介されている。どちらにしても、かなり大きな数字で五十歩百歩ということは言えるが、それでも誤差が大きすぎる。

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』(2)

3月17日(日)晴れ

 著者である梅棹忠夫は、1957年から58年にかけて、大阪市立大学の学術調査隊の隊長として、タイ、カンボジア、ベトナム、ラオス4カ国を歴訪した。さらに、その後、1961年から62年にかけて、大阪市大と京都大学の協力によるタイへの学術調査隊に客員としてしばらくの間同行した。この書物は、その際の経験を記したものである。梅棹の関心は東南アジアの自然だけでなく、社会にも向けられており、それらが、生態学的でもあり、歴史的でもある研究視角から生き生きと語られている。
 前回取り上げた、「第1章 バンコクの目ざめ」では、学術調査隊の6人の隊員がバンコクに勢ぞろいし、日本大使館の協力を得て、自動車の入国をはじめとする調査の準備を進めた次第が記されていた。研究調査を行うとともに、バンコクで開かれる第9回太平洋学術会議にも出席することになっている。今回は、「第2章 チュラーロンコーン大学」についてみていく。タイ王国の最高学府であるこの大学の構内には、私も入ったことがある(入ったことがあるというだけで、他に何もしていない。)

第2章 チュラーロンコーン大学
 チュラーロンコーン大学 
 学術調査を行う際の、タイ側の窓口となるのがチュラーロンコーン大学であり、調査団がこの大学とどのようにして関係を結ぶに至ったかを先に説明しておくと著者は断っている。
 バンコクに到着して間もないころに、一行はチュラーロンコーン大学を訪問し、その外見が見慣れている大学の建物とは大きく違うことに驚く。〔たしかに、京都大学や大阪市立大学とはかなり外見が異なっている。〕 「技術的には、もちろん立派な近代建築だけれど、そのスタイルは、まったくタイ式である。/「なかなかいいじゃないか」/わたしたちは、その伝統と近代の見事な結合ぶりに感嘆しながら、その構内を歩んだ。理学部のクルーム教授を訪ねるためである。」(36ページ) 

 クルーム教授 → 協力の条件
 大学の建物の中に入って、梅棹は、建物の外見とは違い、大学の内部の研究室の様子が日本とあまり変わらないことに安心する。「建物のそと側のスタイルはまるでちがっていても、大学というものは、結局はどこの国でも同じようなものなのだ。わたしは、いくらか安心感を感じている。これでこそ、話が通じるというものだ。」(37ページ)
 現れたクルーム教授は、明るい感じの体格のいい人物で、ロンドン大学で動物学を修め、学位をとっただけあって、正確な英語を話し、「必要なことがらについて、テキパキと話をすすめた。」(同上) 大学間の国際交流の相手方としてはこの上なく適任の人物であると、梅棹は思う。
 話し合いの結果、チュラーロンコーン側からの協力、特に協力者の派遣についての日本側の提案は受け入れられる。

 タイへの道 → 第一次計画「弾圧」さる
 1953年ごろに、京大や大阪市大の、動物学・植物学・人類学などの若手研究者たちのあいだでは熱帯地域に関する関心が高まっていた。実際に現地に赴いて研究を進めるということになると、さまざまな困難が予想される中で、タイならばなんとかなるのではないかという見通しが出てきた。「タイは、むかしからの独立国で、日本との関係もよく、国内の治安もよい。しかも生態学的に見て、国内に雨緑林地帯および降雨林地帯という、熱帯森林の二大類型をふくみ、研究上もたいへんつごうがよい。」(40ページ)

 しかし、そうはいっても、研究のための窓口となってくれる現地の機関が見つからなければ、現地調査はできない。そこで、1953年の秋にフィリピンのマニラで、第8回太平洋学術会議が開かれ、京大の宮地伝三郎教授が代表として出席することになったのを好機と考えて、タイで現地調査を計画している若手研究者たちは、宮地にタイの研究者との連絡を依頼した。そのときのタイの代表が、クルーム教授だったのである。〔宮地伝三郎(1901‐88)は動物生態学者で、京都大学教授であった。岩波新書で『アユの話』、『サルの話』など一般向けの生態学の書物を遺している。実は、私が最初に勤めていた学校で、学生を対象とする講演をされたことがあり、その際に、まさにアユの話やサルの話、動物の行動がどの程度遺伝で決まり、どの程度学習によって変わっていくかを話されたと記憶する。非常に参考になる話だったのだが、学生たちはつまらなそうに聞いていたと記憶している。〕

 若手研究者たちは1955年にタイで現地調査を進めようと考えていたが、タイ側にはすぐには応じられない事情があり、また日本側でも京都大学の研究者を中心に組織された生物誌研究会がカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の遠征を1955年に計画していたので、同時作戦は無理であると判断され、タイでの調査は沙汰止みとなった。梅棹自身もカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の一員であったので、この時は表立ってタイ組を支援はできなかった。〔このカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊は今西錦司のカラコルム隊と、木原均のヒンズークシ隊に分かれて、それぞれの研究分野に即した調査が行われた。その活動については、当時のジャーナリズムでかなり大きく報道されたという記憶がある。もっともこちらは小学生だったから、どこまでのことがわかっていたかは疑問である。〕

 クルームさんの手紙 → 組織委員会
 1957年の5月に、タイのクルーム博士から第9回太平洋学術会議がバンコクで開かれるので、その会議に参加すれば、タイ側としても研究の手伝いができるだろうという手紙が届く。後で、6人の研究調査団のメンバーとなる藤岡喜愛と小川房人が梅棹のところにこのタイでの調査隊の隊長を引き受けてほしいと依頼にやってくる。そこで、梅棹は関係方面と連絡を取ったうえで、その申し出を承諾する。

 考えた末に、調査隊は大阪市立大学一本で組織することに決めて、組織委員会を立ち上げる。大阪市大の理学部が中心となって組織が固められ、吉良龍夫が委員長になる。〔吉良龍夫(1919‐2011)は旧制三高→京大農学部を通じての梅棹の先輩で、大阪市立大学教授であった。日本における生態学研究の先駆者のひとりである。〕

 隊員をきめる
 梅棹は6人の隊員を決めた(1人は隊長である)。希望者は多かったが、専門があまり散らばらないように人選を進めた。
 彼の生物学教室からは、講師の川村俊蔵(1924‐2003)に加わってもらう。霊長類の研究家で、今回は北タイにおけるテナガザルに目をつけている。「われわれが見ると、ちょっと何国人か判断がつきかねるような顔をしているが、野生のサルは、かれに惚れるのが多いそうだから、きっとうまくやれるだろう。しじゅうひとりごとを言い、ときどき行方不明になるのがかれの欠点である。」(45‐46ページ)〔川村は後に、大阪市立大学教授、さらに京都大学霊長類研究所の教授となる。ニホンザルの研究家として、「イモ洗い行動」 などの文化的行動を世界で初めて発見した。〕

 植物生態学の吉良研究室からは、助手の小川房人(1927‐2006)と、大学院博士課程在学中の依田恭二が加わった。「二人はしょっちゅう口論をしているけれど、いざとなると、すばらしいチーム・ワークを見せる。二人は、熱帯森林における植物生産力の研究を受け持つ。森林の生産力の問題は、吉良研究室の中心課題である。」(46ページ)
 「小川は、まだ30歳だけれど、堂々たるひげづらで、年より10くらいふけて見える。剣豪小説に通じ、じっさい剣をもたせば、たしかに何段かの腕前だそうだ。」(同上) 〔小川も京大農学部出身であるが、注目すべきは(旧制)福山誠之館中学校の卒業生だということで、当ブログで以前、福山藩と(旧制)福山誠之館中学校→福山誠之館高校との関係について論じた梅棹の文章を紹介したことがあったが、どうも梅棹は小川から情報提供を受けて、関心をかきたてられたらしい。彼は後に、大阪市立大学教授、理学部付属植物園長となる。ひげづらだったのは、若いころだけだったようである。剣豪小説云々は、後でも触れられる。〕
 「依田は、一ばん若いが、一ばんはりきっている。小柄だけれど、エネルギーのかたまりみたいな男だ。」(同上) 「はなはだ不便な」ことに、アルコール類は、においをかいだだけでジンマシンが出るという。」(同上) 〔依田も植物学者であるが、1997年に急死したこと以外に、有力な情報を得ていない。〕

 動物生理生態学の大沢済(わたる)教授の研究室からは吉川公雄が加わる。ハチなどの社会性昆虫を中心とする昆虫学の研究家で、医学博士でもある。「医者の方の腕に関しても、いちおう信用するとしよう。」(同上) 〔吉川についても、有力な情報は得ていない。〕

 最後の1人は藤岡喜愛(1924‐1991)で京大の人文科学研究所の所員であるが、この調査に加わってもらわないといけないので、大阪市大の講師を兼任するという形での参加となった。「かれは人類学者である。ロールシャハ・テストという、奇怪な形のインキのしみを見せて、それで人間の性格をあてる。その方では、すでに一方の雄である。かれもまた、剣をもたせば何段だかだそうだが、小川とはもっぱら、将棋で手合わせをしている。藤岡には、事実上の副隊長をつとめてもらわねばなるまい。」(46‐47ページ) 〔私が1964年に京大に入学したとき、教養部の自然科学系の授業で、「自然人類学」というのがあって、藤岡喜愛・米山俊直担当ということになっていたが、実際の授業はすべて米山先生が行なわれたので、藤岡との接点はまったくない。梅棹の秘書であった藤本ますみさんの『知的生産者たちの現場』(講談社)には、藤岡というよりも、彼の秘書であった小杉圭子さんのことの方が出てくる。〕

 隊長は儀典係である → 1日4ドル!
 6人は大学や研究会でしじゅう顔を合わせているので、お互いの気心は知れている。とはいえ、梅棹以外の5人は現地調査の経験をもたない。梅棹はミクロネシアで調査をしたことがあるので、熱帯の経験もあるが、他のメンバーは現地に臨むのは初めてである。しかし熱意がその欠陥を補ったようである。既に調査を行った経験者たちから多くを学び、知識を吸収した。これまでに京大を中心に蓄積されてきた学術探検の伝統が物を言った。それで、隊員が優秀なので、隊長は楽であった。
 「わたしの一ばんの仕事は、みんなが作業服ではたらいているときに、きちんとネクタイをしめ、背広を着て、えらい人と会うことだった。もっともこれは、熱帯の気候のもとでは、かなりつらいことにはちがいなかった。しかし、儀式はだれかがやらなければならない。/「隊長とは、儀典係のことである」/わたしたちは、この新しい定義を確立した。」(48ページ)

 儀典係として、梅棹は官庁との折衝に当たる。すべての官庁の中で、一ばんの難関は大蔵省であった。この頃は、外貨の割り当てがあったから、それがもらえなければ、海外での調査は不可能であった。折衝の結果、割り当てられるのは1日4ドルという信じられないような低額になってしまった。それでも、無理を承知で、やってみるほかなかったと梅棹は書いている。「この機会をはずせば、とうてい近い将来に実現の見込みはなかったのである。」(50ページ)

 資金あつめ → 応援団
 資金あつめには苦労したが、大阪市の援助、企業の援助、研究仲間の支援があって、資金を集めることができた。またジャーナリズム関係からの支援も得られた。その分、梅棹が「筆債を背負いこむ」(原稿を書くことになる)が、何とかなるだろうということである。さらに、買い物や電話番などの用事を引き受けてくれた、大阪市大、他の大学や一般市民からの手伝いも非常にありがたかった。

 出発
 「最後の日、わたしはとうとう寝るひまがなかった。隊の準備に追われて、個人用のトランクをつめる時間がなかったのだ。わたしは、夜おそく家に帰り、徹夜で荷物をつくって、翌日の朝はやく、神戸港にかけつけたのだった。」(53ページ) 梅棹の家は京都の北白川だから、移動だけでもかなり時間がかかり、大変だったはずである。
 梅棹、藤岡、吉川の3人が大阪商船の「しどにい丸」で先発、後の3人が荷物とともに、三井船舶の「うめ丸」に乗ることになった。既に移動は飛行機を利用する時代になっていたが、準備で疲れ切っていた隊員たちには船で体力を回復する時間をもつことの方がありがたかった。それでも梅棹たち3人はサイゴンで「しどにい丸」から下船し、飛行機でバンコク入りした。

 今回もかなりの量になってしまった。チュラーロンコーン大学についての記述を除き、東南アジア関係の記事は少ないが、研究調査のための組織・体制をどのように固めていくかとか、調査活動の中での人間関係とかを考えていくうえで参考になるのではないか。外貨持ち出しの規制は、今では想像できないが、この時代1ドル=360円であったことも思い出す必要があるかもしれない。次回は、太平洋学術会議の様子が中心となる。  

ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』再読

3月16日(土)晴れのち曇り、夕方になって一時雨

 E.H.カーの『歴史とは何か』の中で、ジェイン・オースティン(Jane Austen, 1775-1817)の『ノーサンガー・アビー』(Northanger Abbey)からの引用を見かけ、改めてこの小説についての興味を呼び覚まされ、読みなおしてみようと思った。この小説は、1803年に完成されたオースティンの最初の長編作品である。すぐに出版される予定で、ある出版社に渡され、広告まで出たのに、なかなか出版されなかった。結局、1817年、作者の死後に、彼女の最後の完成された長編小説である『説得』(Persuation) とともに出版された。そういう事情はあるにせよ、この作品はオースティンの最初の小説として、彼女のその後の作品と共通する特徴を持地、彼女のその後の文学活動を予告するものであるとともに、その独自の魅力によって今なお読むに値するものである。

 18世紀の終わりか、19世紀の初めのころ、イングランド南西部のウィルトシャー・フラートン村の教区牧師の娘であるキャサリン・モーランドは、小説のヒロインにはふさわしくない不器量なおてんば娘であったが、年頃になるにつれて美しく成長した。とはいうものの才芸に秀でているということはなく、小説好きで夢見がちな女性になったということである。
 17歳になった彼女は、同じ村の大地主であるアレン夫妻の保護の下で訪問した温泉保養地バースで、ヘンリー・ティルニーという若い牧師に引き合わされ、お互いに惹かれあう。同じくバースでは、アレン夫人の学校時代の友人であったソープ夫人の娘、イザベラ・ソープと知り合い、友だちになる。彼女は誰もが目を見張るような派手なタイプの美人で、その兄であるジョン・ソープはキャサリンの兄であるジェイムズとオックスフォード大学で親友であるという。

 ヘンリーは、知性と教養にあふれた美男子で、冗談好きである。彼の話を聞くたびに、キャサリンは向上するような気がする。ヘンリーの妹であるエリナー(ミス・ティルニー)は、イザベラとは対照的な、清楚で気品のある美人である。キャサリンはエリナーとも友人になるが、イザベラはキャサリンがこの兄妹と親密になることを好まない。彼女は、自分の兄のジョンがキャサリンと結婚することを望んでいるのである。そして、イザベラ自身はジェイムズと結婚することを望んでいる。ジェイムズもイザベラに夢中で、やがて2人は結婚の約束をする。ジョンはキャサリンにプロポーズするが、キャサリンは彼の意図が理解できない。しかし、ジョンの方は色よい返事をえたものと勘違いする。
 エリナーはキャサリンを自分の邸――ノーサンガー・アビー――に招待する。どうもこの招待には、彼女の父であるティルニー将軍の意向があるようである。彼は堂々たる風格を備えた美男子で、キャサリンを丁重に扱ってくれるが、キャサリンは彼に対して何となく怖いような嫌な感じをいだく。そして彼女が愛読するアン・ラドクリフの『ユードルフォの謎』(1794)に登場する極悪人モントーニを連想する。そして彼が自分の妻(つまりヘンリーやエリナーの母)にした仕打ちについて想像したりする…

 オースティンはこの作品のあと、『分別と多感』(Sense and Sensibility, )、『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, )、『マンスフィールド・パーク』(Mansfield Park, )』、『エマ』(Emma, )、彼女の死後にこの『ノーサンガー・アビー』とともに出版された『説得』(Persuation, )を書いた。これら6編の長編小説はすべて、主に南イングランドが舞台になり、上流階級(の下層)の女性の結婚問題が扱われている。それらの作品中で展開される恋愛のきっかけや展開はそれぞれに違って、そこが物語の妙となっているのだが、結婚の前提として、ロマンチックな恋愛が描かれている一方で、愛し合う男女それぞれの身分や財産の問題が取り上げられているのが共通する特徴である。
 この『ノーサンガー・アビー』の場合、ヒロインであるキャサリンの父親は、比較的裕福な牧師なのだが、まさにこの<比較的裕福な>という財政状態の評価が、ノーサンガー・アビーという中世には修道院であった邸宅の当主の次男であるヘンリーとの恋愛→結婚?の行方を左右することになるのである。

 オースティンの小説には、彼女独特の人間観察やユーモアがちりばめられているというのが特色であるのだが、この作品の場合、それらの特徴はまだまだ十分に発揮されているとは言えないものの、キャサリンの愛読する小説をめぐる登場人物(特にイザベラ、ヘンリーやエリナーとの対話)を通じて、同時代、あるいは少し以前の文学作品に対するオースティンの評価がうかがわれるところが(当時の出版者には気に入らなかったかもしれないが)独特の魅力となっているように思われる。

 もう一つ、この作品の魅力となっているのは、キャサリンのナイーヴな性格であろう。「何事も経験不足で、恋の技巧も友情の義務もご存じない」(44ページ)が、だからこそ、彼女は難局を乗り切っていくことができる…というのも、オースティンが読者に向けて訴えたかったメッセージなのかもしれないと思うのである。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(13‐1)

3月15日(金)晴れ
 昔のローマの暦では3月15日をĪdibus Mârtiîsといった。ローマに太陽暦を持ち込んだ(紀元前46年)ユリウス・カエサルが暗殺された(紀元前44年)のが、この日で、そのためにBeware the ides of March. (3月15日を警戒せよ。という言い方ができた←シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』) 野暮用その1(確定申告)は思っていたよりも簡単に済んだが、思っていたよりも多額の税金を取られることになり、近くの銀行からすぐに支払った。野暮用(と言っては、御先祖様に失礼であるが)その2(墓参り)が次に控えている。その間、サッカーの試合を見に行くつもりであり、時間と金とのやりくりがいろいろと大変である。

 「暗い森」に迷いこんだダンテは、彼を救いにやってきたローマ時代の大詩人ウェルギリウスのたましいに案内されて、地獄をめぐる。第1圏(リンボ≂キリスト教信者ではなかったが、悪いことをしなかったたましい)、第2圏(愛欲の罪)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)を過ぎて、ディース城を通過すると、より重い罪を犯したたましいたちが罰せられている下層地獄にたどりつく。第6圏では異端の罪を犯した人々のたましいが石棺の中に入れられて炎で焼かれていた。第7圏の第1冠状地では暴力によって他人を支配していた人々のたましいが煮えたぎる血の川に沈められ、ケンタウロス(人馬)たちの監視を受けていた。ダンテとウェルギリウスは、ケンタウロスのなかのネッソスに導かれて、血の川を渡る。

 血の川の対岸まで2人を送り届けたネッソスは、また第1冠状地へと戻っていく。残された2人の目の前には、これまでとは違った、しかしやはり異様な眺めが広がっている。
 ネッソスが向こう岸に渡りきらぬうちに
われわれはひとつの森に入りこんだが
そこには小径さえもついていなかった。
 緑の葉はなく、色は黒ずんで、
枝という枝はまっすぐではなく節くれて曲がりくねっていた。
実はなく、毒々しい棘ばかりが生えていた。
(1‐6行、291ページ)

 山川訳では:
ネッソ未だかなたに着かざるに我等は道の跡もなき一の森をわけて進めり
木の葉は色黯(くろず)みて緑なるなく、枝は節くれだちくねりて直く滑らかなるなく、毒を含む棘ありて實なし
(山川訳、81ページ) ネッソスを山川はネッソとイタリア語名で示している。

 原訳では
いまだネッソスは向こう岸にたどりついていなかった。
その時に私達は小径の気配さえまったくない
ある森に足を踏み入れた。

緑に茂る葉でなく、反対に、暗鬱な色をしていた。
しなやかに伸びる枝ではなく、反対に、瘤だらけでからみ捩れていた。
果実はなく、反対に、毒のある棘が尖っていた。
(原訳、192ページ)

 このような森にすむ生き物などは、いないだろうと思うと、ギリシア神話に出てくる怪鳥ハルピュイアが巣くっていた。
広い翼をもち、首と顔は人間のそれで、
足には鉤爪が、大きな腹には羽毛が生えていた。
奇怪な木々の上で奇妙な呻き声をあげている。
(13‐15行、291‐292ページ) 実は「呻き声」はハルピュイアではなく、木々が発するものであることが後でわかる。仏典や日本の古典には迦陵頻伽(かりょうびんが)上半身が人間で下半身が鳥という生き物が登場するが、こちらは極楽に住んでいる。非常に対照的である。

 ウェルギリウスはダンテに、彼らが第二冠状地にいること、ダンテが自らの想像を超えた世界に足を踏み入れていることをつげ、森の中の藪の1本の枝を折ってみるように促す。
 それで私は恐る恐る手を前にさしのべて
大きな茨の茂みから細い小枝を一本摘みとった。
すると幹が叫んだ。「なぜ私をへし折る」
 それから、どす黒い血が流れ出し
幹がまた行った。「なぜ私を引きちぎる。
おまえには憐れみの心がひとかけらもないのか。
 今は茨に変えられているが、われわれはかつて人間だった。
われわれがたとえ蛇のたましいだったとしても、
おまえの手には、もっといたわりがあってもよいはずだ」
(31‐39行、292‐293ページ) 地獄の第7圏第2冠状地の森を構成している木々は、すべてかつて人間であったもののたましいが姿を変えられたものだったのである。思いがけない事態を前にして、ダンテは驚愕し、恐れおののく。

…枝をもがれた幹の口から
言葉土地がともに噴き出してきた。私は持っていた枝を
取りおとし、怯えた人のように立ちすくんだ。
(43‐45行、293ページ) そこで、ウェルギリウスは、その幹に向かって、彼が生前に何者であったかを語ってほしいと頼む。そうすれば、枝を折ったことについての
いくばくかの償いとして、彼がやがて戻ることのできる
現世で、君の記憶[名望]を新たにしてくれよう」
(53‐54行、293ページ)という。死後、たましいたちが望むことができるのは、地上の人々が自分のことを記憶していてくれることだけである。ウェルギリウスの言葉は、木に変えられた人物のたましいを動かす。
 私はかつてフェデリーコの心の
両の鍵を握っていたものだ。・・・
(58‐59行、294ページ) 13世紀に神聖ローマ帝国皇帝であったフェデリーコⅡ世に仕えてシチリアの宮廷で活躍したが、無実の罪を着せられて失脚し、獄中で自殺したピエートロ・デッラ・ヴィーニャのたましいであることを告げる。そして
どうか私についての評判をふたたび立ち上がらせてほしい。
いまだ嫉妬に打ちのめされ、地に伏したままなのだ」
(77‐78行、295ページ)と言って、口をつぐむ。

 第2冠状地の木々は、自殺者のたましいの変わり果てた姿なのであった。ダンテとウェルギリウスは第二冠状地でさらにどのような経験をすることになるかは、また次回に。

E.H.カー『歴史とは何か』(6)

3月14日(木)晴れ

 今回から、「Ⅱ 社会と個人」に入っていく。その前に、「Ⅰ 歴史家と事実」の概要をまとめておく。

 19世紀の歴史家たちは、暗黙の裡に歴史とは限りない進歩の過程であるという信念を共有していたので、その研究にあたって歴史的な事実を掘り起こすことだけに専念していた。
 ところが、19世紀の終わりごろになると、ドイツのディルタイや、イタリアのクローチェのようにこの考えを疑う人々が登場した。英国ではコリングウッドがこの流れに乗って、自己の主張を展開した。彼らは、歴史家はその時代の人間としての目で歴史を研究するので、過去の事実の記述と評価も歴史家によって左右されると考えた。
 しかし、このような批判を極端な形で進めていくと、歴史には確実な事実はないという懐疑主義や、現在のある目的にしたがって過去を自由に解釈してよいというプラグマティズムに行き着いてしまう。
 そこで、著者は、歴史的事実と歴史家は相互に作用しあう平等な関係にあるという。歴史は、過去と現在との対話なのであるというのが著者の主張である。

Ⅱ 社会と個人
 社会を離れた個人はいない
 社会と個人は不可分のものであり、相互に補完的な関係にあり、敵対するものではない。
 個人は社会の中に生まれ、その中で成長する。環境や言語によってその個人の思考も規定される。社会を離れた個人は言語も精神も持つことができないだろう。社会から離れて独立して生きる人間の物語という意味で、『ロビンソン・クルーソー』は魅力的に思えるが、ロビンソンは社会から全く離れた存在ではない。ドストイェフスキーの『悪霊』に登場するキリーロフのように自殺すれば、個人の自由を実現することができる(ということにはならない、フランスの社会学者であるデュルケムが『自殺論』において述べたように、自殺もまた社会的に条件づけられた行為である――とカーは注記している)。

 個人化の増大ということが、現代の進歩した社会の産物であり、それが社会の働きの隅々まで行き渡っているということを強調する意見がある。しかしこれは、個人化の進行が、社会の複雑化とともに進行し、両者がお互いに制約しあう関係であることを見落としている。
 生物的特質に基づく国民性という考え方は、すでに論破されてはいるが、社会や教育の力によって形成された国民間の性格の違いというのは認めてよいものである。そして、そのような国民性の一つとして、個人と社会との関係がそれぞれに違っていることを認めるべきではないだろうか。

 個人崇拝の時代
 社会と個人の関係についてのある意味では分かり切ったような議論を持ち出したのは、歴史研究のある傾向について検討するためであるとカーは言う。
 「個人主義崇拝は、現代の歴史的神話のうちで、最も普及するものの一つです。」(44ページ) カーが言っている「個人主義崇拝」というのはどういうことかを慎重にみていく必要がある。
 カーは、ブルクハルトの『イタリアにおけるルネサンスの文化』の「個人の発達」というサブタイトルの付いた第2部の概要を紹介する。その中でブルクハルトは、個人崇拝はルネサンスとともに始まり、それまでは「人種、種族、党派、家族、団体のメンバーという自覚しかなかった」人間がようやく「精神的な個人になり、そういう自覚に達した」(44ページに引用)のであるという。
 その後、この個人崇拝は資本主義やプロテスタンティズムの発展と結びつき、産業革命の開始と結びつき、自由放任の学説と結びつくことになったという。フランス革命の中で主張された人権は個人の権利ということであった。また、個人主義は19世紀の英国で主流の思想となった功利主義の根拠ともなった。〔歴史および社会の中で果たす個人の役割が重視されるようになったということであろうが、ずいぶん、思い切って単純化された解説である。個人崇拝というと、昔の「社会主義」国におけるスターリンとか毛沢東に対する崇拝を思い出してしまうので、個人の尊重とか、個人主義的な傾向とかいうような別の訳し方が必要であろう。〕 

 カーは、プロテスタンティズムとか、功利主義とかいう思想からはなれて、個人化の増大というのが歴史の中の一つの過程であったと説明する。社会の変化の中である社会集団が新たに権力の座に座ることになる。それは源頼朝とか、ヘンリーⅦ世とかいう個人を指導者として起きてきたし、その変化の過程で個々人が力をつけて(たとえば源頼朝の下の熊谷直実のように)社会発展の新しい可能性が生まれるようになった。特に資本主義の初期にあっては、生産及び分配の単位が個人に置かれていたから、新しい社会秩序のイデオロギーは社会秩序における個人の創意の役割を大いに強調することになったという。
 しかし、それは歴史的な発展の一段階において起きたことであるから(つまり、それに対する反動ありうるから)、個人化をもって、社会に対する個人の反逆とか、社会的束縛からの古人の解放というような評価を下すのは間違いだというのである。

 この後、カーは少し脱線して、個人主義的な傾向が西欧や北アメリカでは支配的になったが、そののち、特に20世紀にはいると、大衆民主主義あるいは集産主義の傾向が強くなってきたと述べている。〔いま、そのカーの議論を私が検討している時点では、またまた個人主義的、古典的な自由主義が巻き返しているように思われる。〕
 本題にもどって、カーは歴史家は個人であるが、それとともに彼を取り巻く社会の影響を受けているのだという。歴史家は、彼の時代と以前の時代の様々な歴史的な著作を読んでいるし、それらから独立してその研究を展開することはできない。また、彼は彼を取り巻く社会の条件と向き合いながら、自分の問題意識を作り上げているのである。
 歴史とは現在の歴史家と過去の事実との相互作用の過程である、対話であると、「Ⅰ 歴史家と事実」で彼は述べたが、次に、「この方程式の両側における個人的要素と社会的要素との比重」(47ページ)について考えてみたいという。「歴史家はどこまで単独の個人なのでしょうか。そして、どこまで自分の社会および時代の産物なのでしょうか。歴史上の事実はどこまで単独の個人に関する事実で、どこまで社会的事実なのでしょうか。」(47‐48ページ)

 ここからカーは何人かの歴史家たちの時代や思想と、その歴史的著作との関係について説き及ぶのであるが、それはまた次回に。本日から、明日にかけて野暮用のため、おそらく皆様のブログを訪問することはほとんどできなくなると思いますが、ご容赦ください。それではまた。ごきげんよう。
 

白川静『漢字』(5)

3月13日(水)晴れ

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字は基本的には表意的な象形文字であるが、仮借という表音的な方法を取り入れることによって文字体系として成立した。このような漢字は、殷時代に、もともと沿海族であった殷人によって作り上げられたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象の中には、それらの文字を作り出した古代の人々の世界観が遺されている。
3 神聖王朝の構造
 殷王朝は祭祀と軍事とをその中心とした神聖王朝であった。中国の古代神話は国家神話として成立した。
4 秩序の原理
 殷王朝は神話と祭祀をその秩序の原理としていたが、それを倒した周王朝では天命という考え方が取って代わった。古代の裁判は今日のような証拠主義ではなく、神判が用いられていた。

 本日は「5 社会と生活」を見ていく。
5 社会と生活
 戦争と平和
 戦闘に関わる漢字には戈(ほこ)と斤(まさかり)のような武器・武具に関する要素が含まれていることが多い。戦は単(もと單=上に飾りをつけた丸い盾)と戈を組み合わせた字、兵は斤を振り上げる字、戒は戈を両手で差し上げている字である。
 軍をもって他邑を征することを「正」といった。甲骨文では囗(口=くちではなくて、囗=くにである)と止の形に書かれている。囗は城邑〔都市、城市」を表わし、その下に人の形を加えたものが邑、多数の人を並べたのが衆、邑を戈をもって衛(まも)るのが或で、これが国(國)の最初の形であるという。
 征服者はその征服した土地から、賦税を征取した。それを政という。「それを司るものが正であった。征取の権利は、征服者としてはきわめて正当なものとされた。ゆえにそれはまた、正義の意となる。正義とはおおむね、支配者の論理である。」(127ページ)
 戦争には瞽師(こし)や巫女が従った。戦争は呪力の戦いであり、氏族の奉じる神々の威霊の戦いであった。〔瞽師については、「2 神話と呪術」でも触れられている。盲目の音楽師で音や風によって戦いの吉凶を卜した人々である。ホメーロスの叙事詩に出てくる預言者を想起させるところがある。〕

 和という字には、禾が含まれている。和は古くは軍門、駐屯地の門のことであった。そこで門柱として立てられるのが禾=「上端がすこしくまがった木、あるいはそれにとまり木のような横の木をさし加えた形のもの」(128ページ)である。
 禾が軍門であることから和の意味も明らかになる。和は軍門の前で、講和を結ぶことである。
 和(か)は同音であるために桓ともいう。漢の時代には駅亭〔宿場〕の上にそういう木を立てて、これを桓といった。「亭は百歩四方の土を高く築いて、その上に建物を作り、屋上に高い柱を立てる。高さは一丈あまり、その上部に、柱を貫いて、四方に出る小さな横木をつけた。これを桓表とよんでいる。桓表はまた和表ともいった。のちの華表(我が国の鳥居)の原型をなすもので、鳥居の半分の形と考えればよい。鳥居はあるいは南方起源のものであろう。東南アジアのタイの北部にいるイコー族は、村の入口に鳥居を立て、神の使者としての鳥を、飾りにつけているという。北方の満蒙では、家門などの前に、ただ高い柱を一本立てて神桿(しんかん)とした。神桿と華表と鳥居とは、南北相異なるものであるが、同様の起源をもつものと考えてよい。」(129‐130ページ)
 ここで白川によっては触れられていない民俗も、他の民族のあいだで行われている可能性があり、ここで白川が述べていることは飽くまでも一説として受け止める必要がありそうである。

 歌謡について
 歌は人間が神と交渉をもつための手段と考えられていた。そのためには普段と違う抑揚やリズムで言葉を唱えるほうが効力があるとされた。そういう古代の表現が歌であった。
 歌は可を要素とする漢字で、金文では訶と書かれていた。可には自分の祈りを聞き届けるように要求する強い意味が含まれている。歌は『詩経』では、呪歌の意味で用いられることが多い。「ひとたび歌として表現が与えられると、それは動かすべからざる実在のものとなって、その呪能を発揮する。いかなる権力者も、その呪縛から脱しえない」(132‐133ページ)と考えられていた。
 「歌謡とは、ひとがことばの呪能を最高度に高め、神と交通する手段であったのである。したがって、歌謡の最も原始的なものは、祭祀や儀礼に用いるものであった。」(133ページ) 古代のわが国においても、歌謡が同じように受け取られていたことも記されている。

 舞楽の起源について
 舞はもともと雨乞いのまつりであったと白川は言う。舞という字の下部は両足を開いて舞う形、上部は衣の袖に呪物などをつけて、両手を広げている形であるというのである。舞の字はまた、雨の下に無を加えた字形を用いることもあり、舞が本来雨乞いのためであったことがわかるという。

 歌舞には、楽器がつきものであった。楽の本来の形は樂で、神楽舞のときに持つ鈴の形だという。
 殷代には祭祀は盛んであったが、楽器としては、素朴な打楽器類しかなかった。
 西周期になると、弦楽器なども登場してくるし、竹管の吹奏器も発達した。また音階を表わすことのできる鐘も現れ、七器一組というようなセットができあがった。
 楽には邪霊を祓う力があり、病気もこれで治すことができるとされた。〔手元の『新字源』(改訂版)では、楽は木に糸を張ったさまにより、弦楽器を意味すると記されていて、白川説とは異なる。最新版の『新字源』でどうなっているか、今度、調べてみようと思う。〕

 古代の医術
 医はもともと醫と書かれていたが、さらに古くは毉と書かれた。巫医ということばがあるように、医術はもともと巫のつかさどるところであったという。
 古くは一般に、病気は神的な原因によるものと考えられていた。それで病気になると、それが何者の祟りによるかを突き止めて、祭りをすることで病気を治そうとした。
 しかし『周礼』を見ると、医術がかなり専門分化していることが知られ、医師の治療成績による一種の勤務評定が行われ、季節によりどのような病気が流行するかについての観察が要求されるなど、医術は経験医学の段階に入っているようである。
 一般に動物供犠を用いる民族の間で、医術は早くから発達する可能性が大きく、また異民族と接触して、多くの戦争経験を持つところでは、外科的治療についての知識が豊富となるはずである。〔ということは、農耕的な殷王朝よりも、西北の牧畜族であったと白川が推測する周王朝のほうが医術が発達する可能性を持っていたわけである。〕

 巫医の分離は、春秋期になって初めて見られるようである。『説文解字』には病だれ部の文字が104字は言っており、疾病についての知識がかなり豊富であったことがわかる。おそらくは春秋期以来の医術の発達を示すものと考えられる。
 『史記』によると、春秋初期の名医扁鵲(へんじゃく)は巫医の分離を解き、巫術を攻撃して、これに代わる経験医学としての医術を主張した。神経性疾患や小児病については、特に卓越した技術を示したという。「もしかれの知見が記録されていたならば、前5世紀末のヒポクラテスよりも古い医術書を残すことができたであろう。中国の経験医学は、鍼灸術や本草学においてすぐれた集積を示し、今もその特殊な伝統を保ちつづけているのである。」(149ページ)

 経済について
 殷の時代には様々な職能氏族が存在し、それぞれの職能を果たしていたと考えられる。
 技術や生産は、必ずしも富や財宝と直結するものではなかった。財宝は、むしろ宗教的な理由で尊ばれ、権力がそれを略取することが可能だったからである。殷では貝(=宝貝)が財宝視されたが、これは東方の習俗であったと考えられる。西方では青銅や玉が用いられた。
  殷周の社会は、すでに定着的な農耕の段階にあった。したがって祭祀には農祭に関するものが多い。

 商の成立
 古代の生産者は、おおむね王室、あるいは諸侯帰属に隷属して、その職能を果たしていた。しかし王朝が解体し、古代的な貴族社会が崩壊すると、その一部は新たな列国諸侯のもとに吸収されるが、自活の道を歩まなければならなくなるものも出てくる。支配勢力から離れたこれらの集団のうちには、墨子の思想から推測されるようなギルド的性格をもつものや、(春秋時代の)鄭の商人たちのように、自営的な組織をもつものもあったようである。
 商は、おおきな辛(はり)を台座の上に立てて、その刑罰権を示す尊厳な字であったと白川は言う。それで別名を商という殷の子孫が商業者に転落したことから商という文字を商いの意味で使うようになったというのは俗説であって、賞(賞賜)と償から出ており、有償行為を意味する。鄭の商人たちの多くが、殷人の子孫であったことは確かであるが、春秋時代には「商はすでに商行為を示す償の義に転じていたのである」(158ページ)というのがこの章の結びである。〔中国の歴史書では、殷といわずに商と呼んでいる。〕

 白川の文章はあまり読者の都合を考えず、自分の考えでどんどん書き進んでいくところがあり、読みにくい。その点は、同じ中国研究者でも東洋史学者であった宮崎市定とは対照的に思える。宮崎はかなりサービス精神に富んでいる。たぶん、彼らの授業も同じように、白川はどんどん講義を進めていくし、宮崎は学生のツッコミにこたえながら進めていったのではなかろうか。しかし、ところどころ鋭い洞察が見られるのは両者に共通していて、どこがどう鋭いのかを判断するには、やはりほかの学者が書いた本もきちんと読みこなしていないといけない…というのがつらいところである。

 このブログをはじめてから、読者の皆様に頂いた拍手の数が35000を越えました。あつくお礼申し上げるとともに、今後ますますのご支援をよろしくお願いします。

『太平記』(253)

3月12日(火)晴れ

 越前の南朝方の拠点であった杣山城が落城した翌年の暦応4年(南朝興国2年、1341)、鷹巣城に拠る畑時能は、不思議な犬を使うなどして奮戦したが、流れ矢にあたって落命した。また、越前から逃れた美濃でも敗退した脇屋義助は、尾張に逃れ、さらに吉野に帰参したが、後村上帝は義助の武功を賞した。敗軍の将に恩賞を与えることを批判する洞院実世に対して、四条隆資は、孫氏や太公望の故事をひいて義助を弁護した。
 暦応5年(この年4月27日に康永と改元、南朝興国3年、1342)2月、足利直義は病に倒れたが、光厳上皇が石清水八幡宮に願書を納めたかいがあってか、病は事なきを得た。

 この年の8月(この時代の暦では、秋である)は光厳上皇、光明帝の祖父にあたられる伏見帝(1265‐1317、在位1287‐98、院政1298‐1301、1308‐1313)の33回忌(岩波文庫版の脚注でも指摘されているように、数が合わない)にあたるので、その法要を特に、ゆかりの深い場所で執り行われることになり、光明帝、光厳上皇はおそろいで、伏見殿(京都市伏見区桃山にあった持明院統の院の御所)に行幸された。

 もとは御所だったとはいうものの、上皇がお住まいになることが絶えてから久しくたっていたので、一面にススキが生い茂り、叢が広がって、庭を通る路も見つけられないほどに、落ち葉が地を覆い、物寂しい様子であった。その荒れ果てた姿に、昔を重ね合わせ、秋の風情も感じられて、人々は涙を流した。
 悲しみが複雑に交錯する中で、法要の導師の説法が始まり、時間が刻一刻と過ぎていく中で、無常迅速の思いが人々の胸に満ち、上皇をはじめとして列座の人々は涙で袖を濡らしたのである。種々の御追善が次々と行なわれて、秋の日も傾いてきたので、山影であったために、月が登るのを待って、その光を頼りに都へとお帰りになろうとした。道は遠く、夜はしだいに更けていった。

 ちょうどそのとき、猛将として知られていた美濃の守護である土岐頼遠と、どちらかというと吏僚出会った二階堂行春の2人が、今比叡(東山区妙法院前側町の新日吉神社)の馬場で笠懸をした帰りがけであったが、間の悪いことに樋口東東洞院の辻{樋口小路(五乗大路南)と東洞院大路の交わる辻)で上皇の一行に遭遇した。
 召次(めしつぎ=院の御所の下級役人)たちが行列の前に走り出て、「狼藉である。何者であるか、下馬しなさい」と告げたので、二階堂は、それを聞いてすぐに、上皇の行列であると心得て、馬より降りて、うずくまって控えた。
 土岐はというと、もともと酔狂(好んで風変りにふるまう)のものであった上に、(青野原の戦いをはじめ、数々の戦で戦功をあげて、増長して)この頃は特に世を世ともしないほどにおごり高ぶっていたので、御幸の行列の前に馬を走らせて、「この頃、都の中で、頼遠を下馬させるような威信のあるものがいるとも思えないのに、そんなことをいうのは、いかなる馬呵(ばか、こういう字を書くこともあったようである)ものであるか。お前たち一人一人に、鏑矢を射かけてやろう」といったので、行列に加わっていた竹林院大納言(西園寺)公重が「院の御幸に出あって、何様のつもりで狼藉を働くのか」と叱りつけたのだが、頼遠はからからと笑い、「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」(第4分冊、60ページ、なに、院だというのか。犬ならば射てやろう)と言い捨て、30余騎ほど率いていた郎等たちが院のお車を真ん中に囲んで、周囲を縄で囲って、馬上から犬追物(犬を的にする騎射)のようにして射た。
 牛車の牛飼いは轅(車と牛をつないでいる棒)をめぐらして、車を矢から守ろうとしたが、胸懸(むながい=牛の胸から軛にかける紐)を切られ、軛(牛の首につける轅の横木)も折られてしまった。上皇に付き添っていた殿上人たちは身を挺して上皇のお車を矢から守ろうとしたが、みな、馬から射落とされて、それどころではなかった。
 大変な狼藉であるが、それでもまだ足らない様子で、お車の下簾(牛車の簾の内側にかける垂れ布)をかなぐり落とし、三十幅(みそのや=車輪の中心と輪をつなぐ放射状の30本の棒)を少しばかり踏み折って〔頑丈にできているので、頼遠の力でもそう簡単には折れなかったらしい〕、自分の宿所に帰っていった。

 この後、『太平記』の作者は、この行為が前代未聞のものであったことを例によって衒学的に語るが、その部分は省略する。
 森茂暁によると、この事件は『太平記』の作者の虚構ではなくて、史料によって確認できる史実であるという(森茂暁『太平記の群像』、140ページ参照)。また本郷和人は「頼遠が酒を飲んでいたから、ばさら大名だったから、との見方もできますが、青野ヶ原の戦いで大功績を上げ、自分が天下を動かした、あるいは足利氏に天下を取らせた、との思い上がりが生じた結果」(本郷『壬申の乱と関ケ原の戦い』、祥伝社新書、92ページ)と推測している。
 本郷さんといえば、近著『承久の乱』(文春新書)が、坂井孝一さんの同名書(中公新書)に比べて評判がいま一つであるということを『日経』に書いていたのを、本日の『朝日』で呉座勇一さんが論評しているので、興味のある方はご一読ください。本郷さんの本が承久の乱の背景の事情や意義の方に重点を置いているのに対し、坂井さんの方は乱の推移をきちんと記述しているから、評判がいいのは当然だろうと思うが、専門家には専門家なりの意見があるらしい。

日記抄(3月5日~11日)

3月11日(月)朝のうちは雨が残っていたが、その後、晴れ

 3月5日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他、これまでの記事の補遺・訂正など:

3月5日
 『日経』文化欄に心理学者の三浦佳世さんが連載している「絵画の中の光と影」は第2回で、レンブラントの「ベルシャザルの酒宴」を取り上げた。これは旧約の「ダニエル書」に出てくる話を絵画化したもので、ベルシャザル(新共同訳聖書ではベルシャツァル)というバビロンの王様が宴会を開き、その際に、ユダヤの首都であるエルサレムの神殿から略奪してきた金銀の祭具を酒器として使いはじめた(これはユダヤ人の側から見れば、神を冒瀆する行為である)。
 すると、「人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。」(新共同訳「ダニエル書」5-5)という場面を描いている。
 しかし、王にも、宴席にいた誰にも、この指が記した文字と、その意味が分からない。誰か、この文字を読むことができる者はいないかと王が尋ねると、王妃が先王に仕えて多くの難問を解決したダニエルという賢人がいるので、彼を呼ぶようにと助言する。(新共同訳では王妃になっているが、私のもっている和英対訳聖書の英語=Today's English Version ではthe queen mother (王母)になっている。どちらが適切な訳かはわからない。
 そこで、ダニエルが現れて、この文字は、「メネ、メネ、テケル、パルシン」と読み、「(治世を)数える、(量を)測る、分ける」という意味で、王の治世は終わった、王としての器量が不足している、王国は分割されるだろうという意味であるという。王は恐れおののいたが、時、すでに遅く、その夜のうちに殺害され、王国はペルシアのものとなった。

 ご存知の通り、この物語の舞台となっているバビロンを首都とする新バビロニア王国は、楔形文字を使っており、これはきわめて複雑な文字体系であった。対するに、ユダヤは独自の文字をもっており、これは今日のアラビア文字と同じく、母音を表記しない(つまり子音だけの)表音文字の体系であった。突如現れた「人の手の指」が壁に記したのが、ユダヤ人がヘブライ語に用いるヘブライ文字であったのであれば、バビロンの王の廷臣たちのだれにもわからず、逆にダニエルにはすぐ読めたのは当然のことである。
 丸谷才一の『エホバの顔を避けて』とか、小川国夫の『骨王』のように、旧約聖書に題材をとった小説は少なからずあり、私も、ダニエル書のこの話をもとに小説を書いてみたいと長年考えてきたのだが、どうも実現しそうもない。

3月6日
 NHKラジオ『実践ビジネス英語』の”Quote...Unquote"のコーナーで紹介された言葉:
Other men are lenses through which we read our own minds. (from Uses of Great Men)
---- Ralph Waldo Emerson
(U.S. philosopher, poet and essayist, 1803 - 82)
(他人とは、それを通して自分自身の心を読み取るレンズである。)
「コンコードの哲人(The Sage of Concord)」と呼ばれたアメリカの思想家の言葉。レンズといっても、凸レンズもあるし、凹レンズもある。彼の言葉では”The faith that stands on authority is not faith. (権威の上に立脚する信仰は信仰ではない。)というような(いかにも独立初期のアメリカらしい)ことばの方が好きである。〕

3月7日
 『新古今和歌集』(佐々木信綱校訂、岩波文庫)を読み終える。『万葉集』からとられた歌が少なからずあること、同様に『伊勢物語』中の歌が、在原業平名義で収められていること、ごくわずかであるが、源頼朝が詠んだ歌が採用されていて、作者名が「征夷大将軍」ではなく、「前右大将」になっていることなど、実際に読んでみないと気付かないことがいくつかあった。

 また、大竹聡『多摩川飲み下り』(ちくま文庫)を読み終える。多摩川の上流から下流までその流れに沿って歩き、造り酒屋があれば覗き、酒屋があれば酒を買い、飲み屋があれば一杯(以上になってしまう)傾け、なくてもなにかと理由をつけて、酒が飲めれば飲んで河口に達したという飲み歩きの記録である。冒険心の欠片もないという点からいえば、多摩川の上流を探ろうと、その岸辺を歩いた子ども時代の冒険を思い出す辻まことの『たまがわ探検隊』や、上流から羽村の堰までをカヌーで下った野田知佑の『日本の川を下る』の一章などには及ぶべくもないが、結構身近な話題が出てくるので、楽しんで読んだ。

3月8日
 国際女性デーである。むかしは、国際婦人デーといったが、いつ、婦人が女性に変わったのであろうか。

 岡谷公二『沖縄の聖地御嶽 神社の起源を問う』(平凡社新書)を読み終える。3月2日の『朝日』と『日経』の両方の読書欄で取り上げられていたので読む気になったのである。岡谷さんが同じ平凡社新書から出した『伊勢と出雲 韓神と鉄』をこのブログで取り上げなかったので、この本はいずれきちんと論評するつもりである。1929年生まれだという岡谷さんが沖縄や韓国で調査旅行をしている熱意と体力には脱帽させられる。

3月9日
 『日経』に本郷和人さんが連載している「日本史ひと模様」は直江兼続の下。関ヶ原の戦いの際に、最上義光方の城を攻め落とせなかったことをめぐり、兼続は軍事に不得手であったのではないかとばっさり切り捨てている。また、西に向かった家康をなぜ後ろから追わなかったか(「太平記」だと西に退却する新田義貞を追って、足利尊氏が京都に向かい、それをまた北畠顕家が追うというような場面がある)というのは、結果論であって、豊臣秀吉が天下を統一したのが1590年、関ヶ原の戦いはそれから10年しかたっていない時に起きたので、この戦いが長引いて、世は再び戦国時代に戻ると考え、そのために自分の領地を確実に拡大しておこうと考えたのであろうと推測している。以前、関ヶ原の際の黒田如水の行動について、小和田哲男さんが天下を狙うというよりも、再び戦国時代に戻ると想定しての領地拡大を目指していたのだろうと話していたのを聞いたことがあるが、そのあたりが専門家の意見ということであろう。

 横浜・山手のブラフ18番館で開かれているハドソン・テラスさんの「楽しいスケッチ」展を見る。関内から歩いて会場に向かったので、急坂に苦しみ、大汗をかいた。この展覧会を見るのはこれで3度目である。横浜や東京の風景を描いた作品が多いが、静物画や猫を描いた作品(1点のみ)もあった。「佃島」の風景など、画面の中で水が描かれている作品の印象が強く残った。

 その後、会場で待ち合わせた友人と元町を散策したのだが、横浜学園付属幼稚園の場所が、昔の横浜女学校の敷地で(横浜学園は横浜女学校の後身)、敷地内に中島敦の文学碑が建っていることを知ってうれしかった。中島の「かめれおん日記」、「悟浄出世」はこのブログでも取り上げたことがある。

 1075回のミニtoto-Aが当たっていた。

3月10日
 『日経』の日曜特集「美の粋」では「日本人の顔」を特集しているが、今回は第2回で萬鉄五郎の自画像と、岸田劉生の「麗子像」が紹介されていた。劉生の絵のデフォルメはかなりのもので、成人後の写真などを見た限りで、麗子はもっとかわいかったはずである。

 横浜FCはアウェーで栃木SCに1‐0で勝利し、勝ち点3をあげた。終了直前に戸島選手がゴールを決めたらしい。よかった、よかった。戸島選手には今後のさらなる活躍を期待したい。チーム全体としても、上昇気流に乗ることを願う。

 1075回のミニtoto-Bも当たっていた。両方をあてたのは珍しいことである。今年に入ってから、券を購入するために払った金額の合計は37400円で、賞金額の合計は39802円と再び利益の方が上回ることになった。

3月11日
 『日経』に掲載された原房子さんという人の「神楽面が語る古代の信仰」という文章が面白かった。南九州、特に宮崎県は神楽が盛んで、その際に被る独特の面には興味深い来歴がある。現存する面で最も古いものは鎌倉時代の宝治2(1248)年のものだという。そのような面の中でも古い型の、目と鼻に穴の開いていない王面と呼ばれるものの所在は、南九州独特の地下式横穴墓の存在する地域と重なるので、この伝統が古代にさかのぼるのではないかということのようである。

 「朝日」の朝刊で「元号」について取り上げているが、そもそもなぜ「年号」と言わずに「元号」というのかという問題を含め、掘り下げが足りないように思う。

梅棹忠夫『東南アジア紀行 上』

3月10日(日)朝のうちは晴れ間が残っていたが、だんだん雲が広がる。

 著者である梅棹忠夫は、1957(昭和32)年から1958(昭和33)年にかけて「大阪市大東南アジア学術調査隊」の隊長として、東南アジアのタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を歴訪した。この書物はその際の旅行記であり(その後、61年にふたたびタイで調査を行ったときのことが付け加えられている)、1964(昭和39)年に中央公論社から単行本として出版され、その後1979(昭和54)年に中公文庫に収められた。今からさかのぼると60年以上も前に行われた学術調査であり、この間、東南アジアの政治・社会・経済情勢は著しく変化し、またその後も変化を続けてきたのであるが、この書物は、解説で石井米雄が述べているように、「楽しい書物である。しかし、その楽しい本のなかから読者が得られるものは、単なる紀行文以上に大きいものがある」(下巻、303ページ)、あり続けていると言えよう。
 私は、2003(平成15)年3月にタイを旅行したが、帰国後、この本を読み返してみて、バンコクの町の様子などずいぶん変わっているにもかかわらず、タイの社会の基本的なところは、この本でとらえられており、旅行前にこの本を読み返しておかなかったことを後悔した。それで、書物の内容を追いながら、私の旅も思い出して、書いていこうと思う。〔私自身の旅の経験からの感想は〔 〕で囲んで、書き入れていくことにする。〕

第1章 バンコクの目ざめ
 バンコクの目ざめ → 入国試験
 1957年11月14日の朝、梅棹はF、Y1という2人の仲間たちと泊まったバンコクの安宿で、隣室から聞こえるタイプライターの音で目覚める。(音を聞いただけで、それがポータブルではなく、事務用の大きなものだと推理できるのは、梅棹自身もタイプライターの使用者だったからであろう。) この宿を選んだ理由は、主人が台湾人で日本語が通じるからであり、もっと豊かな旅行者たちならばもっと高級なホテルに泊まるだろうという。〔私(たち)が泊ったのは、インペリアル・タラ・ホテルであった。同じ時期に、大江健三郎さんがタイを旅行され、途中一度か二度、姿を見かけたのだが、オリエンタル・ホテルで講演をされていたようである。このオリエンタル・ホテルというのは、サマセット・モーム、ノエル・カワード、そして三島由紀夫などが宿泊した由緒あるホテルということであった。〕

 ところが思いがけなく、日本大使館のA書記官の来訪を受ける。彼は、タイにやってくる学術調査団の荷物の通関手続きが厄介で、研究に支障が出る可能性があることを心配してやって来たのであるが、それまでも他の地域に調査に赴いていた経験がモノを言って、心配で無用であるということになる。「これはいわば、入国試験みたいなものだったかもしれない。私たちはどうやら及第したようだ。」(22ページ)
 A書記官に連れられて、梅棹はF、Y1とともに日本大使館に赴く。大使に会い、次いで参事官に会う。参事官は、彼らがタイにくると聞いて、梅棹の「文明の生態史観」の掲載された『中央公論』を取り寄せていていたのだという。そして、その号が手元に届いたときに、ご本人が現れたという偶然が重なり、そのことも、調査団の信用を高めるのに役立ったらしい。どうやら二次試験にも合格したらしいと、梅棹は記している。

町の印象
 A書記官は、3人とも自分の家に泊まれという。調査隊はみんなで6人で、あとの3人は数日後の船で来ることになっている。書記官の申し出に甘えて、3人は残りの仲間が来るまで書記官の家に厄介になることにする。午後、ホテルから引っ越しをする。
 「ひるま見るバンコクは、いわゆる「美しい」町ではない。整然たる街路と並木、建物の小ぎれいさ、などという点では、サイゴンにとうてい及ばない。建物も不ぞろいで、どぶ川が縦横に走り、単線の市街電車は見すぼらしい。しかし、この町にはどことなく親しみのもてるところがあるように、私は思いはじめる。ここには、つんとすました冷たさがない。雑然たる活気という点で、日本の都市に似ているせいかもしれない。」(24ページ) 〔私が出かけたときは、どぶ川はあまり目につかなかった。かなりの部分がすでに埋め立てられていたということではないか。東京や、日本のその他の諸都市でも、どぶ川は埋め立てられ、路面電車の軌条は撤去された。水路や路面電車を生かす都市計画というのもあるはずなので、この点は(私の目から見れば)むしろ残念である。〕 

 梅棹はバンコクの町に日本に似ているということで親近感を感じるが、ほかの2隊員は失望したように見受けられる。「バンコクjは、中国人が多いと聞いていたけれど、見ただけでは、どれが中国人で、どれが純粋のタイ人か、見わけがつかない。漢字の看板は意外に少ない。」(同上) 早くも、観察眼を働かせている。

 彼らがバンコクにやって来たのはタイを拠点として東南アジア各地で学術調査を行なうためであるけれども、第9回太平洋学術会議に出席するためでもあった。その常任委員で、日本代表団の団長でもある日高孝次から電話があり、彼の泊まっているエラワン・ホテルに表敬訪問に出かける。〔日高孝次(1903‐84)は海洋物理学者で、「日高パーティー」を主宰したことでも知られる。〕
 日高一行と、学術調査隊の3人はA書記官の招待で、映画を見に出かける。ディズニー映画だった。

税関の神様 → カルネ
 11月19日に入港した「うめ丸」で、残る3人の隊員K、O、Y2が到着する。それで、調査隊は大使館のインフォメーション・オフィスを使っていいということになって、そのガレージの2階で起居することになる。
 税関から荷物を受けだす仕事をしなければならず、そのために、大使館から「税関の神様」とよばれているハミット君というマラヤ人が派遣される。「わたしはかれについて、税関へ行った。かれは、書類をもって税関の机のあいだを、せかせかと歩きまわった。私は神様のあとを追っかけた。何度も何度もサインをした。数時間後、荷物はとうとう税関を出た。」(27ページ)

 荷物の中でもっとも通関に手間がかかりそうなものが、現地調査のために持ち込んできた3台の自動車である。無税通関証=カルネを用意してきたが、タイ側では、前例がないので扱いに困ったようで、タイ王国自動車協会の保証が必要であるということになった。

いまいましいスポーツ → 王国自動車協会 → とりもどした「足」
 そこで自動車があるのに乗れず、タクシーを利用しなければならなくなる。「タクシーの運転手は、たいてい日本語も英語も通じない。手まねと気合いで交渉するのである。/「あれは一種のスポーツですよ」/と誰かが言った。スポーツだから、勝つこともあるが、負けることもある。ちょっとあちこち往復すると、タクシー代がずいぶんの金額に上る。いまいましい限りだ。」(29ページ)
 タクシーのほかに、サームローというバンコク名物の輪タクの一種がある。しかしこれでお役所に公式訪問というわけにはいかない。タイ王国自動車協会はメナム川(チャオプラヤー川というべきである)の川岸にあるという。梅棹は東京で日本自動車協会を訪問したことを思い出す。国家間の交渉に関わる機関にしては、いやに頼りなげであったが、「この団体が承認したところの文書によって、絶対的な主権をもつところの一国政府が、その税関の門をひらく」(31ページ)ことになるのである(実はこの話には後日談がある。)

 「メナムの橋のたもとのタイ王国自動車協会は、・・・日本自動車協会よりはいくらかましだったが、やっぱり頼りなげなものだった。」(31ページ) そこで分かったのは、ウィスキー製造会社のマネージャーである副会長のところに行けばいいということである。
 「あくる日、私は案内人をたのんで、出なおした。ウィスキー会社は、メナムの対岸にあった。案内は、橋を渡らずに、小舟をやとった。日にやけた、たくましい船頭がろをこいだ。小舟でわたるメナムはさすがに大きかった。大波がうねり、海のようだった。小舟はまったく木の葉のようにゆれた。私は少々心ぼそくなった。対岸の煙突がだんだんと近づき、私たちはウィスキーの空きびんのごろごろした、酒屋の裏庭に上陸した。」(32ページ) 〔チャオプラヤー川は確かに、かなり下流域であるにもかかわらず急流で、しかも川幅が広く、圧倒されるところがある。この川にかかる橋というのはあまり見かけなかった。むしろ、舟による河川交通が意味をもっている所が興味深かった。〕

 こうして、自動車協会の副会長であるウィスキー会社のマネジャーに面会したおかげで、王国自動車協会の保証が得られ、税関から車を引き取ることができた。手数料に600バーツ(約1万円)をとられたが、自分たちの足をとり戻したのである。とはいえ、いい気になって事故でも起こしては大変だ。調査団の予算は限られているのである。

 「やっ! おなくなりになりました」
 大使館のインフォメーション・センター(日本新聞処)のガレージに日本から持ち込んだ3台のジープを入れて、その2階で仕事をし、また寝起きをすることにする。
 隊員の中で一番早起きのKが市場に出かけて、パンと野菜と果物を買ってくる。すべて手まねでやってのけるのだそうだ。それだけでなく、大使館の好意でタイ人のお手伝いさんが派遣されてきているのだが、彼女に手まねでうまいスープを作らせているという。
 スープが出来上がるころ、ほかの隊員が起き出し、朝食の席につく。一番の朝寝坊は梅棹で、誰かが
「隊長さん、おなくなりになりますよ」(34ページ、正しくは、隊長さん、朝ご飯がなくなりますよ、だろう)と起こしに来る。「なんというめちゃくちゃな語法だ」(同上)とあきれるのだが、この言い方が隊内で流行しているのである。梅棹が食卓に着くころには、スープは「おなくなりになって」いる。隊員たちの食欲が旺盛なのはいいことだと、自分をなぐさめて、朝食を済ませる。 

 11月18日(のことだと、あとの方で分かるのだが)学術会議に出席するために、朝食を済ませ、きちんとネクタイを締め、背広を着て、書類をもち、ジープに乗って会議の会場であるチュラローンコーン大学に向かう。会議は午前8時半に始まる。

 旅の次第については、第2章の終わりの方に書かれているが、梅棹達3人は、サイゴンまで大阪商船の貨物船「しどにい丸」で移動し、サイゴンからバンコクまでは飛行機を利用、あとの3人は、すでに述べたように三井船舶の「うめ丸」で移動している。この時代でも、飛行機による旅の方が一般的だったが、予算の関係で船旅にせざるを得なかったというのである。〔2003年にタイに出かけた私はもちろん、飛行機で出かけたが、バンコクの空港が立派だったのに感心したという記憶がある。〕

 いまではあまり見かけなくなった本であるが、この『東南アジア紀行』を取り上げるのは、3月6日の当ブログで白川静『漢字』について取り上げた際に、この本のなかの関連する記事を思い出したこと、それに16年前にタイに出かけたのは今頃の季節だったことに思い至ったためである。1回につき、1~2章のペースで読み進んでいきたいと思っている。 

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(7)

3月9日(土)晴れ、日中は温暖だったが、夕方になると冷え込んできた。

 本日は、ハドソン・テラスさんの「楽しいスケッチ展」を見に出かけ、その後、会場で待ち合わせた旧友とよもやま話にふけっておりましたので、更新が遅れました。また、これからしばらく、雑用が重なり、あわただしい日々が続くことになりそうで、皆様のブログを訪問しないことが多くなるかもしれませんが、ご容赦のほどをお願いします。

これまでの内容
第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
第3章 沼尻の合戦 天正12年
第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
第5章 合戦の中に生きる人びと
第6章 沼尻の合戦後の東国
 関東地方における戦国時代の終わりの時期は、小田原から北上して関東を制覇しようとする「北条の夢」と、それを阻止しようとする北関東の反北条勢力の対立によって特徴づけられ、天正12(1584)年に下野国南部で起きた沼尻の戦いでこの対立は頂点に達する。この戦いはほぼ同時期に起きた小牧・長久手の戦いと連動するものであり、北条方は徳川家康、反北条方は羽柴秀吉と連携をもっていた。戦いは引き分けに終わったが、その後の戦後処理で北条方が勢力を拡大した。しかし、この結果は、天下統一に向かう秀吉にとって好ましいものではなく、全国的な形勢においては、むしろ北条方の方が不利な立場におかれようとしていた。 今回は、「第7章 秀吉による東国の戦後処理」の前半「1 佐野領の北条領国化」と、「2 徳川家康の立場」を読んでいく。後半の「豊臣秀吉の東国政策」と「4 北条の対豊臣和平交渉」は次回に回すことにする。

 1 佐野領の北条領国化
長尾顕長の赦免
 おそらく天正13(1585)年の正月に北条氏直は利根川を渡り、北条方から反北条方に寝返り、沼尻の合戦後、北条に降伏した長尾顕長と対面した。長尾顕長は居城である館林城を北条方に明け渡したのである。対面については、北条氏直から長尾顕長にあてた書状から知ることができる。長尾顕長とその兄である由良国繁の置かれた立場はきびしいものであった。結果的に、彼らはそれぞれの所領の多くを没収され、由良国繁については桐生城、長尾顕長については足利城に入ることになる。
 長尾顕長は足利城に入れられたことにより、北条氏の下野攻略の先鋒という役割を課せられた。そして、反北条方で、佐野唐沢山城(栃木県佐野市)に拠る佐野宗綱と対決することになる。 

北条氏照の藤岡入城
 一方、沼尻合戦の戦後処理のため、北条氏照(氏政の弟、氏直の叔父)が天正12(1584)年に藤岡城(栃木県下都賀郡藤岡町)に入城した。佐野唐沢山城の佐野宗綱は、北西部から長尾顕長から、南東部に藤岡城の氏照からの攻撃を受け、さらに南にある金山城・館林城も北条方の手にあり、さらにしばしば小田原からの北条氏直の軍勢を迎えるという厳しい状況に置かれた。「佐野は離れ小島のごとく取り残されるようになっていた。孤立無援のなか、佐野宗綱は秀吉の救援を期待して、窮状を絶えていたに違いない。」(142ページ)

佐野宗綱の横死
 天正13(1585)年10月、北条勢が佐野を攻めた。このときは宇都宮国綱が救援に赴き、佐野近くの富田(栃木県下都賀郡大平町)に陣を敷いた。そのためもあって、北条勢はこの攻撃から撤退した。しかし、12月に宗綱は長尾顕長が構えた彦間城を攻めるために出陣したが、翌天正14年の元旦に長尾顕長の部下に殺害される。
 主を失った佐野家では、北条氏政の弟である氏忠を当主として迎えることになる。しかし、これには抵抗もあった。

佐野家の分裂
 天正14(1586)年元旦に佐野宗綱が戦死、11月ごろに北条氏忠が入部する。
 その間、佐野家では対立が起きていた。佐竹派と北条派で暗闘が展開されていた。この問題には佐竹義重、北条氏政・氏直父子、さらには豊臣秀吉の画策があったようである。

天徳寺宝衍
 天徳寺宝衍は、佐野宗綱の叔父で、彼の後見役でもあった人物である。彼は佐野家内での暗闘に敗れ、佐野を去って、京都に上り、豊臣秀吉に仕えていた。そして天正18(1590)年の小田原合戦に至るまで、北関東の(反北条の)領主たちと秀吉とをつなぐ役割を演じることになった。
 彼は、当時、京都にいたポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532‐97)と接触し、足利学校で学んだというその学識を認められていた。
 反北条の立場を明らかにし、佐野復帰を願う宝衍が、秀吉の側近としてその信頼を得ていたというのは、北条方にとっては不利な条件であったと言えよう。

 2 徳川家康の立場
沼津会見
 天正14(1586)年2月8日、徳川家康は羽柴秀吉に和議を申し入れた。しかし、その上洛は10月27日のことである。両者の間には、この間一触即発の状態が続いていたようである。秀吉は「富士山一見」の計画を10月まで続けていたし、家康も北条氏政との同盟関係の強化に努めていた。
 家康と氏政の会談は3月8日から11日まで沼津で行われた。日程終了後には、両者の間で挨拶の品が贈答されたが、「鷹や馬に象徴される、いかにも東国的な北条側の贈答品に対して、徳川側は虎皮などの貿易品を中心とする畿内的な返礼品であった。」(149ページ) 会談は和やかなものであったが、おそらくはその帰路、家康は伊豆韮山城主であった北条氏規に兵糧米を送るなど、戦いの準備も怠らなかった。

同盟の強化
 会談の結果についてのはっきりした史料は残っていないが、上洛後の家康の言動から推測できるのは、同盟は維持し、家康は秀吉に北条氏政・氏直父子の取り成しを行なうということであったということである。しかし、反北条勢にとっては、家康の秀吉への背信という印象をもたせるものであった。とはいうものの、家康は背後を固めることで、対秀吉外交に専心することができるようになった。

家康の上洛
 秀吉から家康への外交攻勢が続き、天正14(1586)年4月、秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせることを決定し、5月14日に彼女は浜松に到着する。さらに9月には、秀吉は母親である大政所を人質として家康のもとに送るので、上洛するようにと要請する。9月26日に家康は岡崎で上洛を決定し、10月27日に大坂城で秀吉と面会する。この会見で家康の秀吉への臣従が示されたことになる。

 秀吉と家康の、小牧・長久手の戦い以来の関係が家康の上洛をもって清算された。織田信雄・徳川家康と順を追って個別的に関係が改善され、残るは北条氏政・氏直父子だけになってしまった。
 この間、氏政・氏直父子の側では、秀吉と家康のあいだの交渉決裂に備えて、戦闘準備を進めていた。大坂で秀吉と家康が近い関係になったのに対し、氏政・氏直父子は反対の方向に進もうとしたことになる。「この家康上洛を境として徳川・北条間は徐々に距離を広げることになる。」(154ページ)

対北条政策の確認
 それまで秀吉は、北条氏との交渉回路をもたず、その対北条政策は「富士山一見」に代表される強硬路線一本槍であったが、北条と同盟関係を結ぶ家康との関係が改善されたことで、家康を回路とする対北条宥和路線の可能性が模索されるようになる。とは言いうものの、秀吉はことが容易に解決するとは思っておらず、軍事的解決を図る強硬路線の余地も残していた。「秀吉の関東への回路が、従前からの対北条強硬ラインに加えて、家康を介する対北条宥和路線という、当時の関東の政治情勢に即した二つの路線を得たことは注目しておきたい。」(155ページ)
 上洛の結果は、家康から氏直に連絡され、氏直は11月5日に上洛の無事成功の祝儀を送っている。

 この後、秀吉は、北条氏に対して宥和・強硬の2つの路線をともに追求しながら、全国統一への道を進むことになるが、それはまた次回に。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(12‐2)

3月8日(金)晴れ

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんだ語り手(ダンテ)は、天国の貴婦人たちの願いによって、彼の魂を救うためにつかわされたローマ時代の詩人ウェルギリウスの魂に助けられ、彼とともに地獄と煉獄、「よりふさわしいたましい」に導かれて天国を旅するために出発する。地獄の門をくぐり、第1圏(リンボ:原罪のみ)、第2圏(愛欲の罪)、第3圏(食悦の罪)、第4圏(貪欲・浪費の罪)、第5圏(高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪)を過ぎた2人は、スティクスの沼を渡り、ディース城の門に達するが、悪魔たちによって行く手を阻まれる。
 やがて現れた天使によって、城門が開けられ、悪魔たちは逃げだして、2人は城内に入ることができる。〔ここからが、より罪の重いもののたましいが置かれている下層地獄である。〕 そこでは(地獄の第6圏)異端の罪を犯した人々のたましいが、その罰を受けている。そして、2人はイエスが復活の前にリンボから旧約の義人たちを救い出した時にできたがけ崩れのために通じた道を下って、地獄の第7圏へとたどりつく。その第1冠状地では暴力の罪を犯した者の魂が罰せられている。2人は第1冠状地の番人である(ギリシア神話に登場する上半身が牛、下半身が人の)怪獣ミーノータウロスの怒りをかわし、暴力者たちの魂が煮立てられている血の川へと近づく。すると、この冠状地のたましいたちを見張っている(これもギリシア神話に登場する上半身が人、下半身が馬という)ケンタウロスたちの群れに見つかり、群れからケイローン、ネッソス、ポロスの3者が彼らに近づいてくる。

 近づいてきたケイローンはダンテがまだ生きている人間であることに気づき、そのことを仲間たちに知らせる。
するとわが頼もしき案内者は、そのときすでに人性と馬性の
二つの性が契りあう胸元のところまで近づいて、
 こう答えた。「たしかに、この者は生きている。彼だけには
この暗い谷を見せねばならないのだ。
必要に迫られてのこと、酔狂などではない。
 ハレルヤを歌うところ[天国]から降りてきたお方[ベアトリーチェ]が
私にこのかつてなき務めを委ねられたのだ。
・・・」(83‐89行、170ページ)と、彼らの遍歴が天国にいる魂の意志に基づいた特別のものであることを説明する。そして、彼らの一人が、自分たちに手を貸して、生身の人間であるダンテを運び、彼らを護衛してくれないかと頼む。

 すると、ケンタウロスたちの隊長であるケイローンが、ネッソスにダンテを運ぶように命じる。
 かくしてわれわれは頼もしい護衛を得て進んだ。
真っ赤にたぎる川の岸を行ったが、
血の中で煮られる者たちが金切り声をあげていた。
 私の見たのは眉まで漬かった人々だった。
大きなケンタウロスは言った。「こいつらは
ほしいままに人の血を流し、力ずくで財を奪った僭主どもだ。
 それで無慈悲な罪業に泣いている。…」
(100‐106行、271ページ) 僭主というのは、世界史ではギリシアのところで登場するが、都市国家で暴力を背景として独裁的な権力をふるうようになった人々である。中世のイタリアでも多くの都市国家が生まれたために、このような人々が多く現れた。ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の第1章「芸術作品としての国家」には、少し時代が違うかもしれないが、このような僭主たちの姿がかなり詳しく描かれているので、興味のある方はお読みください。

 少し行くと、ケンタウロスは足をとめた。
のどのところまであのたぎる熱泉[血の川]から
顔を出している人びとが見えた。
(115‐117行、272ページ) ここで罰せられているのは殺人者たちの魂である。「眉まで漬かっ」ている僭主たちに比べて、多少罰が軽減されているのは、罪が社会的な影響力をもたないからだろう。

 それから、その熱湯から
頭のみならず、胸全体を出している人々が見えた。
その中には、私の知っているものがたくさんいた。
(121‐123行、272ページ) 上半身を血の川から外に出しているのは、「略奪者・強奪者・追剥たち」である。「覚えのある者たちがここにたくさんいるということは、ダンテの時代のフィレンツェ社会がいかに荒んでいたかを示している。」(383ページ、注56)と翻訳者は注記している。

 こうして少しずつ血の川は浅くなり、
ついには、足もとを茹でるだけとなった。
それで、私たちはそこから川を渡って行った。
 「これまで[右側]熱泉が、常に浅くなっていくのを
おまえは目にしたが」とケンタウロスは言った。
「おまえに信じてもらいたいのは
 この浅瀬から向こう[左側]では、川底は
徐々に深くなり、一回りして
暴君の呻るのがふさわしい(最も深い)ところに繋がっている。
(124‐132行、272ページ) 「血の川は円環をなしており、最初にダンテたちが見た僭主たちのいる場所に一回りして繋がっている。」(284ページ、訳注) その一番深いところでは、「神の鞭」としておそれられ、民族の大移動の引き金となったフン族のアッティラ王のような人々のたましいが沈められている(アッティラがほんとうに暴君であったかどうかは定かではない)。
 そして、ケンタウロス(ネッソス)はダンテを下ろし、自分たちの群れへと戻っていった。

 こうして地獄の第7圏第1冠状地(暴力の罪)を描く第12歌は終わり、ダンテたちは第2冠状地(自己破壊の罪)へと進む。

E.H.カー『歴史とは何か』(5)

3月7日(木)雨

〔これまでの概要〕
Ⅰ 歴史家と事実
 19世紀の歴史家たちは、歴史とは進歩であるという信念を暗黙の裡に共有していたので、過去の事実をそのままたどっていけば、それが歴史になると考えていた。
 しかし、19世紀の終わりごろから、ドイツのディルタイやイタリアのクローチェのように、この考え方に疑いをいだく人々が現れた。イギリスではクローチェの影響のもとに、コリングウッドがそれまでの歴史観を批判して、次のような主張を展開した。
(1)歴史的な事実といわれるものは、それを記録した人物の心情を通して書き残されている。
(2)歴史家は対象とする歴史的な人物がどのような気持からそのようなことをしたのかを理解する必要がある。
(3)歴史家は、彼の時代の眼を通してのみ、過去の時代を見るのであるし、過去を理解することができない。

懐疑主義とプラグマティズム
 コリングウッドの批判はもっともなことであるが、行きすぎると歴史は、すべて歴史家が創作したものであるという結論になってしまう。コリングウッドは、古い記録から歴史的な事実を掘り起こし、それを羅列していくだけの「糊と鋏の歴史」に反対するのあまり、「客観的な歴史」は存在しないという結論に逆戻りしてしまった。「歴史には意味がないという理論の代りに、無限の意味があるという理論が与えられ、どの意味が正しいということもなく、結局はどれも同じようなものだということになってしまいました。」(34ページ) カーは歴史的な客観性という問題についての自分の考えはあとで述べると書いているが、要するに、さまざまな角度から記述された史料を通して客観的な歴史的事実を再現することは可能だと考えているようである。

 「客観的な歴史」は存在しない、どの歴史家の言うことも疑わしい(逆にいえば、それぞれの言い分がある)という懐疑主義よりも、もっと厄介なのが「現代の問題の鍵として(歴史を)研究する」ということが行き過ぎて、歴史の「正しい解釈の基準は現在のある目的にとっての適合性である」(35ページ)というプラグマティズムにおちいることである。こうなってくると歴史上の「事実は無で、解釈が一切だ」(同上)ということになってしまいかねない。
 「アメリカのプラグマティストたち…」についてカーは言及する(アメリカの思想史・哲学史には門外漢なので、ここでカーが言っていることが正しいのかどうかは何とも言えない)。彼らにとって「知識はある目的のための知識になります。知識の妥当性は目的の妥当性に依存することになります。」(同上) 西欧の中世の優れた研究者であった堀米庸三がその著『正統と異端』の中で、「目的は手段を正当化しない」と書いていたのを思い出す(退職の際の混乱で、この本をなくしてしまったのがいまだに残念である)。
 旧ソ連の歴史書などの中には、プラグマティズムを掲げてはいない(当然マルクス主義を掲げていたのであろうが)にもかかわらず、自分たちの都合で過去の出来事を勝手に解釈したものがしばしば見られたとカーは付け加えている。

歴史家の仕事ぶり
 ではどのように、歴史家は自分の歴史書を書いていくのか。カーは自分がどのように仕事をしているかを説明してみせる。
 いろいろな歴史的文書を探し出し、手元に集める。そしてその文書を読み、さまざまな事実をノートに書きとめていく。書きとめ終ってから、歴史書を書きはじめるかというと、そうではない(思い当たる方も少なくないはずであるが、ある程度、材料が集まると、「書きたい」という意欲が募ってくるものである)。だから史料を集め、読みながら、一方で歴史書を書いていくという作業が続くことになる。
 これらのことについて、カーは次のように告白している:「私自身について申しますと、自分が主要史料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。いや、どこでもそうなってしまうのです。それからは読むことと書くこととが同時に進みます。」(37ページ) 自分の考えが深まったり、改められたり、読み書きしているうちにいろいろなことが起きる。経済学者が「インプット」と呼ぶ過程と、「アウトプット」と呼ぶ過程とが同時に進行していくのだ、この両者を切り離された別の過程だと考えるのは無意味だという。

歴史的事実と歴史家
 以上のことをまとめていくと、歴史家と歴史的事実の関係は、客観的な事実を明らかにしようとする取り組みと、それを自分の世界観に即してどのように解釈するかという取り組みのせめぎあいであるということになる。事実と解釈という問題は、歴史家が研究を進めていくうえで絶えず遭遇する問題であるとカーは言う。
 人間がその環境に影響されるだけでなく、その環境に影響を及ぼす存在であるのと同じように、歴史家と歴史的な事実との関係は相互的なものである。両者の関係は平等な関係、「ギヴ・アンド・テーク」の関係であるという。

 そして、この章を、以下のようにまとめている:
 「歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈――この解釈に基づいて、この歴史家にしろ、他の歴史家にしろ、選択を行なっているわけですが――で出発するものであります。仕事が進むにしたがって、解釈の方も、事実の選択や整理の方も、両者の相互作用を通じて微妙な半ば無意識的な変化を蒙るようになります。そして、歴史家は現在の一部であり、事実は過去に属しているのですから、この相互作用はまた現在と過去との相互関係を含んでおります。歴史家と歴史上の事実とはお互いに必要なものであります。事実を持たぬ歴史家は根もありませんし、実も結びません。歴史家のいない事実は、生命もなく、意味もありません。そこで、「歴史とは何か」に対する私の最初のお答えを申し上げることにいたしましょう。歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」(40ページ)

白川静『漢字』(4)

3月6日(水)曇り、午後になって時々小雨。

これまでの概要
1 象形文字の論理
 漢字は基本的には表意的な象形文字であるが、仮借という表音的な方法を取り入れることによって文字体系として確立された。この文字体系は殷時代に殷人によって作り上げられたと考えられる。
2 神話と呪術
 漢字の文字の形象のなかには、それらの文字を作り出した古代の人々の世界観が反映されている。
3 神聖王朝の構造
 漢字が生まれたと考えられる殷王朝の政治的な支配は祭祀を通して行われた。

 今回は「4 秩序の原理」を見ていく。
 この章では、まず、春秋末に江南の地で対立・抗争を繰り返した呉と越のそれぞれの重臣であった伍子胥と范蠡の物語が取り上げられる。伍子胥は呉王夫差を助けて越を破るのに功績があったが、讒言を受けて自裁を命じられ、彼の屍体は鴟夷(しい)という獣皮に包んで海中に捨てられた。他方、范蠡は越王勾践を助けて、伍子胥がいなくなった呉を滅ぼしたが、勾践が安楽を共にするのにふさわしい人物ではないとして、そのもとを去り、自ら鴟夷子皮と名前を改めて国外に出て、大富豪となって自適の生活を送ったという。

 白川さんは、この両者がともに鴟夷にゆかりをもつのはなぜかと問うのである。そして、この問題を考えて行くのには、古代の裁判の方法を調べていく必要があるという。
 「古代の裁判には、のちのような証拠主義がとられないで、神判が用いられた。証拠によるまでもなく、心証だけでものを決することができた時代である。神の前では、人は偽りを述べることはできなかった。神意に問うという方法によって、善悪は容易に定まるのである。」(94ページ) 

 このような神判として、わが国では「盟神探湯」(くがたち)という方法が用いられたことが知られている。中国ではほかにも、蛇神判や杯珓(はいこう)神判が行なわれた。杯珓神判は、蛤形の貝殻を投げて、その裏表で吉凶を判定するというものだそうである。しかし、もっとも一般的だったのは羊神判であったという。争いを起こしている当事者の正邪を(やり方はいろいろあるようだが)羊によって決するのである。
 この場合神羊は、羊ではなくて、解廌(かいたい)と呼ばれる神獣である。裁判の結果勝訴したものの解廌の胸には、その喜びを示すために「心」という字の形のしるしを加えた。これが「慶」という文字の起こりである。
 これに対し、敗れた者は解廌とともに皮袋すなわち鴟夷にくるまれて水上に投棄された。これは穢れのために追放されるということである。
 
 法という字の旁が去となっているのは、去には「祓う」という意味があるからである。
 裁判は族内のことは、祖霊の前で、族外のことは社、あるいは神聖な樹木の下で行われた。訴訟を行なうものは、束矢(そくし、矢の一種)と鈞金(おそらく保障金)を納めて、三日後に訴訟に臨む。期間を開けているのは和解のためであろう。
 裁判にあたっては、弁護人、代理人を立てることができた。「当時、裁判上の責任は、ただ当事者だけが負うべきものでなく、例えば初審に誤りがあれば、裁判官も罰を受けたものであった。」(102ページ) 〔もっとも、実際の裁判の事例を見ていくと、初審のほうが正しく、その判決を覆した上級審の方が間違っていたことが、再審で明らかになったという事例もある。〕

 西周期の金文には契約関係を内容とするものが数例あって、民事法の慣行が存在したことがわかる。この時代、すでにかなりの法秩序があり、慣行も重んじられていたようである。さらに春秋期になると、多くの法規定が成文化されたことが、歴史書である『左伝』や『国語』の記述から推測できる。戦国時代についても、『戦国策』『呂氏春秋』などに様々な法律についての記述がみられる。
 有罪のものには刑罰が加えられた。自由を奪って投獄するほかに、生命刑も(しばしば残酷な形で)行なわれた。これらは神に対する贖罪という意味をもっていた。このほか、宮刑や奴隷刑、刺青などの身体刑も行われた。「自由刑・身体刑の古い形式のものが、ほとんど神に対してのけがれの祓いであり、贖罪であり、犠牲であることは、原始法の問題を考えるうえに、重要な事実ではないかと思う。法の起源もまた、古くは神話によって基礎づけられていたのである。」(109ページ) 〔『古事記』に描かれている素戔嗚尊の高天原からの追放などもこのあたりの記述と関連付けて考えるべきであろう。〕

 次に白川さんは羌族、苗族のように中原に定住して、次第に中国文化に組み入れられていった諸族について考察している。典刑を作ったとされる伯夷あるいは皐陶(こうよう)という神話的な人物がこれらの民族に関係があるからである。
 『詩経』に言う「岳」は河南省西北部の嵩山と考えられるが、その岳神の子孫とされるものに姜姓の4国=斉・許・甫(呂)・申があったという。姜姓の諸国は、羌族が土着して中原諸族の一つとなったもので、羌という字形から見て牧羊人であり、辮髪をしており、チベット系の種族であったと白川さんは考えている。大体において温順な諸族ではあるが、かつては苗族とその地を接していて、激しい闘争を繰り返したことが、神話として伝えられている。

 『書経』の呂刑篇は堯典と並んで、神話的な伝承を多く含んでいると著者は論じる。当時、南人と呼ばれていた苗族は江北に進出し、河南の羌族と相接していたが、(神話の中の)皇帝の命令を聞かず、秩序を乱してほかの民族を苦しめるので、皇帝は重黎に命じて天地の交通を断ち、苗民を放逐したという。「こうして帝は伯夷に命じて五刑を作らしめ、秩序を回復させた。刑法の起源を、羌族と苗族との葛藤を通じて、神話的に説明したものである。天地の交通を隔てたという重黎の話は、いわゆる天地開闢説話である。」(111ページ) 〔袁珂の『中国古代神話伝説』第8章、第9章では、黄帝の曽孫である顓頊という天帝が孫の大神重と黎に命じて、天と地を結ぶ通路であった各地の天梯を断たせ、天と地の距離を広げたという話が語られている。〕

 苗族は古くは南人と呼ばれた。これはおそらく、彼らが南任という一種の銅鼓を用いていたことに基づくのであろうという。「銅鼓の最も古い形式のものは江西・湖南、主として洞庭湖附近から出土する。これはわが国の銅鐸のように、ていねいに埋葬されており、おそらくかれらが、中原諸族の圧迫を受け、その居住地を放棄して南下するときに、復帰を期して埋葬して去ったものであろう。」(112ページ) この指摘はきわめて興味深い。銅鐸に限らず、出雲(島根県)の荒神谷遺跡の銅剣などについても同じことが言えるかどうかは考えていい問題である。〔苗族はミャオ族、モン族などとも言い、中国や東南アジアに相当数の人口をもち、歌垣など古代の日本人と同じ風習があるということで注目される民族である。〕

 苗族の一系である渓(けい)族は現在も洞庭湖西方の武陵の山中に住んで、民族自治区を作っている。白川さんは陶淵明が描いた武陵山中の桃花源が、この渓族の生活を描いたものではないのかと疑い、さらに陶淵明には南人の血が流れていたのではないかともいう。なお、梅棹忠夫が『東南アジア紀行』の中で、タイのタイ族が住んでいる部落とは大森林で隔絶しているが、それほど遠くはないところに住んでいるカレン族の集落を訪問して、「桃源郷というのは、きっとこんなところだったのだろう。平原の漢民族とは別個の、南中国の山地民の村だったのかもしれない。」(『東南アジア紀行 上』中公文庫版、215‐216ページ)と書いている。この後、梅棹は苗族(梅棹はメオ族と表記している)の集落も訪問しているのだが、彼らがアヘン生産で結構豊かな暮らしをしているのを見たせいか、あまり好意的な書き方をしていない。

 以上述べたことからわかるように、「殷王朝の秩序の原理は、その神話であり、祭祀の体系であった。神話は古くからの諸氏族の信仰と伝承の上にきずかれてきたが、王朝はそれを王朝的な規模にまで拡大して、王朝存立の基盤として体系づけたのである。そこに国家神話が成立した。」(114ページ) 〔おそらく日本でも同じことが、かなり後の時代にあって起きた。〕
 すでに第1回で述べたことであるが、殷を打倒した周は「殷に代わりうる神話がな」(116ページ)かったので、その代わりに「天命」「民意」という考え方を発展させた。「これによって、周は古い神話と断絶した。神話の世界は滅んだ。そして理性的な天がこれに代わった。それは中国の精神史の上でも、最初の革命的な転換であった。」(117ページ) 殷から周への交代は歴史的に大きな出来事であった。

 内容が盛りだくさんで、その分、論旨をたどりにくいところがあるのだが、多くの示唆に富むことは疑いない。特に日本との関係で考えていくと面白い箇所があり、私が指摘した以外にもまだ多くの関連性のある事柄が含まれていそうである。

『太平記』(252)

3月5日(火)晴れ

 新田義貞の戦死後、いったんは勢いを失った北国の南朝方の武士たちは、義貞の弟脇屋義助を中心に勢力を挽回し、足利方の越前守護・斯波高経が拠っていた足羽の黒丸城を攻略、斯波は加賀に逃亡した。京都の足利方は、高師治、土岐頼遠らを北国に向かわせ、暦応3年(南朝興国元年、1340)9月に南朝方の本拠であった南越前の杣山城が落城し、脇屋義助は美濃に逃れた。ただ1か所残った鷹巣城を守っていた、義助の家臣畑時能は、不思議な犬を使うなどして奮戦したが、流れ矢にあたって落命した。
 美濃で敗退した脇屋義助は尾張に逃れ、さらに吉野に帰参したが、後村上帝は義助の武功を賞された。敗軍の将に恩賞を与えることを批判する洞院実世にたいして、四条隆資は、孫子や太公望の故事をひいて義助を弁護した。

 暦応5年(この年4月27日に康永と改元、南朝興国3年、1342)春、「都には疫癘家々に満ちて、人の病死する事数を知らず」(第4分冊、54‐55ページ、疫癘は疫病のこと)という状態になった。吉野にある後醍醐帝の陵墓から、車輪のような光るものが出て、都へ飛んでくるのが、毎晩、人々が見る夢のなかで目撃されたので、これは後醍醐帝の怨霊のなせる業ではないかと、人々は恐れおののいていた。
 事態はそれだけで終わらず、2月5日から、尊氏とともに幕府の中心的な存在であった弟の直義が、急に邪気(病を引き起こす悪い気)に侵されて、「身心常に狂乱し、五体鎮(とこしな)へに悩乱す」(同上、55ページ、身心がずっと異常に乱れ、全身がいつまでも苦しみ乱れる)という大変な容態である。

 尊氏・直義兄弟による二頭政治の一本の柱が倒れることになれば、大変なことになると、幕府だけでなく北朝の朝廷もこの事態を心配した。天文・卜筮を司る朝廷の役所である陰陽寮では鬼見(きけん、鬼気=きけの祭り、悪鬼の祟りや妖気を祓う祈禱)を行ない、また泰山府君(中国の泰山に住むという寿命を司る神)のお祭りをした。『太平記』本文にここで「財宝を焼き尽くし」という語句が挿入されているのだが、この個所については岩波文庫版には注解が施されていない。中国だと紙銭を焼くといったことが行なわれるが、日本にもそれに類したことがあったのかとも思う。どなたかご教示ください。
 神頼みだけでなく、医療行為も行われた。朝廷の医薬を司る役所の長官である典薬頭(てんやくのかみ)は、倉公(そうこう、前漢の名医)、華佗(魏の曹操の侍医となった後漢の名医)の術を尽くして、治療にあたるのだが、一向に平癒しない。
 病状はいよいよ悪化して、もはやこれまでかというところまで進んだので、天下の人々は悲しみに暮れ、もし直義公がいなくなれば、むかし平家の時代に小松大臣重盛が若死にしたことで、平家の運命が急激に傾いたのと同じような結果に行きつくのではないかと思ったものである。

 この事態に心を痛められた光厳上皇はひそかに勅使を立てられて、石清水八幡宮に祈願の書を託された。その願文には、「源直義朝臣は啻(ただ)爪牙(そうげ)の良将たるのみに匪(あら)ず、股肱(ここう)の賢弼(けんひつ)たり。四海の安危、偏(ひと)へにその人の力に懸かれり」(同上、56ページ、源直義朝臣は、朝廷を守るすぐれた将軍であるだけでなく、王の手足となる賢臣でもある。天下の治乱は偏にこの人の力にかかっている)と、天下の平和のためにこの者の命を長らえさせてほしいという上皇の願いが記されていた。
 勅使であった勘解由長官(地方官の交替を監督する勘解由使の長官)の菅原公時が御願書を開いて、宝前に跪き、涙を流しながらも声高らかにこの文を読み上げたところ、神殿が揺れ、君臣が気持ちを一つにしている至誠の念が八幡神を動かしたのであろうか、勅使が都に帰って3日のうちに、直義の病気は快癒したのであった。

 光厳上皇の聖徳を讃えようとする人々は、周の武王が重態に陥ったときに、周公旦が天に祈って回復させ、天下の平和をもたらしたのに比べられると賞賛した。これに対し、吉野の南朝方を支持する人々は北朝の宮廷が本来ならば臣下である直義に媚びへつらっているのはおかしい、病気が治ったのはそういうめぐりあわせだっただけだと嘲笑したのであった。

 森茂暁はこの1件から、光厳上皇と直義の間の信頼関係が強いものであったと推測している(森『太平記の群像』、角川文庫版、140ページ参照)。『太平記』の作者は、この出来事についての2つの見方を紹介して、評価を読者に委ねているようである。私見では、光厳上皇を周公旦と比べるのは、あまり適切ではない。上皇は直義よりも上位者であり、周公旦は武王に比べて下位にあるからである。そこまで考えれば、嘲笑的な南朝びいきの人々の意見のほうが正論だともいえる。ただ、この両者の信頼関係が、この次に起きる出来事の伏線となっていることも見逃すわけにはいかないだろう。その出来事については、また次回に。

 なお、前回、四条隆資の名を出した際に、彼が『増鏡』の作者だという説があるが、あまり有力ではないということを書き添えるのを忘れていた。秋末一郎(1965)は「増鏡の作者に関しては、二条良基説・二条為明説・四条隆資説・丹波忠守説等が唱えられているが、特に近時、二条良基説が有力となり定説化されようとさえしている」(秋末『文法詳解 大鏡 増鏡 今鏡 精釈』)と述べ、井上宗雄はその講談社学術文庫版『増鏡』(1983)の解説(下巻、395ページ)で、『増鏡』の最後の記述が、四条隆資の還俗であることから、作者は隆資かもしれないという中村直勝(1957)の説を紹介して、この説を支持する証拠が他にもみられ、全く否定することはできないとしている。

日記抄(2月26日~3月4日)

3月4日(月)雨が降り続いている。肌寒い。

 2月26日から本日までの間に経験したこと、考えたこと、その他これまでの記事の補遺・訂正等:
2月26日
 『朝日』に1919年3月1日を期して、朝鮮各地で独立万歳が叫ばれてから間もなく100年になるが、長崎県にこの時の独立宣言書を所有している人がいるという記事が出ていた。縦書きで、漢字と朝鮮文字とを組み合わせた表記になっている。そういえば、40年ほど前までの韓国の『東亜日報』のような新聞も漢字と朝鮮文字の組み合わされた縦書きのレイアウトだった。今、調べてみたのだが、『東亜日報』は1998年にレイアウトを横組みにして、一部の見出しを除き、漢字を使用しない方針に転換したという。今、縦書きのレイアウトの新聞というのは、日本以外ではあまり見られず、香港で発行されている『星島日報』をロンドンで見かけて、大いに親近感を感じたことを覚えている。台湾で発行されている新聞も縦書きのはずで、一度詳しく調べてみようと思う。
 私の母方の一族は、朝鮮総督府に勤めていたので、この独立運動をめぐっては、一家の中での語り伝えが多少残っているのは、以前に書いたことがある。また、本日は2月26日だが、1936(昭和11)年、当時大学生だった私の父親が、反乱軍に向けて撒かれた「下士官・兵ニ告グ」というビラを拾って持っていたのが、我が家に残っていた。今はどうなったかわからない。

 同じく『朝日』の「呉座勇一の歴史家雑記」というコラムで、呉座さんが「参考文献リストは読者への品質保証という意味をもつ」と書いているのが興味深かった。もっとも、しっかりした参考文献を使用していても、読み方が悪ければ何にもならない。

 『朝日』と『日経』がともにドナルド・キーンさんの追悼文を掲載しているが、『日経』に芳賀徹先生が書かれている文章のほうが(私が先生の集中講義に出席したことがあることも手伝って)印象に残った。芳賀先生が、1965年にアメリカのプリンストン大学に留学された際に、コロンビア大学で行われていたキーンさんの謡曲の授業に出席したのが初めての出会いだったという。「キーンさんが駒込霜降橋のマンションに移ってからは、わが家も近く、何回か夕食に訪ねてくれたし、白山上の街角の飲み屋で安酒を酌み交わしたことがあった」とあり、私も一時期白山上の近くに仮住まいをしていたことがあったので、その点でも身近に感じた。

2月27日
 『朝日』の朝刊に大学の質保証に向けて、文部科学省が関与を強化するという記事が出ていた。「自主的な改善促す」というのだが、他から干渉されて「自主的」に行動するというのも変な話だ。 

 『日経』の朝刊によると、最近の大学生の読書傾向が本をよく読むものと、全く読まないものへの二極化傾向にあるという。そうはいっても、勉学のための読書、教養のための読書、修養のための読書、趣味のための読書など、読書の目的は多様だし、勉学といっても専攻によってその中身はいろいろと異なるから、安易な一般化は避けた方がいい。多くの本を読むか、わずかな本をしっかりと読むこむかという問題もある。

2月28日
 元木泰雄『源頼朝』(中公新書)を読み終える。平家討伐の経緯や、頼朝と義経の関係など、著者独自の見解が含まれていて読みごたえがある。
 さらに、藤生明『徹底検証 神社本庁――その起源から内紛、保守運動まで』(ちくま新書)を読み終える。昨年の10月10日に買った本なので、中断があったとはいえ、読み終えるまでに140日かかったことになる。神社本庁成立の経緯、靖国神社をめぐる問題、各地の神社と神社本庁との軋轢や神社内部の内紛の問題など、参考になる内容が少なくない。
 さらに石井公成『東アジア仏教史』(岩波新書)を読み終える。仏教はインドで始まり、中国を経て、日本に渡来したという三国伝来の図式を批判し、ベトナムやチベットに視野を拡大し、一方通行的ではない、相互交流的な仏教の発展をたどるという著者の方法論には大いに賛成なのだが、それだけに情報量が多く、中には実証的な検討を要するような事柄も含まれているように思われる。東洋史や仏教の研究をしている人が、研究の着想を得るのにはいい本かもしれない。

3月1日
 ベトナムのハノイで行われた米朝首脳会談の結果について、『朝日』の「天声人語」、『東京』の「筆洗」、『日経』の「春秋」、『毎日』の「余録」、『読売』の「編集手帳」と、各紙の一面コラムが一斉に(「社説」とともに)この話題を取り上げているのが、それぞれの個性を示していて興味深かった。
 「天声人語」はトランプ米大統領が映画各部門の最低を選ぶ「ラジー賞」の最低主演男優賞を受賞したことと絡めてその外交手法を論評し、また米国内での大統領への追及の動きについても言及している。
 「筆洗」は会談前の大騒ぎと結果とを対比して、「大山鳴動して鼠一匹」というローマの諺を引き合いに出している。それでも前のめりだと心配されていたトランプ大統領が踏みとどまった決断を支持し、「大をなす義務がまだある交渉に見える」と希望をつないでいる。
 「春秋」は会談の場となったベトナムの料理が中国とフランスの影響を受け、「南国にもかかわらず、味はマイルドであり、首都のハノイにはカフェやベーカリーも多いと聞いた」と料理についての言及からはじめて、トランプ大統領の「内政を浮揚させる手段として外交を利用しようとする姿勢」に懸念を示し、安倍首相もこの教訓を学んでほしいとのべている。
 「余録」は「外交において常識的な行動や事態から逸脱した出来事を『外交的インシデント(事件)』という」と書き出し、「ディール(取引)の名人を自負するトランプ氏には織り込み済みの「外交的インシデント」なのかもしれない」としつつ、トランプ大統領への国内での追及がさらなるディールを可能にするかどうかを危ぶんでいる。
 「編集手帳」は「睒(せん)」という漢字で、会談が不調に終わったことに触れ、目偏に屯と書いて「しゅん」という字をひいて、トランプ氏が今後直面するであろう国内の難問についての取り組みの行方を見守るとしている。
 個人的に一番興味深かったのは、ベトナムの料理について触れた『日経』の「春秋」で、むかし、東南アジアからの代表の出席する国際会議の昼食休みに、フランス料理店に一行を連れて行ったら、ベトナムの代表がパンをかじって涙ぐんでいる姿を見たことを思い出す。故郷の味に近い味だというのであろうか。

3月2日
 『日経』の文化欄で古賀重樹記者が「アカデミー賞 多様性輝く」として、今年の選考は混戦模様であったが、「排外主義の高まりに抗い、人種や国籍の多様性こそが未来を拓くという映画人のメッセージが」表現された授賞傾向となったと報じている。2月28日付の『朝日』朝刊でも、石飛徳樹記者が第91回の米アカデミー賞をめぐり、「ピーター・ファレリー監督の『グリーンブック』が作品賞、脚本賞、助演男優賞3部門を獲得した。ほかにも黒人を主人公にした映画が多くの賞をとり、『白いアカデミー賞』と、白人偏重を批判された数年前とは様変わりしている」と書いていた。ただ、このような変化がどのようにして起きてきたのかをたどっていく努力も、映画批評には求められるのではないかと思う。

 同じく『日経』の本郷和人さんの連載「日本史ひと模様」は直江兼続を取り上げている。前回の「上杉景勝」では、関ケ原の戦いの際に、会津征伐を名目に北関東まで兵を進めてきた家康が、西日本に反転した際に、上杉景勝はそれを追わずに、北のほうに向かって家や姿の最上義光、伊達政宗を攻めようとしたということが述べられた。『太平記』を読むと、新田軍を追って足利軍が西へと進み、そのまた後ろから北畠顕家軍が追いかけるといった展開があって、そういうことは家康も景勝も知っていたはずだから、本郷さんもほのめかしているように、兵站が大変だということで追走をやめたということであろうか。とにかく、直江兼続が2万余りの軍勢を率いて、長谷堂城(山形市長谷堂)を包囲・攻撃するのだが、守備する兵は1000人ほど、しかも城はそれほど堅固にできていないという条件にもかかわらず、なかなか落城しない、そのうち、上方の情勢が伝わってきて、9月29日に退却ということになる。どうも、直江兼続は城攻めの巧者ではなかったらしい。 

 指揮者・作曲家・ピアニストのアンドレ・プレヴィンさんが2月28日に亡くなったことが報じられた。89歳。
 クラシック・ポピュラー両方で活躍され、映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』では音楽の演奏指揮を担当されるなど、映画との関係も深かった(というより、一時期、ミア・ファローと結婚していたことの方が有名だろうか)。クラシックでは、ヴラディーミル・アシュケナージとラフマニノフの2台のピアノのためのロシア狂詩曲を演奏されたのが印象に残っている。

 1073回のミニtoto-Aが当たった。これで今年に入ってから8回のあたりを出したことになるが、あまりもうけは多くない。

 『NHK高校講座 古典』は『平家物語』の2回目で、『忠度都落ち』の後半を取り上げた。平家一門が源義仲に追われて都落ちする中で、薩摩守忠度は、一門から離れて小人数で都に引き返した。思い残すことがあったのである。それは、後白河院が勅撰集の編纂を企てられていたが、戦乱で沙汰止みになったことである。平和が戻った時にはまた編纂作業が命じられるかもしれない。かねてから歌を詠んできたものとして、この勅撰集に一首でも自作が入集すれば、それに勝る面目はない。そんな思いを抱いて、忠度は五条に住む歌の師である藤原俊成を訪ね、かねてから書き溜めていた歌集を託する。俊成も忠度の性格と歌人としての技量を認めていたので、それを受け取る。高校時代に古文で習った逸話であり、授業のポイントとして、「忠度の気持ち」などとあるが、勅撰集の重みを理解するということが、高校生の段階では難しいから、今回、放送を聴いていて、やっと忠度の気持ちが実感としてわかったように思う。

3月3日
 『日経』の文化欄に木皿泉さんが「お菓子の家」という文章を書いている。グリム童話の「ヘンゼルとグレーテル」で森の中に迷いこんだ兄妹がたどりつくのがお菓子の家で、そこの主人である魔女は兄のヘンゼルを厚遇し、妹のグレーテルを使用人としてこき使う。ヘンゼルを厚遇するのは太らせて、やがては食べてしまおうというたくらみのためである。好条件には必ず、その条件を提示する人間の下心が潜んでいる。
 木皿さんの家では、長男が特区別待遇を受けていた。やがて、木皿さんは、自分の親たちが長男を厚遇するのは、自分たちの面倒を見てもらう腹積もりであることに気づく。ところが、話は筋書き通りに運ばない…。
 まあどちらかというと、おっとり間抜けな人生を70年以上過ごしてきた私であるが、ひとつだけ、他人に教訓として忠告できそうなのは、美味い話というのは必ずどこかに落とし穴があるから気をつけろということである。
 大学院の終わり近くになって、ある学校から好条件で就職の話が舞い込み、指導教官が舞い上がってしまって、ほかに候補者がいるのを押しのけて、私を押し込んだことがある。私がいくら、(実際そうだったのだが)適任ではないといっても聞かずに、採用をめぐってかなり難航したらしい事情もあったが、必死になって押し切って就職させた。押し込んだご本人は満足であったかもしれないが、採用してしまった(あるいはさせられてしまった)側も、採用された側(つまり私)も、その影響を受けた学生たちの側も、要するに、ほかの誰も幸福にならなかった。好条件でつらなければ、誰も応募してこないような学校というのも、そのころはあったのである。

 ニッパツ三ツ沢球技場でJ2第2節横浜FC対モンテディオ山形の対戦を観戦した。雨中の試合で、観客も少なく、0-2で敗戦という最悪の結果である。とにかく、開幕以来まだ得点を挙げていないというのは困ったことである。

3月4日
 NHKラジオ『まいにちイタリア語』初級編は、いよいよ最終月を迎え、登場する日本人女性マヤが、イタリア人男性パオロの住むエルバ島に出かける。エルバ島は、この番組のパートナーの1人であるフィオーレ・リエートさんの出身地だそうである。
 さて、もう一人のパートナーであるアンドレア・フィオレッティさんはというと、イタリア中部東海岸のマルケ州の州都アンコーナの出身だそうで、次のように語った:
Ancona è città molto antica. È stata fondata dai Greci all'inizio del quarto secolo avanti Cristo. Poi per alcuni secoli Ancona è stata anche Republica marinara e il suo porto naturale, affacciato sul Mar Adriatico, è tutt'ora molto importante sia a livello commerciale che turistico. (アンコーナはとても古い街です。紀元前4世紀初頭に、ギリシア人によって建設されました。その後数世紀に渡っててアンコーナは海洋共和国であり、アドリア海に面した港は現在でも商業や観光の面でとても重要です。)
 番組では触れられなかったが、映画女優で、イタリア映画だけでなく、ハリウッドやフランスの作品で活躍したヴィルナ・リージ(1936‐2014)はこの市の出身だそうである。

齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(6)

3月3日(日)雨

 戦国時代は、京都を中心に起った応仁の乱(1467~77)のころから、天正18年(1590)の北条氏滅亡に至る、戦乱が列島を襲った150年ほどの時代をいう。東国では、応仁の乱に先立つ享徳年間(1452~55)から戦国時代に入ったといわれ、著者である齋藤さんはこの考えにしたがっている。
 この戦国時代を終結に導いたのは、織田信長、そしてその死後に台頭した羽柴(豊臣)秀吉であるが、その秀吉が天下人としての地位を固めるうえで重要な意義をもったのが、天正12(1584)年に、信長の次男である信雄、信長の同盟者であった徳川家康の連合軍との闘いである小牧・長久手の戦いである。この戦いとほぼ同じ時期に、関東でも小田原を拠点とする北条氏と、北関東に勢力を築いていた佐竹・宇都宮氏との間に下野南部での衝突があり、これを沼尻の合戦とよぶ。この合戦は、両者ともに目立った戦果をあげずに終わったが、北条氏が徳川家康と同盟を結び、佐竹氏が秀吉と連絡を取っており、小牧・長久手の戦いと連動する性格を帯びていた。
 これまでの研究では、天正17年(1589)における北条氏による上野の名胡桃城奪取が引き金となって、秀吉の小田原城攻め→北条氏の滅亡に至ったと理解されてきたが、齋藤さんは秀吉政権による関東の領国化は既に早くから始まっており、北条氏直の秀吉への臣従も確定されていたという。
第1章 織田信長と北条氏政・氏直 天正10年まで
第2章 合戦の序曲 天正10年後半~11年
第3章 沼尻の合戦 天正12年
第4章 小牧・長久手の戦いとの連動
第5章 合戦の中に生きる人びと

 今回は「第6章 沼尻の合戦後の東国」を見ていく。
第6章 沼尻の合戦後の東国
 1 佐竹義重・宇都宮国綱の焦り
 反北条勢の危機
 「沼尻の合戦後の関東情勢は、結果的に北条氏政・氏直が望むようになっていた。新田領の由良国繁を金山城から桐生城に、館林の長尾顕長を足利城に移し、金山・館林両城を接収してしまった。」(107ページ) この事態は北関東の諸領主に、一層の脅威を抱かせたと考えられる。
 天正13(1585)年に北関東の領主である宇都宮国綱と那須資晴のあいだに戦争状態が生じ、北条氏の勢力拡大の中での北関東の領主間の内紛に危機感をいだいた佐竹義重と結城晴朝が調停に入って、終結させるという事態が生じた。この経緯からも北関東の領主たちのあいだに、南から進出してくる北条氏政・氏直父子の勢力拡大への危機感が共有されていたことがわかる。

 壬生義雄の裏切り
 下野の壬生・鹿沼両城を支配し、宇都宮氏と友好敵対の関係を繰り返してきた壬生家の壬生義雄が天正13年に宇都宮氏から離反する。これに対し、宇都宮国綱は佐竹義重の嫡子義宣の応援を得て、壬生攻めを行なうが、壬生義雄は北条氏政・氏直に属したままであった。

 繰り返される壬生攻め
 天正14年に入っても、佐竹義重・宇都宮国綱は、鹿沼・壬生攻めを続行したが、壬生義雄は北条氏政・氏直の援助を得てこれに対抗、反北条勢力は決定的な戦果を得るに至らなかった。「北関東の反北条勢力はもはや軍事的に北条氏政・氏直に抗しきれないことが明らかになってしまう。この状態は沼尻の合戦後、年を重ねるごとに深まっていった。」(114ページ)

 2 北条のさらなる北進
 拡大する北条の領国
 沼尻の合戦後、由良国繁の金山城、長尾顕長の館林城は北条家の城館となり、小田原から北条家の家臣が送り込まれ、北条氏の北関東における重要拠点となっていく。北条氏政・氏直は、下野国内への侵攻をもくろみ、当面は佐野宗綱・皆川広照を攻撃対象としながら、次には宇都宮国綱の攻略を狙っていた。

 佐野・皆川領攻め
 北条方に帰属した壬生義雄を、氏政・氏直が支援する際に障害となるのが、佐野宗綱と皆川広照である。北条氏直は天正13年から14年にかけてこの両者を攻撃しているが、その拠点を攻め落とすことはできなかった。

 宇都宮侵攻
 天正13年末には、北条氏直自身が出馬して、佐野・皆川を飛び越え、宇都宮を攻撃した。宇都宮国綱は、圧倒的な北条方の攻撃に、かなりの被害を蒙りながらもよく持ちこたえ、宇都宮家と地域への支配を維持した。しかし、「宇都宮の地もまさに『北条の夢』に屈する寸前であった。」(119ページ)

 皆川広照の帰属
 天正14(1586)年5月初め、皆川広照がとうとう北条氏政・氏直に帰属する。このため、下野国南部は佐野を残し、北条氏政・氏直の勢力に支配されることになった。

 家康との連携
 沼尻の合戦が天正12(1584)年に和議になった段階では、小牧・長久手の戦いはまだ続いていた。このため、沼尻の合戦直後には氏政・氏直が家康への助勢を検討していたのは前々回(第4章)で述べた通りである。その後、織田信雄が秀吉と単独で和睦を結んだために、家康は取り残された形となったが、秀吉と家康のあいだでの交渉が行われ、12月に家康が次男の於義丸(後の結城秀康)を人質として差し出し、戦争状態はとりあえず解消された。「事態の動向はさておき、北条氏政・氏直から家康に向けて援軍を派遣することが具体的に検討されていたことは重要である。」(121ページ)
 家康のほうでも北条との連携を重視し、徳川を離れて上杉景勝と結び、北条に属するとされた上野国内の領地を維持し続けた真田昌幸と交戦するが、大久保忠世を派遣した天正13年の信濃の上田城攻めに失敗する。
 西に羽柴秀吉、北に真田昌幸、さらにそれを支援する上杉景勝という共通の敵をもつ北条氏政・氏直と徳川家康はその同盟関係を強化し、攻守同盟を結んだが、秀吉のほうでは家康との交渉において、その同盟者である北条氏も視野に入れていた。

 沼田城攻めと北条勢の限界
 大久保忠世による上田城攻めが行なわれた際、北条氏直も家康の依頼により、真田の沼田城を攻撃した。このとき、沼田近くの森下城を陥落させ、沼田城内にも攻め入ったが、落城させることはできなかった。そしてこの時の戦果が真田昌幸に対する限界となった。北条氏政・氏直父子は「北条の夢」である関東統一も間近と考えたのかもしれなかったが、全国的な視野でみれば、羽柴秀吉が天下統一に近づいていることに気づかなかったように見える。

 3 羽柴秀吉の思惑
 関東への思い
 沼尻の合戦、小牧・長久手の戦いの時点で、秀吉は家康だけでなく、北条氏政・氏直も敵と考えていた。そして、その戦後処理は京都の立場で裁くという態度をとり続けている。それゆえ、関東では北条氏が北関東の諸勢力を圧倒しているように見えたが、秀吉は北条氏を追い詰めようとしていたのである。

 「富士山一見」
 天正13年ごろから秀吉は、関東の領主たちにあてた書状の中で「富士山一見」という語をしばしば用い、そのための出陣を示唆している。一般にこの表現は徳川討伐を意味していると解釈しているが、関東=北条氏を意味すると考えるほうが妥当であると著者は考えている。

 東国出馬の発令
 天正14(1586)年正月18日に、秀吉の東国出馬の直書(じきしょ)が発せられた。しかし、正月27日に織田信雄自身が三河国岡崎に赴いて徳川家康を説得、2月8日に家康が秀吉に和議を申し入れた。そのためもあって、秀吉は九州征伐を優先させて、関東を後回しにしたのである。

 度重なる「富士山一見」延期
 天正14年にはまた、越後の上杉景勝が上洛し、秀吉への帰属を明らかにした。景勝はまた、関東の反北条勢力と結んで、秀吉の関東出陣を演じすることも確約した。関東の反北条勢力は、秀吉に協力する以外に、自分たちの勢力を存続させる方法がないところまで追いつめられていた。
 家康の上洛は遅れ、秀吉は家康・北条討伐も考えていたが、天正14年10月に家康が上洛したことで、両者の対決は回避された。
 一方、北条氏政・氏直は武力による関東統一を目前にして、依然として「北条の夢」を追い続け、全国の形成に目を向けようとせず、秀吉の存在を無視していた。

 関東上杉領国構想
 これまでの豊臣家の関東問題への取り組みの中で、北関東の領主たちと関係をもつ上杉景勝が重要な位置を占めてきたことが以上で明らかになるはずである。景勝は北関東と都をつなぐ重要な役割を担っていた。それだけでなく、景勝は関東の政治情勢については、一貫して反北条の立場をとってきた。
 天正14年9月、上杉景勝は秀吉から関東・伊達・会津の取次役を命じられる。「諸方面と豊臣家を文字通り繋ぐ役割である。」(136ページ) ところが、この直後、徳川家康が関東の取次となるので、解任されたという説もあるが、著者は景勝が北関東担当、家康が北条(南関東)担当という棲み分けがなされたのではないかと理解している。
 天正17年の時点では、秀吉は北条家の存続を前提として、関東の過半を景勝に与えようと考えていたことを示す史料がある。それまでの実績や関東管領山内上杉氏の系譜に連なることからすれば、これは適切な施策である。しかし、事態はそのようには推移しなかった。 

 今回は北条氏と反北条勢力、秀吉と反北条勢力、秀吉と家康、秀吉と北条氏、さらには上杉景勝とこれらの諸勢力という様々な関係が入り組んで、面白いが整理するのが大変な内容であった。次回は、第7章「秀吉による東国の戦後処理」を取り上げる。これもなかなか大変な作業になりそうである。
 壬生義雄は北条に帰属後、天正18年の小田原城の攻防戦の際に籠城し、敗戦後まもなく病死したといわれる。一方、皆川広照(1548‐1628)は、小田原征伐の際に北条方であったが、かねてから繋がりをもっていた徳川家康に投降、その後は譜代大名として生き延びることになる。文化人としても優れていたといわれている。

ダンテ・アリギエーリ(須賀敦子・藤谷道夫訳)『神曲 地獄篇(第1歌~第17歌)』(12‐1)

3月2日(土)晴れ

 1300年4月4日、「暗い森」に迷いこんだ語り手(ダンテ)は、彼を救うためにつかわされたローマ時代の大詩人ウェルギリウスの魂に救われ、彼とともに地獄と煉獄、そして彼「よりふさわしいたましい」(第1歌122行)に導かれて天国を旅するように告げられる。いったんは躊躇したが、この旅が天国の貴婦人たちの願いに基づくものであることを知って、旅立つ決心をする。(第1歌、第2歌)
 「すべての希望を捨てよ」(第3歌9行)と記された地獄の門をくぐり、ダンテは善も悪もあえてなさなかった怯懦者たちが天国からも地獄からも見放されて、空しく走り回っている様子、さらに地獄を流れるアケローンの川を渡る渡し守カローンの船に、地獄に堕ちたたましいたちが争いながら乗り込んでいる様子を見る。(第3歌)
 彼らはまず、地獄の第1圏であるリンボを訪れる(ウェルギリウスはもともとここにいる)。洗礼を受けずに死んだ幼児と、有徳の異教徒たちのたましいがここで静かに過ごしている。(第4歌) そして、次に第2圏で生前、愛欲の罪を犯した人々(第5歌)、第3圏で食悦の罪を犯した人々(第6歌)、貪欲と浪費の罪を犯した人々のたましいがそれぞれの罰を受けているのを見る。さらに高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒の罪を犯した人々のたましいが沈められているスティクスの沼にたどりつく(第7歌)。地獄の第5圏であるこの沼を渡った2人は、ディース城の門の前にたどりつくが、悪魔たちに行く手を遮られる(第8歌)。
 天使によってディース城の門は開かれ、2人は地獄の第6圏へと踏み入る。城内では異端の罪を犯した人々のたましいが棺に収められ、業火で焼かれている(第9歌)。ダンテはここで、同郷の政治家ファリナータと、親友カヴァルカンティの父親のたましいに出あう。ファリナータはダンテの未来について不吉な予言をする一方で、未来の幸福を祈る。(第10歌) さらに深い地獄に降りて行く断崖の際で、2人はしばしの休息をとり、ウェルギリウスはさらに下層の地獄にいる魂たちの罪と罰について語る。(第11歌)

 けわしい崖を降りようと、私たちがやって来た場所は
峨々とした懸崖であったが、目という目を背けたくなる
おぞましい存在[ミーノータウロス]がそこをさらに険しくしていた。
(1‐3行、266ページ) この個所は、山川訳では
岸をくだらんとて行けるところはいと嶮しく、あまつさへこゝに物ありていかなる目にもこれを避けしむ(山川訳、75ページ)
とあり、原訳では
崖を降りるべく私達がやって来た
その場所は険しく、また、そこにいた者のために、
誰もが目を背けたであろう光景を呈していた。
(原訳、178ページ)となっている。
 ミーノータウロスは、ギリシア神話に出てくる半人半牛の怪物で、クレタ島の王ミーノースは妃がこの怪物を生んだため、名工ダイダロスに命じて迷宮を作らせ、その中にミーノータウロスをすまわせ、アテネから若者たちを犠牲として贈らせて、その食料としていた。アテネの王子であったテーセウスがこれを知って、ミーノータウロスを退治する。
 地獄の第7圏の入り口を監視しているこの怪物に対し、ウェルギリウスはその怒りを誘うような言葉をかけ、彼が怒りに悶えている隙に岩の間を通り抜ける。

 崖の崩落がなぜ起きたのかを知りたいというダンテの内心での疑問を読み取ったウェルギリウスは、その理由を説明する。
 おまえに教えておこう。私が以前
この下層地獄に下ったとき
この岩壁はまだ崩れ落ちてはいなかった。
 わが記憶に間違いがなければ、ルチーフェロの手に落ちた
大いなる戦利品[旧約の義人たち]を上の圏[第一圏のリンボ]から
救い出しに、かの方[キリスト]が来られる少し前、
 この悪臭に満ちた深き谷[地獄]が大揺れに揺れ、
私は宇宙全体が愛を感じ取ったのかと思った。
愛によって世界は幾度も混沌に回帰すると信じる
 あの哲学者[エンペドクレース]の考えにしたがって。
あの瞬間、世界と同じだけ古い(地獄の)岩肌は
ここや他の場所でも崩れ落ちたのだ。
(34‐45行、267‐268ページ) ウェルギリウスは紀元前19年に死んだが、第9歌(22‐27行)に歌われていたように、魔女エリクトーの呪いによって下層地獄に降りてこさせられたことがある(ことになっている)。それから約50年の後に、キリストの死によって岩壁が崩落し、生きた人間が下りることができる斜面が作られたというのである。
 「時の始まりにおいて、ルチーフェロは神に反逆し、敗れて地球に堕ちてきた。アダムとエヴァを誘惑し、罪を犯させることで神に復讐し、天国の門を閉じさせた。その結果、すべての人類は死後、天国に行けず、地獄に行くことになった。アダム以来、すべての人類は地獄の王ルチーフェロの戦利品となったが、その戦利品の中で旧約の義人たちは「大いなる」と呼ばれる。本来ならば天国に行けたであろう魂を俘虜として所有することができたからである。この義人たちの魂は、ルチーフェロにとって神との戦いにおけるとりわけ「大いなる戦利品」なのである。」(第12歌、訳注14、276ページ)
 「キリストは亡くなった後、墓に葬られるが、そこから地獄に降りて地獄の門をうち破り、旧約の義人たちを救い出し、天に連れ帰ったと信じられていた。」(訳注16、276ページ)

 このように説明した後に、ウェルギリウスは彼らの行く手に見えるものを説明する。
 しかし谷をよく見るがよい。
血の川が近づいてきた。あの川では、他者に暴力をふるって
害を及ぼした人々のたましいが煮えている」
(46‐48行、268ページ) 第7圏第1冠状地では暴力の罪を犯した人々のたましいが罰を受けている。ここで問題にされている暴力は、この後はっきりするように社会的な暴力であり、古代や中世の僭主たちや軍人、さらには山賊がこの後で登場する。

 この説明を聞いたダンテは、心の中で叫ぶ。
 おお盲目の強欲よ、狂気の憤怒よ、
この短い人生で我々を駆り立てては
永遠の生で(血の川に)漬け、かくも悶え苦しませるおまえたち!
 弧を描く広い堀[血の川]が見えたが
先ほどわが案内者から聞いていたとおり
広野[第7圏]全体を取り囲んでいた。
(49‐54行、268ページ) 

 この広野を隊をなして走り回り、監視していたのが、やはりギリシア神話に登場するケンタウロスである。先ほどのミーノータウロスが半人半牛であったのに対し、こちらは半人半馬である。ミーノータウロスは頭のほうが牛で、首から下が人間であるが、ケンタウロスは上半身が人間で両手をもち、下半身が馬で4つ足である。
 彼らは見慣れない2人が近づいてくるのを見とがめて、その中からネッソス、ケイローン、ポロスの3人が離れ、警戒しながら近づいてくる。生前、狩に出かけるときにそうだったように、携えてきた弓に矢をつがえ、2人を見据えながら声をかける。彼らは
血の川から、定められた罰以上に少しでも出ようとする
亡霊があると、矢を放つのだ」
(74‐75行、270‐271ページ) この後、ケンタウロスたちと、ウェルギリウスのやりとりが続き、2人は地獄の第7圏を見ていくことになる。翻訳者も注目しているが、ケンタウロスたちが、悪魔と対照的に、整然と行動する存在であるところが興味深い。 
プロフィール

tangmianlaoren

Author:tangmianlaoren
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR